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もし、秘儀参入者として、夢(精神)の世界に更に深く沈潜するなら、日頃の知覚可能な世界での日常の存在と同様に、夢(精神)の世界でも分別をもち、かつ知的に前進していく必要がある。秘儀参入者は、通常の人生を生きるのと同様、精神的世界においても完全に意識的な生活を送るという事実に背くべきではないという。 というのも、もし、ほんの一瞬でも物理世界から離れたと自負するなら、忽ち、勿体ぶった態度を取り始め、仲間から、むしろ変人と思われるからだという。そして、彼らは、「こいつはとうとう気が狂った!」と言うだろう。 丁度、感覚の世界が周囲の至るところに存在するように、至るところに存在する精神的な世界を通過するとき、完全な意識を保つために、自分自身を堅固と支え続けなければ、上記のようなことが起こり得るという。 ここに至り、神智学協会ではなく、大自然科学者たちにより、取り扱われてきた世界、すなわち心霊的な探求の領域が開かれるという。これらの探求は科学的な背景や限定された潜在能力を持つ人たちによって遂行されてきたが、彼らは精神的な世界の本性を確かめるために統計的な手段と霊媒による実験を用いたという。 人間の魂が、本人ではなく、別の存在により保有されている間、通常の意識状態にはなく、完全な無意識状態、或いは減退した意識状態で、手足を動かしたり、反応したりするときに、一体、何が生じているのかに関して、客観的に探求しようとする試みが、あらゆる種類の団体で、様々な観点からなされたという。このような方法で、意識が減退させられた人々の反応が記録されてきたという。 この種の探求に熱心な人が、内的(精神的)な世界の現象を、客観的に探求したいために、シュタイナーの探求の成果を、彼らの実験のために提供しろと言ったという。これは、誰かが来て、およそ次のような無意味なことを言うのと同じものであるという、「私は数学のことは分からないので、数学者の言うことが本当かどうかを確かめるため、彼を実験室に連れていき、彼が偉大な数学者かどうかを示す実験をやってみるのが一番だ、」と。 ここで述べているのは、人間の内面に沈潜する真の取り組みではなく、科学的な方法を、いわば漫画チックに仕立てることにより、外側から、夢遊病者や霊媒を探求しようとする、近代的な科学的試行分野に関するものであり、もし、本当に人間の内面(精神)に沈潜するならば、霊媒や夢遊病の現象の中に見られるのは、肉体とエーテル体からなる外的な乗り物のことで、それはいわば自動人形であり、つまり、彼らが探求しているのは精神的な現実ではなく、彼らが本来探求すべき(精神的な)対象が、置き去りにした、外的な乗り物である、という間違いに気がつくはずだろう。 彼らは精神世界のより精妙な側面を覗き見ようとはせず、しばしば内的な経験を通して行うのではなく、知覚可能な(外見の)形において、精神的なものを感知しようとする物質的な手法を用いるという。 このアプローチは、既に、真の探求法について述べたときに、ときとして別形式を生じた、偽の探求法で、彼らは、肉体の中にあるキリストの精神的な姿を求めながら、その精神的な姿の直接的な顕現を、外界に見ることを欲することにあたるという。 我々は、物理世界をそのような外界のものとして認め、精神的なものを、それが真に存在するものとして、勿論、物理的な世界にも関わるとはいえ、本質的には、物理世界に浸透した精神的な領域の中に求めるべきであるという。 ここには、更に別の領域があり、健全な状態にある人は、内的な経験の領域と外的な知覚との間や、混乱した夢の世界と霊媒や夢遊病者の異常な世界との間にあるギャップに橋を架ける必要があるという感じを持つが、芸術は、これら2つの世界の統合によって、そして、それらがお互いを実り多いものにすることによって生まれたという。 つまり、芸術においては、外的な形態が精神によって浸透され、精神的な内容が外的な形態を身にまとっているという。 神智学協会が、一般人を、精神的な実存であると騒ぎ立てるのに忙しい間、シュタイナーは人智学協会において、秘教的な流れを「芸術」に向けるように駆り立てられたという。神秘劇とオイリュトミーが生まれ、言語造形の芸術が発達させられたという。 これらは人智学協会において発展させられた他のものと同様、精神的なものと物理的なものの間のギャップに橋を架け、混乱した夢の世界と霊媒や夢遊病者の混乱した異常な世界とを、意識によって結びつけようとする衝動が実りをもたらしたものだという。これら2つの世界は芸術において意識的に融合させられるという。 いつかは、このことが理解され、マリー・シュタイナー婦人が実践する言語造形が、かつての人間がまだ本能的に精神的であった時代に、享受していたレベルを回復するとき、人々は、上述した芸術運動の努力の目的を理解するようになるという。 当時の人々にとっては、空虚で抽象的な言い回しよりも、言葉のリズムと韻の方がもっと重要だったという。これらのことを再び蘇らせる必要があるという。そして、オイリュトミー(シュタイナーの説く一種の芸術的な踊り)が再び、回復させるのは、眼前の運動を通して展開する人間、魂と精神からなる真の人間の存在であるという。オイリュトミーから学べるのは、このようなことであるという。 なので、最初に芸術の中で、夢を見る人が目的もなく彷徨う世界から、霊媒や夢遊病者が躓きながら盲目的に歩き回る世界への橋を架ける必要があったという。今日の唯物的な時代にあっては、夢を見る人は孤独な省察の中に取り残され、その精神性を表現し、明らかにする実質的な形態や構成に関しては何も知ることがない。 そして、現代人は、夢遊病者たちは霊媒としての名声を享受するかどうかということや、共産主義者や資本主義者たちが理想的な国家理論を発見しているかどうか等を、気にすることもなく自分の人生を生き、そして、霊媒もそうだが、あらゆる種類の顕現を周囲の世界に、撒き散らしながら、夢を見る人も夢遊病者も、精神性の存在に関して、偽の探求に対する、ほんの僅かな疑いをも持つことなく、現代世界を生きている。 物質から精神に、そして精神から物質に導く橋を再び見出すことが本質的なことで、まず芸術の分野において、この橋を見出し、もはや半意識的な状態で躓きながら彷徨うのではなく、普通とは異なる種類の精神運動を通して、芸術に対する感覚を発達させるべきであるという。 なので、オイリュトミーは、その真の内的な源泉を、秘儀参入の中にもち、言語造形という芸術において実践する全てのものは、その同じ源泉から生じてくるという。
2007年03月30日
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夢をみる状態の正反対が、夢遊病や霊媒の状態であるという。夢を見ている人は完全に自我とアストラル体の中に生きているという。彼は、アストラル体の中では意識的な知覚をもってはいないが、肉体とエーテル体の外にいるときにも、完全に自我とアストラル体の中に生きているという。 夢をみている人は自身の存在の中に突き落とされ、その中に浸されるが、そのとき、その存在は別の世界と関係づけられているという。このように、夢を見ている人はいわば彼自身の存在の中に、従って宇宙の中に、そして、ある程度は彼の肉体組織の中にも沈み込んでいるという。 夢を幻(夢)でなく、現実のものにするには、アストラル体のなかに、超感覚的(精神的)世界を読み解くような(精神的)言語を形成できるかどうかにあるという。 その正反対が霊媒と夢遊病者の場合であるという。人間が霊媒や夢遊病の状態になるのは、その自我とアストラル体が肉体とエーテル体の外にあるときだが、この場合、既に指摘したように、彼の自我とアストラル体は見知らぬ存在に乗っ取られているという。 なので、霊媒や夢遊病者は物理的身体(肉体)をもつが、その自我とアストラル体は肉体とエーテル体の外にあり、別の存在に取り込まれて抑圧されているという。そのため、霊媒は正しい仕方で肉体とエーテル体に影響を及ぼすことができないでいるという。 例えば、普通、人間は、夢のない深い眠りの状態にあるときでさえ、肉体とエーテル体に影響を行使しているという。我々人間は、起きているときには内側から肉体とエーテル体に浸透し、眠っているときには、それらへの侵略を外側から防いでいるという。 このことは、もはや夢遊病者には当てはまらず、霊媒や夢遊病者は、その肉体やエーテル体をコントロールすることができず、いわば遺棄された領地のようになっているという。 現代では、健全な状態の魂の人の場合、その肉体とエーテル体に影響を及ぼすのは、植物や鉱物の力だけだが、もし、鉱物の力、いわゆる鉱物からなる地球の力が、肉体に影響を与えなかったなら、この力(重力)に依存し、我々人間は、歩いたり動き回ったりすることは不可能だったという。 つまり、人間が肉体において、鉱物世界の力に与ることは許され、その状態は正常だが、それら鉱物の力は、エーテル体の中には入り込むべきではないという。 同じことは植物にも当てはまり、あまり強すぎなければ、植物の力が人間のエーテル体に働きかけることはある程度許容されるという。しかし、動物の、感覚(アストラル体)を刺激する力や別の人間の力が人間の身体、特にエーテル体に影響を及ぼすことはもはや許されないことだという。 動物や地上の人間の力が霊媒、或いは夢遊病者の肉体やエーテル体に働きかけるのは、肉体とエーテル体が放棄されるときで、実際、霊媒や夢遊病者の肉体やエーテル体は周囲の影響を受けるようになるという。 丁度思考が夢のなかから、周囲の環境の中に移行するように、この場合には意志が人間から引き離され、周囲の環境と融合するという。 霊媒や夢遊病者に指示して立たせ、歩かせることができるという。ジャガイモを差し出して、それが美味しい梨であるとか、その他のものだと示唆することができるという(催眠術)。 我々が霊媒や夢遊病者に指示を出すときには、人間の我々が、霊媒と夢遊病者の肉体と直接的な関係を持つので、従って、霊媒と夢遊病者のエーテル体と直接的な関係を持つことになるという。 霊媒や夢遊病者は、普通の人間の場合は肉体にのみ反映されるべき物理的な環境を、エーテル体の中にもってしまう。なので、普通の人間は、夢に似た状態の中で、彼自身を、彼の内部に属する精神的な世界に譲り渡すが、霊媒や夢遊病者は、外的な自然の世界に譲り渡すことになるという。 さて、霊媒や夢遊病者の現象は、その状態自体が正常の範囲に止まる限り、正常な状態であるという。というのも、動き廻り、物を掴む能力等の種類の、活動遂行能力自体は、誰でも、正常時に真似して、魔法や夢遊病のようにできるからである。 ただし、この活動は肉体にのみ限定されるべきで、エーテル体にまで及ぶことがあってはならず、もし、この活動領域がエーテル体に及ぶならば、正常な状態から異常な状態に移行することになるという。 なので、夢を見ている人は完全に彼自身の内に生きており、霊媒や夢遊病者は、彼自身の外にいることになるという。 霊媒や夢遊病者の肉体とエーテル体は、幾分自動人形と同じ仕方で機能し、外部から働きかけることができるが、それは彼自身の自我やアストラル体が、それらをコントロールし損っているからである。 その結果、丁度、夢を見ている人の場合に内なる精神的な世界が創造されるように、霊媒や夢遊病者の場合には外なる自然の世界や、形態の世界、及びその起源全ての知覚可能なもの、時空に関係するあらゆるものとの合一が生じるという。 我々が夢の世界に沈潜するとき、形態のない状態、絶えざる変容の状態の中に浸されるが、夢遊病者と霊媒が、ある指示の下で、意志を行使する世界のなかに、秘儀参入者が肉体とエーテル体をもって沈潜すると、そこでは全てが明確に規定されるのが分かるという。つまり、外からの影響の結果として生じる全ては、ある指示の下で非常な正確さをもって遂行されるという。 これは正に通常の夢の世界に対する反定律の世界で、つまり、それは、夢遊病者においては、夢の活動であり、外的な自然な行為に相当するという。その行為の中で見られる夢や、夢に似た状態の中での行為は、単に内的な経験に留まらずに、外界で行為する夢となるという。 秘儀参入の立場から見ると、この反定律は最も興味深く、意義深いものであるという。秘儀参入者が夢の世界をイマジネーションによって満たそうとして、沈潜するとき、ある困難に出会うという。このことは既に述べたが、彼は、もはや重力の影響下にはなく、自分の足下には堅固な地面はない、と感じるという。 夢遊病者は、無意識的にその世界に入り込むが、秘儀参入者が、この世界に入るときには、意識的に近づく必要がある。彼は常に意識を失う恐れを感じ、絶えずこの可能性に直面するが、完全な意識を保持するために、自分自身をしっかりと支える必要があるという。
2007年03月28日
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太古の人々にとって、オーラがみれる月意識と呼ばれる洞察力は丁度、今日、現代人が、他の人の姿を、ごく自然なものとして見るのと同じように、ごく自然なものだったという。 人間は、徐々に失ってきた、その超感覚的な能力を精神的な訓練によって再び獲得する必要があるという。 しかし、太古の人間にとっては、超感覚的能力は、至極自然なものであり、精神的訓練により再び獲得するのが比較的容易であったことから、その課題は何年にもわたって精力的に探求されてきたという。 月領域の探求や、そこでの死者たちとの出会い、そして、世界が、その月領域からどのように見えるかに関して、多く語るべきものを持っていたのと同時に、真の探求者である太古の秘儀参入者や、月存在たちに支配される世界への活発な興味が常に存在していたという。 コペルニクスは、太陽中心説(地動説)を地上的な意識(地球意識)による観点のみから打ち立てたという。古いプトレマイオスのシステムは間違っているのではなく、月領域に関する意識の観点から見ると正しいという。これらの月領域の探求者、すなわち月領域の秘儀参入者に特徴的なのは、彼らの活動がその月領域に限られていることだという。 今ここで述べている月領域の世界、いわゆる、月存在との関係から探求する世界に関する記述が、神智学協会に多数あることがわかるという。そして、神智学協会では、研究や文献がこの月領域のみに限定されているという。 この資料は確かに多くの間違いも含んでいたが、H.P.ブラバツキーの著作にはユニークで非常に重要な事柄も、特に多く含まれていたという。しかし、H.P.ブラバツキーの著作の中に見られる、あらゆる事柄は、彼女の月領域との交流、そして、犠牲行為として、この月領域に留まることを自ら選んだ秘儀参入者と彼女との関係で決定されたという。 シュタイナーは、これらの秘儀参入者の多くを知るようになったが、そのような月領域に沈潜する精神が、月領域を超えて、更に進化(発達)したいという人間の望みに、かえって無関心なものを生み出すと結論づけたという。 このような観点から、1906年から1909年にかけて、シュタイナーが書いた著書「神秘学概論」の中で、地球を、月、太陽、そして土星という以前の受肉状態において記述したが、その記述は月の受肉状態で終わることなく、遠く土星の受肉状態にまで遡って地球を記述できたという。 一方、これらの月領域の事柄に関して語った全ての秘儀参入者は、彼らの説明を月と太陽の間で完結させ、実際には、ただ月領域にまで地球の受肉を辿っただけだったという。 シュタイナーの更に以前の地球の受肉にまで遡るべきという趣旨の、いかなる示唆にも、神智学協会は、無関心か、ときには苛立ちの感覚をもってさえ迎えたという。彼らは、月領域を超える道は、超えることのできない障壁によってブロックされているため、不可能である、と断言したとさえいう。 その理由を理解することは当然ながら最も重要で、全く無関心ではいられないものであり、月領域の秘儀参入者と、更に親密になって、まもなく明らかになったのは、これらの秘儀参入者たちは、現代の科学的な観点に対して、敵意や反感を持っている、ということだったという。 これらの(神智学協会に属する)秘儀参入者たちは、ダーウィンやヘッケル、そして彼らの追随者たちの考えを紹介されると、非常に憤慨し、それらを子供じみて馬鹿げたものと見なし、それらと関わりを持つのを拒否したという。彼らは最初、ゲーテの考えにはそれほど反感を示さなかったが、結局は彼も現代の科学者の言葉で語っているとして、全てが退けられたという。 要するに、そのような科学的思想は、月領域の秘儀参入者たちにはアピールしなかったという(このような態度は、現代人が、オカルトとして、今度は逆に反科学的思想として拒否している現状と相反的に酷似しているといえる)。 シュタイナーが、太陽や土星の領域に沈潜できることを、初めて理解したのは1906年から1909年にかけて、現代科学の思考に没頭し、それにイマジネーションを吹き込もうとしていたときだという。 それは、ヘッケルやハクスレーの手法に基づいた科学的な概念を、単なる認識の手段として用いたのではなく、現代科学の観点がいまだ確立しないうちに、従って、夢の世界にイマジネーション(想像力)を吹き込むことが可能な、より高次の意識を達成できた時代に、秘儀参入者たちがぶつかっていた限界を克服するための内的な動機づけとして、科学的思想を用いたという。 シュタイナーの著書「神秘学」の中では、通常は外界だけに関連しているハクスレーやその他の人々の完全に意識的な科学的観点に、内的な意味を浸透させ、同時に、それをイマジネーションの世界に吹き込もうとしたという。土星、太陽、そして月という、この連なりの全体を理解し、古い秘儀参入者の認識を地上で探求することが可能になったのはそのときからだという。 シュタイナーは、これらの事柄がどのようにして生じたのかを理解するために、この認識への道を記述したという。個人的な説明に感じるかもしれないが、この場合、個人的な要素は、実際には、完全に客観的なものでもあるという。 なぜなら、著書「神秘学」に対して向けられた批判は、それが数学の教科書のように書かれており、そこで議論してきた進化プロセス全体が数学的な公平無私の態度で記述されている、という客観性への批判だったからだという。 だが、この進化プロセス(道)は(シュタイナーの思考経験を)正確に記述し写しとったものであり、コペルニクスとガリレオの時代以前に存在し、ゲーテによって豊かにされた思考様式を、イマジネーションを通じて、その起源を探究したという。 シュタイナーが秘儀参入者たちに、常に近づくことが可能な領域を、その土星起源にまで遡って辿ることができたのは、以上の方法だったという。 この例から分かるが、これらの事柄には、漠とした出鱈目なやり方ではなく、はっきりと意識した思慮深さをもってアプローチし、容易に無思慮が取って代わるような注意を喚起することが重要であるという。自我のみとだけ接触を持つのが夢の生活における通常の状態だが、アストラル体とも接触させる手法が、この秘儀参入の例であるという。 「神秘学」の中で提供した情報は現代の自然科学とどこが違うのか?という質問に対する答えは、現代の科学者は自我のみにアプローチ可能なだけで、それは自我を手放す瞬間、無意識下に夢を見始め、意識が混沌とするのに対して、神秘学の方法は、自然科学の概念を夢の生活の中に持ち込むことが可能で、記述すべき世界にアストラル体を差し向けることが可能な点で大きく異なるものだという。 つまり、一方が、科学的手法を肯定しているにも関わらず、それを夢の世界に持ち込めないのに対し、他方のシュタイナーの秘儀参入法が、科学的手法を、夢の世界に持ち込んで、実際にみれた(意識できた)ことで、大きく異なるわけである。 これこそが正確に記述できる道であり、いかに真の道が偽りの道と異なるかを恐らく、より正確に示すのに役立つ1例であるという。 夢の(月~土星)意識を、自我のみでみるのではなく、覚醒させたアストラル体を用いて、みることをいう。覚醒させたアストラル体というのは、霊我(マナス)のことで、精神的修行を必要とするが、その初歩は、高次元空間を認識する(射影)幾何学を学ぶことを指す。
2007年03月27日
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睡眠時の夢の探求から始めて、誕生から死までの間に住む、我々の世界(この世)とは異なる世界(あの世)への参入を可能にする、更なる意識状態に関する考察へと進んできた。最後に、霊媒意識、人間が夢遊病の状態で経験する意識、何故なら、霊媒状態とは常に、夢遊病の性格をもち、そのような状態に関して議論した。 さて、これら霊媒と夢遊病の経験は、通常生活においても、魂の真の姿、状態を示すという。それらが真の道、もしくは偽りの道へと分かれていくのは、魂のこの状態が克服され、促進されたときだけであるという。 今回は、夢の生活をもう一度検証してみる。人間が、通常の意識において、覚醒状態から睡眠の状態に移行するときに、夢を見、アストラル体は、睡眠状態にある間、エーテル体や肉体の中にあるときの体験の残響を記録している、ということを見てきた。 そして、真に、混乱し、途方もない夢の経験が、日常の覚醒時の生活体験の残響に続くが、このことを正しく説明できるのは秘儀参入者だけであり、何故なら、精神世界の本性により深く沈潜しない人は、夢のような混乱した経験に、ただ当惑するだけだからだという。 これまでまた、瞑想や集中等の訓練を通じて、いかに夢の生活の横糸が、より高次意識の縦糸に織りなされるかを見てきた。だから、秘儀参入者は、驚くほど混乱した夢の世界に移された人間(死者)を、目の当たりにしても、通常の生活と同等の現実さをもって、夢の中にあっても、完全な意識を保持しているという。 そして、秘儀参入者は、死者を、その死後の存在においても、追跡可能な別世界の洞察力(月の意識)を獲得し、我々の世界(この世)に比べて遙かに大きな現実性を有する世界(あの世)に、自分が包まれていると感じることができるという。 さて、問題は、この接触する世界の真の本性とは何か?ということで、このことに関しては既に述べたが、今回は別角度から、この問題に触れてみる。 かつて地球には、肉体ではなく、繊細なエーテル体を住処とし、従って、地球を包むエーテルの中に受肉できた偉大な(人類の)教師たち(月存在)が生きていたことを述べたが、彼ら月存在は、インスピレーション(霊感)を通して人間を指導し、地球上における古代の文化の基礎を築いたという。 適切な意識状態(月意識)によって、これら太古の時代を振り返るなら、これらの教師たちが人類と生活を共にしていたことが分かり、その後、彼らは月の領域へと退き、今日では、月領域から、今まで一度も地上に生きた(受肉した)ことのない、あらゆる種類の存在たち(精霊、自然霊)を、彼らの目的に仕えさせているだけであるという。 月存在たちは、この元素(精霊)存在たちの中に生き、死の門を通過した人間たちに自らのカルマに、どのように対処すべきかを教えながら働きかけているという。我々人間が、死後最初に精神世界に入るときに関わってくるのが、これらの月存在たちだという。 丁度この地上の生活においては、社会や社会関係を無視できないように、より高次の認識を達成するためには、これらの別存在たち(月存在)と共に働かなければならないという。 太古の時代に、地上の人間の教師であった、これらの月存在と彼らが従える存在たち(精霊、低次の自然霊)の助けを得て、我々は、我々の世界(この世)に直接境を接する精神世界(あの世)を探求するという。 我々は、そこで地球の以前の時代(地球の前世)と人間の以前の受肉への鍵を見つけ、そのとき、かつて地上に生きていた人物たちを、彼らと自分とのカルマ的な関連の有無に関わらず、見ることになるという。 このことを示すために、我々がこのレベルの意識(月~水星意識)を更に発達させることによって、いかにブルネット・ラティーニ、ダンテ、アラヌス・アブ・インスリスやその他の、今日ではもはや地上には受肉していない存在たちと、次第に接触をもつようになるかを指摘した。 だから、この意識状態は夢の状態が照らし出されたもの、半透明に光るもので、通常の生活においては、夢は、いわば(精神的世界の)初歩的な基礎を示しているに過ぎないものであるという。 さて、ここでやっと、秘儀参入者と通常の意識レベルで生きる人との違いを示すのが、非常に簡単になる。 通常の睡眠状態下では、人間の肉体とエーテル体が後に残される一方、アストラル体と自我は身体の外にあり、夢の状態での経験では、自我だけが本領を発揮するという。夢の中で経験される出来事が、まだ肉体とエーテル体の外にあるアストラル体に属するのは確かだが、通常の意識という意味では、自我だけが夢を経験することができるという。 ところが、秘儀参入者は、自我のみならず、特に彼のアストラル体によって経験するという。なので、秘儀参入者と普通に夢を見る人との違いは、後者が肉体とエーテル体の外にあるときには、自我だけで経験するのに対し、秘儀参入者は、アストラル体によっても(夢を)経験することが可能であるという。 さて、この知覚様式(アストラル体による夢意識の知覚)は特に古代の秘儀において、超感覚的な世界を探求する目的のために高度に発達させられ、その後、退廃した形だが、中世とその後の時代全体を通して、更に発達させられたという。 その古代の秘儀は、近代においては実質的に消滅したが、日常の睡眠中の夢の中で、完全に意識的状態に留まることが可能な方法に関して、太古の秘儀の教師たちから精神的な方法、或いは伝統を通して教えを受けてきた人々が、僅かながら存在していたという。 そのような人々はいつの時代でも、これらの世界に沈潜することができたが、その試みは危険に満ちたものだったという。 イマジネーション(想像)的な認識を有する秘儀参入者が日常の夢の世界に浸るとき、直ちに物理世界との繋がりを失い、同時に、完全な(覚醒)意識をも失い、無の中に沈み込むような感じを持ち、まるで、しっかりした地面が足下で崩れ落ちるかのように、もはや重力に引き寄せられていないかのように感じたという。 未熟な秘儀参入者は内的な解放の感情、宇宙の海の中に吹き飛ばされるかのような、もはや、しっかりと(重力により)アンカー留めされていないために、自分に対するコントロールを容易に失ってしまうかのような感じを経験したという。 シュタイナーの著書「より高次の世界認識」の中で述べられている精神的な訓練の目的はこの危険を回避することだという。正しい仕方でこの瞑想に取りかかる人ならば誰でも、魂の「翼」を発達させることができ、重力を克服して、翼を広げることが可能であることが分かるという。 秘儀参入者が足下の物理的、エーテル的な大地を失うのに、アストラル体と自我の「翼」を発達させていない場合には、危険な状況が生じるという。ここでは概略的に表現しているが、この意味が分かるだろう。 危険は十分に現実的なものであるという。これらの訓練の結果として、参入する世界に怠りなく準備できるならば、あらゆる危険の可能性は排除されるという。我々は、丁度、肉体とエーテル体を通して物理世界に与るように、これらの世界に徐々に参加することができるようになるという。 天使の翼とは、重力を失っても、地球で生きていたように、自我に重みを与え、魂を統御できるバランス感覚のような翼を意味するものと思われる。 これは多少なりとも、ずっと以前の(太古の)人間の状態であるが、今日では、この状態を精神的な訓練を実行することによって達成する必要があるという。 太古の人間の存立とは、我々の覚醒意識とは対照的に、以前に記述した、カルディア人たちの間で見られたような精神的な視界、いわゆる、我々の夢の意識と類似した、1つのイマジネーション(想像)的な知覚形態の状態の自然に囲まれ、既に恩恵を受けたものだったという。 他の人間に出会ったとき、当時(古代カルディア)の人は、周囲や環境に、その物理的な輪郭(物体)を知覚したのではなく、人間を取り巻くオーラのように、夢のような印象を知覚したという。それは本物のオーラであって、主観的な幻想ではなかったという。 肉体のオーラを知覚する、この才能に加えて、古代カルディア人は別の能力(というのも、それらはお互いに関連しているからだが)、肉体に受肉していない精神的な存在のオーラも知覚可能な能力を有していたという。なので、当時の人は精神的な存在の姿を夢見れたという。 これらの違いに注意する必要があり、つまり、太古の時代において、人間が肉体に対応するものを見るときには、その周囲のオーラを真の夢の中で、イマジネーション(想像)的に知覚したという。精神的な存在、天使や元素(精霊)存在に出会うときには、最初から、そのオーラについての精神的な知覚をもち、その存在が有する形態を「夢見た」という。 つまり、現代人が、肉体から、オーラをイメージするように、古代人は、オーラから、肉体をイメージしたという。このことは、現代でも、量子力学において、電子雲を確率解釈するのと同じである。ハイゼンベルグの不確定性関係により、電子の位置と運動量は、同時にはっきりと捉えることができない、つまり知覚できないのである。 現代人は、神様がサイコロを振った後の目を(1/6と)確率解釈するが、古代人は、神様のサイコロを振る意図(意志)をみていたといえる。このことは、現代人が物質世界に適応しやすい性質をもち、古代人が、なんらかの神様信仰の宗教の存在を必須としていた証となるだろう。 最初期の画家たちは、このような観点から、天使の翼や頭上の環のオーラを描いたが、今日、そのことに気づいていない。これらの画家たちは精神的な存在を見て、それに対応する形態を「夢見た」という。 天使のヒエラルキア(階層)に属する存在はほとんど人間に似た形で、大天使については、身体は明確ではないが、はっきりと規定された翼と頭をもつものとして、アルカイ(権大使)は翼の生えた頭だけをもつものとして描かれたという。古代人がそのように描写したのはその形を実際に「夢のなかで見た」からだという。 つまり、画家たちは、現代人が、物質的視点から、自然を描写するように、太古の当時にあっても、当時の霊的視点からだが、実際にみたように、自然を描写したにすぎないという。画家たちは、いつの時代も、常に、自分がみえたように忠実に筆をとったにすぎないという。 ちなみに、人間の上の位階に天使があり、その上に大天使、更にその上に権天使がいるとされ、これら天使群は、第3位階の天使群と呼ばれる。
2007年03月26日
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さて、では心霊主義のいかなる部分が、人間の構成において、主要な問題を提示するかを正確に示すことができるという。この文脈では、必然的に、幾らか抽象的にみえるが、心霊主義の本性に関する理解において、いくらかの理解が得られるという。 さて、(人間の)頭蓋の空洞中に横たわる人間の脳は平均で1500g、或いはそれより少し重い程度の重量をもつ。この脳の重量は、かなりの重量で、もし、人間の脳がその基底部にある繊細な血管を、脳自身の重量で押しつけたなら、直ちに押し潰されてしまうだろう。 ところが、どんなに長く生きたとしても、脳の重量がその下にある血管網を押し潰すことはなく、このことは以下の正しい説明により、すぐに理解できる。現在のような構成を持つ人間を取り上げてみれば、脊椎管は上方に伸び、脳のところで終わっている(太古人は異なっていたという)。ある部分を除いて、脊椎管は液体で満たされ、脳はこの液体中に浮かんでいる。 ここで、アルキメデスの原理について考えてみる。これは彼が風呂に入っているときに霊感の閃きで発見したと言われているもので、彼は次のような実験をしたという。彼が風呂に浸かっているときに、片方の足を水の上に上げ、続いてもう一方の足を上げた。彼は彼の足が水の上にあるか水の中にあるかで重さが異なることに気づいた。 そして水に浸かっているときには足の重さが失われることに気がついたという。アルキメデスのような人物にとっては、この経験が更なる発展を遂げる。彼は、物体が液体に完全に浸されているとき、見かけ上、押しのけられた水に相当する重量を失う、ということを発見した。 水を入れたビーカーを実験台の上に置き、バネ秤から紐で吊るした物体をその水の中に下げていく。その物体は、水中では、空中にあるときよりも軽くなる。物体が液体に浸されるとき、それは押しのけられた水の重量に等しい浮力を受ける、というのが、アルキメデスの原理である。 この原理は人間にとって大変有り難いもので、何故なら、脳は脊椎液の中に浮かんでいて、脳の見かけ上失われた重量は押しのけられた脊椎液の重量に等しいからで、こうして、我々の脳は約1500gの重量をもたずにすみ、見かけ上失った重量は押しのけられた脊椎液の重さ、つまり、約1480gなので、アルキメデスの原理に従って、その実際上の重量はたったの約20gということになるという。 つまり、我々人間は、脳組織の中に、その実際の重量よりもはるかに軽いものをもっているというわけで、脳は実質20gしかないが、この20gを大切にすべきで、何故なら、この20gこそが、我々の「自我」を担うことが可能なものだからだという。 さて、我々の身体全体には、液体の媒体中に浮かぶ、あらゆる種類の固体成分、例えば血球などが含まれている。それら全ては、その重量の喪失を被り、その一部分だけが残る。それらも、また「自我」を担っているという。 このように、「自我」は重力に左右されることのない血液(液体)の中に拡散しているという。我々は人生の経過の中で、我々の中にある知覚可能な重量を有する全てのものを注意深く観察する必要があるという。 我々は、脳の重い部分に位置するもの、まだ文字通りの意味で重量を有するものに対して、最も厳密な注意を払う必要があるという。何故なら、他でもなくそこに「自我」が位置しているからで、そうでなければ、アストラル体やエーテル体等々が取って代わることになるという。 霊媒とは、彼の構成体におけるこの固体の部分、20gの重量を有する脳がもはや「自我」を包含しない人のことであるという。「自我」は放逐されても、これらの部分は、まだ重量を保持し、元素(自然霊、妖精)存在たちが直ちに入り込むことが可能になっているという。 唯物的な思考様式は、全てのものを分析的に位置づけしようとするので、元素存在が霊媒に憑依するとき、人間の、どの部分に入るのかを知りたがる。これは機械的、数学的に考える唯物的な心の持ち主が語りたがる事柄であるという。 ところが、生命は機械的、数学的ではなく、ダイナミックに進行するもので、だから、その霊媒が純粋に数学的、幾何学的に位置づけ可能な場所において、取り憑かれている、と言うべきではないという。 本質的に、霊媒が取り憑かれているのは人間の構成体における、重量或いは重さをもつ部分、つまり地球に引きつけられている部分である、と言う必要があるとはいえ、アーリマン的な存在たちは、そのようなところに入っていくことが可能であるだけでなく、別のところにも入っていくことができるという。いま示した、この記述は物事の最も粗雑な面を示したに過ぎなく、もっと繊細な面についても議論する必要があるという。 さて、眼は、外界を見る器官で、眼の中に配置された視覚神経は脳に結びつき、色を感じ取る基盤を与えているという。唯物主義者は視覚神経がどのようにして色の感覚を脳に伝え、それを解き放つかを説明しようとする。彼はそのプロセス全体を船の荷役、或いは鉄道輸送と比較し、そのような類で論じる。 何かが視覚神経に外から「積み込まれ」、神経によって輸送され、それがどこそこの場所で下ろされて人間の本質(唯物論者は脳というが、本質は魂)の中に入っていく、と。勿論、その説明は、このように粗雑ではないが、結局はそのような説明に終始する。しかし、真相は、これとは全く異なるという。 視覚神経の機能は色の感覚を脳へと運ぶのではなく、ある地点で、感覚を捨てる(切り離す)ことだという。色は(物質の)周辺部に存在し、視覚神経の機能とは、色の感覚が脳に近づけば近づくほど、それを絶縁し、そのため、脳には実際、色の感覚がなく、ただ弱く、微かな色だけが脳に達するという。 そして、色の感覚だけが絶縁されるのではなく、外界との、他の種々の関係も、また絶縁されるという。聞くことや、見ることは、感覚器官に関連する脳の近傍では、視覚神経と聴覚神経により、そしてまた熱を感じ取る神経により、(物体の)周辺に位置し、存在するものを、脳に達するプロセスにおいて、弱い印象へと減退させているという。 つまり、外部にある周囲の本質を減弱させながら、内部に取り込んでいるという。これは免疫の概念で総括されうるといえる。つまり、直接取り入れると毒となるので、薄め、弱め、その情報の本質部分だけを取り込むという。それが神経の役割といえるだろう。ホメオパシー原理が身体に成立するのもここにあるといえる。 これは同じカードを出すトランプゲームで簡略的に説明できる。外界のカードと同じものを、内部のカードから、出し、その情報だけを受け取るのである。ハートの1が出れば、こちらもハートの1を出すことで、ハートの1という情報を獲得するという風に、神経組織がそのようなゲームを行い、カードを捨てながら、最終的にその情報を脳が獲得するという感じであろう。これは免疫が抗体をつくり、外敵に対して中和させていく戦略そのものである。 この感覚についての関係は、1500gに対する20gの関係と同じだという。というのも、20gが、実質的な脳の重さとして、微かな印象(イメージ)を与えるからだという。この微かな量だけが、我々人間に残された全てであるという。 我々が感覚を通して、夜明けの素晴らしい光景を内部に印象として取り込むとき、後脳はその微かな影、ボンヤリとした(わずか20gの)印象(イメージ)だけを捕らえるという。そのボンヤリとした影にこそ、細心の注意を払うべきであり、何故なら、「自我」が入ることができるのはその微かな部分のみに限られるからだという。 「自我」が隔離(切り離)され、霊媒的な力が現れる瞬間、元素(自然霊、妖精)存在たちが、この微かな影、聴覚から進み出てくる、僅かな音の中に入り込むという。この存在は、外的感覚知覚を失った、「自我」がいなくなった場所に滑り込み、霊媒として取り憑くという。 次にそれは神経網、すなわち意志の形成を司る神経へと入り込むという。その結果、霊媒は活発に反応し始めるが、それは、本来「自我」の支配下にあるべきものが、元素(自然霊、妖精)存在たちに取って代わられるからだという。 あらゆる微かで影のような要素、脳の(アルキメデスの原理による)残存重量、色や音の感覚の名残はファントム(幽体)のように、我々を捕らえ、何故なら、実質、この20gの重さはファントム(幽体)であり、我々人間の内的存在に入ってくる色彩の微かな影は、実際にファントム(幽体)のようなものだからだという。 元素存在たちが、このファントムの中に入り込み、霊媒が深い昏睡状態になることによって、彼(霊媒)の身体が全く受動的になり、本来「自我」によって浸透されるべき(通常は「自我」が間借りするはずの)微かでファントムのような影の中に存在する、あらゆるものが今や彼(霊媒)の中で活動するようになるという。 人間が霊媒になれる条件は、通常の人間には役に立つ能力が、昏睡や完全な不活性によって阻止されると同時に、今述べたファントムが活性化されるときだけであるという。このことは、例えば、霊媒が、ものを書く仕草に観察できるという。勿論、霊媒は、20gの脳重量のように、彼の内の全てが、本来の重量より軽くなっていなければ、(自動筆記で)書くことはできないという。 というのも、元素存在が筆記を用いる領域とは、重量を有する全てのものが液体の媒体中に浮かび、軽さの感覚やその感じを与え、そのため重力に左右されない領域、通常は「自我」がペンを操る領域であるからだという。そのとき、霊媒の中で、この人間ファントムの中で、ペンの支配権を握っているのは、元素存在だという。 催眠術の原理もここにあると思われる。 全ての霊媒現象において別世界の侵入が見られる、という事実は否定できないという。別世界のアーリマン的な存在たちは、ちょうど霊媒によって遂行される運動の中に入り込むことができるように、以前述べた(人間が発する)放射の中にも、入り込むことができるという。人間有機体の、特に腺組織の領域には強力な液体放射が存在しているという。 これらの元素存在たちは液体放射の中だけではなく、呼吸放射や光放射の中にも潜り込むことができるという。化学放射(黒魔術)の場合だけは、化学放射を利用する人と、その中に入ってくる存在たちとの間に意識的な交流があるという。ここから始まるのが黒魔術、以前述べたような手法で入り込んでくる、これらの存在たちとの意識的な共同作業となるという。 霊媒や霊媒を使って実験する人たちは実際にいかなるプロセスがそこで生じているのか、気づいていないという。ところが、黒魔術師は、これらの元素存在たちを、彼自身の目的のために、人間の、特に彼自身の化学放射の中に誘い込んでいる、ということを十分に意識しているという。 だから、黒魔術師はこれらの元素存在たちからなる無数の僕たちに絶えず取り囲まれ、彼らが秘密の化学衝動を現象世界において用いることを、彼自身の放射を通して、或いは実験室で香木を焚くことによって可能にしているという。 こうして、我々は、ちょうどベラドンナが未知の世界に踏み込むことによって、毒を持つようになるのと同様、精神世界が、霊媒を通して、誕生から死までの間に住む世界(この世)に踏み込んでくる、ということを学ぶ。 そして、基本的には、人間の意識、つまり十全なる自我意識が抑圧されるとき、麻酔や昏睡状態にあるとき、或いは実際に気絶しているときには、いつでもその危険が存在しているという。 眠りによってではなく、何か別の要因によって人間の意識が抑制されるときには絶えず元素存在たちの世界に曝される危険が存在しているという。次回は、このことが人間の生活において、いかに重要な役割を果たしているかを見ていく。
2007年03月23日
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最近、映画を見まくっていたせいで、ブログが疎かになってしまった! 映画を見まくったといっても、私の場合は、DVDレンタルで、せいぜい5本位なので、見まくるという表現もワザとらしいが、多少ハマったという感じでもある。 見た映画は、相変わらず、邦画ばかりで、「UDON」、「雪に願いを」、「この胸いっぱいの愛を」、「デスノート2」、「男はつらいよ(マドンナ吉永小百合のやつ)」といったレパートリーである。 今回は、どの作品も非常によく、甲乙つけがたいものだった。では、毎度のことながら端的に映画評を述べてみたい。「UDON」は途中間延びした感も無きにしもあらずだったが、UDONバブルが終焉を迎えた後半は、父と子のやりとりがなかなかよかった。主人公は世界一のコメディアンを目指してニューヨークへと旅立つが、夢破れて帰ってきて、田舎のうどん文化に触れ、慰められ、再挑戦へと旅立つという安直なストーリーである。ストーリーはともかく、とにかく、うどんが食べたくなる映画である。 「雪に願いを」は、ばんえい競馬を主題にしたもんで、バブルの夢破れ、破産借金塗れの主人公が、故郷を捨て、親や兄を裏切ったにも関わらす、身を隠すために、田舎に戻り、ばんえい競馬を通じて、調教師の兄との人間関係を修復し、再び、勇気づけられ生きていくというストーリーである。 「この胸いっぱいの愛を」は、「黄泉がえり」のスタッフがつくったということで、みたものだが、内容は、こちらの方がよかったように思う。どちらも、この世での限られた恋愛を描いているが、「黄泉がえり」よりも、「この胸いっぱいの愛を」の方が、男女が契ることに囚われない愛を感じさせる。 タイトルの「この胸いっぱいの愛を」は、レッドツェッペリンのWhole Lotta Loveの邦題「胸いっぱいの愛を!」を、私にはなにやら思い出させるが、タイトルの「この」というのが邪魔だと思う。ストーリーは、人生において遣り残した償いというべきものをタイムスリップして行うものである。 「デスノート2」は、なかなか人気で、ようやくレンタできたといった感じだが、それだけの価値は十分あると思う。主人公ライトとその仇役とでもいうべきエルとの死を通じての知性の闘いは、なかなか「面白ろ」かったが、私には古畑任三郎の現代版とでもいうべきものに感じた! 古畑対古畑という感じだが、ただし、今泉のような存在はいなかったのが、残念といえば、残念か? あるいは、デスノートの主(死神)が今泉なのかもしれない? エルとライト(月)という名から、デスノートは、どこか神話を基にしたものではないかとも思える。エルとは、神の名で、ライト(月)は恐らく、悪魔ルシフェル(光;ライト)を模したものに思えたからである。 そして「男はつらいよ」だが、これは語るまでもなく、日本人なら一度はみている有名な失恋話である。 改めて、これら5つの映画を振り返ってみると、どの5つの作品も人間関係の修復、とくに愛情を描いているように思われる。なので、今回の映画評のタイトルは、人間関係の修復における愛とは何かというべきものだろう。 そこで、この5つの映画における、「不信(裏切り)と愛(償い)」の描き方を考察する。 「UDON」では、主人公は、父のうどん屋や田舎の雰囲気が嫌で、今流行の世界的なコメディアンの自分の夢を目指すが、現実の厳しさを痛感し、挫折し、戻る。帰ってみると、父とは関係修復不能な状態だったが、友人たちのタウン誌から、うどんの文化を再発見し、うどんを通じて、改めて父の存在を再発見する。主人公が、父の偉大さを感じ、自分も、うどん屋を志そうとしたときに、父は亡くなってしまう。「UDON」では、主人公への現世での父への関係修復はならなかったが、父亡き49日に、父のうどんを再現することで、主人公の父への感謝の愛を表現する。そのことで、主人公は、父が言った「俺にはうどんしかなかったから、ただうどんを真面目にコツコツつくっただけだ」というセリフと、父が息子である主人公に「ありがとう」といった感謝に、勇気を得て、再び自分追求の夢の旅に出る。「雪に願いを」では、主人公は、兄には内緒で、母親から大金を借り、都会で一旗挙げ、社長となるが、バブルが弾け、破産し、借金を背負い、どこにもいくところがなく、兄の厩舎に駆け込む、兄とは犬猿の仲だったが、見かねた兄は、弟主人公を厩務員にする。主人公は、兄の厩舎の馬肉にされそうな老いた馬の再生に最後の望みを賭け、真剣に世話をはじめ、それが生命あるものへの愛情として結実する。老馬は、主人公の望みに応え、見違えるように再生し、現役馬になる。兄との仲も解消に向かったとき、老人ホームの母に会いにいくが、母は既に昔の記憶を失っていた。主人公には、そこに温もりを感じさせる逃げ道はなかった。そして、弟は、真剣に一から再出発する決意を固める。「この胸いっぱいの愛を」では、主人公が幼いときに好きだった、近所のおねえさんの脳腫瘍麻痺を、一流バイオリニストになれないという理由で、手術せずにおねえさんが病死してしまった出来事をやり直させるように愛情を捧ぐ、「バックトゥザフーチャー」みたいなストーリーだが、何処か、カルマのようでもある。そして、死者になった主人公が、麻痺が残る恋人に対して厳しい人生を、生き抜く支援をする。それはどこか「ゴースト」をも彷彿とさせる。秘教によると、人間は死後、自らの人生のなかでの、悔いの残るような出来事を振り返り、今度生まれる来世では、それを解消するような自分の存在を選択するという。悔いの残る出来事とは、自分の行いが、何らかの他者に損害や、愛情のないものを与えた場合のことを指すという。そのような行為を生んだ魂は、自分を不完全な存在だと自覚するようになるという。魂は、その不完全さを償いたいと思い、来世に生まれることを熱望するという。このような魂の償いの行為を、「この胸いっぱいの愛を」はよく表現できていたといえる。黒澤明の「生きる」の主人公が最後に涙ながらに歌った「命短し、恋せよ乙女」が思い浮かぶ。そして「デスノート2」だが、主人公は、まるで悪魔ルシフェルのように、デスノートを元にして、人間社会に新秩序を構築し、自らが神となることを宣言する。なにやらこれは、米国ブッシュのネオコンの宣伝文句を髣髴とさせるものである。ブッシュは、米国が、世界の新秩序構築国となり、自らが神に君臨すると、キリスト教原理主義にまで、媚を売って、悪魔の国家を断定し、アフガンやイラクに進行し、イスラム過激派から怒りを買い、テロを激化させ、挙句の果てには、かつての悪魔国の北朝鮮にまで、好きなように悪態をつかれる体たらくの昨今である。核削減を謳い文句にしながら、かえって核拡散を生んでしまっているのだから、まるでお話にならない。ブッシュ政権はまるで馬鹿であるか、或いは悪魔であるかどちらかであろう。このようなお粗末な結果がわかっていたら、ブッシュなど誰が大統領にしたであろうか?米国人の不見識さの何者でもない!話が逸れてしまったが、いかなる人間も、神の名において、犯罪者を裁くということはできないのである。これこそが、神に対する背徳であろう。「デスノート2」では、主人公は、最後、悪魔に魂を刈り取られたしまったのである。秘教では、死神は、神ではない。死神とは、神の死体であり、神というより、悪魔に近い存在なのである。それは月と書いてライトと呼ぶ主人公の名にあるように思える。月光は、誘惑の欲望の光である。確かに、エルも、死刑人を沢山囮にしていたが、殺したのはライトである。そして、エルとライトの大きな違いは、理性の違いにある。知性を自らの欲望に使うか、それとも、人間に与えられた社会構築上の役割に使うかでは大きな相違がある。主人公の父親がそれを見事に表現していたように思える。そして、エルは、最後に、「あなたは良き父親ですね」と死んでいった。人間社会全体の平和のため、理性のためには、父と子の関係に束縛されないというのは重要なことだと教える映画でもある。勿論、作者にその意図はないだろうが、作品が世にでるプロセスのなかには、みえないものも含まれるのである。そして、ライトとエルの違いは、自らの命を捧げ、デスノートに自らの名を記した点にもある。我々人間は、生きている間にこそ、デスノートに名を書ける存在なのである。生きている間こそ、命をもって、愛を輝かせることができる。それは長いか短いかの知性的な問題ではなく、真剣か真剣でないかの理性的な問題であろう。秘教では、人間はカルマをもって生まれ、カルマから自らを遺伝的につくりあげるという。それは他者への奉仕のための遺伝であって、自らのためではない。だから、遺伝には束縛されない選択権が隠されているのである。つまり、自らチョイスして自分という存在を選んできたのである。他者に貢献できる存在を選んで自分として生まれてくるのである。愛を表現するのに、一番有効な選択を、自分の存在として自主的に与えられてくるのである。束の間の欲望からの愛ではなく、永遠に捧げ変容する、愛であるべきである。この5作からわかることは、誰かに憧れ、誰かになろうとするのではなく、ただ、自分にあるもの、自分に真剣に徹すれば結果は自ずとついてくるということだと思う。とくに、「雪に願いを」の兄と弟のやりとりで、弟が「世間を見返したいんだ!」というセリフに、兄は「見返す必要なんかない!」と受け応えるシーンがそれを物語っている。秘教では、光は外を照らすためにあるのではなく、内を照らし、外に通じるためにあるという。内面を照らす、だから「灯台元暗し」という言葉もある。確かに、灯台は目立つが、それだけの代物でしかない。それは有名選手だって同じで、誰か同じ有名選手と比較されるのが一番嫌なはずである、それがたとえ一流選手でもであろう。ジーコは白いペレと呼ばれるのを嫌がったという。ペレはペレであり、ジーコはジーコだといったようだ。 最後に「男はつらいよ」を忘れていたことに気がついたが、結ばれるだけが愛ではないってことだよね?やはり、寅さんは自由の身だからこそ、多くの女性と恋愛ができるわけで、妻帯者だったら、不倫なわけだよね。まあ、所詮、フィクションですが。最後にリリィと結婚しなかったってことは、次回作を考えていたってことだろう。だから、次回作期待しちゃうんですが…。やはり、渥美清の寅さんじゃないとダメなのかな?それをいっちゃ、おしめいよで!
2007年03月22日
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さて、ここに秋のクロッカスが生えている牧場があると考えてみる。ベラドンナの花をつける植物を見つけるためには、遠くまで旅をし、山岳地帯に登る必要があるかも知れない。物理世界の中では、ベラドンナと秋のクロッカスが一緒に見られることはないが、精神世界の中では、それらはお互い近くに見れるという。 空間が別の在り様をしているからで、物理世界においては、遠く離れて存在している物体同士が、精神世界においては、至極近くに見れることがあるという。精神世界は、それ自身の原初的な法則を有しており、物質世界とは、あらゆることが異なっているという。 さて、これらの植物に死者の世界で出会うと想像する。我々が初めて死者と連絡を取るとき、彼ら死者の中では、これらの植物が、我々の中に引き起こす、恐ろしい印象が引き起こされることが決してない、ということが分かるという。彼ら死者たちは、これらの悪魔的な存在たちは賢明な宇宙の計画に従って、そこにいる、ということを知っているからだという。 なので、我々が死者と連絡を取るとき、中間的な世界には、毒のある植物に対応する悪魔的な形態をしたものたちが多く住んでいるということが分かるという。更に進んで、死者が10年、20年、或いは30年後に更に高次の領域に入っていくための領域に至るとき、我々は毒のない植物に関連する形態を見るという。なので、植物界は物理世界と同様、それに隣接する、より高次の世界においても重要な役割を果たしているが、後者の中では異なる形態を取っているという。 その真の姿においては星の世界に属するものが、地上におけるその対応物として、ベラドンナ、秋のクロッカス、あるいはスミレのような形態をもっているという。それは、その真の姿が、上述した方法で反映される、死者の世界にも、その対応物をもっているという。ある世界の中に存在する、あらゆるのものは別の世界にも働きかけるが、これらの事柄を真に認識するためには、それらが実際に属する世界に、意識的に参入して行く必要があるという。 同じことは、これらの別の世界の存在たちにも当てはまるという。我々は、我々の世界と直接境を接する世界に参入するとき、はじめて元素存在とは、つまりアーリマン的な力の子孫とは何なのかを知ることができるという。これらの存在たちは霊媒を通して現れ、彼らは霊媒に憑依し、それによって一時的に我々の世界に入ってくるという。 もし、我々が人間の霊媒を通してだけ彼らと接触するなら、我々は彼らを、彼らにとって本来は未知の世界において、知るのであって、彼らをその真の姿においては知らないということになる。彼らが現れているのは、彼らにとっては未知の世界なので、ただ霊媒による出現のみによって、これらの存在たちを知るようになる人たちが真実に至る可能性はほとんどないといえるという。 精神的な顕現が伝えられている、ということに疑いはないが、彼らが属さない世界から、それら(技術等)が流れ出てくる限り、それら(技術等)を理解することは不可能で、霊媒的な意識に結びついた、あらゆるものの中にみられる高度に幻惑的で、当てにならない要素は、これらの存在たちと接触を持つ人たちが彼らの真の本性を理解していない、という事実によって説明することができるという。 さて、彼らは、このようにして世界の中に入り込んでくるが、そのため、特別な運命がこれらの存在たちに用意されることになるという。ここに述べた宇宙に関する知識は、我々の知識の範囲を広げるのに役立ち、我々が死者の世界に参入し、秋のクロッカスや紫のジギタリス、棘リンゴ等々の悪魔的な森を横切るとき、スミレが未来において変容を遂げ、全く異なる形態を取ることに気づくという。彼らは宇宙の未来にとって、何らかの意義をもっているという。 秋のクロッカスは、正にその本性によって、運命づけられている死を準備するという。毒のある植物は絶滅すべき植物で、未来においては発達する可能性がなく、死滅しつつある植物であるという。彼らは未来においては別の毒のある植物に取って代わられるという。今日、毒のある種類の植物は、我々の時代において既に死滅しつつあり、勿論、1時代はそれなりに長い間続くが、これらの植物はそれ自身の内に死の種を宿しているという。 そして、それは植物界全体の運命になるという。我々がこの精神的な視界をもって植物の世界を探索するとき、未来に向けたダイナミックな衝動をもって成長し、発達する力と、死につつあり、消滅することが運命づけられた世界を知覚するという。 そして、これは霊媒に憑依する存在たちにとっても同様であるという。彼らは、現在を、遙か未来に向けて運んでいくことが使命である彼らの仲間から、自らを引き離すという。彼らは霊媒という代理を通して現在の世界に侵入し、そこで地球の運命に捕らえられ、彼らの未来の使命を犠牲にするという。こうして彼らは人間から、その未来の使命を大いに奪い取るという。 これが霊媒主義の真の本性を理解するときに、我々が目の当たりにするものだという。というのも、霊媒主義が示唆しているのは、現在だけを重要なものとするために、未来を消滅させることだからだという。なので、我々が真正な秘儀の関連性と宇宙の真の本性に対する洞察をもって心霊主義的なセッションに参加するとき、最初に驚かされるのは、心霊現象を見に集まった人々のサークル全体がまるで毒のある植物に取り囲まれているように見えるときで、あらゆる心霊主義的なセッションは実際、毒のある植物の庭に取り囲まれていて、それらの植物はもはや死者の王国におけるのと同様の側面を見せるのではなく、心霊主義者のサークルの周りで成長し、そして、その実や花からは悪魔的な存在たちが現れるのが見えるという。 超感覚的な視覚を持つ人が心霊主義的なセッションで経験するのは、上述のことで、彼は、大まかに言って、内部から活性化され、部分的に動物となった、毒の植物の一種の宇宙的な茂みを通過するという。そのとき、彼らを毒植物と感じるのは、その形態からで、このことから、この心霊主義的な形態の内部で働くもの、本来ならば人間進化のプロセスを前進させ、未来において実を結ぶべき、あらゆるものが、本来それらが属さない現在へと引きずり下ろされている、ということを学ぶことができるという。それらは、現在にあっては、人間性に有害な働きを及ぼすという。 心霊主義の内的な秘密とはこのようなものであるという。この秘密に関して、ここでもう少し学ぶことにする。
2007年03月22日
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我々が自分に向かって「私」と言うとき、つまり、我々が十分に自我を意識するとき、この意識は脳のある特定の部分に根ざしているという。これらの脳の部分が霊媒(状態)によって切り離されると、上述したような進化段階にある実体が、人間の自我の代わりに、そのような部分に滑り込みたい、という衝動を感じるようになるという。 そのとき、そのような霊媒は、文明の成果を未来に伝えることが本来の機能である、あの存在たちの乗り物になるという。これらの実体たちは、たまたま自我が不在になった脳に取り憑くとき、この脳の中に自らを確立したいという圧倒的な欲求を感じるという。そして、霊媒がトランス状態にあり、脳が切り離されるとき、アーリマン的な影響を被るこの種の(悪魔的)実体、文明の成果を未来に伝えるのがその機能のこの種の実体が脳の中に滑り込むという。 そのような霊媒は、一時的に、自我の担い手ではなく、宇宙における自らの義務を怠っている元素存在の乗り物になるという。このとき、この宇宙的な義務を怠る元素存在、という表現を全く文字通りに受け取る必要があるという。 そのような存在の義務は、人間がどのように書くかを観察することだという。人間は、今述べているように、脳のある部分を基にした力を用いて筆記するが、これらの存在たちは正常な仕事としての、単なる観察だけでなく、(自我が)切り離される可能性のある霊媒的な脳を絶えず探しまわっているという。そして、その中に滑り込み、筆記の技術に関して、彼らの観察から教えるものを同時代の世界に導入するという。 こうして、彼らは、霊媒の力を借りて、彼らの使命に従うなら、(人類の進化度合いに応じて)未来に伝えるべきもの(技術)を、現代に投影するという。霊媒主義は、(本来)未来の能力となるべきものが混乱し、ボンヤリとした曖昧な方法で、既に現代において発達させられる、という事実に依拠しているという。これが霊媒の予知能力の源泉であり、他の人々を魅了する源ともなっているものだという。実際、その機能は今日の人間の機能よりも、遥かに完璧なものだが、それは既に述べたような方法で導入されるという。 丁度ベラドンナがアストラル世界を媒介するように、つまり、その実に吸収したある種のアストラル的な力の媒介者として働くように、人間もまたその特別な脳のタイプ(霊媒)を通して、ある未来の時点において我々の文明に参加すべき、これらの元素存在のために、というのも、人間には、ある地上生から別の地上生へと全てのものを運んでいくことが不可能なので、それを媒介するものとなるという。これが霊媒現象(ある種のクラスの存在たちによる憑依)の秘密であるという。 さて、一方で、これらの存在を実際に創造したのはアーリマン的な存在たちだと結論づけるかも知れない。アーリマン的な存在たちは宇宙にあって人間の知性を遙かに凌駕する知性を有しているという。我々は、我々の(物質)世界と直接境を接する世界において、アーリマン的な存在たちに出会うとき(或いは、洞察力を達成することによって、物理的な世界においても彼らに出会うかも知れないが)、彼らの広大で卓越した知性に驚くという。彼らの知性は人類の知性を遙かに凌駕しているという。 そして、我々人間は、いかに彼らが無限に知性的存在であるかに気づくとき、初めて彼らを尊敬するようになるという。この知性の何等かが彼らの子孫、霊媒的な脳に滑り込む元素存在たちに伝えられることから、霊媒という手段で重要な情報が明らかにされるようなことが起こり得るという。 多くの決定的に重要なことを、特に、霊媒たちが十分に発達した意識の中で伝えることに関して、我々は学ぶことができるかも知れないという。我々が精神的な世界の本性と成り立ちを正しく理解するならば、霊媒が多くの権威ある情報を伝えることが可能であることを否定することはできないという。我々は霊媒から多くの重要なことを学ぶ可能性があるが、それは精神的な認識に向かう正しい道ではないという。 このことは植物霊媒、つまり植物毒の元となるある種のアストラル的な力を媒介する植物の例からも分かるように、このような状況が、いかにして生じたのかに気づくことができるのは、正しく発達させられた意識を通してのみであるという。このことを次のような方法で記述する。というのも、精神的な世界に関する議論には、抽象的な概念で語るよりも、明確で具体的な記述の方がよいからだという。 死者たちが死後の生活を送る世界に超感覚的な認識をもって参入すると仮定する。我々がそのようにして死者を追っていくとき、最初に入っていくのは、我々自身の世界とは全く異なる世界で、この世界に関しては既にある程度述べたが、そのときに指摘したのは、その世界は我々が誕生から死までの間を生きる世界よりも遙かに現実的な印象を与えるということだった。 我々が、この世界に参入するとき、我々は死者たちの魂とは別に、そこに見いだされる特筆すべき存在たちに驚かされるという。最近亡くなった人々の魂が奇妙なそして悪魔的な形態をしたものに取り巻かれているという。死者が入って行くべき、この隣接する世界、我々がある種の超感覚的な視覚によって、死者を追っていくことの可能な、その世界の入り口で、アヒルか野鴨、或いは、その他の水性動物のように、水かきのついた巨大な足(地上的な基準に照らして巨大という意味)、絶えずその形を変える巨大な水かきのついた足を持つ悪魔のような姿をしたもの(河童か?)に出会うという。これらの存在たちはいくぶんカンガルーのような形をしているが、半分鳥のようでもあり、半分哺乳類のようでもあるという。我々が死者に付き添って行くときには、そのような存在たちが住む広大な領域を通過していくことになるという。 これらの存在たちは一体どこから生じるのかと問いかけるならば、まず、そのような存在たちの在処、彼らの居場所に関する明白な考えを持つ必要があるという。彼らはいつも我々の周りにいるという、何故なら、我々は死者と同じ世界に住んでいるからだという。しかし、彼らを、この物質世界の中に探すべきではなく、真の正当な探求はこの地点から始まるという。 秋のクロッカスが沢山生えている牧場を歩いていると想像する。秋のクロッカスの真只中で、死者を追っていくことが可能な意識状態を生じるように努めるならば、クロッカスが生えているところであればどこでも、丁度今述べたような存在、水かきのついた足と奇妙なカンガルーのような体を持った存在(河童)を見ることができるという。秋のクロッカスの1つ1つから、そのような存在が現れて来るという。 物質世界のクロッカスが、死者の世界の河童のような化け物のようである。 もし、更に移動を続けて、ベラドンナが道ばたに生えている場所に行き、今述べた意識状態に移行させるならば、全く異なる存在、やはり、この世界に属する恐ろしい悪魔のような存在に出会うという。なので、秋のクロッカスとベラドンナは隣接する世界の、元素(悪魔的)存在たちが、その植物存在の中に入ってくるのを許す(一種の)霊媒、別の側面から見ると、実際に死者の世界に属する霊媒であるという。 このことを心に留めれば、上記の別(死者)の世界は、我々の周囲の至るところにある、ということが分かる。この世界に意識的に参入することが、ただし、通常の意識をもって、秋のクロッカスとベラドンナを知覚するのではなく、死者と関係を保つことが可能な、より高次の意識をもって知覚する、ということが本質的なことであるという。
2007年03月21日
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他方、ベラドンナはその存在を、別世界から導き出すという。植物は、物質体とエーテル体をもち、そして、その花と実は普遍的な宇宙の要素に取り囲まれているということを知覚するとき、通常一般の植物という存在を理解することになる。地球から芽生える植物の有機的な生命、その周囲のエーテル体、そして、一見雲に包まれたようなアストラル的な要素が至るところで見られる。 スミレのような植物の性質とはそのようなものであるという。ベラドンナのような植物は、スミレとは異なって構成され、その釣り鐘型の花の内部に、実が形成されるが、アストラル的な要素はその実の中へと浸透していくという。スミレが発達させる「萼(?)」は単にエーテル的な要素の中にあり、ベラドンナは、その実がアストラル的な要素を同化しているため、毒を持っているという。大宇宙のアストラル性を、いずれかの部分に同化している植物は全て毒を持っているという。動物の中に入っていく力、動物にアストラル体を付与し、それを感覚的な存在へと内的に形成する力は植物における有毒な要素の源泉でもあるという。 これは非常に興味深いことだという。我々人間のアストラル体は植物によって同化されるとき、毒性を示す力の担い手になる、ということが分かるからだという。毒に関しては、このように考える必要があり、人間のアストラル体が実際にあらゆる毒の力を含んでいるということに気づくときにのみ、毒に関する内的な理解を獲得することができるが、それは毒の力が人間存在を構成する1つの重要な部分になっているからだという。 ここでの、この議論の中で、後に、精神的な探求における真実の道と偽りの道を区別するための助けとなるような、明白な観点を提示しているという。スミレとベラドンナの例から何を学ぶことができるかと問うならば、それぞれの植物世界に適した意識を発達させれば、スミレはその本来の世界の内部に留まり、外の見知らぬ世界から何も引き寄せることのない存在である、ということが分かるという。 他方、ベラドンナの場合、見知らぬ世界から何かを自分に引きつけます。それは、植物の世界ではなく動物の世界の特権であるところの何かを同化しているのです。このことはすべての毒のある植物に当てはまります。彼らは、植物存在には属すべきではないもの、実際には動物界に属すものを同化しているのです。 さて、宇宙には様々の領域に属す多くの存在たちがいるという。我々人間が死者たちに出会い、死者がそこを離れるまで10年、20年、或いは30年にわたって付き添っていくことができる領域にも、人間に気づかれることなく、我々人間の物理世界に入り込んでいる多くの存在たち、疑いなく現実的存在たちが見出されるという。 彼らを、ある特別な種類の元素存在として記述するのが最も良いという。我々が、死の門を通過して間もない死者たちの後を追っていくとき、あらゆる種類の形態を付与された元素存在たちが住む世界、彼らが現実にそこに属する世界へと入っていくことになるという。これらの存在たちは、その世界に属している限り、その世界に適した力だけを実際に使用すべきである、と思うかも知れない。 さて、これらの元素存在の中には、その活動を彼ら自身の世界に限定せず、例えば、人間がモノを書く様子を観察し、人間が生まれてから死ぬまで、(物質)世界の中で行う、あらゆる活動を追跡するものたちがいるという。我々人間は、我々の活動の観察者である、そのような存在たちに常に取り囲まれているという。 さて、この観察者としての役割自体は害があるものではない。何故なら、今述べている事柄の背後にある全体計画の本質とは、人間が物理的な世界との関わりを通して獲得するあらゆるものが、我々の(物質)世界と境を接するあらゆる世界、死後直ちに入っていく世界、死後何十年も経った死者たちと接触を持つ世界、つまり、これら全ての世界に欠けているものだからだという。この死者の世界には、例えば、書くことや読むこと、我々が既知の飛行機、自動車、或いは電車は存在しないという。 我々人間は、この地上で自動車を組み立て、読み書きをし、本を書くが、この全てに天使たちは参加していない、とは言えないという。これらの全てが宇宙一般にとって意義がないものである、とは言えないという。今、記述したような存在たちは、我々自身の世界と直接境を接する世界から「委嘱」を受けている、というのが実際のところで、彼らは人間の活動を見守らなければならないという。彼らは人間の本性に関心を持ち、未来のために、その分野で、彼らが学ぶものを保持する、という任務を別の世界から負っているという。 我々は人間として、自らのカルマや外界の文化によるカルマへの影響を一つの人生から別の人生へと運んでいくことができるという。自動車に関連した経験を一つの地上生から別の地上生へと運んでいくこともできるという、自動車の組立自体を運んでいくことはできないという。地上の力のみに担われたものを、ある人生から別の人生へと運んでいくことは、人間にはできないという。 なので、人類は文明を通して、何らかの技術の基礎を築いてきたが、それは、もし、別の存在たちが力を貸さなければ、失われていたものであるという。さて、いま述べた存在たちは、人間が一つの地上生から別の地上生へと運んでいくことができないものを未来のために保持する、という任務のために「分遣隊」に分けられるという。 これまで、これらの存在たちの多くにとって、その任務を成就するのは最も難しいことだったので、太古の時代にみられたものの多くが、再び人類から失われていったという。強調すべき点は、人間が一つの地上生から別の地上生へと自分で運んでいくことができないもの、例えば文献中の抽象的な内容を、宇宙的な計画に従って、未来に運んで行くという使命を負った存在たちに、我々人間は取り囲まれている、ということだという。 人間と直接的な関係にある精神的な存在たちにはそれは不可能なので、従って、人間自身にも、それは不可能なものだという。これらの(精神的な)存在たちが、彼らの手助けをするものとして、リストアップしなければならないのは、彼らとは長らく疎遠であった別の存在たち、いわゆる人間と(直接)関わってきた精神的な存在たちとは全く異なる進化を経験してきたものたちであるという。 これらの異なる進化を遂げた存在たちは、シュタイナーが、著書の中でアーリマン的な存在たちと呼んだものであるという。彼らは(精神的な存在たちとは)異なる進化を経てきたにも関らず、ときとして、例えば、人間が自動車を組み立てるとき、彼らが、我々人間自身の進化に関わりを持つことがあるという。 彼らは、彼らのアーリマン的な宇宙の力によって、自動車の組立のような現代技術を理解することができる存在であり、人間自身が1つの受肉から次の受肉へと運んでいくことができないような文明の技術的な成果を未来の時代へと伝える存在であるという。 秘儀参入者が手に入れることが可能な、このような情報によって、今、霊媒の真の意味を記述する地点に立つという。勿論、広い意味での霊媒と、文字通りの意味の霊媒とを区別する必要があり、「霊媒」という言葉を広い意味に取ると、基本的には、我々人間全ては霊媒だという。 我々は皆、誕生から死までの人生を生きるために受肉する以前には、魂と精神からなる存在だったという。我々の精神的な本質が物質体に受肉するという。物質体は精神が活動するための媒体となるものであるという。なので、「霊媒」という言葉を最も広い意味に取ると、あらゆる存在はある程度、霊媒である、と言うことができるという。 これは通常、秘教でいう「霊媒タイプ」という言葉が与える意味とは異なり、誕生と死の間の(物質)世界で、霊媒的な人とは、脳のある部分を、彼の全体的な存在性から切り離すような方法で発達させた人のことをいうという。なので、ときとして、これらの脳の部分、特に自我の活動を支える部分が、全体的存在性の基盤的な役割を果たさなくなることがあるという。
2007年03月17日
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既に述べた意識レベルを発達させるとき、それぞれのレベルにおいて、ある特別な宇宙領域への扉が開かれるという。人間が有する知覚の本性と適切な意識状態を発達させることによって到達することが可能な、様々な領域との関係を概略的に記述してみるのがよいという。これらの領域は実際にはお互いに重なり合っていて、隣接したものとしてしか描くことはできないという。月と水星の領域が、いかに我々自身の領域に浸透しているかに関しては既に記述した。 死後数年以内の死者と関わりを可能にする意識レベルを、我々が発達させると仮定する。その世界は我々の世界と境を接しているという。 我々の物質的世界(地球の外側)|死者との関わりを可能にする意識(地球の内側) 次の意識レベルは、死者が(カマロカにおいて)その地上生活を逆向きに辿った後に入る、生活へと沈潜することを可能にするものであるという。それは、空なる意識と呼ばれるものであるという。しかし、それは物理世界との関係では、より目覚めた意識であるという。 死者との関わりを可能にする意識(地球の内側)|死者の生活を感じる空の意識(月) その次に参入するのは、より広い領域であり、そこでは水星存在、すなわちラファエルの領域に特徴的な事象や出来事と密接な関わりを持つことになるという。特に、人間本性に生来備わっている治癒力が意識されるようになるという。 死者の生活を感じる空の意識(月)|水星(ラファエル)の領域に特徴的な事象に関わる意識(水星) こうして我々は、それぞれの意識状態によって固有の宇宙領域に参入し、その時々において、これらの領域に属する存在たちを知るようになるという。もし、死後間もない人間が置かれる状態を知りたいならば、彼らが住む世界に参入するのに適した意識を発達させる必要があるという。彼らの真の姿は彼らが属する世界においてのみ我々に示されるという。 もし水星存在を観察したいのなら、彼らの世界の意識に与る必要があるという。なので、これらの世界はある意味でそれぞれ切り離されていて、当然それぞれの世界には固有の意識状態がある、と考えることができるという。それは実際、我々人間が正しく宇宙を理解するための必要条件であるという。 何故なら、我々人間はこのように考えることにより初めて、これらの存在たちをその真の性格において知る準備ができるからだという。ここで、簡単な例で、そのような認識(ある特定の宇宙領域に適した意識状態を正しい方法で発達させる認識)がどのような方向に、我々を導くのかをここに示す。 眼前に植物が、葉や花とともにあると考えてみる。既に、植物とは精神世界に存在する原型の地上における反射像である、ということを学んだ。そして、この原型の世界へと意識を上昇させ、植物世界の認識を獲得するとき、決定的に重要な事柄、すなわち、地上に見る植物の種類を、明確に区別する必要がある、ということが明らかになるという。 適切な精神的知覚力をもって、ある特別な試料、例えばチコリを検証するとき、その外観は他の多くの植物とは異なっているという。典型的な例として通常のスミレを取り上げ、ベラドンナと比較する。今述べた方法で植物の世界を探求しながら、スミレが属する世界に参入するとき、つまり、空になった目覚めの意識(月)に参入するとき、スミレはその全く無垢の姿で精神の目に映ることが分かるという。 ちなみにスミレの花言葉は、「純潔」「愛」「誠実」だという。
2007年03月15日
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既に述べたように、19世紀初頭、自然科学は、暗い部屋の中である種の光放射や熱の発散を見えるようにすることが可能な技術を開発し、この関連で、モーリッツ・ベネディクトの実験は最も輝かしいものとなったという。けれども、そのようなことは、いつの時代でも魔術的な儀式が必要だったという。つまり、近年でもこのような演出が必要で、黒魔術を通して物理世界を操作するだけでなく、香を焚いたり、特別な香料や調合剤を使うことにより、幻覚的な効果をつくりだすという準備段階を踏んだ人だけが、熱や光の発散を効果的に用いることができたという。 これらの魔術的な儀式の目的は、人間からの熱や光の発散(放射)の中に本来存在する力を引き出す、ということだという。エリファス・レヴィーや、パプスというペンネームを持つエンコースの著作の中には、このテーマに関するきわめて危険で疑問の多い説明が見られるが、これらの事柄に関して、その客観的な側面や真の本性について語る必要があるならば、それらを無視して済ますことはできないという。 これら全ての事柄は地上的な要素の中に隠された精神的なものを利用する黒魔術へと直接導くものだという。この精神的な要素とは何かと問うなら、シュタイナーの著書「神秘学概論」の中に、月はかつて地球と結びついていた、という記述を見出すという。月に属する多くの力が地球上に残され、現代、鉱物、植物、そして動物の中に広がっているという。これらの月の力は今でもそこに存在しているという。 なので、我々が地球存在として、本来は鉱物、植物、動物、或いは人間には属さない月の力を利用するとき、月存在たちから多くの事柄を、人間の世界にとっては未知な方法で学んだ元素存在たちに出会う領域に踏み込むことになるという。黒魔術師は、このような元素存在たちの領域に踏み込んで、まだ地上に存在している月の力を利用しているという。 けれども、黒魔術師は、このような方法で魔術を行うことによって、元素存在たちに接触することになる。そして、これらの元素存在たちは人間と月存在たちの間の正しく正当な関係を(人がハルマやチェスのゲームを見るように)いわば監視することによって、物理世界に限りなく接近し、覗き込み、そして、足を踏み入れることさえ学んでいるという。 しかし、通常の人間の場合、これら全ては無意識の中に留まり、これらの存在たちと接触を持つことはないという。ところが、月の力を使って仕事をし、彼らを試験管や坩堝の中に閉じこめる黒魔術師はこれらの元素存在たちの渦中に捕らえられることになるという。 正直で全うな人間も、黒魔術師たちから学ぶことができるという。ファウストの第一部でゲーテが示したのは人間が渦巻く力の中心にいるという状況、危険な黒魔術の近くにいるという状況だという。人間は、これらの力を利用することによって、月存在たちに奉仕する実在たちが容易に人間と関係を持つことが可能な領域に入っていくことになるという。 こうして、黒魔術の中心地は、月の力とそれに直接奉仕するようになった精神存在たちとが、悪事のために共同して働くところに生じるという。そして、ここ数世紀にわたって多くのこの種の活動が実践されてきたために、地上には危険な雰囲気がつくりだされているという。危険な雰囲気は疑いもなくそこにあり、人間の活動と月の要素との統合、動的な月の力と邪な月の力に奉仕する元素存在たちとの統合から産み出される夥しい力が注入されているという。 ミカエルの時代に、太陽の領域から進出することが定められている全てに、活発に反対するのは、この領域であるという。そして、このことは特に魂と精神の領域における生命の発散との関連で考慮されなければならないという。 次回は、この観点から更に探求を行う。 1.人間からの発散-霊媒的な力2.液体要素の皮膚発散-物質化3.皮膚発散-幽体の示顕4.熱放射5.光放射6.化学的な力の放射(黒魔術)7.生命の放射ミカエル-太陽ガブリエル-月ラファエル-水星1879-1510年 ガブリエル 月1510-1190年 サマエル 火星1190-850年 ラファエル 水星850-500年 ザカリエル 木星500-150年 アナエル 金星150-前200年 オリフィエル 土星
2007年03月14日
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さて、地上の人間と月存在たちの間の精神世界におけるこの関係が(そして、これは無意識の領域の中で絶えず生じているという)生じるとき、ある種の月存在たちが筆記や描写の動作に対して発達させる興味、つまり、超感覚的に見ることができるこの興味に関しては、精神世界におけるある種の元素存在たちの中にも、その残響が見出されるという。 元素存在たちは月存在たちよりも低次の段階にあり、彼らは一度も地上に受肉したことはなく、霊的-エーテル的な存在として、隣接する世界に住んでいるという。彼らの人間世界に対する興味の結果とは次のようなものであるという。人間を観察すれば、人間が筆記を通じて伝えるその思考は、人間自身の全存在に作用する、ということが分かるという。 思考は最初に自我の中に存在し、そしてアストラル体に伝えられ、アストラル体は正確に自我が決めた通りの動作を遂行し、次にそれらはエーテル体から更に肉体にまで作用するという。ある種の元素存在たちはこれらの影響を観察し、同じように反応することを望むが、それは不可能であるという。何故なら、彼らの世界に通用する法則は、筆記が実行される世界の法則とは異なるからで、筆記は地上の人間の物理世界における特権といえるべきものだという。 ところが、次のような状況が生じる。モノを書いたり、考えたり、或いは感じるときでさえ、しっかりと肉体がエーテル体に結合している人々がいるという。つまり、そのような人々の場合、エーテル体全体が、それらの過程に巻き込まれ、それが肉体に強く刻印されるという。すると、その人の自我は抑制され、アストラル体とエーテル体と肉体は筆記や描写を忠実に再現するという。霊媒とはこのようなタイプの人間をいうという。 そのような霊媒たちは、自我が抑制されるために、月存在から筆記の動作を学んだ、精神世界の従順な元素存在たちを、自分の中に取り込むという。そして、十全なる自我意識をもってではなく、それをコントロールする元素存在たちの影響下で、筆記の動きを実行するという。霊媒的な筆記や描写、通常の霊媒現象が起こるのは、減退した意識状態の霊媒からの放射(発散)を通じてで、これらの放射は、霊媒をコントロールするために利用されるという。 月存在に興味を懐かせる第1の地上の放射、いわゆる人間の筆記の動作、特にコックリさんのような遊びは、このような霊媒体質を生む危険を孕んでいるといえる。 第二の種類の放射(液体要素の皮膚からの発散)は、月存在の影響下で容易に人間の芸術的な才能を吸収することが可能な、ある種の存在たちによって利用されるという。これらの存在たちもまた、ある種の人間たちの中に入っていくが、その人間の表層意識は抑制され、放射へと導かれる、ある種の芸術衝動をそのエーテル体とアストラル体の中にもつという。 ある種の条件下で、このタイプの人間が元素的-精神的な存在に取り憑かれ、それらの放射が、一見すると幻(ファントム)の形となり、つまり、その一部が、その人間の人生経験に関する知覚として、エーテル体とアストラル体にまで沈み込み、放射として出現するものから構成され、別の部分が、彼の中に入り込んだ元素存在だけが住む世界から伝えられるものから構成されるようなファントムに、侵されているのを観察するのは極めて興味深いことだという。 月存在に、興味を懐かせる、第2の地上の放射(液体要素の皮膚からの発散)は、人間の芸術的な才能を吸収するある月存在に、利用され、一見すると、幻のような、人間の人生経験の知覚と、月存在に従う元素存在が入り込んだものからなる、いわゆる蜃気楼のようなファントム(分身)を形成するという。 これは忍者の使う分身の術の原型のようなものであろう。 さて、同様の結果はシュレンク-ノッチングの実験からも得られたという。彼の実験対象はある種の霊媒タイプの人たち、影響を受けやすい霊媒たちで、その自我が抑制され、減退した意識状態の下では、皮膚からの流体放射のために、元素存在たちにとって理想的な素材だったという。このテーマに関しては、シュレンク-ノッチングによる興味深い著書があり、イカサマだと言う人もいれば、高く評価する人もいたという。 後者が彼の発見を普通ではないと考えたとしても驚くにはあたらないという。何故なら、霊媒を使って実験が行われたとき、エクトプラズム、すなわち地上には見出されない精神的な要素を体現する形態が体のある部分から流れ出した、というのは普通のことではないからで、多くの場合、霊媒が最近見たグラビアの絵が、そのエクトプラズムの形態に関連している、ということが分かったという。 何かが霊媒から流れ出し、それは皮膚からの発散であるという。そして、この中には全く精神的なものが流れ込むが、そこには霊媒が最近のグラビアや漫画雑誌の中で見た、例えばポアンカレの肖像のようなものが結びついているという。 人々がこのようなことに驚愕しても驚くにはあたらないが、近代の流行衣装を身にまとい品のよい人々が、皮膚からの分泌について話したり、魂の具現化について議論したりするのを、最も嫌がるようなご婦人方までが、これらのエクトプラズム的な形態が、紛れもない霊媒の汗から具現化されるのを見たいという淫らな欲求を感じるのは本当に驚くべきことだという。 シュレンク-ノッチングの実験で見られた現象は、皮膚からの単なる分泌物が、その放射(発散)を通して元素存在たちにより活性化され、エクトプラズム的な形態へと具現化したものにすぎないという。 同様にして、皮膚発散(放射)、すなわち霊媒から流出する気体の形成はある種の元素存在たちによって刺激されることがあるという。けれども、これら皮膚発散(放射)は特定の人間の形態に非常に密接に結びついていて、元素存在たちに可能なのは、せいぜい人間自身の幽体(ファントム)を創造する程度にすぎなく、それは人間が自らの人間的な形態を、幽体に非常に強く刻印することによっているという。そして、そのとき、目撃するのは霊媒からの幽体の流出現象であるエクトプラズムであるという。 恐らく、陰陽師安倍清明も、霊媒師として、自然(元素)霊を用い、この術を駆使したものと思われる。 人間からの熱放射や光放射をつくり出すことによって霊媒が何か目に見えるもの、これらの元素存在たちが月存在の影響下で働きかけることが可能な幽体のようなものを現出させるのはそれほど容易なことではないという。まず、ある種の準備が必要だという。
2007年03月13日
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日本の明治外交史を、BSでやっていたのをみて、日本がなぜ嫌われるのかがよくわかる。日本の外交は近視眼的で、非常にやり方がセコイのが根底にあるが、その実益は、官僚が担っているので、時局により転々として、官僚の些細な身内での利権の奪い合いが問題となり、外からは顔がみえずに、他国に猜疑心を与えやすく、非常に嫌われやすいのである。 外交において最も必要な威厳がなく、まるで守銭奴のような態度といえるのである。 戦国武将で例えるならば、小早川秀秋や石田三成の外交に近いといえる。この両者に共通していることは、そこそこ有能だが、嫌われ者だという点にあるといえる。 関ヶ原の戦いにおいて、小早川秀秋は東軍の勝ちを決定づけた重要な人物にも関わらず。東軍の誰もが、裏では嫌っていた感があり、石田三成は西軍の大将にも関わらず、敗戦後の扱いは、手厳しいものであったといえ、なにより、自軍から、裏切り者や内通者の多くを出している点において、やはり、小者として嫌われていた感が大きい。 小早川秀秋は、元々、秀吉の養子で、お坊ちゃんながら、毛利家を支える両川の一角の大名に成り上がった者である。さながら、いまの安倍総理と同じ存在といえるだろう。秀吉は、毛利を潰すための養子にしようと目論んでいたが、毛利三男の小早川隆景が機転を利かせて、小早川家を継がせることで落ち着かせたが、恐らく、毛利家では、秀吉の治世は短いと踏んだものと思われる。 秀吉自体が成り上がりの典型で、このような成り上がりの人物は、外交では最も嫌われるのが常道である。秀吉自体はこのことをよく心掛けていたから、景気や威勢がよいことをわざわざ演出したわけであるが、恐らくそんな秀吉を憐れと思って付き合っていただけなのだろう。 付き合いも一代限りにしてくれと、武将たちは、心の底では思っていたから、関ヶ原の戦いでは、大体が東軍についたのだろう。豊臣恩顧の武将でさえ、東軍についているのだから、表向き義理が立てば、未練なく、東軍に組み出来たのだろう。秀吉の天下は一種の幻のようなものだったのだろう。だから秀吉も、無理な朝鮮出兵をやらかしたのであろう。 それが返って裏目に出て、武将の多くが、秀吉政権を捨てる口実ができたともいえる。 秀吉みたいなタイブは、日本国内では通用するが、海外では通用しない外交タイプといえるだろう。現代では今太閤といわれた田中角栄も、あからさまな日中友好で、米国から裏切り者ととられた。しかも、中国の方も、角栄を庇うどころか、米中友好の踏み台にされてしまうのである。 日本の外交は、成り上がりで、官僚的で、使い捨てられてしまうのである。 所詮、人の信用は金銭や一時の利権などで得られるものではない。 官僚が、外交を担う限りにおいて、大望は得られず、一個人の利権、私欲に蹂躙されるがオチなのである。特に官僚は自己の出世のみに関心をもち、祖国の現状などかえりみる余地もないのだから、何ができるといえるだろうか?不思議でもある。そこそこの当面の利権だけ受け継げればそれでよしとするのが関の山であり、大望も展望もはじめからないのである。 明治外交の大きな失敗は、アジアの信用を失った点にあり、同時にそれはアジアの大儀を捨てたことにあるといえるだろう。 確かに、西欧諸国の植民地侵犯が、日本に及ぼした衝撃は大きく、西欧のアジア植民地支配に負けないために、西欧に一撃を食らわすとの大儀で、明治維新を行い、富国強兵し、日清、日露戦争を、なんとか勝利できたが、その勝利後の一番の大失敗は、西欧と肩を並べ、当初の理念、つまり西欧諸国の植民地支配を反省させるという大儀が、いつの間にか、西欧にならい、自分たちも利権を確保しようと政策転換したところにある。 この時点で、日本の大儀を自ら失ったといわざるをえないだろう。アジアにとってみたら、裏切り者の典型といえるのである。この豹変ぶりは、良い方向に向けば、革新だが、悪い方向に向けば、裏切り者や詐欺師になる。 日本は土壇場になり、アジアを裏切ったといえるだろう。 これは、当時のアジアだけでなく、明治維新の戦火に倒れた人々の魂をも裏切ったともいえる。単なる小さな官僚たちの利権を満足させるために、多くの人々が戦場に散ったのではない。米国の黒船による横柄な不平等条約に怒りの鉄槌や、植民地支配をやめさせ、理性を目覚めさせるために、戦ったのである。それがいつの間にか、成り上がった官僚たちの陳腐な利権に取って代わられたのである。 この構図は今も変わらない。明治天皇が生きていたまでは、明治の外交もなんとかなったが、崩御によって、日本は大正デモクラシーという一種の浮かれたバブルに陥る。そして、成り上がり者が、外交に出てきて、日本の政情は混乱していくのである。 官僚たちが、国民の搾取の下に常に国家を破壊してきた。清朝の滅亡は宦官という官僚にあり、最近では、ソ連の崩壊は、ノーメンクラツーラという官僚のせいである。 関ヶ原の戦いでも、秀吉政権の官僚たちは負けたのである。官僚たちは、出世のために争いが好きなので、そこを外から突かれるのである。家康は、秀吉政権の官僚争いを利用し滅ぼしたし、日本のバブル経済も、大蔵省と通産省の権益争いを巧く米国に突かれたのである。 このままでは、日本は使われて捨てられる国家になるだろう。 とにかく、アジアにおける日本の不信の立場を拭い去る努力が必要だろう。太平洋戦争で失った信頼は、日露戦争時の期待が大きかっただけに、いまや裏切られた感は、日本人が考える以上に物凄く大きいのである。 いまだに愛国心とのぼせ上がる日本人はいい加減にして欲しいものである。
2007年03月12日
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最近、DVDレンタルで映画鑑賞を愉しみとしているのだが、また続けて3つの作品を見た。それは「ハリーポッター4」と、「蝉しぐれ」と、「トリック1劇場版」である。 最近、あまり洋画はみたくないのだが、「ウドンUDON」が全てレンタル中なので、渋々そういえば、見てなかったという程度で、「ハリーポッター」の新作をレンタしたのである。続編というと、段々、つまらなくなっていくのだが、ファンタジーの世界は、割とそうでもないようである。 まぁ、確かに作りとかは、有り触れてきたとはいえ、反面ハリーポッターの世界がなんとなく、定着してきたともいえる。少なくとも、まだ見ていないが、「ダビンチコード」よりは、ファンタジーに徹している点でマシかと思われる。 ハリポッターの世界は、ギリシア時代の秘教学院を基にしていると思われるが、なぜ、いまでも、あのようなファンタジーの世界に人間が惹かれ、魅了されるのかは、秘教学院の思い出が、現代人の魂の奥底に走馬灯のようにあるからともいえるだろう。 実際、我々はこの地球を、黒魔術という科学技術により、変えてきたといえるだろう。その裏側に、消えていったあのようなファンタジーの世界、隠された(オカルト)の世界があったといえるのである。しかし、ハリポタに関していえば、死の捉え方等が、現代風に曲解され、混乱したものとなっているといわざるをえないので、全てまるっきりフィクションという副題が必要だろう。 ハリポタに関しては、ハリポタの世界が確立したような感がある。 ハリポタの魔術の日本版というか、コメディが、奇術をテーマにした「トリック」だと思われる。ハリポタは全てが、ファンタジーだが、「トリック」の場合は、現代の現実的感覚が少し混じっていて、「ダビンチコード」に近いといえる。少し前に、Xファイルという宇宙人モノが、流行ったが、それを現実感覚に近づけ、コミカルにしたものに思える。 「トリック」の独特さは、いかにも日本的という異質性が滲み出ているところである。大体が、ある異質な村社会を背景にして、奇術を使った新興宗教が巷を賑わせ、主人公の科学者とマジシャンが、夫婦漫才チックに暴いていくという話の流れである。 いかにも日本的というのは、このような村社会が、実際にありそうなところと、自称天才と名乗る、いかにも如何わしい科学者と、マジシャンという全く科学とは接点のない水と油の敵対的存在が、夫婦風漫才を組むような設定にあるといえる。つまり、いかにも、西洋文化と東洋文化と、日本の単一異質文化が、他民族多様の文化と、混沌として、喜劇的に、一緒くたに破天荒に進んでいくスタイルが、日本の特色そのものにあると思わせる。 最近の日本のアニメが、劇画化というか、アニメが現実化したような流行というか、アニメの世界が、そこに止まらずに、現実に押し寄せて侵入してくる雰囲気は、まさに日本の現代を象徴しているといえる。一昔の日本ならば、有り得ない総理大臣や、知事等を生み出している現代日本は、恐らく、従来の日本を、奇術を使いながら、急速に捨てている存在ともいえるのだろう。 この従来の日本の非現実が、現実に押し寄せてくる恐怖心というのは、妖怪の原点であり、伝統的ものである。日本文化のなかの妖怪という存在を考えると、ある程度、明らかになる。 それが、ありそうでなさそうな変な村社会だったり、騙されなさそうで、騙されるような変な新興宗教だったり、喜劇的だか、悲劇的だか変な夫婦漫才だったり、なんだか、曖昧で、呆然として、笑っている間に、失っていく現実の虚無感というか、また戦争映画でもないのに、人がどんどん簡単に死んでいくところも、非常に不思議な世界なのである。 「デスノート」の場合は、このような現実だか非現実だかの曖昧な、ただ知性だけの世界、今風にいうなら、脳のゲーム世界といえるが、「トリック」の場合は、技術という手足のゲーム世界といえるだろう。 現代日本は、いわば、妖怪の世界といえるかもしれない。 さて、最後に、「蝉しぐれ」だが、私は、藤沢周平ファンなので、勿論、原作を読んでいる。藤沢作品の多くは、人生における不条理を描いているのだが、その不条理にいかに勇敢に戦っていくかを主題にしているように思える。 江戸時代の身分制度による、不条理な家督争いに巻き込まれていく主人公の、悲劇を、武士道風な解決に求めているものである。日本の伝統美といえるものだろう。実は、日本の武士道とは、江戸徳川幕府体制期に成立したものであり、戦国期のものではない。これは勝海舟もいっているところである。 戦国時代は、日常が死であり、死を考えるゆとりもなかったようである。勿論、不条理な死は日常に存在していたようだが、報酬褒賞と一体化していたので、割と融通が効き、個人のなかで、創造的にに美へと結びつくゆとりもなかったようだ。 これら3つの作品のなかに浮かび上がる構図がある。その構図とは、人間がとりえる、不条理に対する姿勢というべきもので、不条理は、現実的に捉えるには非常に酷であるので、不条理をいわば妖怪や魔術のように捉え、妖怪を退治する魔術師や、科学者とマジシャンのタッグであったり、藤沢の場合は、武士という、昔の英雄、つまり武士道という一種の虚構に求めているのである。 人間社会に生じてしまった不条理に対して、人間個人がどのような姿勢をとりうるのか、それが問題なのである。シェ-クスピアのハムレット「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ!」である。不条理を前にしたとき、人は、この問いに悩む! それは人類のなかに巣食う恐怖心の顕れなのである。 この解決には、人間はどこまでも誠実に、そして真実にむかって生きる問いが投げかけられる。人間は怠惰なので、不条理を前にして、しばしばたじろいでしまう。 しかし、その問いの解決は全くの有り触れた平凡な答えなのである。ただ、恐怖心が妖怪となって、不条理となって現れるので、たじろいでしまうだけなのである。ハリポタは仲間との友情にそれを求め、「トリック」は、お互いの異質さへの理解に求め、そして、「蝉しぐれ」は、死への恐怖心をなくすための武士道の死への準備の義に求めている。 実は不条理や妖怪は、我々の外に現れた我々の中の分身なのである。
2007年03月12日
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ここで、事の詳細に入っていくが、これはある種の重要性を持っているという。我々が、そのような(月)存在たちと関係を持つとき、意見交換や、あれこれの事柄に関して、彼らと話し合いたい、という自然な感情をもつようになるという。具体的な例を挙げ、これらの(月)存在たちと、筆記に関して、人間が記述した作品に関して語り合うことを想像してみる。 ある人は、自分の名前を単に書き、別の人は自分のサイン或いはイニシャルを書くとする。我々が、これらの筆記の問題に関して、その(月)存在たちと議論するとき、彼らは次のように答えるという。「お前たち人間は全くつまらないことに、言葉の一義的な意味、例えば、「鍛冶屋」とか、「床屋」とかの言葉が、何を意味しているか、というようなことのみに興味を持つが、それらの単語が筆記されるときの書き手の特別な動作、各人がいかに異なる筆き方をするか(速く書くか、骨を折って書くか、巧みに書くか、ぎこちなく書くか、機械的に書くか、芸術的に書くか)を観察する方が、より遥かに興味深い」、と。これらの(月)存在たちは人間が筆記するときの特別な動作のパターンに綿密な注意を払っているという。このことが、彼らの興味を引くものであるという。 月存在たちは、書かれた内容よりも、それが記述されているときの人間の動作に興味を抱くという。 そして、今述べている精神的な世界において、これらの(月)存在たちは、既に地上には住まない実在たち、あるときは人間よりも下位に、あるときは上位に位置づけられるような実在たちを、取り巻きとしてもっているという。彼らは、用語法や命名法に関して、我々を指導することはないが、彼らが地上にいたときから、人類が進化させてきた筆記パターンや形態に関しては、助言を与えているという。今日の意味での筆記は、これらの(月)存在たちが、地上にいたときには存在していなかったという。 彼らは人間との交流の中で、筆記が徐々に進化するのを観察してきたという。彼らは、人間の指の器用な動きに興味を持ち、その器用さが後に羽ペンが加わることによって補完され、更には万年筆によって補完されるのに注目してきたという。彼らは紙に(筆記され)委ねられたものには、ほとんど興味を持たず、筆記に必要な動作に完全に没頭したという。 さて、ある付加的な要素が考慮される必要があり、今でも生き残り存在する地球からの放射が大体見過ごされてきたという。それらの放射が取る多くの形態の中に、まず今述べた人間の動作から発するものあるという。これらの(月)存在たちと語り合うことができるのは、人間から発する動作にあるという。 さしあたり、書くこと(筆記)はあの(月)存在たちの真の領域へと導くようなものではないという。何故なら、彼らが地上に住んでいた時代には、まだ書くこと(筆記)は存在していなかったからだという。現代の人間が自分の動作からの流体放射に関して、限定的な理解力しか持ち合わせていないことに関して、これらの(月)存在たちが発するコメントは相当に皮肉に満ちたものであるという。 現代人には無視されるが、流体放射は、これらの(月)実在たちには非常によく知られたものだという。これらの(月)存在たちが地上にいた時代には、流体の放射、人間の皮膚からの流体放射は決定的に重要なものだったという。人間はその吐息を通して、仲間を認識していたが、このことは、後には知られなくなったという。 これらの(月)存在たちが、特に受け入れる第三のものとは皮膚からの発散、人間から発する空気要素であるという。これら全ての放射は、後で見るように、半精神的な性格をもつ。これらの(月)存在たちが特に敏感なのは人間から発する、これらの放射(筆記における動作の固体要素、皮膚発汗における液体要素、皮膚呼吸における空気要素)であるという。人間はいつでもその皮膚を通して呼吸していることを見出す必要があるという。 第四に、これらの(月)存在たちは熱放射を受け入れているという。放射全ては地上に存在するために、月存在たちに関して特別に重要であるという。人間は、その筆記の動作の構成やその放射の発散における特別な性質によって判断されるという。 次は恒常的に存在する光の放射であるという。誰でも、オーラだけでなく、肉体やエーテル体からも光を放射しているという。通常の状態では、これらの放射は、あまりにも微かなために目には見えないが、モーリッツ・ベネディクトが、特別仕様の部屋を用いて、存在することを示したという。 彼は肉体が場所によって様々に異なる赤や黄色、そして青い光の放射を示す繊細なオーラによって取り巻かれていることを示したという。モーリッツ・ベネディクトは、色彩のついたオーラを示す方法を述べたという。彼は通常の光の条件下では体の左側半分のオーラを、オーラを出現させる条件下では右側の半分のオーラを示したという。全てはいかに適切な実験条件を設定するかにかかっているという。 第六の放射は化学力の放射だが、これは、近年、地上では例外的なケースで、稀にしか見られないという。放射化学力は当然、常に存在しているが、黒魔術が行われるような稀な場合にしか作用しないという。人間が自分たちの化学放射を意識し、探求するのは、地上で黒魔術が行われているときだという。 第七の種類の放射は精神的な生命の直接的な放射、もしくは命の放射であるという。今日、化学放射を用いるならば黒魔術に陥ることは避けられないが、それは嫌悪すべきもので悪徳だという。黒魔術は対処すべき力だが、かといって、その一部の生命放射が重要でないというわけではなく。今述べている月存在たちの場合、絶えず生命放射に依存し、それに働きかけると共に、善のために用いているという。 彼らは黒魔術師ではないという。何故なら、黒魔術師とはある条件下で悪に屈し、「地上で」悪を行う者だからだという。けれども月存在たちが生命放射に依存することができるのは、太陽の反射光の中に生き、その影響の下にある満月のときだけだという。我々人間は精神世界から学ぶものを創造的に用いるように努める必要があるという。 我々の時代の使命は生きた活力あるアイデアを見いだし、生きた概念、知覚、そして感情を発達させることであり、死せる理論を発動することではないという。そして、これらは、ミカエルと呼ぶ存在に結びついた存在たちによって直接インスピレーション(霊感)的に与えられるという。 (ミカエル)以前のガブリエルの時代、人類は物質世界に、より惹きつけられていたという。人々は、ある条件下で、人間に密接に関係する存在たちとの接触を求めようとはしなかったという。それは、これらの(月)存在たちが、その時代には知られていないもので、つまり、人間から出てくる神秘的な放射に関係していたからだという。 既に述べたような方法で、死者と関係を持てる精神的な世界は、誕生から死までの間に住む物理的な世界に隣接しているという。だが、この死者の世界は他に多くの側面を有し、なかには人間の放射のなかの生命力の作用の効果があるという。 ある意味、これは宇宙の中でも究めて危険な領域であり、人間が持つべきなのは、以前からしばしば記述してきたが、これらの月存在たちから進み出てくるあらゆるものを、悪の力ではなく、善の力にするような、魂的、霊的なバランスと抑制力であるという。 実際、現代の全ての力と衝動は、生命放射を地上のものとして考える方向に、急いで向かわせる必要があるという。ところが、致命的に容易なのは、この生命放射と、人間が大喜びで持ちたいような他全ての放射との間に横たわるものが、いわゆる黒魔術の餌食になる、ということだという。 人間がとりわけ好むのは、運動の中で表現されるもの、流体放射や光放射の中に存在するものを可視化する、ということだという。この全てはある程度善の力に関連して、ただ善に向かうことが可能とされるが、それは人々の間で、ミカエルの時代が夜明けを迎えたためだという。この全ての間に横たわっているのが、精神的な探求に向かう正しい方法を追求する際の障壁となる黒魔術であるという。 1.人間から発する運動2.液体要素の皮膚からの発散3.空気要素の皮膚からの発散4.熱放射5.光放射6.化学的な力の放射(黒魔術)7.生命放射
2007年03月12日
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またまた、困ったちゃんのわが国総理、幼稚園児並IQ指数の晋ちゃんである。しばらくあまりの酷さに、政治に無関心だったが、これほどまでに酷くなっているとは、本家本元のクレヨンしんちゃんも、パニック、パニック、みんながお手上げだゾ! 本業本元の政治はまるっきし無能で、人気トリには色々顔出す、お呼びで無いゾの晋ちゃん。一体、何がやりたいんだかねぇ、もう勝手にすればぁ! ついに頼みの北朝鮮や、米国まで、ノーを突きつけられたゾ! どうやら、四六時中人気回復案を考えているみたいだけど、渡る内閣はおバカばかりで、日本はハクション風邪ひき状態続きだゾ! サイテー人気に釣られて、ついには株価も下がって、う~ん、もう限界だゾぉおお! 「オラ、あんなおバカ総理と同じ名前なんて、ケツだけ成人だな、もう」 おバカな総理の会見だけはやめてほしいゾ! オラのケツの方がまだイケイケだゾ! いますぐ、総理を辞めて、クレヨンしんちゃんとダブルしんちゃんで幼稚園総理競演っていうのはどうかな? う~ん、風間くんに怒られそうだけどね。 最後に断っておくけど、クレヨンしんちゃんを人気トリに利用しちゃいや~ん! しかし、安倍総理は、至上サイテーの総理大臣と語り継がれそうだな…。これだけは、真実だな。これ以上、酷いのはいないだろうね。それが日本の唯一の救いだ!! こんな総理大臣でも国がもっているのは、日本国民の優秀さの証なんだろうか?????
2007年03月09日
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秘教的には、知恵の実とは、叡智の天体の月を意味する。両性具有のときの人間の形態は、女性であったという。女性が、神の叡智を感じると、受胎し、子を産むと、脱皮のように、子に乗り移ったという。これは、肉体がまだ、水のような液体状態だったからできたことで、地球が月から分かれ、物体となった肉体に受肉すると、人間は独力で生殖を行うことができずに、叡智を感じる者と、受胎する者と分担するようになり、性差が生まれたという。この秘密には男性と女性の脳の差異や、言葉を発する能力と関係があり、男性の思春期の声変わりは、この生殖の秘密にあるという。 性差の話は聖書にも書かれている。聖書にある、アダムのアバラ骨をとって、エヴァをつくったという話は、真のアダムの存在を理解しないとわからない。エヴァとは、月紀の動物人間を意味し、アダムのアバラ骨とは、神々の叡智を意味するものと思われる。アダムといっても、アダムカドモンと人類の祖のアダムの違いがあり、ここでいうアダムは、秘教において、アダムカドモンのことであると考えられる。 アダムカドモンとは、天の霊的なアダムのことを意味する。それは黄道十二宮のことである。黄道十二宮は、東洋では干支であり、動物で表されている。天空では、動物人間のエヴァは、黄道十二宮のアダムのアバラなのである。そして我々人類は、地上に生まれるときに、前世に応じて、そのカルマを果たすために、天空の配置を選択するという。天空の配置は、7つの惑星と黄道十二宮で表現される。とくに、肉体の器官は、黄道十二宮から構成されるという。獅子座は心臓、蟹座は胸部、双子座は両腕、雄牛座は咽頭部、雄羊座は頭部等であるという。 つまり、地に生まれる人間は、死ぬとそれぞれの肉体をつくる器官の精神的な源は、アダムカドモンに返されるというのである。そして、生まれてくるときに、カルマに応じて、アダムカドモンにより、与えられるのである。月紀の動物人間は、つまりエヴァは、地球紀になって、アダムカドモンにより、カルマを克服するための叡智を与えられ、地に生まれてくるのである。 人間は死ぬと、各肉体の器官の基が、アダムカドモンに返され、その人が堕落した人生を送ると、その人のアダムカドモンは、醜悪な形態をもたらすという。逆に、愛に溢れた人生を送ると、綺麗な人間の形態をもたらすという。つまり、死んだ後に、その人は自分の人生の姿をアダムカドモンという人類の祖(見本)のなかに人間の形態としてみるという。 これが最後の審判の別の意味である。自らのなかの堕天使をどれだけ天使にかえていったかが、裁判の内容である。アダムカドモンから与えられた肉体の器官の基が、再び、アダムカドモンに返されたとき、与えられたものと、返したものとが天空に、両天秤として掲げられ、それが秩序と均衡を保つ十字架となったとき、人間は、自由と愛の神となり地での転生を終えるのである。その人のスターウォーズは平和の基に終焉を迎える。 我々は神々から生まれて、最後の審判を得て、神々に帰っていくのである。 そのとき、人類は、蚕が繭を紡ぐように、自由から愛を紡ぎ出す霊となるという。
2007年03月09日
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秘教によると、かつて、地球の輪廻転生の、いわゆる前世の太陽期と月紀の間に、天上の戦いと呼ばれるスターウォーズ(宇宙戦争)があったという。このとき、宇宙に悪が生まれたという。そして、その戦争の後の、星々の死体が、いまの火星と木星の間にある小惑星群であるという。 この話は、非常にオカルトなので、興味のない人は、読むことをお薦めしません。 秘教のオカルト事項(隠された秘密)によると、天体には、霊的存在が住んでいるという。木星には木星人、火星には火星人が住んでいるという。勿論、人間ではないが、かつては人間の存在で、いまでは、天使の存在だという。だから、いま、人間という存在が住むのは、地球だけであるという。 そして、天体に住む天使たちは、それぞれ、キリスト教の顕教でいう、天使、大天使、権天使、能天使、力天使、主天使、座天使と呼ばれている。これらは、順に、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星と、太古では、天使の名の代わりに天体名で呼んでいたという。太古人にとっては、天体は、生命体であり、いまでいう物的な惑星の感覚をもたなかったのである。 これを基に解釈したのが、プトレマイオスの天動説なのである。だから、地球を中心にして、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星のそれぞれの天使たちが巡ることを、意味していたのである。太古人は、現代人とは異なり、霊的なものが見えたので、むしろ、物質的なものがみえなかったので、つまり、現代人とアベコベだったので、プトレマイオスの天動説を、現代人が、コペルニクスの地動説を、疑いのない真実として、いま信じているように、当時信じていたという。 現代人が浅はかなのは、そのような太古人の知識を、間違った知識として馬鹿にしている点にあるといえる。科学的な知識が万能だと信じている限りは、太古の知識を理解することはないだろう。 太陽系の最外殻の土星(座天使)が、我々の太陽系の始まりだという。では、天王星や海王星や冥王星は、どうなのか?というと、我々の太陽系に加わらなかった、周辺部分が固まったものだという。天王星は、太陽紀に、海王星は、月紀に、そして冥王星は、地球紀に太陽系に加わらなかった部分が星となったらしい。それはその惑星を回る衛星の軌道のなかに、逆向きなのがあるのがその証拠だという。 ともかくも、秘教では、我々の太陽系は、土星紀、つまり座天使からはじまったという、座天使の上にも、智天使、熾天使、更には三位一体の宇宙叡智の存在がいるとされているが、我々の太陽系を直接創造したのは、座天使からであるらしい。 我々の太陽系以前にも、古い太陽系があったという。その古い太陽系で、進化した座天使が、新たに、我々の太陽系の直接の始まりとなったという。 座天使は、上位の智天使、熾天使、三位一体の宇宙叡智の新しい太陽系をつくる構想の意向を受けて、火の素材を自ら提供したという。火とは、今風にいえば、エネルギーのことである。 三位一体の宇宙叡智が、新しい太陽系をつくろうと思い立ち決定を下し、熾天使が構想を練り、智天使が、構想から元型をつくり、そして座天使が実行に移し、土星紀ができたという。 土星紀の地球は、いまの土星の軌道までの大きさをもった、熱からなる天体だったという。いまでいう、さながらビッグバンで、強大なエネルギー体であったという。そのなかで座天使は、火というエネルギーを提供していたが、そこに第2位階の天使たち、つまり、能天使、力天使、主天使が、加わったという。 そして、土星紀に、人間存在だったのが、アシュラと呼ばれる別名人格霊である権天使だったという。権天使は、火の呼吸から、1つの火の集まりを、分散して、複数にしていったという。さながら、伝教大使が説く「一灯照隅、万灯照隅」であろう。1つの火から、万の火に変わる。これが土星紀であったという。 天体にも人間と同じように、昼と夜の活動期があり、これは土星紀の呼吸の呼と吸であり、昼をマンヴァンタラ、夜をプララヤと呼び、土星紀にも、プララヤが訪れ、ほとんど全ての火は、天界に吸収されたが、一部、権天使に残された火があり、座天使がその火を受け取ると、次の太陽紀に、光と煙を生んだという。 再び天体の昼のマンヴァンタラが訪れ、太陽紀になったという。座天使が、土星紀に受け取った火が、次の太陽紀に、光と煙になり、当時の人間存在となった大天使の光と煙の呼吸に受け継がれたという。 その太陽紀の巨大な光と煙の天体は、いまの木星の軌道までの大きさだったという。太陽でそのとき人間存在だった大天使が、光と煙の呼吸を行い活動していたという。その呼吸により、土星紀に火の呼吸からできた複数の卵に、光と煙が生じ、生命が生まれたという。そして、生命体であるエーテル体が大気として生じ、いまの地球人である人類(そのときは人類の萌芽であり、植物人間で、いまの精霊存在)は、火の肉体と、光と煙のエーテル体を手に入れたという。 そして、土星紀と同じように、太陽紀は、星の夜のプララヤに向かい、再び昼のマンヴァンタラになると、今度は月紀を迎えたという。月紀の人間存在は、天使だったという。月紀の巨大な天体である月は、いまの火星の軌道まであったという。 長々と秘教でいわれる地球の前世を書いてきたが、やっと、ある程度、天上の戦いを説明できる準備が整った。 それは、太陽紀から、月紀の間に起こったという。太陽紀のあるとき、力天使(運動霊)に、上位の位階の天使より、ある指令が出されたという。その指令こそが、上位の天使に、反旗を翻せというものであったという。 この上位に反旗を翻せという指令こそ、神々の叡智ならではの深慮があったという。神々は、いままでの善に満足せず、独善になることを避け、より一層、善を謙虚に推し進めるために、あえて、自らを否定する行動を、下に求めたのである。 善は、悪を救い、上回ってこそ、真の善で、悪があるからこそ、真の善が成立するというものだろう。親鸞の悪人正機説というべきものである。悪を救えない善など、何の意味があるのか?ということであろう。 私は、「風を起こしてつむじ風をまきとる。」というキリストも語ったこの言葉の意味が当初理解できなかったのだが、この天上の戦いにおける、神々の深慮を知って、その意味が理解できるようになった。 神々は、自らのなかから、悪という膿を出して、膿と戦い、そして、融合し、新たなる善の再生を行うという意味なのであろう。だから、この世の悪は神々によりつくられたのである。 さて、力天使(運動霊)は、上位の命令に従って、反旗を翻すと、天使のなかから、それに追随するものが現れたという。天使は、2つに分かれたという。この名残りが、人間社会の右翼と左翼になるという。右翼は、保守、つまり、左翼の反旗を翻す行動に対して、出て行って止めることもできるが、あえて挑発に乗らずに、出て行くことを自制して、上位の神々を信じる立場をとることを意味するという。 対して、左翼は、革新で、自分たちが反旗を翻し、古い体制から、新しい善をもたらし、自分たちこそが新しい善をつくりえると信じる立場を意味するという。 この天使たちの天上の戦いは、ミカエルと龍の戦いで神話として伝説化されたという。 この戦いの結果、月期の地球は、2つに分かれたという。その2つが太陽と月であったという。そして、太陽紀と月紀のちょうど中間に起こった戦いの戦場は、いまの火星(月紀)と木星(太陽紀)の間にある小惑星群が天使たちの星のいわば死体として残されたという。 このとき、地球はまだ、月と融合し共にあったという。人類(地球人)は、このとき、月の大気のアストラル体を受け取ったという。人類は両性具有で、大気を漂う動物と人間の中間の動物人間だったという。勿論このとき(月紀)の人間存在は、天使である。だから、真のスターウォーズは、天使たちの戦いなのである。 もし、地球が、次の転生の木星紀になると、我々人類の地球での戦いが、次の木星人にとっては、スターウォーズとして記憶されるのである。つまり、我々人類は、この天使たちの戦いを基本として、いま戦っているといえる。それは政治体制が左と右に分かれるように、二大政党の理念はここから発しているともいえるが、我々人類の戦いは、天使たちのこの戦いに起因することが、このような神話から明らかになるだろう。 さて、このような戦いの恩恵とは、何かというと、自由なのである。神々に反旗を翻ることで、運動霊である力天使の自由の運動、つまり自由の力が生まれたのである。それを体現したのが、4大元素の水である。 水は、座天使が、火を智天使に捧げたが、智天使の一部のなかに、火を拒むものがいて、勿論、智天使の火を拒む命令は、上位の熾天使からの命令であり、その火が光と煙にならずに、下降し、力天使に受け取られ、水となったというのである。 月の回りの大気に水が生まれたという。当時の月は、いまの火星の軌道にいて、その月(火星)は、まるで水の惑星だったという。水の中で生きる当時の人間の天使たちは、2つに分かれ、あくまで上位を信じ従おうとする、清められた白い水と、反旗を翻し、そこに利己心が目覚め、滞留し淀んだ黒い水に分かれたわけである。恐らく、天に昇る白い龍がミカエル、地に下り淀んだ黒い龍が、堕天使ルシフェルと語られるのは、ここからきているのだろう。 月において、天である太陽に従おうとした天使たちの長が、ミカエルで、ミカエルの背後には上位の能天使のヤハウエの存在がいて、指揮していたという。ヤハウエは、よく神話に出てくるエア神のことだと思われる。 やがて天使の天上の戦いは、ミカエルの勝利に終わり、伝説では、龍は退治され、宇宙の星々となったという。ヤハウエに従ったミカエルたちは、天使の位階に進化し、堕天使ルシフェルは、地に残された。人類(地球人)にとって重要なのは、このとき、新たに、月と地球が分離されたことだという。秘教によると、堕天使たちの影響に染まり、人類(地球人)の進化が、阻まれるので、ヤハウエが、月を、地球から分離したのだという。 このことが、聖書にある、ヘビにそそのかされ、知恵の実を食べたアダムを、天国から追放した原罪の真実であるという。ヤハウエに従う天使は、太陽光により明るく光り輝くことができるが、堕天使たちは、太陽光を避け、輝くことはできない。堕天使たちは、秩序と均衡の平和をもたらす太陽光とは異なる、欲望とエゴからなる快楽の異様な光といえるだろう。 やがて、月紀も、プララヤの夜になったという。人類は、月紀において、大気のアストラル体を手に入れたと書いたが、このアストラル体には、太陽光の基に輝く天使のものと異様な欲望の基に輝く堕天使のものが含まれているのである。 そして、我々のマンヴァンタラの地球紀となったという。転生においては、最初期に、前世の繰り返しが行われるという。秘教によると人間も、睡眠中、前世を何代にも遡って振り返っているという。地球紀に、土星紀、太陽紀、月紀の繰り返しが行われた後、固体つまり鉱物の基になる4大元素の土が生まれたという。地球紀において、はじめて固体、つまり物質が誕生したという。 そして、人類が、固体からなる肉体のなかに受肉し、自我を手に入れ、人間存在に達したという。また、地球が月から分離したときに、両性具有だった人類は、性差をもったという。これもまた、聖書に記述された原罪の、エヴァがはじめヘビにそそのかされ、知恵の実を食べ、その次にアダムが食べたとある意味であろう。
2007年03月09日
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他方、我々の(ミカエルの)時代の特徴的な性格を知覚するためには、もっと成熟し、20歳から40代であった頃、より正確には21歳から42歳までの間に、自らの内部に形成的に働いていた力を振り返ることが可能な年代になっていなければならないという。従って、ミカエルの時代に先立つ時代(ガブリエルの時代)においては、世界の宇宙的な方向性に関して決定的な役割を果たしていたのは非常に若い子供たちだったという。ガブリエルの時代の力は既に幼年期に働く衝動の中に投影されていたという。我々の(ミカエルの)時代において、太陽の力からの衝動を受け取るように運命づけられているのは30代や40代の人たちだという。つまり、全世界の宇宙的な指導において決定的に重要な役割を担っているのは成人たちであるという。 これらの事実は、これまで述べてきた直接的で精神的な知覚(心眼)から得られる実際的な成果であるという。それらは空疎な理論ではなく、実践的な知覚による果実であるという。ですから、現在のミカエルの時代に先立つガブリエルの時代を理解するには、その時代の肉体を脱いだ魂に個人的に出会う必要は特になかったという。これらの魂に向き合うときには、幼年期のインスピレーション(霊感)的な知覚をもつ必要があるために、大人の前に立つ子供のように感じられたという。 それに先立つ時代、ベルナルドゥス・シルヴェストリス、アラヌス・アブ・インスリス、フィオーレのヨアキム、ハンビルのヨハネやブルネット・ラティーニの時代を探求するのは全く別(1190-850年 ラファエルの時代)だという。この時代は、歯の生え替わりから思春期までの時代に人間の内で働いている力を遡及的に振り返るときに獲得される力によって支配されていたという。これは水星の力だという。 人間がこの人生期を出発点として精神(秘教)的な知覚に対応する器官を発達させるとき、何か非常に意義深いものを経験するという。歯の生え替わりから思春期までの時期において、人間は何でも知りたがる子供だが、この人生期に属する器官をもって知覚するとき、人間は再び子供の熱情を経験するという。この時代に属する人々に個人的に会いたいと望むのは、このためだという。そして、彼は秘儀参入から生まれた認識をもって、実際にそうするという。彼は、丁度10歳か12歳の子供が目上の人、彼の教師や先生に出会うようなやり方で、ブルネット・ラティーニのような人物に向き合いたいと思うという。 秘儀参入する真の認識を、自分のものとするとき、人間は現象世界の事柄に無関心ではないという。彼は大人であると同時に知識を渇望する子供であるという。彼はブルネット・ラティーニと対等の立場で向き合うが、彼から学びたいという強烈な欲求をもって、そうするという。 15世紀から11世紀にまで遡る時代の秘儀に参入する認識は、この関係から来る特別な色合いを帯びているという。それは地球と人類に対する主要な衝動が、水星から与えられた時代であることからくるという。 水星を中心にあらゆるものが回っていた存在、その時代において特別な重要性をもつ存在はラファエルという太古の名前で知られていたという。ラファエルはルネッサンスに先立つ時代、ダンテやジョットーの時代における水星だったという。そのとき、人間は正に歴史上ほとんど知られていない人たち、その名前が記録されなかった人たちと個人的に知り合いたいと感じるという。 精神科学の教えに精通するとき、その時代は、我々のなかに奇妙な反応を引き起こすという。当初、ブルネット・ラティーニやアラヌス・アブ・インスリスのような人物に関する教科書がほとんど何も語らないことに当惑し、もっと歴史的な事実が与えられないものかと思うが、我々側の(精神的な感覚の)地平が広がるに従って、通常の歴史が沈黙することに感謝し、ありがたく思うようになるという。何故なら、外的な歴史資料は単に断片的なものだからだという。 もし、将来、我々の時代を認識するに際し、歴史上の副次的な枝葉末節に関する新聞記事が、唯一の、我々の時代に対する有効な証明だと考えられるならば、そのことが子孫の目にどのように映るかを考えてみれば、我々が、これらの人物に関して、百科事典の中に見られる限られた情報によって邪魔されないことに、ただ感謝することができるだけだと気がつくだろう。 この関連で、ラファエルの時代において自然認識に携わっていた人物たちと関係を持つことはとりわけ重要なことだという。より深い自然認識、医学のより深い理解は、この時代の精神的な夜明け(9世紀から15世紀)の中から超感覚的な知覚の前に現れ出ると共に、現在流行している物質概念や人間の全宇宙に対する関係についての考え方を教示してくれる多くの人物たちを通して伝えられるという。 超感覚的な視覚をもって、この時代を覗き見るとき、その名が後世に伝えられて来なかった多くの無名の人物たちに出会うが、これらの人物たちは現実に存在していたという。これら多くの人物たちが、眼前に現れるとき、そこに立っているのは「大パラケルスス」であるが、その名前は記録には残っていない、他方、後の時代、ガブリエルの時代には「小パラケルスス」が生きていたが、彼は大パラケルススの自然の叡智を、もはやその純粋かつ崇高な精神の形態においてではなく、思い出として有していた、という。 後のガブリエルの時代には「小ヤーコブ・ベーメ」が眼前に現れるという。そして、そのときも、この人物は様々の伝統的な教えから学び取った崇高な真実、彼のインスピレーション(霊感)に刺激を与えた崇高な真実を告げた、と言うが、本当に「小ヤーコブ・ベーメ」を理解するのは、後世には知られていない、その名前もアラヌス・アブ・インスリスやブルネット・ラティーニと同様、たまにしか触れられることのない「大ヤーコブ・ベーメ」が眼前に現れるときだけだという。 ルネッサンスに先立つ時代は(そして、その時代の終わりには、ダンテやブルネット・ラティーニのような有名な人物やシャルトルの学院が孤立した明かりのように聳え立つ一方で、その中心には、スコトゥス・エリウゲナが標石のように現れるという)、何か力強い精神的な刺激を包含しているという。中世についての外的な歴史は闇に包まれているが、この闇は今述べた時代を照らし出すことができる力強い人物たちの存在を隠しているという。 9世紀から15世紀までのラファエルの時代に入っていくとき、ダンテやジョットー、そして後世にその名が知られていない人物たち、或いはまた、別の人物たちが大きく浮かび上がってくるという。彼らは身近な人間としての印象を与えるという。肉体の中に一度も受肉したことのないラファエル自身は、もっと背景(バックボーン)に退いているという。永遠に精神世界に居住するその他の精神的な存在たちは、この時代にはそれほどはっきりとは規定されていないという。大きく浮かび上がってくるのは人間、特に(この世に誕生したことのある)死者たちであるという。 続くガブリエルの時代は、ゲーテ、スペンサー、バイロン卿、あるいはボルテールのような人物たちでさえ精神的な世界の中では影のような存在、という印象を与えるという。他方、精神的な知覚を通して、人間というよりも超人のような印象を残す素晴らしく壮大な存在を意識するようになるという。 彼らは今日も存在しているという。そして、地球が、誕生から死までの住居であるように、月の領域が彼らの永遠の住居であるという。これらの印象的な存在たちが注意を引く一方、人間の魂はもっと背景へと退いているという。今日、人間が地球に結びついているように、これらの存在たちはかつて地球に結びついていた、ということが分かるという。 人間は物理的な体の中に生きているが、これらの月存在たちは、地球上では、精妙でエーテル的な体の中に生きていたという。そして、太古の時代には地上にあって人間と交流し、人間の精神的な教師であった存在たちは、今でも、人間と共にある、という。彼らは、彼らの地上での使命が成就したとき、月の領域へと退き、今日ではもはや地球には関係していないという。 シュタイナーの著書「神秘学」を読むと、月はかつて地球と結びついていたが、後に分離したとある。これらの存在たちは月の分離に際して、月に同伴し、その後、月の領域の住人となったという。なので、死後間もない死者たちとの連絡を可能にする認識段階の世界の中でも、彼らは以前の通常の(覚醒)意識に関する認識をまだ保持しているので、地球の人間がその世界に入ると、周囲の人たちはかつて地上において肉体を持った人間だった、ということを今日の通常の覚醒意識によって認めるという。 つまり、我々人間が、この異なる意識に参入するとき、丁度、人間が地球に属しているように月の領域に属する精神的な存在たちと共にある、ということに益々気づくようになるという。彼らは普遍的に存在し、人間の行為に関心を寄せているが、それは今日の人間がもつ関心のような物理的な観点からではないという。 かつて人類の偉大な教師であった存在たち、すなわち、もはや地球の住人ではなく、いわば月領域の住人である存在たちの中には、圧倒的な壮大さと最高度に発達した精神性を有し、内的、精神的な荘厳さに満ちた存在が見出されるという。宇宙の神秘に関する非常に多くの事柄を彼らから学ぶことができるという。彼らの知識は通常の(覚醒)意識が到達することが可能な知識を遥かに凌駕しているという。 けれども、彼らはこの(霊的な)知識を抽象的な思考によって表現することができないという。彼らの傍に近づくと、歌が押し寄せてくるのに出会うが、彼らはあらゆるものを詩や芸術的なイメージを通して表現するという。彼らは、独自のやり方で、ホメロスや古代インドの叙事詩では知られていなかった崇高な調和をもって、接近する人間(秘儀参入者)を喜ばせ、魅了するが、彼らが眼前に魔法のように出現させるもの全ての中には深い叡智が横たわっているという。 とはいえ、彼らの中にはそれほど完全でないものたちもいるという。丁度、地上に愉快な連中や不愉快な連中がいるように、これらの異なる存在たちの間にも、仲間たちほどの荘厳さや完全さを達成できなかった者たちを見出すことができるという。それにも関らず、彼らは生徒や弟子として地球領域を離れ、月領域に生きながら、そこで働き続けたために、ある程度の完成段階に到達しているという。卑近な表現だが、彼らとつき合うとき、彼らが地上の出来事に燃えるような関心を寄せているのが直ぐに分かるが、それは全く異なる種類の関心であるという。 これらの(月)存在は好意的ではなく、どちらかというと招かれざる連中だと想像してはならないという。彼らは、仲間と比べれば不完全であるとはいえ、現代人が通常の意識をもって到達することができるレベルを遥かに超えた明晰さ、賢さ、洞察力をもっているという。彼らはいつでもその仲間と同じ習慣を共有しているが、今日の通常の人間とは異なる習慣や傾向をもっているという。
2007年03月08日
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前回は、人間がいかに様々の人生の期間を、駆使して経験を積み、それらの期間から精神的な視界をもって振り返るかを見てきた。人間は、このようにして、意識を星の世界との十分な霊的交渉に向けて一歩一歩上昇させるインスピレーション(霊感)を達成するという。勿論、この世界は、純粋に霊的な存在たちと、真実の純粋な霊的な表現、顕現として理解される必要があるという。 精神世界への扉を開き、その世界の探求に取りかかるときには、必要な意識状態と必要な魂の条件を発達させるために骨の折れる努力が必要とされるという。通常の(覚醒)意識を用いて、精神的な洞察を達成できるという幻想を抱くべきではないという。 この点を示すために、幾つかの特別な例が役立つという。精神的な探求において、間違いの源泉となる可能性があるものを示す前に、次のような前置きをする。 精神世界への扉の鍵を開け、いわば精神世界との対話を持つための知覚を可能にする精神的な訓練に、真剣に取りかかる人は、人生のなかに、精神的成長によるその相違を見出すように、人類の歴史的な進化が、広範な特殊性、いわゆる精神的なバックボーンに関しての特筆すべき差違を示していることに気がつくという。 後で示す理由によって、ミカエルの時代と呼ぶ現代は19世紀の終わりから三分の一、凡そ、1870年代に始まったという。この時代に先立つ時代は3、4世紀間(1879-1510年;ガブリエル、月の時代)続いたという。精神(秘教)的な認識をもつ人たちにとって、この時代の性格は完全に別種のものだったという。更に、その時代に先立ち、やはり全く異なる性質の別の時代(1510-1190年;サマエル、火星の時代)があったという。 従って、秘儀に参入する認識をもって過去を振り返るとき、個々の時代が全く異なる印象を呼び起こす、ということが分かるという。これらの印象を抽象的な記述ではなく、具体的な例によって示すことにする。 この要約の中で、人類の進化に関して様々の役割を演じてきた人々について記述してきた。例えば、有名なダンテの師ブルネット・ラティーニ、シャルトルの学院における教師たち、ベルナルドゥス・シルヴェストリス、アラヌス・アブ・インスリス、フィオーレのヨアキムについて触れたが、更に、9世紀から12世紀、或いは13世紀にかけても、何百人の人々について語ることができるという。これらの人々それぞれが、その時代を特徴づける人たちだったという。 人智学の立場から、人類の歴史を、例えば、ダンテやジョットーの時代、すなわちルネッサンスの時代を探求する人は、精神世界にいる人間、肉体を脱いだ人間たちと交わることが絶対に必要だと感じるという。つまり、隠喩(秘教)的に言うと、死と再生の間にある人間たちと面と向かって出会わなければならない、と感じるという。 秘儀参入の認識の中で、ブルネット・ラティーニのような人物に対する精神的な関係は、物理的世界における仲間との関係のように、個人的なものでなければならない、という明確な感情を持つという。このことについて、以前に記述したことから示唆しようといままで試みてきた。 つまり、フィオーレのヨアキムやブルネット・ラティーニについて語ったとき、この時代を、できるだけ個人的な雰囲気を与えるように、あからさまなやり方で記述したという。19世紀の三分の二迄に至る、続くそれ以前の時代(1879-1510年;ガブリエル、月の時代)では、状況は全く異なり、この時代には、我々が接触しようとする(肉体を脱いだ)魂と、個人的、或いは個別的な関係を持つ必要はずっと少なくなるという。むしろ、彼らを、全体的な環境の中で見たいと思うという。つまり、彼らと直接的に接触するのではなく、何か地上的な認識、通常の(覚醒)意識を通して、彼らと接触する必要性を感じるという。 ここで、シュタイナー個人の経験の中から、ある事柄を紹介する。この場合についていえば、個人的な経験は、完全に客観的なものになるという。我々の(ミカエルの)時代に先立つ時代とはゲーテの時代だったが、シュタイナーは数十年にわたって、ゲーテの作品研究に携わってきたという。当時の数年間は、精神的な存在として精神世界にいる彼と直接個人的に接触する必要が生じたが、当初は、個人としてのゲーテではなく、いわば星の世界における存在としての、彼の宇宙に対する全体的な関係の中で、死後の彼を経験する必要があったという(ゲーテは、ガブリエルの時代の人だから)。他方、ブルネット・ラティーニや彼の時代の本質に関係する人々と、精神的に接触したいときには、彼らと個人的、かつ密接な精神的かかわりの中で、考えや意見を交換する直接的な必要性が感じられるという。 これは非常に重要な相違で、それは、これら2つの時代の内的、精神的な特徴が全く異なっているという事実に結びついているという。今日、人間、或いは全人類が精神的な真実を、直接理解するという珍しい機会を有する時代、つまり、秘儀参入が、普遍的な財産になるという時代に生きているという。このミカエルの時代、ヒエラルキー(霊界)側が文化的に開化した優位な事実に、世俗的、物理感覚的な事実ではなく、精神的な事実に、心から気づくことなしに、やり過ごすべきではないという。これからの我々の時代は、精神世界に直接関連する秘教学を精力的に追求していく時代といえるという。そうでなければ、人類は定められた使命を果たすことができないという。我々は益々精神的な時代へと入っていかなければならないという。 これ以前の時代には、別の力が人類の進化に主要な影響を及ぼしていたという。そして、真正なる星の認識の立場から語るときには、次のように言うことができるという。1970年代に始まった時代では、魂(精神)的な生活や物理的な生活、科学、宗教、芸術における、あらゆるものの中で、とりわけ太陽から輝き出る精神的な力が主要な影響力を及ぼさなければならない、と。我々の(ミカエルの)時代においては、太陽の力の影響と活動がますます広範に行き渡るようにならなければならないという。 真の認識をもつ人々にとって、太陽は現代物理学が記述するようなガス球ではなく、精神的な存在たちの集合体であるという。そして、太陽の光が、物理的、エーテル的に輝くように、精神的なものを放射する最も重要な精神存在たちはキリスト教的-異教的、或いはキリスト教的-ユダヤ教的な用語法に従って、ミカエルと呼ばれる存在のまわりに集まっているという。ミカエルは太陽から働きかけるという。太陽からの精神的な影響は、ミカエルとその仲間たちの影響と呼ぶこともできるという。 我々の時代に先立つ時代(ガブリエル)においては、人間の生活や活動、そして認識を求める探求の背後にある原動力は太陽の力ではなく月の力だったという。3、400年にわたって続き、1870年代に終わりを告げた時代の背後にあった原動力は月の力だったという。 この時代、地球進化に影響を及ぼしていた指導的な存在たちは、古代の用語法にしたがってガブリエルと呼ばれる存在のまわりに集まっていたという。別の名を(用語はさほど重要ではないという)選ぶこともできるが、キリスト教的-ユダヤ教的な伝統に従ってガブリエルという名前を使うのが最もよいという。 このようにして、星の世界から導かれる人間の精神的な活動を、ここに示した方法で気づくだろう。秘儀参入の認識を通して、誕生から歯が生え替わるまでの時期に人間の中で働いているものを確認するとき、宇宙に存在する月の活動に対する洞察力を獲得するという。言い換えれば、子供時代の最初の年月をインスピレーション(霊感)的、遡及的に辿ることを通して、月の影響が特に活発に働いていたガブリエルの時代についての認識を得るという。
2007年03月07日
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最初の人生期である誕生から7才までの期間から導かれる力を、精神的な視覚(心眼)に用いるとき、通常の覚醒意識による知覚領域とは、極端に異なる月の領域に入っていくことができるという。このことは1つの類推が論点を説明するのに役立つという。 今日の胎児学において、生物学者たちは胎児の発達を、最初期の段階から研究している。胎児の発達のある段階で、外縁部のある一点において、細胞膜の厚みが増す、ということが起こるという。次に包接が起こって一種の核が形成されるという。ところが、このことは顕微鏡ではっきりと見ることができる一方、これは胚珠であり、胎児ではない、と言うことはできないという。何故なら、他の部分もまた枢要な部分だからであるという。 同じことが月やその他の星にも当てはまるという。我々が月として見ているものは単なる一種の核であり、その全領域が月に属しているという。地球は月の領域の中にあるという。もし、胚珠が回転すれば、この核もまた回転するという。月の軌道は月領域の境界線を辿っているという。 なので、これらの事柄に関して、まだなんらかの知識をもっていた古代人たちは、月のみに関してではなく、月領域に関して語ったという。今日見るような月は、古代人にとっては、最も遠い境界にある単なる一地点に過ぎなかったという。この点は毎日その位置を変え、28日間かけて、人間のために月領域の境界線を辿るという。誕生から7歳までの内的な経験がインスピレーション(霊感)的な視覚になるとき、地球に関しての知覚を徐々に失うと共に、月領域に入っていくための力を獲得するという。 人生の第二期、歯牙交代期から思春期までの経験がインスピレーション(霊感)的な視覚に変化させられるとき、第二の領域である水星(訳注:金星のこと)領域を経験するという。このとき、地球と共に水星領域に生きるという。水星領域での経験を見ることができるのは、7歳から14歳までの地上における人生の経験を意識的で明確な知覚力をもって振り返るとき、想像する視覚器官(心眼)によってのみ可能であるという。 思春期から21歳までの期間から導かれるインスピレーション(霊感)的な視覚力をもって、金星(訳注:水星のこと)領域を経験するという。古代人たちは、現代人が想像するほど無知ではなかったという。古代人は、いわば夢のような認識力によって、これらの事柄に関して、多くのことを知っていたという。そして、彼らは、人間が思春期の後に経験するこの惑星システムに、この時代の、性的な目覚めを意味した名前を付与したという(金星;秘教では水星=ヴィーナス)。 そして、21歳から42歳までの年齢期における、人間の経験を意識的に振り返るとき、太陽領域にいることを知るという。 それぞれの人生期が、内的(精神的)な生活のための器官に変化させられるとき、それらは宇宙的な意識を一歩一歩拡大させる力を付与するという。 42歳になるまでは太陽領域に関して何一つ知ることができない、というのは真実ではないという。水星存在たちから、太陽領域に関して学ぶことができるからだという。何故なら、彼らは、それについて十分に知っているからだという。しかし、その場合、その経験は、超感覚的な教えを通して、間接的にやって来るという。 自分自身の意識で太陽領域を直接経験するためには、つまり、その中に入っていくことができるためには、21歳から42歳までの期間を生きただけではなく、42歳を超えていく必要があるという。なぜなら、過去を振り返ることが、できなければならないからだという。というのも、秘儀が開示されるのは回顧的な探求の中だけだからだという。 そして更に、49歳までの人生を回顧できるとき、火星の秘儀が開示されるという。もし、56歳までの人生を回顧できるならば、木星の秘儀が明かされるという。そして、深いベールに包まれているとはいえ、驚くべき輝きを発する土星の秘儀(この秘儀には、宇宙の深い秘密が隠されているという)が開示されるのは、56歳から63歳までに起こった出来事を振り返るときだという。 なので、人間とは実際、小宇宙であるという。人間は、通常の(覚醒)意識では決して知覚されない、これらの事柄に関連しているという。もし、月の力が誕生から7才までの間、人間の中で活動しないとすれば、人間は人生を形づくったり、秩序づけたりすることができないという。人間は、後になってその影響を知覚するという。 もし、水星の秘儀が人間の中で活動しなかったとすれば、彼の7歳から14歳までの経験を再創造することはできないという。同様に、もし、人間が金星領域に内的に関連づけられていなかったとすれば、14歳から21歳までの期間(もし、人間がカルマによって、その力を受け取るように予め決定されていたとすれば、強力な創造力が彼に注ぎ込まれる期間であるという)に、彼の経験を再創造することもできないという。 そして、もし、人間が太陽領域に統合されていなかったとすれば、彼は21歳から42歳までの時代、つまり、若年から熟年へと通過していく年齢期に関しての成熟した理解や経験を発達させることができないという。 古代のシステムは現代とは非常に異なっていたという。職人は21歳になるまで徒弟として働き、次に「旅する男」になり、最終的に「親方」になったという。こうして、21歳から42歳までの年齢期の内的な発達は全て太陽領域に関係づけられていたという。そして、56歳から63歳までの衰退期における経験の全ては土星領域の影響に帰属させることができるという。 人間は、地球とともに7つの天体の互いに貫き合う領域の中に存在しており、人生の経過に従って、天体領域で成長するとともに、天体に関連づけられているという。誕生から死までの人生は、人間を形づくる星の領域からの影響によって、当初誕生前のパターン(プラン)からの変化を被るという。人間が年老いて、土星の領域に達するとき、その惑星領域の存在たちが、慈悲をもって、人間のために成し遂げた全ての恩恵を通過したことになるという。 そのとき、人間は、秘教的な意味において、秘儀に参入した立場から惑星生活を回顧する自由で独立した宇宙存在、つまり、ある意味で、もはや以前の人生期からの強制に左右されない存在として船出するという。これらの事柄に関しては、次回で更に記述する。
2007年03月06日
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先日、TVで、音響と右脳、左脳との関係をやっていた。一般的に、左脳に、言語を認識しているときに反応がある言語領域があるといわれ、左脳を言語音、右脳を非言語音で、聞いていると現代脳科学では説いているという。 ところが、虫語を理解できないので、非言語音と考えられる虫の声を、日本人は、言語音である左脳で聞いているというのである。ムツゴロウさんならまだしもである。これに対し、西欧人は、虫の声を、非言語音の右脳で聞いているので、日本人独特のものであるという。 一見すると、日本人はもしやすると、ムツゴロウさんのように、虫語を理解しているのではないかと勘違いしそうである。そのTV番組では、虫の音に1/fのゆらぎがあり、この1/fのゆらぎは、人間を癒す音響効果があり、日本語には、母音が多く発音され、この1/fが多いせいだとしていたが、では、西欧人は、日本人に比べて、このような1/fのゆらぎを感じないのか?という疑問が生まれてしまう。 実際、西欧人には、コオロギのような虫の声は、騒々しい雑音にしか聞こえないという。 これには、論理では解決できない精神性の重要な事項が欠落している。恐らく、日本人が、虫の声を聞くとき、ある情景を思い浮かべているはずである。これは西欧人でも、パブロフの犬のように、虫の声と同時に、癒しの場面を思い浮かべるような情景イメージトレーニングを、自主的に行わせれば、恐らく、左脳で虫の声を聞くようになるだろう。 つまり、1/fのゆらぎは、結果論にすぎない。恐らく1/fのゆらぎは、精神的なイメージ形成に伴って発生するのだろう。これは、熱統計力学の記述式において、温度を1/T(時間)に換算して計算するのに類似している。恐らく、1/f(振動数)は、精神内の癒しを生じる熱の為に使われ、その外への雑音として発生しているものと思われる。ここらへんは、秘教を学ばないとわからないところだが、簡略化して、イメージ的には、ある波動とある波動が共鳴したときに、共鳴した部分を1/fのゆらぎとして発生させるものだと考えられる。 次のような面白い実験がある。 「日本語を母国語とする人に限られる反応だが、例えば左脳を暖めると、非言語音を聞く領域が右から左へ移る。タバコを喫っても、同様で、要するに、何らかの刺激で、その変化が起こる。ところが、そのような刺激を一切断って実験しても、規則的に同じ変化の起こる時期が見つかり。それがなんと、満月、新月、上弦、下弦の月の時だったという。この現象は、日本語を母国語としない人でも同じで、こうして、月の満ち欠けが、脳に何らかの刺激を与えていることが分かった。」これから、まとめると 1.日本人では左脳を暖めたり、タバコを吸って、刺激を与えると、非言語音を聞く領域が右脳から、左脳へ移る。 2.日本人でなくとも、いかなる刺激を遮断しても、満月、新月、上弦、下弦の月の時は、非言語音を聞く領域が右脳から左脳へ移る。 となる。 1から、考察すると、コオロギのような虫の音は、日本人の場合、左脳を暖めたり、タバコによる刺激と同等であることになる。科学的にいえば、脳の刺激に関して、1/fのゆらぎとの何らかの因果関係や相関関係を調べることが重要になるだろう。つまり、タバコ等による刺激=コオロギのような虫の音(1/fのゆらぎ)である。 2から、日本人には、パブロフの犬のように、コオロギのような虫の音を聞くと、月の状態に相当する記憶のスイッチが入るのではないか? 対して、日本人以外には、このような記憶形成がないものと考えられる。つまり、日本人においては、コオロギのような虫の音(1/fのゆらぎ)=満月、新月、上弦、下弦の月の状態 これら2つの条件をまとめると、日本人では、なんらかの脳への刺激が、4つの月の状態に相当する条件を生み出していることになる。そして、日本人では、4つの月の状態が、通常の左脳が言語音、右脳が非言語音を扱う定義に反する条件となる。 ここでいう日本人とは、その後の調査により厳密にいえば、6才頃から8才代の間に、日本語の環境にあった場合で、これは秘教でいう幼少の7歳~14歳の時期のエーテル体形成期に相当し、エーテル体が記憶の形成を担うことからも、容易に理解される。 ちなみに、秘教では7歳までは肉体形成期とされ、記憶を課する教育は、未成熟なエーテル体には毒となり、肉体形成を阻害するので、秘教教育では、7歳を過ぎるまで、記憶教育は慎むべきものとされる。でないと、将来、42歳から49歳の肉体解放期に、幼少期(7歳まで)の押し付けられた記憶形成が再起して、何らかの偏った肉体組成を生じ、硬化症、とくに関節炎になりやすくなるという。未成熟なエーテル体、とくに女性は、肉体よりもエーテル体に過多なので、7歳までの記憶過多教育は、42歳から49歳時に硬化症、関節炎を発症しやすくさせるという。 秘教から考えると、日本人が、非言語音を、通常言語を扱う左脳で聞くのは、このエーテル体形成期の記憶によるものと考えると、7歳~14歳の間の生活環境、とくに4つの月の状態との関係を仲介する音表現を探索すると面白いだろう。 さて問題は、4つの月の状態と言語領域を司る左脳の関係である。これは、科学からは解明が困難なものだろうが、秘教からは、推測できることがある。といっても、かなり秘密の部類に属するもので、オカルトが嫌いな人は、ここまでにして、以下のことには立ち入らないことをお薦めする。 秘教では、人間の身体の右半分が主にエーテル的で、左半分が物質的といわれる。これを、脳において、現代脳科学では、一般的に右脳はイメージ思考、左脳は論理思考を司るとしているが、秘教によれば、エーテル体が、右から左へと、記憶形成からなる設計図のような非物質のものを、言語化し、物質化していると考えれば、イメージから論理の手続きとして、左脳が、自ずと言語系を司っていることは自然とわかるだろう。言語形成とは、物質世界のカタログ化、一種の意味づけと考えられ、つまり、一種の非物質の物質(受肉)化と捉えればよいだろう。 秘教では、人間の思考、感情、意志の担い手を、自我とアストラル体においている。人間がなんらかの思いを抱くと、それは自我とアストラル体に担われ、エーテル体を通じて、肉体、つまりその一部の脳へと伝達される。なので、脳は、自我とアストラル体に反応しているだけで、脳自体が思考しているのではないとしている。 これは痴呆症に関しても同じで、脳の損傷や障害のせいで、その反応が鈍くなっていると考えられる。で、本題の言語における右脳と左脳の関係だが、4つの月の状態は、秘教のとくに秘すべき事項、つまりオカルトでは、月には目にみえない人たちが住むといわれている。さながら、月人とでも言うべき存在なのである。 さて、月に関して非常に面白いオカルト現象がいわれている。それは満月、新月のときには、死亡事故や殺人事件が多発し、上弦、下弦の月のときには、人身事故が多発するというものである。 これは、上述の非言語の右脳と言語の左脳の役割変化により、ある程度科学的に説明がつくことが予想される。4つの月の状態時には、非言語音を通常の右脳ではなく、左脳で聞いてしまうので、騒音を騒音として処理せずに、なんらかの意味をもった言語として捉えてしまうような、いわゆる、四方八方から話しかけられている状態だと解釈でき、脳の処理が通常とは異なり、物事に集中できない可能性を挙げることができるからである。これは、例えば、話しながら、ドライブすることに相当するだろう。 科学的にはこのように説明がつくが、だからといって、それほど事故率が上昇し、ましてや死亡率や殺人事件が上昇するだろうか? 上述の仮説が正しいならば、日本人の場合、更に深刻で、虫の音やタバコや熱等の何らかの刺激で、事故が増えてしまいかねないのである。 さて、ここにオカルトの説明が加わると、より深刻だが、ある程度はっきりとする。4つの月の状態とは、月に住む人、いわゆる月人の地球(我々人類)に干渉する作用が極端になった時期を表していると考えるのである。 オカルトでは、月人は、人間の書く言葉の内容よりも、書く動作や、手法に関心を寄せているというのである。例えば、「月」と人間が話したり、書いたりするとき、「月」という言葉よりも、話す仕草や話したときの口から出される音の振動や、そのときの空気や発汗等、或いは、書いたりする手法、ペンを使うのか、昨今ではパソコンからキー入力するのか等の、人間が発する動作全てに関心を寄せるというのである。 月に住む存在は、人類の地球から放出する力の流れ全てに関心を寄せているというのである。 さて、ここからがオカルトの真骨頂なのだが、そのような月人とは、実は、天使のことで、人間のなかでも、死んで死者となった者は、この月人(天使)たちと共に、自分が地球で生きた人生を振り返るというのである。天使のなかにも、人間のように善いものも悪いものもいるが、少なくとも、人類よりは賢いというのである。その知性は、人類を遥かに上回るという。 つまり、このような月に住む人たちの影響を、4つの月の状態のときに、人類は受けやすいことが考えられるのである。このような自分ではない他者に、自らの身体を操られることを、秘教では霊媒という。だから、4つの月の状態時には、人類は霊媒に、とくに無意識に陥りやすくなることが考えられるのである。 その霊媒状態を、いつもとは異なる左脳の非言語処理が示しているのではないかと考えられるのである。月から、人間の左脳をコントロールしようという誘惑が生じているのではないかと思われる。このような月からの干渉の多くは、悪しき月人の仕業といえるだろう。なので、事故や殺人事件を誘発してしまうのである。 ここで注意して欲しいのは、月といっても、衛星の月ではないことである。衛星の月は、ここでいう月領域の最外殻の境界を巡る物体であり、月の軌道は、その境界を意味するものなのである。だから、ここでいう月領域は、地球領域と一致し、地上のことを示すのである。だから、我々は、地球に住むと同時に、月にも住むということになる。 では、そのような月の魔力から人間を守っているのは何か?といえば、太陽光なのである。なので、皆既日食時や皆既月食時の、太陽光が行き届かない地球の領域は、魔の領域になるといわれている。 人間は、太陽光より、現在の覚醒意識をもつことができ、自我に目覚めることができるようになったという。そして、自らの肉体を、自らで管理できる脳を進化させた。それ以前は、脊髄だけの、つまりヘビのようなものだったという。ヘビの頭の脳ができたとき、人間は、自らの肉体を自らの自我から管理できるようになったという。そして、肉体への魂の転生が生じ、受肉し、死が生じた。人間が脊髄から脳を造りえたのは、月の天使たちのお陰であるという。
2007年03月06日
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さて、精神的な世界において、ブルネット・ラティーニのような人物と共にいることが、重大なことだと気づくだろう。けれども、もし、必要な(秘儀参入の)準備ができているならば、自分が夢に幻惑されているのか、或いは精神的な現実の中にいるのかを、見究めることができるという。そのため、我々が受け取るメッセージを評価することは可能であるという。 では、37歳のときに精神的な世界においてブルネット・ラティーニと語り合うことを想像してみる。勿論、このようなことは文字通りに受け取られるべきではない(秘儀参入して本人が自分で受け取るべきだから)。彼は多くのことを語るだろう。 そして、多分、そのとき、もっと正確で詳細な情報が必要だと、秘儀参入者は思うかもしれないが、それに対して、彼は、「その場合、我々は現在の20世紀から19、18世紀、そして私がダンテの師として生きた世紀にまで遡って足跡を辿らなければならない。もし、あなたがこの道を辿って、私について来ることを望むならば、あなたがもう少し(現世で)歳を取るまで、つまり、あなたがあと何年かの年月を後にするまで待たなければならない。そのとき、私は全てを話し、あなたの知への渇きを満たすことができるだろう。あなたは高次の秘儀参入者になることができるが、現実には、精神的な意欲だけでは過去に至る道を通って私についてくることはできない。」と言うという。 というのも、このようなことが可能であるためには、秘儀参入者はもっと歳を取る必要があるからで、もし、問題の人物と共に精神世界へと障害なく帰還することを確実なものにしたいならば、少なくとも42歳をこの世で通過して60歳に達していなければならないという。 精神世界を見る(精神的な)感覚器は、現世での人生体験を土台に構築されるので、人生経験の年数に応じて、感覚器が構築されるといえる。つまりは、人生は、このような精神的な感覚器を構築するための課題としての教科からなり、課題の元に、体験や経験を積むことで、それからなる精神的な感覚器の性質が決定されるといえるのである。 これらの事柄は人間存在のより深い側面と、それらが若年期や老年期において果たす重要な役割を、人間に示すことになるという。何故ある人は若死にし、別の人は熟年まで生きるのか、というようなことが理解できるのは、これらの事柄に注意を払うときのみ得られるという。このことについては後で、もう少し記述する。 人間が成長、進化していくとき、いかに精神的な世界に関する知覚を益々深め、広げていくかを見てきた。つまり、ブルネット・ラティーニのように肉体を脱いだ魂として精神世界にある存在との関係が、彼の進化状態と共に、すなわち精神的知覚に使用される(感覚)器官が、若年期に発達させられたものであるか、或いは老年期に発達させられたものであるかによって、いかに変化するかが示された。 このような世界の俯瞰的な探求と、そのようにして人間の魂の前で展開する進化は、その他の領域に拡張することができるという。問題は、人間の意識、人間の洞察力をどのように拡張し、それに別の方向性を与えるかということだという。そのような一つの方向性を示し、更なる詳細については次回以降で述べることにする。 地上生活における通常の覚醒意識の中で、誕生から死までの間の地球の環境についてだけ、現代人は知っている。もし、混沌とした夢の生活に終わりがあり、通常の覚醒意識ではなく、深く夢のない眠りの状態において、知覚をもつことができたならば、我々は、もはや周囲に、純粋に地球という環境を経験してはいなかったという。そして、我々は、実際、覚醒意識からなる、通常認識とは異なる知覚と意識状態を付与されていたという。 我々は地球を認識し、地球の上で行動するように、日常の覚醒意識を付与されたという。 では、我々の日常意識が、地球の身近な環境と関連していることを考えてみる。地球内部を深く覗き見ることはできないので、我々を直接とりまく環境が通常の意識の領域になる。宇宙に存在するその他あらゆるもの、太陽や月、そして、その他の全ての星は、この意識領域へと輝き入る。 太陽と月は、他の天体と比較して、宇宙における、それら太陽と月の存在をより明確に示すものを送り込んでいるという。もし、物理学者たちが、彼らの手法で(というのも、彼らは、秘教的アプローチを全く考慮しないので)、月と太陽の領域において、卓越する状態を経験できたとしたら、驚愕するという。というのも、天文学や天体物理の教科書に書いてあることは全くの的外れで、間違いだからだという。それらは非常にただ漠然とした示唆を与えるだけであるという。 例えば、通常の生活において、誰かと知り合いになることを望み、後でその人と話す機会を得たならば、通常、このとき、この人物に関しては、物証的には漠然とした印象しかないので、この人物は、自分の視界からほとんど消えるほど遠くに退いている存在に思える、と、科学的には言わずに、そのような場合には、私は、その人に関して、もっとハッキリした印象を持ち出し、その人の様子を、自らの感性のなかから、できるだけ記述しようとするだろう。 勿論、物理学者に選択の余地はなく、当然の帰結として、物証を基に、彼らは遠く離れた地球から、星々を記述することができるだけである。けれども、変化し、拡大した意識は、我々を星の世界へと引き上げ、そして、このことから最初に学ぶのは、通常の生活において語るのとは、全く異なる方法で、これらの星の世界について語ることができる、ということであるという。 通常の意識の中で、我々自身がこの地上に立っているのを見る。そして、夜空の月は、我々の上にかかっている。その光景を別様に見るには、我々は異なる種類の意識の中に入っていく必要があるという。そして、それには、ときとしてかなりの時間がかかるという。我々が、この意識を達成し、自らの経験、すなわち誕生から7才の歯牙交代期までに通過したあらゆることを、死者と連なる意識、つまり、インスピレーション(霊感)を達成し、それによって内的な視覚力(心眼)となった意識をもって知覚が可能なとき、我々は、周囲に完全に異なる世界を見るという。通常の世界はボンヤリとして、はっきりしないものになるという。 この別世界とは月の領域のことだという。我々が、この新しい意識を達成するとき、もはや月を独立した実体としては見ないという。我々は、実際、月の領域にも住んでいるという。(物証的な)月の軌道は月の領域の最も遠い境界を通っているという。この意識に達したとき、我々は、自身が月の領域の内部にいることを意識するという。 さて、もし、8歳の子供が秘儀に参入することができ、その人生の最初の7年を振り返ることができたとしたら、その子は、このようなやり方で月の領域に住むことができるという。実際、子供はまだ後の年齢期の影響によって、ダメになっていないので、月の領域に入っていくことに、ほとんど困難を感じないという。 このことは確かに理論的には可能だが、勿論、8才の子供を秘儀に参入させることはできない。
2007年03月05日
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武侯仁従さまのブログで、名前は聞いたことがあるが、その実情は知らない「辻政信」という人物を、ネットで改めて検索して、調べてみると、太平洋戦争の敗因の元凶とでもいえる人物ということがわかった。 このような人物が、独断で専横可能な組織というのは、まるでシロアリに食われた大木のような、いかに内面が脆弱化していたかを物語っているといえる。 以下を参照のこと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%BB%E6%94%BF%E4%BF%A1 太平洋戦争のような同じ過ちを二度と繰り返さないためにも、或いはまた、とりあえずは、日本の文化の象徴である天皇制を存続させていくためにも、しっかりとした組織づくり、いわゆる自浄作用が行える組織が、いま問われるところで、改めて、太平洋戦争の悪しき点を挙げて、改善すべきときにきているように思われる。 これは私の日頃の日本的風土の個人的実感なのだが、決めた本人が規則を厳守しない場合が多々みられる。その多くが、自分の地位が上位なので、許されるといった感覚があるらしい。この背景に、規則は庶民が守るもので、自分は庶民ではないというような、どこか不平等な感覚をもっている、お上根性というべき体質があり、いまだに、どこか士農工商のような身分制度を引きづった感覚をもっているのである。 その延長上にいまの議員があるようにしか思えない節がある。だから特権階級といわれても、その上に胡坐をかいているのだろう。 その元凶が、他人がやっているから許されるという感覚である。どうやら、この感覚の精神性は、日本人の没個人主義、転じて組織主義にあるような気がしてならない。このような価値観をムラ意識と呼んで久しい。いまでは、セレブと名を変えているが、セレブ村と同じである。 さて、以下のことは、あらゆるところでいわれている日本軍の特徴である。あるHPから抜粋。〔ノモンハンの戦いで関東軍を破ったソ連軍のジューコフ将軍は、「日本軍は、兵士下士官は勇猛果敢で有能、前線指揮官は平凡、そして高級指揮官や参謀たちは無能」と評したそうです。実は、同じ感想は太平洋戦争で日本軍と戦った米軍の将軍たちも抱いた、といいます。〕 このようなかつての超大国の米ソの類似した意見から、単純に考えると、日本軍の組織の昇進制度が、かなり異常だということがわかる。これは現代社会にもよくみられるが、位が上に行くに従い、現場から離れ、その実感がなくなり、ある意味怠惰になり、命じるだけで、命令の意味をよくよく吟味して、その真意やその実際を考えようともしない態度になるのだろう。 早い話、昇進するたびに真実への探求心がなくなっていくのである。 辻政信の場合は、特異的で、彼はかなりの自信家だったらしく、自分で現場視察を行い、全て自分の決断しか信じなかったようである。この人物は、確かに現場視察を行い、実際の現場の人間関係や、実情を熟知してはいるが、恐らく、上層部への一種の当てつけといった感があり、つまりは、自分のシンパをつくるための、ある意味、穿った見方をすれば、他国のスパイとも思わせるような結果を生じさせている。 辻に限らず、当時の上層部が、現場視察もろくにしない位、堕落したもので、辻は、自分がその見本をみせていたつもりのようでもあるが、その後の作戦指揮の失敗をみても、実際に現場や実情を理解していたとは言いがたいのである。このような現状を想像する限り、当時の陸軍は、まるで組織とはいえない、一種の自分たちの利権や権益を守るための互助会のようであったのだろう。 辻政信でなくても、それは陸軍の誰もが感じたところなのであろう。暗黙の了解事項という、日本のムラ組織によくある恥知らずというものであろう。恐らく辻のような思い上がりの強い人物が、自分が改革者となって、軍組織を変えてやるとでも思ったのだろうが、かえって返り討ちにあったような感じでもある。石原莞爾あたりは、そこいらを一種諦めというか、陰険風に乗り切ったのだろう。 このような組織内対立の逸話は枚挙に暇が無く、日露戦争時の児玉大将も、煙草の火すらも自分でつけない怠惰な風潮の蔓延の弊害を愚痴っているほどで、更に、堕落した太平洋戦争時には、東条英機のような恐怖政治の典型の権威主義者でも、だからこそかもしれないが、一兵卒と陰口で頻繁に罵られていたという事情を考えれば、軍部指導者の多くは、口には出ないが、部下から心底馬鹿にされていたものと思われる。捕虜となった日本兵の多くが、日本軍の愚痴を聞かれもしないのに、よくしゃべったという記録さえも残っているという。 このような例を考えると、恐らく、日本軍は、中世以来の農民中心の兵力頼みが抜け切れなかったものと思われる。明治維新とはいいながら、その実、武家という統治階級の入れ替えにすぎなかったのではないか?と思えるのである。 つまり、明治政府といいながらも、その内実は徳川幕府から、毛利島津幕府に、転換しただけではないのか?と思うのである。ただし、将軍継承制度を廃して、中老級から、将軍を縁故により選出するような形にしたような感じである。これは現状も似たりよったりで、東大官僚幕府とでもいうような、武家が、東大閥に受け継がれたような感じなのである。 これは恐らく、陸軍の旧陸軍大学が、軍閥化して、旧帝大から東大閥に受け継がれ、武家が官僚に移った感じである。 このような現場とは無関係な縁故昇進主義を採用している限り、いかなる組織をつくろうとも、人格を磨くどころか、縁故や派閥に頼り、要は、組織が個人の出世の為だけに機能するような形骸化したものとなるだろう。 組織の目的は、歴史の無常への対応であり、年代を継続して、民族を生きながらせる為の新陳代謝にあるので、それは国家の自浄にあり、秩序と均衡にある。個人がそれぞれ自由を発揮するために、その背景として、その土台として、秩序と均衡、更には統御がもたらされる。統御が先にあるのではなく、個人の自由が先にある。個人を路頭に迷わせないように、自らの位置を自覚させるために、なんらかの組織に所属させておくのである。 日本文化は、日本人個人々の芸術的才能を自由に飛躍させる為の土台なのである。 組織が個人の野望の道具であってはならない。人間は、組織を通して理解し合わなければならず、そこには、いかなる強制力も働くべきでなく、もし働くとするなら、人間の自由の意志の下に、組織は解散すべきなのである。 基本的に個人は、自由意志により何を行ってもよいが、その行いを他の人と分かち合うために、組織を土台とするのである。そこにおいて自己反省が生じ、他との共通理解が生じる。 このような自浄作用のある生き生きとした組織に比べ、一権力者が、自らの好み趣向により、命令を下し、硬直化した組織を利用するのは、将来に大きな災いをもたらすだろう。 戦後処理というと、必ず、靖国問題が挙がるが、霊の何たるかを研究もせずに、英霊等といったまるで新興宗教のような議論をおこなったり、日頃、科学的といいながら、このような問題に対しては、霊頼みなのは、全くもって、その精神性の未発達さこそを問題としなければならないだろう。 これでは、靖国参拝が祟りか祟りでないかを議論するのと同じで、戦後処理がいつまでたっても、英霊の祟りを怖れているかのごとき振る舞いと代わりがない。 世界のなかの日本なので、他国に対して、いかに靖国参拝を正当化することに、異質の新興宗教のような精神性を持ち出しても、無意味なのである。精神性とは、無理解を克服することであり、まずは、靖国参拝が、戦後処理とは、無関係なものとして位置づけをはじめなければならないだろう。 靖国参拝を神格化するのをやめなければならない。信教の自由であるならば、政治利用や主義主張等の、いわゆる票稼ぎや人気に利用する行為こそを慎むべきで、それこそ、政教分離の原則をまずはじめに貫くべきである。 靖国参拝ではなく、広島原爆慰霊碑こそ、神格化すべきである。米国人がリメンバーパールハーバーを唱えるならば、広島、長崎を決して忘れないというべきである。そして、自衛隊員全てに、この広島、長崎だけでなく、悲惨な爆撃や空爆を、戦場の痛みを知ってもらうべきである。 軍閥による弊害により、日本に原爆がもたらされたこの教訓や、国として、いかなる戦力保持も放棄させられた屈辱を胸に秘め、日本国憲法第9条を死守していくべきである。 そして、ブッシュやチェイニーのような戦場利益の犬たちには、「いかなる理由があるとしても、我々は決してあなた方の行為、広島や長崎に原爆を落とした決断を忘れはしない」というべきである。「あなたがたが、その決断の子孫である限り、命を賭けて、訴え続けていくのは、日本人の子孫の平和への願いの役割である」というべきなのである。 軍隊のみならず、民間人まで、犠牲が及ぶかどうかの決断こそが、今求められる最上のものなのである。残念ながら、日本は、原爆を落とされ、何十万人という死傷者を失ってみてはじめてわかった。冷静さや理性を失った人類とは、それほど愚かな知性体なのである。
2007年03月05日
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つまり、秘儀参入の前段階において、自らの人生の精神的な総括が求められるのである。だから、秘儀参入には、少なくとも35歳(7歳×5段階)以上の人生経験(主に精神的な体験)を必要とするといわれている。 誰も他人の人生を生きることはできず、自らが自らの課題を背負って生きているのである。 さて、人類の歴史においては、誰かを選んで秘儀参入に向け、準備させる、ということが、いつの時代でも行われてきたという。しかし、極端な唯物主義の時代、つまり15世紀以来今日に至るまで、これはある程度中断されているという。この間に、秘儀に参入することの真の意義が忘れられたという。 人々は認識への欲求を、秘儀参入無しに満足させることを望み、そのため、物理的な世界だけが適正な探求の場であると徐々に信じられるようになったという。しかし、実際のところ、物理的な世界とは一体、何なのか?と問い、その物理的な側面だけを考慮したとしても、全てを物理的世界で説明することはできないという。 物理的世界は、それを満たす精神を理解できたときに、はじめて理解することができるという。人類はこの認識を再び取り戻す必要があるという。現代人は今、岐路に立っている。世界は分裂し、益々混乱の様相を呈している。けれども、この混乱、逆巻く闇、全てを破壊しようとする暗い熱情の真っ只中で、人間の中に新しい精神性を目覚めさせようとして苦闘する精神的な力の存在に気づいている、先験的な認識を有する人たちがいる、ということも知っているという。そして、秘教が未来に準備するものは、唯物的な時代の大騒ぎの真っ只中でも、まだ聞くことができるこの精神の声に耳を傾ける姿勢を提供することであるという。 人間は、いつの時代にも、精神的な世界を知覚するようなやり方で、人間としての組織を発達させようと努力してきたという。時代によって条件は変化するが、古代カルディア時代、或いはブルネット・ラティーニの時代を振り返ると、人間は今日に比べて肉体やエーテル体にもっと緩やかに結びつけられていた、ということが分かるという。人間が、肉体やエーテル体にしっかりと固定される、というのは当然の成り行きであるという。 つまり、それは今日の教育からいって避けられないことであるという。いずれにしても、多くの場合、歯が生え替わる前に読み書きを学ぶように強いられる現状なのに、どうして精神的な存在たちとの交流を期待することができるのか?という疑問が問われるという。なぜなら、天使や精神的な存在たちは読むことも書くこともできないからであるという。 読み書きは人間進化の過程で、物理的な条件に対応して発達してきたという。そして、もし、人間の存在全体が純粋に科学的な探求へと方向づけられているならば、肉体やエーテル体により硬く密接に結びつくことはあっても、そこから退くことは明らかに困難になるという。 現代は、現代人が肉体とエーテル体から離れている睡眠中には、いかなる精神的な経験をも持つ可能性がない、というような方法で、現代の文化生活全体を秩序づけることに一定の満足を見出しているといえるという。現代の文化を罵倒したり非難したりするつもりはなく、それは現代の不可避的な表現であるという。後で、その意味について議論するが、さしあたりは、物事とは、このようなものとして受け入れる必要があるということを強調しておきたい。 太古の時代では、アストラル体と自我は、目覚めの状態においてさえ、今日に比べて肉体とエーテル体にもっと緩く結びついていたという。秘儀参入した人たちもまた、彼らにとって自然であった体の緩い結びつきに頼っていたという。実際、遥かな過去においては、ほとんど全ての人が秘儀に参入することができたが、人間の地位を超えて上昇することが、誰にでも可能であったのは遥かな過去の時代、古代インドや古代ペルシャの時代だけだったという。 そして、後の時代においては、秘儀に参入するための候補者の選定は、肉体とエーテル体から退くことにほとんど困難を感じない人たち、アストラル体と自我が比較的高度の独立性に恵まれていた人たちの間に限られたという。秘儀に参入するためには一定の条件が、あらかじめ必要とされたという。このことは、希望者の能力に見合った最高の段階の秘儀に参入することを妨げるものでは全くないが、ある地点を超えて成功に導かれるかどうかは、希望者がアストラル体と自我の中で容易に独立性を達成するか、或いは、苦労して達成するかにかかっていたという。そして、このことは希望者の生い立ちと自然のその人への恩恵度合いによって決定されたという。世界の中へと生まれて来る人間にとって、誕生から死までの世界に依存することは、ある程度避けられないことであるという。 ここで、今日の人間も、秘儀参入するとき、同様の限界に左右されるのか、という疑問が生じるが、ある程度、そのようなことがあるという。ここでは、精神的な世界へと導く真実の道と偽りの道に関して、十分かつ明確な説明を加えるつもりなので、今日の秘儀参入への途上に横たわる困難に関して指摘する。 古代人は、秘儀参入者になるにあたって、その自然に備わった資質に依存していたという。現代人もまた、秘儀参入の入口まで連れていくことはできるという。実際、適切な魂の訓練を通して、精神的な視覚を発達させ、精神的な世界を知覚することができるように、アストラル体と自我組織を形成することができるという。 しかし、精神的世界を覗く、この視覚を完全なものにし、完成させるためには、今日でもなお、何か別のもの、極端に微妙でデリケートなものに依存しているという。可能なのは一歩一歩先に進むことだけなので、今日、以下に記述することに関して、安易に最終的な結論を出さないように注意する必要があるという。 今日の秘儀参入においては、人はある程度年齢に依存しているという。人生に期待がもてるような、37歳で秘儀参入を始める場合を取り上げる。秘儀参入を試みる人が、瞑想や集中、その他の修行を通じて、誰かの指導の下、或いは何かの教則本に基づいて、自主的に実行し始めるとする。 瞑想、或いは、何らかのテーマを繰り返し実行することで、秘儀参入者は、まず地上における彼の生活を振り返る能力を獲得するという。彼の地上生が一つのまとまった織物の形で、彼の内的な目(心眼)の前に現れるという。それは丁度、物体が三次元空間の中に置かれているように、例えば、手前に椅子があり、椅子に座っている人や、向こう側には机、その後ろには壁というように、周囲の全てを、遠近法によって、同時性の中で見るという。 このように、現代人は秘儀参入のある段階において、「時間」の本質を覗き見ることになるという。時間の経過が空間的な印象を与えるという。さて、その人は、37歳のときに自分を振り返る。その人は36歳のとき、35歳のとき、そして、誕生のときに至るまで、何らかの経験をしてきたわけで、その人は、自分の前に一つの(人生の)織物を、時代を遡りながら見るという。 今、秘儀参入のある段階において、ある人が人生を逆向きに振り返ると仮定する。37歳の時点で振り返り、誕生からおよそ7年目の歯の生え替わりの時期までを第1期、7歳から14歳、つまり思春期までを第2期として、振り返ることができる。そして次に、14歳から21歳を第3期、そして37歳までの残りの人生を、第4、5期として、振り返ることができる。 彼は人生をパノラマのように、いわば時空間的な透視能力をもって探求することができる。彼が、空(無)になった日常の覚醒意識から生まれる意識を、この知覚に加えることができるとき、ある種の(霊的な)知覚力が、彼を貫いて閃くという。彼は洞察力を獲得するが、その洞察力は非常に広範な形態を取り、誕生から7歳までの経験、14歳から21歳、そして、その後の時代の経験は、彼の中で、異なる反応を喚起するという。それぞれの時代が独特の反応を示し、それ自体が独自の視覚力をもつようになるという。 さて、63、4歳の人について考える。彼は37歳より後の年齢期を振り返ることができる。21歳から42歳までは、比較的均一のように見える。それに続く年齢期はもっと相違したものになるという。42歳から49歳まで、49歳から56歳まで、そして56歳から63歳までの時期において、彼の知覚に重要な相違があるのに気がつくという。これら全ての年齢期は、彼の成立の枢要な一部分になっているという。 それらは彼の地上における人生の精神的な側面を表しているという。もし、彼がこの内的な視覚(心眼)を発達させるならば、彼の様々の洞察力が、特定の年齢期における彼の存在レベル(人生)に依存していることを理解するという。誕生からの7年間の第1期は、7歳から14歳までの第2期とは異なった洞察力を、彼の中に目覚めさせるという。14歳から21歳までの思春期、21歳から42歳までの年代は更なる相違を、そして、もっと後の年齢期に属する異なる洞察力が、それらに続くという。 人生の経験に関する記憶像をもつ能力を獲得すると共に、その記憶像を消し去る空の意識から導かれる洞察力を達成したと仮定してみる。すると、インスピレーション(霊感)の力が働き始め、その結果、もはや物理的な目を通したものではなく、精神の眼(心眼)である新しい視覚器官を通して、人生の各年齢期を探求するという。 霊感力(人生経験に関する記憶像をもつ能力、その記憶像を消し去る空の意識) そのとき、もはや様々な出来事があった人生の年齢期の像を魔法のように出現させるのではなく、インスピレーション(霊感)を通して、精神的な眼(心眼)や耳で、それらを知覚する地点へと達したと感じるという。 あるときは、7歳から14歳までの人生の期間を超感覚的に眺め、別のときは49歳から56歳までの期間を、ちょうど外界で眼や耳を使って聞いたり知覚したりしたように、超感覚的に聞くという。インスピレーション(霊感)の世界においては、7歳から14歳までの期間、そして42歳から49歳までの期間から導かれる力が使われるという。 この世界においては、様々な人生の年齢期(期間)が異なる認識器官になるという。このように、心眼の視覚範囲は、ある程度、年齢に依存しているという。37歳では、秘儀参入の経験を1次情報として語ることが完全に可能だが、63歳になれば、より深い知識をもって語ることができるという。何故なら、後者の年齢では、別の(精神的感覚)器官を発達させているからだという。 人生の年齢期(期間)が(感覚)器官を創造するという。さて、ブルネット・ラティーニやアラヌス・アプ・インスリスのような人物を書籍等に載っているような情報からではなく、超感覚的な知識から記述することを試みる。もし、我々が37歳になったとき、彼らのことを描写するなら、本来の夢のない睡眠の中で、無の覚醒意識を持ちながら、彼らと精神的に関係していることを発見するという。 隠喩(オカルト)的に言えば、この世で、我々の仲間の人間と語るようにして、あの世で彼らと語り合うことができるという。そして、不思議なことに、精神的な事柄に関して、彼らと語ることができるのは、現在の叡智と精神レベルからのみ可能であるという。そのとき、我々は、いかに多くのことを彼らから学ぶことができるかを知るという。我々は、彼らに耳を傾け、彼らが伝えようとすることを信頼して受け入れなければならないという。
2007年03月01日
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被告が心身(神)喪失を理由に、裁判の判決を情状酌量の余地ありとする、精神病流行の昨今を象徴する無罪判決があった。なんでも、被告は、「悪魔にやれと命令された」というが、それが真実ならば、その悪魔そのものが、被告本人を餌として巣食っているといわざるをえない。つまりは、被告そのものが悪魔の化身といえるだろう。まだ「神に命令された」というならば、被告に善悪の判断はなく、百歩譲って、心身喪失の理由となるだろうが、悪魔とわかりながら、なぜ、従ったのか、不思議である。 このような一見すると、被告の意味不明な言動は、現代の覚醒意識からすれば、心身喪失のようにみえ、このような問答は、「一休さん」という頓智アニメにあった、屏風のなかの虎を出してみろ、というようなもんである。 心理学ではこれを心身喪失の状態として、未解明なままに結論を先送りしているようだが、現代脳科学の観点からすれば、この状態を、脳に何かしらの損失があると結論するのが妥当な線なのだろう。なので、責任能力無しとして、無罪になるのだろう。 被告に、「では、その悪魔をここに出してみなさい」というわけには、いかないが、被告から、悪魔が出てくるまでは、とても、被告の言うことを信じることはできず、そもそも、自らの判断を放棄し、他者の命令を鵜呑みに行うことの、いわば理性を失ったその状態こそが、罪悪なのではないか?と思える。 なぜ、他の誰でもなくて、悪魔なのか?、少なくとも悪魔が悪いことを命令したという判断は被告には認識でき、その悪因を悪魔のせいに帰している。この判断は理性的ではないとするなら、今度は、理性を失わせるに至る本人の自覚症状の有無が問題になる。こうなると、被告の日常の生活態度が、問題とされ、生涯に渡り、監視や管理が必要とされるだろう。 悪魔に限らず、人からいわれたことの善悪の判断なく、すぐ鵜呑みにして、行う人格の持ち主なのか?ということになる。このような人物の場合、健全な生活を営むことは非常に困難だろう。日頃から健全な生活を送れ、逆にいえば、少なくとも、事故当時のみ、悪魔が憑依することは、考えられない。 しかし、このような責任回避の姿勢は、いづれにしろ、何らかの連帯責任として、負うべきであろう。ましてや人が死んでいるのだから、無罪というのは、おかしい。法令上の責任能力が問われるのだろうが、殺人までいってしまえば、悪として、かえって責任能力を、充分に負わせべきものに思われる。 では、秘教から考えてみると、もし、悪魔が取り憑いていたとするなら、取り憑かせた本人の責任にあるといえる。悪魔が取り憑くとしたら、悪魔と同じ考えをその人物がもっていたといえるからである。このような体質を霊媒という。霊媒は、秘教では厳禁である。とくに、悪魔を呼び寄せるのは、黒魔術といわれ、最も悪しき所業とされるのである。 確かに、本人は無意識のうちに、霊媒体質を生じさせたと弁護するだろうが、それなら、なお一層、自らに刑罰を課し、意識的に行為を行うような訓練を課し、霊媒体質を改善しなければならない、甘んじて罰を受け、自らのなかから、悪魔に惹かれる部分を絶たなければならない。 つまり、殺人を悪魔の命令に帰する判断を行い、そのような発言をできるということの方が、より深刻である。私には、自分は悪魔だから何を行っても許されると宣言しているようにも聞こえる。恐らく、罪の軽減を望んでのものなのだろう。 なので、秘教からもいえることは、被告は少なくとも悪と共犯であり、悪魔が実情の責任を負えない限り、被告が代わりに負わざるをえず、もし、犯罪を、悪魔のせいの類の発言に帰するとするなら、その発言の真意、いわゆる減刑の意図等が、全く見られないような状況、例えば、かえって重罪が課せられる場合であっても、その発言の正当性を訴えるかどうかにあるように思われる。 地で行われる裁判は、天にも影響を与える。なぜなら、人間は、宇宙に対する小宇宙であり、天の裁きは地にも及ぶからである。 被告は、地において、生きたときも裁かれ、死んで猶、生きたときの記録を基に、最後の審判が行われる。 地においても、天においても、神の名において裁判は執り行われねばならない。 地において、悪魔を見い出したなら、すみやかに裁かれる必要がある。 「汝が、悪魔の命令に従ったならば、それは汝の神への信仰が無きに等しいことを意味する。だから、汝は無信仰の罰を受けなければならない。」 「汝が、もし、悪魔ではなく、神に従ったと偽り、殺人までに及んだならば、神への信仰が偽りであることを意味する。汝は、偽りの信仰の罰を受けなければならない。」 「もし、地において、なんらかの神への信仰への正しい道が得られないならば、決して、汝は天国に召されることがないことを覚悟しなければならない。」 「汝が信仰を忘れ、悪魔の命令のなかに、神の名を呼び、助けを見い出さなければ、それ自体、罪といわねばならない。汝は、主たる神の名を忘れ、悪魔に魂を売りし者として、人々に記憶されるであろう。」 「もし、地において裁かれなくても、全ては、汝の主たる神が、最後の審判で証言者として裁くだろう。そのときを待つなかれ!最後のときを待つなかれ!!」 地においても、裁判は厳粛に執り行われるべきである。
2007年03月01日
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