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しかし、このような事柄においては更に本質的に、全く別のものも働いている。 ここに働いているもの、つまり人間はいま示したような性質の存在により、自らをその性質として感じるが、その性質は、今日の通常の意識において、最初は下意識に止まっている。既に下意識にあるのだが、そこでは、その性質は人間の一種の気分として、生の気分として現われてくる。 これを完全に意識化させるには、やはり霊的観照が必要であり、この霊的観照は、唯一以下のように描写できる。 いわゆる今日の秘儀参入学から、この人間の秘密、すなわち、「物質的実質」を必要とする最も主要な、最も本質的な器官は頭であり、頭により、頭の「物質的実質」を霊力で貫くことができるという秘密を知る人、そして更に、四肢-新陳代謝人間において本質的なものは、「霊的実質」であって、「霊的実質」を存続させるために物質力、重力や均衡力その他の物質力を必要とする、ということを知る人、そして、人間の秘密を、このように霊的に見通した上で、この地上の人間存在を振り返って見る人、そのような3つの種類の人にとっては、そもそも自分が人間として、地球に対して途方もない負債を抱えた者のように思える。 人間の頭部は、霊力に貫かれた物質的実質からなる。 人間の腹部は、物質力に貫かれた霊的実質からなる。 以上の霊認識を見通し、地上の人間存在を知る人は、自らが地球に対して負債を抱えた者だと自覚する。 というのも、一方において人間は、人間存在として直立を維持するために一定の条件を必要とする、と言わなければならないが、直立の維持のための条件を通じて、人間は元来地球の債務者である。人間は絶えず地球から何かを奪い取っているのである。 つまり、人間は、自らに次のように言って聞かせなければならないことに気づく、 「人間が地上生活をおくる間に、自らのなかに『霊的実質』として担うものは、本来は地球が必要とするものである」、と。 「人間は死へと赴くときに、この『霊的実質』を地球に残していかなければならない、なぜなら地球は自らの更新のために絶えず『霊的実質』を必要とするからである」、と。 しかし、人間はこの「霊的実質」を残していくことができない、(もし、残せるのならば)人間は死後の時期にあって人間の道を歩むことができなくなるからである。人間はこの「霊的実質」を死と新たな誕生との間の生のために携えていかなくてはならない、なぜなら人間には、この「霊的実質」が必要であり、この「霊的実質」を死の間携えていなかったら、人間は死後、いわば(この宇宙から)消滅してしまうからである。 人間が成し遂げなければならない変化は、人間が、四肢-新陳代謝人間の「霊的実質」を死の門を通過して霊界へともたらすことにより、成し遂げることができる。人間がもし、本来地球に対して負っている債務を地球に返してしまったら、人間は将来の受肉を、受けることができなくなる。 人間にはそれはできない。人間は負債者のままに止まる。これは地球が中間状態(地球進化の途上の現在)にある限り、差し当たり、いかなる手段によっても改善できないことである。地球存在の終わりになれば、事態は変わってくる。 ともかく、霊視をもって人生を見つめる人は、単なる苦しみや悲しみ、それに通常の生活が与えてくれるような幸福や喜びを持つだけでなく、霊的なものを観ることで宇宙の感情、宇宙の喜びと悲しみが生じてくる。 秘儀参入とは、このような宇宙の悲しみ、例えば、自らに、次のように言い聞かせざるを得ないような、悲しみの出現と分かちがたいもので、つまり、正に、人間本性を、直立に維持することによって、自らを地球の負債者へと形づくらざるを得ない、宇宙的に全く公正であるなら、本来は地球に与えなければならないものを、地球に与えることができない、という悲しみである。
2007年08月31日
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例えば、人間において純粋な実質、純粋に「霊的実質」存在のなかに、物質素材、「物質的実質」が侵入すると、つまり例えば、本来は頭部に導かれるべき「物質的実質」が、新陳代謝組織のなかであまりに優位になりすぎて、新陳代謝が、いわば頭の本質に浸透されすぎると、人間は病気になり、全く特定のタイプの病気が生じてくる。 そこで治療の課題とは、このような「霊的実質」存在のなかに広がっている「物質的実質」の形成を、再び弱め、駆逐することになる。 他方、「霊的実質」のなかを物質力が貫くという固有の性質を持つ消化組織が、上部の頭へと送られると、人間の頭は、過度に霊化され、頭部の過度の霊化が起こる。その場合も病気の状態を示すので、物質を養う力を充分に、頭に送り込んで、下部の消化器官の物質力が、上部へと霊化されずにしっかりと頭に届くように配慮する必要がある。 四肢と新陳代謝-下部人間(霊的実質、物質力)=物質的実質が過渡だと病気 →下部の物質的実質を弱める治療 頭-上部人間(物質的実質、霊力)=物質力が過多だと病気 →上部の物質的実質を強める治療 健康な人間と病んだ人間に目を向ける人は、このような区別が、実際役に立つことをすぐに理解できるが、勿論、単なる外観を捉えるだけでなく、その本質(真実)を問題にする場合であるが。
2007年08月31日
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さて、形態化の力の場合には、この実質と、丁度、逆になっている。 四肢と新陳代謝にとっては、実質が霊的である一方、その内部の力、例えば脚の形態化の力は、質量を生むものであり、物質的である。そして頭の実質は物質的である一方、頭の内部で働く力は霊的である。霊力が頭を貫いて流れ、物質力が四肢-新陳代謝人間の霊的実質を貫いて流れているといえる。 四肢と新陳代謝;霊的実質及び物質力 頭;物質的実質及び霊力 人間を完全に理解するには、人間における上部領域(横隔膜より上部)は、頭部と、胸の上部領域のことで、本来は物質的実質で、霊力に浸透されている(呼吸においては最も低次の霊力が働いている)胸の上部領域を、区別することにより、更に下部人間(横隔膜より下部)を、内部に物質力が働いている、霊的実質から形成されるものとして捉える必要がある。 下部人間;霊的実質及び物質力 上部人間;物質的実質及び霊力 ただ、言うまでもなく、はっきりと理解すべきことは、このような事柄は本来人間においては、どういう状態なのか、ということにある。つまり人間は、頭の性質を、生体組織全体に広げているため、頭というのは、霊力に貫かれた物質的実質であり、この頭の本質全てを人間の下部にまで広げ伸ばすことを通じて存在するともいえるからである。 (下部の)内部に物質力が働いている霊的実質を通じて、人間存在のもの、これは逆に上部人間に向かって上へと送られる。このように人間において作用するものは、相互に浸透し合っている。 しかし、人間を理解するには、やはり、このように人間を、物質的-霊的実質のものと、力動的なものとの、両者の、いわゆる相互作用の存在があると見なす必要がある。 上下の相互作用(物質的-霊的実質、物質力-霊力) また、これには大きな意味があり、というのも、外の現象から目を転じ、人体内の本質に入り込むと、例えば、人間における、この実質的なものと、力に則ったものの配分に不規則が生じることが許されない、ということが示されるからである。 上下の相互作用(物質的-霊的実質、物質力-霊力)=規則的配分
2007年08月30日
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前回は人間を再び、ある観点から宇宙万有のなかに据えようと試みた。 今回は、いわば全体を総括できるような考察を行う。 我々人間は、物質的な生の範囲内において地上に生き、究めて様々な仕方で、自然界の本性、及び人間の形態へと形成され、形態化されている地球の物質素材と、この物質素材を通じて存在する出来事及び事実に囲まれている。 あらゆるもののなかに、正に地球の物質素材が存在している。 いま、この物質素材を、後で、すぐに、この正反対のものに関しても語らなければならないので、いわゆる素材としての、地球の様々な形態化の基本成分を「物質的実質」と呼び、この物質素材の反対のものとして、宇宙に存在するものを、「霊的実質」と呼び、前者と区別する。 この「霊的実質」は、例えば、自身の魂の基礎を成すが、普通は宇宙において、物質の形態化に霊的なものとして結びつくような形態化の基礎を成す。 「物質素材」、或いは「物質的実質」に関して語るだけでは間に合わない。例えば、高次ヒエラルキア存在たちを、宇宙の全体像のなかに置いてみることを考えてみればよい。これらの高次ヒエラルキア存在は、地上の実質というものを、占有していない、彼らの身体とでも呼ぶもののなかには、地上の実質を有していないのである。 従って、我々人間は、地上的なものを見ることができるので、物質を知覚するように、地球外のものを見ることができれば、「霊的実質」をも知覚できるだろう。 今日、「霊的実質」に関してはほとんど知られていない、そのため、物質界と同時に霊界にも属している地球存在、つまり人間についても、あたかも人間が「物質的実質」しかもたないかのように語られている。しかし、それは間違いで、全くもって、人間は自らのうちに「霊的実質」と「物質的実質」を担い、しかも非常に独特な形で、いわゆる、このような事柄に注目することに慣れていない人が、最初は驚愕せざるを得ないような形で、人間は自らのうちに「霊的実質」と「物質的実質」を担っている。 つまり、人間を運動に移行させるもの、すなわち人間の四肢、そして四肢から発して新陳代謝活動として人体内部へと継続されるもの、人間における、このようなものを考慮に入れるとき、主として「物質的実質」について語るならば、間違いを犯すことになる。 人間について正しく語るには、人間のいわゆる低次の性質に関して、他ならぬ、この性質の根底に根本的な「霊的実質」があることを知っていなければならない。従って、人間を図式(イメージ)的に描くならば、以下のような手法で行わなくてはならない。 次のように人間を記述すべきである、「本来下部人間は、霊的実質のなかに形成されたものを示し、人間の頭に向かって進むほど、人間は『物質的実質』から形成されるようになる」、と。 そして脚については、異様に聞こえようとも、次のように言わざるを得ない、「脚は、本質的に『霊的実質』から形成されている」、と。 いま述べたように、異様に聞こえようとも、頭の方へと進むと、人間を、「霊的実質」から、「物質的実質」に移行させるように、描かなくてはならない、そして「物質的実質」は特に人間の頭のなかに含まれている。 これに対して、「霊的実質」がとりわけ見事に広がっている、とでもいうべきところは、人間が、脚を空間へと伸ばす、或いは、腕を空間のなかへと差し伸ばすところである。腕と脚にとって肝心なのは、この「霊的実質」が腕と脚を満たしているということで、それが腕と脚の本質であるというのは、実際その通りである。 実際、腕と脚にとって、「物質的実質」はいわばそこでは「霊的実質」の内部に浮かんでいるだけであり、他方、頭というのは実際、いわば「物質的実質」から緻密に形成されたものである。 しかし、我々人間は、人間としての、このような形成において、実質を区別するだけでなく、その形態化を行う力をも区別する必要がある。そして、この場合にも、霊的な力(以下霊力とする)と地上的-物質的な力(以下物質力とする)とを区別しなければならない。
2007年08月30日
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私はキリスト教徒ではなく、いわゆる無宗教者ですが、以下のホームページのお説教は深いものがあり、お奨めです。 http://www.remus.dti.ne.jp/~hiromi-y/sekkyou.html
2007年08月30日
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この古い黒人の寓話の、いわゆるヨーロッパ化によっていうべきことを、感じとれば、今日の、このような事柄が真に正しく理解できることがわかる。 このような事柄が正しく理解できるのは、三重の誘惑の呼びかけ、つまり鷲と、獅子(ライオン)と雌牛の呼びかけに、人間が自らの箴言、今日、人間の力と、思考と、作用の合い言葉である箴言の対置を学ぶときである。 私は学ばねばならぬ、 おお、雌牛よ、 星々が私のなかに啓示する言葉から、 お前の力を。 地球の重さではなく、単純に重さを量り、数え、計測することのみではなく、雌牛の物質的な生体機構のなかにあるものだけを学ぶのではなく、雌牛のなかに体現されているもの、雌牛の生体機構から雌牛が体現しているものへと畏怖しつつ眼差しを転ずること、眼差しを高所へと上げること(を学ぶ)、そうすれば、そのままでは地球の機械文明となってしまうものが霊化される。 人間がよく考えなければならない第二のことは、 私は学ばねばならぬ、 おお、獅子よ、 日ごと年ごとの巡りが 私のなかに織り込む言葉から、 お前の力を。 「啓示する」という言葉、「織り込む」という言葉に心を留めるべきである。そして、人間が学ばなければならない第三のものは、 私は学ばねばならぬ、 おお、鷲よ、 大地から萌え出たものが私のなかに創り出す言葉から、 お前の力を。 このように人間は、一面的な誘惑の呼びかけに、自ら、以上の3つの箴言を対置させる必要がある、その意味から、一面性を調和的な均衡に導くことができる以上の3つの箴言である。 人間は学ばなければならない、雌牛を見ることを、ただし、雌牛を徹底的に感じ取った後で、雌牛から、星々の言葉が啓示するものを見上げることを学ばなければならない。 人間は学ばなければならない、鷲に眼差しを向けることを、そして、鷲の本性を徹底的に自らのうちに感じ取った後で、その眼差しで、鷲の本性が人間に与えたものをもって、大地のなかで発し萌え出て、人間の生体機構においても下から上へと作用するものを見下ろすことを。 そしてまた人間は学ばなければならない、獅子(ライオン)を観ることを、風のなかで人間を取り巻くもの、稲妻のなかで鋭く見据えるもの、雷鳴のなかで人間の周りを轟き巡るもの、人間が組み込まれている地球生命全体の四季の巡りのなかに嵐が引き起こすもの、これらが獅子(ライオン)によって人間に開示されるように、獅子(ライオン)を観ることを。 つまり人間が(上方への物質的な眼差しを下方に向けられた霊の眼差しへと、下方への物質的な眼差しを上方へ向けられた霊の眼差しへと、真っ直ぐ東洋に向けられた物質的眼差しを、逆に真っ直ぐ西洋に向けられた霊の眼差しへと、上方と下方、前方と後方、霊の眼差しと物質的な眼差しを、相互に浸透させ合うことができれば、人間は、高みからは鷲の、(地球の)周囲からは獅子(ライオン)の、地球の内部からは雌牛の、人間を弱らせるのではなく、力づける真の呼びかけを感じ取ることができる。 人間が営みにおいて益々地球文明に相応しくなり、没落ではなく、開化に貢献するために、宇宙万有との関係について学ぶべきことは是である。 私の本質を学ぶがよい! 私はおまえに力を贈る、 鷲はこう語る おまえ自身の頭のうちに 西洋(アメリカ大陸) 万有を創り出す力を。 私の本質を学ぶがよい! 私はおまえに力を贈る、 獅子はこう語る 巡る大気の輝きのなかに 中部(欧州) 万有を体現する力を。 私の本質を学ぶがよい! 私はおまえに力を贈る、 雌牛はこう語る 秤、標尺、数を 東洋 万有より奪い取る力を。 私は学ばねばならぬ、 おお、雌牛よ、お前の力を 星々が 私のなかに啓示する言葉から。 おお、獅子よ、お前の力を 日ごと年ごとの巡りが 私のなかに織り込む言葉から。 おお、鷲よ、お前の力を 大地から萌え出たものが 私のなかに創り出す言葉から。
2007年08月28日
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今日、そもそも現代人にとって人間であるということが困難である。 というのも、人間は、以前述べた寓話のなかの、3頭の動物に向き合った(食べられる運命の)カモシカのように見えるからである。一面化しようとするものが特殊な形を取っている。獅子(ライオン)は獅子(ライオン)のままだが、獅子は自分の仲間の猛獣を、変容させ、他の動物の代わりにしようとするからである。 獅子は、元々、鷲の代わりに、猛獣の仲間であるハイエナを用いる、ハイエナは基本的に死んだものを食べることによって生きるもので、いわば人間の頭のなかに生み出され、死に向かって絶え間なく瞬間毎に原子論的な知識の断片を供給する、死んだ思考(鷲)によるものといえる。 ハイエナ;原子論的な死んだ思考(鷲) 従って、この寓話は、腐肉を食らうハイエナを鷲と取り替え、更に獅子(ライオン)は、雌牛の代わりに、没落に相応しい(この伝説は黒人文化から生じたから)仲間の猛獣に、狼を置く。 狼;没落した雌牛 このように、鷲をハイエナ、雌牛を狼に置き換えて、寓話のなかに、3頭の別の動物、ライオン、ハイエナ、狼が現われる。 今日誘惑の呼びかけが対立し合っているが、誘惑の呼びかけが響くとき、徐々に鷲は地に降りてハイエナとなり、雌牛はもはや聖なる忍耐強さで万有を象ろうとせず、猛獣の狼となることにより、実際に対立し合うのは、このような宇宙的シンボリズム(象徴)とでもいうものである。 そうすると、以前述べた、あの伝説を、黒人の言葉から、現代文明の言葉へと翻訳する可能性が出てくる。前回、いわば黒人の心情で語らねばならなかった。―――獅子(ライオン)、狼、ハイエナが 狩に出かけた。彼らはカモシカをしとめた。ハイエナが最初に分けることになり、ハイエナはハイエナの論理に従って分け、こう言った、「3等分しよう、三分の一はライオン、三分の一は狼、三分の一は僕のものだ。」すると、ハイエナは獅子(ライオン)に食べられてしまった。 さてライオンは狼に言った、「今度は君が分けろ。」すると狼は言う、「最初の三分の一は君のものだ、君がハイエナを殺したんだから、ハイエナの分け前は当然君のものだ。次の三分の一も君のだ、ハイエナはそれぞれが三分の一取る、と言ったけど、その通りにすれば、どっちみち三分の一は君がもらうのだから、君のものだ。最後の三分の一も君のものだ、君は動物のなかで、一番勇敢で賢いのだから。」 そこでライオンは狼に言った、「君にそんなに上手な分け方を教えたのは誰だい。」狼は言った、「ハイエナが教えてくれたのさ。」――― そこでの論理は両者(ハイエナ、狼)とも同じだが、現実への適用において、ハイエナの論理を適用するか、或いはハイエナの経験を踏まえて、狼が、その論理を適用するかでは、全く異なるものが出てきたわけである。 本質的なことは、現実への論理の適用にあるといえる。 さて、いわば現代文明的なものに翻訳して、これを幾らか別様に物語ることもできる。しかし、ここで語ることは常に、文化の大きな流れにおいて重要なことである。 ここで述べたことは、この物語が現代的に次のように表現されるということである。―――カモシカがしとめられる。ハイエナは後ろに退き、無言の判断(沈黙を守る)を示す。ハイエナは敢えて最初にライオンの恨みを買うようなことはせず、後ろに退く。ハイエナは無言の判断を示し、背後で待つ。さて、ライオンと狼は獲物のカモシカを巡って闘いを始め、闘いに闘い、互いに酷い傷を負い、傷によって共に死んでしまうまで闘い続ける。さて今度はハイエナが出てくる、カモシカとライオンと狼を、これらが死んで腐敗してしまってから平らげる。――― ハイエナは、人間の知性(論理)、人間の本性のなかの死すべきものを具象化しているといえる。ハイエナは、鷲の文明の裏面、カリカチュア(風刺)なのである。 (鷲がハイエナにならないように、地への拘りを捨てる、つまり、人生のなかだけが全てではない。鷲が、ハイエナにならないように、人生に没頭するのではなく、人生のなかの闘争や紛争が静まるまで、後退して沈黙を守るべきである)。
2007年08月27日
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さて、1つ考えてみる、もし中部ヨーロッパが、獅子(ライオン)の語ることにより誘惑されるなら、なるほど、前回描写したような危険(雌牛の機械文明が地球を支配すること)はなくなる(獅子により雌牛が食われるから)。そして、機械装置は次第に、また大地から消えていくだろう。 文明は機械的にはならないが、人間は(獅子の如く)一面的な強さで、風雨のなか、四季の循環のなかに生きている全てのものに委ねられるだろう。人間は四季の循環のなかに、はめ込まれ、そのためとりわけ、呼吸リズムと循環リズムの相互関係のなかで生きざるをえなくなる。 人間は、その不随意の生活が与えるものを、自らのうちに育てていくだろう。いわば人間は胸の性質を特に発達させるだろう。しかし、そうすることにより、人間は、実に誰もが自分自身だけ(の力)で生きようとし、誰も「現在の幸せ以外の他の何かを気にかけることはない」、といったような利己主義が地球文明に到来する。 これに曝されているのは中部ヨーロッパの文明(EU)である、中部の文明は、このような生活を地球文明に科すこともできる。 更にまた、鷲の誘惑の呼び声が西洋(アメリカ大陸)を惑わせるなら、鷲の思考方法と心情を地球全体に広げ、この思考方法と心情のなかに、自身を一面化することに成功するなら、かつて存在していた世界、地球の出発点、地球の初めに存在していた、地上を超えた世界(天空の世界)と、直接結びつきたいという衝動が、人類のなかに全般的に生じてくる。 人々は、人間がその自由と独立のなかで獲得したものを消し去りたいという衝動を得て、人間の筋肉、神経のなかの、神々を生かす無意識の意志のなかでのみ生きるようになる。つまり原始的な状態、太古以来の原始的な霊視へと退行していく。人間は、地球の始まりへと戻ることにより、地球から離れ去ろうとする。 厳密な透視(クレアヴォヤント)眼をもつなら、この事は、更に草を食む雌牛が、絶えず一種の声で人間を貫くことにより、裏づけられ、その声は、次のように語る。 「上を見るな、全ての力は地より来る。大地の作用のなかにある全てに精通せよ。お前は大地の主となろう。お前は、お前が地上で獲得するものを永続的なものにするだろう」と。 さて、人間がこの誘惑の声に屈するなら、前回述べた危険、地球文明の機械化という危険を除去することはできないだろう。というのも、消化動物のアストラルは、現在のものを永続的に、現在のものを不朽にしようとするからである。 一方、獅子(ライオン)の生体機構からは、現在のものを永続させようとはせず、現在を出来る限り素早く過ぎ去らせようとするもの、全てを、絶えまなく繰り返す四季の循環の戯れにしようとするもの、天候のなかへ、太陽光の戯れや大気のなかへと上昇しようとするものが現われてくる。獅子が強い文明は、こういう特徴を現わすようになるだろう。 空中を漂っていく鷲を人間が真に理解をもって観察すると、鷲はその翼に、地球の出発点に存在していたものを記憶として担っているようにみえる。鷲はその翼のなかに、まだ地球内部へと上から作用していた諸力を止めているからである。 言うなれば、いかなる鷲のなかにも、地球の数千年の歴史を見て取ることができる、そして鷲は、せいぜい獲物を捕らえるため以外には、物質を求め、地球に触れることはなく、いずれにせよ、その独立生活の充足のためには地球に触れることはない。 鷲はこの独立生活を維持するとき、空中を旋回する、なぜなら、地上で生成されたものは鷲にとってはどうでもよいからである、鷲は大気の諸力によって歓喜と熱狂を得、地上生活を軽蔑すらし、地球がまだ地球でなかったとき、地球が、その地球存在としての初めの頃、まだ天の諸力に貫かれていたとき、地球自体がそのなかで生きていたような、そのような要素(エレメント)のなかで生きようとするからである。 鷲というのは誇り高い動物で、固い地球進化に参加せず、この固体化する地球進化の影響から身を離し、そして地球の出発点にあった諸力とのみ一体化している動物である。 以上、これらを、宇宙の謎の解明のために、宇宙万有のなかに書き込まれた巨大な文字(霊言語、宇宙言語)とみなすことができるなら、これら3つの動物が、与えてくれる教えである。 というのも、根本においては宇宙万有のなかのいかなるものも、言語として、読む事ができれば、1つの文字となる。つまりこの関連を読むことができれば、宇宙万有の謎を理解できるのである。 コンパス、或いは定規で計測するとき、秤で量るとき、数えるときに行うことをよく考え、それがやはり意味あることだとしても、その際、結局、全てが断片に過ぎないものを組み合わせていることになる。それが全体となるのは、雌牛の生体機構を、その内的な霊性において理解するときである。 そしてこれは、宇宙万有の秘密を読み取ることになる。そしてこの宇宙万有の秘密を読み取ることが、宇宙存在と人間存在を理解することに通じていく。これが現代の秘儀参入の叡智である。これは、今日、精神生活の深みから語られるべきことである。
2007年08月24日
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それでは、このとき一体何が起こるのか? このとき起こることは以下のようなことである。 19~20世紀の経過に伴い、地上で物質科学の影響下にある技術、人類は、この物質技術の生活を獲得した。実際、あらゆる分野における技術は驚異的なものである。自然力は、技術においては、生命のない形で(無機的に)作用し、人類は、この自然力を担ぎ出して、いわば徹底的に地球上に文明の層を形成するのに役立つものとする。 これが秤、標尺、及び数の意味するものである。 秤、物差し、量る、数える、測定する、これが、今日正に物質科学を本職とする今日の科学者、今日の技術者の理想である。 人類は、例えば、「存在を保証するものは何か?」と問われた著名な数学者が以下のように答えるという事態にまで達している。あらゆる時代の哲学者たちは、「そもそも現実(真実)とは何か?」という問いに答えようとしてきたが、この著名な数学者でありかつ物理学者である者は、次のように答える、 「測定可能なものが現実(真実)であり、測定不可能なものは現実(真実)ではない」、と。 これは、いわば、あらゆる存在を次のようにみなす理念といえる、 「あらゆる存在は実験室に持ち込んで、質量(重量)を量り、測定を行うことができ、(物質)科学が、技術のなかに流入するが、この物質科学と猶もみなされているものは、この量られ、測定され、数えられた(観測可能な)ものから組み立てられるとする理念である。」 数、寸法、重さは、文明全体をいわば方向づけを行うように作用すべきものとなったといえる。 さて人間がただ単に悟性をもって、この測定、計算(評価)、重量を量ることを用いている限りは、とりたてて不都合はない。なるほど人間は利口だが、宇宙万有の賢さには遥かに及ばない。従って、測定、計算、重さを量るということに関して、いわば宇宙万有に対してディレッタント(趣味、遊び)的に、様々に行う限りは、とくに不都合にはなり得ない。 けれども、正に今日の文明が秘儀参入に変貌するなら、それが秘儀参入の心情に留まり続けるなら、不味いことになる。 この事が起こり得るのは、正に秤、物差し、数という記号のなかに成立している西洋の文明が、何と言っても東洋において起こること、つまり本来霊的に雌牛の生体機構のなかに生きているものが、秘儀参入学を通じて究明され、溢れるときである。 というのも、雌牛の生体機構に入り込み、栄養分の八分の一が、いかに地上的な重量、つまり量り、測定し、数える全ての負荷に負っているかを学び、雌牛のなかの、大地の重量(重さ)を、霊的に組織するものを学び、牧場に横たわり、消化し、その消化のなかに宇宙からもたらされた驚異を、アストラルに顕現させている、この雌牛の生体組織全体を知るようになると、その観測量、その測定量、その数値を1つの体系に組織することを学び、その事で、文明以外の他全てを克服し、ひたすら一層、量り、数え、測定して、文明から生じる以外の全てを消滅させるような文明を、唯一、そのような機械文明だけを全地球に与えることができるからである。 一体、この雌牛の生体機構の秘儀参入(イニシエーション)は何をもたらすのか? これは非常に奥深い、途方もなく意味深い問いである。 「雌牛のイニシエーションは真に何をもたらすのか?」 例えば、機械を構成する手法というのは、個々の機械により非常に異なる。けれど、まだ不完全な、原始的な機械が、徐々に(調和)振動に基づくものになっていき、つまり、そこでは何かが振動し、この振動、発振を通じて、周期的に経過する運動を通じて、(同期という)機械の効果が得られるが、全てはそのような波動(周波数)の共鳴振動装置になっていく傾向にある。 全ては、このような周期的な機械に収束していく。ところが、一端、このような相互作用を行う機械を、雌牛の生体機構のなかでの栄養分の割合に学ぶことができるような手法で構成すると、その機械によって、地球上に創り出された振動、この小さな地球振動は、地上で生起するものや、地球の上部(大気)にあるものと共鳴し、共振して経過するようになり、この太陽系が、その振動において、丁度、しかるべく調律された弦が、同じ空間の別の弦が鳴らされると共鳴するように、この地球系と共振しなければならないようになる。 これが、雌牛の呼び声が、東洋を惑わせる場合に実現される、共鳴振動の恐ろしい法則であり、その結果、東洋が説得力ある形で、西洋(アメリカ大陸)と中部(ヨーロッパ大陸)の精神性に欠けた純粋に機械的な文明に浸透していき、そして、それを通じて宇宙万有の機械的体系(システム)に正確に適合する機械的体系(システム)が、地上に生み出されることになりかねない。 それと同時に、空気(大気)の作用、循環の作用、そして星々の作用の全てが、人類の文明のなかで根絶されてしまう。例えば、四季の移り変わりを通じて、つまり芽生え、萌え出る春の生命、死滅し衰えていく秋の生命に、人間が参加することで体験するもの、これら全ては人間にとって、意味をなくしてしまう(つまり、季節感がなくなってしまう)。ガタガタと振動する機械の音と、その反響(エコー)、地球のメカニズムへの反応として宇宙から地球へと流れ込んで来る振動の、この機械音の反響が、人間の文明を貫いて鳴り響くだろう。 現在作用しているものの一部を考察すれば、自ら次のように言い聞かせるだろう、 「現在の我々の文明の一部は正に、この恐ろしく没落的な目標に通じる道の途上にある」、と。
2007年08月23日
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現代の秘密というのは、鷲の領域から、鷲を本来鷲足らしめているもの、鷲にその翼を与えるもの、鷲の周りをアストラルに漂っているものが、下へと鳴り響く。人間の下意識に聞こえてくるのは、以下の鷲の本質そのもの(霊言語)である。これは心を惑わす呼び声である: 私の本質を学ぶがよい! 私はおまえに力を贈る、 おまえ自身の頭のうちに 万有を創り出す力を。 鷲はこのように語る。これは、今日人間を一面化しようとする上からの呼びかけである。 続いて第二の誘惑の呼び声がある。これは中間の領域からやってくる、そこでは宇宙の力が、獅子の本性を形成し、宇宙の力が、獅子の本性を構成している(霊言語)、リズムの均衡、呼吸と血液循環の均衡を、太陽と大気の合流から生じさせる。 ここに、いわば獅子の感覚のなかで大気を振動で満たすもの、人間自身の律動組織を一面化しようとするものがあり、これがやはり今日人間の下意識に向かって誘惑的に語りかける。 私の本質を学ぶがよい! 私はおまえに力を贈る、 巡る大気の輝きのなかに 万有を体現する力を。 獅子(ライオン)はこのように語る。 現代人が考える以上に、人間の下意識に語りかける、これらの声には影響力がある。地上での様々な人間の生体機構は、これらの作用を受け容れるように組織されているからで、例えば、鷲の声によって、特に誘惑され、惑わされやすいのは、西洋(の領域)に住む人々である。特にアメリカ文化は、アメリカ大陸に住む人類の特殊な(生体)機構を通じて、鷲が語る誘惑に曝される。 ヨーロッパの中部、古代文化(ギリシア、ローマ)の多くを自らのうちに有し、例えばゲーテを、人生の解放のためにイタリア旅行へと導いたものの多くを、自らのうちにもつ、ヨーロッパの中部は、特に、獅子(ライオン)が語りかけるものに曝されている。 東洋の文明はとりわけ、東洋の地において、雌牛が語りかけるものに曝されている。他の動物(鷲と獅子)が両者とも、その宇宙の領域で鳴り響くように、(雌牛は)地の底深くとでもいうところから、轟き、叫びつつ鳴り響いてくるのは、雌牛の質量のなかに生きるものである。 これは実際、既に以前描写したように、鱈腹、草を食した群が、独特の大地の重力に身を捧げるような形で、この大地の重力下にあること、毎日自分の体重の八分の一を、その重荷のために、自らのうちで交換しなければならないという状況下にあることを、表現するような格好で、牛たちが横たわるのを見るような、そのような、重々しいもの(霊言語)である。 これに加えて、太陽、水星、金星、月の影響の下に雌牛の栄養摂取機構における全てを引き起こす地の底、この地底が、魔物のように轟くような力で、鳴り響くように、次のような言葉の響きで、このような牛の群を満たす: 私の本質を学ぶがよい! 私はおまえに力を贈る、 秤、標尺、数を 万有より奪い取る力を。 雌牛はこのように語る。この誘惑の呼び声に特に曝されているのは東洋である。 ただし、それは次のような意味である、つまり、東洋はヒンズー教における古くからの牛崇拝があるので、成程、当初は東洋の地が、この雌牛の誘惑の呼び声に曝されているが、この誘惑の呼び声が、実際に人類を捉えて、この誘惑の声から生じるものが勝利を得るほどになるなら、正に、この東洋から作用するものが、中部ヨーロッパと西方のアメリカ大陸を抑えて、東洋文明自らを、世界文明の前進を阻む、没落を引き起こす文明であると告知する。 そのとき、大地の魔の力が一面的に地球文明に働きかける(かつてのアトランティス大陸の水没はこのようにはじまったようである)。
2007年08月22日
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14、15世紀以来、近年に至るまで、この地上の人類進化において、鷲の作用は人間の頭を一面的に利用しようとし、獅子(ライオン)の作用は人間のリズムを一面的に利用しようとし、雌牛の作用は人間の新陳代謝と地に対する人間の作用全体を一面的に利用しようとする、という事態が益々強まってきている。 人間が、いわば宇宙の諸力によって三分割されようとしている、そして宇宙の諸力のうち1つの形が常にその他の要素を制圧しようと懸命になっている、というのが現代の徴(シルシ)である。 鷲は、獅子(ライオン)と雌牛を突き落として、その力を無効にしようと懸命になっていて、同様に他の二者も、その都度自分以外の両者の要素を無意味なものに貶めようと躍起になっている。 そして他ならぬ今日の時代、人間の下意識に対して実に絶え間なく、極めて誘惑的なものが働きかけている。 誘惑的なのは、ある種の関連で、それが美しいものとなるからである。意識の表層においては、今日、人間はそれを知覚していないが、人間の深層意識にとっては、人間を誘惑しようとする三重の呼びかけが、宇宙を貫いて波立たせ、鳴り響いている。
2007年08月21日
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雌牛は消化の動物である。 しかし雌牛は同時に、次のような形で、消化を成し遂げる動物である、 「消化というプロセスのなかに、真に地上を超えたものの地上的な模像があり、雌牛の消化全体が、全宇宙を見事に象り(かたどり)、同時に正にアストラルに貫かれる形にある。」 以前既に述べた雌牛の、このアストラル的な生体組織のなかに全宇宙があるが、その宇宙全ては、雌牛のその体重によって支えられ、その宇宙全ては地球の重力が、その効果を現わせるように設えられている。雌牛は毎日、その体重の八分の一の食物を必要とするということを考えてみればよい。人間は二十分の一で満足でき、それで健康も維持できる。 雌牛は、その生体機構を完全に満たすためには、地球の重さを必要としている。雌牛の生体機構は、物質が重さを持つように方向付けられている。雌牛の場合、毎日その体重において八分の一が交換される必要がある。これが雌牛をその質量で地球に結びつけるが、その一方で、雌牛は正にそのアストラル性を通じて、同時に、高次のものの模像、宇宙の模像でもある。 だから、雌牛はヒンズー教の信奉者にとって(以前述べたように)崇拝に値する対象である。なぜなら、ヒンズー教の信奉者は次のように考えるからである、 「雌牛はこの地上に生きている、この地上に生きているというそのことだけで、雌牛は、物質的な重さ、質量のなかに、地上を超えたもの(宇宙)、と言い得るものを象っている」、と。 ヒンズー教の信奉者の意味で語るなら、以上になる。そして、これは全くもって、人間の本性が、正常な生体機構を得るには、人間が、鷲、獅子(ライオン)、雌牛のなかに一面化された、これら3つの宇宙的作用に調和をもたらすことができるとき、つまり人間が真に鷲の作用、獅子の作用、雌牛の作用の合流であるときである。 しかし、いま、普遍的な世界の進展に従い、宇宙の進化に、ある種の危険が、さし迫っている時代に生きている、それは一面的な作用が、人間のなかに現に一面的に現われてくる、という危険である。
2007年08月20日
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獅子(ライオン)は、本来の意味での太陽の動物で、太陽が、いわば自身の力を展開する、太陽の動物を代表している。 獅子(ライオン)が最もよく繁殖するのは、太陽の上(天動説;地動説だと地球の外)にある星々(火、木、土)と、太陽の下(天動説;地動説だと地球の内)にある星々(月、水、金)が、太陽に対して影響を及ぼすことが最も少ない配置にあるときである(地球に金が生成するのも同じ配置)。 このとき、以前述べた奇妙なことが生じる。 つまり、大気を貫いてくる太陽の力が、獅子(ライオン)のなかの、呼吸組織を正に活気づけ、この呼吸組織のリズムにおいて、血液循環リズムと、数(静的)の一致によるのではなく、そのダイナミズム(動的)によって、完全に均衡状態にする。 この呼吸組織のリズムと血液循環のリズムの均衡は、獅子(ライオン)において見事に均衡している。 獅子(ライオン)は血液循環に呼吸抑制を対置し、血液循環は絶えず呼吸の流れを刺激する。この事は、その形の通りに、獅子(ライオン)の口の形態のなかにも見ることが出来ると以前に述べた。獅子の口には、血液リズムと呼吸リズムの驚くべき関係が、その均衡の形の通りに現われている。 この獅子の口はまた、自らのうちに安らぎつつも、大胆に外に向けられているものを意味する。 獅子(ライオン)の独特の眼差しからも見て取ることができ、けれども、この獅子の眼差しのなかに生きているもの、これはまた、人間本性の他の要素、つまり頭部組織と、新陳代謝組織とを連結する、人間の胸部、或いは心臓組織、律動的組織のなかにも生きるものである。 従って、本来の太陽作用というものを、眼前に置いてみると、太陽領域に従って、人間の胸部、つまり心臓と肺を、太陽の活動範囲のなかに置くように、人間を描かなくてはならない、すると、この領域に人間の獅子性質が得られる。 獅子の口;獅子の眼差し=呼吸組織と血液循環の均衡=人間の胸部 次に太陽系の内惑星、地球に近い惑星へと移ると、まず水星領域に至る、これは、特に人間の新陳代謝系、新陳代謝組織の精妙な部分に関わるもので、そこでは栄養分がリンパ性の物質に変成され、更にそれが血液循環のなかへと送り込まれる。 水星領域;新陳代謝組織(栄養分→リンパ性の物質) 更に進むと、金星作用の領域へと至る。人間の新陳代謝系の粗雑な部分、人間の生体組織に取り入れられた食物が、胃からの加工へと至る。 金星領域;新陳代謝組織(胃からの消化) 更に月の領域へと進む。このような体内の消化の帰結を、今日天文学で通常行なわれているように描写しているが、別の描写でも可能だが、ともかく、月領域に至り、月と関係する新陳代謝は、そのプロセスのなかで人間に作用し、人間は月の作用領域に至る。 月領域;新陳代謝(消化の帰結) このようにして、人間を全宇宙のなかに据えた。太陽が、水星、金星、月と一致して実現する宇宙的な作用へと向かうことにより、更に、以前まとめた意味で、雌牛によって代表される動物を受け容れる力を含む領域へと入っていく。 ここで得られるのは、太陽が自身のみにより造るものではなく、太陽の力が地球に近い惑星(水、金、月)を通じて、正に地球にもたらされるときに、太陽が造るものである。これらの力が全て、大気を貫いて流れ込むだけでなく、地球の表面に様々な仕方で浸透すれば、これらの力は地上へと作用する。そしてこの地上へと作用するもの、これは、正に雌牛の生体機構のなかに、外的に具現するのを見る領域、そういう領域に属しているものである。
2007年08月18日
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これまで、鷲に代表される高いところの動物、ライオンに代表される中間の位置の動物、牛、雌牛に代表される地上の動物、これらの動物たちの関係について学んだが、今回は、正にこれら動物界を代表するものたちに対する、人間の内的な形態上の関係から明らかになる観点から、他ならぬ人間と宇宙との関係に注目する。 鷲に代表される、空の動物たちが、その特殊な力を引き出してくる領域、それは霊的に、この動物全体を頭部組織にする、と以前言及した(大気の)領域へと、視線を上げてみる。このような領域を見上げてみると、この動物が、この動物足りうるのは太陽光に貫かれた大気の御蔭であることがわかる。 空の動物の生存は、主に太陽光に浸透された大気の御蔭であるということを通じて、太陽光に貫かれた大気は、いわば、この空の動物により引き寄せられる全てであるといえる。以前、霊的な翼の形態化は、この大気に由来するといった。この空の動物は、いわば大気の本性を、外的なもののなかに有しているといえる。 外界が、この動物から作り出すものが、この空の動物の翼のなかに具現されている。そして、この太陽光に貫かれた空気(大気)から作り出されるものが、鷲の場合のように、外から本質へともたらされるのではなく、人間の神経組織のなかから刺激されるように、(人間の)内部において刺激されると、思考、いわゆる瞬間の思考、直接的な現在における思考が生じる。 マクロ宇宙にある太陽光に満ちた大気は、地上では、鷲の翼となり、人間内のミクロ宇宙では、瞬間の思考になる。 霊的宇宙言語;太陽光に満ちた大気(鷲の翼、瞬間の思考) さて視線を、このような観察により、明らかになる全てから、ある意味、重しをつけて、高い所へと向けてみると、正に、鳥という生物のなかに、静止している大気とその大気へと流れ込む太陽光が示される。しかし、このような場合にも、太陽自体(本性)を観察することはできない。太陽というものは実際、宇宙の様々な領域と関係を結んでいくことを通じて、その力を保持しているからである。 この関係は、人間が、これまでの霊的言語の認識をもって、太陽の作用を、いわゆる獣帯(黄道十二宮)と関係づけることにより表わされる。 従って、太陽の光が、獅子座、天秤座、蠍座から地球に落ちるとき、その太陽光は(その都度)地球にとって異なるものを意味する。太陽はまた、この太陽系の他の惑星によって強められるか、弱められるかによっても、地球にとっては、異なった意味を持つ。 つまり、この太陽系の様々な惑星に対して、様々な関係が生じているわけである。火星、木星、土星といった、いわゆる(地動説では地球の、天動説では太陽の)外惑星に対して、また水星、金星、月といったいわゆる(地動説では地球の、天動説では太陽の)内惑星に対して、異なった関係が生じている。 さて、鷲の生体機構に注目するとき、とりわけ、太陽と土星、木星、火星との共同作用を通じて、太陽の力がどれくらい修正されるか、強められたり弱められたりするか、ということを見なくてはならない。伝説では、「鷲はユピテル(ジュピター)の鳥である」、と語るのもいわれのないことではない。 木星(ユピテル)はそもそも外惑星を代表するものとして存在しているからである。この場合重要なことを図式的に示すなら、万有において、宇宙において、土星が占める領域、木星が占める領域、火星が占める領域を指し示さなくてはならない。 目の前に、土星領域、木星領域、火星領域を置いてみる。すると、土星、木星、火星の太陽領域への移行を見出し、いわば、太陽系の最も外部に、太陽、火星、木星、土星の共同作用が得られる。 そして、空中を輪を描いて飛ぶ鷲をみるとき、次のように言うなら、全くの1つの真実を語ることになる、 「太陽から大気を貫いて流れ込む力、従って、太陽と火星、木星、土星との共同作用から成り立つ力、これが、鷲の全形態、鷲の本質のなかに生きている力である」、と。 鷲の本質=太陽と火星、木星、土星の共同作用 しかし、この力は同時に人間の頭の形成のなかにも生きている。だから、人間をその真の存在に関連づけ(地上では人間はミニチュア像として存在しているといえる)宇宙のなかに据えるなら、頭に関しては、人間を鷲の領域に据えなければならない。 つまり、人間というものは、その頭に関しては鷲の領域に置いて思い描かなくてはならず、それによって上へ向かう力と関連するものが人間のなかに与えられる。
2007年08月16日
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アフリカの黒人部族、フェラタ(中部アフリカのプール族)には、多くを具現する実に素晴らしい喩え話がある。―――あるとき、ライオンと狼とハイエナが旅に出かけた。この動物たちは1頭のカモシカに出くわし、カモシカは、この動物たちの1頭に引き裂かれた。3頭の動物たちは、お互い親しかったので、引き裂かれたカモシカを、ライオン、狼、ハイエナの間で、どう分け合うか、ということになった。まずライオンがハイエナに向かって、次のように言った、「君が分けろよ」、と。 ハイエナにはハイエナの論理があった。ハイエナというものは、生きたものではなく、死んだものに執着する動物である。ハイエナの論理は、ある種の勇気というよりもむしろ、その臆病さによって決定される。勇気とは、それがどれ位あるかに応じて、ある形式をとりながら、現実に向かうことができるものだからである(ハイエナの論理は勇気ではなく臆病さにより決定される)。 ハイエナは次のように言った、「カモシカを3等分しよう。その1つはライオン、1つは狼、もう1つはハイエナ、つまり僕自身が貰う」と。 するとライオンはハイエナを引き裂き、殺してしまった。さてハイエナはいなくなり、また分け前の問題が生じた。 ライオンは狼に向かって言った、「御覧、狼くん、今度は違った分け方をしなくちゃならないね。今度は君が分けてくれ。どういう風に分けるんだい」。 すると狼は言った、「そうだね、今度は違った分け方をしなくちゃならない、もう前みたいにそれぞれ等分というわけにはいかないだろうね。君が僕たちから、ハイエナの分を取り除いたのだから、ライオンとしての君は、当然最初の三分の一を貰わなくちゃいけない。次の三分の一はハイエナが言ったように、いずれにせよ君のものだろう、そして最後の三分の一も君がとらなくちゃいけない、君は動物のうちで一番賢くて勇敢なんだから」。 さて、狼は以上のように分けた。するとライオンは言った、「その分け方を君に教えたのは誰だい」。狼は次のように言った、「ハイエナが教えてくれたのさ」。するとライオンは狼を食べてしまわずに、狼の論理に従って、3つの部分全てを取った。――― この喩え話のように、ハイエナの場合でも狼の場合でも、数学、つまり主知主義的論理は同じで、ハイエナも狼も三分割の割り算を行った。けれども両者は、この知性、つまり数学を、異なる方法で、現実に適用したのである。それによって、運命もまた本質的に変わったわけである。 ハイエナは、分割原理と現実との関わりにおいて、狼とは別のものを与えたので、食べられてしまった。狼は、ハイエナの論理との関係で(狼自身が、ハイエナから習ったと言っている)、この同じ論理を全く別の現実に関係づけたので、食べられなくて済んだのだが、狼はこの論理を、ライオンが狼まで食べてしまう必要がもはや、なくなるように、現実へと結びつけたといえる。 ここからわかるように、ハイエナの論理があり、ハイエナの論理は狼にもあるのだが、その現実への適用において知性的なもの、論理的なものは、全く異なったものとなる。 この話のように、現実への論理の適応は、あらゆる抽象化を伴うものである。抽象化をあれやこれやと現実に適用する、その手法に応じて、抽象化により、宇宙においてあらゆることを為すことができる。 なので、ミクロコスモスとしての人間と、マクロコスモスとの対応のなかのリアリティといったことにも目を向ける必要がある。 人間を単に論理だけで観察する必要はなく、主知主義から、宇宙のなかの芸術的なものへの移行なしには、決して到達できないような感覚をもって、観察できなくてはならない。 主知主義から、芸術的把握への、いわばメタモルフォーゼ(変容)が成し遂げられ、芸術的なものを認識原理として育成できれば、人間のなかに人間(精神)的な手法で、つまり自然科学的な手法ではなく、生きるものが、外のマクロコスモス、大宇宙のなかに、いままで述べてきたように、宇宙(霊的)言語として見出される。 そのとき、真の感覚をもって大宇宙と人間との親和性を見出すことができる。
2007年08月15日
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鳥と同じように、やはり空中に棲息するが、その発生形態が、更に複雑な蝶(および蛾)は霊的言語(アストラル)では、何を示すのか? 蝶(及び蛾)が示すのは、いわば人間の頭の機能の継続のなかに示すもの、頭の力をいわば人間全体へと広げるものということに、辿り着く。そこでは、自然における鳥形成とは別のプロセスに対応することが、人間全体に起こっている。 人間の頭のなかに、エーテル体とアストラル体をつけ加えれば、(鳥の)卵形成のなかにあるものに非常によく類似するもの、ただし変容した状態だが、そういうものがある。 しかし、我々人間が、頭の機能だけしかもたなかったなら、瞬間的思考しか形成できないだろう。瞬時の思考が、我々人間のなかを下降して、人間存在全体を用いることができずに、記憶として、再び浮上することもないだろう(いわゆる記憶喪失の状態)。 外界に沿って形成する、自らの瞬間的思考を見、そして鷲を見上げると、人間は次のように呟けるだろう、 「鷲の翼のなかに、外へと物質化した私の思考を見る、私のなかで、鷲の翼は思考となる、しかし、それは瞬間的な思考である」、と。 自分のなかに記憶として携えるものに目を向けるなら、そこでは複雑なプロセスが生じている。 この複雑なプロセスは、物質体下で、勿論、霊的な方法ではあるが、一種の卵形成が生じている、これは勿論、エーテル体においては、全く別のもので、外界での物質としては、幼虫形成に似るが、アストラル体においては、内的に蛹形成、繭形成に似るものとなる。 人間の瞬間的思考=鷲の翼、 人間の記憶形成=霊的な卵形成→エーテル的な幼虫形成→アストラル的な蛹形成、繭形成 そして、その記憶形成を知覚するとき、同時に思考を解き放ち、(身体の)下方へ送り込むもの、これは、丁度、以上のような蝶(及び蛾)が卵を産むときの状態である。 この記憶形成の変化は、幼虫に生じるものに類似する、つまりエーテル体における生命(幼虫)が霊光に自らを捧げ、内的、アストラル的な繭の織物で、いわば思考を織りなし、成虫となり、記憶が現出する。 鳥の翼を瞬間的思考のなかに見るなら、様々な色に煌めく蝶(および蛾)の翅を、我々の記憶的(想起的)思考のなかに、霊的な方法で現出したものと見なす必要がある。 人間の記憶的(継続的)思考=蝶(及び蛾)の翅 このように外を見渡すと、自然というものが途方もなく、我々人間に親和性を持つものとして感じるだろう。このように考えると、思考の世界を、飛翔する鳥のなかに見ることができる。 以上のように思い出し、以上のように記憶に留めると、我々人間のなかに生きている記憶像の世界を、太陽光のなかで、ほのかに光りつつ、舞い飛ぶ蝶のなかに見ることができる。 実に、人間はミクロコスモスであり、外の大宇宙の秘密を含み持っている。つまり、我々が内から見るもの、我々の思考、感情、意志、記憶のイメージ、これらを、別の側から、外から、マクロコスモス的に見ると、これらを自然界のなかに、鳥、蝶として再認識することになる。 この事は、現実を見渡すことになる。この現実は、単なる思考では理解できない、単なる思考においては、現実というのは、どうでもよいことになる。思考が尊重するのは首尾一貫した論理のみだからである(そこに現実はない)。 しかし、論理では、現実に存在する、究めて様々な事を覆い尽くすことはできない。この事を具象的に理解するために、次回に、論理では現実を説明できないような、ある喩え話をし、更に次回以降の説明につなげていきたい。
2007年08月14日
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さて、このような霊的感性から、意志(牛)、感情(獅子)、思考(鷲)が、外の宇宙のなかに、いかに探求されるか、その照応であるミクロコスモスのなかに、いかに探求されるかが、理解できる。 しかし、人間のなかには、更にまだ色々な別の力があり、外の自然にも、様々な別の存在がある。 ここで1つ、次のようなことに注目する。蝶・蛾となる生物が成し遂げる、1つの変容(メタモルフォーゼ)、変態に注目する。 蝶(や蛾)は卵を産む。卵から幼虫が出てくる。幼虫が卵から這い出してくる。卵は、それ以降の生物の原基全てを円く閉ざしたなかに含み持つといえる。 さて幼虫が卵から出る。幼虫は光に浸透された大気(空気)に触れる。この大気(空気)は幼虫が入っていく環境である。ここで、この幼虫が、今や太陽光に浸透された大気(空気)のなかで、実際どのように生きるかに目を向けてみる。 更に、夜ベッドに横たわってランプを灯すと、蛾がランプに向かって飛んできて、光(火)を目指しながら飛んでいき、光(火)のなかで死んでいくのを探求する。光は蛾に作用して、蛾は死を求める欲望に屈してしまう。このことから、生きているものに対する光の作用がわかる。 生物は、光のなかに死(変容)を求め、それに屈する。 さて、幼虫は(この事を警句的に示唆しておく、次回にはもう少し厳密に考察していく)上方の光源、つまり太陽まで至って、成虫のように、そのなかに突き進むことはできないが、幼虫は本心ではそうしたいと願う(光のなかで死を迎える)。 蛾はベッドの傍らで炎のなかに身を投げ、命を失うが、成虫の蛾が、それを欲するのと同じくらい強く、幼虫もそれを望んでいる。蛾は炎のなかに身を投げ、物質的な火のなかで死を迎える。幼虫も同じように炎を、太陽からやってくる炎を求めるが、幼虫は太陽に身を投げることはできない。 光と熱への移行は幼虫においては霊的なものに止まっている。太陽の作用全体が霊的なものとして幼虫に移行する。幼虫は、太陽光線の1つ1つを追い求める、日中は、太陽光線と行動を共にする。蛾が光に突進して、蛾としての実質全部を光に捧げるように、幼虫も、幼虫としての実質をゆっくりと光のなかに織り込んでいき、夜には中断し、昼にまた織り、自分の周囲に完全な繭を紡ぎ織り上げる。 なので、繭の内部、繭の糸の内部には、幼虫が、大気に流れ込む太陽光のなかで、光を紡ぎ続けて、幼虫自身の実質、幼虫自身から織り上げたものがある。次に、蛹となった幼虫は、物質に変化させた太陽光を、自分自身の実質から自らの周囲に織り上げたといえる。 蛾は物質的な火のなかで急速に燃え尽き、幼虫は自らを捧げながら太陽光のなかに突き進み、追い求める太陽光の、そのときどきの方向に向かって自らの周りに陽光の糸を織りなす。 蚕蛾の繭をとって、繭をみると、繭は織りなされた太陽光で、この太陽光は絹を紡ぎ出す幼虫自身の実質を通して物質化されていることがわかる。 繭により、空間が光により、内的に閉ざされているといえる。ここでは外的な太陽光はいわば克服されている。太陽光によりクロムレック(環状列石)のなかに入り込んでくるもの(この事は、ドルイドの秘儀に関する説明の際に述べられた)は、蚕の繭に相当し、この場合、繭の光は、内的なものといえる。 それまでの太陽光は、物質力を行使して、幼虫が繭を紡ぎ出すよう導いてきたが、今度は内力を行使して蝶・蛾を創り出す、今(繭から)這い出してくる蝶や蛾を創出する。こうして新たな循環が始まる。 これは、鳥の卵のなかに寄せ集められているものが、(プロセスに)分割されて現われたわけである。 この蝶や蛾の変態のプロセス全体を、産卵する鳥の場合のプロセスと比較してみる。 鳥自身の内部では、更に変容させられたプロセスによって、石灰質の殻が周囲に形成される(外の太陽光の内面化である)。蝶・蛾において卵、幼虫、繭のなかに分割されているプロセス全体を、正に寄せ集めるために、鳥の内部では石灰質が用いられる。 このような、例えば鳥の卵のような固い殻を直接円く形成するような処では、全てのプロセスが寄せ集められている。このように、蝶や蛾の別々に分けられたプロセスが、鳥において集約されることにより、鳥の場合、発生のプロセス全体が全く異なったものになる。 鳥においてはこの段階、つまり蝶、蛾の繭の第3の段階まで実現されているものが、蝶・蛾の場合は分割されて現われてくる、つまり、蝶・蛾においては、これが、卵形成、幼虫形成、蛹形成、繭形成へと分割される。このように外的に見ていくことができる。こうして蝶・蛾(の成虫)が這い出してくる。 鳥の発生プロセス(卵形成)=蝶・蛾の発生プロセス(卵形成、幼虫形成、蛹形成、繭形成) 注釈;是のことは、恐らく、ファインマンの経路積分で表せるだろう。 いまこのプロセス全体をアストラル的に追求すると、何に見えるか? このとき鳥は、その形成全体のなかに人間の頭を示す。思考形成の器官を鳥は示す。 宇宙言語(アストラル);鳥の発生プロセス(卵形成)=人間の頭(思考形成の器官)
2007年08月13日
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宇宙(霊の)言語ともいえるべき、これまでの事柄を見て、人間は本来自然全体から生まれ、しかも自らのうちに全自然を担っているということ、これまで示してきたように、鳥の領域、獅子の領域、雌牛の本性を自らのうちに担っているということに辿りつくなら、 「人間は小宇宙である」、 という抽象的な諸説が語ることを成り立させている個々の要因を手に入れることができる。 人間は確かに小宇宙であり、そして大宇宙も人間のうちにある。 空中に棲む動物、地球の周囲を循環する空気(大気)のなかに主要要素(エレメント)を持つ動物、そして大地の下の重力のなかに主要要素(エレメント)を持つ動物、これらの動物は全て、人間において、調和した全体性を成立させ、共同的に作用している。 なので、人間は、鷲、獅子(ライオン)、雄牛または雌牛の統合であると、霊の言語で解釈される。 このような事を、比較的新しい神秘学の観点から研究し、洞察すると、しばしば述べた事だが、古代の本能的な霊視による宇宙の洞察に対して、大いに尊敬の念が生じるだろう、例えば、互いに調和し相対(相応)しつつ1つの全体として人間を形成している鷲、獅子(ライオン)、雌牛または雄牛、人間が、これらから成立することに関する力強い像(イメージ)、このようなものに対して、大いに尊敬の念が湧いてくるだろう。 だが、個々の衝動、つまり例えば、鷲の周囲に漂う諸力のなかにある衝動、獅子(ライオン)の周囲に漂う諸力のなかにある衝動、雌牛の周囲に漂う諸力のなかある衝動、これら個々の衝動について論じる事に移る前に、内的-人間的なものと外部の宇宙のなかに存在するものとの、もう1つ別の照応(コレスポンデンツ)に関して述べる。 さて、今、これまでの事から、この別の照応についてイメージできる。人間の頭は、その性質に合ったものを求め、つまり人間の頭は鳥類に眼差しを向け、人間の胸、心臓の鼓動、呼吸は、自然の隠れされた秘密として理解するならば、獅子(ライオン)に眼差しを向け、人間自らの新陳代謝機構を、牛の体構造と生体機構から理解することを試みなくてはならないことがわかる。 なので、人間は、頭のなかには思考を担うもの、胸のなかには感情を担うもの、新陳代謝機構のなかには意志を担うものをもっているといえる。 つまり、鳥類と共に宇宙を織りなし、鳥の翼に現われているイメージ、地球のまわりを巡り、獅子(ライオン)における心臓の鼓動と呼吸との内的な均衡の生になかに見出される感情世界、これは人間においては幾分和らげられてはいるが、人間において正しく内的な大胆さ(ギリシア語では「大胆な」という言葉を、心臓の特性、胸の特性の意味に作り上げた)を示している感情世界、人間は魂的にも、このイメージと感情世界の模像である。 そして人間が、主に新陳代謝のなかに位置を占めている意志衝動を見出し、これを外的に形態化すれば、人間は雌牛のなかに肉として形態化されているものを見る。 今日グロテスクで逆説的に聞こえること、宇宙の霊的な関連に関して、もはや全くの理解が失われてしまった時代にとっては狂気の沙汰と思われることでも、古くからの風習が示唆している、ある真実を含んでいる。 あのマハトマガンジー(ロマン・ロランが、娯楽とはいえない書物であまり芳しくない記述をしたが)、彼の活動は確かに外に向かうものだったが、その当事、インド民族の内部にあっては、いわばインドへと伝播し進出した18世紀の啓蒙主義者のように、古いヒンズー教に対峙する事項、彼がその啓蒙主義的なインド主義においても1つのこと、つまり牛の崇拝ということは守ったということ、これはやはり、注目に価する現象である。 「牛の崇拝を捨てることはできない」、とマハトマ・ガンジーは言う、既知のように、インドでの政治活動のためにイギリス人から6年の重禁固を負わされた彼が、牛の崇拝を捨てなかったのである。 比較的まだ霊的な文化のなかに強固に維持されている、このような事柄を理解できるのは、上述の秘教的関連を知るときのみ、つまり、消化する動物、雌牛のなかに、どんなに大きな秘密が生きているか、そして、雌牛のなかの、地上的になった、それゆえ低次のものとなってしまった、気高くアストラル的なものがいかに崇めうるものなのか、これを真に知るときのみである。 このようなことから、ヒンズー教における雌牛に寄せられる宗教的な崇拝というものが理解できる、逆に、人々がこの崇拝に加えるありとあらゆる合理的、主知主義的な錯綜した概念からは、決して、この事は理解されないだろう。
2007年08月09日
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さて、今度は、本質的に、地球の直接の環境である大気(空中)において、上空に鳥類として出現するものと、この鳥類と共に、大気、空気(呼吸)の循環に生きる獅子のなかに見えるものとして現われるもの、つまり、これら大気のなかに生きる生物(鳥類と獅子)全てから目を転じて、地上の牛を見てみる。 他との関連で既に何度も指摘したが、満腹した牛の群れが牧場に横たわっているのを観察する際に、牛のその姿勢、目の表情、動きの1つ1つに、消化という営みが表され、観察できるのは魅力的な事である。 例えば、牛の周辺で何か物音をたてた場合の、牧場に横たわっている雌牛を一度観察すれば、雌牛が頭をもたげ、この頭をもたげる動作のなかに、全てが重く、頭を上げるさえが容易でないという感情があり、この雌牛が頭を上げることのなかには全く特別な感情があるということがわかるのは、実際驚くべきことである。 このような頭を高く上げることが煩わしそうな雌牛を、牧場で見れば、雌牛に対して、次のことがいえる、 「この雌牛は、草を食べる以外の目的のために頭を上げることをいぶかっている、『一体、何でまた今、頭を上げなくちゃならないのか、草を食べてもいないのに』。草を食べていないときに、頭を起こすのは無駄な行為の何者でもない」、と。 この様子から、一寸見れば、この動物が頭を上げる動作のなかに、次の事が含まれていることがわかるが、消化は、この動物が頭を上げる動作のなかだけに含まれているのではない。 「雌牛が頭を上げるように獅子(ライオン)が頭を上げることは、想像できない。消化は(雌牛の)頭部の形態のなかに含まれている。」 そこで更に進み、この動物の全身の形態に入っていく、雌牛は実際、全くの進化しきった消化器官の動物とでもいうべきものである。 消化の(リズムの)重さが血液循環に負荷をかけるので、全てが頭と呼吸を圧倒するのである。この動物は全くの消化体といえる。この事を霊的に見ると、眼差しを上空の鳥に向け、それから雌牛を見下ろす場合、実際計り知れない不思議さが生じる。 雌牛を物理的に高く持ち上げても、雌牛が鳥にならないのは言うまでもないが、同時に雌牛のなかの物質のものを移行させることができたなら(まず、地球に隣接する大気の、気体-湿気的状態のなかに雌牛を運ぶこと)、更に今度は、物質のものを、湿気的状態に適した雌牛のエーテルの形姿への変容へと同時に移行できたなら、また雌牛を更に持ち上げ、アストラル体にまで運んでいけたなら、そのとき、遥か上方で雌牛は鳥になる。つまりアストラルに、雌牛は鳥になる。 ここで驚くべきことが心に浮かんでくる、つまり、この事を洞察すると次のように言える、 「鳥が上空で、自らのアストラル体からアストラルに得ているもの、以前述べたように、その翼の形態化に働きかけているものを、雌牛は、その肉のなか、筋肉、骨のなかへと送り込んでいる」、と。 鳥においてアストラルであるものが、雌牛においては、物質になったといえる。 アストラル性において異なって見えるのは勿論だが、真相は以上である。 更にまた、逆に、鳥のアストラル性に属しているものを落とす際に、エーテルのものと物質のものへの変化を引き起こすなら、鷲は雌牛になる。なぜなら、鷲におけるアストラルのものは、消化時には大地に横たわる雌牛のなかの肉へと変化し、物質体と化すからである。 というのも、雌牛にあっては、驚くべきアストラル性を発達させることは、消化の一部であるからで、実際、消化時の雌牛は美しくなる。アストラルに見て、この(雌牛の)消化の内部には、何か途方もなく美しいものがある。 通常の俗物的概念から、正に俗物的理想主義に浸って、消化の営みは最も低次などというなら、霊的観照における、高い見地からの雌牛の、この消化の営みを見るとき、間違い、偽りを犯すことになるだろう。 牛の消化は美しく、崇高な、何か途方もなく霊的なものなのである。 雌牛の肉→エーテル化(気化)→アストラル化→鳥のアストラル体 鷲のアストラル体→エーテル化(気化)→雌牛の肉(物質化) 獅子は消化を、霊性にまで導けない。鳥にあっては尚更である。鳥においては、消化の営みは、ほとんど完全に物質のものに止まる。鳥の消化機構のエーテル体が存在するのは勿論だが、鳥の消化機構のなかにアストラル性が見られることは非常に稀で、ほとんど見出すことは出来ない。 対照的に、雌牛では、消化器官は、アストラルに見て、何か全く崇高なもので、1つの全宇宙といえる。 そこで今度は、人間のなかに、雌牛に似たものを見るなら、更に雌牛が一面的に形成している照応、ある種のアストラルな肉化を見るなら、人間では、それが、消化器官のなかと、消化器官の継続、そして四肢のなかにみられ、それは調和を伴いながら、その他の組織に付加され、組み込まれているといえる。 宇宙言語;雌牛=肉=消化器官と四肢=崇高な宇宙全体 従って、高い上空の鷲のなかに見るとき、獅子(ライオン)のように、動物が直接空気を享受する処に見るとき、動物が、その消化器官のなかで作用し続け、地下の地力に結びつくとき、つまり、人間が高みを見上げる代わりに、地の深い処を見下ろし、深い理解に満ち、雌牛の本質に迫るときに見るとき、以上の鷲、獅子、雌牛が、人間のなかで統合されて1つの調和(ハーモニー)を成し、互いに調停し合う3つの形態を持つことを知るのである。 つまり、それは、人間の頭における鳥の変容(メタモルフォーゼ)、人間の胸における獅子(ライオン)の変容、人間の消化器官及び四肢機構、四肢機構においては更に大規模な変容、大規模な変容がなされるのは勿論だが、この消化器官と四肢機構における雌牛の変容といえる。
2007年08月08日
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獅子(ライオン)の場合は、呼吸と血液循環の間に、ある種の均衡が成立している。 勿論、獅子(ライオン)の場合も、血液循環は(リズムにおいて)重くされているが、それでも、駱駝や牛ほど重くはない。これら(駱駝や牛)の場合、消化が、血液循環に非常な負荷をかける。 獅子(ライオン)の場合、消化器官が、これら(駱駝や牛)と比較して非常に短く、しかもできるだけ速く消化が行われるような体構造になっているので、消化が(血液)循環に対して、酷く負荷をかけることはない。消化器官に対して、獅子の頭部では他方で、呼吸と(血液)循環のリズムの均衡が維持されるように展開している。 獅子(ライオン)は、内(精神)的な呼吸リズムと、心臓の鼓動リズムとが、内的に釣り合いを保ち、正に内的に調和し合い、この2つのリズムを、体内に最も多くもつ動物である。なので、獅子は、獅子の主観的な生活とでもいうべきものに入り込むと、独特の方法で、ほとんど際限のない貪欲さで、その餌食(餌)を飲み込み、つまり獅子は、餌食を身体の下方に送り込む際に、非常に幸福感を感じ、嬉しく感じる。 獅子(ライオン)が餌食に対して貪欲なのは、獅子にとって空腹が、他の動物よりも遥かに苦痛に感じるのは勿論だが、餌食に貪欲であるからといって、獅子がことさら、美食家足ること、多く味わうことに執心しているわけではない。 なぜなら、獅子(ライオン)は、呼吸と血液循環の釣り合いから満足を得る動物だからである。 獅子(ライオン)は呼吸の流れを深い内的満足感をもって、自らのうちに取り入れることにより、呼吸のなかに歓びを感じ、獅子の大食が心臓の鼓動を調節する血液のなかへと移行し、この心臓の鼓動が呼吸と相互に関わり合ってはじめて、また大食した結果を、つまり呼吸と血液循環との内的均衡を、自らのうちに感じてはじめて、獅子は自らの獅子要素(エレメント)のなかで生きることができる。 要するに獅子(ライオン)は、血液が拍動しながら上昇し、呼吸が波打って下降していく、という深い内的満足を得るとき、正しく獅子(ライオン)存在として生きる。 この打ち寄せる2つの波動の相互の接触のなかに獅子(ライオン)は生きている。 この獅子(ライオン)がいかに走り、跳躍し、頭をもたげ、そして、いかに見つめるかを見れば、均衡から出現するものと再び均衡に至るものとの、絶え間ないリズム交替へと全てが還元されることがわかる。 つまり、獅子は、均衡の乱れから再び均衡へと至るなかに喜びを感じる動物である。 この独特な獅子(ライオン)の眼差し、自ら発して、多くを見る、自ら発して、内的な克服、相対する働きの克服を見つめる、この獅子の眼差しほど秘密に満ちた気分にさせるものは、ほとんどないといえる。 獅子(ライオン)の眼差しが外に向かって見ているものは、すなわち、呼吸リズムによって正に完璧な仕方で行なわれる心臓の鼓動の克服である。 呼吸リズムによる、心臓の鼓動リズムの均衡化、克服に、獅子の眼差しが向けられている。 形態を芸術的に把握するセンスを持つ人は、獅子(ライオン)の口、つまり獅子(ライオン)の口の構造、つまり、心臓の鼓動が、この口のところまで上昇してくると、呼吸がそれを押し止めることを示す、この獅子の口の構造を見るとよい。心臓の鼓動を、獅子の口は、呼吸により、押し止めている。 心臓の鼓動と呼吸のこの相互の接触を心に描き出すなら、獅子の口に至る。 つまり、獅子の口とは、心臓の鼓動リズムと呼吸リズムの均衡調整(制御)を表しているといえる。 心臓の鼓動リズムに対する、呼吸リズムの克服を、獅子の口と呼ぶ。 このような獅子(ライオン)は正に胸部器官に他ならない。 獅子は実際、その形姿のなかに、その生態のなかに、正しく律動組織を表わしている動物である。獅子は、この心臓の鼓動と呼吸の交替を、その心臓と肺との相互関係においても表わすように組織化されている。 宇宙言語;獅子=口=律動胸部器官=鼓動(心臓)と呼吸(肺)の均衡形成 従って、実際次のように言うべきである、 「最も鳥に似たもの、鳥に変容(メタモルフォーゼ)させられたものを、人間で捜すなら、人間の頭である、最も獅子に似たものを人間のなかに捜すなら、人間の胸の辺り、循環リズムと呼吸リズムが互いに出会う胸の辺りである」、と。
2007年08月07日
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しかし、更に意味深い側面がある。 空中の鳥を、例えば堂々と彼方へと飛び去る鷲を見てみる。 いわば外に現われた恩寵の賜物のように、太陽光線は、その作用をもって、鷲にその翼を与え(他の作用に関しても述べていく)、その角状の嘴を与えた。 この鷲がどのように空中を飛んでいるかを見てみる。 このとき鷲には、ある種の力が働きかけている。太陽は、通常話題にされる物理光、及び熱力だけを持っているのではない。ドルイドの秘儀に関して、私(シュタイナー)が述べたときに、注意を喚起したことだが、太陽からは霊力も放射されているからである。 この霊的な諸力に目を向けなければならない。 様々な鳥類に、多様な色彩と、独特の翼の形態を与えるのは、この太陽の霊力である。 太陽の作用を、霊的に見通せば、鷲が、なぜあの翼を持つのかが、理解できる。 このように、この鷲の本性に正しく沈潜し、霊的なものをも含む、内(精神)的で芸術的な自然理解の発展を理解し、また、後に述べる、この他の衝動により、強化された太陽衝動から、いかに芸術的に、それらが創造されるかを見て、更に、鷲が卵から這い出す前から、いかに、この太陽衝動が、いわば鷲へと溢れ漲っていき、いかにその魔術力を翼へと顕現させ、或いは本来、もっと良い言い方をすれば、いかに、その魔術力を筋肉の形態へと送り込むかを見て、一体これは人間にとって、どのような意味があるのかと問うなら、その霊力は、人間にとって、その脳を思考の担い手にするものを意味する。 なので、鷲を見て、次のようにいうことができる。 「マクロコスモスの、大いなる自然を正しく見れば、鷲は翼を持ち、その翼は色様々の、多彩な翼で、この翼のなかに生きている力は、人間の脳を思考の担い手にすることにより、人間のうちに生きている力と同じである」、と。 「人間の脳に皺(しわ)を刻み、脳が、内的(精神的)な塩の力、思考の基礎である塩の力の取り込みを可能にするもの、人間を思考者にするために、人間の脳を創り出すもの、これは、空飛ぶ鷲に翼を与える力と同じ力である」、と。 この霊の言語を理解すると、我々人間は思考することで、自らのうちに、いわば鷲の翼の代用品を感じつつ、(鷲に)親近感を生じるようになる。 物質レベルから、アストラルレベルへと上昇すると、次のような逆説的発言をせざるを得ない。 「物質界においては、アストラル界の思考形成を引き起こすのと同じ力が、翼の形成を引き起こす」、と。 この(霊)力は鷲に翼の形成を生じさせるが、翼は思考形成の物質相である。この霊力は人間に思考形成を生じさせ、翼形成のアストラル相でもある。このような霊言語の事柄が、驚くべき方法で民族の言霊のなかに表現される事がある。 一本の翼を上部で切り取り、その内部に存在するものを取り出すとき、その民族は、この翼の上部を、魂と呼ぶ。 確かに、このような魂という命名に、外面的な形態の表示を見る人もいるだろうが、魂は外面的な形態の表示などではなく、物事を洞察する人にとっては、一本の翼が、何か途方も無いものを含み、思考形成の秘密を内包しているようにみえる。 宇宙言語;鷲=鳥=翼=頭=思考形成 今度は空中に生息する鷲から目を転じ、また別の代表を見るために、獅子(ライオン)のような哺乳動物を見てみる。 獅子(ライオン)を真に理解するには、獅子が、その環境を生きるのに、いかなる喜びと満足を持っているか、ということに対する感覚を発達させることが必要となる。 獅子に似ていない動物は、獅子ほど驚くべき、秘密に満ちた呼吸を行っていない。 動物という存在にあってはいかなるものも、呼吸リズムと循環(代謝)リズムが一致している。ただ、循環(代謝)リズムは、代謝にぶら下がっている消化器官により重くなり、呼吸リズムは、脳形成という軽さに到達しようと上昇を目指すことにより、軽くなる。 鳥の場合においても、鳥の呼吸のなかに生きるものが、同時に頭部にも生きる状態にある。鳥は全くの頭そのものであり、鳥はいわば外的に、宇宙のために、その頭を担っている。 鳥の翼の形が鳥の思考である。 美に生きることのできる、正しい自然感情にとって、本来、実にありありと具象化した、内的に生気を得た人間の思考が、鳥の翼と親和性を持つことほど、心を動かすものはないといえる。 このような事柄において、内的実践(瞑想等)が可能な人は、自分が、いつ孔雀のように考えているのか、いつ鷲のように考えているのか、いつ燕のように考えているのか、全く正確にわかる。 一方はアストラル(思考形態)で、他方は物質である(鳥の翼)ということは別として、これらは全くもって驚くべき形式で対応している。 思考形態と翼は、アストラル体と物質体として対応している。 なので、次のように言うことができる、 「鳥は、非常に(頭部)呼吸を主とする生を営んでいるので、他のもの、血液循環その他が、ほとんど消失している」、と。 消化(代謝)(リズム)の重さ全般、血液循環の重さすら、鳥にあっては、自ら感じることから排除され、存在しない。
2007年08月06日
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秘教の考察においてよく言及され、四季とミカエル問題に関する「四季の宇宙的イマジネーション」でも、ある役割を果たしていたのは、 「人間とは、その全体構成と、人生の関連において、全人間として、根本的に小宇宙、大宇宙のマクロコスモスに対するミクロコスモスを示し、人間は、実際、自らのなかに、全宇宙法則と、宇宙の全秘密を含んでいる」ということである。 ただし、この全くの抽象的諸説の完全理解が容易であるなどと考えてはいけない。いわば宇宙の多様なる秘密の奥深さに潜入してから、この秘密を人間のなかに再発見しなければならない。 さて、今回はこの事を、一方では、ある出発点から宇宙を見て、人間が、いかに小宇宙として大宇宙の内部に存在するかを理解するために、人間を見、観察していこうと思う。 大宇宙について語るには、常にその小さな断片でしかないのは当然の事で、決して完全なものを叙述できない、完全な記述を目指すには、観察に際し、少なくとも全宇宙を隙間なく、歩き回る必要があるからである。 最初に、我々のすぐ上に出現するものに目を向けてみる。人間の周囲のなか、動物種のなかで、生を空中で営むもの、しかも非常に際立った方法で、空中で生を営む部類の、つまり、鳥類を見てみる。 空中に住み、生存条件を空中から得ている、鳥というものが、大地に接して棲み、もしくは地下に棲むことさえある、他の動物たちとは本質的に異なって構築されているということは、誰も否定しないだろう。鳥類を見るとき、一般的に、人間の通例の見解に従って、鳥の場合にも、頭部、四肢その他に関して語らざるをえないと思うのは当然である。 しかし、このような見方は、根本的にまさに、芸術的でない観察方法である。既によく注意を促してきたが、元来、真に宇宙に精通するなら、主知主義的な理解に止まることはできず、主知主義的な見解は、次第に、宇宙の芸術的な把握に移行していかざるを得なくなるだろう。 さて、芸術的な把握に向かうには、他の動物の頭、頭部と比較して、実際きわめて奇形化している、鳥の頭部を、真の頭部と理解することはない。確かに、外面的、主知主義的に観察すれば、鳥は頭を1つと胴体を1つ、そして四肢を持っていると言えるだろう。 しかし、よく考察するならば、例えば、ラクダの脚やゾウの脚と比べて、鳥の脚は、いかに萎縮しているかがわかり、また、ライオンやイヌの頭に対して、鳥の頭は、いかにも萎縮しているようにみえる。このような鳥の頭部のなかには、規定通りのものは、ほとんど全くといってよいほど、存在していないのである。 つまり鳥の頭部のなかには、根本的に、イヌや、ゾウやネコの場合のような、前方の口吻部以上のものは、ほとんど存在しない。哺乳動物の口の部分が少しばかり複雑になったもの、これが鳥の頭である。それに哺乳動物の四肢は、鳥の場合には完全に萎縮している。 なるほど、芸術的でない観察方法は、鳥の四肢についても単純に、前肢が変形して翼になったと言う。しかし、それらは、全く芸術的でない見方であり、イマジネーション(霊視)的でない見方である。自然を真に理解するには、宇宙の内奥へと真に潜行し、芸術的な見方をもっと深く、特に、その形態化する諸力と、形成する諸力に関して観察する必要がある。 単純に「鳥も頭と胴体と四肢を持つ」、というような見方は、けっして、例えば、鳥のエーテル体を観る事を、真に理解できるには至らない。というのも、イマジネーション(霊視)的に観ることを通じて、鳥のなかの物質的なものを見ることから、鳥のエーテル体へと移行すると、エーテル的な鳥にあっては、正に頭しかないことに至るからである。 エーテル的な鳥から即座に理解できる事は、鳥は、他の動物の頭、胴体、四肢とは比較できず、鳥は単なる頭として、正に変形された頭として、理解する必要があるということである。 従って、本来の鳥の頭は、単に口蓋と前方の部位、口の部分を示すにすぎず、さらに後方へ続くもの、骨格のうち肋骨や脊椎に似て見える部分、これらは全て、変容され、変形されてはいるが、やはり頭とみなすべきものなのである。 元来、鳥全体が頭なのである。鳥を理解するなら、実際、惑星としての地球進化を、遙かな昔まで遡っていく必要がある。 鳥は、長い惑星的(惑星進化的)な歴史を経てきている。鳥は、例えば、ラクダなどより遙かに長い惑星的歴史を経てきている。ラクダは、どの鳥よりも、ずっと後になって発生した動物である。ダチョウのように、地上に縛りつけられた鳥は、最も後期になって発生した鳥である。鷲、ハゲタカといった自由に空中に生きる鳥たちは、非常に古い地球動物である。 以前の地球紀、月紀、太陽紀において、後に、これらの鳥のなかへ入って、内部から外に向かい、皮膚にまで移行したものを、鳥自身として、その進化紀に、全てもっていたが、今日の、翼の中や、角状の嘴の中に見るものは、本質的には後期になってから完成された。 鳥の外形の起源は、遅く(後期に)できたもので、鳥が、その頭部の性質を、比較的早期に作り上げたことによりもたらされ、地球進化の後の時代になってから、鳥に入り込んでいった諸条件の下では、鳥は、翼の原型を、外形として、付け加える事ができるだけであった。鳥の翼は、例えば月と地球により、鳥に与えられたのだが、他方、鳥のその他の性質は、更にずっと以前の時代に由来する。
2007年08月03日
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これまでシュタイナーの四次元の講演を基にまとめ、最後に質疑応答をまとめてきた。今回がその討論として、シュタイナーの四次元の最終回となる。■討論: これまでのまとめから分かると思うが、我々が実際触れることのできる空間と視覚的な空間を区別する必要がある。この相違は、一方では数学に関して、他方では物理的世界に関しての考察を超えて進むように、我々を促す。 四次元に関するこのまとめから分かることは、数学が人間精神、或いは人間そのものから産み出されたということが真実であることに変わりはない。そして、純粋に数学的領域(数学的意味で規定される領域の事)の中に益々、入り込むに従って、現実を包括的に理解することが少なくなる。これまでのまとめから、現代の人々が数学を用いて現実を記述しようとしたとき、繰り返し生じてきた困難をみてきた。 例えば、もし、無限に大きな球から(2次元)平面への移行を考えるなら、この射影幾何学の基礎と、現実に関する通常の思考、周囲の世界との経験的な相互作用に基づく思考とを調和させることが、ほとんどできないことがわかる。従って、我々の仕事は(適切な教育というバックグラウンドを持っている多くの人々は大いに働かなければならないが)、非常に具体的な領域で、現実の理解のために数学的思考を用いるように努めるということである。 この点に関して、1つ問題を提起してみる。この問題を成功裏に解くには、数学者たちがこの問題に向けた真剣な取り組みを実際に始めるときだけである。 触ることができる空間に関して理論的な説明を行った。今、触覚という地上的経験全て、実際、これこそいま我々が取り扱っているものだが、この触覚を必然的に取り込むような形式でこの触ることができる空間を扱ってみる。それには(その空間に)本質的に備わっている次元を含めて、我々の触覚経験全てを、重力に対する関係性の中に組み込まなければならない。 我々は重力の影響下にあり、周辺の異なる方向からやって来る種々の求心力を基にして、微分方程式を立てることができる。触ることができる空間に関しては、これらの微分方程式を、解析幾何学や解析動力学の中で、定義された運動方程式を扱うような形式で扱わなければならない。そのとき、これらの方程式の積分が可能になるが、それは触ることができる空間における、我々の経験に対する特定の積を与える一方、微分は常に我々をその現実から遠ざける。 これらの微分を積分することによって、以前述べた図式が得られる。もし、現実へと回帰するなら、このまとめで示したように、この積分を遂行しなければならない。現実に触ることができる領域においては、積分方程式を用いて遂行しなければならない。触るということに関しては、垂直次元が一定である微分量(dy)を有し、そのため、この式における変数xにはプラスかマイナスの符号がつかなければならない。このことによって、触ることができる空間に関する我々の経験に対する積分式を立てることが可能になる。そのことを次の式で表してみる。 ∫f(x)dy(触れることができる空間) その結果、触ることができる空間についての我々の経験に対する積が得られる。 さて、先に進み、視覚的な空間に、この同じ原則を適用してみる。ここでもまた、我々は、解析幾何学や解析動力学の中で定義された運動方程式を扱うのと同じ形式で扱う微分方程式を立てなければならない。その積分では、全く同様の積が得られるが、(最初の式では、変数xの符号が正であったことを考慮して)その積は負であると考えなければならない。積分をこのように扱うときには(細かいことは全て省略するが)、1つの解が得られ、それはまた別の方程式へと導く。 -∫f(x)dy(視覚的な空間) けれども、触れることのできる空間に関する前の積分式から、視覚的な空間に関する別の積分式を差し引くと、それらは互いに打ち消し合い、その結果、ゼロに近づく。 つまり、視覚空間に関しての積分は、触れることができる空間に関する積分を打ち消すような積分結果が得られる。そして、触れることができる空間に対する積分で思い出すのは(とはいえ、それはより広範なものだが)一般の解析幾何学や動力学に関連した状況や関係性のために必要とされる多くの方程式である。唯一の相違は、動力学の方程式には重力が含まれなければならないということである。 もし、視覚の空間的側面を数学的な言葉(数式)で表現する正しい方法を見つけることができさえすれば、私(シュタイナー)は視覚的な空間に対して適用可能と考えられる積分を得る。我々が常に行っているのは、些細な例から始めて、視覚に関する解釈を構築し、そして、視覚空間を考えるときには避けられない垂直方向の運動を考慮するのを忘れてしまうことである。 視覚は常に重力とは反対の方向に働くことを強いられることを認めなければならない(なぜなら光は重力の反対方向に働くからである)。この事実を考慮すると、積分を一方では動力学に、他方では光学に関連づけることが可能になる。このようにして、我々は、現実の状況を包括する使用可能な積分において、動力学、光学、或いは、その他のものを定式化する。しかしながら、積分間の差がゼロであるというのは全く正しいというわけではない。それは1つの微分量であり、ゼロと書く代わりに、次のように書かなければならない。 dx=+∫f(x)dy-∫f(x)dy もし、以上の積分と、その結果得られる微分を繰り返し探求することで、dxに対応する微分方程式を導出するなら、dxが正なら、正で、負であれば、dxは数学的な意味で虚数であることが分かる。 けれども、もし、その結果として得られる微分方程式を積分するならば、その結果は驚くべきものとなる。その問題を正しく解くなら、自らこの事を経験できる。このステップは音響、音響式へと導く。このような導出から、内在する現実の理解のために、真に数学を用いたことになる。 垂直軸上の下方には動力学、上方には視覚(何故なら、光は負の重力に等しいからで)を配さなければならないのに対し、聴くことは水平軸上において生じるということを学んだ。これらの計算式を立てるときには、ラグランジュの等式(ラグランジアン)の結果として、一方には数学があり、他方には物理学があるという不一致が観察されるばかりでなく、この基礎の上に、数学と物理学の領域においてなされ得る仕事が、以前、系統発生学の領域において、私(シュタイナー)が指摘した仕事と正に同じくらい生産的であるということが分かる。 注釈;dx=+∫f(x)dy-∫f(x)dy =(触れることのできる空間)-(視覚的な空間) =(物理学、動力学)-(数学) =(重力)-(光学) =(音響学) この線に沿って(単に記述的な考察を通してではなく、これらのことを遂行することにより)現代の自然科学と人智学の間の相違を見出す。我々の計算が具体的な現実にしっかりと根付いたものであることを示さなければならない。 注釈;シュタイナーが導出したこの積分を用いた微分方程式は、いまでは、ラグランジアン量として、光の最小作用の原理を表現する式として、現代物理学、主に理論物理学の基本方程式となっている。 ここでいう(触れることのできる空間)とは、空間内の物質等の質点の運動量で、(視覚的な空間)とは、空間内のポテンシャル量を表すものとなる。光はその釣り合いの軌道を通る、つまり、運動量とポテンシャルの差をゼロにするような最短の距離を通るというのが光の最小作用の原理の意味である。 現代理論物理学では、まず、この光の最小作用の原理であるラグランジアンを基準にして、数式の議論を始めるのである。量子力学も、量子場の理論も、超弦理論でさえ、このラグランジアンからはじまるのである。 ちなみに、これに対して、物性物理学では、エネルギー保存則の立場のハミルトニアンからはじめる場合もあるが、それは素粒子よりも、やや大きい物理量の物質を扱うからであると思われる。 さて、このラグランジアンの原型の式を、シュタイナーは、音響式と呼んでいる。それは恐らく、波動方程式のようなものを考えていたのだろう。マクスウェルの電磁方程式は、この音響式を発展させたものと考えることができる。アインシュタインの一般相対性理論の式も、この音響式を発展させたものともいえる(まぁ、全ては光の最小作用の原理から導出されるので、類似するのは当たり前といえば当たり前だが)。 この音響式を発展させ、人間概念化させると、 (聴力)=(意志力)-(視覚力) という関係に表すことができる。
2007年08月02日
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■質問:アインシュタインは、時間-空間連続体(時空連続体)は4次元であると言っている。もし、この理解が正しければ、シュタイナーの説く四次元は二次元になる、何故なら、「四次元軸は、負の三次元軸である」といったので、イマジネーションの世界とアインシュタインの時空連続体との間には、なんらかの結びつきがあるという意味で説明できるのか? 通常の科学的思考に従えば、イマジネーション空間とは平面と結論せざるを得ない。なので、イマジネーション的な世界は3次元空間中における非常に特別な平面ということになる。それが真っ直ぐで平坦である必要はなく、同じ場所に(固定して)留まる必要もないが、いかなる瞬間においても、その存在を確かめることができなければならないものといえる。 このテーマに関しての私(質問者)の考えは恐らく人智学の線に沿ってはいないが、人智学が、この事に関して何を語るのかを知りたい。 シュタイナーの応え; 多少のコメントを除いて、この質問者の考えは人智学の線に沿ったものといえるが、付け加えたいのは、抽象的レベルではなく、現実レベルで、3次元から4次元への移行を試みるときには、4次元を記述するためには、負の記号を用いる必要があるというのは、完全に正しいということである。 それは、丁度、負債が貯蓄をキャンセルするように、4次元への移行は、3次元軸成分を取り除く、つまり、キャンセルするということである。 状況をそのようにイメージする以外に方法はないが、もし、抽象的に、性急に求めるなら、益々多次元からなる存在形式を取扱う「無限の後退(負の領域)」へと至るだろう(多次元空間になるほど、空間の次元軸がキャンセルされるような負の値を取る)。 注釈;例えば、5次元ならば、x+y+z-z-y、 6次元ならば、x+y+z-z-y-x 7次元以上は、-(マイナス)次元の空間になる。 しかし、これは抽象的な方法を続けることであり、状況を実際(現実)に見ることを根底においたものではない。イマジネーション(霊視力)の世界に入るとき、真に、幾何学から借りてきた表現を用いるならば、平面(2次元)の世界に直面する。 そのとき、時間平面(2次元の時間軸のみ)の世界に直面する。この世界の奇妙な特徴の1つは、もはや空間の第3次元(深さ、奥行き)に戻って、関連づけられないということである。 この事の理解は困難を究めるが、射影(微分)幾何学において、類似の状況を見出せる。射影幾何学では、もし、実際に3次元世界に境界面を課すなら、3次元の境界の表面として、球面というよりはむしろ平坦な表面を考えるように強いられるからである。 つまり、射影幾何学は3次元空間が平面によって境界づけられているものと仮定する。3次元の境界に至るとき、見出すのは平面だが、そしてその平面の極限は、円というより、むしろ直線として想像され、この直線の境界は2つというより、むしろ1つの終点をもつ(次元が一つずつ減らされる)。 この時点において、思考と、知覚の関係は、平面を3次元空間の境界として、直線を平面の境界として、そして、直線の極限として無限に遠い1つの点を考察することになるが、どんなに首尾一貫したものであろうと、その完全な一致をみるのは不可能となる(思考では次元は減らないが、知覚では減る)。 射影幾何学に関しては、以上の考えは現実的で、射影幾何学は、イマジネーション(霊視力)の世界の中で発展(発達)する知覚へと、その作用を及ぼすことができるが、イマジネーション(霊視力)の世界においては、(2次元時間)平面の中に存在するとき、この(2次元時間)平面を、その座標から規定することにより、3次元空間へと関連づけることはできない。 それは実際、3次元空間以上に(次元を無作為に加えられ)引き上げられたものとなり、どこにでも、あらゆる処に存在するものとなる(多様体のファイバーバンドルの発想法と類似)。この事を想像するのが困難なのは、3次元空間の中での視覚化に我々が慣れているからである。だが、イマジネーション(霊視力)の世界は3次元空間中に存在するのではなく、3次元に関する規範は当てはまらない。 イマジネーション(霊視力)の世界に類似したものを、芸術の中に見出せるが、それは色彩を基盤として絵を描くときである。絵画を描くとき、平坦な表面上の紙面で作業を行うが、もし、曲がった曲面の紙面上で作業を行っても、その曲面の描写中に、霊視力の起源を持つのではなく、別の状況に発するものである。 平面上の紙面に描くとき、絵画表現の可能性は、描写される遠近法に限定されない(幾らでも奥行きを広げられる)。遠近法により、奥行きの表現が限定されないのは、比較的最近発見されたことで、遠近法が現れたのは絵画の歴史の中でも非常に最近のことで、僅か数世紀前のことである。 しかし、このような構図による遠近法(両眼の重ね合わせの像による遠近法)に加えて、色彩に本来備わっている遠近法を用いることもできる。 私(シュタイナー)は、色彩の遠近法のような原理を、ドルナッハでの絵画の中で用いてきた。思考というよりは、むしろ感情と色彩の基盤の上では、黄色は、見る者に向かってあまりにも強く向かってくるように感じるために、黄色は、ほとんど攻撃的な印象を与えると言える。 反対に、青を用いて描くときには、退く印象を与える。しかし、どちらの色も同じ表面上にある。 このように、2次元的な広がりだけしか使用できないときでも、3次元的な現象を表現できる。これは、2次元の状況の視覚化を助ける例であって、本来、イマジネーション(霊視力)の世界は絵画の世界と同じではない。 この質問の中に表現される考えは人智学にとっても、全く真実だが、本当に、イマジネーション(霊視力)の世界が、アインシュタインの時空連続体との結びつきを有していると無条件に言うことはできない。 アインシュタインの時空連続体は、知覚というよりは抽象理論に基づいている。その第4の次元成分は、他の3つの次元成分と類似のものとして構築されているが(これは時間が、空間により代替的に示されているから)、空間中の客観的(3次元空間)認識から、イマジネーション(霊視力)の世界を認識するには、第3の次元が、時間軸の負号によりキャンセルされなければならず、このように空間的な意味で表現できる真の超感覚的認識へと移行するときには、アインシュタインの時空連続体では、表現できない(アインシュタインの時空では、第3軸はキャンセルされない光円錐になる)。 次に述べることは、人によっては非常に挑戦的に思われるかもしれないが、それでも、実際私(シュタイナー)が経験したことである。現実には、状況は次のように見える。 つまり、「健全な常識を持って客観的世界の中で活動するとき、その方向性は空間の3つの次元だけから導出される。第1の次元は直立姿勢(上下)の中に、第2の次元は、左右の次元の中に、そして、第3の次元は、両眼で焦点を合わせる中に本来備わったものである。」 イマジネーション(霊視力)の世界の中にいるときには、これら3次元中に住んでいるのではなく、そこでは、2次元中に住んでいる。もし、この次元の空間中での位置を示すなら、人間の位置を通過する垂直の断面を取るべきだろう。イマジネーション(霊視界)においては、上下と左右の次元についてだけ語ることができる。 イマジネーションの世界の中で移動するとき、持ち歩くのは以上2つの次元だけで、それらが、空間中の直交座標系に関連すると言うことができないのは、この理由による。ユークリッド幾何学の意味でそれらを規定することはできない。 しかし、我々の知覚にとっては(3次元空間は)現実的である。イマジネーションの世界(霊界)の文脈の中で3次元について語ることは無意味である。我々は、2次元に関する経験、客観的世界においては持つことができない経験を扱っているということに気づくべきである。 イマジネーション(霊視力)の世界においては2つの次元が、インスピレーション(霊聴力)の世界においては1つの次元だけが現実である。全てのインスピレーション(霊聴力)は、もし、真に、空間に割り当てたいのであれば、上下に動く軸である。 インテュイション(霊人力;天地合一力)は(0次元の)点のようだが、それを座標系に関連づけることはできない。これらの高次領域においては、ユークリッド空間に立ちかえることはできないのである。 注釈;今回も非常に難解だが、要するに、シュタイナーの説くところは、物質世界と精神世界があるということである。我々は知性に対する過度な信頼性により、物質世界のみを現実と考えているが、宇宙には、精神世界が存在し、物質世界を感覚知覚能力により現実として把握するように、精神世界を、霊視力、霊聴力、霊人力(天地合一力)により、現実として把握できるという。 精神世界を、物質世界の数学を基に表現するなら、マイナスの次元を加えるものとなり、高次元に行くに従い、空間が、時間により一つずつキャンセルされるというのである。端的にいえば、物質世界は空間の世界で、精神世界は時間の世界であるという。 なので、アインシュタインの特殊相対論の時空概念は、時間を負の空間として代替的に記述するもので、中途半端なものとなっている。この点を、シュタイナーは、抽象論の上で、霊視力世界と結びついているといっているが、その本質は、真の時間軸平面という意味で異なっていると説くのである。 精神世界を把握するには、瞑想を行い、色彩の遠近法のようなものをイメージ強化する必要があるという。中世の魔術師は、瞑想のなかで金属をイメージしたという。その伝承が錬金術の秘術として残っている。ピュタゴラスやプラトンは、これを数学的なイメージに昇華させたという。つまり、哲学は、それら霊視力、霊聴力、霊人力の獲得秘術なのである。 これら高次の世界を認識できるようになると、周囲に、神々の意志や叡智を直接体験できるという。古代の神殿では実際このような秘術が行われ、神々との対話の場になっていたという。勿論、いまでも、この秘術、一般には秘儀参入法と呼ばれているが、この霊能力を開発すれば、神々(一般には天使と呼ばれるが)と対話が可能なのである。 しかし、我々はあまりにも、3次元物質空間の感覚に慣れすぎているので、準備もなく、いきなり、高次元世界(精神世界)を覗くと、魂が凍りつくような恐怖に襲われるという。それはまるっきり物質世界とは逆の(鏡の)世界なので、我々から発するものが、我々に襲いかかるようにみえるという。 なので、我々のなかに邪悪な精神があると、たちまち、その邪悪な精神に脅かされるのである。死とは、この魂を凍りつかせない一種の儀式、準備といえるだろう。死んだ感覚がないと、魂は自縄自縛の混迷を究めるという、このような状態の魂を自縛霊と呼ぶようである。自分で自分を自虐的に襲い続けるのである。
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