全28件 (28件中 1-28件目)
1
3年、或いは6年経っても、立方体はやはり同じだが、百合(植物)の実生は変化する。 何故なら、時間が百合にとって本当の意味をもっているからで、百合のなかに見るものは、4次元的な百合存在の3次元的なイメージに過ぎないという。時間とは、4次元の、或いは有機的な生命の、物理世界という3つの空間的な次元のなかへの投影、もしくはイメージであるという。 連続するそれぞれの次元が一つ前の次元と、どのように関連するか、ということを明確にするために、次のような一連の思考を追ってみる。 立方体は3つの次元をもち、3番目の次元をイメージするために、それが2番目に対して直角であり、そして、2番目は1番目に対して直角であることを想像する。 それら3つの次元の特徴は、お互いに直角であることで、また第3の次元を次の次元、つまり、第4の次元から生じるものとして考えることもできる。立方体の表面に色をつけ、その色を、ヒントンが行ったように、特別な方法で取り扱うことを考える。 ここで生じた変化は、正に3次元的な存在が時間上で発展し、それによって4次元に移行するときに被る変化に対応する。4次元存在のどこかを切り取るとき(つまり、四次元成分を除去するとき)、その存在を破壊することになる。 植物に対して、これを行うことは、丁度、植物の姿を石膏に刻印(転写)するようなものである。 植物がもつ4次元、つまり時間の要素を破壊することにより、それをしっかりと所持するが、結果として得られるのは3次元的な姿である。いかなる3次元的な存在も、その存在にとって、時間すなわち第4の次元が決定的に重要なときには、その存在は生きている必要がある。 そして、今、5次元へとやってきた。この次元は第4の次元に対して垂直な別の境界をもつと考えられる。我々は、第4と第3の次元間の関係が第3と第2の次元間の関係に似ていることを見てきた。 5次元に関するイメージはより困難だが、ここでも、何らかのアイデアが得られる類比を用いることができる。 さて、次元というものはどのように生じるのだろうか? 線を引くとき、その線が同じ方向(直線)を保つ限り、更なる次元が現れることはない。次の次元(軸)がつけ加えられるのは、2つの相反する方向、或いは力がある点で出会い、中和するときで、新しい次元とは力の中和の表現としてのみ生じてくるものだという。 新しい次元を、線(軸)を追加することにより、つまり、その線(軸)のなかで、2つの力の流れが中和する線(軸)の追加として見る必要がある。その次元において、右から来る力と、左から来る力も想像できるが、例えば、前者の場合にはポジティブとして、後者の場合にはネガティブなものとして想像する。 なので、それぞれの次元を力の対極的な流れ、正負の両方の構成要素をもつ1つの流れとして把握する。対極を構成する力の中和が新しい次元であるという。 これを出発点として、5次元に関する心的なイメージを発展させる。4次元が時間の表現であることを知っているが、最初に4次元のもつ正と負の側面を想像する必要がある。正負の時間が意味をもつ、2つの存在が衝突する状態を思い描く。 その結果は、先ほど述べた対抗する力の中和に似たものであるはずで、2つの4次元存在が結びつくとき、結果として生じるのは、それらの中和の5次元であるという。 5次元とは対極的な力の交換、或いは中和の結果もしくは帰結であり、そこでは、お互いに影響を及ぼし合う2つの生命体が、空間に関する3つの通常の次元、或いは第4の次元、すなわち時間においても共有することのないものを生み出していると考えられる。 この新しい要素は、その境界をこれらの次元の外にもっていると考えられる。それは感情移入、或いは知覚活動と呼ぶものだが、その能力はある存在に別の存在についての情報を提供するという。それは他の存在の内的な(魂的、精神的な)側面についての認識であるという。 より高次の、つまり、第5の次元が付け加えられなければ(すなわち、知覚活動の領域に入ることなしに)いかなる存在も、時間と空間の外に横たわる他の存在の側面について知ることは到底できないという。 当然、知覚活動を、この意味においては、5次元の物理世界における単なる投影、或いは表現として理解できる。 同様の方法で6次元を構築しようとしても、あまりに難しくなるので、今はそれが何であるかを述べるだけにする。 もし、これまでの線に沿って考えを進めるなら、3次元世界における6次元の表現は自我意識であることを見いだすという。 3次元存在としての我々(肉体)は、我々の姿形という特徴をその他の3次元存在と共有している。植物はもう1つの次元、4次元をもっている。従って、植物の究極の存在が3次元空間のなかで見られることは決してない。真の植物をみるには、4次元、つまりアストラル領域にまで上昇する必要があるという。 もし、知覚能力をもつ存在を理解したいならば、5次元、つまり低次のデーヴァもしくはルーパ領域にまで、そして、自我意識を有する存在(つまり、人間)を理解するならば、6次元、つまり高次のデーヴァもしくはアルーパ領域にまで上昇する必要があるという。 我々が現在出会うような人間は、本当は6次元存在であるという。 我々が知覚能力(感情移入)、自我意識と呼ぶものは、それぞれ5次元と6次元の通常の3次元空間への投影であるという。 たとえ、ほとんどの場合は無意識的とはいえ、人間はこれらの精神的な領域まで、ずっとのびているという。その本来の特徴を認識できるのは、精神的な空間においてだけであるという。 6次元存在の我々人間が、より高次の世界を理解するようになるのは、より低次の次元に特徴的な属性の放棄を試みるときだけであるという。 1~3次元;鉱物界(球等が平坦になったもの)、 4次元;植物界(エーテル界)、 5次元;動物界(アストラル界、低次デーヴァ、ルーパ領域)、 6次元;人間界(自我界、高次デーヴァ、アルーパ領域) なぜ、我々現代人は世界を単に3次元的なものと信じているのか、ということについて、ここで示唆する以上のことはできない。 我々の観点は、世界をより高次の要因の反映として見る、ということに基づいていて、例えば、鏡のなかに見ることができるのは、自身の鏡に映った姿に過ぎないのと同じである。 実際には、我々の物理世界の3つの次元は、3つのより高次の、原因による、創造的な次元の反映、有形の像(影)であるという。このように、我々の物理世界は、それに続く3つのより高次の次元グループ、つまり、第4、第5、そして第6の次元のなかに、その対極となる精神的な対応物を有しているという。 同様に、第4から第6にかけての次元は、その対極となる対応物を、更にもっと遥かな精神的な世界のなかに、つまり、我々にとっては推測の域を出ない次元のなかに有するという。 では、液体の水と、固体に凍った水(氷)について考えてみる。 いずれの場合も実質は同じだが、水と氷とでは形態が非常に異なる。人間における3つのより高次の次元についても、同様のプロセスが生じていると想像することができる。 人間を純粋に精神的な存在として想像するとき、自我意識、感情、そして、時間という3つのより高次の次元を有し、そして、それらの次元が物理世界における3つの通常の次元のなかに反映されていると考える必要があるという。 水(液体)から氷(固体)への変化を、科学用語で相転移と呼ぶが、肉体(3次元)の人間は、6次元の人間の相転移のものである。なので、人間を真に知るには、肉体のみならず、エーテル体(時間;健康か病か)、アストラル体(感情;好き嫌い)、自我意識まで、視野を広げる必要がある。
2007年05月31日
コメント(0)
例えば、ここに円があることを想像する。この円がどんどん大きくなって、円のどの部分も益々平らになる(曲率が平坦になる)ように思い描くなら、結局は直径が巨大になり、その円は(無限の)直線へと変化する。 直線は1次元だが、円は2次元で、では、1次元から、どうすれば2次元のなかに戻れるか?といえば、直線を曲げて、再び円にすればよいことがわかる。 円盤を曲げれば、ボウル状になるが、もし、ボウルを曲げ続けると、最終的には球になる。曲げられた直線は2次元を獲得し、曲げられた平面は3次元を獲得する。そして、もし、球を更に曲げることができれば、それは四次元へと曲がっていくだろう。その結果得られるのが、球状のテサラクト(4次元球)であるという。 球面は曲げられた2次元図形と考えることができる。自然においては、球は細胞の形態で、つまり、最も小さな生きた存在として現れる。細胞の境界面は球状で、生きたものと生きていないものの違いがここに顕れているという。 鉱物は結晶の形態においては、いつも平面、つまり平らな表面で境界づけられているが、生命は細胞から構築され、球状の表面で境界づけられている。丁度、結晶が平らに延ばされた球面、もしくは平面から構築されるように、生命は細胞、もしくは隣接する球から構築される。 生命体と非生命体との間の違いは、その境界の特徴にあるという。八面体は8つの三角形によって境界づけられている。その8つの面を球として想像するとき、結果として得られるのは8つの細胞からなる生き物になる。 3次元図形の立方体を「曲げる」とき、結果として得られるのは4次元図形の球状のテサラクトである。しかし、もし、空間全体を曲げるなら、そのとき得られる図形の3次元空間に対する関係は、球の平面に対する関係と同じである。3次元物体としての立方体は、あらゆる結晶と同様、平面により境界づけられている。 結晶の本質は、それが平らな境界面によって構築されるということであるという。生命の本質は、曲げられた表面、つまり細胞から構築されるということだが、更により高次の存在レベルにある図形は4次元構造により境界づけられる。3次元図形は2次元図形によって境界づけられ、4次元的な存在(つまり、生き物)は、3次元的な存在、つまり、球や細胞によって境界づけられる。 4次元的な存在は5次元的な存在、つまり、球状のテサラクトによって境界づけられる。こうして、生物的存在は、3次元存在から4次元存在へ、更には5次元存在へと進む必要があることを理解する。 では4次元的な存在に関して、何が生じる必要があるだろうか? 変化は3次元の内部で生じる。言い換えると、2次元的な絵を壁に掛けるとき、絵は一般的に固定されている。2次元的なイメージが運動するのを見るとき、その運動の原因は壁の外にある。 つまり、このとき、空間の第3の次元がその変化を促していると結論づけるだろう。3次元の内部で変化が生じるのを見るとき、その3次元空間の内部で変化を経験する存在たちに影響を及ぼしているのは4次元である、と結論づけるだろう。 我々が植物を、その3次元性においてのみ知るとき、植物を本当に認識しているとはいえない。植物は絶えず変化し、変化は植物の本質的な側面、存在のより高次の形態の証しであるという。植物でない、鉱物の立方体は変化せずそのままである。 つまり、その形態が変化するのは、人間が、それを打ち壊すときだけであり、植物は自分でその形態を変化させるが、そのことはその変化が3次元の外に存在し、4次元において表現される要因により、引き起こされているということを意味している。 では、その要因とは何か? 立方体を、どの時点で描いても、いつも同じであることを見出すが、植物を描き、3週間後にオリジナルの植物を、絵と比較すれば、オリジナルの方が変化していることに気がつく。なので、この類比は十分に正当なものである。どの生き物もその真の存在が、そのなかに生きるという、より高次の要素を指し示しているという。 そして、時間は、そのより高次の要素の表現であるという。時間とは、生命(或いは4次元)の徴候的な表現、物理空間という3次元のなかにおける顕現であるという。言い換えれば、時間が、本質的な意味をもつあらゆる存在は、4次元的な存在の(鏡像)イメージであるという。
2007年05月30日
コメント(11)
プラトンは、古代ギリシャにおいて、知られている身体は、実際には4次元的なものであり、我々人間はその3次元空間における影のイメージだけを見ている、ということを説明しようとしたという。 この記述は全くの思いつきではないので、簡単に説明する。勿論、最初は、単なる推測に過ぎないと言うこともできるが、壁(平面)の上に現れる、これらの姿の一体どこに真相があると想像できるだろうか? 今、このような洞窟に繋がれた人間のように、2次元的(平面)にしか動くことができないものと想像する。突然、影が動き始める(互いに通過するように平行移動する)。壁の上の影が2次元空間から逸脱することなく動けるとは結論づけられないだろう。壁の上で像が動くときには、何かの原因で、壁の上にない事物の動きが生じたものと捉えるだろう。 3次元空間中にある事物はお互いにすれ違うことができる。もし、2次元的な影のイメージをお互いに貫通(通過)することができないもので、つまり、実質から成り立つものとして想像するなら、お互いにすれ違うということは全く不可能になる。もし、これら影のイメージを、実質的なものとするならば、それらは、2次元を離れることなしに、お互いに、すれ違うことはできない。 つまり、2次元空間内での実質的な物体の運動は、たちまち、互いにぶつかり、通過など有り得ないものとなる。だから影が本物であるはずはない。 壁の上のイメージが静止している限りは、壁から離れたところで、つまり、2次元的な影のイメージの世界の外で、何かが生じていると結論づける理由はない。けれども、その影が運動し始めると、その運動の源泉を調べ、その変化は壁の外、つまり、3次元のなかに起源をもつものと結論づけるように強いられる。このように、イメージにおける変化が、2次元に加えて3次元があることを、我々に伝えているという。 単なるイメージとはいえ、ある種の真実と、究めて特殊な属性(関係)をもつことは確かだが、それは真の事物とは本質的に異なるものである。鏡像もまた単なるイメージであることを否定できない。 鏡のなかに映る自分を見るが、鏡の外の、こちら(自分)側に、真の存在がある。そこで、第3の要素の存在、つまり、運動の存在なしには、どちらが真の存在なのかを本当に知ることはできない。鏡像はオリジナルと同じ動きを行うからである。 鏡像は自ら(独自に)動くことができず、真の事物、すなわち真の存在に依存する。このように、鏡像のイメージと真の存在を区別できるのは、真の存在が自ら変化し、或いは運動を生じさせることが可能なことによる。 壁の上の影のイメージは自ら動くことができない、従って、それは真の存在ではない、ということに気づく。真の存在を発見するには、鏡像のイメージを超えていく必要がある。 では、ここで、この一連の考察をこの世界一般へと適用してみる。この(物質)世界は3次元的だが、もし、3次元の性質を思考のなかで把握しながら、3次元のものを、3次元の性質自体で捉えるなら、それが本質的に運動しないもの(静的なもの)として発見するだろう。 たとえ、それをある時点で凝固したものとして想像するとしても、なお3次元世界は3次元的(静的)である。現実には、この3次元世界は、時間のなかのどの2点を取ってみても同一ではなく、世界は変化している。 では、これらの異なる(変化する)瞬間がなかったら、何があるか、何が残るかを想像する。 もし、時間がなかったら、世界は決して変化しないだろう。しかし、たとえ時間、或いは変化がなかったとしても、世界はやはり3次元的である。 同様に、壁の上のイメージは2次元的なままだが、それらが変化するという事実は、3次元が存在するということを示唆する。 世界が絶えず変化するということ、たとえ変化がなくても、それは3次元的なままであるということは、その変化を、4次元のなかに求める必要がある、ということを示唆している。変化の理由、変化の原因、変化の活動は3次元の外に求めるべきである。 この時点で、4次元の存在とプラトンの比喩の正当性を把握できるだろう。3次元世界全体が4次元世界の投影像である、ということを理解するわけで、残る問題は、いかにして、この4次元の現実を把握するか、ということである。 勿論、4次元が直接3次元に入ることは不可能だと理解する必要がある。4次元は3次元のなかに単純に落ち込むことはないという。では、次回は、3次元を超越する概念を、いかにして獲得するかということを示す。
2007年05月29日
コメント(0)
自殺者が急増している最近の日本だが、ついに大臣までもが自殺してしまった! つい最近までは、秘書や周囲のせいにして、逃げまわっていた悪徳政治家も、ついには、秘書や周囲がよりつかなくなって、罪を被せる者がいなくなって、この世では逃げられなくなったのだろう。 この世から逃げられなくなったからといって、死んであの世に逃げられると思うのは、大きな過ちである。 トカゲの尻尾切りのような、因習姑息な組織の身勝手な命令よりも、自分の命が大切であるという観点は、個人主義の美徳である。組織への死の贖いのような集団主義は、アトランティス時代の未開人種にみられた特徴だという。日本人は、古代中国人(古代アトランティス)の分派なので、この集団主義がいまだ残っているようである。 日本人は個人主義に目覚めていない、いまだ未開民族といわねばならない。悪を野放しにして何が死の贖いだというのだろうか? そのような安っぽい死を神々が喜ぶとでも思っているのだろうか? それこそ甘い考えである。 悪を行えば、必ず、自分に返ってくる。そのとき、自分が他者に与えた痛みが、そのまま自らに痛みをもたらし、はじめてその意味を知り、人生の深さや教訓を得るのである。 自らの苦悩は、自らで克服しなければ、この宇宙から消えてなくなるどころか、この宇宙の誰か、大きな何かに迷惑がかかるだけで、何倍もの負債を負うことになるだろう。ましてや、社会的地位の多大なる責任者には、およそ、この世に生きている社会全体、国民にも多大な迷惑がかかる。 更に、二重の苦悩を背負うことになるだろう。自殺は、最も罪深き行為である。自殺は、個人主義が、確立していない未熟な証でもある。お互い平等な人間に対して、命を与えることはできないのである。 それは、多くの期待を裏切る行為なのである。苦悩を克服し、悪を善に変えうる最大の機会に遭遇しながら、利己主義に走ったために、全てを失う愚かで、裏切り行為に等しい。 一人一人の命のなかには、深い意味が込められている。この世の苦悩に耐え、自らの課題を克服して欲しいという、宇宙の神聖な願いなのである。 自殺は、逃げでしかない。敵前逃亡といえよう。どんな美辞麗句で死を美化されようとも、自殺だけは、けっして正当化されえないだろう。 苦悩から逃げ出せば、かえって何倍もの恐怖と苦悩に襲われるだけなのである。自殺に安らぎなどない。あるのは、そのときの苦悩の何十倍もの無限に続く地獄あるのみである。 自殺者は、死を安らぎだと錯覚しているために、無限の苦悩が続くことに耐えられなくなり、あの世でも、何度も自殺を試みるという。だが、決して、安らぎを得られるどころか、苦悩が深まるだけなのである。 不道徳故に、自殺を選択したのなら、尚更である。「間違いでなかった」とするのなら、なぜ、生きて、身の潔白を行為により示さなかったのか? 人間としての誇りと勇気で、悪を隠そうとする弱いその意志を、根本から駆除しなければ、その弱き意志のまま、宇宙を漂い、放浪者として、宇宙のなかに消えていくだけだろう。 言葉でいかに、その死を美化しようとも、魂には虚しさだけが残るだろう。言葉は、死に対しては無力である。生きているときの行為こそが、死の同伴者である。 この死の美化は、日本人特有の精神疾患のように思える。死は美化するものでなく、厳粛に受け入れるものである。 なぜなら、誰でも死ぬからである。死は、人間が選ぶ特別なものではない。宇宙が、死を与えるときに、死を厳粛に受け入れなければならない。死を着飾ってはいけない。皆、人間は死ぬからである。死は万人に平等に訪れる。 綺麗な死も、醜い死もなく、死は日常の人生の一部である。 皆、いずれ死ぬのである。自分だけ死を特別なものにしようとするのは、エゴでしかない。 日本人は、大人にならなければならない。死を美化するのは、退化である。死は人に応じて平等に、宇宙が与えるからである。 悪をあの世に持ち越すな! 悪は、この世で解決、克服するべきである! だからこそ、命があるのである。 死を美化する日本人がいる限り、日本民族は滅びていくだろう。 もう、死を美化するのはやめて欲しい! 逃げるな、逃げずに、いづれ死を与えられるように、醜悪で苦悩だらけの生を全うしろ! 全く悲しい出来事である。なぜ、死を急ぐ、苦しい生を逃げようとする! 生きることは苦しみである。だから、真面目に真剣に生きるべきであると、遙か昔に、お釈迦さまがおっしゃっているのだ! 死を急いではならない。それでは、人はあまりに悲しすぎる生き物でしかない!
2007年05月28日
コメント(4)

今回は、空間の第4の次元についてのまとめの結論づけを行うが、実際には、1つの複雑な系をより詳細に提示してみる。そのためにはヒントンのモデルについて、もっと多くのことを提示する必要があるが、いま、できることは、彼の徹底的で洞察力に富んだ3冊の書籍を紹介するだけである。 当然、これまでのまとめのなかで示されたような類比を用いるのに消極的な人には、4次元空間に関する心的なイメージを獲得することは不可能で、思考を発達させる新しい方法が必要である。 では、テサラクト(四次元立方体/正八胞体)の真のイメージ(平行投影像)を得る試みを行う。2次元空間中の正方形には4つの辺があることを見てきた。3次元におけるその対応物は立方体だが、それは6つの正方形の面をもっている。 その四次元的な対応物はテサラクトだが、それは8つの立方体によって(空間を)境界づけられ構成される。従って、テサラクトの3次元空間への投影像はお互いを通過し、移行し、貫く8つの立方体から構成される。これら8つの立方体が、3次元空間のなかで、どのように一致するかを見てきた。ここでは、テサラクトの別の投影像を構築してみる。 立方体を光で照らすことにより、ボード上に影が映るのを想像する。そのとき、その影をなぞることができる(図1)。そうすると、それは六角形になる。もし、立方体が透明ならば、向こう側が透けてみえるので、その平面上への投影図は、立方体のこちら側の面三つと向こう側の面三つが合わさって六角形の図になるのが分かる。 図1 テサラクトに適用できる投影法を得るには、立方体を、こちら側の点Aが向こう側の点Cにちょうど重なるような位置に置く。そのとき、もし、3次元性(奥行き)を取り除くと、結果として、六角形の影になる。それを描くと以下になる(図2)。 図2 立方体がこのように平面上の位置にあるとすると、見えるのはこちら側の3面だけで、別の3面は後ろに隠され、裏になる。立方体の表面は遠近法によって狭く見え、その角度はもはや直角には見えない。この方法で、2次元空間のなかに3次元的な立方体のイメージを創り出した。この投影法では辺が短くなり、角度が変化するので、立方体の6つの正方形の表面を菱形として想像する必要がある。 では、平面上に3次元的な立方体を投影する操作を、3次元空間のなかに4次元図形を投影することにより同じ手続きを繰り返す。8つの立方体から構成される図形テサラクトを3次元のなかで表現するには、以上のような平行投影法を用いる。 この操作を立方体に施す場合には、平面(2次元)上にない、3つの見える辺と3つの見えない辺ができる(図1参照)。つまり、実際には、それらは空間のなかに突き出ていて、投影面の上(平面上)に横たわっているのではない。 では、上記のように、立方体が菱形平行六面体に歪められる場合を想像する。そのような図形を8つ取り上げると、テサラクトを規定する(3次元)構造を組み立てることができるが、その構造図形は、菱形十二面体のなかで相互に通じ合い(共有し)、貫入し、平行六面体が、二重に合わさった様式で構築される(図3)。 図3 この図形は立方体に比べて一本多い軸をもっている(中心点で交わる線が4本ある)。当然、4次元図形には4本の軸があるからで、その構成要素が相互に貫入し、通じているときも、四本の軸は残る。このように、この投影図には平行六面体として示される、相互に貫入し通じている8つの立方体が含まれている。菱形十二面体は三次元空間のなかに投影されたテサラクトの対象像、或いは影である。 類比の手法により、これらの関係へと到達したが、この類比の手法は完全に有効なもので、丁度、立方体を平面上に投影できるように、テサラクトもまた、3次元空間に投影することにより表現できる。得られる投影図のテサラクトに対する関係は、立方体の、影の立方体に対する関係と同じで、この操作は容易に理解できるだろう。 ここで行ったことを、プラトンとショーペンハウアーが洞窟の比喩のなかで与えた素晴らしいイメージに結びつける。プラトンは、洞窟のなかで、鎖につながれ、首を回すことができず、ただ前方の壁しか見ることができない人々を想像した。 彼らの背後で、別の人々が、色々なものを運びながら洞窟の入り口の前を通過する。この人々と彼らが運ぶものは3次元のものだが、囚人たちは平面の壁(2次元)に映った影しか見ることができない。例えば、鏡のように、3次元の全てが、反対側の壁に映った2次元的な影のイメージのように見えると考える。 そして、プラトンは、この世界のなかの我々人間の状況も同じであると言ったという。我々人間は、洞窟のなかに繋がれている人々であるという。他の全てのものや、我々自身も、本来、四次元なのだが、我々が見るもの全てが3次元空間におけるイメージの形で現れると考えたという。 プラトンによると、我々人間は事物の真実ではなく、その三次元的な影のイメージを見ることに依存している、ということになる。例えば、自身の手を単に(3次元の)影のイメージとして見るが、真相は、4次元であるという。我々は、4次元的な真実のイメージの影、いま示したテサラクトのイメージのような、影のイメージだけを見ているという。
2007年05月28日
コメント(0)
このブログによく訪問してくださる現代孔明こと、武侯仁従さまのブログの内容に触発されて、秘教でいわれている、科学の由来を大まかに書いてみたいと思う。 表の歴史書では、ガリレイとベーコンの16世紀辺りからはじまる(唯物的)科学の由来は、秘教によると、7世紀に、ハールンアッラシッドの宮殿に、当時の古今東西の哲学者が集められ、古代エジプト文化から伝わるギリシャ哲学が、唯物的に再興されたことに起因するという。アジア(現在のイラン辺りの当時はゴンデシャブールという名)での一大唯物論的文明が興隆したというのである。 そのとき、あらゆる奥義を含む秘教が、書として唯物化され、このハールンアッラシードの宮殿は、現代科学をも凌駕する叡智を秘めていたとされる。このときの科学は、いまではアラビア科学と名づけられているようである。 このアラビア科学には、人類には早産(早熟)となる叡智が含まれていたという。この人類への伝播を、神々は怖れたために、ムハンマドに、大天使ガブリエルが、イスラム教のコーランをもたらし、唯物的アラビア科学の伝播を、予め阻止したとされる。 イスラム教が偶像崇拝を禁じ、一神教なのは、唯物的アラビア科学の思想のなかに、多神教な唯物的な法則(神を語る悪魔)がみられたからだと思われる。 秘教によると、ハールンアッラシードは、後に、イギリスで、ロジャーベーコンとして転生したという。つまり、恐らく近代科学の祖は、この13世紀のロジャーベーコンに辿りつくように思われる。なので、ロジャーベーコンの業績を調べれば、現代科学より優れた科学が、既に7世紀に存在していた証拠が見出されるだろう。 また、近代科学は、古代ギリシャ哲学の主にアリストテレスによる論理を基盤としているが、その論理は、アリストテレスの業績の至極一部の、しかもその大部分は弟子たちにより唯物化され曲解され記述されたものにすぎないという。 このような科学の歴史をみると、宗教と科学がなぜ対立するのか?の要因がわかるだろう。簡単にいえば、例えは悪いが、成年に達するまで、禁止する誘惑の多い、不道徳な喫煙や、飲酒、エロ本の類が、高度な唯物的科学であるといえるだろう。 このような高度な唯物的科学は、かつて、人類がアトランティス時代に、タイタン族により高度に発展され(その際に、過酷な人体実験等が行われたという)、最終的には、アトランティス大陸の水没を招いたという。 多くの人種が堕落したために、より有望な人種のみを神々は選択して、我々の時代のポストアトランティス時代に引き継いでいったという。なので、人類は、一度、唯物的な科学の失敗を経験しているのであるが、20世紀において、それは原子爆弾として、同じ間違いを起こしているのだから、人類は懲りずに、いかに馬鹿で愚かな生物かがわかる。 高度な科学技術を駆使するには、まず高度な道徳を身につけ、この宇宙に迷惑をかけないような、人類以外の生物への配慮が是非とも必要なのであろう。
2007年05月26日
コメント(0)
最近、全くみなかったが、昨日、テレビをつけながら眠ってしまい、気がつくと、朝まで生テレビをやっていた。「相も変わらず不毛な言い争いを続けているな」と思った次第である。はっきりいって、主婦が行う井戸端会議の方が何倍かマシであろう。 サラリーマンの酒のない、素面の愚痴会議そのものである。会社の愚痴が、政治の愚痴にかわっているだけで、「俺のいうことが聞けんのか~」の連中の集いであろう。 不思議に思うのは、とにかく、この出演者たちは、自分の主張ばかりぶつけ、他の人の意見をまるで聞かないのである。司会者が、自分の意見を誘導するのに、最も作為的で、挙句の果てには、自分とは方向性が違う意見を差別し、まるで切り捨てるしか能のない様子である。そうして、一種の仮想の世論形成が、まさに統一され、存在するかのように演出される。 しかし、何時間も議論した挙句、常に結論は出ず、中身はお粗末の一言で片付けられる。ただただ平行線の議論が繰り返され、ストレスが蓄積される。ただ、行動もせず、口だけ喧しい議論好きにはもってこいの番組なのだろう。大半が寝静まった深夜に行うのが唯一の救いであろう。さながら、深夜に集う悪魔集会でもある。 エキセントリックにやり、話題性だけで視聴率を稼ごうという、どこか内乱誘発のスパイ工作に類似している。議題やタイトルは高尚だが、若者にみせたくない有害番組のように思われる。 喧しい議論をした割には、全てが先送りされ、いまの政治と酷似していることは確かであろう。この番組をみて思うのは、自己主張が先行し、その実、我儘な人間ばかりが増えたというのが、実感である。 挙句の果てが、国民投票という、国民への政治の丸投げなのだから、政治家たちは不毛な議論ばかりで、その実、遊んで暮らしているのと変わりがないのであろう。議論はいいから、国民全体の意に沿うように、社会改善や行動を行って欲しいものである。 社会や教育は荒廃し、米国への従属化は進み。自然環境はめまぐるしく変化し、感染病が多発し、安全神話は崩壊し、日本人の勤勉で実直な品性、他への親切さの美徳が失われていってしまった。 この番組をみて、これは日本人が口先だけの人間になったせいではないかと危惧する次第である。日本人は美しいどころか、いま醜悪になりつつある。
2007年05月26日
コメント(2)
久しぶりに政治について述べてみたい。これまであまり述べたくなかったのは、あまりにも酷いからで、ついつい罵声や中傷、愚痴になってしまいがちだからである。 はっきりいえば、異常気象やここにきて「はしか」という感染症の蔓延が、政治の不味さをはっきりと現しているように思える。相変わらず異常な殺人事件も多く、警察官ですら、ピストルで撃たれ殉職してしまう世の中である。 虎より怖い悪政といったところだろう。人間不信が極まりつつある。人間が悪政により、獣化している証拠である。 ここ何十年にも渡って、政権交代がなかったせいで、まるで政治に緊張感がない。国会が空転しても、汚職で塗れても、開き直れば済むと思っている。選挙で当選し、堕落した政治が続くのを期待している愚か者が政治家を続けている。 政治は人気商売だと錯覚しているから、タレント議員や、銭儲けに政治が利用される。 総理大臣が選挙に勝つために、人気者と写真取り、恥知らずも甚だしい! どうやら「節操の無さ」という言葉を知らないらしい。 野党がだらしないという意見があるが、それは岡戸違いといわざるをえない。議会制民主主義では、政治の全責任は、常に与党にあり、多数派にあるからである。民主主義とは、数の反映では断じてない。 民主主義とは、多数派が、少数派を考慮し、少数派が、多数派の思い上がりを諌めることにある。つまり、お互いが尊重しあって、共感を得る意見として創意を生み出す作業にあるといえる。国会という場は、議論を闘わせる場ではなく、お互いの意見を吟味する場なのである。闘争ではなく、和解の場なのである。お互いの良き点を認め合い、相違の歩み寄りにある。 いまだかって、民主(人間)主義の理想がこの世に現実として生まれたことはない。 だからこそ、真剣な戦いが求められる。その戦いは相手に求めるのではなく、自らの誠心誠意に忠実であるべきで、敵は自らの掌中にある。 悪人の庇い合いや、堕落の譲り合いはみていて見苦しいものである。要するに、自分たちのエゴを抑えることができない幼児と同じであるからである。 「俺も見逃したのだから、お前も見逃せよ!」という悪魔の誘惑でしかない! そのような人間の魂には、必ず最後の審判が待っている。 「あのとき、俺は、不完全になった。自分のなかの悪魔の誘惑に負け、人間として不正を行い、不完全な人格を形成してしまった! これは国民にとって、しいては宇宙にとっては大変迷惑千万なことをしてしまった。そのツケは必ず、かえさなければならない。そうでなければ、自分は、人間として進化できない罪を永遠に背負うだろう。」 と自分のなかの悪魔に染まっていない僅かな心は叫ぶのである。この僅かな明かり、灯火を失うと、人間は獣となる。 いまの政治家こそ、この正しい鏡が求められる。この正しい明鏡止水の鏡が曇り、そこに、ひびが入りだすと、人間の正しき心を失う。 正しいことを言う者が、正しいのではなく、正しいことを行う者が、正しいのである。 宇宙は、常にその行いを反映している。太陽の光、星々の光は、常に愛撫しながら、人間の行いを見守っている。天変地異は、人災である。政治が乱れると、天候も乱れる。なぜなら、人間の行為や活動が、地球に反映し、宇宙に吸収されるからである。 人間もこの宇宙システムのなかの一員にすぎない。バックミンスターフラーが語った、宇宙船地球号の乗組員にすぎない。 つい最近、とあるブログで大変有益な格言をみつけた。 それは、「神秘学の大師の知恵」というもので、この知恵は、カルマの法則の働きにおいて、原因と結果が次のようにあらわれてくると述べている。 *志を抱いたり望んだりすることは才能となる。 *繰り返し考えることは性癖となる。 *成し遂げようとする意志は行動となる。 *苦しい体験からは道義心が生まれる。 *体験を繰り返せば知恵となる。 つまり、正しき志を抱けば、正しき才能と開花する。正しく思考すれば正しい性癖をもたらす。正しきことを成し遂げようとする意志は、正しい行動となる。正しきこと、それはつまり、苦しい体験である。これを良薬は口に苦しという。正しき苦しい体験から、正しき道義心が生まれる。そして、正しき体験を繰り返せば、正しき知恵となる。 さて、この正しいとは何であるかといえば、自己の欲望を、自分の力で抑えるということに他ならない。自分のなかに悪魔が棲み、だからこそ、この悪魔を独力によって抑えなければならないのである。 常に、自分にとって過酷な運命となるものを選択すべきなのである。絶えず、十字架を背負う者になるべきである。 なぜなら、正しいとは、自分のなかの悪を、善に転化することであるからである。自分のなかの悪を追い払うことにあるからである。 このパンドラの箱を開けるように、人生には誘惑が多い、しかし、パンドラの箱を開けてはならないのである。パンドラの箱を開けずに、忍耐をもって、愛をもって耐えなければならないのだ! 自分のなかで、神々と悪魔が戦っている。自分とは、神々と悪魔の戦場の上に構築される。内なる悪魔の誘惑に負けてはならない。 政治家よ! どうか思い上がらないで欲しい! あなたたちだって、一国民の1人にすぎないのであるから、あなたたちに与えられた仕事が、たまたま政治であって、だからこそ、万人に愛情を与える成果でなければ、たちまち、落第が待っているのである。 その過酷な仕事を自らに課したことを忘れて欲しくないものである。 最後に、醜いからこそ、美しいのである。醜いなかに、美がある。それを転ずるのが、我々の役目である。美しさを実感できないのは、醜さを知らないからである。自分の醜い姿や、恥をいま知るべきである。
2007年05月24日
コメント(0)

前回は、八面体から、面数を半分にして四面体をつくり、軸と交わる角度から幾何立体を考察し、更に、菱形十二面体をつくった。 さて、八面体の四面体に対する関係はどのようなものか、を考察する。もし、今度は前回と逆に、四面体の八面体への変換を段階的に行うなら、その関係は明瞭になるという。 その目的のために、1つの四面体を取り上げて、各々の頂点を段階的に切り落としてみる。 そして、各頂点の切断面が4面体の辺上でお互い出会うまで、段階的に四面体の塊を切り落とすことを続ける。切り落として残った形が八面体となる。適当な角度で頂点を切り落とすことによって、4つの面で仕切られた空間図形(正四面体)を8つの面をもつ図形(正八面体)に(鏡像)変換したことになる。 四面体に対して今行ったことを立方体に対して行うことはできない。立方体は、その3次元空間の(鏡像)変換における点において独特である。 宇宙の全空間がお互いに直角な3つの軸で構築されていると想像する。これら3つの軸に直角な平面を挿入する(直角な面で切断する)と、いつでも立方体が生じる。 なので、ある特定の立方体というよりは、理論的な立方体の意味で「立方体」という言葉を使うときには、いつでも3次元空間への(鏡像)変換(切断)としての立方体について語っていることになる。 これは丁度八面体の面の半分をそれらが交わるまで拡張することによって、四面体が八面体の(鏡像)変換であることを示すことができるように、1つ1つの立方体もまた空間全体の(鏡像)変換物である。 もし、空間全体を正として想像するならば、立方体は(軸において直角に切断するので)負になるという。立方体はその全体性において空間の(鏡像)対極にあるもので、物理的な立方体は、幾何学図形だが、真に空間全体に対応するものであるという。 これを2次元平面によって境界づけられた3次元空間のかわりに、6つの球によって境界づけられた空間があると仮定する。 その空間は3次元空間で、まず交差する4つの円、つまり2次元的な図形によって2次元空間を規定することから始める。 今、これらの円がどんどん大きくなると、つまり、半径がどこまでも長くなり、中心点がますます遠くなると想像する。時間の経過と共に、円は直線に変化し、そのとき、そこにあるのは4つの円ではなく、4つの交差する直線と1つの正方形になる。 さて、円の代わりに、桑の実状の形態をとる6つの球を想像する。丁度、円がどんどん大きくなるように、球がどこまでも大きくなると思い描く。これらの球は、丁度、円が正方形を規定する直線になったように、ついには立方体を規定する平面になる。 その立方体は6つの球が平面になった結果である。なので、立方体とは、丁度、正方形が4つの交わる円の特別な例に過ぎないように、6つの交わる球の特別な例であるといえる。 平面にまで広がる、これら6つの球が、以前に立方体を規定するために、用いた正方形に対応していることに、はっきりと気づくとき(つまり、球状の図形が平らな図形へと変化させられるのを視覚化するとき)その結果として生じるのは最も単純な3次元図形であることがわかる。 つまり、立方体は交差する6つの球を平らにした結果であると想像することができる。 円周上の点は円周上にある他の点に辿り着くためには、(1次元を超えて)2次元(曲線)を通過する必要がある。けれども、もし円が非常に大きくなって直線を形成するまでになると、円周上のどの点も一次元を通るだけで、他のどの点にも辿り着くことができるようになる。 2次元図形によって境界づけられる正方形について考えてみると、正方形を規定する4つの図形が円である限り、それらは2次元的だが、円が無限大になり、直線に変化するなら、それは1次元的となる。 立方体を規定する平面は3次元図形(球)から発達するといえる。それは6つの球のそれぞれから1つの次元が除去される(大きさが無限大になる)ことにより成立する。 立方体を規定するこれらの(球の)表面が生じるのは、次元が3から2に減少させられることを通して、曲線が真っ直ぐに引き延ばされるからである。 球面の次元を1つ犠牲にした結果、2次元になるのは、奥行きという次元を無くしたことによる。なので、(直線からなる)空間の各次元は1つ上の次元を犠牲にすることにり生じる、といえる。 2次元的な境界を有する3次元的な形態があるとして、3次元的な形態は2次元へと還元されるなら、次のように結論づけられる。 「3次元空間を考えるときには、それぞれの方向は、無限(少なくとも4次元)の円が平らになったものと考えられる」、と。 そのとき、我々が一方の方向に進行すると、いつかは反対の方向から同じ場所に戻ってくることになる。このように、通常の次元空間はそれぞれ1つ上の次元が失われることにより生じたものであるという。 3軸系は3次元空間にとって本性的なものだが、その3つの直角に交わる軸のそれぞれは、直線になるために、1つ上の次元を犠牲にしているという。 このようにして、3つの軸方向のそれぞれを(曲線から)真っ直ぐにすることにより、3次元空間を達成できる。そのプロセスを逆転させることにより、空間の各要素を再び曲げることもできる。 なので、次のような一連の思考が可能であることがわかる、 「1次元図形を曲げると、結果として生じる図形は2次元的であり、曲げられた2次元的な図形は3次元的になる。そして、最後に、3次元的な図形を曲げることによって4次元的な図形が生じる」、と。 このように、4次元空間は曲げられた3次元空間として想像することができる。 このイメージを活用する時点で、我々は死んだもの(静止)から生きたもの(動的)への移行を行うことができる。 この曲げるということのなかに、死から生への移行を明らかにする空間図形を見出しえる。3次元への移行に際しては、4次元空間の特別な例がみられる。つまり、それは平らになったもので、人間の意識にとっては、死とは3次元的なものを曲げて、4次元的なものにする、ということに他ならないという。 肉体自体に関する場合には、この死(魂の3次元から4次元化)の逆が真となる。死とは4次元の3次元への平坦化であるといえる。
2007年05月24日
コメント(0)
競馬は、ブラッド(血)スポーツと俗にいわれている。サラブレッド(「血を通じて」という単語に類似)を遡ると、3大アラブ種(バイアリーターク、ゴドルフィンアラビアン、ダーレーアラビアン)に至る。 なので、いまあるサラブレッドの血統を遡れば、必ず、上記の3種に至るとされている。発祥の地は、イギリスである。イギリスといえば、王室、つまり、血統の国といえる。 さて、つい最近、「維新の暗号」という本を読んで、血統を科学的に調べるには、どうしたらいいのか?という、さしてどうでもよい疑問が浮かんだのである。とても科学的とはいえない、貴族の家系図があるが、家系図などは、幾らでも詐称できる。 勿論、いまではDNA鑑定が最も科学的とされるだろうが、DNA鑑定では、現在も生きている人間ならば、比較的容易にサンプルを入手できるだろうが、死んでしまった人間を調べるような場合、死んだサンプルが本当に目的の被調査(鑑定)者のものなのか、ここにまた伝聞に頼らざるを得ない結果となるだろう。 それに、何代も継代を重ねるうちに、(母系ならミトコンドリアゲノムがあるが)父系の塩基配列がどのように変わっていくのかも、疑問点として浮かび上がる。それよりも何よりも科学的調査には、莫大な費用、お金がかかり、費用ばかりでなく、労力や労働時間、何より判明するのに、時間がかかり、判明したからといって、さほど恩恵が得られるどころか、途中で政治的(人間力学的)介入が入りやすく、ほとんどが詐称を暴くものとして、闇に葬られかねない、非効率であるように思われる。 「知らぬが仏」という諺がある。なんでも科学的に調査し、厳密な正確さを要求したとしても、時代がその要求に必ず応えるかどうかは、また別の話なのである。科学的に厳密なのが、人間社会を構築する上で、必ずしも望ましいとは限らない。 科学者が、日常生活を科学的、つまり確率の高いものから優先して選んで生活しているとは限らない。科学者は科学的どころか、非科学的な生活を営んでいることが多いことがわかるだろう。第一、可能性が高いということは、比較的容易なのであり、そこにブレークスルーが生じる余地はないだろう。 現代で考えれば、以上の議論も考えられるが、DNA鑑定など思いもよらない18世紀においては、とりあえず、動物で実験してみるのが、手っ取り早いだろう(実は、とりあえず動物実験のこの発想は、血圧測定の歴史をネット調べていたときに、いきなり人間の血圧測定ではなしに、馬の測定からはじまったのを知ったためである)。 血統の場合は(メンデルがエンドウ豆で試行したように)、年齢が短い小動物からはじめるのが簡便で、恐らく犬、猫、家畜でやってみて、品評会を開き、遺伝能力を吟味したのではなかろうか。そのときおそらく、賢さ等が求められたのであろう、動物における血統遺伝の、その賢さの基準を、王立の大学において、更に吟味し、人間に適応してみたのだろう。 なんとも、安直な発想で書き続けている自分が怖くもあるが…。 だから、イギリスの大学は、王立なのであろう。王立ではなにより血統の血が重んじられるのである。その過程で知能指数なども誕生したのだろう。しかし、賢さ、知能の基準ほど曖昧なものはない。まだ、貴族社会が、血統故の賢さに依存していた時代ならば、ただ、賢さイコール血統と単純に置き換えられていたから、陳腐でも何の問題も生じなかっただろうが、賢さイコール血統でなくなったとき、更に目にみえる、明確な判断基準を求めるようになる。 それが競馬なのではなかったのだろうか? 競馬はわかりやすい。どの血統の馬が一番先にゴールに辿りつくのか?で、一目瞭然に判別できるからである。競馬に至って、血統は、賢さから、速さに変わったのである。しかも、比較的万人が監視するなかで、誰でもその結果を判別できるのである。特定の専門家に依頼する必要もなく、専門家の信用性に依存する必要もない。権威も無関係で、誰でも予想でき、自分の目で確かめられるのである。いわば大規模公開実験といえるだろう。どの血統が一番先に、ゴールに着くのか?が衆目一致で明らかなのである。そして、通常の動物実験のように、死体を用いるものでもない。 競馬は、誰もが血統動物実験の観測者なのである。 しかも、競馬はギャンブルになり、一番、正しい予測をしたものに報酬が与えられる。 日本では毎週末に、競馬という、血統動物実験が、独立採算性、しかも、国家財政に潤いをもたらし、還元、貢献しているのだから、凄いことである(オグリキャップが出なかったら、日本は湾岸戦争に資金を提供できずに、人命を失ったであろう。ただし、日本には、感謝の言葉はなかったが…)。後は、血統理論を確立するだけであろう。 そして、今週末は、わが国のダービーなのである…。
2007年05月23日
コメント(0)

前回は、2次元の展開図から、3次元立方体を構築し、その類比から、3次元展開図から、4次元立方体の構築をイメ-ジした。このような類比の例が、4次元への準備に役立つという。 というのも、空間に関する通常の観点では、慣れ親しんだ3次元に、ただ闇雲に他の次元をつけ加える必要はないからで、ヒントンの例に従って、ここで、色を使うのがよい。 対応する色が一致するように立方体を組み立てることを考察する。そのような類比を用いなければ、4次元図形について考察する方法は、ほとんど指針を与えることができない。 では、実際に何が問題になるのか、更に理解を容易にするために、ヒントンの色を用いた方法に行く前に、3次元空間のなかで4次元物体を表現する別の方法について述べる。 正八面体を考察すると、その8つの三角形の面はお互いに鈍角で合わさっていることがわかる。 この図形を想像し、そして、次のような一連の思考を追いかけてみる。正八面体の辺は2つの平面が交わるところに存在する。例えば2つの正三角形が辺ABで交わり、2つの正三角形が辺EBで交わる。 八面体と立方体の間の唯一の相違は、平面が交わる角度で、立方体のなかでは、平面が直角に交わり、いつでも直角で形成される図形は立方体である。しかし、それらが鈍角で交わるときには、八面体が形成される。 表面が異なった角度で交わるようにすることによって、異なった幾何学図形を構成することができる。 次に、八面体の表面を交わらせる別の方法を考察する。正三角形AEBの面をあらゆる方向に平面的に広げ、拡張する。下側の正三角形の面BCFと、後側にあるADFとEDCも同様に広げる。これらの広げられた面は交わる(正四面体ができる)。 この四面体の対称軸に関しては2重(左右)の(鏡像)対称性が存在するが、それは「半鏡像対称性」とも呼ばれる。 これらの面が拡張され、正四面体になるとき、最初にあった八面体の4つの面、ABF、EBC、EAD、DCFは消える。最初にあった八つの面から4つが残り、これらの4つは4面体を形成するが、それは半分の八面体と呼ぶこともできる。 何故なら、それは八面体の面数の半分を交差させたからで、それは八面体を真ん中から(体積を)半分に切るという意味の半分の八面体ではない。八面体のなかで消された4つの面を交わるまで拡張しても4面体ができる。元の八面体はこれら2つの4面体が交差したものである。 立体幾何学あるいは幾何結晶学においては、半分の図形と呼ばれるものは元の図形(の体積を)を2つに分けたというよりは、面の数を半分にした結果のことをいう。 八面体の場合、これを視覚化するのは非常に簡単で、同様に、1つの面を別の面と交わらせることにより、(面数を)半分にした立方体(正四面体)を想像するなら、得られるのは常に立方体(正四面体)であるという。立方体(正八面体)の半分は常に、もう1つの立方体(正四面体)であることがわかる。 この現象から重要な結論を引き出すことができるが、とりあえずもう1つの例を示す。 菱形十二面体を考察する。その面は特定の角度で交わる。この菱形十二面体の内側に、中心から異なる方向に走る4本の直線のワイヤー(軸ワイヤーと呼ぶ)をひくことができるが、これらはつまり、菱形十二面体のなかで反対側にある特定の角を結ぶ対角線になる。これらの直線(軸)ワイヤーは菱形十二面体の軸システム(座標系)を表すが、これは立方体のなかに考えることができる軸システム(座標系)と同様のものとなる。 以前述べた3次元立方体の場合、3つの直角に交わる軸システム(座標系)のなかで、これらの軸のそれぞれに関して堰き止め(平衡、均衡、滞留)が生じ、交差面が形成されると、その結果として、立方体が生じる。 異なった角度で軸を交差させると、その結果異なる幾何立体が生じる。例えば、菱形十二面体の軸が交わる角度は直角ではない。立方体を半分にすると立方体が得られる。これは立方体に関してだけ成り立ち。菱形十二面体の面数を半分にすると、全く異なる幾何図形が生じる。
2007年05月23日
コメント(0)
少し、時間ができたので、一冊の本の充分な読書ができた。その本とは、「維新の暗号」というものである。歴史の裏本という類のものだが、題材がかなりキワもの(天皇の替え玉説)なので、国内でよく出版できたものだと感心している次第である。最近の、新しい国家づくりという巷の風評に沿ったものなのであろうか? この本に書かれているとおりの風評は、歴史マニアのなかに確かにある。この仮説が事実だとしたら、その後の太平洋戦争への歴史の流れの謎が一気に明らかになるところでもある。 例えば、この仮説が事実ならば、司馬遼太郎の小説からもわかるように、戦時の統帥権の独走ぶりの原因や、満州軍の満州(清朝)王族の溥儀に対する取り扱いなど、ある意味、類似した現象として、総括できうるように思われる。戦時の宮内省イコール満州軍とすれば、特に、映画「ラストエンペラー」を思い出した。 更に、この本を読んでいて、つい最近にみた映画「父親たちの星条旗」を思い出した。戦争高揚の軍事費獲得のために、硫黄島に立てた星条旗の写真と、それに関係する人々が、国家的謀略に巻き込まれていく。このような謀略は、所詮、人間が行うことなのであるから、どの国であっても、多少とも、背後に隠されているのだろう。結局のところは、謎である。 しかし、逆にもし、この仮説が全くの法螺であるなら、何もムキになって、言論の自由の上に、この仮説を否定しなくてもよいのではないかとも思われる。否定するのではなく、また別の意見として述べるべきに止めるのが、言論の自由だろう。大体において、歴史上の事実は、タイムマシンでも開発されない限りにおいて、現在から測定できるわけがないからである。 私も、シュタイナーの研究から、フリーメーソンの秘密に関する、ある程度の知識(シュタイナーは一時期、フリーメーソンの良きアドバイザーであったようである。しかし、フリーメーソンはあまりに堕落した秘密結社となったと告白してもいる)をもっているが、例えば、確かにここで書かれている、フリーメーソンの記述はあまりにエキセントリックで、一面的でありすぎるのだが、より寛容な精神こそ重要で、確かに一部のフリーメーソンのなかに、そのような考えを抱く者も充分いたとも考えられる。 あまりに一面的だからといって、ここでのフリーメーソンの記述をいちいち否定する気にもならないし、フリーメーソンに対する色々な考え方があってもよいと思うのである。大体、人生の経験をある程度積めば、自分が、ある組織に属するから、その組織に忠実であるとは限らないだろう。生活や生命が関わっていれば尚更のことで、独自の判断こそ、歴史理解に求められるように思われる。その独自の判断でさえも、実際、その場で、その出来事を目撃し、鮮明な記憶をもっていない限り、物事は物証的には断定できないといえるだろう。 所詮、歴史学においては、真相は闇に消え、表面的な権威だけが現れ、出る杭は打たれざるをえないのである。 つまりは、歴史においては、ある仮説の立場をとれば、その仮説を反映した考察が生じるというだけである。そのような仮説を立てる歴史家がいれば、それに応じた説が現れるといえよう。これは一種のモグラ叩きであって、一々反論するだけ、無駄なことはないといえる。 このような、論争に誰が判断を下すのか? またこのような論争に民衆が巻き込まれることこそ、至極迷惑といわざるをえない。 ともかくも、色々な見方が生じてくるのは、言論の自由として健全な証拠であるように思われる。 私には、少なくともダビンチコードのような出鱈目なものよりは、充分に仮説の域にあり、マシにみえる(ダビンチコードは結論が奇想天外で、仮説にすらもならない、イエスの子がいたからといって、だからどうした?というものであろう。イエスが子を産む1人の人間となった時点で、神性はなくなり、神の子の意味はなくなり、一般の人間の子とかわりはないといえるだろう。第一、ゴルゴダの意味さえも理解できていないようである)。
2007年05月22日
コメント(2)

前回は、4次元空間図形を3次元へと還元することにより、それを視覚化しようとした。 最初、3次元図形を2次元図形に変換した。立方体のもつ3つの次元を表現するために3つの色を用いて、イメージを構築するという方法で、次元を色で置き換えた。次に、その立方体を展開し、全ての面が平面上にあるようにしたが、その結果、得られた6つの正方形においては、異なる色の軸が、2次元空間のにおいての3次元を表現した。 そして、立方体の表面の各正方形の第3の次元への移行(鏡像変換の平行移動)を、色のついた霧(正方形)のなかを移動させて、別の側から再び出現させることとして思い描いた。全ての正方形の面が移行(平行移動)正方形を通過し、その色を帯びること、を想像した。 この方法で、色を使って、3次元の立方体を2次元のなかに描いた。正方形を1次元のなかで表現するには、2種類の異なる色を、対になった各辺に用い、立方体を2次元のなかで表現するには、3色用いた。4次元図形を3次元空間に描くには4つ目の色が必要だった。 そして、3つの異なる色の面をもった立方体を、2つの異なる色の辺をもった正方形と同じものとして想像し、そのような立方体のそれぞれが第4の色の立方体を通って移動した。つまり、それは第4の次元、もしくは色のなかに消えた。 ヒントンの類比に従って、境界をなす立方体のそれぞれを新しい第4の色のなかを通って移動させ、反対側から、それ自身(元)の色で再び現れるようにした(この平行移動が、鏡像変換を意味する)。 さて、もう1つの類比を示す。4次元を3次元に還元する準備として、もう一度、3次元を2次元に還元することから始める。立方体を、6つの正方形の面から構成されるものとして思い描く、それを展開するときには、6つの正方形の全てがつながったままではなく、3つ同士つながり、2つに分かれるような、2つのクサビのような配置にする。 ここから分かるように、立方体を、それぞれ3つの正方形を含む2つのグループに分けた。両方のグループとも同一平面上にある。立方体を再構築するには、それぞれのグループの位置を理解する必要がある。この展開図から、立方体を完成させるには、例えば、1つのグループをもう1つの上に置いて正方形6が正方形5の上に来るようにする。 正方形5をその場所に置くと、正方形1と2は上に折り曲げ、正方形3と4は下に折り曲げる必要がある。そのとき、対応する線分(辺)の対は重なるので、一致する。3次元空間への移行(鏡像変換)を行うとき、2次元空間中では分離している線(辺)が重なり一致する。 正方形は4つの辺、立方体は6つの正方形、そして、4次元図形は8つの立方体から構成される。 ヒントンは4次元図形をテサラクト(4次元立方体、「正八胞体」)と呼んだ。我々の仕事は、これら8つの立方体を、まとめて1つの立方体にすることではなく、それぞれを4次元空間を通過させることによって、3次元図形から、4次元図形、つまりテサラクトを鏡像変換によりつくりあげることである。 正に立方体に対して行ったことを、(3次元の展開図の)テサラクトに対して行うとき、同じ法則を観察する必要がある。4次元図形が、その3次元的な変換と、どのような関係にあるかを見出すには、3次元図形の、2次元的な変換に対する関係との類比を用いる。 展開した立方体の場合には、3つの正方形からなる2つのグループがあった。同様に、4次元的なテサラクトを、3次元空間のなかに展開すると、その結果として4つの立方体からなる2つのグループができる。この8つの立方体による方法は実に素晴らしいものといえる。 2次元空間中で正方形を取り扱ったのと全く同様にして、3次元空間中で4つの立方体を取り扱う。 立方体が2次元空間中で平面になるように展開すると、結果としてグループ化された6つの正方形になる。同じ操作をテサラクトに施すと、結果としてシステム化された8つの立方体になる。 これは3次元空間上での考察を4次元空間に移し替えたことになる。 3次元空間のなかで、正方形の辺が一致するように組み立てるということは、4次元空間のなかで、立方体の面が一致するように組み立てることに相当する。 立方体を2次元空間のなかに平面として展開すると、結果として、その立方体を再び組み立てたときに一致する対応線(辺)が得られた。 テサラクトにおいても似たようなことが各立方体の面に関して起こり、テサラクトを3次元空間のなかに展開すると、結果として後で構築した後に一致する対応表面(平面)が得られる。 なので、4次元のなかに移行するとき、テサラクトのなかでは、手前にある立方体1の上の水平面は、上にある立方体5の手前の面と同一平面上で重なることになる(立方体同士が空間の隙間を埋めるように重なる)。 同様に、手前立方体1の右の面は右にある立方体4の手前の面と、立方体1の左側の面は左にある立方体3の手前側の面と、そして、立方体1の下の面は下にある立方体6の手前側の正方形と一致する。他の面の間にも同様の対応が存在し、その操作が完結したとき、残るのは中心にある立方体7、つまり他の6つの立方体に取り囲まれた内部の立方体である。 ここから分かるように、ここでもう一度行うことは3次元と4次元の間の類比である。前回で見た図にもあったが、丁度2次元空間(平面)のなかで、4つの他の正方形に取り囲まれた5番目の正方形を見ることができないように、この例の場合にも、7番目の立方体に関して同じことがいえる。7番目は、3次元的な視覚には隠されたままに留まる。 テサラクトにおいては、この7番目の立方体は、4次元の変換において、8番目の立方体に対応する。 今回は、非常に4次元の空間把握能力を必要とし、私には、残念ながら、難解で、明瞭に理解できなかったが、上図のこの3次元のテサラクトは、4次元立方体テサラクトの、いわば3次元展開図の意味だと思われる。つまり、この3次元テサラクトの同じ色の面を重ねることで、4次元立方体のテサラクトが出来るものと思われるのだが、そうすると、隠された7番目の立方体が、8番目の4次元の立方体を形成するのだろう。 再度、時間ができたら、考察してみたいと思う。
2007年05月22日
コメント(0)

次に、もう1度立方体を展開して平面のなかに置いてみる。 展開図を描くと、さしあたり、底面に相当する正方形を無視し、そして、2次元平面のなかでのみ遭遇可能と考え、つまり、このブログ平面の表面上で出会うことが可能なものだけを見ることができる平面人間を想像する。 この展開図の例では、上のように5つの正方形の1つが真ん中にくるように配置する。内部の領域(正方形5)は、平面人間には不可視に留まり、外側をぐるっと巡ることはできるが、2次元(平面)のなかだけしか見ることができない人間は決して正方形5を見ることはない。 さて、立方体の6つの面の内、5つを取り上げる代わりに、テサラクトの境界をなす8つの立方体の内の7つについて同じことを行い、4次元図形を空間のなかへ展開する。7つの立方体の配置は、このブログ平面上に置かれた上の立方体の表面(展開図)の配置に似ているが、ここにあるのは正方形ではなく、立方体である。 こうして得られる3次元図形はその構造において正方形からなる2次元の十字と似ているものになるという。それは3次元空間における対応物(十字)となる。7番目の立方体は正方形の1つと同様、どこからも見ることができない。3次元的な視覚能力だけを有する限りにおいていかなる存在も、それを見ることはできない。 展開された6つの正方形を立方体へと組み立てたように、この図形を組み立てることができれば、3次元から4次元へと移行することができる。色により示された移行(平行移動)は、このプロセスがどのようにして視覚化されるかを示す。 ここに、少なくとも我々人間が3次元空間しか知覚できないにも関わらず、4次元空間を視覚化するには、3次元に、どのように変換すればよいかということを紹介した。この時点で、いかにして真の4次元空間のイメージを獲得できるか、ということについて、疑問をもつかもしれない。 そこで、いわゆる錬金術的な秘儀について紹介する。というのも、4次元空間に関する真の観点は、錬金術師たちがいう「変容」に関係しているからであるという。 もし、4次元空間についての真の観点を獲得したいのならば、特別な訓練を行う必要があるという。 第1に、水と呼ぶものに関する非常に明晰で奥深い視覚(幾何学)像(心的なイメージではなく)を育てなければならない。そのような視覚像を達成するのは難しく、長々と瞑想することが要求されるという。 非常な正確さをもって、水のなかに沈潜する必要がある。いわば水の本性の内側に忍び込む必要があるという。 第2の訓練として、光の本性についての視覚像を創造する必要がある。電磁波としての光に関しては我々はよく知っているが、それは外から来る光を受容したときの形態として知っているものである。 瞑想により、外的光の内的な対応物を獲得できる。外的光がどこで、どのようにして生じるかを我々は知っているが、瞑想により、自分で光のようなものを造り出すことができるようになるという。瞑想を通して、ヨギ或いは秘儀の学徒は光を造りだす能力を獲得するという。 純粋な概念について真に瞑想するとき、つまり、瞑想もしくは感覚から自由な思考の間に、これらの概念が、我々の魂に働きかけるようにするとき、その概念から光が生じるという。周囲の全てが、流れる光として現れるという。秘儀の学徒は自分で涵養した水の視覚像をその光の視覚像に、いわば「化学的に結合」しなければならないという。 光に完全に浸透された水は錬金術師たちが「水銀」と呼んだものであるという。 錬金術の用語では、水+光は、すなわち水銀であるという。 というのは、錬金術の伝統においては、水銀は単なる金属の水銀ではなく、我々が純粋な概念に自ら働きかけて光を生じさせる能力を目覚めさせた後、水銀は、この光と、水に関する視覚像とが混じり合ったものとして生じるという。このとき我々は、アストラル界の1要素である光に浸透された水の力を自分のものとするという。 次の第2の要素は、丁度、水の視覚像を涵養したときのように、空気の視覚像を涵養するときに生じるという。精神的プロセスを通して、空気の力を抽出するという。そのとき、ある種の方法で感情の力が濃縮されることによって、感情に火が灯されるという。 空気の力をいわば感情によって点火された火に、いわば「化学的に結びつける」とき、結果として生じるのは「火の空気」であるという。この火の空気はゲーテの「ファウスト」のなかで触れられているもので、それには人間の内的な参加が必要であるという。 外界に存在する要素、空気から、1つの成分は抽出されるが、もう1つの要素である火、もしくは暖かさは、自分で造り出す必要があるという。火+空気から産みだされるのは錬金術師たちが硫黄と呼んだもので、輝く火の空気を生み出すという。 聖書が言う「そして、神の精神が水の面に立ちこめていた」が真に意味することは、水の要素のなかに、この輝く火の空気が存在することであるという。 つまり、水銀+硫黄のことを指す。 第3の要素は、我々が地の力を抽出し、それを音のなかの精神力に結びつけるときに生じるという。その結果生じるのは「神の精神」と呼ばれるもので、それは雷とも呼ばれるという。 活動する「神の精神」は雷のことで、地+音であるという。 水+光=水銀 空気+火=硫黄 地+音=雷 このようにして、「神の精神」は、アストラル実質の上を漂っていたという。聖書が言う「水たち」とは、通常の物質的な水のことではなく、4つの瞑想の力より構成される、水、空気、光、そして火のことであるという。 これら4つの力の連なりは、アストラル空間の4つの次元として、アストラル的な視界の前に現れるという。アストラル空間の次元が、水銀、硫黄、雷の真の姿であるという。アストラル空間は我々の世界とは非常に異なって見え、多くのアストラル的現象と思われるものは、アストラル世界の側面が、物理世界に投影されたものに過ぎないという。 つまり、アストラル界の水+光が、物質世界では、水銀に投影され、同様に、空気+火が、硫黄に、地+音が、雷に投影される。 ここから分かるように、アストラル実質は半主観的なもの、つまり、主体に対して受動的に与えられるもの、つまり、半分(受動部分)の水と空気であるという。 一方、光と感情(火)は客観的なもの、つまり、主体の活動により現れるもので、アストラル実質の一部だけが外部に見出され、周囲の環境のなかで主体に与えられるものであるという。その他の部分は、個的な活動を通して、主観的な方法により加えられる必要があるという。 概念と感情力は、我々が主観から、客観化を通して、与えられるものから、それ以外の側面を抽出するという。なので、アストラル界においては、我々は主観的-客観的実質を見出すことになるという。 デーヴァ界おいては、我々は完全に主観的要素だけを見出すという。主体に対して与えられるだけの、いかなる客観性も、もはやそこにはないという。 なので、我々はアストラル界において、人間により創造されるべき1つの要素を見出す。このアストラル界で行ういかなることも、それより高次の世界の、つまりデーヴァ界では、象徴的表現に過ぎないという。 このまとめのなかで述べてきたように、これらの世界は現実的であり、これらの高次の世界のなかに横たわっているものに達するには、視覚像への新しい可能性を発達させることによるだけであり、これらの世界に至るには、人間は能動的でなければならないという。
2007年05月18日
コメント(0)

前回は、線に色がついた正方形を用いて、2次元平面上で、3次元空間を考察した。 では次に、これらの色のついた線の代わりに(色のついた)正方形を、そして空間のなかの至る所に正方形を思い描く。 そうすれば、図形全体を更に別の手法で描写することができる。 青色の辺をもたない正方形が通過する正方形は青色である。青色の正方形を通過する、青色をもたない2つの正方形は、その移行(平行移動)を行う前後で、移行の側面(平行移動と垂直面)に引き寄せられる。ここでは、それらの平面(両側面)は赤と緑になる。第2段階においては、青-緑の正方形が赤の正方形を通過し、第3段階においては、2つの赤-青正方形が緑を通過する。 つまり、平行移動を表す正方形を色づけするのである。すると、3つの色のついた正方形が加わり、計9つの正方形となる。 これは立方体を平面に展開する、もう1つ別の方法である。ここに並べられた9つの立方体(正方形の辺を正方形にするので立方体になる)のうち、混色した6つの正方形だけが立方体の境界を形成する。純粋色をもつ3つの正方形は移行(平行移動)を表現する。この3つは単に他の2色が第3色のなかに消えることを意味しているに過ぎない。 なので、移行(平行移動)の動きに関しては、常に1度に2つの次元を取り上げる必要がある。何故なら、混色した正方形のそれぞれは2色からなり、その2色にない1色のなかに消え去るからで、これらの正方形が第3の色のなかに消え去り、反対側から再び現れるように考えることができる。 赤-青正方形は緑を通過し、赤-緑正方形は青の辺をもっていないので、青のなかに消え去るのに対して、緑-青正方形は赤を通過する。ここから分かるように、立方体を、このように2次元の正方形、つまり2色に塗られた正方形を第3の次元、或いは色を通過させることによって構築することができる。 次の段階は明らかに、正方形の代わりに立方体を想像し、丁度、2色の線から正方形を構築したように、3色(の次元)からなる正方形から構成される立方体を視覚化することで、3つの色を、空間の3つの次元に対応させる。丁度正方形の場合に行った手法で先に進むならば、4つ目の色をつけ加えて、それぞれの立方体が自分にはない色を通過しながら消えることが可能なようにする必要がある。 そこには3つの移行(平行移動)正方形の代わりに、4つの異なる色(青、白、緑、赤)をもった移行立方体がある。正方形に正方形を通過させる代わりに、今度は立方体に立方体を通過させる。シャウテンのモデルはそのような色のついた立方体を用いているという。 丁度1つの正方形に第2の正方形を通過させたように、今度は1つの立方体にそれ以外の色をもつ立方体を通過させるようにする必要がある。こうして、白-赤-緑の立方体は青の立方体を通過する。1方の側でそれは第4の色のなかに沈み込み、別の側から元の色で再び現れる。なので、ここには3つの異なる色の表面をもつ2つの立方体によって結びつけられた1つの色、もしくは次元があることになる。 同様に、今度は緑-青-赤の立方体に白の立方体を通過させる必要がある。青-赤-白の立方体は緑の次元青-緑-白の立方体は赤の次元を通過する必要がある。つまり、それぞれの立方体は自分に欠けている色のなかに消え去り、別の側から元の色で現れる必要があるモデルを考える。 これら4つの立方体は、先の例での3つの正方形と同様、お互いに関連し、1つの立方体の境界を表現するためには6つの正方形が必要だったが、同様に、4次元の対応する図形、テサラクトの境界を構成するためには8つの立方体が必要であるという。 立方体の場合には、残りの次元を通過して消え去ること(平行移動)を意味する3つの正方形が必要だったが、テサラクトには全部で12の立方体が必要で、それらは先の平面における9つの正方形と同様の手法で互いに関連しているという。 ここで行ったことは、前例において正方形に関して行ったことと同じで、新しい色を1つ選ぶ度に、1つの新しい次元を加えた。ここで、4次元図形によって組織化された4つの方向を表現するために色を用いた。この手法においてそれぞれの立方体は3つの色をもち、4番目の色を通過する。次元を色で置き換えるポイントは、3次元そのものを、2次元平面のなかに取り込むことができない点にあるという。 3つの色を用いることで、それが可能になる。4次元についても、3次元空間のなかに1つのイメージを創り出すために、4つの色を用いて同じことを行う。これは、そうでなければ複雑になるはずの課題を簡便に導く1つの方法であるという。ヒントンは、いかにして4次元図形を3次元のなかで表現するかという問題を解決するためにこの方法を用いたという。 余談だが、素粒子論のクォーク構成モデルのQCD(量子色力学)も、このヒントンの手法をうまくパクっているといえる。素粒子論の場合、この色変換は、数学的には群論になる。そして変換式は、行列形式になり、行列の形を吟味するのである。 ちなみに、ルービックキューブは、この色平行(鏡像)移動を、色回転移動に置き換えたものともいえる。
2007年05月17日
コメント(0)
武士道の理念は、自己制御にあるといえる。なので、武士道は常に自らを振り返り、自己鍛錬に勤しむのである。宮本武蔵も、武士とは、常に、戦場にいることを想定し、準備に勤しむことだともいっているようである。 勝負は、「勝った!」と思った瞬間から気の緩みが生じ、「負け」に転じる。「勝つと思うな、思えば負けよ」という演歌があった。 要するに、「過ぎたるはおよばざるが如し」という諺を言い表すのであろう。だから、武田信玄は、勝ち過ぎは負けにつながり、5分6分辺りの勝ちが理想としたという。 さて、世の中、一見、全てが勝負事や競争事のようにみえるが、それは幻想にすぎない。勝負事は、ルールの土台の上に、勝ちの定義が決定されてから、行われるからである。なんらかのルールが成り立たなければ、どんな勝負事を行っても、結局、無に帰するのである。 勝負事には、ルールが先決であり、戦には何より大義名分が優先される。大義名分を失った時点で、戦は単なる破壊、殺人行為に堕落する。 しかし、この大義名分というものが最も如何わしきものなのである。 これは米国が起こしたイラク戦争をみれば一目瞭然である。確かに米国は勝ったというが、北朝鮮やイスラム諸国に、かえって核保有の欲望をもたらし、イラクの治安は荒れ、何万人のイラク人や何万人もの米国民を死に追いやった。 それでも、米国は、経済が潤ったと開きなおるだろうが、経済など、上がれば自然、下がるものなのである。何より、経済資源が、有限である限り、上がれば必然、下がるだけのことなのである。致命的なのは、命は、もはや帰ってはこないのである。 さて、あまりにも地球規模の経済優先政策のせいで、自然破壊が進行し、生物の大量死や、大量消失が、至る所で生じるようになってきた。 経済のグローバル化が、地球からの生命大量虐殺を生じさせているのである。 人類はいかにも近視眼的で、現在地球上で最も愚かな生き物といえるだろう。 米国の裸の大統領を非難しようものなら、途端に、口を封じられる。裸(馬鹿)を裸という真の言論の自由は、低俗で経済活動優先のセンセーショナルな報道のせいで、闇に葬られる。 「裸の何が悪い、アダムとエバも裸だったのだ!」と時代錯誤の偽キリスト原理信仰の裸大統領は叫ぶだろう。 「馬鹿をいいなさい、アダムとエバは、神の国にいたから裸なのである。それを証拠に、地球に降りたとき、自らが裸である知性を得て、顔を赤らめたのである」 裸の大統領は、この恥すら知らないのである。同じ大統領フセインと知能比較をしてみてから、処刑すべきだったのではないだろうか? 同じ馬鹿でもイギリスのブレアは恥を知り、辞めていった! どうやら犬といわれたブレアには飼い主に愛想を尽かす知性だけはあったとみえる。わが国のハジ公は野良犬の雲隠れがお似合いのようである。 勝海舟は、「理屈は死んでいる。世間は生きている」といったが、理屈から生じる書籍に載ったたどたどしき記憶による歴史に、元々、正しいも間違いもないのである。 理屈や論理は、学問の上に、確かに存在するが、問題は、それをいかに現状に適用するかにあるといえる。学者が社会の上で、使い物にならないのは、社会経験に乏しい故に、論理の適用をしばしば間違えるからである。 アフリカに面白い喩え話がある。 あるとき、ライオンとハイエナと狼が、カモシカを見つけ、殺して、カモシカの肉をどう分けるかについて論じた。ライオンは言った「ハイエナくん、君が分けたまえ」。ハイエナは、「そうだな、それじゃ、仲良く等分の論理に従って、3分の1づつで、分けよう」。すると、ライオンは、ハイエナを殺して、食べてしまった! ライオンは言った、「ハイエナくんはいなくなったので、今度は、狼くんが分けたまえ」。すると、狼は、「そうだね、ハイエナくんはいなくなったので、その分はライオンくんになるね。そして、元々、3分の1はライオンくんの分だから、3分の2はライオンくんのものだね。そして、最後の3分の1も、やはり、百獣の王のライオンくんのものだろうね。だから全てはライオンくんの分だね」 すると、ライオンは言った、「君にその分け方を教えたのは誰だい?」。狼は応えた「それはハイエナくんだよ!」。こうして、狼は、ハイエナが考えた等分の論理を、上手く現実に適用し、ライオンが腹一杯になることで、食われずにすんだという。 この逸話は、勝海舟の、理屈は死んでいるということをよく表しているのである。世間は理屈通りには進まないのである。第一、秘教によると、理屈は、この世だけの1部の領域のみに当てはまる論理でしかないのである。あの世が抜けているし、死後の世界も抜け、宇宙全体をもまるで想定してもいないのである。 だから、人間は必ず失敗するのである。人間は失敗と共に、貴重な自由な経験を同時に手にするのである。その自由とは論理に当てはまらない自由なのである。 つまりは、「過ぎたるはおよばざるが如し」といえるだろう。上昇するものは下降し、増加するものは減少するのある。だから、人間は日々、失敗から学び、軌道修正していくことでしか、正解に近づけないのである。 ただし、人間には間違える自由、失敗する自由があるから、修正、改善を怠らなければ、最後には必ず正解に辿り着くことができるのである。 さて、この教訓から、先日起こった母親殺人事件が思い起こされる。犯人は、「戦争やテロがなくなればよい」といって、母親を悲惨なかたちで殺傷した。 いかに評論家が、何か語ろうが、このような事件に論理などない。第一、それは評論家の論理でしかないからである。ここでいう犯人の論理とは「戦争やテロが、この世からなくなればよい」というもので、この主張自体は、確かに正しいものであろう。 だが、母親への殺人行為は、この論理とは真っ向から相反し矛盾するものである。犯人は戦争やテロ行為そのものというべき不道徳行為を実行しているのである。 つまり、口と行動が全く正反対の天邪鬼、嘘吐きなのである。よく浮気をしたときの理屈、つまり上半身と下半身は全く逆であるというのと同等であろう。 さて、ここに、現代の深刻な病が見出される、あまりにセンセーショナルな報道がなされ、情報過多な社会のなかで、自らの行為を自らで、もはや律し得ない人格者が、出てきているといえるのである。 ここにもみられるように、それは理性の消失なのである。 口では、立派な道徳を唱えようとも、その行為は、外道卑劣な人間、人格者の持ち主、ヨハネの黙示録でいう悪人が、生まれてきているといえる。しかし、この犯人を責めることはできない。このような第2の犯人を出さないように、口よりも、行動を示すこと。実践を重んじることが社会に問われなければならない。 改革といいながら、弱い者いじめしかできない総理大臣。庶民が苦しんでいようが、自分たちだけが利益を出せばよいという経済優先企業の経営者。ビジネスといいながら、詐欺紛いの法律不備を狙い犯罪スレスレを行う金融業者。 そして、センセーショナルな報道で視聴率を稼ぐ、広告代理店や放送業者。そして、それを人気取りに利用する悪徳政治家たち。 しいてあげれば、この人達が社会を汚してきたせいであるといえるだろう。この犯人は、本当は、このような人たちの首を刈りたかったはずなのである。しかし、理性を消失し、短絡思考に埋没してしまったので、自分に大切な身近な存在の母親に、愛を与える者に誤って、間違っていってしまったのである。 間違いが間違いを生じてしまったといえる。本来、悪い奴の首を刈りたいのに、理性が消失しているから、身近に愛する者にいってしまったのだろう。このような社会が差別を生み、いじめ社会をつくりあげるのである。 大学教授とあろうものがハレンチ事件を起こす。社会的報道者が、痴漢事件を起こす。異性を欲望の対象としてしまう愚かな自制心の欠片もない人格者たち。一体、何のための社会的地位なのであろう。本当は、弱者ではなく、これらの社会的地位者の強者の首を刈るべきなのである。 本当は、自ら鍛錬し、このような社会に幅を利かせる悪い奴を、倒すのが、本道である。しかし、あまりに知性的で、短絡思考なので、自らが強くなることを忘れ、理性が抜け落ちて、弱者にあたってしまうのである。「そのような未熟な自我では、俺を倒せはしない。所詮、お前は俺の敵ではない、お前は強くはなれない、それより知性を身につけろ!」と悪魔は、耳元で囁き誘惑する。 そうして、悪魔の囁きに負け、デスノートを求めてしまうのである。しかし、真に強くなるには、沢山負けを経験することなのである。 彼らが言うことに耳を傾けてはいけない。みざる、きかざる、いわざるでいくべきである。 しかし、このような犯人を生ましめた悪徳人格者は、最後の審判で首のみならず、舌を抜かれるので、心配無用である。 イラクのフセインは危ないから排除すべきという論理の下に、実はフセインと同じ穴のムジナだった米大統領。 そして、美しい国をつくるといいながら、いま、それと同等の行為がなされようとしている。肉を食い、悪徳を行いたい奴には行わせておけばいい。神の裁きがその判定を下すだろう。元々、米国がはじめた戦である、自らの糞は自分で始末させるべきである。ライオンをボケさせろ、一杯食って眠りについたとき、その隙に、首を捕らえろ!獅子の寝首をかけ!! 我々は、ハイエナになるより、いま狼を選択すべきである。
2007年05月16日
コメント(2)
前回から、4次元空間についての幾何的な観念を発展させようと試みてきたが、それは何らかの類比を用いて行うのでなければ非常に困難なことであるという。さしあたりアクセス可能な形式の唯一の空間である3次元空間において、いかにして4次元の図形を表現するか、という問題に直面することになる。 馴染みのない4次元空間の要素を、何か既知のものに結びつけるためには、丁度3次元の物体を2次元のなかにもち込むように、4次元の物体を3次元のなかにもち込むための方法をみつけなければならない。ここでは、4次元空間をいかにして3次元のなかで表現するかという問題に対する答を示すために、ヒントンによって広められた方法を用いる。 どうすれば3次元空間を2次元のなかで記述可能になるか、について示すことから始める。例えば、このブログの面のような2次元平面を考えることからはじめる。幅と高さという2つの次元に奥行きを加えれば3次元空間が得られる。では、この2次元平面上に3次元の図形を描いてみる。 立方体は、高さ、幅、奥行きを持つので、3次元の物体で、立方体を2次元に、つまり平面にしてみる。1つの立方体を取り上げ、その6つの正方形の面を、展開図のように、平面上に広げる。そのとき、2次元平面において、立方体を規定する面は1つの十字を形成する展開図として想像することができる。 これら6つの正方形を、例えば、サイコロを考えると、合計6になる正方形同士が互いに反対側にくるように折ると再び立方体にすることができる。これは3次元立体を平面に移し替える簡単な方法である。 4次元を3次元空間のなかに描こうとしても、直接この方法を用いることはできない。そのためには別の類比が必要で、色を使うことが必要になる。反対側にくる正方形の色がどの組も同じになるように、6つの正方形の辺を異なった色で塗り分ける。 次のような十字架の展開図を考える(各番号は正方形を表す) 2|1|5|3| 4 |6|正方形1と3については、1組の辺を赤に、もう1組の辺を青(|)にする。すると、立方体をつくるときに、重なる他の正方形の全ての水平の辺にも青の、全ての垂直な辺にも赤の色をつけることになる。 2つの正方形1と3を見ると、2次元平面が2つの色、つまり赤(高さ)と青(奥行き)により表現される。そのとき、正方形2が底面に垂直な奥の平面(このブログ面)で、赤は高さ、青は奥行きを意味する(5が底面で、2が裏奥面、4が手前面、6が上面、1と3が側面)。 高さには必ず赤を、奥行きには青を使ったので、第3の次元、つまり幅のために緑を加え、展開した立方体を完成させる。正方形5は底面なので青(奥行き)と緑(幅)の辺をもち、正方形6も同じである。さて、正方形2と4が残り、それらを展開して考えると、それらの辺が赤(高さ)と緑(幅)になるのが分かる。 辺に色をつけて、視覚化したことからわかるように、3つの次元を3つの色に変換した。高さ、幅、奥行きの代わりに、今、それらを赤、緑、そして青と呼ぶことができる。これら3色は空間の3つの次元に置きかわり、色は3次元を表現することになる。 さて、その色のついた立方体が再度組み立てられると、第3の次元(緑)がつけ加えられるということは、赤と青の正方形(1と3)が緑を通って動いた、つまり、お互いの側面が幅をおいて左から右に動いた、と言うことにより説明できる(側面が、平行移動して重なる)。 緑を通って動くこと、或いは、第3の色の次元が消えることは、第3の次元へ移行することを表現することになる。緑の霧(幅)が赤-青正方形に色をつける(力、もしくは流れ)と想像する。そのために両方の辺(赤と青)に色がついて見える。 青の辺は青緑に、赤は暗い色合い赤緑になる。緑が消えるところにきて初めて、再び両方の辺がそれ自体の色で現れるとする。正方形2と4についても同様に、赤-緑正方形を青の空間を通って移動させることができる。2つの青-緑正方形5と6の内の1つを赤を通って動かすのも同じで、いずれの場合にも、正方形は1方の側で消失し、別の色のなかに潜り込むと、反対側から元の色で現れるまで、その色に染まるとする。 このように、お互いに直角の位置関係にある3つの色は、立方体を象徴的に表現していることがわかる。いま、その3つの方向に色を用いただけで、立方体の3組の表面が被る変化を視覚化するために、それらが、それぞれ緑、赤、そして青を通過するものと想像する。
2007年05月16日
コメント(0)
いま日本社会に、子供が親を殺す悲惨な事件が起こっている。親を失うこと、しいては母親を失うことが、子供にとっては、唯一の理解者である後ろ盾を亡くすこと、依って立つ愛の大地を失うことであることを全く理解していない愚挙であるといえる。 母親が欲しくても、望めない子供たちが世界には沢山いるのである。 日本では、社会があまりに豊かになりすぎて、母親の有り難さに鈍感になっているせいなのであろう。 あまりに環境に恵まれすぎると、魂は堕落し、枯渇し、干上がって、感謝を失い、無感動な存在と化していくのであろう。 秘教では、地球上に、人間が生きられるという環境づくりに、全宇宙が、力を与えてくれていることを説いている。 人間は、宇宙により生かされているのである。その背後には、命ある多くの生命たちの犠牲が、日々、費やされているのである。 「働かざるもの食うべからず」というのは少し言い過ぎだが、「日々、命の感謝なしに、生きるべからず」というところは事実だと思われる。 人間の生のために、食物になった動物や植物、人間の経済活動の為に、切り開かれた自然や大地。このような生命体に、なぜ、人間は感謝もせずに、当たり前のように、地球に生き、周囲や他を見下し、もはや涙すら流せない無感動な存在となってしまったのだろう。 人間はあまりに知的で、賢くなりすぎ、かえって人間らしさを亡くしてしまった。あまりに賢くなりすぎ、かえって、感情馬鹿になってしまった。知識は、ときと場合において、相手の気持ちを理解するのに障害となる。知識では、相手の人の立場に立てず、その気持ちを理解できない。知識はそこに、線引きしかもたらさない。 このような人間の非情さや冷酷さが、自然から命を奪いつつあるといえる。人間の魂の荒廃が、大地に荒廃をもたらしたといえる。 これとは逆に、周囲の努力や奉仕があって、社会は成り立っている。宇宙も同様に、お互いが愛を注ぎ合い存立しているといえるだろう。 人間1人が生きるために、どれだけの宇宙からエネルギーが注がれ、奪われているのか? 試しに計算してみればいい。 命があるそのことだけで、感謝しすぎても、し過ぎることはないといえる。 人間を生かす愛、それは母性というべき愛であろう。 母性には、相手の気持ち、子供の気持ちを理解しようとする献身さがある。相手を理解しようとする気持ち、自分から手を差し伸べようとする勇気、それが、愛の大地となるのである。 どんな偉人でも、その母親に優る者はいないといえる。母親の愛がなければ、水の無い植物、水の無い魚であろう。 いま、日本社会において、母性が見直されるべきときである。母親が偉大な存在であること、母親に感謝する日が、母の日以上にあるべきである。 母親への感謝のなさが、少子化を生じさせているように思われる。 それと共に、家族の日を考えるべきである。戦後日本に最も欠けていた点が、母親であり、家族である。父親は不在だった! 戦後の日本人は、いわば皆父無き子であった。父はいわば、経済的土台でしかなかった。かつて古き日本社会のように、父親は社会模範やモラルを教えうる存在ではなかったのである。 だから、父親不在の子供が、表面上、大人になっただけで、戦後の日本人の精神性は、マッカーサーが語った精神年齢を超えていないのである。 大人とは、最低限、自分の事を自分で成し遂げる者、他者に依存しない(極力)迷惑かけない)独立した精神性の持ち主を意味する。 「武士は食わねど高楊枝」とは、ある意味、この精神性を意味するのである。 つまりは、「自分のケツは自分で拭く」ということである。 いまの大人に、自分のケツを自分で拭ける者がどれくらいいるのだろうか? 平気で、糞を他人に始末させ、垂れ流しても、知らん振りという有様である。これでは、オムツをしなければいけない幼児と同じである。 日本人の精神性は、あまりに幼稚化している。これでは、国家は愚か、民族まで滅びていく羽目にならざるをえない。真剣な日本人は困難を求めて海外に出て行かざるを得ない。 最も困難で、苦しい境遇を耐えた者に、真の父性はもたらされるからである。父性とは、一から全てを全力で為しうる忍耐力といえる。なぜなら、愛が必要なとき、最も忍耐が望まれるからである。 愛は忍耐により育まれる。 日本人が海外にでれば、海外では、自分のことは、自分でやらざるをえないからである。しかし、多くの日本人は、表面だけで、海外に出て行くので、格好のカモにされがちであるのもまた現実である。 日本人がターゲットにされやすいのは、自分の身を最低限自分で守ることすらも知らないからである。これは、日本にいたとき、その母性を軽んじていたツケといえるだろう。 つい最近まで、巷では「自己責任」という言葉が乱れ飛んだ! 自己を守ってくれるのは母性しかないのである。 いま戦後日本のその母体となった日本国憲法が改訂されようとしている。 野生において、母性を失っては、生物は無力であり、野生の掟により、格好の餌食とされるだろう。 よく耐え、母性を労わり、感謝する父性は、いまの日本にはすでに武士道とともに、失われてしまった!
2007年05月15日
コメント(2)
前回のように、正方形と十字架の対応のように、あらゆる物理的なもののメンタル的な対応物を同様につくることができるという。 この正方形は考え得るなかで最も簡単な例であるという。もし、2つの交差する垂直な直線が正方形に対するのと同様な関係において、何らかの物理的な物体の相関物を構築することができれば、それぞれの物理的な物体のデーヴァ的、或いはメンタル的な像が得られるという。勿論、そのプロセスは正方形以外の物体に関しては非常に複雑なものとなるという。 では、正方形のかわりに立方体を思い浮かべてみる。立方体は正方形とよく似ている。立方体は6つの正方形の境界の図形である。シャウテンは、立方体を構築する6つの正方形の特別なモデルを作ったという。 さて、正方形における4つの境界線の代わりに、境界を形成する6つの面を思い浮かべる。そして、堰き止められた力の境界が垂直な直線ではなく垂直な面から構成され、更に2つではなく3つの互いに垂直な軸を想定する(xyzの空間座標のこと)。 そうすれば、正に立方体を規定したことになる。立方体のメンタル的な対応物がどういうものか、もう大体イメージできる。この立方体にも、互いに補完する2つの図形があり、立方体は3つの互いに垂直な軸と面に対する3つの異なった方向(x,y,z)をもつ。 この3つの面の方向に、堰き止める作用を考える。先に述べた正方形の場合には2つの軸の方向と4つの直線があったように、3つの軸の方向と6つの面は、特定の種類の(力、もしくは流れの)対立としてイメージできる。 この問題について考察する人であれば誰でも、これらの図形をイメージするには、最初に作用と反作用の対立、或いは堰き止めの概念(平衡、或いは均衡)に至る必要がある。この場合、対立という概念が必要であるという。ここでは事象はまだ単純だが、幾何学的な概念に関連して修練を積むことにより、もっと複雑なもののメンタル的な対応物をも、事象に即してつくり出すまでに至るだろう。 この幾何学的なイメージ活動は、人間を、ある程度まで、より高次の認識へと至るための道を指し示すという。しかし、既に、別の立体のメンタル的な対応物を探そうとするとき、いかに途方もない複雑さが生じるかを想像することができる。立方体以外には遥かに複雑なものが現われてくる。 1つ非常に複雑な空間形式と作用を伴った人間の形態と、そのメンタル的な対応物を考えてみる。それがどれほど複雑なメンタル的な構造になるかを想像することができる。ほんの概略ではあるが、シュタイナーは、著書「神智学」のなかで、人間の形態のメンタル的な対応物が大凡どのように見えるかについて述べたという。 立方体には、3つの次元、或いは3つの軸がある。1つの軸の両側にはその軸に対して垂直な2つの平面がある。なので、立体のそれぞれの面を考えるときには、以前、人間の生は2つの流れの交差したものとして成立する、と述べたのと同様の理解が必要であることを明らかにしておく。 中心から外に向かう流れをイメージすることができる。これらの軸方向の1つを考察する。空間はその1つの方向のなかで、中心から外へ向かって流れると同時に、別の方向から、つまり無限の彼方から中心に向かって流れていると考えられる。 そしてこれらの流れを、一方は赤、他方は青の色として思い描く。その2つの流れが出会う瞬間、合流して1つの面を創り出す。このように立方体の面は2つの対立した流れの表面における出会いとして捉えることができる。このことは、立方体が何であるかについて、生きた視覚的イメージを与えてくれる。 つまり、立方体は3つの互いに作用する流れ(力)の交差といえる。 それらの相互作用を総合的に考えると、3つの方向ではなく、前-後、上-下、右-左という6つの方向が関係しているのが分かる。実際には6つの方向があるという。そして、一方には点から出る方向、他方には無限から返ってくる方向の2種類の流れがあることにより、事態は更に複雑になるという。 このことは、より高次の理論的な神智学を実際に適用するときの1つの観点を与えるという。空間におけるどの方向も2つの対立する流れ(力)として捉える必要があるという。そして、物理的な立体は、この二つの流れ(力)が融合した結果であるという。 さて、この6つの流れ、6つの方向をa、b、c、d、e、fとしてみる。この6つの方向、或いは6つの流れをイメージし(次回では、このイメージをいかに形成するかについて述べる)、そして、最初と最後のaとfを、無いものと考え、消して考えるならば、4つのb、c、d、eが残る。この残った4つは、アストラル界だけを見るときに知覚できる4つの流れであることに注目するとよいという。 3つの通常の次元と、本来それに対立して振舞う3つの更なる次元に関する何らかのイメージを提供することを試みてきた。物理的な立体は、これらの次元が互いに対立的に働く結果として成立し、ここで物理的なレベルにある次元の1つとメンタル的なレベルにある次元の1つをないものと考えるならば、4つの次元が残り、そのとき、これは物理的世界とメンタル界との間に存在するアストラル界を表わすという。 世界についての神智学的な観点は、実際、通常の幾何学を超えた、より高次の幾何学に従って働くという。通常の幾何学者は立方体を6つの正方形で表されるものとして記述するが、秘教学者は立方体を6つの相互に貫入する流れの結果として、つまり、作用とそれに対抗する反作用、或いは対立する力の相互作用の結果として把握しなければならないという。 ここでは、そのような1組の対立を体現する概念、世界進化の奥深い秘密を示す概念を、外なる大自然からとった1例で示す。ゲーテは「蛇と百合のメルヘン」のなかで「開示された秘密」について語っているが、それはこれまで語られた言葉のなかでも最も真実で賢明な言葉の1つであるという。自然のなかにはまだ見たことはないが、全く手に取るようにわかる秘密が、多くの変換プロセスを含めて存在する、というのは真実であるという。そうした例の1つを紹介する。 人間を植物と比べてみる。これは、はじめ遊び半分のようにも見えるが、深い秘密を示しているという。 植物は土のなかに何を有しているか?といえば、根であり、そして上方に、茎、葉、花、実が育つ。植物の頭である根は大地のなかにあり、その生殖器官は地上に、太陽により近いところに発達する。これは純潔な手法の生殖と呼び得るもので、植物全体を逆にして、根を人間の頭と考えると、それは上に頭があり下に繁殖器官のある人間を、逆転した植物となるという。 動物はその真ん中にあり、1つの堰き止め(平衡、均衡、滞留)となる。植物を逆転させた結果が人間であるという。神秘学者たちは、いつの時代でもこの現象を3つの線から十字架を用いて象徴的に表現してきたという。 植物を象徴する1本の線、人間を象徴する別の線、そして動物の象徴としての対立する第3の線が合わさって十字架を形成する。動物は水平の位置を占め、我々人間が植物と共有するものを横断している。 プラトンは全体(宇宙)魂について語っているが、全体(宇宙)魂は宇宙身体にかけられて、つまり、宇宙身体という十字架に縛りつけられていると考えられる。世界魂を植物、動物、人間としてイメージすると、それは十字架になるという。 世界魂はこの3つの領域のなかに生きることで、この十字架に縛られていると考えられる。ここでは力の堰き止め(均衡、平衡、滞留)の概念が拡張されているのが分かる。植物と人間は2つの互いに補い合いながら分岐し、しかし交差する流れを表す一方、動物は上方と下方への流れの間に割り込みながら、その境界に現れる堰き止め(均衡、平衡、滞留)を表しているという。 同様に、カマローカ[アストラル領域]はデーヴァと物理的世界の間に位置するという。互いに鏡像の関係にあるデーヴァと物理的世界の間に堰き止め(均衡、平衡、滞留)の表面、つまりカマローカの世界があるが、そのカマローカ界の外的な表現が動物界である(人間も死後、動物界で精神性に応じて獣となる)という。 この世界を知覚するためには霊力が必要だが、その知覚に適した器官を既にもつ人は、これら3つの領域の相互関係において見るべきものを認識することになるという。動物界を堰き止め(均衡、平衡、滞留)から現れたものとして把握するならば、植物領域と動物領域の関係、動物領域と人間領域の関係を見出すことになる。 動物は、互いに補い合い、貫入する他の2つの領域の方向に対して、垂直の位置にある。低次の領域はより高い、次の領域に食物として奉仕する。この事実は、人間と植物の関係は動物と人間の関係とは異なる、ということに光を当てる。 動物を食べる人は堰き止め(均衡、平衡、滞留)の状態との関係を発達させているといえる。真の活動は対立する流れが出会うところにあり、このように捉えることで、一連の思考の切欠を与えるが、それは後になって不思議な手法で、全く別のかたちで再現されるという。 要するに、正方形は2つの軸が線によって切られることで生じ、立方体は3つの軸が面によって切られることで生じる、ということを見てきたが、では、4つの軸が何かによって切られる、ということを想像できるだろうか? 立方体は4つの軸が切られるときに生じる空間構造(4次元図形)の境界である。 正方形は3次元の立方体を境界づけている。次回は、立方体が4次元図形の境界を形成するとき、どのような図形が生じるかについて見ていく。
2007年05月15日
コメント(0)
秘教では、人間は、鷲、獅子、牛の3つの動物の代表から構成されていると説いている。鷲は思考、獅子は感情、牛は意志の象徴なのである。獅子は、鷲と牛の間に入り、バランスを取りながら、3つを結びつけ、人間足らしめているという。 人間は、この3つの動物をいわば飼い馴らすことで、人間存在としているのであるという。 しかし、とくに1999年8月の天体のグランドクロスから、鷲、獅子、牛がそれぞれ、分離するような精神状態に極端に晒されるようになってきているという(実際、日本では1998年から自殺者が急増している)。鷲が極端になると、思考が感情や意志を圧迫し、冷たく無感動な冷酷非情の知的人間(獣)を形成していくようになるという。 さしずめ、現総理が、この典型的な鷲人間(獣)のように思われる。必死にマスコミを使って温情アピールを演出するところ等、選挙に勝つためには手段を選ばないところに、人間として、かえって冷酷さと無感動さを感じざるをえない。 獅子人間は、感情が極端になり、思考や意志を圧迫するので、依存症的、狂信的な利己的な感情的人間(獣)を形成していくようになるという。この典型が、前総理といえるだろう。人気に依存し、狂信的な国家主義者であったからである。 そして、最後は、牛人間で、これは意志が極端になり、思考や感情を圧迫するので、権力志向の暴力的な意志的人間(獣)を形成していくようになるという。東洋にこのような人物が現れると、たちまち、独裁主義となる恐れが生じる。 秘教では、鷲人間は、主に、米国辺りに出現しやすいと預言されている。そして、鷲人間は、あまりに冷酷非常で無感動な知的人間なので、運命論者で、懐古主義に陥りやすく、シャーマニズムに傾倒するようになるといわれている。もし、米国に心霊主義のようなものが芽生えつつあるなら、注意すべきときかもしれない。 獅子人間は、主に、欧州辺りに出現しやすいと預言されている。そして、獅子人間は、あまりに依存性の強い感情人間なので、利己的で、自分のみで生きようとし、その場限りの場当たり的な生活を送るようになるといわれている。もし、欧州に過激なベジタリアンやエコロジストが芽生えつつあるなら、注意すべきときかもしれない。 そして、牛人間は、主にアジア辺りに出現しやすいと預言されている。牛人間は、権力指向の強い意志的人間なので、最新の科学を用い、世界を機械システムにより統一しようと目論むといわれている。この牛人間が、アジアに顕れるとき、もし、科学技術により、人間が機械に支配されるようになるとき、悪魔アーリマンの目論見である、機械による人間統治が成功するときであるといわれている。 そのとき、人間は機械により、自然環境を操るまでに至り、地球の季節感覚はもはや失せ、地球から、太陽系を支配するようになるという。しかし、そのときの人間の本性は、悪魔アーリマンの掌中にあるものと預言されているのである。 悪魔の存在に気づかされたときは、とき既に遅しというべきものなのだろう。なぜなら、悪魔たちは、人類よりも遙かに知的で、遙かに賢い存在であるからである。悪魔は決してその存在を明かさず、あえて、人間には神の名を名乗ろうとするのである。 いま人間は、神の名や権威、名誉を語る存在に充分に注意すべきときといえる。
2007年05月14日
コメント(2)
秘教の知識なしに、アストラル界に出くわすと、人はただ混乱するだけで、それを理解することはないということを前回まとめた。 これはアストラル界を、鏡像対称的に見る必要があることや、自分に向かってくる全ての凶暴な獣を、自分の内にあるものの鏡像として理解する必要があることを知らないからだという。実際、アストラル的な諸力や人間の激情はカマローカ(死後まもなく迎える欲界)においては、あらゆる多様な動物の形態(獣)を取って現われるという。 カマローカにおいては、肉体を離れて間もない人を見るときも、全く美しくは見えないという。その瞬間には、まだ、あらゆる激情、衝動、願望、切望そのものを、内にもっているからであるという。 カマローカにいるそうした人々は、確かに既に肉体もエーテル体もないが、そのアストラル体のなかには、彼らを物質界に縛り付けていたものや肉体によってのみ満足できるもの全てがまだ保持されているからであるという。 過去生においても大したことを行わず、宗教的な発展に向けて努力したこともない、現代の普通の平均的市民を思い浮かべる。その人たちは理論的には宗教を否定していないが、事実上は否定しているような(つまり、彼ら自身の感情に関する限り)、宗教を窓から放り出しているような人々、宗教は彼らの人生においては生きた要素にはならなかった場合を考察する。 そのような人のそのアストラル体には何が含まれるのか? そこに含まれるのは、例えば美味しい食べ物を楽しもうとする欲望、つまり肉体器官によってしか満足させられることのない熱情といえる。しかし、それを満足させるためには、その欲望を満足させるための味覚が存在する必要がある。或いは肉体を動かすことで満足させられる別の楽しみを求めているかも知れない。 肉体がなくなった後もそうした欲望がアストラル体のなかに頑として生き続けることを想定する。もし、アストラル的な純化や浄化をしないまま死んだなら、そのような状態になり、食べる楽しみやその他のものを求める欲望は死後いまだもっているが、それらを満足させる可能性はもうないので、それらはカマローカにおいて恐ろしい苦しみを生じさせるという。 カマローカでは、最初にアストラル的な浄化をせずに死んだ人々の欲望が取り払われるという。もはや満たされることがない欲望や願望を放棄することを学ぶときのみ、アストラル体は解放されるという。 アストラル界において衝動や激情は動物(獣)の形態をとり、人間が肉体をもっている間は、アストラル体は多少とも肉体の形態に順応しているという。けれども、外的な体がなくなると、衝動、欲望、激情のような動物(獣)的な本性はそれ自身の形態をとって現われてくることになるという。なので、アストラル界においては、人は自らの衝動や熱情の模像となるという。 このアストラル存在は別の肉体を利用することもできるので、悪を退けることのできる霊視者がいないときには、霊媒をトランス(霊媒)状態に入らせるのは非常に危険であるという。 物理的な世界の獅子(ライオン)の形態は特定の激情を決まった形で表現し、虎は別の激情の表現で、猫は更にまた別の表現であるという。それぞれの動物がどのような特定の激情や衝動の表現であるかを知ることは興味深い。 アストラル界、つまりカマローカでは、人間はその激情に従って動物(獣)の本性にほぼ似たものとなるという。 この事実は、エジプトやインドの司祭、そして叡智の教師によって説かれる魂の輪廻の教えに関して、よくみられる誤解の原因となっているという。 「動物に生まれ変わらないように生きなさい、」とその太古の教えは説くが、この教えは物質的な生に関してではなく、より高次の生について言っているという。輪廻転生についてではなく、つまり、人間が動物(獣)に生まれ変わるのではない。 太古の教えが意図していたのは、死後カマローカで動物的な形態をとる必要のないような生活を、地上において送ることを勧める、ということに他ならないという。 例えば、猫の性格をつくりあげた人は、カマローカにおいて猫として現われるという。 カマローカにおいても人間の形態で現われるようにする、というのが魂の輪廻の教えが目指しているもので、真の教えを曲解する学者たちが、この教えについての、例えば、(次の転生に)動物に生まれ変わるというような馬鹿げた考えをもつという。 秘教では、人間は(悪魔に魂を奪われなければ)人間のみに生まれ変わるものとしている。 人間が動物に現れるのはカマローカと呼ばれるアストラル界であり、死後の世界である。カマローカにて、人間の動物性は除去され、それに応じてカルマの課題を与えられ、再度、転生するときは、人間として生まれてくる。 こうして、数や時間の領域、そして道徳生活の領域においてアストラル空間に入るときには、物理的世界のなかの習慣的思考や、行為の完全な鏡像に関わることが分かる。鏡像対称的に読みとる習慣を身につける必要がある。この習慣はアストラル空間に入るときに必要となる(4次元の)技能であるという。 これまで示唆したような、またこれからの議論で更にもっと知るべき、基本的な数学的イメ-ジに結びつけると、対称的に読みとることを学ぶのが容易になるという。まず全く単純なイメージ、つまり正方形のイメージから始める。 1つ見慣れた正方形をイメージし、その四つの等辺を四つの異なった色で描くことにする。 これは正方形が、物理世界においてどのように見えるかを示すという。 ここで、この正方形が、デーヴァ界(神界)において見えるように描いてみる。全く正確とはいかないが、少なくともメンタル界(デーヴァ界)では正方形がどのように見えるかについてのイメージを与える。 [正方形の]メンタル的(デーヴァ的)な対応物はほぼ十字のようなものであるという。 概略的には、垂直に交差する二つの軸、互いに交差する二本の直線、つまり十字架と言っていいという。この十字架の物理的世界における対応物(正方形)は、十字架の軸(直線)の各々に垂直な線を引くことにより、(正方形として)構成されるという。 では逆に、メンタル的な正方形(デーヴァ界での正方形)の物理的な対応物は、[二つの互いに交差する流れを]堰き止める(滞留する)もの(十字架)として最もよくイメージできるという。 この互いに垂直な軸線を、交点から外に向かって働く力、或いは流れとしてイメージすると同時に、反対側から、つまり外から内に向かって働き込んでくる対抗的傾向が存在することを考察すると、そのとき、正方形を、これら二つのタイプの流れ、或いは力(一方は内から、他方は外からやってくる力)が互いに堰き止め会う境界線としてイメージすることにより、物理的世界の中へと、メンタルな正方形がやってくる。つまり、力の流れが堰き止められる境界ができるという。 この像は、あらゆるメンタル的なものが物理的なものにどのように関係しているかを表しているという。
2007年05月14日
コメント(0)
しかし、道徳的なものをアストラル平面で考察するとき、事物は全く複雑になるという。道徳性もまたある種の裏返し、或いはその鏡像において現われるからであるという。 なので、アストラル界での事象の説明が、物理的世界で慣れている方法による説明とは、非常に大きく異なっているものと想像できる。 アストラル界において、例えば凶暴な獣が自分に向かってくるとする。その凶暴な獣は我々を食い殺すという。外的(物理的)な出来事を説明するのに慣れている人にはそのように見えるが、この出来事は物理的世界において、そのようにみえるように遂行されているのではなく、そのような(物理的な)説明は無意味で、不可能であるという。 本当のところは、凶暴な獣は我々自身のなかにある性質で、我々自身のアストラル体の1つの側面が、我々を食い殺しているという。食い殺すものとして、自分の方に向かってくるものは、自分自身の欲望に根ざすものであるという。 なので、例えば、自分のなかに復讐という考えをもっているならば、その考えは外的な形態を取って現れ、死の天使として、自らを苦しめることになるという。 真相は、[アストラル界においては]全てが自身から発するという。 アストラル界においては、自身に向かってくるように見える全てを、自分のなかから発するものとして観察する必要があるという。それは、まるで無限の空間から、自身に押し寄せてくるかのように、あらゆる側の領域から、こちら側にやってくるという。しかし真相は、我々自身のアストラル体が、外から(自分の方へと)送ってくるのに他ならないという。 周囲のものを中心(自ら)に変換し、周囲のものを中心(自分)のものとして観察し、解釈することができてはじめて、アストラル的なものを正しく読みとり、[そのときはじめて]真実を見出すという。 アストラル的なものはあらゆる側から自身へと向かってくるように見えるが、それは実際には、あらゆる側へと自身から発しているもの(鏡像)である、と考えなければならないという。 ここで神秘学(オカルト)の訓練において非常に重要な概念を紹介する。それは幽霊のように神秘学の研究に関する様々な書籍にはよく出てくるが、ほとんど正しく理解されていないという。ある種の神秘学的進歩の段階に至った者は、自分のなかに、いまだカルマ的に求めている全て、例えば歓喜、快楽、苦痛等をアストラル界のなかに見ることを学ぶ必要があるという。 では、いかなる楽しみ、悲しみ、苦しみ等々に出会うことが期待できるのか? 正しい意味で人智(秘教)学的に考察するなら、外的な生と物理的な肉体は、今日(現在)において、お互い反対方向からきて、互いに交差する2つの流れの産物、或いは交点に他ならない、ということが明らかになるという。 過去から来る流れと未来から来る流れを思い描くと、それは2つの互いに交差し、交差全ての点において互いに合流するものとなる。 例えば、1方向に向かう赤い流れと別のそれとは逆の後方に向かう青い流れを考察する。今、それらの流れが合流する4つの異なる点を思い描く。[それら4つの点全てにおいて]この赤い流れと青い流れが相互作用を行う。 実は、これは連続する4回の受肉[の相互作用に関する構図]であり、それぞれの受肉において、我々人間は一方の側から来る事象と別の側から来る事象とに出会う。なので、いつでも次のように言うことができるという。 「人間を迎える流れ(未来から過去)があり、人間がもたらす流れ(過去から未来)がある」と。それぞれの人間はそのような2つの流れの合流点といえる。 合流点(未来から過去、過去から未来)=立命(宿命、運命) このような事態が一体いかなるものなのかを考察するには、次のように想像してみるとよい。 今日ここに存在し一定量の体験をする。明日の同じ時間には別の纏まった出来事が起こる。さて、明日起こる予定の出来事が既に未来から過去の流れにあると思い描く(宿命)。 それら(宿命)に気づくと、自分に向かって空間中を近づく出来事についてのパノラマを見るのに似た体験を得るようになるという。未来からやってくる流れが今日から明日にかけての経験を運んで来ると想像する(運命)。未来がやって来て出会うとき、過去によって人間は支えられるという(立命)。 あらゆる時間の断面において、2つの流れが合わさり、人間の生を形成する。1つの流れは未来から現在に(宿命)、もう1つの流れは現在から未来に向かって流れる(運命)が、それらが出会うところでは堰き止め(滞留)が生じる(立命)という。 人生のなかで、いずれ直面する全てがアストラル的な現象の形態で自分の前に現われる(宿命)という。この出来事は信じられないほど印象的な言葉で表現される必要があるという。 神秘学徒がアストラル界を覗き込むように、進歩において予め意図された時点に至った場合を考えてみる。 彼らの感覚は開かれ、現在の時期(地球紀)が終わるまでに、人類が体験する必要がある未来の経験の全てが、アストラル界において、彼らを取り巻く外的な出来事として知覚される(宿命)という。それは、全ての神秘学徒にとって全く印象的な光景になるという。 つまり次のように言える。「神秘学徒が、第6根源人種(次の木星紀基本人種)の半ばに至ってもなお(そのときまで人類の受肉は続くという)体験の必要な、あらゆるもののアストラル的なパノラマを経験するとき、神秘修行における1つの重要な段階が達成される」、と。 神秘学徒にとっての道は開かれ、神秘学徒は、近未来から第6根源人種に至るまでに[いずれ]直面することになる全てのものを外的な現象として経験するという。だからこそ、神秘学徒は、預言者足りえる。 ちなみに第5根源人種とは、アトランティス時代に、個人的な自我をもち、進化を遂げたアーリア人種のこと(聖書では、ノアに率いられた人種)で、第6根源人種とは、ヨハネの黙示録に記述されたフィラデルフィア(友愛)の教区の人々で、人類が悪の種と善の種の2つに分かれたときの善の種の指導的役割を担う人々のことで、愛の都エルサレムをつくると予言されている。 この境域まで進むと、ある問いが歩み寄ってくるという。「お前はこれら全てを、考えうる限り短い時間で経験しようとするのか?」と。 秘儀伝授を受けようとする者にとってはそれが問題となるという。この問題について熟考するとき、自身の未来の生全体がある瞬間において、アストラル的な観照の特徴である外的なパノラマとして現れることになるという。 「いや、私はそのなかには入らないことにする」と言う人もいれば、「私は入らなければならない」と思う人もいるという。 「境域」或いは決定の瞬間として知られる、神秘的な進歩のこの時点において、これから体験し、体得すべきもの全てと共に自分自身を経験することになるという。「境域の守護者(ドッペルゲンガー)」との出会いとして知られる、この現象は、自身の未来の生に直面することに他ならないという。 境域の向こうに横たわっているのは我々自身の未来の生であるという。 これに対して、アストラル的な現象世界のユニークな特徴の1つは、ある予見できない出来事によって(人生には予見できない出来事があるという)アストラル界が突然開かれる人が、理解不可能なものの前に立たされるときに見られるという。 そうしたことが起こるとき、この恐ろしい光景以上に混乱を生じさせるものは何もないほどで、従って、肉体とエーテル体の間、もしくはエーテル体とアストラル体の間が緩むというような病的な現象の結果として、このようにアストラル界が突然押し寄せる場合に備えて、アストラル界について今何が言われているのか、何が問題とされているのか、ということを知ることは、最も素晴らしい意味で良いことといえるという。 そのような現象によって、人は思いがけずアストラル界に入り、アストラル的な生を覗き込む状態に置かれることがあるという。そのような人々は、こう見えるとか、ああ見えるとか言うが、見てもただ混乱するだけで、理解して読み解くことはないという。 あらかじめ、アストラル界が、物理的世界の鏡像関係にあることを認識し、物質世界の背後に霊的世界を予感でき、以上のような混乱を抑えることができるだろう。例えば、数学的には、アストラル空間を、物理世界を正とすれば、負の数により表すことができる。 そして、人間の立命、宿命、運命の関係は、いわばファインマンのダイアグラム(図形)として、いわば素粒子理論の素粒子の相互作用を、図形で表すように、形式的に表記できることが考えられる。ただし、人間の人生が、数値等によって表されることはないので、この図が全くの意味をもたないことは明らかであろうが…。
2007年05月10日
コメント(0)
今回も、難しい課題を続けてまとめていく。その際、これまで触れた様々な事柄に再度言及する必要がある。その後で、2、3の基本的な概念に取り組み、それによって、最後には、シャウテン氏のモデルを使って、幾何学的な関係の詳細、及び人智学の興味深い実際的観点の両方を十分に把握できるようにする。 4次元空間の可能性を心に描こうとした理由は、いわゆるアストラル領域と、更に高次の存在形態に関して、少なくともある種の概念を得ることだった。既に、アストラル空間、アストラル界に入ると神秘学徒は、まず恐ろしく混乱するということを指摘した。 神智(人智)学や秘教学的な課題について綿密に探求したことがない人、それらを理論的なレベルにおいても扱ったことがない人にとっては、いわゆるアストラル界において遭遇する諸事象や諸存在の非常に異質な本性をイメージするのは究めて困難であるという。この相違がいかに大きいかについてもう一度簡単に描写する。 最も簡単な例として、全ての数を逆に読むことを学ぶ必要があることを述べた。ここ物理的世界において読まれる方法でのみ数字を読むことに慣れている神秘学徒は、アストラル界の迷宮のなかで道に迷うことになるという。 アストラル界では、例えば467という数は764と読まなければならないという。 そのような数を鏡像対称的に、鏡に映ったように、読むことに慣れる必要があるという。これが基本的な前提条件であるという。空間的構造や数に、この原則を適用することはまだ簡単だが、時間的関係を取り扱うことになると、更に難しくなる。 時間的関係もまた対称的に、つまり、後の出来事が最初にきて、始めのものが後に現れるように見えると考える必要があるという。 なので、アストラル的なプロセスを観察するときには後ろ向きに、つまり最後から最初へと読むことができる必要がある。このような現象の性質は、そこで何が生じているかに関する考察を何ももたない人にはしばしば全く奇怪に見えるので、暗示することしかできない。 アストラル界においては、はじめに息子がいて、その後で父親がいるという。まず卵があって、その後で鶏が続くという。物理的な世界においては、順序は逆で、まず誕生があり、誕生は古いものから何か新しいものが現われる、ということを意味する。 アストラル界では、これとは逆のことが起こり、そこでは古いものが新しいものから現われるという。アストラル界においては、父或いは母的な要素が息子或いは娘的な要素を呑み込んでいるように見えるという。 ギリシアに面白い寓話がある。ウラノス、クロノス、ゼウスという三柱(人)の神は象徴的に三つの世界を表わしているという。 ウラノスは天の世界、つまりデーヴァ(神)界を表わし、クロノスはアストラル界を表わし、ゼウスは物理的世界を表わしているという。 クロノスについては、クロノスが子どもを食べ尽くすと言われる。なので、アストラル界においては子孫は生まれるのではなく、食べ尽くされるという。 恐らくこのクロノスの伝説が、鬼子母神等の伝説を生んだのだろう。昔話の多くは、実は、霊界の出来事を語ったものなのである。だから、現界(物理的世界)では、不可思議な有り得ない話となるのである。
2007年05月09日
コメント(2)
前回は、点の逆が空間(球)であることをまとめた。 さて、では立方体の逆とは何か? この立方体により、規定された部分を差し引いた無限の空間全体に他ならないという。 なので、全体としての立方体は無限の空間に、立方体により規定される逆像(鏡像)を加えたものとしてイメージする必要があるという。 世界をダイナミック(動的)な力の意味でイメージするなら、極性なしではうまくいかないという。両極性を考えてはじめて物体を、その本来の生の姿において捉えたといえるという。 これは例えば、超弦理論でいえば、超弦とD-ブレインに相当するだろう。超弦の逆とは、それを規定するD-ブレインで張られた無限空間全体に他ならないだろう。 神秘学者が赤い立方体をイメージするとき、その他の空間は緑になるという。というのも、赤は緑の補色だからだという。神秘学者は単純な自己完結したイメージだけをもつのではないという。彼らのイメージとは抽象的で死んだイメージではなく、生きたイメージであるという。 4次元鏡像空間(赤の立方体、立方体を除いた緑の空間) しつこいようだが、超弦理論では、超対称性(超弦、D-ブレイン)だろう。 我々のイメージは死んだものだが、世界の事物は生きたもので、我々が抽象的なイメージのなかに生きるとき、我々自身は、物自体のなかに生きてはいない。もし、光を放射する星をイメージするときには、その反対、つまり無限の空間を、対応する補色において、イメージする必要があるという。こうした訓練を行えば、思考が鍛えられ、諸(高)次元をイメージする自信が得られるという。 正方形は2次元の空間領域だが、2つの小さな赤い正方形と2つの小さな青い正方形からなる1つの大きな正方形は異なる方向に異なって光を放つ面をもつ(2つの赤のマス目と2つの青のマス目をもつ計4つのマス目の正方形)。異なる方向に光を放つ能力は3次元的な能力である。なので、ここには長さ、幅、そして放射能力という3つの次元がある。 ここで、面に関して行ったことは、立方体に関しても行うことができる。上記の正方形が4つの小正方形から構成されていたように、立方体が8つの小立方体から構成されていると考える。 立方体は、さしあたり高さ、幅、奥行きという3つの次元を有する。それらに加えて、それぞれの小立方体の部分の内部に、ある一定の光を放射する能力を区別(付加)する必要がある。その結果、高さ、幅、奥行きに加えて、更なる次元、放射能力が生じる。 4つの小正方形の部分(パーツ)からなる正方形を組み合わせたように、8つの異なる小立方体の部分(パーツ)からなる立方体を考察する。そして、立方体ではなく第4次元をもつ物体を考察する。我々はこの物体を放射能力を通して理解できる。 8つの小立方体のそれぞれが異なる放射能力をもつとする。 そして、各々が、単一な側(方向)に向かってのみ放射能力のある立方体があるとすると、全ての側(方向)に向かって光を放つ立方体を得るには、全ての側(方向)に向かって光を放つもう1つの立方体をつけ加える必要が、つまり、その鏡像反対の立方体をもってきて、それを2倍にする必要がある。 つまり、鏡像対称性を有する立方体は、16の立方体から構成する必要があることがわかる。このことから、4次元立方体は、16の3次元立方体の鏡像対称性をもつことがわかる。 次回は、より高次の次元空間をいかにイメージするかについて学ぶことにする。 ここで恐らく鋭い人(孔明さま辺り)は、易経の八掛、「当たらぬも八掛、当たるも八掛の計十六掛」を思い浮かべるだろう。つまり、易とは、この鏡像対称性を陽と陰に置きかえ、4次元立方体を、表現したものに他ならないことがわかるだろう。 本来の易占とは、人間の運命を4次元立方体から幾何学的に解釈したものといえるだろう。だから、霊能力は勿論のこと、特に秘儀参入者でなければ、本来は占えないのである。太古では、預言者と呼ばれる者のみが預かれるとされた。 なぜならば、この世の3次元空間以上のイメージ力を必要とするからで、端的にいえば、あの世からの力、人間存在の上の位階(ヒエラルキー)の存在、例えば、天使、大天使、権天使等の力を理解でき、かつ占う人間の前世は勿論のこと、この世でのカルマの成就等、使命など、生半可な軽々しい知識では、まるで歯が立たないものといえるだろう。 少なくとも、キリストが何者なのか?の明快な答えを見出せる者でなければならないといえるだろう。 極言すれば人間の運命は、生きている間のみに決定されるのではなく、死んでから次の転生までに、あの世でその本人が行ったことも、関与しているという。また、生きている間であっても、死んでから次の転生でのあの世の絆からの死者である指導者も関与し、勿論、天使等の神々たちも関与しているという。 それら様々な宇宙からの多方面の働きにより、1人の人間の人生が決定されるというのである。このことを、「マクロ宇宙のなかの、人間のミクロ宇宙」と称するという。1人の人間のなかに、全ての宇宙からの働きが関与し、含まれているという。だから、ただ生きている間だけが、人生とはいえないのである。勿論、死んで終わりではなく、死は生の変容であり、新たなる誕生(再生)といえるという。 易経では、16×4=64の多様性の循環に源流をおいている。これを秘教的に、4つの体、つまり、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の16の3次元立方体が、4次元立方体を構成すると捉えると、人間存在を64の状態から大別できることが大まかに見通せる。 このような複雑な数を用いずとも、易が説く肝要なこととは、不幸にあっては、幸を思い(逆に幸福にあっては不幸を思い)、勝っては兜の緒を締め、失意のうちには、意(理想)を見出し、困難ななかに、忍耐を説き、これらは全て、陰に対する陽(或いは陽に対する陰)の補完関係にあり、お互い何事も思いやりを大切にしなさいということのようである。 つまり、いま自分があるのは、自分を規定している部分を差し引いた無限の空間(神々)からなる御蔭であるから、その意を常に考慮しなさいということであろう。 とどのつまりは、「敵を愛し、隣人を愛せ!」ということで、つまり、敵、隣人とは自分を規定している部分を差し引いた鏡像関係なのである。 一寸、説教臭いので、自分に無いものを愛し、共に補完しあって1つになる事が愛のことかと思う次第…。
2007年05月08日
コメント(2)
再度、鏡像の考察に戻る。 真ん中の垂線に鏡の断面がある図形を考察する。鏡は左側の図形の鏡像を反射し、その反射のプロセスは、2次元を超えて3次元を指し示す。鏡像の原像に対する直接変換した関係の理解には、1次元と2次元に加えて3次元の存在を仮定する必要がある(この関係は、ホログラム像を考察するとわかる)。 そこで、外的空間と内的イメージの関係を観察する。 外にある立方体は、内なる(反射の)イメージとして現れる。立方体に関するイメージ像は、鏡像がその原像に対するように、立方体と関係する。我々人間の感覚器官は立方体に関する心的なイメ-ジを発現させる。このイメージ像を原像の立方体に重ねるには、4次元を通る必要がある。 丁度、2次元の鏡の(反射)プロセスを連続して行う場合、3次元に移行する必要があるように、(内的な)イメージ像と外的な対象物との間に直接的な関係を生じるためには、我々の感覚器官は4次元的でなければならない。 もし、2次元だけをイメージするなら、夢の像だけが目の前に現れ、外界に対象があるとは考えないという。我々人間は何かをイメージするときには、4次元空間を通じて、イメージ力を外的な対象の上に直接投影しているという。 人類進化の初期段階において、アストラル状態にあった人間はただ夢見る人に過ぎなかったという。彼らの意識のなかに生じるイメージとは夢の像(4次元だが、イメージとしては2次元)だったという。人間は後にアストラル領域から物理的空間(3次元)へと移行したという。このように述べるとき、我々人間はアストラル存在から物理的、物質的存在への移行を数学的に定義したことになる。 この移行が生じる以前には、アストラル人間はいわば3次元的な存在だったという。そしてそれ故に、夢の像の2次元的なイメージを、3次元的な物理的、物質的な対象世界へと拡げることができなかったという(3次元存在は、2次元までしか認識できない)。しかし、人間が自ら物理的な物質になったとき、更に4次元を獲得し、それによって生命をも、3次元のなかで体験できるようになったという。 感覚器官のユニークな特性によって、イメージ像を外的対象物に重ねることができるようになったという。我々は、内的イメージを外的物に関係させることで、内的イメージを外的対象にかぶせながら、4次元空間を通過して行くという。 このことは、プラトンのイデア論の考察に見出せるだろう。 ではもし、我々が物の中に入り込んで、中から物を見ることができたなら、つまり物を反対側から見るとしたらどのように見えるだろうか? そのためには、我々は4次元を通って行く必要があり、アストラル世界自体は4次元の世界ではないが、物理的世界への鏡像の反映と一緒に考えれば、アストラル界は4次元的といえるという。アストラル界と物理的世界を同時に見渡すことのできる人は4次元空間に生きているといえるという。我々の物理的世界のアストラル世界に対する関係は4次元的であるという。 それには、点と球の間の相違の理解を学ぶ必要があるという。 実際、光源として描かれた点は受動(吸収)的なものではなく、全ての方向へと光を放射しているという。 そのような光源としての点の逆とはどのようなものか? 丁度、左から右へ行く線の逆が右から左へ行く線であるように、光を放射する点の逆も存在し、巨大な、実際には無限に大きな球、あらゆる方向から、しかし今度は、内へと暗闇を放射している球をイメージすることになるという。この球が光を放射する点の鏡像における反対になるという。 光を放射する点(光源)の正反対とは、単に光に中和的な闇が無限に広がる空間ではなく、あらゆる方向から闇を溢れ出させる無限の空間であるという。闇の源泉と光の源泉が対極をなしているという。 前回述べたように、無限のなかに姿を消す(4次元の)直線が別の側から同じ直線の点へと戻ってくることを、我々は知っている。同様に、点が全ての方向へと光を放射するとき、この光は無限からその逆のもの、つまり闇として戻ってくるという。 4次元鏡像空間(光源、闇源) では、その反対の場合を考察する。闇の源泉としての点を考えると、その逆とは、全ての方向から明るさを中へと放射する空間となる。前回説明したように、線上を動く点は無限のなかに消えてしまうのではなく、別の側から再び戻ってくるのだから。 同様に、点は、拡張するか、或いは外へと放射するとき、無限のなかに消え去るのではなく、無限から球として戻ってくるという。球は点の逆になるという。空間(球)は点のなかに生きる。点は空間(球)の逆であるという。 4次元鏡像空間(点、空間) さて、シュタイナーの説く4次元を元にして、現代物理学の素粒子論を考察すると面白いことがわかる。素粒子は、非常に抽象的な数学により、場(空間)に帰すことができる。素粒子は、場(空間)から、階層的な相互作用エネルギー(物理学では調和振動子と呼ぶ)の誘導により、生成し、また消滅するのである。つまり、このことは、粒子と場が、4次元鏡像空間的に、三位一体の関係になっていることを示す。この三位一体の関係は、素粒子論では、対称性に類似する。 対称性(素粒子、場) このことから、相互作用、つまり対称性は、相対する素粒子と場の入れ子的(階層)構造から成ることがわかる。 しかしながら、このことを厳密な抽象的数学で記述すると、素粒子、つまり点は無限大となり、赤外発散を生じるものとなり、場、つまり空間(球)は、これまた無限大となり、紫外発散を生じるものとなる。 このような抽象数学の欠点を回避するのに、繰り込み理論という、あえて、純粋な点と純粋な空間の両極限を追求しないように、あらかじめ、無限大-無限大を繰り込んで、つまり、赤外発散と紫外発散が自ずとキャンセルするように、実験データから、数学的に調整するのである。この数字調整が、対称性という条件を与えるとするのである。 このことは、超弦理論までいくと、素粒子と場は、同じ弦からなり、超対称性という条件から、赤外発散と、紫外発散をつなぐような、Tデュアリティーという、無限小にいくと、無限大にかえってくるような性質を用いることになる。これこそが、シュタイナーが説いている4次元の性質のことである。 Tデュアリティ(赤外発散、紫外発散) 超弦理論が非常に哲学的といわれるのは、このことにあるといえるだろう。 従って、超弦理論は、少なくとも現代物理学の実験では証明不可能なのである。
2007年05月07日
コメント(2)
今回は特に、非常に機知に富んだ男、チャールズ・ヒントンの考えを参照しながら、多次元空間のイメージに関する基本的要件をまとめる。 前回は0次元の考察からはじめて、多次元空間のイメージへと進んだが、どのように2次元空間から3次元空間へと至ったかの可能なイメージに関して、再度、簡単に繰り返しておく。 対称性の関係とは何を意味しているのか? 互いに鏡像の赤と青の2つの平面図形を重ねるにはどうすればよいか? 2つの鏡像関係にある図形が半円の場合には、これは赤い半円を青い半円のほうにずらしていくことで、比較的簡単にできる(円の中心から回転させる)。 しかし、複雑な鏡像対称性をもった図形の場合は、簡単にはいかない。平面上で行う限り、回転や平行移動等の手法で一方の赤の図形を、他方の青の図形のほうにずらしても、赤い部分と青い部分を正確に重ねることはできない。 けれども、これを可能にする方法がある。平面から、つまり2次元から出て3次元を用いれば、別の言葉でいえば 、青い図形を鏡の軸を中心にして空間中を回転させて赤の図形の上に重ねれば、可能になる。 1組の手袋もこれと全く同じ関係にある。3次元空間から出ることなく、片一方の手袋をもう一方の手袋に重ねることはできない。第4の次元を通過する必要があるという。 前回、次のように述べた。4次元をイメージするなら、2次元から3次元に超え出るときの状況と同じ状況を成立させることにより、空間における関係を流動的な(複雑系の)ままに留める必要がある、と。 紙テープ(帯)から互いに絡み合った空間構造を作り出すとき、その絡み合いは特定の複雑さを生じることになる。 これは単なる遊びではなく。何故なら、そうした絡み合いは自然のなかに、特に物質的対象物の絡み合った運動のなかに、いつでも生じているからであるという。物体はそうした絡み合った空間構造において運動しているという。この運動は副次的な力を備えているので、その力もまた互いに絡み合っているという。 太陽の周りの地球の運動、そして地球の周りの月の運動を考察する。月は、太陽の周りにある地球の軌道の周りに巻き付くような円(螺旋軌道)を駆け巡っているという。つまり、月は円周の周りで、螺旋を描いているという。太陽自身が運動しているから、円周の周りの月はさらなる螺旋をなし、その結果、空間全体を通じて広がる非常に複雑な副次的な力線が生じるという。 天体は、前回考察した、シモニーの絡み合った紙テープのように、相互に関係しているという。前述したように、それを固定(静止)化させないように考察するときに、理解可能な複雑な空間概念を取り扱い、生き生きと思い浮かべる必要があるという。 空間をその本質において捉えるならば、確かに、まず固定(静止)的な形で捉える必要があるが、更にそれを再度、完全に流動的なもの(複雑系)とする必要がある。それは、一旦、零にまで行き着いてから、そこで生きた点の本質を見出すようなものである。 もう一度、いかに次元が構築されるかを生き生きと思い浮かべてみる。点は0次元であり、線は1次元、平面は2次元、立体は3次元であり、なので、立方体には、高さ、幅、奥行きという3つの次元がある。 さて、様々な次元の空間構造は互いにどのように振舞うのか? もし、直線生物という存在があり、1次元だけをもち、直線に沿ってのみ運動できることを考察する。そのような存在を想定するならば、そうした存在の空間イメージはいかなる在り様をしているか? そのような存在は1次元性を自ら知覚せず、どこに行くにも点のみを知覚できるだけであろう。というのも、我々が何かを描こうとしても直線には点しか存在できないからで、従って、2次元存在が出会うのは直線のみであり、1次元存在だけを知覚し、立方体のような3次元存在は、2次元存在を知覚でき、自身の3次元を知覚することはできないだろう。 さて、人間は3次元が知覚可能である。正しく推論するならば、次のように言う必要がある。1次元存在が点だけを知覚でき、2次元存在が直線だけを、そして3次元存在が面だけを知覚できるように、3次元を知覚する存在は、自身が4次元存在でなければならない、と。 人間が外的存在を3次元によって境界づけることができ、3次元からなる空間と関わることが可能ということは、人間が4次元的であることを意味している。同様に、立方体が2次元だけを知覚でき、自身の3次元を知覚できないように、人間は自身が生きている4次元を知覚できないことは明らかで、こうして、人間は4次元存在でなければならない、ということがわかる。 我々人間は水のなかの氷のように、4次元の海を泳いでいるという。
2007年05月02日
コメント(0)
映画「硫黄島からの手紙」をみた。「男たちの大和」よりは、よかったように思える。戦争映画が流行の日本だが、恐らく戦争を美化できるほど、日本が平和ボケしているせいなのかもしれない。 勝海舟は、歴史とは難しく厄介なものといっている。なぜなら、当時、歴史的な出来事を体験し、生き残った者が、記録を綴るにしろ、そこには、どうしても、記録者の思い込みが入ってしまうからである。 戦争は生き残った者が綴るから、あながち美化されやすい。勝自身も、戊辰戦争を生き残れたのは、自らのズルイ性格と、所詮、生きるのは面倒で、常に死ぬ覚悟で開き直っていたので、かえって生き残ったと言っている。言葉を返せば、いつ死んでもおかしくなかったわけで、戦争自体無駄という風である(だからこその無血開城の立役者となれた)。 主観を除いた、百パーセントの客観的立場など有り得ないことは、マックスウエーバーも言っているところである。第一、問題とする歴史的出来事と関わっている時点で、完全な客観性など、存立しないし、問題とする出来事となんらかの接点が無い限り、外野席で、無責任な評論を行うしかないのである。 つまり、歴史とは、ほとんどが生き残った者の思い込みから綴られるものといえるだろう。また、後世の価値観から、あれこれと改められるので、錯誤が錯誤を生んでいるといえる。 実は、このような歴史的史実を記録的な歴史書のみから、体系づけようとする唯物的価値観こそが、間違いの何者でもないと、秘教は説くのである。 秘教では、真実は1つである。しかし、真実が1つであることを認識できるには、高次元の認識を獲得し、神界にあるアカシャ年代紀に、アクセスできなければならないという。 そこまでいかなくとも、カルマを知ることにより、自ら為したことが、自らに返ってくるので、原因が結果となり、その結果が、原因となるので、何もアカシャ年代紀にアクセスするまでもなく、輪廻転生により、因果律を自らの体験から自然と充分に学ぶことになるという。 例えば、前世で、戦地に人を送った場合、今度は、今生で、送られる側になるという感じで、魂の不完全性を補う代償行為となる。 だから、現代のような大量殺戮が行われる戦場に人を送る者は、将来、そのような地獄の場に、今度は、自らが強制的に送られることを覚悟すべきなのである。 それでも、戦争が重要であるというならば、まずは、戦地に赴き、最前線を経験すべきであろう。最前線が非常に危険で、指導者の命が保てないというのならば、その戦争は絶対に回避すべきだろう。 もし、その戦争肯定者が、優秀な指導者足る資質を有するならば、どんなに危険な地であろうと、その指導者から、民族霊が、命を奪うはずはないだろう。つまり、戦場で死ぬのならば、それまでの俗物的指導者といえるだろう。 もし、1人でいくのが現実的でないとするならば、そのような指導者の身代わりになって、いつでも命を投げ出せる心酔者が側近に数百人ほどいなければ、そのような指導者が起こす戦争など、国民に対する単なる拷問にすぎないものとなるだろう。 どうも、現代には、自分が神にでもなったような勘違いの輩が跋扈しているといえる。 私は、福沢諭吉は嫌いだが、「天は人の上に人をつくらず」といったこと自体は、真実だと思う。 自分の行いは、必ず、自らに返ってくるのである。それはどんな魂も平等に完全体になろうとしているからであり、もし、魂が、今生において、他人の不幸を誘発するような行為を働いたとしたなら、魂は、それだけ、不完全になり、次の転生に、その行為の補完、償い、つまり代償行為をとろうとするので、転生時に、他人に成り代わり、自らが体験し、前世で行った自らの行為を誤りとして再認識しようとするからである。 つまり、自らの行為は、他者が知らなくとも、我が知り、天が知り、そして地が知りうるものとなるのである。 熱情に浮かれて、現世において、戦争賛美をするなかれ、その報いは、未来永劫、自らにかえってくるのである。熱情性、利己的低次の自我に埋没するなかれ、誰のなかにも、高次の自我がある。 所詮フィクションでしかない戦争映画なんかでお茶を濁すのではなく、本当の銃弾が飛び交う戦地にいってみてから、発言すべきである。戦争がなくならないのは、結局、指導者がなんだかんだ理由をつけて、自分が戦地に行かなくてすむからだろう。 しかし、今生で行かなくて済んだとしても、来世で行かなくてはならないだろう。そのとき、戦争なんか無くしておくべきだったと悔いてももはや後の祭りである。せっかくの指導者足る地位、戦争を無くし、決断できる立場にいながら、それを放棄したのだから。 戦場に送った者は、送られた者の気持ちを理解しなければならない。前者が主体で、後者が客体である。主体は、客体に負う。これがカルマである。
2007年05月01日
コメント(3)
もう一度、前回述べたことを再考する。0次元的なものは点であり、1次元的なものは線であり、2次元的なものは面、3次元的なものは物体である。 では、この空間概念は互いにどのような状態にあるか? もし、直線に沿ってのみ動くことができる存在、いわゆる1次元人間を考察する。その1次元存在の空間イメージとはどのようなものだろうか? そのような存在は自分自身の次元である1次元性を知覚せず、点だけをイメージするだろう。というのも、1次元空間のなかでは、何かを描こうとしても、直線には点だけしか描きようがないからで、もし、2次元の存在であれば、直線と遭遇し、従って1次元的な存在を識別することができる。そして例えば立方体のような3次元存在は2次元存在を知覚することができる。 けれども、人間は3次元を知覚することができる。我々が正しく結論づけるとすれば、次のように言う必要がある。1次元存在が点だけを知覚可能なように、2次元存在が1次元だけを知覚可能なように、そして3次元存在が2次元だけを知覚可能なように、3次元を知覚することができる存在は4次元存在に違いない、と。 人間は外的な存在を3次元に従って境界づけることができ、3次元空間を処理することができるから、我々人間は4次元存在でなければならない。 そして立方体が2次元だけを知覚でき、自身の3次元を知覚できないのと同様に、人間は自らが生きる4次元を知覚することができない、というのが、秘教が説く真実であるという。 そして、人間は、最終的に6次元存在までに進化できるという。秘儀参入法は、6次元認識を身につける訓練を指す。まずは、3次元から、4次元を認識することが先決とされる。それには、ここで述べた4次元の幾何学を理解することからはじまるという。 だから、プラトンは自らの秘教学院の門前に「幾何学を理解し得ない者は、この門を通るなかれ」と記したという。
2007年05月01日
コメント(0)
全28件 (28件中 1-28件目)
1

