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さて、今蝶類を取り上げてみると、蝶類は主として光エーテルに属し、光エーテル自体が、輝きの力であり、蝶の卵から幼虫を引き出すための手段であり、輝きの力は本質的に幼虫を引き出し、鳥類の場合は、当てはまらない。 鳥たちは硬化質の卵を産む。この卵は熱によって孵化されねばならない。蝶の卵はもっぱら太陽の本性に委ねられるが、鳥の卵は熱の領域まで至る。鳥は熱エーテルの領域に存在し、単なる空気を鳥は元々克服している。 蝶も空中を飛翔するが、蝶は根本的に全くの光の被造物である。そして、空気が光に浸透され、蝶は、この光-空気存在(状態)の内部で、空気存在(状態)ではなく、光存在(状態)を選択し、空気は蝶にとって単なる運び手(媒体)にすぎない。空気は、蝶が、いわばその上を漂っていく波の媒質で、蝶のエレメントは光である。 鳥は空中を飛翔するが、本来、鳥のエレメントは熱で、空気中の様々なニュアンスの熱で、鳥はある程度空気を克服している。鳥もまた実際的には空気存在でもあり、鳥はかなりの程度、空気存在である。
2007年09月29日
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さて、地球の周囲を取り巻いている、この蝶の帯から、もう一度鳥類へと入って行く。これまで既知の事を思い浮かべると、境を接した3つの領域が得られる。その上部には別の領域があり、その下にもまた別の領域がある。 我々人間は、光エーテルをもち、熱エーテルをもつが、これには本来2つの部分、2つの層があり、一方は地上的な熱層、他方は宇宙的な熱層であり、これらは絶えず浸透し合っている。 実際、我々人間は1種類ではなく、2種類の熱をもち、それは地上的、地球的な起源である熱と、宇宙的起源である熱である。これらは絶えず互いに浸透し合っている。更に熱エーテルに接して空気があり、続いて水と地が、上方には化学エーテルと生命エーテルが来る。 化学エーテルと生命エーテル 熱エーテル 空気 水と地
2007年09月29日
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先日、BSで「小説吉田学校」という映画をやっていた。非常にタイムリーなので、みてみたら、なんと、いまの政治と全く変わりがない、国民そっちのけの権力闘争の構図そのままであったことに驚き仰天だった。 つまるところ、戦後60年過ぎても、相変わらず政治はそっくりそのままなのである。 敗戦時の日米関係が、米への主従関係であったことが、この映画から浮かび上がる。そこには、勿論、日本は、米国の世界戦略の単なる一駒であったことは、疑いのないところだろう。 それに比べ、ただ、日本側は、主従関係をどうにかして、対等な同盟関係にもっていこうという近視眼的な視野しかなかった。要するに、それだけ日本は徹底的に負けたということであり、戦前から、負けることなど頭にもなかった指導部の稚拙さに、いまからみれば驚きを隠せないところというべきなのだろう。 「最悪の状況を考慮しつつ、前進するべし。」という格言があるが、日本には、この最悪の状況を考慮する余裕さえなかったといえる。その挙句が、せめてもの主従から、対等な同盟関係への転換、しいては不平等条約の改定なのである。 しかし、このような状況は、実は、敗戦時に始まったわけではなく、黒船来襲時にも、ペリーにより、同様な不平等条約が締結されたのである。明治維新や、明治政府は、この不平等条約を対等にもっていくために、明治維新の勝者たる岩倉-大久保-欧米使節団が結成されたわけである。 結局は、この使節団は全くの失敗に終わり、その非常なる屈辱的なコンプレックスのせいか、いつの間にやら、西郷にいわせれば、欧米列強の物真似集団に変節してしまったのである。そして、欧米の植民地統治による帝国主義をマネた、要するにパクリ国家に豹変するのである。そのとき、国民の統一心情の代表であった天皇の地位は、単なる物質的権力の地位に堕ちたともいえるだろう。 天皇は、為政者の玉という統治の道具のモノになってしまった。岩倉は晩年懺悔し、キリスト教に改心したらしいが、当然というべきものなのだろう。権力亡者の行き着く先は、歴史が何年にもわたり証明するところである。 つまり、その心情を問えば、日本は、押し付けられた主従関係を克服するために、絶えず強がってみせて、相手側の外見をそっくり物真似して、取り繕って、どうですか、見てくださいといわんがばかりなのである。その顕著な例が鹿鳴館であり、当時流行の軍隊を輸入し、富国強兵に勤しむ国民性を形成したといえるだろう。 歴史は繰り返すといわれるが、この状況はまた、敗戦後に繰り返されたのである。「武を用いる者は武により倒される。」というように、文明にすがるものは、文明により倒されたのである。そして、この日本では、元々戦争とは関係のない市民が巻き添えになり、大量の爆弾と原子爆弾の犠牲になったのである。 前坊ちゃん政権は、この日米の主従関係を、戦後レジームと呼んでいたようである。なぜ、レジームだけが、フランス語なのかは、非常に意味不明で、教育改革で、日本語の重要性を説く立場を考慮すれば、全くの野蛮というか、恥知らず、或いは表現が古いが、ハレンチな造語といえるべきものだろう。 そして、その克服法には、憲法改正による日本の再軍備化を掲げるところが、いかにも、米国のシナリオ通りの、飛んで火に入る夏の虫坊ちゃんという感が、ありありと浮かび上がるだろう。米国が、そもそも世界戦略の一齣にすぎない日本を対等に扱うこと自体が、夢見る少年の浅はかさといえるだろう。これは米国の力の外交戦略と歴史の浅さを考慮すれば一目瞭然である。 それに、かつてのローマ帝国をみれば、ローマ帝国の周辺国をローマがいかに扱ったかだけからでも、想像は容易だろう。現代のローマは米国であり、ギリシャは大英帝国なのである。 日本の政治家は、権力闘争に明け暮れた為、選挙の勘定ばかりで、歴史勉強を怠ってきたツケともいえるだろう。ある意味、せめて、日本人とは何かという文化遺産の武士道を残した江戸幕府の方がまだマシだったともいえる。 さて、吉田茂であるが、吉田茂は、再軍備化などという馬鹿な失敗は二度と起こさないように考えた点だけは、その後の政治家とは、わずかばかりだが、異なっていたといえる。それは、吉田茂のケンカ上手と闘争心にあるのだろう。 マッカーサーに、ジョークで取り入るシーンは、吉田茂の本性が滲み出ているように思えた。 力に力で対抗するのは、愚の骨頂である。柔よく剛を制す。米国の力にはない、文化の力である。人間は、進化すると、剣をペンにかえる。闘争から議論になる。これは歴史をみれば一目瞭然であろう。 面白い狂歌がある。武士は刀で殺すが、お茶屋の娘は目で殺す。というような。人間は洗練化されると、闘争を好まず、相手を受け入れる度量を養うのである。臆病な犬ほど、よく吼えるし、不安定で臆病な国こそ、武力で威嚇するものである。 米国ほど、不安定な国家はないだろう。なにしろ、母国語さえ、確立されていないのである。英語は植民地語であり、だから、対外的に戦っていないと、協調性がとれず、絶えず上司が目を光らせていないと統制がとれない。日本で言えば、長野県の風土が是に近い。統制がとれないので、県歌を奨励しているようで、協調、調和の為の教育水準も高いのである。 米国ほど、教育が奨励される国家もないだろうし、外国人にも学びやすいように英語も非常に簡略化されているのである。母国語なら、ありえない話だし、例えば、関西弁のような訛であれば、すぐに、お里が知れるものでなければならない。英語(米語)にも訛はあるが、それは英国ほどのものではないという。また、英国人は英語を話すのに誇りをもっているようであり、米国人にはそれはないという。英国人の場合、英語の訛は階級を表す場合もある。 つまり、言語ほど、民族を表すものはないのである。言語ほど、民族の精神を表すものもないだろう。 しかるに、いまほど日本語が日本人を表明しない時代はないといえるだろう。日本人とは何なのか、話される言葉だけでなく、その間を読める日本人が少なくなっているのである。これは職場にいけば、若者ほど顕著に現れている現象である。 日本語のなかに、培われてきた民族の誇りがある。それは同等に、在日外国人には、母国語に自然に感じられるものと同じだが、日本人はあまりにも、軽薄である。 母国語、つまり日本語に特に拘りはないが、日本語を通しての、母国語への愛情表現が感じられないのが残念なのである。日本の長年の歴史により話されたきた、愛を語られてきた言葉は、当然、赤ん坊のときの親や周囲の愛情と共に学ぶものであるが、その温もりを忘れた軽薄さが感じられる。灯台下暗しである。 日本の風土を学び、日本の言語を洗練化し、日本の愛情を発露させることが、日本人の世界に対する心構えであり、決して、他国語の流行の物真似をすることではないだろう。 それでは、対等どころか、他国語により、母国語を破壊されることになるだろう。 借り物に頼るものは、借り物により滅ぼされる。外面はいずれ剥がされる運命にある。 「チョイ悪オヤジ」で有名になったイタリア人のジローラモ氏が、TVで面白いことを言っていた。 この間、イタリアに帰って、確かピッツァのマルガリータを頼んだら、バジリコの葉がのってなかったので、文句をいったら、この季節にバジリコは取れないよ。お前は本当にイタリア人か!といわれたという。 日本人は自問自答すべきである。 お前は、本当に日本人なのか? 日本人の顔をした時代に流された獣なのではないだろうか?
2007年09月27日
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実際、このような霊的なものは、唯物論的科学からは、ほとんど考慮されない。そのため、このような唯物論的科学には、実際、宇宙経済の全体に属する、このような事柄に、行き着く手懸かりさえも全くないといえる。とはいえ、物理作用が存在するのと同様、宇宙経済も存在し、しかも宇宙経済は物理作用よりも本質的である。 というのも、今日、物理学者、化学者が構成する物質は、地球存在と共にその終結を見るが、霊の国に放射されるもの、これは、地球が崩壊してしまっても、作用し続けるからである。従って、ある観察者が外の宇宙に座して、非常に長い間、観察するなら、その人は、霊物質が霊の国へと、つまり霊的になった物質が霊の国へと絶え間なく放射するようなことが起こるのを見るだろう。 地球が、自身の本質を宇宙空間へと、宇宙へと放射するのを、そして、ほとばしる火花、輝きを発し続ける火花のように、鳥類が、鳥全てが、その死後に輝かせるものが、この宇宙万有へと光線の姿で放射していくのを、蝶の霊光の煌きと鳥の霊光のほとばしりを、見るだろう。 しかし、これは同時に次のようなことにまで注意を導く。 それは別の星界に目を向けさせ、分光観測器で示されるもの、或いはむしろ、分光学の研究者が分光観測器のなかにみるものが、他の星から放射されてくるだけであると信じるだけでなく、地球から宇宙空間へと放射されるものが生命の結果であり、それと同様に、別の星界から地球へと放射されてくるものも、また、別世界の生命の結果であるということに導くのである。 ある星を見て、今日の物理学者と同様に、発火した無機的な炎(核融合)とか、それに類するもの(電磁波等)を想定する。これも勿論全くのナンセンスである。というのも、そこに見られているものは、全くもって、生命を与えられたもの、魂を与えられたもの、霊化されたものの結果であるからである。
2007年09月27日
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鷲により代表される鳥の世界は、霊化された地球素材を運べ、実際、この事により、地上的なものと地球外のものとの間に関係が生み出される。地上の素材は、まず、いわばゆっくりと霊のなかへと移行され、そして、鳥類は、この霊化された地上素材を、宇宙万有に委ねるという課題をもっている。 だから、いつか地球が、その存在(状態)の終焉に到達したとき、次のように言えるだろう。 「地球素材は霊化し尽された。鳥類は、霊化されたその地球素材を、霊の国に戻すために、地球存在(状態)の経済全体の内部にいた」、と。 蝶に関しては、幾分、事情が異なる。蝶は鳥よりも、更に多く地上の素材を霊化する。鳥は何と言っても、蝶よりも、遥かに大地近くにいる状態にある。この事は後に述べる。しかし、蝶は太陽領域を全く去らずにいることにより、その素材を、鳥のように、死ぬ際になり、ようやくではなく、まだ生きているうちに、霊化された素材を絶えず、地球の周囲、宇宙における地球の周囲に譲渡するほど、霊化可能である。 究めて様々に飛び交う蝶の世界に貫かれ、この蝶の世界が、宇宙に譲渡する霊化された地球素材を、絶え間なく宇宙空間に放射している。そういう地球を、思い浮かべる事ができるとき、宇宙の全経済のなかには、本当に何と偉大なものがあるのかがわかる。 こうして、地球のまわりの、この蝶の世界の領域を、このような認識により、全く別の感情をもって観察できる。 このヒラヒラと舞い飛ぶ世界のなかを覗き込めると、次のように言える、「お前たち、舞い飛ぶものたちよ、お前たちは太陽光よりも、素晴らしいものを発する、お前たちは霊光を宇宙へと放射する」、と。
2007年09月26日
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この宇宙言語の要約は、宇宙の現象と宇宙の本質の内(精神)的な関連を扱っているが、既に外の現象界にしか目を向けない人には、さしあたり予想もつかないような、様々な事が判明するのをみてきた。これまで見てきたのは、根本において、いかなる存在のありかたも(これを2、3の例で示したが)、その課題を宇宙的現存の関連全体のなかにもつ、ということだった。 さて、今回は、既に述べた存在の在り方を、いわば要約しつつ、再度眺め、前回から、蝶に関して、述べた事に注目してみる。植物の本質に対立するもののなかに、正に蝶の性質を展開した。そして、蝶とは本来(太陽)光に属するもの、外惑星、つまり火星、木星、土星の力によって修正された上での(太陽)光に属するものであると述べた。 従って、本来、蝶をその本質において理解するなら、宇宙の上方の領域を見上げて、次のようにいえる。 「宇宙の、この上方の領域が、蝶の本性を地球に贈り、蝶の本性を恵みとして地球に授けた」、と。 さて、この地球に与えられた恵みは、更に遥かに深くまで達する。前回を思い出してみれば、次のように言えることがわかる。 「蝶は本来地上での生存に直接参加せず、太陽のその熱と輝きの力をもって、正に地上での生存のなかで働いている。その太陽の範囲内において、地上で間接的に参加するだけである」、と。 しかも、蝶はその卵を、太陽の領域から抜け出ない処に、太陽の効力の領域内に止まる場所に産みつける。つまり蝶は、本来卵を、地球ではなく太陽にだけ委ねる。それから火星作用の影響下にある幼虫が這い出し、無論、太陽作用は相変わらず存在し、そして、木星作用の下にある蛹が形成される。蛹から蝶が這い出し、羽の色彩の煌きのなかで、土星の力と1つにされた太陽の輝きの力と生成するものを、地球の周囲に再現する。 このように本来、地球存在(状態)の内部、地球存在(状態)の周囲に、土星の効力が蝶存在の様々な色彩のなかで直接活きているのを見る。けれども、宇宙生存にとって問題となる実質は、二重のものであるという事も思い出される。 純粋に二重の意味で、素材的な地球の実質を扱い、霊的実質も扱う。奇妙な事に、人間は、その新陳代謝組織に関しては霊的実質を根底にもつ一方で、人間の頭、頭部の根底を成しているのは、物質的実質である。 人間の下部の性質においては、霊的実質が、物質力の作用、重力の作用、その他、地上的な力作用に浸透されている。頭においては、地上的実質、つまり新陳代謝全体、循環、神経活動他を通して、人間の頭へと上に運ばれた地上的実質が、思考や表象のなかに反映されている超感覚的、霊力に浸透されている。 従って、人間は、頭のなかには霊化された物質的素材を持ち、新陳代謝-四肢組織のなかには、地上化された、霊的スピリチュアルな実質性をもっている。 さて、この霊化された素材は、とりわけ蝶存在のなかに見出される。蝶存在は、そもそも太陽の存在領域に止まることによって、地上的素材を自らのものにし、(無論比喩的に言って)いわば最も微細な塵のような状態だが、蝶は地上的素材を最も微細な塵のような状態で、自らのものにする。 蝶はまた、太陽に加工された地球の実質から食物を調達する。蝶が自身の本質と結びつけるのは、太陽に加工されたものだけで、蝶はあらゆる地上的なものから、最も精妙なものを、いわば選び出し、最も完全に霊化してしまう。 蝶の翅に注目するなら、実際は、その根本にあるのは最も霊化された地球素材である。蝶の翅の素材が色彩に浸透されることにより、蝶の翅は最も霊化された地球素材である。 蝶とは本来、霊化された地球素材のなかでのみ生きる存在である。しかも霊的に見てわかるが、蝶は、自らの色彩豊かな翅の真ん中の胴体を、ある意味で軽蔑し、なぜなら、蝶の全注意力、蝶の全集合魂は、元々自らの翅の色彩を喜び享受することに安んじているからである。 我々は、その翅の煌く色彩に驚嘆し、蝶を追いかけるのと同様に、これらの色彩に対し、舞い飛ぶ歓喜に驚嘆し、蝶を追いかける。このような歓喜や驚嘆、空中をヒラヒラと飛び交う霊性、本来、舞い飛ぶ歓喜の霊性に対する喜び、色彩の戯れに対する喜びは、根本的に子供のときに開発されるべきことである。この点において、蝶のようなものは全く驚くべき手法で、味付けされているとはいえ、そして、これら全ての根底には、また別のものがある。 鷲に代表される鳥について、以前、次のように言うことができた。「鳥はその死に際して霊化された地球実質を霊界へと運び去ることができ、鳥は、鳥として地球素材を霊化し、人間が行なうことができないことを行なうことにより、宇宙における生存の課題を果たしている」、と。 人間もその頭のなかで地球素材を、ある程度までは霊化したが、人間はこの地球素材を、死と新たな誕生との間生きていく世界(中間世)のなかに携えていくことはできない。というのも、頭のなかの、この霊化された地球素材を霊界へと持ち込むならば、人間は止むことなく、言語を絶した耐え難い破壊的な苦痛に耐えなければならないからである。
2007年09月25日
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そして、上方の幼虫が火星から発する力のなかで、這い出してくる代わりに、下方では、葉が生えてくる、上に向かって螺旋状の位置に沿って生えていく葉になる。 植物の葉とは、地球(月を含む)の影響下に入った昆虫でいえば、幼虫である。這っている幼虫をみると、上方における下方の、つまり植物の葉に対応するものが得られる。葉は太陽領域から地球領域に移された種子により根となったものから変容(変態)して生じるが、この葉に対応するものが(火星から)得られる。 上方の昆虫の火星状態(幼虫)=下方の植物の火星状態(葉) 更に上昇すると、萼のある位置に向かって益々収縮し、(昆虫でいう)蛹のようなものが得られる。そして最後に、鱗翅類が花の中に発生し、上空の蝶と同様に色とりどりの花のなかに変容(変態)を遂げる。そして生命の円環は閉じる。蝶が卵を産むように、花の中には、また未来のための種子が発生する。 ここからわかるが、上空の蝶を見上げると、蝶は、空中に持ち上げられた植物と理解できる。 卵から鱗翅類(の成虫)に至る蝶は、地球の影響下で、植物存在と同じものだが、上位惑星と共に太陽の影響下にある。種子が葉に達すると、地球から月の影響、更には金星の影響と水星の影響が得られる。それから、また地球の影響に戻る。種子は再び地球の影響でもある。 さて、次のように、自然の大いなる秘密を現わす2つの句を残すことができる: 植物を見よ 植物は地球により 繋ぎとめられた蝶。 蝶を見よ 蝶は宇宙により 解き放たれた植物。 植物―それは地球(大地)により繋ぎ止められた鱗翅類である! 鱗翅類―それは宇宙により地球(大地)から解き放たれた植物である! 蝶や、昆虫全般を、胚から、飛び回る成虫に至るまで眺めるなら、それは空中に持ち上げられた、宇宙により、空中に形成された植物である。植物を眺めるなら、それは下方の地に繋ぎ止められた蝶である。 卵は地球に要求され、幼虫は葉形成に変容(変態)させられる。収縮したもののなかには、蛹形成が変容(変態)させられている。更に、鱗翅類のなかに発生するものは、植物の場合、花のなかに展開される。蝶-昆虫界全般と植物界との間に、あんなに密接な関係があるのも驚くにはあたらない。 というのも、そもそも、昆虫たち、蝶たちの根底をなしている霊存在たちは、次のように言う、 「この下には、近親たちがいる、近親たちに親しまねばならない、結びつかねばならない、近親たちの樹液などを味わうと同時に、結びつかねばならない、植物は我々の兄弟だからである」、と。 「植物は兄弟である。地球領域に下降していき、地球によって繋ぎ止められ、別の生存状態を受け容れた兄弟なのである」、と。 また一方、植物に魂を吹き込む霊たちが、蝶たちを見上げて、次のように言う、 「蝶たちは、地球の植物の(うちの)天に近親たちである」、と。 このように、宇宙の理解は、抽象論では成立しないので、抽象論では理解不十分となる。なぜなら、宇宙に、働いているものは、最も偉大な芸術家だからである。宇宙は、あらゆるものを法則に従って、最も深い意味において、芸術家の感覚を満足させる法則に従って形成する。 抽象思考を、芸術家の感覚のなかで変容(変態)させる以外、誰も地球に沈降させられた鱗翅類を理解できない。光と宇宙的諸力により、空中へと持ち上げられた植物の花の内容を、抽象思考の人は誰も蝶のなかに見て理解できない。抽象的思考に再び芸術的な働きを与えることのできない人は誰も理解できない。とはいえ、自然物と自然存在との、この深い内的な親和性に注目するとき、何か途方もなく精神を高揚させるものであることには変わりがない。 昆虫が植物に、とまっているのを見ると、そして同時に、植物の花を、アストラルが、いかに統べているかを見ることは、何か全く特別なことにみえる。花のなかで、植物は、地上的なものを抜け出そうとしている。植物の天への憧れが様々な色彩に煌く花びらを統べている。植物は自分では、この憧れを満たすことはできない。 そこで植物に向かって宇宙から、蝶が放たれる。植物は蝶を見つめ、蝶の中で自分の望みが叶えられているのを見る。植物界の憧れが、昆虫、とりわけ蝶の世界を観ることで鎮められる、ということ。これは地球を取り巻く、驚くべき結びつき(関係)である。 満開の花々の色彩が、その色を宇宙に放射することで示す切なる願い、これは、植物に向かって鱗翅類が、その色彩を、煌かせて、近づくことにより、植物にとって、その憧れの認識実現のようになる。放射するもの、熱を放射する憧れ、天から放射されてくる満足、これが植物の花の世界と、蝶などの鱗翅類世界との交流である。この交流こそ、是非とも、地球の周囲に見るべきものである。 さて、植物界への移行が得られたからには、人間から動物に至った観察を、次の時間に拡張できる。今や、植物界を組み入れることができ、こうして次第に、人間と地球全体との関係へと至ることができる。しかし、そのためには、飛翔する空中の植物、つまり蝶から、地に固着している蝶、つまり植物へと、いわば橋が架けられることが、どうしても必要である。大地の植物は地に固着している蝶。蝶は飛翔する植物である。 この地に結びつけられた植物と天に解き放たれた蝶との関係を認識できて始めて、動物界と植物界との間に橋を架け、更には、ある種の無関心をもって、あらゆる俗物性、相も変わらず、自然発生云々がどうであったかを語り続ける俗物性を見下ろすこともできる。 これらの散文的概念をもってしては、宇宙万有の領域、人間が到達すべき宇宙万有の領域に到達できない。この領域に到達することは、散文的概念を、芸術的概念に転換でき、更には次のようなことを思い浮かべることができるようになって始めて可能である。 「太陽にのみ委ねられた天から生まれた蝶の卵から、植物が後になってから生じる様子を、以前は太陽のみに委ねられていた蝶の卵が、今は地球に委ねられることにより、この蝶の卵が変容(変態)させられることで植物が生じてくる様子をイメージすることができる。」
2007年09月22日
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安倍辞任の様々な週刊誌を読むにつれ、あのような無責任辞任を行った安倍総理というのが、総理に全く不適格な人格者であったことが、例証されていくようでもある。 どうも、総理大臣という職を一種のパフォーマンスとみている気がする。そういえば、就任当時からの、芸能人とのツーショット等の人気獲得パフォーマンスが多いのも、要職の軽薄さを助長したものと考えられる。 何処かのTVの解説者が、総理大臣は人気商売などというようなトンチンカンな発言をしたのも、安倍総理を見ている感じでは妥当といえるのだろう。早い話、総理大臣が人気商売ならば、マスコミ露出度を高め、商品のように、人気順に交代させていけば済んでしまうことになる。 あまりに政治が堕落した結果、もはや、総理大臣は、選挙の為の人気商品と化しているのかもしれない。それは、安倍総理は、褒められるのが何よりも好きだったようであることからわかる。 例えば、防衛庁が、防衛省になり、中国への牽制になり、フィリピンの大統領に褒められ気をよくしたという。確かに、フィリピンには歓迎されるだろうが、逆に、中国、韓国、北朝鮮には警戒感を、誘発させているわけである。 その分、これらの国に譲歩せざるをえない。かといって、米国のように、フィリピンに金銭でも要求できるかといえば、言葉だけであろう。つまり、外交辞令で気をよくしている、いいとこ育ちのお坊ちゃんといえる。 また、東京裁判のパール判事の子息に会い、歓迎され、本人は自画自賛した件も、米国には、安倍への無理解を誘発したという。安倍の行為は、いわば褒めて貰いたいがために、いわば人気取りでやるので、目立ち、便乗する方は歓迎するが、逆に、他方には敵をつくる面を誘発していたもいえるだろう。 つまり、総理大臣という要職が周囲に与える影響を考慮していないのである。 自らの地位が周囲にいかなる影響を与えるかの予測や見込みなしに、権力を行使するのは、非常に危険な存在といわざるをえないといえるだろう。ある意味、官僚たちに総スカン食らうのも最もであるように思える。部下が上司の意向を汲み取ることができないからである。結局、部下と上司がケンカしてしまった。 たとえ総理自身の正義であっても、周囲の理解なくしては、実現が困難で、総理がよいからといって、国民が従うわけにはいかない。国民には自由が保障され、かつ主権は国民にあり、総理大臣は、国民の総意を考慮する大臣なのであるから、国民無視ではそれこそ、民主主義というよりも、君主制度に近いものになるだろう。 何かを悪者にして、仮想敵をつくり、敵を叩くことで、自らの奮闘振りをパフォーマンスするという手法は、米国のネオコンからの輸出で、小泉のマネであるが、そのために、政治に安定感がなくなり、国家は大きく傾いてしまったといえるだろう。 世の中に、100%善で100%悪などというものはない。国民にも、一人一人の人間にも、何%の善と何%かの悪が共存しているのである。 一方を取れば、他方を失うのが必然なのである。それをどうバランスして、悪を善に転じていくかが力量といえるだろう。 実は安倍総理が唱える、美しい国のビジョンは、非常に明快である。それは、かつての戦中の日本を讃えるもので、戦中の日本への回帰思想なのである。実際、安倍総理の理念は、東京裁判を認めず、日本国憲法を認めず、米国に負けない位の強い国家をつくろうというものだからである。 つまり、簡単にいえば、前近代的な富国強兵国家のことなのである。戦後レジームからの脱却というのは、日本の敗戦を認めたくないという、個人的エゴの幼稚な精神から出ているといえるだけの代物である。 どう考えても、机上の空論としかいいようがない。つまり、現状という情報、知識が明らかに不足していて、日本の過去の歴史を、自らに都合のよいデータばかりで吟味し、再構築しているので、現実認識が乏しいストーリーを生んでしまったのである。この性質は仲良しクラブと揶揄された組閣人事にも現れたところである。 恐らく、そこには、祖父岸の亡霊が、肩に深く圧し掛かっていたのだろう。祖父の雪辱を晴らすという為に、総理大臣という椅子に座ったのだろう。 日本の総理大臣の椅子は、つまり、私的な汚名挽回の権力闘争の道具と化してしまったということである。だから、再チャレンジなどという理念を持ち出して、権力継承、並びに権力誇大を正当化させるのである。 このような指導者、ブッシュはその典型だが、小泉もそうだし、安倍になって、非常に幼稚なレベルで露呈した為に、指導者のまるっきりのエゴが国民の目に露になったといえるだろう。自爆テロといわれる辞任はその最たるものである。 要するに、国民の期待感は明らかに裏切られたといえる。 ブッシュになって、米国民の死者数は増え、小泉政権では、大量な自殺者が出てきたし、安倍では、もはや、マスコミを使って騙せる範囲ではなくなり、実際に、ニート、ワーキングプアという社会現象にまで至ってきたのである。 安倍総理のやった唯一良いことというのは、もはや、このような私利私欲の指導者を選挙で選ばないようにするという国民への覚悟へのメッセージであろう。個人個人は、悪の誘惑に負けずに、自らの誘惑を律するということである。 でないと、国民は再度、騙され、気がつけば、戦場に送られ、命をカネで変えられ、奴隷と化し、国家は、一部の特権オペレーターだけを残して、巨大な権力マシンになってしまうだろう。
2007年09月20日
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さて今度は、後半の2つの進化状態(変容)、月紀と地球紀が、いかに共作用してきたかを見てみる。 さて、蝶の卵は地球に全く委ねられないとはいえ、やはり次のような事は指摘されなければならない、 「月紀、つまり第三の地球の進化紀が始まった頃、蝶はまだ今日のようなものではなかった。地球もこれほど太陽に依存していなかった。」 太陽は元々第三の進化紀(月紀)の当初は、まだ地球と共にあり、その後になって、はじめて分離した(太陽と地球を含んだ月に分かれた)。従って、蝶もまだ、その胚を地球に、全く委ねないほど脆くはなかった。蝶はその胚を地球に委ねることで同時に太陽にも委ねていた(太陽が地球と合一していたから)。 ここで次のような差異が生じた。この最初の二つの進化紀(土星紀、太陽紀)においては、昆虫界の遠い祖先について語れるだけである。とはいえ、宇宙の、太陽の外惑星(火星、木星、土星)や太陽に委ねるということは、当時まだ、地球に委ねることだった。地球が濃密化し、水を獲得してはじめて、地球が月の磁気的な力を獲得してはじめて、事態は変化し、差異が生じてきた。 さて次のように考えてみると、この全て、つまり熱-光は地球の上方に属し、地球の下方を考えると、水-地がある。 地球に委ねられる運命にあった胚を想定してみる一方で、それとは別の胚は、引き留められ、地球のなかではなく地上の上方(大気)の内部にある太陽にのみ委ねられる。 さて、第三の進化紀、つまり月進化紀が起こったとき、地球(月を含む)に委ねられた胚を想定してみる。この胚、これは地球作用の影響下、水的な地球-月作用の影響下に入る、これは、昆虫の胚が太陽作用の影響下、及び太陽より上方にあるもの(外惑星)の影響下に入るのと同様である。 そして、これらの胚が地-水作用の領域に入ったことにより、これらの胚は植物の胚となった。 そして上方(大気)に残された胚、これらは昆虫の胚のまま止まった。更に、それから第三の進化紀が始まったとき、当時、太陽から月-地球へと変化したものを通じて、植物の胚が、このように地球進化の第三進化紀の内部に発生した。 今、この地球外の、宇宙の影響下に得られたもの、胚から幼虫、蛹を経て蝶となる、この進化全体を、このように追求することができ、胚が種子のように、地球のようになることにより生じてくるものは、もはや蝶ではなく、種子が地球になることにより、(今や太陽ではなく)地球に委ねられることにより生じてくるのは、植物の根、つまり種子になった胚から発生する最初のものである。 上方の昆虫(太陽と火星、木星、土星)→太陽の陽の光作用 下方の植物(月と地球)→月の陰の光作用
2007年09月20日
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次いで、この蝶の卵から幼虫が這い出してくる。つまり幼虫が出てきて太陽の影響下に止まるが、またその他の影響も共に受ける。太陽以外の他の影響を共に受けないうちは、幼虫は這い出してくることができない。これは火星の影響である。 蝶の卵;太陽、 幼虫が這い出る;火星 地球を思い浮かべ、そして火星が地球の周りを回転するなら、地球上の至る所に火星の流れがあり、止まり続ける。火星が地球上にあるということが問題なのではなく、地球が全火星領域を有していること。そして、幼虫が這い出していくとき、幼虫は火星領域の意味において這い出していくということが重要である。それから、幼虫は蛹になり、自らの周囲に繭を作り出し、繭を得る。 これは、幼虫の太陽への献身であり、このとき紡がれる糸は太陽光線の方向に紡がれる事を以前に述べた。幼虫は光に曝され、光線を追い求め、紡ぎ、暗くなると中断し、また紡ぐ。これらは全て本来、宇宙的な太陽光、物質素材に浸透された太陽光である。 つまり例えば、絹の衣服に用いられる蚕の繭を手にするとき、絹のなかにあるものは、正しく太陽光であり、蚕の物質素材が紡ぎ込まれた太陽光であるといえる。自身の体から蚕は、太陽光の実質を太陽光線の方向に紡ぎ込む、そして、紡ぎ込むことにより、自らの周囲に繭を作り出す。けれども、これには、木星作用が必要である。太陽光線は木星作用によって修正される必要がある。 幼虫が繭を紡ぐ;木星 そして、繭、蛹から這い出してくるのは、成虫となった蝶で、蝶は、光に運ばれ、光に輝く鱗翅類である。蝶は、例えば、クロムレック(環状列石)のなかに射し込んでくる光しか入ってこない暗い部屋、つまり蛹を後にし、この事を、古代ドルイド教のクロムレックに関する事として述べたことがある。 このとき太陽は土星の影響下に入り、そして土星と共にあることにより、太陽は、鱗翅類が空中で様々な色彩に輝くように、光を空気(大気)のなかに送り込むことができる。 蝶の舞い(色彩);土星 だから、大気中を飛ぶ無数の蝶の群を眺めるとき、その内部について、次のように言える、 「蝶は、根本的に地球の産物ではなく、蝶は上方から地球へと産み落とされたものである」、と。 蝶は卵を、太陽から地球へとくるものより、下には決して携えてはこない。宇宙は地球に無数の蝶の群を贈る。土星は蝶に色彩を与える。太陽は飛翔力、光の支援による力その他により、引き起こされた飛翔力を与える。 つまり実際、蝶のなかに、小さな存在、太陽と、太陽の外惑星(火星、木星、土星)との関係により、太陽系に存在するものにより、この地球上へと蒔き散らされた小さな存在とでもいうべきものを、見る必要がある。蝶、昆虫全般、蜻蛉、その他の昆虫たちは、正しく、土星、木星、火星、及び太陽からの賜物である。 もし太陽の向こうにある諸惑星(太陽外惑星の火星、木星、土星)が、太陽と共に、地球に、この昆虫界という贈り物を与えてくれなかったら、地球は、たった1つの昆虫さえも生み出すことはできず、蚤一匹たりとも、生み出せなかった。 事実、土星、木星その他は非常に物惜しみせずに、昆虫界を、羽ばたき出させ、これは地球進化が体験した最初の2つの進化状態(古土星紀、古太陽紀)の御蔭である。
2007年09月19日
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地球進化においては、全般的にみて、地球に属するもの全てが共に進化したため、地球の上方と下方のような事柄を、秘儀参入学をもって見通す人の眼差しが最初に向かうのは、昆虫の世界の多様性である。 単なる感情だけでも、飛び回り煌く昆虫界を、上なるもの、つまり、土星-太陽的-空気(大気)的なものと、ある意味、関係づけざるを得ないだろう。 蝶をじっくり見るとき、蝶は空中、つまり光の流入した、光に貫かれて輝く大気のなかを、煌く色彩をみせて舞い飛ぶ。蝶は空気(大気)の波に運ばれる。蝶は本来、下方の月-地球的-液体的なものには、ほとんど触れない。蝶のエレメントは地球の上方にあるものといえる。 本来、地球進化とは、いかなるものかを、更に研究すると、小さな昆虫の場合は特に、奇妙なことに地球進化紀の最初期(古土星紀-古太陽紀)に至る。今日、光に貫かれて輝く、大気のなかでの蝶の翅として煌いているものは、最初は古い土星紀に、原基のなかで自らを形成し、古い太陽紀に更に進化した。 今日、なお蝶が光-空気(大気)の創造物にしている原基は、古太陽紀に生み出された。太陽が光を放射するという天分は太陽自身に帰せられる。太陽の光が物質のなかに火(熱)や、煌くものを生じさせる天分は、いまでは土星-木星-火星作用(太陽系の外惑星)に帰せられる。 だから、蝶の本性を、地上に捜し求める人は、結局、蝶の本性を理解できない。蝶の本性のなかで働いている力は、上方に捜す必要がある、太陽、火星、木星、土星の下に探究しなければならない。この驚くべき蝶の進化の極細部に入り込んでいくと(既に一度、以前、宇宙言語の要約のなかで、この蝶の進化を人間との関連において、いわば記憶としての宇宙的体現(言語)として述べたが)、蝶は、まず光に煌きながら、空気(大気)に運ばれて、地球の上方を舞い飛ぶことがわかる。 蝶は卵を産み。粗雑な唯物主義の人は、蝶は卵を産む、と言う。なぜなら現代科学の影響下にあっては、本質的に最も重要な事柄が研究されていないからである。その問題とは次のような点にある、 「蝶は卵を産むとき、一体誰に卵を委ねるのか」、という点である。 さて、蝶の卵が産みつけられる場所を、詳細に研究してみると、蝶の卵は太陽の影響から、遠ざけられることがないように産みつけられることが、至る所でわかるだろう。 地球への太陽の影響は、太陽が地球を直接照らす場合にのみ存在するわけではない。もう何度も注意を喚起したことだが、農民たちは冬の間ジャガイモを地中に埋めて、土で覆う、なぜなら、夏の間に太陽熱と太陽光の力としてやってきたものは、冬の間は地球の内部にあるからである。 地球の表面ではジャガイモは凍りついてしまう。ジャガイモを穴に埋めて、その上に土を被せると、冬の間中、太陽の作用が地中にあるため、ジャガイモは凍りつかず、しっかりした良いジャガイモのままに止まる。冬の間は、夏の太陽の作用を地下に求めなくてはならない。例えば、12月に、ある程度の深さの地下に行くと、12月に7月の太陽の作用が得られる。 7月には太陽は、その光と熱を地表に放射する。熱と光は徐々に深く入り込んで、7月に、地球の表面への太陽力により体験するものを、12月に捜すなら、穴を掘らなくてはならない。すると、7月には地球の表面にあったものが、12月には、ある程度の深さの地下にある。 地中では、ジャガイモが7月の太陽のなかに埋め込まれている。このように、太陽は単に、人が粗雑な唯物論的知性で捜す場所にのみ存在するのではなく、本来太陽は多くの領域に存在する。ただ、この事は、宇宙における季節により厳密に統御されている。 けれど、蝶は、卵が何らかの仕方で太陽との関係を保てないようなところには卵を産まない。 だから、蝶が地球領域に卵を産みつける、と言うのは、不味い表現である。蝶は断じて、太陽と関係をもてない場所には産まず、蝶は太陽領域に卵を産みつける。 蝶は全く地球へは降りてこない。地上的なもののなかに、太陽が存在するようなところに、蝶は卵を産みつける場所を捜す、そのため、蝶の卵は、太陽の全くの影響下にある。蝶の卵は地球の影響下には全くない。
2007年09月18日
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前回は、地球の過去の進化状態である、土星紀、太陽紀、月紀を述べてきた。今回はその続きである。 とは言え、この太陽光線は、地球の大気圏に深い内的親和性をもっている。この太陽光線は例えば、今日の物理学者たちが粗雑に語るような、例えば、ガス状の大気中を貫いていく小さな射出粒子(プラズマ)のような、そのような光線のみではなく、この太陽光線は、大気と深い内的親和性を有している。そして、この親和性は、かつて太陽進化紀の時代、共にあった残響に他ならない。 このように、以前の進化状態を繰り返し、繰り返し多種多様な形で後の進化状態に入り込むことによって、全ては互いに親和関係にある。 全般的に見て、著書『神秘学概論』のなかに見出すように、今ここで、手短に描き出したように地球進化が進行していくうちに、地球上と地球の周囲にあるもの、そして地球内部にあるもの、これら全てが発生してきた。 そこで今や次のように言うことができる、 「今日の地球を眺めると、地球の内部に、固体を生じさせる素、本質的に地磁気のなかに繋ぎ止められた内なる月を持っている」、と。 地球のなかの内なる月、これは実際、固体全般が存在するように、質量をもつものが存在するように、作用するもので、重力とは、実は、液体から、固体を作り出すものである。 更に、元々の地球領域(地上域)には、液体を持ち、これは多種多様な形で再現される。例えば、地下水や、水蒸気などとして現れ、また、雨となって上昇、下降する。更に地球の周囲に、気体をもち、古い土星の名残りである、火の類に貫かれた大気全てをもっている。 従って、今日の地球においても、上方に太陽-土星、或いは土星-太陽状態を指摘できる。常に次のように言うことができる、 「光に浸透されて輝く暖かい空気(大気)のなかに存在するもの全ては、土星-太陽である」、と。 上空を見上げ、この空気(大気)に貫かれているものを見る、この空気が、土星作用や、太陽作用を得て、その後、時の経過につれて、本来の気圏として、ただし太陽進化状態の残響である、気圏として発達(進化)してきたものに貫かれているのを見ることができる。眼差しを上空に向けるとき、過去の地球進化状態をみることができる。 眼差しを地下へ向けると、後半2つの進化状態の間に生じ継承されたものを、上空よりも多くみることができる。重さ、固さ、もっと適切な言い方をすれば、質量を生じるもの、固体となるものが得られる。更に液体をみると、月-地球状態をみることができる。 いわば地球という存在の、この2つの部分(上方と下方)を厳密に区別できる。著書『神秘学概論』を今一度、このような観点から通読するなら、太陽進化状態が月進化状態へと移行する箇所において、正に表現全体を通じて深い区切り(境界)が入れられているのがわかる。 このように今日においてもなお、上にあるもの、つまり土星的なものと、下にあるもの、つまり地上的-月的-液体的なものとの間には一種の鋭い対照(コントラスト)がある。つまり土星-太陽的-空気的なものと、月-地球的-液体的なものとを完全に区別できる。一方は上、他方は下である。 地球の上方(土星、太陽)、地球の下方(月、地球)
2007年09月13日
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ついに、お坊ちゃま総理が辞任を発表した。巷では「吃驚!」の話題だが、私の感想は「やっと辞めたか」というものだった! 恐らく吃驚したのは、あれだけ辞めないというKYぶりを発揮させといて、あっさり辞めてしまったことのギャップの大きさが常識人には理解できないためであろう。それも、これから本番重要な場面で、いわば敵前逃亡という愚挙を遂げたのだから、所詮、それだけの器でしかなかったことを意味しているともいえる。 冷静に考えれば、常識でいえば、参院選で既に、辞めるのが筋だからである。筋を通さないというのは、いわば掟破りの非常識な人格の持ち主ということを表明していることでもある。このような人格の持ち主は、国家というより、自己の都合で勝手に責任を放り投げる習性をもっているといえるだろう。 歴史上の人物でいえば、徳川慶喜の、鳥羽伏見の戦いで、大阪城を逃げ出し、独断で江戸に返ってしまった史実が挙げられる。徳川慶喜は、後に大政奉還という偉業を行うが、是は周囲が奔走してようやく漕ぎ着けた感が大きく、慶喜自身は、朝敵になる汚名が怖くて、ただそのシナリオの上に乗っかったにすぎないようである。 慶喜自身、元々お坊ちゃまの性格らしく、事が面倒になると、全てを投げ出して、自分の殻に篭るような、どこか身勝手なお公家さんの性格が映るのである。そういえば、細川元首相も、お公家的な性格で、スケープゴートが怖くて、何もかもが嫌になり、途中で政権を投げ出した事実が記憶に新しい。 安倍お坊ちゃま総理も、恐らく、相続問題の税金逃れの追及が怖くて、面倒になったのだろう。それと、自らの描いた理想が、あまりにも現実離れしているのに、ようやく気がついて、何もかもが面倒で、全くの希望を失ったものと思われる。 これは、あまりに父の無念の総理就任に拘るあまり、自らが総理になることで、お家の事情、つまり私利私欲を優先させたツケが一気に噴出してきたというとこだろう。 とにかくも、もうこのような三代目等の世襲制議員の総理大臣選びは、迷惑千番なので、せめて慶喜のように、野党に大政奉還した方が順当のように思われる。 辞めるときもKYで、史上最低のKY総理大臣として記憶に残るだろう。唯一の救いは、そのような総理大臣は、実績がまるでなく、印象があまりに薄いので、記憶から直に消去されるというところだろう。 しかし、こういう人は、また気が変わると、また総理大臣をやりたいと言い出すので、非常な注意が必要である。
2007年09月12日
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これまで、ある方法で、地球状態、宇宙状態、そして動物界それぞれと人間とのつながり(関係)を考察してきた。 これからは正に、この考察を先に進めるが、今回は、今後、関心事となる広範な領域への繋ぎとし、ここに最初に示唆したい事は、既に著書『神秘学概論』のなかで、宇宙における地球の進化、この地球進化というものを問題にするなら、太古における地球の土星進化紀を出発点とすべきであると叙述したことである。 この土星進化紀は、この太陽系に属す全てのものが、まだこの土星(と呼ばれる星体)に含まれていた状態として思い描くことができる。今日の土星から月に至る、太陽系の個々の惑星は、当時はまだ、この古い土星(これは、熱エーテルのみから成立する)においては、溶解した宇宙体であった。 つまり、まだ空気の密度すらも獲得できず、熱エーテルそのものである土星は、後に独立した形態を取って個々の惑星へと個別化される全てのものを、同等に、エーテルとして溶解した状態で含んでいた。 次いで、地球進化の第2の進化紀として、地球の古い太陽進化紀と呼べる状態を区別できる。ここでは、土星の火球から徐々に空気球、つまり光が流入し、光によって輝き煌く空気球である太陽が形成される。 更に第3の進化紀があり、前の状態が再度繰り返された後、この進化紀に形成されてくるものは、一方では、当時まだ地球と月を包含していた太陽的なもので、更に他方では、その太陽的なものから分離された元々の土星を、その一部とする外側のもの(これも『神秘学概論』に書かれている)である。 第3の進化紀;太陽的なもの+太陽的なものから分離された元々土星の一部の外側のもの しかし当時、この月進化紀においては同時に、太陽と、地球と月との繋がり(結合)が、分離するという事が起こった。そして、もう何度も記述したように、今日、見慣れた自然領域は当時存在せず、特に地球は鉱物塊を含んでいなかった。地球は、角質のようなもので、従って、今日の固体成分が角質状に溶け合い、液体状の月の塊から角質の岩がいわば突出していた。 この月進化紀に続いて、今日の地上の状態である、いわば地球の状態が、第4の進化紀のなかで誕生した。 さて、これら4つの進化紀を順に描いてみると、最初に土星進化紀、つまり後に、この太陽系に含まれるものが全てまだ溶解していた熱体で、それから太陽進化紀、月進化紀、そして地球進化紀となる。この4つの進化紀を2つ毎に大別できる。 考えてみると、土星から太陽への進化において、まず気体的実質へと前進したものをどのように扱うべきか。進化は火球から始まり、火球が進化し、空気球へと凝縮する、この空気球は既に光に浸透され、光に煌いている。ここから進化の最初期が得られる。 更に、月が、当面の役割を果たす進化段階が得られる。というのも、月が果たす役割は正に、角質状の岩石を形成可能にする事であるからである。月は地球進化紀の期間に放出され、月は地球の衛星となり、内なる地球の力を地球に残している。例えば、重力(質量を生じる力)は、物理的関係において、この月によって、地球に置き去りにされたものに他ならない。 月自体は地球から去ってしまったが、もしこの古い月の包含物の名残りが置いていかれなかったら、地球は重力を発達(進化)させられなかった。月は宇宙空間におけるコロニーであり、この事については、既に随分前に霊的観点から述べている。 月は、地球とは全く異なる実質をもっているが、月は地球に、広義の地磁気と名付けられるものを残していった、地球の力、とくに地球の重力、重力の効果とみなされる引力、これらは月が残していったものである。 なので、次のように言うことができる、 「例えば、2つの円として、土星状態と太陽状態があるとする、両者をまとめると、根源的に、熱の、光に浸透されて輝く進化紀になる。そして今度は、2つの円として、月状態と地球状態があるとする、月に担われた液体的進化紀、液体的なものは月進化紀の期間に形成され、さらに地球変容の期間にも残り、そして固体は、正に重力を通じて出現させられた。」 以上、2つ毎の進化紀は、本質的に、かなり明確に区別され、理解すべきことは、かつて存在したもの全ては、後の存在の内部にも潜んでいる、ということである。 古い火球の土星であったものは、熱実質として、その後の全進化紀の内部に残り、もし、今日、地球(領域)の内部を、様々に移動し、至る場所で、熱にぶつかるなら、この至る場所で見出す熱は、古い土星進化の名残りである。 また、地球の、空気、或いは気体状の物体を見出す、至る場所に、古い太陽進化の名残りが得られる。太陽に貫かれて輝く大気を見渡すとき、この進化の感情に満たされることにより、本当は次のように言うべきである、 「太陽に貫かれて輝く大気のなかに、古い太陽進化の名残りが得られる」、と。 というのも、この古い太陽進化というものが存在しなかったら、大気と、今、地球の外にある太陽光線との親和性は存在しなかった。太陽が、かつて地球と結びついていたこと、太陽の光が、まだ気体状であった地球の内部で、自ら輝きを発していた事、つまり地球は内部の光を宇宙空間に放射する空気球であった事、このような事を通じて、その後の進化、つまり現在の地球進化紀が可能となった。こうして地球は、大気圏に囲まれ、そのなかに、外から太陽光線が差し込んでくるようになった。
2007年09月12日
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とうとう、現政権は、堕ちるとこまで堕ちたといえるだろう。そもそも、あまりに育ちが良すぎて、世間知らず苦労知らずのお坊ちゃんのままで、他者の言いなりに、重要な地位にまで上りつめてしまった、ツケが一気に噴出したともいえる。 かつて幕末の毛利候のようでもある。毛利候は、家臣のいわれるままに担がれ、家臣がこうしたいといえば、何事にも「そうせい」という返答から、そうせい候と仇名された人物である。気がついてみると、家臣ばかりが出世して、肝心の藩主の殿様は蔑ろにされ、教育係の吉田松陰が神の如く崇めたてられたわけである。 そうせい候も、安倍総理も、事勿れ主義の極まった感があり、家臣からすれば、変に物分りのよい、御しやすい、どうでもいい存在、陳腐な存在にみえるところで共通しているといえる。坊ちゃんなので、周囲はマトモに受け取らず、ハイハイという感じなのだろう。 所詮、世襲制とは実力がないままに重要な地位に就くので、そのようなものになりがちである。 さて、ここにきて、再度懲りない、陳腐極まりない発言が更に露呈した! テロ特別措置法が通らなければ辞めるというのである。これには、開いた口が塞がらないというより、なんだか、駄々っ子が、「お前のかーちゃん、でべそ」と捨て台詞を吐いて逃げるような意気地無しの腰抜けを彷彿とさせた。 そもそも、いまの総理の地位なんて、既に何の意味もないのだよ! いっそのこと、テロ特別措置法と共に、葬って欲しいと国民は思っているに違いない。だから、余計に、テロ特別措置法が潰れることの可能性が強まったといえる。 むしろ、テロ特別措置法で、安倍総理が辞めてくれるのなら、潰れるべきだという意見が多数を占めていくものと思われるのである。つまりはテロ特別措置法の方が、大迷惑千番になった感がある。この現象は、参院選の自民候補者が、安倍応援演説を毛嫌いしたのと同じで、安倍が応援した候補者が落選するような、逆現象を誘発するものであるようにみえる。 だからせめて、逆に、テロ特別措置法は反対すべきだといった方が、いまの安倍のKYぶりからいえば、妥当で、支持回復につながったといえるだろう。 しかし、どこまでもKY総理は、KYで行くらしい。私には、KY総理のKYぶりは、現世にあるのではなく、あの世の総理になれなかった怨霊で、無理やり現世に介入している亡き父親の亡霊がうつってしかたがない。成仏できていないのだろうか? もしそのようなことがあるのなら、現世に執着するのはやめて、現世のことは、現世に生きる人に委ねるべきであると助言したい。 米国も米国で、そんなにテロ特別措置法が大切ならば、なぜ、日本の北朝鮮の拉致問題への経済制裁を反故にして、北の核開発というブラッフに屈し、北和解という路線を選択したのか?問いたいところである。 しかも、核開発に関しては、イラク派兵のときには、北朝鮮の方が危ないと、世界が警告していたにも関わらず、イラクの石油を選択したのはブッシュ政権なのである。北は金にならないと選択したのは、米国政策の大きな過ちといえるだろう。 大事な女房よりも、愛人が好きな亭主は、離縁されて当然の報いを受けるであろう。 しかも、日本には、何の感謝もないのである。せめて、「愛しているよ」の一言ぐらいいわなければ、いまどきのどんな女性も慰謝料請求は当たり前だろう。そんな亭主の米国に三行半がつきつけられるのは順当な流れといえるだろう。 愛人を重要視したあまり、重要な配偶者を失うのは当然の報いといわざるをえないだろう。 しかし、まぁ、あまりに了見の狭い利己主義が蔓延る世のなかでは、何をいっても一寸先は闇だろうね。 どうせ、テロ特別措置法がポシャっても、続けるんだろうな。とっくにKYの臨界点は超えているのだからね。
2007年09月11日
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物質存在以上に進もうとしなければ、その人は世界に、意味が現われてくる水準(レベル)にいないといえることはいうまでもない。霊存在、及び秘儀参入学が、世界(宇宙)に関して語ることへと、移行していく必要がある、物質から霊存在へと移行すれば、この世界(宇宙)の意味が見出される。 しかも、そのとき、あらゆる存在のなかに、驚くべき秘密を発見することにより、この宇宙の意味(宇宙言語)が、見出される。 それは、死にゆく鷲と死にゆく牛と共に生じる秘密、そして、この両者の間に獅子(ライオン)がいて、獅子(ライオン)は自らのうちで、呼吸リズムと血液循環リズムの協和を通じて、霊的実質と物質的実質の均衡を維持する。 つまり、獅子(ライオン)は、これまで述べてきた、上下への正しいプロセスを生じさせるために、どれだけの鷲が必要で、どれだけの牛が必要であるかを、天界にある獅子の集合魂を通して調整するものである、というような、そのような宇宙言語の秘密である。 このように、この3種の動物、鷲、獅子(ライオン)、雄牛、或いは雌牛は、驚くべき本能的な認識から、正しく生み出されたのである。それは、これらの動物と人間との親和性が感じ取られていたからである。 というのも、このような事柄を見通すなら、人間は自ら次のように語らざるを得ない、 「鷲は、私が、自らの頭によって、自分で果たすことができない課題を、私から取り除いてくれる。牛は、私が、自らの新陳代謝、四肢組織を通じて、自分で果たすことのできない課題を、私から取り除いてくれる。獅子(ライオン)は、私が、自らの律動組織を通じて、自分で果たすことのできない課題を、私から取り除いてくれる」、と。 「こうして人間という私と、3種の動物から、宇宙的つながり(関連)全体が生成する」、と。 このように人間は、宇宙的つながり(関連)のなかに組み込まれ、生きている。このように人間は、宇宙における深いつながり(関連)を感じ取り、存在を統括している力、人間が織り込まれ、更に人間を取り巻いて波打ち、うねっている、このような動物存在を統括する力が、本来、いかに聡明であるかという認識を学ぶ。 さて、いま見ての通り、以前から述べてきた、3種の動物に対する人間の関係を探究したことにより、現われてきたものを、以上のように要約することができた。
2007年09月11日
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このように今日の書物(教科書)には載っていない別の自然史というものがある。それでは、今日書物(教科書)に載っている自然史の最終結果とは、一体どのようなものなのか? それは、アルベルト・シュヴァイツァーの著書の続編に他ならない。この続編の前書きは実に、近代精神の産物で、かなり悲しむべき1章である。というのも、私(シュタイナー)が当時論評した第1巻には、少なくともまだ、我々の文化に欠けているものを、つけ加える、ある種の力と洞察があったが、続編のこの前書きにはなく、事実、本当に悲しむべき1章である。 なぜなら、この1章で、シュヴァイツァーは、結局、知はいかなるものも与えることができず、人間は、認識によるものとは別の世界観と倫理学を、何処からか獲得する必要があるということを、自分が最初に見抜いた人物であると豪語しているからである。 さて、認識の限界については、既に充分語られてきた。人が、自分を認識の限界について語った最初の人物であると思うことには、いささか近視眼的である。認識の限界については既に自然科学者たちが、ありとあらゆる言い方で語ってきているからである。だから、この巨大な誤謬を、最初に発見したなどと自慢するには及ばないだろう。 しかし、この事を度外視しても、シュヴァイツァーのような卓越した思想家(この第1巻に関する限り、彼はやはり卓越した思想家である)が、次のように語るに至った事は、この事を意味するものに他ならない、 「我々が、世界観や倫理を持とうとするなら、知と認識は全く問題にならず、これらは我々人間に何1つ与えはしない」、と。 今日正に書物に載り、公に認知されている知と認識、そのような諸々の科学や、認識は、世界のなかに意味を発見する(シュヴァイツァーの言うように)事に通じていくことはない。 というのも、結局、このような人物(科学者)たちが、世界を眺めるなら、実際、次のようなこと以外には何も浮かんでこないからである、 「鷲から動物の紋章を作ることができる、ということは別として、他に、鷲が飛翔することは科学的に特に意味がないとか、確かに雌牛が牛乳を与えてくれることは、地上の食糧として有用である」、とかいうようなものである。 この考えからは、人間もまた単なる物質的存在でしかないので、物質的有用性しか持っておらず、世界(宇宙)全体にとっていかなる意味も与えないということになる。
2007年09月10日
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ヒンズー教のように深く霊的なものに入り込んでいく、宗教的世界観が牛を崇拝することに、さほど驚きを感じなくなっただろう。なぜなら、牛は地球を絶え間なく霊化し、牛自身が宇宙から取り出してくる、霊的実質を絶えず地球に与え続けるからである。 本来、牛のこのイメージはリアルなはずで、草を食んでいる牛の群の下で、大地(地球)が、いかに喜びを掻き立てられ生きているか、そこで牛のように草を食んでいるものたちがいることによって、宇宙からの栄養の確保が約束された為に、いかに元素霊(土の精霊)たちが、牛の下で歓呼の声を揚げているか、というイメージなのである。 上空では、鷲を取り巻いて漂い踊り、歓呼の声をあげる元素霊たちの空気の輪が、本当は思い描かれるはずである。そうすれば霊的真実が再び描かれ、そして霊的な現実の内部に物質的なものを見出せ、鷲がそのアウラ(オーラ)のなかに継続しているものが、そして、そのアウラのなかに、元素的な空気(風)の精(精霊)たちと、空気中の火の精(精霊)たちの歓声が紛れ込んでくるのがわかる。 全く宇宙的であるために地上的存在に非常に抵抗する、この牛の独特のアウラを人は見る。そして、これが地の元素霊(土の精霊)たちの、上機嫌な感覚を呼び起こすのを見るだろう。元素霊たちは、大地の闇のなかで生き続けなければならないために、彼らから失われてしまったものを、ここで目にすることができる。 牛のなかに現われているものは実際、これらの精霊(土の精霊)にとって太陽である。地中に住む、こうした元素霊たちは物質的太陽に歓びを感じることはできないが、反芻動物のアストラル体に歓びを感じることはできる。
2007年09月08日
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そして、一方に牛のいる牧場を、もう一方に飛翔する鷲をみるとき、そこに注目すべき一対の両極が得られる。 鷲、鷲は、霊化されてしまったために地球にとって使用不可能となった地球素材を、死ぬときに彼方の霊の国に運び去る、牛、牛は死ぬとき、地球に天の素材を与え、そうして地球を回復させる。 鷲;霊化された物質的実質を霊の国に運び去る 牛;物質化された霊的実質を地球に残す 鷲は、もはや地球には使用できず、霊の国に戻さなければならないものを、地球から取り除く。牛は、地球が霊の国からの回復させる力として絶えず必要としているものを、地中にもたらす。 ここで、秘儀参入学から浮かび上がってくる、感情のようなものをみるだろう。というのも、通常次のように信じられているからである、 「秘儀参入学というような、ともかくも、そのようなものを研究するとして、しかし結局、それが与えるのは概念、観念以外の何ものでもない、それは普通、感覚的なものに関する観念で頭を一杯にするのと同じように、超感覚的なものに関する観念で頭を一杯にしているだけである」、と。 ところが、この言い分は間違いである。秘儀参入学において、先に進めば進むほど、以前は予感もしなかったような、どんな人にも無意識に存在している感情を、魂の奥底から引き出してくるようになり、あらゆる存在を、以前感じ取っていたのとは別様に感じ取るようになる。 ある感情を次のように描写することができる、この感情は、精神科学、秘儀参入学を正に生き生きと把握するものの一部である。人は次のように、これを自らに語らざるを得ないというような感情である、 「人間の真の性質を認識すれば、地球上に人間しかいないとしたら、地球がそもそも必要なものを得ること、そして正しい時期に地球から霊化された(物質)素材が取り除かれ、霊素材が与えられるということに対して、人間は絶望的にならざるを得ない」、と。 本来、人間の存在と地球の存在との間の、このような対立を感じ取らざるを得ない、これは究めて悲痛な対立であり、人間が地球上で正しく人間であろうとすれば、人間のために、地球は正しく地球であることができない、と言わざるを得ない故に、悲痛が人間に込みあげてくる。 人間と地球はお互いを用いているが、人間と地球は互いに支え合うことができない! 一方の存在が必要とするものが他方から失われ、他方が必要とするものが一方から失われる。人間の周囲の環境が現われてこなければ、人間と地球との生のつながりに関して、人間は安心していられない。 そして、人間は自らに次のように言い聞かせざるを得ない、 「霊化された地球実質を霊の国へと持ち去ることに関して人間にできないこと、これを成就するのは鳥の世界である」、と。 更に、「人間が霊的実質として地球に与えることができないもの、これを与えるのは反芻動物たち、その代表としての牛である」、と。 このように、この事により、宇宙はいわば、1つの全体へと完結する。単に人間だけを見ると、感情のなかに入り込んでくるのは地球の現存に関する危うさだが、人間の周囲にあるものを見ると、再び安心感が得られる。
2007年09月06日
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これまでのような事柄を見通すと、宇宙万有における驚くべき秘密に到達する。このときはじめて、地球の動物その他これらの様々な形姿が存在するのは一体何故なのかと問うことができる。 これらの形姿は全て宇宙全体においても意味があり、大きな、非常にとてつもなく大きな意味がある。 今度は、以前から観察してきた、もう一方の極に移る、ヒンズー教徒に崇拝されている牛に目を転じる。確かに、これは鷲に対する、もう一方の極である。鷲が人間の頭に非常に似ているように、牛は人間の新陳代謝組織に非常に似ている。 牛は実際、消化動物である。そして、奇妙に聞こえようとも、この消化動物は本来霊的実質から成り立っていて、食された物質素材は、この霊的実質に引き入れられ、混入される。つまり、牛のなかには霊的実質があり、物質素材が、霊的実質の至る所に入り込み、霊的実質に摂取され、加工消化される。 これを徹底して遂行するには、牛の消化の営みは念入りで徹底的である。これは考えうる最も徹底した消化の営みであり、この点で牛は実際、最も徹底した消化動物であることに気を配っている。牛は消化に対して完璧な動物である。 事実、牛は、牛という動物存在、この牛の動物生体組織、この牛の動物自我を、宇宙から地球へと地球の重力の領域に引き下ろす。 血液の重量と全体重との比率を、牛と同じくする動物はいない、他の動物は、体重に対する血液の比率が、牛よりも多いか少ないか、いずれかである。そして、重量は重力と、血液はエゴ性と関係がある。人間のみがもつエゴではなく、人間の個別のエゴと関係があるエゴ性である。 血は人間のみならず、動物をも動物にし、少なくとも高等動物にする。従って次のように言える、「牛は宇宙の謎を解いた。牛が完璧な動物であるのは、血液の重さと全体重の重さとの正確な比率をどのように保つのか、という謎を解いたからである」、と。 太古の人々が獣帯(黄道十二宮)を「獣帯」と名づけたのは理由がないのではない。獣帯は12の部分から成り、いわばその全体が12の個々の部分に分けられている。宇宙から、つまり獣帯からやってくる力は、諸々の動物のなかで正に(獣帯の)動物自らを(地上に)形づくる。 しかし、十二宮以外の他の動物たちはそれほど厳密に、この力に従わない。牛は、その体重の12分の1が血液の重さである。牛の場合血液の重量は体重の12分の1だが、驢馬の場合は僅か23分の1、犬の場合は10分の1である。どの動物も異なった比率になる。人間の場合血液は体重の13分の1である(キリストが十二使徒の中心で十三番目の存在といわれる由縁、またキリストは13日の金曜日に十字架で成就「受難」したという噂はここにあるようだ)。 (ついでに、神秘学では金曜日がなぜ聖なるものなのかは、地球の進化紀が、金星紀に成就するからである。地球はこれまで、土星、太陽、月、地球「火星、水星」と進化し、現在は、丁度、水星紀「アクエリアス」に差し掛かった時点で、更に地球が進化すると、次が木星紀、そして金星紀となる予定なのである) この事からわかるように、牛は、動物存在全体を、その重量のなかに現わすことを、可能な限り、徹底的に、宇宙を表現することを目指してきた。 牛は、本来上なるものを、物質的-素材的なもののなかに具象化するが、それは牛のアストラル体に見て取れる、と以前から述べてきたが、正に、この血の重量比率のなかに、牛が自身の内なる重量の比率において12分割を、正確に維持していることが現われている。 牛は内部において宇宙的である。牛では全てが、霊的実質のなかに、地球の諸力が取り入れられている状態である。 地球の重量は、牛のなかの、獣帯の比率で分割されることを余儀なくされる。地球の重力は、12分の1をエゴ性へと展開することに応じざるを得ない。牛は全てを地上的比率のなかに押し込み、牛の霊的実質のなかにもつ地上的比率のなかに表現する。 このように、牧場に横たわっている牛は、事実、霊的実質であり、この霊的実質は地球素材を自らのうちに摂取し、吸収し、自らに似たものにする。 牛が死ぬと、牛が自らのうちに担っている、これらの霊的実質は、地球全体の生命の恵みとなるために地球素材と共に、地球に摂取される。 だから、牛に対して、次のような感情を持つのが正しい、「お前は正しく供犠の動物である、お前は地球が必要としているものを、絶え間なく地球に与え続けているのだから。お前が与えるものがなかったら、地球は、この先、存続することはできないだろう、お前が与えるものがなかったら、地球は硬化し、干からびてしまうだろう。お前は地球に絶え間なく霊的実質を与え、地球の内なる活動、内なる生命力を回復させている」、という感情である。 牛;地球に霊的実質から物質化した自らを供犠として与える。
2007年09月05日
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人間から眼差しを転じて、以前から、様々に目を向けてきたものを見てみる、鷲により代表される、鳥の世界に眼差しを向けてみる。 鷲については、鳥の世界を代表するものとして、いわば鳥の世界の特性と力を統合した動物として述べてきた。 鷲を観察することで、とどのつまり、宇宙の関連における、鳥の世界全体に責任を負う存在を観察する。だから、鷲に関して再三述べてきたことは、鷲は本来人間の頭に対応しているということと、人間の頭において思考を作動させる力が、鷲にあっては、その翼を作動させる、ということだった。 従って、鷲の翼においては、太陽が流入した大気の力、光が流れ込んだ大気の力が作用している。鷲の翼で煌めいているのは、光に浸透された大気の力である。 鷲の翼;光が流れ込んだ大気の力 さて、厄介な特性も幾らか、これにつけ加わるとはいえ、やはり鷲というのは、その宇宙に現存する存在に関して注目すべき特徴を持っている、いわば鷲の皮膚の外側、翼の形成のなかに、太陽の作用に貫かれた大気の力が作り上げるもの全てが止まっている、ということである。鷲が死んではじめて、人は鷲のなかで生じているものに気づく。 鷲が死ぬと、反芻をする牛の徹底的な消化に対して、鷲の消化が、いかに奇妙で、表面的なものであるかが、はじめて明らかになる。多くの動物の種を代表するものとして、牛は真の消化動物といえる。牛においては徹底的な消化が行なわれる。 どの鳥もそうだが、特に鷲は表面的に消化する。いわば全てが消化の始まりだけで、消化の営みも発端のみである。鷲という存在では、消化は、全体から見れば、本来の生存の副業とでもいうべきもので、消化は、鷲の至る処で、副次力として扱われるようなものである。 消化の副業に対して、鷲において、主要な徹底的プロセス(経過)を示しているのは、鷲の翼に用いられる全てである。鷲以外の、他の鳥の場合、もっと強力である。途方もなく念入りに、羽毛のなか全てが仕上げられる。このような羽毛は本来驚くべき構成物といえる。 つまりそこには、地上の素材(質料)とでも呼ぶべきものが最も強力に現われている、この地上素材を鷲は地球から取り出し、上部の力によって霊的に浸透させるが、鷲は再受肉を要求しないので、この地上素材は鷲に独占されることはない。従って、上部の霊力を通じて翼のなかの地上素材として生ずるものにより、生じることが鷲を困らせることはなく、なお霊界において、それが更に作用しても、鷲を困らせることはない。 だから、鷲が死に、その翼も崩れていくと(どの鳥にもあてはまるが)、そのとき霊化された地上素材が霊の国に入っていき、再び霊的実質へと変化させられる、ということがわかる。 以前から述べたように、人間の頭に関しては、鷲と奇妙な親和関係にある。人間たちにできないことを鷲は行うことができる、鷲は、地球で霊力を通じて、人間の頭部が行った、物質的実質の霊化を、絶え間なく地球から運び去るのである。 鷲の翼=人間の頭=霊化された物質的実質、鷲は、これを霊界に運ぶことができるが、人間はできない、それ故、人間は、地球に借りをつくる。 人間が、憧れて、独特の感情をもって、飛翔する鷲を見つめるのは、この所以もあるからである。鷲を、何か地球から疎遠なもののように、地球よりも天に関わっているもののように感じ、たとえ鷲が、その実質を地球から取り出しているにも関わらず、人間は鷲の翼に憧れるのである。 しかし、鷲はどのように物質的実質を取り出しているのだろうか? 鷲は地球の実質にとっては、単なる略奪者にすぎないやりかたで、取り出す。地球存在における通常の法則のなかでは、鷲が更に鷲以上の何かを得ることは見込めない。 そもそも鳥類全般が、様々に素材を奪うように、鷲は素材を盗み取り、奪い取る。しかし、鷲は奪い取った素材を清算する。鷲は素材を奪うが、霊力として上部の領域にある力により、物質素材を霊化させ、そして死んだ後、自分が奪った、この霊化された地球の力を霊の国にさらっていく。鷲とともに、霊化された地球の質料が霊の国へと引き入れられる。 動物が死んでも、その生命は完結しない。動物の意味は宇宙万有のなかにある。鷲が物質的な鷲として飛翔すれば、それはいわば、鷲のあり方の、1つの形象にすぎない、鷲は物質的な鷲として飛翔するだけである。 しかし、鷲は死後も飛翔する! 鷲の性質の霊化された物質的素材が彼方へと飛翔していき、霊の国の霊実質と1つになる。
2007年09月04日
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頭部の実質に関しても同様である。地上生活全体を通じて、霊力が頭部の物質的実質のなかで働くことにより、この頭部の実質は地球から疎遠になる。人間は実際、自らの頭のために地球から、この頭部実質を奪い取らなければならない。 しかも人間は人間であるためには、この頭の実質に地球外の霊力を絶えず浸透させなければならない。そして人間が死ぬと、地球は、自ら疎遠になった人間の頭部実質を、また引き取らなければならないわけだが、地球にとっては究めて、人間の頭部実質は害になるものである。 人間が死の門を通過して、その頭部実質を地球に引き渡すと、この頭部実質は、全く霊化されてしまい、自らのなかに霊的な成果を担っている、この頭部実質の作用は、根本的に地球生命全体を毒し、本来その作用は、この地球生命を害するものである。 人間は、本来、このような事柄を見通すなら、次のように言わなければならない、「この頭部実質を携えて、正に死の門を通過して行くのが人間にとって公正なことだろう、なぜなら、この実質は本来、人間が死と新たな誕生の間に通過していく霊的領域に、遥かに適しているからである」、と。 しかし、人間はそれが行えない。というのも、人間がこの霊化された地球実質を携えて行ったなら、人間は死と新たな誕生との間の、自らの進化全てに敵対するものを絶えず作り出すことになるからである。 もしこの霊化された頭部実質を携えて行った場合に人間に起こりうることは、究めて恐るべきことで、これは、死と新たな誕生との間の人間の霊的な進化を無に帰するように絶えず働きかけるからである。 だから、このような事柄を見通すなら、次のように言わざるを得ない、「人はこのことによっても、また地球に対して負債ある者となる」、と。 人が地球の御蔭で手に入れながら地球にとっては使用不可能にしてしまったものを、人は後に残して行かざるを得ず、携えていくことができないからである。 人は地球に置いていくべきものを地球から奪い去り、自分が携えていくべきもの、地球にとって使用不可能にしてしまったものを、自らの土の塵とともに、この地球に委ねる、地球は、その全生命において、全存在として、それによって法外な苦しみを与えられる。 つまり、正に霊眼を通して観ると、まず途方もなく悲痛な感情のようなものが人間の魂に横たわっている、ということがわかる。そして更に長大な時間を見るか、系全体の進化を見渡すときのみ、次のような展望が開かれる、「例えば、地球がいつの日かその最後を迎えるとき、人類の進化後の段階、木星、金星、ヴァルカン星段階において、人はこの罪をいわば清算し、罪を脱することができるだろう」、と。 このように、個々の地上生活を全うするだけでなく、そもそも地球人であること、地球に居住し、地球から、その実質を引き出すことを通しても、人はカルマを、世界のカルマ、宇宙のカルマとして生み出しているという。 ここで人間から目を転じ、その他の自然に目を向けることもできる、すると、なるほど人間は、たった今述べたような罪を、いわば積み重ねていかざるを得ないが、それでも宇宙の本質を通して、絶え間なく調停がなされている、ということもわかる。こうして、存在の驚くべき秘密、これを統合してはじめて、本当に宇宙の叡智に関するイメージとして、自らのものとできる秘密へと入り込んでいける。
2007年09月03日
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