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さて、普通、夢見る人の立場とはどのようなものか?というと、眠りに落ちる過程を具体的に想像してみれば、肉体とエーテル体がベッドの上に取り残される一方、アストラル体と自我は物理的な乗り物から抜け出し、この瞬間、アストラル体は、まだ肉体とエーテル体に同調して振動しているという。アストラル体は一日中眼や耳のあらゆる内的な活動、或いは、肉体やエーテル体の機能における意志の働きの中に参加しているという。アストラル体と自我は、これらの全てに与っていたという。 このアストラル体と自我が、体(エーテル体と肉体)を去るとき、その振動は継続するという。その日の経験は、それらの振動の継続により、周囲の精神的な世界と接触することになるが、そこから生じるのは外的な精神世界と、振動し続けるアストラル体の酷く混乱した相互作用であるという。人はこの全てに捉えられ、その混乱を意識するという。彼が携えていったものの全ては、彼に衝撃を与えた後、振動し続けながら夢になるという。 夢が現実の理解に、ほとんど貢献しないことは明らかで、秘儀に参入した人の立場とはどのようなものか?と問うなら、秘儀参入者は、肉体とエーテル体から抜け出すとき、継続する振動やその名残を抹消することができるという。なので、秘儀参入者は肉体とエーテル体から進み出てくるもの全てを抑制するという。 更に言えば、秘儀参入者は、集中、瞑想、そして空になった意識を通して、魂の眼や耳を獲得し、彼自身の内部で生じるのみだけでなく、彼の外で、精神的な世界の中で起こっていることを知覚するという。彼は今や夢の代わりに精神的な世界を知覚し始めるという。夢の意識は精神的な知覚に対応するが、通常の意識が混入するために、混乱した対応となるという。 秘儀参入者が、この内的なアストラル体の器官、超感覚的な視覚と超感覚的な聴覚を初めて獲得するとき、自分が肉体とエーテル体に発する、これらの波動の残響やその名残を抑制するための絶え間ない努力と衝突の中にあるのを見出すという。 彼がイマジネーションの世界に入るとき、つまり、精神的なものに関しての先験的な知覚を獲得するとき、夢が自らを主張するのを防ぐための絶えざる戦いがあり、彼を惑わし、夢のようなファンタジーへと解消させようとするものと、精神的な世界の真実を表現するものとの間に、絶え間ない相互作用があるという。 秘儀参入者は誰でもいつかはこの衝突について熟知するようになるという。彼は精神的な世界に意識的に参入しようとする瞬間、再び生じる物理的な世界の残映、精神的な世界についての真の像に侵入してくる、この妨害的なイメージを経験することに気づくようになるという。この強烈な内的衝突を克服することができるのは、忍耐と努力によってのみだという。 さて、もし、夢のイメージが、我々の意識に溢れるのに、あまりにも安易に満足するならば、精神的な世界の現実に参入する代わりに、容易に、自身を幻想の世界の中で夢を見る人にしてしまうという。実際、秘儀参入を望む人は知的であると同時に極端に強い自制心を持っていなければならないという。 そのために何が求められるかを考えるなら、もし、精神的な探求について、つまり、精神的な世界に到達する方法に関して語るならば、上述の事柄に注意する必要があるといえるという。もし、精神的な世界に関する理解に向けて、第一歩を踏み出すことを望むならば、その使命に対する真の熱情を示す必要があるという。 内的な昏睡、内的な無関心や怠惰は、その達成の途上にある障害物であるという。内的な生活は活動的で、生き生きとした反応を示す必要があるという。しかし、白日夢の中で自らを失い、幻想の糸を紡ぎ出すような危険も潜んでいるという。なので、我々は、一方では、想像力の翼に乗って天空を駆けめぐることができる必要があり、他方では、慎重さと真摯な判断力によって、この内的な活動性と応答性を沈静化できる必要があるという。 秘儀参入者は、これら両方の性質を有する必要があるという。自分の感傷に耽ることのみならず、同様に、知性の支配に屈したり、全てを理屈で片付けるのも望ましくないという。これら両極端の間で釣り合いを取れなければならないという。 夢を夢見ることができると同時に、地上に足をつけていることができなければならないという。精神世界に参入するときには、創造的なイマジネーションのダイナミックな世界に参加しながら、同時に自分自身をしっかりとコントロールすべきであるという。豊かなイマジネーションに恵まれた詩人としての受容性を有しながら、その誘惑に負けないようにするのがよいという。 精神的な知識を求めるときには、創造的な衝動によって、いつでも点火されると同時に、ファンタジーの世界へと流されないように、実際的な常識によって自分をコントロールすることができなければならないという。そうすれば、幻想の餌食になることなく、精神的な現実を経験することになるという。 精神的な現実(創造的な衝動により点火されるファンタジーの世界、実際的な常識による自己コントロール) この内的な魂の在り方こそが精神的な探求においては決定的に重要であるという。夢の意識についてよく考え、それが精神的な世界から混乱したイメージを魔法のように出現させるものであると気づくと同時に、精神的な知識を獲得するためには、夢のような状態に留まろうとする自身の個性の全ての力が魂の活力として加わる必要があることにも気づくという。 そのとき初めて、精神的な世界に参入することが何を意味するのかを知るという。夢が精神的なものを魔法のように出現させるという。このことは、夢の意識が、体(肉体とエーテル体)的な生活から導かれる像をも、魔法のように出現させるという叙述に、矛盾するようにみえるが、体(肉体とエーテル体)は物理的なものだけで成るのではなく、精神的なものに完全に浸透されているという。 美味しそうな御馳走が目の前に出されて、食べようとするが、ポケットには、支払う金が全くない、というような夢を、見るとき、その夢をみる人の消化器官の、真に精神的、アストラル的な内容が食事という象徴化において示されているという。精神は体的なものの中にその座を有するという事実にも関わらず、夢の中では、常に精神的な要素のみが存在しているという。夢は常に精神的な要素を含んでいるが、それは体(肉体とエーテル体)に関係した精神的な要素であることが非常に多いという。この事実に気づくことが必要だという。 一般的に、蛇の夢を見るとき、そのトグロは消化器官や頭部の血管を象徴している、ということを理解する必要があるという。これらの秘密へと貫き至る必要があるという。なぜなら、この理解は、魂の中で発達させる必要のあるもので、これらの微妙で親密な要素に関する理解に至ることが可能なのは、秘儀参入を通して、精神的な探求に取りかかり、これらの事柄に綿密な注意を払うときのみ、得られるからであるという。 人間が日常生活の中で通過する第三の段階は夢のない眠りであるという。その状態を考えてみる。肉体とエーテル体がベッドに横たわり、アストラル体と自我組織は、これらの外にあるという。肉体とエーテル体からの(波動)の残響やその名残は止むという。 人間が精神世界に住むことができるのは、アストラル体と自我中においてのみで、知覚に必要な器官がないために、何も知覚することができないという。人間は闇に囲まれて眠る。夢のない眠りとは、自我とアストラル体の中に生きながら、当人を取り囲む広大で壮大な世界を知覚できない、ということを意味しているという。 目の見えない人の場合を取り上げてみる。彼は色や形に関する知覚をもたない。これらに関する限り彼は眠っているといえるという。さて、知覚器官を持つことなく、アストラル体と自我の中に住んでいる人を思い描くと、精神との関係では、彼は眠っているといえるという。夢のない眠りの状態にある人間とは、目の見えない人のようであるといえるという。 集中や瞑想の目的はアストラル体と自我組織の中に精神的な眼や耳を発達させることであるという。これは仏教では、チャクラ(蓮華)、あるいは端的に心眼と呼ぶものである。 精神的な眼(心眼)や耳を人間が発達させたとき、その人を取り巻く精神の豊かさを目の当たりにし始めるという。秘儀参入者は、通常の意識状態においては、眠りの中で失われ、瞑想や集中を通して、眠りから目覚めさせる必要のあるものを精神的に知覚するという。 そうでなければ、与えられていない感覚器官を組み込む必要があるという。そのとき彼は精神的な世界を覗き込み、通常は彼の目や耳を通して物理的な世界の生活に与るように、精神的な世界の生活に与るという。これは秘儀参入する際の真の認識であるという。外的な方法によって、誰かを精神的な知覚に向けて準備させることはできないという。すなわち、彼はまず、通常は非常に混乱した彼の内的な生活を効果的に組織化することを学ばなければならないという。
2007年02月28日
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どうも、「男たちの大和」をみたせいで、ある種、いまの日本が怖くなってしまった。今日また、最高裁で、国家斉唱の伴奏拒否が、憲法の思想の自由の保障に反するという、なんだかとても違和感のある判決が出た。 国家斉唱が、いかに良き行為であっても、それを強制することは、悪しき行為といえるだろうし、拒否するのはその人の自由であろう。たとえ、日本という社会に住む限りにおいて、国家斉唱が文化規律であったとしても、それを拒否する権限は、人間という思考する存在にとって、与えられるべき権利、つまり人権なのである。 思想は行為を表現するものであるから、拒絶行為の否定は、その思想の否定でもあるだろう。 このように書くと、では自由な思想の限界点や、自由の無制限さは許されるのかという質問が飛ぶ、揚句の果てには、殺人思想や、明らかに道徳違反の思想、いわば極論を持ち出す者でさえある。 これでは、議論そのものが闘争の場になるであろう。 問題は、最高裁という法の番人というべき三権分立の独立性において、国民が憲法の自由の保障に対しての、行政の権力を背景にした強制力に対する疑問の提示に際し、法の番人の裁判側が、行政に阿る判決を下した点にある。 とどのつまり、一種のパワハラではないのか?ということである。 勿論、自主的に国家斉唱が行われる環境こそ理想である。しかし、そのような環境に現状がないことこそ、最も深刻なことなのである。これは行政側の明らかなる力量不足を表している。だから、法制化して強制しようとするのである。それでは、根本たる自主性が失われ、人間をもはや、法を遵守する機械と同じように扱うことを声明したようなものであろう。 この判決をみて、大袈裟に思うかもしれないが、戦前、戦中の日本の匂いが何かしらこみあげてきた。 あのような悲惨な映画をみたせいかもしれない。当時の指導者の自分たちの力量不足から、自らの思い込みの価値観を国民に植え付け、国民一億総玉砕という国家全否定の自殺行為を看板に掲げたのである。 自分の力量を責めずに、他を責める。これこそが、悪の仕業である。自らの否を認めずに、他へ否を求める。これこそが悪なのである。 当初、米国は戦争などに関心がなかった。ただただ、米国は、金が欲しかっただけなのである。英国は、米国を戦争に巻き込んだため、その後、没落し、他を否定し、自己を正当化するその顕教的手法は、英国から、米国に移った。 顕教的手法とは、相手に否を与え、自己を正当化することにある。これが経済と符合し、植民地政策となった。イエズス会がいくところ、奴隷制度が生まれ、植民地となった。実は、18世紀、キリスト教は、イタリアで唯物論化したのである。 米国は、日本を否とした。日本の指導者は、否を自ら受け入れることをせず、国民全てが否となり、自殺に追い込んだ。そこにあるのは、否の論理である。 問題は、否の論理を闘争の場に持ち込むのではなく。否、肯定をそれぞれ定めることではない。人間の自由意志を尊重し、肯定を求めることにある。 敵を愛し、隣人を愛することにある。それは肯、肯定を進めていく絶え間ない苦労の連続、重荷の連続である。 にもかかわらず、世の中は、否定からはじまり、懐疑主義が進み、犯罪は凶悪化し、次第に没落していっている。 このような否定判決が進むにつれ、国民感覚とは離れ、もはや天皇制も危なくなってくるであろう。 他に強制する者は、その位に力量不足なのである。自ら行い模範を示せ! 偉大な神輿は担ぎ手を厳選するものである。
2007年02月27日
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少し前に、歴代総理の通信簿という著書が密かに話題になった。あまりにも見方が、政治技術的で、経済よりなので、面食らったが、現代的な見方ともいえると妙に納得した。特に納得した点は、当時の小泉総理を全く評価していない点であった。 所詮、ハッタリだけの内閣だったので、つい最近にも、鈍感力というような発言をしていたが、なるほど、このような鈍感力をして、あのような無能なままで、無謀な政権維持を図れたのかと、その心底が知れたものである。尋常なる精神力では、とても、あのような恫喝やケンカ、ハッタリの類だけの無能政権を長くやろうとは、思わないものだろう。官僚からは馬鹿にされ、持ち上がられて好い気にされて使われても、よほど、自分のことしか考えていない我儘な人だからこそ、とあの鈍感力発言から伺えたのである。 それはともかくも、歴史は生き物であり、なおかつ国家とは、歴史を成す生き物のなかの器官であり、これまた生き物であるから、あのような無責任な指導者が出ると、途端に生理不順が起きるものである。 老子は、最も優れた指導者は、その存在さえも人知れず、人々が知らぬ間に、また知る必要さえもなく、世の中が自然平穏無事に治まる者であるとしている。つまり、総理大臣が誰かと問われても、誰も知らないけど、とにかく国民は自分のやるべきことのみを知り、その国の指導者など、知る必要もないくらい平穏無事に生活していけるというものであろう。 逆説的にいえば、政治に関心ができるのは生活に不満がたまり、そのストレスに耐えられないからであるといえる。 次に老子があげる第2位の指導者は、国民から慕われ、親しまれる愛嬌ある指導者だという。普通、良き指導者とは、このような人物を挙げるだろうが、国民が、このような指導者に何処かに頼っている面において、かつ、国民がこのような人格者を必要とする点で、まだ、それが未完成であることを示しているのである。 ともすれば、国民の一部のなかから、あまりにも親しもうという魂胆が出てきて、人情に流され、癖や贔屓な悪しき点も出てくるだろう。これは、勝海舟もいっているが、仕事でもそうだが、人知れずに一向に誰がやったかわからない仕事というのが第一等の仕事であるといえるようだ。勝は、そのような仕事の例として、徳川幕府の天海を挙げている。勝も明治維新のときに、これを見習ったというのである。 第一、大業とは、1人では決してできず、皆の協力が必要なのである。どんな些細な仕事にも協力者が必要とされ、誰のものとはいえないものであろう。俺がやったという自慢者こそ、最も愚劣な根性の持ち主といえるだろう。そのような意味で、自称改革者こそ、良い面の恥曝しである。 そのような意味で、指導者として、いかに親しみをもっても、誰もがわかる時点で、第2等といえるのである。 次の第3位、つまり、並の指導者は、恐怖や脅しで、つまり権力や権勢欲で、治めるやり方であるという。これはいうまでもないだろう。北風と太陽のイソップ物語でもあるように、それが究極まで行き着けば、恐怖政治で、独裁主義者というべきものになろう。 戦前、戦中の日本である。恐怖で統治するには、恐怖を与えるための、見せしめが必要である。よって、非情な差別主義者である。差別や権力の維持のため、それに対する見せしめを行い、仮想敵を作り出し、あえて隣人までも敵にするのである。いかなる主義主張も関係なく、自分側につくのか、それとも相手側につくのかの二者択一を求め、人間足る自由意志を奪い、奴隷人間を作り出すのである。 これは悪魔の統治法といえるだろう。悪魔は、自分が変わることを極端に恐れるので、相手が変わることを求め、自らの価値観を受け付ける手段をとる。敵を必要とし、相手の防御力を弱め、つまり免疫力を奪い、自らのウイルスを感染させるのである。このような国家指導者を輩出した時点で、もはや、後戻りはきかないであろう。太平洋戦争の日本が良い例で、いまの米国がこれに近い。 そして、一番、ダメな指導者が、もはや国民から相手にされない、馬鹿にされた指導者である。これは現政権を最も如実にイメージさせる。危なくて、見ていられない。日本は、背骨を失った軟体動物のようになってしまった。もはや、日本沈没も現実化してきたようである。
2007年02月27日
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巷はグラミー賞が話題だが、それとは全く関係なく、久しぶりに映画を続けて4本みた。といっても、映画館まで足を運ぶ余裕などなく、レンタルである。久しぶりというのは、非常に近くのレンタビデオ店が潰れてしまっていたからなんである。で、もって、非常に近くはないが、近くまで、少し遠征して、レンタしてきたわけなのである。 さて、レンタしてきた4本の映画とは、全て邦画で、「トリック劇場版2」「デスノート」「日本沈没」「男たちの大和」である。一応、洋画コーナーもみたけど、どうも洋画は、有り触れ感があり、なんだか、米国のイラク戦争を醸し出していて、勘弁してよ、もういいよという感じ…。 洋画といえばハリウッドなんだけど、ハリウッドって、結局、エンターテイメントって感じで、どうも芸術感に乏しい気もするし、とくに、イラクであんなことやっておきながら、一方で、エンターティメント萌え映画ってなんだか、精神錯乱のようで、なんだか、貧富の差丸出しで、どうも最近、米国人というと、皆、ブッシュのような御馬鹿さんという気がしてくるのだ。 チェイニーなんか、日本に来たらしいけど、あんなお馬鹿の使いなんか、相手にしてどうするのか、日本政府も、お目立たすぎるね。ちょっと、話が逸れてしまったのだが、とにかく洋画はもういいよ!といいたいな。これからは、邦画か韓国、アジア映画の時代だろうって…。 では、4つの映画ならぬ邦画の感想をようやく述べることにする。 映画通の知人が、「デスノート」は最高だと絶賛していたので、それなりに期待してみたが、期待感が大きいと、意外と不評というのが常だが、意外にも、面白かった。少なくとも、4本の作品のなかでは、一番の出来と思わせるものがある。その昔、一部で流行った「恐怖新聞」のようなホラーかと思ったが、サスペンスなのであった。 かといって、絶賛かといえば、そうでもなく、邦画のなかでは、優秀という感じである。いままでの邦画に比べ、確かに、リアリティはあるが、もう少し現実的だと、更によいと思う。特に、FBIがすぐにやられてしまうのが少しお粗末な点で、日本の警察もあまりにお粗末すぎる点が、まぁ、実際、お粗末なのかもしれないが、例えば、未解決事件が沢山あるのは、現実的問題が警察の官僚体質にある点とか、警察の現在の問題をえぐるとかすると、アニメチックなストーリー性が、より現実的になるようになると思った。 次に良かったのは、「トリック劇場版2」で、恐らくこの映画は、賛否両論だと思われる。私は意外と、このようなノリは好きな方で、終わった後、「ヨロシクね!」というポーズをなぜだか、行ってしまわせるような雰囲気が好きな方である(私は憑依体質かもしれない)。阿部寛と仲間由紀恵の夫婦漫才のような進行が、寅さんやサザエさん、或いは水戸黄門のように、いかに飽きを起こさせないかが、このシリーズのカギを握っているといえる。 さて、残る2本だが、それなりに楽しめたが、どちらとも、配役に少し不満点が残った。「男たちの大和」は、軍服を着ているせいか、皆、同じようにみえて、個性がない。流石に、内田軍曹(?)役の中村獅童、反町隆史、仲代達矢は、個性的だったが、後は、なんだか、皆、同じ感じがして、どうも表現力に乏しい感じがした。 内容は、あまりにも悲劇的、悲惨的なので、見ていられないシーンが多々あった。息子を失ったにも関わらず、もう一人の息子までも、死地に行かせることしか、選択できない母親。戦地で生き残り帰ったみたら、親も知人も、爆撃や原爆等で死んでしまい、いなかった等、あれが真実だとしたら、当時の日本は、あまりにも健全的な精神性を失った異常という感じで、死ぬことのみ、それも権威者側から強制されたものに価値を見出そうとする、無力感、殺伐感、寂寥感しか、国民のなかにはなかったのであろう。このような日本独特の一方的な思い込みの観点を、相手側の米国から見てみたら、また違った趣になるだろう。 米国があまりに悪かったか、それとも、日本があまりにも馬鹿だったか、それは、あまりにも不利なポツダム宣言、日本国憲法受諾を受けて、ホッとした当時の日本国民の心境に見出す他ないと思われる。 このようなことを再び繰り返そうとする政府に対しては、断固として反対すべきである。 作品の出来はともかくも、決して、戦争を美化してはいけないと、改めて感じる。 最後に、大和艦上での戦闘シーンは見せ所だが、逃げ回る兵士がいないのは少し不自然な気がしなくもない。人は恐怖感に襲われると、本能的に逃げたくなるものである。 対して、「日本沈没」の方は、現実味がない点において、少し気楽にみれるが、さりとて、こちらも、一部将来の日本を暗示している点で、かつての太平洋戦争と同じで、いわば自然との戦いである。この映画のように、一気に日本列島が、沈むということは考えられないが、日本人の集団性を考えると、一気に没落しそうでもあるが、恐らく、徐々に海面が沈んでいくことや、富士山の噴火による、地震の連動性は充分考えられるところである。 この映画の移民政策は、実際問題として、この映画のようには上手くいかないだろう。中国や米国が、北朝鮮の難民受け入れや、移民問題で、難渋しているのが現状なのに、いかに日本人が金持ちだとしても、列島沈没で、円が急速に下落している時点で、人道上せいぜい100万人がいいところだろう。親日度から考えると、豪か、東南アジア辺りが、移民としての受け入れ先が最も多いのではないだろうか。 この問題はまた、逆に、他の諸国が沈没、多くは水没したとき、実際、温室効果により、水没している地域もあるが、日本がその受け入れ先となれるのか?を十分に考慮する機会にも遭遇するだろう。日本政府は最も移民を受け入れる姿勢に薄い性質をもっている限り、かつて日本の政府の要人といわれれば、かえって逆に、誰も引き取る手がいないような反日姿勢も露わになるような気もするが…。 所詮、映画として考えるなら、日本沈没は、規模は違うが、かつてブルースウィルスのその年のアメリカのワースト映画に選ばれたアルマゲドンを何処か彷彿とさせている。日本沈没をアルマゲドンにダブらせると、ブルースウィルスの役が、スマップの草なぎで、私は、草なぎがあまり好きではない。「黄泉がえり」もみて、内容はよかったのだが、草なぎは、スマップのなかでも、一番地味な存在なので、主役を張るには、イマイチでなんで??という感に堪えないのである。せめて香取慎吾や、稲垣吾郎辺りにして欲しい。あまり、けなすと、草なぎフアンに悪いので、あえて、草なぎはTV向きといいたいところだ。 SFXに関してはスターウォーズに馴れた人には、絵だとすぐわかってしまう。 案の定、科学者役の豊川悦司が、一番よく、及川もよかったが、やはり、これらの配役を助演にし、なんで草なぎが主役なんだという感に堪えない。ヒロイン役の柴咲コウもなかなか良かったし、黄泉がえりの竹内もヒロイン役でよかったのに、やはり主役が物足りないとしかいいようがないところだ! 最後に独断と偏見の映画評を三ツ星で評価すると デスノート★★★(二つ半というところ) 配役も、ストーリーも、ハマっていた。出来もなかなかよかった。 トリック劇場版2★★ 阿部寛と仲間由紀恵がよい。 男たちの大和★ ストーリーはよいのだが、もう少し深く人物像を描いて欲しかった。「プライベートライアン」の方が上。 日本沈没★ 豊川悦司孤軍奮闘というところ。
2007年02月27日
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これまで人間の魂の力から発達する様々な意識状態に関して記述してきた。秘儀参入への認識は、現代人の世界認識が、これらの様々な意識状態に由来する、という事実に依存しているという。 人間が進化すると共に、人間の意識も進化してきたのである。 では、人間の、世界に対する関係が、どのようにして、これらの様々な意識状態によって決定されるかを確かめてみる。最初に、1つの意識レベル、いわゆる現代人の日々の覚醒意識が、日常生活にとって最も相応しいものであることを考えてみる。我々の時代で、この通常の覚醒意識に加えて、更に2つの意識状態を発達させる可能性があるが、さしあたり、それらの意識は、知識を獲得するような直接的な目的に対して有効な判断力を提供することはできないという。 その1つは人間が、その中で日々の生活における経験を回顧したり、精神的(霊的)な存在の生命に関する微かな暗示を受ける夢の意識状態である。しかし、通常眠るときにみる夢の中では、これらの経験や暗示はあまりにも歪められ、お互いに相関しないグロテスクなイメージや象徴が多く混入しているために、夢から、何も学ぶことはできないでいるという。 もし、秘儀参入の知識の助けを借りて、人間が夢を見るときに、どのような世界にいるのかを知ろうとするなら、その答えは凡そ、以下のようになるという。人間は、日常生活においては、科学の研究対象であり、感覚によって知覚可能な肉体、いわゆる物質体をもっている。これは人間の成立における第一の構成体であり、誰もがよく理解しているものと錯覚しているが、後で見るように、実際には、今日最も理解されていないものであるという。 第二の構成体はエーテル体で、エーテル体、もしくは生命形成力体はデリケートな組織で、通常の視覚で見ることはできないという。それを知覚できるのは、死者を死後数年にわたって追っていくことができる第一(銅)の意識状態を発達させた人だけだという。エーテル体は、全体的な組織が独立した物質(肉)体に比べて、より密接に宇宙に結びついているという。 人間の成立における第三の構成体は(古い表現に拘るなら)アストラル体と呼ばれるという。これは感覚には知覚不能な組織で、エーテル体と同じようにして知覚することもできないという。もし、現代人が、今日、外界の知覚に用いる認識力をもって、或いは、死者と接触する最初の超感覚的な意識による洞察をもって、アストラル体を知覚しようと試みるならば、アストラル体が位置する場所に、見出すのは空虚、もしくは真空であって、それ以外は何も見出せないという。 要するに、人間は感覚によって知覚可能な物質(肉)体と、既に以前から記述したような方法で行う集中や瞑想を通して発達させることができる力に基づく、イマジネーション(想像力)によって知覚することができるエーテル体を有しているという。 けれども、これらの力を借りて、アストラル体を知覚しようとしても、出会うのは虚無や、何もない空間であるという。この虚無が内容で満たされるのは、以前に記述した空になった意識を達成するとき、すなわち、感覚のイメージが忘れ去られ、思考や記憶が沈黙させられても、なお、その存在を意識するような方法で、十全なる覚醒意識もって世界に直面するときだけだという。そのとき、この虚無の中に、最初の精神的な乗り物、人間のアストラル体があるのを知るという。 人間の組織を構成するものには、更に自我があるという。自我を知覚するのは、いわゆる空の意識を段々と発達させるときだけであるという。 我々が夢を見るとき、肉体とエーテル体は、精神世界に滞在するアストラル体と自我から引き離されているが、もし、このとき、通常の意識だけをもちながら、アストラル体と自我だけで、周囲を知覚することはできないという。 我々が、周囲の世界において外的なイメージを知覚することができるのは、肉体に眼や耳を付与されているからであるという。現在の人間の進化段階においては、アストラル体や自我には、肉体と異なり、通常の生活において、眼や耳を付与されていないという。なので、人間が肉体とエーテル体から出て夢の状態に入るとき、眼と耳が無くなった、肉体が物理世界に残されたかのように、周囲が暗くなり、何も聞こえなくなるという。 けれども、アストラル体や自我は、このように、いつまでも(感覚)器官をもつことなく、いわゆる魂の眼や耳無しの存在に意図されていたわけではないという。これまで、述べてきたような精神的(秘教的)な訓練を通して、これらの精神的な(感覚)器官を、アストラル体や自我の中に目覚めさせることができるという。 従って、秘儀参入に伴う洞察を通して、精神的な世界を覗き見ることが可能になるという。そのとき、人間は、肉体とエーテル体から離れ、丁度、肉体とエーテル体の中で物理的なもの、そして、ある意味、その根源的な意味で、エーテル的なものを知覚するように、精神的(秘教的)なものを知覚するという。この洞察を達成する人が、そのとき、秘儀参入を達成するという。
2007年02月27日
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通常の科学的な手続きによって例えば肝臓や肺の形態を理解することができ、もう一段高次のレベルの知識(そして、その知識は、より粗雑な側面においてのみ現代物理学に知られているに過ぎないという)をもってすれば、感覚器官の構造を理解することが可能だという。だが、秘儀参入の知識を通して、その一段高次の知識に近づく以外には、直立姿勢をとる人間の循環器系が示す奇妙な特徴や不思議な金属の特質を理解することは決してできないという。 このことが示すのは、秘儀参入の知識なしに、ここに記述した意味で病気の本性を理解することは決してできないということである。何故なら、金属が病気を癒すことが可能なのは、その物理的な性質によるものではないからであるという。 金属の物理的な特質に関する理解をもてば、脳の損傷を癒すことは可能だという。しかし、循環する液体の障害を治療することは不可能だという。ただし、このように金属で治癒可能と言うことは実際、厳密に正確ではないという。何故なら、金属の物理的特質によって治療できるのは脳の最も粗雑な実質だけで、脳内には液体も循環していることから、現実には金属だけで脳の損傷を治療できるわけではなく、精神的(秘教的)な知識の助けがあって、はじめて可能といえるからだという。 確かにそうかも知れないが、シュタイナーの唱えた治療芸術では、今日の医学の成果をどのように説明するのか?と問われるなら。それに対する答は、現代医学的に治療が可能なのは、それが金属の精神的(秘教的)な要素に関する古い伝統的な知識の記憶をいまだ保持しているからである、というものであるという。 現代医学が使用しているのは、伝統的な知識と、ほとんど役に立たない、純粋に物理的な発見の組み合わせであるという。もし、唯物主義が伝統的知識の犠牲の上に立って勝利を収めるならば、化学療法だけでは、いかなる根治的治癒作用ももたらせない、ということになるという。今新たに精神的(秘教的)なものに接近しなければならず、何故なら、太古の超感覚的な能力に関する古い伝統的知識は徐々に失われていくような人間進化における一地点に立っているからであるという。 銀の金属性の背後にある秘密は非常に特別な種類のものであるという。銅の背後にある宇宙的な衝動(形成力)が、最初の高次レベルにある意識を人間の中に目覚めさせ、水銀の背後にある別の宇宙的な衝動(形成力)が星の世界、つまり死と再生の間で滞在する精神的な世界に関係する第二の高次のレベルにある意識を目覚めさせるならば、銀の金属性は全く異なる段階の意識を目覚めさせるという。 人間が銅と水銀の本性に対して採用したのと同じプロセスによって銀に対する人間の関係を強化し、高めるとき、人間は、内にある、より奥深い組織に関係するようになるという。人間は水銀によって、リンパ液の循環システムに関係づけられるが、銀によって今度は、宇宙の循環、宇宙の精神性に関係づけられるようになるという。銀に対する人間の関係を強化することは、前世から生き残っている全ての力と衝動(形成力)との直接的な接触をもたらすという。 もし、人間が銀の奇妙な性質に集中するならば(そして、それは、ときとしてその効果が表れる以前かもしれないという)、自分の内部で、液体の血管中における循環だけではなく、血流に乗った熱の循環にも関係する力に集中することになるという。そのとき、当の人間は、人間としての地位を、血液中の熱の循環に、つまり物質ではあるが同時に血液中の精神的な要素でもある、ある種の内的な熱を感じることに負うことになるという。そして、この熱の中に、前世からの力が活発に働いていることに気づくという。人間の銀に対する関係の中に表現されるのは、血の熱的な活動に影響を及ぼすことが可能なもの、そしてまた前世との精神的な結びつきを提供するものであるという。 なので、銀は前世から現世にまで生き残っているものを人間に思い出させるような金属としての効能を保持しているという。 というのも、顕著な熱の多様性を有する血の循環は、物理的な世界から導かれたものではなく、ここで述べた元素の世界や星の世界から導かれたものでさえないからだという。星の世界は血液循環の道筋や方向を決定するが、血とともに循環する熱の中には、前世からの賦活力が働いているという。 人間との関係で銀の力を指し示すときには、直接この力に訴えかけているという。銀の秘儀はこのようにして人間の前世に関係しているという。銀は精神的なものが全てに浸透していること、物理的な世界においてさえそうであることの驚愕すべき例の一つであるという。銀を正しく理解する人は、それが人間の繰り返される地上生の象徴であることを知っているという。 なので、銀の秘儀は生殖とその秘密に結びついているという。何故なら、人間の存在が世代から世代へと繰り返されるのは生殖の過程を通してだからで、以前の地上生の中にあった精神的な存在は生殖過程を通して再び受肉するという。これは血の秘儀と同じ秘儀で、血の秘儀、血の熱の秘儀とは銀の秘儀のことであるという。 これまでの記述で、今や人間の正常な状態について知るようになった。次に、その異常な状態についての探求へと進むことにする。さて、血はその熱を、人間の現在の環境からではなく、前世において通過した領域から取り出す必要があるという。人間の血の熱が、精神的に前世に結びつけるものによって活性化されず、現在の環境の影響を受けると想像すると、その場合、結果として病理的な状態が生じるという。 その病理が生じるのは血の熱に結びつくもの全てが、現在の自然の関連から、つまり以前の地上生からではなく、そこから分離されるからだという。発熱とは何なのか?と問うなら、神秘(秘教)学の立場から言うと、発熱は人間の有機体が輪廻転生との関係を断ち切ったために生じるという。もし、ある病気において、患者の有機体が以前の受肉から切り離される危険に陥るように、外的な世界によって働きかけられているということが確かめられたならば、太古の医者は治療のために銀を処方するという。 この種の非常に興味深い例が、アーレスハイムのベークマン博士の医院で見られたという。精神生活においては、今述べたような状態が突然生じることがあるという。血の奇妙な特性のために、人間の有機体が外的な状況を通して、以前の受肉からの突然の分離、遊離に脅かされるという。そして、このことが正にベークマン博士の医院において、ある患者に起こったことだという。 痙攣していた患者が、突然予期せぬ高熱、通常の医学が言う原因不明の熱を発したという。ベークマン博士は、先験的な理解をもって直ちに銀治療を施したという。患者の話から、その患者が完全に宇宙的な関連の図式を示していることが明らかになったという。このようなことから、一方では、人間の精神的な進化に結びついているものと、他方では、病理的な状態に導くものとの間の相互作用について、どのように処置すればよいかに関して学ぶことができるという。 秘儀参入者が地上における以前の生を探求できるのはいかなる方法を通じてか?と問うなら、普通の人生の場合のように、前世に結びつけられ、カルマに巻き込まれている限り、通常の意識をもって前世を振り返ることはできないという。 前世の影響は現世の中で感じ取られるという。人間は、自らのカルマを、その影響の下に成就し、人生はカルマによって決定されるという。これらは通常の意識なしには、振り返ることはできないが、もし、前世を振り返りたいのであれば、しばらくの間、通常意識の限界を超える必要があるという。そして、前世を客観的に見ることができるようになったとき、前世を振り返ることができる位置に立つことになるという。 勿論、全く正常な方法で、現状に復帰できなければならず、そうでなければ、秘儀参入したのではなく、精神異常の人になってしまうという。 これは精神的な成長の過程で生じる現象であるという。人間は、自らを前世につなぎ止める、もやい綱を解くという。異常な場合や病理的な状態では、病気がその働きを行うという。 病気とは、人間が精神的な視覚やその他の意識レベルを達成するために、通常は、より高次の領域において達成しなければならないものを、低次な領域において、異常な方法で示す表現なのだという。 もし、人間の、その他の組織から切り離された血が、それ自身の意識(というのも、血は、その他の器官がそれぞれ特別な意識状態をもつように、血自身の意識をもっているからだという)に支配されるとすれば、つまり、血が、その他の組織による束縛から自由になるとすれば、それは、この異常な状態の下で、ただし無意識的に、前世を振り返ることになるという。意識的に振り返るためには、まず通常の意識が無い状態で認識を可能にする必要があるという。病理的な状態で、前世を振り返るときには、通常の意識との結びつきが保たれてしまっているという。 このように、例えばカルマに関連する全ての病気に対する素晴らしい治療法となる銀の金属性に関する探求は、銀の秘儀から発し、その他の深遠なる秘儀へと導く。人間における、様々な意識状態に関連した金属的な(精神的な)本性について記述してきたが、今度は、これらの意識状態に対する探求を、これらの状態を通して、到達が可能な別世界との関連へと広げていくことにする。つまり、次回は、精神的(秘教的)な知識に向かう正しい道に関して、より詳細に探求することを提案する。
2007年02月22日
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共産主義が机上の空論であることは、マルクスの人柄とその唯物的機械論から既にわかっていたことだと、シュタイナーは説いている。 マルクスは、理想の社会ができれば、そのなかにいる人間も、自ずと理想的な人間になると思ってたようだが、これは真っ赤な嘘だという。是は社会進化を度外視した非本質的な空論なのである。 なぜなら、君主制、共和制、民主制、社会主義体制など、それがどんな体制であろうと、常に大切なのは、その体制の中に生きる人間がどんな人間であるか、ということにあるからだという。 つまり、どんな体制であろうと、悪人は悪を行うことに違いはなく、善人は、善を行おうと努めるからである。確かに、悪を行うことが容易な体制であれば、善人は少なくなるだろうが、最終的には、意志の強弱にあるといえる。 東ドイツや共産圏の人たちの話を聞くと、東ドイツの共産党員の中で非常に無私の態度で献身的に党の運動に尽くしてくれた人達が随分といたが、体制ができあがったときに、気がついてみると、そういう人達は、皆排除されてしまって、その体制の中で実権を握っているのは、相も変わらずナチス時代から生き残っていた官僚だというのである。 これは日本でも、同じで、明治維新の場合も、戦場で働いた維新の元勲たちは、皆、排除されてしまい、結局、維新の功では最も低い部類の、山県とか、伊藤とか、大隈とかが権力を誇大化させ、引き継いでいったのである。その揚句が、昭和の太平洋戦争を産んだといえるだろう。 また、太平洋戦争後も、A級戦犯以外は、とくに官僚が、ノコノコと復帰したのが不思議な位だと、ノモンハンで学徒動員され、悲惨な目に遭った司馬遼太郎が書いているところでもある。 とりあえず、日本は少なくともA級戦犯が、復帰できなかったのが、戦後の安定的な経済成長につながったといえるだろう。これは西ドイツも、同じだろう。 このような社会背景は、国家全体でなくても、会社組織レベルで至る所でみられる風景である。ここ数十年の企業不祥事にもみられることである。 なにより現職の日本の政治家の犯罪歴や不祥事歴を調べてみれば、一目瞭然だろう。悪い奴は、どんな体制でも、性懲りもなく、愚かにも、悪いことを繰り返すのである。恐らく、悪いことという自覚もないのだろう。だからこそ、復帰できるのである。ただ、権力欲に取り憑かれているだけなのである。 太古ならば、お前には悪霊が憑いているぞと言ってやれるが、唯物論の時代では、そのような助言をした方が、馬鹿にされるがオチなのである。 このような悪人が、自己改心しない限り、社会はどんどん悪くなる。このような人達が、理想の社会をつくって、教育を行うと、自説を振り撒くものだから、自然破壊だって進むし、地球の環境も悪化していくのは必然といわざるをえないだろう。 現代人は、外的制度の向上に全てをかけ、人類の幸福を外的制度の成果の中に求め、どんな種類の体制をつくるべきか、ということで、社会進化の問題としているが、根本的に全くの考え違いをしていると、神秘学は説いているのである。 人間が、第一に、自分自身の行為に愛をもって専念することと、第二に、他人の行為に理解をもって相対することの、この2つの態度を問題にしなければ、どのような体制をつくろうとも、絵に描いた餅だと、神秘学は説くのである。 人間には根本的に善への意志が何より最初に求められるべきもので、それは権力とは反対側の、社会への自己犠牲の供物として掲げられるべきものなのである。
2007年02月22日
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前回述べたように、彼女はギリシアのパーセフォニーと同じ存在で、以前、彼女の眼差しは、より地球へと向けられ、つまり、彼女は死後間もない人間の生活に関する経験のように、まだ地球の領域に結びついたものを明らかにしたという。 今、彼女は「振り向き」、人間の下方には地球、そして元素の世界、上方には星の世界があり、地上で植物や動物に囲まれていたように、今、その人間の周りには星の世界がある。彼はもはや壮大な星の世界を目の当たりにしても、自分がとるに足らないものであるとは感じないという。星の世界は、彼のそのときの大きさで比較すれば、丁度、地上における周囲の環境との関係で感じるのと同じように感じられるという。 そのとき彼は、その身の丈が大きくなると共に、星の世界へと成長したという。しかし、そこでは、その星は地上から見るような星ではなく、そこは精神的な存在たちのコロニーであることが分かるという。再び既に述べた世界、つまり錫の金属性との関係を通して、人間の中で目覚めた世界の中にいるという。既に述べたように、水銀と錫の間には内的な関係があり、水銀は、人間の存在のある一定の部分に働きかけ、分離し、外的、物理的には星の世界として表現される精神的な世界をもたらすという。 けれども、そのとき意識状態が変化したため、今や異なる世界の中にいるという。つまり、その意識はもはや感覚や脳によって決定されるのではなく、水銀の金属性が、有機体から引き出したものによって決定されるという。 全体として異なる世界の中に、星の世界の中にいる自分を見出すという。しかし、このことは別の方法で表現することもでき、「星の世界」という言葉は空間的なものを暗示しますが、今や本当に、この新しい意識レベルを達成することを通して、誕生から死までの間、空間的に存在する世界を後にし、中間的な世界、死から再生までの間、滞在する世界に参入することができるという。 これが水銀の隠された秘密だという。つまり、水銀は人間を現象世界から引き離し、中間的な世界への扉を開くが、それが可能なのは水銀が人間存在の部分、つまり地球から導き出されたのではなく、中間的な世界の存在たちによって、人間の中に植え付けられた部分と内的な関係を有しているからだという。そのとき人間が経験する液体の循環は、彼が死から再生までの間に通過する世界によって決定されるという。 このとき、ある別の事柄に関して知るようになるという。それもまたブルネットー・ラティーニが女神ナチュラの影響下に受け取ったものだというが、宇宙的な液体の循環に関連した液体の循環の中で生きている、ということが意識されるようになるという。 このとき、肉体という乗り物を感覚から導かれた意識と共に脱ぎ捨て、死から再生までの間に滞在する世界にいる自分を見出すという。そして、液体の循環の本性に通じるようになると共に、いかにこの内的な活動が、つまり、死と再生の間に滞在する領域が精神の4つの気質、多血質、胆汁質、憂鬱質、或いは粘液質という性質を決定したかを理解し始めるという。 このとき、人間の成り立ちに関しては、感覚のみに頼るとき以上に深い洞察を有することになるという。粘液質として生まれるとすれば、自分の鈍感さ、自分の無精が前回の死と今回の誕生との間のこの領域の経験によって決定された、ということに気づくという。しかし、物理的な液体循環の中に自らを顕現する、この気質との関連でもう1つの要因に関して考慮する必要があるという。 この液体循環に何が含まれているかを少し考えると、解剖学や生理学の分野では主として物理的なものが問題になるが、物理的なものは、本来、精神的なものの表現に過ぎないという。この液体の循環に関連する精神的な要素は物理的な世界のものではなく、死と再生の間にある人間にまで貫き至る世界に発するものであるという。 様々な精神的な気質を省みるとき(そして、女神ナチュラがブルネットー・ラティーニに精神的な気質の存在とその本質に関する目を開かせたことは、彼にとっては圧倒的な経験だったという)、死と再生の間の生活が液体の循環と関連する、これら四つの異なる精神的気質の本性を決定したと結論づけられるという。もし、もっと深く探索するならば、運命を司るカルマが、その中で役割を果たしているのが分かるという。 たとえ、この特筆すべき液体金属である水銀の物理的な面を充分に熟考するとしても、水銀を理解し始めるのは、その隠された秘密、すなわち液体水銀の微細な一滴が、秘儀参入者に奥深い秘密を明かすようなことを、充分に意識するときだけであるという。この滴は死と再生の間の世界にその起源を有し、その構造を、その世界に負う器官の中に精神的なものを浸透させることができるという。 死と再生の間の経験は、流体性のものであり、秘儀参入者はこれを水銀と呼び、このなかでカルマが、前回の生と未来の生への展望から決定され、この精神的な流れが、人体の器官を物理的に形成し、そのなかに、精神的な気質を流れ込ませるという。 このように、世界のあらゆる事物は相互に織りなされ、関係づけられているという。物質的なものは幻想で、そして、物質の観点からは精神的なものもまた幻想であり、抽象に過ぎないという。実際、物質的なものは精神的なものに、そして精神的なものは物質的なものに織りなされているというのが真実だという。 真実(精神的なもの、物質的なもの) もし、中間的な領域に、実際に起源をもつ人体器官に関係する障害が、人間の有機体の中で発生したら、その障害を修復するような力を活性化する必要がある。死と再生の間の生活に起源を有する循環器系の不具合を持つ患者が医師の診察を受けると仮定する。すると医者は、その循環器系統が精神的な世界との結びつきを断たれているような患者に直面することになる。これがこの患者の診断病歴となる。精神的な要素と物理的な診断との関係は、以前に示唆したような意味で理解する必要があり、誤解のないようにもう一度繰り返すと、この患者の循環器系は精神的な世界から、酷く断たれているという診断になるという。このような場合、何が処置される必要があるのだろうか? 循環器系と精神的な世界との結びつきが回復されるように、体内に金属性を導入するのが正しい処置であるという。これが水銀(液体金属)の人間に対する作用であるという。水銀は人間の有機体に対して、精神的な世界からのみ築かれ得るような器官が、その精神的な世界との関係を断ち切ったとき、それらを再び接触させるような方法で働きかけるという。このようにして、意識状態に関する知識と病気に関する知識との間に存在する、幾らか危険で、同時に必要な関係を理解できるという。このようにして、一方の知識が他方に移行するという。 このような事柄は古代の秘儀では決定的な役割を果たしていたという。以前、触れたような事柄にも光を当てるような、次のことを考えてみる。自然の秘密に関しての女神ナチュラの教えを通して、彼女に気づくことができた古い精神的な視界が失われていた時代に、ダンテの教師であるブルネット・ラティーニがスペイン大使の地位を離れ、興奮状態の中で帰ってきたという。 生まれ故郷に近づき、彼の党である、ゲルフ党の運命が聞こえてきたとき、彼の興奮は高まり、彼はこの全てを、彼のもとに若干の発熱がやってくるような心の状態で経験したという。正に秘儀参入者が呼ぶ、水銀の金属性が周囲から働きかけたという。 若干の発熱を、どのように理解すればよいかというと、それは環境中の水銀、宇宙全体に細かく分散した水銀の影響を感じることを意味しているという。ブルネット・ラティーニは、この水銀の影響を経験した結果、人間がそのような経験に与ることができない時代にも関わらず、精神の世界に近づくことができたという。 このようにして、人間の中には、自然科学が見出すものや死後、数年以内の死者と接触を持つ人が見出すものが存在するのみでなく、人間の根本的な存在は、もっと遥かに崇高なもの、死と再生の間に生きる、純粋に精神的な領域にも関係しているということを理解するようになるという。
2007年02月21日
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目や耳のように、我々の体の周囲に配置された器官は、元素の世界と絶えず連絡を取り、死後数年を経た死者を知覚しているという。この世界についての知覚が失われるのは、知性が介入するからだという。人間の周囲に配置された器官は精神的な世界、死者の世界を仲介するが、この世界、土、水、火及び空気の4大元素の世界は、知性的な意識によって消し去られるという。 人間は、明白に規定された輪郭を持つ物理的な世界、誕生から死までの間に滞在する世界だけを見る。これとは非常に異なって秩序づけられた第二の世界が本当に存在するということは疑いのないことだが、このような世界は知性によって消し去られ、人間が眺めるのはただ日常意識にとって見慣れた世界だけであるという。 現代人が以前に述べたような瞑想を行う必要があるのはそのためだという。過去には、そのような瞑想の後、金属実質の摂取が行われたという。このことに関しては、以前にまとめた。より高次の意識レベルに至ることが可能かどうかは、第一に、知性を消し去ること、そして感覚器官により仲介される知覚を精神化することにかかっているという。 動物の場合、大脳が発達していないために、これらの知覚に与ることができるが、自我意識をもっていないため、その知覚は精神的(理性的)ではなく、原始的な魂の力にのみ浸透されているという。動物は人間のように感覚が精神に照らされたときに、知覚するものを、周囲の世界に知覚しないという。動物の知覚は人間の知覚と同じ種類なのだが、劣ったものであり、個的なものになっていないという。 金属に関して、いわゆる鉱物世界の現実の実質に関して、これから記述することは、必要な留保をもって受け取る必要のあることだという。以前、金属の性質を通して、魂を内的に活性化させることについて、つまり言い換えれば、金属との内的な交流を、道徳的な意味で発達させることが、今日の人間の精神的な発達における枢要な部分をなすことに関して記述したとき、注意を促した。 効能(希釈)化された金属の人体組織に対する処方は臨床医の役目である。なので、既に議論した以外の金属の知られざる要素に関して、記述しようとしていることを、必要な留保をもって受け取って欲しいという。特に水銀の秘儀は精神的な面から世界にアプローチする人たちにとって、すなわち物理的な実質の中に精神の働きを知覚することが可能な人たちにとって、特別な重要性を有しているという。 ただし、金属の水銀は、精神(秘教)的学問が、水銀という一般的な言葉で呼ぶもののほんの一部に過ぎない。水銀とは液体金属の性格をもつ全般を含んだものであるという。今日知っているような自然界には、秘教が呼ぶような性格に与る金属、水銀と見なされる金属はたった一つ、つまり水銀しかないが、本来、これは水銀という種を構成する一つに過ぎない。 秘教学においては、水銀とは水銀(液体)的な性質をもつ全般を包含しているという。水銀は、単に水銀の典型例と見なされるに過ぎない。 この水銀には奥深い秘密があり、水銀の人間に対する影響とは、人間が物理世界の全ての印象から、そして元素の世界からも、引き離されるというものだという。 秘儀参入者は、人間の脳のような器官が、物理的な世界から作り上げられたのを知っているという。また人間は、この物理的感覚の世界から、他の多くの器官を作り上げたが、特に、物理的な生活には不可欠の一連の腺組織全体を作り上げたという。 更に言えば、第二の意識レベルに関係する世界として記述された世界からも、多くの器官が作り上げられたという。銅と鉄は人間をこの第二の意識レベルに引き上げるという。水銀の影響は異なり、それは宇宙の中に必須のものだという。そして、水銀(液体金属)は、実際、微細な拡散状態で普遍的に存在しているという。我々はいわば水銀(液体金属)の大気に取り囲まれているという。 人間が通常以上の量の水銀を吸収する瞬間、人間の有機体は、物理世界と元素の世界から作り上げられた全ての器官を中和しようとし始めるという。そのとき、人間のアストラル体がいわば刺激され、星の世界から作り上げられた器官にだけ頼るようになるという。 なので、水銀の金属性に、つまりその金属的かつ液体的な性質、水銀に特徴的な要素、基本的に手で感じられないほど微細でありながら、それでも人間に関係する要素に意識を集中するやいなや、人間は「第三の人間」に浸透されるようになるという。 人間は銅との関係を通して内的な緊張を創り出すと同時に、肉体を捨て去り、死後間もない死者たちを数年にわたって追っていくことができるような第二の人間に内的に浸透されるようになることは、既に述べた。 水銀はもっと遥かに綿密に織られた魂的な組織に貢献するあらゆるものを引き寄せるという。水銀の影響を通して、人間の器官における新陳代謝の全体が把握されるかのようになるという。人間は、水銀の力強い金属的な影響を経験するとき、様々な管組織を通して流れる液体循環の様相に、突然注意を向けさせられることになり、この影響は決して気持ちがよいものではなく、不快になるという。 というのも、人間は、心と感覚を失ったかのように、内的な発酵状態、乱れと流れ、脈打つ生命と動きの中にあるかのように感じるという。そして、彼はこの内的な活動が外の活動と一つになっているのを感じるという。 既に記述したように、水銀を用いることなく、この状態は内的な生活の意識的な訓練によって生じるという。水銀の活動的な影響を通して、人間は脳の存在を感じることをやめるという。脳は空虚な空間になるが、かえって知性を失い、それが精神的な世界の知覚にとって有益なことになるという。 何故なら、脳は、精神的な目的にとって全く役に立たないものであるからだという。彼が実際に感じるのは彼の有機体全体に浸透する(流体的な)動きと活動であるという。とはいえ、この発酵は最初、内的な消耗に苦しむのと同様に非常に苦痛に満ちたものであるという。 例えば、現代医学の脳死を死と判定することは、現代医学の物質的なモノの見方を反映しているといえる。現代医学は知性を素に、知性からなる性質故に、知性の素である脳が、死(機能マヒ)に至った時点を、もはや知性なきものとして、死と認定するのである。 現代医学においては、知性なき存在は、人間存在としては死と認定されることになり、これは現代医学のいわば限界点をも表しているといえるだろう。 対して、太古の叡智、秘教学では、脳死は死ではない、死とは、エーテル体が、肉体から離脱することを意味する。しかし、現代人の大半は、霊視能力を失っているので、エーテル体をみることができないが、エーテル体がその影響を及ぼす物質的身体から、死を判定する方法が挙げられるだろう。 エーテル体の影響は、何らかの腺組織に現れるので、腺組織の機能が、活動しなくなり、血液も循環しない状態、つまり、身体が、自ら崩壊した時点の判別に委ねられると考えられる。 内的な活動があらゆるところで外的な活動と結びつけられるという。地球を離れ、元素の世界が下方にあるのを感じ、あらゆるものが流れる蒸気を吐き出し、この蒸気の中の、流れる呼気の中には、精神的な存在たちが住んでいるという。ブルネット・ラティーニがあれほど活き活きと記述したナチュラ神が、今「振り向いた」ように感じるという。
2007年02月20日
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人生は、神々の高度な配慮と恩恵の下に、各人に与えられているという。人生は試練や苦悩に満ち溢れているが、そこから、ただただ忍耐と自制心をもって自主的に望む魂にこそ、死に際して、人生の学びから自然と、月意識を自制心から獲得することができるという。 魂のこの月意識の高度な制御能力は、人生をいかに忍耐強く、努力して自制し生きたかによっているという。この自制心が、そのまま魂、つまり自我とアストラル体の統御力に反映されるという。そして、人生のなかの覚醒意識を、そっくりそのまま睡眠中の状態、ボルグが死の技術と呼んだ状態に、もたらしえるかが、月の悪の誘惑の存在に負けないものとなるという。 つまり、自我とアストラル体を高度に進化させるために、人生のプログラム(カルマ)は形成され、人生を忍耐力と努力により、いかに受け入れるかによって、魂、つまり自我とアストラル体は進化を遂げるのであるという。 人生の終わりの死に際し、もはや、我々の基盤となる地球の重力は存在せず(肉体から離れるから、肉体は既にない)、自らが自らの土台となり支え続けなければならないという。そうでなければ、たちまち地面を失った人間が、地のなかに埋没していくように、宇宙のなかに、自らが解消していってしまうという。 これがキリストがいった、自らが自らの足になることの意味である。最後の晩餐において、キリストは、弟子たちの足を洗い、自らが、弟子たちの踏む土、人類の愛の土台、支えとなる基礎となると宣言したのである。 最後に、自らで自らを支えるものが、この人生を忍耐と努力をもって愛に生きる力なのであるという。自らのなかから、愛の力を汲み出す能力が、宇宙の土台の基礎となるという。これが秘儀参入法の秘密である。 天は自ら助ける者を助ける。 自らが、自らの足となり、自らを支える土台となるためには、自らの人生に絶え間なく愛を捧げる必要がある。愛こそが、敵対する悪を味方に近づけるものであり、自らを支える糧となるものである。 我々地球人は死後、人生を振り返った後に、すぐに月に住む、これらの悪と戦う試練が与えられるという。これが、地獄巡りの由来である。
2007年02月20日
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スウェデンボルグとは、話せば長くなり、その著書を読めばわかることなので、かいつまんで話すと、元々は、中世の有名なスウェーデンの科学者だったが、あるとき霊界からの訪問を受けて霊能者となった人物である。ボルグの父は、有名なキリスト教の神父で、自分の子(つまりボルグ)が、その当時流行の科学に染まるのを如何わしく思っていたという。この状況は、現代では、まるで正反対である(この正反対性には訳がある-後述)。 だが、ボルグは、父のキリスト教の影響には染まらずに、一旦、科学者として身を興し、鉱山省かの技術監督官になり、スウェーデンの学術雑誌を創設するに至るが、あるときから、霊能者になり、それまでの科学的研究や発表が馬鹿らしくなり、霊界探求記を書くようになる。 ボルグが、霊界への訪問が可能になったのは、彼が「死の技術」と呼んだ、いわゆる秘教学でいう「秘儀参入法」を獲得したからである。 さて、この死の技術、つまり秘儀参入法を簡略して以下に述べる。 秘教(神秘)学では、人間の存在を4つに大別している。肉体、エーテル体、アストラル体、自我である。ここで、特にその呼び名に拘らないが、ただ注意すべき点は、この4体の基本的性質の相違にある。肉体は、物質(鉱物)からなり、エーテル体がなければ、自然に崩壊するものである。つまり、肉体は、エーテル体のお陰で、その形態を保つことができる。 肉体の形態を保持するエーテル体は、アストラル体により制御される。アストラル体は、自我により制御されるという構図が重要なのである。 この4つの体は、人間の意識の持ち方で、変化する。簡単にいえば、自我が、他の3つの体を統合制御しているのである。つまり、意識の本体は自我にあるという。 しかし、この4つが1つ、つまり四位一体(実際は三位一体の構造;(肉体、エーテル体、アストラル体)=自我)となっているのは、人間が覚醒時のときであり、睡眠時は、自我とアストラル体は、エーテル体と肉体を残して、外に出てしまうのである。 この睡眠時の人間の状態、つまり肉体とエーテル体を、後(物質世界)に残してアストラル体と自我が、精神世界に旅をしている状態を、ボルグは死の技術と呼んでいるのである。ただし、これは外見的な構図の意味において、同等であって、つまり、従来の科学で同一視できるという意味で、本来、精神的な意味においては、大いに異なるのである。 注意して欲しいのは、精神世界と物質世界は隣接というか、そっくりそのまま同じで、ただチャンネル(波動の周波数)が異なるのである。波動を粗く(エネルギーが有限の正の状態)すれば、物質世界が映り、波動を細かく(エネルギーがゼロ以下の負の状態)すれば、精神世界が映るという関係にある。 従来の科学では、エネルギーが有限の正の状態しか扱えないので、この精神世界をなんらかの観測機械によって確認し、証明することはできない。だからして、科学が探求できるのは、その最先端の縁まで、せいぜいエネルギーがゼロの領域までであり、そこから先は、科学でない手法を開発するしかないのである。 エネルギーが有限の正の領域を、なんらかの観測機械により、観測し、論理体系づけるのが科学の手法である。つまり、科学の手法とは、エネルギーを感知する能力に負っているといえるだろう。 端的にいえば、科学とは、人間のエネルギー感知能力を示すといえるだろう。 そこで、エネルギー感知能力が、ゼロや負の領域に及ばない限りは、科学では証明できないが、代わりに、数学的な探求により、代替的に仮説として証明できるのである。ただし、それを科学的実証とはいわないだろうが、これは、例えば、超弦理論を、科学とするかどうかの問題にも帰されるだろう。 さて、このエネルギーがゼロや負の領域への探求を、物質をあらかじめ仮定し、定義した従来の構造体を問題とする科学体系からは、非常に困難といわざるをえないだろう。なぜならば、科学体系は、物質のみを扱うことを想定しているからである。物質でないものを物質で扱うことはできないだろう。 これは、波動でいえば、物質波を構成する波長(プランク長)を基に、量子化が成立している条件から、量子化ができない波長は、ここでは問題とされず、存在しないことになる。しかし、この波長には、負のエネルギーや、摂動による繰り込み現象も加味されているのである。 つまり、実証できないが、その裏ではその存在が想定されているというカラクリなのである。一体、量子化の条件を生じさせているのは何者なのかは問わず、ただ量子化の空間にその性質を負わせているといえる。 とりあえず、科学的立証は限界で、それを度外視して、改めて、古来からの秘教(神秘)学的手法を考えてみると、興味深いことが明らかになる。 太古では、人間の感知能力は、現代とはまるで逆で、つまり、上述でいうならば、ゼロや負のエネルギーレベルの感知力であったことがわかるのである。太古人は、現代人のようにはっきりと物質をみたのではなく、オーラといわれる、物質を取り巻いてそれを構成する素をみて、物質を想定したというのである。 これは、いわば現代人が、量子力学で数式上に想定した確率波からなる電子雲のことを、太古人は、みていたように思われるのである。太古人は、電子雲から、物質を想定する感知力をもっていたようである。しかし、現代人は、物質から、数式により、電子雲を想定するのである。つまり、全く逆の視点にあるといえるだろう。 太古人は、電子雲をみて、幾何学から、物質を想定し、現代人は物質から、代数学により、電子雲を想定するといえる。 太古人の感覚は、いまでいうゼロや負のエネルギー感知能力にあったといえるのである。 秘教学によると、この感覚は、月の認識と呼ばれる。秘教学によると、かつて地球と月とは一体であったという、そのとき、その地球と月は、月と呼ばれていたという。勿論、そのときの月は、いまの地球のように物質性のものでなく、この物質状態を神秘学では、土(固体)状態と呼んでいるが、月はそのとき、神秘学でいう水(液体)の状態だったという。地球の潮汐力は、そのときの名残であるという(科学では、この潮汐力を月の引力に言及しているが間違いで、見かけ上連動しているようにみえるだけだという)。 神秘学では、月といっても、今ある衛星の月だけを意味しているのではなく、地球の外周を含んで月の軌道までを、全て、月の領域とする。衛星の月は、その境界を巡っている、いわば細胞の核のような存在だとしているのである。このことは、受精卵の外縁部のある一点で、細胞(受精)膜の厚みが増し、次に包接(核の融合)が起こって一種の核が形成されることと無縁ではなく、この核は、衛星の月と似た存在だという。 このような水の状態の月が、地球と(衛星の)月に分かれ、同時にそのとき、古代人も、月に住むものと、地球に住むものに分かれたという。ただし、大きな違いは、地球に住むには肉体を必要とした点であったという。 地球に住む人間は、肉体が必要なので、この土状態を認識すべく、魂(自我とアストラル体)は、これを感知するように、訓練してきたといえる。つまり、エーテル体を変容させてきたのだろう。月に住む存在は、かつてのエーテル体をそのまま保持しているので、物質(土状態)を認識することはできないが、我々地球に住む人間は、勿論、肉体に受肉するに際し、適合し、土の状態を認識可能にする変容を遂げたのである。この状態を、聖書では、アダム(土状態)と呼んでいるのだろう。 話を元に戻すと、死の技術とは、自我とアストラル体、つまり魂を、肉体とエーテル体から離し、かつ、かつての月の認識である、ゼロと負のエネルギーを感知する能力をもつことを指すものと思われる。 このような技術をもった人間は、同時に、月認識を所有するので、月に住む存在とすぐにしかも間近に出会うわけである。なので、あまりに地球存在(土状態)に馴れた人は、このとき、驚嘆、驚愕せざるをえないだろう。しかも、危険なのは、この月状態に馴れすぎると、今度は、地球の肉体に帰れなくなるのである。 また、他の地球に帰りたい欲望をもつ魂(自我やアストラル体)等に、肉体を奪われる恐れもある。特に、自縛霊のような、自分が、死んだことも意識できない存在は、この月意識ももたないので、ある意味、地球存在に近く、エーテル体が類似したものであれば、容易に肉体に憑依できる恐れもあるだろう。 秘教学でいう霊媒とは、このエーテル体の憑依体質、つまり月存在に近いエーテル体を指すようである。だから、このようなエーテル体をもつ人に、催眠術や魔術(狐狗狸さん)をかけるのは非常に危険で、厳禁といえる。 月に住む月存在たちは、地球に住む人類よりも高度に知性的で、いまでも、特に人類のエーテル体に関心を寄せ、機会があれば、影響を及ぼそうとしているという。なぜならば、月に住む環境、つまり地球を自らの都合のよいように変化させたいからであるという。 地球人が、物質的に地球を快適にしたいのと同等に、月に住む存在も、精神的に地球を変えたいのである。それは地球人のなかにも、従来の地球の環境を守ろうとする人々もいるように、月に住む人も、自分たちのために、地球を変えようとはしない、人類思いの存在もいるという。つまり、宇宙には善人もいれば、悪人もいるというわけである。 次に問題は、このような悪の存在がどうして存在するのかというところにいくだろう。善人つまり、全能なる神々の存在になるには、その能力に応じてあらかじめ果たすべき役割が既に決まっているという。進化度合いに合わせて、果たすべき課題が、王道として決定されているようである。これは地球上の学校のカリュキラムが編成されているのと同様である。例えば、技術者になるためには、学科1年次に、どの教科を履修しなければならない等といったことであるという。 このような王道、つまり神々の正統な進化基準とは別に、この進化基準から逸れた、これとは別の他の進化を担う、いわば自由な存在が必要であるという。 このような自由な存在のお陰で、人類は、神々とは別の進化を目指すことも可能なのであるという。これらの存在は、地球上での、技術を、時間を超えて伝授する存在だという。正統な進化基準に従わないからこそ、人類が自らの忍耐と努力で、自主的に、未来に獲得する予定になっている技術(能力)を、現代に先見的にもたらすことができるという。科学技術の多くは、このような存在から、いわば早熟のものとして受け継がれてきたという。 悪とは、時と場所を間違えた善なのである。 月の存在の善であるものは、蔭で、援助することはあれ、人類の自主的な忍耐力とその努力を信じて任せる立場をとり、自ら月の立場を進化させることに専念するが、悪であるものは、他に介入し、自らの野望を遂げようとする傾向にあり、かえってそのことが要因となり、自滅することになるという。 月の存在が、地球に介入することになり、その介入が仇となって、もはや今度は月にその進化形態を担うことができずに、月でのその悪となった存在は脱落するのである。そして、その未来にもたらすべき善が、早産という形となることにより悪となり、もはや善の存在でいられなくなり、自滅してしまうのである。 しかし、このような悪の淘汰により、善の正統な存在が与えられる慈悲を重んじなければならない。 実は、善人になるには、自らが、自主的に決断する必要があり、自らの能力に応じ、独立して、その立場を獲得しなければならないという。これには多大なる忍耐と努力を必要とする。善人になるには、道は1つで、ただ宇宙から与えられた役割を自己犠牲の下に、果敢な自由意志をもってやり遂げていくしかないのである。それには非常に長い困難で険しい道のりを有するという。
2007年02月20日
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そのとき、元素の世界を覗き、周囲の至るところに土、水、空気、及び火を知覚していたことだろう。土とその粗雑な物質、水とその液体要素の間に、更なる区別をつけ、分類しようなどとは少しも思わなかっただろう。 現代人は物理的な感覚を持った存在として元素の世界に通じている。けれども、ここで既に記述されたことを意識する瞬間、また、人間の中では、頭蓋の空間へと駆け戻る感覚神経が更に差別化され、特殊化されると同時に、その感覚神経領域において、脳という感覚神経統合器官の原型の兆候が形成されることに気づくという。 その結果、我々は、それ以上深く自分自身の中に入らなくなる。つまり、我々は外に向かうようになり、誕生から死までの間に経験するものを、土、火、空気、及び水という四つの元素の性質に付け加えるという。 大脳は頭蓋空間へと駆け戻る感覚神経索の段階的な変容に基づいて発達するという。人間の中で自分自身へと押し戻される、この大脳は、誕生から死までの生活においてだけ意味があるもので、精神的な世界に関する理解にとって、この大脳からなる知性は、ほとんど重要ではないという。 我々の世界と境を接する最初の精神的な領域に参入しようとするときでさえ、知性は沈黙させられなければならないという。大脳は、より高次の(精神的な)知覚を妨害する器官であるという。しかし、知性が沈黙させられても、我々人間は感覚的な経験からは逃れられないという。 そのためには、感覚を精神化し、イマジネーションを達成しなければならないという。通常の過程では、感覚に導き出された外界のイメージは、感覚により受け取られ、知性がそれらを抽象的で死んだ思考へと変化させるという。 もし、我々人間が知性を沈黙させ、それでも感覚を通して世界を経験することができれば、あらゆるものをイマジネーションの形で受け取ることになるという。そのことを意識し、通常の生活における意識を、より高次で、より精神化された状態へと発達させることによって、ついには人生に対する、より深い洞察が得られるのということに気づくようになるという。 目や耳のように、我々の体の周囲に配置された器官は、元素の世界と絶えず連絡を取り、死後数年を経た死者を知覚しているという。この世界についての知覚が失われるのは、知性が介入するからだという。人間の周囲に配置された器官は精神的な世界、死者の世界を仲介するが、この世界、土、水、火及び空気の4大元素の世界は、知性的な意識によって消し去られるという。 人間は、明白に規定された輪郭を持つ物理的な世界、誕生から死までの間に滞在する世界だけを見る。これとは非常に異なって秩序づけられた第二の世界が本当に存在するということは疑いのないことだが、このような世界は知性によって消し去られ、人間が眺めるのはただ日常意識にとって見慣れた世界だけであるという。 現代人が以前に述べたような瞑想を行う必要があるのはそのためだという。過去には、そのような瞑想の後、金属実質の摂取が行われたという。このことに関しては、以前にまとめた。より高次の意識レベルに至ることが可能かどうかは、第一に、知性を消し去ること、そして感覚器官により仲介される知覚を精神化することにかかっているという。 動物の場合、大脳が発達していないために、これらの知覚に与ることができるが、自我意識をもっていないため、その知覚は精神的(理性的)ではなく、原始的な魂の力にのみ浸透されているという。動物は人間のように感覚が精神に照らされたときに、知覚するものを、周囲の世界に知覚しないという。動物の知覚は人間の知覚と同じ種類なのだが、劣ったものであり、個的なものになっていないという。 金属に関して、いわゆる鉱物世界の現実の実質に関して、これから記述することは、必要な留保をもって受け取る必要のあることだという。以前、金属の性質を通して、魂を内的に活性化させることについて、つまり言い換えれば、金属との内的な交流を、道徳的な意味で発達させることが、今日の人間の精神的な発達における枢要な部分をなすことに関して記述したとき、注意を促した。 効能(希釈)化された金属の人体組織に対する処方は臨床医の役目である。なので、既に議論した以外の金属の知られざる要素に関して、記述しようとしていることを、必要な留保をもって受け取って欲しいという。特に水銀の秘儀は精神的な面から世界にアプローチする人たちにとって、すなわち物理的な実質の中に精神の働きを知覚することが可能な人たちにとって、特別な重要性を有しているという。 ただし、金属の水銀は、精神(秘教)的学問が、水銀という一般的な言葉で呼ぶもののほんの一部に過ぎない。水銀とは液体金属の性格をもつ全般を含んだものであるという。今日知っているような自然界には、秘教が呼ぶような性格に与る金属、水銀と見なされる金属はたった一つ、つまり水銀しかないが、本来、これは水銀という種を構成する一つに過ぎない。 秘教学においては、水銀とは水銀(液体)的な性質をもつ全般を包含しているという。水銀は、単に水銀の典型例と見なされるに過ぎない。 この水銀には奥深い秘密があり、水銀の人間に対する影響とは、人間が物理世界の全ての印象から、そして元素の世界からも、引き離されるというものだという。 秘儀参入者は、人間の脳のような器官が、物理的な世界から作り上げられたのを知っているという。また人間は、この物理的感覚の世界から、他の多くの器官を作り上げたが、特に、物理的な生活には不可欠の一連の腺組織全体を作り上げたという。 更に言えば、第二の意識レベルに関係する世界として記述された世界からも、多くの器官が作り上げられたという。銅と鉄は人間をこの第二の意識レベルに引き上げるという。水銀の影響は異なり、それは宇宙の中に必須のものだという。そして、水銀(液体金属)は、実際、微細な拡散状態で普遍的に存在しているという。我々はいわば水銀(液体金属)の大気に取り囲まれているという。 人間が通常以上の量の水銀を吸収する瞬間、人間の有機体は、物理世界と元素の世界から作り上げられた全ての器官を中和しようとし始めるという。そのとき、人間のアストラル体がいわば刺激され、星の世界から作り上げられた器官にだけ頼るようになるという。 なので、水銀の金属性に、つまりその金属的かつ液体的な性質、水銀に特徴的な要素、基本的に手で感じられないほど微細でありながら、それでも人間に関係する要素に意識を集中するやいなや、人間は「第三の人間」に浸透されるようになるという。 人間は銅との関係を通して内的な緊張を創り出すと同時に、肉体を捨て去り、死後間もない死者たちを数年にわたって追っていくことができるような第二の人間に内的に浸透されるようになることは、既に述べた。 水銀はもっと遥かに綿密に織られた魂的な組織に貢献するあらゆるものを引き寄せるという。水銀の影響を通して、人間の器官における新陳代謝の全体が把握されるかのようになるという。人間は、水銀の力強い金属的な影響を経験するとき、様々な管組織を通して流れる液体循環の様相に、突然注意を向けさせられることになり、この影響は決して気持ちがよいものではなく、不快になるという。 というのも、人間は、心と感覚を失ったかのように、内的な発酵状態、乱れと流れ、脈打つ生命と動きの中にあるかのように感じるという。そして、彼はこの内的な活動が外の活動と一つになっているのを感じるという。 既に記述したように、水銀を用いることなく、この状態は内的な生活の意識的な訓練によって生じるという。水銀の活動的な影響を通して、人間は脳の存在を感じることをやめるという。脳は空虚な空間になるが、かえって知性を失い、それが精神的な世界の知覚にとって有益なことになるという。 何故なら、脳は、精神的な目的にとって全く役に立たないものであるからだという。彼が実際に感じるのは彼の有機体全体に浸透する(流体的な)動きと活動であるという。とはいえ、この発酵は最初、内的な消耗に苦しむのと同様に非常に苦痛に満ちたものであるという。
2007年02月19日
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この第二の世界はいつの時代にも元素の世界と呼ばれてきたという。酸素、水素、窒素等々の言葉は、この第二の世界では意味がないという。これらの言葉は誕生と死の間の世界にだけ適用可能であるという。第二の世界においては、土、水、空気、火、光等々の元素について語ることだけが意味を持つという。というのも、水素、酸素等の特質は感覚には全く無関係だからだという。 化学者がスミレやアギ(セリの一種)の香りに関して見出すこと、つまり、一方はよい香りで、他方は極めて不快であるようなこと、そして、その化学的な組成に従って名づけられるあらゆるもの、それらの何一つとして意味がないという。 第二の世界においては、香りや臭いとして現象化する全てのものは精神化されているという。第二の世界の立場から記述するならば、これらは空気なのですが、希薄化された空気、精神によって完全に浸透された空気であるという。我々の感覚は元素の世界に根ざしているので、そこでは、まだ、土、水、火、そして空気の元素をイメージとして語ることに意味があるという。 このような認識を得ると、これまで誤解していたものを正しい理解へと発展させることができる。自分を論理的、客観的であるとして、以前の時代の素朴な観点は捨て去ったと主張する現代の哲学者は、このことにどのように反応するかといえば、おそらく、彼は、このような昔の概念は原始的であり、当時、人々は粗雑な元素である土、水、火、及び空気についてのみ語ったが、今日ではそれら四つや五つの元素だけではなく、70から80の元素、いまでは103もの元素が知られている、と主張するだろう。 さて、もし、古代ギリシア時代の典型的な観点をもつ人が、今日の時代に生まれ、自分の立場について尋ねられたなら、次のように答えたという。「現代人の方は、現代人の方法で酸素や水素のような元素について現代人の観点から語っていますが、同様のものを、我々が四つの元素を用いて理解していたことを忘れています。現代人は、我々の観点によるその構成法に気づいていません。現代人は、この構成法についてもはや何も知らないのです。現代人のいう103の元素の全てが存在していたとしても、人間の感覚器官は決して生まれてこなかったでしょう。何故なら、それは四つの元素から生まれてくるものだからです。人間について、つまり感覚器官を備えた人間の体がどのように組み立てられているかについて、もっとよく知っているのは私たちです、」と。 ブルネット・ラティーニのように秘儀参入に向けて第一歩を踏み出した古い時代の人間が受け取った印象に関して推し量ることができるのは、これらの印象が、魂や精神の生活にとって、どのような意義を有していたかを、つまり、これらの印象によって、魂が受ける活発な刺激と、予期しない衝撃的な影響を心に留めるときだけだという。 もし、これまで感覚印象の現実性を信じてきた人が、その現実が、人間の感覚器官を創造することさえできないということと、その現実の背後には、以前から述べてきたこと全てが存在することを発見したなら、その影響は、とにかく大変なものになるだろう。 我々がいま普通に抱いているような自然に関しての古い不毛な概念をいつまでも長引かせるならば、上述した知識や理解を発達させることはできない、ということに気づくことが重要だという。この第二の世界に参入するとき、あらゆるものが生命の身震いを始めるという。 そのとき、自分は次のように言えるという。「感覚的な経験を通して我々が知っていた山は活気のないものに見える、我々は、その山が生きた力によって浸透されていることに全く気づいていなかった、今、その山の真の姿が、我々に明かされる。そして、以前には静的で不活発のように見えた雲の中に、これまで気づかなかった生きた生命が生きているということが、今、明かになる。あらゆるものが、このように活気づけられ、この波打ち脈打つ生命の中で、根本的な現実として、真実が明らかになるのだ」、と。 この第二の世界における自然の法則は知的に構成されるのではなく、精神的な存在に関係しているという。我々に語りかける女神ナチュラが、現実の世界からの洞察を指し示し、伝えるという。こうして我々は、超感覚的な世界の存在を通して、我々人間を取り巻く現実について学ぶという。 自然法則によって決定される純粋に抽象的な世界から、生命ある現実的な存在の世界へと上昇させられるという。そこでは、もはや実験や分析によって自然法則に至るのではなく、異なる世界の存在たち、知識や理解を仲介する存在たち(何故なら、彼らは、我々が人間として、まだ学ぶべきことを知っているからだという)、そのような存在たちがいると感じられるという。 このようにして、正しい仕方で精神的な世界に、我々は参入できるという。もし、感覚器官だけを、つまり目とその視覚神経、鼻とその嗅覚神経、そして耳とその聴覚神経だけを授けられ、そして、これらの神経が全て、神経のその出発点において結びつけられていたとすれば、酸素、水素、窒素やその他の元素、そして生まれてから死ぬまでに知覚する全てを意識することはなかった、ということに気づくという。
2007年02月15日
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いかに人間が日常生活の意識とは異なる意識状態を発達させることができるか、そして、その知識と活動の分野において、人間は今日の我々現代人のような意識を有していなかったということに関して、進化の歴史がいかに豊富な証拠を提供するかということを示そうとまとめてきた。 そして、10世紀、11世紀、そして12世紀に生きた学者たちの意識と、当時、例えばシャルトルの学院において知識が涵養された方法との間の関係に注意を促すことを、次にまとめた。これらとの関係で、いかに現在の意識レベルとは全く関連しない知覚形態が生じてきたかということも指摘した。ダンテの教師、ブルネット・ラティーニの場合がこれにあたるという。 前回はもっと以前の時代、例えばエフェソスの秘儀の時代における人間の宇宙に対する関係を呼び起こすことを試みた。それによって、当時、今日の通常の科学的な意識状態にある程度関連しているとはいえ、いかに全体として異なった意識状態が卓越的であったかを知った。 さて、少し脇道にそれた後、探求を続ける。既に金属性が、つまり鉱物元素の基本的な物質性がいかに人間の意識状態に関連しているかということを示してきた。すなわち、金属銅に対する人間の関係を示した後、いわば死後間もない死者の経験に参加することを可能にする意識状態について記述した。 ブルネット・ラティーニが発熱の後、半ば病の状態の中で経験したのは、このような知覚形態であったということに気づく必要がある。 彼が記述する全て、女神ナチュラの霊感力を通して、彼にやってきたもの全ては、死後間もない死者の経験に与ることができる意識状態(日常意識にも密接に関連している)の中で、本当に実感できるものであるという。実際、日常意識より現実性の大きい状態であったとも言った。より力強く、より光り輝く世界、つまり、現象世界に比べて、あらゆるものに更なる完成をもたらす世界にも、我々は住んでいるという。 この意識によってのみ、死の門を通って間もない魂の経験に与る可能性をもっているという。 同時に、この物質世界のある奇妙な特徴が明らかになるという。今述べた意識状態をもって、死者の世界に滞在するとき、日常生活における通常の経験を観察することはもはや不可能になるという。この世に生まれる直前の生活、生まれる前、まだ精神的な世界にいた頃の経験のみを見るという。なので、この意識状態の中では、通常住んでいる世界から引き離されることに気づく必要がある。 このことが、一体どういうことなのかを示すと、ある人がある時点で生まれ、もし、彼が40才のとき、銅の意識状態を達成したとすれば、彼の知覚は、もはや現在(40歳)の経験にも、彼が30歳、或いは35歳の時の知覚にも関連せず、ただ生まれる直前の経験を振り返ることのみが可能だという。彼は、他の人についても、生前の経験を振り返ることができるが、日常的な存在の世界を理解することはできないという。日常的な世界を意識できるのは人間の存在にあるときだけだという。 動物は、通常の見慣れた物理的な姿では現れず。動物の直上の世界を覗き、集合魂と呼ばれるものを知覚するという。いわば動物の種のオーラを見るという。そして、現在の唯物的な時代においては完全に無視されているとはいえ、人類にとって最高に重要なものを、その世界に見出すようになるという。 そして、もし、ベルナルドゥス・シルベストリ、アラヌス・アプ・インスリスやその他のシャルトルの学院の教師たちによって、いきいきと描写された存在、すなわち女神ナチュラとして絶えず存在する存在に触れるとすれば、たとえ最高の学院であらゆる学問に関しての全ての現代的な知識を学んでいたとしても、自分が計り知れないほど無知であると感じられるという。 現在の知識は誕生から死までの世界にのみ適合するもので、死者を死の門の向こう側まで追って行ける意識をもって精神的な世界に参入するとき、この現代の知識は、もはや役に立たないものと感じられるという。 化学を探求するとき、その知識の総計は、この世、いわば誕生と死の間の世界にとってだけ有効であるという。いわゆる化学は、死者と共有する世界においては重要ではないという。現象世界において獲得する全ての知識は、死と新しい誕生の間の中間的な状態においては価値がなく、単に記憶として残るだけであるという。 秘儀参入し、中間的な領域に至ると、それに関する直接的な意識をもち、あれほど多くのことを学んだ日常的な世界は、この意識から霞んでしまったと感じるという。この別の世界が今や、眼前に広がるという。 眼前にボンヤリと山が現れてくると想像する。その山はしっかりとした印象を与え、遠くから見ると、太陽の光を反射して、その輪郭と岩の様子が分かる。少しずつ近づき、そこに足を踏み入れると、その堅さを感じることができ、そのとき、我々はしっかりとした地面の上に立ち、その現実性には何の疑いもなく、その山の存在を感じることができる。 さて、中間的な世界においては、しっかりとして、輝いているものとして記述された全てのものはいかなる意義も持たなくなるという。つまり、何かが山から流れ出し、どこまでも大きくなり、そして別の種類の現実性を印象づけるようになるという。 通常の状態の生活において、山の上に雲が懸かっているのを見る。その雲は水蒸気の凝縮によってもたらされたということに何の疑いも抱かない。このような現象もまた、その中間的な世界では、現実性を失うという。何か別のものが雲から現れ、それは山と雲が徐々に視界から消えるのに従って現れ、この組み合わせの中から、単に漠とした存在のみならず、同時に形態を与えられた新しい現実が生まれるという。そして、それは中間的な世界における全てのものに当てはまるという。 多くの聴衆の前に立つことを想像する。精神的な世界に入る瞬間、その全てのはっきりと規定された輪郭はかき消され、そのかわり、超感覚的なイメージの形で投影された聴衆の魂と精神を知覚するという。そして、周囲の神秘的で精神的なオーラに次第に、包み込まれ、新しい世界、死者が死後に居住する世界が生じるという。 今、別の何かに気づく。つまり、もし、いま参入した、この中間的な世界が存在せずに、至る所にその存在を見出すことができなかったなら、我々は、目や耳、つまり感覚器官をもつことはなかったという。化学者や物理学者たちが記述する世界は、人間に感覚器官を提供することはできないという。なので、人間は見ることも聞くこともできなかったといえるという。中間的な世界がなければ、感覚器官が組み込まれることは不可能だったという。 そして、ブルネット・ラティーニがスペインから生まれ故郷のフィレンツェ近郊に戻り、この中間的な世界への扉が開いたところの、あの若干の発熱に苦しんだとき、彼が発見した驚くべきこととは、このことだったという。彼は、感覚器官が、この別世界の賜物であること、つまり、もし、この中間的な世界が感覚によって経験される世界に浸透していなかったとすれば、人間の感覚は全く発達していなかったということに気づいたという。人間としての地位は、感覚器官を、この第二の世界、この中間的な世界との結びつきに負っているという事実によって決定されるという。
2007年02月14日
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昨今、巷では、教育改革が問われ、いじめ問題がクローズアップされている。しかし、このような教育問題、教育という精神の問題を、法律で解決しようというのが土台無理な話であると、神秘学は説いている。 つまり、教育は、根本的に精神の自由を命題としており、法律は、根本的に人間の尊厳と平等を命題としているので、自由と平等の質的な相違を、現実的な問いに帰さねばならないからである。自由と平等は、人間の精神的究極の尊厳が、成立した時点で、真実であるけれど、こと現実社会においては、矛盾し、相容れないものとなっているからである。 それは現実社会においては、会社のような利害関係の上に成立する利益社会が、経済的効率の上に現実化しているからである。 これは精神の上では、共同社会、運命共同体として成立してはいても、現実的な物質世界においては、当面、利益社会を形成させていかなくてはならない宿命にあるといえる。 なので、いかなる教育問題も、法の下の平等に解決されることはほとんど不可能であるといわざるをえないのである。それがいかに民主的な手続きでなされたとしても、根本的に法とは性質が異なる生命を扱う倫理の問題、例えば、多数決で決定された処方に従って、医師に手術をやらせても、医師自らが、よいと決断し、自ら手術を行うよりも、よくない結果を生じるものと同じで、いくら民主的な法が決定されていても、その教育の結果がよくないものになるだろう。 第一、そのような民主的決定を行う人達の多くが、実際の教育の現場にいないということが根本的、致命的に解決能力を欠落させているからである。 というわけで、教育問題は、人間社会を利益社会から切り離し、根本の精神の共同社会、運命共同体に帰することにある。そして、教育問題は、教育のなか、特に子供に対する親と教師の信頼関係に帰す必要があるだろう。 では、神秘学では、このような信頼関係、特にいじめの問題の要点をどこに置くかを解説する。 神秘学では、子供の行為は、大人の模倣であると説く。なので、子供の前では、大人は一切、暴力を振るう事、暴力で物事を解決しようとする姿勢を破棄することを、精神的に誓わなければいけないと説く。これはいわば日本国憲法の第9条と同じ精神である。 いかなる国家紛争も武力足る解決に及ばないとする理想の人間存在、共同国家への宣言なのである。 この決意を守れるか守れないかは、理性による力の制御、文民による武力統御、いわゆる国民、人間の忍耐力の問題へと帰されるだろう。このような観点からいえば、実は、日本国憲法第9条は、法ではないのである。国家の理想的精神の宣誓文といえるだろう。 武力を放棄し、人間の理想を信じ、ただただその良心に訴えるものといえる。 私は、この憲法を受け入れた日本民族こそ、最も賢明で善良な人間の精神の発露だったのだろうと思う。武力で解決する姿勢を子孫にみせない。実はここにこそ、平和への根本的な解決法が隠されている。 一方の頬を打たれたなら、もう一方の頬を差し出しなさい。 さて、いじめ問題に再びかえると、親や教育者は、子供には、否定的な表現をいわないということが大前提になるという。あと、「早く」といってせかしたり、子供の欠点を見つけ出して、巧みに親や教育者の意見を押し付けることは最もよくないという。 子供の存在そのものを認めて、親や教育者が冷静に、とくに心を落ち着かせることが最も肝要であるという。解決能力をいたいけな子供に求めるのではなく、自らに課すのである。 親や大人の論理を押し付けるのではなく、常に孤独な子供側の立場への配慮や理解が求められるという。 このような悪への連帯責任への献身がないと、いじめのような問題は解決しないという。 なにより、いじめの解決は、「人のためにつくす」ことと、自分ではなく、他人が喜ぶことがどれくらい自分にとっても喜びとなり励みになるのかを学ぶ課題でもあるからだという。 周りの者も幸せでなければ、自分も幸せになれないという真実を知るために、いじめはあり、いじめが存在するのは、これとは逆の、自分だけがよければ周りはどうでもいいという反対の面が社会に存在するからである。 では、実践的にいかにすればよいかというと、神秘学は以下に説く。 いじめが生じた場合、誰彼に責任を問うのではなく、まず、いじめが起こった場合、運命共同体であるなら、いじめた子の親が、「自分の責任だ」と感じるのが自然であるという。だから、いじめた子の親が、そのことを自然に思えないならば、その社会は、少なくとも運命共同体ではなく、利害社会に近いといえるだろう。 いじめた子の親にその責任能力がない場合は、誰かが、その責任を負う必要があるだろう。教師はこの場合、最も勇気の試される最前線にいるといえるだろう。教師が教師足るべき資質を備えているかどうかがこの解決法に問われるのである。しかし、その責任とは、意外だと思うだろうが、いじめた子供の側に立つことが最も勇気のいることだといえるという。 つまりは、いじめた子供を突き放すのではなく、いじめた子供のいじめた心を自らの心で償うのである。いじめた子供のいじめという暴力でしか自己を表現できない孤独を理解してやる勇気をもたなければならないという。まずは、いじめた子の心の苦痛、苦悩を理解してあげることが必要だという。 そして、その子供と仲良しになって、約束をし、約束を守ることの喜びを教えるのだという。そして、その子と個人的に関わっていき、他の子供をいじめなくなるようになるまで、面倒をみることがいじめ問題の責任の第一であるという。 それから、第2に、いじめられる子が、どうしていじめられるかの原因を見つけ出して、それを皆にわからない方法で、解消するように配慮することだという。 このような筋道を、教育者、教師が辿らない限り、いじめ問題は解決できないという。 そして、最後は、どちら側の親も、いじめを通して、担任の教師と親しくなり、信頼関係が成立するように、一つ一つ地道にやっていくしかないという。このような問題解決能力のある教師が、地域社会を、利害社会から、将来の共同社会への実現の糧とするからである。このような教育者こそが、実は、明日の民族を守る砦となり、理想社会の建設者となるのである。 つまり、あらゆる教育問題の中で最も緊急な問題は、教育者の養成の問題だという。 教育者養成の問題があらゆる社会問題の核心を成し、これはいかに、立派な憲法があろうとも、その理念を国民に教育すべき政治家が堕落していれば、猫に小判の如し現状なのである。 ましてや、武力を放棄した理念を破棄し、かつての武力に屈し、戦後の日本民族の最も重大な決意表明ともとれる、キリストの受難ともいえる第9条を、改正するとは、いかに現代の政治家が無能で、軟弱なのかを表明しているようなものであろう。 もう一度、戦場にいって血を流さないとわからない馬鹿なお頭の連中なのか、或いは、他者が行くから、自分は行かなくてすむとタカをくくっている阿呆な殿様なのだろう。戦場にいって1人殺しただけで、その子孫が、将来、鼠算の如く根絶やしにされ、その災いは降りかかってくることをご存知ないのだろう。殺すより殺された方がマシなのである。 この人達は、死が何たるものかを知らず、ただ死に怯え、恐怖しているだけなのである。ただ自分が死ぬのが怖いので、代わりに誰かに死んで貰っているにすぎない心の持ち主なのである。権力の頂点に立っても、その重大さに気づかない利害社会人間の長なのである。 神秘学によると、戦中の日本には、かつてのローマの侵略に耐え、キリスト教を受け入れた人々の転生がみられたという。だからして、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、新地天命に誓ったのである。
2007年02月13日
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いま、日本の社会が乱れに乱れている背景には、馬鹿総理だけでなく、馬鹿社長が溢れているせいであるという。 自分の生命をも犠牲にして、サービス残業をしているサラリーマン社員の御蔭で、馬鹿社長は、馬鹿社長ヅラをさせて貰っていることを知らずに、社員を奴隷か、機械のように扱いながら、偉そうな態度を気取っているという。 これは、真の学問や道徳教育を受けていない、まるで人間の品性に欠ける態度といえるだろう。 そのような最たる例がホワイトカラーエグザンプションのようなものであろう。大体、ホワイトカラーという命名が、いかにも差別的であろう。よくもまぁ、あからさまに、ホワイトと名づけたものである(恐らくアフリカでは有り得ない命名法だろう)。平等というのなら、まず始めにブルーカラーの残業代をその分上乗せでもしたらよいだろう。 これは、自分が楽をさせていただいている背景には、誰かが苦労を背負っているということを知らないか、或いは、知っていて、自分のなかの差別意識に気がつかず、差別意識を平然と無意識下において、考慮、思慮にいれない非人間的人格といえるだろう。 神秘学では、14歳頃の小学校の中学年(3,4年生)には、差別意識を常に意識下において、自ら克服していくような、真の道徳教育を説いている。 真の道徳の基本は、「社会生活の中には、何らかの意味で得をしているものと、損をしているものがある。得をしているのは、いわば社会の中で優位を占めており、損をしているのは、社会で下積みの生活を強いられている。しかし、もし、下積みの生活を強いられている人々がいなければ、得をしている人というのは存在し得ない」ということを感覚的に納得することであるという。 これは鉱物がなければ、植物は成長できず、動物は鉱物や植物があって、初めて動物であることができ、動物は、植物や鉱物の犠牲の上で、動物として生活を成り立たせているのであり、人間は、鉱物、植物、動物の御蔭で人間らしい生活をさせていただいているのである。その日々の恩は感謝しても感謝しきれないものだろう。 このような道徳の基本から、社会は形成されるのである。 子供は、親の犠牲の上に、学校に通うことができる。発展途上国では、子供は、労働に駆り出される現実にある。是とは反対に、先進国では贅沢な私立学校に通いながら、親の恩も感じることなく、遊び呆ける子供もいる。 賢明な子供なら、自分は親よりも頭が良く、親よりも沢山の知識があるように思っているかもしれないが、それは親の犠牲により、そうなったのだから、親に対してどんなに感謝しても感謝しきれないという恩義を、自然に感じるだろう。 このような人間関係における基本的な感覚とは、それはどんな社会においても、自分が先に進むことができるのは、実は自分が先に進んでいるからではなく、先に進むことを可能にしてくれた他の存在たちの御蔭で先に進んでいる、という感覚のことであるという。 何事も1人で成立するものはないのである。 今自分がこういう風にしていられるのは、自分の力でそうなったのではなく、周りの環境の御蔭でそうなったのだ、ということをはっきりと自覚するために、学問を習得するという。 何も「道徳教育」の教訓を垂れることではなく、それは単なる無駄な説教でしかなく、いわゆる識者の自己欺瞞や自己満足でしかない。これでは子供は迷惑であるばかりでなく、学問が、嫌いになってしまうだろう。 真の道徳教育をしようとするのなら、大人の1人ひとりが「差別」ということを、心の中で真剣に考えていかなければならないという。差別というのは、我々人間の心の中のどこかに巣喰っている「悪」の一番の大本なので、差別を常に意識化しておく必要があるという。 いちばんいけないのは、無意識に差別の考え方を持っていることにあるという。 自分の心のどの部分に差別の考え方、感じ方があるのか、どうして自分がそういうものを持ってしまったのか、そういうものを克服するにはどうしたらいいか、ということをいつも考えていかないと、決して子供に道徳感覚を伝えることはできないという。 このようなことを真剣に考えないと、日本の将来は真っ暗闇といえるだろう。特に昨今の政治家に、あからさまな差別発言が目立ちすぎるといえるだろう。日本は同一民族だから、差別が無いかのように錯覚しているにすぎない。 是とは逆に、特に米国は人種の坩堝なので、なんらかの差別をイメージさせるだけで、ご法度であり、反面、米国の差別を、常に意識する理性の働きを目覚めさせ、常に向上させる感覚を嗜み、身につけさせてもいるだろう。 米国という国家は、多種多様な民族の共同作業の上に、差別なき理想に目覚め、階級差別の英国より独立し、現代国家としてつくりあげたのである。差別なき理想が失われると、米国は、格差社会として顕在化し、やがてロ-マ帝国のように没落するであろう。 その反面教師として、最も差別発言の多い現大統領が、米国を最も失墜させている証でもある。現大統領と比べても、日本の政治家などは、差別発言だらけといえるだろう。 敗者のいない勝利者はない。敗者の御蔭で勝利者足りえるのである。米国の視点には、これが欠落している。米国はだから、歴史が無い若い国といわれるのである。 しかし、米国も以前とはまるで変わっている。それは以下のような、おかしな世の中というジョークに代表されるだろう。 おかしな世の中になったものだ。 世界一のラッパーが白人で、 世界一のゴルファーが黒人で、 世界一のバスケットプレイヤーが中国人で、 スイスがアメリカズカップで優勝する。 政治の世界では、日本がアメリカを助け、フランスがアメリカを傲慢だと非難し、 ドイツが戦争に反対する。 本当におかしな世の中になったものだ。 半世紀前までは想像もつかない逆転現象なのである。 人間の無知な先入観、偏見こそ、差別であろう。 負けるが勝ち!とはよく言ったものである。 無知の知こそ幸いなり。 誰の御蔭でトップに座れるのか、馬鹿な頭で、充分と考えて欲しいものだ!
2007年02月13日
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そして、これらの深遠な会話は儀式の参加者が神殿を立ち去った後も続き、自然が瞑想へと誘う黄昏時、彼らは、神殿の参道を通り、エフェソスの神殿から扇状に広がる道が、遥か遠方で徐々に暗い緑の木々の中に消えていく森へと歩いていったという。幾らか不十分だが、このときの会話がどのようなものであったかを示してみる。 当時の秘儀に部分的にでも参入した人にとって、弟子が男女どちらの性であれ、両性が会話を持つことはあり得ることで、その後、直ちに取り上げられることになるとはいえ、当時、両性の間における権利の平等は、今日よりもずっと生きた現実であったことを認める必要があるという。 なので、エフェソスでは、男性と女性の弟子について語ることができ、そして、これらの会話の中には、パーセファニーの神話における精神的な側面に関して、活き活きとした興味や関心があったという。では、このような会話はどのようにして持たれたのかというと、第一に教師、秘儀参入者である牧師がいたという。彼は形態の世界における偶然性、その世界に存在するものの間の相互作用について語る力を精神的な衝動から受け取っていたという。 彼が秘儀参入者としてもつ知識から話すときには、大凡、次のようなことを弟子に語ったという。 「今は黄昏時、精神的な世界を明らかにする眠りが、まもなく我々を捉えるだろう。お前の人間としての形態をその全体性において見なさい。我々の足下には植物が、我々の周りには黄昏時の伸びゆく影が、神殿の森にはボンヤリとした緑の光があり、空には一番星が輝き始めている。上なる天と下なる地にある生命の多様極まりない偉大さと荘厳さを見なさい。次に、お前自身を見て思い出すのだ。お前の中には全宇宙が生き、活動しているということを、全ての有機的な働きや、お前の内的な生命の変化と偶然が、一日のどの瞬間においても、豊富な事実と、お前という存在の無限の変化を目撃しているということを。お前という小宇宙は、お前が眼で見、知性で理解する大宇宙よりも、空間的に限定されているとはいえ、その神秘と不思議さにおいて、より豊かであることを知りなさい。そして、この世界をお前の中に感じ、認識することを学ぶのだ。お前は、地球から星々に続く大きな世界を、お前の小宇宙的な世界から眺めているのだということに気づきなさい。そして、眠りがお前を捉えるとき、お前はもはやお前自身の体、お前自身の世界の囚人ではなく、今お前が目の前にしているあの世界、地球や星々を包み込む世界の住人になるのだ。お前の魂と精神は肉体を去り、お前は星々の輝きと地球の放射に与ることになるだろう。お前は風に乗り、星の輝きとともに思考しているだろう。お前は今や、精神の世界に住み、お前の小宇宙的な自分を振り返っているのだ、」と。 太古の時代には、教師はその弟子に向かって、このように話すことが可能だったという。何故なら、地上の外界の知覚は今のように鋭く規定されたものでなく、眠りの生活はまだ完全な空虚ではなかったからだという。眠りの状態は、まだ経験に満ちていたという。この眠りの状態に言及して、教師が次のように言うとき、現実を語っていたという。 「お前は今、プロセルピナ、パーセフォニー、或いはコウラと共にある。コウラは星々の中に、太陽の輝きの中に、月明かりや成長する植物の中に住んでいる。あらゆる場所で、パーセフォニーの活動を見ることができる。何故なら、彼女は宇宙の衣を織った存在だからだ。そして、その全ての背後にはデミーター、彼女の母親がいる。パーセフォニーは彼女のために、お前が外界に見るこの衣を織ったのだ、」と。 教師は「自然」という言葉を使わず、パーセフォニー、或いはコウラについて好んで語ったという。 そして、教師と弟子との会話は続き、「もし、お前よりも長く起きている者がいれば、お前が眠っている間、彼は植物、山々、雲や星、つまり、パーセフォニーの外的な顕現を、丁度今のお前と同じように知覚するだろう。幻覚は我々の見方、視点にある。パーセフォニーが幻覚なのではない。山や植物、雲、そして星々における彼女の創造的な活動が幻覚なのではない。お前が、それらを見るやり方が幻覚なのだ。そして今、眠るときが来た。生命の神秘の器官であるお前の眼を通って、コウラ-パーセフォニーがお前の中に入ってくるだろう。」 これらのことは活き活きと経験されていたために、そのまま活き活きと描写されたという。そのため、睡眠中の人は、眠っている間にもその光景を感じ取れたばかりでなく、聴覚や感覚が消される中で、パーセフォニーが彼の目を通って、彼の魂と精神が退いた彼の肉体とエーテル体の中に沈み込んでくるのに気づいたという。 人間は起きている間、上方の世界に生き、眠っている間は、下方の世界に生きるという。眠っている人の目を通って、パーセフォニーが、肉体とエーテル体の中に入ってきたという。彼女は、プルート、眠りの支配者と共に肉体とエーテル体の中に滞在したという。弟子は眠っている間に、パーセフォニーとプルートの活動を経験し、彼は、師より受け取っていた教えによって、コウラが目という通路を通って入ってくるのを知覚するようになったという。このことは弟子にとって生きた現実になったという。そして、弟子は眠っている間のプルートとパーセフォニーの行いを経験し、弟子が経験している間、教師は形態の世界に関係する相応の経験を持ったという。 そして、教師と弟子が再び出会うとき、各々が自分自身の特別な洞察をもっていたという。そして、彼らが植物や木々について議論するとき、教師は、いかにして、それらの形態が生じるかを記述したという。何故なら、それらは眠りの中で教師に明らかにされていたからで、教師は葉や茎の配置について、自然界の全てに関して、上方から地上に下って働く形成力について詳細に議論したという。 そして、弟子は、恐らく異なる洞察を経験していたが、教師がクロロフィルや浸透圧の神秘について語ることを追っていくことが可能だったという。このようにして、会話はお互いを補強し合い、つまり、これらの秘密は、女神パーセフォニーの活き活きとした描写の中のものと、下方世界において、眠っている間に明かされる彼女の別の側面において、人間の魂に明らかにされたものと共に、秘教の中に入っていったという。 このようにして、遥かな太古の時代には、弟子は教師から、教師は弟子から学んだという。その教えは、一方では、精神から魂に関して、他方では、魂から精神に関してのものだったという。この共通のものとなった経験を相互に交換することにより、彼らは知識の最も高度な飛躍に触れたという。彼らがこの最も深い洞察を分かち合い、そして、その荘厳な並木道が遠方で徐々に視界から消え去る暗い緑の森の上に、東の空に輝く夜明けの星が光の矢を投げかけるとき、彼らの心は喜びに満たされたという。 彼らは、現代人が自然の領域と呼ぶ領域に、短い時間とはいえ、滞在していたという。そして、彼らは、これらの自然の事柄に関して話し合ったときには、確かに、パーセフォニーと会話していたということを知っていたという。そして、彼らはまた、後にパーセフォニーの神話に組み入れられた全てのものが、実際に、人間の自然に関する知識のなかの隠された源泉であることを知っていたという。 これらパーセフォニーに関する活き活きとした実在の知識に染まっていた、エフェソスの秘儀に関連した会話が、いかに当時の人間の心を強く捕らえるものであったかは、不完全にしか示すことができないという。けれども、時が経つに従い、この知識は今日、我々が、自然として知っているような抽象物へとトーンダウンしていき、フィオーレのヨアキムのような人物は、このような悲劇的な喪失を嘆いたという。 人間や宇宙の精神的(秘教的)な本性に関する理解を導くには、人間の手が届く範囲にある、別々の意識状態に注意を払い、それを特徴づけるだけでなく、これらの意識状態が人間進化の過程でいかに変化してきたかを示し、エフェソスの神殿における秘儀参入者たちの会話に情報を与えていた知識が、いかに我々現代人の知識とは異なったものであったか、そして、フィオーレのヨアキムやアラヌス・アプ・インスリスのような聖人たちと交わされた会話が、いかに異なった性質のものであったか、また、我々が精神的な訓練を通して、今日再び達成しようと、苦闘する太古の知識、それは外的なものから内的なものへと、上方から下方へと、そしてまた、内的なものから外的なものへと、下方から上方へと導く知識の形態が、いかに異なったものであったかを知るときのみ可能であるという。
2007年02月13日
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その活力あるものとして創造的な時代の精神を容易に想像することができるのは、ダンテの「コメディア」における特徴によってで、その素晴らしく絵画的な記述は、カルマ的な出来事のお蔭で秘儀参入していた彼の師、ブルネット・ラティーニによる図式的な記述からインスピレーション(霊感力)を受けたことによるという。そして、シャルトルの学院やその他の学院は、当時授けられていた教育の多くを、フィオーレのヨアキムやその他の秘儀参入者たちに負っていたという。 「ナチュラ」という言葉は抽象的な意味で使われていたのではないという。それは外的に感覚知覚可能な現象の中において、創造的に働いていたにも関わらず、ヴェールがかけられ、人の目に触れないままに留まっていたものを示していたという。 つまり、物質的なものの背後にある霊的なもののことであろう。 或いはまた別の要素も考慮する必要があり、ここでもまた、詩的な想像ではなく、基本的な現実を記述するなら、もし、あなたが古参の学生としてアラヌス・アプ・インスリスの講義に出席し、議論に参加していたと仮定すると、学生たちが去った後、色々な問題について、あなたは議論しながらアラヌス・アプ・インスリスと二人だけで歩いている。 その会話がある特別な点、つまり、現象世界の中に自らを現すとはいえ、隠されている女神「ナチュラ」に関する話題に及んだとするなら、そのとき、議論に熱中していたアラヌス・アプ・インスリスは次のように語るという。 「もし、我々が、眠りの生活において、かつて太古人たちが有していた状態に今でも与っていたとすれば、自然の隠された側面と我々との交流は保持されていたであろう。我々の眠りは、忘却へと導くが、古代人たちは正に無意識において、自然の隠された側面と接触していたのだ。もし、我々が、古代人たちの超感覚的な眠りを再び経験することができるならば、我々は女神「ナチュラ」を知ることになるだろう」、と。 そして、もし、同じような状況下で、フィオーレのヨアキムと親しく話をしていたとすれば、彼は次のように答えたという。「我々の眠りは内容を欠いている。意識が消されているのだ。従って、全ての被造物の中に、織りなし、働く女神「ナチュラ」を知るのは困難である。古代人たちは彼女の隠された側面と、見える側面に気づいていた。彼らは「ナチュラ」という言葉を決して使わなかった。彼らは、我々がボンヤリと感じることができるが、その存在を知ることのない存在が女神「ナチュラ」であるとは主張しなかった。彼らは彼女を別の名前(プロセルピナ、或いはパーセファニー)で呼んだのだ」、と。 このことは当時よく知られていたことだったという。今書いたことは、現代に至り、抽象的な自然の概念に変化した。ベルナルドゥス・シルベストリやアラヌス・アプ・インスリス、ハンビルのジョン、そして、とりわけ、ブルネット・ラティーニのような人たちの魂の中に生きていたものは、古代人たちがプロセルピナ、すなわちデミーター(全宇宙)の娘として見ていた女神が変化したものだったという。 プロセルピナ(現代的な用語では在り来りのものに聞こえるが)とは自然であり、その半分の生だけが上方の世界にあって、人間にその物理的、感覚的な面だけを現しながら、その生の別の半分は、人間が眠りの中で滞在するとはいえ、その眠りが真の現実を欠いているために、今日では、もはや活動することのない領域の中で過ごされる自然のことにあたるという。 私たちの自然に関する知識は、パーセファニーについての古いギリシャ神話の中に生きていたものの残響であるが、現在の概念は抽象的なものであり、我々がそのことに気づくことはないという。 悲しみに満ちた表情をした人たちが、このようなことを知っていたという事実、当時はまだそれを知ることができたという事実は、認識の道が時間の経過と共にいかに変化してきたかを示すものだという。以前に書いたが、このような事柄の微妙な違いに対する正しい感情と感覚を発達させることができるのは、かつて存在していた知識の本性を、時代を遡りながら振り返るときだけであるという。これらの例に言及したのは、古代の知の形態を蘇らせるためではなく、かつての時代に卓越的であった、そのような種類の知識に対する注意を喚起するためにある。 もし、フィオーレのヨアキムやハンビルのジョンらによって語られるような、「我々が今日、自然と考えているもの、或いは、我々が、自然を精神的に理解できないが故に、我々の目から隠されているもの、それはかつてプロセルピナとして知られていた。」という言葉をしっかりと把握するならば、そして、もし、このプロセルピナの神話(何故なら、それは唯一神話として生き残っている)を、新たなものにするならば、この神話によって引き起こされるイメージは更に以前の関係についてのイメージを呼び覚ますことになるという。 自然の真の本質は、人間が女神「ナチュラ」の抽象的な側面も、悲劇的な側面も知らなかった時代、プロセルピナ-パーセファニー自身を、その輝く美と悲劇的な陰鬱において見ていた時代のイメージにあるという。 では、彼女は、遥か昔のその最盛期には、どのような側面をもって現れたのだろうか? その最盛期とは、プラトン哲学の時代でも、ソクラテスの対話の時代でもなく、もっとずっと昔、知識が、ギリシャ文化の最盛期におけるよりも、遥かに活力的な時代だったという。 既に現在の立場から議論し、更にこれから詳細に議論する予定の事柄を、正しい観点から眺めることが可能なように、人間進化の過程の中で、知識がまとってきた様々の形態に向き合ってみることにする。 これらの説明は簡潔で不完全なものにならざるを得ないが、ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスが参入した秘儀の本性で、ヘラクレイトスが呼んだ「暗く、陰鬱な」(何故なら、後になって、彼が秘儀参入によって得たもの全ての上に魂的な闇が降りてきたからだという)ものに向き合い、秘儀の発展における当時、ギリシャ人たちがイマジネーション的な視界を獲得し、彼らの神話を創造するために秘儀に頼っていた時代、そして、ヘラクレイトスがそれに参入していたところのエフェソスの秘儀を目の前に思い描いてみる。 エフェソスには太古の時代からの知識がまだ残存していたが、ホメロスの時代までで、そして、衰弱した形態においては、ヘラクレイトスが秘儀に参入した時代にまで、生き残っていたという。これらの太古の秘儀はまだ活力をもち活動していたという。 その東側が、至る所で自然豊かな恵みを象徴する女神「ディアナ」すなわち豊穣の女神の彫像によって飾られていた神殿には、窮めて力強い精神的な雰囲気が存在していたという。弟子が秘儀に参入し、エフェソスの神殿における儀式から力強い秘儀の衝動を受け取った直後に会話が持たれるとき、存在の重大な秘密、奥深い精神的な秘密が言葉によって弟子に授けられたという。
2007年02月10日
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フィオーレのヨアキム、アラヌス・アプ・インスリス、或いは、ベルナルドゥス・シルベストリの視点は、これとは全く異なったという。彼らの表情には悲劇が書き込まれ、彼らは、取り返しのつかない喪失を被った時代に生きている、と実感していたという。そして、益々、この喪失に気づくことで、彼らの心は悲劇的な悲しみで満たされたという。 そしてまた、その喪失を彼らの顔に刻んだ古代の秘儀を探求したい、という彼らの望みを、その場で目撃したときの、彼らの指(現代の退廃した世界から見れば恐らく「神経質」で敏感な指と見なされるような指)を見たならば、過去に存在した古代の叡智を生き返らせたいという憧れに気づかされるという。 彼らの弟子のために、このような古代の場面を魔法のように現出させることが可能な瞬間があったが、それは幻想のような像に過ぎなかったという。 さて、いまここに示していることは、詩的なファンタジーではなく、事実で、秘儀参入者なら、今でも素晴らしい聖堂が立つシャルトルの学院において、アラヌス・アプ・インスリスが、生徒に向かい、自然について以下のように語るのを思い描くことができるという。「自然とは、近づこうとすると離れていく存在である。人は今、別の方向にそのエネルギーを向けるが、かつての聖人たちがもっていた自然に関する先験的な理解にはもはや与れない。彼らの目には、自然とは精神を付与され、あらゆる場所で、例えば、岩が形成され、植物が地球から生え出、宝石のような星が天に輝き、働く壮大な存在だった。あらゆる場所で無限に偉大な存在が働いていた。それは自然の織物を編む女性の素晴らしい形態の中に自らを現した。古代人たちは、このことを先験的に経験した。彼らの書き記したものから、我々は今でも、至る所で、いわゆる熱、光、色、そして、生命の顕現の中で、織りなし働く自然が、彼らの眼前に、いかに現れたかを思い描くことができる。彼らは、女神「ナチュラ」が、直接的な知覚を通してのみ、その真の本質を知ることができる神的-精神的な存在であるということに気づいていたのだ。」 アラヌス・アプ・インスリスのような人物は、シャルトルの学院において、彼の弟子たちに、まだ、そのような概念を提示することができたという。とはいえ、秘儀参入者たちは、女神「ナチュラ」との結びつきを失ったことから、抽象的で生命無きものと見なす自然を、生命と活力に溢れたものとして見たために、この古い概念が徐々に薄れ、死に絶えるのを見る彼らの顔には、悲しみと悲劇が刻まれたという。 そしてまた、有名なダンテの師、ブルネット・ラティーニのような人物に関しての話を聞くと、彼は旅の途上で、ある不思議なカルマ的事件によって、意識の変化をきたすような発熱に苦しんだという。この出来事の重要なところは、彼が生まれた町から最後の教皇派が放逐されたときに被った彼の苦しみに比べて、彼の成長にとって、遥かに大きなものであったという。 この意識変化のお蔭で、女神「ナチュラ」に関しての知覚を持つことができ、彼の本「テソレットー」の中で彼女に関して記述することが可能だったという。彼は、生まれ故郷フィレンツェに向かう旅の途上で、寂しい森のまっただ中にある丘に着き、その丘の上で、いかに女神「ナチュラ」が機織りに向かって織るのを見たかをイマジネーションで、図式的な記述によって表現したという。彼女は、人間の魂にとって、思考、感情、そして意志がいかに重要であるかを、四つの気質と、五官の機能のなかの本質的な性格で、彼に明かしたという。 そして、彼の精神と魂の目が開かれたという。抑圧された病理的な状態の影響下で、スペインから彼の故郷フィレンツェに向かう旅の途上に得られたこの経験は1つの精神的な現実だったという。この内的な変容の結果として、彼は四大元素の火、地、水、そして空気の織りなす生命、惑星の流れと動き、そして、体から出て宇宙の中に現れる魂を見たという。彼はこの全てを女神「ナチュラ」自身による精神的な教えの影響下で経験したという。 これらの経験は、当時の人々によって、今日、改善されているとは言えないような明晰さと具体性をもって記述されたという。聖人たちは同時に、古代の人々がこの知識を別の方法で経験したこと、そして、時の経過と共に徐々にそれが失われたことを感じたという。これらの秘儀に関する知識を復活させるためには、病理的な状態を生じさせる必要があったという。そして、彼らは、「ナチュラ」の真のイメージを活力あるものに保ちたい、という抑えがたい衝動を感じたという。 そして、現代人の自然認識に対する態度全体を振り返ってみるとき、自然に対するアプローチが抽象的で、自然が、法則の一覧表になっていると感じるだろう。これらの法則を、ある程度、全体的に関連づけ体系化されたものとして見ることができるならば、それを誇りに思うかも知れないが、2、3世紀前を振り返ってみれば、自然現象の中で(鉱物や植物に伝わる熱や、成長し、繁殖する全生命、体の中で活発に働く熱が昇り、そして沈む太陽の中に)生き、織りなし、そして働く、神的な存在と人間との間には生きた関係があった、ということが分かるという。 女神「ナチュラ」の活動を考慮する当時の科学は、それほどに異なったものだったという。講義を終えてシャルトルの学院から出てくる学徒たち(その大半はシトー修道会員だったという)の気分は、今日、講義室から出てくる学生たちの気分とは大分違っていたという。 彼らの反応は絶対的に活力あるもので、女神「ナチュラ」の内的な存在の表現だったという。そして、有名なダンテの師、ブルネット・ラティーニのような人たちが書き記したものの中には、これと同じ生きた現実が映し出されていたという。
2007年02月09日
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大臣とは、なるのが目的ではなく、なってから、何を行うかが本来の目的だろう。安定した右肩上がりの時代なら、まだわかるが、混迷の時代に、この国は一体どうかしている。大臣になるのが精一杯だから、大臣なった途端、もはや目的を果たして、何もできずに、お馬鹿な発言を繰り返しても、いっこうに反省する気もなく、国民や国家に寄生し迷惑かけどうしの軟弱者になるのだろう。 愛国心を育てようと、国語教育が、盛んに奨励されている現在にあって、その張本人たる政治家たちが、その国語能力を疑われかねない発言をして、その感覚さえ麻痺しているのは、一体、どういう神経なのだろうか? 「産む機械、装置」、「健全」、挙句の果てには、今日また意味不明な「言葉狩り」という現代用語が飛び出した! そこで、「言葉狩り」という言葉を調べると、「差別用語の行き過ぎた自主規制に対する、表現の自由を根底にした、否定的な見解を意味する表現」のようである。 主に、マスコミ等が憲法にも保障された表現の自由を問題とする際に用いる用語であるようだ。 そこで、なぜ、憲法で表現の自由が保障されているのかを考えてみたい。表現の自由の根底には、人権保護の原則がある。人権とは、人間として生きる権利である。そこで、人間という存在が問われる。まず、人間とは、思想の自由を保障された存在といえるだろう。 思想の自由とは、他から思想を強制されえない状態を指すのだろう。 人間社会では、個人のなかでは、思想とは、根本的に自由であるが、他に伝達するときは、言葉で表現される。ここで問題になるのは、伝達する際に、相手に言葉の選択権を与えるということである。思想を伝達するのに、一意的な言葉の表現を強制されえないということである。端的にいえば、意味さえ伝われば、言葉自体を問わないということだろう。 そこで、言葉の柔軟性、かつ、思想の洗脳性、拘束性、強制力、よくいえば普遍性が問われる。前者は、表現の自由を保障しており、後者は、信教の自由を保障しているといえるだろう。 つまり、表現の自由とは、意味が伝わればその形態を問わないということである。 では、この意味において、差別用語とは、いかに定義されるべきかを考えると、伝達相手や不特定多数に対する悪意にとれたり、不快感を抱かせる意味に取れる用語といえる。 これは民族の文化背景や国家の歴史風俗等、非常に曖昧で、言葉使いに、いわゆる人間の理性が問われるものであろう。だからこそ、国語力が、要求されるのである。とどのつまりは、差別用語は、その人の感性と、語彙力に依存しているが、最も大きいのは、人間愛や信頼、人格、品性である。 差別用語を安易に口に出す人は、国語力がないといえるだろう。ましてや社交性に必要な教養が極めて低いといわざるをえないだろう。 さて、長々と表現の自由について吟味してきたが、「言葉狩り」の用法が明らかにおかしいといわざるをえないだろう。表現の自由を保障しているのは憲法であり、憲法に忠実に従うのは政権側にあるのだから、政権側が、表現の自由を持ち出すのは、自由ではなくて、横暴といえるだろう。しかも、差別用語を自主規制したのではなくて、助長し、それに対して、国民側が抗議しているのを、あえて開き直った擁護表現に使用しているのだから。 国民側が、政権にある大臣の発言が差別用語なので、撤回し、辞職しろと要求しているのに、その抗議姿勢が、「言葉狩り」にあたるというのならば、差別用語の自主規制すらもできない国語能力のない大臣は、いったいなにゆえにその地位にいるのか?あまりに国民を馬鹿にしていること甚だしいのではないか? 一体、権力を振りかざしているのはどちら側なのか? このような不見識な人達が国家の政治を行っているのだから、日本が外国から相手にもされず、無法国家の北朝鮮の拉致に対しても、解決するどころか、逆に国民を説教する元外相がいるのだから、開いた口が塞がらないというものであろう。 不健全与党を倒す、健全な野党はいないのか? とりあえず、このような政治家たちには任せていられないので、選挙で自民を葬るしか、日本の再生はないのだろう。というよりも、すでに、政治家たちが、このような国語力では、再生は無理なのだろう。後は、米国か中国かどちらかに併合されてしまうのだろう。
2007年02月08日
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知識に対する何世紀にもわたる人間の態度全体を簡単に振り返ってみることは、既に議論してきたことに対して更なる光を投げかけるための助けになるという。 人類の進化を振り返ってみますと、知識や探求に対する考え方が非常に異なっていたのが分かるという。今日、熱力学、電子工学、そして生物という知識の分野で、近年になって成し遂げられた途方もない進歩は、自然、自然史、自然科学、そして、英国においては、自然哲学の名の下に分類されているものである。 今日の学校では、自然はきわめて抽象的な仕方で教えられていて、自然は「自然法則」の総計と考えられ、子供たちに期待されていることは、それを覚えることであるといえる。そして、この勉強の抽象的な性格は生活の中にまで持ち込まれる。 今日、最も熱心な生徒にとってさえ、自然科学がどんなに冷たく、抽象的なものであるかを考えてみれば、植物学では、植物や植物の種に関する植物学的な一連の用語を、そして、動物学では、動物や動物の種の名前、或いは分類を記憶することが強要され、生徒たちはすぐにそれらを忘れ、試験のために何度も何度も最初からやり直す必要があり、そして、しばしば試験が終われば、それらを完全に忘れてしまうために、再び、必要になったときには、参考書等で調べることになる。そして、今日の生徒が植物学や動物学に対して、敬愛する人物に対するのと同じ関係をもつことは問題外とされる。 自然は、今日、ボンヤリとしてはっきりしない事象や現象を、重力や熱、電気や磁気の法則、つまり、いわゆる機械やシステムの法則のカタログにしてしまっているといえる。自然科学が扱うのは、鉱物(物質)や植物の研究に加えて、未知の植物や動物、そして人間の有機体の生命や内的な構成が含まれているが、要するに、今日の自然科学や自然哲学は、我々が知っていると主張する多くのもの、と我々が全く知らない多くのものを含んでいるといえるという。 さて、この方法によって、人類が自信を持てるようになるとは、ほとんど言い難いが、物事の進行状況は実際、このようなものであるといえるだろう。つまり、いまだ、大半のものが非常にボンヤリとして、混乱しているといえ、そして、思考は非常に皮相的で抽象的になっているという。 今日、人類が「自然」と呼ぶこの抽象化されたカタログをマスターしようとして果敢に努力しているが、多くの人が、このアプローチにほとんど無関心になっているのも確かであるだろう。現代人は、いわゆる自然科学的アプローチに無関心で、その手続きを専門家任せにしておきながら、逆にそのようなアプローチで出された科学的なる結果に過度に期待をかけ、盲目に従う傾向にあるといえる。 そして、自然科学として学校で教えられるものに対して積極的に反抗する若者の世代に属さなければ、友好的な中立の立場を取ることになるが、いつの時代も、そのようであったわけではないという。知識に対する態度が数世紀前にはいかなるものであったかをここで簡単にまとめて特徴づけてみる。 9、10、11世紀、そして、12世紀や13世紀に至るまで振り返ってみるならば、数の上では稀少とはいえ、今日でいえば博識者と呼べるような人たち、ベルナルドゥス・シルベストリ、シャルトルのベルナールやアラヌス・アプ・インスリスのような、11、12世紀における代表的な学者と判定すべき人たちが、有名なシャルトルの学院で教えていた事実に出会うという。 当時は、これらの人たちは、有名な中世の秘儀参入者、フィオーレのヨアキムや、ハンビル(ラテン語でアルタビラ)のジョンとして世に知られる特筆すべき人物のような秘儀参入者、つまり、存在の秘密に対する奥深い洞察力をもつ人たちとの交流が可能なほど十分に恵まれていたという。 他にも大勢の人たちの名前を付け加えることができるが、これらの人たちの名前に触れたのは、その時代の精神を喚起し、当時支配的であった知識に対する態度を特徴づけるためだという。 そのような人たちの精神的(秘教的)な観点に参入すれば、自然に関する概念が、現代とは完全に異なっていたことが分かるという。近代の典型的な植物学者、病理学者、或いは歴史学者の場合、その表情は彼の病理学的、或いは解剖学的な神秘性に関する深い関心ではなく、前の晩の生活諸事の楽しみの記憶を反映したものになっているといえるという。 つまり、現代人のほとんどは自然の神秘に関するよりも、生活諸事の楽しみに関して、多くのことを習うために、学問をするといえるだろう。つまり、自然科学等の学問を、出世や名誉、金銭の道具にしているにすぎないといえるだろう。 彼らは、より快適な暮らしや生活をするためにそのような学問と呼ぶものを行っているに過ぎないといえる。
2007年02月08日
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さて、有機的な病気の意義とは何かと問うなら、今日の人間にとって、通常の状態である覚醒意識は心臓中心にあると書いてきた。それとは別の意識状態は、その他の器官に関連しているが、それらは絶えず意識下に留まっているという。喉頭から脳までの範囲を含む喉頭の領域は、常に前回記述した通常の状態に連なる意識状態の中で生きているという。消化器官近傍の領域は死者と同じ時間軸を共有しているという。 人間は絶えずこの意識状態に与っていて、生前の知人の死後の経験を共有するが、この意識は心臓ではなく、心臓の「下」で経験されるという。なので、通常の人間は、この経験に関しては何も知り得ず、それは無意識の中に、意識の敷居下に留まっているものとなるという。 人間が死者と精神的な結びつきを持つこのような領域において、例えば消化不良のような障害が発生するなら、心臓中心より下のこのような意識が変化し、過度に活発に作用し始めていることが考えられるという。 では、ある種の胃の不調はいかに説明できるかと問うなら、物理的な観点から見れば、それは単に臨床医の診断による所見に過ぎないものとなるだろう。ところで、ここで提示される観点は決して医学による純粋に物理的なアプローチに反対するものではなく、その価値を認め、評価するものである。 秘教的探求の姿勢は、単にオーソドックスな医学を侮ったり、批判したりする道楽家や素人、或いは如何様師の態度ではなく、医学のこれまでの功績を完全に認め、その発見を受け入れるものであるという。しかし、確かに誰かが胃の不調を訴えるとき、その兆候を医学的に診断することは可能だが、真相に迫るならば、その胃の状態の結果として、その病人は、死後間もない死者の生活に与ることが可能になっている意識を捉えるのが更に賢明な態度といえるという。 勿論、治療が始まる前には、医学的な診断がなされ、同時に精神的、秘教的な立場からは、そのような人は彼が地上で知人だった魂たちと死後の精神的な結びつきを保持する必要性も感じている、ということも考えられるという。けれども、彼は心臓の下に横たわる意識の中に入っていくことができずに、彼は死者とのその交流に気づかないという。 その種の不調の精神的(秘教学的)な側面とはこのようなものであるという。胃の不調は死者に過度に強く意識が引きつけられるために生じるものだという。そのような条件下では、人は死者に支配されるという。以前示したように、物理世界に比べて、ずっと遥かに現実的な死者の世界からの影響を強く受けているという。 もし、天秤を想像するなら、一方に、針が振れていても、他方の別の天秤皿に負荷をかけることによってゼロ値の読みが回復される。過度に強く死者に引きつけられ、そのことに全く気づかないほど、この心臓下の意識に対する異常な感受性を発達させた人に見られる非平衡状態は、上記の一方の側に負荷をかけられた天秤に似ているという。平衡は、反対側に同等の負荷を加えることによって回復される。 このように、もし、心臓下の意識が過度に活発であるならば、喉頭の領域における意識を減退させる必要があるという。心臓は中央に位置し、調整者であり、いわば、その上で天秤棒が振れるくさび形の支点であるという。平衡は銅を服用することによって取り戻されるという。今日の人間の体は喉頭が銅に反応するような構成である、ということを以前に指摘した。 新陳代謝系と喉頭システムは天秤の両側のように密接に関連し、片方はもう片方によって調整されることになるという。銅が適切に処方されて服用されるならば、このような患者は、幾らか死者の領域から退き、それによって健康を享受する方向に向かうという。そうでなければ、彼は益々その領域に同化するという。これが治療の精神的(秘教学的)な側面であるという。 なので、今日、全ての物質が、物理的な側面(顕教学)と同時に精神的な側面(秘教学)を有している、ということを知る必要があるという。昔の秘儀参入者たちは弟子たちのために、その物理的な側面を利用することができたが、それは、弟子たちが広範な訓練を経た後でのことだったというのは以前に書いた。 全ての物質(顕教、秘教)=全物質(物理的側面、精神的側面)=全物質(外面、内面) 今日ではもはや、同じようなやり方で、物質を使用すべきではないという。今日、魂を開発するための領域は、道徳的な属性においてであり、物理的な属性は医師の領域に委ねられる。物質の物理的な側面に精通し、それに関する詳細な研究を行う機会をもつ人が、その情報を物質の道徳的な側面に関する知識によって補うのは、非常に重要なことだという。このことは、現代の認識や、精神的な手段を用いる分野における認識に関して、厳守されるべきことだという。 人間の有機体は時間の経過に伴って根本的に変化し、そして、物質の道徳的な側面に関する知識と、その物理的な側面に関する知識との間に、かつて存在していた密接な関係が失われたが、それは再び取り戻されなければならないという。ここで、この失われた関係についてもう少し書きまとめることにする。 主として物理的な観点を有する医学と精神的(秘教的)学問との間の今日の関係は、遠い過去におけるそれらの関係と同じであるはずがないという。いずれにしても、この関係は継続していくに違いないが、今日では別の形態を取ることになるという。精神的(秘教的)な探求における真の道と偽りの道を区別することができるかどうかは、このような関係を知っているかどうかにかかっているといえるという。
2007年02月07日
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古代人が、人間という存在をいかに捉えていたかを考えてみたい。古代人は、いまでいう、天を精神の世界、地を物質の世界と捉えていたようで、人間を、天からの使者の僕で、物質的な地を変える精神の持ち主と考えていたという。 天は神々の精神の世界であり、神々の精神が、天使に引き継がれ、天使の僕として、人間は地に立ち、物質的な地を、精神により変革していくと考えていたようである。天は善であり、地は悪であった。人間は、天から善を携え、地の悪を善に変えうる天使の僕だと認識していたようである。 より天文学的にいえば、天の中心は太陽で、地球という天体を、太陽のような天体に変えることが、人間の使命だと思っていたようである。だから、人間の精神は、天体に依存し、肉体は、地を精神に沿って変えるべき道具であった。 つまり、人間は、自らを地球を太陽のような天体にする救済者だと思っていたのである。だから、人間が、神々の精神の下に、進化すれば、地球も太陽に向かって進化することを確信していたのである。 太古の信仰とは、このような認識のことであったという。 しかし、いまや現代人はこの認識どころか、信仰さえ失い、故郷を忘れ、地を彷徨っている。アベルは、天の信仰を守り、カインは、地の誘惑に屈し、カイン(地)は、アベル(天)を殺し、人間は彷徨う民となったのである。 アベルの変わりにセツの子孫が、黄金律を継承し、カインの子孫は地に神の住まない鉱物からなる神殿をつくった。やがて、人類は、黄金律を失い、鉱物からなる神殿を崇拝するようになっていった。セツの子孫の黄金律は形骸化し、宗教が生まれ、カインの子孫から、自然哲学そして科学の前身が生まれた。 地球は自らの進化度合いを意識することなく、絶えず移り変わっている。諸行無常の如しである。人間のみが、その精神を通して、自らの進化度合い、認識をもつことができる。人間だけが、地球や自然の無常を、常として認識できる。 人間が無常のなかに、常なる存在として君臨できるのは、地球の進化を変え、司る特権を、天、つまり太陽より付与されているからに他ならない。それが、人間のなかにある精神の秘密であるという。 人間の精神が向上し、自ら進化すれば、地球も太陽のように、自ら発光する天体となるだろう。 これが、伝教大師の説く、一灯照隅、万灯照隅であろう。 キリストは、その見本を、見せるために、かつての人間の使命を思い出させるために、太陽から下ってきたという。 そして、キリストは、太陽の精神である、セツの黄金律を復活させ、既存の神殿を破壊し、カインの子孫とを、イエスとしての誕生により融合したという。 つまり、キリスト(神の子;黄金律)=イエス(人の子;神殿)である。 このとき、イエスキリスト(神の子、人の子)において、三位一体の創造がなされたという。 地球の運命は、我々人類が負っているのである。人類の精神が堕落すれば、地球の運命も危ういだろう。 仏教では、肉体は、乗り物とみなされる。そう、肉体は、神々が人間に、地球を救うために与えたタイムマシンなのである。肉体は必ず滅ぶ。タイムリミットがあるからである。 限られた時間内に地球を救うことができるかどうかが、人類の双肩にかかっているのである。
2007年02月07日
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脳科学が最新科学とされている現代であるが、脳科学が、ニューラルネットワークを唯物的に解釈し、心や精神の発生等を理解しようとするのならば、失敗に終わるだろう。 秘教的な教えによれば、脳は、物質世界を統合整理するための、いわゆる一種のヴァーチャル化世界をつくりだす装置であるからである。そこに生命的意味を見出すことはほとんど不可能といわざるを得ないだろう。現代科学が、脳死を生命の死と認定しうる限り、唯物論の境界を越えることは不可能で、生命的な意味に盲目にならざるを得ないだろう。 このようなほとんど生命の意味において使い物にならない、唯物的最新科学の最も重要な発見は、全てが、波動といういわゆるエネルギーの波から成るという見解にある。この発見があるからこそ、唯物的科学を学ぶ価値が人類にあったといえるだろう。 つまり、この見解からいえば、我々の日々の活動は、いわば、波動同士のやり取りであり、波動から、いかに世界を構築するかということにあるといえる。脳は、日々の波動のやり取りのなかから、固定した描像を逐次描き出し、その世界に自らの存在の意味を求めるのである。だから、脳が人間存在の根本原理であるとするなら、脳が、脳のために、波動のやりとりから世界を作り出すことは、究極的には非常に無意味な作業ということになるだろう。 なぜならば、次第に脳が自ら展開するに従い、脳に、都合のよい波動(情報)のみから世界を構築し、その世界のみを都合よく生きるような存在になるからである。そこでは、快楽志向の死も病もない存在のものとなるだろう。ただし、脳本体は、人体の他の器官から離れ、徐々に孤立化し、周囲の環境とのやりとりを拒絶し、自らの欲望と共に、その錯誤のなかに埋没していく存在となるだろう。 しかし、現実には、そのような錯誤を超えた矛盾として、死や病がある。つまり、現実は脳が作り上げる世界のものではない。確かに、個人個人で脳が作り上げる世界は、多少の感度の差こそあれ、全般的に、同じような基準があり、必ず死や病が、存在するのである。それはこの宇宙の環境からなる地球が、人類に似たような環境、つまり波動を提供しているからであり、脳の作り出す世界に、死や病はなくても、現実の生命の世界には必ず病と死がある。唯物的な脳はその病や死を理解しようとしないだろう。 とどのつまり、死や病の存在は、脳死が、本来の人間の死でないように、脳が人間の本体ではなく、脳を道具として使う人間の存在があることの証なのである。それこそが、実は古代からいわれていた魂の存在なのである。 魂の命令の基に、脳は、周囲の外界から、日々の波動のやり取りを集め、集約統合し、魂の将来展望に相応しい世界を構築するのである。このことは、秘教の教えにある、睡眠中の夢の意識から明らかになる。 人間は睡眠中に、肉体を抜け出すという。夢をみるのは、通常の肉体がやり取りする物質的な波動に加えて、肉体を抜け出したがゆえに、周囲にある微妙で繊細な波動がそこにつけ加わるからであるという。これを、無理やり、通常の粗雑な物質的な波動で、解釈し捉えてしまうので、夢は、非論理で矛盾の奇妙なものとなるのである。 我々は、脳が作り出す日常の論理的な世界に慣れすぎているので、夢を正確に認識できないのである。これは、つまり、物質存在ばかりみていたせいで、非物質存在(精神的のみの存在)に盲目になってしまったといえるもので、エッシャーの騙し絵をみて、そこに隠された存在に気がつかなくなってしまうようなものといえるだろう。 秘教によると、人間の存在は、肉体、エーテル体、アストラル体、自我の4つに大別される。これを波動で解釈すれば、より粗い波動が、物質(固体)を形成する波動で、肉体を意味し、それより細かい波動が、光(液体)、つまりエーテル体を形成する波動で、現代科学では、いわば前者をフェルミ粒子、後者をボーズ粒子と呼ぶ。 物質的意味はここまでで、更にアストラル体にいくと、非物質となる。ちなみに、エネルギーという概念は、エネルギーがゼロという意味で、非物質と解釈されるだろう。なぜならば、現代のエネルギーの定義が物質を形成することを前提としているからである。物質形成を行わなくても、波動は存在するのである。だから、ゼロ以下の負のエネルギーが、光(エーテル)よりも更に細かい波動、秘教的に、気体と呼ぶ波動状態を表す。だから、空間的には虚となるのである。 話が逸れ気味なので、まとめると、人間の存在を波動で解釈して、波動が粗いものから細かくなるにつれ、肉体、エーテル体、アストラル体、自我となるというわけである。古代人は、波動のこれらの領域を、土(固体)、水(液体)、空気(気体)、火と呼んだのである。つまり波動とは、古代人が呼んだ4大元素霊のことを指す。 古代人は、波動を、神々の言葉とし、波動から音や色が形成されることをよく理解していたといえる。 つまり、我々の現代科学は、土領域の波動と、一部、物質光という意味で、水領域の波動を扱うだけにすぎないものなのである。しかし、生命領域は、空気、火の領域の波動に主に因っている。だから、現代科学では、生命を扱うことは非常に困難といえる。 だから、精神領域といえは、この火の領域、繊細で微妙な波動を感知する能力が必要になる。実は本来、文学や文化は、物質対象の科学が扱えない、非常に繊細な波動の領域を扱う分野なのである。言葉が重要なのは、この非常に繊細な波動を変えうるからなのであり、勿論、物質のような大きな固定波に近いものは変えられないが、繊細だからこそ、止まることなく、世界に広く伝わっていくのである。 さて、話を、脳に戻し、本体の魂について言及すれば、魂とは、アストラル体と自我の波動領域を表す総称といえる。自我とアストラル体の微妙で繊細な波動のやり取りが、エーテル体の波動形成を通じて、肉体の神経形成へと伝播され、ニューラルネットワークが形成されるのである。 だから、自我とアストラル体の微妙で繊細な波動の形成、つまり魂なくして、ニューラルネットワークは形成せず、脳は成立しないといえる。そして、魂は、この宇宙に広がる微妙で繊細な波動を拾っているといえる。この微妙で繊細な波動を、現代科学ではいわばノイズと捉え、背景輻射(放射)としてビッグバンの根拠にしているが、それだけではないのである。その見えない領域を無視している。秘教では、これを天空の奏でる音楽と呼んでいる。 我々は、物質波しか感知できない器官、つまり耳や眼を肉体にもって、感知しようとするので、繊細な波動は、検出できないといえる。量子力学のハイゼンベルグの不確定性関係は、検出器そのものが物質波で成っていることから生じるいわばレトリックである。それゆえ、物質波として観測しなければ、その存在は、存在しないものとみなさざるをえないだろう。物質波として観測する前は、対象の存在を、確率解釈でしか定義できないのは、当たり前といえるだろう。つまり、唯物的科学の限界(境界)を意味しているわけである。 検出器を、非物質的な波動からなるものにする必要がある。しかし、それは物質的に存在不可能だから、後は数学的な空想に任せ、量子力学は行き詰ってしまうのである。現代で幾らこのようなことを考えようとも、物質世界を抜け出ない限り、ゲーデルの不完全性定理のごとく、不可能である。 秘教の教えは、人間が、現在のように物質波からなる肉体をもたず、まだ、繊細な波動から形成され、周囲を、その波動そのままから解釈していたときの名残を、知識として教えてくれるのである。 これらの昔からの伝統の知識を用いて、いまでも、エーテル体は、想像力、イメージ力で捉えられ、アストラル体は、霊感力で捉えられ、自我は、神通力で捉えられるという。 だから、イメージ力から、霊感力を発展させ、更に神通力に至ると、周囲に物質波のみならず、エネルギー波、霊波、精神波を感じることができるという。 見えるものが全てではなく、見えるものの背後に見えないものがあり、見えないもののなかに、宇宙を統合している繊細で微妙で微かなホワイトノイズの存在の、神々の存在があるというわけなのである。 それを感じるか感じないかは、あなた次第なのである。
2007年02月06日
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相も変わらず私利私欲が渦巻く国会地獄絵図である。人間社会を経済の競争原理に当てはめ、女は子供を産む機械や装置というような、根本的な唯物思想を、ときの厚労大臣が、吐露するとは、全く世も末だと思う次第である。小子化対策の大元の大臣が、このような発言を行い、このような唯物的思想が、巷を席巻する限り、人間社会に助け合いや愛情を育むゆとりなど生まれようはずもないだろう。 言い方が不味かったと、自己弁護しているようだが、思想のない人間など、人間存在とはいえないのであり、政治家は、自分の発言に、最大の責任をもつべきであろう。これは唯物論においても、失言機械は、機械としては失敗作であり、その機械を生み出した張本人の総理は、失言機械の責任をとるべきだろう。 このような唯物思想の持ち主を大臣に任命した背景は、巷の情報誌によると、選挙の功労の見返りだと聞く。功労だから、厚労大臣とは、あまりに馬鹿らしくて、片腹痛い。つまり、いまの政治家は、さながら選挙機械の成れの果てということなのだろう。一体、こんなことで、国家の重要な地位を弄んでよいのだろうか? 官僚が法案を練り、立法まで行うのだから、もはや三権分立などというのは、ここ日本では少なくともいまでは空理空論なのである。 裁判に関してもいわずもがなであり、日本社会は、官僚独裁統制権力機械といってよいだろう。 従って、現代日本は、民主主義ならぬ官主主義なのである。 さて、では、改めて民主主義を考えてみる。民主主義を考えるのには、まず、民という人間の存在に言及しなければならない。何をもって民とするのか、欲望を追求するだけの、野獣のようなまるで動物の精神の持ち主を民とは呼ばず、そのような民を率いることを、民主主義とはいわないであろう。民とは、その根底に人間精神の存在を尊重し、その土台に、そのような人間存在に対する愛情を基本としなければ、民主主義とは名ばかりで、堕落した放任専制主義に逸脱するであろう。 かつて、モーセは、神との契約、つまり、人類愛の尊重のもとに、イスラエルの自由な民を率いたのであり、自らの野望を遂げるために、無知で愚かな民を連れ出し、惑わしたのではない。つまり、民主主義を基本とする限りにおいて、その指導者に、人類愛を語るべき資格、資質がなければ、かえって民主主義を愚弄するものとなるであろう。 モーセのような古代にあっては、人類愛足る指導者の資格は、神により与えられ、契約(刻印)されたが、現代においては、神々から独立した自由意志の基に、人類愛は、国民一人一人の理性に委ねられている。 つまり、民主主義の下に、人類愛は、人間一人一人の自由に委ねられたのである。 さて、この自由であるが、しばしば、自由は、欲望の放縦と曲解されているが、勿論、自由と我儘は、全く異なり、その正反対の性質をもつといえる。 自由とは、自らの欲望を追求し、放縦するのではなく、統御し、制御することを指すのである。 つまり、自由とは、奥行きのある多種多様性、硬直性に対する柔軟性を意味する。だから、統御、制御といっても、機械のように、強制的、権力的な力でもって、一意的に従わせるものではない。自らの意志により、自ら行うのである。自らが自ら由って存在するそのものを、自由と書くのである。それは、日々、周囲の流れに合わせ、自らを変えていくことに他ならない。 現代人は、この自由の意味を曲解しているのである。欲望から生じる権力を他に振りかざすことや、価値観を薦めることを自由というのでは、断じてないのである。自由とは、その逆で、自らの欲望を自らで退治しつつ、多様な価値観を理解していくことなのである。 間違った発言をしたら、その発言の責任を、他に指摘され、言われる前に、自ら気づき、自主的に成すのが、本来の自由なのである。少なくとも、多くの大衆に不快を感じさせた時点で、大臣失格といえるだろう。現代は、あまりに唯物的になってしまったため、言動や言葉の責任が、画一的表現として、非常に重くなっているのである。とくに差別用語には、充分に注意すべきである。でなければ、大臣等の要職をはじめから辞退すべきである。 日頃から愛情や節度のある行動をしていれば、愛のない表現が生じる余地はないだろう。経済を競争原理に例えたり、生命を度外視し、過酷な利益を追求する姿勢にこそ問われるべきものであろう。経済とは、少なくとも人類の博愛精神の発露の場である必要があるだろう。経済とは、人類の生活を安心、安定的に平和をもたらすものであるのだから。政治家の失言が多いのは、その思想において、偏っている証拠でもある。現代政治家は、選挙ばかりに明け暮れ、不勉強な俗物的精神の持ち主なのだろう。
2007年02月05日
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大杉アナの自殺でいま話題なのが、線維筋痛症と呼ばれる得体の知れない病である。 病因が特定できないために、滅多矢鱈と想像の範囲でとやかくいうのはよくないのだが、何らかの金属と関係しているのではないかと思われる。 激痛の症状等を聞くと、水俣病に類似したものを予感させるからである。現代科学では、エーテル体の存在を全く仮定していないので、何らかの器官組織破壊が進まないと、物証が困難なので、その症状が過度に進行した場合でないと、恐らく特定できないものと思われる。 エーテル体を想定していた、太古の医学の知識からいうと、現在の関節リウマチ、通風、ベーチョット病、シェーグレン症候群、全身性エリテマトーデス、糸球体腎炎等の、なんらかの自己免疫が原因の自己免疫疾患は、太古では、リューマ(流れが滞る)と呼ばれていたようである。このような病気の症状群を、ヒポクラテスが、リューマと呼んだのが最初という解説がある。 ヒポクラテスがなぜ、そのように呼んだかといえば、エーテル体を想定していたからだと思われる。つまり、早い話、エーテル体の流れが滞ることで生じる病気という意味が挙げられるのである。 エーテル体の主要な流れは、五芒星で表され、植物や鉱物(金属)等で、ただし、非常に希釈した状態で、使用しなければならないが、その流れを制御できるらしい。勿論、現代では、動物実験や臨床実験で、正当な評価を得ない限り、使用は不可能だが、漢方医学の生薬に、僅かながらに太古の教えの名残を見出せるであろうから、気の流れの観点から、ホメオパシー、アロマテラピー等と併せての代替医療として、治療法を探索するのがよいのではないかと思われる。 太古の医学の教えは、生命の素は、エーテル体であり、人間は、植物とそのエーテル体を共有し、天体の位置関係等から、エーテル体の流れが生まれ、地球に金属を形成するとしている。無論、植物もエーテル体を通して、天体の位置関係に与しており、人間も同じであるという。このことから、植物、鉱物の成分が、何らかの病の薬となるというのである。 人間は、このようなエーテル体の流れの状態で、過度に痛みを感じたり、逆に無意識になったりするという。 例えば、現代人が、昼起きて、周囲の物質的世界を、ハッキリとした色や輪郭で捉え、人間の精神的な内面から、なんらかの用語を用いて、言葉で定義できるのは、その根底に、対象意識と呼ばれるものがあるという。この対象意識は、別名、金の覚醒意識と呼ばれ、非常に微量な金が周囲にあるお蔭で、保たれているという。 関節リウマチに金製剤が有効なのは、この覚醒意識を促すのではないかと思われる。金が炎症部位に蓄積し、免疫系に作用し、炎症を鎮静するという報告があるが、免疫系を司るのは、現代科学では、白血球のリンパ球のヘルパーT細胞といわれているが、太古の医学でも、それは血液であり、血液の流れを司る自我であるとされていたのである。 太古の医学では、いかなる意識を取りうるかは、自我にあり、自我は意識状態に合わせ、血液の流れを作り出すといわれていたのである。すなわち、血液中の金の流れが、血液の流れを模倣し、再び、金の意識に転換し、血液の流れを正常化し、免疫異常を抑制したのではないかと考えられるのである。 さて、線維筋痛症を考えるにあたって、太古の医学を持ち出すのは、あまりに非科学的だと罵られるのを覚悟で書くならば、血液中にガラスの破片が通るような痛みや、電気が走るような痛みという認識から、銅、銀、水銀の化合物の過度な摂取の兆候にあるような気がする。 過剰金属摂取で、金属中毒になる場合、例えば、銅中毒症は、ウィルソン病と命名された銅代謝異常になるそうで、悪化すると肝障害に至るらしい。その症状は、疲れやすくなり、白眼のところや皮膚が黄色(黄疸)くなって気づかれたりするとあるようだ。 しかし、このような銅中毒症の場合、過剰な場合、血中AST(GOT)・ALT(GPT)など肝機能の異常を指摘され、発見されることもあるので、感度の高い敏感な肝機能検査で、その異常を捉えることが可能であるものと思われる。 すると、例えば、次に、銀中毒が考えられる。昨今、銀は殺菌性があるとのことで、食器等や、農薬にも用いられているようである。銀の過剰な摂取は、銀中毒や銀沈着症を生じる危険があるという。その病態、症状は、残念ながら、症例数が少ないようで、日本ではあまり明らかになっていないようである。ただし、米国では、昨今、多発している傾向にあるようだ。 この銀中毒、もしくは銀沈着症の発生と、線維筋痛症の発生傾向を探ると、なんらかの関連性が得られるかもしれない。日常生活において、確かに銅摂取量も増加の傾向にあるが、銀摂取の増加の方が、顕著のようなので、銀中毒の方に、なんらかの因果関係があるような気がする。 そして、水銀に関しては、有機水銀の水俣病が、有名である。水俣病以来、水銀の取り扱いに対しては、慎重になっているはずなので、表向き日常生活に混入することは少ないように思える。 このような太古の医学の観点から、線維筋痛症が、なんらかの金属と関係があるのなら、銀が最も有力であり、銀キレート剤等で、銀の排出を増加させ、銀の代謝を正常化する処方が挙げられるだろう。これらは、キレート療法と呼ばれているようである。太古の医学では、当の金属(銀)を高度に希釈化し、ホメオパシー療法で、このキレート療法を代替していたようである。 さて、私が、線維筋痛症が、もしかすると銀中毒にあるのではないかという推測に至った理由はもう一つあるのだが、この理由はあまりに秘教的なので、以下は、オカルト(隠す)ものとして読んでいただきたい。 秘教学的教えによると、人間が瞑想等により、銀の奇妙な性質に集中すると(これを銀意識と呼ぶ)、自分の内部で、血管中における液体の循環だけではなく、血流に乗った熱の循環に関係する力に、意識が集中することになるという。 そのとき、当人は、人間としての地位(意識)を、血液中の熱の循環、つまり物質だが同時に血液中の精神的な要素でもある、ある種の内的な熱を感じるようになるという。つまり、血液中の熱に意識が集中してしまうというのである。それをさせているのが銀という金属の精神的な共鳴部分であるようだ。 そして秘儀参入者は、修行により、精神的な言語を体得しているので、この血液中の熱のなかに精神を読むことができ(これを秘教的には、エーテル的感覚器官を有するという)、この熱の中に、前世からの力が活発に働いていることに気づくことができるという。しかし、通常の人間、つまり秘儀参入者でない人は、このとき、かえって自分の存在がわからなくなり、一種の精神分裂症やヒステリーのような錯乱を生じるものと思われる。早い話、肉体の感覚器で解釈するので、熱の異常な熱さしか感じられないわけである。 このことは、火のなかに、その異常な熱さを超えて、精神的部分を探求する、空海の真言宗の護摩行を彷彿とさせるだろう。火を通常の感覚で捉えるのではなく、精神的感覚で捉えるのである。このとき、眼前にある火の奥底から、自らの血液中の火と共鳴同化し、自らの前世からの力を感じることができるらしいのである。これを秘教では、火の精霊と呼んでいる。 つまり、人間の銀に対する関係(意識)の中に表現されるのは、血の熱的な活動に影響を及ぼすことが可能なもの、そしてまた前世との精神的な結びつきを提供するものであるというのである。銀の意識は、我々が、この世に誕生する前の前世の死から、現世の生の誕生までいたあの世の世界の意識であるという。 なので、銀は前世から現世にまで生き残っているものを人間に思い出させるような金属としての効能を保持しているという。つまり、銀は、あの世からこの世に、本性を運ぶ担い手であるといえる。このことから、銀の殺菌作用が見出されるだろう。この世のものを熱し、あの世の本性を剥き出しにし、燃やすのである。 更に、勿論、過度な銅と水銀にも、これと似たような過度な精神(意識)性を帯びてくるという。銅は、人間を死後まもなくの死者と結びつけるという。銅の意識は、死後まもなくの死者の魂を追っていくことができるという。水銀に関しては、人間は、リンパ液の循環システムに関係づけられるという。水銀は、脳を破壊し、無にして、リンパ液のなかの流体の循環に、自己同一させるという。 線維筋痛症の患者の認識が、血液中にガラスの破片が通るような痛みや、電気が走るような痛みというのは、血液中の熱に自己同一しているせいではないかと思うからで、そのような意識をもたらすのは、銀の意識に他ならないと、秘教を学んでいるうちに、推測したからでもある。 銀の意識から、日常の金の意識に戻すには、物理的な銀の排泄も重要だが、規則的な睡眠が必要不可欠で、日頃の対象意識を健全化させるために、運動は重要であろう。覚醒時の運動により、対象意識が芽生えるので、日頃からの自我を強化するために、何らかの体操や炎症を和らげるアロマテラピーによる入浴も重要と考えられる。 自我を強化する最も端的な方法は祈りと感謝にあるようだ!。祈りや感謝には、なんらかの肉体的な儀礼や、呼吸法がセットになっているだろう。キリストが信じるものは救われるとは、この意味である。 或いは、また、瞑想等やヨーガにより、秘儀参入者となる高度な方法も考えられるが、生兵法は怪我の素で、これは非常に危険なので、薦められない。
2007年02月05日
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しかし、次のような反論があるかも知れないという。シュタイナーの著書「より高次の世界の認識」には、この銅に対する反応を発達させるため、どのような準備段階を踏むべきかについての示唆がなされていないではないか、というような。 確かに、原則的には、その著書の中で、銅について特別に触れてはないが、方向性は与えられているという。人はどのようにして結晶や植物等の存在の中に入っていくべきかについての記述があり、その予備的な訓練法が示されているという。 けれども、勿論、銅の本性について、どのように瞑想すべきかについての情報は与えられていないという。そのためには一冊の本、というより、1つの図書館が必要になるという。既に方向性が与えられていることから、例えば、自信を生むための訓練、何か特別な主題や対象に集中するときの訓練もまた必要がなかったという。そのような訓練は、実際、銅の本性について記した内容によって既にカバーされているからだという。 銅の本性について瞑想すべきであるということを示唆する特別な記述はないという。朝夕に瞑想するという目的のためには、何か単純な主題やテーマが選ばれるべきである、ということが、そこには示唆されているという。つまり、それは銅の本性について瞑想するのと同じことになるという。それは単に、銅の金属としての性質を引き合いに出すような瞑想のためのテーマとして与えられているにすぎないものだという。 また、「叡智が光の中で放射する」というような特別なテーマについての瞑想は、もし、熱心に実践されるなら、内的な精神生活に決定的な影響を及ぼすという。その効果は、銅の本性をあらゆる角度から探求し、その物理的な側面に、集中するとしても、変わらないという。秘儀のアプローチは、第一に道徳的な立場から、そして、第二に物理的及び化学的な立場からなされ、化学者でもない限り、道徳的な立場から精神世界に参入する方がずっとよいという。 なので、物事は、その正しい関係性において見る必要があり。というのも、今日の人間が、精神世界への洞察を得るために、古代の方法に無批判に従うのは間違いである場合が多いからであるという。外的、物理的なアプローチを、道徳的、精神的なアプローチに置き換える、というのが現代の正しい道筋であるという。 肉体組織の発達とともに自然に対する人間の関係全体が変化しているので、今日、血液や体液の組成、そして、肉体的な構成全体が古代カルディア時代とは異なっているという。このことを解剖学的な分析によって証明することはできないという。解剖学者は死体の解剖にのみ多くの時間を費やす、というのがその第一の理由であるという。 解剖学者は生命の隠された秘密を探求するには、死体を多く解剖しなければならず、死体数が不足していると考えているが、このような調査を遂行するにあたって、古代カルディア人の死体を調達するのは容易ではないのと、第二の理由は、その粗雑な技術をもってしては、生命の隠された秘密に対する答えを見出すことはできないことにあるという。このような意識の探求は、精神的な方法によって探求される必要があるという。 現代人の肉体が古代人のとは異なって構成されていることから、次の点を明確にしておく必要があるという。今日でも、高度に効能化(ポテンシャライズ;希釈)された物質、例えば、金属の潜在力(ポテンシャル)を調製することが可能だが、どこにその理由があるのかと問うなら、それは、我々が自然の現実的な存在に対する深い洞察力を有することに起因するというのが、その説明に該当するという。 同じか、もしくは類似した認識を元にして、はじめて調合、調整がなされるのである。金属を調製できるのは、我々のなかに金属に相同する何かがあるためであると考えられる。 もし、我々が人体の本性を真に理解すれば、人体の機能が、既に書いた金属(錫、銅、鉛等々)によって変化させられる、ということを知ることになるという。そして、はじめに、これらの金属が、意識の状態を変化させる、ということを、以前から示してきた。 しかしながら、今日、その意識の変化が、幾らか世俗的な表現でいえば、通常の生活においてさえ体の中で生じることに気づくという。例えば、以前指摘した銅の作用を放射する身体領域における変化の経験を仮定してみる。そのような変化は全て消化器官の障害の中に、いわゆる新陳代謝系の中、主として栄養の代謝、消化や同化に関係する器官の障害の中に投影されるという。現代人が病気と呼ぶ人体組織におけるこのような障害の全ては、異なる意識状態の喚起にも結びついているという。このような示唆の全てを心に留めておく必要があるという。
2007年02月02日
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