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参院選挙は予期した通り与党大惨敗で終わった。しかし、姑息で悪徳な自民のことだから、なんでもありのウルトラCを出すかと思ったら、自らの汚職で自爆してしまったのだから、いかに与党が自暴自棄に陥っているかがわかる。手榴弾を投げる前に、爆発させてしまったような滑稽さである(東京選挙区ではスカウトした丸川に、身内が食われてしまうという不様でマヌケな失態を演じた)。 このような政権に巻き込まれたら最後で、命さえ失いかねない。どうやら与党は選挙で大敗しても、自分たちの目論見が優先で、国民の民意など聞き入れる余裕すらもなく、党利党略、目先主義である。国民に対する聞く耳を全くもたないというのは独裁もここに極まった感がある。 敗軍の将が、その負けた責任をとらないなどというのは、古今東西、聞いたことがない。負ける意味するも知らない御馬鹿さんなのである。これは一種の開き直りであろう。審判が下っても、自分は何もしていないと言っているようなものである。これでは、そのような存在自体無意味すらある。そのうち、実質のない虚のような架空政権がただ虚しくあるようになる。 勝ちよりも、負けを認める方が、どんなに将来、その学びが大きいのかすらも頭にないらしい。 大体が、他に首相候補者がいないというのも愚の骨頂である。政党というのは、常に何が起こっても、対応できる人材を日頃から揃えておくためにあるのである。人材がいないというのなら、とうの昔に大政奉還すべきであろう。アホか? これほど、国民や国家という存在を馬鹿にした政党もないだろう。 総理大臣といえば、国家の党首で、国家の支柱を担う重職なのである。タイミングが悪いからとか、いま受けると難題が降りかかるとか、そんな個人的意向を聞いている暇など、本来無いはずなのである。自分の都合を優先するようなそんな連中に、やってもらう必要など全くない。 いっそ、そんなことならば、パートさんやアルバイトさんを契約労働者として雇って、やってもらった方がよい。ただし、待遇は社会通例に合わせ、いまの100分の1位に落としてである。一日総理大臣5千円でどうだ! 利己主義ばかりが蔓延る政治では、何をやっても、意味がなく、破壊活動に終わるだろう。大体、自らの仲間の党を破壊するなどと自分を棚にあげて置いて、無責任なことをいった総理が出てくる党なのであるから、その精神がいかに病んでいるかがわかる。 総理大臣は、私情でやるものではない、代わりがいないのなら、政権を委譲しろ! 大体、見つけようとしなければ、選出しようとしなければ、見つかるわけがないだろう。意志力の問題なのである。自民は揃いも揃って馬鹿ばかりでお粗末この上ない。これほどの堕落した精神で国家運営などできるわけがないだろう。 国民がノーといっているのなら、謙虚に受け止め、人材を探すべきなのである。夏休みとりたいから、仕事しないというのは、一体、国家をなんだと考えているのだろうか? 不安定な政権だから、安定な人材を求めるわけで、探すのが大変などといっている暇こそ、不安定の元凶なのである。人材がいないから続投なんて、舐めた事いっていると、そのうち災難が起こるぞ! 過ちとは、過ちに気がついても訂正しないことをいうのである。過ちに気がついたら、直ぐに改めるのが本筋なのである。負けたら責任を取る。こんな当たり前のことができない人は人間ではない。 こんな人に誰が信頼を置けるだろうか? 信頼を失うことと、あくまで自らの利己を通すこととどっちが重要なのか? 精神年齢が非常に低いことだけは確かなところであろう。
2007年07月31日
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■質問:シュタイナー博士、肉体が空間的な体で、形成力体(エーテル体)が時間的な体であるとはどういう意味か?肉体もまた時間の中で活動し、成長したり衰退したりするが。 シュタイナーの応え; この質問には確かなところもあるが、不正確な思考に基づいている。もっと正確な基礎を与えるには、まず時間の概念を分析する必要がある。通常、我々が出会う現実においては、空間と時間が入り交じっている。肉体を空間的なものとして、形成力体(エーテル体)を時間的なものとして、考えることができるのは、空間と時間を分離するときだけである。 通常、客観的認識においては、時間は所与のもの(予め与えられたもの)として存在しているわけではない。既知のように、時間は空間の意味で測定される。つまり、我々が時間と呼ぶものに関して知る手段として、空間的な単位の変化を用いている。 しかし、今は時間を測定する別の方法を考える。時間に関して、真の経験へと移行するには、通常、人々が無意識に行っているように、もはや空間的な意味で時間を測定することはない。我々の思考は、イマジネーション的(霊視的)な認識を通して、実際に意識的になる。 例えば、もし、1922年4月12日4時4分と何秒でもいいが、そのときの魂の生活を検証すれば、時間に関しての真の経験を持つことになる。そのとき、魂の生活の時間的断面を見る。この時間的断面は何らかの特別な空間的断面を含むことはないが、この地上における過去の全てを含む。 それを図式的に描くならば、いま経験が線分aからbへと流れているとして、線分abの断面ABを引く必要がある。経験全体を、この断面の中に挿入せざるを得ないが、それでも、その中には1つの展望がある。 遥かな過去に遡って横たわる出来事は、最近の出来事に比べて、少ない強度を(記憶による)もって再現できる。しかし、これらの出来事全ては、単一な断面の中に存在している。その結果、経験と時間との結びつきは、時間のみを分析するときとは、異なったものとなる。 時間を心的イメージのレベルにまで上昇できるのは、物理学において行われるように、空間を理解する方法に従って時間を分析しないようにするだけでなく、魂の生活に関して考察するときである。けれども、抽象的思考のみで行う限り、魂の生活は時間の中に付着したままに留まる。 この時間を1つの有機体として見ることができることが重要である。 例えばある空間の有機体が消化不良を起こしているときには、空間の有機体の他の部分もまた悪い影響を受けることが分かる。空間の有機体において、個々の領域はそれぞれが空間的に離れているのに対して、時間的な有機体において(我々が以前と以後とを区別するという事実にも関わらず)、異なる時間は有機的に関連している。 次のような例を挙げる。「ある非常に年を取った人々が若い人々、特に子供達に語りかけるとき、その老人の言葉は、直ちに(挨拶のように)老人自らに跳ね返ってくる。つまり、老人の言葉は子供達にとっては何の意味ももたないが、別の老人には意味をもつ。」 老人たちが子供達に語りかけるとき、老人の言葉は子供達の魂の中へと真っ直ぐに流れ込む。他の人々に祝福(激励)をもたらす老人たちの力の源泉を見出すには、ときとして幼い子供時代にまで遡る必要がある(通常、このような事柄に関して研究することはないが、それは非常に稀にしか全体としての人間を見ようとしないからである。そのような事柄を観察するには十分長く注意を払うことはない。現時点における観察力の範囲では不十分だが、それは人智学の仕事になる)。 もし、十分に遡るならば、老年になってから、他の人々を祝福する(励ます)特別な精神力を有し、その言葉が若い人々の中に祝福として流れ込むような人々は、自身が子供だった頃に、どのようにして祈る(祝福する)かということを学んでいたことが分かる。 比喩的に言えば、子供の頃に、祈るために、合わせる両手は、老年になってからの、祝福する両手になると言うことができる。 既知のように、ある人が老年になってから及ぼす他の人々への影響と、その人物がまだ幼かった頃に存在していた敬虔な感情その他のものとの間には結びつきがある。以前の性質とその後の性質とは有機的に結びついている。 それぞれ人間には無数にそのような結びつきがあるが、それを見るのは全体としての人間(全人生)を理解するときだけである。今日、我々の生活全体が、この現実から疎外されている。我々は現実の中に浸っていると考えているが、自分で自分を欺いている。 今日の文化の中では、我々は抽象主義者である。我々は真の現実に何の注意も払わず、今述べたような性質を無視する。また、我々が子供、特に低学年の子供に教えるときには、明確に規定された概念を与えないようにする必要があるという事実にも注意を払わない。 そのような概念が後の生活に及ぼす影響は、手足を縛り、手足が成長し大きくならないように強制するような作用に似ている。我々が子供達に伝えることは1つの有機体でなければならず、柔軟でなければならない。有機体と言ったときに何を意味するかが、徐々に分かるようになることを望むべきである。 勿論、イマジネーション(霊視)だけが、この意味の完全把握を可能にするが、単に、人間の生活においては、出来事の時間的プロセス(経過)は空間的な有機体ではなく、むしろ時間的有機体に関連しているということに気づくだけでも、有機体の性質に関しての考えを得ることは可能である。 ここからわかるように、時間はそれ自身、現実(真実)を有する、ということは数学からも推察できる。 確かオズワルドによって(いずれにしても、人智学者ではなく、ただの唯物論者ではない人によってだが)、このテーマに関する素晴らしい議論の中で指摘されるのは、機械的プロセス(経過)とは異なり、時間の中で生じる有機的プロセス(経過)は可逆的でない、ということである。 事実、通常の計算は、常に時間的プロセス(経過)に対しては外的なものに留まり、時間そのものにアプローチすることを許さない。例えば、もし、月の満ち欠けを計算するために、式にマイナスの数字を入れたとしても、より遠い過去の段階に至るが、(月の満ち欠けという)物事から離れることはない。 動き回れるのは空間の領域の中だけである。このように、実際の物理的な人体に関しての正しい考えを発展させるのは、時間的要素を空間的要素から分離できるときだけであるといえる。 人間に関しては、このことが根本的に重要だが、もし、人間の中の時間的要素が、独立した実体として、そのプロセス(経過)を辿り、空間的要素は時間的、或いはダイナミックな要素により支配されることを知らなければ、いかなる人間理解にも到達することができない、という理由による。 なので、機械においては、時間的要素は空間中での活動の1つの機能に過ぎない。そこが違う。人間においては、時間的な要素は現実の実体であり、一方、機械的装置においては、時間的要素は空間の1つの機能に過ぎないといえるだろう。 注釈;シュタイナーは、時間と空間を厳密に分ける必要性を説く。我々は時間そのものを測ることはできず、なんらかの空間の差異や、物体の運動を基にして、時間を計測しているのである。なので、時間そのものを測っているのではなく、空間、或いは物質の変化を基に時間と呼んでいるのである。つまり、変化、運動等の速度を測り、そこから時間を抽出している。 これに対して、シュタイナーは、霊視を行えば、時間そのものが現れてくると説く。数学的には、これを四次元で表す。エーテル体は、この時間から構成されるものであるという。このエーテル体とは対照的に、肉体は空間から構成されると説くのである。 霊視で顕れる時間を、時間霊と呼んでいるが、それは簡単にいえば、あらゆる経験のいわばエキスのようなものである。あらゆる経験や体験が詰まったものが、時間なのである。だから、何年何月何日何秒の経験と体験を、魂から検索してくれば、そのときの体験が時間として現れてくるのである。ここでの、この時間の基準は、魂の成長度合い、つまり進化度合いからくる。 魂の進化度合いの差異から、時間が現れてくるというのである。単純にいえば、経験が豊富なほど、より進化度合いが進んでいて、時間が進んでいるといえる。これを老人に喩えているのである。ちなみに、この世に現れる仮の肉体の成長度と、この魂の進化度合い、つまり年齢とは関連しないらしい。経験豊富な大人の魂の子供が、経験未熟な子供の魂の親から生まれることもある。これを霊視すれば、親子が反対にみえるわけである。 霊視の身につけ方は、人間全体をみることからはじまるという。どの人間の成長も年齢を基にして、同等に解釈できるからである。早い話、精神の成熟度といえる。 有機体が可逆でないのは、この魂の経験、体験が蓄積されていくからである。経験や体験は忘れることはあっても(勿論、魂の無意識の部分に隠されるだけだが)、消え去ることはないからである。だから、悪い行為そのものは忘れることはできても、決して、宇宙からは消え去ることはないのである。このような悪の行為は、宇宙の善き霊たちには拒否され、自らで解消するまで、背負わされるという。これがカルマである。 悪い行為を消すことはできないので、代わりに、悪い行為を改めるための善い行為の経験、体験を行わなければならない。これがキリストがいった、天は自ら助けるものを助けるという意味である。人間は、過去に行った悪しき行為を解消するために、カルマを背負い、そこから善き行為を引き出すための、肉体を選択し、その善き行為を行える可能性に見合う土台を遺伝として、受け継いで、この世に生まれる。 悪しき行為には、善き行為でもって償わなければならない。これが悪き目には善き目を、悪しき歯には善き歯をという真の意味である。左手が行うことを、右手に知らしめてはいけないという意味でもある。 悪しき行為を、いかに善き行為で解消してきたかが、死んだ後、善き霊たちにより、審判され、善き行為は善き霊たちに受け取られ、悪しき行為は、拒否され、新たなる課題として背負わされる。これが最後の審判の意味である。
2007年07月31日
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■相対性理論についての質問 相対性理論についての議論には際限がない。3次元空間における宇宙的事象に対する観察者としての我々の視点から、この理論に反対することはできない。つまり、知覚される空間に基づいて相対性理論に反対することは不可能であるといえる。 勿論、我々の知覚に関する限り、球が平面化していたとしても、空間全体が球の平面化の方向に内的に拡張していたとしても同じことである。なので、我々が3次元空間からの見方を扱っている限り、アインシュタインの相対性理論は完全に正しいといえる。 この理論が現れたのは、人間進化と科学の歴史において、我々が最初に純粋に空間的な意味で考えることができるようになった、つまり、非ユークリッド空間の意味においてであろうが、相対性理論の意味においてであろうが、ユークリッド空間を我々の出発点として捉えながら、何とか考えることができるようになった、正にその瞬間であった。3次元空間の中では、アインシュタインの相対性理論に異を唱えることは不可能といえる。 この理論に対する反論の可能性を議論し始めることができるのは、いかにしてエーテルの領域へと移行するか(つまり、3次元空間の体からエーテル体への移行だが)を見出すときだけである。エーテル体は遠心的というよりも求心的に形成されるからである。 エーテル体の中で、空間の全体性において生きている。例えば、AとBの間の距離についての知覚は、あるときは短い線分であり、またあるときは長い線分になる。この現象に気づけば、これらの点の内、どちらかが絶対的な意味で動いている必要があると言うことができるが、それを行うためには、自身が空間の全体性の中に立脚していなければならない。その時点で議論が可能になる。 このようなわけで、相対性理論に関する現在の概念を巡る、我々の議論の全ては次の質問で終わらざるを得ないと確信している。「それで、一体どうしてそのこと(光速で動くことで起こる現象)が分かる(実証できる)のですか?」と。 それとは対照的に、我々が内的な知覚(絶対的なるものが見いだされる領域)へと移行する瞬間、我々は、相対性理論のような問題はニーチェが観察者の立場と呼んだもの(そして、その最も極端な例が相対性理論なのだが)へと行き着いたことを示していることに気づくように強いられる。 この立場を受け入れる人にとっては、それが誰であれ、相対性理論は単に事実であり、それに対するいかなる反論も不可能である。しかし、それは実際(現実)の考察からは除外され得るもので、かつてシュツットガルトの狂信的な相対理論者は、いかに我々がある一定の方向に動くのも、その反対の方向に動くのも同じであるかを説明した。 もし、マッチ箱を一方の手に、マッチをもう一方の手に持つならば、マッチをマッチ箱にこすりつけるのも、マッチ箱をマッチにこすりつけるのも結果は同じといえる。勿論、そのような場合には、相対性理論は完全に正しいが、次のように叫びたくなるだろう。「箱を壁に釘付けしてからもう一度やってみてくれ!」と。 これは相対性理論の価値を打ち消すものでは決してない。それは単に、丁度、2次元空間から深さの次元へと移行できるように、世界のどこからでも精神的要素の中へと移行できるということを示しているに過ぎない。 そのときのみ、相対性理論は有効であることを止める。相対性理論に関する議論が永遠に続く傾向があるのはそのためだが、それは、観察者の立場からは、それに反論できないという理由による。その理論に反対する、いかなる議論にも反論が可能である。 観察者としては、観察対象物の外側に立っている。つまり、そのとき、主観と客観を厳密に区別する必要があるが、より高次の認識へと上昇するやいなや、主観も客観もなくなる。 このテーマに関しては、恐らくQ&Aの文脈から述べる事柄以上の話ができるが、更なる思考へと促すものとして、もう1つのアイデアを述べておく。観察者の世界に、つまり空間の世界に留まる限りにおいて、相対性理論自体に反論の余地はない。 この世界から逃れ出て初めて、単なる観察者としてではなく、対象を経験する、例えば(精神的な)痛みを共有する世界へと入っていく。他の存在との単なる関係性から(相対性理論がその関係性内部でのみ可能であることは十分理解できる)共有された内的経験としての痛みへと移行を学ぶ瞬間、例えて言うなら、この(痛みの)経験が、相対的なものかどうかに関して、あれこれ考える余地はなくなる。 こうして矛盾を作り出し、実際、矛盾が存在するので、その状況は現実的ではないと言うことができなくなる。生活の中では、矛盾は現実だが、それは生活を構成する存在たちが、異なってはいるが交差している領域に属しているからといえる。 現実へと移行するやいなや、存在に対する、いかなる矛盾も解かれるべきであると言うことはもはや許されない。もし、それが現実であるなら、それを解くことはできない。ここで言いたいのは、相対性理論がその関係性の世界において発展するのは自然なことであるということである。 もし、観察者の立場が、唯一可能な観点ならば、この理論に対する、いかなる反論も不可能である。けれど、我々が存在達の中に、そして、痛みや楽しみの中に巻き込まれるようになる時点で、相対性理論を維持することは、もはや不可能になるだろう(感情の大小は比較できない)。
2007年07月30日
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■より高次元の空間についての質問 通常の軸直交系は3次元空間を記述することができる。図式的に述べるならば、ある種の代数的仮定に基づいて先に進み、2次元平面から3次元空間へと導いたプロセスを抽象的なレベルで繰り返す。その結果、4次元、5次元、或いはn次元空間となる。このような手法で、ヒントンのテサラクトのような図形を構築することさえできるが、テサラクトは現実の図形ではなく、真のテサラクトの3次元空間への投影に過ぎない。 純粋に理論的、抽象的レベルでは、そのような演繹をしても何の問題もないといえる。理論的なレベルでは、時間の中で、式や計算を用い、いま行っている飛躍、それが飛躍であるのは、時間の中への移動は、第1次元から第2次元、そして第3次元への移動とは異なるからで、その飛躍を考慮しながら、時間の中で3次元空間から4次元空間へと移動することさえできる。 最初の移動(変換)プロセスを洗練させることにより、真に時間の中への移行が可能になる。その結果は抽象的な4次元空間となる。いま行っていることを視覚化する必要がない限りにおいて、抽象的で、純粋に知的レベルに留まることができる。 しかし、実際、それを行おうとするとき、弾性問題に突き当たる一方で、純粋な抽象的思考のつながりは「無限の後退」へと導いていく。さしあたり、その振り子は際限なく振れ続けると想像することもできるが、動力学的には、振動があるだけであり、それが現実の状況であるといえる。 イマジネーション的な知覚レベルへと上昇するときには、4次元やそれ以上の次元があると仮定しつつ、そのプロセスをいつまでも繰り返すことはできない。1次元を表すために+a、2次元に+b、3次元に+cの表記を用いるとして、もし、現実(真実)の空間を記述するのなら、4次元を+dのように書くことはできない。 4次元を+dのように書くのではなく、現実の状況は、-cと書くように強制する。第4の次元は第3の次元を無効にし、2つの次元だけが残る。なので、そのプロセスの最後に、残されるのは4つではなく、2つの次元だけである。同様に、もし、第5の次元があると仮定するならば、それには-bの、そして、第6の次元には-aの表記を用いなければならない。 つまり、高次元にいくにつれて、点へと帰っていく。弾性の法則によって、我々は出発点へと帰ってきたといえる。この現象はイマジネーションの中に(つまり、主観的な実験としてだが)存在しているだけでなく、以前述べたような仕方で、1つの現実になる。 我々人間がこの地球の表面、例えば、植物の根を見ている限り、重力の特定の表現を扱いながら、空間の通常次元の内部に留まっているが、花の形の説明を試みるときには、これらの空間の通常次元はもはや十分ではない。 出発点としての軸の交点(直交軸上のゼロ点)について記述する代わりに、正にそのような点の対極にある無限の空間から始めなければならない。外に向かって遠心的に動く代わりに、内に向かって求心的に動かなければならない。 その結果得られるのは波打つ表面である。遠方へと散逸するのではなく、外から圧力が行使され、その結果、滑るような、撫でるような運動がある。圧力の結果である、そのような運動は、軸の交点を出発点とすることによっては正確に記述できない。 その代わり、無限に大きな球を座標の中心にしなければならない。そして、座標は全て中心に向かって動かなければならない。つまり、エーテル領域に入る瞬間、通常の座標系の正反対(質的にも正反対であるが)の軸座標系を適用する必要がある。 エーテルに関する物理学の通常の理論は、この相違を考慮しない間違いを犯しているので、エーテルを規定するのが困難になっている。それはあるときは液体、あるときは気体と見なされる。中心点から放射する座標系をエーテルに適用するのは間違いなのである。 エーテルの中に入っていく瞬間、球を取り上げ、外側から内に向かう全体システムを構築しなければならないのであって、その反対ではない。 このような問題が興味深いものとなるのは、数学的に跡づけしながら、物理学の領域に入っていくときである。我々の理論を発達させるということは、非常に現実(真実)のように見え始め、限界の問題を解くために、大いに貢献するようにみえるが、今のところ、そのような理論はほんの僅かしか理解されていない。 例えば、私(シュタイナー)はかつてある大学の数学の講義でこのテーマを紹介しようとしたことがあり、この講義で、双曲線の接線を用いて、双曲線の接線がその分岐であるとすると、右側の部分は発散し、左側の部分は集中(集約)していると想像する必要があると言った。 つまり、双曲線の接線では、完全に正反対のことが起こっている。このような考察は、徐々に空間のより具体的な取り扱いへと導くが、このような取り扱い方はほとんど受け入れられていない。純粋に解析的な数学者たちは、しばしば微分幾何学に対して幾らか偏見を持っている。 しかし、現代の微分幾何学は、純粋に形式的な数学から離れ、経験の問題に取り組むことができる。純粋に解析的な幾何学だけを用いている限り、現実(真実)の領域に近づくことはできない。解析的な幾何学は座標の終点やそれらの座標軸上の位置などを確立できるだけである。 我々が線や円だけを用いて構築するときには、イメージによる助けが必要となり、視覚化に頼ることを強いられる。微分幾何学が非常に有用なのは、数学の形式的な側面から離れることを可能にするからである。それは、自然における数学的な要素について考えなければならないことを示している。
2007年07月27日
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■質問:太陽は空間中を螺旋状に移動していて、地球は太陽を追いかけるようにして螺旋状に移動し、太陽の周りを周回しているのではないと理解すればよいのか? もう少し長い連続講義ならば、これらの問題を詳細に議論することが比較的容易だっただろう。ここでは、ごく簡単にそれらの問題に言及しただけで、その根底に横たわるものを少ない言葉で述べるのはほとんど不可能といえる。 この質問に答えるに当たっては、秘教的探求の結果を簡単に要約することから始める。まず、宇宙における空間的関連について、観察や特定の観点から、我々が引き出す結論は、それがいかなるものであれ、常に一面的なものだが、プトレマイオスの太陽系が一面的な観点を示しているように、コペルニクスのモデルを含む他の全ての太陽系に関するモデルもまた一面的なものといえる。 移動する物体間の関係についての我々の結論は、我々の特定の観点に基づいているが、これらの関係は、その観点からは測定され得ない運動によって不可避的に補足され、変化させられる。 以上の前提を注意事項として述べたが、我々が地球と太陽の動きの関係についての見方を発展させるのに役立つ、別の秘教的発見に関して考察することを提案する。 太陽は空間中を曲線を描いて移動していると想像する必要がある。もし、この曲線を十分に遠くまで辿るならば、それは複雑な螺旋形状をしていることが分かる。 地球は太陽を追いかけて同じ軌道を進む。太陽との関係で地球がどこに位置するかを考察するならば、地球が、左にあるときには、観察者が太陽を見るには、右の方を見なければならないことが分かる。さて、別の配置の可能性を考察する。 見る方向に矢印を示す。最初の例では、ある一方向(左から右へ)からの視点で太陽を見たが、今度は反対方向(右から左へ)からの視点で見る。容易に理解できるが、このモデルを正確に視覚化するならば、地球は太陽を(螺旋状に)追いかけているので、我々は最初に一方向から、そして、次に別の方向から太陽を見ることになり、地球が太陽の周りを円周状あるいは楕円状の軌道を描いて回っているように見えるのである。 この動きの第一義的な要素、つまり、地球が太陽を(螺旋状に)追いかけているという事実は、ある別の関係性によって、更に明確にできるが、それを説明するなら、何時間もかかってしまうだろう。けれども、肝心なのは、我々の見る方向だけが回転を行うという点にある(もし、太陽に住んでいたら、地球の周りを太陽が回るようにみえる)。 いま述べたように、この要約は長期にわたる秘教的探求の結果を示すものだが、その他の関係を考慮するならば、更に複雑なことになる。太陽の運動に関する、よりよい概観を得るとき、気づかなければならないのは、コペルニクスの体系を、学生等のために描いてみせるのに用いる単純な線が益々複雑になり、ついには全く描くことができず、全てが空間の領域から滑り落ちてしまうことにある。 人智学の観点から述べようとしたのは以上のことである。 物理学の歴史的観点からコメントするならば、上で概観した探求の結果について、今日、非常に衝撃的と思われることは、コペルニクス的な見方の中に元々備わっていたことにある。 コペルニクスは3つの法則を考え出した。最初の法則は、地球が自転しているということ、第2の法則は、地球が太陽の周りを公転しているということ、第3の法則は、概念的なレベルでは、地球の公転は、暫定的説明を提供するに過ぎないものであるということだが、実際には、地球の太陽に対する関係は固定的なものとなっている。 この第三法則は、コペルニクスがその第二の運動、つまり、太陽を巡る地球の回転を記述したとき、ある種の計算を簡便に行うための方便として、それを仮定したということを確信しており、それを事実として述べるつもりはなかったことを証明している。今日、我々は常に、この第三法則を無視し、太陽系に関するコペルニクスのモデルは第一と第二法則だけを包含していると思い込んでいる。 けれども、もし、コペルニクスの観点を本当に研究するならば、天文学的な計算に基づくだけで、この第三法則は本当に必要であることがすぐに分かる。既知のように、このようなことは科学の歴史の中ではよく起こることである。 注釈;非常に衝撃的な内容だが、シュタイナーは、要するに天動説も地動説も一面的な見方にすぎないという。秘教的事実によれば、天動説も地動説も同時に成り立ち、天動説は、実は、霊的世界で天体を見た場合で、地動説は、物質世界で見た場合に相当するのである。 天動説は、地球から霊視的にみたもので、実際、地球の周りを惑星が回っているようにみえるのである。それは遠くの軌道から、土星、木星、火星、太陽、水星、金星、月、そして地球となる。これらの霊的軌道から、地球上に生きる人間は霊力の影響をうけるという。人間に限らず、あらゆる生命体は、この天動説の霊力を基に創造的活動の影響を受けるという。 太古では、それら土星、木星、火星、太陽、水星、金星、月の霊力は、それぞれ、天使の位階で呼ばれたという。土星(座天使)、木星(主天使)、火星(力天使)、太陽(能天使)、水星(権天使)、金星(大天使)、月(天使)である。アトランティス時代、これらの天使たちから交信を受けとるために、神託所が設けられていたという。その神託所の名残が、今日の神殿となり、遺跡として残されたという。ちなみに天王星、海王星、冥王星は、我々の太陽系外と考えられたという。 この7つの神託所のうち、一つの神託所が自然の力を利己的に用いたために、自然破壊を招き、アトランティス大陸の水没を招いたという。ノアは、それぞれの神託所の弟子たちを集め、水没を免れ、我々のポストアトランティス時代を築いたという。それが聖書にあるノアの箱舟伝説の真相であるという(ノアは別名マヌと呼ばれたという)。 また、天動説の要点は、コペルニクスの第3法則に記述されていたが、それは弟子たちにより省かれ無視され、第2法則の地動説にあたる公転の部分だけが後世に誇張され残されたという。その唯物的観点はガリレオに引き継がれていくことになる。 古代人は、勿論、霊視できたので、天動説であったという。古代人のうちでも、現代人のような唯物的見方は、非常に高度に教育された秘儀参入者だけが、習得できたという。つまり、霊的な基本知識(叡智)を習得した後に、一部の選ばれた者に唯物的見方を伝授したという。 地動説と天動説を矛盾なく説明するものは、ここで述べられた、太陽と地球が共に螺旋軌道を描き、地球が太陽の後を追いかけているというものである。それらは実際、DNAの右巻き螺旋構造や植物の葉のつき方等、自然の成長のなかに黄金分割として、見出せるのである。太陽からくる太陽ニュートリノの傾きもここから説明できるであろう。
2007年07月26日
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前回の続きである。 超感覚的知覚は、この3軸空間が3つの非常に異なる拡張の可能性に依存している。我々の物質体(肉体)は3つの軸に関する直接的経験を提供するが、そのような経験が意味するものは、この空間もまた、内部に存在する天体の影響の相互関係を表現するということである。 また、このように空間を視覚化するとき、3次元宇宙に存在するものとして、考えられるもの全ては、ユークリッド空間の場合のように、x、y、z軸の拡張強度が同じならば、説明不可能であるということを考慮しなければならない。 宇宙を、3軸の楕円体に対応させ、楕円軌道自身の配置を有するものとしてイメージしなければならない(恐らく、楕円軌道の3つの極座標のことだろう)。 ある種の星の配置は、この考えが正しいことを示唆している。例えば、普通、天の川はレンズのような形をしていると考え、球状とはとても想像できない。もし、物理学の事実に適合させるには、別様にイメージする方法を見つけなければならない(要するに、球状ではなく、楕円体(レンズ)状に広がる強度空間である)。 我々の空間を取り扱うそのような方法は、現代の思考と自然との一致がいかに貧弱なものであるかを示している。太古の時代と文化においては、固定された空間の概念が生じるなどということは起こりえなかった。ユークリッド幾何学の原型が3つの等価な拡張強度と3つの垂直軸からなる固定された空間に関する明確な考えを取り入れていたとは考えられないことである。 空間に関する抽象的概念は、抽象性が我々の思考の本質的な特徴となり、ユークリッド空間に計算を適用し始めたかなり最近の時代になってから現れたものである。太古の時代の人々にとって入手可能な知識は、今日、超感覚的な洞察に基づいて、再び展開可能なものに非常に似たものである。 既知のように、我々が今日、深く寄りかかり、当然のものとしている概念が非常な重要性を持つのは、それらが現実(真実)とはかけ離れた球の領域中で働くものであるからに過ぎない。今日、我々が取り扱う空間とは、そのような1つの抽象(円曲率の軌道の)である。それは現実の経験が我々に教えるいかなるものからも遠く隔たっている(楕円曲率の軌道が本質であるという)。 今日、人々は、よく抽象的なもので満足する。我々は経験主義についてくどくどと語るが、抽象的なものに言及しながら、それに気づいてさえいないことが非常に多い。我々は、現実の世界において現実の事柄を取り扱っていると信じているが、この相関性から、我々の考えが、いかに酷く矯正を必要としているかが分かる。 人智学者は、遭遇する思想が、論理的であるかどうかを問うことはない。空間に関するリーマンの概念は完全に論理的だが、ある意味、ユークリッド空間に依存しているといえる。それを結論に至るまで考え抜くことはできない。 それは我々のアプローチが極めて抽象的な思考によるものであることを示す。それは、そこから導き出す結論の1つによって、この導出過程における、我々の思考が堂々巡りを行うからである。 人智学者は、ある考えが論理的であるかどうかを問いかけたりはしない。それが現実(真実)に対応しているかどうかのみを問う。1つの考えを受け入れるかどうかを決めるとき、人智学者にとっては、現実(真実)に適合するか否かが決定的な要素になる。 人智学者がひとつの考えを受け入れるのは、それが現実(真実)に対応しているときだけである。 現実への対応は、我々が相対性理論を正当化するものとして、そのような考えを適切に取り扱い始めるときにも、1つの評価指標として用いられる。この理論は、それ自体、この上なく理論的なものだが、その理由はそれが純粋に論理的な抽象性の領域において理解されているからである。 相対性理論ほど論理的なものはない。けれども、我々がその上で活動できるかどうかは別の問題である。単にこの理論を補強するために示される類比を眺めるだけでも、それらが現実とは非常にかけ離れていることが分かるだろう。それらは単なる思考の遊戯である。 相対性理論の擁護者は、これらの考えは象徴的なもの(数学モデル)であって、問題を視覚化するのに役立てるためにあると言うが、それらは単なる象徴ではなく、相対論の数学的論理なしでは、そのプロセス全体(相対論的条件)が宙に浮いたものになってしまうだろう。 なので、この質問に関して、言おうとしたのは次のようなことである。「既知のように、そのような領域に関わる質問に対する簡単で明快な答えはない。」 ということである。 注釈;シュタイナーはユークリッド空間のような3軸が平等で交換可能なものは、現実ではありえないと考える。また、そこから曲率概念を導入したリーマン空間に対しても、単なるその発展型にすぎないと考える。所詮、論理上の構築物は、抽象的空間でのみ成り立つからである。 なので、体験に基づいた精神的な空間を考え、それは人生の体験から生じる、人間の肉体上の感覚に由来していると考える。それは上下を長軸とした楕円体のもので、空間の強度は、人体の寸法の割合に比例しているという。これを秘教(人智学)ではアストラル体と呼ぶが、アストラルは、3軸の楕円球体(レンズ型)で、正面からみると六芒星の形になる。 アストラル体は、星(アストラル)にちなんで名付けられた。実は、星もこの3軸の楕円球体空間であるという。惑星の軌道が楕円体であるのはケプラーにより示されたのは既知の通りである。物質天体としてみえる惑星は、その楕円軌道体の一部であるという。そして、惑星の楕円体空間が、人体のなかにも反映し、天体の大きな宇宙に対して、人体は小宇宙空間と呼ばれるのである。 人体のアストラル体は天体のアストラル体から取ってきたものであるという。我々は1つの銀河なのである。
2007年07月25日
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最後は泣き落としまでして、国民にすがり票を獲得しようという、恥知らずな与党政治家には、愛想が尽きたので、この際、無視したいと思う。今度の参議院選挙は、日本が滅ぶか、与党が滅ぶかのどっちかの選択である。 充分に日本国民は将来を鑑みて投票して欲しい! 日本全体を考慮すれば、いま何が必要なのか? は自ずと明らかになるだろう。 民主主義の最後の砦はやはり国民の意志にあり、ときの政権に対する選挙への投票行為にある。 政治を語ると、あまりにも愚痴ばかりになるのでやはりここでやめる。 そこで、やはり政治家に最も必要なものが何なのかを語りたい。 政治家に必要なものは、いうまでもなく、哲学である。 哲学といっても、現代人が考えている陳腐な哲学ではない。さしずめ、現代人が考える哲学とは、「知を愛する」という言葉の意味でしかないからである。 これは、哲学の父ソクラテスにより、既に否定された概念なのである。知識をいくら身につけようとも、人間は全能の神にはなれない。それは、知識をいくら身につけようとも、無駄であり、人間は必ず間違いを犯すということなのである。 ソクラテスが、なぜ「無知の知」を説いたのか、現代人には知る由もないだろう。 「無知の知」とは、知識が無意味であり、人間はあえて知識を身につけるべきではないと言ったのである。人間は、無知であるべきだ!と説いたのである。これが無知の知の真の意味である。 だから、「知を愛する」という哲学の解釈は陳腐で皮相的といわざるをえない。 哲学とは、「知を愛する」ことではなく、むしろ「無知を愛する」ことなのである。 ソクラテスが、無知を愛するとは、何事かと現代人は思うだろうが、それは本来の哲学の意味を認識すれば明らかになる。 哲学とは、ギリシャ語の「フィロソフィー」からきているが、元々は、イア(エア)神からきているのである。それは通説では、フィロ-ソフィーから、フィロ(愛する)とソフィー(知)に分解し、「知を愛する」と解釈しているが、本来、そうではなく、ソフィーを更に、ソフ-エア(イア)に分解し、つまりソフは、エア神に対する冠詞で、ソフィアとは、エア神のことなのである。 だから、フィロソフィーは、「エア神を愛する」となるのである。 では、エア神とは、どういう神なのか? というと、神話により女神ナチュラであることがわかる。女神ナチュラとは、自然の奥に潜む女神であり、自らの意志から自然をつくる女神のことである。 また、エア神は、古代人には叡智と解されていた。だから、「自然を支配し、浸透する叡智」の意である。 だから、「知を愛する」から転じて「叡智を愛する」になると現代人は錯覚するだろうが、そうではない。古代人は、自然の奥、背後には、実際、神々の叡智が潜み、神々の意志が、自然を創造していることを体感していたからである。 だから、古代人は知識という、表層的なもの、つまり自然を分類し名付けたものなど信じず、自然の奥にあり、それを構成し、創造した神々の意志と叡智を信じたのである。 つまり、万物には霊魂が宿るという神道や、万物は神仏から成るという仏教の教えに近いといえるだろう。 だから、哲学とは、実は一種の宗教と言ってもよい。自然の万物の背後には神々の意志と叡智があるのだから、その叡智と意志に帰依していこうというものなのである。 だからこそ、ソクラテスは、「無知の知」を説いたのである。つまり、「自然の表層的な知識を獲得するのではなく、自然の奥に潜み、自然を構成し、創造する神々に帰依しなさい」という意味なのである。禅でいう、いわば「大愚の勧め」といえよう。 「あれこれ分別知をつけ、人間同士競争しあうのではなく、人間や自然のなかにある共通の神々の働きに帰依し、和合していきなさい。」という意味といえよう。 つまり、中医、漢方でいう「天人合一」でもある。 知識とは、これとは逆に天と人を分け隔てるものなのである。 だから「賢しらな知識を捨て、日々の現象と一体化していきなさい」という意味なのである。 人間は、知識を求めると、知識に囚われ、利己的になる。やがて、知識を用いて、他を出し抜き、自分を愛する余り、知識により、独占し、我儘を行うようになる。 だから、知識とは両刃の剣といえよう。古代では、知識を「才」と呼んだ。 才を求める者は才に溺れる。 古代人は、才、つまり知識よりも、徳を重んじた。徳とは端的にいえば神々への帰依なのである。 徳、つまり神々への帰依、献身があれば、自ずと才は身につくのである。徳はあらゆる才を集めた形態ともいえる。徳が場面場面に応じて展開し、才と顕れる。 だから、才なんかよりも、徳を求めることが肝要で、徳が身につけば、才はその付属であり、自然についてくるものなのである。 だから、哲学とは、神々に帰依、献身し、「徳を身につける」ということになる。 神々に帰依、献身すれば、神々の叡智や意志を感じ取れ、物事がいかに進行していくかが予めわかるようになる。これが「覚り、悟り」である。 人間が知識や才から下す判断には必ず間違い、過ちがある。だから、人間はなるべく判断を下さず、物事の奥にある神々の意志や叡智を認識し、物事が自ずと進行するのに任せる。これを王道という。 人間は、自らが下さざるをえなかった判断の過ちや間違いを訂正するしかできないのである。だから、人間は知的になるより、馬鹿になって、常に過ちや間違いを訂正していかなければならない。 人間は愚者になるべきである。これはキリストが「十字架を背負いなさい」といった意味でもある。 つまり、「人間よ、日々悔い改めなさい。あなたたちは、常に判断し、知識を求め、他を裁こうとするが、そのことが原罪なのである。知識の背後に自己愛、つまりエゴがある。知識を捨て、神々の日々行う裁きに身を委ねなさい。あなたたちは、常に間違いを訂正することでしか、生きられない存在なのである」 人間は愚者にこそなるべきで、愚者のように日々、失敗から学び、勇気をもって訂正し、罪を贖っていかなければならない存在なのである。 過ち、間違いを訂正することで、そっくりそのまま自己教育がなされ、その自己教育こそが、魂を磨き、天の道に続くものである。 すると、自然の奥の神々の叡智と意志の治癒的作用を認識するだろう。 日々、神々は、宇宙から治癒的作用を送っている。パラケルススは、「自然の奥にあるこの治癒作用から、学び、人体の治療に生かしなさい」といった。この古代医術の集大成の名残が中医、漢方にある。 この神々の叡智と意志を認識することが、本来の哲学の意味なのである。 この哲学を身につけたものは、予見力が身につく。だから、総理大臣は首相と呼ばれ、大臣は、相と呼ばれる。「相」とは、木に目がついたもので、「見通す、たすける」という意味をもつ。 つまり、将来を見通し、世間をたすけるという意味で、深くは、神々の叡智、意志を見通し、神々をたすけるという意味になる。 このような哲学の深い意味を、単なる「知を愛する」とした現代人の精神の堕落さを古代人はいかに見ただろうか? そもそも哲学が「知を愛する」という意味なら、知識欲だけの大学の哲学科でしか学ばない、特殊な専門分野になってしまうだろう。そんな無駄なもんを古代人が考えるわけがないだろう。論語読みの論語知らずといってよい。 西洋文明が没落し、東洋文明が破綻するのも頷けるところでもある。
2007年07月24日
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前回の続きである。 例えば、カントの空間についての定義は健全にも非常に抽象的な空間概念に留まっている。彼の概念は、差し当たり、制限が無いか、もしくは無限であるかに関して注意を払わない。19世紀を通して、この空間に関する概念は(その概念的内容に関しては、内的意味(精神的)にも)数学によって粉砕された。 際限はないが、無限ではない空間にカントの定義を適用することを想像することはできない。彼がその「純粋理性批判」の中で後に提示した多くのもの、例えば、彼の超越理論を、もし、制限がない、曲がった空間の概念で、置き換えるとしたら、たちまち揺らぎ始める(矛盾しはじめる)だろう。 この曲がった空間の概念が、物事を想像するときの通常の方法に問題を投げかけることを我々は知っているが、空間が曲がっているという仮定に対して、純粋に数学的、或いは幾何学的な観点から成し得る唯一の反論は、さしあたり、現実からは非常に隔たった、純粋に抽象的な領域への移行を強いることにある。 この状況を、もう少し詳しく見ると、近代の一般幾何学の起源に関する議論には奇妙な循環(堂々巡り)があり、つまり、空間の限界には無関心なユークリッド幾何学の考え方から出発して、結局またそれに至る(戻る)ことが分かる。 その後で、球の表面に適用されるような派生的(関連的)考察に移行する。これらから派生するもの(導出されるもの)や、そこから結果として導かれる形に基づいて、ある種の置換を行い、そして、それを基にして空間の再説明ができるようになるが、結局、そこから述べるあらゆる事柄は、ユークリッド的な幾何学を前提としている。 この前提の下に、一定の曲率を得て、派生するもの(導出するもの)へと至るのである。この計算は全てユークリッド幾何学を前提としている。しかし、ここに至り、ターニングポイントにきたといえる。曲がった形から得られるものに関する新しい見方や説明に導くことができる別の考えへと至るために、使うのは、他ならぬユークリッド幾何学の助けを借りて発達させた曲率のような考え(概念)である。 それらの(数学的)活動は本質的に抽象的なものから抽象的なものを導出することにより、現実から離れた領域においてなされる。この活動が正当化されるのは経験的現実が、そのような抽象から得られる結果に合うように(導出されるモデル等を)強いるときのみである。 なので、この質問は、抽象的空間は、我々の経験と、どこで対応しているのか? そのようなものとしての空間、ユークリッドが想像したような空間は抽象的だが、その知覚可能な経験的側面はどこにあるのか? というものになる。 我々は、人間としての空間の経験を出発点とする必要がある。我々は、自身の活動による経験の結果として、実際、空間におけるたった1つの次元、つまり、深さの次元だけを知覚する。この深さに関する能動的な知覚は、我々がほとんど見逃している意識の中の、あるプロセスに基づいている。 しかし、この能動的知覚は、平面に関する思考、つまり、2つの次元における広がりに関する思考とは非常に異なったものである。我々が両方の目で世界を見るとき、これら2つの次元(平面;上下、左右)は、自身の魂による活動の結果ではなく、それらは既に与えられたものとしてそこにある。 しかし、第3の次元は、通常は意識化されない活動の結果として生じる。我々は、深さ(奥行き)の方向を認識するために、つまり、ある対象が、我々から、どのくらい離れているかを知るために、それに働きかける必要があるが、平面の広がりには働きかけることはなく、それは直接的(感覚の)知覚として与えられる。 一方、深さの方向の次元には、我々は2つの眼を使って実際に働きかける。我々が深さを経験する方法は、(魂の)意識と無意識の間の境界の極めて近くに横たわる。しかし、そのようなプロセスに注意を払うとき、深さを推し量るという、決して十全には意識的ではない活動(それはせいぜい半意識的、或いは1/3の意識的なもの)が、対象を、平面(2次元)において見るときよりも、理性的な活動、つまり、活動的な魂のプロセスに対して、より近いところにあることが分かる。 このように、3次元空間の中の1つの次元(深さ)を能動的に獲得することは、我々の客観的な意識を代表するものである。そして、我々の直立姿勢が、深さの方向の次元(前方と後方)に貢献していて、そのことが、その次元を他の次元と交換不可能なものにしている。 個々の人間にとって、深さの次元は他の次元とは交換不可能である。 2次元性に関する知覚は、これら2つの次元、つまり上下左右が、目前にあるときでさえ、脳の(主要部分、中心ではない)他の部分に関連づけられている。この知覚は視覚の知覚プロセスに本来備わったものであるのに対し、第3の次元が生じるのは、理性の活動に関連した脳の中心に極めて近いところに位置する。なので、我々の経験という意味においても、第3の次元は他の2つの次元とは非常に異なった仕方で生じる。 けれど、イマジネーション(霊視)のレベルにまで上昇するとき、第3の次元に関する経験を置き去りにし、2次元(平面)において見ることになる。ちょうど通常の意識において、前後(深さ)を経験するためには、我々が十分には意識していない(魂の)働きが必要とされるように、このレベルにおいては、我々は左右を経験するための活動をする必要がある。 そして、最後に、インスピレーション(霊聴)のレベルにまで上昇するときには、上下の次元に関しても同様なことが言えるようになる。我々の通常の知覚神経に関連した知覚を維持しようとする限り、第3の次元(深さ;遠近差)を経験するための働きかけを行う必要があるが、この感覚体系の通常活動を排除し、直接、リズム(音響)に向かうときには、第2の次元(上下)をも経験することになる。 ある意味、これはイマジネーションのレベルにまで上昇するときに起こることである。このことを非常に正確に表現してきたわけではないが、現時点では問題ないだろう。そして、我々が第1の次元(真なる深さ)を経験するのは、イントゥイション(霊人)のレベル、つまり、我々人間の有機体を構成する第3のものにまで上昇するときである。 抽象的空間の中で出会うものは、正に以上のように見える(感じる)ことが分かるが、それは我々が数学的に達成するもの全てが、我々自身の内部(精神)から来るという理由による。数学的に導かれる三重の空間とは、我々が、自身の中から導き出すものである。 我々が超感覚的な知覚レベルを通って、魂の下部へと赴くとき、結果として得られるのは、3つの同等の次元を有する抽象的な空間ではなく、むしろ、前後、左右、上下という3つの異なった次元ごとに得られる3つの異なった価値体系である。これらの次元は相互に入れ替えることはできない。 そのとき、我々は、x、y、z軸が同じ強度をもつことを想像する必要もないという結論に至る。しかし、それは、ユークリッド空間においては、3つの次元に本質的なもの(同等)として想像されていることである。もし、幾何学の式に忠実であろうとするならば、x、y、z軸をその強度において同じものとして見る必要がある。 もし、我々がx軸を、まるでそれが弾力を持っているかのように、ある一定の強度で引き延ばしながら、大きくするならば、y軸とz軸も同じ強度で成長させなければならない。言い換えれば、1つの次元を拡張するために、ある一定の強さを適用するならば、その拡張する力は3つの軸全て、つまり、ユークリッド空間の3つの次元全てに対して同等のものでなければならない。 この型の空間を、私(シュタイナー)が「固定された空間」と呼んだのはそのような意味である。 固定された空間は現実の空間が抽象化されたものだが、それは人間の内部から発達してくるもので、同じ強度という原則は現実の空間には当てはまらない。現実の空間について考察するには、拡張する強度は3つの次元全てにとって同等であるとはもはや言えないからである。 空間はもはや3軸に関して同等ではなく、それは空間的拡張強度の結果として生じる人間の比率に依存している。例えば、y軸、つまり上下の方向を見る。我々はその拡張強度を、左右の方向に対応するx軸のそれよりも大きいものとして想像する。現実空間の抽象的な表現である定式(この定式もまた1つの抽象であるということに注意しなければならないが)は、3つの軸に関して楕円を描くものとなる。 続く
2007年07月24日
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■質問:空間の3つの次元は、その構造において異なると言われているが、どこにその違いがあるのか? シュタイナーの応え; この質問の意味は、「空間の3つの次元はその構造において異なる」というような形で定式化されたことはないので、恐らく次のような考えに関するものだろう。 第一に、数学的空間が考察され、それを(何らかの正確さをもって、真にイメージするなら)3つの直交する軸上の座標軸系により規定される、3つの直交する次元、或いは方向から構成されるものとして想像する(要するに、通常の直交空間座標のこと)。 通常の数学的観点から、この空間について考察するには、これら3つの次元を、あたかも正確に同じものであるかのように取り扱う。我々は、上下、左右、前後という次元の間の違いをほとんど問題にせず、それらがお互いに交換することが可能とさえ信じている(回転変換に対して同一である。つまり回転対称性を有する)。 単に数学的空間の意味では、x軸とz軸がつくる平面(互いに直交しているが)に直角のy軸上の平面が(xz平面に)「水平」であると言っても、(y軸に)「垂直」であると言っても、結局のところ、本質的に違いはない。 この型の空間が、境界づけられているかどうか(閉じているかどうか)にも同様に関心を払わないが、そのことは、通常、それを際限がないものとして想像する迄には至っていないことを意味していない(無限遠方まで空間座標を規定できる)。単にその限界を気にしないだけで、例えばx軸上のどの点からでも、終点に至ることなく、どこまでもその軸上を動き続けることができると想像している(x軸は無限遠方まで続く)。 19世紀を通して、一般幾何学は、このユークリッドの空間概念に対立する多くの考えを提示してきた。例えば、リーマンは空間に際限がないということと空間が無限であるということとを区別していた。純粋に概念的指向の観点からも、際限がないことと、無限であることが同一であると仮定する必要はない。 結局、以前描いた図(球面から成る座標)を分割することは勿論可能だが、球の表面に留まる限り、立ち止まらせるように強いる境界に行き着くことは決してできないといえる(球面はどこまでいっても同じものだが、無限ではない)。なので、球の表面は、描画能力に関して言えば、際限がないと言うことができる。しかし、このことは、そのような表面が無限であると主張することを意味していない。このように、純粋に概念的なレベルでは、際限がないことと無限であることとを区別することができる。 ある数学的条件下では、この区別はまた空間全体にまで拡張できる。もし、x軸或いはy軸に線分を付け加え続けることにより、それを延長していくことが、決して妨げられないと想像するなら、この空間の特徴はその際限のなさを証明しているが、それが無限であることを証明しない。 線分を際限なく付け加えていくことができるという事実は、必ずしも空間が無限であるということを意味してはいない。それは単に制限がないということかもしれない。我々はこれら2つの概念を区別する必要がある。もし、空間が、制限はないが、無限ではないものであるならば、それは、丁度、球面がそうであるように、本来曲がっていて、何らかの仕方で出発点に戻ってくるものであると仮定できる。 近代の一般幾何学における、ある種の考察の幾つかはそのような仮定に基づいている。これらの仮定に異議を唱えるのは簡単ではないが、それは、空間に関する我々の経験から、それが無限であると結論づけることができないからである。それは曲がっているだけで、無限ではないとしても問題はない。 勿論、近年の一般幾何学の、ほとんど全てを説明することなく、この一連の思考を結論にまで持って行くことはできない。しかし、リーマン、ガウス、そして他の人々の論文は容易に手に入る。そして、もし、この種の数学的考察に興味を持つのなら、その思考のための多くの材料を提供するだろう。 これらは、ユークリッド幾何学の固定した中立的な空間概念に対する純粋に数学的な反論である。これまで、触れてきた議論の全ては、純粋に、「制限がない」という概念に基づいている。しかし、この質問は他のところにその根拠を持っている。 つまり、その根拠とは、我々の計算に見合う空間や解析幾何学において、出会うような空間、例えば、3つの直交座標軸上の配位体系を取り扱うときに出会うような空間とは、どこか抽象的なものであるという考えである。 では、抽象的とはどういうことなのか? まず、この質問に答えなければならない。 空間に関する抽象的思考に縛られているかどうかを知るのは重要なことである。我々は抽象的空間だけを語ることができるのか? 言い換えれば、もし、この空間に関する抽象的概念が、我々が語ることが許される唯一のものであるとすれば、ただ1つの反論だけが可能であり、その1つの反論というのは、リーマン幾何学や他の一般幾何学の形態によって十分になされてきたものであるといえる。 (続く)
2007年07月23日
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相も変わらず爆弾発言の多いドン引き内閣であるが、ここまで深刻だと、感覚が麻痺してしまう。それにしても、選挙に対する演説があまりにも陳腐なので、全く開いた口が塞がらない。政権与党が激しく野党を非難するとは、ツッコミが得意な関西人でなくても、 「一体どちらが与党やねん、与党が野党非難なんて、考えられへんわ!」 とドン引きの我々国民となってしまう。まぁ、早い話、自ら墓穴を掘っている与党ではあるね。墓穴を掘りながら、「産む機械、掘ってへん、掘ってへんで! 光熱費、いや下水道で、ミネラルウォーターをね、いや誰や、こんなとこ墓穴掘ったんわ? 原爆っ、しゃあないな~。あぁ、バンソコウでも張っといて、天下りお手当て、お手当て! はい、社保庁しっかりせいよ~っ!、解体しちゃうぞ! なにしろ、国民のカネくすねてばかりで、バレそうで、本当は内緒にしておきたかったんですが、モノもらいましてん。できもんですせって! あ、いやぁ、最近、覚えが悪くなりましてん。馬鹿ではないですぅ。記憶障害ですから。すいませんねっ」ってまるで1人ボケツッコミボケって、吉本興業もビックリって感じでもある。ただし、吉本とは逆に、披露するだけ、果てしなく人気は下降を続けるのだが…。 「しゃべらせてみたら、全くの出来損ない総理で、ただ、すましていればよかったのに、せめて腹話術でもマスターすればまだマシ(亜屁総理の腹話術ってなんかハマりそう)」って今更の感が非常に漂う。 そういや、亜屁総理って腹話術の人形の顔みたいで、多分、セサミーストリートにも出ていたような気もする。まぁ、与太話はここらへんにして本題にうつりたい。 ここから真面目に…。 ヤフーの「みんなの選挙」を見ていて以下の文をみつけた。 下村内閣官房副長官は、「超人大陸」というインターネットTVにおける、「内閣副官房長官下村博文の官邸日記・教育立国をめざして」と題した談話の中で、 「いま野党が格差社会の是正というのを言っておりますけれども、野党の言っている格差社会の是正というのは、...(中略)...これは結果的にはお金持ちからもっと税金をとって、そして配るということによって格差を是正するということになるわけですけども、そうすると働いても働かなくても同じになってしまうという活力のない社会になってしまうというふうに私は思います。」 と語っている。 ********************************* この長官は、働くのは、純粋にカネを稼ぐためだといわんばかりである。教育立国をめざす談話としてはいかにも低俗で浅はかな感じが拭えない。 確かに、労働の報酬は、金銭により贖われているが、労働の本質が金銭獲得ではないことは確かである。まず、大前提に、人間として生きるという目的があり、そのための生活の確保、いわゆる生存権であり、生活のための社会づくり、そのための社会参加、社会への共同参画、社会における共通の基盤づくり、福祉への貢献、いわゆる社会権が生まれ、そして様々な社会の中心に国家が成り立つ。 それを単純短絡にして、金銭獲得であるなら、それならば、極論をいえば、犯罪を侵しても、金銭獲得すれば労働なのか? 労働の正しき人間精神は一体何処にいったのだ? ましてや、教育においては況やである。 それなら逆に、金持ちは働かなくていいという論理が成立するだろう。 つまり、裏を返せば、この人は、カネを稼ぐためだけに内閣官房副長官をしているようである。そして、ある程度の地位について、カネを稼ぐ必要がなければ、働く必要はないと表明しているわけでもある。 そしてその発言の主張を読み取ると、この長官は、「格差是正は、働いても働かなくても同じの活力のない社会を生み出す」といっていることになるのである。格差を肯定する発言なのである。 これは全くの間違いで、その原点は、格差は労働量に比例するという論理にある。この人は格差是正すると、労働量の差異がなくなるといっているのである。労働量の差異がなくなるのは、皆、同じ労働量になると言っているわけで、それが社会活力を阻むともいっている。 それなら、労働量の均一化が社会活力を阻むことを示す必要があるだろう。 ここに、労働量という抽象概念が問題となる。 実は、このような科学的抽象化の記述用法は、問題をクリアにするために、発言の見通しをよくしてみただけで、問題解決のためではない。 労働量とは、単純に時間あたりの仕事量で安易に定義するが、実は職種や業種、人間性、創造性、また高度な道徳性により一概に比較はできないものである。 だから、労働量とは本来比較できない代物なのである。例えば、プロスポーツ選手と一般サラリーマンの労働量をどのような基準で比較できるのだろうか? もし、そのような比較が可能ならば示してほしいものである。 あえて間違いを侵し、強引に労働量を賃金で比較するなら、プロスポーツ選手は、大体時給数百万あたりで、一般サラリーマンは 大体時給数千円となるが、この発言者は、プロスポーツ選手のような金持ちから、税金を多くとると、格差是正になるという論理展開なので、時給数百万が、数千円になるまで、税金をとるとなると、金持ちからほぼ99%徴収できるという計算になるだろう。 税率99%というと、確かに、報酬獲得主義のプロスポーツ選手は労働意欲が減じるだろうが、それでも、時給数万ではあるので、一般サラリーマンよりは高く、完全な格差是正とはならないだろう。土台それは無理な話であり、精々、50%がいいところだろう。 だからして、この副長官の言うことは全くの的外れの意見なのである。 このような全く実態のない、机上の空論のような安直な論理思考を基にして、副長官ともいうような、社会上重みある重要な地位の人の発言がなされるから、いかにも問題といわざるをえない。 「副長官、活力がないのは、あなたのオツムであり、あなたの行動力なのですよ!」といってやりたい。 ならびに、「それは日頃から、現場を偵察し、現場で仕事を共にし、社会奉仕の精神を忘れているせいですよ!」と付け加えたい。 自らのオツムと行動力を高めること、何も金銭を稼ぐことのみが目的ではなく、労働そのなかに、あなたの活性化の源があるのです。それが教育なのですよ! このような副長官に、教育を語る資格があるのか? 不思議である。 まずは、与党として野党の意見に耳を傾け、反省する。このことが出来ない限り、与党に居座る資格はない。
2007年07月20日
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■質問;アインシュタインの問題に関する人智学的な立場の必要性についての質問。 知覚可能な世界を離れてエーテル的なものに向かうとき、我々は何故、突然記号(プラスからマイナス)を逆転させなければならないのか? シュタイナーの応え; 勿論、このことは、特別に人智学的立場を取ることなく、他の多くの科学分野において行われているように、その現象を研究することによっても得られる。 (シュタイナーは、この数ヶ月前、少数の聴衆のために、行った講義の中で、いわゆる熱理論の現象に関する偏見のない観点を示したという。) その場合、これらの現象を数学的な定式化の中で表現するように努めなければならない。そのような定式化の奇妙な特徴とは、観察できるプロセスに対応した数式のみの、その結果が現実に対応し、現実により検証できるような数式だけが正しいということである。 もし、圧力容器の中のガスが熱せられたときに何が起きるかを理解したければ、クラウジウス他の人々によって考え出された数式を、それに適用することが可能だが、それは人為的なものとなる。今日、公式に認められていることだが、事実はその数式には一致していない。 アインシュタインの理論との関連で行われた実験を記述するのは奇妙なことである。これらの実験は、ある理論が正しいという仮定に基づいて設定されたが、その実験はその理論を確認しなかったので、思考の中だけに存在する実験のみ(思考実験)に基づいて、別の理論が打ち立てられた。 これとは対照的に、もし、熱現象を扱うとき、それが伝導熱であるか、放射熱であるかの違いによって、適当な正、或いは負の符号を、その数式に挿入することで処理するなら、現実が数式を確認することが分かる。 これとは、他の推量できないものへと移行するには、単に符号を負に変えるだけでは不十分であり、確かに別のことも考慮しなければならない。知覚可能な領域における力は放射的に働くのに対して、エーテル的な領域に属する力は、周辺からやって来るため、負の値をもち、円周の内部でのみ作用するものと想像する必要がある。 このように、他の推量できないものへと移行するときには、別の対応値を導入しなければならない。そのとき、実際の現象によって検証される数式に至ることが分かる。人智学に関係するかしないかに関わらず、誰でもこのアプローチを取ることができる。 ここで別の点を強調する。以前の4つの講義(シュタイナーの四次元)の中で、伝えたいことは、人智学的アプローチから出てきたと考えるべきではない。これらの事柄を述べたのは、それらが真実だからである。いわゆる人智学的アプローチは現象を予測するのではなく、現象からそっくりそのまま結果として生じるものである。 それは適切な概観の結果に過ぎない。偏見なく対象や出来事を認め、理解するなら、その結果として、人智学的アプローチが生じる。もし、自らの出発点として偏った観点を取らなければならないとしたら、いま述べたことに対する見通しは貧弱になるかもしれないが、いまはそういうことはない。 我々は厳密に経験的な基礎の上に立ち、適切な現象を追求する必要がある。それでも、人智学的アプローチがベストであると主張したいが、それは、結局、その結論になったということに過ぎない。(別の質問に答えた後、シュタイナーは次のように結論づけた。) 繰り返し強調できるのは、ここシュツットガルトで発展している人智学を指向した精神科学は党派的、或いはアマチュア的な運動ではないということである(20世紀初頭)。確かにその力はまだ弱いものだが、それは現実的で権威ある科学を目指している。人智学を検証すればするほど、益々、将来それはいかなる科学的検証方法にも耐え得るものであることに気づくだろう。 精神科学(人智学)が今日被っている多くの誤解は、真に科学的アプローチがなされた結果として生じたものではないので、その敵対者達が精神科学と戦うのは、彼ら自身があまりにも科学的過ぎるからではなく、十分に科学的ではないからである。そのことは更なる検証により示されるだろう。 けれども、未来においては、我々は、中途半端な科学になるのではなく、むしろ、完全に科学的になる必要がある。科学は真の発達を遂げるべきである。つまり、科学は、我々を物質の領域へと導いたのと同様の正確さをもって、我々を精神的な領域へと導かなければならない。 注釈;数式において、エーテル体を示すには、プラスからマイナスへの符号変換だけでは、満足ではないが、とりあえず、それが望まれる背景には、エーテル体の力の作用構造にあり、それは、周囲から作用の中心へと向かう構造であるので、元来、普通にみられる、中心から外へと出て行くエネルギーの流れの作用である拡散や放射のような、プラスの向きとは逆になるわけである。
2007年07月20日
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前回の続きである。 とはいえ、シュペングラーの考えとはどのようなものだったのか? (特殊)相対性理論者とは異なり、オズワルド・シュペングラーは、現実に対応した範疇の中で考える。けれども、彼が考えること全てが互いに整合性がとれているわけではない。彼が、天文学、生物学、歴史、建築、彫刻等々に関して発展した概念が常にかみ合っているわけではない。 それらが形成する構造は、共に成長した結晶の幾つかに比肩できるようなものである。それら全ては混乱しており、互いに破壊し合っている。もし、シュペングラーの書籍を読んでいる間、現実感覚を維持するならば、彼の概念は溢れていること(オーバーフロー)が分かる。 オズワルド・シュペングラーは確かにいかに考え、いかに概念を発展させるべきかを知っているが、それらはお互い破壊し合っていて、お互いを吹き飛ばし、お互いを切り離しているといえる。1つの概念が常に別の概念を無効にするため、全体としては何も残らない。 シュペングラーの考え方の展開に我々の現実感覚を適用するときに見るのは、酷い破壊活動である。 シュペングラーは現代的思考における1つの極、異なった、あらゆる分野から導出される概念から1つの統一を構築する極を代表している。この傾向に加担する哲学者達は、個々の科学から彼らが導出する全概念が集められ、一点に集約する試みの中で、いわば1つのシステムへと統合できるほどの抽象的レベルにおいて、あらゆるものを明確に規定する。 ところが、それらは一点に集約する代わりに、互いに粉砕し合い、無効にし合う。シュペングラーは現代科学の哲学者として、他の多くの哲学者達に比べて遥かに優れている。他の哲学者達の概念は互いに破壊し合わないが、それは、彼らの系統立てが、十分正確に規定する勇気に欠けているからである。 他の哲学者達の科学哲学においては、彼らがいわば虎の爪と猫の足とを常に取り違える結果、個々の科学的探求における哲学的な帰結と称されるコミカルな構築物が生じてくる。これらの哲学者達を真面目に考察するなら、シュペングラーが哲学の習慣に従って、結果として生じさせることができる、あらゆる科学的なものに関する全ての科学及び認識に関する経験を、彼らがもっているということが分かる。 他の極もまた1人の哲学者、つまり、シュペングラーほどの評価は受けていないが、それでも人気のある哲学者、ヘルマン・カイザーリンク卿によって代表される。 カイザーリンクがオズワルド・シュペングラーと異なるのは、彼の概念のどれ1つとして、いかなる内容ももたないという点にある。 シュペングラーの概念が脂ぎっているのに対して、カイザーリンクの概念は空疎である。後者の概念は決して互いに矛盾しない。何故なら、それらは、基本的には、中身のない籾殻のような仕事に過ぎないからである。 カイザーリンクの唯一の思考と言えるものは、これもまた空の籾殻だが、それは精神が魂と結びつかなければならないというものである。カイザーリンク卿は激しく人智学を攻撃したが、例えば、「未来」という雑誌の中で、人間を様々な構成要素(エーテル体、感覚体、感覚魂等々)へと分解した咎で、私(シュタイナー)を責め立てたが、実際、人間は1つの統一体で、そのようなものとして機能しているのである。 「精神は魂と結びつかなければならない」という考えは悪魔的なまでに巧妙だが、実際、賢いという点では、例えば衣装は1つの統一体で、個別の構成要素、例えば、ベスト、ズボン、靴、等々に分解すべきではないといっているようなものである。それは全体で1つの統一体なので、仕立屋に上着とズボンを別々に作らせ、それに見合うように靴屋に靴を作らせたりするようなものである(そこにそれを着る人間が考慮にない)。 これら全ては、それを身につけている人間の上で1つの統一体を形成するというのは当たり前のことで、カイザーリンク卿がその抽象的な理想主義の中で、1つの統一体であると主張したからといって、上着とズボン、それから恐らく、靴も一着の洋服として縫い合わせるというのはナンセンスである。これが反対の極である。 一方には、互いを破壊し合う概念のシュペングラーがいて、他方には、全体として空虚な概念のカイザーリンクがいる。多少なりとも現実感覚をもつ者にとって、シュペングラーを読み、彼の概念全てが互いにぶつかり合い、互いを粉砕しながら、互いの中へと押し進むのを見るのは1つの拷問である。 この全てを真に経験させられる。幾らかでも芸術的感受性を持つ人があれば、特にそうなるだろう。シュペングラーの書籍は完全に非芸術的な構築物である。ところが、カイザーリンクの書籍を読むときには、1ページ読む毎に立ち止まって息を吸い込む必要がある。 彼の概念はその内部に空気をもっていないため、思考を形成しようとしても、何もないようなものである。しかし、正に、そのために、これらの概念は人々にとって究めて理解し易く、心地よく感じることができるものとなっている。 この不能な無思索家が、人々に、精神科学(人智学)によって確認される事実の中には、なんらかの真実が含まれているかもしれないが、自分は霊感を持つという連中の1人ではないので、確認することはできず、従って、それらが真実であると仮定することもできない等々の事柄を告げるときには、特に空疎があてはまるといえる。 勿論、この種の話は、特に人々が自分自身で必要な証拠を提示できないときには、折畳まれ、片づけられたものとなる。そのような人たちが、今日、特に好んで読むものは、自ら確かめるのに苦労するような著書ではなく、そのような事実が確認できないことを認めさせるような著書である。 特に、カイザーリンクが芸術に関して書き散らかしている事柄は、髪の毛を逆立たせるのに十分なものだが、非常に人気がある。このテーマに関して述べるべきことはこれだけである。 「何を」を考えるべきであるが、「いかに」をもっと真剣に考えるべきであるとゲーテが言うとき、それが何を意味しているかについての感覚を、これまでの議論から発達させ、見通せるだろう。 シュペングラーを読むとき、「何を」を考えることができるが、それは彼が提示すべき多くの「何を」を持っているからである。 しかし、ゲーテは、世界観というものは全体を、その配置と組織、そして思考の本質的調和において、いかに見るかということにかかっているということを知っていた。このことは、シュペングラーに関しては、「何を」を考える単なる理由だけとなる。 シュペングラーは確かに「何を」を、それが考えられるべき仕方で、考えるが、「いかに」を考えるのには完全に失敗する。ゲーテは、とりわけ、思考はいかに配置されるべきであるかを考えるように促す。カイザーリンクに関しては、彼は「いかに」を有しているように見えるが、実際、彼の仕事は「いかに」を束ねたものだが、「何を」が、つまり、内容がないのである。 注釈;今回も難解だが、シュタイナーは、ゲーテは、「何を」と「いかに」の両極のなかで思考を行っているのに対し、シュペングラーには、「何を」しかなく、カイザーリンクには「いかに」しかないといっている。つまり両者は片手落ちなのである。 シュペングラーは、西洋の分析(解析)主義の代表的人物だが、あまりに分析しすぎると、かえって全体像が分からなくなり、分析結果を集めて、全体像をみると、お互いがお互いをキャンセルしあって何も残らなくなるのに対し、カイザーリンクは、還元(帰納)主義者といえ、自らの主張に沿う、ただただ無内容の断片を集め、無理やり、こじつけを行う。 つまり、ゲーテのように全体像を想定しながら、分析を行うのが理に叶っているというのである。しかし、現代をみると、シュペングラーの説く西洋文明の没落は妥当なものになっており、トインビーは、その救済としての理論の全体像として易学を取り入れたが、それはゲーテの態度と類似しているともいえよう。 ちなみに、シュタイナーは、18世紀からはじまった唯物論的科学は、将来行き詰まることを予測し、その救済のために、ゲーテの姿勢を採用した、精神科学(人智学)を興したのである。
2007年07月19日
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前回の続きである。 ウンガー博士も触れたように、人間は人間的要素を考慮しない今日の科学から本当に閉め出されているといえる。 相対性理論のような考え方、そして、それは確かに現実には対応していないが、そのような考え方が影響力を持つことができるのは、現代科学が、あまりにも完全に、現実からかけ離れているために、人間の外側にある、あらゆるものを取り扱いながら、その内部で生じることは何1つとして取り扱わないからであるということに他ならない。人類は現実に即した方法で考えるという技術を、もう一度習得し直す必要がある。 もし、ここに石があるとすると、それが独立して存在し、少なくともある程度は独立していると見ることができる。全ては、どのような前提に立っているかにかかっている。その石の境界線の内側にあるもの(精神性)を見るとき、その石に関して、ある種の観点を発達させると言うことができる。 しかし、今は石ではなく、摘み取った薔薇に関して考察する。石に関する現実性を石の境界の内側において割り当てるのと同じやり方では、薔薇に関する現実性を割り当てることはできない。その理由は、摘み取った薔薇は(石とは異なり)そのまま独立して存在できないことによる。 それは何か別のものとの関連で発達すべきものである。石は、その表現された境界の内側に一定の現実的存在性を有しているが、薔薇はそうではない、何故なら、それはその根や茎との関わりの中でしか存在し得ないからである。もし、それをその根から引き離すなら、その存在に関しての前提条件はもはや存在しなくなり、維持が不可能になる。 我々の思考を、物事の中へと沈め、それらのもの自体を考慮する技術を学び直す必要がある。この技術を再び獲得したときのみ、当然の帰結として、例えば、天文学の健全な形態をもつといえる。そのとき、相対性理論のような恐ろしく抽象的な考えを持たなくても済むようになる。本質的には、相対性理論は真の現実の考えに基づいたものではない。 通常の定式 s=v×t(距離は速度と時間の積に等しい)は究めて示唆に富んでいる。現実を記述するとすれば、ただ次のように書き表すことができるだけである。 v=s/t 抽象的方法で現実を把握するときには、現実の対象物の中に存在する、あらゆるものを計算することができる。抽象的なレベルでは、多くの異なるものを把握できるので、抽象性の中に留まったままで多くの異なる計算ができる。 しかし、これらの抽象性を現実的なものと信じるべきではない。無機的世界においては、速度だけが現実であり、時間と空間は単なる抽象である。なので、時間と空間を含む計算を始めるときには、非現実的なものの領域へと入り込み、そして、一度、非現実的な意味で考え始めると、もはや現実へ戻ることはできなくなる。 なので、これらの問題は、我々の時代の非常に重要な欠点に関連している。今日、自然を理解するとき、人間は精神を完全に無視するようになり、我々の魂は抽象性に向かうようになった。ある意味、抽象性を扱うのは究めて気持ちのよいことで、何故なら、そのとき、自身を対象や出来事に沈潜させることを学ぶ必要がないからである。 空間や時間の意味で考えることは、定性的側面に、自身を潜行させたり、或いは、何か別の事柄との関連で、現実的に考えることが可能なら、何でも、出来事自体に沈潜し、本当の現実的意味で考えることよりも、(抽象的な分)容易である。 これから言うことを信じる必要はないが、いずれにしても、真実であり、思考能力や現実の理解への願望を育てた人間にとって、アインシュタインの相対性理論を読むことは拷問で、それは、アインシュタインが提示する考えの全ては、数学的に非常に首尾一貫したものにも関わらず、多少なりとも現実感覚を持つ者にとっては、文字通り考えも及ばないことだからである。 そのような思考を追求しても何もならず。誰かが箱の中に閉じ込められて高速で空間中を飛行し、戻ってみると新しい世代の人々や全く異なる状況が存在するということ(浦島効果)に関して、アインシュタインが考えた成果を提示するとき、それが何を意味し、いかなる種類の道理に適っているのか? そのような状況に関して考察するときには、勿論、空間と時間の意味においてのみ考え、その実験に供されている間、恐らく、(光速度により)破壊されるような、その人物や物体の外的な体的本性に関しては無視しているのである。 注釈;光速で運動すること自体不可能である。シュタイナーは速度という概念はあくまで初速度を基準にして測定すべき立場をとるので、光速の初速度、つまり光源が特定できない限り、いわゆる光速という速度は、物理量定義の速度ではないという立場をとる。 このような反論は、相対性に関する課題を狂信的に考える人(相対論信望者)にとっては些細なもののように見えるが、現実との関連においては考えざるを得ないことで、現実感覚を持っている人であれば誰であれ、そのような思考を結論に至るまで見通すことはできない。 例えば、車を運転中のパンクを考える。自分が乗った車が地上を疾走すると考えるのも、車が静止している間に下の地面が動いていると考えるのも同じだと仮定する。もし、本当にその間に違いがないのなら、車のみに関係するパンクのような小さな故障を生じるために、突然地面がぶつかってくるというようなことがどうして起こるといえるのか? もし、車が動く場合と、地面が動く場合が同じだとすれば、この状況(事象)をどのように考えればよいのか。その結果は外的変化に影響されるはずがない。前に述べたように、相対論の理論家に関する限り、そのような異論は恐ろしく些細なものかもしれないが、相対論を考える上では、現実を実際に反映するものとなる。 その思考が抽象性(首尾一貫した思考を支えるのであれば、抽象性でもよいが)ではなく、現実に根ざす者であれば誰でも、そのような問題を指摘しないわけにはいかないだろう。 なので、基本的には理論的形態を取る天文学とともに、我々人間は生きているといえる。1つの古典的な例は、我々がコペルニクスの第3法則を無視していることである。我々はそれが心地よくないので、脇へと押しのけ、それを研究すれば、我々が慣れている計算を不快に感じるのを学ぶことになるからである。 では我々は一体何をやっているのか? コペルニクスの第2法則を適用するが、その計算結果は実際と折り合いがとれず、正午が間違った場所に行ってしまい、そこで、ベッセル補正として知られる日々の補正を導入する。もし、それらが示唆するものに、十分に気づくなら、コペルニクスの第3法則の考慮の必要性を理解するように、つまり、現実を扱い始めるだろう。 ここでのポイントは、そのような問題の背後にある原則を認めることで、現在、そのような原則を取り扱う方法は、我々をあらゆる方向に彷徨いさせてしまう。シュテッフェンの仕事は、特別な認識の領域において、そのような3つの耐え難い道を提示したという点で素晴らしいものといえる。 今日、そのような間違った道に出会うことは珍しくないが、それらは現実の生活に影響を及ぼし、現実を欠く数学から導出される方法で考察するように訓練されているが、この型の思考は次第に天才の試金石と言ってもいいようなものになっている。 実際、現実感覚というものは、ときとして、天才よりもずっと役に立つが、その理由は、もし、人間が現実感覚を持てば、現実の状況の側に留まらなければならないということによる。物体や出来事の中に、自身を沈め、それらと共に生きる必要がある。 もし、人間が現実感覚を持たなかったなら、単に数学的な定式や手法の操作により、あらゆる種類の抽象性を、最も天才的な方法で、空間と時間に課すことができる。その際、真に驚異的レベルの抽象性へと上昇することさえできる。 これらの抽象性は、ときとして、究めて説得力のあるものとなり得る(現にいまその効力を発揮している)。このことは、近代の集合(群論)理論のことを考察することでわかるが、それは無限を説明するための基礎として用いられてきた。集合理論は数学の正に基本原則の数を解消するが、その理由は、数を通常の数ではなく、単に人為的に選んだ集合を別集合と比べることにより、個々の実体を、それらの質や順番とは無関係にクラス分けすることによる。 集合理論は無限に関する一定の理論の発展を可能にするが、その間、ずっと抽象性の中を泳ぎ回っている。具体的な現実の中では、そのような操作を遂行することは不可能で、徐々に、自身を現実の中に沈める必要性を無視することに慣れるようになったという点に注意することが重要である。この関連で、精神科学(人智学)は、この真の誤解を解く必要がある。 さて、これから2つの対極を示すことにする。これは理論とは無関係のように見えるが、実際には大いに関係がある。何故なら、これらの事柄、全ては理論以上のものを取り扱っているのであって、もし、それに関する思考が健全であれば、修正され得るからである。 現実に問題となるのは健全な思考、単に論理的ではない思考を発展させる必要があるということで、その理由は、論理は数学にも適用されるということによる。論理を数学の中に取り込むことができ、その結果、完全に首尾一貫した構造、つまり、首尾一貫しているにも関わらず、現実に適用される必要が全くない構造が得られる。これまでに到達したのは、物事はいかなる真の現実感覚をも欠いている行儀の悪い思考方法を、人間がいかに当てにしていることかということを示すことができる地点である。 一方で、ここに現代科学が提供すべき、あらゆるものを要約しょうと試みる書籍がある。この有名な書籍は、何万という部数(恐らく7、8万部)が既に売れている。オズワルド・シュペングラーの「西洋の没落」だが、このことはその4、5倍の数の人々がこの書籍を読んだということを意味している。 このことからも、それが、単にある意味で現代思想から現れたというだけの理由から、いかに現代思想にとてつもない影響を及ぼしたかということが分かる。この本の著者は、現代思想が究極的に行き着く先の結果を定式化する勇気を持ち合わせていたといえる。シュペングラーはこの本の中で、天文学、歴史、科学、そして芸術が提供すべき、あらゆるものを眺望する。 彼が大量の証拠を集めたということは、認めざるを得ない。シュペングラーが真に現代的な天文学者、生物学者、美術史家等の考え方から究極的な結論を引き出す勇気を持っているのは、実際、このような仕方で考察するからである。例えば、シュペングラーの書籍は、熱力学の第2法則を明確に証明できるのと同じくらい明確に、三千年紀(西暦2000年、つまり現在)の始まりには、西洋文明は完全に野蛮な状態へと堕落しているであろうということも、また証明する。 この書籍は現代文明の没落を示すだけでなく、今日、どのような科学的記述であれ、明確に証明できるのと同様の明確さで将来の出来事をも証明したということを認めなければならない。現代科学の方法論という意味で、シュペングラーの西洋の没落に関する証明は、いかなる天文学的証明やその種の証明と比べてみても、確かに有効なものであり、相対性理論に関する証明よりは、遥かにマシなものである。 彼の結論の抜け道を探索できるのは、シュペングラー自身が見ていない要素を見る人たち、つまり、将来、人類にとって全く新しい衝動を提供することになる人たちだけである。それは人間の最も内奥の核から生まれ出る衝動、現代思想のみに立脚する、いかなる科学にも見ることのできない衝動である。 注釈;「西洋文明の没落」を読んで、歴史学者トインビーは、真剣にその救済法を、東洋の易学、易経に求め、西洋の没落は東洋により救われなければならないと考えたという。
2007年07月18日
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わがブログをよくご訪問なさってくださる孔明さまのブログに触発されて、数学と文学の類似点について、ああだこうだと述べてみたい。 それは、数学も文学も、文字を使い、文字において美を表現することに変わりがないと私的に思われるからである。 孔明さまのブログでは、文学ではなく、特に詩に関してであったのだが、詩の場合、もっといえば、俳句や短歌のような決まりごとに、意味のある文字を当てはめるところなぞは、まるで数式そのものといってよいだろう。 問題となるその相違は、数式が普遍的な対象を扱う点であるのに対し、文学では、個別的、主観的対象を扱う点にあるといえるが、どちらもその表現する文字に共通の人類の思想、感性(観点)を求めている点で一致しているといえるだろう。 表向き、普遍(客観)と主観を表出しているが、どちらの基盤も、人間の立場から、人間を(観測の)土台としている点で変わりはない。 俳句は一種の特異的(個別的)な数式ともいえる。 人間以外でも、数学は成り立つという人がいるかもしれないが、それを証明することは困難だろう。サルに計算を教えたからといって、サルが数学的思考をもつとは言い切れないだろう。 この場合、人間の数学ではなく、サルの数学を発見すべきである。第一、教えなければいけないということは、本来、未開発であり、数学をもたないということでもある。少なくとも数学を我々人類自身が開発したという立場をとるならばである。 計算ルールに従うからといって、数学の存在を意味するものではない。でなければ、コンピュータは、皆、数学的思考の存在といえるだろう。 ここで、機と、ある点に気づかされる。計算とは、「プロセスの洗練化である」、と。コンピュータの場合、これはアルゴリズムにあたる。 しかし、計算そのものが数学ではない。そこに、普遍的真実からなる体系が存在しなければならない。ここに、数学的思想の意味づけがある。 計算ルールは俳句でいえば、575調であり、季語である。俳句の呈をなしていても、良い俳句とはいえないように、計算できてはいても、良い計算法、つまり数学とはいえない。 特に数学の場合、間違えるという人間の欠点にその発展性が見出されるのである。アランチューリングという計算機を発明した数学者は、「間違えるからこそ、数学は発展する」というようなことをいっているのである。 そう、数学も文学も、人間が、宇宙体系を表現するツールなのである。人間は、日々間違いながら生きている。体験とは過ちの連続でもある。予め予測できたら、新鮮な感動など生じないし、何のための体験なのだろうか。 実は、数学は普遍的といいながら、数学者だけに通用する常識、例えば、無限に続く直線とか、三角形の内角の和は180度とか、数学的思考を洗練化していった品性(数学的世界)において、非常に個別的なのである。 無限に続く直線は現実にはないし、完全な直線からなるようにみえる三角形も、ミクロレベルでは歪んでいるだろう。 だからといって、数学が現実的でないというのは、間違いである。数学は、人間の思考体系の理想を表現しうるものなのである。数学を思い描くからこそ、人類は無限なる直線を実現しようとし、完全なる三角形を構築しようとするのである。 神々から与えられたこれら数学的思考を元に、人類は、大地を開発し、構築してきた。 それは文学においても、人間生活の不条理を捉え、理想を求めてきたといえる。 人類だからこそ、数学と文学を学びえたのである。他の動物では理想を掻き立てうる霊力が足らない。これは人類が、天に向かって立ち上がったことによる影響が大きい。動物は大地にへばりつき、動き回るだけの利己存在に対し、人間は天を敬し、それを志向したのである。 数学が外へと物質に関わる点に対し、文学は、内への非物質に関わる。 つまりは、物質プロセスの洗練化が数学であるのに対し、非物質プロセスの洗練化が文学であるといえるだろう。 人間のなかで、外なる物質プロセスと内なる非物質プロセスは循環し、対流している。そのときどきの表現が数式であり、俳句である。 秘教では、宇宙は壮大なるプロセスからなり、この大規模なプロセス群を大宇宙と呼ぶ。対して、そこから分かれた人間は、そっくりそのまま宇宙と自己相似形であり、小宇宙と呼ぶ。 この大宇宙と小宇宙が照応しあうところに、数学と文学があり、人間が存在する。外から数学を究め、大宇宙の治癒的創造力を探求する道が、人間が神々への進化に向かう一つの道である。 そして、内から文学を究め、小宇宙の道徳創造力を探求する道が、人間が神々への進化に向かうもう一つの道である。 あらゆる大宇宙の力が、人間の内部に治癒的に作用するように、神々は小宇宙である人間をつくったという。人間のなかには元々神々の治癒力を呼び起こす力がある。これを道徳と呼ぶ。 この意味が「神の意志する人間」という言葉に表れているという。人間の存在が神々の存在を表明しているのである。 人間において、数学ができ、文学ができるのは、神々の存在そのものに相違ない。数学と文学も究めれば道徳という真実に向かうのである。 「人間よ!利己主義から地に埋もれることなく、飽くなき大志を抱け!!」
2007年07月18日
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■質問:コペルニクスの第3法則についての質問 シュタイナーの答え; 短時間で、コペルニクスの第3法則に関して話すことはできない。なので、ただその歴史についてコメントする。古いプトレマイオスの体系を酷く揺るがし、天体に関する、見方を革命的に変えたコペルニクスの基礎的な仕事を見てみるならば、それが3つの法則を含んでいることが分かる。 これら3つの法則の第1のものは、太陽の周りを測心円状に回る地球の年周期に関しての記述、第2のものは地球の自軸上の回転、第3のものは季節と歳差運動に関連した地球の年周期に関しての記述である。 天文学は発展したが、コペルニクスの第3法則を、その全体性において、いまだ考察できないままである。事実、コペルニクスの後継者達は、それを上手に除外している。この法則に関して言えることは、そのことだけである。それに関して、包括的描写を行うならば、非常な時間を有する。 入手できた現象に基づいて、コペルニクスは、最初、太陽を巡る地球の周回運動から生じる日々の変化を、彼の第3法則が包含する季節、年、そして、長周期の変化を考慮することなく計算した。 そして、もし、地球の位置にいて、日々の変化や太陽を巡る地球の周回運動に依存する変化を他の天体との関係で考察するなら、結果として、地球が太陽を周回しているという観点が得られると結論づけた。この観点は季節や歳差運動のような他の現象とは相容れないもので、そのことは、実際、地球が太陽の周りを回っているという仮定を無効にするものである。 地球と他の天体との相互作用を定量化し、計算可能にするために、それを簡略化し、1年以上或いは何世紀以上にもわたって観察できる微妙な変化に関しては無視するが、その理由はこれらの変化が太陽を周回する地球の運動に依存する日周変化を複雑にするからである。 コペルニクスが、その第1及び第2法則の中で表現した仮定に基づいて日周変化を計算すると、地球が太陽の周りを1年で周回しているという結果が得られる。コペルニクス自身が言っているように、もし、その計算に第3法則を含めるなら、日周運動の計算に用いた第1法則、つまり、地球の1年の運動を導き出した第1法則の中に含まれる要素を帳消しにし、そのような年周運動を、ほとんど排除してしまう。 いずれにしても、コペルニクスの第3法則は無視されてしまった。 人々は安易に、地球は24時間で自軸上を回転し、その間に、1年で太陽の周りを動くという仕方で前進することを仮定する方を好んだ。太陽は全く動かないというコペルニクスの仮定に教条的にしがみつく限り、この解決法は安易である。けれど、遥か以前には、この仮定を放棄するように強いられ、そして、コペルニクスの第3法則は復権させられなければならなかった。 この課題に関しては、ただ簡単に概略を述べるだけだが(いま述べたように、詳細な数学、幾何学的な説明をすれば数時間かかってしまう)、もし、コペルニクスの第3法則を、本気で取り上げるなら、地球が太陽の周りを回っているという結論にはならない。太陽は(静止しているのではなく)、動いているのである。 つまり、もし、地球が太陽の周りを回転するのならば、太陽は(動いているので)地球を追い越してしまうだろう。地球は太陽の周りを巡ることはできない。何故なら、その間に太陽は地球から遠ざかるからである。現実には、太陽も動き続けていて、地球やその他の惑星は太陽を追いかけているのである。 それはスクリューの軌跡のような(右巻き螺旋の)線で、一方に太陽があり、他方の端には地球がある。地球と太陽、そして、それらが前進するスクリュー状の動きに、2重の焦点を当てることにより、地球が太陽の周りを回っているという幻想が生じる(太陽も地球もお互いが相手の周りを回りながら、宇宙をスクリューのように進行し運動しているのである;お互いが回りながら、いわばワルツをダンスしながら、その大きな総体構造が銀河となる)。 注釈;DNAが右巻き螺旋構造なのも、太陽からくる太陽ニュートリノに傾きがあるのも、とどのつまり、物質の対称性に若干の非対称性がみられるのも、この太陽と地球が運動する右巻き螺旋構造にあると踏んでいる。つまり、生命性に右側有利な原則、カイラルティ(キラルティ)鏡像対称性は、地球と太陽の運動を反映し、いわば真似ているにすぎないのである。生命体は光がくる天に向かっているので、その構造が類似してくるのは当たり前といえば当たり前である。 この全てにおいて興味深い点は、コペルニクスが、今日の地動説よりも、もっと進んでいたことである。コペルニクスの第3法則は、コペルニクス以後の天文学上の発展から抜け落ちてしまった。我々が地球に関して計算する太陽を巡る年周期を無効にしてしまうような、その他の現象に関して記述する、この第3法則なしに、天文学は発達してきた。コペルニクスを正当に評価するには、この法則が再び導入される必要がある。 このテーマはそれほど大きな関心を引くことはない。何故なら、もし、天文学に対して真に現象論的なアプローチを取るなら、第1に、とりわけ、ブリーデ博士が既に触れたように、極端に複雑な運動を扱っているということに気づく必要があるからである。 そして、これらの運動の記述を試みるとき、用いる幾何学上の構成は、単純な幾何学的過程の記述にのみ依存したものならざるをえないということに気づくことになる。天体はそのような単純な過程には従っていないので、いつも障害が出現し、そして、更なる仮定を付け加えることによって補強する必要がある。そのような仮定を超えていくとき、天文学は全く異なったものになる。 新たな真の天文学が生じるには、我々が、真に人間を含み、人間の中で精神的に生じる現象を観察する自然科学体系へと進むときであり、これらの現象の考慮は、宇宙空間に生じる出来事や経過に関しての観点を発展させるための助けになるだろう。
2007年07月17日
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前回の続きである。 ゲーテの色彩論は、色の物理的、生理学的な現象を提示するだけでなく、色の感覚的、道徳的影響を探索することにより、その課題全体を人間に適ったものとする。我々は、人智学の仕事をする中で、ゲーテにより指摘された色の影響から人間存在全体を理解し、幅広い課題、そして自然全体を理解するという更に幅広い課題に移行することができる。 今日、西洋文化の中で経験する退廃の大部分は、(自然を)制御したいという、我々の欲求をただ力学的観点からのみ満足させることに関連するということに、繰り返し、注意することは、重要で有意義である。 この点において、我々人類は非常に満足に行った。我々は鉄道、電報、電話、そして、無線や複合電信さえも発達させたばかりでなく、この大陸の多くの部分を舗装し、そして破壊した。 我々の制御への欲求を完全に満足させるということが破壊へと導いたといえる。 (世界を)制御したいという純粋に技術的な欲求から始まった発展を、直線的(線形的)に追求することが、我々を破壊へと導いた。 この破壊的な側面は、病的に拡張する物理的現象に関する機械論的な観点を、別の観点、すなわち物理現象の詳細を、機械論的な考え方で包み込むことにより、根こそぎ破壊してしまうことのない観点で置き換えるとき、完全に取り除かれるだろう。 機械論的観点は、確かに非常に良好な生理学的な説明を産み出したが、我々は物理的現象の詳細に対する機械論的観点から離れていくだろう。我々の新しい観点、そして、それに関しては、最後の結論に至るまで議論できないが、それはまた現実に基づく数学の拡張へと導くことになるだろう。 気づく必要があることは、過去30年か50年にわたって、混乱した機械論的な考え方が、いわゆるエーテルに関するあらゆる種類の意見を可能にしたということである。以前、別の文脈で触れた物理学者プランクは、多大な努力の後、次のように記述するに至った。 「もし、我々が、物理学の中で、とにかくエーテルについて語りたいのであれば、それにはいかなる物質的性質をも帰属させるべきではない。それを物理的な意味で想像すべきではないのだ」、と。 プランクは、物理学がエーテルに物理的性質を帰属させることを差し控えさせた。 エーテルに関する考えや概念が、本質的に有する間違いは、エーテルに関してはほんの僅かの数式しか見出せないとか、或いは、エーテルに関する数式的な事柄が原因ではなく、エーテル仮説の支持者たちが、物理学の個々の問題をカバーするために、数学を拡張する傾向によって、完全にその努力が浪費されてしまったからである。 彼らの数学が間違っていたのは、エーテルの効果が、役割を演じる定式の中に数を持ち込んだとき、まるで質量のある物質を扱っているかのように、捉えたことによる。エーテルの領域に踏み込んだ途端、数式の中に通常の数を持ち込むことはできないので、やがて、数学自体を真に拡張することを求める必要性をも感じるようになる。 この点については2つの事柄のみを明白にさせておく必要がある。物理学者プランクは、もし、物理学の中でエーテルについて語りたいのであれば、少なくともそれに物質的性質を帰属させることは差し控えなければならないと言った。 そして、アインシュタインの相対性理論は(或いは、相対性理論のようなものであれば何でも)エーテルから完全に離れることを強要する。ここでは、簡単な示唆を与えることができるだけだが、主な点は、エーテルに移行するときには、物理学の定式、つまり物理的現象に適用される数式に負の数を持ち込む必要があるということである。 これらの数は負でなければならないが、それは、丁度、理論物理学において正の数から負の数へと移行するときのように、正の物質からゼロを通って反対側に移行するときに、エーテルにおいて、我々が出会うものは(アインシュタインが信じているように)無でもなければ、(プランクが言っているように)純粋な負でもなく、丁度、負の数が正の数の反対であるように、何か正の物質の反対の性質を有するものとして想像すべきであるからである(いまでは反物質という概念となっている)。 負の数とは何なのかを議論することになるかも知れないが、数列を負の数にまで純粋に数学的に拡張することは、負の数の性質を明確に理解する前であっても、現実にとって意義深いものとなる。 勿論、私(シュタイナー)は、19世紀における重要な数学論争、正と負の記号の中に質的側面を見た人々と負の記号を、ただ負の被減数を欠く減数として見た人々の間の論争をよく承知していた。 この論争は特に重要というわけではないが、物理学が、物質的な効果からエーテル的な効果へと移行するときには、正の数から負の数へと移行するときに、数学の定式において辿る道筋と同じ道を辿ることを強要されることに気づくことは重要である。 このような方法で数を取り扱うことを決めたならば、式の結果をチェックする必要がある。公式上の虚数の概念を正当化するために、数学の定式化において多くのよい仕事が為された。物理学においても、ある地点においては、正負の数を虚数(複素数)で置き換えることを強いられる。この地点において、自然に適した数と相互作用することを始める。 私(シュタイナー)は、これらのこと全てを非常に簡潔に描写し、僅かの言葉で総括したが、その可能性ということについて意識する必要がある。質量を有する物質から生命の力へと移行するときには、物質の量的側面の反転を示すために、式に負の数を持ち込む必要がある。 そして、生命を越えていく瞬間、負の数から虚数へと移行する必要があるが、それは単に公式上の数なのではなく、それは、丁度、虚数列が、正と負の整数の数列に関連するように、正や負の数からではなく、質的かつ本質的にエーテル的な側面、もしくは負の物質と質的な側面、もしくは正の物質の両方(量と質)に関連する実質的な側面から導出された性質を有する数(複素数)である。このように、数学の定式と、ある種の現実の領域との間には、真なる結びつきがある。 もし、自然を制御したいという人間の欲求の満足における、真に理性的な主張が、機械論、物理学、或いは生理学よりも、効果的ではないという、単純な思い込みのために、考えを現実に近似させ、或いは、それを現実の中に沈めようとする試みが失敗したら、とても残念なことだろう。 実際には、それらの考えは、栄光あるものとしたテクノロジーに、機械論的世界観を適用するよりも、更に効果的なはずである。この機械論的なテクノロジーは、確かに人類の文化的発展にとって偉大な結果をもたらした。 けれども、通常の物理学的計算の結果として、自然科学の栄光ある発展に関して、とめどなく語る人たちは、我々の関心が全く技術的な領域に向けられた結果として、その他の領域が被った苦しみを心に止めておくべきである。 単なる技術的理解や自然の制御によって、もたらされた退廃から逃れるためには、機械的、機械論的な知識とは異なり、物事の本質的(精神的)な性質を認めることを拒否できない生理学や物理学を、将来、頼りにすることができるかもしれない。 この機械論的領域は、物事の本質的(精神的)な性質を簡単に退けてしまうが、それは正に、この本質的(精神的)な性質が、我々の周囲の空間全てに広がり、入手困難であるからに他ならない。物理学の分野全体が、機械論の分野が発達したような仕方で発展するのはそれほど容易ではない。 物事の本質的な性質を認めようとしない議論全ては、以上のことから来ている。物理学者が純粋に機械論的観点から、考えることを選択するとき、(精神的)存在の理解を安易に拒絶するだろう。 今日、数学的な言葉で機械論を表現するために用いられる定式の背後には(精神的)存在は存在しない。存在が始まるのは、もはやこれらの式を単に適用するのではなく、数学そのものの本質的な性質へと探求を進めるときだけで、これが、質量のないものを、カバーするように、数学の分野を拡張するにはどうしたらよいか、という質問の答えになっていれば幸いに思われる。
2007年07月16日
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安岡正篤著の「十八史略」や「人生の五計」は現代必読の書といえるだろう。この書を読むと、いかに、西洋の文明が没落し、東洋が破綻しかかっているかが、精神的に吟味できるのである。是非、高等学校の教科書にすべきである。 特に、その堕落の顕著なるものが、いわずもがな、日本の退廃馬鹿政治家たちである。国政を金儲けの道具なんかにする阿呆は、一刻も早く辞すべきである。それは正に天にツバを吐く行為だからである。なんのために、天地が国家を生み出し、民族をそこに住まわせ、衣食住を与え給うたと思っているのか? 全くの親知らずの馬鹿息子である。 その書の冒頭に、古典・諺への誤解の章がある。 大体、言葉というものは、それを使う者の精神性により、善にも悪にもなる。甚だしきは、曲解となり、それが通俗化してしまう弊害である。この代表例が、いまの日本の政治家たちの言動なのである。教養のなさが滲み現れている。 では、その解説をはじめたい。 人間が進化するには、終日何時をも、学ぶ必要がある。日々人間が生きるのは、人生を通じて、体験から学びを得るためであり、その学びが、自身を進化へと導くのである。学びが止むときは、死んだときと解するのがよいだろう。 だから、日々、是、精進は、学ぶことに如かずということである。学ぶことには限度がないから、学べば学ぶほど、学ぶ必要があり、学びが深まると共に、徐々に進化を育んでいくのである。そうすると、自然、遊びながら学ぶことができるようになる。是を遊学という。 ただし、「遊び」とは、俗にいう快楽を求め、堕落を生む「遊び」ではないことに注意すべきである。学びが学びという連鎖を生み、そのなかで一つの環ができることを意味する。学びのなかに、ネットワークが張り巡らされ、和ができ、自我ができるようなものというべきだろう。 学びながら深まると、まずは専門性へと向かうが、そののち行き詰ってきて、一反、今度は、一転して包括的、統一的に原点へと回帰し戻ってくる。この連鎖が遊びなのである。陽から陰に転じる働き、このことを「遊び」と呼ぶと思われる。 さて、前置きが長くなったが、論語にある「その愚、及ぶべからず」というのがある。これは、愚を馬鹿にしたものではなく、賞賛したものなのである。堕落した精神の持ち主は、これを「馬鹿は死ななきゃ治らない」という意味で使うが、とんでもない曲解で、乱用例といえるだろう。 大体、孔子という人格者が人を馬鹿にすることを言うわけがない。真の賢人は、最も謙虚でいかなるものにもその長所をみとれる千里眼をもつのである。 この愚は、最上の賛辞なのである。馬鹿を演じられるほど、謙譲が行き届いており、賢いということなのである。自然は、どんなものも捨て置かない、皆、それぞれ活用の場、適材適所を配するのである。つまり、その自然の極意を汲み入れている言なのである。 いまの政治家は、馬鹿ばかりにみえるが、果たして実際はどうかいうと、「自分は馬鹿でないよ」と態々、その馬鹿さ加減を披露した真に馬鹿な人物がいるから、さしずめ、孔子がいたら嘆き悲しみ、いまの世に、せっかくの聖典の論語もこれでは立つ瀬がないだろう(恐らく、この馬鹿者を擁護する批評家もいるだろうが、この馬鹿さ加減を政争の道具とし自己保身に使い、私利私欲を費やす限りでどうみてもその馬鹿は正当化しえない。せめて漫才師に転進すべきだろう)。 次にその有名なものに、「民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず」がある。これも、堕落した精神の人格者が使うと、専制政治のように思わせるから、無知蒙昧で非常に危険である。孔子という人格者が、専制政治を肯定するわけがないだろう。専制政治は獰猛な虎より怖いといっている位なのである。 この真の意味は、書にあるように、「民には、自らの人徳でもって、心酔させ、感服させなさい。まずは人民の模範となり、敬いの対象となるべきに人格を磨きあげろ。わざわざ、説明して、情報や、知識に訴えかけるようでは統治は儘ならず、困難なものとなるだろう。」ということなのである。 大体が、汚職を行わせているような不信を国民に抱かせた時点で既に指導者失格なのである。政治家はまず、人民の指導者足りえなければならず、それでなくては、代表者の意味がないのである。そこら辺の与太公、熊公じゃ、指導者の資質がないのである。 国民が無知蒙昧だから、真剣に選ばずに、そこらへんの知名度がある阿呆が指導者になってしまい、社会退廃を招く。自業自得というところだろう。 そんな烏合の衆の政治じゃ、末代までの恥じ曝しで、日本民族の子孫としてうまれてくる霊に申し訳が立たないだろう。日本民族を永劫まで発展させ、進化させたいのなら、優秀な人格者、指導者を選出しなければならない。ましてや、汚職がバレそうになって、海外逃亡したり、政治にはカネがかかると無駄でクドクドと言い訳したりと、一体その政治を決めている奴は誰なのか? 無責任さもここに極まれりである。 これとは逆で、古代エジプトの文字ヒエログリフにあるように、指導者は、人民の最大の奉仕者であらなければならないという意味も、孔子の説く治世態度と同じである。 勝海舟は政治の極意は正心誠意にあるといっている。自らの清き正しき心が他に誠意をもたらす。 人間には、皆、神々から与えられた善良な精神があり、それは進化への杖であり、天国の扉を開ける鍵なのである。自らの鍵で、それを開けない限り、何を持ってきても無駄である。まずは隗よりはじめろ! 人民に模範を示せ! 見本となれ!! いまの政治家が国政で詐欺を行っているから、人民も堕落して、類似した犯罪を侵すのである。 子は親を見て育つ、この原則は古今東西、どの場面においても変わりはしない黄金律なのである。 指導者はまず、自ら襟を正し、最も底辺の気持ちを汲むもの、自ら、かって出て、実際の苦労を知るべきなのである(といっても馬鹿政治家はただ観察するだけの無能者だろうが)。真実というのはそこにあり、それで上と下が一つにつながるのである。 古典を学ぶと、いかに文明により精神が堕落してきたかがわかる。温故知新をいま知るべきである。古い上位のものが下になり土台となって新しきものに花や実を為すことができる。愛すべき子供や子孫の為に、全てを投げ出し捧げることが、国家の指導者の役目である。 いまの困難が次世代に解決されてなくてはならない。今より良き世の中にならなければ意味がない。そのために、政治家は命をかけなくてはならない。政治家の善良な精神が国の礎となる。
2007年07月12日
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米国をみていると、これが本当にキリスト教国家の国だろうか?としばしば思うことがある。まるで、キリストの言ったことに反すべきことばかり行っているからである。それとも、米国版新約聖書には、異なった文字により、異なった意味で書き記されているのだろうか? いまの米国こそ、反キリスト教国家に相応しい命名はないように思われる。 キリストは確か山上の説教で、「汝の敵を愛せよ、隣人を愛せよ、お互い赦し合いなさい」といったはずである。 いまの米国は、「汝の敵は叩け、隣人は侵せ、お互い罵り批判し合いなさい」というようなもんである。そして、貧富の差は拡大し、富は戦争へと向け、多大なる戦死者を輩出している国なのである。イスラム教を批判する前に、自分たちが真にキリストの教えに従っているのかの確認をしてみるべきであろう。 これが真にキリスト教国家なのであろうか? 正式に反キリスト教国家と呼ぶべきであろう。 米国のセレブたちにはっきりといっておく、「お金持ちが、天国にいくには、ラクダが針の穴を通るより困難である」と。 自分たちの歪んだキリスト認識を、他国まで押し付けようとする人間への無理解さや、人間への憎悪。これらをいまの米国は孕んでいるといわなければならない、「あなたたち、米国の腹には悪魔の子が宿っているのである」と。 「アンチキリストの国家こそ、実はあなたたちなのである」と。悪魔は鏡を畏れるという。自らをキリスト者と言いながら、自分たちの姿をけっして振り返らない。あなたたちはいま悪魔の掌中にあるのだから。国内問題を疎かにし、外へと向かうのは、悪魔の仕業であるといわねばならない。国内の貧困を救わずして、他を救うことなど、できるわけはなく、単なる傲慢である。 最後にはっきりいっておく、「あなたたちは、キリストの名を語るが、キリストをけっして目にみることはないだろう」。
2007年07月12日
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■質問: 通常の数学は形、表面、そして固体、液体、気体の力線を包含している。熱、化学、そして生命の領域についての数学はどのようにイメージされるのか? シュタイナーの答え; 第一に、今あるような数学の分野は、もし、我々が数学に似たやり方で(とはいえ、それは類比以上のものではないが)高次の領域を記述するのであれば、適切に拡張される必要がある。恐らく、数学を拡張する必要性は既に19世紀には明らかになっていた。 別の機会に議論した点について少し触れると、19世紀の終わりには、ユークリッド幾何学を補い、高次の次元を含む計算を遂行することが可能な非ユークリッド幾何学(リーマン幾何学)が必要であることが明らかになっていた。 当時の数学者たちは、数学は拡張される必要があることを示唆していた。対照的に、通常の、質量をもつ物質(剛体)に関して考察する限り、3つの通常のユークリッド次元以外の次元を適切に用いる必要はない。 けれども、近年の数学者たちにとっては、熱や化学的な影響、或いは生命要素に関する領域に関して適切な観点を探求しようという傾向が、あまりにも少ないために、数学的思考を、これらの領域に拡張することは、真に大変な問題となる。 数学者たちが、近年提議している観点(20世紀初頭)は、確かに、物事の(精神的な)本質を把握することはできない、という物理学の側からの告白に対しての、釣り合いを取るものにはならない。そして、物理学者たちが首尾一貫した立場を取るならば、物理学は光の本質を取り扱うものではなく、ゲーテが光の像と呼んだものを扱っているに過ぎない、ということを認めないわけにはいかないだろう。 当然のことながら、賢い物理学者は、職業人として、モノの(精神的)本質を探究することは拒絶するだろう。その結果、事態は不幸な状態、すなわち物理学者たちが物事の本質(精神性)をいかなるレベルにおいても扱わないという状態になることを認めないわけにはいかない。 そして、通常の唯物的物理学の観点から哲学をでっち上げる連中は、単に物事の本質(精神性)の探究を拒否するだけでなく、そのようなことは不可能であるとさえ主張するであろう。その結果、我々の今日の地球に関する観点は非常に一面的なものとなっている(この観点はいまも確率解釈として皮相的なものとなっている)。 何故なら、決して物理学は単に地学のような(特殊な)問題ではなく、一般知識のために、そのような特殊分野が産み出すことが可能なものの総体を扱うものだからである。こうして、我々は物理学が時間の経過の中で発達させてきた、機械論的で非数学的な世界観からくる不幸な結果に直面することになる。 (注釈;物理学があまりにも機械的なので、効率主義が優先され、確率論において最も多数を占める確からしさが選択され、近視眼的立場から人間の意志が機械的に決定される。この典型が、現代の民主主義という名の下の堕落し腐敗した多数決主義である。 そのような思考決定システムがあたかも存在するかのような仮想の力学で、本来自由な人間の思考が奴隷化されている。この典型が、昨今のゲーム理論と統計主義である。これを武器とするエコノミストの予測は完全に外れるのだが、その成果とは裏腹に彼らは大金を握るのである。これは一種の詐欺なのである。 彼らの関心は、理論が正確であるよりも、そのワナにかかる獲物がいるかどうかである。しかし、彼らはその大金を下に地獄へと赴くだろう。なぜならば、ゲーム理論や確率論、統計主義は、個別的には何も予測できないが、人類全体のような多大なる数量において、その予言が的中するからである。人を騙し、カネを掴んだという人間性の事実だけは拭えないもので、そこには、全人類に対する多大なる罪悪が隠されているからである。利益を下に、自然、環境破壊を行う行為が是に相当する。) ゲーテが、我々は光の存在や性質に関して語るべきではなく、むしろ、それに関する事実、つまり光の行為と苦しみ(それらは光の本性(精神性)についての完全な記述となる)に関して知ることを試みるべきである、と言ったとき、彼が意図したのは、決して、光の本性(精神性)の問題に関して、原則として考察することを拒否する、ということではない。 彼が指摘したのは、正に、(以前、議論したような方法で構築される)真の現象学は最終的には問題になっている存在の(精神的)イメージを本当に与える、ということである。物理学は、それが真の現象学であるか、或いは、そうであろうとしている程度に応じて、現象の本質(精神性)、少なくとも力学の本質(精神性)についてのイメージを真に与えうる。 なので、我々が単に物理学的現象の力学的側面を扱っているのでないとすれば、つまり、力学以外の分野を扱っているならば、(精神性のない)力学的観点は、物事の本質(精神性)を認識しようとする我々の能力を妨げる。そのとき、ゲーテが意図していた現象学(それはゲーテ主義の中で涵養させられる)と、物事の真の性質に近づく可能性を排除する原則をもつ、あらゆるシステムとの間の根本的な違いを、その程度に応じて、強調する必要がある。 そのことは、自然をコントロールしたいという欲求にとっては、力学的方法の優位性(優劣)とは何の関係もない。技術や力学の分野(それはここ数世紀の間に大きな勝利を収めたが)、そして、自然理解へのその力学的な基盤は、自然をコントロールしたいという、我々の欲求をある程度満足させることはよく理解できる。 では、しかし、別の領域において、この自然を理解し、コントロールしたいという衝動は、技術が希求したようなタイプの知識に向けて、進むことを拒否したために、どれ程の遅れをとったといえるのか? 技術、或いは力学、物理学に始まり、化学から生物学へと続く学問との違いは、高次の分野が、定性的、或いは、定性的な事象のみを扱うことにないことにある。その相違は、力学と力学的生理学が非常に基礎的で、容易に把握可能であり、そのため、我々のコントロールへの欲求を、少なくともある程度、何とか満足させた、ということに過ぎない。 けれども、この時点で、我々が高次の、非力学的分野(精神性)に移行するとき、コントロールしたいという我々の欲求をどうやって満足させたらよいのか?という疑問が生じる。 将来、我々は、自然を、技術を超える方法により、少なくともある程度は支配できることに頼らざるを得なくなる。我々は、技術的分野においてさえ、自然を理解し、コントロールに失敗することがよくある。例えば、もし、力学の法則に関する十分な知識なしに、鉄道の橋を造るとしたら、その橋はいつかその上を列車が通るときに崩壊するだろう。 我々は間違った情報に基づく不十分な制御に対してはすぐに反応するが、力学に基づくのではなく、現象学を発達させるようなプロセスから導出される、より複雑な領域に基づく制御(カオス制御のようなもの)のときには、それほど簡単に証明するわけにはいかない。 例えば、3番目の列車が通るときに崩壊する橋は、応用力学の不完全な理解者により造られたと考えられるが、患者を死なせた医者の場合、開業医としての充分な理解と、自然に対する制御技術との間に、同様の結びつきを確認するのはそれほど簡単ではない。 医者が、病気は治したが、患者を殺した、と言うならば、それは技術者が、欠陥のある橋を設計した、と言うほど簡単ではない。要するに、自然に関する力学的観点が、単に力学的技術の領域において、その欲求の満足可能性を証明したからといって、自然を制御したいという我々の欲求の重要性を性急に強調(正当化)することには慎重であるべきである。 自然に対する別の見方も、制御したいという、我々の欲求を別の仕方で満足させることができる。以前、確か別の観点から触れたことについて、もう一度指摘すると、真の現象学的なアプローチの適用なしに、世界に関する力学的観点と人間との間の溝に橋を架けることは不可能であるといえる。 注釈;大まかに分けて、無機質、無生物を扱う場合と、有機質、生命体を扱う場合では、全く話が異なるということである。だから、無機質、無生物のような鉱物の創造がある程度巧くいったからといって、それを有機質、生命体に扱うのは、全くの御門違いというものである。第一、無生物体には個性がみられないが、生命体には、個性がある。実は無機質にも、個性があるのだが、あえて、それに目をつぶっているだけにすぎない。 物質の個性は素粒子の数、軌道からなると単純に還元してよいものか? ただ、その個性に目をつぶっているだけではないのか? ただそれをスケールの問題に帰着されているだけではないのか? 生命体を扱う前に、まず、この点に留意すべきなのである。
2007年07月12日
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あまりにも、政治が選挙当選主義一色なので、もう、なんでもありな状況になっているが、こんなにカラ約束を乱発していたら、万が一、アホ総理のアホ政権が続いたとしても、約束反故乱発で、かえって、国民の怒りが更に頂点に達して、内乱状態になること請け合いだろう。 「いやぁ、もう、こんな御馬鹿な総理はみたことがない」 よくもまあ、、総理大臣になれたものである。せいぜい、高校の生徒会長や学級委員並であろう。 質問には、はぐらかし、真剣に答えようとせず。みていて腹が立ってしょうがない。横に、ツッコミ役を入れて、漫才にした方がまだマシである。 御馬鹿総理をみていて、思い出すのは、「ああいえば、じょうゆう」といわれたオウム真理教の上佑である。全く、質問に答えず、自分たちの主義主張をまくしたてるばかりで、挙句の果ては、会見拒否で、史上最悪のテロ事件を起こした! 話せば、上佑で、その行動は、いま巷を賑わす、羽賀研二というとこか? さしずめ、国民を恐喝するのは、中川幹事長か、前トンデモ総理の子鼠だろう。 ルックスの良さだけで、女性を騙し、女性ファンを虜にしてきた。自民の選挙アピールは、まるで、キャバクラである。カネをバラまき、マスコミジャックし、セックスアピールしか脳のない。それなら、総理ではなく、ホストに立候補して欲しい! 国際会議で相手にされなかった理由がわかった。話の中身が空っぽである。一度、自分の答弁を自分でみてみろ、空っぽの程度がわかるというものである。 そこで、はっきりいっておきたい。自民はアホ総理で、滅ぶだろう! なぜなら、自民の長老たちの、深い怨念と、悔恨をしょっているからである。子鼠とアホ総理は、自民を森の一党独裁にしてしまった。自民のよいところは、異なった意見を取り入れる柔軟性である。 それが政策をまるで、勉強しない御馬鹿連中なので、いわば仲良しクラブになり、この指に止まれで、権力権威主義になってしまったのである。馬鹿な芸能人を政治に取り込み、政治が堕落し、低脳化してしまった。 さぞ、自民の真面目な連中は、悔しさ、ひとしおだろう、タイゾウというような、まるで苦労しらずの学生が代議士なんだから、子鼠チルドレンなんて、まるで、モー娘感覚である。権力や権威にしがみついてまで、政治家という特権が欲しいのだろうか、そんなにオイシイのか? 自民のマトモな代議士は皆、死んでしまった。さぞ、死んでも死に切れなかっただろう。怨んでも怨みきれずに、いまでも、あの世から呪っているだろう。 大体、小池が防衛大臣なのだから、いま、何かあったどうするつもりなのか? よく、自衛隊が不満爆発しないか不思議でもある。誰が総理になっても、アホ総理よりは、マシだと思う。「総理と呼ばないで」というドラマを彷彿とさせる。 今度の選挙は、自民が滅ぶか、日本が滅ぶか、どちらかの選択なのである。 ついでに占うが、アホ総理は、引退後、石原真理子のように、政界暴露本でも書いて、印税で暮らすがいい。その本のタイトルは、「醜かった国、ニッポン!」である。 テポドン打って、総理にしてもらった人物にはお似合いであろう。 しかし、もっと、真面目で、マトモな答弁をして欲しいものだ、まるで誠意というものが感じられない。誠意は押し付けではない。美しい言葉を吐こうが、人格がダメな奴は、ダメなんである。 もっと真面目に国政やれや~ぁあああ! 選挙の当選ばかり考えてんじゃねぇえええ! あんな阿呆総理に、こんなオンリー御馬鹿防衛大臣、それもこれも、「しょうがない」で原爆級発言の自爆大臣に、「産む機械」発言の厚労大臣、挙句の果てには、汚職で自殺した大臣の後も、また汚職大臣で、あ~ぁ、やんなんちゃった♪ あ~ぁ、驚いた♪ 牧信二復活しないかな?
2007年07月11日
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■質問:人智学は科学の更なる進歩にどのような影響を及ぼすのか? シュタイナーの答え; コリスコ博士が述べている型の現象学に取り組むことを仮定すると、この質問は非常に包括的なものなので、その答えは単にヒントを与えるだけのものになるだろう。第一に、とりわけ、適切な現象学を発達させる必要に気づくべきである。 現象学は単に現象や実験結果を思いつきから集めたものではなく、真の現象学とは、ゲーテが色の理論の中で試みたような現象のシステム(体系)化である。それは単純なものから複雑なものを導き出し、基本要素や現象が、そこから現れるような基盤へと立ち返らせるものである。 勿論、何人かの全く知的な人々が、定性的現象と原型的現象との間の結びつきを上手に提示したとしても、複雑な幾何学的関係が、定理から数学的に導出されるような方法とは、比べものにならないことは十分に承知している。 定理から数学的に導出される方法とは比べものにならない理由は、幾何学的関係が、本質的構造に基づいてシステム(体系)化されているためで、これらの定理から数学が更に発展するのを、数学的プロセスの本質的かつ必然的な継続として、我々は経験するが、他方で、我々は、現象、或いは原型的な現象を体系づけるときには、物事の物理的状態の観察に依存する必要がある。 この議論は、幅広い支持を得ているが、正当なものではなく、単に不正確な認識論、特に経験についての概念をその他の概念とやみくもに混ぜ合わせた結果のものに過ぎない。この混乱は、部分的には、人間の主観が自身の経験を形作り、誤った考えから、結果として生じるものである。 何らかの対象物が人間の主観に結びつくことを想像しなければ、経験という概念を発達させることは不可能である。 仮にゲーテ的な原型イメージの前にいることを想像し、それをより複雑なものにするとき、それから派生する現象が結果として生じるが、このとき、人間は、その結論を支えるために、外的な経験を拠り所にする。 この主観-客観の関係と、三角形の頂角の和が180゜であることを、数学的に示すときや、ピタゴラスの定理を認識論的に証明するときに生じることとの間に、原理的な違いがあるのか? 真に何らかの違いがあるといえるのか?と問う。 実際、数学というものも結局のところ、いわゆる認識の科学が、その意味で用いている経験の上に成立している、ということに気づいた19世紀、或いは20世紀の非常に才能ある数学者たちによる研究から明らかなように、それらの間に違いはない。 これらの数学者たちは、当初、ユークリッド幾何学の単なる補足でしかなかった非ユークリッド幾何学を発展させた。理論的には、三角形の三つの頂角の和が360゜であると幾何学的に考えることは実際に可能だが、それは空間が異なる段階において、曲率を有していることが前提にあることを認めないわけにはいかない。 我々の通常の空間は規則的なユークリッド的尺度、つまり次元と零度の曲率を有している。単に空間が曲がっている、つまり、その曲率が1より大きいと想像することによって、我々は、三角形の三頂角の和は180゜より大きい、という結論に至る。 この分野では、このテーマについてより詳細に研究したオスカー・シモニーが行ったような興味深い実験が行われているが、そのような努力によって、ある観点から言えば、我々が数学的、或いは幾何学的な定理に関して述べる結論は、あらゆる現象論的な結論と同様に、認識論的検証を必要としていることが示される。 注釈;今回も非常に難解だが、結局のところ、科学には第1原理と呼ばれる、条件、前提が必要とされるわけで、これはしばしばエネルギー保存則が採用されるが、真にエネルギーを直接、生(なま)でみたことがないように、それはなんらかの物質を通して、経験的な体験を基にしているといえるだろう。 このことは、マックスウェーバーが既に、真に客観的立場というものは存在しないといっているように、結局のところ、主観的な経験に依存せざるを得ないのであり、程度の問題に帰される。主観的な共有体験というべきものが存立するとするならば、それは結局のところ、人間の立つべき認識論に依存するのである。 だから、人智学は、科学に対して、科学が立っている第1原理という認識論を、改めて、言及しているのであり、第1原理、例えば、エネルギーの保存則は、霊界の性質により、特徴づけられるという。物質世界でみれば、エネルギーの働きは、まるで、物質を通して、保存するかのようにみえるが、実在は、保存しているわけではなく、霊力がみえないために、見える物質を通じて辻褄合わせをしているにすぎないのである。 なので、量子力学のミクロの世界においては、確率的にエネルギーが発生、消滅してしまうのである。本来エネルギーの保存則が成立するならば、確率的というのではなく、必然的にならなければおかしい。これは物質背後の力がみえていないせいである。ただし、数学的には、理論として、形式上は導出されている。
2007年07月11日
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これは前回の問いに対するシュタイナーの答えの続きである。 全ての2次元図形は2次元の中で描くことができるが、3次元空間を占める図形は2次元内では描けない。例えば、遠近法のような方法を使うのではなく、色彩を使って絵を描く、つまり、色で複写し、色のイメージを与えるものを考察する。 そのとき、色のイメージを形成するために、空間を平面に直接取り込んでいることは誰もが認めるだろう。この時点で、このイメージの中で色を表現するものは、3次元空間のどこに存在するのか? つまり言い換えると、3次元に代わるものを示すのに、果たして色を用いることは可能なのか?と問うことになる。 一度、要素としての色に関する概観を得たなら、2次元内に、3次元性をもつイメージを創り出す特別な方法で、色を配置できる。 イメージとして、全ての青は退く傾向があり、一方、黄色は前面に出てくる、ということは誰にでも理解できるだろう。 このように、我々は単に色を使うだけで、3次元を表現できる。3次元の拡張的側面を表現するのに、色の持つ強調的側面を用いることにより、3次元を2次元へと圧縮することができる。 この一連の思考に、別の思考を結びつけることにより、流動的(流体)幾何学に到達できる。そして、次のような考え方を取り込めるように、真に幾何学を拡張できる。つまり、数学では、合同三角形AとBを構築できるが、また、同様に平面上に描かれた赤と青の三角形の間に拡張された数学的関係を見出せるのではないか? 青い三角形を描くのと同じ方法で、赤い三角形を形成する単純な線を単に引くことは、真に許されるものなのか? 赤い三角形と青い三角形を同じ平面に描くとき、赤い三角形は、それが正に赤いという理由で小さく存在し、一方、青い三角形は、青いために単に大きく存在する必要がある、と明白に言う必要があるのではないか? 今、存在(力)の強さの要素を、この幾何学に取り込み、そうすることで、強さ(ポテンシャル)を用いて計算を遂行できるようにすることは可能なのか?という疑問が生じる。このことは、左の目と右の目が一緒に働く意義を十分に明らかにしてくれる。 立体的視野は両目が共に働くことに依存している。光学の領域において、この現象は自らの右手で左手を掴むのと同じといえる。身体の一部で別の部分に触ることが決してできない存在は、「私」という存在に関して考えることが物理的にできない。 人間が空間の中で自分を「私」として経験できるのは、通常の経験主義には、少しだけ隠された現象、つまり、自身の右と左の視野が交差しているという事実による。この事実は、「私」という現実を包含するものではないが、我々に「私」に関する正しい概念を形成させる。 さて、もし、我々の目が、多少とも対称的である代わりに、酷く非対称であったなら、我々の「私」に関して考える物理的能力が、いかに影響されるか、ということについて想像する。 例えば、もし、左の目が右目よりもかなり小さく、左右の立体像が非常に異なっていたとしたらどうなのか? 左目は小さい像を作り出し、それを絶えず大きくしようと試みる一方、右目はその反対、つまり、その像のサイズを小さくしようと試みるだろう。この努力は、静的な立体的視界に、より、生き生きとした視界形態を付け加えることになる。 けれども、真の生き生きとした視界は、イマジネーション的な知覚に接近し始める途端に、達成されるものに相違ない。この知覚は、非対称的な要素を絶えず、互いに適合させなければならない、ということから結果として生じる。 ドルナッハにある彫刻の中心像は、それが精神へと上昇していることを示すために、非常に非対称的なものとして表現されるべきものだった。それはまた、人間のあらゆる側面(例えば、我々の立体的な視覚)は、基本的に、一方の極か、他方の極に絶えず逸れつつある均衡状態である、ということをまた示唆している。我々は、上下、前後、左右の間で絶えず均衡状態を創り出すべき存在ということにより、人間であるといえる。
2007年07月10日
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アレクサンダー・ストラコシュの質問■最初の質問:そのような理解は現実に対応しているか? 基本的な幾何学において行ったことは、数学の全領域においても可能であることから、数学的対象を、原型と物理的イメージとを仲介するつなぎ目として理解することは、この中で提示された物理学を支持するのに必須の計算の遂行の基礎を提供できると考えてよいか? ■第2の質問:これは、思考をコントロールし、高めることにより、到達できる、いわゆる超経験的な領域への道であり得るのか? シュタイナーの答え; 質問を正しく理解すれば、原型と物理的イメージとの間の中間的段階としての数学の領域にアプローチできるかどうかを尋ねているのだと思う。数学の各領域を純粋に精神的、経験的な観点から眺めてみる。数学の空間的、幾何学的な領域のものなのか? それとも、代数を想定した質問なのか? アレクサンダー・ストラコシュは幾何学に関して考えていたと答えた。 このまとめの中で、既に、どのようにして通常の幾何学図形に到達するかに関して、なかば強調的に示唆してきた。経験的なアイデアの抽象化によって、それらを見出すのではなく、まず数学的かつ幾何学的な図形は、ある種先験的なものであり、それらは人間の意志の本性から導き出されるので、我々人間が数学的な図形を経験するときには、その数学的領域において活動的であると同時に、数学的現実に関わることが常に可能である、と言うことができる。 なので、そのような幾何学的図形は、経験的なレベルにおいてさえ、外的な現実(そして、それを単にイメージの形でのみもつことが可能)と存在の直接的な内容(そして、それを内的に経験する)との間の一種の中間的な段階を既に表現している。精神的な意味で、経験的な見方をすれば、幾何学を理解するときには、原型と物理的イメージとの間の中間的段階を把握していることが示される。 しかし、この一連の思考を検証するためには、まだすべきことがある。もし、幾何学的、数学的図形が本当に原型と物理的イメージとの中間状態であるならば、物質的イメージをもたない、ある非物質で、理想的属性を持つはずであるが、とはいえ、それが非物質なものとなるのは、イメージ領域においてのみであるといえる。 イメージは組み合わせである可能性もあり、必ずしも、原型に対応しているとは限らない。我々が直面する単なるイメージがどれも原型に対応しているとは限らない。しかし、もし、ある一定量の現実を取り込んだ中間状態をもつとすれば、我々に必然的なのは、それに対応する特定分野の現実を見出しえる、ということである。 そして、我々はそのような領域を無作為に勝手に結びつけることはできない。 我々人間には原型を日常的方法で結びつけることは不可能であるといえる。我々は原型を、明確な経験として存在する、原型自身の領域の中に探す必要がある。 こうして、この中間領域、すなわち、数学的対象と知覚された合法性(中間)の領域と呼んだものを、正しい方法で把握するには、我々はその構成を絶対的で固定された原型と際限のない数(無限数)のイメージとの間の中間状態としても理解する必要がある。 つまり、数学の全て、特に幾何学を、本質的に運動をもつもの(動きのあるもの)、少なくとも潜在的形態においては、全て、現実の中に存在するものとして説明しなければならない。例えば、三角形を静的で、動きのない実態として想像することはできない。 静的な断面を三角形として捉えるのではなく、その概念に関する全体的で包括的な視界を見通す必要がある。 では、三角形とは何か? それは直線に囲まれた領域であり、その角の和は180°である。我々は、その3辺の長さが無限に変化するものとして想像しなければならない。この定義は無数の三角形、もしくは流動する1つの三角形を生み出すことになる。 このような、ものの見方は、結果として流体(流動的、微分)幾何学を生じさせることになる。この流動的な幾何学が自然界にとって、何らかの意義をもつということ、例えば、それが結晶化の法則に関する1つの側面に対応していることを証明できなければならない。 なので、第一の質問に対する答えは「はい(対応している)」である。この観点は実際、現実に対応する1つのアイデアに基づいているが、その概念全体を明確にするには、やるべき多くのことが残っている。 これらのこと全てに関係するもう1つ別の課題に関しても触れないわけにいかない。近年、人々は、高次の現実の領域に参入するとき、高次の次元に頼るという習慣を形成している。我々の秘教概念の基礎を形成した形式主義では、必ずしもそうではなかった。 かつての時代の人々は、通常の物理的図形は3次元的なものとして考える必要があるのに対し、アストラル空間に属する図形は2次元平面にあるものとして見るべきであると言った。 ここで注意して欲しいのは、今述べているのは(物理的な)存在の領域、或いは平面に関してのもので、そのため、「アストラル」という言葉は、私(シュタイナー)がブリュンメルとの対話の中で、物質(肉)体と「自我」間の段階を記述するときに用いる用語のアストラルとは、異なる意味で用いている、ということである。次の段階であるルーパ平面は1次元の範囲内にあるものとして想像する必要がある。そして、アルーパ平面について想像するとき、我々は点へと至る。 このように、我々が精神的なアイデアへと向かうときには、次元の数は増えるのではなくて、むしろ減る必要がある、と言うことができる。我々が上方から下方へと向かうときにも、この現象に出会う。 例えば、次のような一連の思考を試みるときにも同じで、我々は精神、魂、そして体を問題なく区別することができる。では、地上を歩き回っているような人間の中にある精神的要素とは何か? この精神的要素は極端に濾過された形態で存在している、と言わなければならない。我々人間は、抽象的思考を、精神に負っている。つまり、それは我々の中の精神的要素といえる。それ自体では、単に感覚的に知覚可能な対象や出来事だけを感じ取るが、その知覚方法自体は本来精神的なものといえる。 我々が思考の精神性を体(肉体)的要素にまで下って辿るとき、それは人間の物理的身体の中に1つの表現をもつが、一方、包括的な精神的要素は、そのような(物質的)表現をもたない、ということが分かる。大まかにいえば、我々人間が役割を演じる精神的世界の3分の1は、物理的人体の中に表現をもつ。 これが魂となると、人間が役割を演じる精神的世界の3分の2が物理的人体の中に表現を得る。そして、物理的身体にまで行き着くと、3分の3が表現を得る。我々が上から下へと移行するとき、我々は、原型から、そのイメージへの発展において、原型は容易に、その存在の側面を後に残し、そして、この現象は我々の物理的側面に関しての本質的特徴を提供する、と想像する必要がある。 反対に、我々が上方に移動するときには、イメージの中に取り込まれていない新しい要素を発見することになる。とはいえ、我々が下方に移動するとき、出会うのは単なるイメージではない。現実がその中に入ってくる。 夜、肉体とエーテル体がベッドの中に横たわるとき、アストラル体と「自我」は単にそこから抜け出して、(肉体とエーテル体を)空にするというのは本当ではない。アストラル体と「自我」が離れている間に、高次の力が肉体とエーテル体に入り、それらを生き生きとさせる。 同様に、1つのイメージもその原型に起源をもつ要素のみを含んでいるのではない。そのイメージが1つのイメージとなり、実体に属すようになるとき、これらの高次の要素が入ってくる。 そのとき、興味深い質問が生じるが、その質問とは、単に想像に結びつけられたイメージは、いかにして1つの現実的イメージになるのか?というもので、それは、ここで触れた別の課題が入ってくるときに生じる質問で、ここでは更に、2次元に関して考えるとき、最初の一連の思考は第1の次元を照らし出すことができる第2の次元に直接導く、という解答をしておきたい。
2007年07月09日
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これは前回の問いに対する、シュタイナーの答えの続きである。 例えば、a×b=0が成り立つのは、その項の1つが零であるときである、というのは正しいのか? aかbが零に等しいときには、その答えは確かに零だろう。けれども、両項とも零でなくても、答えが零に等しくなる可能性があるではないか? 実際、現実の状況が、超経験的現実に対応するような超虚数に向かうように強いるなら、それは可能になるといえる。本当に、現実と虚数の関係、超虚数と虚数や実数との関係を明確にすべきだが、同時に、計算を支配する法則を変更する必要がある。 最初の質問(曲面や多様体上の各点の関係を通して超虚数を規定する試みは現実に即したものか?)に関していえば、人間の中に見て取れるのは、ある水準以上に存在するもの、そして、ある水準以下に存在するものだけであり、この領域を、ほとんどの人が理解可能なように説明すると、人類の代表として中心に位置するキリストが、両端にアーリマンとルシファーを従えたドルナッハにある木彫を髣髴とさせるようなもので、その像をみた人に、私(シュタイナー)は常に以下のように説明した。 我々人間は、出会う人間を、均衡状態にある存在(キリスト)として、真に想像する必要がある。片方には超感覚的なもの(ルシファー)が、他方には感覚以下のもの(アーリマン)がある。個々の人間は、超感覚的なものと感覚以下のものとの間で、絶えざる均衡状態にある存在のみとして表現されうる。 勿論、人間は兎に角、小宇宙として大宇宙に関連づけられている。なので、人間の各細部と、それらに対応する大宇宙における現象との間の結びつき(関係)を説明できなければならない。 そのことを、次のようにイメージする。バランス(均衡)面として、人間の中の感覚以下の要素を閉じた曲線(超複素空間)として想像し、そして、超感覚的要素、もしくは人間がその意識の中にもつものを開いた曲線(複素空間)として想像するなら、得られる形態は、下方において結び目を有し、上方において外側に開いたものになるだろう。 このイメージ図はまた、人間がどのように大宇宙に組み込まれているかを表現している。 下方にある結び目をもつ、いわば取手のような領域は、大宇宙から我々の存在を引っ張り出す一方、この上面にある開いた曲線は、我々の存在を大宇宙へと組み込む。 人間の自由意志による決定の領域は、およそこの中間あたりに位置している。自由意志のレベルより上では、人間の力は大宇宙に出て行くのに任される。このレベルより下にあるもの全ては大宇宙の力を包み込んでいるが、それによって我々は特定の形姿(物質的形姿)を取ることができている。 この(超複素)曲線によって形成される、幾つかの平面図形の内部に、我々が探求できる宇宙的な思考を表現する一連のデータをXとして記述する。すると、ここに、我々が探求し得る宇宙的な力があり、ここに宇宙的な動きがある。もし、上部にある、これら変数を含む式を立てるならば、下部の人間の中にあるものに対応した式が得られる。そして、X、Y、そして、Z要素に関する式が必要になる。 けれども、この関係を表現する数を見つけようとしても、この平面上で手に入る代数システム(系)の領域の中では見つけることはできない。超感覚的な人間と感覚下の人間を結びつけるためには、曲面上に存在するシステム(系)に属する数を含む式に依存しなければならない。 これらの面は、放物線を対称軸の周りで回転させてできる図形の表面、つまり、三角錐を形成する各点が絶えず速度を変化させるような仕方で回転するときに生じる表面として、より正確に定義できる。 もっと複雑な放物線の回転体もあるが、その各点は、お互いの関係を固定的に保持するのではなく、ある法則性の範囲内で変化できる。このように、探求の目的に役立つ表面(曲面)とは、生きた(回転により常に変化する)放物線の回転体である。 いま記述している関係は究めて難解なもので、今まで、何人かの人が想像してきた。そして、その必要性が見出されてきたが、公式化した計算が可能になるのは、秘教的、人智学と、数学との共同作業が可能になったときだけであるといえる。 いまここに、その概要が示された道は、1の始まり、すなわち、頂点が一点で接する2つの回転放物線(1つは下方で閉じており、1つは上方に開いている)上の数システム(体系)に適用される関数の組み合わせに対応するものを見出すという課題に対する、最初の可能な答えとなるだろう。いま述べたように、我々に必要なのは、これらの現実の状況に実際に対応した(立体幾何学構造の)表面上の数を見出すことに他ならない。 幾何数学の将来の発展に関して言えば、多くのやるべきことが残され、多くのことが可能であることを認める必要がある。次に述べることは幾何数学における不当な扱いになるかも知れないが、それは、近年、その幾何学を構築することに、ついて行くことが、私(シュタイナー)にはより困難になっているせいである。 私(シュタイナー)が、この分野で何が起きているかを十分承知していたのは随分前のことなので、事態は変化しているかも知れない(19世紀末~20世紀初頭)。けれども、世紀の変わり目以前には、常に、幾何数学の分野で公表される論文は、それらの計算や作用(働き)が、とにかく実際に可能かどうか、或いは、それらは何らかの現実の状況に合わせて、いずれかの点で変更される必要があるかどうかについて恐ろしく無関心という感じを持っていた。 例えば、1次元の多様体に2次元の多様体を乗じたときには何が起こるか、と問うことができる。 そのような問題に答えることは可能だが、それでも、このような操作がそもそも現実に対応しているのか、少なくとも想像可能な何かに対応しているのか、と問わなければならない。どこかに行き着くには、「単に計算が可能である」ということが、一体どういうことなのかをはっきりと規定する必要がある。 1つの例として、昔、私(シュタイナー)は、ピタゴラスの定理を、視覚的な助けを借りることなしに、純粋に数の見地から証明しようと試みた。幾何学の中にうっかり迷い込まないように、純粋に算術的な要素を、可能なだけ厳密に定式化することが重要になる。 数の計算を行うとき、自然数の範囲内に止まる限りは、単なる数であって、特定の空間領域における数システム(体系)について語ることはできない。これが2次曲面では可能であることをみた。しかし、通常の空間を離れなければならず、純粋に形式的な数学が単に象徴的に表すことが可能な数(そして、ある意味、抽象化とは、付随的対応点を、特定の空間領域に適用することだが)を設定する前に、自然数ではない高次の数を幾何学の助けなしに想像することが、いかに可能かを、つまり一連の数を通して線形の関数を表現できるという意味で、可能なのかを検証する必要があると、私(シュタイナー)が感じたのは、この自然数の範囲内に止まるのなら、限界がある理由による。 正と負の数の関係を純粋に基本的レベルで想像するには、どうしたらよいかという質問に答える必要がある。 私(シュタイナー)は、その課題に取り組んできたわけではなく、それに関して十分に知っているわけでもないので、はっきりとした答えを提供できないが、ガウスの解法(つまり、正と負の違いを純粋に概念的なものと仮定すること)は、不十分のように見えた。 負の数とは、被減数のない引き算という概念以上のものではないというデューリングの説明も同様に不十分のように見える。 デューリングは虚数(-1の平方根)も同様の方法で説明したが、この数は、その表記法こそ存在するが、現実においては実行できない操作を遂行する試み以外のものではない。 もし、ここに3と、3から差し引くべきものがないとしたら、3が残る。その操作に関する表記法は存在するが、(数が表す対象に)何も変化はない。デューリングの観点では、微分して得られた商は表記の操作に過ぎず、他のいかなるものにも対応しない。 デューリングのアプローチもまた一方的のように見え、解決の方法は恐らくその中間(ガウスとデューリングの方法の中間)にあると思われる。けれども、これらの問題が解決されない限り、形式的な数学において、どこにも行き着くことはないといえる。 注釈;今回の内容は非常に難解だが、シュタイナーは、その霊的体系を、超虚数で記述できるものとと考えていた。霊的体系とは、超感覚的世界と感覚下世界の均衡の法則で、しばしば、超感覚的世界をルシファー、感覚下世界をアーリマンとして捉え、その均衡点として、キリストを見出し、人間の自由意志に必須の領域であるとした。 そして、これを三位一体の宇宙の創造法則と呼んでいる。病気においては、ルシファーが炎症性のもの、アーリマンが腫瘍性のものとし、その中間の均衡状態、つまり健常性をキリストと表したのである。つまり、キリストとは、調和、均衡、バランスをもたらす実践の教えであり、宇宙に不必要のものはなく、悪と善がうまくバランスをとって創造活動を行い、進化するうという考えなのである。 これを超虚数(複素数を超えるもの)で表すなら、閉じた結び目をもつ超複素曲面と、開いた超複素曲面の合成による均衡点により幾何学的に記述されるだろうと予想している。この均衡点を、ピタゴラスの定理を元に、純粋に代数的に展開してみたが、自然数では無理という見解に至ったという。 ピタゴラスの定理を、以上の超虚数(複素曲面上の回転群(行列)のファイバーバンドルのようなもの)展開するとフェルマーの定理が浮かび上がるように思われる。これは非常に抽象的だが、ブラックホールの蒸発のモデルによく類似しているように思われる。ブラックホールがまるで細胞のように生まれたり消滅したりして、大きなブラックホールを形成しているというような感じである。ブラックホールを結び目のある弦とすれば、超弦とD-ブレインとの類似が現れるかもしれない。
2007年07月04日
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非常に長いので、簡単にまとめると、ソ連に参戦させたのは米国であり、しかも、参戦に対する見返りとして、日本の領土である(かのような認識にあった)北方領土を、暗黙糧にソ連領とし、ソ連に正式に取れと勧めているのである。元々ソ連領であるなら、参戦の意味がない。その延長上の原爆投下は、想定内の規定路線だったといえる(この時期から、来る冷戦時代の兆しが垣間見られる)。 つまり、ソ連を参戦させておいて、日本を単独で植民地化し統治したいという米国の自分たちに都合のよい目論見が浮上する。恐らく、米国との話し合いにおいて、北方領土までとしても、ソ連が、米国に都合よくそこで止まるわけはないから、原爆投下は予め充分考慮に入れたものだろう。 英米が結託し、ドイツをソ連に叩かせ、余った米兵を、日本叩きに回した挙句、これまた米単独では辛いので、ソ連に参戦願って、米においしいところで、ソ連に引いてもらうという策略といえる。日本は、以前日英同盟で、東洋の英国と模範にしたにも関わらず、裏切られているのである。お人よしもよいところで、だから、イラク戦争参戦のとき、中東では、日本は原爆を落とされたにも関わらずに、あまりにクレイジーだと思われたのだろう。 結果的にみれば、米国の原爆投下の口実のためのソ連参戦にもみえ、原爆投下は予め米国側のシナリオに載っていたともとれる。日本は騙され、利用されただけである(これは当時のマスコミ関係や一部の扇動家に責任がある)。ルーズベルトはその死に際において、天皇ヒロヒトに、すまないことをしたと言ったらしいが、日本国民からしてみれば、散々利用しておいて、捨てるような、全くふざけた話というとこだろう。 だから、原爆投下せずとも、ソ連参戦した時点で、実際、天皇は、早くから戦争終結を模索していたというし、元々、いまの自民の強行採決のように、一部の軍部の独走、強行派がはじめた戦争で(このことは、後日、書くことにしたい)、充分に終結できたのである(この戦争の始め方は、明治維新の薩長のやり方にも酷似)。 天皇は、米国にある程度日本の国力をみせつけたところ、景気が上向き加減のところで、終結を図ろうとしていたようである(現実というのは、机上の計算のようにはいかないばかりが、逆に出るものである)。そして軍部が調子に乗って続けていったようだ(軍部は、天皇を玉、つまり操り人形と踏んでいた節がある。GHQは戦後、統治に天皇をうまく利用した)! かつてのバブルのときにも、このことのように同じ過ちを繰り返した(当時は大蔵省である)。 米国の原爆投下の真の意図は、日本ではなくて、ソ連に対するブラッフ(脅かし)だったと考えた方が適当であるだろう。なので、日本は、ソ連を強請る道具に使われたともいえる。 この文を書こうとした前に、防衛大臣が失言で辞任したという。マヌケぶりもいいとこである。国民の人気を当てにして選んだ内閣だから、失言で人気落ちしたら、店じまいというような国民迎合ならぬ、芸能内閣なのだろう。というより無能内閣だが…。 そもそも、成功ならば、言動により正当化する必要もなく、改めて、「正しい」かったなどと言う必要もないのである。 つまり、「正しい」という言動こそ、本心では失敗したと実感している証拠で、それは、イラク戦争でも、ブライアー(嘘吐き)首相と、御馬鹿大統領の、「イラク戦争は、正しい」といまだに、言い続けている証拠である。それは言えば言うほど虚しく、失敗の奈落の底に落ちていくだけなのにも関わらずである。 いまでは、イラク戦争は誰もが失敗だと思っているのである。イラクの惨状を見れば一目瞭然である。百歩譲って、フセイン健在当時の状況において、正しいとしても、それは今からみれば、正しかったという過去形ですらないだろうから、なぜ、それが御馬鹿連中には、正しいかの如くみえたのか? それが問題であろう。 歴史には、このような過ちが沢山埋まっているといえるだろう。いまから、結果からみれば、明らかに間違いであるのに、そのときには、気がつかない。わざわざ、間違った道へと進んでいるとしかいいようがない。それは死への行進といえるかもしれない。 人類に必要なのは、それを正しいという言葉で正当化するのではなく、間違い、過ちを素直に認めて、間違いに至った道を避け、新たに未来に向かう道へと修正することなのである。いま進んでいる道を、あらゆる角度から(非線形的に)吟味し、もっと違う道があるのではないかと逐一修正していかねばならない。 人類全てが幸福な道に至るには、地球の限りある資源は、あまりに小さく狭いものなので、お互い譲り合って渡らなければいけないのである。お互い譲り合いながら、小さいものが、大きなものへと創造されるのである。 一体、人類は、いつまで、このようなとても正気の沙汰とは思われない戦争や、資源の奪い合い、飽くなき闘争を続けていくのだろうか?
2007年07月03日
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巷を賑わす防衛大臣無責任発言だが、深読みすると、どうやら日本の従軍慰安婦問題非難米国議会可決に対する、ヨイショ発言だという説が浮上している。それが真相だとしたら、この国の政府は心底腐りきった精神、まるで野獣の如き頭脳を露呈していることがわかる。 従軍慰安婦の被害者と原爆の被害者を、いわば人質交換し、戦争では仕方なかったと共に作為をもって、正当化するもので、これでは、まるで人身売買の精神と代わりがない。一体、どこまで、この国の政府の精神は歪めば気が済むのだろうか? 呆れてしまう。 このような政府の不見識極まりない態度をみていると、ミートホープのような事件は氷山の一角でしかないことがよくわかる。政府の指導者たちが、このようなモラルハザードの持ち主なのだから、ミートホープのやり口が、かわいくみえてしまうほど、腐りきっているということだろう。 ホリエモンの事件もそうだったが、ホリエモンは、表に出た死因のウイルスや細菌で、ミートホープも直接の死因であって、死に至る病の病因が政府にあることが、実感できる。 さて、問題の防衛大臣発言だが、改めて、その真意を考察してみる。米国では、ソ連参戦の前に、戦争を終結するために、原爆投下がやもえないものと正当化されている。これは、米国一国で日本を植民地化したいという国益であって、日本にとっては、敗戦と決まった時点で、どちらにしろ植民地化される立場にはかわりがなかったので、あくまで、米国の言い分である。 親米派は、日本にとっても、分割統治されるよりはよかっただろうという意見を持ち出すだろうが、では、ルーズベルト、スターリン、蒋介石会談では、何が話されていたのかを考えるべきである。この会談をネットで調べると以下である(以下のURLより抜粋拝借)。調べる気さえあれば、このような経緯がすぐに出てくることがネットの便利さを物語っている。関係者に感謝である。http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/ADD/KAIRO.htm「ソ連対日参戦の要請-カイロ会談とテヘラン会談◎米英ソ三国外相会談(モスクワ会談)(1943/10/19~1943/10/30): 1943年の夏は、第2次世界大戦にとって重要な転換点であった。ソ連はクルスクにおいて、ドイツとの史上最大規模の戦車戦に勝利し、このとき以降、ドイツを追撃することとなる。一方、日本軍は、ガダルカナルの玉砕をはじめ、敗北の後退期に入った。こうした中、米国では、日本との戦争に、ソ連に参加を求める要請は高まっていった。 モスクワで開催される外相会談に先立つ10月5日、米国大統領ルーズベルトは国務省スタッフとの会談で、千島列島はソ連に引き渡されるべきである、との見解を示した。ルーズベルトは極秘情報でスターリンが千島列島の領有を希望しているとの情報をつかんでいたのである。 10月19日から開かれたモスクワ会談の席上、ハル米国務長官は、ソ連外相モロトフに対し、千島列島・南樺太をソ連領とする見返りに、日本との戦争に参戦することを求めた。この要求に対して、ソ連外相モロトフは即答を保留した。モスクワ会談最終日の10月30日、晩餐会の席上で、スターリンは、ハル米国務長官に、ドイツに勝利した後に日本との戦争に参加することを、伝えた。◎カイロ会談とカイロ宣言(1943/11/22~1943/11/27): 米国大統領ルーズベルト、英国首相チャーチル、中華民国総統蒋介石により、対日戦の軍事面での協力と将来の領土について話し合われた。27日にカイロ宣言が発表された。 カイロ宣言は米・英・中、三国の日本国に対する将来の軍事行動を協定したものであり、日本国の侵略を制止し、日本国を罰する為に、今次の戦争を行っていることが宣言された。この宣言には「右同盟国ハ自国ノ為ニ何等ノ利得ヲモ欲求スルモノニ非ズ又領土拡張ノ何等ノ念ヲモ有スルモノニ非ズ(米・英・中の3カ国は、自国のために利益を求めているわけではなく、また、領土を拡張しようととの思いがあるわけではない)」と書かれているが、領土を拡張しないと明示されているわけではない。 カイロ宣言では、戦争の具体的目的に以下のことが示された。 ・第1次世界大戦後に日本が奪った太平洋諸島を剥奪する ・満州・台湾・澎湖島のように、日本が中国から盗み取った領土を中国に返還する ・日本が暴力・貪欲により略取した一切の地域から、日本を駆逐する ・朝鮮の人たちは奴隷状態に置かれているので、朝鮮に自由独立をもたらす (千島や南樺太については、特に明示されていない。)◎テヘラン会談(1943/11/28~1943/12/1): テヘラン会談はカイロ会談に引き続き行われた。米国ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連スターリンのほか、イギリス外相イーデン、ソ連外相モロトフ、ローズベルト側近ホプキンズ、さらには三国の軍指導者らが出席した。会談の主な目的は連合国側の作戦の調整(第2戦線)であったが、会談での議題は多岐にわたり、戦後の世界平和維持機構の枠組みなどについての意見交換もあった。会談の最大の成果は、北フランス上陸作戦(ノルマンディー上陸作戦)を決行することが了解されたことである。 この会談の中で、スターリンは、ルーズベルトに対して、ドイツ降伏後、日本との戦争に参戦することを約束している。 ルーズベルトは帰国後の演説で、ソ連は南樺太と千島の引渡しを望んだと報告している。ただし、会談の公式記録には、報告のような内容はない。 対ドイツ戦線において、英首相チャーチルは、バルカンからの上陸を主張した。しかし、ルーズベルト・スターリンの意向で、ノルマンディー上陸が決定された。バルカンから米・英軍が上陸すると、戦後の東欧における勢力バランスで、米・英が有利になる。一方、ノルマンディー上陸では、東欧の多くがソ連圏に入ることになる。チャーチルの提案は、戦後の勢力拡大を狙ったものだった。しかし、バルカンからの上陸作戦では、激しいドイツ軍の抵抗が予想され、米・英軍に大きな損害が見込まれた。ルーズベルトは、戦後の勢力拡大よりも、米軍兵士の損害を少なくすることを選んだのだった。 ルーズベルトは、スターリンに対して、ドイツ戦に勝利した後に、日本との戦争に加わることを求めている。もし、米軍が、満州国の関東軍と戦うことになると、陸上での戦車戦になるので、補給の問題を考えても、米国には過剰な負担を強いられる恐れがあった。スターリンに対する、ルーズベルトの提案は、米軍兵士の損害を、なるべく少なくする目的でなされたものだった。カイロ宣言解釈の留意点 カイロ宣言は文字通り宣言であるので、それ自体が国際法上、効力を有しているというものではなく、正式に効力を持つためには条約などの締結が必要となる。日本は、すでに、サンフランシスコ条約を締結しているので、条約が優先し、カイロ宣言の解釈がどのようであっても、本来はあまり意味のないことである。 しかし、日本の北方領土返還要求の根拠に、カイロ宣言が利用されることがあるので、カイロ宣言は自分の主張に都合よく解釈される場合が多い。極端な解釈を2つ掲げる。(1)カイロ宣言では「日本が暴力・貪欲により略取した一切の地域から、日本を駆逐する」ことが目的に掲げられているが、南樺太は暴力・貪欲により略取した地域ではなく、ポーツマス条約にしたがって日本の領土になった地域なので、カイロ宣言では日本の領土であることが認められている。 さらに、カイロ宣言では、領土不拡大の原則が宣言されているので、もともと日本の領土であった千島は、日本の領土にとどまることが認められている。(2)カイロ宣言では「日本が暴力・貪欲により略取した一切の地域から、日本を駆逐する」ことが目的に掲げられているが、南樺太は日本の背信的攻撃によりロシアの正当な権利を侵害して奪った領土あるため(ヤルタ会談の認識)、日本が駆逐されることが、カイロ宣言に示されている。 さらに、択捉島は、パールハーバーを国際法に違反して攻撃した連合艦隊の出撃基地だった。カイロ宣言の最初に掲げられた目的「日本の侵略を阻止しこれを罰するため」を実現するため、日本の領土から省かれることは、カイロ宣言に明白に示されている。 南樺太は、日露戦争の結果、日本領になった地域である。日露戦争を日本の侵略戦争と見るのか、そうではないと見るのか、この見方によって、南樺太の帰属に対する解釈が変わってくる。実際には、カイロ宣言は文字通り宣言なので、カイロ宣言に示された文言の解釈権限は日本にはない。このため、ヤルタ協定により「日本国ノ背信的攻撃に依り侵書せられたるロシア国の旧権利」との認識が、米・英・中国から示されている以上、(1)の解釈には無理がある。 しかし、ヤルタ会談はカイロ会談の1年半後のことなので、ヤルタ会談の認識を理由に、カイロ宣言を解釈することにも、十分な説得力があるとはいえない。 歴史的経緯を見ると、カイロ宣言とりまとめの中心となった米大統領ルーズベルトは、カイロ会談の直前・直後に千島列島・南樺太をソ連領とする見返りに、ソ連の対日参戦を求めている。このため、カイロ宣言の認識は「千島列島・南樺太を日本の領土にとどめることを示している」と解釈するとこは、できない。 もし、カイロ宣言で、千島列島・南樺太を日本の領土にとどめることが、明示されていたとしたら、ソ連には対日参戦のメリットがなくなってしまい、ルーズベルトはソ連に対して対日参戦を要求する根拠がなくなってしまう。 逆に、カイロ宣言で、千島列島・南樺太をソ連領とすることが、明示されていたとしたら、ソ連は対日参戦しなくとも千島列島・南樺太を手に入れることになってしまい、ソ連の対日参戦が得られない可能性が高い。 ソ連に対日参戦を求めるためには、カイロ宣言では、千島列島・南樺太の帰属について、あいまいな表現にしておくことが必要だろう。実際に、カイロ宣言では、千島列島・南樺太の帰属については、あいまいであり、このため、政治家は自分に都合の良い解釈を主張するわけである。」
2007年07月03日
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■最初の質問:曲面や多様体上の各点の関係を通して(超関数?)虚数を規定する試みは現実に即したものか? ■第2の質問:虚数の領域についての生き生きとした観点を獲得することは可能なのか。そして、この領域には実際の実在が基盤として存在しているのか? ■第3の質問:精神科学(人智学)の線に沿って更に発達させる必要があるのは現代数学のどのような側面なのか、特に形式的な側面についてはどうなのか? 第2の質問から始める。その答えを定式化するのは容易ではないが、その理由は、それを行うには、視覚化の領域から非常に大きく離れる必要があることによる。 以前にミューラー博士の質問に答えたとき、私は(シュタイナー)数学的事例に具体的関連を与えるのに、(脊髄のような)長い骨から頭骨への移行に向かう必要があり、それでもやはり図象的な例示が有効であることを提示した。少なくとも、あの場合、対象を視覚化すること、従って、1つのものから別のものへの移行が可能だった。 虚数の領域を精神的な現実として眺めるには、私(シュタイナー)が近年行った物理学に関する連続講義に示したように、変数を正から負へと移行する必要がある。 いわゆる実在が考えられるものと考えられないものとの間の一定の関係を理解するとき、この移行は、考えを現実に正しいものにしてくれる。 けれども、通常の領域を視覚化するときでさえ、それらを図示する通常の手法を超越する必要があることが理解できる。1つだけ例を挙げる。通常の(色彩の)スペクトルを平面上に描く際には、赤から緑を経て紫まで直線を引くことができる。 しかし、そのような描画方法は、赤を表示するには、多少とも、平面内に曲線を描くときに包含される関係全てを示してはいない。次に、紫を表示するには、平面に向かうと、その裏側に廻るが、そうすれば、上方から見たとき、赤は平面の前面(立体的なこちら側)にあることになる。 紫を内側、すなわち化学的作用に向かうものとして、そして、赤を外側、すなわち熱に向かうものとして特徴づけるには、赤に関しては、平面から出て、紫に関しては、その中に戻る必要がある。なので、ここでは、直線を拡張し、通常の手法で描かれた図を、実際に記述すべきものの投影として見るように強いられる。 高次の現実性に関わる、ある種の現象に関して明確であるには、正の物質的側面から負の物質的側面へと移行するだけでは不十分で、赤から緑を経て紫へと至る直線上を動くことが不十分なように、それでは正に不十分といわざるをえない。 我々が(正と負によってそれぞれ示されるような)空間的な領域から非空間的な領域へと移動するときには、空間と非空間の高次の形態へと移行する必要がある。この過程は、円周上を回って出発点に戻る代わりに、螺旋上を移動するようなものである。 丁度、ある別の場合に、2つの異なるタイプが、両方を含む1つの統合体として総合されるように、空間的であると同時に非空間的である存在を思い描くこともできる。この第三の要素を探す必要がある。より高次の現実の領域では、物理的な現実を正として記述するなら、空間を離れ、精神の領域に入り始めるエーテル的な領域を負として記述する必要がある。しかし、アストラル的な領域に歩みを進めるとき、正と負の空間では、もはや不十分で、正に、形式的な数学では、虚数が正と負の数に関連するように、正と負の空間に関連する第三の要素に向かう必要がある。 そして、次に、アストラル領域から自我という真の存在に歩みを進めるとき、虚数との関係でいえば、超虚数的な概念が必要となる。なので、私(シュタイナー)は、超虚数の概念に対するアカデミズムの反感には決して満足しなかったが、それは、我々が自我のレベルまで上昇するには、この概念が真に必要で、それは、我々の数学的な定式が現実の領域を離れることを望まない限り、省略できないものである、という理由による。単に、純粋に定式的な数学においては、その概念をいかに正しく用いるかが問題である。 そのとき、私(シュタイナー)が出会った人物は確率の問題を議論していたが、この問題は数学的操作を現実に関連づけるのに、大いなる困難さを非常に明確に示すものであるという。 保険会社は、ある人がいつ頃死ぬかについての予測を計算するが、その数字は集団に適用されたときは非常に正確だが、保険会社の出した数字から、特定の個人が予測された年に、確実に死ぬと結論づけることは不可能である。このように、これらの計算は現実性を欠いているといえる。 その計算結果は、定式的関連においては、しばしば正確だが、それでも現実には対応していない。また、ある場合には、数学の定式的側面を、そのような超経験的な現実に関しての結果に一致させるように、矯正する必要があると思われる。
2007年07月03日
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■質問:我々はp×s(原注:仕事量wは力pに移動距離sを掛けたものに等しい)を、出発点として取ることができるか? ここで生ずる困難は、次のような理由からくる。ある線形(水準)のシステムに属する2つの構成要素を、別の(例えば非線形)システムに属するものと比較するとき(例えば、もし、2人の人間が一定量の仕事をこなすのにかかる時間を、日没等の要素と関係づけ、比較するとき)、全体のシステムにおけるプロセスは(というのも、それはシステム全ての構成要素に実際に適用されてしまうからで)非常に容易に、いかなるシステムにも属さず、それ自身として自立(独立)できる(抽象的)特徴を帯びることになるからである。 注釈;この文は理解しにくいが、線形レベルで、仕事量等を比較するときに、事物を取り出し、時間発展をみるが、事物を取り出した時点で、既に事物は抽象化し、具体性を帯びなくなるという意味であろう。 太陽系から導かれる一年というような抽象的な事象(単位)が別のシステムにおいても有効であると仮定すべきではない。 例えば、人間の心臓が5年の間に、どのように変わるかを確かめるなら、ある人の心臓が5年前にどのような状態にあったかを現在との比較で記述することができ、単に同じ計算のプロセスを続けて、150年前にはどうであったか、或いは今から300年後にはどうなっているかと問うこともできる。 天文学者たちは、地球の現在の状態(を基にして)から出発するとき、このようなことをやっている。彼らは時間の経過に伴う変化を一見綺麗に計算するが、現在の地球上における状態に関しては、300年後の人間の心臓に関する計算と同じくらい無意味で、1つのプロセスに内在する時間に関して有効な結論は、そのプロセスが終末に至るときには意味を成さなくなる、ということを常に忘れがちである。 このように、現時点で生きている全体システムとしての有機体を、超越することはできない。 全体システムは、概念がそのシステムの内部に留まるようにする必要がある。そして、その境界を踏み越えるとき、直ちにそのシステムを犯すことになる。有効なように見えてしまうのは、我々が(線形)システムを全体システムの意味で関連づけ、そして、そのような線形的なシステムの内部でのみ適用される要素を、絶対的なものと(抽象化)することに慣れてしまっているからである。 つまり、我々の脳が、線形思考を志向するために、世のなかが、さも線形の如く振舞うものという錯覚に陥ってしまっている。実際には、宇宙事象は、非線形なのである。
2007年07月02日
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先日、亜屁政権の記録的至上最低の支持率が出た! 36%~39%だという、庶民感覚からすれば、限りなく0%に近いもので、丁度、カロリーゼロのコーラが売り出されてもいるが、まだ30%後半もあるのかと思うと、正確な値なのか怪しくもある。 こんな馬鹿政権を一体、誰が支持しているのか? なんでも、前子鼠政権は、支持率を上げるために、広告代理店を中心に金銭ばら撒きを行っていたという話である。だから恐らく、格差社会の自分たちだけ暮らしが満足ならよいというような、裕福な層が支持しているのだろう。 ちなみに、そのばら巻きの実態は以下のブログにある(そのブログから又抜粋)。 http://plaza.rakuten.co.jp/kannon/diary/200706180000/「{●2007/06/16 (土) テレビで活躍する売国奴たち 国際評論家、小野寺光一氏のメルマガ「政治経済の真実」の最新版によると、政府があたしたちから巻き上げた税金の一部を「内閣機密費」として、テレビに良く顔を出す「政治評論家」たちにワイロとして横流しして、それによって政治評論家たちは、自民党寄りの発言を繰り返していたようです。 資料によると、政府からワイロを受け取っているのは、 竹村健一が200万円 田原総一郎が100万円 三宅・・・100万円だそうです。 こんな話を聞くと、田原総一郎が執拗なまでに自民党の宣伝ばかりしていることとか、「朝まで生テレビ」などで野党の議員が発言しようとすると、ワケの分からない言動で野党議員たちの発言を中断させて、支離滅裂なフルマイで論点をずらしまくってる異常な行為も納得できるというものです。」 まぁ、大体、その発言を聞いていたら、明らかに傾いているなとは、薄々わかっていたが、特に田原の子鼠癒着発言は見苦しかったし、竹村と三宅の反民主発言、自民の不祥事がいつの間にか政権が取れない民主に責任があるという意味不明なもの等。例の母子殺人者の12人弁護団のような、明らかに軽罪無罪誘導作為がみられる発言、そのような発言に騙される人達がいる方が不思議というか、馬鹿というか、マスコミにお馬鹿教育をされ続けてきた、世の中の方がもっとノーテンキな気がしてならない。 国家の中枢がこのように腐っているのだから、世も末である。内閣機密費の追求といいながら、自分たちが貰っているのだから、まるで、ミートホープ社長そのものである。確かに、このような売国連中は皆、揃いも揃って、獣の顔をしている。そのうち、バレたら、国民総解雇し、財産は親族で分配し、米国の一等地にでもトンズら(豚顔)するのだろう。 公平な発言を心掛けるのがジャーナリストの役目である。政府の犬になって吼えるのなら、ジャーナリズムでも、人間でもないといえるだろう。 さて、不思議な支持率30%台の亜屁政権だが、米国の御馬鹿大統領の支持率28%よりは、どうやらまだ高いらしい。あのような御馬鹿な大統領が、いまだ28%という支持率があるのも、不思議だが、これも恐らく、キリスト教原理主義の連中やイラク戦争で潤った連中たちが、いまだ祭り上げているのだろう。 戦争がないと生きられない国家だからこそ、キリスト教原理のような宗教過信国家が生まれてしまうのである。このような国家には、宗教などいらないはずである。宗教が戦争を生んでしまうからである。宗教があるために戦争があるのなら、宗教の罪である。悔い改めるべきである。米国はネイティブアメリカンから、無謀にも土地を奪った人達の国なのである。そのことを忘れてはならない。 そういえば、「イラク戦争は間違い」といった、わが国の防衛大臣だが、昨日、「長崎への原爆投下はしょうがなかった」というような、被害者に塩を塗るような発言をしたらしい。自分の発言の重さを自覚しない大臣というのは一体、どういう神経をしているのか、不思議である。自ら正しい発言、行動ができないから、内閣機密費を使って、代弁ならぬ、虚偽偽装発言をしてしまうのだろう。 日頃、おべんちゃらや、おべっか、権威に阿る、卑屈な発言を繰り返し、それが習慣になってしまっているから、このような堕落した発言が生まれるのだろう。それは自分の立場が、真の実力で勝ち取ったものではなく、上位の庇護の下に、仕方なく就いてしまったことを意味している。それでも人間なのか? 心底問うべきである。このままでは堕落するのみである。 皆、大臣愚か、亜屁政権はミートホープ(虚偽偽装肉売買)に洗脳されているのではないか? いかにお金持ちであろうと、ミートホープ社長のような品位のない者になったら、人間お終いである。心底馬鹿にされ、侮られるだろう、人間の尊厳を考えるべきである。
2007年07月01日
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