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教科書問題が巷を賑わせている。「太平洋戦争当時の軍部が沖縄県民に集団自決(自殺)を命令し、強要した」歴史教科書の記述を揉み消そうという検定のことである。 国民にとっては妥当で、政府にとって都合の悪い事実は、当時でなくても、いまでも、揉み消されていることは、「消えた年金」や「薬害」等のことで一目瞭然である。 しかも、汚職をしたことが半ば明らかになっているのにも関わらず、無責任にも、大臣職に就いている恥知らずな政治家の態度をみれば、当時の軍部上層部そのままであることが一目瞭然である。 最高責任者の職にありながら、病気を理由に、逃げ隠れ、国民の記憶力の悪さを頼みにする元総理をみれば、日本が外国に負け、侮られる理由が容易に見出せる。 いくらマスコミを使って厚化粧をしようが、お前らのやっていることなど、スッキリまるっとお見通しだぁあああ! 嘘や誤魔化しがバレて、ああだこうだと屁理屈いいやがって、そんな屁理屈、聞きたくねぇ~よ!「あぁ、そんなのカンケーねぇ」なんだよ。 あまりにオッパッピーな馬鹿政治家に、嫌気がさし、「太平洋戦争の意外なウラ事情」を歴史教科書に推薦したい。ちょっと脱線で、ここから真面目に展開したい! やはり、太平洋戦争を研究すると、日本人の短所が自然と浮かび上がってくる。 最たる短所は、「日本人は群れる」ということにある。 群れるうちに、お互い依存心が生まれ、仲間意識がかえって、自分とは異なる異質なものを阻害し、仲間に依存する体質を生み出し、精神を堕落させる。はっきりいうと、日本人には、いまだ個人意識が目覚めていないようである。動物の群れに近く、サル山のボスの組織構造に近いところがある。 大体、日本人と日本人以外(外人)という区別も、日本人の堕落精神を表明している。このような区別をしているにも関わらず、日本人同士が仲がよいかというと、自らの利害を超えてまで、協調する精神はなく、何か、自分より強い存在に属し、庇護されるというような依存心の下で、協調しているにすぎないのである。 その最たる例が、派閥である。勝海舟は派閥は私利私欲だと喝破した。派閥は私利私欲から生まれる。つまりエゴや欲望が大きくなっただけなのである。自分に厳しくあれば、派閥など必要はない。派閥は闘争を生み、結局は不幸を招くだけである。 マッカーサーが、日本人の精神年齢が低いといったのは、この精神性の事だと思われる。 日本社会では、何かに属し、屋根の下で保護されながら、暮らす生活が理想のようである。 この理由を容易に見出すなら、天皇制にあるといえるだろう。天皇の臣下であるなら、その庇護の下に、威張って生きていけるが、でない奴には、レッテルを貼り、徹底的に異質性を排除しようという差別的で、堕落した精神性が、日本人の闇のなかに垣間見られるのである。まるで、日本人の基準レベルがあるようである。 それは現代でも、官僚のお上意識に現存している。なにか官僚が不祥事を起こすと、官僚は優秀だからという理由を持ち出すが、問題を起こした時点で、その優秀という定義は既に失われていることに気がついていない。単なる情緒論である。優秀であるなら、不祥事になる前に失敗を分析し、大きな事件につながる前に手当てができるはずである。 どうも、国家公務員試験の点数や、大学入試の点数が高得点な人を優秀というらしい。この事からも、このような発言者の浅はかさが伺える。 日本社会では、官僚や政治家の失敗は、揉み消され、もし、バレても、何度でも許されるが、それ以外の国民の場合は、致命的に、悪い場合は、自殺に追い込まれる。 官僚組織に限らず、民間会社でも、異質的、少しでも組織に批判的で、体制に反逆的な態度を示すと、自ら組織を辞めるように追い込まれるのである。 つまり、明文されずに、法的証拠がなくても、俗に村八分といわれるような心理作戦で、追い込んでいくのである。 現代でも、このようなことは平然と社会の目の届かない、闇で行われているので、教科書問題のように、なるほど、後世には、その証拠は残らないが、尤も、日本社会では、そのようなことはかえって表立って明らかにしないので、残るほうが、かえって偽装や不自然と捉えられるだろうが、とにかく、軍部がなかば強要して、集団自決に追い込んだことは、いまの日本社会の特色からでも、明らかといえるだろう。 実際、いじめ問題だって、いじめが発覚してから、改めて学校側は、認めるのだから、何を今更という感が拭えないのである。 つまり、教科書を検定しようという行為こそ、偽装の匂いが充満しているように思える。中国共産党を非難しているが、自民党だって同じで、どっちもどっちという感じで、結局は同じ穴のムジナにすぎない。 歴史問題で一番大きな主題は、靖国参拝であるが、靖国は、日本の上層部の堕落した精神の自己満悦の為だけにあるだけで、以上の事から、国民に集団自決の見返りに、靖国に奉るという勲章を与えるというエサでしかなかったことがわかるのである。 でなければ、一億総玉砕などというような、とても理性的人間が考え出すとは思えない、集団自殺を奨励していたわけだから、仮想国家を夢みて、他者の命を粗末にする行為は、金輪際止めて欲しいものであり、恥知らずもいい加減にして欲しいように思う。 他人を巻き込む前に、先ず、自らが戦場に赴いて、玉砕していれば、何万、何十万という国民の命が救われたのである。日本社会は、上にいくほど馬鹿になり、上にいくほど、我儘で、自分に甘い連中ばかりなのは、太平洋戦争当時に限らず、いまの政治家にそっくりそのまま受け継がれていることが、今年、明らかになったといえる。 政治家はいまも老害のもはや地獄行きが決まっている連中を野放しにしている。引き際を知らない人間こそ、最悪の人物といわざるをえない。将来ある若者の命を粗末にしないで欲しい! 後進に道を譲ることこそ、最大の事業なのである。 せめて、国家が滅びる前に、悪徳政治家よ、国民の前に命を差し出しなさい!!
2007年12月27日
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炭素とエーテルの全ては既に新陳代謝組織のなかで準備されている。しかし新陳代謝組織は人間の組織として、宇宙全体のなかに組み入れられ、それ自身だけで存在することはできない。新陳代謝組織は、それ自体だけでは存在することができない。 つまり、新陳代謝は第3のものとして、人間のなかに原基として形成された。将来、神経-感覚組織になる第1の原基は、古土星紀の時代に、将来、律動組織になる第2の原基は古太陽紀の時代に形成され、これらの組織が形成された後ではじめて、新陳代謝組織が人間のなかに与えられる準備ができた。なぜなら新陳代謝組織だけでは、存在できなかったからである。 自らの意志による運動を除外すれば、新陳代謝組織は、人間にとっては、宇宙関係のなかでの食物摂取とみなされるが、この栄養摂取器官は独立には存在することはできない。人間は栄養摂取を必要とするが、栄養摂取器官は栄養摂取器官自体のみでは存在できない。 というのも、人間の新陳代謝器官を研究すると(人間の全生体機構にとって、新陳代謝がいかに不可欠か)、新陳代謝組織は、人間を病気にする、あらゆる可能な傾向に浸透されている。内的損傷、つまり外的損傷により生じたものではない病気の原因を、新陳代謝組織のなかに捜さなくてはならない。 従って、真に理念的な病気観察(診断)を行う人は、新陳代謝組織から出発する必要があり、そして、本質的に新陳代謝組織における個別の、どのような症状に対しても、「その症状は一体どのような道(プロセス)にあるのか」、と問わなければならない。例えば、それは次のようなことである。 「我々人間は、ある種の物質を、人体のなかで澱粉や糖他に変化させるが、口のなかでの食物摂取に関し、食物加工に関する、あらゆる現象を取り上げ、口中でのプティアリン(唾液アミラーゼ)による、食物の被膜溶解、更に進んで、胃のなかでのペプシン消化、更に進んで、消化組織のなかでの代謝産物の加工、これはリンパ管へと移行し、血液へと移行するが、このような加工を取り上げ、どんな個別のプロセスも探究する必要があり、考察すべき無数のプロセスがある。 膵臓分泌液と代謝産物との混合、胆汁と物質との混合他、個々のどのようなプロセスに対しても、訊ねる必要があり、その症状が、そもそも一体どのプロセスから発するか」、と。 すると、あるプロセスを問うなら、次のような答えに至るだろう、 「そのプロセスだけだったら、人間は常に病気になる」、と。 いかなる新陳代謝プロセスも人間の本性において、最後(完了する)まで進むことを許されてない。というのも、いかなる新陳代謝経過(プロセス)も、それが最後までいくと、人間を病気にするからである。人間の本性は、新陳代謝経過(プロセス)がある段階でストップされる場合のみ健康となる。 最初は、宇宙の仕組み(構造)の上での愚行とも思われかねない、このような事実、人間においては、新陳代謝プロセスが途中で止められなければ、病気になるプロセスが開始されることを次回以降、聡明の最たるものとして知ることになるだろう。 しかし、当面は、事実に従って、観察する。新陳代謝プロセスの1つ1つを、その本質に従って、内的に研究するとき、新陳代謝プロセスが、生体組織全体を病気にする途上にある、ということを考慮する必要がある。 そもそも人体に新陳代謝機能を存在させるには、それ以前に原基のなかで発達すべき別のプロセスが存在しなければならず、そして、それは循環のなかに存在するプロセスで、循環プロセスなのである。 循環プロセスは絶えず治癒プロセスを含んでいる。従って、実際、人間を次のように描写できる、 「人間は古月進化紀の間に患者として生み出されたが、古太陽進化紀の間に人間自身の性質のなかに、予め医者が派遣されていたと言える」、と。 古太陽進化紀の間、人間は人間自身の性質に関する医者として生み出された。患者の前に医者が生じていたというのは、宇宙進化において非常に慎重なことで、なぜなら、古月進化紀の間に、人間のなかに患者がつけ加えられたからである。 人間を正しく描写するなら、新陳代謝プロセスから循環プロセスへ、無論、衝動として循環プロセスの根底をなす全てへと進まなければならない。最も広い意味において、ある物質は、より早い循環を、別の物質は、より遅い循環を引き起こす。 人体内には実際、全くの小さな循環プロセスもある。何か、鉱物質を取り上げることにする。金、もしくは銅を取ってみると、これを、内的に、もしくは注射等により、何らかの方法で人間に服用すれば、循環(プロセス)のなかに何らかを形成し、変化させ、健康にするように働きかける云々といったことの切欠を与える。 そして、人間の本来の治癒プロセスを覗き見るために知っておくべきことは、人間の周囲にある個々の物質が、人間のなかに、循環プロセスの変化の誘導を生じる。つまり、次のように言うことができる、 「循環は絶え間ない治癒プロセスを生み出す」、と。 もし、この事を算術的に表すなら、次のことから明らかとなる。 人間は平均毎分18回呼吸する。これは宇宙に極めて規則的に適合し、一日の呼吸数は、太陽年を通じて運行する際の太陽の循環リズムが作り出すものと同じ数になる。 太陽は、その春分点が、25920年で、黄道全体を一巡する。人間は中年期において、平均一日に25920回呼吸する。脈拍はこの4倍である。 別の循環プロセス、もっと内的に集中した循環プロセスは、新陳代謝の影響を受ける。呼吸の循環プロセスは、人間と外界との外的な交流に対応し、外界との相互関係である。 この呼吸リズムが絶え間なく循環リズムを制御し、それが4倍を保つようにしなければならない。さもないと、人間はその循環リズムと共に全く不規則なリズムになってしまい。103680{25920の4倍}という数にならない。 これでは宇宙の中に何らの対応を持たないものになる。そうなると人間は宇宙から全く引き離されてしまう。新陳代謝は人間を宇宙から引き離し、宇宙から疎外する。そして呼吸リズムは絶えず宇宙のなかに引き込む。 呼吸リズムによる循環リズムの、この引き離しと融合のなかに、人体のなかで絶えず行なわれている原治癒プロセスをみることができる。 しかし、実際、ある形式で体全体に入り込んで、継続していく呼吸プロセスを、あらゆる内的な治療と共に、ある種もっと精妙な方法で助ける必要があり、それは呼吸プロセスが人体の至る所で、循環プロセスを制御し、宇宙との普遍的な関係に引き戻すようにすることである。 従って次のように言うことができる、 「人間は、本質的に下方から、常に病気になる傾向を持ち、生体の中間の組織、循環組織においては、絶えず健康維持の傾向を開発する必要がある為、食物摂取から治療へと移行しなければならない」、と。 (つまり医食同源という意味である) このように、生体の中間組織では、絶えず健康の衝動が生じることにより、この衝動は正に頭の神経-感覚組織に向かって、何かを残していく、こうして第3のものとしての、神経-感覚組織に至る。
2007年12月27日
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では、まず人間が地球から摂取するものを除外し、人間の新陳代謝機構、勿論、地球が進化することにより、何度も組織化される間に、再形成されたが、新陳代謝の原基は、月紀から得られ、つまり人間の皮膚内部で、狭義の新陳代謝として生じる現象、この場合、排泄も、新陳代謝とみなす必要があるが、この新陳代謝を取り上げる。 すると、新陳代謝は、食物摂取により、絶え間なく変化させられているといえる。最初、人間の外にある食物が、人間のなかに入り込み、新陳代謝組織に組み込まれる。 この新陳代謝組織は、自然環境に存在するものを、人間のものへと加工する。 鉱物質は全て熱エーテルに近づき始め、植物質は全てガス状-空気状-蒸気状のものに近づき始め、動物質は全て、特に固有の動物質として生み出されたものは、水状(液状)に近づき始め、そして、本質的に人間的なものを、組織されたフォルム(幽体)形成として、固体的なものに形成する。 これら全てが、その傾向に従って、新陳代謝のなかにある。新陳代謝は、この点において極めて興味深い。 新陳代謝を呼吸まで上昇し追求すると、人間は、体内の至る所に見出せる炭素を自ら形成することがわかる(炭素は、中世では、賢者の石と呼ばれた)。 炭素は酸素の来訪を受け、炭酸に変化させられ、炭酸を人間が吐き出す。炭酸は炭素が酸素と結びついたものである。呼吸を通じて、吸い込まれた酸素は炭素に襲いかかり、炭素を自らのなかに取り込み、人間は炭酸、つまり酸素が炭素と共に成立させた化合物を吐き出す。 しかし、息を吐き出す前、炭素は、いわば人間の性質の善行者となっている。というのも、炭素は酸素と結びつくことで、いわば血液循環を引き起こすもの(非リズム)を、呼吸が、血液循環から作り出すもの(リズム)に結びつけ、炭素は人間の生体機構の善行者となるからである。 というのも、炭素は、人間の生体組織を去る前に、生体組織全体にわたってエーテルを循環(流出)させるからである。物質科学は単に、炭素は炭酸とともに吐き出される、と言うだけだが、これはその経過(プロセス)全体の一面(表面)にすぎない。 人間は炭酸を吐き出すが、人間の生体組織全体のなかには、呼気を通じて酸素に用いられる炭素により、エーテルが後に残される。このエーテルが人間のエーテル体のなかに侵入していき、エーテルは、常に炭素により生み出される。 このエーテルが、人間の生体機構を、精神的(霊的)な影響に対して、適度に開かせ、宇宙からのアストラル-エーテル的作用を受け容れるものにする。 このように、炭素が後に残すエーテルによって、宇宙の衝動が(人体に)引き入れられ、人間を形成するように働きかける衝動、例えば人間の神経組織を、思考の担い手になれるように準備する衝動が引き入れられる。 このエーテルは絶えず人間の感覚を生じ、例えば、眼の感覚を生むには、眼に浸透する必要があり、眼が見えるようになるには、眼が外の光エーテルを取り入れることができるようになる必要がある。 つまり、宇宙を出迎えることのできるエーテルの広がりを、我々人間がもつことができるのは、炭素の御蔭である。 (だから、中世では、炭素を賢者の石と呼んだ。エーテルは、エリクサーと呼ばれる霊薬のことで、錬金術とは、血液循環の非リズムと呼吸のリズムを結びつける作用、つまり物質に、エーテルの流れをもたらし、宇宙の生命衝動、つまりアストラル-霊魂を受け入れる状態にすることをいう。 肉体という物質体に、霊魂を宿らせるには、エーテルが必要で、それには炭素、つまり賢者の石が必須なのである。生命がエーテルであれば、炭素は、生命の素なのである。)
2007年12月26日
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いま「太平洋戦争の意外なウラ事情」という本を読んでいるのだが、この本を読むと、日本人には、当時、理性が欠けていたように思える。まるで、日本人全体が、悪い酒でも飲んで、酔っ払っているかのように映るのである。 正に、負けるべくして負けるという感じで、外国と戦う前に、日本人同士が、派閥争いや、既得権益やら、面子をたてることや、無責任のやり放題という感じで、読んでいて、なぜ、日本人はこのように、馬鹿なのか、甚だ恥ずかしい思いばかりをさせられてしまうのである。 とにかく、日本人ほど情に脆く、情に流され、その場の雰囲気に乗せられ易いという感が否めない。信念に欠け、お調子者のお人よし馬鹿といえる。手練手管のフランス人と好対照といえる。 そういえば、日本人だけが、フランダースの犬のラストに感動するという、ヤフーのトピックに、今日あったが、どうも、無駄な死を美的に捉える節がある。西欧では、このような無駄な死を、負け犬の死としてしか捉えないようである。美学というより、自己陶酔の醜悪と捉えるようである。 滅びの美学なるものが、日本人の血に流れているようであると、分析されているようである。 どうも、赤穂浪士の影響なのかもしれない。赤穂浪士の話は、全ては、殿中で刃傷沙汰に及ぶ、我慢が足りない浅野のお馬鹿殿さまの幼稚性にあるだろう(家老大石はなんとか誤魔化す為に連日連夜遊び呆けたが、結局討ち入る羽目なった。当初は、家臣たちの新規雇用に結びつける当ても、切腹となってしまい逆に転ぶ)。そういえば、浅野の馬鹿殿の辛抱の無さは、途中で政権を放り出し病院に逃げ込んだお坊ちゃん総理と良く似ているが…。 フランダースの犬の主人公はそこまで、滅びの美学、ならぬ醜悪ではないが、何せ、貧乏なのは、本人の罪ではないからであるが、日本人の特攻精神というのは、果たして、どちらに映るだろうか? 実は、この本を読むと、特攻隊は既にパールハーバーの開戦時に行われ、戦意高揚の為に、10人が犠牲になる予定だったのが、1人が捕虜として捕まり、後はほとんどが、敵に発見され、撃沈だという、その9人を英霊として、祭り、国民の戦争意欲を掻き立てたというのである。戦力が足りないからではなく、はじめから、国民は騙され続けていたというわけなのだ! しかし、命を捧げた連中が、いまの政治家たちや、この本に出ている自己陶酔の参謀連中なのだから、なんだか、涙は誘うが、無駄な死に近いように思えてならない。 捕虜や同志を、何千人、何万人と殺して、自分だけは戦犯を逃れようと逃げ回った、辻政信という国内外問わず、人類の敵とさえ言われてしまう日本人を生んでしまうのだから、この際、自己陶酔も、美学というより、醜悪と評価した方がいいのではないだろうか? なんでも、この辻政信は、第三次世界大戦を誘発させそうな人物というレッテルをGHQから貼られたという。このような人物を生む風土は、流石に米国には、脅威に思え、GHQの3S政策の背景となったのだろう。 特攻は、自殺という名の逃亡を美学で自己陶酔しているように思える。 ましてや、小泉なんかの似非改革の宣伝に利用される始末なのだから、さぞ、無念だろう。 辻のような、悪人が最後まで、生き残ろうと齷齪するのと比較するならば、桜のように、自己陶酔して、国家という仮想の為に、家族を思い自決する方が、確かに美学といえるだろうが、だったら、辻のような人物を牢獄に送り、辻に殺された人達が平和に暮らせる国家をつくる方がどれだけ賢く、どれだけ理想的であるか、小学生でもわかるのだが、当時は、どうも、そうではなかったようである。 そして、いまの政治家をみていると、どうやら、理性を失っている状態は、戦後から続いているようである。
2007年12月25日
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幕末時代は、現代よりも遙かに混迷を窮めた時代だったろう。そのような混迷の時代、為政者がどのような精神で政事をおこなうべきか、その心構えが、勝海舟の「氷川清話」には載っているのである。 勝海舟は、政治も外交も、一言でいって「正心誠意」と言い切っているのである。 そして、困難や時局には、とにかく明鏡止水の心構えで、まずは、自分の命を度外視し、捨てて、全力で当たれという。命を捨てて掛かるからこそ、かえって、事が成就し、生かされるという。 切り結ぶ太刀の下は地獄なれど、一歩踏み行けば後は極楽 という詩が、的を得ているといってもいる。 そして、理想的な人物を、西郷南洲と、横井小楠としている。その理由は、胆力と胆識が東西随一であるからだという。 胆力とは、要するに行動力である。いくら頭がよく、立派な事を語ろうが、実行力がなければ、意味がないわけである。 現代の馬鹿政治家や、一年生議員には、「氷川清話」は、必読の書である。 個人的には、中学の歴史の授業にも使うべきだと思う。
2007年12月25日
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有体にいって、国家とは、国民の生に対する信頼の拠り所となるものであらなければならない。家族において、父親の存在が、生きることの信頼の模範であり、母親の存在が、生きることの愛情の発現であるように、国家とは、子供である国民の、生への希求であらねばならないといえる。 しかし、一言で、生といっても、ただ生きること、死を免れることではない。古代ギリシア時代の哲学の命題であったように、「よく生きる」ことの問いかけの生のなかにある。 学問とは、問う学と書く。では、「なぜ、問うか?」といわれれば、答えを求める為であり、答えを基に、己の理解を深める為にある。問うことに対して、真善美がその答えにどれぐらい含まれているかで、理解力が、得られるといえるだろう。 理解力が深まることで、意識が変わる。俗に、技術者や、匠といわれる技の達人が、素人の視点とは、大いに異なる、俗にいう「心眼」をもつのは、この理解力、並びに、問い答えるという繰り返しの手続きを、体験を通じて行ってきた証といえるだろう。 逆説的にいえば、理解力を深めるには、「問う」力が、必要で、いかに「問う」かで、理解力が呼び醒まされるといってもよいだろう。 堕落した精神には、この「問い」が欠けている。「問い」が欠けるのは、自らの存在に疑問をもたないからである。そこには、自分こそ、最善であり、真実であり、最も美であるという傲慢さが潜んでいるといえる。 実は、このような存在こそ、悪で、偽で、醜の何者でもない。このような存在には、向上心や、自らが背負う罪意識に欠けているといわざるをえない。 自分が常に正しいと考えている輩こそ、性質の悪いものはない。「問い」のない者、疑いのない者、このような者は、自分を悪とは決して思わないからである。 だからこそ、古代ギリシャ時代から、懐疑主義という態度が尊ばれてきた。ソクラテスの「無知の知」はある意味、本当に、正しいのだろうかという「問い」の懐疑主義といえる。 無知の領域を知ることで、新たに、知を深めることができる。 知を深めれば、意識が自ずと変わり得る。いままで、みえなかった領域がみえてくる。 ただ、無意識的に生きているという状態から、意識的に生きるという意志を目覚めさせることができる。いま生きていることの現代人の意識が、あまりに無意識さ、他者に依存して生きることに馴れてしまった為に、死にゆく存在だということさえも、我々現代人は忘れているようである。 なぜ、連日、殺人事件が起こるのであろうか? この世から戦争がなくならないのだろうか? それは無意識に生きていると、死を身近に感じない人間が増えているからだともいえるだろう。死を意識すれば、生に対して、意識的にならざるにはいられない。 死は、生をより意識的にする為の存在といえるだろう。 悪は、より良い善を導く為にあるといえるだろう。 死は、生に救いをもたらすのである。 死がなければ、生もない。無意識な生は、もはや生ともいえない。ただ、死がない生である。意識がない人間、それは人間が、機械と同じ存在になったことを意味する。魂が消えたことを意味する。 国民を救う意識がない国家とは、もはや生きている国家とはいえない。少なくとも独立国家ではなく、従属国家である。 国民を救うことで、国家は、よりよく永らえるといわねばならない。
2007年12月25日
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また、人間は、地球上で、空間的に取り巻く周囲にも組み込まれている。 例えば、鉱物界を考えてみれば、人間は鉱物界と相互作用している。我々人間は、食物を通じて鉱物を摂取し、他にも、呼吸他を通じて、鉱物を吸収している。そして、我々人間は、人体のなかで鉱物を加工する。 ところが、あらゆる進化、あらゆる宇宙のプロセス(経過)は、人間においては、人間(人体)の外の外界とは異なっている。 既に指摘したように、今日、化学の実験室で、化学プロセス(変化)を研究し、人間が食物を食べるときにも、化学プロセス(変化)が、人間の内部に継続していく、と考えるなら、全く馬鹿げているといわざるを得ない。 人間は化学作用の合成物ではなく、人間の内部では全てが変化するからである。そして、ある観点から、この化学変化は次のように現われる。 「鉱物質を摂取することを仮定する。鉱物質として摂取する全ては、人間のなかで以下のような効力を持つまで駆り立てられる(消化される)必要がある。」 「人間は自身の熱を持ち、健常人の場合、血液の温度は約37度である。人間は、血液の温度のなかに、平均して外熱を凌駕する熱を持っている。」 鉱物として摂取する全ては、人間の生体組織のなかで変化させられ、変容させられる必要があるが、それは、血液の温度のなかで、外環境の中程度の温度(15~30度)を超える、高い熱で、充分に鉱物質を摂取する(溶解する)形で行われる。 熱で砕かれた食塩を味わうとき、この摂取(溶解)された食塩は、自身の持つ、外界と共有する熱ではなく、自身が溶解した熱により、吸収される必要があり、充分に摂取される必要がある。鉱物質は全て、熱エーテルに変化する必要がある。 そして、このような鉱物が、人間の生体組織のなかで、熱エーテルに変化するのを、妨害する性質をもつとき、人間は病気になる(糖尿病は、この例の典型)。 鉱物から、更に進んで、植物質摂取に移る。人間が植物質を摂取し、植物質を自らの中でも発達(進化)させることで、人間自身が、宇宙の一部となる。人間は鉱物質を含むが、鉱物質は絶えず、熱エーテルになろうとする傾向を持つ。 植物質は、人間のなかで絶えず空気やガスのようになろうとする傾向をもつ。 つまり人間は植物質を、自らのなかに空気領域としてもつ。人間(人体)のなかに、植物から入ってくる植物質、或いは人間自身が、内的に植物体の機構として発達(進化)させるものは全て、空気のようになる必要があり、人間のなかで空気の形状をとることができなければならない。 植物質が、空気の形状をとらないとき、人間の生体機構が、人間(人体)のなかで、植物的な全てのものを、空気の形状に移行するのを妨害するとき、人間は病気になる。 人間が摂取する動物質、或いは人間自身が自らのなかで動物質として育成するもの全ては、人間のなかで、少なくとも、ある期間、液体的な、水のような形をとる。 人間は、自らのなかに、いかなる動物質も持つことは許されず、内的に作り出した動物質も、摂取された動物質も、一旦、人間のなかでは、液体になるという経過(プロセス)を遂げる必要がある。 人間が、人間自身の動物質、或いは外来の動物質を液体状にして、更にまた固体へと移行させることができなければ、人間は病気になる。 人間のなかに純粋な人間の形を生み出すもの。人間において、人間が直立歩行する存在であること、人間が、内部に、話し思考する衝動を持つことに由来する要素(人間実質)のみが、人間を、動物を超えて、本来の人間になるものへと、つまり地上的な固体へと(固体化を成し遂げるのは、生体組織のせいぜい10パーセントである)、堅固に形成され、人間の形態(フォルム)へと入り込んでいくことが許される。 動物質と、植物質のうちの、何らかのものが、人間の固体フォルム(幽体)のなかに入り込むと、人間は病気になる。 鉱物質は全て、人間のなかで一旦、熱エーテルになる必要がある。 植物質は全て、人間のなかで空気状の通過段階を経る必要がある。 動物質全ては、人間のなかで水状の通過段階を経ていく必要がある。 人間的なものだけが、人間のなかで地上-固体フォルムを常に維持することが許される。 この事が人間の生体組織の秘密の1つである。
2007年12月25日
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これまでの要約から、真の包括的な人間認識を、最終的に生み出すべく、宇宙の諸現象を、統合するように、全ての存在が迫っていることがわかるだろう。これまで観察してきた全てにおいて、人間認識を切実に必要とする。 そもそも、人間認識が可能なのは、それが現象界の最も低次の形式、つまり人間に対する物質世界として、顕現する全ての物質存在から、認識が開始されるときだけである。 そして、このように物質世界として顕現する存在の観察から始まる意識が、ヒエラルキア(天使)世界の観察とつながる。 真の人間認識に通じるには、物質的存在の最も低次の形式から、霊的存在の最も高次の形式の、ヒエラルキア(天使)の世界に至るまで、追求する必要がある。さしあたり、この要約のなかで、このような人間認識のための一種の素描を行う。 明白に理解すべきことは、人間として、存在する生命体は、常々、土星進化、太陽進化、月進化として要約してきた、長い宇宙進化の結果であるということで、地球進化は、まだ終わっていない。とはいえ、本質的に、人間は、狭義の、すなわち月進化に続く地球進化の御蔭で何を得ているのか、明白に理解しておくのが望ましい。 両腕を伸ばし動かすとき、また指を動かすとき、また何らかの運動をするとき、腕、脚、頭、唇その他を動かすことができる為に(このような人間の発現の為の諸力が、生体組織の最も内側まで入り込む為に)生体組織のなかで必要な全ては、狭義の地球進化を通じて人間に授けられた。 これに対して、新陳代謝の展開全て、人間の一番外側の皮膚に閉じ込められた空間のなかを覗き込むとき、物質的-肉体的な内的人間における新陳代謝の展開として生じる全てに目を向けるなら、そのなかから、人間が月進化の御蔭で得た1つの像が得られる。 そして、人間が古い太陽進化の御蔭で得た像を得るには、人体のなかの律動的(リズミカル)プロセス全てを眺めるときである。呼吸プロセス(経過)、血液循環プロセス(経過)は、実際、最も重要な律動的プロセスであり、これら全ての律動的プロセスを、人間は古い太陽進化の御蔭で得た。 そして、やはり今日の人間の全身に広がっている神経-感覚の展開全てを、人間は古い土星進化の御蔭で得た。 にも関わらず、注目すべきことは、人間は1つの全体であり、そして宇宙進化は1つの全体であるということである。著書『神秘学概論』で示したように、古い土星進化に言及するとき、それはかつての太古の時代、つまり太陽進化、月進化、地球進化に先行していた進化のことを意味する。 ところが、神経-感覚組織の展開は、根本的に、地球まで持ち越された土星進化ともいえる。地球が進化する一方で、一緒に、土星進化も生じる。この新たな土星進化は、地球進化のなかにあり、神経-感覚組織はいわば、最も若い土星進化である。 地球進化までやってきた神経-感覚組織は最も古いものである。 土星進化として古い太陽に組み込まれた律動組織は、土星よりもう少し若いもの、月に組み込まれた新陳代謝組織は、更に若いものである。 この事と同様に、今日地球を満たしている土星的なもの、本質的に地球のある種の熱組織に関わる土星は、最も若い土星進化といえる。我々人間は、神経-感覚組織として、この土星進化のなかにも、組み込まれている。 このように我々人間は宇宙の進化に組み込まれている。
2007年12月20日
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かつてアメリカがナンバー1といわれた時代があったが、いまはアメリカがワースト1という時代を迎えているといえるだろう。 メイドインUSAといえば、破壊兵器や、人体に有害の農薬塗れの農産物や、狂牛病を発生させた牛肉という、ただ安いだけの粗悪品という代名詞が現在のアメリカである。 アメリカアズワースト1 その代表がかつてハゲタカと呼ばれた米銀連中である。このハゲタカ連中が日本にやったことを、日本人は忘れない。 それは長銀の買収である。 わざわざ株価を下げ、潰しておいて、公的資金注入し、買収し、いまの新生銀行がある。新生銀行は、いわば、太平洋戦争の沖縄である。金融ビッグバンは、広島、長崎への原爆投下である。 いま、米銀は、自分たちが行った業を、思い知るべきである。 その米銀は、自分たちの行いのツケを、他にまわして、自ら生き残ろうと躍起になっている。かつての長銀の人達からみれば、「ふざけるな!」といいたいところだろう。それより、邦銀が、米銀を潰して、買収することをしないことに感謝すべきである。 公的資金は、国民の血税なのである。国民の血を吸っておいて、まだ血が欲しいなどと、吸血鬼米銀は、ついに、ドラキュラとなったといえる。 サブプライムのニンニクが匂うぞ、せいぜい口封じに躍起になるがいい。 あまりに、日本に強請りタカリが五月蝿いと、長銀という十字架をみせて、長銀におこなったことをそのまま行うぞ! 目には目を、歯には歯を! 中国だって、ロシアだって大歓迎だろう。アメリカの石油権を握れば、エネルギー支配が完成だろうから。 日本に格差社会を招いた悪魔アメリカよ! 調子に乗るのもいい加減にしろ!!
2007年12月20日
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腐敗政権は、下らないUFO議論で、消えた年金と薬害問題を煙に巻き、延命を図っているようだが、そのようなやり方こそが、不真剣さの表れであり、本性であろう。 大体、年金も確認できない連中が、高度に未確認の存在を、確認し、特定できるわけがないだろう。つまり、確認するに足る知性が欠けているのだから、何を議論しようが、信じる信じないの新興宗教になってしまいがちである。 UFO論議は、小学生に大学卒業レベルの知識を求めるものである。その発言をみれば、まるで幼稚園児並である。 未確認飛行物体をUFOと定義しているのだから、科学的に特定できない飛行現象を全て含んでいるわけである。 例えば、この事を、未確認の疾患に当てはめ、考察するなら、疾患を特定する知性が、要求されるわけである。一般的には、専門の医者等の医療チームが、健康の為に、社会に要請されるわけである。 だから、飛行物体を含む現象を特定する為の知性を組織化する必要があるわけである。航空自衛隊や民間パイロットを集めて、報告書を基に、対処マニュアルを作成すべきである。政治家一人の意見を悠長に披露している暇などない。そんなことは少なくとも公式の場でやることではない。 米国の場合、バンネバーブッシュという人物を下に、ブルーブックというあるプロジェクトが実行されたというが、これも架空の話の可能性もある。この事に関しては、日米同盟の枠組み内で、米国にプロジェクト調査の情報公開を依頼すればよいだろう。 UFO現象が、社会に深刻な影響をもたらすものであるなら、国民の了承の下に、日本独自の、未確認飛行物体調査機関を立ち上げる必要があるが、いまのところは、日米同盟や、思いやり予算等の大規模な米国への資金援助を、場所を提供した見返りの情報取得料として、換算請求し、米国の情報から分析すべきだろう。 UFO現象が社会的脅威となるのは、高度に知性的な宇宙人の侵略船である場合だが、人間より遥かに知性的ならば、人間は戦っても無駄なので、攻撃的姿勢を示すのは、かえって全滅を免れないだろう。 問題は、人間と五分五分の知性をもち、人間と同じ戦闘力を持つ場合だが、その場合、人類同士の地上の戦争と同じものになる。 しかし、人類にとって未確認な飛行物体をつくれる段階の知性を既に、未確認飛行物体という宇宙船で示し、もっているのだから、人間と五分五分の知性体であることはほぼ有り得ない話である。 また、人間より劣った知性ならば、未確認飛行物体など、つくれるわけがないだろう。 だから、UFOが脅威となるような宇宙人の侵略船という、高度な知性と支配欲が統合された存在ならば、何も、あからさまに侵略船とわかるような、馬鹿な真似はせずに、高度な知性で、密かに、既に、人類は、支配されていると考えた方が妥当である。 UFOが現れている段階で、宇宙人が侵略者ならば、気がついた段階で、既に手遅れといわざるをえないだろう。ただし、宇宙人側に、人類に対して接触できない特定の理由がある場合を除く。 宇宙人側から考えれば、人類を支配したいのなら、支配したい国家の支配者に潜り込むのが効率的である。例えば、米国大統領や、大量の資金をもつアラブの王様等であろう。もっとも適任なのは、現代の巨大投資家、ロックフェラーだろう。少なくとも、日本の総理などでは大失敗である。 人類にとっては、わざわざ、敵対的な宇宙人などという遠回りの描像よりは、身近に潜伏した連中の方が脅威といえるだろう。とどのつまりは、UFOとは、消えた年金や薬害そのものである。人類のなかに潜り込み、支配者になりかわった悪人に他ならない。 つまり、人類のなかの高度な知性と支配欲が合わさった官僚こそが、このような脅威のUFOの宇宙人の正体といえるだろう。国民の税金を盗みとって、好きなように使い、更にツケを国民にまわすわけなのだから。そのツケがまわりまわって国家を滅ぼし、民族を滅ぼし、人類を滅ぼすことは確実である。 連中は、悪人を仮想に仕立て上げて、注意を他に向け、気を逸らしておいて、自らの本望を遂げるのである。悪人連中の手口は、昔から変わらないというより、代わりようがないのである。 宇宙人を侵略者とするなら、悪徳政治家や悪徳官僚こそが、その正体なのであり、国民主権の民主主義を奪う悪人、つまり悪魔の正体といわねばならないだろう。 自分たちは侵略宇宙人の行為をしながら、さも地球人、日本人の面をしている連中こそ、真の宇宙の破壊者といえるだろう。 逆に、たとえ、宇宙人に潜伏されていたとしても、人類の為になる政策や政治を行うのならば、もはや宇宙人ではなく、地球人類といえるだろう。そして、地球の平和と環境を守り後世に伝える存在こそ、真の地球人なのである。 だから、自らの欲望を糧に、地球や自然を破壊する人間こそ、侵略的宇宙人といえるだろう。 なにより、地球という星全体が、地球人という宇宙人のUFOなのである。自分たちの乗り物を自ら破壊している知性体など、果たして、宇宙の存在に相応しいといえるのだろうか?
2007年12月20日
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しかし、これら元素(精霊)存在たちが、いわば宇宙へと呼びかけてきたものは、創造し、造形し、形成する宇宙言語、あらゆる働きとあらゆる存在の根底にある宇宙言語の最終音である。 グノームたち お前はお前自身を夢見ている そして目覚めを避けている。 私は根の本質の力を保つ この力は私に形成体を創り出す ウンディーネたち お前は天使のわざを思考している それなのにそのことを知らない。 私は水の成長力を動かす、 この力は私に生命の素材を形作る。 ジルフェたち お前に創造の力が輝く、 お前はそれを予感しない。 お前はその力を感ずる、 なのに、この力を生きない。 私は空気の生命力を呑み込む、 この力は私を存在の力で満たす。 火存在たち お前を神々の意志が力づける、 お前はそれを受け取らない。 お前はその力で意志する、 なのに、この力をお前から突き離す。 私は火の志向する力を溶かす、 この力は私を魂の霊性のなかに解放する。 グノームたちの合唱: 目覚めを希求せよ! ウンディーネたち: 霊のなかで思考せよ! ジルフェたち: 創造しつつ呼吸する現存を生きよ! 火存在たち: 神々の意志の力を愛しつつ受けよ! そして、これら宇宙言語の最終音は、宇宙言語の協和音である人間となる。
2007年12月19日
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グノームたちの合唱が、「目覚めを希求せよ!」と響かせることで、人間の骨組織、運動組織(系)全般を出現させる力として働く力が、グノームの言葉に置き換えられる。 そして、ウンディーネたちは「霊のなかで思考せよ!」と呼びかけることで、ウンディーネの言葉に翻訳しながら、新陳代謝器官を形成する宇宙言語として、人間のなかに注ぎ込まれる力を呼んでいる。 ジルフェ(シルフ)たちが呼吸されることで、ジルフェ(シルフ)の「創造しながら呼吸する現存を生きよ!」が下方へと流れ込んでいくことで、人間に律動(リズム)組織(系)の器官を備えさせる力が、人間を貫いて揺り動かし、活気づける。 そして、火存在(サラマンダー)の形で、宇宙の火のマントから雷鳴と共に響いてくる。人間が、この事に気付くとき、それは反照、模像のなかに現れ、宇宙の火のマントから、人間へと放射し、この言葉の力が、こちらへと放射してくる! 人間の神経-感覚組織(系)の各々、いわば人間の頭部の各々を、このとき、火存在(サラマンダー)の言葉に翻訳すると「愛しながら、神々の意志を受けよ」という意味の、スケールの小さな、ミニチュアの模像(相似形)となる。 この「愛しながら、神々の意志を受けよ」という言葉は、最高の宇宙実質のなかで作用するもので、人間が死と新たな誕生との間(あの世の生)で進化を遂げるとき、死の門を通って担っていくものを、その後、人間の神経-感覚器官の素に造り変える。 運動組織 グノームの合唱:目覚めを希求せよ! 新陳代謝機構 ウンディーネ:霊のなかで思考せよ! 律動組織 ジルフェ:創造しながら呼吸する現存を生きよ! 神経-感覚組織 火存在:神々の意志の力を愛しながら受けよ! 見ての通り、境域の向こうにある(精霊)存在が、自然に属し、創造する神々の力へと、他の生命全てに働きかけ、生へと導入することがわかる。別世界を待ち焦がれ、これら霊的な言葉のなかにある全てを思い出すとき、次のように言える。 私は働く力全てと、その種子を観る もはや言葉をあれこれと詮索することはない この事は、人類の進化、人類の発展の歩みのなかで実現されなければならない。人間を様々な形で作り上げる種子の力のなかを覗かないうちは、あらゆる知のなかで言葉をあれこれと詮索し、かきまわす。 だから、次のように言うことができる。 「運動組織、新陳代謝組織、律動組織、神経-感覚組織は、合流して、1つになる。つまり、下から上へと響いてくる「目覚めを希求せよ」「霊のなかで思考せよ」、そして、この上昇を志向する言葉に、上から下へと他方から、つまり「創造しながら呼吸する現存を生きよ」と「神々の意志の力を愛しながら受けよ」が混ざり合うことによって、1つになったものである」、と。 この「神々の意志の力を愛しながら受けよ」は、頭のなかで静かに創造するもの。 下から上を目指してくる「霊のなかで思考せよ!」、上から流れ落ちてくる「創造しながら呼吸する現存を生きよ!」は特に、人間の呼吸が、血液のなかの人間の働きへと移行し、リズミカルに移行する形で、写し(コピー)取るように、生き生きと相互作用する。 そして、感覚器官を、人間に植え付ける力は、上から流れ落ちてくる「神々の意志の力を愛しながら受けよ!」である。 しかし、歩くとき、立つとき、腕や手を動かすときに働いている力は、人間を、本質的な意志に従って、生きることに導く力であり、「目覚めを希求せよ!」のなかに響いている。 以上、この事から、人間が、いかに、宇宙言語の協和音であるかがわかる。 この宇宙言語は、これまで述べてきたように、最も低い段階のものに解釈できる。この宇宙言語は更に高次のヒエラルキア(天使)のところまで達し、高次ヒエラルキア(天使)は、宇宙を発生させ、生み出す為に、更にまた別の力を、宇宙言語として繰り広げねばならない。
2007年12月18日
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米銀は、なんでもサブプライムローンで、資金が焦げ付くので、損失補填を世界の銀行に御願いしているという。 なんだか、自分は贅沢な身形をしながら、乞食同然の振る舞いをするようなものである。 自由な資本主義を標榜しながら、行うことは、まるで不自由なかつてのソ連の共産主義のようである。まるでアベコベである。ソ連を倒しておきながら、ソ連になっているのだから始末におえない。まるで得体の知れないハゲタカ連中は、ついにハゲタカらしさも放棄し、ハイエナのような地上を死に体のように彷徨うゾンビと化したようである。 かつて、邦銀や日本の生命保険会社の損失補填をモラルハザードなどと罵っておいて、見下し、馬鹿にした連中が、いまは世界に助けてくれと命乞いするような有様である。聞いて呆れる。世界中が、米国を馬鹿にするのも時間の問題だろう! 米国御自慢の自由と競争原理は、何処かに消え去ってしまったようである。ゲームに負けそうだから、手加減してくれ!というようなもんである。 資本主義の敗者である貧乏になるのに、プライドも減ったくれもないという心境なのだろうが、貧乏になる前に、貧乏行為をしているのだから、もはや貧乏以上の貧乏であろう。 貧乏は仕方なくなっている境遇なのに、この連中は、金持ちの格好をしながら、自ら貧乏を選択しているのだから、蔑むべき存在である。 自由と正義を標榜しながら、内心は、貧乏になるのが怖いだけだったのである。 こんな連中を助けたって、喉もと過ぎれば熱さを忘れるようなもんである。 大体が、そのような危険な賭けをしたのは、本人の責任であり、そのツケを他に廻すのは御門違いというものだろう。 日本のヤクザを馬鹿にしながら、いまやってることはヤクザ同然なのだから、キリスト教国が聞いて呆れる。 悪魔の国アメリカと自らを蔑み標榜するのなら、助けてやってもよいだろう。
2007年12月13日
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これまで述べてきたように、いわば、精霊存在たちが、人間に語ることに習熟していくと、精霊存在たちが、いかに自らの本質を表現するかも次第にわかってくる。 例えば、グノームたちは次のように表現する。 私は(植物の)根の本質の力を保つ、 この力は私に形成体を創り出す。 ウンディーネたちは 私は水の成長力を動かす、 この力は私に生命の素材を形作る。 ジルフェ(シルフ)たちは 私は空気の生命力を呑み込む、 この力は私を存在の威力で満たす。 そして火存在(サラマンダー)が行うことに対して、地球上の言語で表現するのは非常に困難で、それは火存在が、地球の生と地球の営みから遥かに隔たっているからで、以前は「消化」という言葉を用いたが、本質的には消化というより、火のように焼き尽くすことなのだが、そこで、「融解」という言葉で表現したいが、「融解」というより、動詞の「溶かす」に近い。 私は火の志向する力を溶かす、 この力は私を魂の霊性のなかに解放する。 これら元素(精霊)界の存在たちが、いかに自分自身を特徴づけるか、そして、まず何を、人間たちに勧告するかの理解に努めた。これらの精霊存在たちは、人間に、否定的な事だけを耳打ちするほど、不親切ではなく、これらの精霊存在からは、いわば碑文体の金言も発せられる。 こうした金言は、人間には何か途方もなく巨大なものと感じられる。 このような精霊が金言を発する出来事に対する感受性を、人間は身につけておく必要がある。つまり、いかに素晴らしいにせよ、ある文が、人間の言語としてのみ語られるのと、それとも、その文が、力強いグノームの一団から宇宙に鳴り響くのとでは、大いに異なることに対する感受性である。 金言が生じてくる形によって、全く違いが出てくる。そして、人間がグノームたちに耳を澄ますと、グノームの合唱は、以上に書き記した勧告を与えた後、人間に向かって、グノームの合唱は、次のように響いてくる。 目覚めを希求せよ! これは、力強い道徳的イメージで、宇宙万有を貫いて流れ、夥しい数の個々の声から成る言葉が、目覚めの希求を全体として表す(恐らく、ベートーベンの第9交響曲の合唱のようなものなのだろう)。 ウンディーネの合唱は次のように響く、 霊のなかで思考せよ! ジルフェ(シルフ)の合唱となると、上記のように単純ではない。というのも、満月の輝きのなかで、グノームたちが鎧をつけた輝く騎士のように現れる丁度そのときに、地の底から、グノームたちから「目覚めを希求せよ!」という合唱が同時に響いてくるからである。 また、ウンディーネたちが、食べ尽くされるという憧れのなかで、上方へと漂っていくとき、漂い上昇しながらも、地上へと「霊のなかで思考せよ!」が響き返してくる。 そのような響きのなかで、ジルフェ(シルフ)たちは宇宙光のなかで、青-赤-緑を帯びた稲妻となって、消えながら、上方で自らを、ヒエラルキア(天使)存在に呼吸させるが、このとき、光のなかに煌き入り、そのなかで消え去りながら、高みのジルフェ(シルフ)から下方へと響いてくる、 創造しながら呼吸する現存を生きよ! そして、火のような怒りのなかで、とでもいうべきものだが、破壊的なものではなく、宇宙から、人間が得るべきものと感じるような怒りのなかで、火のように、同時に熱烈な怒りが、火存在により響いてくる。 火存在たちが、地球の火のマントのなかに、霊性を携えていくときに、次の言葉が響いてくる。この響きは、個々の声が一緒に響くものではなく、周囲全体から力強い雷鳴のように響くものである、 神々の意志の力を愛しながら受けよ! 無論、精霊のこのような金言全てから注意を逸らすこともできる。注意を逸らせば、金言を聞き取ることはない。このような金言を聞くかどうかは人間の意志に任されている。 しかし人間はこのような事柄を聞き取ることにより、精霊の金言が、現にある宇宙を成り立たせている要素であり、これまで描写してきたように、グノーム、ウンディーネ、ジルフェ(シルフ)、火(サラマンダー)存在が自らを展開していくことで、実際に、地球上で出来事が生じることを知る。 そして、グノームたちは、人間に対して、いま描写した関係だけでなく、グノームの宇宙言語を大地から響き渡らせるために、地球にいて、ウンディーネたちは、宇宙言語を上方へと流れ漂いながら、響かせ、ジルフェ(シルフ)たちは上方から、火存在(サラマンダー)たちは合唱のように、力強い声の展開全てが合流するように存在する。 精霊たちの金言は、人間にとって、将来現れてくるような預言の言葉に置き換えられる。とはいえ、これらの言葉は宇宙言語の一部で、たとえ人間の通常意識では、聞くことが出来ないとしても、これら精霊の言葉は、人間にとって無意味なものではなく、非常に大きな意味をもつものである。 なぜなら、「宇宙は言葉から造られた」、という太古の霊能力に基づく、太古の観照は、正しく深い叡智だからである。しかし、宇宙言語は、僅かな音節から構成されたものではなく、数え切れないほど多くの存在たちから、響き合ってくるものである。 数え切れないほど、沢山の存在たちが宇宙の全体性において、語るべき言語を持ち、宇宙言語は、これらの数え切れない存在たちから一斉に鳴り響いてくる。「宇宙は言葉から生まれた」、という一般的で抽象的な真理は、この事を完全に伝えることはできない。 この真実が、完全に与えられるには、いかに宇宙の個々の存在たちの声から、宇宙言語が様々なニュアンスで構成されていくか、そして、この様々なニュアンスが、大いなる宇宙の調和(ハーモニー)と力強い宇宙の旋律(メロディー)のなかへと響き、いかに語り、創造するかを、次第に具体的に知るようになるときだけである。
2007年12月13日
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これまで述べてきた精霊の世界は、最終的に素晴らしい宇宙絵画のように見える。精霊の世界全ても、地球上で生じていることの現れで、全ての最初の段階が、この地球上で起こっている。 我々人間は常に、精霊世界で生じていることの内部にいる。なので本当は、たとえ通常意識では最初、精霊世界の環境を把握できなくても、人間は毎晩、精霊存在たちの活発な営みのなかにいて、人間の自我、及びアストラル体は、精霊存在たちの営みに参加している。 とはいっても、特にグノームたちにとって、人間が眠っているのを観察することは一種の楽しみで、ベッドにある物質の肉体ではなく、自我、及びアストラル体として、肉体の外にいる人間を観察し、人間が、本質的には、霊のなかで思考しているのに、人間は、自分の思考が、霊のなかに生きているという事実を知らないでいることを、知るのが一種のグノームたちの楽しみとなっている。 更にまた、ウンディーネにとっても、人間が、自分自身を知らないということが不可解で、ジルフェ(シルフ)にとっても、火存在(サラマンダー)にとっても同様な思いがある。 物質界にあっては、夜、蛇のような存在に巻きつかれるのは、心地よいものではない。しかし、霊的人間、つまり自我、及びアストラル体は、夜、これらの精霊(元素)存在たちに包まれ取り巻かれ、人間に対して、本質的に、宇宙に関して、より知識を得ることが可能なように、意識を伴って前進せよという勧告を与えている。 従って、人間が、宇宙を理解するのに必要なことは、これらグノーム、ウンディーネ、ジルフェ、火存在(サラマンダー)といった精霊存在たちが、いかに宇宙を飛び、交っているかに関することで、そして、精霊存在が実際、人の何を面白がり、意識をもって、更に進むよう勧告するのか、精霊存在が、人間から欲望を聞くと、どのようになるのかに関する知識を理解することである。 例えば、グノームたちがやってきて、次のように言うとする。 お前はお前自身を夢見ている そして目覚めを避けている。 グノームたちは、人間が自我を、実際、夢のなかにいるように感じていることを知り、人間はまず、この真の自我に到達する為に、正しく目覚めなければならないことを知っている。グノームたちには、この事を明白に理解している。そして、グノームたちは、眠りのなかで、人間に呼びかける。 お前はお前自身を夢見ている ■昼には次のように言う■ そして目覚めを避けている。 更にウンディーネたちから響いてくる。 お前は天使の技を思考している・・ 人間は、自分の思考が、本来天使の下にあることを知らない。 お前は天使の技を思考している。 それなのにそのことを知らない。 そして、ジルフェ(シルフ)たちから、眠っている人間に向かって響いてくる。 お前に創造の力が輝く、 お前はそれを予感しない、 お前はその力を感ずる ■創造の力、力を■ それなのに、この力を生きない。 以上がおおよその、ジルフェ(シルフ)の言葉、ウンディーネの言葉、グノームの言葉である。 火存在(サラマンダー)の言葉は お前を神々の意志が力づける、 お前はそれを受け取らない、 お前はその力で意志する ■神々の意志の力で■ それなのに、この力をお前から突き離す。 この言葉は全て、自分の意識と共に先に進めという勧告なのである。物質的生存には到達しない、これらの精霊存在たちは、自分たちの世界に人間も参加できるように、人間がその意識を伴って更に前進することを欲している。
2007年12月12日
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更に、火存在(サラマンダー)たちに移ると、蝶の翅(はね)の鱗粉は、死にゆく蝶と共に融けてなくなるようにみえるが、鱗粉が、融けてなくなることはない。蝶の翅から飛散する鱗粉は、最高に霊化された質料である。 この最高に霊化された鱗粉全ては、地球を取り巻く熱エーテルのなかへと、極小さな彗星のように飛び去っていき、いわば、鱗粉の1つ1つが極小の彗星のように地球の熱エーテルのなかへ飛んでいく。一年の経過のなかで、蝶の世界が終焉を迎えるとき、キラキラと煌めきながら、鱗粉全てが、内的な煌めきとなる。 そして、この鱗粉の煌めきのなかに、火存在(サラマンダー)たちは溢れ出し、これを吸収する。火(サラマンダー)存在のなかで、鱗粉はキラキラと煌めき続け、火存在(サラマンダー)もまた憧れを持つ。 火存在(サラマンダー)たちは、このようにして吸収した鱗粉を、高次へと運ぶ。そして(既に以前、別の側面から描写したが)、蝶の翅から火存在(サラマンダー)によって、外へと運ばれた鱗粉が、宇宙空間へと煌めき出る様子が見られる。 しかし、鱗粉は外へと煌めき出、流出するだけでなく、地球に関する高次ヒエラルキア(天使)の霊たちの本質的な眼差し(視覚)を生み出すものでもある。高次ヒエラルキア(天使)の霊たちは地球を眺めて、地球に関して主に、この火存在(サラマンダー)によって運ばれていく蝶-昆虫存在を見る。そして火存在(サラマンダー)たちの最高の歓喜は、高次ヒエラルキア(天使)の霊眼の前に置かれ、あるがままの自分を感じ取られることにある。 火存在(サラマンダー)たちの最高の歓喜は、見られること、いわば、高次ヒエラルキア(天使)の霊的な眼差しに受け入れられることなのである。火存在(サラマンダー)たちは、高次ヒエラルキアを目指して進み、受け取られ、地球に関する知をもたらす。 以上、これらの元素(精霊)存在たちが、いかに地球と霊宇宙との媒介者であるかがわかるだろう。 高次ヒエラルキア(天使)の光の海・炎の海のなかで、糧となって消えて行き、燐光を発し上昇するウンディーネたちの光景、呼吸されるジルフェ(シルフ)たちの上へと煌く緑がかり赤みがかった稲妻、そこでは地上的なものが絶え間なく永遠のものへと転じていき、そして、行為し続ける火存在(サラマンダー)が永遠で在り続ける。 地上では、鳥たちの死が生じるのは一年のある時期だけだが、火存在(サラマンダー)たちは、目に見えるものを、いわば一年中ずっと宇宙万有へと注ぎ出すよう気を配っている。このように地球は周囲に一種の火のマントを纏っている。外から見ると、このマントは火のように見える。 しかしその全体は、人間が見るのとは全く別様に、地球の物事を見る精霊(元素)存在たちにより、引き起こされる。人間にとって、地球は、その上を歩いたり立ったりできる堅い実質と感じられるが、グノームたちにとっての地球は、透過性のある球、空洞の球である。 ウンディーネたちにとって、水は、その中で燐光放射を感じ取り、それを自分のなかに吸収し、体験することのできる世界である。ジルフェ(シルフ)たちにとって、死にゆく鳥の世界から発する空気のアストラルは、従来よりも、ずっと鋭く煌く稲妻となるもので、ジルフェ(シルフ)たちには、通常、鈍く青みがかった稲妻にみえる。 そして、また蝶存在の死滅も、いわば地球を火の外皮のように、絶えず覆い続けるものとなる。この蝶の死を、霊的に観照すると、いわば地球は素晴らしい火の絵画に取り巻かれているようにみえる一方で、地球から見渡すと、他方に、煌く稲妻、燐光を発し消えていく、ウンディーネたちがいるようにみえる。 これら全ては、あたかも、次のように、みえるものである。 「この地球上では、これらの元素(精霊)霊たちの生き生きとした営みがある。これら精霊は、上方を目指し、地球の火のマントのなかに消え去る」、と。 しかし実際には、元素(精霊)霊たちは消滅するのではなく、高次のヒエラルキア(天使)の存在たちの中へと移行することで、そこに自分の永遠の実在を見出すのである。
2007年12月11日
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少し時間があったので、DVDレンタルで、「監督ばんざい」と「大日本人」をみた。「監督ばんざい」は、なんとか早送りせずにみたが、「大日本人」は、途中で寝てしまい、せっかく、かりたのだから、次の日に、途中、途中を早送りでなんとか見た! なんだか、どちらも実験的な作品で、未完成という感じであり、要はネタが尽きた感が充満した作品だったように思う。そういえば、新作レンタルなのに、すんなり、レンタルできたのも、頷けるところでもある。 かといって、コメディとしては、どちらも最低の作品ではない。それなりに、部分、部分は、笑わせてもらったが、全体としての、統一感というか、ともかく完成という部類ではないことは確かである。
2007年12月10日
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続いてジルフェ(シルフ)に移る。1年の経過のなかで、死んでいく鳥たちを発見する。この死んでいく鳥たちが、霊化された実質を持つこと、地球から上昇し、霊化された実質を、高次の世界に引き渡すことを、以前述べた。 しかし、霊化された実質を、死に行く鳥が、高次の世界に引き渡すとき、媒介者が必要である。ジルフェ(シルフ)が、この媒介者である。 実際、死に行く鳥の世界を通して、大気(空気)は絶えず、アストラルに満たされ、それは低次のアストラルとはいえ、正にアストラル的実質に満たされる。 このアストラル実質のなかを、羽ばたくことはできず、いわば、「浮遊する」、とでもいうべきで、この中を浮遊するのはジルフェ(シルフ)である。ジルフェ(シルフ)たちは、死に行く鳥の世界から、発する霊性を吸収し、やはり、憧れに満ちて、高みへと運び、高次ヒエラルキア(天使)の存在たちによって、呼吸し尽くされることを欲する。 ジルフェ(シルフ)たちは、高次ヒエラルキア(天使)の呼吸存在として、自らを差し出す。これはまた壮大な光景である! 鳥の世界が死に行くのを見るとき、鳥のアストラル、内的に輝く実質が空中に移っていく。 ジルフェ(シルフ)たちが、青い稲妻のように空気(大気)を貫いて煌き、この青い稲妻のなかへと、最初は緑、次いで赤みを帯び、鳥の世界から発する、このアストラル性を、ジルフェ(シルフ)たちは吸収し、上方に向かって煌く稲妻のように上昇する。 この軌跡を、空間の外まで追っていくと、ジルフェ(シルフ)たちは高次ヒエラルキア(天使)存在たちに呼吸される。 従って、これまでをまとめると、次のように言える。 「グノームたちは、宇宙を、その(土の)構造に従って別の宇宙へと携えていく」、と。 グノームたちは、いわば(比喩的にだけ言えることだが)水平(地上)的な進化と共に進んでいく。 グノーム他の存在たち、ウンディーネやジルフェ(シルフ)たちは、自身の死のなかで、高次のヒエラルキア(天使)存在たちに、食されるなか、呼吸されるなかで、至福と感じるものを、上へと携えていく。 このようにして、これらの精霊存在たちは、高次のヒエラルキア(天使)のなかで更に生き続け、そのなかで、自らの永遠を見出す。
2007年12月10日
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なんでも、国際的学力調査で、日本の学力が著しく落ちているというのである。わざわざ、学力試験で調査しなくても、昨今の若者を観察してみれば、この事は一目瞭然である。 学力に最も大切な資質は、集中力である。昨今の若者をみれば、まず、忍耐力に欠け、集中力が身につかないのは、落ち着きのない態度から明らかといえるだろう。歩き方1つとっても、歩くという意識に欠け、しゃべりながら、しかも、周囲の目を気にするどころか、公共の場という意識すらないのだから、ただ単に家庭のなかの延長と考え、学校のなかでも、教師を単なる大人としかみていないのだろう。 勉強が嫌いなのは、素直で我儘な感情である。誰が好き好んで自ら勉強するだろうか、遊んでいる方が数倍楽しく、生涯、遊んで暮らせるほど楽な事はないだろう。しかし、それでは、人生から何も学ぶことはないだろう。ただ、生きた記録が残るだけである。 若いときに遊び呆けていると、ある程度成長して、社会に出ると、忽ち問題にぶつかり、あのとき勉強しとけばよかったと悔いるのである。嫌いだからといって、取り組まなければ、忍耐力並びに、集中力がつかないのは当然である。 日々新しいものにぶち当たり、新しいものを取り入れることで、人は精神的に成長する。 運動しなければ筋力が衰えるように、勉強しなければ、学力が衰えるのは当然の成り行きだろう。将来を見据えるならば、基礎体力が必要なように、基礎学力が必要なのはいうまでもない。なにより、社会の仕事は、周囲の協力を必要とすることが大前提なのである。 社会に出れば、嫌なこと、面倒な問題が、盛り沢山と襲い掛かってくる。なにしろ、社会には多種多様な価値観が存在するのだから、好きなことをやれるだけ恵まれた環境にいることは非常に稀な限られた領域、つまり家庭内だけの存在といえるだろう。 だから、学ぶことに理由をつけてはいけない。ただ学ぶことに怠るな。結果を求めず、学ぶことである。学ぶ事を信じて学んでいれば、そのうち、自然と深く知り、何事も理解できるようになる。学ぶ事を恐れてはならない。 学力に、次に必要な資質は、想像力、つまり思いやりである。思いやりとは、他者の立場を洞察することである。自分の一方的な思い込み、偏見を、取り去る作業といえるだろう。つまり、思いやりは、自分とは似ても似つかない異質なものを理解し、自分の理解力を広げる素となる。 つまり、異質なものは、自分にとって足りない部分を補ってくれているものだと思うべきである。性差はその代表的なものである。男女が揃ってはじめて、子孫が誕生する。男女の気持ちが1つになるには、相手の性をなにより理解することが求められるのはいうまでもない。自分の価値観を押し付けるだけでは、所詮、長続きしない。 この点、現代の若者は、以前よりも、恋愛はそれほど衰えていないようなので、読解力は、変わらなかったようだが、世界レベルからみれば10位台なので、国際的に、想像力、思いやりの表現力に乏しいことがわかる。 この事で気にかかることは、母国語の大切さである。国語力がないと思われる若者をよく見かけるが、実際、話してみると、会話が成り立たない。その原因は、基礎単語をしっかりと覚えていないからだと思われる。だから、こちらが、諺や格言で例えを出しても、その理解力がないから、また、単語がわからないとはっきりいわないので、こちらもわかっているのかと錯覚してしまう。だから、母親になった気で、その若者の行動やしぐさをいちいち観察してやらないと、なかなか理解できないのである。 恐らく、相手に理解されようとする姿勢に欠けるのだろう。自分を相手に理解させる表現力の欠如がみられる。これは、家庭内の言葉使いや表現、並びに躾がよくないことが指摘できる。 日本の学力の低下、これはいうまでもなく、大人たちの責任にある。子供は、大人の行為を真似るだけである。政治家が嘘をつき、汚職をするのなら、一般人も真似して、嘘をつき、法を犯すのは自然の成り行きなのである。何事も、国家の重要な地位につく大人の自覚の問題に帰する。 大の大人がしっかりと責任をとらず、教育問題を語る事勿れ! 教育とは、私欲を抑え、公の精神の見本を、行動で示すことなのである。 どれだけ、大人が仕事に真剣に全力で取り組んでいるかの姿勢にある。教育を語るな、教育の模範を示せ! そして、できるだけ、試験をなくし、日々の生活の観察から人物を評価することである。学力は何も、教科だけに限られるものではない。それは一部である。 最後に学力の根本を説いておきたい。学力とは、人間が神々に向かって進化する、生命の杖といえるものである。 学力とは、学ぶ力だから、基本的に観察眼が必要とされ、観察眼とは、宇宙にあるたった一つの自分という座標を基準にした観点なのである。 人間は、人生において、まず、この自分という観察眼を土台とすることを学ぶ。観察しながら、同時に観察眼を身につけていくのである。 だから、学ぶ事に始まりも終わりもない。ただ、ただ、学ぶプロセスが無限に続いていく。 魂は学ぶことに飽き足らない。魂の能力は無限なのである。 無限の魂の能力を学力により掘り出し、掴みとること。自らのなかに宇宙体系を創造すべきである。 大和魂は、世界中の多様な国々の異質性を取り入れ、融合し、発展させ大和と為す魂のことである。 大和魂こそ、国家の理想となるべき学力の象徴なのである。 穢れた大人たちを、若者の学力により、目覚めさせろ。若者よ!大志成らぬ大和魂を抱け!! 学力で、恥ずかしい老害連中を追放しろ!
2007年12月06日
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次にまた、グノームから、ウンディーネの水存在たちに移る。ウンディーネに対して、実際、非常に奇妙な思いが生じてくる。ウンディーネ存在たちは、人間が持っているような生の欲求や、本能的な、動物が持つような生の欲求すらももたず、次のような知覚をもつ。 「ウンディーネたち、ジルフェ(シルフ)たちは、むしろ死への欲求をもっている。」 真に、これらの存在たちは、宇宙的な形で、炎のなかに飛び込んでいく蚊のようである。 これらの存在たちは、本質的に、死んではじめて、本当の生命を持つことができる、と感じている。この事は非常に興味深いことである。なぜなら、この物質的地球においては、全ての生命体が生きようと欲し、生命力を、自らのうちにもつ全てが評価されようと欲し、生き生きと萌え、芽生え、生命力を持つ全てが、重んじられようと欲するからである。 物質的地球の生を超えていくと、これら全ての存在たちが、次のように語りかける。 「本当は、死こそが生の始まりなのですよ」、と。 そして、これらの存在たちは、(死と共に)物質的地球の生を感じ取ってもいる。というのも、ウンディーネたちのことを知れば、海の季節を感じることができるからである。 航海の経験を積んだ船乗りは、東の海上では7月、8月、9月に、更に西では、6月に、海が独特の印象を与えることを熟知し、船乗りたちは、次のように言う、 「海が花を咲かせ始める」、と。 海の中で腐敗する生物全てにより、いわば海が萌える。海の腐敗が起こり、そのため海は独特の腐った臭気を発する。 しかし、このような腐った臭気も、ウンディーネたちにとっては、臭気とは全く異なり、ウンディーネたちは何らの不快を感じず、海中で腐敗する、これら何百万もの水の生き物たちが崩壊していくとき、ウンディーネたちにとって、海は極めて素晴らしい燐光を発する色彩の戯れに輝くものとなる。 ウンディーネの知覚では、全てがありとあらゆる可能な色彩に輝き煌めく。ウンディーネにとって、特に青みを帯びた、菫色がかった、緑がかった色彩で、海は内にも外にも煌めく。海中の、この腐敗全体が、深緑色の暗い色彩で、鈍い煌めきとなる。 ウンディーネにとっては、このような色彩が現実であり、このときウンディーネたちが、この海の色彩の戯れのなかで、これらの色彩を、自らのうちに吸収するのが見られる。ウンディーネたちは、これらの色彩を自身の肉体性のなかに引き込む。 ウンディーネたちは、この色彩の戯れになり、ウンディーネ自身が燐光を発するようになる。そして、ウンディーネたちが、この色彩を吸収し、自ら燐光を発するようになり、ウンディーネ自身の中に何か憧れのようなもの、上昇したい、浮かび上がりたいという、大きな憧れが生じる。 この憧れがウンディーネたちを浮上させ、この憧れと共にウンディーネたちは、高次のヒエラルキア存在たち、天使(アンゲロイ)、大天使(アルヒアンゲロイ)他に、自らを大地の糧として差し出し、ウンディーネたちは、この事に至福を見出す。こうして、ウンディーネたちは高次存在(天使)たちの内部で生き続ける。 このように、ウンディーネ存在たちが底知れぬ深みから、いわば海の早春となる度に、上へと発生してくるのは奇妙である。というのも、ウンディーネ存在たちは、以前描写したような形で、植物に働きかけ、地球の生に参加しているからである。 しかし、ウンディーネ存在たちは、いわば水中に溢れ出し、自身の肉体を通して、水の燐光放射、つまり腐敗を吸収し、途方もない憧れのなかで、この腐敗を上へと運んでいく。だから、地球の水から発生し、ウンディーネを通じて、もたらされた色彩、霊的-実質的な色彩が、高次のヒエラルキア(天使)の存在たちに、その糧を提供する様子が、巨大な、壮大な宇宙像のなかに見られ、ウンディーネたちの憧れは、高次存在たちに、自分を食べ尽くしてもらうことなので、高次のヒエラルキア(天使)にとって、地球は食料の供給源となる。 ウンディーネたちは、このようにして、ヒエラルキア(天使)存在のなかで、更に生き続け、いわば永遠のなかへと入っていく。 実際、このように、地球から形成された内部を持つ、ウンディーネ存在たちの絶え間ない上方への流出は毎年起こり、ウンディーネは、憧れに満ちながら、輝きを放ち、自らを糧として、高次(ヒエラルキア)存在たちに自らを差し出す。
2007年12月06日
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感覚界の存在たち(生物)をよく知るには、生き生きとした活動のなかの観察が必要だが、これまで述べてきた精霊存在たち、つまり自然元素存在たち、感覚-物質の背後に、超感覚的に存在し、感覚-物質存在と同じく、或いは本質的に、感覚-物質存在よりも、高次の意味で、宇宙の全事象に参加する不可視の存在たちの場合にも、この観察が必要である。 さて、宇宙は、この精霊存在たちにとって、感覚界の存在たちとは、異なって見える。というのも、感覚界の存在が持つような物質体(肉体)を、精霊存在たちは持っていないからである。 精霊存在たちが、宇宙で理解すること、宇宙で知覚する全ては、例えば、人間の目に映るものとは、実際異なってみえる。人間は、例えば、地球のことを、その表面上を人間が歩きまわる天体と感じている。 時折、この天体が、大気の経過(天気)により、地上が柔らかくなり(沼となり)、人間が、わずかに地中に沈むなら、人間は少々不愉快に感じる。人間は、大地を、堅固として、踏みしめるものとして感じ、沼に埋まり、地中に沈んだりしないものと感じたい。 このような人間の感覚、地球への人間のこのような姿勢は、例えば、グノームには全く存在せず、グノームたちは地球の至る場所で沈み、グノームにとって地球という天体全体が、通過できる空洞である。 グノームは地中の何処にでも入っていくことができ、岩石も金属も関係なく、本質を携えて歩きまわるというより、泳ぎまわり、何もグノームの行く手を阻む物は無い。 人間の言語には、地球の内部でのこのグノームたちの逍遙(泳ぎまわること)を表現する語はない。ただ、グノームたちは、地の様々な成分についての内的な感性や、内的経験を持ち、金属鉱脈に沿って移動するときと、石灰岩層に沿って進むときとは、別様に感じる。 とはいえ、グノームは内的な形で、地球という天体を感じ、グノームは、あらゆるものを突き抜けていく。グノームは本質的に、固体としての地球の存在を思い浮かべることさえなく、金の感情、水銀の感情、錫の感情、石英の感情などといった、様々な感情を、体験する空間が存在する、と思うだけである。 この事も人間の言葉に無理に翻訳したものであり、グノームの言葉ではない。グノームの言葉は、遙かに具象的で、グノームたちは、その生涯に渡って本質的に、鉱脈の全て、地層の全てを繰り返し、繰り返し逍遥すること(泳ぎまわること)により、これまで述べてきたような、際立った知性を獲得する。 グノームは、逍遥することで、包括的な知性を獲得し、金属のなかで、地中で、外の宇宙万有のなかにある全てが、明かされ、まるで、鏡に映るように、外の宇宙万有のなかにある全てを感じ取る。しかし、地球自体に関しては、グノームは全く観照力を持たず、地球の様々な成分、内的体験の様々な性質についてだけ観照する。 地球を感じない代わり、グノームたちは月から来るイメージに対して、特別の天分を持つ。月は、グノームにとって、常に注意深く、様子を伺うべき対象である。この点でグノームたちは、(生まれつき、とまでは言えないが、これを表す言葉を見つけるのは困難)言わば、発生以来の神経衰弱患者である。 我々人間にあっては病気といえる神経衰弱が、グノーム存在たちにとっては、本質的な生の要素である。神経衰弱は、グノームにおいては病気ではなく、自明のことである。この神経衰弱が、これまで述べてきた全てに対する、内的な敏感さを、グノームに与える。また、この神経衰弱が、月の様相の変化に対する内的な敏感さをも、グノームに与える。 月の様相の変化を、グノームたちは異常な注意深さで、この内的な注意力が、グノームの姿さえ変化させるほどの注意深さで、月の変化を追いかける。従って、グノームの生存を追求すると、満月の場合と、新月の場合と、これらの中間の月相の場合では、実際、全く異なったイメージをもつ。 満月のとき、グノームたちは不快になり、物質的な月光が、グノームには気に入らず、グノームはその存在感情全てを、外に向かって駆り立て、満月になると、いわば霊的な皮膚を張り巡らし、自らを覆い、体の周囲に存在感情を押しやる(まるで、狼男を彷彿とさせる)。 だから、グノームのこのような事柄を霊視的に観れるなら、満月が輝くとき、グノームは甲冑を付けた、光を放つ小さな騎士のように見える。そのとき、グノームは霊的な甲冑のようなもので身を覆っているが、この甲冑は、不快な月光を避けるために、いわゆる皮膚を、外へと急きたてたものである。 しかし、新月に近づくと、グノームは全く透明になり、不思議なことに、グノームの中には、キラキラと光を放つ色彩の戯れが見える。1つの宇宙全体が、グノームのなかに生起している様子が見える。それは丁度、人間の脳のなかを覗き込むときのようである、とでも表現したいが、ただし、これは単に脳の中の細胞組織を探す解剖学者の観点ではなく、そのなかで思考がキラキラと輝いているのを観るような、霊的な観点である。 このように、新月のグノームたちは、内部に、思考の戯れが輝いている、透明で小さな人間のように見える。新月のときのグノームたちは極めて興味深い存在である。なぜなら、グノームの各々が、自らのうちに1つの宇宙全体を担うからで、次のように言える。 「(グノームの)宇宙のなかに、本質的な月の秘密が安らいでいる」、と。 この月の秘密を解明すれば、非常に奇妙な結果に至る。 「月は現在、絶え間なく接近し(勿論、接近するといっても、月があたかも地球目指して突進してくるかのような粗雑な想像ではない)、月は実際、毎年、少しずつ近づく」、と、グノームは自らに言い聞かせている。 そして、実際に月は毎年地球に少しずつ近づいている。 この事は、新月の間に、益々活発になっていく、グノーム世界での、月の力の働きから知ることができる。そして、この月の接近に対して、小鬼たち(グノームたち)も特別注意を払い。月がグノームに行う作用から結果を引き出すことを、グノームは宇宙万有における自分たちの最大の使命とみなしている。 グノームたちは、月が再度、地球と1つになる時点を、非常に緊張して待ち受け、全力を集中して、将来、月が地球と一体化する時点に備えている。というのも、その際、グノームたちは月の実質を用いて、地球を、全実質に応じて、徐々に宇宙へと分散させるからで、そのとき、地球の実質はなくなる運命にある。 このような使命を、宇宙から定められていることで、これらコボルトたち、グノームたちは、自分たちを特に重要な存在と感じている。グノームたちは地球存在全体に渡り、極めて様々な経験を集め、そして、全地球実質が、宇宙に撒き散らされ(分散し)、木星紀へと進化していくときに、地球の構造のなかの良いものを保管し、更に一種の骨格として、木星に組み込む準備を行う。 この地球進化の出来事を、グノームから見て取るときはじめて、この地球から、水が全て取り除かれたらどう見えるか、考えてみることができる。そのときの地球が、西半球では、全てが北から南へ、東半球では、全てが東から西へと方向付けられていることを知るだろう(プレートテクトニクス、つまり大陸移動説で有名)。 つまり、地球から水を取り去ったなら、アメリカ大陸は、山地と海底にあるものを含み、共に、北から南へと延びる陸地として得られる。そして、ヨーロッパを眺めると、アルプス、カルパチアなどに沿って、東半球では、東から西への方向にある陸地が得られる。そのとき、地球のなかに十字構造のようなものを得る。 この十字構造に霊的に沈潜していくと、本質的に、古い月紀(地球の前進化紀)のグノームの世界の集合体であるという印象を受ける。だから、地球のグノームの祖先たち、月のグノームたちが月の経験を集め、この月の構造から、堅い地球組織の堅い構造を、経験から作り上げ、つまり、この堅い地球の形態は、本質的には、古い月のグノームたちの経験から得られたことがわかる。 この事が、地球から水を取り去ったとき、グノーム世界に関連して生じてくることである。 この事により、グノームたちは、宇宙万有の全進化に対して、極めて興味深い関係を獲得する。グノームたちは、いわば常に、固体を、前の進化段階から、後の進化段階の固体へと運んでいる。 グノームは、進化における固体(土)構造の持続性の守護者である。 このように、ある宇宙体から別の宇宙体へと、グノームたちは堅い構造を保持していく。超感覚的世界のこれら霊的存在たちに接近し、この存在たちの特殊な使命を研究するのは、極めて、興味あるものである。というのも、その研究によりはじめて、宇宙のなかの存在として出現する全てが、宇宙のあらゆる形成に際して共働している、という印象を得ることができるからである。
2007年12月05日
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精霊存在のイメージをもてば、病気のなかに人間を捉えることから、人間が健康な存在として、どこまで到達できるかが明らかになる。 というのも、病気は、構築全般の、自然の成長と芽生え、また更に自然の破壊をも可能にする、この世の向こう側に存在する、火の精霊存在たちのうちの、悪しき種類の展開と関係があるからである。 結局、この事は、太古の霊視能力から発した、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァに関する、古代インドの預言力による精霊存在の根底に存在するものである。 ブラフマーは、宇宙領域において、人間への接近を許され、活動する存在を表し、ヴィシュヌは、構築物を、絶えず再破壊する、つまり構築物を絶えず変化させるだけに限り、人間に接近が許されている宇宙領域を表す。そしてシヴァは、破壊の諸力の関係全般を表す。 古代インドの高度な文化時代に、次のようなことが言われていた。 「ブラフマーは火存在(サラマンダー)の性質と、ジルフェ(シルフ)の性質全てと密接に関係がある。ヴィシュヌは、ジルフェ(シルフ)-ウンディーネの性質全てと、シヴァは、グノーム-ウンディーネの性質全てと関係がある」、と。 ブラフマー;火存在-ジルフェ(シルフ) ヴィシュヌ;ジルフェ(シルフ)-ウンディーネ シヴァ;グノーム-ウンディーネ 総じて、これらの古代イメージに遡っていくと、今日、自然の根底にある秘密として再探索すべきものが、具象的に表現されていることを、あらゆる処で見出せる。 さて以上のように、以前、この不可視の民(精霊)と植物界との親和性を観察したが、前回まで、この不可視の民(精霊)と動物の世界との親和性を付け加えた。 この世の境界のこちら側の存在たちは、あらゆる場所で、境界の向こう側(あの世)の存在たちに干渉し、また境界の向こう側の存在たちは、境界のこちら側の存在たちに干渉する。そして、この両者間の生き生きとした共同作用のことを知るときだけ、可視世界が、どのように展開していくかが真に理解できる。 人間にとって、超感覚的世界の認識は真に不可欠で、というのも、死の門を通過する瞬間、人間の周囲には、もはや感覚世界はなく、死後、別世界(あの世)がはじまり、人間の世界となるからである。 現在の進化において人間は、生きている間は、この別の世界(あの世)に赴くことはできず、この向こう側の別世界(あの世)を指し示す文字を、いわば物質的顕現から認識しなければ、また、地の動物、水の動物、空気の動物、そして光の動物というべき蝶のなかに、死と新たな誕生との間の同居人である元素存在(精霊)たちが示すサイン(霊的言語)を読みとる術を学ばなければ、別世界を知ることもない。 しかし、これら精霊存在に関して見出せるものは、誕生と死の間(人生)においては、精霊存在の行為の結果である、粗雑で濃密な、固体部分(物質)だけである。超感覚に属する存在は、洞察力をもって、理解力をもって、超感覚的世界へと赴くときに、はじめて認識できる。
2007年12月04日
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寄生(ウイルス)生物的な存在は、悪しきグノームとウンディーネにより生じ、悪しきジルフェ(シルフ)により毒が生じる。毒とは本質的に、あまりに深く、大地へと流れ込んだ本来は天のものである。 人間、或いは、ある動物が、(ベラドンナのなかに見られる、一見、サクランボのように見えるが、天のものが萼の中に隠れ、下部へと毒が押し込められている)、このベラドンナを食べると、死んでしまう。 ところが、ツグミやクロウタドリのような鳥は、ベラドンナの枝に止まり、ベラドンナを、世界で最良の食料として得ている。ベラドンナのなかにあるものは、ツグミやクロウタドリの領域の一部である(2)。(2)この事は、『精神科学と医学』(GA312)第15講での、オニグモを食べたツグミが、解毒の為に、ヒヨス(ベラドンナと同じくナス科の毒草)を食べる、という叙述とも関連する。 この事は奇妙な現象といえ、本質的に、下部組織により、大地と結びついている動物と人間たちが、地において、ベラドンナのなかで、損なわれたもの(天のもの)を毒として摂取する一方で、他方、ツグミやクロウタドリに代表される鳥たち、本質的に、上の領域にある鳥たちが、下へと運ばれた天のもの、つまり悪しきジルフェ(シルフ)を通じて、霊的な形で、毒を得る(鳥たちは、良いジルフェ(シルフ)を通じても霊的なものを得る)が、この毒に耐えられるのはいかにも奇妙である。 鳥たちより、大地に強く結びついている生き物たちにとって、毒が、この鳥たちにとっては食物なのである。 このように、一方では、グノームとウンディーネによって寄生生物(ウイルス)が、地から、上へと他の存在を目指して上昇し、そして毒が上から滴り落ちてくる様子について、1つの見解が得られる。 この悪しき精霊たちに対して、悪しき火存在(サラマンダー)たちが、蝶の領域に属する衝動、蝶の進化の為に役に立つ衝動を、自らに貫き、果実のなかへと下降させるなら、例えば、一連のアーモンド類のなかに有毒のアーモンドが生じる。 このような毒は、火存在(サラマンダー)の働きにより、アーモンドの実のなかへと下ろされる。アーモンド以外の、他の果実の場合、食べられているものが、火存在(サラマンダー)により、良好な手法で燃やされなければ、アーモンドの実も生じることはなかった。 アーモンド以外の他の果実をよくみると、中心に白い核があり、その周囲に果肉がある。アーモンドの場合、中心に核があり、いわば周囲の果肉は焼き尽くされている。アーモンドは火存在(サラマンダー)の働きから生じる。 この火存在(サラマンダー)の働きが節度を失うとき、火存在(サラマンダー)の実行が、単に褐色のアーモンドの外皮に入り込むだけなら、まだ良い種類に止まるが、外皮に止まらず、外皮を作るものから僅かでもアーモンドの白い核の内部まで入り込むなら、アーモンドは有毒になる。 このように、この世の境界のすぐ向こうの世界(霊界)で隣り合う、これらの悪しき精霊存在たちが、その衝動を実行するとき、寄生生物や有毒の存在の担い手となり、ついには病気の担い手になることについてのイメージが得られる。 『悪しき人間たちの悪しき行為は、精霊たちを悪しき存在へと導き、寄生生物(ウイルス)や毒を自然に発生させるといえる。昨今の環境問題は、ただ闇雲に科学的有毒物を規制しようとしているが、勿論、最低限、この事は必須であるが、法で規制しようとも、道徳的に、悪しき人間の行為がなくならない限り、益々増殖していくといえるだろう。 人間に自由意志がある限り、いかに法といえども限界で、人間自らが自らの自由意志、信念の基に、道徳を志していかない限り、未来は限りなく暗いといえるだろう。本来、自然とは、非常に微妙で繊細であり、唯物科学で確認できる状況は、ほとんど手遅れというのが真相といえるだろう。かといって、開き直るのではなく、状況は限りなく深刻である。この事は、わが国の阿呆の悪徳政治家たちをみればわかる。 しかし、人類一人一人が、自分の課題として、自立的、自主的に解決していけば、どんなに大きい問題でも、人数分だけ薄まり得る。とどのつまり、どんな問題でも、一人一人の自覚や心掛けにある。他者への依存心を止め、独立心をもち、自らの足でしっかり立つことである。この事を伝教大師は、一灯照隅と呼んだ。』
2007年12月03日
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