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さて、外界の物体を冷ます状態に、そして、それとの対比で、我々の内的知覚を暖める状態に関連づけてみる。外界と内的知覚は、直接、感覚的に知覚可能な共通事項をもたないにも関わらず、お互い、ある関係にあり、 前回述べたプロセスと同様に、相互に依存しあっているという。 このことを裏付けるために、印章と封蝋(ふうろう)の関係のイメージを、外界に対する内的世界の関係に適用することができるという。そのイメージは、印章が封蝋のなかに残ることなく、そして印章の物質的なものが封蝋のなかに移ることなく、封蝋のなかに正確な刻印、印章の正確な複写を残すようなものであるという。 外界と内的知覚の関係の場合にも同じ対応関係があり、つまり印章の本質的なものだけが、封蝋に移されると捉える。一方の状態の形が他方を条件づけているが、しかし、その場合、物質的なものは何も移らないという。 外界の物質をみて、我々人間は、内部に何も物質的なものをもつのではなく、印章が刻印されるというような、いわゆる熱を感じるだけであるという。外界の冷たいものを、内部の熱さとして捉えることに類似するという。 外界と我々のイメージとの間にそのような関係があることをイメージするならば、次のことに至るという。 空間における幾何学的な鏡像は、左右の手の手袋のようなものだが、この像を直接的に、そして連続的に一致させるには、新しい空間の次元を利用する必要があることがわかる。 今、外界と内的印象(イメージ)が幾何学的な鏡像に似たものであるとすれば、それらを直接一致させるためには、同様に追加(付加)的な次元を用いて行うしかなく、今、外界と内なるイメージとの間に関係を成立させるためには、同様に第3の次元にいながら、第4の次元を通っていく必要があることがわかる。そこで、我々は外界、そして内的イメージと1つになるが、それらの共通項を探すことができるのは、この4次元のみであることがわかる。 我々は、この鏡像の海を漂っているようにイメージできるが、この海の内部では、外界と内的イメージの像を重ねることが可能になる。こうして、まずは純粋に観念的だが、3次元空間を超えるにも関わらず、現実性をもつものへと至る。そのためには、我々の空間イメージを生き生きとさせ、それに生命を与える必要があるといえる。 オスカー・シモニーは、この生きた空間構造をモデルで表現しようとしたという。これまでまとめてきたように、0次元の考察からはじめて徐々に4次元空間をイメージできる可能性へと至る。鏡像対称性をもった物体の考察により、つまり対称性の関係を用いて、まず最も容易に、この4次元空間を認識することができることがわかる。 4次元空間との関係で3次元空間の経験的な特質を研究するための別の方法を提供するのは、結び目のある曲線と2次元の帯であるという。 では、対称性の関係とは一体何を意味するのか? 空間構造を相互に関係づけるとき、一定の複雑さが生じ、この複雑さは3次元空間に特有のもので、4次元空間では生じないという。 若干の実際的な思考実験をしてみる。環状の帯を、(帯の幅の)まん中に沿って切れば、環が2つできる。今度は端を、1度ねじって貼った帯を同じように切ると、一本のねじれた環になり、2本には分かれない(メビウスの環)。このように貼り合わせる前に帯の端を、1度ねじると、切った際に2つのねじれた輪がつながったものになる。 つまり、環が2つできるのが、3次元空間にあたり、1度ねじり、つまり鏡像関係を一致させた場合、2つに分かれずに1つのねじれた環(メビウスの環)になるのが、4次元空間に相当する。 また、最後に帯の端をもう1度ねじると、同じプロセスによって結び目ができる。自然のプロセスに関して考察するなら、そうしたねじれが自然のなかで生じていることを、実は誰でも知っているという。実際、そのようなねじれた空間構造というのは特別な力をもっているという。 つまり、2回ねじるとは、3次元から4次元、そして3次元にまた再び戻ってくることを意味するのだろう。この操作によって、3次元と4次元の間に結び目ができる。恐らく、陰陽師が唱える、結界とはこの操作のことを指すのだろう。 例えば、太陽のまわりの地球の運動、そして地球のまわりの月の運動を取り上げてみる。月は地球のまわりを、円を描いているというが、正確に見るなら、それは 地球の軌道に沿ってねじれた線上、つまり円周のまわりの螺旋の軌道であるという。 そして太陽は非常に速く宇宙空間を進んでいるが、(地球は太陽を追いかけ、)月は更にそのまわりで付属的な螺旋運動をしているという。なので、空間のなかを広がる力線は非常に複雑なものとなるという。その描像を、ピンで留めようとする(静止系)のではなく、それらが流れるままに把握できるような複雑な空間概念(複雑系)に関わるものであることに気づく必要があるという。 太陽系の惑星の運動は、1度ねじったメビウスの環のように、螺旋軌道を描いているという。更に2度ねじると、結び目ができるように、質量の発生は、このような螺旋運動の結び目の結果から生じると考察できるという。 3次元の太陽系の惑星の運動の背後に、1度ねじったメビウスの環のような、鏡像関係を一致させるような、いわゆる互いに相反する陰陽の関係を結びつける、愛の働き、つまり4次元の生命の働きがある。 この4次元の生命から、更に1度ねじると、4次元空間から、3次元空間に抜け落ちた部分の闇が生まれ、4次元と3次元の結び目が出来、これが物質の源となるのであろう。秘教的にいうと、光が硬化、凝縮し、物質となるといえる。 これが恐らくスピンのような電子の角運動量と関係しているのだろう。超伝導状態のような電子のスピンが、一種の相転移であるクーパー対といわれる電子の対凝縮状態を生じるのは、電子の特性が、秘教でいう光の硬化、凝縮からきていることを示すものだろう。 更に、秘教的にいえば、1度のねじり(愛)は、神々(太陽と惑星霊)の業、2度のねじり(光)は、悪魔ルシファーの業というべきものなのだろう。人間は、3次元から死によって4次元にかえるので、まさに3度目の正直(叡智)というべきものだろう。 地球の重力に関しては、太陽のまわりをまわる地球の軌道に、月が太陽との鏡像関係において、螺旋構造をとり、ねじれを与えていることがわかる。 この螺旋を模したものが、メリクリウスの杖や、神道の結界を意味する注連縄なのだろう。注連縄とは、端的にいえば、4次元空間と、3次元空間の境界(結び目)を意味するのだろう。これが生命の樹と象徴されているのは、以上の外界と、人間の内的イメージの関係の幾何学からもわかるところである。 生命の記録情報と呼ばれるDNA(デオキシリボ核酸)も、右巻き螺旋構造であるが、これはこのような天体の運動が反映されたものだということがわかるだろう。
2007年04月27日
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対象における全ての性質が外(界)にあるとすれば、それらは外界から、どのように我々のなかに入ってくるのか? また、外的なものが内的なものに移行する点はどこにあるのか? 我々が、感覚的な知覚内容全てを、外的世界から取り去ったならば、それはもはや存在しなくなる。こうして、認識論は、自分の髪の毛で自分を自由に、高みへと引っ張ろうとする、ミュンヒハウゼン「ほら吹き男爵」に見えてくる。 我々の内に生じる知覚を解明するには、外的世界の存在を仮定する必要があるが、ではどのようにして、この外的世界の諸側面は、我々の内部へと入り込み、心的なイメージの形で現れることが可能なのか? この問題は別の形で定式化される必要があり、まず幾つかの類似性に関して考察する必要がある。このことを把握しなければ、外的世界と内的知覚の間の関係を見出す可能性をもつことはできないという。 AとBの末端をもつ線分に戻り考察するなら、端の点を重ねるためには、1次元を超え出て、線を曲げる必要が生じる。 この直線の左端の点Aを右端の点Bに、両点が下位で触れ、重なることを考察する(AとBを2次元上で結んで円を形成する)。そうすれば、重なった端の点を超えていき、元の起点へと戻ることが可能となる。線分が短い場合は、形成する円も小さくなる。 最初に与えられた線分を円にして、それから、益々長い線分を円にするならば、端が出会う点は更に益々はじめの線の地点から遠くなり、無限に離れていく。そのとき、曲率はどんどん小さくなり、そしてついには肉眼ではもはや円周を直線と区別できなくなる。 それと全く同じように、地球もまた、我々が、その上を歩くときには、地球は本来、丸いにも関わらず、直線の平らな部分のように見える。直線の両方の半分が無限に広がっていると考えると、円は実際に直線と同じになる。 そのとき、直線は、直径が無限である円として捉えることができる。さて、もし、直線に沿ってずっと遠くまで走り、そしてそのとき線のなかに止まっている(拘束されている)とすれば、我々はついには無限を通って 再び反対側から戻ってくることが想像できる。 これを幾何学的な線ではなく、現実と結びつけることが可能な状況に関して思い描く。円周上の点Cが円周に沿って進むにつれて、冷たくなると同時に、最初の場所から益々遠く離れていくことをイメージする。 その点が結合点となった側の境界A=Bを通過して、線分の反対側に出るときには、温度が再び上昇し始める。こうして、こちら側の点C(線分ABの元々の中間点で、いまは逆側の点)は帰路においては、向かう往路とは逆の状態に遭遇する。 帰路の暖かくなる傾向は、出発した元の温度に到達するまで続き、このプロセスは円がどれほど大きくなっても同じで、つまり暖かさは最初は減少し、次に再び増加する。無限に広がる直線の場合にも、温度は 一方の側で益々失われていき、他方でしだいに上昇する。 これが、生と運動を、世界へともたらす手法で、そして、より高次の意味で〔宇宙の理解〕と名づけることができるものに、アプローチできる1例であるという。ここには、自らを生み出し、互いに依存しあう、2つの状態があるという。 この円のなかに三位一体の構造がある。 円(離れていく一方の側、近づいてくる他方の側) しかし、感覚的に観察可能な全てに関して言えば、この円形になった線分の右の方に向かうプロセスが、左から戻るプロセスとは全く関係がないにも関わらず、それらが相互に条件づけあっていることを意味するものといえる。 つまり、鏡像の関係にありながら、観察可能全てのみを見ている感覚といえる。 鏡像関係(観察可能な全て、観察不可能な全て) この関係が、実は時間を意味するのである。 時間(過去、未来) まとめると、円(離れていく一方の側、近づいてくる他方の側) =鏡像関係(観測可能な全て、観測不可能な全て) =時間(過去、未来) 我々が3次元空間で成した行為は、過去として離れていくが、4次元の円のなかでは、未来として近づいてくるのである。これがカルマの成就である。 だから、悪を行えば、必ず、その報いは将来、自らに跳ね返ってくるのである。悪を行うものは、たったいま悔い改めるべきである。悪の行為は、過去に過ぎ去って、一見して、悪が薄められていくようにみえるが、自らのなかの円たる自我を通じて、将来、だんだんと、自らに近づくにしたがって、悪が増して襲いかかってくるのである。 このことを、病気とカルマでイメージすると、過去に過ぎ去った過失が、病気となって、未来に近づいてくるのである。
2007年04月26日
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人間は一体いかなる手法で感覚を通して対象物の認識を得るのか? 人間は色彩を見。眼がなければ、この色彩の知覚は不可能で、そのとき物理学者は、次のように考えるだろう。「(人間の)外の空間には色と名づけられるような実体があるのではなく、純粋に空間的な運動形態(媒質を伴う波長や波動)があるだけで、その運動形態が、人間の眼を通り、視神経により色情報として把捉され、脳へと送られ、そこで例えば赤のような色彩が生じる、」という風に考えるだろう。 では、もし色の知覚がないとしたら、赤という色自体は、果たして実際に存在するのか?という疑問が生じる。 赤は眼がなければ知覚不可能で、鐘が鳴るのも耳がなければ知覚不可能と考えられる。全ての知覚は、運動形式が、我々の魂の肉体的な器官による変換に依存している。 しかし、次のように問うなら、事態はもっと複雑になる。 一体、実際に、この固有の性質である赤の色彩はどこにあるのか? と。 色彩は、我々が知覚する対象物の表面にあるのだろうか? 或いは色彩は、振動プロセスから生じるものなのか? 外に発した一連の振動プロセスが、眼の中に入ってきて、脳まで伝達され、至る所にただ振動があり、そして神経のプロセスがあり、実はどこにも赤という色彩はないと考えられる。 眼そのものを調べてみても赤(という固有のもの)を見つけることはできないだろう。色彩は我々の外にも、また脳のなかにも、本来無いもので、我々が自らを主体として、この運動プロセスに相対するときのみ、赤を色彩としてもつという。 このことは、仏典(般若心経)のなかで、「色即是空、空即是色」と端的に表現されている。 では、いかにして赤が眼と出会い、嬰ハが耳に出会うのかに関して論じることは不可能なのだろうか? 問題は、この種の内的な心的イメージとは何か、それはどこで生じるのかということで、世紀の哲学的著作には、この問いが、全てを貫いて流れているのがわかるという。 例えばショーペンハウエルは、次のような定義を行っているという。 「世界は我々の心的イメージである」と。 しかし、その場合、外の物体には、一体、何が残っているのだろうか? 色彩の心的なイメージが、運動により〔生じる〕ように、我々の内部の運動に関する知覚も、何らかの静止(非運動のもの)の結果として生じるという。 運動する馬の姿のスナップ写真を、その間に細いスリットのついた筒の内側に貼りつける場合を考察する。 回転する筒を横から見るとき、常に同じ馬がいて、ただ足を動かしているような印象を持つのと同じ様に、実際、何者かが全く運動していない(静止している)ときでも、我々の肉体の組織を通じて、運動の印象が引き起こされる。 このように、我々が運動と名づけているものは、無へと解消されるという。 これが、真の色即是空の意味であろう。運動は、本来、空なのである。 しかし、ではそのときの物質とは一体何なのか?を考察する。 物質から色の輝き、運動、形態、そして感覚的な知覚により媒介される、あらゆる性質を取り除くと、何も残らなくなるだろう。 色、音、熱、味、匂いといった外的世界のプロセスにより、個人的な意識のなかに呼び起こされる副次的な、つまり〔主観的な〕知覚を、我々の内において求める必要があるなら、形態や運動のような基本的な、つまり「客観的な」知覚も、我々の内に求める必要があるといえる。 そして、外界は、人間の内的世界に、完全に消えてしまうが、この事態は認識論に関する重大な困難を引き起こすという。 このように、シュタイナーの4次元を学ぶと、実は、般若心経が、4次元の幾何学の教科書であることに気がつくだろう。 物質世界は幻であり、色、音、熱、味、匂いといった感覚は、我々の内から生じ、それは本来、空や無なのである。 前回での基本概念からわかるように、人間は4次元空間の鏡像対称性を用いて、本来、無や空である空間を、色や音、熱や味、匂いという肉体的感覚を通じて鏡像操作することにより、認識していることが明らかにされるのである。 単純にいえば、3次元の立方体を、鏡に映して捉えることにより、物質(運動)感覚を、認識として体験し、見い出しているのである。後半にいくと、この鏡の存在が、実は時間の正体であることがわかる。
2007年04月25日
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病気が前世の錯誤から生じることは、以前述べた。病気は、前世の人生のなかでの主に、利己主義による、感情の高まり、熱情性の欲望による誤りに対して、その誤りを改善する機会として、次の転生に、魂が、それを刻印することにより、今生の肉体に顕れるという。 前世のなかの誤りの誘因は、悪魔ルシファーの誘惑によると、秘教では説かれている。このことが、病気は、悪魔によるものといわれ、聖書の原罪の説明ともなっている。 また、今生において、病気に罹るのは、前世の過ちの代償行為なのであるから、実は、病気に罹ることは救いでもある。 病気に罹ると、苦痛に襲われるが、苦痛があるからこそ、自らの罪深さを知り、それを改めようとする人間の行為に顕れるといえよう。もし、苦痛がなければ、病気に罹っても、それを克服しようとはせずに、罪深さを知らずに更に罪を上塗りするだけであろう。 だから、病気に伴う苦痛は、癒しに通じるものであり、苦痛とは、人間の進化の正しい道に軌道修正するための警告であり、救いなのである。苦痛は、神々が与えた救いなのである。 実をいうと、苦痛のない病気も存在するのである。この苦痛のない病気こそ、ヨハネの黙示録に預言された777の悪魔ソラトである悪魔アーリマンのことを意味する。 苦痛のない病気に罹ると、魂は、実在を失い虚と化す。魂が虚と化さないために、器官は、損傷を自ら起こすのである。魂が虚となり、悪魔アーリマンの奴隷となる前に、器官自らの意志により破壊されるのである。 だから、苦痛なく、病気が進行し、悪くなった器官は、自ら損傷活動を行い、破壊されることにより、魂が虚となるのを防ぐのである。 つまり、病気が進行し、器官が損傷し破壊されるのは、自然の成り行きといえるだろう。 器官が損傷し、破壊され、人間全体から除かれたとしても、病気が癒されたわけではない。それは悪魔の手の内に堕ちないための臨時の処置であって、除かれたとしても、前世の過ちの代償行為、つまり、現世における苦痛を体験し、精神的な癒しが成されない限り、根本から治癒したとはいえないのである。 過ちを身をもって自ら体験しない限り、過ちを克服したとはいえないといえる。 では、苦痛の体験、いわゆる精神的な癒しとはどういうことかというと、それこそが、愛であるという。 愛とは、本来、言葉では語れないものであり、愛とは、そのような抽象的、物質的なもので表現しえないものである。だが、人間は、愛を実感できる。 赤ちゃんが、母親の乳を吸う姿、母親に抱かれ眠る姿、或いは男女が異性を超えて理解しあうとき、或いは敵同士、隣人が憎しみを超え、理解しあうとき等に、誰しも愛を見い出すだろう。 愛とは、1つになること、いわば一体感というべきものに例えられるだろう。 なぜ、愛がそのような一体感を伴うものかというと、魂そのものが、愛からできているからであるという。 魂は、希薄になった愛からなるという。それゆえ、魂は愛を発し、愛を求める。魂は完全な愛、完全なる球体、つまり完全体という愛の一体感を求めるという。 この宇宙は、この愛と、もう一方の光からなるという。 愛がそのまま光となれば、闇は生まれなかったという。だが、神々は、悪を転じるための善、悪を善になし、最善の善を求めるために、あえて悪を生ましめ、そこに悪魔ルシファーの野望が生まれたという。 悪魔ルシファーは、光を愛に浸透させ、浸透する叡智を生み出したという。悪魔ルシファーにより、不純なる闇が生まれ、神々と離れた私で1つとなる利己的な自我が誕生したという。悪魔ルシファーの御蔭で、人間は神々の命令に背き、自由の身になったのである。 人間は、ルシファーの御蔭で、光を愛に織り込んで、自我を手にし、肉体に受肉し、自由の身になったという。しかし、同時に、死とその相反の生を知る存在となったのである。 人間は不純な光、闇をもつようになり、同時に、外界には多様な錯誤、ルシファーの不純な光と連動する悪魔アーリマンの物質の幻を信じるようになったという。 これが聖書の原罪の意味であり、ここからわかるように、物質とは、光が硬化したもの、凝縮したものであるという。 ちなみに現代物理学の素粒子論でも、QED(量子電磁力学)により、フォトン(光子)とウィークボゾン(核力の弱い力)は、本来同じものから生まれるとされている。超弦理論までいくと、超対称性により、電子のようなフェルミオン(物質粒子)と、光子(力媒介粒子)が本来同じものという見解が表れる。つまり、現代物理学の見解は、秘教に近づいてくるのである。 シュタイナーは、電子は、光が凝縮したものに相違ないという見解をある講演で述べている。 さて、話を戻すと、例えば、水が氷になるように、相転移するように、光が、周囲の影響から、硬化し、その境界に物質が生まれるとしているのである。 光が、魂の愛に浸透すると、愛が変容し、一部に利己的部分が顕れ、不純となるようである。魂の愛が不純になると、つまり一部が愛でなくなり、叡智に変換され、闇となると、そこに、物質性が顕れるようである。 つまり、闇の部分が、受肉において、病気を生じる要因となるのである。 闇とは、魂のなかで、もはや愛では無くなった部分なので、魂のなかで、愛で満たされなくなった部分が、病気を生ましめるともいえる。 だから、利己主義により、愛でなくなった魂の部分が、病気をもたらすのである。 これを逆にいうと、病気を愛で克服することで、再び、魂を愛で満たすことができるといえる。 つまり、病気を癒されるべき、苦痛と感じさせるのは、自らの魂に愛が足りないという警告そのものといえる。 このような観点を、カルマから考察すると、現代的特徴が顕になる。 前世の過失ゆえのカルマにより、現世に病気が課されるのを、魂の愛を満たすことで治癒せずに、なんらかの損傷を受けた器官を除いたり、機械的に補完することで、本来、体験されるべき苦痛が、回避されたとしても、魂の体験そのものは空疎、空虚なものとなり、かえって錯誤が錯誤を生み、複雑なものにならざるをえないといえるだろう。 これでは、ただ、カルマの課題を先送りし、複雑にしているだけで、新たなるカルマの更なる深刻な課題が次の転生で生じるだけであろう。 このように外的で機械的な技術により、健康な生活を通して、快調な身体を得て、物質的な生活を楽なものにすると、魂は、かえって反対の方法で影響を受け、その魂は、しだいに空虚さ、不満、満たされなさを感じるように影響を受けていくという。 純粋に唯物論的な生活において一般的に求められるように、外的な生活が快適に、健康になればなるほど、魂には、自分のなかで、進歩するための励ましが少なくなり、魂の荒廃が平行して生じるという。 そして、今日ほど、外的には快適な生活を送りつつ、荒廃した、怠惰な魂をもって生きている人々が多い時代はかつてなかったという。このような人々は、センセーショナルなことを追っかけ、金があれば旅行し、見物し、同じ場所に滞在するなら、毎晩娯楽を求めるという。 しかし、魂は荒廃したままで、ついには何を求めればよいのかわからず、結局、外的な生活が健全で快適になると、魂は病気がちになるという。 このような現代への課題は、正にいま問われている表面的な病気の治癒ではなく、愛の足りなさへの自戒の念といえるだろう。つまり、魂の錯誤の改善、つまり進化のために、病気が課され、病気の苦痛を通じて、自らの愛のなさを自覚し、愛を学んでいくといえるだろう。苦痛を十字架とし、背負い、苦痛を通じて、自らの癒しから愛を学ぶ行為は、キリストがゴルゴダの十字架刑で行った行為である。 鞭打ちの刑に処され、弟子に裏切られ、自らの十字架を背負って歩き、その十字架に磔にされた苦痛、それは全て、人類の救いの為であり、人類の進化のためであることがわかる。この行為が聖書により原罪の克服とされたのは、この意味による。 要するに、人類の魂の愛のなさを目覚めさせ、人類の魂への愛への目覚めを教えたのである。隣人を愛し、汝の敵を愛せよ。それこそが、魂の正しき進化の道であると。 さて、このキリストの行為により、人間だけが、悪魔により十字架を背負わされた存在であるという。つまり、錯誤故に、なんらかの病気に罹る存在なのである。 動物、植物、鉱物は、悪魔により十字架を背負わされた存在ではないという。人間のみが、進化の十字架を背負い、病気に罹る存在だという。勿論、ここでいう病気とは、魂の病気、錯誤から生じる病気のことである。動物、植物も病気のようなものに罹るが、人間の病気とは、根本的に質が異なるという。だから、なんらかの動物実験が成功を治めても、そのまま人間に通じることはないという。 秘教によると、そもそも、人間の病気が、動物や、植物や、鉱物を基にした薬から治療可能なのは、人間以外には悪魔の過失、つまり魂の不純さが宿っていないからだという。つまり、人間の自らにある光のなかの不純な闇の部分が、動物や、植物や、鉱物の完全な光により、解消されるというのである。 人間の叡智でもある悪魔の闇が、人間以外の種がもつ、光により克服されるというのである。人間のアストラル体の闇は、主に動物から採取された薬剤により克服され、エーテル体は植物、肉体は鉱物の薬剤が主であるという。 このことを、パラケルススは、自然のなかに、人間の病気を癒す薬剤(プロセス)が存在するので、自然を注意深く観察しなさいと説いたという。 この行為が、現代の医師の役割に通じる基盤となったのだろう。 このような、病気の闇を、自然のなかの光で物質的に克服することに対し、魂のなかに愛を目覚めさせ、克服させる行為、つまり、魂の進化への精神的な励まし、苦痛を自ら克服することを体験させる援助の役割に通じるものは、現代の看護師の基盤といえるのだろう 医師に男性が多く、看護師に女性が多いのは、この役割の相違由縁なのかもしれないが、秘教を理解するなら、異性の違いは表面的なもので、その本質とは、患者と治療試行者の両極端ともいえる立場にあるといえる。 患者と治療試行者の両極端の立場とは、電気の陽極と陰極のような、いわば引力を意味するという。引力を通して、患者のなかの愛に乏しい魂に、愛を注ぐ行為、愛を補給し、愛を流し込むような働き、行為が、治癒行為として求められるという。 患者の愛のなさ故の病気に、治療試行者として、まずは愛を確立しなければ両極となりたてない。だから、医師や看護師には、愛がなにより最も必要とされる存在といえるだろう。愛が基盤になりえない治療行為は、カルマを複雑にし、将来、更なる課題を人類にもたらすだけなのである。 さて、現代には、霊界などないと断じて言い切る人々がいるが、この現世の存在に対して、あの世では、霊界を、この世に知らしめようと、活動する死者がいるという。 この両者は、この世とあの世で、両極性を成しているという。秘教では、どちらの両極端も誤りであり、振り子のように、どちらかが極端になれば、他方から揺り返しが起こるとしている。 中世では、霊界を中心とした神秘主義が、大きな流れで、科学者が弾圧の対象とされたが、現代では、逆転現象になっているといえる。どちらも一方のみでは存在せずに、両極端があり、中立がある。中庸が人類の進むべきところで、人間は、両極端な体験を通じて、自ら魂の中庸の精神を、この宇宙のなかに見出していく。 両極端の過失を改める働きこそ、正に愛の行為といえる。 これがアリストテレスが説いた魂の中庸の精神なのであろう。
2007年04月24日
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前回で、シュタイナーが、かつて行った「秘儀参入の正しい道と偽りの道」という講義を、秘教の探求という形で、私的に独学風にまとめた。 機会があれば、もう少し噛み砕いて、再度、まとめたいように思うが、秘教の勉強は、イメージが大切だと思われるので、以下に、続けて、秘儀参入のための初歩段階の幾何学を、シュタイナーの4次元の講義を基にして、同様にまとめたいように思う。 今回は、4次元に関する基本的側面をまとめるので、秘教の探求を期待していた人は、失望するかもしれないが、秘教の探求に際する、問題に関して、より深く洞察するには、数学の高次の概念を厳密に知っておく必要があるという。 全くの基本的で普遍的な若干の概念を提供し、4次元空間の真実とそれに関して考察可能な事象とを区別する必要がある。4次元空間は、通常の覚醒意識による物質世界の感覚的で現実的事象として既知のものを超えて、遥かに宇宙に広がる真実と関わっているので、その場所へ赴くならば、思考を変換させる必要があり、少しばかり数学へと事象を遊ばせ、数学者の思考方法のなかに立ち入る必要があるという。 数学者が歩を進めるには、一歩一歩が理論全体の流れに、どのようなインパクトを与えるかに関して述べる必要があるが、一般人が数学に関わるなら、たとえ数学者ですらも、4次元の真実の中には一歩たりとも踏み込むことはできないということにも、気づく必要があるという。 数学者は単に思考可能、或いは思考不可能な事象から、その結論に達することができるだけで、ここで扱おうとしている課題は、さしあたり単純だが、第4次元の概念へ近づくにつれて、より複雑なものになる。まず次元というものが何を意味するのかに関して明確にする必要がある。 様々な幾何学的構造を、その次元性で吟味するときに最もそのことが明らかになるという。そのとき、それは19世紀になってはじめてボヤイ、ガウス、リーマンのような偉大な数学者によって着手された考察へと導くことになる。 最も単純な幾何学的対象は点であり、点は全くの広がりをもっていない。点は想像可能なだけの存在で、点は空間内の1つの位置を指し示すものであるという。点はゼロに相当する次元をもっている。 点は空間においてゼロ次元である。 第一の次元は線により与えられ、直線は1次元を有するといえ、それは長さである。太さをもたない線を動かせば、第一次元を離れて、面になり、面は長さと幅という2つの次元をもつことになる。面を動かせば、2次元から離れ、その結果、立体が得られ、立体は高さ、幅、奥行きという3つの次元をもち、立方体のようになる。 線は長さという1次元、面は長さと幅の2次元、立体は高さ、幅、奥行きの3次元である。 しかし、ある立体、たとえば立方体を空間のなかで動かしても、結果はやはり3次元の立体で、立体は単に動かしただけでは3次元空間から離れることはできない。 立方体は空間運動において、同型を止める。 更に幾つかの概念を見ていき、まず線分を考えてみると、線分は2つの境界、A点とB点という2つの末端をもつ。 ここでA点とB点を合わせることを考える。 それを行うには線分を曲げる必要があるが、そのとき何が起こるだろうか? A点とB点を合わせようとすると、1次元の直線に止まることはできない。直線の2点を結合するためには、直線から外にはみ出る必要があり、つまり、第1次元から出て、面という第2次元に移行する必要がある。このようにして、線分の末端が重なることにより、直線から閉じた曲線、いわゆる最も単純な場合、円が成立する。 線分を円に変形させるには第1次元から逸脱することが必要である。 同じ操作を長方形の面で行うことができるが、これも可能なのは、2次元のなかから逸脱するときだけであるといえる。長方形を管、筒に変形させるには第3次元に入る必要がある。この操作は、前述の第1次元を逸脱することにより、2つの点を重ねたときと全く同じ手法で行われる。ここで面の場合、面の2つの端を重ねるために、第3次元に入る必要があるといえる。 では、3次元の空間構造をそれ自身で示している立体、つまり3次元立体で、同様の操作を行うことが可能だろうか? 2つの合同の立方体が3次元の直方体の境界をなすと考察してみる。その一方の立方体を他方の方にずらして重ねることができる。 さて、1つの立方体の一方の面が赤、その反対側の面が青に塗られているものと想像し、この立方体を、幾何学的に全く同一だが、赤と青の色が逆に塗られているもう一つの立方体に一致させるための唯一の方法とは、一方を回転させ、そして、スライドさせて重ねることだとわかる。 別の3次元の対象物に関して考察する。左手の手袋をとり、左手の手袋を右手に、内と外を区別して、しっかりとはめることはできないが、お互いが鏡像体とする一組の手袋を考え、そしてAとBの末端をもった線分と同様に考えれば、その左右の手袋が、お互いに鏡像的関係に属することが理解できる。それら左右の手袋は中心に境界、つまり鏡の面を有する単一の3次元像を構成しているといえる。このことは人間の外皮膚の2つの対称的な左右の半分に関しても言える。 ではお互いが鏡像体である2つの3次元構造をどのような手法で重ねることができるか?を考える。 それは丁度、前の例のように、第1及び第2次元を超えたような、第3次元を逸脱するときにのみ可能で、つまり、4次元空間を通っていくことにより、右の手袋を左手に、或いは左の手袋を右手にそれぞれしっかりとはめることができる。 観照空間の第3の次元、つまり奥行きの構築に関しては、右目から来る像を左目から来る像に重ね、つまり、2つの左右の像を融合しているという。 ここでツェルナーによる1つの例を考察する。 ここに円があることを考え、その外側に点Pがある。どのようにして円を横断しないで点Pを円の中に入れることができるか?を考える。 面の内部に止まる場合には、不可能だが、正方形を立方体に移行させるときに、2次元から3次元へと超えたように、ここでも2次元から逸脱する必要がある。同様に球の場合にも、球の表面を突き抜けるか、または3次元を超えることなくしては、内部に 入っていく可能性はないといえる。 以上、これらは概念的な可能性に限るものだが、認識論、とくに知覚内容の客観性に関する認識論的な問題については直接的で実際的な意味をもち、第1に人間が実際、どのような手法で知覚を可能にするのかを明確に理解するための認識の必要性を与える。
2007年04月24日
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キリスト衝動に音楽的表現を与えようとする衝動は、既に存在し、リヒァルト・ワーグナーの中で予見され、最終的に「パルシファル」が創造される原因となったという。 けれども、「パルシファル」においては、キリスト衝動の現象世界への導入、そして、そこでは、最も純粋なキリスト精神の表現が追求されたが、その導入においては、ドーブ等の登場に見られるように、象徴的な示唆が与えられただけで、聖餐式もまた象徴的に示されただけだという。「パルシファル」の音楽では、宇宙と地上におけるキリスト衝動の真の意義が表現できていないという。 音楽は、このキリスト衝動を、つまり、精神により内的に浸透されたハーモニーの中で表現できるという。もし、音楽が人智学により霊感を吹き込まれるなら、キリスト衝動を表現する道を見出すという。 というのも、音楽により、キリスト衝動がハーモニーの中で、交響曲的に、宇宙と地上において覚醒でき、純粋に芸術的に、そして先験的に明らかにされるからで、そのためには、隠された感情の深みに沈潜し、音楽的な経験を内的に豊かにすることによって、正に、長三音階の領域の経験を深めることが可能になるからであるという。 もし、長三度の領域を人間の内的な存在、つまり完全に内部に包み込まれたものとして経験するならば、そして、そのとき、完全五度の領域がそれを「包み込む」ような性格を感じ、五度構成の中へと成長して行くなら、人間的なものと宇宙的なものとの境界に達することになるという。 そこでは、宇宙が人間の領域の中へと鳴り響くと同時に、憧れに燃え上がる人間存在(長三度)が宇宙へ(完全五度)と浄化することを希求しているという。そして、そのとき、長三度と完全五度の領域の間で演じられる秘儀の中で、宇宙へと到達する人間の内的な存在を、音楽的に経験することが可能になるという。 そして、もし、そのとき、七度の不協和音、そして、人間が様々な精神的な領域(七度の不協和音)に向けて旅をするとき、大宇宙の中で経験する、感覚的なものを表現するが、その不協和音を解き放ち、宇宙的な生命を、自らに響かせることに成功したら、つまり、もし、七度の不協和音の死滅にまかせ、その死滅を通して、ある種確かなものを獲得できれば、死滅するハーモニーの中で、音楽的な耳をもって、何か音楽の大空に似たものの中へと最終的に調和することになるという。 なので、もし、既に「長調」により「短調」を微かに示唆した後、七度の不協和音が死滅しつつある緊張の中で、つまり、この不協和音の全体への自発的な再創造の中で、七度の不協和音から、或いは、これらの消滅しつつある不協和音が、調和に近づきつつあるところに、短調の雰囲気の中で、五度の領域に移行する方法を見出すなら、そして、その地点から五度の領域に短三度の領域を混合させるならば、それによって、受肉に関しての、そして、もっと言えば、キリストの受肉についての音楽的な経験を呼び覚ますことになるという。 長三度;宇宙への広がりの死、短三度;地への受肉、 完全五度;人間の内と外の境界、七度の不協和音;天空の階層性 一見、八度音階に支えられることにより、宇宙的な感情にとっては見かけ上、不協和音に過ぎない七度の領域、「大空」へと形成するための、七度の領域に向けて、外へと手探りで歩み出るが、もし、そのとき、それを感情で把握した後、既に示した手法で、歩みの跡を辿ると同時に、短三度和音の胎児的な形態の中に、受肉を音楽的に表現する可能性を見出すならば、この領域において、長三度への歩みの跡を辿るとき、キリストへの「ハレルヤ」が、この音楽的な構成の中から純粋な音楽として鳴り響くことが可能になるという。 人間は、そのとき、そのハーモニーの構成の中で、超感覚的なものに関する直接的な認識を魔法のように出現させ、それを音楽的に表現するという。 キリスト衝動は音楽の中に見出すことができ、そして、ベートーベンの中に見られるような交響曲的なものの不協和音に近い解消は、音楽における宇宙による支配への回帰によって救い出されることが可能になるという。ブルックナーは、伝統的な枠組みという狭い範囲において、これを試みたという。しかし、彼の死後に発表された交響曲は彼がこの限界から逃れられなかったことを示しているという。 我々は、その偉大さを賞賛する一方で、真の音楽的な要素の接近への躊躇、そして、既に述べた手法で出現させた、つまり、純粋音楽の領域に歩みを進め、そこで、ハーモニーを通して、1つの世界を魔法のように出現させる本質、すなわち、根本的精神を見出すときに初めて経験できる、これらの要素を十分に実現することに失敗したことを見出すという。 もし、人類が退廃へと沈み込んでいかないならば、いま述べた音楽的な進歩がいつの日か達成され、そして、最終的には(完全に人類にかかっている)、キリスト衝動の真の本性が外的に明らかにされることになるという。 このことに注目して欲しいのは、人智学は人生のあらゆる側面に浸透することを求めているということに気づいて欲しいからであるという。もし、人間の方で、人智学的な経験と探求への真の道を見出すならば、このことは達成でき、いつの日か、音楽の領域が人智学の教えの中にコダマし、キリストの謎が音楽を通して解決されることさえ起こるという。
2007年04月23日
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月の道を通って精神世界に接近した人たち、神秘家や神智学者たちは究めて不思議な現象(かつて地上に生きていた人間の魂、神、そして精神)を知覚したが、彼らには、それが一体何者なのかを理解したり、決定したりすることも、そこにいるのがアラヌス・アプ・インスリスなのか、ダンテなのか、或いはブルネット・ラティーニなのかを、はっきりさせることもできなかったという。 それらの実体はときとして最もグロテスクな名で呼ばれ、つまり、彼らには、そのとき接触している受肉が彼ら自身のものか、それとも別の人々のものか、或いは、それらが何者なのかを決めることもできなかったという。 なので、精神世界は昼の中に招き入れられた月意識の領域と関連するが、金星衝動の流入によって、この視界が失われ、精神世界をその全体性において眺めることになるという。しかし、それは本来あるべき明確に規定された世界ではなく、全体人間の世界的な状況、宇宙存在としての人間の立場であり、それに最初に気づき始めるのは、この金星領域においてであるという。 だが、この関連で、我々は悲劇的な現実に気づかざるを得ない。というのも、もし、この宇宙人間が、この地上で見えるような完璧に物理的な人間の形態をとっていたならば、その死んだ人間は、究めて有徳で、素直、そして高貴な存在であったはずだが! 実際は、グロテスクなものとなるのが大半であるからである。 これは丁度、通常意識をもって、死の探求がほとんどできないように、我々は、通常意識という手段によっては、一見、人間が正直そうな顔をして(実際、正直そうな顔をする)、悪いことができるのかを知ることも不可能で、結局、悪人になれるのは全体人間ではなく、一部の器官であり、現在のような外皮、つまり皮膚は高貴で善良だが、人間はその内部の個々の器官を通して悪人になるという。 つまり、悪の可能性は人間の器官に存在しているという。 こうして、人間の器官とそれに対応する宇宙領域との関係、或いは悪への強迫観念がどの領域にその起源をもつのかを理解するようになるという。つまり、基本的には、ほんの僅かでも悪が現れるところには必ず強迫観念が根底にあるという。 こうして、人間全体に関する知識により、まず、誕生と死が明らかとなり、次に、人間の有機体に関する知識によって、人間の宇宙に対する関係が健康や病気、すなわち悪が明らかになるという。 そして、人間の器官学を通して、宇宙人間を眺めることができるとき、ゴルゴダの秘儀を経験したあの存在を、初めて精神的に知覚することができるようになるという。というのも、キリストが太陽からやってきたのは宇宙人間(アダムカドモン)としてやってきたからであるという。 ゴルゴダの瞬間に至るまで、キリストは地上の人間ではなく、宇宙的な形態をとって地球に接近したという。もし、最初に、宇宙人間をその真の姿において理解する準備ができていなかったとしたら、どうして、それを認識できるのか!という問いが生じる。 キリスト教が発展可能なのは、正にこの宇宙人間に関する理解から生じるという。 こうして、いかに真の道が、精神世界に向けて、つまり、誕生と死、人間(器官)有機体の宇宙に対する関係、悪の認識やキリスト、すなわち宇宙人間に関する知識へと導くかが分かるという。 この全てが理解できるようになるのは、それらが様々の側面で、お互いに支え合うことが示され、その仕方が提示されるときであるという。 そして、精神世界への道を見出す最良の方法とは、理解と、理解したものを瞑想することであるという。瞑想のためのその他の原則は付随的な役割を果たすという。今日の人間にとっては、これが精神世界への正しい道であるという。 他方、意識の正常な道筋を維持し、利用することに失敗するような、その他あらゆる方法、霊媒術、夢遊病、催眠術等々のトランス状態を用いる、あらゆる試み、意識により理解できない世界事象に関する、現代自然科学を戯画化したもの等の方法による、あらゆる探求、これら全ては偽りの道であるという。何故なら、それらは真の精神世界には導かないからであるという。 精神的な探求により見出されたものを人間が感覚的に意識するとき、すなわち、器官に関する知識を通して宇宙人間が返ってくるということ、秘教的な探求と洞察において、明らかにされる全てが秘儀参入の意識に受け入れられ、彼の意識生活の重要な部分になり、ある程度、この宇宙人間の帰還が、キリストの理解へと導くことが可能であることを人間が意識するとき、感情を通して、神が地上的なものの中に現れるという。そして、そこに芸術の本分があるという。 芸術は人間が今述べたような道に沿って精神的な世界から受け取るものを、感情を通して半意識的に体現するという。なので、いつの時代でも、精神的なものに物質的な形態を纏わせてきたのは、そのカルマにより、そうすることが運命づけられた人々だったという。 我々の自然主義的な芸術は精神的なアプローチを捨て去ったという。芸術の歴史における絶頂期においては、精神が感覚的な形態の中に示されるか、或いは、むしろ物質的なものが精神の領域に引き上げられたという。 ラファエロが高く評価されるのは、他の画家たちよりも遥かに高度に、精神的なものに感覚的な表象という衣を着せることができたからだという。 さて、芸術の歴史の中には、より造形的、写実的な芸術への傾向を持つ一般的な運動が存在していたという。今日、もう一度、造形芸術に新しい命を吹き込む必要があるという。それは、何年も昔に当初の直接的衝動が失われてしまった、という理由によるという。 何世紀にもわたって「音楽」への衝動が増大し、広がってきているという。従って、造形芸術は多かれ少なかれ音楽的な性格を持つようになり、言語芸術における音楽的な要素を含めて、音楽は未来の芸術であることを運命づけられているという。 シュタイナーのドルナッハの第一ゲーテアヌムは音楽的に構想されたが、そのため、その建築、彫刻、及び絵画はほとんど理解されなかったという。同じ理由により、第二ゲーテアヌムもまたほとんど理解されないという。というのも、絵画、彫刻、そして建築には、人間の未来の進化と調和して、音楽の要素が導入される必要があるからだという。 人間進化における最高の地点として言及したキリストという存在の到来、精神的に生きた、この存在の到来は、ルネッサンス或いはルネッサンスに先立つ時代の絵画の中に素晴らしい描写が見られるが、未来においては、音楽を通して表現されるという。
2007年04月19日
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秘教によると、病気とは偉大な人生の教育家だという。秘教が説くカルマでは、人間は永遠の生命を得る進化のために、病気に罹るという。 兎角、現代人の我々は、病気を悪いものと考えがちだが、病気が問題なのではなく、病気は贈り物であり、病気は克服することが前提であり、克服のための精神力が問題なのであるという。 秘教においては、病気は克服することが前提なので、治らない病気はないという。つまり、不治の病はないというのである。にも関わらずに、死に至る病はどうなのだろう?と、現代人は問うだろうが、屁理屈に聞こえるかもしれないが、秘教においては、死とは、人生の最終過程ではないのである。 秘教においては、死は、次の人生(転生)の始まりなのである。ここにカルマが見い出されるのである。 このカルマの観点から考えると、死に至った病、いわゆる不治の病を克服した能力が、今生の余生では、もはや発揮され、生かされる見込みがないので、次の人生(転生)に、その能力を持ち越すために、死を選択した場合だというのである。 端的にいえば、その病克服能力が宝の持ち腐れになるので、今生で無駄にならないように、高次の自我自らが死を選択した場合が、死に至った病のケースだという。 このような秘教の観点をもっていた太古人は、病は必ず治るもので、治らない病はないと信じていたという。 このような観点、つまり秘教が失われていき、13世紀では、病気は、神からくるといわれたという。 人間の意識は次第に地上へと向かうにつれ、そして15世紀には、病気は悪魔からくるといわれ、そののち、病気は人間の体液に由来するといわれ、近代では細菌に由来するといわれ、いまでは、ウイルス、そしてDNAや遺伝子、ヒトゲノム解析が終わると、果てはmRNAと、蛋白質と、時代の経過のなかで引き継がれていった見解となるのである。 これとは逆の、歴史を遡る観点、つまり秘教が説くカルマから考察すると、病気とは、前世に由来することがわかるという。 前世で自らが行った道徳的錯誤と悟性的誤謬を、今生において、その克服を行わんとするために、病気として、自らに課すのだという。 だから、太古では、これは、完全なる自己を完成するため、つまり、永遠の生命のための、神々の恵み行為であると思われたのである。だから、古く13世紀では、病気は神からくるといわれたのである。 やがて、前世の道徳的錯誤と悟性的誤謬は、悪魔の主因なので、カルマを知るにあたり、病気の主因は、前世の道徳的錯誤と悟性的誤謬にあるのだから、15世紀では、病気は、悪魔からくるといわれたのである。 病気は人間の体液に由来するといわれたのは、ヒポクラテスが唱えた4液説に主因があるだろうが、これの真の意味は、秘教でいう、肉体、エーテル体、アストラル体、自我の調和状態のことを指す。 本来、秘教の真の意味のこのヒポクラテスの説が曲解され、伝承されたために、ウイルヒョウなどの、細胞病因説から、19世紀の唯物論の台頭から原子論と相俟って、細菌病因説となり、ダーウインの唯物進化論が加味され、ウイルス病因説、そして現代ではDNAとなってくるのである。 秘教においては、何度もいうが、治らない病気はなく、病気とは克服する機会であり、自らが大きく変化すべき機会(チャンス)であるといえる。病気を悪にするかどうかは、その克服姿勢にかかっているといえるだろう。 病気と闘い、病気を通じて、精神力を強化するのが問われることで、慢性化した場合は、その病気の状態を忘れることが肝要であると、秘教はとく。とくに、病気の苦悩の状態を忘れ、苦悩から逃れ、自由になった魂の力を自分を内的に高め、精神的に満足させる内容に用いるとよいという。 つまり、病気とは、偏った不完全な魂の状態に起因し、完全な偏りをなくすためには、偏った思い込みや、状態を捨てる、忘れることが肝要なのであろう。人間は、なかなか、実際に痛い目に会って体験してみないと、実感が沸かないので、いわば人生のなかに病気という形をとって試練として課されるのである。 病気に罹ったのは、偶然ではなく、必然であり、いわば、病気に選ばれた人間として、その病気を克服する恩恵に与ったことを、神に感謝せねばならない。 病気と真剣に闘う人間の姿に美しさをみるのは、そこに真剣な魂の活動、いわば、完全な神の似姿になろうと、神に向かって努力する人間の姿が二重写しになるからなのであろう。
2007年04月17日
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人生の生と死を、肉体とエーテル体と、アストラル体と自我の関係として捉えるように、生命の奥深くに隠されたものを暴くとき(以前、具体的な記述を行った)、肉体とエーテル体の誕生、そして、アストラル体と自我の死を意識するようになるという。 死が生命に織りなされ、人生の冬がその春と提携させられるのを知覚するという。 そして、ここでも、秘儀参入の意識をもって人間を観察するとき、人間の身体が衰退する一方で、35才を境に、自我とアストラル体が芽吹き始めることを意識するようになるという。 この芽吹く生命は肉体とエーテル体の中に存在する死の力によって遅延させられるが、それでも、はっきりとした再生が本当に生じるという。 そして、そのような精神的探求という手段によって、生命の中には死が存在し、死の中には生命が存在していることに気づき始める。このようにして、精神的探求は、誕生の時点で死んでいくのが、みえるものを、それらが十全たる意義と偉大さにおいて現れていた地上以前にまで辿っていく準備を行うことができる。 また、衰退していく肉体とエーテル体の中に、アストラル体と自我が徐々に芽生えてくる(というのも、それらは肉体とエーテル体の中に捕らえられているからだが)のを知覚し、それらが、死の瞬間に、肉体とエーテル体から精神世界へと解き放たれるのを追っていく準備を、精神的探求から行うことができる。 このように、誕生と死はお互いに相関しているにも関わらず、通常の意識には別々の出来事のように見えることが分かる。 精神的探求により明らかにされる、これら情報の全ては、最初に示したように、通常の意識によって把握できるが、同時に、通常の意識には実証的、或いは科学的証拠の要求を諦めさせるような準備ができている必要があるという。 かつて、次のように主張した男がいた。丁度、石が地面に落ちるように、椅子を持ち上げて離せば、それもまた地面に落ちる。何故なら、全ては重力に曝されているから。従って、もし、地球が何者かによって支えられていなかったとすれば、地球も必然的に落下するだろう、と。 彼が見逃していたのは、物が地面に落ちるのは地球の引力に引きつけられているからで、地球自体は、お互いに支え合い、引きつけ合っている星のように、自由に空間を動いている、ということである。 現代科学者のように、証明が、感覚的証拠により支えられることを要求する人は、地球は、もし、しっかりとピンで留められていなければ、落下するに違いない、と信じているこの男によく似ているといえる。 人智学的な真実はお互いを支え合う星のようなもので、全体的な構図を見る準備ができている必要があり、そして、もし、それが可能ならば、人々は誕生と死の相互関係というような人智学的な考えを真に把握し始めるという。 話をもう少し進めて、現代科学の原則にしっかりと基づく一方で、人智学的な考えにも注意を払うと同時に、受容的にも関わらず、人間全体を考慮に入れることを学ばず、以前述べた手法で、個々の器官だけを考慮する人の場合を取り上げてみる。 そのような人は、秘儀参入の過程で獲得された器官に関する知識を通して、誕生と死だけではなく、何か全く異なるものをも意識するようになるという。 この器官に関する認識(光)の下では、誕生と死はその通常の重要性を失う。というのも、死ぬのは人間としての存在全体であり、個々の器官ではないからで、例えば、肺自体は、人間が死んでも、死ぬことがないことがわかる。 今日の科学がボンヤリと気づいているのは、人間全体が死んだとしても、個々の器官はある程度賦活できる、ということで、人間が埋葬されようと、火葬されようと、個々の器官が死ぬということはないことである。 それぞれの器官は、それぞれ関係づけられる、宇宙領域へと向かう道を辿り、人間が地下に埋められても、それぞれの器官は、それぞれの場合に応じて水、空気、或いは熱を通って、宇宙への道を見出すという。 実際には、それぞれの器官は解消されるが、消え去るのではなく、消え去るのは全体的な人間だけであるという。 なので、死が意味を持つのは全体的な人間に関してだけであるという。 動物に関しては、器官は死ぬが、人間においては、宇宙へと解消されるという。よりゆっくりした埋葬のような過程であろうと、より早い火葬のような過程であろうと、それらは急速に解消されるという。 精神的探求においては、個々の器官が無限へと向かう道、それぞれがそれ自身の領域へと向かう道を辿るのを追っていくことができ、それらは無限の中に失われるのではなく、以前述べたような力強い宇宙的な存在形態(アダムカドモン)を取って還っていくという。 こうして我々は、秘儀参入の意識をもち、その器官を観察するとき、死に際してそれらの器官に一体何が降りかかるのかを、つまり、いかにそれらの器官それぞれが属する宇宙領域へと流れ出していくのかを見るという。 心臓は肺とは異なる道を、肝臓は肺や心臓とは異なる道を辿り、それらは宇宙全体にばら撒かれるという。そして、宇宙人間(アダムカドモン)が現れるという。 つまり、我々は、死んだ人間を宇宙に組み込まれた真の姿(アダムカドモン)において見るという。 そして、この宇宙人間を見る視覚の中で、例えば引き続く受肉の源泉とは何かに関して意識するようになるという。我々は、以前の地上生が現在の人生にカルマ的に戻ってくることを再び、明確に、はっきりと意識することが可能になるために、このような視覚を必要し、そして、その視覚は、カルマの起源を人間全体の中ではなく、幾つかの器官の知覚の中に有するという。
2007年04月17日
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今日の人間はカルマに関心を持っていないから、ちょうど実験室で硫黄を分析するように、いわゆる超常現象と言われるものの起源を実験室的な手法によって分析できると信じていたり、通常ではない認識形態を示す人を、硫黄と同様に、実験室的な試験に供しなければならないと信じている。 しかし、鉱物としての硫黄はカルマをもたず、人体に関連した硫黄だけがカルマをもっているという。 何故なら、カルマに左右されるのは人間だけだからで、実験室において人間のカルマの一部を試験することが、もし、その探求が何らかの価値を持つのならば、カルマから生じる今生の必要な前提条件を仮定することは、それこそ不可能である。 なぜなら、実験とは再現性の可能な試行にすぎないからである。 我々が人智学を必要とするのは、実験室では探求不可能なこの理由によるもので、他の人の援助によって精神世界の知識を獲得可能にするようなカルマ的な条件を探求することが第一に必要になるという。 シュタイナーの著書「神智学」の最新版では、最後に、このことが明確に説明されているという。今日の人類には、この考えを受け入れる準備はできていないが、それは彼らが無能だからではなく、保守的であるからで、けれども、精神的にカルマを探求することは途方もなく重要な考えであるという。 直ちに精神世界の探求に取りかかる必要はないが、他方で、もし、カルマ的な必然性がないところでカルマの実験を行い、無理解な技を使う霊媒たちを使って実験するというような望ましくない手法を採用せず、この世に適した意識状態の日常意識を頼りにするならば、秘儀参入の科学とでもいうべきものが伝えるものについての完全な理解に至ることに気づくこと、それが本質的なことであるという。 もし、とりあえず自分自身で精神的世界を経験できないならば、それを理解することは不可能であると想像するならば、とんでもない間違いであるという。 「自分で経験できないならば、精神世界が何の役に立つのか?」というならば、それは今日よく犯される上述のような別の間違いを助長することになり、それは最も大きな、最も危険な、最も明らかな間違いを犯すことで、人智学協会のような運動に携わる人たちは、そのことをはっきりと意識するべきであるという。 この物理平面上の人間の存在は別世界の存在と結びついていて、このことは、偏見のない見方に対しては、次のような事実、つまり、人間の経験とは、経験全体の光の中で見たときには、人生における最も決定的な問題との関係で、ある意味、密接に関連しているにも関わらず、お互いに無関係のように見えるために、通常の日常意識では理解できないという事実によって説明することができる。 つまり、人生のなかでは理解できないような不可抗力が働いていることを見出すとき、それが、この精神世界の影響であることに気がつかされるという。 なので、ここでは簡単な説明しかできないが、最初に、人間の物理世界への参入と退出、つまり、誕生と死についてまとめてみる。 地上での人生の中で最も重大な出来事の誕生と死は通常の意識にとっては別々の現象のように見える。誕生に先立つ全て、つまり、人間の受肉に関係する全てを、地上での人生の始まりに関係づけ、死をその終わりに関係づける。そして、誕生と死は引き離されているようにも見える。 しかし、精神的な探求を行う人には、誕生と死が益々接近してくるのが分かるという。 というのも、もし、月の秘儀へと導く道を辿り、以前述べた方法で夜を昼の中に召還するなら、いかに肉体とエーテル体が誕生の過程の中で益々成長し、繁栄するようになるかを、つまり、いかにそれらが芽の状態から段々と人間の形を取るようになるかを、そして、いかに地上に生きる間、それらの活力が、35才になるまで、益々増加し、その後は段々と減少し、衰退が始まるかを知覚するからであるという。 勿論、この過程を外的に観察することはできないが、以前述べた月の道を辿る人には、肉体とエーテル体が細胞状態から成長し、発達し、胎児の形態を取る一方、人智学ではアストラル体と自我と呼ばれる別の生命形態が衰退と死の力に曝される、ことを知覚するという。
2007年04月16日
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(ヨーロッパ)大陸の福音派教会の神学者たち(福音派や自然科学者の二元論を認めず、古い伝統を保持するローマカトリック教会の神学者ではない)の間に存在するのは、知識には明確な境界線があり、信仰が問題になるのは、その境界の向こう側であることを示すための無数の理論であるという。それ以外の可能性はない、と彼らは確信しているという。 イギリスでは、それほどまでの悪夢に悩まされることはなかったという。しかし、それは理論化がそれほど一般的でなかったせいで、イギリスでは、科学が語ることには耳を傾け、信仰の中では(信心家の振りをしてとまで言うわけではないが)敬虔に生きることによって、科学と信仰の2つの領域を厳密に切り離しておくのが、伝統的な態度になっているという。 過去のある時代においては、俗人と学者がこの観点を採用していたという。ニュートンは重力理論、つまり、正にその本性によって、いかなる精神的な見方の可能性も排除する絶対空間概念に関する理論の基礎を打ち立てた。 もし、世界がニュートンによって記述された通りのものであったなら、それは精神を欠くものとなるだろう。しかし、精神を欠く絶対空間が間違いであることを認める勇気を持ち合わせている人は誰もいない。神的-精神的な存在が、ニュートン的な世界の中で生き、活動し、その中に存在する、ということを想像することなど誰にもできないのである。 だが、精神を排除する空間と時間の概念は、この考えを信奉する人たちだけに最終的に受け入れられたのではなく、独自に精神の研究活動に取り組む人たちにも受け入れられることになる。 ニュートン自身が後者のよい例で、というのも、彼は精神的なもの(霊)を排除する世界観の基礎を据えただけではなく、同時に、黙示録に関する自身の解説の中で、精神的なもの(霊)を完全に受け入れているからであるという。 ニュートンは、実際は、霊的世界を認めながらも、当時の地位や名声を得るために、精神的な世界から、科学的観点を切り離し、間違いと知りながら、絶対空間の基礎を打ち立てたという。 このように、ニュートンの二重人格的ともいえる代表的行為から、現象世界の知識と精神世界の知識との間の結びつきは断ち切られてしまい、今日、理論家たちは、この二元論の確固足る証拠探しに乗り出し、そして、理論を信用しない人たちの思考と感情に、この考えを植え付けることにより、最終的に彼らを条件づけるための、あらゆる努力(教育)がなされているという。 いわゆる、科学者及び、心霊主義者は、二元論を確立することにより、精神の知識を、そこから分断した現象の知識で、お互いに闇に葬ろうと努力しているのである。これらの両極端の立場、つまり、科学者はアーリマンに、心霊主義者は、ルシファーになぞらえることができる。両者は、自らが白であり、相手の黒を、白で塗り替えることしか頭にない立場で一致しているといえる。 他方、人間の知性、理解、思考力、思考能力は、今日、もし、それらに対する意識的なコントロールを保持するならば、理論により、秘儀参入の科学の教え(秘教)の探求は不可能にしても、理論により、それを把握可能にする地点にまでは達しているという。 このような前記の二者(アーリマンとルシファー)の中立の立場こそ、キリストの制御力というべき中庸の立場のことを意味する。科学者は心霊主義者を、心霊主義者は科学者を受け入れるべきなのである。お互い、自らが黒として、相手の白を受け入れればよいのである。すると、闇の洞窟の中から光が射すようになるだろう。 そして、本質的なのは、次のような観点が広く受け入れられることであるという。 つまり、精神世界への探求は以前の受肉からの力を現在の地上生において呼び出すことが可能な人たちによって引き受けられる必要があり、何故なら、精神的な探求を行うために必要な力は、以前の受肉を今生にもたらす、そのような力から導かれるからであるという。 この探求の結果は益々多くの人々によって受け入れられ、理解可能な考えの中に取り込まれることになり、更に言えば、精神的な探求の結果が他の人々の健全な理解力によって受け取られるとき、この理解力のお陰で、人々が、精神世界についての、本当の経験の道への準備となる観点が生じるという。 というのも、しばしば述べてきたように、精神世界に参入するための最も健全な道とは、まず、精神世界への参入について書かれているものを読む、或いは、それについて語られることを自分のものにすることだからだという。 もし、我々が精神世界の考えを受け入れるならば、その知識は内的に生き生きとしたものになり、理解だけでなく、カルマ的な発達に従って、超感覚的に見ることをも達成することになるという。この関連で、我々はカルマの考え方を深刻に受け止める必要があるという。
2007年04月14日
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丁度、この場合に、外的現象に関する明確な像をもつように、意志の中に沈殿した思考を見ることが可能になるという。そのとき、思考が感情を発達させ、感情から(それは人間の中で下降する方向に向かう)暖かさへと、人間の中に炎が発生するという。そして、この炎が意志するとき、それは段階を追って点火されることになり。この通常の意識を次のような図式で示すことができるという。 「内的」|「外的」 明晰な思考|目覚めた昼の意識 感情生活|夢の意識 意志の意識|眠りの意識 さて、意識が曖昧な眠りの意識に向かうにもかかわらず、精神的世界の探求のためには、必然的に、我々の意識を、意識的な理解の世界へと向ける必要がある。そこで、もし、我々の探求の成果を正直に伝えるならば、口頭で伝えられる考えは、また別の意識形態を持つ言語によって表現する必要があるという。 おそらく、これには二重のプロセスがあることが分かる。第一に、例えば、以前説明した人間の器官の世界を探求し、人間が、その人生の経過を通して、精神世界に近づき、彼の中に突然現れる力を利用して問題の現象を探求し、そのときに見出される、理解の範囲内で現れる事実を獲得し、そして、世の中には、これらの事実に気がつき、この事実を世界に伝える人たちがいるということ。 そして、第2に、そのような人たちにより、世界に伝達される、それらの事実は、もし、我々が必要な客観性をもって見るなら、通常の意識によっても理解可能であるということである。 人間進化のプロセスにおいては、いつの時代にも、精神世界に関連した事実の探求に自らを捧げ、その探求の成果を他の人々に伝える、このような少数の人たち(秘儀参入者)がいたという。 さて、今日、ある1つの要素が、そのような知識の受容に不利に働いているという。それはつまり、一般に、人々が、ある社会環境の中で、ただ外的事実の世界、感覚の世界、そして感覚の世界のみから導かれる論理的な情報だけを信じるようになるまでに、習慣的な反応を条件づけるような教育システムの下で成長する、ということである。 この習慣があまりに強く、根深いために、人々の間には、「大学には、教育に加え、現象世界のある実側面に関する研究や、或いは、教育の分野では、他の研究者の発見を確かめ、検閲を行う、完璧に教育を修了したとされる者さえもいる」(権威に盲従的な)傾向がみられるほどで、誰もが彼らの発見を受け入れ、自分でその事実を探求せずに信じている。 この際限のない馬鹿正直さは特に現代科学のために取っておかれているという。人々、とくに洞察力をもつ人にとっては、問題が多いだけでなく、全くの嘘でさえも信じているわけで、この状況はこれまで何世紀にもわたる近代の教育の結果として現れてきたという。 この教育形態はそれ以前の世紀に生きた人間にとっては見知らぬもので、彼らは、まだ彼らの意志と感情に適合する精神的世界に関する幾らかの古い認識をまだ保持し、その中に参加していたために、精神的な事実を探求する人たちを信じる傾向の方が遥かに大きかったという。 今日の人々はそのような知識とは無縁で、ヨーロッパ大陸においては、より理論的なもの、イギリスとアメリカにおいてはより実践的なものとして、今やしっかりと確立された観点に慣れ親しんでいる。 近代、(ヨーロッパ)大陸には、これら(教育形態)の事柄に関する詳細な理論が存在する一方、イギリスとアメリカには、彼らにとって克服するのが決して楽ではないような、これらの教育形態に対する本能的な感情が存在していたという。 何世紀も経過する間に、人類は現象世界に関連する科学的な観点に慣らされ、例えば、天文学、植物学、動物学、医学等を、有名校や学習センターで教えられるような形を受け入れるようになったという。 例えば、化学者が実験室で研究に取りかかるとき、一般の人々は、そこでどのような技術が使われているのかをほとんど理解していないが、その仕事は喝采をもって迎えられ、彼らは躊躇なく「ここには真実がある、信仰に訴えかける必要のない知識がある」と断言するが、実際、彼らが知識と称しているものは信仰にすぎないのである。 つまり、形を変えた、科学的な観点から生じる神に対する信仰にすぎないのである。 現象世界を探求し、論理という道具により、現象世界の法則を確かめるために採用される方法の中には、1つとして精神世界に関する、ほんの僅かの情報さえも提供するものはない。しかし、精神世界全体なしで済ますことができる人もほとんどいないのが事実で、精神世界がなくても生きられるという人は自分に正直なのではなく、そのように思い込んでいるだけであるという。 人類は精神世界に関して何かを知るという差し迫った必要性を感じているが、人々は、現在知られているような精神世界に関して語る人たちをいまだ無視し続けているが、歴史的な伝統や聖書の教え、東洋の聖典に関しての話を聞く準備はできている。 彼らがこれらの伝統的な書物に興味を持つのは、それ以外には、精神世界との関係をもつという彼らの必要性を満たしえないからで、そして、人々は、聖書や東洋の聖典が個々の秘儀参入者によってのみ探求されてきたという事実にも関わらず、それらの聖典は別の種類の見方を反映し、現象世界の知識、科学的な知識とは関係がなく、信仰に依存し、信仰に訴えかけるものだと主張する。 こうして、科学と信仰の間には厳格な仕分けの線が引かれ、人々は科学を現象世界に、信仰を精神世界へと関連づけたがる。
2007年04月12日
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今回のまとめの中で、更に別の多くの事柄をつけ加えることは勿論可能だが、今回は、テーマ全体を総括することにより、全体を結論づけるように努力する。 今回のまとめ全体を通して、重要な問題とは、人智学(シュタイナーの秘教及び神秘学)、或いは人智学として提示される精神的探求の態度とは、どういうものか?ということで、今日、物質世界とは異なる別世界に関する人智学的な記述を感じ取り、完全に自分で、検証可能にするような、精神的な訓練や実践に直ちに取り掛かれる人はほとんどいないという。 では、そのとき、人智学の教えの理解には、どのような立場がとりえるか?という問題は、人智学を取り上げようとする衝動、或いは人智学に憧れをも感じるような人々の心の間近に横たわるが、いつも間違った光の下に眺められ、正に、このまとめの中で擁護してきたような、正しい手続きが把握されないために、誤解される可能性の高い問題となっているという。 次のような問いがある。「自分で、覗き見ることができなければ、精神世界に関する、これらの記述は一体何の役に立つのか?」と。そこで、今回は、大まかな分析の中で、この問題に触れてみる。 自ら精神世界を探求できない限り、人智学の教えやその理解に対する正しい認識を獲得することはできない、と言うのは間違いであるという。特に、現代における、物質的世界とは異なる別世界に関する事実を実際に発見しようとする偽の科学的手法と、人智学が提示する事実の理解とは区別されることが本質的であるという。 今日、我々が知る人間は、実際には別世界にも属し、人間の経験は別世界から導き出される、ということを思い起こすならば、この区別が明らかになるという。 今日のように構成された人間、いわゆる現代人にあっては、その一連の知識とその日常的な意識は、毎日の経験を通過する中で獲得されるが、この意識は我々現代人の探求の出発点だが、それは、人間が覚醒生活の間、ある限定された分野について、つまり、感覚知覚により近づけると同時に、人間がその進化過程で発達させてきた知性という手段によって把握し、説明することが可能な世界の側面について、一定の見通しを与えることが可能なだけであるといえる。 人間は、その理解力によって、既に指摘したような漠然としてはっきりしない方法で、夢の中に、つまり現象世界の背後に隠された世界の中に沈潜する。彼は、その魂的な生活の中で、彼が死と再生の間に通過する世界との接触を持つが、ただ、それは夢のない眠りの中であり、そこでは、精神的な闇に取り囲まれ、通常は思い起こすことができない生活を送っている。 人間は三つの意識状態(覚醒、夢、そして深い眠り)を知っている。しかし、彼はこの三重の意識によって近づける世界の中だけで生きているのではない。というのも、人間はそのような王国に多くの邸宅を持つ存在だからだという。人間の肉体は、そのエーテル体が住む世界とは異なる世界に住み、エーテル体はまたアストラル体とは異なる世界に住み、そして、その両方ともが自我とは異なる世界に住んでいるという。 そして、この三重の意識の、明白な覚醒意識、夢の意識、そして眠りの意識(このとき、意識が存在しないといいたいのは山々だが、残念ながら、減退した意識として記述できるだけであるという)は、今日見られるような自我に属しているという。 そして、この自我は人間の内側を見るときにも三つの意識状態をもち。自我が外側を見るときには、目覚めの(昼の)意識、夢の意識、そして眠りの意識があるが、内側を見るときには、まず、はっきりとした知的な意識があり。次に、感覚意識、すなわち感覚生活があるが、これは通常の想像よりも遥かに不透明で夢のようなものだという。そして、最後に、漠然とした黄昏のような意志の意識があり、これは深い眠りの状態に似ているという。 通常の覚醒意識により、眠りの起源が説明困難な以上に、意志の起源の説明は不可能であるという。人間が意志の行為を遂行するときには、明確ではっきりとした思考が伴っている。更に、この思考はより不確かな感情が被せられ、感情に浸透された思考は四肢へと降りて行くが、その過程を通常の意識によって経験することはできないという。 以前述べた種類の探求に対して意志が提示する構図とは次のようなもので、つまり、思考が頭の中で何かを意志し、それが感情を通して体全体に移され、人間が体全体で意志する間、微妙で繊細かつ親密な燃焼過程に近いものが生じる、というような構図だという。
2007年04月11日
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以前に述べた方法では、人間存在全体を出発点としたが、今回の精神的な解剖学を通して直接知覚し、理解することによる、個々の人間の器官から出発する道は、自然科学を戯画化した統計的手法による外的な現象の理解である、偽りのアプローチとは対照的に、真の結果へと導くことができる道であるという。 このことから分かるように、これらの事柄が議論可能になるためには、この道筋に沿って訓練を受けてきた臨床家の協力が必要だったという。更に言えば、この精神的な観点から解剖学を見る人は、このような手法で人間の器官を精神的に理解するとき、目の前のゴールに関して、いかなる疑いも心に抱かなくなることが分かるという。 そして、精神的な知覚の前に、以前に述べたような内的な人間ではなく、勿論まだ漠然とだが、力強く、巨大な姿をした外的で宇宙的な人間、それは人間全体として知覚されるのではなく、一部の器官の内的で精神的知覚を通して現れる(部分)人間が明らかになり、このとき物理的な人間ではなく、宇宙的な人間が出現するのは、これらの器官が精神的に眺められるからで、丁度、以前に、夜の世界(月の領域)が昼に招き入れられたように、この存在(それは完全な人間ではなく、個々の器官から構成されている存在であるが)の中に招き入れるのは、土星領域の衝動であるという。 デイダラボッチや巨人伝説は、ここからくるものと思われる。 丁度、以前の段階において、月の領域が通常の覚醒意識の中に招き寄せられたように、土星の領域が科学的(覚醒的)な意識の中に招き寄せられるという。土星の力があらゆる器官の中で特別な仕方で働いているのに気づくようになり、その働きは肝臓の中では特に強く、肺の中では比較的弱く、頭部においては最も弱くなっているという。 こうして、至る所で土星の影響を探す、という目標を意識するようになるという。 丁度、以前の段階において、瞑想を実行することにより、精神的に前進したように、土星の探求、すなわち、個々の器官の内的で精神的な構造の探求と同化することにより、木星領域へと沈潜し、あらゆる器官は、実際、神的-精神的な存在の地上における対応物である、ということに気づくようになるという。 人間は、自身の内に、神的-精神的な存在のイメージを、器官として担っているという。宇宙全体は、最初、土星領域(地球の太古の状態)の中に巨大な存在として出現したが、巨大な宇宙的存在としての人間全体が、何世代にもわたる神々の内的-有機的な共同作業の総体として現れるのが見られるという。 ちなみに、アダムというのは、土、つまり土星をも表す。アダムカドモンとは、この巨大な宇宙的存在としての人間全体を意味するようだ。 ここでも、精神的な経験をする過程で、自らを支え、保持することが可能な力によって活性化されたように、十全たる(覚醒)意識の中で、この道を追求する必要があるという。これら全ての影響は第一に胎児の段階に現れるが、その出現は一時的なものであるという。 それらの(土星)存在に気づくのは実際には容易なことだが、もし、このとき、本質的な危険に屈し、いわゆる、この(土星)領域で生じる、あらゆるものが意識から直ちに消え失せ、そのため、全く、じっくりと考える立場が確保できない、という本質的な危険に屈するならば、土星存在を記述し、その明確な印象を保持し、心的なイメージへと形づくることはできないという。 さて、近代(20世紀初頭)において、魂の探求に従事する人たちは精神を顧慮することなど、夢にも思わず、彼らは自分たちの手法、つまり、その手の想定の人を実験室に呼んでテストしながら、探求することを好み、精神的現実(神々の存在)は、人間のレベルにまで引き下げられることはなく、このような方法で、それら心霊現象を理解し、徐々に科学的な解釈に到達すると公言する場合は、精神など全く考慮することのない、その典型的な例を示すという。 以前述べた医学書に可能なのは、遥かな未来において十分に発達した科学になりえるものの最初の基本的導入を提供することだけだが、これらの事柄が、現代の精神的世界にも存在し、地上ではなく、太陽上に生きる存在たちにとって、自然な程度に応じて、ここで述べた手法で、地上的な意識の中にもたらすことができるという。 実験室における実験手段や教科書の中に見られるような抽象的な解剖学によって、精神的な洞察力を発達できる、と想像すべきではなく、全ての精神的な事柄は人間自身により、直接経験される必要がある、というのが本質的な点であるという。 では、何故そうなのか?といえば、これらの現実を、光の中にしっかりと保持可能にするのは、それらが人間の共通の努力から生じる力により、つまり、人間が地上における、以前の受肉から導き出す力によって支えられ、保持されるときのみ可能だからだという。 このことが起こるとき、土星と木星の領域の世界に火星の領域と呼ぶものが入ってくるという。それらはインスピレーションを通して現れ、そして、インスピレーション意識をもって、再び太陽へと戻るという。 これは今日の自然科学が要求するもう1つの道、前回述べた(月の)秘儀参入者たちが避けたがる道で、この道との接触に出くわすとき、彼らは落ち着きを失うが、にも関わらず、それは従うべき道であるという。 この議論から気づくが、月領域を通過する道は古い秘儀参入者たちには全く適したものだったという。この月の道に関しては、H.P.ブラバツキーの中に素晴らしい記述があり、もし、真実と作り話とを区別できれば、「シークレットドクトリン」の中には多くの重要な真実を見出すことができるという。 しかし、この道はH.P.ブラバツキーが密接に関係していた月のアストラル的な光の領域を通過する道で、そこでは気高い水星の使者が、彼女の解釈を方向づけていたという。彼女の論説を追っていくと、いかに彼女が絶えずイマジネーションを正しい源泉へと向かわせていたか、ということに気づき、ブラバツキーの素晴らしいところは、最初に彼女がイマジネーションへと促されるのを感じる瞬間、それが直ちに実現するという点で、彼女は水星の使者によって秘密の図書館へと導かれ、思考が彼女の中で形を取ると、水星の使者が、彼女をバチカンにより厳守されていた本へと導いたという。 彼女はその本を読み、もし、そうでなければ、バチカンによって何世紀もの間、用心深く厳守されたために、彼女にはアクセスできなかったような様々な情報を、彼女の著書の中に見ることができるという。この道は実際、よく通われた道であり、しっかりとした内的コントロールの下で達成される、あらゆるものとは注意深く区別されるべき道であるという。 もう1つの道は、ここで述べた経過を辿ることだが、それはH.P.ブラバツキーがペストのように嫌った現代の自然科学の方法に依存しているという。 その道は、ここで述べた手法で、つまり、カルマ的な記憶を呼び覚ますというよりは、その記憶をしっかりと保持し、記述するために人間の力をカルマ的に発達させる、という点にあり、この道は、その力とその拠り所を見出すことを十分に意識した上で歩くべき道であるという。 現代の科学は、以前、この領域におけるシュタイナーの協力者に言及したときに述べたような人間的な価値に浸透される必要があり、真の道と偽りの道の源泉を、最もよく際立たせるのは、定義を通してではなく、具体的な例を議論することによるものであるという。 つまり、人間がかつての古代の叡智をオカルトにし、一旦捨て去り、現代科学を発展させ、表舞台に立たせたのは、オカルトを秘教としてワインのように蒸留すること、そして、今度は、現代科学を、オカルトの再認識の道具として役立たせる為であることがわかる。 ただし、現代科学は、外的な対象物を定義として認識するのではなく、人間の内部の精神的な個々の経験としての認識を、幾重をも積み重ねるようにして、まるで、カルマを紡ぐように、大きく変貌を遂げる必要があるだろう。科学によりオカルトは死に、そして、科学により再び復活するのである。 そのとき、人類はかつて有していた神の認識、太古の叡智を再び取り戻すのである。それは、キリストの歩んだ茨の道の再現であり、キリストの薔薇十字の道であるといえる。実は、現代科学こそが、キリストの太古の叡智を復活させる道具といえるだろう。そのとき、アーリマンは、キリストの前に跪くといえるだろう。その道を、人類が背負っているといえる。
2007年04月10日
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もし、人間が、地上に留まりながら、霊媒やその顕現に関する実験に満足し、精神的存在との直接的な接触を持たなければ、間違った道の途上にいるという。 精神的世界の中で意識を目覚めさせることなく、例えば表面的な神秘主義のように、躓きながら手探りで進み、成果だけを求めるような、あらゆる活動は、間違った道の上にいるという。 精神的な世界への沈潜に際して、直ちに、この精神世界を、精神的現実として経験するあらゆる手法は、正しい道の上にいるという。 なので、月領域に関する内的で生きた認識は秘儀参入への道の1つの出発点で、そして、次のように言える。 太陽と月の関係において、普通は睡眠の中で経験される人間の通常の経験を、秘儀参入者は目覚めた生活の中で経験する、と。 そのとき、人間は月の影響を、まるで外的なものとして意識するようになるという。 そのとき人間は夜を昼の中に招き入れ、そして、精神の目には、夜空を見上げるときに通常見えるような星が散りばめられた夜空ではなく、水星という惑星が最初に昇ってくるのが見え、そして、もし、シュタイナーの著書「より高次の世界の認識」に記述されている指示に従って、真のイマジネーションを成長させることに成功していれば、イマジネーションの世界が、覚醒生活の間に、1つの現実として、この月領域の中に現れてくるという。 水星の影響が及ぶ領域に参入するとき、これらのイマジネーションは水星存在たちに移行し、そのとき、現実に欠けたビジョンを経験するのではなく、真のイマジネーションとしてのビジョンを知覚し、これらのイマジネーションはそれぞれ、対応する存在たちに移行するという。 なので、もし、秘儀に参入する道に沿って十分に前進していなければ、そこでは大天使に関するビジョン(領域)を持つはずだが、それは(生きたものとはならずに)単なる(静止した)ビジョンのままに留まるという。 そのビジョンが実際に大天使との接触を持ち、真の大天使がそのビジョンの中に現れるのは、人間が更なる進化段階に達している場合だけであるという。それより前の段階では、自身の内に月の光を経験したとしても、必ずしも大天使がそこにいるとは限らないという。 しかし、(秘儀参入者であれば、)大天使は現実のものとなり、こうして、我々人間の視覚世界が実際に精神を知覚する世界へと移行する中で、水星の影響を意識するようになるという。 このことは常に強調すべきことだが、これが正しい手法で達成されるのは、完全に意識的に行われるときだけに限られるという。 そして、もし、瞑想を更に追求すると同時に、自身の内的な存在を益々強化し、活性化させるならば、水星の影響に金星の影響が加えられる領域に至るという。 そして、金星の影響との接触を持つとき、つまり、金星が、昼へと招来された内的な夜の意識の中に昇るとき、イマジネーション的な光景、いわゆる真の視界を現す像として現れた存在たちが視界から失われ、空になった意識をもって、精神的な世界に直面することになるという。そこに、精神的な存在たちがいることを知るという。 そのとき、我々人間は精神的な存在たちが住む金星領域に到達し、太陽領域が近づくのを待ち受けることになるという。今までのプロセス全体が、再び太陽を経験するための準備といえるという。 この全てが生じるのは、目覚めた昼の意識を保持しながら外から太陽の影響を受けるときであるという。 ここで、既に述べられた道を月から水星(金星)、そして金星(水星)へと辿り、そして、視界が失われても、更に押し進むと、それが地球から月、水星(金星)、金星(水星)、そして、ついには太陽へと続く(進化の)道だったことがわかるという。 太陽の内的な存在へと参入し、再び太陽を、今度は精神的に眺めると、それは見たところ、捉え処がなく、はっきりとしてはいないが、自身が精神的に知覚していることを知るという。そのとき、人間は太陽の内的な存在をじっと見ているという。 乱暴な比較だが、それは次のようなことに類似しているという。遠くに何かがあるので近寄ってみると、最初はじっとしている物体だと思ったが、取り上げてみると、手に噛みついてくる。そこで、それは、静止した物体ではなく、犬であることが分かるという感じで、その精神的知覚が、内的な存在によって所有されているのに気づく、と。 この乱暴な比較により、これらの経験が現実に根ざすという事実に注意を払うことができ、地球から出発して、月の影響を通過し、水星(金星)、金星(水星)を通って、太陽を眺める段階へと至るという。そこで、それは生きた精神的存在であり、その中には、精神的な存在が現に生きている、ということに気づくという。 これが第一に辿ることが可能な道で、秘儀参入者が進歩(進化)するには、この道のどの段階においても十分な意識を保持する必要があり、そのとき、彼は正しい道の上にいて、そして、もし、人間が、いかなる方法であれ、彼の身体を離れ、意識を失い、そして、眼前で精神的な現実となった宇宙へと参入するなら、彼は間違った道の上にいる、ということが十分に明らかになる。 なので、我々は内的で精神的な知覚に向かう真の道と偽りの道との相違を内的に意識しなければならないという。 以前から、いかに様々の心霊的、或いは秘教的な団体が、時代の要請に従って、自然科学的な手法を戯画化した方法により、外的な現象を通して、精神的世界の探求を試みているかを示した。 誤解して欲しくないのが、これらの方法を愚弄しているのではなく、というのも、人間が、外的な現象の観察を通して、精神的世界の真の本性を、科学的に認識することを、熱烈に望んでいることが痛いほどわかるからであり、秘教が指摘するのは、いかに、これらの道が必然的な間違いへと導くかということ、そして、真の道の本性とはいかなるものでなければならないかということだという。 我々はいま科学の時代に生きており、これからも生きていかなければならないから、自然科学の直接的な方法による、精神的世界の探求を考える人たち、その他の純粋に精神的な道は信頼に足るものではないと考える人たちがいることはよく理解できる。 そして、彼らは、一方では、通常の世界があり、その中で生きる人々、社会生活が要求するものを満たし、この社会生活との関係で考え、行動する人々がいるという結論に達するが、そこには何も特別なものはなく、それはごく通常に受け入れられる生き方であり、そして、科学的な探求の分野では外的な現象、すなわち熱、光、電気、磁気等々が問題になる。 しかし他方において、人生において、普通ではない状況が生じ、人間は自動筆記を行い、催眠術や誘導の影響下で様々の行為を遂行することもある。彼らはこの方法で通常の世界の中に見知らぬ世界が現れるのではないかと疑い、これらの外的な兆候や普通でない(特殊)現象を説明しようとする。 通常のニュースは無線(電波)で伝えられる一方、彼らは、どのようにしてニューヨークにいる人の考えや経験がテレパシーによってヨーロッパに住むその人と魂的に親和性のある友人に伝えられるかを説明しようとする。 この種の現象に関しては無数の例を引き合いに出し、自然科学の統計的な方法によって研究することができるが、この道はいかなるゴールにも、最終的な理解にも導かないという。 何故なら、精神世界の中に求めるべき人間の方向づけ、必要とされる精神的な方向づけを欠いているからだという。 これらの心霊研究現象の全ては、それらがどれほど素晴らしくても、外的な世界における雑多な現象の寄せ集めのように見えるという。 心霊研究に関する認識や理解に到達することはできない。それらを記録し、途方もないものとみなし、精神世界に関する仮説を打ち立てるが、それは無意味であるという。何故なら、それら心霊現象自体が、その源泉を精神世界の中に有し、精神世界の存在が、その真の本性を簡単に漏らすことはないからだという。つまり、これらの方法では、精神世界は、永遠に隠された(オカルト)存在のものとなる。 なので、我々人間が、いかに霊媒や科学的な事実に取り組んでも、精神的な世界は、いつでも我々人間と共にあるにも関わらず、その真の本質が明かされることはないという。だからこそ、超常現象のようなものは、迷信や、単なる思い込みで、我々の時代では、非科学的なレッテルを貼られ、無視され、隠された(オカルト)ものになる。 オカルト(永遠に隠された)という言葉そのものがそれを如実に表しているのである。これが秘教が、隠される(オカルト)べき教えという意味の真髄でもある。 この関連で、以前触れたシュタイナーとベークマン博士の人智学の研究を思い起こしてみると、これら心霊現象を正確に記述しようとする試みがなされているという。 夢の内的生活に光を投げかける別の探求の道については既に述べたが、丁度それと同じく、この探求方法も精神的な洞察力なしには成立しないという。その探求は、探求すべき現象が、精神世界におけるそれらの対応物に直接関係づける手法でなされるという。 しかし、これらの心霊現象は、ここで、丁度述べた手法で、外界において出会う個々の奇跡的な出来事とは全く関係がなく、これら心霊現象が属す領域とは、医学や解剖学、生理学の訓練を受け、人間の器官(肺、肝臓、或いはその他の器官)の外的な形態に関する知覚が、これらの器官のイマジネーション的な理解に向けて変容を遂げ、徐々に人間の有機体をイマジネーションにおいて見ることができるようになり始めた人によって知覚される領域のことであるという。 なので、この知覚が可能になるのは、自然における通常の外的な現象ではなく、異常な(病的)現象と同様な仕方で作用する人間の器官に関して、研究が可能なときであるという。 つまり、それが可能になるのは、当初の人間的、科学的、解剖学的な認識を、人間の有機体を形成する精神的な洞察力に変容させる立場にあるときであるという。
2007年04月09日
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秘儀参入の意識が目覚めるとき、外的な目(視覚)と外的な事物の認識にとって、昼間は昼間だが、この昼の間に、煌く月の精神的な光が辺りに浸透し、照らし始めるという。そして、精神が輝き始めるという。 このようにして、人間は内的な努力によって昼の意識の中に夜の意識を持ち込むことを悟るという。このことが、しっかりとした(覚醒)意識の中で、丁度、他の活動が昼の間に意識的に遂行されるように、生じるとき、つまり、この寝ずの番をする人間が、夜の月の活動を昼間の目覚めた経験へともたらすことができるとき、彼は正しい道を歩むという。 もし、彼が、十分に意識的でないままに、何者かが自分の中に入り込むのを許し、それによって夜の経験が、自身の内的な惰性から、昼の意識の中に生じるようになるなら、彼は、結局は霊媒主義につながる間違った道の上にいる自分を見つけることになるという。 なので、本質的なのは、十分に意識的であると同時に、経験を十分にコントロールすべきである、という点であるという。現象や経験そのものよりも、それらにどのように反応するかが決定的な要素であるという。もし、通常の夢遊病者が、屋根の天辺に登っているときに、十分な(覚醒)意識を発達させることができれば、その瞬間、秘儀参入を経験するという。 もし、我々が夢遊病者に向かって目を覚ますように叫ぶなら、彼は地面の上に落ちてくるが、それは彼が、この覚醒意識を成長発達させるのに失敗しているからで、もし、彼が、落ちる代わり、十分に覚醒意識を発達させ、この状態の維持ができたならば、彼はそのとき秘儀参入者になるという。 秘儀に参入する意識がなすべきこととは、夢遊病者の中で病理的に発達させられるものを健全な、あらゆる面で健全な道筋に沿って発達させることだという。 このように、精神世界においては、真実と偽りとの差が紙一重であることが分かる。物理世界においては、真実と偽りとを区別するのは困難ではなく、なぜなら、常識に訴え、経験を積むことで可能になるからで、これは精神世界に参入する瞬間、(通常の覚醒意識を失うにつれ、)この区別をつけるのが極端に困難になるからであるという。 これは自制と内的な認識に左右されるという。更に言えば、人間が昼間に、夜の意識を目覚めさせるとき、月の光は外的放射の性格を徐々に失い、その経験は、どちらかというと外的ではなく、内的な心地のよさ、というような一般的感覚をもたらすという。しかし、同時に何か別種のものも意識するようになり、素晴らしく輝く水星の光が、この精神的な夜の空を照らし出すという。 水星という惑星が、昼の中へと誘われた、この夜の意識の中に本当に昇るが、それは物理的な水星ではないという。何故なら、そこに、何か生命の存在に気づくからだという。我々は、水星の居住者である生きた精神的存在たちを直ぐに意識することはできないが、水星のその出現方法から、自分が精神的な世界と関係しているという一般的な印象を抱くという。 精神的な月の光が、自身の内で、生命を与える普遍的な賦活力、人間の一翼を担う賦活力になるとき、水星という精神的な惑星が昼の意識の中へと誘われた夜の意識の中に徐々に昇ってくるという。 水星は煌く黄昏の中から現れ、そこから浮かび上がるのは、水星の神的存在と呼ぶべき存在であるという。我々人間はその存在を絶対的に必要とし、その理由は、もし、その存在がいなかったならば、混乱が始まるからだという。 第一に、我々人間は、この存在、つまり、水星に属する存在を、精神的世界の中に見出す必要があるという。この神的な存在(水星)の意識を通して、自身の中で目覚めさせられる「第二の人間」を意のままにコントロールすることができるようになるという。 そのとき、もはや夢遊病者のように躓きながら当てども無く道を行くのではなく、神の使者である水星の導きの手により、精神世界へと続く明白に規定された道に沿って導かれることが可能になるという。 ちなみに、仏陀は水(金)星人と呼ばれている。 なので、もし、精神世界への真の道を見出すなら、まず、我々人間を導き、方向づけに役立つ、ある明確な経験を通過する必要があるという。通常ありふれた神秘家は内面(内側)を見、彼は内省を通して、神や宇宙、天使や悪魔が調合された感情の発酵体を生じさせるが、その内省が行き着く先は、せいぜい通常の夢の状態であるという。 そこでは、それらが性的な局面から来たのか、或いは知的な局面から来たのかを告げることはできないので、その経験は一般に混乱し、漠としたものとなるという。これは夢を照らし出さない漠然とした雲のような神秘主義であり、秘儀参入者だけが理解できることから、混乱をより深刻なものにする神秘主義といえるという。 そのような経験は、シエナのカトリーヌやその他の人々により記述され、非常な驚きと詩情に満ちたものになったが、それを理解できるのは秘儀参入者だけで、何故なら、経験の真に知ることが可能なのは秘儀参入者だけだからだという。 なので、もし、我々人間が、計算や、幾何学を研究するときと同様の、明晰で明白な意識をもって秘儀参入を求めるなら、つまり、もし、これらの事柄に十全なる意識をもって沈潜するならば、正しい道の上にいるといえる。内的な月の夜の、外的な昼の中への招来を実現することのみにより、真の精神世界を発見することができるという。 丁度、月や水星が、外的空間の中に昇るのは現実であり、夢のような幻想ではないことを否定できないように、十全なる意識をもって精神的世界に入ると同時に、丁度この地上で人間に出会うように、精神的な存在たちに、そこで出会うとき、その世界もまた同様に現実的な世界であり、幻想ではないことが分かるという。 精神世界の本性を意識することなく精神的な存在を求めるならば、必ず間違った道筋に沿っていくという。
2007年04月07日
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人間が昼間眠り、夜起きていたとしても、月の影響は、夜の覚醒生活においても、やはり自我とアストラル体の中で活動し、そして、また太陽の影響も流れ込むが、太陽を経験するのは、街灯から投影される光や、野宿して星を見上げるときの星の弱い光の経験としてだが、それでも、人間が睡眠間に蓄える太陽の力や、覚醒間に、内的な存在に浸透する月の力は至るところに存在するという。ただし、肉体とエーテル体に関してはその立場が逆転するという。 昼眠り、夜起きる人の場合 覚醒時 睡眠時 肉体とエーテル体 月 太陽 アストラル体と自我 月 太陽 人間は生まれてから死ぬまでの通常の(覚醒)意識を、このような生活に負っているという。では、人間がより高次の意識形態を達成するときは、この状況がどのように変化するかを考察してみる。というのは、秘儀参入者の太陽と月に対する関係は徐々に変化し、この宇宙に対する関係の変化を通して、人間は精神世界への道を見出すことになるからだという。 通常の意識状態にある人間に関して、その世界に対する関係、太陽や月に対する関係を記述する必要はなく、人間が昼の意識や夜の意識の中でどのように生きているかを思い出せば、誰でも分かる。 人間が、通常、混沌とした夢の意識との関係で、内的な魂の力を強化し始めた瞬間、つまり、この夢の意識を、現実理解の道具へと変化させることに成功した途端、彼は、起きている間に集積された月の力が自我の中に存在することに気づくという。 人間が、秘儀参入の認識を通して、実際に夢を現実に変化させる瞬間、彼は自身の中にいる第二の存在を感じ、この第二の存在の中には月領域の力が生きていることを知るという。 この秘儀参入意識の初期段階において、人間は自身の中に、月の力が存在し、その力は第一の人間の中に収められた第二の人間を、常に成長させようとしている、ということに気づくようになるが、そこで1つの衝突が起こるという。 覚醒意識ではなく、睡眠の間に、ここで述べている、この第二の人間の中で、月の力が内的に活性化し始め、この内力によって第二の人間が自然へと解き放たれるとき、つまり、彼が月の存在により夜に解き放たれ、睡眠のような受動的状態の中で、意識に目覚め始めるとき、第一の人間のなかで、つまり通常の人間の中に隠された第二の人間が月の光の中で、第一の人間を連れて辺りを彷徨い始めるという。これが眠りながら歩く人間の特徴である、いわゆる夢遊病状態の起源だという。 月が外を照らすとき、魔術的な力、いわゆる自然の力とは種類が異なる変則的な力との接触を持つ第二の人間を目覚めさせることが可能になるという。彼は辺りを彷徨い始め、減退した意識状態の中で眠りながら歩く人として、通常の(覚醒)意識とは異質の仕方で振る舞うという。 彼は、通常のベッドに横たわるのではなく、辺りを彷徨い、屋根等に登ったりするが、彼が探し求めているのは、実際には肉体の外で経験すべき領域であるという。 このことが、意識的かつ内的な経験となり、正常な道筋へと導かれるとき、秘儀参入の意識への最初の一歩を踏み出すことになるという。しかし、この場合、秘儀参入者が接触するのは実際の外的な月の影響ではなく、第二の人間の意識成長を可能にする、自身の存在中にある月の力であるという。 この第二の人間が彷徨い出るのを何としても阻止しなければならず、それが亡霊のように彷徨い出て、間違った道に沿って、うろつく危険性は常に存在しているという。この第二の人間はコントロールすべきものであるという。 この遍歴の可能性のある第二の人間が体の内に留まり、肉体と関連する正常の覚醒意識に結びついた状態で、秘儀参入の意識を獲得するためには、内的な安定と自己自制が不可欠であるという。 この第二の人間が創出したもの、強化された内的な月の本性が創出したものが、自らを解き放つのを阻止するように、絶えず努力すべきであるという。第二の人間は、新陳代謝、蠕動運動、胃やその他の器官に関係する、あらゆるものに強く引き付けられ、重く圧し掛かるという。 人間の中で、秘儀参入の意識が夜明けを迎えていることを示す最初の経験とは、人間が取るべき2つの道の内の1つの、発達(進化)へと導く道、夢の世界の意識的な認識へと導く道に従うことだという。 そして、もし人間が(そして、これは、既に指摘したように、必須のステップで)そのとき、(夢の状態の中で)意識的になるならば、彼は、外は昼間にも関わらず、自分の中に夜を担うことに気づくという。何か内的な夜のようなものが昼の間に彼の中で目覚めるという。
2007年04月05日
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太陽と月の間に横たわる夢の状態に関する意識で、この夢の意識の2つの極(覚醒意識と空虚な睡眠意識、つまり夢のない睡眠意識)に関して考えてみる。アストラル体と自我が、肉体とエーテル体から引き離された状態にある、睡眠中の人間を観察すると、彼が眠りに落ちてから目覚めるまでの間、肉体とエーテル体から、上昇する太陽の影響が、アストラル体と自我の中に注意深く保持されているのが分かるという。 人間は、起きてから眠るまでの間、太陽を外的環境として経験し、たとえ雨によりその影響が覆われているときでも、この太陽の外的環境を意識しているという。それは反射された太陽光のお陰で周囲の事物を知覚できるからだという。人間は覚醒時の生活全体を通して、外から事物を照らし出す太陽の影響に曝されているという。 眠りの状態に移行するとすぐに、太陽は、自我とアストラル体の中で輝き始め、それを精神の目で知覚し、眠ってから起きるまでの間は、太陽は我々の内部にあるという。ある種の鉱物は、光を照射されて、吸収した後、暗い部屋の中に放置されると、周りを照らすようになることはよく知られていることであろう。 これを精神的に見れば、人間の自我とアストラル体が、同様の形式に従っていることがわかるという。覚醒状態では、ある程度、外的環境の太陽光に圧倒されているが、眠ってから起きるまでの間は、太陽光が浸透することにより、輝きを発し、照らし始めるという。 要するに、起きている間、人間は外的な太陽の力の影響下に生きているが、眠っている間は、目覚めの瞬間に至るまで、自身の内に担っている太陽の力の影響下にある。人間は眠っている間、太陽を内にもち、肉体とエーテル体だけが後に残されるが、それらは自身の内に保存された太陽の光によって外から、つまり精神的世界から照らされるという。 事実、人間は保持された太陽光を、外から、皮膚に向け、或いは感覚器官に同化させることにより、自身の有機体に活気や活力溢れる成長力を供給するという。 なので、実際、眠っている間、アストラル体と自我は肉体とエーテル体の外にあり、人間は最初に自身の皮膚を照らし、そして、太陽の光を目と耳を通して神経系に振り向けるという。 睡眠の現象とは、上記の通り、太陽は人間の自我とアストラル体から輝き出して、皮膚を照らし、感覚の扉を通って人間存在へと到達するという。 そして、この睡眠間に、月の力は、新月か、満月かによらず(というのも、その影響は、月相によって多少変化するといっても、常に存在するので)、人間の肉体とエーテル体に外から侵入してくる。なので、眠っている間は、自我とアストラル体から、来る太陽による肉体とエーテル体への作用と同時に、肉体とエーテル体に対する月の作用が見られるという。 眠りの状態は、宇宙との関係で、上記のように特徴づけられ、眠っている間、人間の内的な生活は太陽と、外的な生活は月と関係づけられる。というのも、アストラル体と自我は外にあっても、実際には人間の(魂の)内的な存在であるからだという。 起きているときの生活では、この状況は逆になり、起きているときには、月の影響が、内的な存在全体に浸透する一方、太陽の影響は外から侵入するという。なので、覚醒時の生活においては、太陽の影響は直接、肉体とエーテル体に流れ込み、自身の内なる自我とアストラル体は蓄えられた月の力に左右されるという。 覚醒時の生活(外なる太陽光、内なる月光)、 睡眠時の生活(外なる月光、内なる太陽光) なので、覚醒生活の間は、肉体とエーテル体には太陽の力が外から流れ込み、自身の内的な存在には蓄えられた月の力が浸透し、睡眠間は太陽が、覚醒間は月がアストラル体と自我に居住し、覚醒間は太陽が、睡眠間は月が肉体とエーテル体に居住しているという。 覚醒時 睡眠時 肉体とエーテル体 太陽 月 アストラル体と自我 月 太陽 もし、徹夜したり、睡眠を犠牲にして次の日の二日酔いを招いたとしても、これらの影響はやはり存在するという。というのも、人間が自然の法則をあえて無視しても、自然の慣性力、宇宙的な継続性のお陰で、事象は自然の運行に従うからだという。
2007年04月04日
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前回は、精神世界への異常かつ病理的なアプローチについて、つまり、一方では、内的な理解の深化を通る正しい道で、夢の世界に、より沈潜する道について、他方では、実際には自然科学的な手法を戯画化した方法を用いて、夢遊病者や霊媒が外的に表現するものを探求する偽りの道についてまとめた。 そして、真の秘儀参入の認識を獲得するならば、これら2つの道を意図的に追求すべきであることを指摘した。今回は、この問題を更に綿密に検討すると同時に、人間の意識やその存在全体を左右する、宇宙的な影響を探求する。 人間に及ぼす影響の中では、地球の影響を除けば、太陽と月の影響が卓越している、ということは容易に分かるという。一般に、人々は、このことに関して、それほど注意を払っていないが、今日、太陽の放射がなければ、地上には何も存在し得ない、ということは科学者にとってさえも明らかな事実である。 太陽の力は植物の生命を、地球から魔法のように出現させる。その力は全ての動物の生命と人間の肉体及びエーテル体にとって必須のもので、太陽の働きは、そのつもりになって探せば、至る所に見出せ、つまり、それらは、人間存在の高次の構成体にとって、決定的に重要なものであるということがわかる。 ところが、月の影響に対しては、太陽ほどにも注意が払われておらず、月の影響が今日まで残っているとしても、よく迷信という形であり、月に関する正確な認識は、その迷信的な概念の存在により曲解されたものになっている。今日、科学分野で働く人は、自分は迷信とは無縁であると信じているので、月の影響が何らかの意義をもっているとは考えず、真剣に考えてみることもない。 けれども、月の不思議な力が詩的なイマジネーションを刺激することに気づいている詩人たちや、月の光の下で熱い思いを交わす恋人たちだけでなく、それぞれ異なる方法で、地球に対する月の影響に関する予感を持つ賢者たちも、たまには存在し、そして、これは非常に教示的である、ということを証明することもできるという。 このような教示的な証明を以下の逸話を基に解説する。 19世紀中頃のドイツに、シュライデンとグスタフ・テオドール・フェヒナーという二人の教授がいた。フェヒナーは人間と自然のより幅広い領域における神秘的な影響に関する科学的探求に傾倒していた。彼はある特定の地域における降雨量が月の満ち欠けに関係することを示すデータと統計的な証拠を集め、降雨量は月の満ち欠けによって変化する、と結論づけたという。 彼は当時の科学理論に反する彼の立場を迷うことなく主張した。彼の大学の同僚であり、著名な植物学者のシュライデン教授の見解はこれとは全く異なり、彼は、フェヒナーの考えは馬鹿げたもので、月のそのような影響について語るのは全くナンセンスだ、と断言したという。 さて、二人の教授は既婚者で、当時彼らが住んでいた大学町の雰囲気は、まだ家族的なものだったという。当時、布を洗濯するのに丁度よいので、主婦たちは雨水を貯める習慣があり、月の影響を議論していたのは二人の教授だけでなく、彼らの妻たちも、またその問題の核心に迫ろうとしていたという。ある日、フェヒナー教授が妻に次のようなことを言ったという。 「シュライデン教授は降雨量が月の満ち欠けに影響されるということを信じようとしないので、貴女にはある月周期に、シュライデン教授夫人には別の月周期に雨水を集めて貰いたい。シュライデン教授は月の満ち欠けが雨水に影響することを信じていないのだから、この試みに異を唱えるはずがない」、と。 ところが、シュライデン教授夫人は、フュヒナーの説によると、降水量が少ないはずの月の周期を担当することに乗り気ではなかった!という。大学も家族も2つに分かれて、いつもの論争は続いたという。 さて、この出来事には科学的な根拠があり、人智学の方法により、これらの影響に関して調べると、単なる迷信の名残ではなく、科学的な事実として太陽と月の強力な影響に関して語ることが可能なのが分かるという。通常の(覚醒)意識をもつ現代人がこのテーマに関して知リ得る全ての事実は、これまで述べたことで、言い尽くしたといえる。 現代人はいわば地球、太陽、そして月の影響下に生き、基本的には、意識もまた、これらの天体に依存しているという。何故なら、既に指摘したように、星や太陽、そして月の、外見的な側面は決定的な要素となりえないからで、月の領域には、太古の時代に人類の教師だった存在たちが隠れ住んでいることは、既に強調した。 太陽の領域にも非常に多くの精神的な存在たちが隠れ住んでいるという。ちょうど地球が人類の宇宙的な植民地のように、全ての星はその(精神的)存在たちの植民地であるという。 秘教では、キリストは、太陽霊の存在であり、地球の人類を救うために、地球に降りてきたという。このことを、太陽側からみると、キリストは死んだことになり、このことをゾロアスターは預言し、ニーチェは、「神は死んだ」と語ることになったという。 既に指摘したように、今日の人間は、誕生から死までの間、ほとんど地球、太陽、そして月の影響だけの下に生きている。今獲得すべきものは、人間が太陽と月の影響下に生きるときの精神的、魂的、そして物理的な条件に関する、より正確な知識であるという。
2007年04月03日
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長い間、舞台上で、最大限のリアリティをもって、俳優が演じるには、どうするべきかについて、熟考されてきたという。 このテーマに関する90年代の議論は全く漫画チックなもので、例えば、シラーの登場人物たちが、英雄的な台詞を演説調に話すとき(結局、当時は自然主義が勝ちをおさめたという)、手をズボンのポケットに入れるべきかどうかという問題に関して(というのも、それが当時のファッションだったという)議論されたという。 なので、精神世界を探求する正しい道を見出すことに関しては色々な主張(理屈)があり、それが芸術の道に従うというのは、健全な部類に属する、基本方針といえるという。 最も重要なのは、月の秘儀と、それに関連する全てに浸された古代の秘儀参入学を超越することで、秘儀参入者の隠された(オカルト)認識を実り豊かにするために、自然科学の成果(自然科学による知性的世界征服までも含める)が使用可能なときにだけ達成可能な、あの魂の内的な状態を発達(進化)させることであるという。 他方、対極(逆説)的な意味において、同様に重要なのは、夢遊病者、或いは霊媒がトランス状態で、元素(精霊)存在に取り憑かれたときで、それらエクトプラズム(幽体)の形態の中で生じることを、確かめるために行われる、生半可で混乱した実験を、探求の特殊(特別)な例とすることであるという。 というのも、これら2つの道は、本来は同一のもので、いわゆる意識的な夢への探求であり、意識的な探求の基本は、自然科学が、鉱物的な側面のみにおいて知る外界の意識的な理解にあるからで、いわゆる心霊研究が提案する方法は、生半可な探求にしか過ぎないという。 科学の時代に生きる我々にとって最も重要なのは、精神的な探求のことであり(心霊研究のように科学的実験手法を用いるのではなく)、この道を追求し、夢の世界の対極にある別世界を、通常の覚醒意識を超えて、精神的に探求することにあるという。 夢遊病者や霊媒が、生じさせる現象は、通常生活では見られないもので、彼の筆記や動き、会話や味覚は普通の人間のものではない。それは、彼のアストラル体と自我が、肉体とエーテル体の外にあり、(本来の自我に)打ち捨てられ、いわば宇宙(周囲)の影響下に置かれた肉体とエーテル体であるという。 そのとき、通常の自然の働きを反映した、物理的な肉体と、エーテル体の顕現ではなく、精神的な世界から侵入するものに、我々は直面することになる。 というのも、結局、我々が霊媒に指示を出しているかどうか、或いは、霊媒が何らかの星座、天候、或いは金属の影響を、エーテル体の中に取り入れ、その影響下にあるかどうか、といったことは、(霊媒や夢遊病となってしまってはもはや)問題にならないからだという。 我々は、霊媒の乗り物が魔術的な目的のために精神的存在の用途に供されることを心に留めるべきであるという。心霊研究協会は、外的な実験により、このことを探求しようとするが、精神的存在に関する知識なしに、これらの顕現の研究は、我々人間には不可能であるという。 まずは、精神的な関連を調べる必要があるという。我々は霊媒や夢遊病者が生じさせる現象と、その背後にある精神的な基礎を観察する必要があるという。 霊媒や夢遊病者を通して示される、これら全ての現象は他の霊媒的な現象とも関連し、霊媒がトランス状態において、人間的、或いは宇宙的な影響の下で、ある行為を行うとき、つまり、(自我とアストラル体はもはや無いので)肉体やエーテル体が、そのある行為を遂行するとき、人間を病気にさせる毒植物が生じさせるプロセスと一時的に(ただし、このとき、それは別要素により決定されるが)、同様のものになるという。 霊媒的、或いは夢遊病の状態の中で示されるのは、単に外見的かつ一時的な病気の仮面に過ぎず、ある観点から言えば、霊媒や夢遊病の現象の中に観察できるのは(必ずしも観察する必要もないが、常に観察することは可能)、病気の人の中でも生じることで、それは、その人の自我とアストラル体が何らかの異常な仕方で、ある器官から、或いはその有機体全体から立ち去り、別の精神的な影響によって置き換えられていることによるという。 スウェデンボルグは、病は悪霊の憑依の結果といっているが、悪霊が病をもたらすということは、太古においては普通に認識されていたといえる。現代では、科学により、これらは迷信とされている。 太古においては、人間は、この関連に気づいていたので、秘儀は常に治療と関連していたという。そして、人々は今日ほど詮索好きではなかったので、霊媒や夢遊病者に興味を示す必要性も全く感じなかったという。 というのも、霊媒や夢遊病者の行為は、病気の状態と同じで、よく熟知されたものだったからだという。これらの出来事には医学的な観点からのアプローチがなされたが、これは我々現代人が再び獲得するべき立場であるという。 霊媒や夢遊病者が、一種の病気の状態と同じという太古の観点からいえば、病気の要因は、自我の意志薄弱にあるといえる。つまり、他者に依存したり、他者に取り入ったり、寄生したりといった優柔不断な日頃の態度が、病の要因となる。キリスト風にいうなら、愛の足りなさが病の要因となる。 ちなみに、秘教によると、皮膚を美しくするのは、起きているときに、どれだけ道徳的行為を成し、他者に奉仕したかにあるという。それは、他者に奉仕した愛情が、寝ているときに、霊的太陽となって、外から、肉体を蘇生させるからだという。 よく女優や俳優が美しくなるのも、確かに日頃のケアもあるだろうが、美を提供することで他者に奉仕する行為が、美をよりよく存立させているともいえる。 そして、自然現象を通じ、自然科学の手法を用いて、生半可な方法で精神的存在にアプローチする、もう1つの道も正しい方法で追求されるべきであるという。全ての現象、特に人間や動物の病理的な状態を通して表現されるものは、正しい見通しの下に再び見直される必要があるという。そのとき、はじめて、我々は、心霊研究協会が探求を望むような現象を調査できる位置に立つという。 そして、この研究分野は(シュタイナーが創設した)人智学協会によって開かれ、病理的な現象の研究に際して、精神世界への扉が開かれるような方法で、精神的(霊的)な存在の、探求が可能になったという。 太古のこの認識が可能になったのは、イタ・ベークマン博士とシュタイナーが、この研究分野を、心霊研究からは無視されてきた正しい道筋に沿って発展するように努力してきたからであり、イタ・ベークマンが、有能な医者としての知識だけでなく、医療上の所見から精神的な洞察へ、そして、そこから真の治療へと直接導く、先験的な治療の才能をもっていたからだという。 ホメオパシーの原理による、治癒の手法もここから発展したという。ホメオパシーはハーネマンにより提唱された。現代医療は、アロパシーが主流だが、シュタイナーによると、アロパシーは、ホメオパシーの別観点にすぎないという。 アロパシーは病原の除去が主題だが、ホメオパシーでは、病原は、本来のもので、病気は、自然がもつバランス(健常は病原が抑制された状態、つまり弱毒化された状態)が崩れ、偏向し、特殊な状態が表に現れたものであると考えるので、アロパシーの病原の除去は、ホメオパシーのポテンシャライズ(希釈化)に相当するという。 つまり、アロパシーも、潜在的にホメオパシーを行っているという。 このホメオパシーの観点からいうと、健康というのは、宇宙の進化状態に適う人間存在の進化状態のことを指す。人間はアダムカドモンより生まれたが、再びアダムカドモンに戻っていくような円環の過程に沿うことを意味する。現代の求められる健康状態とは、霊我を開発することであり、霊我とは、利己心を抑え、理性を高め、自我によりアストラル体を浄化することに当たる。霊我を完成したとき、人間は病気に罹らない健康体になるという。 では、遺伝的な病気はどうなのか?という問いが持ち上がるだろうが、その答えこそ、魂を前提にして考える必要がある問題である。つまりは、今生の病気との闘いとその克服が、魂をより一段輝かせるものとなるという。 より魂を輝かせ、霊我を開発させるために、必然的に遺伝的な病気に罹る人生を自主的に選択してこの世に生まれてくるという。このような非情ともいえる遺伝的な病気の克服のみにその人生は費やされるだろうが、だからこそ、大きな学び、しいては魂の輝きが得られるといえる。人生全てをかけて深刻な病と闘うというのは、その人自身のみではなく、人類全てへの病に対する希望や、克服法に光を点ずるものともいえる。 これとは、逆の他者の健康を犯すものや、他者への妬むや嫉み等、生活を奪うもの、その根本は他者を欺き、嘘をつくことだが、これらは死んでも猶、その思いは残り、悪霊となって、生きている他者の病気の要因となるという。このような悪霊が多くなると、この世では感染症が多発するようになるという。 なので、ここに存在するのは、これまで示してきた領域の探求のために従うべき道であるという。自らの努力により、探求自体が秘儀参入の自然科学とでもいうべき、真正な秘儀の医療を発展させるべきであるという。こうして多くの偽りの道と、明白に区別される真の道が全ての人に示され、ベークマン博士とシュタイナーが書いた著書の最初の章に、最初の一歩が示されたという。 この関連で、指摘すべきことは、真の道と偽りの道との相違は、例を挙げることにより最もよく示されることだという。 以前、精神の領域を再び自然科学の領域に結びつける芸術への道が見出される必要があることを述べた。そして、今付け加えるべきものは、自然現象に関する探求と関連する正しい道、いわゆる人智学の道を先ず初めに探求してから、芸術に向かう正しい道を見出すことが可能になるということで、それが、現代文明のおかれた状況から、本質的なことであるという。 というのも、人類は特に病理現象の発生の中に見られる精神的存在の活動を確信できてはじめて、つまり、精神が物質の中で作用し、自らを現すことに関する明白な証拠があるときにはじめて、芸術の中に、精神が活発に浸透することを納得するが、今日、芸術分野において、人類は、いま述べた橋を架けるのとは、全く程遠いところにいるからだという。 人類が、精神を直接、世界に提示することが可能なのは、芸術作品の形としてであるという考えに、心からの情熱を存分にかき立てることが可能になるのは、恐らく、自然界における精神の活動に気づくようになるときだけであるという。 ちなみに、シュタイナーは、これらを治療芸術と呼んでいる。 次回はこれらの事柄についてもう少し述べる。
2007年04月02日
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