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詳しく話しを聞くと、その中学校はこの数年間微妙に荒れていたとのことでした。特にこの年の3年生が1年生2年生だった頃、それが激しかったらしいのです。それまでにそれとなくそんな噂は聞いていましたが、詳しい内容を聞くのははじめてでした。その話を聞かせてくれた男性は「あの3年生は腕ずくで言う事を聞かせるしかないと思っていた」とも言っていました。しかしそのとき私は生徒を本当に物理的に力で押さえ込んだり叩き伏せたりはしていませんでした。自分の道徳の授業の成果の一つかな!と思った瞬間でした。そしてまた彼の話は私に大きな事実を気付かせたのです。
2012.08.29
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「ゴマ先生は今の3年生を押さえ込んでるらしいですね。やっぱり腕っぷしですか?」そう声をかけてきたのはその地域の50歳台の男性でした。彼のお子さんはすでに社会人なので詳しいことは分からないが、中学校の様子を「かぜのうわさ」で耳にしていたとのことでした。「先生みたいながっちりした体育の先生がきてくれたから、あの悪い3年生もおとなしくなったって訳ですな!」と彼の言葉は続きました。「あの、、、私の担当は英語なんですが、、、。」と言っても信じてもらえませんでした。まあそれはともかく、彼は2年生の誰かから「新任の1年生担任が3年生男子を押さえ込んでいるから去年と違って学校が平和なんです。」と聞かされていたらしいのです。前にも紹介しましたがその中学校はどの学年も1クラスしか無かったので、1年生の担任といえば確かに私しかいませんでした。
2012.08.28
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私がはじめて教壇に立つと同時に担任した1年生。彼らが入学して2ヶ月少しで起きた体育館でのいじめ事件。それをきっかけに道徳の授業のあるべき姿を模索し出して、『本気の道徳の授業』の手ががりをつかんだのは夏休み直前だったと記憶しています。そしてその道徳の授業が軌道に乗りだしたのが10月はじめから中ごろ。3年生や2年生が私の道徳の授業の内容に興味を持ち出したのは、もうかなり寒くなってきた時期でした。その年の年末に教員とPTAそして地域の人たちとの懇親会があったのですが、そのときに私は地域の人の1人から思いがけない言葉を聞くことになりました。
2012.08.26
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またしばらくした後には2年生からも私の道徳の授業の内容についての質問がありましたが、私は3年生にも2年生にも何も話しませんでした。「今は英語の授業であって道徳の授業とちゃうから!申し訳ないね~」なんていいながらはぐらかしていました。が、そのうち英語の授業の中で、道徳教育をする術を身につけるのでした。勿論英語の授業の時間を割いて道徳の授業をするわけではありません!私が常日頃言っている『「英語を教える」のではなく「英語で何を教えるのか」が重要である。』との原点はここにあります。それは何も特別なことではありません。私がそれまで出会ってきた偉大な教師たちもそうしてくれていたのですから!!今、この能力を有する教師が、いや大人が必要とされているのです!!!
2012.08.25
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私の道徳の授業の内容が3年生に届くには何種類かのルートがありました。その中でまず私が気付いたのは[兄弟姉妹ルート]です。私が担任する1年のクラスには数名3年生に兄や姉がいる者がいました。その生徒が家に帰って「今日道徳の授業でゴマ先生がこう言ってた。」とその内容を兄や姉に話していたのです。ある日3年生の1人が私と廊下ですれ違うときに「先生、1年の道徳の授業でこんなん言うたんやろ!」と聞いてきたのです。私はその瞬間「なるほど!こういう伝わり方があるんやな!」と思いました。その後は同じようなことが何回かありましたが、そのうち私が3年生のクラスに授業にいくとストレートに「先生、最近の道徳の授業ではどんな話したん?」なんて聞かれるようにまでなりました。
2012.08.24
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そうやって私なりに『本気の道徳の授業』を続けた結果クラスの様々な生徒に様々な変化がありました。中には生徒間の人間関係を良くするものではない変化もありました。しかしそれを恐れていては、『本気の道徳の授業』とは言えません!人間が複数集まればトラブルは起こるもので、ましてや成長過程の中学生の集団です。様々なトラブルが当然かのように起こります。でもそのトラブルが起こったときに可能な限り生徒自身が自力で解決方向にもっいく能力もまた道徳の授業で身につけていくものだということも分かりました。そして私の気付かないうちに、私が担任している1年生のクラスで実施した道徳の授業が、3年生の波及していくのでした。
2012.08.23
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その道徳の授業のあとから、以前にも増して他の先生から「ゴマ先生のクラスは授業がしやすい」と言ってもらえるようになりました。その頃私はクラスに欠席があった日の授業の空き時間(授業の無い時間)には、欠席している生徒の席について授業を受けていました。自分でもその道徳の授業からクラスの授業中の雰囲気が徐々に変わっていった気がします。もっとも自分自身の英語の授業の雰囲気には何ら変化が感じられなかったのはなんでかな?と今だに疑問を抱いていますが、、、。特に体育担当の先生に「本当に雰囲気が変わった。何の競技をさせてもみんながそれぞれ楽しんでる。」と絶賛してもらいました。それはBの言動の変化が大きな原因であることは体育の先生も私も肌で感じていた事実でした。
2012.08.22
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その授業で私はクラスの生徒たちにしつこく問いかけました。「今回の内容どう思う?、、、そう聞かれたら、だいたい今まで自分が何かで見下された経験を思い出そうとするやろ!違うねん。悔しい思いや辛い思いをさせられたことは人間よく覚えてるから、そんなこと今は話し合ってもキズのなめあいになるだけやで。俺がみんなに聞きたいのは『今まで誰かを見下したことはないか?』ってことや!!!いつも言うてる通り、自分の悪い部分・負の部分・闇の部分にちゃんと勇気をもって目を向けないで『道徳』なんて身につくはずはないぞ。それぞれ自分で考えてみ!自分が得意なことって何や?その得意なことをしているときに、今まで回りの友達をどういう目で見てきた?」そういったことを言いながら、私は生徒自身に今までの自分のおこなってきた言動を思い出させました。
2012.08.21
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そんなときに偶然私が『道徳の授業の題材は「あ~ええ話やった」で終らせない!』という姿勢に火をつけた授業を打ちました!例えば題材の中にざっくり言って『良い人』と『悪い人』が出てくるとします。そのいわゆる『悪い人』をとことん取り上げ掘り下げ「ホンマに自分の中にこの『悪い人』と同じ要素がないのか!!」を、かなり厳しく生徒達に訴えかけるのです。『良い人』だけを取り上げる、または『良い人』について考える時間の方を多く取ると、自分は『良い人』側にいるような錯覚を起してしまい、自らに何の問いかけもしないで終るのです。このときの私の道徳の授業は、、、、、「あ~ええ話」やったで終る本の読み方は卑怯な読み方!!そんな奴はろくな大人にならんし、そんな大人の言う事なんか聞くことない!!、、、と生徒たちに日頃から言い聞かせるまでに至っていましたが、、、本題に戻します。このときの道徳の授業の題材の中で、自分の得意なことを鼻にかけて友人を見下すような人物が出てきたのです。
2012.08.20
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もう1つの例は、運動の得意な生徒の1人です。仮にBとさせてもらいます。Bはその運動能力のゆえ、昼休みなんかは上級生に混じってバレーボールやバスケットボール、ときにはグランドでサッカーをする機会が多い生徒でした。そんなBには体育の時間等同級生とスポーツするときにいつも心の葛藤があったのです。自分と同じレベルで運動できる友人が少ないため、自分がどんなに頑張っても友人のミスで負けてしまったり、友人が自分のプレーの足を引っ張ったりすることが嫌だったのです。でも、友人を責めるわけにもいかない葛藤に耐え続けていたのですが、ときにその気持ちが爆発してしまい、問題発言や問題行動を起すのでした。
2012.08.17
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Aの戦い、というか自己改革は1ヶ月もしないうちに小さな成果が出始めました。本当に徐々にではありますが、Aが学校で孤独にしている場面が少なくなってきたのでした。Aがクラスで中心的な存在の1人だっただけに、Aのまわりに友達が集まるようになったことでクラスの雰囲気もよくなってきたのでした。実際その頃から他の先生達に「最近ゴマ先生のクラスの授業しやすいです」と言われるようになりました。また中にはAの変化に気付く者もいて、自分もクラスの雰囲気をよくするために何かできないかと考えた上での行為ではないかと思える言動も増えてきたのでした。
2012.08.16
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翌日からAは、いきなりではなく徐々にクラスでの自身のあり方を変化させようとしていました。そして自分をどう変化させるべきか、Aはクラスの雰囲気をよく観察しはじめていたようにも感じました。またその姿を観察する私にもそれまで気付いていなかったことが分かるようになったのです。クラスで中心的存在だと思っていたAが、学校で結構孤独にしている場面があるのです。それは見ようによっては、クラスのほとんどがAを中心的存在に持ち上げて機嫌を取っていて、結局はAと少し距離を保っているかのようでもあったのです。おそらくAはその距離感を敏感に察知していて、ある道徳の授業をきっかけにその原因が今までの自分自身の言動にある思った、、、あるいは気付いたのでしょう。
2012.08.14
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私がAを弁護することもなく励ますこともなく「どうするつもりや!」といった内容の言葉を投げかけたのは、Aの言葉に責任を持たせたかったからです。これが『本気の道徳』であり『心に傷を負う事を恐れない道徳』だと感じたのです。またある意味そこは教師といえども他人がどうこうできない領域で、生徒自身の心の強さというか心の自然治癒力を信じきるしか手段はないようにも感じました。そしてこのとき私にできることは、Aのその後のクラスの友人にたいする『態度』の変化を誰が気付かずとも私が気付くことだけであることも感じました。そしてその翌日からAの心の戦いが始まるのでした。
2012.08.13
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そんなAに私は言って聞かせました。「お前がそう言うなら、間違いなくお前は友達を傷つけてきたんやわ!しかもそれに気付いたんなら黙ってそのままにしとくのは人間としてダメな行為やわな。どうするつもり?」そのときは沈黙していたAでしたが、10日ほどたって本人なりの結論が出たのでした。「言葉やなくて、態度で示すしかないと思う」と私に言ってきたのでした。「その態度が理解されんでも続けるか?」「その態度が理解させれも受け入れてもらえんかも知れんぞ!それでも続けるか?」「お前は何年間も友達を傷つけてきたんやろ!その態度を受け入れてもらえるまで何年もかかるかも知れんけど、それでも続けるか?」私は矢継ぎ早にAを言葉で責めたてましたが、黙ったまま何回も首を立てに振っていました。
2012.08.12
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生徒達にどのような葛藤を生んだか!いくつかの例を手短に紹介しましょう。まずはそのクラスの中心的存在だった生徒の1人、、、仮にAと呼びましょう。以前にも紹介した通りこの学校は1学年1クラスなので、幼稚園の頃から同じクラスのメンバーで8年間過ごしてきていました。Aは、「自分が中心的な立場にあるために、ある意味その立場に居たかったために、今まで他の友人を踏み台にして傷つけてきたのではないか」との葛藤を心に抱きはじめたのでした。「そんなことないんちゃうかい!」という私に「ゴマ先生は自分たちのほんの数ヶ月のことしか知らんけど、ここで生まれてからずっといろんなことがあった。先生には分からんこともある!」と返してくるのでした。
2012.08.11
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そんな道徳の授業で自分の心が少しえぐられ傷つけられる。また心が少しえぐられ傷つく友人の姿を見る。それをすこしずつ繰り返していくと、心に傷を負った人間をあざ笑う者はいなくなり、心に傷を負った人間をいたわる者が現れる。いたわられた者はその暖かさを知り、人の心を傷つけない配慮ができるようになる。これらのサイクルは何も特別なことではなく集団の中で生きている人間がごくごく当たり前に経験することなのですが、、、、ともかく当時の私の担任した1年生のクラスには、このサイクルが発生しはじめました。そしてこのサイクルは生徒たちの心に様々な葛藤を強いることにもなるのでした。
2012.08.10
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ある物語の登場人物の台詞にこういうのがあります。「人の痛みは、その痛みを知る者でないと理解することはできない」『本気の道徳の授業』はきれいごとは存在しません。ゆえに以前にも述べたように、人の心をえぐります。えぐられた心は傷つきます。それが『心の痛み』を生むのだと思います。そしていつかそれと同じ痛みを背負った人間に真心で接することができるのでしょう。その私が担任した1年生のクラスは、その後はやり様々な問題と直面しました。その都度当事者と、嘘・隠蔽・きれいごと・保身等は一切用いず、本気で向き合いました。必要であれば、道徳の時間・学活の時間・朝夕のホームルーム・ときには自分の英語の時間を裂いてクラスに問題提起をし続けたのです。
2012.08.09
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ここまでの私の結論として、、、『道徳の授業』とは、やはり『本気の授業』でないといけないのです!生徒も先生も、その発言に自分の人生をかけなければならないのです。そこは、ごまかし、嘘、隠蔽、きれいごと、保身等は一切通用しない世界でないと意味がないのです。たとえばこの話題の発端となった「いじめ問題」。どの先生も「いじめはいけません。」と日頃言っているはずです。しかし!!その言葉が、嘘であったり、きれいごとであったりするから、生徒はそれを察知していじめに走ることが可能になってくるのです。その言葉が、自分の「教師と言う立場を守るための保身」から発せられた言葉であったりするから、教師の威厳は地に落ち、平気で先生の目の前でいじめを実行する生徒が出てくるのです。そんな言葉を吐いているくせに、いざいじめの現場に直面したとき、見て見ないふり(隠蔽)をしたり、「あれは遊んでいただけだ」とごまかしたりするから、平気でいじめに走る生徒が有利な立場になるのです。
2012.08.07
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その道徳の授業では先生である私自身がやり玉にあげられることもありました。もちろん私も生徒達同様に言い訳をせず、その言葉を真摯に受け止め、反省します。その反省がどれだけ本気かは、その後の学校生活における私自身の言動でしか示すことはできません。そんな道徳の授業を繰り返すとみんながみんな日頃の生活上で人間としての何らかの課題を持つことになりました。しかしそれでクラスがピリピリすることもギクシャクすることも無く、反対に連帯感のようなものが芽生えてきたのです。今思い起すと、6月中頃のあの体育館での事件が起きた年の秋頃にはクラスのほとんどが人間的に大きく成長したような感が気がします。また私自身も「道徳とは何だろう」という疑問に、自分なりの答えとまでは言えずとも方向性は見い出せたように思います。
2012.08.02
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例えば私が担当している英語の時間、、、、。「この英文を日本語に訳したらどんな感じの意味になると思う?」と私に問いかけられて指名されたとします。それに答えたことろで指名された生徒の人間性をえぐり出すことは少ないでしょう!しかし道徳の時間に「この人物の行動についてどう思う?」と問われた場合、その答えはその生徒の人間性をえぐり出してしまうことがあるのです。またその人間性は自分の日頃の言動に裏づけられていることも、生徒達は敏感に感じてくるのでした。それでも私は道徳の授業で生徒達に意見や考えを求めるのです。意見を聞くだけ聞いてなにのまとめもしないのです。最初は意図的ではなく単に時間が足らなかっただけなのですが、この先生がまとめない道徳の授業に生徒達の本気さが現れるのでした。
2012.08.01
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