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しばらくあれこれと思考を巡らせてはみたが突破口が見つからないまま時間が過ぎて、気づけば時計は6時を過ぎていた。「こらアカン!」と私は環境を変えることにした。鍋を出してお湯を沸かしはじめた。こういうときにインスタントやカップのラーメンの類は適さないことは、長い学生生活の経験で熟知していた。それらは手っ取り早く空腹を満たしたり身体を温めたりするにはいいが、思考を必要とする場面では役に立たないのだ。おそらく栄養面の問題だと思うが、頭が回らない。私にとってそれはパンも同様だった。ここは米の飯の出番なのだ!もちろんこんな事態は想定内で、冷蔵庫にはラップしたご飯を待機させている。そいつはレンジで加熱すれば問題ない。このときの鍋のお湯は、このご飯のお供を用意するためのものだ。ご飯と同様に冷蔵庫に待機させているレトルト・チキンハンバーグを温めるためのお湯だった。近くのスーパーで3袋が赤いテープで1セットになっているものが158円(当時まだギリギリ消費税は無い)で販売されていた。つまり1回のおかず代が53円弱で済むという赤貧学生の大きな味方であり、私のいろんな意味での思い出の食べ物でもあったので、私の冷蔵庫には常に装備されているウェポンであった。
2018.02.28
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ビリアードを2時間ほどプレイした後は、近くにあるファミレスで1時間ほど冷たいものを食べながらクールダウンをする。その間もずっと雑談をしながら論の構成を考える。後輩のN君は、私がレポート提出日前夜に遊びに誘うことも私のレポートの書き方も知ってくれていて、ときたま「明日の提出大丈夫ですか?」と聞いてくれるが全く問題は無い、、、というかこの時間が私のレポートを更に強化してくれるのであった。そして3時頃にファミレスを出て、4時前に帰宅!そこから私は猛然と机に向かった。これもいつのものパターンだった。1時間半ほどで原稿用紙30枚ほどを文字て埋め尽くした。レポートの条件は原稿用紙20枚以上だったが、私はいつも40~50枚を書き上げていた。このときもこの時点で45枚程度になりそうな感じがあった。ただ、5時半を過ぎて私のペンは止まった。ここまで書いた文章の流れから私の用意した結論に至るには、少し強引さが残る危険性が出てきたのだ。まあ学生の書くレポートだから、そんなに完璧なものが求められているわけではないのは重々承知之介であった。でもそこは私の変なプライドが許さなかった。どうしたものか・・・・ここで私は長考に入った・・・。
2018.02.27
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大学3年生の12月のはじめ、、、例によって私はある教授から出されたレポートの提出期限を明日に迎えていた。多くの学友たちがもう書き終えたと言っているこの日に至っても、私の原稿用紙にはまだ1文字も記されていない。そう!既に頭の中で論の構築はできている自信があったのだ。その推敲を時間ギリギリまで続けるもの毎度のことだ。この日の夜は家庭教師のアルバイトがあった。それを10時に終わらせて、後輩Nと合流する。さすがにレポート提出日の前日の夜に同じ課題を背負っている同期の友人には声をかけ辛かった。その後輩Nとはこの時期ビリアードにはまっていて、車で40分ほどの場所に移動する。まずは1階のゲームセンターで少し遊んだ後、2階にあるビリアード場に行くのが定番であり、この日も例外ではなかった。ビリアード台に向かう頃にはもう日付けが変わっていた。そしていつのもように淡々とナインボールを始める。家庭教師をしている時間も、車での移動中も、ゲームセンターでもビリアード場でも、、、ちゃんとすることはしながら、楽しむことは楽しみながら、私は頭の中でレポートの論を構築していく。何度も何度もはじめから、論の流れに矛盾はないか、より説得力のある実例を引き出せないか、、、いろいろ考えながら時間を過ごす。
2018.02.26
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頭の中で構築した論を実際に文章化していくと、手直しをしなければならない箇所も出てくる。それがその部分だけで良いこともあるのだが、下手をすると文章全体を変えなければならない事態に陥ることもある。そんなとき私の筆は止まってしまう。今と違って当時はまだまだワープロが普及していなかった時代だ。レポートは原稿用紙に手書きだった。なので途中まで書いたレポートを最初から書き直すのは手間がかかり過ぎる。それに最初からやり直すなんて、散々時間をかけて頭の中で組み立てた構成を自ら否定してしまうようで、なんだか変なプライドがそれを許さなかったりもした。だから時間をかけてももがく!いわゆる『長考』に入るのだ。しかしその『長考』からは、ほんの簡単なひらめきでとも簡単に脱出することもできる。そのひらめきを生むものこそ「環境の変化」だった。机から離れて少し運動をしたり、全く関係のない本を読んだり、ゲームをしてみたり、食事をしたり、プラモデルを作ってみたり、風呂に入ってみたり、と、自分に変化を与える。すると「あっ!これか!?」という考えがふと浮かんで、その後は原稿用紙の20枚や30枚分はすらすら筆が進むのだ。
2018.02.25
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私のレポート作成方法は単純だった。教授からレポートの課題を出されて、提出までは1~2週間の期間があった。その与えられた期間のほとんどを推敲にあてる。必要と思われる資料や文献にも目を通すが、基本的にメモは取らずに頭に入れる。そして自分の論にいかに説得力を持たせるかを日々の生活を送りながら考える。で、実際にペンを執るのは提出日の前日の夜だ!頭の中で煮詰めた案を一気に文章化する。しかし面白いことに、頭の中にあるものを実際に文章化すると、いろんなところに修正が必要となってくる。あるいは別の考えが浮かんでくる。ここが面白くてたまらなかった。そこに人間の本質というか、人生の縮図というか、何とも言えない何かをひしひしと感じることができるからだ。いくら期間一杯の時間を使って内容を推敲しても、それはある意味机上の空論なのだ。実際に文章化するという行動を起こせば、そこには自分では気づかなかった綻びが出てくる。あれだけ考えたのに・・・と思っても、それはあくまで考えただけなのだ。私はそこに自らの愚かさを見出した。そして同様に、その愚かさを乗り越える力が人間には備わっていることも感じることができた。その証拠に毎回様々な紆余曲折を乗り越えて、翌日の朝には満足いく内容のレポートが完成するのだった。そしてその紆余曲折を乗り越えるために、「環境を変える」ことが私には必要不可欠だった。
2018.02.24
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しかし私のレポートは季節によってその完成度に大きな開きが出てしまう。そう、夏場は戦闘意欲がほとんど無くなってしまうのだ。雪国育ちの私にとっては十二分に南国である四国の夏は過酷だった。それに貧乏学生故のエアコン無しの生活だったので、夏場は自分のアパートでの勉強なんてできるはずがなかった。なので夏場は勉強やレポート作成は大学の図書館で取り組んだ。勉強や調べものだけであれば図書缶は勿論最高の環境なのだが、レポートとなるとちょっと具合が異なった。私的にいえば「環境を変えられない」のだ。全く同じ環境で文章を書くと、その内容や流れにバリエーションが乏しくなり文章全体が単調になってしまう癖が私にはあった。なので夏場のレポートにはいつも苦戦を強いられた。その苦戦の割にはイマイチの内容のものしか出来上がらないのでフラストレーションもたまった。
2018.02.23
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23歳の私は大学3年生になっていた。高校卒業後1年半働きさらに1年半の浪人を経て、21歳でどうにかこうにか大学生になった。3年ぶりの学生という立場は私にとって新鮮であった。働いていた時代に勉強したいものが明確になった私はその分野を学ぶことができる学部に入学できた。そして通える学校があることの有難みもあって、入学してからいきなり勉強に没頭した。また同学部の級友にも恵まれた。私の学部の同期メンバーは世間でいう浮かれた学生ではなく、仲は良かったが節度を持って学生生活を送る者がほとんどだった。なので飲み会だのコンパだのと時間を無駄に浪費することもなく、本当に有意義な学生生活を送ってくることができた。それも3年生となると授業も専門性に拍車がかかって、より深いことを教わることができた。そして試験や課題もその知識を用いて自分の考えを述べるレポートを作成する機会が増えてくる。私はそのレポ―ト作成に毎回全力を注いだ!自分が思い描いた通りの、ときにはそれ以上の文章が完成するときの達成感や、講義で得た知識を自分で組み合わせて仮説をた立ててそれを検証していく作業の充実感を味わうことができるからだった。
2018.02.22
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おそらく、誰かが、、、あの頃のこの界隈で生活をしていた誰かが、このベンチを残してくれ!と頼んだのだろう。そして同じくあの頃を知っている者がここに来た時には、間違いなくこのベンチに座って、もう戻ってこないあの頃を懐かしむのだろう。そしてまた、私もその一人なのである。私はこの古ぼけた青いベンチにお願いした。I先輩が、I先輩のお母さんが、駄菓子屋のおばちゃんが、まーちゃんが、まーちゃんのお母さんが、あの悪ガキ共が、中坊の小ヤンキー共が、このベンチに座りに来たら、、、ゴマはこの地を離れるが、あの頃のことを、あの頃に出会った皆への感謝を忘れずに生きていると。そう伝えてくれるようにお願いした。お願いだけではいけない。自分も決意した。これからの人生を、あの頃のみんなに常に顔向けできるように生きていく!それが唯一の恩返しだと思った。そしてもうひとつ。今一度あの冷えたチキンハンバーグの味を胸に刻み付ける。つまり、今後私の前に第二・第三のまーちゃんが現れたとき、彼あるいは彼女を笑顔にできる人間であることを、ベンチに誓った。
2018.02.11
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おそらく、この青いベンチは様々な、本当に様々な人たちと、その人生や生き様を見守ってきたのだろう。あの古ぼけた路地裏の街角には、人が人を想う気持ちであふれていた。そしてほんの一瞬ではあったが、間違いなく私もその中に加わらせてもらっていた時期があった。その時は何も感じていなかった。いや、正確には多少の煩わしささえ感じていた。トランペットの技術さえ教わればよかったし、レコードさえ借りれればよかった。それに付随して発生する人との付き合いを最初は面倒くさいと思っていた。それなのに今はどうだ。あの頃がこんなに懐かしく、有り難く感じているではないか。失ってはじめてその有難さに気付く。失わないとその有難さに気付かない。そんな自らの情けなさを嫌というほど思い知るのにこの辺りの景色は充分過ぎるほど変化してしまっていた。また、そんな全く変わってしまった景色の中に、一人だけ残されてあの頃の面影を唯一保ってきたこの古ぼけた青いベンチが愛(いと)おしくてたまらなくもあった。
2018.02.10
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その公園の入り口付近から、砂場、ブランコ、ジャングルジムがあった。それらの奥で公園の隅に、おそらく人があまり立ち入らないのだろう、、、少し草が生えた場所があった。その草の中に、唯一あの時代を知っている物がひっそりと置かれていた。そう、あの駄菓子屋の前にあった木製の青いベンチだ!日光や風雨にさらされて色あせているが間違いない!あのベンチだ。不覚にも私の目には少し涙が溢れた。今、この空間であの頃を知っているものと出会えたのだ。私は公園に入っていって、そのベンチに座った。そして手で触れてみた。あのころと違ってその感触はざらざらしていた。長い間だれにも使われなかったのだろう。それでもこのベンチはこの真新しい公園に似つかわしい古ぼけた姿で、だれにも必要とされすに尊愛し続けていてくれたのだ。「ありがとう。待っててくれてありがとう。」ベンチを触りながら、小さな声でそう言った。そしてこのベンチに座って夕暮れの空を見上げると、あの頃の出来事が本当に走馬灯のように脳裏を駆け抜けた。
2018.02.09
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表通りにあったI先輩と出会った楽器店は私が高校を卒業した翌年、店長の都合で京都に移転したのは知っていた。このときは小ぎれいな喫茶店になっていた。しかしその店先にはまだ楽器店時代の名残が少し残っていた。ドアや窓はそのままだったのだ。スタジオがあった2階は居住スペースになっているようだった。私はその喫茶店の前で少しバイクを停めて、その名残をかみしめた。そしてよく見ると、その裏通り、、、そう、先輩宅や駄菓子屋のあった通りにキレイなアパートや見慣れない工場の看板が上がっているのに少し不安になった。もしや、と思いバイクで裏通りに入ってみた。ほぼ4年ぶりだった。通りに入ってみて驚いた。道を間違えたのかと思った。そこには私の知っている光景は存在していなかった。道はきれいに舗装しなおされていて、新しい民家、アパート、そして大きな工場があり広い駐車場ができていた。先輩の家も駄菓子屋も無くなっていた。まさに自分の目を疑った。駄菓子屋があった場所には3階建てのアパートが、先輩宅のあった場所は駐車場になっていた。しばらくは呆然と立ち尽くしていたが、そのうち道行く人に話しかけてみた。私が声をかけた人達は皆ここ3年以内にこの辺りに越してきた人たちみたいで、昔のことを知っている人はいなかった。唯一1人だけ、このアパートの建っている場所には以前駄菓子屋があったらしいことを知っている人がいただけだった。その人でさえも、その駄菓子屋のおばさんの消息を知らなかった。彼女の消息が分かれば先輩とそのお母さんのことも分かるかと思い、1時間ほどいろんな人に話しかけたが、結局何の手がかりも得ることができなかった。諦めた私は以前駄菓子屋の前にあった少し広い場所にできていた公園に目をやった。何人かの子供が遊んでいた。そして私はその公園の隅にある物を見つけて「あ!」っと声をあげてしまった。
2018.02.08
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また時間があるときに先輩宅に寄ってみよう。そう思いながら日々を過ごした。またいつでも行ける!いつでも行けて、いつでも行ける距離にある、、、そんな場所に行けなくなる時が突然やってくるであろうことなど、このときの私には想像もできなかった。この時間やこの世界が永遠に存在し続けるかのような錯覚が私の中のどこかにあった。気付けばもう高校も卒業し、就職して多忙な日々を過ごしていた。この頃にはもうほとんど先輩宅やまーちゃんのことを思い出さなくなってしまっていた。しかし時々あのときの出来事が胸を過り、あれ以来顔を出していない罪悪感に苛まれることもあった。またそれ故に、さらに足を向け辛くなっていったのも事実であった。そして二十歳になった年が明けた1月末に、私はこの地を離れて四国に移り住むことが決まった。そんなある日、私はもうしなばらく訪れることがないであろう母校の高校やその近辺の懐かしい場所をバイクでまわることにした。そしてその最後にI先輩宅に寄って、あの頃のお礼としばしの別れの挨拶をしようと思った。
2018.02.06
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その内容は、あの日のお礼からはじまっていた。そして今だにまーちゃんがあの日が楽しかったと話をしていること。一緒に買ったジャンパーを大切にしていること。またあの日から母親として息子と向き合っていること。今はちゃんと仕事をしていること。朝はちゃんと子供を幼稚園に連れていっていること。仕事で幼稚園へのお迎えにはいけないが、必ずI先輩宅にいる息子を毎日迎えに行き、帰りに一緒に買い物をして一緒に夕食を作って食べていること。料理に慣れたないので、失敗したおかずであってもまーちゃんは美味しい美味しいといって喜んで食べてくれていること。そして最後に再びあの日のお礼とこれからは母親として生きていく決意が書いてあった。あの日のことは私にとっては自分自身の愚かさを露呈してしまった情けない日であった。しかしそれを忘れてしまってはいけないのだと、、、この手紙を読んでそう思えた。結果オーライという言葉もある。先輩のお母さんと駄菓子屋のおばちゃんの思惑は結果的に成功したのだ。まーちゃんは本当の意味での母親を取り戻し、あのヤンキー女も本当の意味で息子と向き合い母親となれたのだ。その現実をみれば結果オーライだという事もできるだろう。しかし私は、私だけはそうは思ってはいけない。もしも、もしも私の前に、第二・第三のまーちゃんが現れたとき、、、私は何があってもその子の親を想う心を踏みにじってはいけないのだ。それができない自分をあの冬に冷え切ったチキンハンバーグを食べ続けた頃の私が見たならば、心底落胆するだろう。それは絶対にできないし、そんなことを二度としてはいけないのだ。そう思った。
2018.02.05
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年が明けてからこの3月末まで私が顔を出さなくなったことを心配して、先輩はわざわざ会いにきてくれたのだった。休憩スペースの自販機で買った飲み物を飲みながら、久しぶりに先輩との話に花が咲いた。なんの意味もない他愛のない話であったが楽しかった。しばらくして「お前が元気そうで安心したわ。」と腰を上げた先輩は私に3通の手紙を渡した。そして「また顔出しにきてくれや。」と言って背中越しに手を振りながら去っていった。私は彼の背中に向かって、会いに来てくれたことのお礼を言った。帰りの電車内で私はそれらの手紙を読んだ。1通目は読む前から誰のものかが分かった。その封筒には大きなたどたどしい文字で「ゴマのおにいちゃんへ」と書かれていた。まーちゃんだ。そこには、あの日のお礼と、ジャンパーをまだ大切に着ていること、、、最近はお母さんと晩御飯を食べていることが書かれていた。そして最後に「またあそびにつれていってください。」と結ばれていた。2通目は、先輩のお母さんからがった。実に短い文章が書かれていた。「最近どないしてんの?元気か?また顔出しに来てや。あんまり来ぇへんかったらこっちから訪ねていくで。」、、、実にお母さんらしい手紙だった。3通目は打って変わって便せん5枚にびっしりと文字が書き込まれていた。あのヤンキー女、まーちゃんのお母さんからだった。
2018.02.04
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その日から、私の足はI先輩宅から遠のいた。もちろん楽器店のスタジオにも足が向かなかった。年が明けて資金も出来たから原付免許を取得してバイク選びに奔走していて時間が無かったといえば無かったのだが、なんだか顔を出し辛い気持ちになっていたのも事実であった。時折まーちゃんはあれからどうしているのだろうと思うこともあったが、日々の生活の中でそれを忘れようとしている自分がいた。そして春休みになった。私は地元の音楽隊の演奏会の本番を迎えていた。幕が降りた状態のステージで本番10分前のコールを聞きながらスタンバイしていると、客席の様子を伺ってきた中学生たちが「なんか客席に赤い髪の毛をした高校生がいてるで、、、」なんて情報を交換していた。この頃の高校生で赤い髪をしているヤツは、よっぽど気合いの入ったヤンキーか完全に頭がとち狂ったバカのどちらかと相場は決まっていたが、興味のない私は聞こえていないフリをして本番を迎えた。演奏が終わり幕が閉まったとき、先ほどの中学生の1人が私に話しかけてきた。「ゴマさん、客席に赤い髪した高校生が来てたんですけど、、、。そいつが演奏中ずっとゴマさんのほうばっかり見てたんです。なんかあったんですか。」「確かに歌舞伎の連獅子みたいなアホがおったな。でもそんな知り合いおらへんわ。」とそのときは言ったが、帰りの準備をしていると我々の控室にその連獅子がやってきた。一瞬皆の会話が止まった。よく見たらI先輩だった。明後日がバンドのコンサートだったので染めたとのことだった。「久しぶりやな。ホンマはもっと早ようにお前の学校にでも会いに行きたかってんけどな。お前の学校になんか行ったら生きて帰って来られへんやろ。そやからここに来させてもろうたわ。」と先輩は宣(のたま)った。「どんな学校や思とんすか!」と言いながら私は彼を控室から連れ出した。
2018.02.02
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先輩の家を出て駅に向かって歩くと、また駄菓子屋の前を通ることになった。「今日何回目やろか、、、」と考えていると、店の前の青いベンチに店のおばさんが座っていた。彼女は私を見つけて大きく手を振ったかと思うと隣に座れと手招きをした。腰を下ろした私におばさんは「どないやった?」と先輩宅での様子を聞いた。私は見てきたことを話した。するとおばさんは今日私がまーちゃんと出かけるようになった経緯を教えてくれた。毎日のように先輩宅に来ては本当に夜遅くまでいることが多いまーちゃんのことをみんなが心配していたときだった。ある日朝からまーちゃんが駄菓子屋の前に立っていた。おばさんが理由を聞くとその日は幼稚園の遠足だったが行きたくないと言った。よくよくその訳を聞いて、遠足にはお弁当が必要だったのだがお母さんが朝になっても帰って来ずお弁当が無いから遠足に行けなかったことを知った。駄菓子屋のおばさんはすぐに幼稚園に電話をしたが、もう園児たちは出発した後だった。しかしまーちゃんの姿が無かったので、園長先生だけが残ってくれていた。幼稚園側としては想定内のことだったので、まーちゃんのお弁当は園長先生が用意をしてくれていた。そして園長先生は遅れてでもみんなを車で追いかけることもできるから、まーちゃんに幼稚園に来るように提案したが本人が拒んだ。まーちゃんはお母さんのお弁当が欲しかったのだ。そんな出来事を不憫に思った駄菓子屋のおばさんとI先輩のお母さんが、今回のおでかけプランを立てた。だからだったのだ。朝このおばさんがまーちゃんに「今日はあんたの冬の遠足や」と言ったのは!そして私はこのとき改めて思い知った。今日のまーちゃんの一番のお楽しみは、ゲームセンターでも動物園でもない・・・お母さんのお弁当だったのだ。お母さんの作ってくれたお弁当を食べることだったのだ。私がそのお弁当を前にしてまーちゃんにとった言動は、これらの経緯を知らなかったからといって許されるものではないのだ。
2018.02.01
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