全29件 (29件中 1-29件目)
1
その年の4月、私は香川の大学の入学式にいくために電車に揺られていた。入試の結果この大学と関東の数校の合格を勝ち得はしたのだが当時はバブル期真っ盛り!関東で独り暮らしの部屋を借りるにも権利金や敷金等で驚くほどの資金が要った。それに比べてこの大学の香川校は創立6年目で入学金や授業料も首都圏の学校より割安だった。そして、彼ともまた会えるとも思いったもの大きな理由だった。しかし・・・入学式に彼の姿は無かった。4年後に卒業するまで、ふとしたときに私の脳裏にお土産を高らかに持ち上げたときの彼の笑顔が過った。ここに彼もいればなあ、、、と何度思ったか知れない。卒業式の謝恩会のとき、会場のホテルの屋上に一人上がり、沖縄の方向に向けて「俺、卒業したで!」と言ってみた。おそらくではあるが、彼は大学入学を断念したのだと思う。妹たちのためにそのまま地元で働くことを選んだのだろうと思う。そして自分が叶えることができなかった進学の道を妹たちのために切り開いているのだ。同時に彼は私を探したり連絡を取ったりもしてこない。実は私はあの日、何も深く物事を考えずに彼に言ったのだ。「大学生になったらまた会おう。」と。その言葉に「うん。」と返事をしたときの彼の物憂げな表情は、そうなる可能性が大いにあることを、あの日彼自身が感じていたことを物語っていたのだ。彼は言葉を疎かにしない男だ。大学生にならなかったから、私には会わないのだろう。実に彼らしい!
2018.07.31
コメント(0)
その人数に私が驚いていると、「うちは貧乏人の子沢山」「それにまあいろいろ事情もあって」と彼は言った。私はそれ以上詮索しなかった。そしてほどなく彼の宿の前に着いた。別れ際に彼はお互い今日受験した大学で再会できるといいなと言った。今日の入試問題の話をしていたとき、彼の優秀さは言葉の端々ににじみ出ていた。だから私は彼が不合格になる可能性は無いと確信していた。なので我々の再会の如何は私に委ねられていた。私が今日受験した大学に合格しないか、、、あるいは志望通り関東の大学に合格してそこに入学するか、、、こうなった場合我々の再会は無いのだ。私は彼にそれを告げると同時に名前も告げた。珍しい名前だから、電話帳で探せばすぐに見つかる。だからまた香川に来たときは一報してほしいとお願いした。彼は了解してくれた。そして別れの握手を交わした。彼はそのとき、今日の出来事を家族に話すのが楽しみだと笑顔で私を見送ってくれた。30mほど歩いてふと振り返ると、彼はまだ宿に入らずに立っていた。私が大きく手を振ると、彼は大事そうに抱えていた妹たちへのお土産が入った紙袋を両手で高々と頭の上に持ち上げて、大きな声で「ありがとう!」と言って、また笑顔を見せた。
2018.07.30
コメント(0)
彼のお願いは、妹たちにお土産を買いたいから探すのに街中を案内してほしいとのことだった。それで我々は更に商店街を散策することにした。しかし残念ながら私の知る限り商店街には観光客用のお土産屋はないと伝えると、彼は「どの店にも珍しいものがたくさんあるから大丈夫!」と言った。そしておよそ観光土産と関係のない店に入っては商品を見て回った。1時間ほど散策した後、彼は「決めた!」と言って手袋を買った。11個必要だとも言った。どこから質問しようかと一瞬迷ったが、私はまず手袋にした理由を聞いた。この日は1月16日、、、、長野や奈良ほどではないにせよ、冬は冬。はやり肌寒かった。彼にとってこの寒ささえもはじめての体験だった。そして街中を歩く中高生がカラフルな手袋をしている姿を見て決めたらしかった。沖縄では防寒用の手袋というもの自体が無いとのことだった。それを妹たちに見せてやりたい気持ちから、お土産に手袋を選んだ。しかもひとつ150円(当時はまだ消費税無し)なので、予算的にも購入可能と判断したのだ。彼が選んだのは、当時若者に好まれていた小さな手袋だった。手を入れると手のサイズに伸びてくれて、手を抜くと小さく戻るタイプのものだった。店先で彼は妹たちそれぞれの好みの色の手袋を揃えた。その様子を見た私は2つめの質問をする必要が無くなった。「◯◯は赤。△△はピンクがいい。□□は緑が大好きだからこの綺麗な緑、、、」と言いながら手袋を1つずつ買い物かごに入れていった。そう。彼には11人の妹がいたのだ!!
2018.07.29
コメント(0)
高松駅近くの城跡にある公園を散策した後、彼は夕食にラーメンを食べたいと言った。そこから少し歩いた場所にある商店街をうろついて、みつけたラーメン屋に入った。そこで食事をしながらさらにいろいろ話した。彼は沖縄から出たのは今回がはじめてで、見るもの聞くもの全てが新鮮だと言った。そして私が奈良出身、その前は長野に住んでいたと聞くと、さらに見知らぬ土地への興味も示した。特に長野での雪の中での生活や、奈良公園の鹿の話に目を輝かせながら聞き入った。その辺りから私はあることに気付きはじめた。彼の言葉の端々から、その人生というか生活環境が、通常考えられるそれとは異なるように感じ始めたのだ。沖縄から出たのがはじめてということろから、小中高校での修学旅行に参加していないのだ。それに今回の受験旅行に関しても、かなりギリギリの予算で臨んでいるようだった。しかし私はそこを詮索はしなかった。知らぬとはいえ、そんな彼に私は朝からタクシー代を半額負担させた。公園の入場料は何も考えずに私が支払ったが、食事代は意図的に私が支払った。せめてものお詫びというか、朝からの見知らぬ私の申し出に快く承諾してくれた彼へのお礼の気持ちだった。食事代は自分が払おうと思っていたと彼は言ったが、そこは上手く言いくるめて私が支払った。彼はそれに何回もお礼を言ってくれた。そして、甘えついでにもうひとつお願いを聞いてほしいと言い出した。
2018.07.28
コメント(0)
ふとした瞬間に思い出す人がいる。おそらくもう2度と会うことはないだろうが、忘れられない人だ。・・・21歳で「これで最後」と決めて挑戦した大学受験。第一志望は関東にあったが、その前に1年間住んだ香川にある大学を受験することにした。たいした学力も身につけていないのに「前哨戦」と思っていた。とりあえずの小手試しだったので、現地の下見もしないで受験日を迎えた。電車に乗ってコトコト揺られたのだが、その進み具合が予想よりはるかに遅かった。終点である目的地の駅に着いた頃には、もう遅刻が決定しそうだった。私は同様に焦っている同年代の男性に声をかけて、タクシーで乗り合わせることを提案した。彼は運賃半額負担も含めて快く了承してくれた。試験終了後、徒歩で駅に向かっいた私を見つけてその彼が声をかけてくれた。試験問題の内容なんかを話しながら歩いた。彼は沖縄から受験に来ていた。受けるのはこの大学のみ。受かればもちろん入学するが、ダメな場合は就職するとのことだった。たった1年とはいえ住み付いた土地である。彼の高松の町中を案内してほしいとの申し出を断る理由は私にはなかった。電車に揺られること1時間とすこし。夕方ごろに我々は高松に到着した。
2018.07.27
コメント(0)
日本大学だってそうだ。日大の「目的と使命」として、10行からなる文章を発表している。その最後の2行には、「心身ともに健全な文化人を育成することを使命とする」と謳(うた)っている。ところがどうだ。今では学校の勝利のために学生を鉄砲玉として使い、それが世間に発覚すればトカゲのシッポとして切り捨てる。責任者だけが助かればそれでいい。つまり学生のための大学ではなくなってしまって、その組織にいるものの権力や立場を維持するために存在しているのだ。日本大学の前身である日本法律学校の創立者・山田顕義氏は、松下村塾に最年少で入門した彼は、今の日大の姿をみてどう思うのだろう。我々の人生には【分岐点】が存在する。それが物事の【原点】となる。人として生きていくのであれば、それをいい意味で忘れないでいたいと思うのは私だけではないと思う。『汗』が嫌いになったのも、『ゴキのブリ』が嫌になったもの、そうなった原点を忘れないことが、私のそれらに対するせめてのも礼儀である。
2018.07.26
コメント(0)
政治家だってそうだ!その人が人生で最初に政治の世界を目指そうと思った分岐点があったはずだ。「世の中を変える」「立場の弱い人を助ける」等々いろいろあっただろう。それが一度当選すると、次の選挙に当選するために何をするか?世の中を変えるわけでもなく、立場の弱い人に寄りそうでもなく、ただ保身に走る!【分岐点=原点】を忘れた証拠だ。でもこんな正論はもうこの国では通用しないかしれませんな。だってほとんどの政治家が政治家になることが目的で、その立場を1年でも多く続けることが目的で、だれかのためとか何かのためという発想がないのだから・・・。そういった連中はある意味【分岐点=原点】を忘れずにいる人間だといえる。つまり、正当な【分岐点=原点】ほど忘れられがちで、邪(よこしま)な【分岐点=原点】ほど忠実に守られる・・・なんてことになっているのかもしれない。中3女子の自殺に関するヒアリングメモを破棄して「いじめはなかった」と豪語した神戸市教育委員会のドエライさんの、その立場になったときの【分岐点=原点】は何だったのだろう。教育委員会の委員は、学校の先生がなるときもあれば教員でない有識者(その定義は不明)がなる場合がある。前者であればその【分岐点=原点】は、生徒の命を奪ってでも自分は税金で飯を食うことだったのだろうか。後者であれば、教育委員という立場・肩書とその報酬を得ることであり、生徒の1匹や2匹の命なんてどうでもいいということだったのだろうか。
2018.07.25
コメント(0)
この『汗』と『ゴキのブリ』の話はほんの一例に過ぎない!これまでの人生で、何かを嫌いになる分岐点、逆に何かを好きになる分岐点、何かを始める分岐点、何かを続けるようになる分岐点、何かをやめる分岐点等々、、、様々な分岐点を経て今私は存在している。そしてこれらの分岐点がある意味私という人間の人格をも形成してきたとも言えるのではないかとさえ思う。それらには誰かに与えられたものや奪われたもあるし、この国の制度によって与えられそして奪われたものだってある。またその分岐点は予期せぬタイミングで出現することもあれば、そこで遭遇することが前々から分かっているものもあった。そして何より大切なのは、これら【分岐点】はそのまま【原点】であるという事実だ。たとえば学生諸君に問いたい!中学校までは義務教育なので、学校入学や卒業という分岐点は国や地方自治体に用意されたものと言えるのかも知れない。ただ高校・専門学校・大学になるとそれは異なる。自分で選んだ学校に入っているからだ。それが望んだ学校か否かは関係ない。受験という状態で君自身が分岐点に立ったときにその学校を選んだのだから。その分岐点が原点だ!受験のとき、入学のとき、君は何を志した?その志が君の原点ではなかったか?君はその原点を忘れすに今その学校に存在しているか?
2018.07.24
コメント(0)
ゴキのブリのその姿をはじめて見たときとほぼ同じ感覚を私は中学生のときに味わうこととなる。映画『エイリアン』である。はじめてあの姿をみて「なんやこれ?」と思ったあの感覚だ。でもエイリアンは嫌いにならなかった。なぜなら実在しないからだ。しかしである。ゴキのブリは実在する。しかもどこか遠くにいてたり、特定の場所にいたりすれば、自分がそこに行かなければいだけの話であるが、奴らはわざわざご丁寧に家の中まで入ってくる。私にもさすがに家に帰らないという選択肢はない。つまり私は生きている限り、ヤツ等と遭遇する可能性がゼロではないのだ。・・・ということで!これらの分岐点をかわきりに!私が心底嫌う二大巨頭は『汗』と『ゴキのブリ』となった。それは私の中ではダエーとアジジのツートップよりも強烈な破壊力を持っているのだ。そしてその二大巨頭が揃う季節である『夏』は毎年私を憂鬱にさせる。なのでハワイになんて絶対に住まない!『常夏』ってもう『無間地獄』と同義語なのだ。だって『常に夏!』って言うてしもてんですよ。「どういうこっちゃねん」なのです。
2018.07.22
コメント(0)
私がそのプラスチックの箱をジロジロ見ていたら、Tさんが家から出てきて「ああ、それな。夕べ台所に置いておいたら3匹も取れてな。今そうやって日光に当てて弱るの待ってるんや。」と声をかけてくれた。「おっちゃん、中に入ってんのん見てええ?」と聞くと、「ええけど、あんまりいいものとちゃうよ。」と返事が返ってきた。私はそのプラスチックの箱を手に取って、上部の透明部分から中を覗いた。その中にいた生物はそれまで見たことのない驚くべきフォルムをしたものだった。ザリガニもタイコウチも、それ以外の奈良ではじめて見た生物はそれぞれ魅力的でかっこいいフォルムをしたいた。捕まえたい、家で飼いたいと強く私に思わせるものだった。なのにこの生物は何だ!二度と見たくないと強く思った。これが、この瞬間が、私がゴキのブリを嫌いになる分岐点となった。
2018.07.21
コメント(0)
そんな奈良ではじめて耳にした生き物。ザリガニ・どじょう・クサガメ・イシガメ・タイコウチ・ヤゴ、、、またカブトムシやクワガタは知っていたが、クワガタの中のコクワガタ・ミヤマクワガタ・ノコギリクワガタ・水牛・ヒラタクワガタ・オオクワガタ、、、もちろん時と共にこれらの実際の姿を見る機会が増えていき、それはそのまま奈良での生活の大きな楽しみのひとつとなった。その中にあったゴキブリという生物の名前、、、。私の得た情報によると、そいつは何と家の中に現れるらしいということだった。そしてその時は突然やってきた。夏の暑い日に母に連れられてTさんというおじさんの家を訪ねたときだった。その玄関先にどこかで見たプラスチック製の箱が置かれていた。私はハッと思い出した。テレビのコマーシャルだった。ゴキブリ取り器だ!ゴキブリホイホイに代表される、使い捨てのものが市場に出回る前に、プラスチック製のものが当時売り出されていたのだ。それは側面と底面が濃い茶色で、上面は透明なプラスチックになっていた。ゴキブリを誘い込むエサのようなものを真ん中に置くことで、連中がそれにつられて入り込む。エサにたどり着くまではちょっとした迷路になっているのと、入り口にある金具が侵入方向には動くが出る方向には物理的に稼働しない仕組みになっていて、一度入れば出られないというものだった。
2018.07.20
コメント(0)
物心ついたときには長野に住んでいた私だったが、4歳頃に奈良へ引っ越した。それまでは見たことのない生物とそこで遭遇するとは思ってもみなかった。そう!長野では見たことのない生物・・・それは、ゴキのブリだ!引っ越した最初の1~2年は遭遇しなかった。おそらく家が新築だったのが原因だと思われる。しかし近所の友達の会話の中に聞きなれない生物の名があった。「ゴキブリ」だ!でもそれには何の恐怖も感じていなかった。なぜなら長野で遭遇したことのない生き物が奈良にはたくさんいたからだ。それらのほとんどが水棲生物だった。長野の家の近くに川がなかったのだ。家の横には川があったのだが、そこにはメダカ・カエル・オタマジャクシはいたのだが、それ以外の生物は見たことがなかった。というか、水棲生物にあまり興味がなかったので、ちゃんと覗き込んだことや網をもって川をさらったりしたことが無かったのが原因かもしれないが・・・。ともかく奈良の家の前にある川には本当にいろいろな生物が住んでいたのだ。
2018.07.19
コメント(0)
そんな100本ノックをなんとか終えたとき、私はいつも泥だらけだった。いくら水分補給をセーブしているからといはいえ、やはり私は汗っかきで汗まみれだ。その状態で打球に飛びついたり、最後の方は足がもつれて転んだりして、文字通り地べたを這いつくばるのだ。ユニフォームだけでなく、手や首回り、そして顔まで汗にグランドの土が混じって泥だらけになる。早々に100本を捕球している連中はそれなりに休憩できるが、我々にはそんな時間は与えられない。我々はそのまま7時半まで休憩も水分補給もなく過ごさなければならない。一度練習の終わりごろにテニスコートまで飛んだ打球を追いかけていったとき、テニス部の友人が私に「なんでこんな泥だらけなのに顔も洗わないの?」と手鏡を見せてくれたことがあった。その情けない顔をみたとき、、、汗さえ出なければこんなことにならないのにと思ったとき、、、それは私が心底汗を嫌いになった瞬間、、、そう、分岐点となった。
2018.07.16
コメント(0)
この100本ノック・・・内野手のノックはまだ普通の地獄なのだが、我々外野のノックはそれを数倍も上回った。ノッカーは引退した3年。連中はノックをするのではなく、とにかく遠くにボールを打って遊びたいだけだった。その遊びをより楽しくするために、普通ノッカーは自分でトスを上げたボールを打つのだが、連中はピッチャーに見立てた1年生に打ちやすい球を投げさせて、それを思いっきり打った。外野フェンス上段直撃やフェンス超えする球もあった。我々はそのような元々捕球不可能なボールを延々と追いかけさせられる。連中はバッティングごっこをして遊ぶ爽快感と、その捕球できるはずのない球を必死で走り回って追いかけ、中には倒れて本当に起き上がれなくなる者も出てしまう我々の姿をみて面白がる快感を同時に味わえるのだ。更に陰湿なのは、日頃から上級生におべっかを使って機嫌取りをしていた者には、捕球しやすい打球を打って早く100本を終わらせる。それに対して、先輩に媚を売らない我々は、延々と走りまわらなければならなかった。そして最後に待っているのは、外野の100本ノックがなかなか終わらないのに業を煮やした顧問が重い腰を上げて外野にやってきて「どんだけ時間かかってんのや!」と怒り出すと、ノッカーの3年連中や、早々に100本の捕球を終えた媚びへつらい同期が、「あいつとあいつのノックがまだ終わらないからです。」なんて言いながら我々を指さすという恒例行事だ。そこで媚びへつらい組は「上手い選手」、そうでない我々組は「下手くそ選手」とのレッテル分けが日々構築されていくのだ。このときへばって倒れ込む者は、その直前の休憩時間に水分を補給し過ぎているのが顕著であったので、私は極力最小限の水分補給を試みた。
2018.07.15
コメント(0)
それでも1年生のときはまだユニフォームも着させてもらえないで体操服で球拾いや各練習の準備や用具・器具の設置・撤去が主な練習(?)なので、体力的には普通の地獄だった。(まあ練習中に先輩たちから受けるシゴキ・シバキ・イジメのおかけで精神的には超地獄だったが・・・)体力的超地獄なのは2年の夏だった。夏休み最初の総体で負ければ3年生は引退。やっと理不尽から解放されるので、一部の同期生は先輩がいなくなることを「天下」とまで呼んでいた。しかしその考えが甘かったことを我々は夏やすみに思い知ることとなる。我々が1年生の時の3年生はそんなことはしなかったのだが、我々の1級上の先輩のほとんどは、とにかく後輩を虐待することに楽しみを感じていた。総体で負けて引退した後、連中は大手を振って、毎日、顧問の先生公認で我々を虐待しにきた。顧問には「後輩の練習の手伝い」と称していたのだ!顧問は自分の手間が省けるから喜んで連中を受け入れた。練習はお盆休みの3日間を除いて毎日13時から19時半まで実施された。15時頃から15分休憩があるだけで、あとはぶっ通しでの練習が続いた。もちろん水分を補給できるのはその15分のみだった。でもそこで水分を補給し過ぎると本当の地獄が待ってる。休憩後は必ず全員が100本ノックを受けるのだ。
2018.07.14
コメント(0)
子供の頃、私は夏が好きだった。長野にいた頃はとくに好きだった。雪が降らないし、川も池も野原も林も命であふれているからだ。その後奈良に引っ越しても同じだった。幼稚園、小学校に入ると夏休みがある。特に好きだったのは早朝のラジオ体操の生き帰りの道だった。ラジオ体操の集合場所まで徒歩で5分くらいであったが、私は遠回りをして15分くらいの時間をかけて行った。川沿いを歩いて何か生き物がいないかどうかを探索した。帰りはもっと遠回りをして山の中に入り、虫を探索することもあった。しかしそんな生活が中学生になって一変した。厳しい練習で有名だった野球部に入部したからだ。それまでさっさと過ぎ去った楽しい夏休みが、なかなか時間が進まない長い長い地獄の夏休みとなった。
2018.07.13
コメント(0)
今年もやってきた。今年もやってきてしまった。夏だ!私は公言しているが、季節の中で夏が一番いやだ。理由は簡単、、、暑いからだ。もっと言えば汗が出るからだ。私の場合アホほど出るのだ。生来の汗っかきだから仕方がない。もうひとつはヤツだ!ヤツが姿を現す季節なのだ!あの神出鬼没のかすかに赤みがかった黒いヤツ・・・。そうゴキのブリだ。あいつほど嫌いな生き物はこの世にいない。何やら恐竜の生きている時代から地球上に生息しているとかで我々人類の大先輩であることは知っているが、微塵の敬意も払えない。暑くなる ↓汗がでる ↓ゴキがでる私にとってこれほどの負の連鎖は存在しない。
2018.07.12
コメント(0)
中にはどちらの感覚が正しいか!なんて研究をされている先生方もおわれるようだが、それは野暮ってもんでしょう。なぜならどちらも正しいのだから。だから、幼かったころの感覚や初心者だったころの感覚を大切に持ち続けていけば何も問題はない。問題はないどころか、今のこのどこかギクシャクとした世の中に潤滑を与えてくれるかも知れない。今感じている感覚をあまり妄信せず、人それぞれに同じものであっても感じ方が異なることを認識するべきだと思う。それを認識できるようになることが成長というのではないだろうか。たとえそれが単なる思い込みであったとしても、世の中を円満にするものであるなら歓迎されるべきである。古の日本人がそうだったように、今現在の日本人もそうなってほしいと願わずにはおられない。
2018.07.11
コメント(0)
そしてもうひとつの原因は思い込みだと言われている。たとえば私の場合、三歳のときに川に落ちたことを意識的にせよ無意識的にせよ今まで何回も思い出してきた。その都度頭の中で川が少しずつではあるがより大きくより深いものとして認識される…ということらしい。それもそうなんだろうと思う。しかし私はその相異を楽しもうと思っている。もともと我々人間の感覚なんてそんなに正確なものとは思わない。同じものを食べても美味しいと感じる人もいればそうでないように感じる人もいるのがこの世の中だ。だからこそ人間は面白い!『十人十色』であり『蓼(たで)食う虫も好き好(ず)き』である。そして人間の感覚はときとして変化していくものでもある。それも楽しいではないか!大切なのはそれらの相異を敏感に感じられる感覚を持つことだ。それを持っていさえいれば結構この世は楽しい。案外それらの小さな相異を見つけるところに幸せがあるのかも知れない。我々日本人は昔からこの小さな相異を敏感に感じとることのできる民族だった。それは万葉集や古今和歌集等の和歌・短歌・俳句が十二分に証明している。
2018.07.10
コメント(0)
フェリーを降りた後は高速道を使わずにあえて一般道を走った。そしてやがて懐かしの外環状線に出て、いよいよ阪奈道路に入る。ほぼ四年ぶりだった。しかし懐かしさよりも違和感が勝っていることに気付く。「あれ…こんなに道が狭かったっけ?」「あれ…上り坂のカーブってこんなに勾配緩やかやったっけ?」「あれ…カーブとカーブの間の直線ってこんなに短かったっけ?」そしていつの間にか生駒山山頂に来ていた。そのときは、「あれ…山頂までこんなにすぐやったっけ?」と思った。こうして私の懐かしの阪奈道路奈良方面の旅路は一瞬にして終わってしまった。これらのように、人間だれにも幼かったときに大きく感じたものや遠くに感じたものを、月日が小さくそして近くしてしまうことがある。その原因としては、まずはその人の物理的な成長と言われる。そりゃそうだろう。三歳ごろに落ち込んだ川には、40歳近いおっさんが入るには狭すぎる。5歳の頃の目線の低さと歩幅の狭さであるいたおよそ100mと、成人してからのそれらとでは同じ100mでも感じ方が異なる。またバイクで一般道路を走り始めて2カ月も経ていない高校生が駆る50ccのバイクと、それから約8年間ほぼ毎日バイクに乗ってきた経験を持つ大学生が駆る250ccのバイクとでは、同じ道を走ってもその広さや遠さにも違う感じ方をしてしまうこともあるだろう。
2018.07.09
コメント(0)
41歳のとき長野にいく機会があった。そのとき時間を作って約38年ぶりにあの頃住んでいた家を探しにいった。あの頃と全く風景は変わっていたが、何とか家を発見することができた。そしてその横を流れる川を見て驚いた。「こんなに小さかったんか!」と。川というより用水路だった。大学生になって奈良に帰省したとだった。バスに乗って友人に会いに行く予定だったが、時間に余裕があったので、故郷の景色を楽しもうとしばらく歩いた。そのとき忘れていたことを思い出した。そう、幼稚園にはじめて一人で通った日の帰りのことだ。あのとき間違って降りてしまったバス停から、自分が降りるべきバス停まではとてつもなく遠い距離だったように感じていたのだが・・・。実際にはその距離は100mほどしかなかった。同じく大学生になって数度目の帰省はツーリングを兼ねてバイクを使った。途中いろいろと寄りたいところもあったのだが、一番に行きたかったのは阪奈道路だった。高校生の頃、最初のトライから何度も通った奈良方面のカーブを走ってみたかったのだ。
2018.07.08
コメント(0)
そしていよいよゴールデンウィークの中頃に阪奈道路に挑んだ。自分のバイクは50ccであるとはいえ規制前の車体!60Km/h規制のリミッターもついておらず、メーターは90km/hまで刻まれていた。慣らし運転も終わっていたので、阪奈道路の長い直線部分で最高速度にトライしい気持ちはあったが、そこは自粛してまずは大阪方面まで下っていく。大阪方面にも向かう道にももちろんいい感じのカーブはあるのだか、ここは自粛ムードを保ちつつ走行する。下り坂がメインなので、スピードが乗り過ぎると危険だし、何よりそんなときに白バイでも捕まったらえらいことだ!そして一度外環状線まで出て休憩をとった後、いよいよ奈良方面の登りの連続カーブに向かった。父の車に乗せられてしか通ったことのない道だった。自分の運転するバイクで走ると、全く今まで感じたことのない風景がそこにはあった。
2018.07.07
コメント(0)
私を降ろしたバスはそのまま次のバス停に向けて走り出した。次のバス停までは一本道だったので、バスの様子が見えていた。しばらく走ったバスはやがて私が降りるべきだったバス停でストップして、乗客を降ろし始めた。その中には私の友人たちもいた。その中の何人かは明らかに私の姿を探している。私は彼らの方向に向かって歩いていたので、やがて彼らはそれに気づき、そしてそれぞれの家路に消えていった。その道を歩きながら、私は幼いながらにも自分自身への情けなさを感じていた。あとひと月とすこしで17歳になろうとしていた春休みに私は1年間のアルバイトでためたお金で50ccのバイクを購入した。いろんなことに挑戦したかったが、その中のひとつに阪奈道路を走ることがあった。その道路は名の通り大阪と奈良を結ぶ道路だった。幼い頃から父の車で何度も通った道だ。通るたびにバイクに乗った人を見かけた。急なカーブをヒラリヒラリと走り抜けていく姿に憧れたものだった。いよいよ自分もバイクで走る側になったのだ!早くトライしたかったが、まずはそんなに激しいカーブのない道で練習をしようと考えた。
2018.07.06
コメント(0)
五歳になった頃、私は奈良で幼稚園に通い出した。バス通園だった。そのバスにはそれまでにも何回も家族で乗っていたので何も問題も無かった。入園式の日は母も一緒だった。帰りのバス停に着く直前に母は私に「明日からはひとりでこのバス停で降りるんやで。」と言った。私は余裕を見せながら「分かってる」と返した。その翌日の帰りのバスだった。妙に混雑していた。同じバス停で降りる友達も何人かいたのだが、空いた座席に座る者もいれば乗降する人の流れに分断されて姿の見えないところにいった者もいたので、私は一人で立っていた。座席に座っていれば窓から景色も見えたのだが、立っていたので景色も分からない。しかも子供たちもそうがったが、このときは大人たちも結構おしゃべりをしていたので、車内に流れるアナウンスの声もあまりよく聞こえなかった。「そろそろ降りるバス停かな」と思っているとアナウンスが流れた。「…法華寺…」という言葉が耳に入ってきた。私が降りるバス停にはその言葉が入っていた。でも何だか違うような気もしたが、乗り過ごしてしまってはいけないと思い、そこでバスを降りることにした。運転手さんに定期を見せて、バスのタラップを降りようとしたとき、降車口から外の景色が見えた。「あ、ここじゃない。」と思ったが、私の後ろから何人かの大人が降車しようとしていたので、その流れに逆らえずそこで降車してしまった。
2018.07.06
コメント(0)
五歳になった頃、私は奈良で幼稚園に通い出した。バス通園だった。そのバスにはそれまでにも何回も家族で乗っていたので何も問題も無かった。入園式の日は母も一緒だった。帰りのバス停に着く直前に母は私に「明日からはひとりでこのバス停で降りるんやで。」と言った。私は余裕を見せながら「分かってる」と返した。その翌日の帰りのバスだった。妙に混雑していた。同じバス停で降りる友達も何人かいたのだが、空いた座席に座る者もいれば乗降する人の流れに分断されて姿の見えないところにいった者もいたので、私は一人で立っていた。座席に座っていれば窓から景色も見えたのだが、立っていたので景色も分からない。しかも子供たちもそうがったが、このときは大人たちも結構おしゃべりをしていたので、車内に流れるアナウンスの声もあまりよく聞こえなかった。「そろそろ降りるバス停かな」と思っているとアナウンスが流れた。「…法華寺…」という言葉が耳に入ってきた。私が降りるバス停にはその言葉が入っていた。でも何だか違うような気もしたが、乗り過ごしてしまってはいけないと思い、そこでバスを降りることにした。運転手さんに定期を見せて、バスのタラップを降りようとしたとき、降車口から外の景色が見えた。「あ、ここじゃない。」と思ったが、私の後ろから何人かの大人が降車しようとしていたので、その流れに逆らえずそこで降車してしまった。
2018.07.05
コメント(0)
三歳になるかならないかのとき、私は缶ジュースをあけるツメを集めていた。当時の缶ジュースには金属製の小さなカニのツメのようなものがついていて、それで飲み口の穴と空気抜きの穴を缶にあけるタイプのものがあった。その小さなツメを10個ほど集めたある日、私は家の横にある川にそのひとつを落としてしまった。それを拾うべくしゃがみ込んで手を伸ばした瞬間・・・私は川に落ちてしまった。季節は春先で山から降りてきた信州の雪解け水で川の水量が非常に多く流れが急な時期だった。幼いながらにも流されれば命はないことは瞬時に理解できた。私は川の縁に自生している長めの雑草の束をつかんで放さなかった。もう息が続きそうになくなりもうダメかと思ったとき、私の手を誰かが掴んで水の上に顔を上げてくれた。私を救い出したのは母だった。私が川に落ちた瞬間を目撃した兄が大声で泣いたので、その声の異常さに母が裸足で家の中から飛び出してきてくれたのだった。凍えるような冷たさの雪解け水である。それにほぼ全身を沈め、その上それをしこたま飲んでしまったので、私は凍え切ってしまっていた。母はすぐに風呂を沸かしてくれた。風呂が沸くまでの間、母は私の衣服を脱がせて毛布で私の身体を包み、その上から少しでも体温があがるように擦り続けてくれた。そのとき私は母に、買ってくれたばかりのサンダルが流されたことを謝った。母は「命があったんやからサンダルなんかどうでもいい。」と言ってくれた。
2018.07.04
コメント(0)
もうひとつは、ただ他者を見下すだけのカテゴライズ。顕著な例は『ぼっち』。学校や職場で言葉を交わす人が無く何事につけひとりで行動する人に向けられるカテゴリーだ。あいつは『ぼっち』!そう言い放つことでその人間を見下し、自分はそうでないことを確かめるのだ。そして、そういう連中は必ず自らを多数派のカテゴリーに入れたがる。群れをないていれば安心でもあるのだ。・・・中にはこれら他人から押し付けられたカテゴリーに入れられている人もいるだろう。私だってそうだ。しかし絶対に心の中で「だからといって何やねん!」という気持ちを持とうではないか。こんな何の根拠もないカテゴライズをしなければ自らのアイデンティティを保てない連中なんか放っておけばいい。なんなら一歩進んでそのカテゴリーの中に入ってやって、それを楽しみながら生きてやればいい。あるいはその中に絶対に入らずに、その中で浮かれている連中の矛盾点をしっかり言葉で突き刺して生きていけばいいのだ。自分のカテゴリーを他人に決められて、それに動揺したり悲しんだりする必要なんて全くないのだ。カテゴリーの多数派に属さない性格や生き方・・・それを、それこそを、『個性』というのだから。
2018.07.03
コメント(0)
次になんといってもプラモデルだ。それに至っては私のバイク歴をはるかに上回る長い付き合いだ。家には小学生時代から買いためたものや十数年前に近所の模型屋さんやおもちゃ屋さんが閉店するときの閉店セールで大量購入したものまで数多くのプラモデルがある。一度何個あるのか数えようとしたが200くらいまでカウントしたあと飽きてしまって中断したままだ。その買い方や作り方について述べれば長くなるので割愛するが、ともかく他の人達からみれば完全に常軌を異しているのだろう。どうやら私は『プラモデルオタク』のようだ。それ以外にも私を『オタク』たらしめる要素は多分にある。・・・『サッカーフリーク』『勝ち組・負け組』『オタク』等々、、、最近この国は何かと人間をカテゴライズするようになった。それはまあ構わないのだが、その目的は2種類しかないように思えて仕方がない。またその2つも根底にあるものは変わらないように思える。まずひとつは、自分がそのカテゴリーに入っていることを自慢したいがためのカテゴライズ。顕著な例が『勝ち組・負け組』である。ちょっと小金を持っていて、理由はどうあれ幸福な生活をしているかはどうあれ結婚さえしていればいいと思いたい・・・そんな人間が自らを『勝ち組』として安心して満足し、そのカテゴリーに入らない人たちを『負け組』と見下すことで同じく安心して満足するためのものだと感じざるを得ない。
2018.07.02
コメント(0)
・・・『オタク』という言葉が使われ出してもうかなり久しい。この日本語から発祥した言葉は外国語圏でも[otaku]として通用するまで認知されていると聞くとさすがに驚く。『オタク』の定義は《自分の好きな事柄や興味のある分野に極端に傾倒する人》ということだ。どうやら私は『オタク』らしい。まずはバイクだ。高校のときから乗りはじめ52歳の今でも現役ライダーである。メカには疎いが乗ることに関しては『オタク』だ。それが高じて今や特別指導員の資格まで有して仕事にしている。私が最も『オタク』なのは、おそらく同じことを指導するにしても個々に教え方や理論を変えることだ。たとえばブレーキレバーの握り方ひとつでも、その人に合った最良の方法を、その人に合った言葉で伝授する。ひとつの方法しか知らずそれだけが正しい方法と思い込んでいると、それは指導ではなく押し付けになる。押し付けられたもののほとんどは納得できないことが多いので、その人のものにならない。そこに違和感や恐怖感を持ったままバイクに乗っていると、日に日にそれが大きくなってしまい、やがて「バイクは卒業した」なんて言い出してバイクを降りてしまう。私の指導員としての仕事は「免許とったら終わり」ではなく、生涯バイクに乗り続けるロング・ライダーを育成することだと思っている。口ではなんと言ってても、案外本気でそこまで考えて実行している指導員は少ない。だから私は『バイクの乗り方オタク』、いや『乗り方伝授オタク』である。
2018.07.01
コメント(0)
全29件 (29件中 1-29件目)
1