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最近テレビでも店頭でもよく触れる言葉のひとつが『除菌』だ!菌がいたら不衛生、菌があったら不潔、だから菌を無くそう・・・ということだ。もちろんそれは分かるし、私もある程度衛生面は気にしている。人と接する職業なので当然といば当然だ。ただ度が過ぎている人が多いような気もする。いわゆる『潔癖症』と言われる人たちだ。言われているならまだしも、自分で公言している人もいるのには閉口する。そんな人に何回か「そもそも『菌』って何か知っているか?」と問いただしたことがある。全員が何も知らないレベルでモノを言っているのが現状だ。そもそも空気中にも大量の菌がいるし、我々人間の身体だって菌がいなければなり立たない。もちろん毒性があったり有害だったりする菌も存在するが、無害なものもあれば有益なものだってある。同じく潔癖症を自負する人たちは『ほこり』についての知識も曖昧だ。そんなにほこりが嫌なのであれば、大気中から直接呼吸をしないでダースベイダーのように呼吸器付きのマスクを常時装着し「スコー、スコー」と呼吸音を周りの人たちに聞かせながら生活をしなければならない。なのに直接大気を吸って呼吸をしながら潔癖症・潔癖症と言っている人たちの気が知れない。私がこう言うと「私はいつもマスクをしてますから!」なんて反論してくる潔癖症もいたが、そんな人たちにはそもそも我々の口の中にどれくらいの菌が存在しているのかを知らしめてやった。
2018.09.30
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子供の頃、時代劇を見ていた時だった。ある侍が複数の刺客に囲まれて切られるシーンを見た。その侍は息を引き取る寸前に「無念」と言った。子供ながらに「残念だ。悔しい。」といった意味だと捉えた。しかししばらくすると何か違和感を覚えた。「無念」、、、つまり「念じることが無い」、、、ってことは、思い残すことが無いってことにならないかと思ったのだ。そこで辞書で調べてみた。意味は。「正念を失って、口惜しく思うこと」だった。この「正念」とは「正気」とか「本心」とかいった意味のようだった。なので最初に捉えた意味で大筋間違いはなかったのだ!・・・今日の夜のニュースで、来年春でチョコフレークの販売が中止になると報道があった。私は正念を失った。心から無念である。
2018.09.29
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TPO感覚はいつ身につけるのか!それはズバリ日常の生活のなかで随時身につけるものである。特に幼い時期はしっかり親やまわりの大人がしっかり教え込むものだ。「人の前ではちゃんとしなさい。」「お客さんの前ではちゃんとしなさい。」そう言えない親がテレビカメラの前でゴロゴロしながらウダウダと言葉を並べる子供を笑顔で見つめている。「なんじゃそりゃ!」である。あの子が将来何かの日本代表で海外に出かけて、買春して強制帰国させられてもなんら不思議ではない。まさに『三つ子の魂百まで』である。ときに天才と呼ばれる人材が現れる。しかしそれはオールマイティに世の中にある全てのことに対しての天才ではない。ごく限られた分野においての天才だ。たとえばスポーツにしても1種目に限られる。それまもちろん凄い事であるが、その他の分野においては凡人かそれ以下の場合がほとんどだ。高卒ですぐにプロ野球選手になったある若者が、そのチーム名が英語で入ったユニフォームの文字が理解できなかったことを告白した。彼はその後社会人として必要な知識を勉強しながら今もプロの最前線で野球選手を続けている。さすが一流は違うなと思わされる。本当に一流の人は謙虚だ。中途半端なヤツ自分が見えていない。買春日本代表選手はもういい大人なのだからどうにでもなればいい。まあそのうち今回の事件も世間から忘れ去られてまた買春するのだろう。それはそれでいい。ただ、あの6歳の男の子の将来が心配だ。将来呆れた事件を起こして、幼少時代にテレビに出たときの映像とかなんとかいって、あのゴロゴロウダウダ画像が流れないことを祈るのみだ。
2018.09.28
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海外で開催されたとあるスポーツ大会の日本代表選手が日本代表のジャージを着たままの姿で現地女性を買春したという報道がなされた。まあ買春の日本代表であるなら話も分かるが、そうではないのだ。しかもその瞬間を目撃した日本の新聞社職員がその証拠写真を撮って告発したというのだ。案の定その新聞社はA日新聞社!この新聞社は日本にありながら日本を陥れるために存在してきた。もちろん皆さんのお察しのとおり、その選手たちに売春女性をけしかけたのはその朝H新聞の連中ではかったのかとの疑惑は否めない。まあそんな朝日新聞社のことはさておき、今回問題にしたいのはその選手たちだ!「なにしとんねん!」「なにしにいったんじゃ!」とのツッコミは的を得ているとしかいいようがない。ではなぜ彼らがそのような行動に平気ででることができたのか。その原因はTPO感覚の大きな欠如としかいいようがない。
2018.09.27
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この夏の終わり頃にニュースで知った。6歳の子供が魚の図鑑に掲載されている写真が間違いだと気づき、両親が出版社に問い合わせた。すると本当に間違いだったことが判明し出版社はその子供に謝辞を送り写真を入れ替えたので、その子供はちょっとした有名人となったことを!そして案の定テレビの取材班がその子供の家に足を運んでいた。もちろんインタビューの画像が放送されたのだが、、、。その子供はインタビューのとき6歳。インタビュアーは敬語で子供に話かける。子供はというと、、、床の絨毯や部屋のソファーに寝転がりながらそのインタビューにこたえる。インタビュアーはそんな彼に「すごいですね。」等の賛辞を並べる。それでも子供はゴロゴロと寝そべりながら、大人にため口で応じる。親も子供のその態度に注意すらせずに、子供に向けられる賛辞にご満悦だった。私はその光景をテレビで見て思った。この子がこのまま大人になったらどうなるのかと。すると間もなくその答えとなる報道が流れた。
2018.09.26
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『推敲』という言葉がある。文章を何度も練り直して考えることを意味する。由来は、唐時代の詩人が「僧は推(お)す月下の門」にするか「僧は敲(たた)く月下の門」にするかを悩み考えたことにある。「推す」と「敲く」のチョイスには悩んだが、「月下の門」はすでに決定事項だった。釈迦時代から隋や唐の時代の大陸文学においても『月』の存在は特別であった。本来暗いはずの夜の闇を照らす[陽]の要素もあれば、本来見てはならないものを照らしてしまう[陰]の要素もあった。それだけに太陽とは全く異なった存在として人々の心を惹きつけた。『間』という字がある。門構えに「日」を入れる字であるが、本来は門構えに「月」であった。門の隙間から月の光が差し込んでいる様子からできた文字なのだ。また『月』と同様に『門』という文字にも深い意味があった。何かの道に進んでいこうと決意するとき、人は門をくぐるのだ。その先に待ち受けるのが[陽]なのか[陰]なのかは誰にも分からない・・・その入り口が『門』なのだ。『学問』という言葉も最初は『学門』であった。仏教のお経の中に『其智慧門。難解難入。』という部分がある。このお経は釈尊(釈迦)とその弟子・舎利弗(しゃりほつ)の問答を表している。釈迦が弟子に「其(この/仏教の)智慧の門は、解(理解)するのが難しく、入っていくのも難しい」と説いている場面なのだ。そんな意味をもつ『門』の隙間から、同じく深い意味をもつ『月』の光が差し込んでいるという表現の凄まじさに感動すら覚えるのは私だけではないはずだ。もちろん我々日本人も『月』には敬意を表してきた。日本語では敬意や親しみを言葉に込めて、その言葉に接頭語や接尾語を置く。主な接頭語には「お」や「御」があるし、接尾語には「様」「さん」などがある。普通は接頭語か接尾語のどちらかだけを用いるのだが、特に敬意や親しみを込める場合は両方を用いる。「父」「母」を「お父様」「お父さん」「お母様」「お母さん」というのが顕著な例である。しかしこれらの語を人以外に用いることは稀である。動物でいうと「猿」だけに両方を用いて「お猿さん」なんていうが、これは我々人間に近い、あるいは祖先であることに敬意を表しているという説もある。無生物(人間や動物以外)でいうと、空にあるものだけこの用法を用いる。『お月様』であり『お星様』だ。太陽の場合だけ名詞を変えて『お天道(てんとう)様』という。雲なんかにはこの用法を用いないことから、大気圏外にあるものが対象となっているのかもしれない。このように語り出したらキリがないほど、我々は『月』に魅せられてきたのだ。・・・今夜は中秋の名月が見られなかったという方!ご安心あれ。今年は暦の誤差から、今夜(24日)が中秋の名月であったが実は明日(25日)の夜が満月なのだ。つまり、年によっては十五夜・中秋の名月が満月とは限らない。だから皆さん!明日の満月を眺めようではないか。難しいとこは要らない。「お月さんはきれいやな~」・・・それでいいのである。
2018.09.25
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どうやら5年後に我々はもう一度月に注目するかも知れない。先日アメリカのある企業が5年後に民間人に月旅行をさせると発表した。その旅行の権利を得たのは日本人の社長さん。何やら世界的なアーティストも招待し、その費用も彼がもつらしい。これが実現すれば我々はまたアポロ11号のときのように月に思いを馳せるのだろう。しかしながら、20年ほど前にある飲料メーカーが2001年を目途に民間人5名を宇宙旅行にご招待といって一大キャンペーンを打ったが、いつの間にか立ち消えた悲しい経験が我々にはある。5年後もどうなっていることやら・・・と思うとどこか冷めた気持ちが飛来する。まあ、そんなことも心の隅に置いといて!今日の夜は本年の『中秋の名月』である。月旅行とは違って、月の美しさを愛でることはだれにでも可能だ。ここはひとつ難しいことは言わずに、ただただお月見としゃれ込もうではないか。すすきは用意できなくとも、せめてお団子を食べながら、秋の夜空を眺めよう。1000年以上も前の日本人たちも見ていた名月を、平成最後の名月を、しみじみと愛でようではないか!
2018.09.24
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私が3歳だったとき、日本中が、いや全世界が月に注目した。アポロ11号が月面への着陸に成功し、人類が初めて月に降り立った。皆が食い入るようにテレビに注目した。そしてその飛行士たちが地球に帰還したときに持って帰ってきたのが『月の石』・・・あのとき「なんで石やねん。そこはかぐや姫連れてくるべきとちゃうんかい!」と失望したのは、はたして日本中で私だけであったか否かは分からない。しかしあのときほど我々にとって月が身近だったことはおそらくは無いと思う。月は眺めるものであって人間がいくところではない!と主張する人もいると思うが、はやりそこに人類のあくなき探求心と挑戦の心があることに私は喜びを感じる。また月は地球のまわりを周回する衛星である。一説によるとスイングバイ効果(平たくいうと遠心力)で、毎年月は地球から15㎝遠ざかっていると言われる。まあ15㎝ならあまり驚かないが、別の学者は15mと主張しているからこれには驚く。それが本当だとすると、聖徳太子が見ていた月は今よりちょっと大きかったんだろうかなんて考える。そんなことに思いを巡らせるだけでも、月は充分に魅力的な存在だと実感する。
2018.09.23
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月というのは不思議な存在である。太陽や星々は我々人間を含めて地球上の生物にとってプラスのイメージである。太陽は生命の象徴であり生命の爆発力であると主張し岡本太郎氏がデザインした【太陽の塔】は1970年に開催されたアジアではじめて開かれた日本万国博覧会が終わって48年経った今でも大阪吹田市の万博記念公園に厳然と存在している。『ピノキオ』でも、命を与えられた木の人形である主人公が「人間になりたい」と願いをささげたのは星々であった。その主題歌『星に願いを』はあまりに有名な曲である。しかし月は少し異なる。月は人間にとってプラスのイメージもあれば、マイナスのイメージもある。欧州文学の中ではときに月は[狂気]の象徴とされてきた。その一番有名な例が『狼男』だ。彼は満月の夜に月の光を浴びる、あるいは見ると狼男になってしまい血を求める。だが一方、月がプラスのイメージをもつときは、太陽のそれとは違って非常に身近な存在として描かれてきた。ときには身近過ぎて気付きもしないことさえある微妙な距離感を保っている。『新造人間キャシャーン』はロボット犬・フレンダ―を伴ってたった一人で人類滅亡を企むアンドロ軍団と戦う。その彼に付き添い微力ながら彼を助ける女性の名前は【ルナ】だった。【ルナ】はラテン語で【月】を意味する。『美少女戦士セーラームーン』はそれぞれ太陽系の惑星をモチーフとした戦士が戦うのだが、その中心的存在が【セーラームーン】つまり【月】だった。『キャシャーン』を知っている男性も多いし『セーラームーン』を知っている女性も多い思う。しかしその中にある月の存在に明確に気付いている人はどれくらいいるのだろうか。身近すぎて気付かない存在、、、それが月なのだ。
2018.09.22
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あれから40数年が経過した。少年だった私は50歳を過ぎた立派な(?)おっさんとなった。ガチャガチャはというと、市民権どころか世界にもその名を轟かせて[Gatya-Gtya]というと日本に少し詳しい外国人には通用する言葉となった。20数年ほど前に国内でガチャガチャの専門店が出現したときも驚いたが、今では成田空港の国際線ロビーにまでガチャガチャのコーナーがあり、帰国する外国人の皆さんが日本のお土産に、または残してしまった日本円の消費にとお金を入れてハンドルを回し、出てきた商品に一喜一憂する時代となった。ラインナップも信じられないほどの豊富さを見せて、中には「こんなんだれがトライするねん?」と思わざるを得ないものまであり、しかもそれが売れているのだ。あの頃からこのように私もガチャガチャ変わってしまった。しかし私は今もガチャガチャの前に立つし、ガチャガチャも存在し続けてくれている。たとえ何十年の月日が流れても、たとえ立場が変わっても、たとえ世間的な立ち位置が変わっても、たとえ周りの人間にどう思われようとも、決して変わることのないものがこの世の中には間違いなく存在することを私は今も教わり続けているのだ。
2018.09.21
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子供たちの間でがガチャガチャがシミンケンを得だしたころ、学校横の駄菓子屋に小さな変化が起こった。いつもおばあさんひとりで切り盛りをしていた店に、おばあさんの孫という人物が現れた。ジャージ姿に無精ひげ、いつもぼさぼさの頭で煙草をプカプカふかしていた。その男は我々子供たちを基本的に客と思っていなく、買い物もしないで店で騒ぐ者は容赦なく放り出した。それでもその男は週に1回か2回店にやってきては騒ぎもせずただガチャガチャを回しては黙って帰る私には言葉をかけきた。まだ小学校4年の私に、妙に哲学的な話題を振ってくる彼に私もそのうち心を許すようになって「おっちゃん」と呼ぶようになった。小学5年になったばかりの頃、私はおっちゃんに聞いてみた。なんでいつも学校ではやっているものや人気のあるもののガチャガチャが入荷されるのかと!すると彼は煙草をふかして頭をポリポリかきながら高らかに笑って言った。「お前やん!お前が話してくれてるやんか。お前が情報源・・・つまりニュース・ソースちゅうやつや。これからも頼むで!」誰がどのように情報を入手しているのか。またはだれが情報を流しているのか。そればかりを考えていたが・・・それが自分だったことに驚いた。他人を疑う前にまず自分を疑うことの重要性を知った。同時に『ニュース・ソース』という言葉を学んだ。
2018.09.20
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秋の遠足のとき、訪問先の施設の中でMと一緒になった。Mとはクラスが違うので、はじめて言葉を交わした日以来あまりちゃんと話をしたことが無かった。もちろん我々の話題の中心はガチャガチャだった。みんなが普通にガチャガチャをするようになった時代の変化についての感想を私はMに問いかけた。彼はそれを諸手を挙げて歓迎していた。それに対して私は懐疑的な目線でそれを見ていることを伝えた。するとMは私に「なんかややこしく考えすぎやで。ええやん。ガチャガチャが市民権を得たんやから。」と言った。「・・・シミンケン・・・?」はじめて聞く言葉だった。言葉の明確な意味は分からなかったが、なんとなくMが言いたいことと、彼の寛容さは理解できた。数日後、私はY教頭先生と話をする機会があった。シミンケンという言葉について質問した。Y先生はその意味をニヤニヤしながら私に教えてくれた。「なんでそんなに笑っているんですか。」と聞くと、「シミンケンという言葉をMに教えたのは俺や!」とY先生は言った。その言葉は私に、Y教頭先生が私だけでなくガチャガチャに心血を注いでいるMのことも気にかけて話かけてくれていたことを理解させた。このとき私は『先生のありがたさ』を学んだ。
2018.09.17
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スーパーカーブームはかなりのロングランとなった。そのうち男子に『力士消しゴム』のブームもやってくる。やはりそれもガチャガチャでないと手に入らない。この頃にはもう以前のようにごく少数の男子がガチャガチャに走る時代は終わり、ほとんどの男子が普通に楽しむ時代が到来した。私のホームグラウンドであった学校横の駄菓子屋には2台あった機械が4台に増えた。そのうち3台が男子向けで、1台が女の子向けだった。新たに設置された2台は、ひとつがスーパーカーでもうひとつは力士消しゴムだった。もちろん下校途中にガチャガチャするのはそれまで通りに良くないことではあったが、生徒自身は互いにそれを黙認し、先生たちもたとえそれを目撃しても「ほどほどにしとけよ」と注意する程度になった。そんなとき女の子用の一台に布製のスヌーピーの飾り物が現れて、一部の女子のハートに火を付けた。そして下校途中にガチャガチャにトライする女子の姿も見られるようになった。その中には私やMがトライしていることをわざわざご丁寧に職員室までダッシュして先生にいいつけまくっていた連中もいた。世の中には、他人の悪事は絶対に許さないが自分の悪事に関してはそれを悪事だとは微塵も感じない人間がいることを学んだ
2018.09.16
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そしてとうとうほぼ男子全員がガチャガチャに走る時代がやってきた!スーパーカー・ブームだ!もちろんカードやプラモデルなんかもバンバン発売された。ほとんどの男子はそれに走った。しかしその中でも一番安価でコレクションできるのが『スーパーカー消しゴム』だった。これをガチャガチャで入手するのが大きなステータスとなった。文房具店等で購入できるものもあったが、それではイマ一つ魅力に欠けるのだ。今でいう《レア感》に欠けるのだ。そうなれば、ガチャガチャの知識・経験がある私やMに男子の注目が集まる。それまでは当然の如く下校中にガチャガチャをするヤツは、「悪」であり「変わり者」であった。見下す言動をぶつけてくる男子もいれば、先生にいいつける女子もいた。それがどうだ!時流が変われば立場も全く変わるのだ。Mや私は何も変わっていないのに、周りの人間が変わってしまい、それが何ら変わることのない我々の立ち位置を変えてしまう。今まで我々を蔑(さげす)んできた連中が、あたかも今まで我々と同じくガチャガチャに熱中してきたかの如く、今までずっと親友だったが如く振る舞う。そんな中に女子に人気のある男子が混じっていたら、女子までが我々に対する態度を変える。『時代が変われば、人の態度もコロッと変わる。』ことと、『他人の自分に対する評価がいかにいい加減なものか。』を学んだ。
2018.09.14
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スーパーボールのブームがなかなか去らないことに落胆していたある日、テレビで衝撃的なCMを目にする!新しいガチャガチャのCMだ!カチャカチャのテレビCMなんかそれまで無かったのだから驚きであった。それに加えてお笑いタレントの間◯平さんが出演していて「リトル・コロコロ! 30円よぉ~。」と高らかに言い放つ!さ、30円!!!これに驚嘆した。20円の資金を工面するのにこんなに苦労しているのにさらに10円アップするのか・・・と思うと同時に、10円が20円になったときの品物のグレードの上がり方があれくらいの衝撃だったのだから、30円の衝撃とはどんなものか・・・とも思った。そして心が躍った。翌日、Mが下駄箱の前で私を待っていた。そして開口一言目で「テレビ見たか?」と興奮気味に話しかけてきた。「おう、リトル・コロコロやろ!」と私。Mもかなり興奮していた。数日後、Mはリトル・コロコロを設置した店を発見した。その翌日の放課後にはその店の前に我々の姿があった。2人とも30円もの大金を投入して1回ずつトライした。金額が2倍になれば品物のグレードは2乗になることは経験済みだった。このとき、金額が3倍になればグレードが3乗以上の品物をゲットできるのがガチャガチャの世界であることを知った。そして『さらに深みにはまっていく』ことを学んだ。
2018.09.13
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当時私の小学校では、雨の日は教室で遊ぶトランプや小さなボードゲーム等と体育館や廊下で遊ぶものをを持ってきても良かった。しかしコマやビー玉なんかの固いものその危険性から持ってきてはいけなかった。体育館は高学年が占領してしまうため、我々低学年の廊下派にはこれといったアイテムが希少だった。そんなある雨の日、同級生のKがスーパーボールを持ってきた。スーパーボールは駄菓子屋で簡単にしかも安価で購入しきるものであったが、Kが持ち込んだのはガチャガチャで入手したしかもアタリのもので、少し大きめでスケルトンの綺麗なものだった。みんながそれにざわめいた。そして恐れていた現象が巻き起こった!スーパーボールブームだ。このブームは年に一回くらいの割合でやってくる。これが起こると男子は猫も杓子もスーパーボールが欲しくなる。しかも駄菓子屋て売っているものではなく、ガチャガチャでしかゲットできない珍しいものをだ。そして・・・そのブームをなぜか嗅ぎつけた業者が、私のホームグラウンドである学校横のガチャガチャをスーパーボールに変える。そこには2台のガチャガチャが設置されているが、ひとつは男子用でもうひとつは女の子用。その男子用がスーパーボールになってしまうと、もう私は手も足も出ない。なぜなら私はさほどスーパーボールに興味がなかったのだ。にわかガチャガチャフリーク達のために、私にガチャガチャ氷河期がやってくるのだ。人生にはときとして、じっと我慢をして耐え忍ばなければならない時期があることを教わった。
2018.09.12
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20円のガチャガチャが登場したのと同じころ、クラスの友人から他のクラスに私と同じくガチャガチャに心血を注いでいるMという男子がいることを耳にした。私の中でMは顔と名前が一致している程度で、言葉を交わしたことは無かった。その数日後のある放課後にいきなりMの方から私に話しかけてきた。私がランドセルにつけていたキーホルダーを見て、言葉をかけずにおられなかったようだ。それは10円ガチャガチャのハズレの品だったが、なかなかカッコイイ飛行機のキーホルダーで私のお気に入りだった。Mは「ハズレでもアタリくらいのものが出たときはやったって思うよな!」と言ってポケットからあるものを取り出した。ハンカチの中に大切にしまわれたそれは、アニメや漫画のキャラクターでもなんでもない小さなロボットの人形だった。私は小さくて精巧にできているものに目が無かった。「うわ!なにそれ!」と私が驚くと、Mは嬉しそうに「これもハズレやってん。」と言って笑った。我々はお互いのお気に入りを交換するように手に取ってまじまじと見つめた。もう我々にとってそのときそれらはハズレではなく、アタリの品だった。そして運動場にある朝礼台に座って、時間を忘れてガチャガチャ話に花を咲かせた。世の中のアタリとハズレは時として自分の心が決めることもあるということと、同じ目的に邁進する者同士は言葉を交わす前から親友であり得ることを学んだ。
2018.09.11
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そのうち一回20円のガチャガチャが登場する。20円⁉ これはキツイ! と思った。資金が2倍必要になるからだ。しかし商品の魅力は2倍以上だった。ハズレが出てもそこは20円!結構いいモノが入っている。お金は2倍必要だが、商品価値は4倍に感じた。そんなとき教頭のY先生が昼休みに声をかけてくれた。「お前相変わらず学校の帰りにガチャガチャしてるんか?」Y先生は実家がおもちゃ屋で、私のような児童のあこがれの的だった。私が毎日とはいかないが週に1回ほど下校途中にトライしていることろを目撃した女子が先生にいいつけていたのは知っていた。先生のいないところ、また男子のいないところで悪行三昧をしている女子は何か事があればすぐ職員室にいって先生にいいつけて正義面(づら)することもガチャガチャを通して学んでいた。しかしY先生は私の行為を咎めることはなく、「どんなのが出るんや。」「お金はどうしてるんや。」「他の生徒がおらんときにやれよ。」なんて言ってくれた。私は20円のガチャガチャはお金が2倍必要だが4倍魅力があるものが出てくることを伝えると、Y先生はまだ低学年だった私に【2倍】と【2乗】の違いを教えてくれた。私はこのとき人生で初めて【2乗】を知って理解した。ガチャガチャの世界では、資金が2倍になると商品の魅力は2乗になる。私はガチャガチャのおかげで小学校低学年にして図らずも二次関数を理解することとなった。
2018.09.09
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第二フェーズはそのチャンスに巡り合うのに運が必要であった。ガチャガチャの機械にカプセルを詰める様子を知りたいのだ。親と一緒にいるときはなかなかガチャガチャにトライすることは難しい。そうなれば私のホームグラウンドは学校の前にある駄菓子屋となる。その店は登校時間にはまだ営業していないので下校時間が勝負となる。しかしそのチャンスは夏休みにやってきた。飼育係だった私が動物小屋のアヒルにエサを与えに行った帰りだった。1人のおじさんがガチャガチャにカプセルを入れている。まずは7分目くらいまでハズレカプセルを入れる。そして手で側面に空間を作ってそこにもう片方の手でアタリカプセルを入れていた。それはカプセルが満タン状態のときに、アタリを狙うことは不可能であることを意味していた。ここで私は観察の重要性と、観察ポイントを自分で考えだす必要性を学んだ。
2018.09.08
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まずガチャガチャ本体を観察してみる。最初はもちろん正面のポップだ!これに誘惑されるのはいうまでもない。次に目がいくのはその側面だ。中が見える。ここには我々が欲しいと思うものが詰められている。だからトライしてみようと思う。しかし更にその奥をよく見てみると・・・アタリ商品があるのは外側ほぼ1列だけで、あとは関係のないものが入っている。ある程度数えてみると、やはりハズレ商品の割合の方が圧倒的に多い。実際になけなしの10円玉を投入して回してみる。そのとき側面のカプセルの動きを観察してみる。私がカプセルを1つゲットしたら、その体積の分内部のカプセル群の高さが微妙に変化する。しかも回す瞬間カプセル全体が少しスクリュー状に回されるようだ。ともかくカプセルは下方中央から落ちてくることが判明した!ここで私は【観察】の重要性を学ぶ。そしてその観察は第二フェーズに移行する。
2018.09.07
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当時のガチャガチャもの現在と同様でカプセルの入った部分は両サイドが透明になっており中の様子の確認が可能で、その正面にはどんな商品が入っているのかが詳細に記載されたポップが表示されている。もちろん我々はそのポップの中にあるものが欲しくてトライする。しかし現在との大きな違いがそこにはあった。現在はたとえば車のガチャガチャであれば『ランボルギーニ・コレクション』なんて銘打たれて【全8種】とかの条件がつく。その中で欲しいものが1つあるのなら1回トライしてそれをゲットできる確率は1/8だし、欲しいものが2つなら2/8=1/4の確率となる。ここには既に中学数学で学習する[確率]の単元学習が可能となる。ところが当時のガチャガチャは、ポップの「あたり商品」以外は何がでるか分からないという過酷な代物であった。車がほしくてなけなしの10円玉を投入したのに、指輪が出てくるといった過酷さであった。男子としてそのときの落胆ぶりはそれこそ半端なものではない。そこで私は世の中の厳しさを教わった。しかしながらまた10円玉を入手できたらトライしてしまう。そしてハズレが出る。これを何回か繰り返したあと、なぜハズレに遭遇するのかを考えるようになる。
2018.09.06
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私が長きに渡って興じている趣味のほとんどは幼少の頃か青年期に出会ったものなので、そのほとんどが親の恩恵と承諾を必要とした。しかしあれは違う。もちろんときとして親の恩恵で楽しんだこともあったが、基本的に親はあまり好印象を持っていなかった。それをかい潜ってのものだったので、ある意味あれは私の『黒歴史』的なものだ!その正体は!ガチャガチャである!!!誰が名付けたかは不明であるが、なんと心地良い響きの言葉であろうか。正式にはカプセルトイというらしくアメリカ発祥で、1965年に日本に導入された。そして1970年には日本全国で見われるようになった。値段は10円。当時の子供たちにとって10円は結構な値段だった。10円持って駄菓子屋にいくと贅沢さえしなければ2から3種類のお菓子買えた。プラスチックのストローの中にゼリーが入ったものであれば10本買えた。しかし我々はその10円に夢をのせてハンドルを回した。文字通りガチャガチャと!
2018.09.05
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映画『スターウオーズ』で、ジェダイの騎士最強と謳われたヨーダと対峙したドゥークー伯爵が言う。I've became more powerful than any Jedi,even you.「私はどのジェダイの騎士よりも強くなった、あなたよりも。」その言葉に対して笑みを浮かべながらヨーダが返す。Much to learn you still have.「おまえにはまだ学ぶことが多くあるぞ。」・・・そう。人間どの世界においても「これで完成」「これで終わり」と思った瞬間に成長は止まるのだ。どの世界においても学び続けることで人は成長し進歩する。そして「学ぶ」ことは、その気になれば何からでも誰からでも学ぶことができる。かつで偉大な文豪・吉川英治氏は小説[宮本武蔵]に名言を残した。『我以外皆我師』と!・・・子供の頃私は、大人になればもう勉強しなくてもいいと思っていた。だから早く大人になりたかった。今年齢52歳となった。どこからみてもベタベタのおっさんであり、大人である。しかしながら「学び」は続いている。先日ある新聞記事を読んで、そういえば私の今までの人生で一番長く、そして多く様々なことを教えてくれていいるものは何だろうと考えた。真っ先に頭に浮かんだのは、バイクでもなくプラモでもなく・・・あれだった!
2018.09.04
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休みの日に奥さんといったラーメン屋のラーメンの美味しさ。仕事仲間のすばらしさ。子供たちの成長ぶり。Sの書き込みは身の回りにいる人やある物のすばらしさを短い文章と1枚だけの画像でさらっと伝える。それが本当に読むに心地いい。それらを目にしながら、ふと私も彼のような目線を持てたなら、少しは人生が変わっていたのではないかと思うことがある。俯瞰で自分自身を見つめることは大切だ!冷静な自己分析ができる。ただそれを実行し過ぎた挙句の果てに、ある意味自分自身を見失ったのは私の方なのだ。
2018.09.03
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つい数か月前に私はインターネット上でSと再会した。彼が私を見つけて連絡をくれた。しばらくは懐かしい話のメールのやりとりが続いた。月に何回かのペースでSは書き込みをするので、自動的に私も閲覧する。他にもネット上で何人かの知人とはつながっているのだが、そのほとんどの書き込みは何を見せられているのか、何を見せたいのか、どう反応してほしいのか、皆目見当もつかないものばかりで正直うんざりしている。「鍵を無くして家に入れない。さてどうしよう。」と閉ざされた玄関の画像をアップするヤツ・・・。アップする間がなんねんやったら鍵探せ!と言いたい。「出張が終わったので今から新幹線で帰ります。」と座席の窓枠に置いた缶ビールとつまみの画像をアップするヤツ・・・。お仕事ご苦労様です、よく頑張ったね・・・って言ってもらいたいんか?ええ歳したおっさんが!言い出したらキリがないが、「お前には興味無いわ!」と思っているヤツに限って、そんなどうでもいいことを毎日のようにアップする。しかしながらSの書き込みは違う!一味も二味もだ。相変わらずSの目線は他者を見ている。もちろん理想というフィルターをかけてだ。そのフィルターを通せば、目線の先にある人や物の良いところを鮮明に感じとることができる。
2018.09.02
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目線を【自分】に向ける人間、【他者】に向ける人・・・目線に『現実』というフィルターをかける人と、『理想』というフィルターをかける人・・・その組み合わせは単純に考えると、【自分】を『現実』で見る人、【自分】を『理想』で見る人、【他者】を『現実』で見る人、【他者】を『理想』で見る人、、、の4つ!どの要素も大切ではあるが人それぞれいずれかの目線をメインとして人生を歩んでいるのかも知れない。理想・理想だけでも困るが、理想はときとして現実を軽く凌駕する。つまり理想の前においては現実なんて鼻息ひとつで吹き飛んでしまうほどの存在であるとも言える。理想を追い続けてやがてそれを現実のものにすることも可能だ。現実・現実と言って現実だけに目線を向けていたら、あるいは何の進歩もなく現実の中に埋もれてしまう危険性もあるのかもしれない。
2018.09.01
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