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結論なんか出ない不毛な思考を巡らせていたら、気づけばお昼前になっていた。私は義務的に身支度を整えて、レポートをカバンに入れてバイクに大学に向かった。そのまま学食等で昼食を済ませる手もあったが、私はレポートを教授に提出したらすぐに帰宅した。徒歩で大学を往復でもすれば少しは体も温かくなったであろうが、防寒対策をしているとは言え冬の寒空の中をバイクで往復すると身体は冷え切ってしまう。その状態で帰宅して、冷たいままのチキンハンバーグを冷たいままのご飯と共に食してみた。部屋に暖房をつけずに食してみた。冷ご飯の上に、ヨレヨレになった袋をあけて冷たいハンバーグを乗せた。そして最初に箸でひと口サイズに割ったハンバーグを口に入れてみた。あのときほど、小学1年生の冬ほど冷たくは感じなかった。しかしもちろん冷たかった。懐かしい。懐かしい感覚だった。まずハンバーグを乗せた舌に冷たさが伝わる。咀嚼すると歯にも冷たさが伝わる。それでもしばらくすると口の中の体温で、少しハンバーグが温まったように感じてくる。しかしそれを呑み込んでみると、やはり冷たい。その冷たいものが、食道を伝って胃に到着する。寒いときに冷たいものを胃にいれると、一瞬ブルっと身震いする。それをひたすら繰り返す。繰り返せば繰り返すほど、体温が低下していく感じがする。
2018.03.31
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それからしばらくは何をするでもなくただ時間を過ごした。もう何をする気力も失せていて、だた椅子に座ったり布団の中に入ったりして時間を持ちあました。そのうちアパートの近所の子供たちが登校する声や足音が聞こえてくる。その声や足音の主たちにもそれぞれ親という存在がいて、日々絶え間なく彼ら彼女らに愛情を注いでいるのだ。それを一身に受けて元気いっぱい今日も学校で勉強をし、友達と遊び、また家に帰っていく。そこには彼ら彼女らの実りある学校生活を過ごしてきたことと、元気で無事に家に帰ってくることを祈る親たちがまっているのだ。そんな子供たちの何人が、将来私のようにその有難みを愚かにも忘れ去ってしまう道を歩んでしまうのだろう。願わくば、一人もそんなバカな人間にならないでほしい。そんな人間は私一人であってほしい。そんなことを考えた。考えたって何の慰めにもならないし、何の取り返しをつけることもできないことも分かっていたが、、、考えた。
2018.03.30
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気付いたときにはもうハンバーグを入れた鍋からはもう水蒸気は出ておらず、中にある水もハンバーグも冷え切ってしまっていた。私はそれに手をつけずに再び机に向かってレポートに目を通した。そして誤字脱字の有無を確認して提出可能状態に仕上げた。それを机の上に置いて、布団に潜り込んだ。何をする気にもなれなかったので、少し仮眠をとろうと思った。しかし目が冴えてしまって一睡もできなかった。考えても考えても、、、思い出しても思い出し出も、、、途切れることなく脳裏を駆け巡る、母が私にしてきてくれたことの数々。それにひきかえ何も浮かばない、、、私がそれまでにしてきた母への恩返し。つくづく自分が情けない!それだけが明確に理解できる唯一の事実であった。情けなさ過ぎて涙も出ない。「彩色されてゆくことだけで、それを成長と呼ぶのなら、僕は彩りを拒むことでしょう。」私が小学生の頃から好きな詩人の歌の一節がふと頭に浮かんだ。このときその意味がなんとなくではあるがはじめてわかったような気がした。
2018.03.29
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一週間、、、いや10日ほどだろうか、子供が帰省する機関を想定して何日目には何を食べさせて、何日目にはどこに行ってと母なりに計画を立てて、その日が来るのを楽しみにしていたことだろう。それを私は裏切った。ウソをついて裏切った。あのとき電話で私が「風邪をひいて熱があるので帰れない」と言ったとき、、、母が言葉を発するまで5秒くらい間隔があった。あの5秒ほどの時間に母は何を思ったのだろう。私はそれすら推測しようとしなかった。『親の心子知らず』とはよく言ったものだ。まさに私のことではないか!子供がある時期親のことを邪魔臭く思う。反抗期といって教育学的にも広く認識されている。しかしそれはまだ物事の分別がつかない子供の頃の話だ。このときの私はそうでなはい。ただの馬鹿。ただつけあがった馬鹿である。いつの間にか、一人で生まれて、一人で育って、一人で一人前になったような感覚に陥っていただけの大馬鹿だ。いつ子供は親より偉くなれるというのか!?そんなことも考えられないような馬鹿の成り上がり以外の何物でもないではないか!!私はそのハンバーグの袋を見ながら1時間ほど身動きできないままで、そんなことを考えた。
2018.03.28
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大晦日、元旦と2日間に渡って学友と思惑通りにどんちゃん騒ぎをして過ごした翌日の1月2日。正月にも関わらず宅急便の段ボールが届く。母からだった、中にはバナナ・みかん・うどん・そば等々、子供が風邪をひいたとき母がいつも用意してくれる食べ物と、風邪薬、タッパーに詰めたおせち料理、それと手紙が入っていた。まず手紙を手にした。風邪で熱があるのだからああしろこうしろと当たり前のことがまず書かれていた。次はうどんはどうしろ、そばはどうしろ、おせち料理はどうしろ、といちいち細かい指図か書かれていた。「そんなもん好きにするわ!」と手紙にろくに目を通さなかった。そして「ひとりでこんだけ食えっちゅうんかい。」「箱から全てを出して冷蔵庫に入れるだけでも面倒臭いわ。」と思った。あのときはそうしか思わなかったし感じなかった。でも今私の目の前にある、熱でヨレヨレになったハンバーグの袋はそのときの母の気持ちをこれでもかと投げつけてくる。あの母のことである。年末に子供が帰ってくることを楽しみに、11月の末頃からおせちの食材を買い込んでいたのだろう。保存の効く食材に関しては母はいつもそうしていた。年末になって買うと値段が高いからといつもそうしていた。そうやって決して多いとは言えない収入のなかで、5円・10円を節約して我々3人の子供を育ててきたのだ。
2018.03.27
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しかしながら!我々子供は、親のそんな配慮も優しさもほとんど見えず感じず、、、いや、見ようとせず感じようとせずにのうのうと平気で生きている、、、そういう存在なのだろうか。長時間の過熱によりヨレヨレになったチキンハンバーグの袋は、それらの事実を私にこれでもかと突きつけた。なのに私はどうだ、、、昨年末に私は母に何をした?そう、、、この前年の12月の中頃だった。母から電話があった。「年末年始くらいは帰っておいでよ。」そう言われた。その言葉に返事をすることすら面倒臭く思った私は、「はいはい、帰る帰る。」と返事をした。さらに母は「帰る日が分かったら連絡ちょうだい。」と言った。私は「はいはい」と言って受話器を置こうとした。置こうとした受話器から母の言葉が続いているのは聞こえていたが、知らん顔して電話を切った。それから何度か母から留守電が入っていた。「帰る日が分かったら電話ください。」、、、と。面倒臭いと思いながら、電話をせずに気づけば12月29日の朝がやってきていた。その日たまたま本屋で学友と出会った。彼はこの正月は帰省しないと言う。私は何も考えずに、年末年始は自分も帰省せずに彼とどんちゃん騒ぎをして過ごそうと思った。そして学友の同意を得て実行することにした。帰宅するとまた母から留守電が入っていた。「今日帰ってくるの?明日帰ってくるの?また電話してください。」私はその夜母に電話をし、風邪をひいてしまい熱もあるので今回は帰省しないとウソをついた。そして「大丈夫か?お医者には行ったんか?」との母の言葉を遮って「もうしんどいから寝る」と言い放ってまたもや電話を切った。
2018.03.25
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それを聞かされたのも高校生のときだった。もう3年生になっていたと思う。それまで私は決して『良い子供』ではなかった。子供の愚かさで、時として母にひどいことを言いもした。それも一度や二度ではない。殺されたって仕方ないような暴言も吐いた。母はそれらの言葉に対していつも真っ向から立ち向かって来てくれた。怒りを露わにしたしたときもあった。一度だけ、一度だけ、号泣させてしまった夜もあった。しかし、私がどんな暴言を吐いても、一度たりとも母は、お前のせいで私は母親の葬儀にも行けなかった。そんな辛い思いまでして産んだ子供がこれかと思うと情けない!お前なんか産まなければよかった!・・・といった言葉を私に投げかけたことなんか無かった。いや、そんなきつい言葉でなくても、何気ない日常会話の中でも母は、お前がお腹にいてたから母親の葬儀に行くのをやめた。とさえ私に言ったことが無いのだ。子供に不利な事実を、あるいは子供の心に少しでも余計な負担をかけてしまう可能性のあることを、子供に告げないのが親という存在なのだろう。たとえその子が、自分に不利な事実を、あるいは自分の心にこれでもかという程の負担をかけてしまう可能性のあることを告げてきたとそしても、子供への配慮を怠らないのが親という存在なのだろう。
2018.03.25
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こんなことが数えきれないほど、瞬時にして頭を過った。その中でも一番私を愕然とさせた思い出があった。その他のどの記憶よりも鮮明に覚えていなければならないものなのに、私はこのことをしばらくの間忘れたまま生きてきていたことに愕然とさせられた。あれは高2の夏だった。私はふと母方の祖母について知りたくなって、どんな人であったのか母に聞いたことがあった。私が幼少の頃から、母は自分の母親のことをたまに話してくれていた。母は自分の母親のことが大好きで尊敬もしていたことも私は知っていた。しかし私が生まれる前に他界した祖母の詳しい話を知りたくなったのだ。母は1時間ほどの時間をかけていろいろ話してくれた。そして祖母か大阪で他界したとき、我々一家は兵庫県の豊岡にいたので母は葬儀に出席できなかったことをはじめて聞いた。その日は「ふ~ん、残念やったな。」といった感じで聞いていたのだが、翌日はっとした!年代を計算してみると、祖母が他界したのは私が生まれた年であることに気付いた。祖母の他界が4月末、私が生まれたのが5月末、、、。そういえば随分昔父が「お母ちゃんのお母ちゃんが亡くなったとき、わしは一人で豊岡から大阪まで葬儀に行って大変やった。」なんてことを言っていた記憶もよみがえってきた。その何日か後、私は母にそれを話してみた。すると、やはり母が祖母の葬儀に出席できなかったのは、私がお腹にいて臨月を迎えていたため医師からストップがかかったからだった。その事実を私はあのときはじめて聞かされたのだ。
2018.03.22
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あのとき母は一体どれくらいの時間私を抱え上げたままでいたのだろう。どう思い出しても10分以上はあったはずだ。そしてあのときの私の体重はどれくらいだっただろう。三歳児の平均体重は14kg台だったはずだ。私の母は逞しい体系でもマッチョでもない、どちらかといえば小柄で華奢な人だ。体重14kg前後の子供を10分以上持ち上げるのは、そんなに容易なことではなかったはずである。窓の高さ的に肩車してしまうと私の目の位置が窓枠のさらに上にいってしまい景色が見えない。だから母は両手で私を持ち上げ続けてくれた。なのに、一言もしんどいと言わずに私を両手で持ち上げ続けてくれた。我が子に大好きなウルトラブンを見せてやりたい、、、それだけのために持ち上げ続けてくれた。あのときの私は、当たり前のようにパレードを見て当たり前のように喜んだ。私がそれを見るために母がどんな思いをしていたのかなんて、この瞬間まで考えたことすらなかった。あのときは考えが及ばなくても、それからいくらだって考えることはできたはずである。しかし私は考えようともしていなかったのだ。やはりこれが子供というものの愚かさか、、、そう思い知らされた。
2018.03.18
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私が周りの景色を見飽きてしばらく経ったころ、通りがざわつき始めた。パレードがやってきたのだ。外の景色が見えていない母にもその騒ぎの音が耳に入った。「来たやろ?見えるか?」と私をさらに高く持ち上げてくれた。「来た!見える!」「あ、いてる、ウルトラセブンがいてる。大きなトラックの上にいてる。みんなに手をふってる。」そう言って私も眼下に見える大通りに向かって手を振った。ウルトラセブンと数体の怪獣を乗せたトラックが現れて姿を消すまで10分くらいはかかっただろうか、、、。パレードが通り過ぎたことを告げると母は私をトイレの床にゆっくりと下ろした。「ウルトラセブンどうやった。カッコよかったか?」「うん、カッコよかった。みんなに手を振ってた。」「そうか、よかったなあ。来た甲斐あったな!」そんな言葉を交わしたあと、我々はその百貨店の屋上のベンチで朝から母が作って持参してきてくれたおにぎりを食べた!しかし、しかしだ。よく考えてみれば話は変わってくる。今現在あのときの母の年齢にあのときより近くなった今だから、このヨレヨレのハンバーグの袋の意味を知らされた今だから、あのときの母の立場になってあのときの状況を考え直すとこができるではないか!
2018.03.16
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あのときもそうだ。私はウルトラセブンが大好きだった。ある日曜日に松本市の街中でウルトラセブンが来るパレードがあった。母は私の手を引いて連れていってくれた。私は前日から楽しみで仕方なかった。バスに乗って到着した大通りは既に黒山の人だかりで、パレード直前にたどり着いた我々親子は人垣から弾き飛ばされた。落胆した私を見た母は背後にあった大きな百貨店のビルに入った。そして階段を随分上ったところのフロアにある女子トイレに私を連れて入った。そこには小さな窓があった。その窓は少し高い位置にあり、外の景色を見ようとすると母でも背伸びしないと見えなかった。母は私の両脇に手を入れてその窓から外が見えるように持ち上げてくれた。「見えるか?」と母は私に声をかけた。一瞬遠くの景色に見入ってしまっていた私だったが、目線を下に落とすとさっきの人だかりの向こうにあつ大通りがちゃんと見えた。「見えるけど、、、ウルトラセブンはいてない。」と言った私に「また来てないだけや。もうちょっとしたらきてくれるからよう見とき」と母は返した。私は言われるがままに通りを見続けたが、パレードは来ない。「まだ来えへんで」と私が言うと、母は「ほな遠くの景色見とき!山が見えるやろ」と言ってくれた。「うん」と返事をして山々の景色や、遠くの建物なんかを見て時間をつぶした。
2018.03.15
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高校1年の秋、、、家である探し物をしていてた私は父の給与明細書を見つけた。2年ほど前のものだった。その額面を見て驚いた。それまでなんだかんだ言いながら、我が家はそんなに貧しくないと思っていた。でも他の友達の家よりいつも少しお金を節約しなければならないのは、3人も子供がいるからだと思っていた。しかし違ったのだ。2年前の父の給料の手取り額は、高校生の私が夏休み中アルバイトに明け暮れて稼いだ額に及んでいなかった。もちろん父のは社会保険料や年金や各種税金も天引きされた金額で、私のは何も天引きされていない額だということも分かっていた。それでも驚いた。母はこの額の収入をやりくりして我々3人の子供を育ててきたのだ。なのに、、、なのにあの何ヵ月か後、、、私が不機嫌に半分のバナナを食べたあの日から何か月か後、、、母は私を近所の農協に連れていった。そこで注文して取り寄せた一房のバナナを受け取ってお金を払った。私はびっくりして歓喜した!「今度はぎょうさん食べれるで」と母は笑顔を見せた。あの一房のバナナはいくらしたのだろう。またあのときの父の月収はいくらだったのだろう。それを思うと、有難さと申し訳なさで頭がいっぱいになった。
2018.03.14
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そうだ!そうなんだ!このとき改めて気付かされた。こんなハンバーグのことなんてほんの一部に過ぎないのである。我々子供はいつも、常時、四六時中、親の想いのなかで生きているのだ。しかしそれがいつも過ぎて、、、そのうちそれらが身の回りにあって当然で、しかも目にも見えなく、肌でも感じなくなってしまうのが子供という存在が愚かである所以なのかもしれない。でも、それでも思い出そうとすればちゃんと思い出せるではないか。あの長野の寒い日、、、幼い私は母にバナナを食べたいと言った。当時まだバナナは高価な食べ物だったが、あのときの私はそれを知る由もなかった。その日2人で買い物に行ったとき、母は果物屋でバナナを半分買って与えてくれた。1本食べたい、、、そう思った。なんで半分なんてケチをするのか、、、そうも思った。半分だけのバナナを買うのになんで店のおじさんとこんなに長い話をして私を待たせるのか、、、とも思った。でも違うのだ。今なら分かる。いくら高価な物でも半分売っている訳はなかったと思う。おそらく1本買うことは財布が許さなかったのだろう。でも子供に食べさせたいと思ってくれたのだろう。だから、、、恥を忍んで許される予算の分だけのバナナを買おうと交渉してくれたのだろう。なのにあのとき私は待たされたことと半分しかないことに機嫌を悪くした。仏頂面でふてくされて食べた。「おいしいか?おいしいか?」との母の言葉にも何も言わずに私は食べ続けた。こんなことを言い出したらキリがない!本当にキリがない!いろんな思い出が次々と脳裏に浮かんできた。
2018.03.13
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ハンバーグの袋がこれほどヨレヨレになる理由。それは袋の素材の問題ではなく、加熱時間の問題だった。あのとき、私が小学1年の冬、母はあの朝の忙しいときに、夫と三人子供を送り出すと同時に自らの外出する支度を強いられていたときに、1時間ほども時間をかけてハンバーグを加熱していたのだ。それはただ鍋に火をかけて放っておいただけではないかと思う人もいるだろう。しかし母の性格から考えれば鍋の火を気に駆けながら多忙な時間を過ごしていただろうことに関しては確信がある。その証拠にあの鍋の中のお湯はこんなに減っていることは無かった。つまり母は小まめに鍋の中の様子をチャックして、お湯を足していたに違いない。他の用事もこなしながら、1時間近くハンバーグを温め続けていたのだ。ではなぜ数分でいいものをそんなに温めていたのか!それは、私が帰宅したときに少しでも温かさが残っているように、、、である。幼い息子が一人で昼食を食べるときに少しでも温かさを保っているように、、、である。おそらく母も内心はどんなに朝に加熱していたとしても冬場のお昼までその温かさが残っているとは思っていなかったはずである。でも時間をかけて加熱したのだ。そうせずにはおられなかったのだ。それは子を想う母の気持ち以外の何物でもなかったのだ。今、、、目の前にあるこの加熱し過ぎたハンバーグの袋は、私にそれを明確に認識させた!
2018.03.05
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大学生になって、その安さと思い出深さから頻繁にレトルトのチキンハンバーグを購入していた。そして温める度にふと思うことがあった。昔に比べてハンバーグの袋の素材がよくなっていると、、、。昔、、、私が小学生になって初めての冬、、、。毎土曜日毎に食べていた冷たくなったチキンハンバーグ。朝、母が温めてくれたのに、私が帰宅した頃には冷たくなっていたあのハンバーグ。あのハンバーグの袋の端々は、ヨレヨレになっていた。温めていたときの熱のせいであろうことは幼い私にも理解できた。しかし、大学生になって再び食べ始めたハンバーグの袋はいくら温めてのあのときのようにヨレヨレになることは無かった。袋の素材が良くなったんだろうと私は思っていた。それがどうだ!今私の目の前にあるハンバーグの袋は、あのときと同様に縮んだようにヨレヨレになっているではないか。それが意味することは一つであった。
2018.03.03
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そこからは一気にレポートを書き上げた!書き終えて、また1枚目から原稿用紙に目を通してみる。今回も我ながら上出来だった。10枚目ほどまで読み返したところで、ふと喉の渇きを感じた。なにか飲みたいな・・・と思った瞬間「あっ!」と声を出してしまった。そう!火をかけた鍋にハンバーグを入れたままだったのだ!時計を見ればもう7時を過ぎている。火をかけた鍋を1時間ほど放置してしまっていたのだ。台所に急ぐと、まだ鍋から水蒸気が上がっていたので少し安心した。コンロの火力を最大にしなかったことも結果的に功を奏していたようだ。コンロの火を止めると同時に鍋の中を覗いた。まだ鍋底に少しお湯が残ってはいたのだが、私の目はレトルトハンバーグの袋にくぎ付けとなった。必要以上に加熱されて、ふにゃふにゃになって若干縮んだようにも思えるこの感じ・・・。私は遠い昔にも同じ光景を目のあたりにしていた。それも1度や2度ではない。なんども目にしていたことを思い出したのだ。
2018.03.02
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鍋一杯に水を入れて、それがお湯になるのを待たずにチキンハンバーグを投入する!そして冷蔵庫からご飯を出してレンジにセットしておく。レンジに火を入れるのはハンバーグが十分に温まってからだ。ガスコンロの火力に温め作業を任せて、私は再び机に向かう。長考に入ったときは、下手にそこから脱出しとうとはせずにどっしり時間をかける気持ちで臨む。この方が返っていい結果を得られることも、これまでの経験で知っている。なので自分のレポートを最初から読み返してみる。どこかに長考脱出のヒントが隠されているかもしれないからだ。原稿用紙12~3枚目辺りまで読んで「あッ!」と気づいた。ちゃんを布石を打っているではないか!この布石さえあれば、私の今回の論はしっかりとした説得力を維持しつつ完成できるではないか。俺は何を迷っててん!と自分にツッコんでしまった。書く前にちゃんとプロットを用意していないからこうなるのだ。しかしプロットを用意してしまうとそれ以上の文章が完成することもないので、私は文字でプロットを用意しない。ペンを走らせれば走らせるほど、頭の中に描いた以上のものが出来上がっていく様が私にとってたまらなかった。ここで息を吹き返した私のペンは、一気呵成に原稿用紙文字を並べたてた。
2018.03.01
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