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チベット仏教の高僧ダライ・ラマ(Dalai Lama)の名を知る人は多い事でしょう。しかし「ダライ・ラマ」が観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の化身だったと知る人は少ないかもしれない。観世音菩薩とは、救いの声(音)を観じた時に、すみやかに救いの手をさしのべてくれる菩薩様の事です。日本に渡っている観音信仰の菩薩様はいろんな姿(種類)がおられますが、チベットではダライ・ラマの魂が繰り返しダライ・ラマを継承。現在のダライ・ラマ14世は4歳の時に生まれ変わりを認定され5歳で即位された方です。日本びいきでコンビニでの目撃情報もある気さくな人柄のようです。(中国に迫害されていますが)チベット仏教にブレは無し。素晴らしいですねさて、話はそれましたが、今回は日本の観音信仰の霊場からの紹介です。西国三十三所 観音霊場 八番札所 長谷寺 1西国三十三所 観音霊場大和国・長谷寺長谷寺式観音長谷寺へのゲート残念ながら仁王門が修復中でホロを被っていました西国三十三所 観音霊場大和国・長谷寺は「西国三十三所 観音霊場 八番札所」になっていますが、実はこの「西国三十三所」は長谷寺(はせでら)を開山した徳道上人が閻魔(えんま)大王からの要請で開かれた・・とされています。つまり長谷寺が本来最初の観音霊場なのですが、西国(和歌山、奈良、大阪、京都、兵庫、滋賀、岐阜)の巡礼路を考慮して札が付けられているようです。因みに、「西国三十三所」、「坂東三十三箇所」、「秩父三十四箇所」で日本百観音となるらしい。※ 「大和国・長谷寺」としているのは全国に幾つも長谷寺があるからです。特に関東圏の霊場「坂東三十三箇所」には鎌倉と厚木の二箇所に長谷寺があります。(鎌倉は大和と同じく徳道上人が開祖となっている。)大和国・長谷寺 境内地図地図の下の矢印↑が上の写真の位置。次の矢印↑が登廊の始まる仁王門です。オレンジで記した登廊(のぼりろう)は山の上の本堂まで続く屋根付きの長廊下で、この寺の特徴です。長谷寺の歴史は686年(朱鳥元年)天武天皇の為に「銅板法華説相図」を初瀬山の西に安置したのが縁起らしい。(本長谷寺の開山者は道明上人)そして727年(神亀4年)初瀬山の東に伽藍を造営して開山。衆生救済の為の十一面観音(重要文化財)を本尊に祀ったのが先に紹介した観音霊場の祖である徳道上人です。仏教に国家鎮護の役割が担われた奈良時代、観音信仰はあっという間に広まったそうです。登廊(のぼりろう) 仁王門の下から撮影登廊(のぼりろう)は鎌倉時代(1039年)春日大社の社司 中臣信清の子の病気平癒の為に寄進されたものだそうだ。399段(108間)上中下の三廊に別れていて中廊と下廊は明治期(1894年)に再建されたもの。下廊の脇は牡丹の畑となっている。4月16日~5月8日現在、牡丹祭り開催中。今年は開花が遅れていたもよう。中廊と上廊の間、蔵王堂から僅かに見えるのは鐘楼です。山深く木々が邪魔をしているので本堂を下から撮影するのは不可能でした。下が鐘楼です。鐘楼の所から上廊を下に見た所。まさに山を登っている感じですね。でも階段は浅いのでそんなに苦ではありませんでした。長谷寺名物の正午を知らせるホラ貝であるが、修行僧の日課らしい。また深夜8時の雄叫びも有名だそうだ。雨でもほぼ濡れずに本堂まで来れるのは嬉しいですね。本堂の伽藍は中央が土足で通り抜けできるようになっている。その理由が長谷寺のご本尊、十一面観音(重要文化財)を間近で拝む為である。長谷寺式観音実は長谷寺の観音様は身の丈10m18cmと巨大なのである。木造の十一面観音像としては国内最大級だそうだ。当初の像は仏師稽文会(けいもんえ)・稽主勲(けいしゅくん)が近江国高島より来た霊木を彫ったもの。733年(天平5年)行基(ぎょうき)により開眼された。しかし度重なる火災により現在の像は1538年(天文7年)大仏師運宗によりはぎ寄せ造りで再造されたものらしい。(特別展チラシより)右手に数珠と錫杖。左手に水瓶蓮華を持ち方形の盤石に立位。地蔵菩薩のごとく人間界に下りて衆生を救済する姿を示したこの錫杖を持つ菩薩を長谷寺式観音と呼ぶそうだ。(通常の十一面観音に錫杖は無い)本尊の写真撮影は禁止されている。それ故冊子から写真を拝借。実は現在特別拝観が行われている。(春の部は~6月30日まで)特別拝観では通常立ち入れない宝本堂の中に入り観音像の足に触れる事ができるのだ。ちょっとバチカンのペテロの足を思い出しました。皆に触られてツルツルに・・。そしてお土産付き。仏の智慧(ちえ)をあらわす五色の糸をより合わせた腕輪。観音像の足に近づく時にこれを見につけるよう言われました。これにより観音像と御縁が結ばれた・・と言う印になるそうです。長谷寺入山料500円+本尊大観音特別拝観料1000円で1500円の所、共通券を先に購入すとる1300円になります。尚、上のミサンガのような五色の腕輪は、それだけ買うと確か700円していました。土産付きで1300円はお得です さて本堂続きです。本堂の舞台は山にせり出している。これを見て京都の清水寺を思いだしたのだが、清水寺も西国三十三所 観音霊場 十六番札所であった。舞台から見える景色載せきれなかったのでつづく。
2016年05月01日
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2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 2 (1の解答編)として紹介したものを書き換えました。ラストにBack numberを追加しました。室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)室生寺(むろうじ) の歴史興福寺(こうふくじ)の別当法相宗(ほっそうしゅう)如意山の宝珠女人高野(にょにんこうや)鎧坂からの金堂鎧坂から金堂も結構大変ですが、まだここは序章です。金堂から本堂、五重の塔と登り。それから奧の院までかなり体力が必要ですし、奧の院は危険度も増します。スニーカーで行く事を勧めます。場所は奈良の山奥。大阪からも時間的には遠くはありませんが駅からのバスのアクセスが非常に少なく不便です。土日や連休は寺を訪れる人の為に若干本数が増えていますが・・。山の中なのでタクシー代も結構高いです。前回紹介したのはAの橋からGの鎧坂を登った所までです。今回は金堂(黄色の丸)から先を紹介します。不便も含めて山の険しい石段でお年寄りには結構厳しい場所です。行けない人の為になるべく写真を詳しく載せる事にしました。国宝 金堂 建造は平安時代初期元は薬師堂だったと言われる。国宝指定の釈迦如来立像他、同じく国宝の11面観音立像は非常に細工が細やかで美しい。奈良、平安、鎌倉の時代に渡る国宝、重要文化財が安置されていて、ここは別料金で参拝できる。但し撮影は禁止。重文 弥勒堂 建造は鎌倉時代中期本尊、弥勒菩薩立像も重要文化財指定役行者(えんのぎょうじゃ)も祀られている。金堂からの弥勒堂弥勒堂では屋根の修復基金を求めています。ここはあちこち古びているので大口の寄付が欲しい所です。国宝 灌頂堂(本堂) 1308年建立(鎌倉時代)真言宗にとって重要な灌頂(かんじょう)を行う堂である。真言・天台密教の道場として日本の仏教に大きな役割を果たした寺である。寺の歴史は遡れば天平時代の770年~780年皇太子山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒の為にこの霊山にて僧が祈願した事がきっかけらしい。その後興福寺の大僧徒 賢憬(けんけい)(714年~793年)が朝廷の命により開山。しかしその後を賢憬に法相を学んだ高弟 修円(しゅえん)(771年~835年)が五重の塔など寺の建立に携わっている。興福寺(こうふくじ)の別当つまりこの寺は奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教、南都六宗の中の法相宗(ほっそうしゅう)が縁起である。そして法相宗(ほっそうしゅう)の大本山が奈良の興福寺(こうふくじ)である。※ 奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つ賢憬(けんけい)も修円(しゅえん)もその在籍は興福寺であり当初この寺は興福寺の別当(興福寺の管轄の寺)であった。以降、真言・天台密教の道場としてこのあたりの山一帯は奈良仏教界の山林修行の霊地となったらしい。法相宗(ほっそうしゅう)西遊記でお馴染み玄奘であるが、彼はインドかたくさんの経を持ち帰る。そして彼は持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げたと言う。その玄奘の弟子が開祖した宗派で遣唐使によって日本に持ち込まれた。日本では8~9世紀に隆盛を極めている。賢憬(けんけい)も修円(しゅえん)も広めた当事者である。また修円は興福寺に伝法院を設立するほどで空海や最澄とも親しかったと言う。国宝 五重の塔 高さ16.10m我が国最小の五重の塔である。寺の創設にかかわった修円(しゅえん)の時代に遡る事かせ天平末から平安初期の建立らしい。五重の塔の左脇から奧の院に進む階段がつながっているのだが・・。下の写真地蔵が並ぶ向こうの山が如意山と言う。如意山の宝珠寺には弘法大師(空海)が唐の師匠、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)より授かったと言う如意宝珠が山に埋められた・・と言う伝承が残っている。如意宝珠は菩薩や如意輪観音が持っている珠で意のままにどんな願いも叶えてくれる? そんな宝珠が1946年(昭和21年)実際に発見されたと言う。現在、宝珠は元の石像納経に戻したと言われその姿形も場所も公開されていない。奧の院で僧の方に聞いたのだが、宝珠はこの地蔵の裏手の方あたりに埋められたと言う。盗難の問題があるのでそれが本当かどうか解らないが・・。奧の院に進む階段ここから本格的な山登りとなります。(このあたりはまだ楽です)七重ヶ岳山道なので登ったり下ったり・・。写真は後ろを振り返った所。パワーの満ちあふれた年輪の行った杉林です。杉は万葉の頃から霊力の宿る神聖な木とされてきました。このあたりシダ類の生息域で天然記念物に指定されていました。またまた階段です。今度は歩幅が短く登るのはともかく降りるのは怖かったです。傾斜角はかなり厳しく、しかも手すりが低いしつかまる程の安定も無い・・。ぶっちゃけておきますが、山道の脇は何気に僧や尼のお墓だらけです 一人だったら怖い山道です。段数は本に寄れば390段余り・・。ガタガタで足下悪く登りにくいのが難点です。何度か休み休みやっと奧の院が見えました。振り返った所階段を登り切って最初に見えた景色です。左が 重文 御影堂 鎌倉時代 (高野山御影道の形式だそうです)右が売店ここまで登った者にしか買えない可愛らしいお守りが売っている。スモールサイズの梅と桜のお守りである。ストラップに調度よいサイズです 奧の院如意山山頂です。反対のテラスからは里山の景色が眺められます。さて、正解は女人高野と別称のある室生寺(むろうじ)でした。女人高野(にょにんこうや)とは、紀州の高野山が女人禁制だった為に室生寺に参詣する婦人が増えた事によります。(1450年頃には参詣の記録が出でいる。)はっきり呼ばれるようになったのは興福寺からの独立後? からかもしれません。江戸時代1694年、五代将軍綱吉の時代、彼の庇護を受けていた真言僧護持院降光が興福寺からの室生寺の分離を要求。以降正式に女性にも開かれた真言密教の寺院となり、綱吉の生母、桂昌院の庇護があり、幕府より多額の石(こく)をもらい寺は興盛。尚、その後室生寺は1964年真言宗豊山派より独立して真言宗室生寺派の大本山となっています。ゴールデンウイークにはバスも増発。しかも長谷寺までの臨時便が寺の駐車場から出るようです。この日は平日。バスは日中の1時間に1本あればよい方。たまたま来たタクシーで長谷寺へ。山道なので走る走る。空いていたので6000円ちょいでしたが、通常8000円くらいかかるそうです。今頃はシャクナゲが開花して連休は見頃でしょう。Back numberリンク 室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)まで室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや)
2016年04月25日
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2016年春 「ここはどこでしょう? 」クイズ 1 として紹介したものを改めて寺の紹介としてタイトルを変えました。2部構成で2回目が解答編でした。ラストにリンク先載せました。室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)まで門前町から室生寺(むろうじ)陀羅尼助(だらにすけ)と役小角(えん のおづぬ)と典薬寮(てんやくりょう)鎧坂(よろいざか)「ここはどこでしょう? 」クイズ 1 として紹介したものを利用しています。4月15日。と、ある山奥までやってきました。このあたり、かつては林業で栄えた街だったそうです。バスを降りて向かう先は非常に古いお寺です。観光バスで来る人は見ても気付かないかもしれません。赤い欄干の橋を渡るとそこは寺の敷地です。左に見える山も全て寺の境内です。門前町はノスタルジックな趣です。上のお店は薬局で、下の薬は胃腸薬「陀羅尼助(だらにすけ)」だそうです。和薬の元祖とも言われる「陀羅尼助(だらにすけ)」は吉野で造られる漢方薬で、黄柏(オウバク)の木の皮をはいで、煎じ薬にしたものだそうですが、その起源は1300年前に遡るそうです。陀羅尼助(だらにすけ)と役小角(えん のおづぬ)と典薬寮(てんやくりょう)修験道の開祖である行者の役小角(えん のおづぬ)が690年頃に起きた疫病から人々を救う為に大和国葛城の吉祥草寺の境内でキハダを煎じた(オウバクエキス)を作り飲ませたのが元祖らしい。食欲不振、腹部膨満感、消化不良、食べ過ぎ、飲み過ぎなどから整腸(便通を整える)まで幅広く利用できるので以来、黄柏(オウバク)エキス薬は山岳修験者の常備薬としても用いられたそうです。※ 他にゲンノショウコウなども入っているようです。修験者らは呪術の他、採薬、合薬術等の知識を持っていた。修行で山岳をを回る過程で薬草を見つけてくるだけでなく、植物の自生地から鉱脈まで見通していたと言います。その彼らの知識は宮廷官人の医薬として、また医師の養成および薬園等の管理をする典薬寮(てんやくりょう)との関わりも深かったようです。※ 732年(天平4年)には役小角の弟子で(韓国広足)が典薬寮のリーダー(典薬頭・てんやくず)に就任している。陀羅尼助と言う名前の由来は、僧侶が陀羅尼を唱えるときにこれを口に含み強い苦みで眠気を飛ばしていた事から? きているらしい 天然のヨモギを使用した草餅のお店です。五木寛之氏の百寺巡礼で紹介されたお店だそうです。ちょっと小ぶりで柔らかいお餅でした室生寺(むろうじ)に渡る最初の太鼓橋この界隈は寺に参詣した人達の食事処です。寺の表門ですが、都合により石柱の寺の名前を消してあります一般の参詣者はこの門からでなく川沿いに進んだ所に拝観入り口があります。拝観料は大人600円。金堂の国宝拝観は別途500円(お土産付き)。写真追加仁王門こちらも都合上石柱の大本山の下の名前を消してあります。写真追加この寺では境内5箇所にQRコードのガイドがあり、ダウロードできる箇所に関してはFree Wi-fiが利用できます。おトイレは仁王門前に一箇所。とても綺麗です。仁王門内側虚無僧スタイルの方が尺八を吹いていました。仁王門過ぎてから山に登る。室生寺(むろうじ)の名所の一つ「鎧坂(よろいざか)」です。幅の広い自然石の石積みの階段です。それが編み上げた鎧のようだ・・と言う事でこの名がついたそうです。行きはよいけど帰りが転ばないよう注意が必要です。両サイドはこの寺の名所の一つシャクナゲが植えられていますが、今年はまだでした5月の連休の頃には満開になる事でしよう。代わりにまだ遅咲きの桜が残っていて、その花吹雪は寺の職員も見とれるほどでした。金堂からの鎧坂方面風に揺られて舞う花びらが堂の中にもたくさん散っていました。この写真からはわかりにくいですが、拡大するとゴミのように白い斑点が写っているのがわかります。こちらは鎧坂を上から撮影したものです。寺の見取り図(一部)です看板を撮影したものですが光が反射して背景が写り込んでいた為に作画しています。次回解答編で、金堂や弥勒堂、五重の塔の紹介をしますが、実は五重の塔から先の奥の院までの距離がかなりあり、かつ険しい石段が続きます。(足の不自由な方や小さいお子さん連れは無理です。)たいてい紹介されているのは五重の塔の所までです。Back number室生寺(むろうじ) 1 鎧坂(よろいざか)までリンク 室生寺(むろうじ) 2 女人高野(にょにんこうや
2016年04月18日
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再び大阪に来ています 暖かくなって調度良い感じの気候になってきたようですが、季節の変わり目は高血圧になりやすいそうなので皆さん気を付けてください。実は父が血圧230をたたきだし驚愕したばかりです。(もともと薬は飲んでいなかた。)血圧計が狂ったのかと思う数値でそんなに高くなる事にも驚き。大慌てでかかりつけの先生に相談。降圧剤をもらってセーフ。こちらもドキドキする自体にストレス? 胃が痛くなりました アウグスブルク 4 (ペルラッハ塔・Perlachturm)ペルラッハ塔(Perlachturm)聖ペーター教会(St. Peter-Kirche)前にも紹介したように市長舎隣のベルラッハ塔は監視塔として989年には存在していたようです。(当初は30m)1614年~1616年(塔に表示された数字)に市長舎の建築家エリアス・ホル(Elias Holl)(1573年~1646年)によってルネッサンス様式の教会と鐘楼(70m)に作り変えられました。デザイン的には市長舎とセットになっているわけです。建物の表通りはショーウインドや店舗らしき物があるので何の建物か解りにくいが実は1階は教会となっている。当初監視塔であった塔は中世に鐘楼に造り変えられたようだが現在は鐘は無い? ほぼ全体が塔に上る階段でしめられていた。(エレベーターは無い。)午前中が雨でした 矢印は塔へ昇る階段の入り口。教会と独立している。(もし扉が閉まっていたらそれは管理のおばさんが不在と言う事。入り口に時間と値段が表示されている。)聖ペーター教会(St. Peter-Kirche)教会の設立は1067年頃。こぢんまりした清潔感ある教会である。前にオランダを旅行した時に思ったが、プロテスタントの教会は見るべき物が何も無いので本当につまらない。それに比べて小さくてもカトリックの教会は教会自体の歴史の重みが詰まっているのだ。同じキリスト教の教会でも付加価値がある感じです塔へは一端教会を出て別の入り口から昇ります。料金所が無いのでダタか? と思いきや、258段の階段を登った地上60m地点に料金所がありおばさんが座っていました。因みに上にトイレはありません。おばさんはトイレに行く度に下に降りるのでしょうね。料金一人€1.5観光客はアウグスブルクでの滞在時間が無いのでほとんどいない。かつての鐘が下がっていたであろう場所。今は現代的にコンクリートの階段になっている。フランドル地方など欧州では街のメイン教会にたいてい鐘楼が付属していて登る事ができるようになっていた。当時でこれだけの高さに上って見た景色は今よりも感動があった事だろう。何より立派な塔と立派な鐘は街のシンボルであったはずで、特にアウグスブルクと言う帝国自由都市において、まちがいなくランドマークであったろう。※ 帝国自由都市については、2009年12月「ローテンブルク 1 (城壁と帝国自由都市) 」城塞都市と帝国自由都市・・で、紹介。リンク ローテンブルク 1 (城壁と帝国自由都市)※ 自由都市については、2014年04月「ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)」自由都市ブルージュ(van het Brugse Vrije)・・で、紹介。リンク ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)矢印のあたりが展望料金所と展望所何百年前の塔でも安全対策が配慮された塔はここのように今も上る事が可能なのである。(中には日干しレンガで組み上げ階段は板張りの所もあり登るのは不可能の所も・・)前にもミラノ大聖堂の紹介などしているが、大抵は大聖堂の場合で、片側エレベーターが据え付けられ、片側は昔の螺旋階段・・と言うのが一般的である。※ まだ紹介していないが、ウイーンのシュテファン寺院も2本の塔、両方に登る事が可能。片側のみエレベーター付き。ここのように小さい塔はたいてい昔ながらの螺旋階段である。ここは穴場で塔を登るような人がいなかったので助かったけど大抵は塔の中ですれ違うのは大変な狭さである。※ まだ紹介していないが今まで一番狭かったのはデルフトの旧教会の塔である。(人がすれ違う為に余裕のある所まで戻らなければならない。)しかしこの塔も1944年2月の大戦の空爆の影響で上部が全焼。1950年に再建されたようです。展望所は塔の外通路だけでかなり狭い。落下防止の為にアクリル板がはりつけられ、かつそれに落書きするバカ者がいるのでとても汚いのが難。一応アウグスブルクの級市街を一望できるベストブレイスになっている。各のぞき窓の方面に見える景色の解説は写真付きで出ている。市長舎前広場左に隣接する市長舎市長舎の向こうに見える教会がウルリヒ&アフラ教会(調度あちら方面が南)東の方角には次回紹介予定のフッゲライがある。素朴な街である。旧市街の北側には大聖堂が見える。大聖堂は調度ローマ時代の何かの施設跡で、遺跡が庭や教会の地下などあちこちから発掘されている。ミュンヘンやウイーン、ザルツブルグなどもそうであったが、工事中に遺跡に当たる事は度々でそのたびによけたり工事を中断せざる終えない自体が多々あるようです。アウグスブルグの旧市街は中世と現代が混じった街なのです。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設次回フッゲライ予定
2016年04月11日
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Break Time(一休み)パスポートの更新・・多少訂正を入れました。m(_ _)mパスポートの残り期間・フランクフルト空港渡航先で必要なパスポートの残り期間フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)パスポートが5月末に切れるので都庁まで行って更新してきました。まだ2ヶ月あるから大丈夫・・と思ったら大間違いです。調べて見るとパスポートの残り日数2ヶ月で渡航できる国はほとんど無い事に気が付きました 例えば米国の場合、パスポートの残り日数は滞在期間+6ヶ月無ければビザの許可がおりません。欧州の場合も似たようなもので、シェンゲン協定加盟国に関してはやはり滞在期間+3ヶ月の残り日数を義務づけています。(EU加盟国以外のパスポートの人の場合)※ シェンゲン協定加盟国・・・アイスランド、イタリア、エストニア、オーストリア、オランダ、ギリシャ、スイス、スウェーデン、スペイン、 スロバキア、スロベニア、チェコ、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、ハンガリー、フィンランド、フランス。 ベルギー、ポーランド、ポルトガル、マルタ、ラトビア、リトアニア、リヒテンシュタイン、ルクセンブルク中東、アフリカの場合は大抵が入国の時に6ヶ月以上残っていなければならない。パスポートの残存期間が規定に満たない場合、飛行機の搭乗自体が断られるそうです。ツアーの方は旅行社の方でたいていチェックしてくれますが、個人旅行の方は事前に渡航先の状況を調べておく必要があります。そもそもパスポートの有効期限が切れていた時は戸籍抄本または戸籍謄本を取り直す必要があるので有効期限内に更新した方が便利です。早めのアクションを・・ ヾ(^o⌒*) v尚、パスポート用の写真はカラーであればマイナンバーカード申請の写真として使用できます。 (つまりサイズが一緒。)※ マイナンバーカードは個人を証明する身分証として利用できます。ですから、パスポート自体が期限切れの時はナイナンバー制度が導入されてもやはり上記の戸籍抄本または戸籍謄本は必要になります。フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)せっかくなので関連の写真の紹介がしたかったのですが、残念ながらセキュリティーの関係で出入国に関する諸々の所の撮影はできないのです。そんなわけで今回は飛行機の中から撮影したフランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)の写真をおまけ画像として紹介する事にしました。ある意味これもセキュリティーにかかわりそうな気もしますが、写真は2年前のものだからいいか・・成田からの国際便で到着。(写真は欧州入りと出の時が混じっているのでコース順にはなっていません。)フランクフルト空港(Flughafen Frankfurt am Main)は非常に巨大な空港です。欧州ではロンドンのヒースロー空港、パリのシャルル・ド・ゴール空港にならぶ国際線のハブ空港として知られていますが、この巨大さは一番かもしれません。何しろ着陸してからゲートに到着するまで15分以上(飛行機で)走ったかもしれません。ターミナルビルもたくさんありすぎて凄いです。どこをどう走ったか迷走しているのでよくわかりません。空港の中あちこちに飛行機が駐機しています。それでも余裕なのですからいかに広いのか・・。この時はフランクフルト経由で最初ウイーンに入り、帰りはミラノからフランクフルト経由で成田へ帰国。その為に一回入国審査をしてから再度欧州内を飛ぶ飛行機にトランジット(乗り継ぎ)しました。ターミナルに入り切らない飛行機もたくさんいます。(主に欧州内を飛ぶ飛行機)上の写真左にバスが走っているのですが、欧州内を飛ぶ国際線は飛行機も小ぶりになるのでターミナルに接続する事はほとんど無いのかも・・。搭乗ゲートの案内はあるものの、そこから階段を降りてバスに乗り込むのがほとんどです。つまり、敷地に駐機している飛行機までバスで行き、タラップを昇って飛行機に乗る・・と言う事になるので足の悪い方はちょっと大変です。余談ですが、ウイーンへの飛行機に一番乗りしたと思っていたらすでに先に人がいました。(・_・?)はて?ウイーンに到着したら黒塗りのお迎えの車がタラップの下に停車していて、その方は乗ってとっとと帰って行きました。かなりのVIPだったのでしょうね。空港の中にプライベートの車で入るなんて・・。国際線からのトランジツト(乗り継ぎ)で飛行機が小型になる問題点があります。国際線の場合キャリーケースも少し大ぶりでも良かったのですが、トランジット(乗り継ぎ)と言えど、こちらで搭乗する時は日本の国内線と同じ程度のサイズしか機内に乗せてもらえません。アメリカンタイプの大きなキャリーなどは取り上げられて貨物室に入れられます。ですからキャリーケースの鍵は持っていた方が良いし、パソコンなどは手荷物になるので携帯用のバックが必要になるかもしれない・・と言う事です。(貴重品は出した方が良いです。)因みにミラノでは、リムジンバス内にも小型のキャリーも持ち込みできませんでした。おそらく万が一事故でひっくり返った時にそれがケガの元になる・・と言う事なのでしょう。その時もパソコンを出して抱えて大変でした。尚、トランジットの荷物検査は成田の時よりもかなり厳しくなっています。(ドイツは怖いです)成田で化粧品など買ったら大変です。免税の品も小さな袋に入るサイズに限られるからです。飛行機まで案内するバスがよく迷子にならないな・・と感心するほど空港は広く、ターミナルは複雑にあり、飛行機の数は数百を数えるほど駐機しています。本当にハンパ無い広さで、トランジットの為のターミナル移動だけで小一時間は見た方がよい。乗り換えの時に土産を・・と思っていたら走っても間に合わない・・と言う事態になりかねます。とにかく先にゲートを目指した方が良いでしょう。(日本行きのゲートはたいてい端っこです。)尚、空港施設内のトイレも日本のようにあちこちに無いので大変です。見つけたら入っておいた方がいいかも・・。飛行機を押す車両もたくさん駐車。バスだけの一画などもありました。よく事故が起きないな・・と言う滑走路も複雑な交錯をしています。下の写真は今降りてきた飛行機がこちらに来る所です。お迎えのゲートはドイツ到着の時のみ。下は成田のお迎えのゲートです。上のドイツとは違ってやっぱり親切ですね。最近はテロもあったから空港のセキュリティーはもっと厳しくなったのかもしれませんね。次回は今度こそアウグスブルクでペルラッハ塔です
2016年04月05日
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リンク先追加しました。最後にアウグスブルクのback numberも入れました。何年ぶりかで映画を見て来ました 小栗旬君主演の「信長協奏曲」です。これはドラマの完結部分を映画化したもので、どう終わるのか気になってたのです (原作マンガの方は読んでいません。)見ていない方もいるので内容は言いにくいですが、本願寺との戦いあたりから史実とはかなり異なっていて、織田信長の最後もしかり・・です。ではそれなら「秀吉が天下を取らない未来」があっても良かったのではないか? と少し残念でした。それにしてもかくも織田信長の奥方の帰蝶様は良き妻の役回りでドラマに出て来ますが、本当は結婚後の消息は不明のようです。名前も違っていたかもしれない 帰蝶(きちょう)でなく、胡蝶(こちょう)だったのではないか? 説もあり、私も同意です。織田家の家門の一つに胡蝶もあるし・・。織田信長公については連載しているので良かった過去ログみてください2015年5月「秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転」リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転2015年6月「信長の墓所 1 (本能寺)」、リンク 信長の墓所 1 (本能寺) 「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」、リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院) 「信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺)」リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺)2015年7月「信長の墓所 4 (消えた信長公)」、リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公)「信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓」リンク 信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)プレメトロのトラム(路面電車)3号線チャーチル(Churchill)駅チャーチル像とループターン前回紹介したプレメトロのトラム3号線の終着駅がチャーチル駅です。チャーチルには以前紹介したアールデコの邸宅「ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館」があります。その時の写真です。因みにこの界隈は高級住宅地です。トラム3号線案内図 中央駅あたりからの終点チャーチルまでの停車駅表親切な解り安いトラム(路面電車)の駅の乗り替え表示ですが、実はこのプレートは走行している車内しか設置されていません。これが各所にあれば便利だしプリントで配布されれば便利なのですが・・。オルタ駅の次あたりから? トラムは地上を走行。マロニエの並木の中を静かに走行。その両サイドに車道が通り、周りは高級そうなアパートが立ち並んでいます。VanderKindere駅トラムは専用線路で走るものの信号では車と一緒に停車トラムも横断東京には無い光景なのでちょっと不思議。チャーチル(Churchill)駅終点駅であるが、トラムはこの先でループ式のターンをして方向転換して来る。ループ線の所ではしばらく停車するのでここで降りなくても良い。チャーチル像とループターンループ線のある停車場からチャーチル駅方面を診た所ここで一端停止するので降車先発のトラムがいたので先に出たい人は乗り換え昔のトラムより小回りがきくらしい。ループ線の長さは100mトラックないくらい?ラケット型のループ線である。トラムは単線ではないが、運転車両が一方にしかないので反転する必要がある。なぜか駅の由来となるチャーチル像が建っている。後方のトラムは3分後に発車チャーチルとは英国の首相だったウィストン・チャーチル(Winston Churchill)(1874年~1965年)である。マーガレット王女によって1967年10月建てられたと言うがなぜ建てられたのかの由来が解らなかった。考えられるのはチャーチルはEUの生みの親でありベルギーでも尊敬されるべき人だからかもしれない。小説家であり政治家であるヴィクトル・ユーゴーは1849年にパリの国際平和議会で、「ヨーロッパ合衆国(a United States of Europe)」という言葉を使ったそうです。それから100年後1946年9月チューリッヒ大学でウィストン・チャーチル(Winston Churchill)はフランス及びドイツの協調を持って欧州を再統一しなければならないと演説。(チューリッヒ演説)1948年5月のハーグ欧州会議ではチャーチルは名誉議長に選出され欧州議会設立に尽力する。つまりチャーチルこそが欧州連合 (European Union)誕生のルーツだったと言うわけだ。車内のキップ認識のマシン左は日本のスイカのようなカード式。右が一回券などの刻印式チケットカード入れおそらく一番の新型車両だろう。トラムと言うよりはモノレールのような車両ですね。スタイリッシュにまとめられた車内窓は大きく明るい。日中は人の乗車は少ない。そもそも思うより人口は少ないので日本のような混み具合はラッシュでもないのかも・・。軌道線割に細くてシンプル。考えたら枕木も無くただ置かれているようにしか見えない。(道路では埋められているが・・。)どうやって固定しているのだろう。(・_・?) ハテ?次回アウグスブルグに戻ります。back numberリンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク アウグスブルク 1 (Intercity Express)リンク アウグスブルク 2 (クラウディア街道)リンク アウグスブルク 3 (市長舎 黄金ホール)リンク アウグスブルク 4 (ペルラッハ塔・Perlachturm)リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家リンク アウグスブルク 7 (シェッツラー宮殿 ・Schaezlerpalais)リンク アウグスブルク 8 (司教座聖堂 1 ゴシック様式の聖堂)リンク アウグスブルク 9 (司教座聖堂 2 ロマネスクのクリプト)
2016年03月31日
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リンク先追加しました。ブリュッセルには2年半前に1週間ほど滞在。※ 2013年9月に「ブリュッセル中央駅(Brussels Central)」を紹介しています。リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)その時は列車で入り列車で出国したので空港の写真がありませんが、メトロにはよく乗っていたので写真を探してみました。特にブリュッセルは交通網がツーリストにはちよっと解りにくい部分があります。その辺を踏まえて、今回アウグスブルグを一時中断して先に差し込み紹介しておく事にしました。(全2~3回くらいになります。)ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)メトロのKIOSK(キオスク)メトロとプレメトロの違いブリュッセルの特に中心部(かつての城壁の中)は歴史地区のせいもあるのか? 地上を走る電車も中央駅では地下に潜っています。さらにその下に地下鉄が走って中央駅に乗り入れしています。地上の交通網はバスとトラム(路面電車)ですが、これも歴史地区のグランプラスの界隈はトラムも地下を潜っていて、これが準メトロと言った扱いになっています。つまり、ブリュッセルのメトロは2種類のメトロが存在しているのです。因みにブリュッセル(Brussels)の南駅(Midi)がユーロスター(Eurostar)やタリス(Thalys)、ICE(Intercity Express)など国際列車のターミナル駅ですが、中央駅も国際列車が乗り入れしています。例えるなら南駅が東京駅で、中央駅は上野か新宿と言った所かも・・。以前ブリュッセルの地図は解りにくい・・と言いいましたが、交通局の出している地下鉄の路線図も解りにくく下はキオスクでチケットを購入した時にもらった地下鉄路線図に自分で色付けしたものです。B・・・Gare Centrale(中央駅)C・・・Maalbeek(マルベーク駅) テロのあった駅一応路線のカラーは交通局の指定カラーにしましたがもともと似通った色が使われているのでこれもわかりにくさの原因です。次に解りにくいのがメトロとプレメトロが混在した路線図です。メトロ・・・・・・1、2、5、6号が正規のメトロ(地下鉄)プレメトロ・・・3、4、7号がトラム(路面電車)で一部地下に潜るもの。地下鉄乗り場にあるKIOSK(キオスク)は本来切符売り場? 売店ではありません。上は中央駅 下はDe Brouckere駅か?たぶん・・。一回乗車券1日券や5回券、10回券が他にあるようで、メトロ、トラム。バスに共通。チケットは最初に乗る時に刻印を押すと時間で管理。A・・・・De Brouckere駅 の地下鉄のホーム(中央駅の一つ先)メトロ1号線と5号線が平行しているラインの駅。東京で例えるなら丸ノ内線か銀座線と言った所?要するにブリュッセル一番の主要幹線と言えます。天井が大ざっぱだが日本の地下鉄とほぼ変わらない。これでサンカントネールに行く予定でMerode駅で降車のはずが、奇しくも、今回テロのあったMaalbeek(マルベーク駅) で電車がストップ。なぜか日中に地下鉄の工事になるとか・・。親切なおばさんに教えられて地上でメトロが用意した振り替えバスに乗車。それよりも乗る前に知らせてくれればいいのにC・・・・Maalbeek(マルベーク駅) の上バックがEU本部ビルMaalbeek(マルベーク駅) は東京で言えば大手町か霞ヶ関と言った所。※ 2014年1月「ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園) 」で欧州連合 (European Union)のルーツを書いています。この日はサンカントネールでは祭りが催されていて、ものすごい人。なぜこんな日に地下鉄を止めたのか?Maalbeek(マルベーク駅)は混み混みで写真を撮っていませんでしたさて、こちらはグランプラス近くの証券取引所です。この向かい。現在撮影している方の写真が下です。因みにレインボーカラーはゲイパレードが近かったからなのです。D・・・・Bourse駅レストランの前にMのマークが見えると思いますが、ここがメトロではなくプレメトロBourse駅の地下入り口でした。メトロとプレメトロの違いこの通りの下にプレメトロ3号線と4号線が走っているのです。プレメトロは本来はトラム(路面電車)の事です。つまり、かつてこの通りに普通にトラムが走っていたのが地下を走りメトロもどきになった・・と言う事でプレメトロと呼称されたのかも・・。しかし全線地下ではなく、途中から外に出て普通のトラムになります。ホームの看板こちらでは進行方向の終点駅の名が示されています。自分が降りる駅がどのラインのどちらの方角かあらかじめ調べておかないと(自分の駅だけだと)どちらに乗るのかわからなくなります。本当のメトロ(地下鉄)との違いはホームが非常に浅い事です。(車幅も違うと思う。)つまり車輪が全く異なるので双方同ホームへの乗り入れはできない・・と言う事です。改札に関してはこちらはアバウトです。因み通常トラムには券売機はありませんが、こちらの地下駅には自動券売機がありました。ただ、デジタルとアナログが混在した解りにくい機械の為に外国人が何組も買えずに迷ってました。聞くような駅員一人いません。本当にほぼ無人駅です。新しいから地下鉄よりも綺麗です。ワンコを2匹も連れた女性が・・。このままトラムに乗れる・・と言う事なのですかね?E・・・Horta駅 はアイアンワークとステンドグラスで装飾されている。ベルギーを代表するアールヌーボーの建築家ヴィクトール・オルタの家がここからすぐだから?次回プレメトロとトラムです リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)
2016年03月26日
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ミュンヘンから日帰りで出かけたアウグスブルクですが、当日は80%が雨の天気 とは言え事前にチケット予約していたので変更するわけにも行かずついていない出発。もっともその旅行自体ほぼ全体の7割が雨だったような・・しかし厳しい旅行の時ほど記憶に残るのは確かです。今、1年半前の記憶をたぐり寄せながらの書き込みです f^^*) ポリポリアウグスブルク 3 (市長舎 黄金ホール)アウグスブルク(Augsburg)市庁舎(Rathaus)とぺルラッハ塔(Perlachturm)市長舎 黄金ホール(Rathaus Goldener Saal)アウグストゥスの目先に建っていた市長舎と塔は共にアウグスブルク出身の有名な建築家エリアス・ホル(Elias Holl)が手がけた作品です。※ エリアス・ホル(Elias Holl)(1573年~1646年) ルネッサンス様式のアウグスブルグの建築家。ドイツ・ネルッサンス様式の最高傑作として建てられた街の自慢の建築物ですが実は1944年2月、第二次大戦の戦火に巻き込まれ現在のものはほぼ再建されたものです。栄華を誇った当時に莫大なお金をかけて建造された建物だけに、その修復費用も莫大であり、特別予算を立てて市では修復を計ってきたようですが、まだ全ての部屋・・までは完了していないようです。外観も当時はもっとカラフルだった可能性があります。左がぺルラッハ塔(Perlachturm) 右が市庁舎(Rathaus)・・現役ですベルラッハ塔の方は監視塔として989年には存在していたようです。建築家エリアス・ホルはその土台の上に市長舎とマッチするように監視棟を鐘楼に造り変えたらしい。以前からこの場所にはゴシックの役場があたようです。それがアウグスブルグの繁栄の元で街にそぐわないものとなり、建て替えが検討。議会で承認され予算も付く。時は1615年8月25日。最初の礎石が置かれ着工。正面エントランスを入った1階部分入ってすぐ右が売店その隣の戸口を入るとトイレがありますが、市庁舎内にもかかわらず有料です。黄金の間に入った人のみその半券を入れると扉が開くしくみになっています。左のみ階段がオープンされていてそちらがルート。階段を上ると正面に巨大ホールの入り口があります。ホール入って右に職員のデスクがあり、そこで料金を支払うシステムです。来訪しているのはほぼツアーの人達なのでかち合うと混み合います。縦32.5m、横17.5m、高さ14m。ホールは広くて写真に入りきらないです。栄華を誇ったアウグスブルグの冨の象徴として建てられた建物ですが本当に見事です当時流行のドイツ・ルネッサンス様式の外観だけでも市民の自慢。加えてその内装はまるで王宮のような豪華さ。これが当時の市民の物だったそう改めて考えると当時のアウグスブルグ市民の経済力とレベルの高さに驚く広間ででもあります。(見学する時はその辺を踏まえて見なければ・・。)金銭の問題だけでなく、大変だったのはそれに携わる職人や建てる為の石を始めとする様々な資材の調達です。石工のギルドの調達。また200人を越える手工業職人、工芸職人、芸術家などの各種ギルドを統率しての工事はその指揮だけでも他とスケールが違ったと言う。黄金の間天井画は左右と中の楕円と3つに分割して意味が込められている。中心楕円の中には3つの単語がある。Per me(私が)、 Reges regnant(王の治世)、 Sapentia(知恵)女神はSapentia(知恵)の女神。彼女は賢者と法律学者がひく凱旋車に乗っている。知恵こそが統治する者(王)の重要な徳と言う事らしい。しかしせっかくの建物が300年後の夜空爆により損壊して1946年に再びラートハウスの着工式が行われ、現在の外装は1955年のもの。黄金の間に昇る二つの階段だけで900万ユーロ(1980年代)かかったそうだ。市では何期かにわけて予算を工面して修復にあたる。最も大変だったのはフレスコ画の復元。木彫を含めた黄金の間の天井。正面入り口にある大型の金箔貼りの彫像。選定侯爵の暖炉など。床板の修復には当時使用されたハレイン近郊アドネットからのものでゾーンホーフェンからの石。市長舎の再建に使われた石全てが当時と同じ場所からの採掘で、限りなくオリジナルに近い物とこだわっているらしい。これら像は木彫。扉の上の女神像には2.6kgの金箔がコーティングされているらしい。扉の柱の木彫入り口側である北側の壁のフレスコ画にはローマの八皇帝(異教徒)が描かれている。対して反対側南の壁にはキリスト教徒の八皇帝(おそらく神聖ローマの皇帝)が描かれているそうだ。それぞれにラテン語の標語があり、シーザーの言葉を借りれば「来た。見た。勝った。」に対して、カール5世が「来た。見た。神が勝った。」と相対してキリスト教側の神の勝利を示しているそうだ。黄金の間にメイン階段から入る入り口は北側と南側で2箇所ある。その両左右に少し小さめの戸口が4箇所。それは選定侯爵の間と呼ばれる控えの間だそうだ。各部屋はクルミ材とオーク材でシンブルに彫刻が施された造りになっている。床は松材の寄せ木造り。珍しいのは各部屋にある4基の暖炉。縦5m。重さ3トン。鋳物に見えて実は陶器製のようだ。なぜ鋳物に見せる必要があったのか解らないが、外装を黒鉛を被っているのだそうだ。次回、ぺルラッハ塔につづく。リンク アウグスブルク 4 (ペルラッハ塔・Perlachturm)
2016年03月19日
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ただ今大阪に滞在中です。一週間がなんて早い事か・・昨日は久しぶりに京都嵐山に行ってきました。昨年行きそびれた嵯峨帝の御所だった大覚寺が目的だったのですが、大覚寺は利便が悪い割に結構混んでいたので驚きました。それも若者(女子)がものすごく多かった。(・_・?)はて?その理由がなんと刀剣育成シュミレーションゲーム「刀剣乱舞」のキャラとなる薄緑(膝丸・ひざまる)と言う名刀がこの寺に伝わっていたからだそうで、美形の青年と化した刀の出身地をめぐるスタンプラリーが嵐山電鉄をあげて行われていたかららしい。大沢池バックに膝丸(ひざまる)のプレートが立っている。それを写真パシパシ彼女らはどこうとしない。一般の人からするとちょっと迷惑な・・。それにしても刀剣の来歴にもせまるシュミレーションゲームなのに女子が多い。それはやっぱり擬人化されたキャラが女子好みだからなのだろう。中身は知らないがなんとなく乙女ロード系の臭いが・・。アウグスブルク 2 (クラウディア街道)アウグスブルク(Augsburg)クラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)さて、アウグスブルク(Augsburg)はドイツの観光街道であるロマンティック街道の一端を成す都市ですが、「ロマンティック街道」と銘打ったツアーでさえ、ハイデルベルクで昼食程度。ローテンブルクで一泊。シュヴァンガウで白鳥城を見てミュンヘンに泊まる・・と言う程度の内容のツアー。(ほとんど形だけ)アウグスブルグなどかつては少しは立ち寄る事もあったようですが、今はそこから高速に乗るので近づくだけ。街には全く入らないのがほとんどだそうです。実は「ロマンティック街道」ツアー衰退の理由は街に宿泊しない観光バスの乗り入れが禁止になったからのようです。街の外にバスを止めて街の中の観光場所まで歩くのには時間が必要。短いツアーにそんな時間は無いと言う事です。アウグスブルク(Augsburg)は泊まる程の街ではないか? と言うとそうでもない。実は古代ローマ時代にできたこの町は欧州の歴史の中では重要な街の一つだったのです。第二次世界大戦の災禍で街の50パーセントが破壊されたと言うが町にはローマ時代の遺構が次々発掘されるし、中世には交易により大金持ちだったので当時の素晴らしい文化的財産が残っている街。しかし中世にあった街を囲んでいた城壁は街の拡張の為に(西側壁)はずされたそうだ。だから写真左は拡張された新街の部分。赤色部分がアウグスブルグの駅舎となっている。今回は街の目抜き通りであるマクシミリアン通り(オレンジのライン)から紹介します。ロマンティック街道の道でもあり、ローマ帝国にも通じていたこの道は古の時代、クラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)と呼ばれていました。クラウディア・アウグスタ街道(Via Claudia Augusta)アウグスブルク(Augsburg)はその名の通り古代ローマの皇帝名から由来している。※ ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス・アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus)(BC63年~AD14年)である。紀元前15年くらいにローマの植民都市(属州ラエディア)の州都アウグスタ・ヴインデリコールムとしてできたのが街の発祥だそうです。市長舎前広場(Rathausplatz)のアウグストゥスの噴水ローマ兵が作った道はローマ帝国に通じていたわけで古代ローマ帝国が終焉した後もこの道はイタリアとの貿易で使用され続け、大いに街は潤い栄えたそうです。ここはほぼ街の中心。アウグストゥスの目先には街を象徴する市役所(ラートハウス)右とベルラッハの塔左が建っている。これについては別の回で紹介市長舎からの広場街は広いようで狭い。トロリーやバスは走るがほぼ歩いて回れる。確かに観光バスなど入って来たらゴチャゴチャである。実はこの日は天気が微妙。雨が降ったり晴れたり・・と写真が一定していませんが全て同じ日ですかつ、この時広場は補修が行われていて雑然としていました。市長舎前の道がかつてのクラウディア街道です。現在通りは細切れに名前を変えています。このあたりから南のウルリヒ&アフラ教会までがマクシミリアン通り(Maximilianstr)です。この通りはギルドハウスなどで賑わった所です。天気のせいではないと思うが人が少ない。たぶん人口そのものが少ないのかも・・。右折するとBgm Fischer St。コーナーにはかつてのギルドハウスが再利用されている。いつも思うが看板もほとんど無いのでただの家なのか? ショップなのか? オフィスなのか解りにくい。そしてお洒落なんだか老朽化しているのかよく解らない。この交差点には見るべき噴水が一つマーキュリーの噴水(ヘルメスに同じ)である。アウグスブルグは1276年に帝国自由都市になった。それは司教の手から市民が自治権を獲得した事でもある。商人は働けばそれが収入になる。通商はクラウディア街道を利用した交易で、街にはイタリアの文化やイタリア経由で世界の物資が流入。商いは盛んになったのだ。何しろ当時のイタリアは既に世界に繋がっていた。地中海貿易の拠点がアドリア海にあったのだからイタリアの繁栄と共にアウグスブルグにも冨がやってきた。アウグスブルグの全盛期は15~17世紀で当時「黄金のアウグスブルグ」と謳(うた)われたそうだ。その中で名のある豪商が輩出される。彼らの事は次回にするが、街にある豪華な噴水は当時の豪勢さを示したものなのである。アウグスブルグは実は二つの街が別に拡大して合併してできている。一つは北にある大聖堂の周りに領主である司教のお膝元に集まって商いをした人々。もう一つは南のベネディクト修道院の門前に集まって住み、イタリアとの通商の為に商人が集まってきてできた街である。このあたりはその後者であり、当時の豪商が建てた宮殿が現在美術館として公開されている。ヘラクレスの噴水噴水に付いての記述は無いが観光局の資料によれば1600年頃のブロンズ製だそうだ。写真はドシャブリの中で撮影しているのでめいいっぱい明るくしてこんなものです 目抜き通りなのに車もほとんど走っていない。マクシミリアン通りの南のつきあたり。見える教会の塔がウルリヒ&アフラ教会です。つづくリンク アウグスブルク 3 (市長舎 黄金ホール)
2016年03月13日
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ミュンヘン中央駅からアウグスブルク(Augsburg)までは高速列車ICE(Intercity Express)で30分ほど。アウグスブルク初回編はICE(Intercity Express)から紹介です アウグスブルク 1 (Intercity Express)ICE インターシティエクスプレス(Intercity Express)インターシティエクスプレス(Intercity Express)、略してICEはドイツが開発した日本の新幹線に相当する特急です。以前紹介したオーストリア連邦鉄道(QBB)のレールジェット(railjet)は高速と言えど最高速230km。ICEは最高速320kmとされているのでかなり高速です。もちろんドイツ国内だけでなく隣接するオーストリア、スイス、オランダ、フランスの各地まで乗り入れしている国際列車でもあります。パリ~フランクフルト間は約3時間50分で走行するそうですよ。ミュンヘン中央駅いつも思うのは欧州の鉄道は掃除が行き届いていない。ドイツはまだマシではあるけど列車が汚すぎて写真を撮ってもアップにしたくない・・と言う問題があります。車内のモニター。今回は近いので座席予約はしたものの2等客室です便によっては予約しないと乗れない車両もありますが、予約しないで乗って勝手に座る人の方が多い気がしました。(帰りは自分の席に人が座っていてどいてもらいました。)始発駅なら問題ありませんが、途中からの乗車であるなら予約しておいた方が無難です。そんなに高くないし・・。2等でも結構広いし立派。因みに座席は2等が2:2に対して1等は2:1と余裕がかなりあるようです。以前紹介したイギリス、フランス、ベルギー3カ国の開発したユーロスターは座席間も幅もせまく窮屈でした。国柄がこう言う所にも現れるのでしょうかね。最もICEよりオーストリアのレイルジェットの方が良いですが・・。※ 2013年9月「ユーロスター(Eurostar)」リンク ユーロスター(Eurostar) 2014年8月「オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)」リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)今回は30分程度の乗車の上に案外混んでいたので車内を見学できませんでした。日本と異なり椅子は固定式。その為に向き合いになりテーブルのある席もあるけれど進行方向になっていない最初から逆になる席も存在する。もう一つ日本と異なるのは、車両の中にツーツケースを積むスペースが若干だがある事。日本の新幹線も上の棚にスーツケースは積めるけど女性では重くて無理がある。新幹線も成田エクスプレスの様な棚をもうけるべきなのかも・・。ステップは段差あり。ダウンロードしてプリントしたチケット赤い所に名前とクレジットカードのナンバーが入ります。乗車中、車掌さんがチケット確認に来るのですが、その時にクレジットカードの提示を求められます。本人確認と思われるので購入時と同じカードを持っていた方が良いでしょう。※ チケットの予約は旅行サイトでなく、ドイツ国鉄に直接アクセスした方が安いし、各種割引が適用される可能性があります。(早割とか土日割引など。)アウグスブルクの駅ローカルな地方駅のホームです。改札ホームへは地下道で抜けますが、エレベーターはありません。欧州では人件費削減か? 通常ホームに駅員さんはいません。乗り入れた列車の車掌さんとか乗務員が発車の合図などあれこれしています。よって、忙しいので何か聞きたくても聞けません。連結部途中で方面別に分かれるのかもしれないです。動力車詳しくは解りませんが、ICEは開発の過程で動力分散方式の車両もあるようですし、動力車でもプッシュブル方式を採用したタイプもあったようです。一般には先頭車の一端が動力車。もう一端が制御客車としたプッシュプル方式が採用されているようです。以前紹介したレールジエットと同じ方式だと思います。この動力車の存在が美しく無いですねバイエルンの在来線Bayerische Regiobahnアウグスブルクの駅舎 外から次回街に入る予定です。リンク アウグスブルク 2 (クラウディア街道)
2016年03月04日
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アメリカの大統領選にからみ、今アメリカではとんでもない事態が起きている。共和党から出馬している不動産王のドナルド・ジョン・トランプ(Donald John Trump)(1946年~)氏が共和党候補に選ばれてしまうかもしれないからだ。金持ちだが、政治は詳しくない。しかも白人至上主義で移民を排除しようとする政策を大きくかかげて皆の支持を受けていると言うのだから驚く。(かつてのKKK団のような人だ。)冗談だろ? と誰もが思っていたのだがこのままではマジに共和党の代表になり、大統領選挙となる可能性が本当に出てきたから大問題となっている。これに関してはワシントン・ポストが本当に危機感を抱き、新聞に大変な事態が起きようとしている・・と警告の社説を載せた。(この行為自体に世界が反応した。)また、ローマ法王も極端に民族を差別して排斥する彼に対して異例のコメントを出した。「彼はカトリックに非ず。」と言う内容である。※ トランプ氏は事もあろうにこのローマ法王の声明にも反論したのだから驚きだ。実際日本に対してもありがたくない政策を持つ人物だし、アメリカでももちろん良識のある人なら眉をひそめる人物である。もし彼が大統領になったら本当にアメリカはおしまいである。これは人ごとではない大事件なのだ。アメリカの大統領選挙については2012年11月「米国の選挙(U.S. Elections)」1~2で米国大統領選挙(U.S. presidential election)を詳しく紹介しているのでよかったら見てね。リンク 米国の選挙(U.S. Elections) 1 (選挙人)リンク 米国の選挙(U.S. Elections) 2 (ホノルル市長選)日本では選挙法に引っかかるが、アメリカの選挙では食事会を催し支持者に参加してもらう・・と言う会が平然と行われている。トランプ氏の支持者もそうして「ただ飯を食べられる」と言うので参加した人が増えたのではないか? と推察する。彼が勝ち進めば食事会はずっと続くし、グレードアップする。協力者には金銭も当然渡っているだろう。札束を毎回ばらまいても彼の資産はたいして減りもしないだろうし・・。造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)ボス(Bosch)最後の審判(The Last Judgment)前回に引き続き三連の祭壇画(triptych)の中央・・最後の審判と右翼・・地獄編です。ここ数日写真をセレクトしながら眺めていたのですが、内容について私ごときではやはり理解不能でしたただボスの絵は中世のその時の人々に風刺による大いなる教訓が含まれていた・・と言う事です。自身の愚かさや罪深さを独特のスタイルで表現。ただの滑稽な風刺画と異なり、彼の作品はおぞましさと恐怖とで異彩を放っている。(今の人には理解出来ない精神的背景があったのだろう。)造形美術アカデミーの三連の祭壇画(triptych)には最後の審判(The Last Judgment)とタイトルが打たれていますがヨハネの黙示録に忠実なシスティナ礼拝堂に見られる最後の審判とはどうも違います。左の楽園と右の地獄はなんとなく解かりますが中央は「これは本当に最後の審判図なのか?」 と言う疑問がぬぐえないのです。最後の審判とされる中央の図少し反射が入ってます堕落した人間は悪魔の餌食にされやすい。自身の愚かさや罪深さを表現しているのか?不気味な中にも滑稽なキャラの悪魔がたくさんいる。人を痛めつけている悪魔も・・人の有様か・・。ところで、絵の中のナイフであるが、ボスの他の絵の中にも時々ナイフが出てくるのだが、そのナイフには文字が刻まれていた。(拡大して気がついた。)M・・らしいが、何のMか論議されたままのようだ。メギド(Megiddo)のMならそこはハルマゲドンを示す。(終末の最終決戦の場所とされる。)あるいはこれは反キリストと呼ぶ者達を象徴するものとも・・。反キリストの予言はMから始まるとか・・。そうなるともしかしたらこの絵は反キリスト者の行為を示した図であり彼らの罪そのものかもしれない。戦争と言う行為もまた反キリストの行為か?神とキリストに反する反キリスト者についてはまだ勉強不足です解釈はいろいろ。ルターたちからすれば権力におぼれ聖書に反する、ローマ教皇すら反キリストに入れられる。納得いかないのがこの上部のキリストと12使徒。これこそ後に書き直された部分かもしれない。(実は近年の調査で16~17世紀に塗り直されているらしい。)下図の絵に対して絵もちょっと稚拙かもしれないし全体に意味が通らない気が・・。右翼・・地獄編?ここは反キリスト者が罪を受ける所かもしれない。サタンか?中の絵は戦争で燃える街? 右翼のこらはまるでソドムとゴモラのよう。神の審判によって滅ぼされる反キリスト達の裁きの場か?結論としてこの三連の祭壇画(triptych)は、左翼・・・楽園は人類の原罪中・・・・現世の有様、 (現世は疑惑と裏切りに満ち、人々は獣欲と蛮行におぼれている。人を魔物に具現化したものか?)右翼・・・地獄は悔い改めない者への裁き・・の図と言う事でしょうか?アカデミーで土産に買ったフィギュア Egg –monster 上の絵の中に登場しています。Back number 他リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)リンク ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス
2016年02月26日
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ウイーンではリング(環状道路)沿いのメリディアン・ホテル(Le Meridien Vienna)に宿泊。そのすぐ裏手に造形美術アカデミー があり「そこのボス(Bosch)の絵は見応えがあるので是非見てくると良い」と遊びにきたガイドさんに勧められました。確かに今ま見たヒエロニムス・ボスの作品では一番素晴らしい作品かもしれないわざわざでなければなかなか見学に行かないだろう場所なので細かく紹介します。予定外ですが、シラー像も載せました。日本人が大好きな第九の作詞者です。※ 2014年02月「ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス」でもヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)について書いていますので良かったら見てね。リンク ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 1 (楽園)造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste) シラー(Schiller)像ボス(Bosch)最後の審判(The Last Judgment)フィリップ美男公分離派会館から近いと紹介されていますが、裏手からのアクセスになり看板や表示が一切ないのでどの建物がアカデミーか見つけにくいです。しかも入り口は回り込まなければならないからシラーの銅像を目指して正面のシラー公園からアクセスする方が解りやすいです。メリディアンの右脇の道からまっすく正面にシラー公園が見え1分かからない。ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller)(1759年~1805年)ドイツ古典主義の詩人、歴史学者で劇作家でもある。ベートーヴェンの交響曲第9番(第九)の歓喜の詩(An die Freude)の歌詞を書いた事でも有名。因みにリング挟んだ反対側に彼と親しかったゲーテの像があります。対に設置されたのかも・・。ゲーテは彼の死後に彼の頭蓋骨をこっそり借り受け、ながめながら追悼の詩を書いたそうです。造形美術アカデミー (Gemäldegalerie der Akademie der bildenden Künste)欧州で最古と言われる美術学校が現在国立の大学となった造形美術アカデミーです。創設は1688年。宮廷画家のピーター・シュトルーデル(Peter Strudel)のプライベート・スクールが始まりで、国からの支援をうけて正式に学校になったのが1692年です。ネオ・ルネッサンス様式の建物は1877年4月に皇帝フランツヨーゼフ1世の元で落成。内部装飾は1892年まで続いている。(リングの完成に伴なってこちらに学校が移転されたのだ。)学生達の勉強の為のアカデミーの画廊は絵画館として一般公開されている。ヨーロッパ絵画部門ではウィーン美術史美術館に次ぐと言われるコレクションはボスだけでなくクラナッハ、ティツィアーノ、ルーベンス、レンブラント、ティエポロなども収蔵。因みにヒトラーが1907年受験して落ちた学校です。前年に自分より年下のエゴン・シーレが入学。美術も建築もあきらめたヒトラーが前衛芸術を嫌いアカデミーを弾圧下に置いた理由は憎悪だったらしい。最後の審判(The Last Judgment)三連の祭壇画(triptych) 164cm×247cm 左翼・・楽園(エデンの園) 中央・・最後の審判 右翼・・地獄、祭壇画なので裏にも絵が描かれている。(正確には祭壇画を閉じた時の扉にあたる部分。)モノクロームの絵画グリザイユ(Grisaille)である。使徒の一人、聖ヤコブ(Sint Jacob)は以前サンチャゴ・コンポステーラで紹介した通り、スペインの守護聖人でもある。反対には ゲント(Gent)の守護聖人 聖パーフ(Sint Bavo)実はこの三連の祭壇画(triptych)はフィリップ美男公の発注だった可能性がある。フィリップ美男公フィリップ(Philippe)(1478年~1506年) 通称フィリップ美男公ブルゴーニュ公(フィリップ4世)、カスティーリャ王(フェリペ1世)でもある。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーの長子。ボスを庇護していたフィリップ美男公は記録により1504年に274cm×335cmの三連祭壇画を発注していたらしい。今回紹介する祭壇画よりもう少し大ぶりな物であるが、それは現存していない。1504年と言う年は彼の妻ファナ(Juana)の母であるカステーリャ女王イサベル1世(Isabel I)が亡くなった年であり、彼の妻が王位を継いだ年である。彼はこの時妻との共同統治を希望してカスティーリャ王(フェリペ1世)になったのでその関係で発注された可能性が大である。祭壇画の扉にあたるグリザイユ手法の聖ヤコブ(Sint Jacob)はスペインの守護聖人であり聖バーフ(Sint Bavo)はかつてはフランドルの守護聖人であったからだ。因みに彼の母マリーは幼くして母を亡くし、父(祖父)の三番目の妻となったブルゴーニュ公妃マルグリット(マーガレット・オブ・ヨーク)に育てられたが、同じく早世したマリーに代わり彼もまた母の故郷フランドルでマルグリットに育てられた。その彼女が亡くなったのは前年の1503年である。この作品は1510年頃とされる。最初に発注した祭壇画のコピーか? あるいは別物の一点(真筆)なのか議論が続いていると言う。実はゲントは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ女公マリーが結婚式を挙げた聖バーブ大聖堂があり、おそらくフィリップもここで育てられたのだろう。彼の子で後に神聖ローマ皇帝カール5世も幼少期にゲント(Gent)で暮らしている。もしかして本物であるなら、もとはゲントにあった可能性もある。ゲントは宗教改革のおりにカトリックの遺産が散々破壊されているのだ。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)三連の祭壇画(triptych)の左翼 楽園(エデンの園) 167.7cm×60cmこの絵はどうやら下から上に見るようです。アダムの肋骨からイヴを造る神様。これは創世記の話です。ヘビに騙されて善悪を知る知識の木の実を食べてしまうアダムとイヴ楽園を追われるアダムとイヴ。失楽園である。すなわちそれは人が最初に犯した罪。原罪である。神に反逆した天使vs神の僕の天使神派の天使に負けて地に落とされた反逆の天使は醜い虫の姿に変化。彼らは悪魔と呼ばれる者になる。十二枚の翼を持った大天使、「光をもたらす者」と言う意味を持つ美しいルシフェル(Lucifer)も神に背いた事により堕天使となり地に落とされ悪魔サタン(Satan)になる。この左翼の絵のタイトルが楽園になっているのが解せないです。次回中央・・最後の審判と右翼・・地獄、を紹介リンク 造形美術アカデミーのボス(Bosch)最後の審判 2 (反キリスト者の裁き)
2016年02月22日
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Break Time(一休み)今回は少しマニアックなナチス・ネタですナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクションホフブロイハウス(Hofbräuhaus)2011年、ミュンヘンのアパートの一室。脱税容疑で当局が踏み込んだ時、大量の絵画が発見された。その絵画はアートディーラーだった彼の父が隠し持っていた物で、実は第二次大戦前中、ナチス・ドイツによってユダヤ人から略奪された絵画1500点(推定約10億ユーロ(1330億円)であったそうだ。容疑者の父親 (Hildebrand Gurlitt)(1895年~1956年)は美術品の審美眼と人脈の広さから、ナチス・ドイツのヨーゼフ・ゲッベルスに気に入られ、アドルフ・ヒトラーのための美術館のディーラーに就任していた男だった。彼はユダヤ人からだまし取ったり美術館から押収して絵画を集め(1930~1940年代に入手)。かつナチスが退廃的だとみなした芸術作品に関しては売りさばくと言う仕事をしていた。もともと前衛芸術に造形の深かった彼はナチス公認のアートディーラーの立場を利用。略奪品を個人コレクションとして残していた・・と言うわけだ。前回触れたゲーリング空将の個人コレクションであるが、これもまたヒルデブラント・グルリットが買い付けをしていたと言う。因みにヘルマン・ゲーリングはナチス御法度の退廃芸術にも感心があったらしい。ヒルデブラント・グルリットはアメリカ軍に対して、絵画はドレスデン爆撃で消滅したと報告し、戦後もアートデイーラーとして活躍。彼の死後に前出息子のコルネリウス・グルリットが相続。こうなるとゲーリングのコレクションはドレスデン爆撃で本当に消滅したのか、はなはだ疑問が残る。押収された作品の中は確かに前衛の作品、パブロ・ピカソやアンリ・マティス、未発表のマルク・シャガールの作品もあったらしいし、ドラクロワなどの古典作品もあったらしいから・・。ゲーリングのコレクション一部はヒルデブラント・グルリットが持っていた絵画の中にあったのか? それともアメリカ軍によって持ち出されたのか? 本当に灰になったのか?その真相を知る人はもういないのかもしれない 2014年5月になって息子のコルネリウス・グルリットが死去。当初返還に応じなかったコルネリウス・グルリットであるが、彼の死により代理人と政府が交渉。それら作品(額縁なし1285点、額入り121点の絵画やスケッチ)はドイツ政府から任命された美術専門家らによる国際調査団が来歴を調査。正当な所有者を突き止め返還される可能性が出てきたようだ。個人的にはアドルフ・ヒトラーやヘルマン・ゲーリングがどんな絵画をコレクションしていたのか? その彼らの絵画の趣味が知りたかったな・・と思う どこかにそのリストは出てこないものだろうか? ホフブロイハウス(Hofbräuhaus)さて、ミュンヘンはナチスの本拠地であり、そのせいで第二次大戦中は連合国により6年間で71回と言う激しい空爆を受けた街なのです。今回写真ネタとして紹介するホフブロイハウス(Hofbräuhaus)はミュンヘンでは観光客に人気のビア・ホールなのですが、実は無名時代のヒトラーが何度も演説した場所として知られた場所です。ホフブロイハウスはミュンヘンの6大ビールメーカーの一つ。創業は1589年。バイエルン公ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)により宮廷用ビール醸造所として始まったそうだ。1806年にバイエルンが王国に昇格すると王立醸造所となる。一般開放された酒場となるのは1828年。前に紹介した新市庁舎(Neues Rathaus)のラーツケラー(Ratskeller)は1874年創業ですから、それより50年近く古くからあった居酒屋と言う事になります。現在の建物は1897年のものらしい。1階がビアホール、2階がレストラン、3階が有料のショーが催されるフロアでツアー客は主にこちら。ヒトラーが演説していた場所は3階である。1階フロアの天井は漆喰の壁に絵が描かれている。ヒトラーが画学生だった頃に絵を描いていた事もあったとか・・。日本のビア・ホールとはちょっと違う。皆さんジュースのようにビールを飲むだけでおつまみ食べている人はほぼいない。1階のバンド3階フロア3階はショーを行うのでステージが付いたまさしく宴会ホールである。ヒトラーは無名時代から何度もここで演説をしては同志を増やして行ったと言う。1920年ついには 国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の党大会をここで開催。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)(1889年~1945年)は総統となりこのステージ上で演説している。ホフブロイハウスの収容人数は3500人とか・・。それ故か? ナチスはよくここを集会に利用していたらしい。現在ここに来るのは観光客が中心です。バイエルン地方の民族音楽やダンスを披露してくれる。ホフブロイハウスのマスコットとなっているアヒルのソフビ。前にも紹介したが、欧州ではこのアヒルが流行しているようで、どの観光地に行ってもご当地アヒルやお店の看板をしょったアヒルが販売されていた。ここのは作りがとても綺麗。次回ボスの作品を1点 紹介してからアウグスブルグに行く予定。※ ナチスの略奪美術品について2018年03月「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で詳しく書いています。興味のある方はこちらにリンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)
2016年02月15日
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Back numberをラストに入れました。ミュンヘンで日本人ツアーはたいていアルテ・ピナコテークに行くらしいが、個人の方はノイエ・ピナコテークの方に入る率が高いらしい。印象派など近代の絵画を収蔵しているノイエの方は絵の知識がなくても解り安いかららしい。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)クラナッハとルターティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio)ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach)(1472年~1553年)Klage Unter Dem Kreuz 1503年Lucretia(ルクレティア)前回デューラーの所で紹介したのと同じ画題です。後年特にクラナッハはルクレティアに加えてイヴ、ヴィーナスなどの聖女の裸体を多く描いています。そして必ずと言っていいほど女性は裸体の上に当時流行の装飾品を見につけているのです。デューラーの古典主義と事なり、クラナッハの作品は画家の個性が強く独特の女性の姿に官能美があると言われていますが画題はそもそも女性の裸体を描く方便だったのかもしれません。Das Goldene Zeitalter(黄金時代) 1530年クラナッハとルター以前「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」の回でクラナッハの手によるマルティン・ルター夫婦の肖像画を紹介した事がありますが、ルターとは親友であり、意外ではありますが、宗教改革側の公認画家でもあったそうです。彼自身プロテスタントに改宗しているかについては書かれていませんが、ザクセン選帝侯を通してルターと親交を深め、宗教改革後はそれら教義にのっとった主題や神話画が増えたようです。クラナッハとルターに関しては別にとりあげています。よかったらリンク先見てね。2017年3月「クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)」2017年4月「クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)」リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)..ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(Tiziano Vecellio) (1488年/1490年頃~1576年)盛期ルネッサンスのヴェネチア派の画家であるティツィアーノは私の好きな画家の一人です 腕は素晴らしいし、何より品格のある絵なので当時から王侯貴族が彼の絵を求めていた・・と言うほど。アルテに大作と呼べる作品はないが、美術書に紹介されるティツィアーノ作品は意外に多かった。それは特にカール5世のおかげかもしれない。1533年カール5世の宮廷画家になっているからだ。最もスペイン王でもあったカール5世(カルロス1世)の事情? ティツィアーノの大作はヴェネチアだけでなくプラド美術館にも多い。Die Eitelkeit Des Irdischen(地上の虚栄心) 年代不明であるが1515年頃ではないか?選帝侯マクシミリアンIのコレクションより聖母子と洗礼者ヨハネと寄進者 1520年頃?一緒に描いていたジョルジョーネとの共作に思える一枚であるが同じ主題で寄進者が異なる絵を他にも描いている。Kaiser Karl V(皇帝カール5世) 1548年カール5世(Karl V)(1500年~1558年)神聖ローマ皇帝(在位:1519年~1556年)、スペイン国王(在位:1516年~1556年)アウグスブルグ滞在中に皇帝からの依頼で仕上げられたカール5世の肖像は神聖ローマ皇帝の称号のみならず、ブルゴーニュ公、ブラバント公、フランドル伯、ルクセンブルク公、ネーデルラント君主、ミラノ公、ナポリ王、シチリア王などの沢山の称号を持つ権力者の肖像と言うよりは、一人の人間としての有りのままの姿を映している作品のようだ。まだ48歳なのに通風で、すでに杖(つえ)を使用していると思われる。早くから権力の中枢に置かれたカール5世の人生は戦いの一生。孤独な支配者? 哀愁を感じる一枚となっているこの作品はさすがティツィアーノだからなのだろう。それとも二人は気心知れる友人だったから描けた一枚なのか?夕刻の風景の中の聖母子 1560年頃荊の冠(いばらのかんむり)のキリスト 1570年~1576年ティツィァーノの晩年、未完の作品である。1540年、ミラノのサンタマリア・デレグラッツェ教会の為に描かれた絵のバリアント(variant)らしい。工房に残った作品をティントレットが購入。後に選帝侯マクシミリアンIに売却される。ティントレットぽさがあると思ったのは逆でティントレットがこれを真似したのだろう。描きかけの筆のタッチが逆に劇的なダイナミサックさを表現しているかも・・。ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)(1450年頃~1516年)ヒエロニムス・ボスについては、2014年2月「ピーテル・ブリューゲルとヒエロニムス・ボス」の中で取り上げていますが、今回のアルテの作品を一応紹介します。ボスについては前にも書いていますが、ボス存命中より非常に人気が高く、かつ彼の死後1550年頃にボスの回顧的ブームがわき起こり、非常に偽物が出回っているのです。基本祭壇画などが多いボスの絵、下はそう言うものの一部とされていますが、果たして本物なのか?ちょっと疑問ですFragment Eins Jungsten Gerichts(審判の断片)最後の審判の一部分(死者の復活)と考えられている絵らしいが、どこが復活かよくわからない。自分の所にあるボス作品を照らし合わせて見てもパーツの雰囲気は似ているものの同じ怪物や行為が他から見つからないのである。1817年以降ニュルンベルク城に所蔵されていたらしいが、それ以前の来歴が不明で製作年代も不明。しかし、当局はこの作品が1504年にブルゴーニュ公フィリップ美男公が発注した「最後の審判」の祭壇画の一部と考えているらしい。そしてウイーンの造形美術アカデミーにある祭壇画(三連幅)はそれの小品では? としているが、造形美術アカデミーの作品の中に同じ怪物はいなかった。※ 別の回でウイーンの造形美術アカデミーの作品を紹介します。さて、少ししか紹介しませんでしたが、芸術に造形の深かったヴイッテルスバッハ家のコレクションなのに全体の印象ではそこそこだった気がします。(ウイーンやパリの美術館と比べると・・)想像の範疇ですが、もっと素晴らしい目玉となる作品が本来あったにもかかわらず、ナチスの時代に持ち出されているのではないか? と言う憶測がわきました。ミュンヘンはヒトラーが関係した土地故に美術の造形の深かったヒトラーやその参謀であったヘルマン・ゲーリングらによって主要作品が散逸してしまった可能性があるのではないか?オーストリアではヒトラーに持ち出された絵画を後から取り戻した・・と聞いた事がありますが、敗戦国ドイツの場合、そのまま戻る事はなく国外に持ち出された可能性が大です。特にドレスデン爆撃で消滅したと言われるゲーリング空将の個人コレクションについては、アメリカ軍に持って行かれた可能性が・・。以前ドイツの方に「ヒトラーやゲーリングの収集していた絵画はどうなったのか?」と質問した時に「アメリカに持って行かれた。」と返されました。それが真実ならメトロポリタンにでも行っちゃったのかな? アルテ・ピナコテーク終わります。back numberリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサイン アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)関連リンクリンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年02月10日
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アルテ・ピナコテークのアートブックの表紙はデューラーの自画像になっている。(英語版)デューラーと言えばまずその自画像が挙げられるくらい有名な絵であるし、確かに美貌のデューラー? が、個性的に表現されている。そして次にデューラーの代表作として紹介されるのは四人の使徒であるが、これまた必ず紹介される一品である。しかし、それだけでデューラーを見に行きたいと思った事はなかった。行けばデューラーが解るかな? と思ったが、結局デューラーらしさは未だに良く解からない アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)モノグラム (monogram)のサインデューラーは生涯かなりたくさんの自画像を描いたらしい。自分の顔にかなりの自身があったのは確か。またラテン語の学校も出ているので教養に関しても自身あり、自己の才能を非常に高く評価。それは絵の中のラテン語の文からも読み取れる。「ここに私は自らをニュルンベルクのアルブレヒト・デューラー、当年28歳を不滅の色彩で描いた。」1500年 デューラー自画像28歳。一番イケテル肖像画であろう。ちょっとキリスト風に描いている所がミソでナルシストぶり全開ですねアルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer)(1471年~1528年)金細工師の父の元で細工師の勉強もしたらしいが、絵画の方が興味があったらしい。(兄弟は18人。)15歳で弟子入りした先生は古い中世末期のスタイルを残す画家だったらしいが3年修行。ドイツでは一人前になる前に人生の意義を探求する為の遍歴の旅に出る慣習があったそうで彼も神聖ローマ帝国内を旅して後に一時帰国して結婚。(1494年)しかし、彼は直後に単身イタリアに向かう。技術のみならず、職人の地位などドイツとは比べものにならないイタリアに残り勉強したかったようです。彼が傾倒したのはマンテーニャなど。ベリーニとは親交もあったと言う。(時代的にはミケランジェロとほぼ同年代。)かくして彼はイタリアで全盛だったルネッサンスの技を身につけドイツで最初のルネッサンスの画家となった。(1512年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に仕え宮廷画家となり、マクシミリアン1世が亡くなるまでニュルンベルク市当局から年金が出続けたらしい。)ところでデューラーはイタリアと故郷ニュルンベルクを行ったりきたりして生活している。ホームは生まれた街。これは生涯ブレなかったようだ。モノグラム (monogram)のサイン名前を残す? 売る為? 1500年以降の作品には彼のサインマークが記されるようになった。上の囲った所に印がある頭文字のAとDを組み合わせたモノグラム (monogram) であるが、彼が最初にモノグラムのサインを残した人のようだ。下は別の絵から持ってきたものであるが、鳥井の中にDかと思いきや、Aとはね・・。故郷では最初版画を売り歩く事で生計を立てたらしいが、上に紹介したように絵に自分のサイン(モノグラム)を残して名前をとにかくアピール。(今まで北方ヨーロッパの職人にサインを残すと言う慣習が無かったのだろう。)彼の名声はその木版や銅販画から高まったわけだが、このアルテピナコテークに版画の作品はなかった ので紹介できない いずれにせよ彼の活動(サイン入れ)は北方ヨーロッパの画家達も真似る所となり、それが画家達の地位を高める事に繋がったようだ。悲しみの聖母(聖母七つの悲しみ)当然、画家の仕事先は教会や貴族、大商人からの依頼である。デューラーも初期の頃は沢山の宗教画や祭壇画を手がけている。(作品はあまり知れ渡っていないが・・)実はこの作品はアルテでは単体で紹介されていたが、これと似たデューラーがドレスデン国立絵画館にあった。それは下に紹介する「嘆き」と共に7つの絵で構成されていた一つで、ドレスデン国立絵画館のものは1496年「聖母七つの悲しみ」として紹介されている。聖母の構図は全く同じ。こちらの製作年代が不明なのであるが、モノグラムのサインが見えない事から1500年よりも前、ドレスデンのものと同じ時期かも・・。1500年頃 Lamentation(嘆き) (聖母七つの悲しみ)実はドレスデンの作品はもっと登場人物が少ない。逆にこちらの作品に人が多いのはこの中に絵の依頼者であるアルブレヒト・グルムとその妻が絵の中に描かれているからだ。この絵は最初はニュルンベルクのプレディガー聖堂に奉献されたものらしいが、最終的にバイエルン選定公マキシミリアン1世により買い取られてここにある。1502年~1504年頃 Paumgarten Alter(パウムガルトナーの祭壇画)中央・・キリストの生誕図らしい。 手前と画面奧の二人で東方三博士を表しているのだろう。左は聖ゲオルギウス。右は聖エウスタキウス。東方三博士の礼拝としては個性的な絵かも。上に黄色でマルをしたが、画面下左右の小さな人々は、この絵の依頼者であるパウムガルトナー家の人々。紋章と共に描かれている。尚、柱につけたマルの中にデューラーのモノグラムが記されている。但しこれに関しては年代が入っていない。聖ゲオルギウスのドラゴンの部分参考に載せました。下の祭壇画はウイーン美術史美術館所蔵の作品です。1511年 三位一体の礼拝ニュルンベルクの豪商マッテウス・ランダウアーの依頼で製作された物。この作品も中にランダウアー氏が紛れているのでは? と思われるが、それよりも画面右下の小さい人に注目。デューラー自身が登場している。サイン代わりに本人が登場している所が凄いです1518年 Der Selbstmord der Lucretia(ルクレティアの自殺)ルクレティアは王政ローマの最後の王の息子にレイプされ自殺。それがきっかけで王は追放されローマは共和制に向かう。当時好まれた画題らしい。このあたりから、私達の知るデューラーらしい特徴が見てとれる。が、先に紹介したイタリアのルネッサンス調の宗教画はサインこそ無ければデューラーとは判別できない。どう見てもデューラーらしさが見いだせないのだ さてさて、下がデューラー代名詞的な作品であるが、実はこの頃デューラーはプロテスタントに改宗していたようだ。1517年にルターの宗教改革の運動が始まる。特にドイツでは北中部に於いてルターの支持が高かったようだ。ルターが逮捕された時はカトリック教徒の襲撃を避けて逃げるように故郷に戻っているが、権力側に寄りながら見守っていたようだ。1526年 The Four Apostles(四使徒)左の絵、左から聖ヨハネ、聖ペテロ 右の絵 左から聖マルコ、聖パオロ画題はThe Four Apostles(四使徒)となっているが、実は福音所記者の聖マルコや聖パオロは12使徒には入っていない。が、広義に七十門徒を入れる正教会では使徒に数えられているそうだ。下のピンクのマルの所にモノグラムのサインがあった。上の作品はニュルンベルク市にデューラー自身が寄贈。市がプロテスタント側に付くと信じたから贈ったらしいのだ。後に(1627年)この絵もバイエルン選定公マキシミリアン1世により買い取られている。最後に、1520年、デューラーは妻と下女を伴いネーデルランドに旅をする。長い旅になるのだが、それは新しい神聖ローマ皇帝、カール5世に直訴する目的があったらだ。(戴冠式で直訴する予定だった。)実はデューラーは前皇帝マクシミリアン1世により終身年金が与えられていた。それが、彼の死と共にニュルンベルク市当局が年金を打ち切ったからだそうだ。道中幾多の芸術家に会い、スケッチブック片手にデッサンもたくさんしたようだ。そんな中クジラを見にゼーラントに向かい熱病にかかってしまう。1528年、この熱病の再発で命を落とすのである。アルテピナコテークback numberリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1 アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)他関連リンクリンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ)リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 2 (官能の裸婦とヒトラーのコレクション)
2016年02月04日
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そろそろミュンヘンを後にしようかと考えましたが、やはりアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)だけは紹介しておく事にしました。ルーブル美術館やメトロポリタン美術館に比べると来場客が多いとは言えませんがドイツを代表する国立美術館です。(ドイツ部門の1位はレジデンツでした。)ぶっちゃけ、わざわざ飛行機に乗って行って見る・・と言う目玉があるか? と言うと微妙ですが、美術書で各々紹介されている作品が集まっているのは確かです。なぜなら前にも紹介した通り、かつてのバイエルン王家、ヴィッテルスバッハ家のコレクションがベースになっているからです。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1Cafe Klenzeアルブレヒト・アルトドルファーのイッソスの戦いイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)ピナコテーク(Pinakothek)とは、そもそもギリシア語起源のピナコテカpinacotecaから派生した言葉で、絵画のみを集めた美術館を指す言葉。つまり絵画館なのだそうです。よく使用されているミュージアム(Museum)は考古学的な物まで含めた美術博物館と言う意味らしい。命名はルードヴィヒ1世。古代ローマの建築家の著作から見つけた名前だそうだ。アルテ・ピナコテーク開館から遅れて1853年向かいに新絵画館ノイエ・ピナコテーク(Neue Pinakothek)がオープンした事により旧・絵画館アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)と名称が変わった。道路挟んで向かい合う両館の間 ヘンリー・ムーア(Henry Moore)のブロンズ像今回紹介するアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)の開館は1836年。絵画館(Pinakothek)は共にバイエルン第2代国王ルートヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年)によって設立されています。因みにルートヴィヒ1世については「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」ルードヴィヒ1世とローラ・モンテス(Lola Montez)で紹介しています。ここが入り口? と思うほど目立た無いし解かりにくい。(ドイツは案内版が少ない)表は古いが中は近代的で清潔。エントランスはこんなに閑散。ツアーが到着すると混み混みになるそうだがこの時は空いていた 荷物は新しいロッカールームが奧に付属。Cafe Klenze 写真を撮影している側の後ろに絵画館のカフェがある。The Victorian House Cafe Klenze Alte Pinakothek(店の名前は長い)半セルフサービスな為に値段は安い。カウターで注文して簡単な物は自分で運ぶ。キッシュ・ロレーヌ 8.60ユーロ凝った料理は無いが、全てにサラダが付き味はとても良かった 看板などに表示されている値段は内税になっているので解りやすい。全体に10ユーロを超す品はなかったので安心。アップルトルテとコーヒー レシートが不明にアルブレヒト・アルトドルファーのイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)さて、最初に紹介するのはまさにコレクションの始まりとなった1点です。冒頭、アルテのコレクションは「バイエルン王家、ヴィッテルスバッハ家のコレクションがベースになっている」と紹介しましたが、そもそもヴィッテルスバッハ家が最初にコレクションを始めるに至ったキッカケの作品がこれから紹介するアルブレヒト・アルトドルファーの「イッソスの戦い」と言う絵ですイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)制作1529年 158.4cm ×120.3cmアルブレヒト・アルトドルファー(Albrecht Altdorfer)(1480年頃~1538年)ドイツの写本挿絵家だったとされるアルブレヒト・アルトドルファーはデューラーと共に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の祈祷書の制作にも携わっていたと言う。地誌を正確に描き分ける風景画家とも伝えられる。彼の代表作となるのがバイエルン公ヴィルヘルム4世(Wilhelm IV)(1493年~1550年)と妃マリア・ヤコベアの依頼でレジデンツに飾る為に製作された歴史画イッソスの戦い。(別名アレクサンドロス大王の戦い)イッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)BC333年マケドニアのアレクサンドロス3世(Αλέξανδρος)ことアレクサンドロス大王 VSペルシャのダレイオス3世(Darius III)との合戦。マケドニア軍3万に対してペルシャ軍10万とも言われた戦いにマケドニアが勝利した歴史的戦いであり、アレクサンドロス大王の武勇を讃える戦いの一つ。初敗退のペルシャ軍であるが、これがペルシャ衰退の始まりだったと言う。因みにイッソス(Issus)は現在のトルコ、イスケンデルン湾の奧部。(トルコ沿岸とシリア国境で地中海の最北東端。)後世語り継がれる一戦となったようでアルブレヒト・アルトドルファー以外にもブリューゲル(父)なども同タイトルで描いているように当時人気の画題でもあったのかもしれない。アルブレヒト・アルトドルファーは正確な地勢図で、史実に基づいて絵を作成。特に中央部隊を包囲するように囲みペシャ軍に裂け目ができたとする史実通りに沢山の兵が入り乱れて戦っている図が非常に繊細に描かれている。この時、ダレイオス3世はアレクサンドロス3世自身に攻撃され退散したと言われる。そのダレイオスは上の絵の中で中央少し左で金の馬車に乗っている。ちょっとボケましたが拡大しました。(馬車に名前が書いてありました)若干、気になるのは武具や装備の時代考証。ちょっと中世的すぎるかも・・。細かい、凄い・・と自然に目に留まった作品でした。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)つづくBack number アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)
2016年01月27日
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村上隆(むらかみたかし)氏 作品のBack numberをラストに載せました。Break Time(一休み)森美術館 村上隆の五百羅漢図展一昨日久しぶりに森美術館に行ってきました アーティスト村上隆(むらかみたかし)氏の大規模個展は日本では14年ぶりだそうで友人が誘ってくれたのです。ところで海外の美術館ではたいていカメラ持ち込みOKで作品の撮影が可能です。それは絵画に関しても同じです。ところが日本の美術館では一般的にほとんど撮影できないのが現状です。それが今回驚くべき事に「営利目的でなく、個人が楽しむ分に関して」撮影が許可されていたのです (ポップアートの場合、特に考えられない気がしますが・・。)そんなわけで村上隆氏に感謝してちょっと紹介する事にしました 何より今回の新作は全く新しい世界です。ポップはポップなのですが、今までのカワイイとは別物です。最初ちょっと抵抗もありましたが、美術館を出る頃には新しい世界を楽しんでいました ぶっちゃけ大人向けです。最初はいつもの慣れ親しんだ村上隆の世界iに近いところから・・。DOB君がパンダ化したような姿ですが、これは以前ルイ・ヴィトンとコラボした時のパンダに似てますねパンダの足下の球体は今までのフラワーではなく髑髏(されこうべ)です。髑髏(されこうべ)、すなわちドクロです。これは今回の作品の中には頻繁に出てきます。それはメインテーマの五百羅漢(ごひゃくらかん)にもつながる死を表すイメージなのでしょう。死の淵を覗き込む獅子?美術史家の辻惟雄(つじのぶお)氏と村上隆氏との絵合わせ遊びで始まったセッションの延長に「五百羅漢図」は生まれたそうです。その解説が出ていました。上が・・辻惟雄(つじのぶお)氏のお題 長沢芦雪(ながさわろせつ)虎図ふすま絵下が・・村上隆(むらかみたかし)氏の現代版「虎図」最初は2009年~2011年に芸術新潮で連載されていた絵合わせ。絵合わせ自体は平安時代の遊びだそうだが、今回辻惟雄(つじのぶお)氏が絵師についてのエッセイを投稿。それに対して村上氏が独自の現代的介解釈を加えて答える・・と言うセッションだったらしい。21回の対戦の中でだんだん大がかりな作品に発展。さらに東日本大震災で死や絶望を経験。そこからの復活の願いを五百羅漢に見たのか?なぜ五百羅漢を描こうと思ったのかは私は知らないが、結果、村上隆 氏は仏教とコラボした新しい世界感を展開するにいたったのだろう。羅漢(らかん)or阿羅漢(あらかん)・・尊敬と施しを受けるにふさわしい修行者。阿羅漢果(あらかんか)・・実り=悟り? 修行を達成した者をさすのだろうが、本来悟りを得たのは人間では仏陀のみ。五百羅漢(ごひゃくらかん)究極の悟り、阿羅漢果(あらかんか)を得た500人の聖者とされる。生前の釈迦に付き添い釈迦の説法を聞いてきた比丘とも、入滅後に結集した仏弟子500人とも言われる。しかし、本家インドにその話は無いようだ。五百羅漢(ごひゃくらかん)の聖者伝説は中国由来のようだ。作品は大がかりな物が多い。パネル式で連ねられているが、昔で言えば寺や城のふすま絵のような感じ。この作品は天の東西南北を司る霊獣の四神。青龍、白虎、朱雀、玄武を表した作品のパネルの一つ。下は白虎だったか?作品には四神の他にも瑞獣(ずいじゅう)がたくさん描かれている。瑞獣(ずいじゅう)は吉兆をあらわす。つまりめでたい獣である。妙に色っぽい羅漢に驚くが・・。見返り来迎図確かに菩薩(ぼさつ)に性別は無いけどね・・・。最初に紹介した死をイメージする髑髏(されこうべ)の山タイトルは「萌える人生を送った記憶」オタク人生を送りきった者達のカラフル様々なドクロ。彼らの記憶の残骸は骨にまで現れる 最後にヒルズ1階ににある村上隆の特設「お花カフェ」から一応美術館の半券かショップのレシートがある事が条件らしいが、チエックは無かったような・・。限定メニューが少々。一番人気はオムライス。既に売り切れでした 限定メニュー お花ムース(20食) 税込み700円中を割って驚く。中も真っ赤。写真の色よりもっと凄い朱色。ベリームースをチョコレートと合わせていると言うが・・。ベリーの色とは思えない。食紅だけなら怖すぎる でも味は悪く無い。レアチーズな感じでした。写真撮りたいが為に入ったお店でした。カフェは今月末までのようですが、五百羅漢図展は3月6日までですこれを見た後に・・・五百羅漢の個々のキャラ割りに驚きてす。(それぞれに個性が違う。)これら作品をベースにアニメとか冒険物のゲームが造れそうな気かします。少なくとも自分の頭の中では彼らのキャラを幾つか設定して物語が何本か書けそうな感じです それはさておき、村上隆(むらかみたかし)氏のポップ世界は仏教と融合した事で深い意味を持った作品に変革された? ・・と言えるのでしょう。村上隆(むらかみたかし)氏 作品のBack numberリンク MURAKAMI VERSAILLES 1 (Miss KOKO)リンク MURAKAMI VERSAILLES 2 (Tongari-kunリンク MURAKAMI VERSAILLES 3 (Flowers)リンク MURAKAMI VERSAILLES 4 (Kinoko Isu)
2016年01月21日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。レジデンツに入って最初に見学する宝物館には多数の値段の付けられない宝物が展示されていました。しかしレジデンツはただ展示しているだけで他の美術館のように展示品についての解説はほとんどありません。音声ガイドはあるのですが、日本語は無い。そんなわけでお宝についての来歴が今回ほとんど解からなかったのでご了承ください ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ宝物館(Schatzkammer)宝冠と紋章以前紹介したハプスブルグ家のお宝の所でもそうであったが、宝物館はそれ自体が巨大な金庫の中にある。宝冠と紋章冠(かんむり)の事初めはヘレニズム時代に遡るそうだ。街を守護する女神が頭にその街を乗せている。街があたかも城壁のようになり女神の冠のように見えた。そうした城壁形状の冠は「城壁冠」 ミューラル・クラウン(mural crown)と呼ばれるようになる。この城壁冠が根付いたのは実は古代ローマの時代らしい。古代ローマでは、軍功をあげたものにはたくさんの褒美がとらされていたと言う。土地などもその一つであるが、砦の陥落など一番に乗り込み陥落に貢献した者には、その褒美として陥落した都市の城壁の付いた冠が授与されたらしいのだ。※ 後世、勲章(くんしょう)と言うものが出てくるが、その先駆けがこうした冠の授与だったのかもしれない。その冠は盾(たて)や旗(はた)など彼らの印となる紋章(もんしょう)の中にも刻まれて行く。日本と異なり西洋の紋章は軍功など栄誉が与えられる毎に柄が加えられて行くので家紋の絵柄は複雑になって行くのである。※ 中世にそうした紋章を研究する紋章学なる学問も出ている。冠の形状に戻るが、その形は割とリアルに、城壁のみならず、歩哨櫓(ほしょうやぐら)が付いていればそのように作られ城壁冠は進化したようだ。※ 中世になるとその歩哨櫓は建築学の向上により形が変化。城壁より少しせり出した塔のようなタレット(Turret)と呼ばれる歩哨台となる。チェスで言うルーク (Rook)のコマがまさにタレット(Turret)の形である。城壁にタレットがたくさん付いている城ほど規模は大きくなるわけで、冠に付いたタレットの数でも価値が違ってくるのである。下の王冠に付いたタレット(Turret)は街の紋章として実際に使用されていたカタルーニャのものである。ウイキペディアでパブリックドメインになっていたのを一部借りてきました。上 左からVillage(村) Town(街) City(都市)下 左からRegion(地方) Province(州) Generic mural(共通の冠?)おとぎ話で見る王様や王子の被ったギザギサ冠はこうしたタレットや城の塔から誕生していたようだ 中世以降はこうした冠の形状で冠のランクもでき、かつ爵位などによる冠の振り分けがされたようです。下のサークレット(circlet)タイプの冠の来歴は全く判らないが、ロンバルディアの鉄王冠に似ているので割と初期のものかもしれない。宝石の付け方などから見るとイスラム的な気がする。金は柔らかいのでその変形を防ぐ為? 同じ形状をしているロンバルディアの鉄王冠は内側が鉄輪で留められているそうだ。しかもその鉄がロンギヌスの槍を溶かしたものだと言うからビックリである。神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)(973年~1024年)の王冠らしい形はこれぞミューラル・クラウン(mural crown)「城壁冠」なのだろう。宝石に関してはヒビがいっていたりとかなり粗悪であるが、当時は色石だけで貴重品だったのだろう。これも確証は無いが十字の形状から神聖ローマ帝国の王冠として使用された可能性がある?実際あちこちに小さな穴が無数に空いており、そこに宝石がつなぎ止められていたように見える。コロネット (coronet)いつの物か判らないので何とも言えないが、形で判断すれば確かにコロネット (coronet)タイプである。それこそタレットの変形版かイスラムの城の歩哨のイメージかもしれない。イギリスで言えばは侯爵クラスのコロネットのようだ。英国女王の王冠??Um 1370~80貴族の紋章となった王冠は戴冠式など正式なセレモニーの時に着用したそうだ。その時はアーチが付き、ビロードの布などで帽子部がつけられていたようだが、宝石のちりばめられた冠は非常に重い。通常の公式行事ではシンプルなコロネット型。女性の場合はティアラ型の軽いものが使われていたようだ。それにしても冠としては面白い形をしている。奧がアーチの付いた王冠。下は女性用?1830年頃の「城壁冠」 ミューラル・クラウン(mural crown)?真珠のはめ込まれた聖書?神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)のものらしく1014年~1024年頃のもの。ギーセラの十字(Giselakreuz)高さ44.5cmと幅32cmバイエルン公ハインリッヒ2世(Heinrich II)の妻神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)の母ギーセラの十字架。※ バイエルンのギーセラ(Gisela von Bayern)(985年~1060年)十字架をはめ込むケースにも宝石。十字のくぼみのきわには四福音書記者が描かれている。中の十字架は不明。聖母子のイコン?宝石のちりばめられたイコンの年代も不明。もしかしたらローマ帝国が分裂する前の物か?先ほど報奨としての冠の授与・・と言う話をしまたが、後々それは冠ではなく勲章に変わる。以下に少し勲章をのせました。何の勲章かわかりませんが・・。いずれにせよ宝石がはめ込まれた宝飾品です。幾つも作って配るのは無理な一品です。上段の金の下がり物は金羊毛騎士に関係しているのかも・・。いつか金羊毛騎士団についてやりたいなーと思っています。追記・・・2018年6月「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」を書きました。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)レジデンツまだ居室などが残っていますが次、どーするかなー σ( ̄、 ̄=)ンート・・・Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年01月13日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。今回はレジデンツの祈りの場と聖遺物を紹介します。かなり盛りだくさんの内容です。聖遺物については、今までたいていの教会などではもちろん写真撮影などNGがあたりまえ。ところがレジデンツは太っ腹ほぼ全て撮影がOKだったので今回紹介する事ができます。しかし、聖骨と言ってもリアル骨なので無理な方は気をつけてね ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)諸聖人宮廷教会(Court Church of All Saints)旧王室礼拝堂(Arte Hofukapere)絢爛な礼拝室(Ornate Chapel)聖遺物箱(Reliquary)レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)ハンガリーの聖エリーザベト「マルティン・ルターの宗教改革」については必ず世界史の中で1度は耳にした事があると思うが、その時にカトリックの重要な宝が多く破壊され失われた事を知る人は少ないだろう。※ 以前ゲント(Gent)の所でも書いた事があるが、宗教改革のおり、13世紀より続くドミニコ会系修道院の貴重な手書きの蔵書30000冊がプロテスタントの襲撃にあいレイエ川(Leie)に投げ捨てられたりしている。それはちょうど1960年代に中国で起きた文化大革命の時に多くの歴史的文化財が破壊され燃やされた時に似ていたのかもしれない。諸聖人宮廷教会(Court Church of All Saints)レンガがむき出しになった諸聖人宮廷教会であるが、かつては美しい装飾が描かれていたようです。今は教会ではなくただのホールとして使われているのかな?旧王室礼拝堂(Arte Hofukapere)現在はコンサートなとで使用される事もあるようです。天井のレリーフ「Civitas Dei」Civitas Dei英語では「The City of God」神の都。これは古代神学者アウグスティヌス(Augustinus)(354年~430年)によってラテン語で書かれたキリスト教哲学の本。古代ローマ人の信仰していた宗教に新しく入ってきたキリスト教。さらに西ゴート人によるローマ侵略。そんな時代の中で「神の都」論はローマとキリスト教の関係においても論理的に整理されて解説されキリスト教の教義本になったようだ。絢爛な礼拝室(Ornate Chapel)天井はキンキラな黄金レリーフ。壁には色大理石の象眼細工で描かれた模様や絵画が描かれた特別な部屋。実はここはただの礼拝堂ではない。かつてヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)のプライベート礼拝堂で、聖なるお宝を収集した特別な部屋だった所。そのお宝の一部がまだ部屋に残っています。下のシンメトリーに飾られた左右の装飾 2×3台の容器に注目。それは「Reliquary」聖骨箱とか聖遺物箱と呼ばれる聖人の遺骨が納められた容器です。聖遺物についてあちこちで触れていますが、よかったらそちらを先に読んでださい「ローテンブルク 7 (聖遺物のある教会) 」リンク ローテンブルク 7 (聖遺物のある教会)「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂) 」リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)聖遺物箱(Reliquary)現在、聖遺物箱のほとんどは宝物館の中でも特別な金庫部屋に納められています。もちろん聖骨としての価値。そしてその容器の宝飾性が認められているからです。「聖遺物には霊力が宿っているとされ、聖遺物を所有する者自身にも神の栄光が降り霊験を得られると考えられ、聖遺物に選ばれた人として一目置かれる存在」でもあった。またそれは信仰心だけではなく、貴重な聖遺物を所有するという事は名誉であり、その者の社会的地位を確固たるものにした。 と、され、当時は今以上に価値を持ったお宝だったのです。ここの聖遺物箱(Reliquary)はルターの宗教改革の後にはヴィッテルスバッハ家のコレクションからカトリック教会が認める宝となり扱われるようになったようです。その理由は最初に紹介したようにルターの宗教改革のおりにたくさんの聖遺物や聖遺物箱(Reliquary)が取り払われたからです。破壊されたり宝石などが抜かれ、遺骨は捨てられ失われた物も少なくなかったかも・・。レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)ヴィッテルスバッハ家のコレクションは初期キリスト教の神聖な遺物として認定されたお宝です。実際、聖骨などを包む容器は当時の最高の技術を駆使した宝石箱のようなもの。宝冠に付けてもおかしくない宝石をちりばめた容器は素晴らしい美術工芸品となっています。しかし、この金庫のような部屋の解説に誰の聖人の遺骨かについての詳しい記載はありませんでした。当時まだ技術が未熟だったにもかかわらず容器にはガラスが多く用いられてていた。理由は人に見せる為の目的があったからだろう。遺骨は宝石や真珠などで留められて金糸の華の中に散りばめにれている。プロビデンスの目と三位一体を表す3つの納められた骨。聖体顕示代の原型はこれら聖骨の容器からかもしれない。下が1年半前から宿題にしていたザブトンに乗った頭蓋骨の謎。頭蓋骨を丸々美しく残す為にこのような宝石をちりばめた美しい覆面のような容器を考案したものと思われる。(実際はこの外回りの容器が別にあったようだ)その人はハンガリーの王女から修道女になり聖人に列聖されたエリーザベト(Erzsébet)(1207年~1231年)王女のようです。テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻でもありました。ザブトンに記された名前と赤いバラが印です。ハンガリーの聖エリーザベト1227年にルートヴィヒ4世が第6回十字軍に従軍中に死去し、若くして未亡人になるが再婚を断り夫の家からもらったお金で病院を建設。自らもボロを着て貧民の為に尽くしたとされる。生前の彼女の行いから彼女の死後3日遺骸を公開すると遺骨を盗もうとする者もあらわれたと言う。(そこですみやかに列聖の審査が始まったと言う。)1235年の聖霊降臨祭の日、教皇グレゴリウス9世によりエリーザベトは列聖された。転々とした彼女の聖骨列聖の翌年、聖遺物として祭る為の儀式が行われ、頭部が切り離されたようだ。そしてたっての希望で列席した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により彼女の頭に冠が乗せられ聖遺物容器に保存されたと言う。(バラの花飾りがそうであろう。)遺骸は列聖の年よりドイツ、ヘッセン州マールブルク(Marburg)にてドイツ騎士団によりエリザーベト教会が建設されそこに祭られる事になった。しかしそれは16世紀まで。ここでも出てくるのが宗教改革の悲劇。教会はプロテスタント化され聖遺物崇拝を辞めさせる為にエリサーベトの遺骨は全てこの教会から取り除かれたと言う。ウィキペディアによれば、聖遺物箱(Reliquary)は現在ストックホルムにあるらしい。頭骨と頸骨はウィーンの聖エリーザベト病院と書かれているが、このレジデンツに頭蓋骨が丸々あるのだからそれは間違いなのだろう。聖人も大変ですね次回まだレジデンツの宝物つづきます。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ) ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年01月05日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)レジデンツ(Residenz)グロッテンホフ(Grottenhof)グロット(Grotto)とグロテスク(grotesque)キュビリエ劇場(Cuvilliés-theater)グロッテンホフ(Grottenhof)案内図で洞窟の中庭(Grotto Courtyard)前にある回廊がグロッテンホフ(Grottenhof)だ。「何でこんな物を作ったのだ?」と誰もがきっと思うだろうグロイ奇っ怪なオブジェが並ぶ。しかもそれは無数の貝殻で作られた代物だ。グロテスクと言う言葉はここから生まれたのではないか? と思ったものだが、調べて見ると、案外それは的外れでは無かった事が解った。1722年頃?ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)の命で建築が始まったとされるこのグロテスクな回廊は前回紹介したアンティクヴァリウム(Antiquarium)の改築とほぼ同じ1581年から1586年頃作られたようだ。設計はこの宮殿を建てさせたデューク・アルブレヒト5世(Duke Albrecht V)の芸術顧問、フリードリヒ・ズストリス(Friedrich Sustris)。今は回廊のオブジェのみの見学であるが、上の絵のように中庭にはイタリアルネッサンス式の庭園が造られていたらしい。一番の目玉になるオブジェかつてはここから水が湧いていて、ちょっとした水飲み場にもなっていたのかもしれない。金の像はオリンポス12神の一柱ヘルメス(Hermēs)である。ローマ神で言えばメルクリウス(Mercurius)である。デザインはイタリア・ルネッサンス式と書かれているが、モチーフはローマの詩人オウィディウス(Ovidius)(BC43年~AD17年)の変身物語「メタモルポーセース(Metamorphoses)」を元に考案された。・・と解説されている。 (・・が、どこが変身か良く解らなかった。)ほぼ全てが貝殻で作られている。なぜ貝殻なのだろう? ぶっちゃけ、ちょっと気持ち悪かったです グロット(Grotto)とグロテスク(grotesque)レジデントの地図では洞窟の中庭(Grotto Courtyard)と記されている。つまりこれらオブジェは洞窟(Grotto)を意味している。どこが洞窟か? と言う疑問がわくのだが、実は設計者はメタモルポーセース(Metamorphoses)と言うよりは、ドムス・アウレア(Domus Aurea)からこれを発想したのではないか? と思われるのだ。ドムス・アウレア(Domus Aurea)は古代ローマ帝国第5代皇帝ネロ(Nero)(37年~68年)が建設した黄金宮殿であり、その建設はローマ大火の後の64年頃。再発見された1480年頃には地下に一部しか残っていなかったものの、芸術に造形の深かった古代ローマのネロ帝の屋敷。ラファエロさえもここの存在を知っていたと言うように多くの芸術家がドムス・アウレアを訪れ、学び、ルネッサンス芸術のインスピレーションを得たと言われている。(発見されたドムス・アウレア自体が洞窟のような地中にあったらしい。)そもそもルネッサンスは「再生」とか「復活」と言う意味ではあるが、古代ギリシャやローマを礼賛した復活と再生なのだ。(ドムス・アウレアは、ルネッサンスを起こした要因と考えてよいのかもしれない。)ここの設計者フリードリヒ・ズストリス(Friedrich Sustris)もまたドムス・アウレアに啓発されたのでは? と思われる。(ルネッサンスを意識した点。またドムス・アウレア詣での時期が一致している。)ところでドムス・アウレアの装飾は 大理石やローマン・コンクリート、モザイク等を使った贅沢な海辺のヴィラだったらしい。また動植物や人物など過度の装飾がほどこされた壁の図柄は、当時のルネッサンスの画家達が大いに模倣したと言われている。先に紹介したラファエロはヴァチカンを監修した時にこの古代のグロット(Grotto)から発見された図柄をヴァチカン宮殿で使用し、グロテスク装飾が完成した。(因みに現在のグロテスク装飾と言われるものは本来のグロテスク模様とは遠い。)つまり奇抜で奇妙で奇怪。おぞましい不調和を指す形容詞となったグロテスク装飾を最も端的に表現しているのがグロッテンホフ(Grottenhof)の装飾と言える。キュビリエ劇場(Cuvilliés-theater)レジデンス内にある劇場である。礎石は1750年。1753年完成。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世(Maximilian III)の命でフランソワ・デ・キュビエ(François de Cuvilliés )親子によって建てられた。壮麗なロココ様式のキュビリエ劇場マクシミリアン3世は自身も作詞作曲するなど音楽を楽しんだ人らしいが、職を求めてやってきたモーツァルトを追い返したと言われている。入り口の柱の彫刻次回レジデンツBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年12月29日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。さて、今回は元王宮の紹介です。ウィーンのような華やかさは見えませんが、ドイツらしい贅沢が伺えます。見学の所要時間がかかるので、なかなか紹介されていない所でもあります ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)レジデンツ(Residenz)アンティクヴァリウム(Antiquarium)ここは1180年から1918年までバイエルンに君臨したヴィッテルスバッハ家の本宮殿だった場所であり、バイエルン王国時代には王宮となり政務も執り行われていた場所です。1918年バイエルン最後の王ルートヴィヒ3世が退位しバイエルン王国が解体されると、その2年後には早くも博物館として一般公開されました。内部は、博物館や劇場になっていて見所はそれぞれありますが、個人的には宝物館のコーナーが好きです。場所は旧市街北。以前「世界の看板 1 (ミュンヘン・München)」で紹介したオデオン広場(Odeonsplatz)の所です。オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(将軍堂)。赤い屋根の建物がレジデンツ(Residenz)の一部。1385年にシュテファン3世(Stephen III)(1337年~1413年)の命で建設が始まったとされる。400年の歳月の中でルネッサンス、バロック、ロココと時代の様式が加わり増改築が行われてきた。それ故にかなり複雑な構造となっている。表示版がほとんど無く、レジデンツの見取り図でもあればルートが解ったはずなのにミュージアムの入り口が解らず行ったり来たりしてしまった。ライオンのゲートがそうかな? と入っては行けずに戻る事しばし・・後で地図を載せるが、入り口はこの通りにはなく、入り口に入る為のゲートはこの通りの外れの方か建物を外れて曲がった所にあった。つまり、オデオン広場(Odeonsplatz)からは最も遠い所にあったのだ・・実際の入り口はこんな所ではないが、なぜかミュージアムショップはこのゲートの右の入り口にある。Inperial Courtyard迷っているうちにたどりついたFountain Courtyard(噴水のある中庭)奧の三角屋根がCourt Church of All Saints(諸聖人宮廷教会の庭)。ここは教会の裏庭に位置する。因みに右の赤い屋根の部分が後に紹介するアンティクヴァリウム(Antiquarium)の外観である。同じく迷っているらしい人に遭遇する1755年当時のレジデンツ(Residenz)当時オデオン広場(Odeonsplatz)は無いか絵の左下が広場の位置。アンティクヴァリウム(Antiquarium)は上下の図ともにピンクで記した。下が実際の地図。向きを同じ方角に変えてあるが、美術館や劇場、教会などはこれら建物の右半分に入っている。レジデンツ美術館の入り口は赤い建物の部分。1755年の図には存在していない。※ 左のグレーの部分はおそらくバイエルン放送交響楽団「ヘルクレスザール(de:Herkulessaal)」の本拠と思われる。下が実際の入場口入館料は王宮と宝物館、劇場のセットで共通券で13ユーロ(2014年7月時点)荷物を預けるロッカーはなく、直接係員への預け方式になります。貴重品は持って行かない方が良いでしょう。カメラはほとんどの所で撮影OKです。入館して最初に入るのはたぶんレジデンツ宝物館Residenzmuseumのほうになるが、今回は先にレジデンツ内部の建物の方から紹介します。アンティクヴァリウム(Antiquarium)レジデンツの見所の一つになっているのがこのアンティクヴァリウム(Antiquarium)です。装飾が施された全長69mのこのホールは現存するレジデンツの建物の中では最も古い部屋だそうです。建設は1568年~1571年。デューク・アルブレヒト5世(Duke Albrecht V(1528年年~1579年))が古代遺物の骨董彫刻コレクションの為に建てた部屋だったそうです。「Antiquarium」と言う部屋の名前はそこから付けられたようで骨董部屋・・と言うところだろう。しかし、デューク・アルブレヒト5世の子供、ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)とさらに孫にあたるマクシミリアン1世(Maximilian I)(1573年~1651年)の時代に宴会場に改装されている。つまり公的なダンスホールやダイニングホールになったのである。ちょっとセンスが悪いと思う。・・と言うか怖いけけど・・下が食器である。デルフト焼きっぽい感じです。(欧州にマイセン焼きのような磁器が作られるのは18世紀初頭。)16の天井画はイタリアとバイエルンで活躍したマニエリスムの宮廷画家。ピーター・キャンディッド(Peter Candid) (1548年~1628年)の作品。着座する女性の形で名声と美徳の寓意しているそうだ。ほとんど全ての女性が着座像の形で描かれている。北方ルネッサンスのインテリアらしいが、これはどう見ても暖炉と言うよりは廟(びょう)(ルネッサンス様式の墓)であるもしかしたらアンティックの廟だった物を後世暖炉に作り変えた可能性はある。反対側レジデンツ(Residenz)につづくリンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡) ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年12月21日
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前回に引き続き欧州のポストのお話です。前回は欧州のポストがなぜ黄色いのか?欧州のあらゆる郵便関連が黄色に統一されてるのはなぜなのか?郵便事業のルーツをひもとくと見えてくる納得の理由を紹介しました。赤色編のルーツを知る為にもを先に見ていただいた方が良いかもです。リンク先は下に表示。2015年12月「欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来」リンク 欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来今回はイングランドの赤色のポストのお話ですが、実は、ある意味イレギュラーなのが赤いポストの存在なのです欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポストイングランドのポスト時代が解るイングランドのポストの印アイルランドのポストイングランドのポストイギリスが発祥のように思われている郵便事業ですが、実はそうではなかった事は前回の「欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来」で了解してもらえたと思います。イギリスでの郵便の発祥は前回紹介したフランチェスコ・デ・タシスがマクシミリアン皇帝の許可の元、独占権を獲得。商業ベースでの駅馬車郵便事業を立ち上げた1516年と同じ年になっていますが、あくまでそれはロイヤルメールだけで一般に郵便事業が認められるのは欧州本土より遅れて1654年の事。また郵便馬車が走るのは1784年なので一般人が郵便を利用できるようになるのはかなり近代に近づいてからの事です。ではなぜイギリスが発祥のように思われたのか? それは世界初の切手の発行がイギリスだからだったからではないでしょうか?産業革命をいち早く成したイギリスは遅れていた郵便事業も一気に産業革命し、使いやすさの面で一気に欧州本土を抜いたようです。従来の郵便制度では、料金の支払い方法が不便であった事。また距離毎に値段も異なるし、値段自体が高かった事が1840年の切手の発明、発行に繋がったようです。残念ながら写真がありませんが、ビクトリア女王の肖像が描かれた1ペンスの切手、通称「ペニー・ブラック」が世界初の切手だそうです。時代が解るイングランドのポストの印イギリスで郵便事業を営む会社ロイヤルメール(Royal Mail)。もとは王室縁で、イギリス国内と植民地間の配達業務から発祥。(郵便事業は現在日本と同じく国営から民営化されている。)イギリスでポストが初めて建つのは1852年。柱の形をした箱だったので、ピラー・ボックス(Pillar box)と呼ばれたようだ。最初の1号はジャージー島に設置。各年代のピラー・ボックスにはその治世の王のイニシャルが記されている。ウィキペディアよりパブリックドメインになっていたので借りてきました。1856年型ピラー・ボックス(Pillar box)。これに刻印は見あたりませんが、当時の国王はヴィクトリア女王の治世。ヴィクトリア(Victoria)(Alexandrina Victoria)(1819年~1901年)(在位:1837年~1901年)よくよく見ると投函口がタテになっています。エドワード7世(Edward VII)時代のイングランドのポストエドワード7世(Edward VII)、 Albert Edward(1841年~1910年)(在位:1901年1~1910年)※ このタイプはエリザベス2世(Elizabeth II)印も存在している。ジョージ6世(George VI)時代のイングランドのポストジョージ6世(George VI)(Albert Frederick Arthur George)(1895年~1952年)(在位:1936年~1952年)エリザベス2世(Elizabeth II)型の種類は多い。エリザベス2世(Elizabeth II)(Elizabeth Alexandra Mary)(1926年~ ) (在位:1952年~ )イングランド湖水地方のポスト湖水地帯のものは環境の為か? 埋め込み型ですが、刻印はエリザベス2世のものです。基本イングランドのポストは初期の1号の形が踏襲されているようですね ポストの誕生は料金制度が確立されたから・・と言えるでしょう。欧州本土の郵便ポスト設置時期はわかりませんが、本土の方はポスト・ホテルが郵便局を兼ねて居たので、ポストの設置はもしかしたらイギリスより後になるのかもしれません。ところでイングランドのピラー・ボックス(Pillar box)は英国の植民地にも当然設置されていました。オーストラリア、キプロス、インド、スリランカ、ジブラルタル、香港、アイルランド共和国、マルタ、ニュージーランドなど英連邦のメンバーと英国の海外領土。バーレーン、ドバイ、クウェート、モロッコのようにイギリスの郵便局が提供する機関郵便サービスが行われている地域などに残っているらしい。アイルランドのポスト下はエドワード7世(Edward VII)時代のイングランドのポストをグリーンにしたものらしい。現在はアイルランドでは「An POST」と呼ばれる国営会社が運営している。近年のポストに王冠は無い。イングランドの隣にあるアイルランドは最初のイギリスの植民地だったそうだ。1169年。ノルマン人侵攻によりアイルランドはイングランドにより植民地化される。ちょうどポストが誕生する頃、アイルランドは連合法のもとグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の構成国となり、完全に英国に併合された。1922年アイルランド独立戦争が発生。北アイルランド6州は1922年の独立以後もイギリス統治下にとどまったそうだが、カトリックvsプロテスタントの民族宗教紛争が長らく続いていた。現在は平和的解決へ向かっていると言う。何でもするアイルランドの郵便局のマシンは進化?郵便配達事業の枠を超え、各種支払いやパスポート発行など、公共機関としての役割を兼ねた アイルランドの郵便局では運転免許の更新手続きもできるらしい ところでなぜイングランドは赤でアイルランドは緑なのか?イングランドは神聖ローマ帝国圏でポピュラーな黄色に対抗して独自色として赤にしたのではないか? アイルランドはイギリスに対抗して赤から緑に塗り替えたのではないか?ベルギーのポスト一番古そうな感じ ポストと言うより消火栓に見えるけど・・。イタリアのポストイタリアのポストは壁掛け型が多いらしい。なんか小汚いですね。マナーが悪いのかな?デンマークのポストは2色ある。ノルウェーのポストはオレンジ黄色と赤の中間色なのですかね また新しい国のが貯まったら紹介します
2015年12月13日
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Break Time(一休み)タイトル変更しました欧州のポスト 1 郵便事業のルーツと黄色いポストの由来公的な書類の輸送から発展した郵便事業庶民向け郵便サービスの始まり黄色のポストのルーツは黄色い馬車からいつか黄色のポストの特集をしようと写真を撮っていたが、驚いた事に日本でも最近わざと黄色いポストを設置する所が出てきたらしい。日本の場合は、「黄色い幸せのハンカチ」に引っかけたのか? 幸せを運ぶ黄色いポストとして縁起担ぎと観光誘致が目的らしいが・・。欧州の場合、長い歴史の結果が今の形を作ったわけで、そこに至った理由はまさに必然。今回は元祖欧州の黄色いポストに由来する欧州の郵便事業のルーツを再度紹介。以前紹介した内容に加えて編集しました。2009年07月07日「 馬車と駅馬車 」リンク 馬車と駅馬車2009年12月07日 「クリスマス臨時郵便局 1 (クリストキンドルと郵便ポスト) 」リンク クリスマス臨時郵便局 1 (クリストキンドルと郵便ポスト)フランス シャルルドゴール空港ゲート前のPOST公的な書類の輸送から発展した郵便事業15世紀まで馬車は王侯、高位聖職者、豪商の私有物に限られていたそうです。実際初期の郵便のルーツは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世( 1459年~1519年)のもと、皇帝の領地間などの文章の輸送業務の為に開かれた定期便が初めと考えられています。その時に皇帝マクシミリアン1世に郵便主任を命ぜられたのがフランチェスコ・デ・タシス1世( Francesco I de Tassis)(1459年~1517年)最初のルートは皇帝の弟であるブルゴーニュ公フィリップ(美公)が統治していたブルゴーニュとネーデルラント地域間の物資輸送。補給拠点や馬の交換の中継拠点をルート途中にもうける事で長距離輸送をも可能にしたのである。フランチェスコ・デ・タシスが郵便主任として開拓たルートはブリュッセル=インスブルック、パリ、レンヌ、リヨン、グラナダ、トレド、ブルゴス、ローマ、ナポリ。それは神聖ローマ皇帝を世襲にしたスペインハプスブルグ家とオーストリーのハプスブルグ家をつなぐルートである。「これは商売になる」と考えたフランチェスコ・デ・タシスはマクシミリアン皇帝の許可の元、独占権を獲得。商業ベースでの駅馬車郵便事業を立ち上げたそうです。時は1516年。それは公用郵便をタダで運送する代わりに、民間郵便の独占権を認めてもらう契約だったと言います。西はスペイン、南はイタリア、北はドイツ各地を広範囲に網羅する神聖ローマ帝国内の独占権を1805年まで一人締めです。(18世紀になると各国が国営化。)庶民向け郵便サービスの始まり手紙や小荷物を運ぶ・・と言う庶民の郵便のルーツは駅馬車の登場につながります。中世が安定して商業や手工業が発達。商いが広域に拡大してくると、水路を利用する輸送から、陸上輸送の方にも需要が生まれてきたようで一般庶民も乗る事のできる乗り合いの駅馬車の需用も増えたようです。最初は注文要請された場所まで行くチャーター便だけ。そのうちに一定の区間、(街道や街、港等の往復)を走るようになり、運行時間が決まった、定期輸送便へと進化。長距離便では、何泊もするものも登場。パリ~リヨン間を結んだ駅馬車(Diligence)は、夏は5日、冬なら6日もかかって両都市間をつないだと言われています。※ 以前 「ロンドンバス(London Buses )」で紹介しましたが、ロンドンではこの辻馬車の屋根に椅子を乗せて乗客を増やした・・と言う2階建ての駅馬車の発想が、2階建てバス(ダブルデッカー)の誕生となっています。(ロンドンに辻馬車が登場したのは欧州本土より遅れる事、1625年)フランチェスコ・デ・タシスはこれに目をつけ、もとは手紙だけを配送する荷馬車から客の乗れる少し高級な駅馬車に発展。あるいは、路線が既にできていた他社の駅馬車に手紙を一緒に運ばせたりして事業を拡大して行ったようです。考えれば、これが郵便車のルーツとなります。今に残るクレムスのポスト・ホテル(Post Hotel)また、駅馬車は各都市の主要ホテルを発着場所にしたので、当時郵便物はホテル止まり、あるいはホテルで委託を受ける・・と言う形になっていたようです。それがポスト・ホテル(Post Hotel)と呼ばれる存在です。上の写真は前に「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)」の所で紹介したものです。郵便自転車の色も黄色だったスイスでは現在も郵便バスが存在している。これは郵便物を運ぶ車に登山客を乗せてあげる為にバス化した珍しいパターン。スイスのPOSTオーストリーのPOSTスペインのPOSTスペインのPOSTドイツのPOSTスウェーデンのPOSTスロバキアのPOSTギリシャのPOST黄色のポストのルーツは黄色い馬車からフランチェスコ・デ・タシスは御者に華やかな制服を与え、馬車は全車美しい黄色に塗って走らせたそうです。鮮やかな馬車は宣伝効果も満点で、片手間の辻馬車メールから定期便の配達馬車に変え、さらに、ホテル止めのメールを地元の飛脚に顧客の家まで配達させたと言うことで現代の郵便事業そのものの基礎を作った人なのです。現在に観光で復刻され走っているニュールンベルグの黄色の郵便馬車長く欧州での庶民の郵便物を配送していた黄色の馬車。それ故、「黄色い馬車=郵便」 のイメージは強く、欧州のほとんどの国のポストは黄色になった。そして、御者が馬車の到来を告げる為に鳴らした角笛は、今も郵便のシンボル・マークとなって現在に継承されている。因みにイギリスではポストは赤です。日本はそれを真似したわけですが、イギリスがポストを赤に変えた理由は、その方が霧のイギリスで目立ったからのようです。現在赤いポストに変わっているのは、イギリス、イタリア、ノルウェー、アムステルダム、ベルギー、モナコは確認済みです。アイルランドはグリーンです。容量オーバーなので赤いPOSTは次回。2015年12月「欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト」リンク 「欧州のポスト2 赤色-ポストの誕生と緑のポスト」
2015年12月10日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。パリのテロのニュースには驚きました せっかく平和になってきた世の中なのにばか者に平和が脅かされている事が非常に腹立たしいです。何より無差別に罪の無い人達を巻き込んで来る彼らの横暴さは断じて許せません。今回巻き添えを食った多くの罪なき人達のご冥福をお祈りします。それにしても自爆テロが正当化される宗教って何なんでしょうね。自爆してチリヂリになった者の魂は救われようが無いのに・・。天国に行ける・・と信じる者の魂は本当に天国に行けるものなのか?そう言えば細川ガラシャ夫人は、カトリック教徒なのに自決のあと爆死で亡くなったとされています。実はそれには疑問を持っています。跡形もなく消えたガラシャ夫人の遺骸。パフォーマンスだけで、本当はどこか異国にでも逃げたのではないか? と、最近思うのです。※ ガラシャ夫人については「信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓」で触れています。リンク 信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓さて、今回も大幅に遅れてしまいました。父の入院が長引いて日中病院にいるので夜中しか作業ができないのです 今回はミュンヘンに古くからあるフラウエン教会にある悪魔の足跡を紹介したいと思います。ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)フラウエン・キルヒェ・ミュンヘン(Frauen Kirche München)「悪魔の足跡」伝説なぜ窓が見えないのか?フラウエン・キルヒェ(Frauen Kirche)とは、実は聖母教会の事である。二つのタマネギ型の尖塔を持つ塔はシンボリックにミュンヘンの象徴となっている。建立は1468年~1488年。後期ゴシック建築だそうだが、二つの鐘楼のタマネギ型の屋根は遅れる事1525年に銅で作られて取り付けられた物でゴシックではない。撮影した昨年の7月時点では修復中で下からの外観の撮影ができていないのである建築はイエルク・フォン・ハルスバッハ(Jörg von Halsbach)建物は40m、幅37m、高さ109mもともとここには後期ロマネスク様式の三廊の教会が建っていたらしい。1240年、ミュンヘンがヴィッテルスバッハ家の支配になると、邸宅の敷地内に教会を建立。1271年には教区権を獲得。ミュンヘンの人口の増加と古い教会屋根の崩落で死者も出ていたそうで大人数を収容する教会建築が急がれたようです。参考までにパンフレットから・・。左右の塔の高さは異なり、北塔は98.57m、南塔は98.45m二つの鐘楼と両方に時計も設置されていて、双方の塔に上る事が可能。南塔のみエレベーター付き。(この時は修復中で登れなかった。何しろオリジナルはレンガだったらしいし・・。)ミュンヘンの象徴とも言える丸い円蓋であるが、実はこの教会はザルツブルグの司教座聖堂がモデルになっているらしい。実際ちょっと違うが・・。教会の中からの撮影であるが、入り口のドアである。ここは、教会の拝廊に当たる場所。赤い矢印下が「悪魔の足跡(Teufelstritt)」である。「悪魔の足跡」伝説伝説では、「この教会には窓がない」と、教会の完成をのぞきに忍び込んだ悪魔が喜んだ・・とか・・。しかし、これは教会の構造上ちょうど悪魔の足跡の地点(拝廊)からは窓が見えないだけにすぎず、中には大きな縦長の窓が25もある明るい教会です。礼拝所に踏み込んだ悪魔は「だまされた」と思い教会を壊そうとしたそうですが、堅牢な教会は壊れなかった・・とか・・。今は鉄の柵で仕切られた拝廊と礼拝堂かつては壁やアーチ、柱廊や仕切りで区切られていたと言います。足跡の位置には祭壇があったとも伝えられています。もはや足跡はわざとつけた印・・と言う所でしょう。今は信徒とそうでない人達の間に区分けはありませんが、かつて拝廊は正式な信徒で無い人達の祈りの場として提供されていた場所のようです。つまり部外者はそこより中には踏み込めなかった・・と言うわけです。そこで悪魔伝説を考えると、信徒でない悪魔はそこより先の聖域に立ち入る事ができず、窓を見る事ができなかった・・と言う事になります。(拝廊には窓は無い。)25の大きな縦長の窓にはステンドクラスがはめ込まれている。(当時一枚ガラスは存在しない。)ステンドグラスに使われる色ガラスの美しさは、この世のものとは思えない美しさを醸(かも)していたことだろう。つまり、礼拝所の荘厳さは天国を意味している。天国に入りたい者は信者にならなければならず、悪魔は決して立ち入れない場所なのである。悪魔の足跡の前の障壁柵のところから撮影確かに正面以外に窓は見えない。窓の無い拝廊はともかく、礼拝所内は横を見れば窓は存在する。が、身廊の中心線上。こうして写真の視野で正面を見ると、案外どの位置からも窓は容易に臨めていない事がわかった。なぜ窓が臨めないのか?その理由の一つは太い大きな八角形の柱のせいである。この聖堂の収容人数は4000人近く。それだけ広い空間なので、強度の為に柱も太くなるし、また数も増えている。身廊と側廊の柱の位置が視界をじゃまする位置に建っているからなのである。私が思うに、身廊の幅が狭すぎるのだ。(側廊、身廊、側廊の比率が1対1対1)また、側廊にある礼拝所の数が多い事も理由の一つ。それらを仕切る壁が堂内にせりだしている事が一因していると思う。問題は設計者が、意図的に窓が見えないようにしたのか? と言う事である。中央祭壇。内陣ここらへんは近年のもの。側廊側の壁にある小祭壇だいたいこういうのはかつての貴族などのプライベート礼拝所になっている。聖母被昇のこの絵は、かつては祭壇画として描かれたもの。1620年。ペーター・カンディット作。後年に作られた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の為の記念廟バイエルンのヴィッテルスバッハ家の出身の神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(1282年~1347年)(在位:1328年~1347年)の為に1619年~1622年にハンス・クルムパーにより建立。ブロンズと黒大理石。次回はやはりミュンヘンからの予定。リンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾) ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年11月27日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾)新市庁舎(Neues Rathaus)ゴシック・リヴァイバル(Gothic Revival Architecture)ガーゴイル(gargoyle)のルーツゴシック・リヴァイバル期のゴブリン以前ブリュッセルの市長舎でもガーゴイル(gargoyle)を紹介した事がありましたが、このラートハウスには壁面一杯にたくさんの彫像が張り付き、かつ雨樋(あまどい)であるガーゴイルの数がハンパ無く多い建物です。ラートハウスの中庭から天気の良い日はカフェテリアになる。特徴的な螺旋階段は装飾のオンパレード。カラーで印た所がガーゴイルや彫像が付いているところ。近年修復されたものだろう。そもそもこのラートハウスは1867年~1908年の建築物。見た目ほど古い物ではない。前にネオ・クラッシックの建物と紹介したが本当はゴシック・リヴァイバルと呼んだ方が正しいのかもしれない。ゴシック・リヴァイバル(Gothic Revival Architecture)直訳すればゴシックの復興である。18世紀後半くらいから、古代の遺跡発掘が始まり、ハイソな人々の間では古典古代への礼賛とあこがれのブームが訪れている。骨董品集めしかり、エジプトやトルコでの遺跡から発掘された彫像などの美術コレクターが増え出すのもその頃からである。特に1798年のナポレオンによるエジプト遠征はエジプトの遺跡が欧州に流れる発端になったと言える。陶磁器のウエッジウッドは1778年に古代ギリシャの壺を模してジャスパーと言う浮き彫りレリーフの陶磁器を発売。イタリアのリチャード・ジノリでもこの頃発掘された遺跡のレプリカ? ヴェズビオと言う名の陶磁器を発売している。(ポンペイはヴェズビオ火山の火砕流で滅び埋もれた古代都市です。)※ 因みにどちらも現在も販売され続けている所が欧州の陶磁器の素晴らしい所である。ブームは古典古代だけでなく、やがて中世の騎士物語も波及。英国の文学では、この頃現在に伝わるアーサー王物語なども編纂されて出版された。ハイソでお洒落な貴族達はギリシャの女神達が着たような薄い衣装を身に付けて絵画に登場。ゴシック建築の再興はイギリスから始まり、イタリア、ドイツへと徐々に電波して行ったのである。それ故に伝播に多少の時差は生じたのであろう。ミュンヘンのラートハウスの建築はかなり遅く、ブームからも外れた感はあるけれど、この時代にこれだけの彫像を彫る石工、フリーメイソン(Freemason)達を集めただけても凄い事である。※ 「石工、フリーメイソン(Freemason)」については「2013.9 クイズ 「このロゴは何 ?」の解答編」で紹介しています。ガーゴイル(gargoyle)のルーツそもそもガーゴイル(gargoyle)はゴシック建築の大聖堂の屋根に誕生したシステムです。急勾配の屋根を雨水が流れ落ち、漆喰の壁に水が染みこまないようにする為に雨樋が必要だったようです。当初はギリシャやラテン文化の影響もあり、そのデザインには、シンプルに動物などの意匠が使われていたのかもしれない。たしかに、ミラノにあるキリスト教が公認された最初の教会であるのサンタンブロージョ聖堂にもたくさんの動物や想像上の動物の彫刻があった事を思い出しました。(カトリックの嫌がるヘビの像も)サンタンブロージョ聖堂の創設は379年。現在の建物は11~12世紀に再建されたロマネスク様式。ロマネスクの教会に雨樋こそ見当たらなかったが、13世紀に現れるゴシックの教会には動物や奇っ怪な動物のガーゴイルが現れているので、そもそもは異教の教会の影響があった事は間違いないのかもしれません。教会を建築する石工のギルド集団(フリーメイソン)は国境を越えて教会建築の為に何十年単位で流浪する集団です。彼らがどこぞで見た物を自身の技術に取り込み、洗練させていったのかもしれません。後期ゴシック期には悪魔的な怪物の姿などが登場。(この頃はまだ欧州もカトリックの布教中で異教徒に対し悪魔的な扱いがあった事も影響しているかも・・。)魔除け・・と言う説もありますが・・。バロック期には奇っ怪な彫像だけでなく、テキスタイルにもグロテスク (grotesque)様式と言うスタイルが登場している。ところがその後 異形の動物像は消え、奇妙な人間の彫像にガーゴイルの主流が変わっていったようです。その理由はわかりません。(もしかしたら十字軍の遠征も終了し、欧州がほぼカトリック、カラーになった事が起因しているかもしれない。)なぜ滑稽な人の姿になったのかは今一つよくわからない。今後解りましたらお知らせします。市民の声を聞く? とか意味でもあったのでしょうかね ゴシック・リヴァイバル期のゴブリン(goblin)以前紹介したブリュッセル(Brussels)のグラン・プラスにある市長舎の建築は1402年~1444年。ここのガーゴイルは滑稽な姿の人間像ばかりでした。バイエルの新市長舎の建築は19世紀なので、完全なる懐古趣味的なゴシック・リバイバルです。でもそれならガーゴイルは怪物であっても良いはずです。少なくともイギリスやフランスでは、このゴシック・リバイバル期に建てられた、あるいは修復されたガーゴイルには好んでゴブリン(小鬼)などの意匠が使用されているように見受けられるからです。例えばパリのノートルダム寺院はコブリンの彫像や怪物のガーゴイルで有名ですが、それらは1845年の修復の際に19世紀フランスの建築家 ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc) (1814年~1879年)によって設置されたものだそうです。(オリジナルは失われていていた。)怪奇小説なども出始めた19世紀には敢えてそうした闇の物が好まれたのでしょうか?ラートハウスにいたゴブリン(goblin)話は戻って、ミュンヘンのラートハウス(市長舎)は意外に人間のガーゴイルが多い事に気がつきました。市長舎としてグランプラスの市長舎をお手本にした可能性もあります。何にしてもラートハウスの統一性のない彫刻は、携わった石工の継承した技術と特徴と個性なのかもしれません。ミュンヘン ラートハウス終わります。Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン) ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾)リンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年11月14日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)新市庁舎(Neues Rathaus)居酒屋レストラン ラーツケラー(Ratskeller)ゴシックの市長舎1階には観光案内所も存在しますが、驚くのは市長舎なのに広場向きの1階正面はやたらと民間の店舗が多い事です。 特に地下のほとんど全てを店舗としている居酒屋レストランは、ラートハウス完成(1874年)と同時に開業した老舗のお店でした。正面の入り口・・・ピンクの矢印市庁舎塔(Rathausturm)入り口・・・ブルーの矢印役所の下に居酒屋・・。近年ならともかく明治の日本あたりではとても考えられない事です。しかしミュンヘン以外にも、ドイツやオーストリアなどフランドル界隈ではこのように市長舎(ラートハウス)の下が居酒屋になっているところが結構存在するのだそうです。(もともと市の直営だったのかもしれない。)確認していませんが、いわゆる第三セクターの経営なのかもしれません。何しろミュンヘンの一等地の役所の下のほとんどを利用した広大な敷地を持つレストランなので・・。居酒屋レストラン ラーツケラー(Ratskeller)ラーツケラー(Ratskeller)とは、ラートハウスのケラー。「地下の酒蔵」と言う意味らしい。バイエルンの郷土料理と美味しいビールを戴くにはお値段も手頃で味はバツグン。ミュンヘンでは、観光客に最適のお勧めの店の一つです。(観光でミュンヘン行かれた方はツアーなどでも大抵組み込まれているようです。)マリエン広場側の正面入り口店の入り口は何カ所かある。巨大な地下の中は幾つかの用途別、かつインテリア異なるホールに別れているようです。中にインフォメーションが存在する主にアラカルトか? コースか? 加えて豪華な居室か? 個室か? それにビールだけでなくワインバーなども併設。いろんな客のあらゆるニーズに答えるレストランのようです。Hauberrisser下はアラカルト料理を出すホール。一般のカジュアル系ビア・ホールである。田舎のレストラン風Arche Noah (ノアの箱船)素敵な壁画が描かれている。イスもテーブル・セッティングも全く違う。コース料理を楽しむ高級系? かと思いきや、今回撮影できませんでしたが、もっと高級系の部屋がたくさんあるようです。単品のお値段は一緒らしいがレストランによってはコースしか無いとこも・・。でもこちらはスーツを召された方が多いようです。こんな個室もたくさんあります。デート用にハートの風船が付いたリザーブ席もありました。カジュアルならそのまま入れますが、できれば事前予約をして置いた方がよさそうです。プリッツェル(Brezel)はミュンヘンの特産物前にも書きましたが、プリッツェルはミュンヘンのレストランでは必ず出されます。しかし、無料ではなく、食べた分精算されるので注意です。ドイツと言えば他にビールとソーセージ。バイエルンでは昔ながらの上面発酵させた白ビール(Weissbier)が有名。アルコール度4.3度。小麦粉を使ったビールでやや白濁で少し甘め。白ビール(Weissbier)「Franziskaner」 ハーフ500mlで4.70ユーロ(値段は2014年7月のもの)料理を乗せる為のホットプレートNuremberg Style Bratwurst 6本10.40ユーロ 8本12.70ユーロ(値段は2014年7月のもの)ドイツで一番美味しいと言われるニュールンベルクのニュールンベルガーソーセージ。自家製のようです。他にもソーセージは食べていますが、日本人にも一番馴染み安いソーセージです。※ 白ソーセージは他の所で紹介。Jung schweine braten (若い子豚のロースト) 13.50ユーロ(値段は2014年7月のもの)付け合わせの丸いのはクヌーデル(knoder)小麦粉のお団子で、ソースの付いた料理には必ず付いてくる団子だそうだ。何かの付け合わせのザワークラフト何かの付け合わせのザワークラフト。ザワークラフトは一般に酸っぱい酢漬けと思われているが、地方によりそうでもないものもある。保存用になるものはビネガーが強いのだろう。他にもモッツレラのサラダなどオーターしたが、見栄えが良く無かったので写真撮らなかったようです。次回中庭などササット紹介して移ります。Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔) ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年11月05日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ラートハウス、この後、塔、装飾、レストランを予定していますが、今回は塔で終わりそうです。ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)新市庁舎(Neues Rathaus)市庁舎塔(Rathausturm)塔に上れるのを知っている人は案外少ない。ラートハウスの1階には市のインフォメーションもあるが、他は一般の店舗になっていて、その地階には有名なビアレストラン、ラッツケラー(Ratskeller)が入っている。塔の下は中庭へのゲートでもある。ラートハウスの内部を少し紹介今も現役の市庁舎である。階段の反対側にエレベーターが付いている。展望塔に上る人はこれで1度4階に上がり乗り替える仕組みになっている。下は塔のオープン時間と料金の案内。だいたい毎日、午前10時から午後7時くらいまで。昨年の値段表であるが、大人は2.5ユーロ。料金は4階の乗り替えの前に支払うようになっている。展望所は時計の上の所に位置している。360度塔の周りを一周して景色を楽しむ事が可能。外側からの写真は前回の写真を見てね。それにしても雨に祟られているようで、タワーに上がった時は結構な雨が降っていました。降る頃にやっと晴れて来た写真を載せています。南東方面の旧市庁舎(Altes Rathaus)南南東の聖ペーター教会(Peterskirche)前々回に紹介したノイハウザー通りからカールス門に繋がる通り。緑の屋根の建物はデパート。西から北西方面、カールス門方向。見える教会はフラウエン教会(Frauen Kirche)北側はラートハウスの中庭と建物。外から見ると解らないが、ラートハウスはほぼ四角形ラートハウスの中庭からのタワーどうしても今日載せたいのでこのまま行っちゃいます。Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計) ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月29日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)新市庁舎(Neues Rathaus)カリヨン(carillon)とグロッケンシュピール(Glockenspiel)ラートハウスの仕掛け時計新市庁舎(Neues Rathaus)の時計塔(下から)いくつかあるゲートの上には必ずバイエルンの紋章である僧侶が装飾されている。上は時計塔の下のゲートであるが、この塔に昇る為のゲートはここではない。時計塔は鐘楼の中程に位置している。 Tower・・の部分が展望階の部分ところで前回、このラートハウスは1867年~1908年の建築と紹介したが、実は2期に分けられて建築されている。東部(写真右)側が1867年~1874年にレンガ造りで建てられ、塔のある西部(写真左)側が1899年~1908年にわたって建築されている。建築としては、フランダース地方の市庁舎を手本にしているそうだ。塔の高さは85m塔のトップにはやはりバイエルンの修道僧がいた。(肉眼では見えません。)ちゃんと鐘のカリヨンはついているようだ鐘は全部で43個。総重量7トンあるそうだ。カリヨン(carillon)とグロッケンシュピール(Glockenspiel)たくさんついた鐘を鍵盤で操作して音を鳴らし演奏するカリヨン(carillon)は前にブルージュで紹介しましたが、(2014年3月「ブルージュ(Brugge) 3 (鐘楼とカリヨン)」)、その鍵盤(バトン)部分が無くなり、直接鉄筋をたたいて音を鳴らす(カリヨンの簡易式)に発展したものが、ドイツのグロッケンシュピール(Glockenspiel)のようです。※ そもそも当初は、鍵盤はあったらしいが、壊れたのでその行程を飛ばして金属棒をたたく事になったらしい。それ故、グロッケンシュピールは鍵盤打楽器に分類されるようだ。しかし、鍵盤打楽器としては、鉄琴やベルリラに相当するようであるが、当初のカリヨンやそれを用いた仕掛け時計なども今はグロッケンシュピールとして括(くく)られているようだ。新市庁舎の時計塔にあるグロッケンシュピール(Glockenspiel)は、鐘とからくり人形と時計の付いた複雑なもの。※ 市の説明書が無いので今現在の動力は不明。時計の上の部分が展望台。360度ぐるりと見わたせる。※ こう見えてエレベーターが設置されていて上までいける。それにしても最初から市役所として建てられているのに・・フランボワイヤン調である。古く見えて建設されたのは1867年~1908年とかなり新しい。エッフェル塔だって1889年には存在していたのだから、たぶん中には鉄骨が入っているはず。ネオ・クラシックと言うが、実はわざと歴史があるように古い意匠で造った・・と言った方が正しいのかもしれない。その為か? 建物に多数据え付けられている装飾のオブジェにビクトリア時代の怪物の趣向が見えるのだ。上はラートハウスの正面左の角。別の回にまたいろいろ紹介しますからくり人形のステージ部分カラクリ人形のステージは2段に別れていて、それぞれテーマが違う。ラートハウスの仕掛け時計上段は1568年に行われたバイエルン公ウイルヘルム5世(Wilhelm V)と公爵令嬢レナーテ・フォン・ロートリンゲン(Renata von Lothringen)との婚姻を記念して行われた馬上槍試合が再現されている。それにしてもなぜ400年前の彼なのか?前ケルン選帝侯がプロテスタントに転向して内乱を起こしたことからウイルヘルム5世はカトリックを死守してバイエルンに対抗宗教改革を起こしている。またケルン選帝侯をヴィッテルスバッハ家の世襲としたり、カトリックの大学を創設したりと尽力している事から英雄視されていたのだろうか?下段は桶屋のダンスである。延々とクルクル回るだけなのでストーリー性は無い。内容についてはいろいろ異なっていてはっきり解らないがペストが猛威を振るっていたさなかも桶屋が踊りを踊り続けた・・と言う話に由来しているようだ。ただ桶屋がビール樽を造る桶屋と言う説もあるし、棺桶屋だと言う説もある。人形はほぼ等寸で、青銅製、1体75kgあるそうだ。口上とラッパが吹かれ槍試合は開始される。青白の馬がバイエルンで赤白の馬がートリンゲンを表しているらしい。すなわち青と白側がバイエルン公ウイルヘルム5世(Wilhelm V)であり、赤と白側が公爵令嬢の出身ロートリンゲンを表している。青白側のバイエルンが勝ち赤白側の騎士は倒れる。先に紹介したようにただ回っているだけなのである。一説には神に感謝し市民をはげます為にこの踊りはあり奉納されいるらしいのだが、総じて意味が良くわからない。もしかしたらラートハウスの地下にはビールを飲む酒場が存在するので、ビール職人が陽気に踊っているところかもしれない。つづくBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場) ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月20日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)民族衣装 レーダーホーゼン(Lederhose)新市庁舎(Neues Rathaus)マリエン広場(Marienplatz)と30年戦争旧市庁舎(Altes Rathaus)前回、ミュンヘンの誕生はハインリッヒ獅子公(1129年~1195年)が塩の独裁権を獲得して1158年に開いた商業都市だと言う事を紹介しましたが、実はそれは1180年までの話です。ハインリッヒ獅子公は忠誠を誓っていた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世(赤髭王バロバロッサ)の怒りをかい選帝侯会議で所領を奪われバイエルンから追放。フリードリッヒ1世がハインリッヒ獅子公の代わりにバイエルンの領地を与えたのがヴィッテルスバッハ家のオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)です。1180年以降、1918年までヴィッテルスバッハ家がバイエルンに君臨する事になったのです。※ 神聖ローマ皇帝フリードリッヒ1世は1189年 第3回十字軍の総司令として最大規模の十字軍兵士を率いて出征したものの聖地に辿り付く前に溺死(1190年)してしまった王様です。2015年1月「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」で少し紹介しています。民族衣装 レーダーホーゼン(Lederhose)をはいた紳士南バイエルンからチロル地方の男性が着用する民族衣装。(今は祭礼服)ハーフパンツは革製である。たまたま通りかけた祭りに着用のおじさんを見つけて撮影させてもらった。着用のレーダーホーゼン(Lederhose)は上等な物のようだ。残念ながら彼の奥様は普通に洋装でした 新市庁舎(Neues Rathaus)とマリエン広場(Marienplatz)新市庁舎(Neues Rathaus)前回紹介したノイハウザー(Neuhauser)通りの先に昔からのミュンヘンの中心地である市庁舎(ラートハウス)のある広場にたどり着く。マリエンプラッツ駅のほぼ真上にあるこのマリエン広場の北側正面に、見るからに古そうなネオ・ゴシックの市庁舎があるのだが、これは1867年~1908年に建造された新市庁舎(Neues Rathaus)なのである。私的には、このラートハウスの壁面や樋(とい)に無数に付いた奇っ怪なオブジェやガーゴイルに非常に興味をそそられたのである。(1日見ても飽きないほど面白いのがいろいろあるから別の回にタップリ紹介したい。)が、たいていの観光客のお目当ては、この新しい市庁舎についた時計仕掛けの人形劇にある。詳しくはこれも次回にしたいが、毎日午前11時、午後は5時に仕掛け人形は動き、それを見る為に広場には人が集まるのだ。また、市庁舎の塔からの絶景を楽しむ事も可能であるし、仕掛け人形をより良く見る為に、これまた超古い聖ペーター教会の鐘楼(階段のみ)に昇る事も可能だ。(両者とも昇ったので適当に紹介していく予定。)聖ペーター教会からの新市庁舎とマリエン広場マリエン広場(Marienplatz)と30年戦争1638年に広場に設置されたマリア像(Mariensäule)に因んで名付けられたと言うマリア広場がマリエンプラッツ(Marienplatz)である。実はこれが設置された理由はドイツ全土が戦場となった「30年戦争(1618年~1648年)」に遡る。17世紀、神聖ローマ帝国内で勃発したプロテスタントとカトリックの戦いはやがてヨーロッパ全土を巻き込む国際戦争に発展。もはや宗教戦争と言うよりは、国家間の小競り合い、欧州の覇権を有する権力闘争に発展した。大きく見ればハプスブルクvsフランス、スウェーデンで、ドイツはその両者の狭間で翻弄させられたのである。マリア像は1638年と言う30年戦争中に建立されている。どうもこの像は選帝侯マクシミリアン1世の願掛けにより建てられたようだ。(ミュンヘンとランツフートが戦場になる事を免れる事を願う?)実際スウェーデンに占領されるものの、金銭により被害を最小限に留めて戦いは終結した。バイエルンの守護神としてのマリア崇拝がここに始まったと言うわけだ。。三日月の上に立つ金の聖母マリアの像もともと像はフラウエン教会にあったものらしい。マリア像の台座にはプットがヘビやドラゴンと戦っている像がついている。30年戦争は、ずっと続いていたわけではないものの、戦死、疫病、饑餓による死で人口が半分に減ったと言う大被害を出した。プットの先の敵はそれらを暗喩したもののようだ。新市庁舎からの聖ペーター教会(Peterskirche)方面マリエン広場(Marienplatz)からの旧市庁舎(Altes Rathaus)旧市庁舎(Altes Rathaus)写真はラートハウスの塔からの撮影。1470年ヨーク・フォン・ハルスバッハにより建てられた旧市庁舎。当初はミュンヘン最初の城壁の一部だった・・とも・・。現在は戦後の修復工事後からミュンヘン市客の接待なとで使用されいるらしい。旧市庁舎の表?新市庁舎(Neues Rathaus)につづくback numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り) ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月15日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)ミュンヒナー・キンドル(Munchner Kindl)通過税の徴収と商業都市ミュンヘン誕生カールス門とノイハウザー(Neuhauser)通り改めてミュンヘンの起源から・・。2015年2月「ザルツブルグ(Salzburg) 1 (塩で繁栄した都)~4 (ザンクト・ペーター修道院)」の所で、ザルツブルグが修道院と塩により繁栄した街である事を紹介していますが、ミュンヘン(München)もまた修道院と塩により繁栄した街なのです。ミュンヘンはムニヘン(修道士達の家)から由来した地名であり、最初にきっかけとなったベネデイクト会派の修道院の門前町として栄えた街です。以前「ザルツブルグ(Salzburg) 5 (ザンクト・ペーター墓地・カール大帝の文教政策)」では、古代ローマが滅びた民族大移動の事と、その後のカール大帝の欧州遠征の事を紹介しました。異民族(ゲルマン民族)の流入で荒れたフランク王国の再編の為に尽力したカール大帝(742年~814年)の活躍はかつてのフランク王国をかえり見る時に必須です。と、同時にカール大帝の政策によりそうようにカトリックの再布教の為にドイツ・アルプス山麓に拠点を置いて布教に励んだベネディクト会派の修道院の存在も重要なのです。フランク王国のみならず今の欧州の礎(いしずえ)になる歴史がそこに見えます。ミュンヒナー・キンドル(Munchner Kindl)ミュンヘン市の紋章が街の起源を明確に表しています。「Munchner Kindl」は直訳すると「僧院の小坊主」。(見習い修道僧の事と思われる。)739年、聖ボニファティウス(672年頃~754年)がフライジングに開いた司教区がゲルマニアの最初の司教区となった。(フランク王国にキリスト教を布教した人としてドイツの守護聖人として祀られている。)その司教区で746年ドイツ・アルプス山麓テーゲルンゼー(Tegernsee)にベネディクト会派の修道院が創設。さらにその分院としてイザール(Isal)川畔にできた僧院の村がミュンヘン(München)市の起源です。左手に聖書、右手の2本指は不明。黒衣の修道士・・とも呼ばれるベネディクト会のフード付きの黒装束を身に付けている。。実はこの紋章は13世紀より使用されていたようですが、16世紀になると持ち物は特産物のビールやラディッシュ(ミニ大根)になる時もあったようです。※ ビールとラディッシュはミュンヘンの特産物。他にプリッツェル(Brezel)もミュンヘンの特産物で、その特異な形は僧侶の腕組み姿を表しているとか・・プリッツェルはレストランで必ず出されます。しかし、無料ではなく、食べた分精算されるので注意です。通過税の徴収と商業都市ミュンヘン誕生フライジング司教区の収入はイザール川を通過する岩塩に対する税金で、莫大な収益があったそうだ。そこに割って入ったのがハインリッヒ獅子公(ザクセン公ハインリッヒ3世)(バイエルン大公ハインリッヒ12世) (1129年~1195年)。塩の交易路と課税を巡って対立となり、結果、1158年に収益の3分の1を司教に渡すと言う約束で、ハインリッヒ獅子公の独占的塩税の徴税が認められた。かくして通過税の徴収の為にイザール川畔に商業都市ミュンヘンが誕生する。※ザルツブルグで集められた塩もこのイザール川を通過して売られて行った。つまり塩はあらゆる所で通過税を取られていた事になる。ミュンヘン市街略図ミュンヘンも城壁に囲まれた都市でした。地図の黄色の道路がかつての城壁跡で中が旧市街。青色のラインは西のカールス門から始まるノイハウザー通りとカウフィンガー通り、街の中心、市庁舎のあるマリエン広場まで続く。ノイハウザー通りとカウフィンガー通りK・・カールス門(karistor)とカールス広場(Karlsplatz)M・・聖ミヒャエル教会(Michaelskirche)F・・フラウエン教会(Frauen Kirche)NR・・新市庁舎(Neues Rathaus)とマリエン広場(Marienplatz)AR・・旧市庁舎(Altes Rathaus)カールス門(karistor)とカールス広場(Karlsplatz)噴水の向こうに見えるのがカールス門カールス門の向こう側がかつての城壁の中内側からのカールス門カールス門内側前 サテュロスと少年の泉 1895年Matthias Gasteiger(1871年~1934年)昨 ドイツの彫刻家ノイハウザー(Neuhauser)通りミュンヘンオリンピック以前はカールス通りと呼ばれた。実は12世紀にはすでに存在していたらしい。ショッピング、ビアガーデン、グルメレストラン・カフェ、観光スポット、文化スポットが並ぶ。この日は天気が悪く人出も少ない。こちらではかなり雨が降っていても傘を差す人は少ない。そもそも持っている人が少ない?リヒャルト・シュトラウスの泉(Richard-Strauss-Brunnen ) 1962年Hans Wimmer(1907年~1992年) ドイツの彫刻家泉のレリーフはドイツ、ロマン派の代表する作曲家リヒャルト・シュトラウスのオペラ、サロメの情景から描かれている。バックの建物は16世紀の建物でルネッサンス様式。聖ミヒャエル教会(Michaelskirche)もこの通りにある。2015年7月「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」を見てね リンク ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)この近くにあるフラウエン教会(Frauen Kirche)は別の回にやります。リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)ドイツでは、シカ、イノシシ、ノウサギや野鳥類の料理が多いと言う。狩猟が盛んだった・・と言う名残だろう。フラウエン教会の路地を過ぎると通りはカウフィンガー通りに変わるしばらく歩くとマリエン広場に到着マリエン広場と新市庁舎ラートハウス天気の時の写真は次回に・・。旧市庁舎(左)とマリエン広場ペーター教会の時計塔からのノイハウザー通りとマリエン広場ピンクの円あたりがカールス門M・・聖ミヒャエル教会F・・フラウエン教会ブルーの円がマリエン広場次回マリエン広場とラートハウスBack numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2015年10月06日
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風邪が悪化して数年ぶりに38度越の熱がでました。 ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)馬車博物館 (Marstallmuseum) 馬ソリ(Pferdeschlitten)(sleigh)マクシミリアン2世のソリとルードビッヒ2世のソリ車輪の付いた台車を馬がひくのは馬車ですが、台車の足の部分がソリになっているのが馬ソリです。馬ソリはもちろん雪山用で、積雪の多いバイエルンではいろいろな事に利用されていたようです。日本において、開拓時代の北海道で普及したと言う馬ソリは、運搬が主だったようですが、バイエルンのヴイッテルスバッハ家では狩猟やゲーム、祭りなど、遊びとしても利用されてきたようです。馬ソリの歴史について書かれているものが無いのではっきりわかりませんが、ヴイッテルスバッハ家においては、マクシミリアン2世エマヌエル(Maximilian II Emanuel)(1662 年~1726年)の時代にイタリア、トリノよりもたらされたようです。(マックスIIエマヌエルの母で、このニンフェンブルク宮殿を建てたバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアの妃、イタリアのサヴォイ家出身のヘンリエッテ・アデライデがソリの遊び方を知っていた・・と記録されている。)マックスIIエマヌエル自身がソリの虜となり、ソリ・ライダーと呼ばれるほどソリにのめり込んだようで、狩猟の他も祭り等でもソリ自慢などがあったのか?当時いろんなデザインのソリが考案されたようです。さらに当時のバイエルンの宮廷にはそんなソリ遊びの為の草原が確保されていたと言う。マックスIIエマヌエルのヘラクレスのソリヘラクレスのヒュドラ退治を表した芸術的なソリは、実用と言うよりはイベント用かもしれない。実際、貴族にらが、ガラパーティーなどで招待された時などは、こうした趣向を凝らしたソリでさっそうと乗り付けた・・とされている。Hunting sleigh with Diana狩猟の女神ダイアナが乗ったソリは狩りに利用されたソリのようです。 1740年頃の製作のようで、時代はマックスIIエマヌエルより後のようです。18世紀頃、当時のバイエルンのフェスティバルには有名貴族を招待してソリ遊びに興じたりしていた記録もあるようですが、それよりも、馬ソリと言えば・・・。今でも伝説に残るのがルードビッヒ2世の深夜のソリ巡行です。First Nymph sleigh of King Ludwig II 1875年製 ルードビッヒ2世の最初のニンフェのソリは、ソリと言うより夜間巡行を考慮した外灯付きとなっている。(外灯のデザインにはアールヌーボーのテイストが・・。)19世紀、ソリは実用から芸術よりの作品になっていました。19世紀は工業化の時代、運輸の状況は変化し、ソリはあくまで遊びの領域?時代遅れの馬車や馬ソリに興じたのは中世趣味を愛したルードビッヒ2世だからこそ・・。Second Nymph sleigh of King Ludwig II1881年製 ルードビッヒ2世の2台目のニンフェのソリさらにどんどんルードビッヒ2世の趣味に寄った美しいものに・・。ルードビッヒ2世については「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」でも紹介していますが・・。ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)第4代バイエルン国王(在位1864年~1886年)前回紹介した馬車同様に彼のソリも豪華さをましていきます。Renaissance or Dress Sleigh with Putti, of King Ludwig II ルードビッヒ2世のキューピット付き。ルネッサンス風? 礼装用ソリ ルードビッヒ2世の深夜のソリ巡行(ヴェーニヒ作)この絵のソリが上に紹介したプットの付いたソリである。王は夕刻に起き、食事を済ませた後、真夜中にソリに乗って周辺をドライブしたらしい。そんな生活をしていたので後年の王は醜く太ってしまったと言う。最初のニンフェのソリをもっと洗練させたソリ? ニンフェははきりフローラとして表現されている。そしてプット共に乗るのは白鳥となぜか魚の尾を持ったニンフェとなっている。こんなルードビッヒ2世(Ludwig II)が造らせた豪華な馬車やソリを見て、やはり聖ミヒャエル教会にある彼の棺の質素さが気になって仕方がない。きっと今の棺に不満があるはずだ。なぜ彼は先に自分の棺を造っておかなかったのだろう。きっとこれら馬車やソリよりも最っと凄い棺ができたはずだし、そうしたかったであろう・・。馬車博物館 (Marstallmuseum) おわりニンフェンブルク宮殿バックナンバーリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2015年09月27日
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やっとの事で写真を選択。馬車博物館の馬車やソリ。精巧なのでいろんな角度で紹介したいと今回は馬車3台の紹介です。(次回ソリ)ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)マーシュタール博物館(Marstallmuseum)(馬車博物館)カール・アルブレヒト(Karl Albrecht)カール7世(Charles VII)の馬車ルードビッヒ2世(Ludwig II)の馬車宮殿の左翼側、騎士の館と呼ばれた王室用の厩(うまや)、マーシュタール(馬小屋)を改良して造られた馬車博物館がある。そこにはヴィッテルスバッハ家が保有し使用していた祭典用の馬車から普段使いの馬車、そして冬用のソリなどが保管展示されている。特に馬車コレクションはヨーロッパ最大と言われているらしいが、確かに他で馬車の展示を見ることはほとんど無い。しかも非常に贅を尽くした驚愕の豪華さなのである。(これはそれ事態が芸術品。)またソリのコレクションについても「これがソリ?」と驚く豪華さなのである。以前ブリュッセルのサンカントネール美術館のところで数点のソリを紹介した事があったが、ルードビッヒ2世がしつらえさせ、彼自身が好んで愛用していたというソリは次元が違う。(もはやソリではなく使用してはいけない美術品。)ニンフェンブルク宮殿まで行ったのであるなら、是非足を運んで欲しい必見の場所です。場所はB地点。厩(うまや)とは思えないですカール・アルブレヒト(Karl Albrecht)カール7世(Charles VII)の馬車バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(Karl Albrecht))(1697年~1745年)が神聖ローマ皇帝カール7世(Charles VII)として戴冠した時のスペシャルな馬車がこれである。※ カール・アルブレヒトについては「ニンフェンブルク宮殿 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)」で書いています。御者台の装飾と馬車後部の装飾はこれが神様の乗り物であるかのよう。パリで製作された馬車らしい。おそらく装飾の女神は戦いの神であり都市の守護神でもあるアテナイ神。ローマ神話ではミネルヴァ(Minerva)馬車の台を支える貴神が誰か不明 後部側凄いです 神聖ローマ皇帝に昇り詰めたヴィテルスバッハ家の権力を象徴する馬車なのは確かです。ルードビッヒ2世(Ludwig II)の馬車上に紹介したカール・アルブレヒトの馬車をモデルにロマンティストなルードビッヒ2世が製作した式典用の新しい馬車が下。Neuer Gala Wagen ・・新 祝祭 車両 ガソリン式の自動車(1876年)なるものを発明したのはまさにドイツ人である。そして1885年にはダイムラーとベンツがそれぞれ特許申請をし、馬車にエンジンを付けた車の販売を始めている。それはルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年~1886年)の時代にも被っていて、少なくともルードビッヒ2世はガソリン車を知っていたはずだ。ではなぜこんな豪華な馬車を造ったのか?それはやはり19世紀末、ドイツを風靡したロマン主義思想にあるのだろう。古き良き時代? 理想化した中世へのあこがれは文学、音楽、美術、建築などあらゆる芸術作品を生んだ。ルードビッヒ2世の城もこの馬車もそうした理想の中の産物。実は彼らの中世へのリスペクトは、実際全く別の世界観を造ってしまった。ルードビッヒ2世はそこに現実逃避していたわけだ。扉の絵から察するにバイエルン王位についた戴冠式の時に使用?婚約者ゾフィー・シャルロッテ(エリーザベトの妹)との結婚式でも使用されるはずだった馬車こちらは天使やニンフ?がたくさん装飾され、女性的な繊細さのある馬車となっている。後部側ロマン派のルードビッヒ2世の趣味はとても乙女チックなのである ルードビッヒ2世の馬車 2御者台の下白鳥はルードビッヒ2世のシンボルのようなもの車輪のホイールにあたる部分にも何やら貴人が・・。ソリの部に続くリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2015年09月19日
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鉄道関連のリンク先をラストに載せました。現在問題になっているシリア問題。安全を求めて欧州に逃れてきたシリア難民。とりわけ彼らが目指すのは欧州でも難民の受け入れに寛容なドイツでした。彼らは仲介者に莫大なお金を払い手はずを整えてもらい国外に脱出。ギリシヤからセルビア、ハンガリー経由でドイツ入りしたシリアの人々が降り立っていたのがミュンヘン中央駅です。(ミュンヘン南50kmに難民の収容センターがあるかららしい。)「ニンフェンブルク宮殿 1」の時に中央駅の写真だけ紹介していますが、ニュースに度々出てくるので、ちょっと予定変更してミュンヘン駅の紹介を先に入れる事にしました。ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)ミュンヘン中央駅構内に設置されていた地図を解りやすく修正しました。大きく二つのブロックに分けられる。赤い円が列車のプラットホーム(ここはすべて始発駅である) 黄色の円が飲食などの商業ゾーンである。A(南東)が正面口でB(南西)とC(東)にも出入り口がある。(BC間はメイン通路)A ミュンヘン中央駅の正面口 トロリー、バスの乗車はこちら開業は1839年9月1日屋根が低く小さく見えるが中に入ると結構巨大なターミナル駅である事がわかる。B(南西)側を出た所がタクシー乗り場向かいに見える黄色のビルはメリディアン・ホテルC(東)側は空港行きリムジンバス乗り場待合どころか歩道に立って待つだけなので雨だったら最悪です。尚、空港へのアクセスは地下鉄もある。地下鉄は調度この下から通路で行ける。A正面口から構内に商業施設を抜けると正面にインフォメーションがある。その真向かいに券売機がある。インフォメーションはチケットを売ってくれる所とそうでない所がある。長距離路線の場合、たいていネットなどで事前に購入して来る人が多いので(その方が早割がある。)券売機で購入する人は案外少ない。尚、券売機で買うと安いが、窓口で購入すると値段はもう少し高くなるし、車内で買うともっと高くなる。料金体系がかなり細かくあるので外国人には解りにくい。券売機は以前オーストリアで紹介したものと同じ2015年2月「ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)の中。「QBBの発券機」で紹介しているマシンと同じなので使用方法はそちらを参照してください。リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)ここはすでに駅中なのである。国内への路線は当然ながら国際列車の発着駅でもある。ブダペスト、プラハ、ウィーン、ザルツブルク、インスブルックなど近隣国への路線が多く発着する。改札は無い。しかし乗車前にチケットをマシンに入れて日時の刻印を入れる必要がある。ピンクの矢印の下にマシンがあるのだが、刻印をせずにマシンより先に行く事はルール違反となる。B(南西)側のゲートからの光景B口とC口間はメイン通路右が商業ゾーンで左がプラットホーム商業ゾーン以外にプラット・ホーム前に三角ブースの飲食スタンドが幾つも建っている。駅は深夜も動いているのでおそらく飲食店の何件かは夜も開いていると思われます。実はドイツには閉店法があり、土日など店は休まなければならない法律がありました。最近は世界的な常識や観光客の事もあり、土曜日のオープンは増えてきたそうですが、まだ日曜日に関しては中央駅前のデパートでさえもお休みでした。だから平日買い出しをしておかないといけません。レールジェットでザルツブルグから到着した時に隣のホームにいた列車です。ちょっと強面な感じかドイツっぽいな・・と思いました。Einsatzkommando COBRAÖBB Cobra LOK - Taurus 1116 Siemens欧州の駅の中でも、ミュンヘン駅は結構、駅中が栄えていました。シリアから来た人達はさぞ驚いた事でしょう。同時に新天地ドイツでの生活に希望の想いをはせている事でしょう。本当はシリア本国の内戦が収まり、イスラム国も消えて無くなればみんなハッピーなのですが・・。それにしても大量の移民にかつてのゲルマン民族の大移動が重なりました。ほぼ2世紀毎に欧州には大量の民族が流入し、ローマ帝国も滅びましたが、大量の民族流入そのものが、欧州と言う立地に必然的に起こる現象なのかもしれません。おわり関連のBack numberリンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 東海道新幹線開業50周年の日リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2015年09月09日
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初夏の暑さはどこへやら、台風と長雨と共に夏はどこかに行ってしまったようです。寒さの中、慌てて鳴いていたセミが気の毒でしたさて、今回は広大なニンフェンブルク宮殿の敷地内にある狩猟用の小屋の紹介です。しかし、小屋と言っても内容はかなり立派なな宮殿です。その装飾の凝りように至っては、マリーアントワネットのプチトリアノン宮殿よりも素晴らしかったと思います。今回はそのこだわりの満載された狩猟用宮殿アマリエンブルク(Amalienburg)を紹介します。ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)アマリエンブルク(Amalienburg)森の中にひっそりただずむアマリエンブルク(Amalienburg)場所はNo13の所。メインの宮殿からは徒歩で10分程度?アマリエンブルク(Amalienburg)狩猟用の小宮殿であるアマリエンブルクはバイエルンの建築家でデザイナーのフランソワ・ド・キュビエ(François de Cuvilliés)が設計。1734年から1739年にロココ・スタイルで建設。初代この宮殿を作ったフェルデイナント・マリアの孫でバイエルン選帝侯となったカール・アルブレヒトによって彼の妃 マリア・アマーリエ(Maria Amalia)の為に建設された宮殿です。二人は政略結婚ながら共に狩りを楽しむほど仲が良かったのでしょう。7人の子をもうけています。※ バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(Karl Albrecht)(在位:1726年~1745年)神聖ローマ皇帝カール7世(Charles VII)(1697年~1745年)(在位:1742年~1745年)※ マリア・アマーリエ(Maria Amalia) (1701年~1756年)神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の娘、マリア・テレジアと従妹。余談ですが、カール・アルブレヒトは結構したたかな人です。ハプスブルグ家の女帝となったマリア・テレジアにオーストリア継承戦争をしかけたのが彼です。彼は妻マリア・アマーリエが同じ神聖ローマ皇帝の娘であり血統がある事を主張し自身が神聖ローマ皇帝に就く事を要求。その為にフランスと密約まで結びハプスブルグ家の騒乱にフランスが介入する事となった。マリーアントワネットがフランスに嫁ぐ事になった遠因である。オーストリア・バイエルン継承戦争においては、結果マリアテレジアの反撃にあい、バイエルンは奪われ、かろうじてミュンヘンだけを奪還。その3ヶ月後に失意の中カール・アルブレヒトは亡くなっている。ベルギー出身のフランソワ・ド・キュビエ(François de Cuvilliés)(1695年~1768年)はビッテルスバッハ家にロココ・スタイルのデザインをもたらした宮廷建築家。テラス側のファサードには月の女神であり狩猟の女神であるディアーナ(Diana)が飾られている。※ ドイツはラテン語系なのでローマ神でディアーナ(Diana)としたが、ギリシャ神ではアルテミス(Artemis)こちらが玄関口側である。宮殿の見取り図(上が玄関側)1.犬の部屋 2.トイレ 4.休憩室 5.鏡の間 6.狩猟の部屋 7.キジの部屋 8.キッチンここは、生活の場ではなく。あくまで狩りのサポートの為にしつらえられた建て物。次に紹介する写真は狩り用の犬の為のお部屋である。1.犬の部屋開いているのがビーグル犬クラスのゲージである。かなり立派である。4.休憩室狩り姿のカール・アルブレヒトとマリア・アマーリエの肖像画が描かれています。上の写真右の隠れ扉は正面の別の入り口に繋がっている。5.鏡の間狩猟用の屋敷なのに、なぜか豪華な中央ホールがある。鏡とガラスで囲まれているので鏡の間と名称がついている。かつて紹介したヴェルサイユ宮殿の鏡の間は部屋と言うよりぶち抜きの回廊である。ここは、小さいからこその美しいまとまりと細やかな装飾を見せてくれている。狩りの後にパーティーでもしたのだろうか? ここには立派な厨房施設が付属されている。個人的にはこちらの方が好きJ・B・ツィンメルマン(J · B · Zimmermann)とヨアヒム・ディートリッヒ(Joachim Dietrich)(1690年~1753年)によって設計薄いブルーの地に銀のモールで装飾。この色はバイエルンの国家色だそうだ。鏡の下の調度台は、これこそバロックである。6.狩猟の部屋8.キッチンタイルはオランダのデルフト焼きなぜかチャイナ風の面白い戸棚の絵タペストリー調に組まれてたデルフト焼きタイル。花や蝶など虫がモチーフになっていて素敵です。次回馬車博物館です。リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)
2015年09月06日
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ヴイッテルスバッハ家の夏の離宮だった宮殿は、選帝侯の夏の離宮であり、バイエルン国の王の夏の居城でもある。謎の死を遂げた白鳥城の王様、ルードヴィヒ2世は1845年8月25日、この宮殿で生まれた。彼の母プロイゼンの王女、マリー・フォン・プロイセン(Marie von Preußen)がこの居城ですごしていた時に彼を出産しているからだ。もし夏の生まれでなかったらこの宮殿ではなかったのだろう ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)シュタイナー・ザール(Steiner Saal)選帝侯妃達の居室ルードヴィヒ2世 生誕の間ルードヴィヒ1世のコレクション 美人画ギャラリールードヴィヒ1世とローラ・モンテス(Lola Montez)選帝侯フェルディナント・マリアの妃、ヘンリエッテが本館の建築を進め、息子マクシミリアン2世の時代に中央の本館に接続して両翼ができあがった。左右対称の宮殿は選帝侯の居室部と選帝侯妃の居室部に明確に分けられ、中央大ホールもこの頃造られている。母の造作したイタリア風から付け柱の装飾を加え、フランス風のバロックに改築され広間は明るくなったようだ。※ 宮殿の増改築はその後も続けられ、内装はバロックに加えてネオクラシックなど時代時代で造作が加えられているのがわかる。宮殿取り図左の南翼は選帝侯妃の居室 右の北翼は選帝侯の居室中央の大ホールシュタイナー・ザール(Steiner Saal)と呼ばれる広間がなぜ祝祭ホールと訳されたのか不明。直訳すると石のホールとなる。ボルゴ・デレ・ニンフェ(Borgo delle Ninfe)からニンフェンブルク(Nymphenburg)へこの宮殿のニンフは花の女神フローラがモチーフになった。花々が咲き誇る夏の離宮だからなのだろうが、これは建築家のアイディアかもしれない。フレスコの天井画はフランソワ・ド・キュヴィイエ監修絵はヨハン・バプティスト・ツィンマーマン中央に配されているのはローマ神。特に注目はメルクリウス(ヘルメス)の存在である。ボッティチェリの春(La Primavera)の中にもメルクリウスが存在するのだが、彼は神々とニンフ、あるいは人間とのつなぎの役をになっているのかもしれない。No12 選帝侯妃の寝室こちらの天井画もフローラ(花の女神)である。No20 王女の寝室ルードヴィヒ2世 生誕の間庭園側に面したこの部屋でルードヴィヒ2世は生まれた。この寝室は初代バイエルン国王(マクシミリアン1世)の2番目の妃で最初の王妃となったカロリーネ・フォン・バーデンの為に改築された。1806年、ナポレオンの台頭で時代は新古典(ネオクラシック)から、帝政様式(インペリアル・スタイルorアンピール様式)に・・。バイエルンはナポレオンにより王国として承認された事もありマクシミリアン1世はナポレオンに傾倒していたのかもしれない。ルードヴィヒ2世 生誕の間とは言え、表示意外にそれらしいものは何もない。ただ、この宮殿に付随する馬車博物館「マーシュタール博物館(Marstallmuseum)にはルードヴィヒ2世愛用の豪奢な馬車や雪ぞりが展示されている。ルードヴィヒ2世と言えば白鳥の城と謳われるノイシュバンシュタイン城に尽きそうであるが、彼がこだわったのは住まいだけではない。馬車博物館には彼が通常使用する乗り物にまで、どれだけこだわりを持っていたかと言うのが見てとれる。ある意味城よりも解り易い彼の美学がそこで見られる。一般のツアーでは時間的に立ち寄る事のない領域である。※ ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4~5で紹介してます・リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)ブルーサロン王女の私的サロンですが、王子誕生の時はたくさんの側近が控えていた事でしょう。意匠がプリントされた壁紙も帝政様式のものであるが、新古典と相まってソフトに押さえられている。※ 帝政様式は主に家具などのインテリアに見られるがナポレオン台頭の一時期だけ、しかも本来家具などの装飾はもっとガッツリ、インペリアルを主張している物が多くヘタをすると品格が落ちるのだ。ルードヴィヒ1世のコレクション 美人画ギャラリーNo15の部屋はもとは王妃のダイニングルームだった場所である。美人画のコレクションはルードヴィヒ1世の物。おそらく近年この絵画を展示するべく「美人画ギャラリー」は造られたのであろう。本当にいろんな美女達ばかりが並ぶこの画廊はこのニンフェンブルク宮殿の目玉にもなっている。ルードヴィヒ1世は美女の姿を後世に残すべく、見初めた美人の肖像画を描かせてコレクションしたと言う。よって全てが彼の愛人だったわけではないのだ。目の覚める美女達は、実は少しデフォルメされより美しく理想化されて描かれているそうだ。今で言う美人を集めた写真集的なつもりだったのだろう。1827年から1850年の間に宮廷画家ヨーゼフ・カール・シュティーラー(Joseph Karl Stieler )に描かせたものらしい。まさか全て同じ画家とは思わなかった。Grafin Caroline HolnsteinAmalie SchintlingHelene Sedlmayr不明ルードヴィヒ1世とローラ・モンテス(Lola Montez)若き日の第2代バイエルン国王ルードヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年)ルードヴィヒ1世が退位を余儀なくされた美貌の愛人ローラ・モンテス(Lola Montez)本名はエリザベス・ロザンナ・ギルバート(Elizabeth Rossanna Gilbert)(1821年~1861年)美貌のダンサーであった彼女は富裕な資産家の男性の間を渡り歩いたと言う。1846年ミュンヘンでスペインのダンサー ローラ・モンテスとしてデビューするとすぐにルードヴィヒ1世の目に留まり王室に介入。愛人となる。ルードヴィヒ1世、60歳。ローラ25歳の時である。政務にも口を出し王に影響力を教唆(きょうさ)するローラは周囲の反感を勝う。もともと老いらくの王の恋を快く思っていなかった国民達・・。そこに王より年金と伯爵夫人の称号が与えられ、1848年国民の怒りと不満は騒動を越えて革命騒ぎとなったそうだ。ローラは国外追放。王は退位を迫られ受諾し、同時に二人の中は終わった。その後のローラはイギリス、アメリカ、オーストラリアと資産家男性の間を渡り歩いたようだがどこでもトラブルが絶えなかったようだ。最終的にはニューヨークで若くして梗塞で倒れ半身麻痺。お金も尽き39歳で亡くなっている。美女に目の無かったルードヴィヒ1世。ルードヴィヒ2世とはえらい違いです ニンフェンブルク宮殿つづくリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)
2015年08月30日
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夏の疲れでしょうか? 夜になると眠くて仕方がありません 当たり前の話ですが、夜の作業が得意なので寝てしまってはかどりません f^^*) ポリポリ今回はルードビッヒ2世(Ludwig II)が生まれた宮殿を紹介します。そこにはルードビッヒ2世がコレクションした豪華な馬車やソリの展示館もあり、見応えタップリでした。全3回予定。ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)ミュンヘン中央駅からトラム17番ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)最初の宮殿ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)から北西に6km。右の赤い円がミュンヘンの街中央部 その中のピンクの円 Cがミュンヘン中央駅北西部にある左の見切れているピンクの円 Nがニンフェンブルク宮殿の一部です。地図で改めて見ると本当に近い事がわかります。そして宮殿の全貌を見ると、ミュンヘンの街中央部よりはるかに広大な敷地を持っている事がわかります。ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)ローカルに見えますが、ミュンヘンはBMW の本社などドイツの基幹産業も本拠を置く大都市で、金融においてはフランクフルトに次いでドイツ第2の都市です。もともとヴィッテルスバッハ家の城下町として栄え、バイエルン時代は王都となり、前回紹介したようにルードビッヒ1世が即位と同時に都市改革を行ったおかげで早くから近代化に成功した街なのです。1876年に運行したトラムは市内では最も古い公共交通機関として今も活躍しています。中央駅(Hauptbahnhof)よりトラム17番に乗車中央駅からトラムで15分くらいの所に宮殿はあるのでここまでは早い。ツアーで来る方は観光バスが宮殿近くまで直接乗り入れるのでここから歩く事はないが・・ここから宮殿まで10分弱。宮殿前池に繋がる水路上の写真3枚は地図右の見切れている水路の方角から撮影。宮殿内部の見学の他、広大な庭の鑑賞。庭園内の離宮や植物園、博物館が幾つか存在する。1日で全部回るのは不可能である。水路から宮殿前の池に出た所から広大過ぎて写真には収まりきらない。最初の地図は上が北でしたが90度傾けました。今度は上が西になります。この宮殿は北から南に広がって建てられているので西陽をもろに受ける逆光になってしまう問題が・・池越しのニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)宮殿は幾つかの正方形のパビリオンが並べられてシンメトリーに構成されている。写真は北側の翼・・(4)人類と自然の博物館同じ造りの南側の翼・・(8)馬車博物館(紹介予定)18世紀のヨーロッパ王宮では噴水は自慢ののアトラクションだったそうだ。フランス王宮より噴水技師を招き造らせたものらしい。豪奢な彫刻はないのの、この宮殿前の噴水はポンプ3台を使って高く水しぶきをあげる事ができる。これでも当時としては画期的だったのだろう。ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)はバイエルン選帝侯時代からバイエルン王国の時代に夏の居城として利用されてきた宮殿です。最初は王妃の為の別荘だった居城は各王達により拡張工事がなされ、立派な宮殿になったようです。実は一般公開されているが、今もニンフェンブルグ宮殿はヴィッテルスバッハ家の個人所有の宮殿らしい。最初の宮殿バイエルン選帝侯フェルディナント・マリア(Ferdinand Maria)( 1636年~1679年)(在位:1651年~1679年)は、妻が世継ぎを出産すると感謝の気持ちで土地を贈ったそうです。妻ヘンリエッテ・アデライデ(Henriette Adelheid)はイタリアのサヴォイ家(Savoyen)出身。世継ぎが生まれた2年後1664年に夏の離宮の建設が始まり中央の建物は1675年完成。設計は北イタリア出身のアゴスティノ・バレリー(Agostino Barelli)。指揮したのは妃ヘンリエッテ。アゴスティノ・バレリーは、ヘンリエッテの依頼で前回紹介したオデオン広場のテアティーナー教会も建設している。この宮殿は後々増改築されて行くが、初期の立方体の造りはサヴォイ家のトリノ近郊のイタリア・ルネッサンスの宮殿を彷彿させる物だったらしい。彼女はこの離宮を気に入り、ボルゴ・デレ・ニンフェ(Borgo delle Ninfe)(妖精の村?)と呼んだそうだ。それがドイツ語でNymphenburgとなり妖精の館、あるいは女神の館と呼ばれるに至ったようです。宮殿の表玄関側宮殿の中庭を望む。二階テラスからの中庭宮殿庭側実は正面玄関と中庭側の造りは非常に似通っていて、違いは胸像が3体庭側についている事。この似通った造りのおかげで写真の仕分けに苦労した宮殿内部につづくリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)
2015年08月24日
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天神祭りの事を調べていたら面白い事がわかりました。(私だけかもしれないが・・)僧から還俗して豊臣秀吉の祐筆(ゆうひつ)として仕え、秀吉の活躍を記録する軍記物「天正記」を書かされていた大村由己(おおむら ゆうこ)の最後が、大阪天満宮会所の社僧だった・・。同じく織田信長公の伝記的記録「信長公記」を書いた太田牛一も天満に住んでいたのを思いだし ( ̄。 ̄)ホーーォ と思ったのだ。さて、今回はミュンヘン(München)オデオン広場界隈で見つけた変わった看板の紹介です。これから時々挟む予定です ついでに近辺の情報も入れました。世界の看板 1 (ミュンヘン・München)フロイデンハウス(Freudenhaus)の看板オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)ルートヴィヒ1世(Ludwig I)とヴァルハラ神殿(Walhalla)オデオン広場(Odeonsplatz)近くルードヴィヒ1世の騎馬像の前当たりで見つけた鋼鉄のワンコ。後々写真を拡大してみたら首輪の前のプレートにお店の名前が・・。こんなに控えめな看板初めてかも・・。何しろそこが店の入り口だとも気付かないでスルーしてましたから・・。なんとなく可愛いから撮影していたけど・・お水のボールと首にはお店の名前が・・。ミュンヘンを本拠にするアイウェアブランド(メガネ屋)フロイデンハウス(Freudenhaus)のロゴが入っていました。確かにワンコのメガネは奇抜です。ちょっと「紅の豚」っぽいけどね。フロイデンハウス(Freudenhaus)ステファン・フラッシャー(Stefan Flatscher)とウヴェ・ピンハマー(Uwe Pinhammer)の2人により1991年に創設。日本にも進出していますが、保守的なドイツのメガネを脱した新進気鋭のメガネブランドだそうです。欧州では地区により景観を守る為に店とわからないような対策がされているのは知っていましたが・・。ドイツでもそれは地区によって異なるようです。ワンコの見つめる先はルードヴィヒ1世(Ludwig I)の騎馬像。(ホーフガルテンの向かい側である。)かつては貴族の邸宅だったこのあたり、今は官庁街のようです。ルードヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年) 第2代バイエルン国王(在位:1825年~1848年)フランス王ルイ16世が命名者でルイ(Louis)をドイツ語読みするとルードヴィヒ(Ludwig)。ここはオデオン広場(Odeonsplatz)からルードビッヒ通りの始まる一角。この界隈はルードビッヒ1世が即位と同時に都市改革を行った通りで都市の改造かららミュンヘンを欧州の中でもいち早く近代化に導いた象徴の場所だそうです。ルードヴィヒ1世は、芸術を奨励し大学を創設。工業化も進め、ドイツ初の鉄道もひいた彼は革新派でありながら古典を愛した人。ルートヴィヒ通りは、彼が好んだが古典ギリシャをモチーフにした新古典様式の建築が立ち並ぶ通りです。確かに時代は古典、古代への懐古的ブームがあり、特にギリシャ礼賛。新古典主義はそれらを模範にしてかつ洗練された建築をうんでいる。ホーフガルテン (Hofgarten)の門オデオン広場(Odeonsplatz)とフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)オデオン広場(Odeonsplatz)側 ルードビッヒ通りから写真左の建物がフェルトヘルンハレ(将軍堂)その右隣の教会がテアティーナー教会です。修復中だったテアティーナー教会(Theatinerkirche)写真は2014年7月のものです。7月と言うのに天気も雨続きで寒くてみなさんコートを着てました。オデオン広場(Odeonsplatz)からフェルトヘルンハレ(将軍堂)正面フェルトヘルンハレの左に続く建物が王宮(レジデンツ)であり、宝物館もその内部にある。ロッジア(Loggia)と呼ばれるアーケード形式で建てられた新古典様式のフェルトヘルンハレ(Feldherrnhalle)は将軍の像が置かれている事から日本では将軍堂と訳されているようだ。ルートヴィヒ1世の命で建築家フリードリッヒ・フォン・ゲルトナー(Friedrich von Gärtner)が設計。1841年~1844年に建設。都市改造の中で勝利の門と繋がるルートヴィヒ通りの末端のポイントとして建てられたようです。中の像を鋳造した青銅は大砲を溶かしたものだとか・・。1923年、ヒトラーのLudendorffの反乱で行進中この前で警官隊と衝突。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)にとってここは最初の戦いの場所だったようだ。ヒトラーが権力を掌握するとフェルトヘルンハレはナチ党の宣伝の中でシンボルとなる場所となる。そんな体勢下の一時期フェルトヘルンハレ前を通過するときにはナチス式敬礼が義務づけられたと言う。フェルトヘルンハレの裏側にくっついて建っているプレイジング宮殿(Palais Preysing)ルートヴィヒ1世(Ludwig I)とヴァルハラ神殿(Walhalla)「ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所」の所で第4代バイエルン国王ルードビッヒ2世はロマン主義に傾倒・・と紹介しましたが、ヴィッテルスバッハ家の人々はみんな趣味人です。第3代国王マクシミリアン2世(ルートヴィヒ2世の父)は中世の騎士道に傾倒。その半端ないのめり込みによりホーエンシュヴァンガウ城を建設。(ルードビッヒ2世はこの城で少年期を過ごしている。)第2代国王ルードビッヒ1世(ルートヴィヒ2世の祖父)は先に述べた様に古典ギリシャに傾倒。新古典様式の街造りのみならず、極めつけはヴァルハラ神殿(Walhalla)の建設です。これには驚きました。白鳥城より凄いかも・・皇太子時代に構想し、建築家レオ・フォン・クレンツェが新古典様式でヴァルハラ神殿を建設。(1830年~1842年)。ギリシャのパンテオンに近い感じです。どれだけギリシャ好きだったか良く解ります ヴァルハラと言えばワーグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」最終章のラグナロワ(神々の黄昏)の中のヴァルハラ炎上が思い浮かびますが、内容はワーグナーの創作です。そしてその初演は1876年。ルードビッヒ1世のヴァルハラ神殿の方が先に建築されています。ヴァルハラ(Walhalla)は古ノルド語圏で伝承された戦死者がたどり着く神話の中の地です。北欧神話ではオーディンの宮殿とされ勇敢な戦士の魂がたどり着く聖なる地。ルードビッヒ1世はヴァルハラ神殿(Walhalla)にドイツの偉人達の銘板と胸像を納めてドイツ人の誇りとしたようです。ルートヴィヒ2世のように独り占めしなかった所が苦情の来なかったところでしょうね。それにしてもロマンティストなのは血統のようですね。おわり
2015年08月16日
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Break Time(一休み)2015大阪 天神祭 スナップ写真神事の最中に彼らの写真を撮るのはほとんど不可能でした。(近づけないので・・)。神事の前にたまたま見かけ、お願いして撮影したスナップ写真他、今年の祭りの写真の紹介です稚児役の妹の手をひく姉妹渡御列に加わるスタンバイ中の御鳳輦(ごほうれん)をひく青年達。高校生かな? 平安時代の天皇行幸の車に付く随身役のようです。太鼓中 催太鼓(もよおしだいこ)に乗り込む願人(がんじ)のお兄さん背中を見せてもらいました。腰を痛めないようにバチのような木が4本差し込まれています。」願人(がんじ)さん達が宮まで隊列作ってました。これから宮入してチェンジするのでしょう。頭に被っている独特のヒラヒラは「投げ頭巾(ずきん)」と言うものだそうです。遠くから撮ったので綺麗に写りませんでしたが、3人対3人で太鼓の打ち合いですが、載っている輿を前後左右に揺らされるようで結構危険な太鼓打ちです。だから腰を痛めるのでしょう。来年はこの辺きっちり取材してきます お子ちゃまの催太鼓(もよおしだいこ)は滑車の付いた台の上。いつか本物に乗るのでしょうか?天五子供太鼓の一団の宮入でした。天三中若の神輿御札やお守りを売る巫女さん実は大阪天満宮のお守りは京都よりちょっと高い。境内の看板に必ずお礼参りにも来るよう書いてあります 天神講1724年(享保9年)に組織されたと言う天神講。明治23年に復活。本家の獅子舞。来年は撮るぞ500円でお祓いをしてくれます天神天満花娘まだまだ行列は始まらないのに炎天下提灯持たされてちょっと可愛そうな少年達です。やはり前線で働かされているのは若い子達です。どこか学校のクラブにでもオファーが行っているのかな?京都からお馬さんも行列に参加。おとなしい馬です。菅原道真公と縁の深い御牛もいます。カメラ目線してくれました 地車(だんじり)の上で鐘を打ちリズムを撮る人地車(だんじり)前で踊り続ける少年。独特の指は龍の爪? 龍が天に昇ぼる様を表現しているようです。天満宮門前通りで待機していた鳳神輿(おおとりみこし)を守る鳳講の有志祭りのバックヤードはやはり年期のいったおじさま達です。天四北(天神橋筋四丁目北)の神輿の待機所の前を通過する天五(天神橋筋五丁目若中)の神輿天三(天神橋筋三丁目青年)の神輿はけっこう荒れている。四方をロープで引っ張られて軌道をはずれないようにされている。天満宮の正規の神輿は2基であるが、天神橋筋商店街丁目の各神輿や子供の神輿、それに最近では外人神輿もあるらしく、宮に行かなくてもあちらこちらで賑やかなのである。それにしても規模が大きすぎてとても一人では追えない祭りです。そうなると部分部分ターゲットを絞ってテーマを決めて撮影しないと駄目だと言う事が解りました。できれば祭りの概要からそれぞれの講社の役割など祭りの中枢の祭事をとりあげたかったけど・・。毎年少しずつ撮って行くしかないかな・・
2015年08月12日
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祭りには昔から経済効果があった。何かをしようとすれば、そこにかならず対価が生じるからだ。むろん祭りの当事者達は無報酬のボランティアだろうが、祭りの規模が大きくなれば、それに伴う副産物が生まれる。人が多く来れば人が集まる事を狙っての商売が生じる。最近はそんな観覧者を整理する警備も必要になる。天神祭りで行われる船渡御(ふなとぎょ)の奉拝船団は、まさに神事をより近くで見る為に出現した商売に他ならないわけだが、昨今の乗船料の高さには驚いた大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)2015大阪天満宮 天神祭鉾流神事(ほこながししんじ)御鳳輦(ごほうれん)と鳳神輿(おおとりみこし)と玉神輿(たまみこし)そもそも天神祭りとは、天満宮に祀られている神様に一年に1度宮を出て氏地を見ていただく・・と言う渡御(とぎょ)祭りである。普通の渡御祭と異なるのは、天神祭りには陸渡御の他に、川に繰り出す船渡御の合わせ技にある。御祭神は「菅原道真 配 野見宿禰命、手力雄命、猿田彦命、蛭子命」となっているが、天満宮としては大将軍社の土地を借りて菅公を祭った事をその発祥としているのでメインは菅原道真公としている。神事の行われる大川と天神橋クレーンの所が神輿の乗船場所。なぜならクレーンでもろもろ船に乗せるからだ。夜になるとここは200を越える船団で一杯になる。天神橋の中洲にある中之島公園はどんどこ船など船渡御関係者の船が出航する場所どんどこ船講木場の若衆で組織された「木場若中」のどんどこ船(子供バージョンは「木場小若」)は、船渡御の列外船として祭りの時、堂島川、大川、土佐堀川、道頓堀川を周航して天神祭りを盛り上げるのに一役買っている。手こぎ船なのは、そのルーツが北前船に乗っていた小回りのきく伝馬舟(てんまふね)を利用して神事を見物した事に由来するようだ。近世の大阪は淀川の河口に発達した町。江戸時代にはすでに大阪湾の埋め立てが始まっていて神事が始まった頃とはかなり地形条件が変わっている。菅原道真が立ち寄った頃の大阪は川の河口に大小の島が点在する場所だった。(お初天神もかつては島)八十島(やそじま)祭りがルーツ?かつて、難波に宮殿があり宮殿の北西に建てられた大将軍社であるが、平安まで難波津では国土の発展、皇室の安泰を祈った儀式が行われていたそうだ。(大嘗祭(だいじょうさい)後に使者が送られ、海浜で生島神 (いくしまのかみ) 、足島神 (たるしまのかみ) 、住吉神 (すみのえのかみ) などを祀る。)それが島々の平安を祈願する神事のルーツになったのではないか? と言う説があるが、実際祭りの神事は時代の要請で少しずつ意味や様相が変えられているようだ。2015大阪天満宮 天神祭りの陸渡御と船渡御のコース(左が川下)A天満宮、B船渡御乗船場 C天神橋 D鉾流神事(ほこながししんじ)の乗船場 E源八橋オレンジ・・陸渡御コース ブルー・・船渡御コース鉾流神事(ほこながししんじ)氏地を回る渡御(とぎょ)に際して御休憩所である御旅所(おたびしょ)を毎年占いで決めた。それが鉾流神事(ほこながししんじ)のルーツである。天満宮では川に神鉾(かみほこ)を流し、それが漂着した場を今年の斎場と定めた。つまり御旅所(おたびしょ)と言う斎場は毎年変わっていたのである。小島の洲の多かった当時はそのような卜占(ぼくせん)で場を決めて問題無かったが、江戸期後半になるとどんどん埋め立て地が増え漂着地を斎場にできない事態となり昭和5年まで途絶えていたらしい。近年では御旅所(おたびしょ)は固定位置に決められ、そもそも神鉾を流す意味も無いのだが・・。穢れ(けがれ)を払い氏地の安泰を願うと言う、当初の意図には若干だがあっている。鉾流神事(ほこながししんじ)を執り行う乗船場も固定化された。現在は大川から分岐した堂島川に入った鉾流し橋のたもとで行われている。かつて若松浜と呼ばれた所で、そこから将軍社の森(途中「天神の森」に名称変更?)が広がっていた。悲しいかな、今はビルが乱立した上に高速の橋桁の下になっている。※ 鳥居の真向こうが現在工事中で更地になっているが天満警察署の地所である。近年、大川や堂島川、中之島の川沿いは護岸工事が行われ、神事も行われやすくなったと同時にウォーターフロントとして、公園やレストラン等を誘致してオシャレ感満載で売り出し中の場所である。写真が撮れなかったので天神祭りのパンフから借りてきました。神鉾の神事は神童(しんどう)が行う事になっているようだ。鉾流しの場の前には乾物商が奉納した鳥居がたてられている。乾物商の歴史は古い。大阪名物となった昆布は北前船で運ばれてきた乾物の一つである。神事の場所からの神鉾橋と大阪府立中之島図書館近年の問題は土地の地盤沈下により橋桁が下がり船の航行ができなくなった事だ。通常川下に流れる神鉾により御旅所は決まるのだから、お迎え船や御奉拝の船団は本来川下に向かわなければならない。現在最大のネックになっているのが神鉾橋から最も川下にある水晶橋の低さにある。水晶橋は昭和4年建造。本来は堂島川可動堰(かどうぜき)と言うらしい。昭和24年を最後に神輿の通過ができなくなったようだ。それでも水上パレードをする為の策で現在の船渡御(ふなとぎょ)は流れに逆らって上流に航行しているのである。御鳳輦(ごほうれん)と鳳神輿(おおとりみこし)と玉神輿(たまみこし)神様の乗り物が神輿である。御鳳輦(ごほうれん)は本来は天皇の儀式の時の乗り物である。当初菅公の神霊は、鳳神輿(おおとりみこし)に乗って行脚していたのだが、明治の廃仏毀釈の折りに駄目だしされた? それ以降鳳神輿(おおとりみこし)には菅原家の祖先とされる野見宿禰命(のみすくねのみこと)が祀られ乗られるようになったと言う。玉神輿(たまみこし)は手力雄命(たぢからおうのみこと)の御霊が乗られる神輿である。菅原道真の神霊が乗り込む御鳳輦(ごほうれん)神輿(おおとりみこし) 玉神輿(たまみこし)鳳神輿は菅南連合(菅南八町会)、玉神輿は大阪市中央卸売市場本場市場協会の講だそうだ。本殿で御神霊が御鳳輦や神輿に移されたらいよいよ陸渡御が開始。渡御列は、催太鼓を先頭に猿田彦、神鉾、地車と続く。総勢3000人の大行列が約3kmを行進するパレードとなる。壮大な天神祭りの続きは来年の天神祭りにします (祭り参加者の写真だけ後で載せる予定)Back numberリンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 スナップ写真リンク 2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行
2015年08月09日
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東京に戻りました。大阪では毎日よく動いていたので夜はヘトヘト。なかなか取りかかれませんでしたもう祭りの余韻も冷めてしまいましたが、祭り後の大川にも行って来たので天満宮と神事についてまとめてみました。大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)北辰北斗信仰(ほくしんほくとしんこう)天神天満花娘天神信仰の発端(御霊信仰)大阪天満宮 天神祭を盛り上げる講社組織北辰北斗信仰(ほくしんほくとしんこう)天神(てんじん)ではなく、本来は天神(あまつかみ)である。皇室の信奉する天の神とは、太一神。その実は北極星である。北極神(北辰の神)は天の中心に位置する。北極星を中心に数多(あまた)の星が回る事から唯一、天を宇宙を司る神、統ばる(すばる)神としてとその信仰は始まった。因みに、統る(すばる)・・が、昴(すばる)の語源になっている。昴(すばる)自体は現在はプレアデス星団を指しているが・・。北極星は神格化され太一神と呼ばれ、君主は地上における代理人と位置づけられたそうだ。(道教の思想であるが漢代には北辰北斗信仰として定着。日本へは聖徳太子の命でもたらされたらしい。)天文博士・暦博士の存在天にある星は地上の命運も司ると考えられ、星の観測をする天文博士や暦博士が陰陽師(おんみょうじ)である。つまり北辰北斗信仰は陰陽道の領域なのだ。彼らは星から帝都が置かれるべき土地を定め、天地の理にかなった日時を選び、祭祀を執り行い、また天と地に現れる災厄や瑞兆を占った。平安の時代は、災厄は全て祟りと考えられていた事からも祭祀は重要な政(まつりごと)であり、彼らの地位は高く、朝廷直轄の官僚であったのだ。※ 陰陽道にさいては「陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)」で書いています。リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)今は摂社となっている大将軍社天満宮の裏門から入ってすぐ右にある。昔は一帯が将軍社の森であったそうだ。第36代天皇、孝徳天皇(596年~654年)の宮殿の皇域鎮護の神として置かれた大将軍社が大阪天満宮の祖社である。※ 北辰北斗信仰で大将軍社は太白星(金星)を指していた。それがなぜ菅原道真公が祀られるようになったか? と言えば御霊信仰にあるのは言うまでもない。平安の時代よりいつのまにか大将軍社と立場が逆転して人々からは忘れられた。しかし、天神祭りの神事のルーツは今も北辰北斗信仰にある。祭りの内容と菅原道真公が繋がらないな・・と思っていたのだが、理由はそこにあった。宵宮祭(よみやさい)の日の大阪天満宮 表大門奉納された茅輪(ちのわ)用近江葦(よし)葦には川の水を浄化する力があるとされ、葦の輪をくぐる事で汚れを浄化。再生の力を授かる・・と言う意味があるらしい。本殿(写真は祭りの日のものではありません)宵宮祭(よみやさい)の日の本殿今年の天神天満花娘のお通りです。天神天満花娘2003年から天神橋筋商店街の公募で始まった花娘は定員10名の狭き門。巫女に準じる仕事で天神祭りに花を添えると共に1年間、天満宮や地元商店街に関わるイベントにも参加するらしい。手にしている紅白梅の造花に札がついて1本1000円で販売。破魔矢のようなものか? 天神信仰の発端(御霊信仰)醍醐天皇により左遷され、左遷地福岡で憤死したとする菅原道真公の怨霊。菅公が亡くなってから、たまたま雷を伴う天変地異が増えたらしい。それらが菅公の祟りと信じた宮廷人はずっと怨霊に悩まされ続け、祟りの話は京の町中に広まったようだ。怨霊のせい? 亡くなった醍醐天皇。その皇子である村上天皇(926年~967年)の治世942年。菅公の「我を祀れ」と言う神託を受けた巫女らが北野に神社を創建。それが天神信仰の総本社となる北野天満宮であった。もともと平安随一の博識と言われた菅公は中下層の貴族や上流の庶民に慕われていたらしい。以降、菅公に縁のある所が自発的に菅公を祀り始めた。神号は「天満大自在天神」である。大阪天満宮もその一つで、949年に菅公 縁の大将軍社の森で起きた奇譚(きたん)を重んじて宮を造り、逆に将軍社がその下に置かれる事となった。※菅公の怨霊と御霊信仰については「北野天満宮 梅花祭り」。平野将門の御霊については神田明神で。また、醍醐天皇と菅原道真公の因縁については醍醐寺の所で紹介しています。リンク 北野天満宮 梅花祭りリンク 神田明神 (薪能)と御霊信仰リンク 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)菅公と将軍社の縁とは?京都から太宰府に左遷される時に菅公は宇治川を船で下り、旧淀川経由で大阪に到着したと推定。当時から水陸交通で栄えた大阪から九州行きの船に乗り替えるべく太宰府への船待ちをしていた時に将軍社を参詣している。それが大阪天満宮創始の遠因らしい。大阪での船待ちはよほど時間があったのか? 実は菅公が立ち寄ったのは将軍社だけではない。現在の大阪の北区、曾根崎警察署の近くにある露天神社(つゆのてんじんじゃ)にも立ち寄っていて、こちらの御祭神にもなっている。その時に菅公が詠んだ詩が「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」 恨み節である。※ 「大阪 お初天神 美人絵馬」で書いています。祭りの最中、表門の脇でお囃子と踊りを続ける講社 ↓ 大阪天満宮 天神祭を盛り上げる講社組織社伝では949年(天暦3年)に菅原道真公が祀られ、祭りの鉾流し神事は951年頃から始まったらしい。途中途絶えた時もあったそうだが、1064年前から続く神事が支えられてきたのは大阪商人のシンジケート(共同組合)による所が大きかったようだ。祭りの最盛期、江戸時代には氏地にあった天満の青物市場、堂島の米市場、雑喉場(ざこば)の魚市場の組合他、乾物商、大工、花火師、などいろいろな業種の組合が役割分担して参加した。これが講社(こうしゃ)と呼ばれる組織である。地車講(だんじりこう)地車講は天満青果市場の仲買人が組織している講である。地車(だんじり)は、本来は陸渡御(りくとぎょ)で、神様を迎える為の祭礼行列、練り物(ねりもの)の一団を成す、芸能音楽の一つとして現れたようだ。1780年には71輌もの地車が宮入した記録があり大変な賑わいを見せたそうだが、残念な事に1837年(天保8年)大塩平八郎の乱でほとんどが焼失。現在残ったのがこの輌のみ。三ツ屋根スタイルのこの地車は1852年嘉永(かえい)5年製作。1896年(明治29年)以来、境内で地車囃子を奉納し続けているそうだ。終日奉納され続けるお囃子と踊りは見ていて結構過酷である。地車が曳行されなくなった事で踊りやリズムが洗練されたと言う。次回船渡御を紹介してからミュンヘンに戻ります。リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)
2015年08月02日
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天神祭りの為に来た訳ではありませんが、タイミングよく大阪にいました。そんな訳でブログは再び日本に戻ってしまいました <(;_ _)>ごめんなさい23日に到着したのでギャル神輿は撮れませんでしたが・・。24日、天神さんに行く途中にたまたま天四獅子の集合記念写真の撮影現場に遭遇。カッコイイ姿のお兄さんにナイスな女子。それに可愛いチビッコたちもいて思わずカメラを向けました。それから天神さんで再び彼らと遭遇。彼らの宮入、そして天四獅子の舞いと傘踊りをものすごいベストポジションで撮影。本当にたまたまでしたが、宮を出るまでしっかり撮りました。あまりに撮り過ぎて写真を選択するのが大変でした (;^_^A2015大阪 天神祭 天四獅子傘踊り巡行一昨日の大雨が嘘のように晴れて今日は最高の祭り日。JR天満駅のすぐ脇。天四獅子の一団の記念写真。裏手に見える塔は関西テレビです。天四は天神橋4丁目の事です。天神さんでお参りをしていたら彼らがやってきました。お囃子と踊りをひっさげで・・。詳しい事は全く知りませんが、天四獅子とは、獅子舞と傘踊りで天神祭りを盛り上げる団体のようです。衣装はカワイイし、元気に飛び跳ねているので明るくて元気が出てきます。よさこいのテンポに近い気がします。お囃子は太鼓、笛、三味線です。三味線は慶長年間(1596~1614年)に誕生したそうですから、当初は琵琶だったかもしれませんね。獅子舞どうしの競争のようです。重い獅子頭を持って全力疾走していいるので、若いと言えどしんどそうです。競争の後には、獅子舞を披露。重い獅子頭を掲げる前の人は大変でしょうが、後ろで頭を下げてしゃがんでいる人も苦労です。若く無いとできないなーと思います 境内前から撮影していたので写真は望遠です。良く写せた方です。至近距離ならもっといろんな角度から撮影できたでしょうが、残念ながら非常に遠く肉眼ではここまで見えません。宮からの退出です。彼らはまた踊りながら天四商店街まで帰るのです。因み天神橋筋商店街は日本一長いアーケードを持つ商店街です。ここは、1丁目。天四まで普通に歩いて15分以上はかかるから踊りながらならもっとかかる。いつもは商店街を巡行している時に見かける程度でしたが、偶然にも宮で見る事ができてもうけた気分です。祭りは参加するに限りますが、参加した彼らは一生の宝となる経験をした事でしょう。こう言う祭りのある所って羨ましいですね。お祭りは25日まで。天神祭りは日本三大祭りと言われ歴史があり、規模も大きな祭りです。それだけに桁外れなイベントが盛りだくさんですが、宮の催事の方は関係者でないとなかなか撮影できそうにありません。神輿の写真は後で載せる予定ですが、宮の神輿(「鳳神輿」「玉神輿」)や今日の船渡御(ふなとぎょ)と奉納花火は無理かも・・。祭りはつづくリンク 大阪 天満宮の天神祭り 1 (天満宮の始まり)リンク 大阪 天満宮の天神祭り 2 (船渡御と鉾流神事のルーツ)リンク 2015大阪 天神祭 スナップ写真
2015年07月24日
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ラストにルードビッヒ2世に関するリンク先を載せました。今回は頭の中がまだ「お墓」・・と言う訳ではないのですが、昨年予告を出したままになっていたミュンヘンにあるルードビッヒ2世の墓所と棺を紹介します。(こちらは本当に中身が入っています)ルードビッヒ2世(Ludwig II)の墓所 (聖ミヒャエル教会)聖ミヒャエル教会(St. Michael)(Michaelskirche)ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)ルードビッヒ2世(Ludwig II)の棺ミュンヘンにある聖ミヒャエル(St. Michael)こと、ミヒャエル教会(Michaelskirche)は、ルードビッヒ2世の家系ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)の一つです。聖ミヒャエル教会(St. Michael)(Michaelskirche)聖ミヒャエル教会(St. Michael)は、その名の通り大天使ミカエルに献げられた教会です。しかしミヒャエル教会創建(1583年礎石~1597年完成)の時代はすでにルターによりカトリックは否定され宗教論争になっていた時代でした。(プロテスタントの台頭でカトリック教会はピンチ)当時バイエルンを統治していたヴィッテルスバッハ家のヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)はカトリック信仰を守る為にイエズス会と協力しカトリック教会の存続をかけてこの教会やカトリック大学を創設。なぜイエズス会かと言えば、ヴィルヘルム5世自身が幼少期よりイエズス会の教育を受けてきた事による。(おかげでバイエルンは宗教改革に対抗する旗手となった。)この教会は当時のイエズス会のローマの母堂(ジェズ教会)を元に造られた教会です。ジェズ教会のファサードは「世界初の真のバロック様式のファサード」と呼ばれいるように内部も礼拝堂と本堂はアーチでつながれたドーム式のバロックの構造です。(バシリカは無い)世界中のイエズス会系の教会はジェズ教会をモデルに建造されているのでミヒャエル教会も同様。内部はドーム式でバロックです。エントランスの形のみルネッサンス風ではありますが、イタリアから来たバロックをドイツ風に造った・・と言う所でしょう内部は新しくされているもののバロックの要素は沢山残されていて清潔で美しい教会です。特に目をとめたのが入り口にある大天使ミカエルをあしらった聖水盤です。何だかありがたい感じのする聖水盤です 主祭壇この主祭壇の真下にヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)があります。入場料2ユーロ。ヴィッテルスバッハ家の墓所(Wittelsbacher Fürsten Gruft)740年の歴史のあるヴィッテルスバッハ家の墓所は他にもたくさんある。ここに埋葬されているのは36人程。ルードビッヒ2世の棺の他、創設者となるヴィルヘルム5世を含め、その子マクシミリアン1世(Maximilian I)などバイエルン国時代の家族墓所だ。(ここに葬られなかった王もいる。)ヴィッテルスバッハ家、最初のバイエルン公はオットー1世(Otto I)(1117年~1183年)に遡るようだ。その子孫はバイエルンを拠点に神聖ローマ帝国の中で有力家系として発展。最初はローマ皇帝を選ぶ選挙権を持つ選帝侯であったが、ナポレオンが神聖ローマ帝国を解体するとナポレオンと契約を結び、バイエルンの領地は2倍になり王国に昇格するのである。バイエルン王国となるのは1806年から1918年まで。マクシミリアン1世に始まりルートヴィヒ3世で終わるまで7人の王が君臨。ルードビッヒ2世は4人目の王であった。ルードビッヒ2世(Ludwig II)の棺ルードビッヒ2世(Ludwig II)(1845年8月25日~1886年6月13日)第4代バイエルン国王(在位1864年~1886年)芸術を愛好する血統故か? ホーエンシュヴァンガウ城で育った彼はロマン主義に心酔していく。特に16歳で観たワーグナーのオペラ「ローエングリーン」の世界観を現実に造り上げる事に情熱を献げたのである。1864年3月、18歳で王位に就くと夢の城の建設に取りかかる。リンダーホーフ城、ヘレンキームゼー城、ノイシュヴァンシュタイン城。それだけでは無い。調度、絵画など装飾品のみならず、馬車やソリに至るまでこだわっている。その莫大な費用が国庫を揺るがしたのである。豪華な馬車を考えると何て質素過ぎる棺なのだろう側近も政府も敵に? 事件が起こったのである。1886年6月12日、ルートヴィヒ2世は逮捕され廃位させられた後、夏の離宮として使用されていたベルグ城(Schloss Berg)に送られ軟禁。翌13日、フォン・グッデン医師と夕刻散歩に出かけ行方不明。13日23時55分。二人を湖で発見の一報。(両者弱いながらもまだ息はあったはずなのだが・・。)6月15日付け新聞ではシュタルンベルク湖(Starnberger See)で二人は水死と発表された。遺骸はミュンヘンのレジデンスに運ばれ病理解剖と防腐処理がされているが検死結果は不明。1886年6月19日ミュンヘンで葬列後に聖ミヒャエル教会の地下墓所に安置された。しかし、心臓だけは1886年8月16日、アルトエッティング(Altötting)のホーリーチャペル(Heilige Kapelle)(Gnadenkapelle)に移されたそうです。夢見る美貌の王が創作したノイシュヴァンシュタイン城は、ディズニーのシンデレラ城のモデルになった。とも言われる女性のあこがれの城。王の悲劇と相まって超人気の観光スポットとなっている。それにしても死の真相は未だ不明。彼は本当に狂っていたのか? 単にオタクだっただけなのか?関連リンク先リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 1 リンダーホフ城(Schloss Linderhof)リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 2 ノイシュヴァンシュタイン城 1 冬リンク ルートヴィヒ2世(Ludwig II)の城 3 ノイシュヴァンシュタイン城 2 タンホイザーリンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 1 (宮殿と庭)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 4 (馬車博物館 馬車)リンク ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 5 (馬車博物館 馬ソリ)
2015年07月16日
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「信長の墓所」は前回で終了ですが最後に書き残した(追記)分を載せました。 「信長の墓所(追記) と 細川ガラシャの墓」からタイトル変更しました。写真は「大徳寺塔頭 高桐院」です。ここは細川家の菩提寺で光秀の上司、細川藤孝の墓と嫡男忠興、それにガラシャ夫人のお墓があります。信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓信長の墓所(追記)大徳寺塔頭 高桐院細川ガラシャの墓信長と義昭織田信長の上洛は1568年(永禄11年)。本能寺で滅するのが1582年(天正10年6月)なので正親町(おおぎまち)天皇(1517年~1593年)の在位期間(在位1557年~1586年)にすっぽり治まっている。この時代の将軍は室町幕府の13代 足利義輝、14代 足利義栄、15代 足利義昭である。信長の上洛は足利義昭(あしかがよしあき)の依頼により将軍になる為のサポートをした事に始まる。信長が畿内、隣国を平定。義昭を伴い上洛。1568年(永禄11年10月22日)内裏に参内して義昭は15代目の征夷大将軍となった。すべて信長のおかげであった。さらに信長は将軍御殿と荒廃した内裏の修理も行っている。朝廷に対しても将軍に対しても特別に敬意を示している事がうかがえる。また当時逼迫していた宮中の収入面においても今後困る事がないよう配慮した対策をしている。実は信長はかなり律儀で気配りのできる男だったようだ。戦いの都合、信長が焼き払った村や町にはちゃんとお金を渡し、後の税の軽減もしていたようだし・・。(信長公記より)ところが将軍 足利義昭の方はとんでもなくわがままで嫉妬深く非礼な男だった。1573年(元亀4年)将軍義昭が信長との約束ごとをことごとくやぶり問題行動を連発。義昭は信長に対して今までの恩に報いるどころか謀反を起こしては結局和睦し、またすぐに裏切る。かくして1573年(元亀4年7月)将軍義昭は信長反対派を集めて挙兵するもあっさり敗北して降参。都より追放された。道理の通らない事象に関しての信長の切れ方はハンパなかったがさすがに殺すのは問題有りと考えたようだ。もはや義昭に従う公家も無し。それでも朝廷もなぜか義昭の将軍職を解くことはなかった。(1336年より続いてきた足利幕府をどう扱ってよいか皆解らなかった・・と言う所が本音か? 正式な彼の退位は秀吉の時代に入ってからになる。)もともと朝廷は単なる形式だけのトップ。幕府が実質国を統治していたわけであるが、その幕府ももはや自力で何もできない体たらく。将軍職はお飾りの世襲制になっていたが棚からぼた餅で予定外に将軍になれた義昭はその職を非常に享受していた。それ故、都への出禁となれば信長への恨みはかなり強かっと思われる。明智光秀の立場ところで明智光秀は信長の上洛(1568年)時点では室町幕府を支える直臣の細川藤孝の家臣だったようだ。つまり幕臣だったわけである。細川藤孝は13代 足利義輝に仕え信長の擁立した15代 足利義昭にも仕えている。そんな関係もあり光秀は義昭が将軍になると義昭方(幕府方)の元で事務処理を担当していたようだ。今風に言うとおそらく細川の命で将軍の秘書として出向? と言うところだろう。(信長公記では1569年(永禄12年)義昭の居る六条の御所が三好らに包囲された時に御所の中で抵抗した勢力として明智光秀の名が出ている。また明智憲三郎氏の著書でも幕府方を明智光秀、信長方が朝山日乗と、二人が朝廷との間の事務処理をしていた事が示されている。)ではどこから明智光秀は信長の家臣になったのだろう?信長公記では1570年4月(元亀元年は4月から)には信長の命で家臣のように働いている記述がある。すでに信長の家臣になっていたのか? ひょっとすると光秀の給料は細川からでも出向先の義昭の事務所(幕府)からでもなく信長から支払われていたかもしれない。もしそうであるなら光秀は主君を3人持っていたわけで立ち位置が難しかったはずだ。1571年(元亀2年9月)比叡山焼き討ちの際は光秀はなぜか幕府方でなく織田方で出陣。焼き討ち後は滋賀郡をもらい坂本に居城を構えている。もしかしたらこれが正式に信長の家臣になった印か?1573年(元亀4年)信長が義昭に送った17ヶ条の意見書の中に明智光秀の事が登場してくる。「光秀が所領で徴収したお金をそこは延暦寺領だからと没収した件は不当だ。」信長は光秀に対する不当な対処を批判しているのである。義昭は信長に対して友好的な者に非情な態度をとる・・同じく17ヶ条の意見書の中で指摘しているが、実際信長に可愛いがられ、所領ももらった光秀を憎んでいたのではないか? また、所領ももらった光秀は普通であれば信長の家臣になったはずなのだが、義昭はそう思っていなかった? かもしれない。誰の家臣かはっきり明確にされていないまま光秀の存在があった可能性がある。だから・・と言うのは突拍子かもしれないが、本能寺の謀反はこうした光秀の微妙な立場が関係していて起こされた事件だった可能性も考えられる。今や光秀が天下をとりたかったとは思えない。光秀をそそのかした黒幕の存在。あるいは光秀を脅して決起させた黒幕の存在。あるいは光秀を追い詰めた存在がいたはずだ。ひょっとしたら、最初から光秀はスパイとして信長の家臣として送り込まれていた可能性も考えられる。言わずもがな、何となくそこに見え隠れしている誰かは形勢の良い方にすぐに鞍替えしてきた元上司である。(完)大徳寺塔頭 高桐院(こうとういん)1601年(慶長6年)に嫡男 細川忠興が父細川 藤孝の菩提を弔う為に、また細川家の菩提寺とするべく建立。忠興は、千利休門下の茶人なので茶室や庭が特に素晴らしい寺でした。細川 藤孝(ふじたか)(1534年~1610年) 光秀を見捨て変の後に出家。幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗る。嫡男 忠興の嫁として来た玉(ガラシャ)は光秀の娘。実は信長の勧めによる縁談だったそうだ。(1578年 天正6年婚)細川 忠興(ただおき)(1563年~1646年) ガラシャの夫であり利休七哲の一人。号は三斎こちらの寺は外の門から奧舎までのアプローチが非常に素晴らしいお寺です。ちょうど新緑の頃。まさに絵になる美しさです。竹林が青々とすがすがしい気で満ちていました。細川忠興(三斎) 作の茶室「松向軒(しょうこうけん)」1628年(寛永5年) 忠興(三斎) 66歳の時の作とされる。広間から見える庭は絶景秋の紅葉の時は朱で染まるこの庭。JR東海が「そうだ京都に行こう。」とポスターに起用しています。細川ガラシャと夫 細川忠興の墓所細川 玉(1563年~1600年)明智光秀の三女にして細川忠興の正室。キリスト教に帰依し洗礼名がガラシャ(Gratia)。逆臣の娘となり辛い日々が彼女をキリスト教の道に進ませたようだ。因みにガラシャの死は石田三成が彼女を人質にしようとした為に夫との約束通り自刃し、その後爆死。「遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛けた・・。」前回信長の死について私が提唱したのと同じではないか。墓石代わりの石灯籠は利休の遺品。秀吉が欲しがったと言う「天下一」と銘のある灯籠らしい。忠興(三斎)は利休切腹のおり、これを相続した。初代藤孝(中央奧)11代目までがここに眠る細川家の墓所信長の墓所リンク先リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年07月06日
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リンク先の追加をしました。一昨年ロンドンからベルギーまでユーロスターで移動。その時、ロンドンのセント・パンクラス(St Pancras station)駅のセキュリティーが空港並だったのには驚かされました。が、あちらは国際列車です。だから空港並警備も当然か・・。※ 2013年09月「ユーロスター(Eurostar)」でセキュリティーをこっそり写真撮ってました それにしても非常識すぎる今回の事件。誰も想定などできなかった。人に迷惑だけは掛けてはいけない・・が日本の母の教えだったはずなのに 自分ご都合主義のテロリストに対処する方法は無いのかもしれない。信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)阿弥陀寺説の疑問本能寺で消えた信長公清玉上人(せいぎょくしょうにん)の廟 信長公の墓所よりずっと右奧方面に置かれて居る。生没年が不明。石山本願寺や延暦寺の非道な坊主より、和尚として本来の使命を全うされた素晴らしい方だったに違いない。阿弥陀寺説の疑問阿弥陀寺が語る信長公との縁について疑問がある。「信長公記」に阿弥陀寺に関する箇所は見つからない。1.そもそも阿弥陀寺は信長の上洛よりずっと前に京都に創建されている。(信長の上洛は1568年(永禄11年10月))信長が京都に呼んだとか、逆に信長の上洛を手助けしたとか言う事実は無いだろう。2.また信長が阿弥陀寺に帰依した件は、何らかの理由により信長公より寺に寄進があったと推察。寺はそれをもって「帰依した」と解釈しているのだろう。何らかの理由とは、戦死した部下達の弔いの件か? あるいは将軍の代替わりに際しての挨拶の時に事情を知った信長から寺の維持費を賜ったか・・と言うところだろう。3.阿弥陀寺が本能寺より織田家臣の遺骸を持ち帰れた理由は前回説明した通り。阿弥陀寺はそう言う寺であり、誰も不審に感じ無かった事があげられる。4.では自害した信長の遺骸をたまたま焼いている所に清玉上人が遭遇? ・・と言うのはどうだろう。これは全くあり得ないと思う。なぜなら上人が到着する頃には100%寺は焼け落ちていたはずであり、まして日中である。裏の竹林で落ち武者が遺体を焼いていたらいくらなんでも目立ちすぎですぐに見つかったはずだ。(6月の日出は早い。本能寺の変は現在の暦で6月21日)だいたい木材だけで遺体を焼くのに何時間かかるか・・と言う点においても疑問しかない。5.白骨を法衣につつみ・・・帰寺し白骨を深く土中に隠しおきたる。の件そもそも変の当日に信長と断定できる遺骸のどこか一部でも持ち帰る事ができたのか? が最大の問題である。後日たまたま見つかった・・なら解らなくもないが・・。6.秀吉が真っ先にやって来た件は、遺骸の引き取りを行った寺が阿弥陀寺しか無かったからだろう。信長公の遺骨を出せ! と、本当に言ったか? が、まず疑問である。秀吉は本当に信長公の遺骸が阿弥陀寺にあるのか? 当初から阿弥陀寺にある・・とウワサされていた件に関して確認の為に行ったのではないか?後で書くが、秀吉は信長公の遺体が見つからない事を承知していたのではないか? と思われるからだ。7.阿弥陀寺で葬儀を執り行いたい。と、秀吉より申し入れがあった。・・と言う件。・・これも実はあり得ないと思っている。秀吉はもともと大徳寺を想定していたはずである。申し訳無いが、信長の葬儀を盛大に行いたい秀吉にとって阿弥陀寺では寺の格が低すぎるからだ。(阿弥陀寺は庶民派の寺である。)8.阿弥陀寺の場所が秀吉の怒りで縮小され移転された件。これは前回も書いたし、秀吉の御土居のところでも説明している通り、秀吉の都市改革の一環で洛中の寺のほとんどが寺町通り沿いか洛北の寺之内に移動をよぎなくされているから特別な沙汰ではない。寺領に関してもみんな小さくなっているし・・。(阿弥陀寺が特別大きかったのは無縁墓地が拡張して行ったからではないか?)阿弥陀寺に伝わる「信長公阿弥陀寺由緒之記録」なるものは宝永の大火(1708年)or天明の大火(1788年)で寺と共に消失していて、その後に造り直されたものらしい。その時に寺の箔付けに話を盛ったのではないか? と推察する。唐銅香炉「三足の蛙」 本能寺宝物館所蔵 内部撮影禁止なのでリーフレットの写真から借りてきました。本能寺の変の前夜、突然泣き出して危険を知らせた・・と伝承される香炉がこれである。三足の蛙はもともと後漢書の伝説より生まれた蟾蜍(せんじょ)と呼ばれる月に住むヒキガエル(月の精)だそうだ。もとは天女だった姮娥(こうが)が西王母より不老不死の薬を盗んで月に逃げてヒキになったらしい。※十五夜の元となる「月でうさぎが杵(きね)を突く」のウサギが実は姮娥(こうが)が杵(きね)を突いて不老不死の薬を造っている姿らしいのだなぜカエルでなくウサギに変わった?本能寺で消えた信長公明智光秀がさんざん捜索したにもかかわらず信長公の遺骸は見つからなかったようだ。だからこそ家臣の遺骸の中に信長公が混じっていた可能性は大である。何しろ焼け落ちた寺の残骸の下には信長はじめ小姓達の炭化したであろう遺骸が折り重なってあったであろうから・・。信長公記によれば、信長は最初は応戦したものの、手傷を負い、弓の弦も切れ、覚悟を決めて納戸に入り中から扉を閉め切腹したとされている。(以降の事は書かれていない。)一方、二条で応戦した嫡男織田信忠の方は「私が腹を切ったら縁の板を引きはがし遺体を床に入れて隠せ」と言い介錯(かいしゃく)は鎌田新助に頼み彼はそうした。隠した遺骸は後に荼毘に付されたと書かれている。信長公がかつてライバルの首を取った時の事を考えれば、自らの時の事も想定していたはず。二条の信忠のように隠して後に同じように掘り起こされてひっそりと荼毘に付された可能性は信長の場合も考えられる。しかし、信長は介添えを伴っていない。一人で入った先は納戸である。納戸の床下で切腹した可能性も考えられるが、それよりも遺骸を敵に渡さない最善の策が一つある。爆死である。「信長の墓所 1 (本能寺)」の時に紹介したが、本能寺の特殊性は種子島ルートの武器と火薬が手に入る事だ。(つまりここは織田家の宿所だけでなく武器の補給庫でもあった。)リンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)中国に赴く秀吉や光秀が持って行っていたとしても、まだこの寺には多少の火薬が備蓄されていたはずである。そして万が一の時に備えて準備していた事も十分考えられる。信長公は切腹の後、爆死。時をして本能寺は焼けて屋根が落ちて全焼。遺体のかけらさえ残らず燃えて、何も解らないように焼けて消えてしまったのではないか? ・・と、言うのが私の推論である。つまり信長公の遺骸は本能寺と共に本当に灰燼(かいじん)に帰してしまったと言う結論になる。秀吉は本能寺の火薬の事は当然知っていた。もしかしたら親方がどのように最後を遂げるか・・も聞いていたかも知れない。だから彼は本能寺の灰と、香木で彫った信長公を納めた棺を荼毘に付した? そう考えると全ては納得がいくのである。日本最古の種子島銃(火縄銃)・・・下段天正11年の年紀がある信長、秀吉に仕えた家臣の火縄銃だそうだ。偶然入った大徳寺塔頭 龍源院にて撮影。信長の墓所・追加リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓back numberリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年07月01日
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back numberのリンク先追加しました。今回は織田信長公の墓所として最も本物が納骨されていそうな墓所の紹介です 本能寺の変の時、すみやかに本能寺にかけつけ、明智軍の目を盗み、信長公の遺骨を持ち出して自らの寺に隠した? (埋葬した)と伝承されている寺なのです。(実はこの寺、近年までほぼ地図にも載っていなかった。)現在、寺は御所の北、寺町通り沿い京都市上京区鶴山町にあります。墓地を有する一見普通の寺なのですが、実は本能寺の変の当時はかなりの広大な寺領(八町四方の境内と塔頭11ケ寺)を有し境内に市もたつ寺町を形成するような大寺だったようです。前に紹介した豊臣秀吉の御土居(おどい)建設と街の整理と言う名目で寺領を大幅に縮小され1587年(天正15年)現在の場所に移転させられている。信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)蓮台山 阿弥陀寺の場所蓮台野にあった阿弥陀寺の役目無縁所 阿弥陀寺浄土宗、蓮台山 阿弥陀寺。法然上人が開山した知恩院が総本山で、その末寺にあたるらしいが、寺の伝承にある信長公との特別の縁については確証が見つからない。もし接点があるとすれば戦没者を弔って回る清玉上人(せいぎょくしょうにん)に信長公より特別の配慮と寄進があったかもしれない事だ。現在の寺は京阪線の出町柳駅から割と近い。寺町通り沿いにある。最初は近江国坂本(滋賀県)にあったとされる。 開祖は清玉上人(せいぎょくしょうにん)1555年、細川家家臣、飯尾元運の協力で近江より上洛。京では管領代(かんれいだい)の旧跡、芝薬師町に寺を創建。(現在の今出川大宮)管領代は細川家のみの官職。細川晴元と将軍足利義輝に仕えた三好長慶(みよしながよし)の管轄下に入ったようだ。少なくとも1560年には室町幕府により千部経読誦も行われているので当初は足利幕府のバックアップもあったかもしれない。しかし1564年に三好長慶が亡くなり1565年に13代足利義輝が亡くなってからは不明。何しろ三好の家督を継いだ甥の義継と、15代足利義昭と彼を擁立した織田信長とは敵対関係になるからだ。本堂には織田信長、信忠父子の木像等が安置されていて、毎年6月2日には「信長忌」の法要があり、堂内も参詣する事ができるらしい。寺領の位置確認です。秀吉の御土居(おどい)の時の地図に足しましたA・・阿弥陀寺 a・・現在の阿弥陀寺(1587年移転)H・・本能寺 h・・現在の本能寺(1592年移転)M・・妙覚寺(織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺)D・・大徳寺(秀吉が葬儀をした寺)J・・聚楽第(1587年築の秀吉の平城)蓮台野にあった阿弥陀寺の役目当初の阿弥陀寺の場所は西は智恵光院通り、東は堀川通り、北は寺之内通り、南は今出川通りあたり。前回紹介したように船岡(舟岡)山麓はもともと遺体捨て場に近い古来の風葬地。仏様の座る蓮華座から転じた蓮華台。略して? 蓮台と野が合体して蓮台野は葬送の地名になった。貴人の火葬場のあった船岡山西の麓(蓮台野)に向かう千本通りは遺体を運ぶ道となり供養の為に千本の卒塔婆が建てられそれが通りの由来に。(紫野とは冥途の入口とも・・)1555年蓮台野に近いこの地に無縁所で,墓所たることを認められて阿弥陀寺が創建されたようだ。阿弥陀寺の山号は蓮台山。つまり最初から供養の寺として創建されている。応仁の乱(1467年~1477年)の後をひきずっていた京都、しかも時は戦国の時代である。阿弥陀寺の清玉上人(せいぎょくしょうにん)は行き倒れの者はもとより、戦場で無くなった兵士の遺骸をこの寺に集め葬り供養していたと思われる。清玉上人はまさしくその為に京都に呼ばれて寺を創建したのではないかと推察する。墓地入り口(工事中でした。)本殿裏手に広がる墓地は表側から見るよりもかなり横に広い。それにしても墓地バックの家々はいただけない昔は御土居(おどい)があった場所かもしれない。誰かが3000坪あるらしい・・と言っていた。立て札には 「織田信長公 本廟」とある。 左手側に家臣森蘭丸らの墓石が並ぶ。森蘭丸はちゃんと今もそばに居る。1917年(大正6年)、信長公の位階追陞(いかいついしょう)の件で宮内庁が来訪。宮内庁の公式記録では1582年(天正10年6月)に従一位太政大臣を贈位贈官。1917年(大正6年11月)に正一位を贈位 と、なっているらしい。これは信長公の廟がここが本物だと認定された事を意味している。右が織田信長の墓、左が二条で切腹した嫡男 織田信忠の墓。本当に二人の遺灰が入っているかは定かではない。(移転もしてるし・・。)ただ、清玉上人が本能寺や二条より戦没者の遺骸を引き取り弔いをして旧 阿弥陀寺にて埋葬された事は確かとされる。無縁所 阿弥陀寺無縁所と言うのはおそらくこの寺がどこの権力下にも属していない・・と言う事で、寺内不可侵の権限を認められた寺だったと言う認定?だから宗派関係無く、敵も味方も関係無く、誰でもこの寺に入る事が許され、逆に1度なりと入った者は寺によって守られた・・と推察。(だから信長の遺灰を渡さなかった? )戦いがあれば遺骸の収容に戦場に赴き、敵味方関係無く弔い、災害が発生している場所に赴く事もあったろう・・。本能寺の変ははまさにそれだったかもしれない。本能寺の変の時1582年(天正10年6月2日未明)明智光秀は主君織田信長公を急襲、本能寺に火の手が上がる。寺が燃える黒煙は阿弥陀寺からも見えたはずだ。二条の屋敷か? あるいは妙顕寺か? 妙覚寺か?清玉上人は阿弥陀寺の塔頭の僧侶や門徒を連れて黒煙の方向に進む。本能寺が現場だと言う事に気付いたのはおそらく近くに来てからの事だったろう。何にしても阿弥陀寺から本能寺まで徒歩で、かつ荷車を引いていたとしたら1時間じゃすまなかったかもしれない。上人が到着する頃にはすでに事は収まり寺は完全に焼け落ちた後だったと推察できる。(ひっとすると種子島からの火薬の備蓄もあったろうから爆発も起きたかもしれない。)北から近づくので本能寺境内は当然裏手門が近い。阿弥陀寺住職が死没者の遺骸を引き取りに来た・・と言えば中に入る事は容易かったはずだ。なぜなら阿弥陀寺はそう言う寺だったからだ。そして、そう言う和尚 故、たまたまどさくさの中、信長公の家臣より? あるいは本能寺住職により遺骸を預かった可能性がある。実際、上人は明智光秀の陣を訪ね遺骸の収容の許可を取っている。「本能寺にて討死にせる者と、同じく二条城にて自刃せる嫡子信忠公、並びに討死した者らの供養する事を申し出、百十余名を収容し、各々法名を授与し丁重に葬り、合祀位牌を作成し弔った。」次回 阿弥陀寺説の疑問つづくリンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)back numberリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓
2015年06月25日
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back numberのリンク先追加しました利休切腹の要因となった木彫は利休と共に処刑されたようですが、江戸期に利休の像が造られ、今再び金毛閣楼上に安置されている・・と言う事です。そもそも利休の像は自身が造ったのではなく大徳寺側が造り置いたものと思われます。(裏目に出たが利休への感謝の気持ち?)だからこそ? 利休は秀吉の問い詰めに対して何も弁明しなかったのかもしれません。何しろ秀吉と共に仲の良かった大徳寺117世、古渓宗陳(こけいそうちん)和尚もまた秀吉の怒りを買い1588年に大隅(九州)へ流されているのです。(1590年に赦免され帰洛。利休の切腹は1591年)もし大徳寺が置いたものとわかれば即刻大徳寺はお取りつぶしになっていたでしょう。(大徳寺自体が「存亡の危機」と認識していたようです。)「黙して語らず」利休は大徳寺と尊敬する古渓宗陳和尚を守ったとも考えられます。しかし、秀吉の怒りはそれが理由ではなかったと思います。例えば古渓宗陳和尚の島流しは秀吉の母(大政所)の菩提寺を大徳寺内に建立する事に意見した事だったと思われます。(菩提寺は先祖を弔う寺で、まだ生きている大政所を祀る場所ではありませんし、出家したわけでもなかったようですから・・。)秀吉は古渓宗陳和尚を九州においやった年(1588年)母の為に天瑞寺を創建しています。(明治維新後に廃寺となり現在その跡地は龍翔寺となっている。)前回淀殿の第一子、鶴松の事に触れていますが、秀吉を振り返ると、やたらとあちこちの神社仏閣で祈祷したり寄進したりと無節操に莫大なお金を使っている事が伺えます。大仏の事もしかり千人法要もしかり・・です。神頼みが度を過ぎていた? 寺の権力と力に悩まされた信長公の時代を振り返れば彼らが謀反を起さないような封じ込めの策があった事は解りますが、病気平癒の祈祷の連発は問題外です。まして本来神と仏は別物なのに節操なく手を出す秀吉に和尚として、あるいは友として、参謀として古渓宗陳和尚や利休が意見したのでは? と思えてなりません。老境の秀吉に彼らの忠言を真摯に受け止める器が無くなっていた・・と言うのが案外真実かもしれません。信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)信長公の葬式古の京の三大葬送地大徳寺塔頭 総見院さて、今回は豊臣秀吉が主君織田信長を祀る為に建立した大徳寺塔頭の一つ、総見院を紹介します。そこには織田信長はじめ彼の家族の供養塔が並んでいました。(大徳寺は春と秋に特別一般公開をするようですが、通常は大徳寺本坊を含めて塔頭も非公開が多い。)そもそも大徳寺は遺体無き信長の葬儀を秀吉が盛大に執り行った場所です。そして総見院は信長公の菩提を弔う為に秀吉が寄進して建立した秀吉の都合による菩提寺です。信長公の葬式1582年、本能寺の変(天正10年6月2日)の100日後、10月11日に秀吉主催の信長公の大葬礼が催されました。それは足利将軍の七仏事の作法にのっとって7日間盛大に執り行われたと言います。喪主は秀吉の養子になっていた信長の四男、秀勝(羽柴秀勝)(1568年~1586年)で、葬送の時、彼は柩の後方を担ぎ、秀吉が位牌と太刀を持ったらしい。(彼は名目上の喪主であった。)葬儀の導師は古渓宗陳和尚。柩の中には香木で彫った信長像と本能寺の灰が入れられ荼毘に付されたと言う。(木彫は香木なのでそれほど大きな物ではなかったはずだが、その香りは京都の街に広がり、秀吉が信長公の葬儀を行っている・・と言う事を京都中に知らしめたらしい。)古の京の三大葬送地前々回「秀吉の御土居(おどい)を紹介しましたが、大徳寺は御土居の中でも御所より上の洛北にあります。実はこの界隈は「古の京の三大葬送地」として知られた場所だったようです。蓮台野・・船岡山麓は古来は風葬地。後に皇族の火葬など荼毘に付される場所だったそうです。また大徳寺は前回紹介したように当時の戦国大名にとって重要な寺。洛中にあり、身分の高い人達の葬送の場所はここしかなかったと思われます。他の二つの葬送地は洛外(秀吉の御土居の外)鳥辺野(東)・・秀吉の墓で紹介した阿弥陀ヶ峰から清水山にかけての一帯。「秀吉の墓所(豊国廟)」の所では書かなかったが、阿弥陀ヶ峰は冥途の入り口として平安時代から葬送地として絶えず煙の上がる場所だったそうです。化野(嵯峨野)・・古来風葬の地だった化野は遺棄され野ざらしになった遺体が散乱。それを哀れに思った弘法大師が建てた無縁仏の供養寺が後に法然により化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)となったと言う因縁の地。大徳寺境内図から赤で囲った所が大徳寺本坊。下の円・・千利休が切腹する一因となった山門。上の円・・国宝の唐門。ピンク・・総見院大徳寺塔頭 総見院1582年、(天正10年10月11日)の大葬儀後、秀吉は一周忌に間に合わせるべく、信長の菩提を弔う為の寺を大徳寺内に建立する。それが総見院である。1583年、(天正11年)建立。開祖は葬儀を執り行った大徳寺117世の古渓宗陳和尚。正門と土塀は創建当時のままらしい。鐘楼は信長公臣下の堀久太郎秀政が信長公の為に鋳造したもので創建当時のもの。 重要文化財塔頭とは、その寺院の敷地内にある門徒の僧侶の個人的寺。大徳寺の場合、戦国大名達がこぞって塔頭を建立して菩提寺とした所が多いようだ。それ故、利休に縁ある大徳寺塔頭の見せ場はそれぞれの寺の持つ茶室である。総見院にも3つばかり庵がかまえられている。奧の堂に信長公の位牌や木彫が安置されている。手前の塚は茶筅塚である。茶筅塚は感謝の意を込めて使用の終った茶筅を焚き上げ供養する所。(茶に縁ある寺らしい)1585年秀吉は大徳寺にて大茶会を開いていて、この総見院で秀吉が茶を点てたと言われる。その時にもらったのか? 利休が秀吉に贈ったと言う侘び助ツバキ(推定樹齢400年)が今もある。(日本最古の侘び助として京都市指定天然記念物になっている。)本堂内撮影禁止の為に外から撮影したものを拡大してみました。古渓宗陳和尚座像の左の戒名が織田家の物。その左隣に信長の木彫の座像があるが撮影禁止。衣冠帯刀の信長の木造座像(高さ三尺八寸 約115cm 等身) 重要文化財1998年指定大徳寺パンフより天正11年5月、七条大仏師宮内卿法印康清作 当時一級の仏師であり、生前の信長公を見ている人物であった事から本人に限りなく似ているのではないか? とされている。一周忌法要の為に秀吉の依頼で製作されたものとされ、束帯姿なのは亡くなってから冠位と位階があげられている為。贈・太政大臣、右大臣、内大臣位階も生前は正二位で、亡くなった後に贈位・正一位に任ぜられている。寺の敷地北側に墓地があり、その一番奥に織田信長公一族の七基の五輪石塔が並んでいる。みんなほぼ同じ形なのだが、真ん中のが信長公のもの。戒名は 総見院殿贈大相国一品泰巌大居士実際どれかにお骨は入っているのだろうか?正室の帰蝶様や側室お鍋の方のもありました。正室である斎藤道三の娘、濃姫。ドラマにはよく出てくるが実際は嫁いだ後の事が不明。死没の年代も不明。そもそも帰蝶(きちょう)の呼び名は後世誰かが「胡蝶(こちょう)」を誤読したのでは? と考えられている。(確かに帰蝶は不自然です。)次回 信長の墓所 3 (阿弥陀寺)です。レンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)back numberリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年06月19日
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茶道の完成に至る重要な位置を占めている大徳寺です。改めて目次も追加し加筆もしています。写真も追加しました。「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の紹介の前に先に大徳寺の紹介を簡単に挟みます。大徳寺は茶人、千利休との関係から当時の戦国大名にとって重要な寺でした。大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)大徳寺と一休さんと茶人大徳寺を救った一休さん茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)大徳寺と千利休と戦国大名禅僧の茶人に習った千利休大徳寺と戦国大名の係わり三門(金毛閣)と利休の切腹秀吉と利休の関係聚楽第の破壊の真相? 利休との関係あり?開山、開堂は鎌倉末期1315年(正和4年)。開山禅師は大燈国師(だいとうこくし)宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)禅師。臨済宗大徳寺派の大本山である。(広い寺域に、別院2ヵ寺。塔頭21を有している。)勅使門(ちょくしもん) 重要文化財前後唐破風、左右切妻、屋根檜皮茸の四脚門。大徳寺と一休さんと茶人大徳寺を救った一休さん創建当初は、後醍醐、花園両天皇からの帰依を受けるも、足利幕府の時代は幕府との折り合い芳しくなく、これと言ったスポンサーもなく、在野(ざいや)の禅院となっていた。1467年~1477年に勃発した応仁の乱の時はすでに大徳寺もほとんど灰と化していたようだが、その再建を担った住持が誰もが知っている大徳寺47世(1474年)、一休宗純和尚である。トンチで有名な「一休さん」ですよ。※ 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)和尚 1394年2月1日(明徳5年1月1日)~1481年12月12日(文明13年11月21日)仏殿 重要文化財一休さんの人脈により堺の豪商から資金を調達。1479年には仏殿を再建。現在の仏殿は1665年に再度再建されたもの。茶の道を造った村田珠光(むらたしゅこう)この一休和尚の元に参禅したのが「侘び茶の開祖」村田珠光(むらたしゅこう)だそうです。※ 村田珠光(むらたしゅこう)(1422年or23年~1502年) もともと連歌をたしなむ茶人だった珠光が30歳になって禅僧になったのである。それにより高級な唐物道具を必要とする従来の茶のスタイルとは全く違う簡素ながら精神的な深みを追求する茶禅一味の精神を追求した茶道ができた。これが後に利休が言う「道は珠光」である。以降、大徳寺はもとより禅僧と茶人の深い関わりが寺に人を呼ぶ事になります。わび・さびを造った武野紹鴎(たけのじょうおう)そしてつづく大徳寺90世、大林宗套(だいりんそうとう)に参禅したのが茶人、武野紹鴎(たけのじょうおう)です。※ 武野紹鴎(たけのじょうおう) (1502年~1555年) もとは堺の豪商の肩書きを持つ茶人で、若い頃に連歌を習っていた事が、奇しくも茶道の新たな道の提案に繋がったようだ。わび・さびの原義は武野紹鴎の考案した茶室のサイズから由来する。4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称したらしい。※ 千利休(1522年~1591年)は17歳の時に武野紹鴎に師事していたらしい。大徳寺と千利休と戦国大名「術は紹鴎、道は珠光より」 by千利休禅僧の茶人に習った千利休先輩茶人武野紹鴎(たけのじょうおう)と村田珠光(むらたしゅこう)の茶湯の術と道を極め完成させたのが千利休である。※ 千利休(せんのりきゅう) 1522年(大永2年)~1591年4月21日(天正19年2月28日)彼もまた堺の商家出身。若い頃から茶の湯に親しみ、先に述べた師、武野紹鴎(たけのじょうおう)と共に茶の湯を改革。もともと堺の南宗寺に参禅していたようで、その本山が大徳寺なのであった。大徳寺と戦国大名の係わり千利休は大徳寺111世、春屋宗園(しゅんおくそうえん)や大徳寺117世、古渓宗陳(こけいそうちん)に帰依。時を同じく古渓宗陳と豊臣秀吉の信望は厚くそこに大徳寺和尚と秀吉と千利休の密接な関係が生まれたようだ。もっとも秀吉より先に利休に関わっているのは親方である織田信長である。織田信長が堺を直轄地にした時より親交を持つ。1575年10月(天正3年)信長は堺の茶人17人を招き、妙覚寺で茶の湯の会を催している。その時の茶頭が千宗易(せんそうえき)。後の千利休居士(せんのりきゅうこじ)である。白天目茶碗、九十九髪の茶入れ、乙御前の釜、三日月の茶壺、煙寺晩鐘の掛け軸など名品にかこまれたこの茶会は「それぞれ一生の思い出となるありがたい茶会であった」と太田牛一は信長公記で語っている。※ 信長公記(しんちょうこうき)とは、信長旧臣の太田牛一が記していた織田信長の記録。茶の湯は戦国期に武士のみならず富裕な商人にまで波及。その中から茶人が排出されたわけだが、もともと公家の嗜みであった茶の湯。それを楽しむ事自体がステータスだったと言える。このように千利休と関係の深い大徳寺に戦国大名がこぞって寄進し塔頭を建立。大徳寺は潤ったのである。三門(金毛閣)と利休の切腹大徳寺 三門(金毛閣) 重要文化財千利休が秀吉により切腹させられる要因の一つになった三門or山門or金毛閣。もとは応仁の乱後に一休宗純の参徒、連歌師宗長などが一階を寄進。後に利休が2階増築分を寄進して金毛閣と名付けられた。山門・・龍宝山の門三門(三解脱門)・・空門、無相門、無作門「なぜ利休のまたの下を通らなければならないのか?」完成記念に楼上に等身大の利休像が設置された事が秀吉の怒りをかった発端と言われている。かくして茶人 千利休は1591年4月21日(天正19年2月28日)、聚楽第にて切腹させられるのである。その首はさらしものにされ、利休の木彫で踏みつぶされたと言われている。※ 切腹の裏話として「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」の冒頭でも書いています。リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)裏側の仏殿前から撮影。秀吉と利休の関係1582年(天正10年6月)、天王山の戦いにおいて秀吉が勝利すると利休はねぎらいの茶を天王山麓の「妙喜庵・・茶室(待庵)」でたてている。1587年天正15年には秀吉の主催した北野大茶湯で主管を勤め、聚楽第の作庭にも参加。一説には千利休も政治に携わるなど二人の密月は続いていたはずだった。それが突然の謹慎からの死罪宣告。しかも世に代表する茶人である。戦国大名らもこぞって恩赦に走り回ったが結局刑は執行されてしまった。秀吉との間にどんな確執が生まれたと言うのだろう?聚楽第の破壊の真相? 利休との関係あり?以前聚楽第について少し触れてますが聚楽第は秀吉が政務と居城をかねて京都の町に築いた平城です。1586年(天正14年)2月に着工~翌1587年(天正15年)9月完成。作庭には利休があたり、茶室を造り、聚楽第内に利休の居もあったと言う。秀吉自身が彼を気に入り公儀以外の一切をまかせていた関係がくずれるのは、淀殿に鶴松が生まれた事(1589年 天正17年)からではないだろうか?鶴松は1591年(天正19年)8月に短い生涯を送っているのであるが、利休が切腹させられたのが天正19年2月。それは鶴松が病に倒れて秀吉が病気平癒の為に神社仏閣に加持祈祷を連発していた頃の事だ。もしかしたら利休は親ばかになってメチャクチャやっている秀吉に何か諫める事でも言ったのではないか? 鶴松は利休の切腹後に結局亡くなり、その年1591年(天正19年)12月に甥の豊臣秀次に家督を譲ると同時に聚楽第を手放している。利休の亡くなった聚楽第に居すのが嫌だったのではないか?1593年8月29日(文禄2年8月3日)淀殿が第二子、秀頼を出産すると秀吉は甥の秀次を追放(1595年7月)して切腹させた。そして翌月8月に聚楽第を徹底的に破壊している。竣工してたった8年で消えた幻の館、聚楽第。なぜか? それが疑問だったが、聚楽第自体が利休の作品だったのでは? と言う気がしてきた。利休の面影ある(存在を感じる)聚楽第が嫌で消し去るようにメチャクチャに破壊してしまったのではないか? この理論、当たらずとも遠からず・・と言う気がする。聚楽第に関する資料が無いのも秀吉が抹消したからなのではないか?当時の聚楽第と周辺の様子を伝える貴重な資料として桃山当時、描かれた六曲一隻(ろっきょくいっそう)の屏風。(作者不明)をウィキメディアから借りてきました。三井記念美術館所蔵 聚樂第屏風圖 部分のさらに部分拡大聚楽第の場所は御所より西、現在の堀川通りより西あたり。聚楽第の推定場所2018年01月、陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)を祀る晴明神社(せいめいじんじゃ)を紹介した事がある。晴明神社の二の鳥居をくぐった所にある晴明井は、かつての聚楽第で千利休も茶の湯に利用していた水と言われている。かつて聚楽第内にあった千利休の屋敷跡の碑リンク 陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)大徳寺唐門 撮影禁止の為に大徳寺の本から借りてきました。 国宝「桃山の三唐門」として前に紹介した京都の国宝三大唐門の一つで、聚楽第にあった門だと伝えられている。前の唐門は明智光秀の寄進した門であったらしい。それも本能寺の変の直後に白銀千両が届けられたと言う・・。次回、「信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)」リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)
2015年06月13日
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リンク先名変更1576年(天正4年)2月、織田信長は安土城に転居した。(現在の滋賀県近江八幡市)つまり本拠とする安土城が完成したと言う事なのだが、信長はこの時に京都にも上洛の時に使用する屋敷の建設を思いついたようだ。(信長公記より)屋敷は調度、関白の二条晴良の屋敷跡の庭地を気に入り工事に当たらせた。余談であるが、この頃は大阪で石山本願寺の僧兵が挙兵し天王寺を奇襲。それに対処していた頃である。この頃信長が上洛時に宿所にしていたのは妙覚寺である。前回紹介したが、変の時に織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺である。上洛する時の為に京に屋敷を造るのは自然な事。信長もそれに習って屋敷を建てたのか? と思いきや、1577年(天正5年)7月より上洛時は二条の新邸に移ったものの、屋敷の完全なる完成を見るとあっさり皇室に献上してしまうのである。1579年(天正7年)11月(誠仁親王)に二条の新邸をあけ渡すと、信長は再び妙覚寺に居を移している。1580年(天正8年)2月。最初に上洛した時の宿所はやはり妙覚寺であったが、その5日後に本能寺に宿坊を変えている。日蓮法華の妙覚寺はもともと妙顕寺の僧であった日実が教義や後継問題の対立から離脱して開いた寺である。また、本能寺も同じく教義の解釈から妙顕寺に破却されて日隆が創建(1415年)した法華宗の寺であった事から、妙覚寺と本能寺は親しく繋がっていた可能性がある。二条の新邸建築以降は、上洛が重なる時は信忠に妙覚寺を譲り、信長は本能寺に宿坊したのではないか?と推察。本能寺に度々立ち寄るものの、本能寺の資料による本能寺への投宿は4回だけだそうだ。回数的に言えば妙覚寺のが圧倒的に多い。だからこそ4回目の本能寺投宿は府に落ちない・・ 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)法華宗の寺、妙顕寺、妙覚寺、本能寺本能寺の再建織田信長と本能寺と種子島と鉄砲現在の本能寺は法華宗本門流の大本山となっている。本能寺の「能」の字「䏻」はヒでなく去になっている。これは度重なる火事をきらって・・こちらを使用していると言われている。寺町通りから入ると右に宝物館があり、正面に本殿が見える。ビルの左側は本能寺会館である。本殿と言ってもここに信長が宿坊していたわけでは無いし、まして場所も全く関係ないのであまり感慨はない。ほとんどみんなが目指すのは、この右脇の奧に位置する信長廟である。信長廟前の拝殿河原町通りの路地から入ると信長廟の裏手にあたり、ビルが途切れたすぐ右が信長公の廟となっている。(実際はお墓ではなく供養塔であるが・・。)右の石柱は350年目の祈念碑である。信長公の供養塔1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)の一ヶ月後、3男、織田信孝が父の菩提を弔う為に建立。中には信長公の太刀を納めて供養としていると言う。なぜなら、本能寺で織田信長のお骨は発見されなかったからである。(これについては阿弥陀寺の回で・・。)本能寺の再建本能寺自体の再建は同年1582年(天正10年10月)速やかに始まり、秀吉からも山城の国鴨川村40石の朱印地を寄進されたと言う。また大納言からの支援の他、種子島からも浄財が運ばれたと言う。その後1592年に前回紹介した秀吉の都市改革で移転を余儀なくされ現在地に。割と新しい物に見えるが・・。信長公の供養塔の左隣が変の時に戦没した諸霊の供養塔森蘭丸、兄弟の名前ももちろん載っている。いつもなら慎重な信長が、この時、ただのお小姓衆を30人ほど連れて本能寺に宿坊していたそうた。まるでお小姓衆の慰安旅行に思えてしかたがない なぜ彼は油断したのだろう?織田信長と本能寺と種子島と鉄砲信長、本能寺への3度目の宿坊が、石山本願寺に勅使を贈る直前1580年(天正8年)2月である。目的は武器の調達だった可能性も・・。まもなく、石山本願寺は白旗を揚げて大阪を撤退する意志を固めてきている。織田信長と言えば、長篠の戦い=鉄砲である。長篠の戦い1575年(天正3年5月)では鉄砲を用いて武田軍に勝利した事で知られているが、本能寺もまた鉄砲と火薬を調達できる独自ルートを持っていたのである。本能寺の資料に寄れば1462年~1486年にかけての法華宗の布教は種子島まで到達していたそうだ。日典上人の殉教。続く日良上人の努力により種子島、島民全てを本門法華宗に改宗させていた。そして1543年種子島に鉄砲(火縄銃)と火薬が伝来すると本能寺の有力檀家である島主種子島氏が本能寺を通じて足利将軍や管領・細川晴元に献上。さらに「本能寺の変」後には、本能寺として秀吉にも火薬を送っている事が寺の文章に残っているそうだ。鉄砲の日本伝来と普及に関して、その信憑性に疑問もあるが、確かに本能寺には鉄砲と火薬を手に入れる独自の種子島ルートがあったのは事実のようだ。鉄砲の普及に関しては当然、堺の商人の活躍があったのではないかと思う。宣教師達は16世紀後半の堺をベニスのようだと称している。そして富裕で利便のよい堺を狙って武将たちがやってくる堺の商人が屈服したのが織田信長であり、信長、長篠の戦いの鉄砲は、堺の鉄砲鍛冶の造った日本製だったと言われている。(大阪城を築くのは秀吉ではなく信長だったのだ。)しかし火薬の材料の一つ硝石だけは輸入に頼らざる終えなくて明や琉球から輸入されていたそうだ。信長が必要としたのは種子島経由の火薬ルートなのかもしれない。天正10年頃妙顕寺、妙覚寺、本能寺は非常にご近所なのである。そして信長が布教を許し庇護したイエズス会の南蛮寺もまたすぐお隣さんである。ただ、小説「信長の柩」で出てきた南蛮寺と本能寺を結ぶ地下通路は現実には不可能と思われる。なぜなら両者の間には西洞院川(にしのとういんがわ)が存在していたからだ。ところで前にも紹介していると思いますが、1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)当時季節と暦(太陰太陽暦である宣明暦)にだいぶ差異が生じていたのでユリウス暦orグレゴリオ暦にすると実は本能寺の変は1582年6月21日になるそうです。信長の墓所つづくリンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名
2015年06月04日
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昨日取り寄せていた本がやっと届いた。にわかにベストセラーとなっていて、なかなか入手しにくくなっている「本能寺の変 431年目の真実」である。その著者は明智憲三郎 氏。明智光秀の子孫の方である。苗字により一目解る本能寺の変の謀反者。光秀の子孫である苦悩が著者にはあったそうだ。なぜ光秀は主君織田信長を裏切ったのか? 光秀の出自から迫り、今まで定説とされて信じられてきた内容の矛盾を多方面から集めた文献を上げ考察。真実に迫った書なのである。そこには今まで誰も気付かなかった史実が見えてきた。内容も理路整然とし、明確な解析。光秀論としては、今後の定説になるであろう画期的な一冊となっている。そもそもなぜ定説に問題があったのか?それは定説の元となった光秀論が秀吉の書かせた「惟任退治記」(大村由己)による所が大きいからだ。歴史を歪曲し、己を良くする為に人物像をゆがめ、史実をゆがめても隠したい事が秀吉にはあった。さらに秀吉亡き後に時を待って書き上げられた信長の元で仕えた太田牛一の日記「信長公記」。これは公式に出版されなかった為にこれをパクッて軍記物「甫庵信長記」を出版した小瀬甫庵なる人物が話を歪曲してしまった。読み物として脚色され歩調され、自身の論評まで加えられた本書はベストセラーになって世に広まっていたのだ。加えてこれらを元に光秀、野望説を説いたのが1958年高柳光寿の「明智光秀」だそうで、定説を決定づけてしまったらしい。尚、真実の太田牛一の「信長公記」(池田家本)が出版され世に出るのは何と近年1975年の事。岡山大学付属図書館池田家文庫に原本が保管されていたそうだ。現在、新人物文庫にて現代語訳の「信長公記(しんちょうこうき)」が出版されている。その内容は非常に細かく、本当に日記としてコツコツ書き留めていた事がうかがえる内容である。(そこから見えてくる真実はたくさんあるはずだ。但し、本能寺の変の時に彼はそこにいない。誰かから聞いた話が元になっている。)定説を考えずにこうした本から入り直すと誰も気付かなかった発見がまだあるかも・・。因みにルイス・フロイスの日本史も中公文庫で出版されています。さて、本能寺に入るわけであるが、知らない方の為に先づ紹介したいのは、現在の本能寺が本能寺の変の場所ではない。・・と言うことだ。だから「本能寺跡地」と「本能寺」と言う紹介になるのである。秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転寺町通り御土居(おどい)本能寺跡地現在の本能寺本能寺が焼け落ちたのが1582年(天正10年)。寺はその後再建に進む。しかし上棟式直前と突然に秀吉から移転命令が出た(1591年)と言う。なぜ? しかし実は寺の移動を余儀なくされたのは本能寺だけではなかったのだ。秀吉の改革は前回紹介したように後に徳川家康に消し去られているので解りにくくなっているのであるが、信長亡き後、天下を納めた秀吉は京の洛中の改造を始めていた。所謂洛中の仕分けである。内裏近くに自分の館、聚楽第を築くと周りには有力武将の館を集め町人には町人・・と身分による棲み分けを決めたようだ。1589年(天正17年)2年の歳月をかけて御所を一新すると1591年(天正19年)本格的に京都街の大改造事業を開始。20日間で2000軒の屋敷が撤去されたと言う。京都全体を戦場にした応仁の乱(1467年~1477年)で長らく荒廃していた京の街を改造するにはちょうど良かったのかもしれないが・・。寺などは引っ越しも容易では無かったはずだ。寺町通りその時に洛中の寺は北(鞍馬口通り)~南(五条通)に至る通り、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)に集められているのである。平安時代、東京極大路は御所にも近く、貴族の邸宅が集まっていたセレブ通りだった。が、そこに寺ばかり集まったので通りは「寺町通り」に変わった。(つまり寺町通りの起源は秀吉なのである)秀吉により集められた寺は約80ヵ寺を数えたと言う。その中には本能寺のすぐ上手にあった妙顕寺や妙覚寺も入っているし、織田家の菩提寺? であった阿弥陀寺もまた所領を減らされて洛中でも洛外に等しい場所に追いやられているのである。現代の地図に重ねた御土居(おどい)の位置と黄色のラインが寺町通り寺町通りのすぐ東に鴨川が流れている。この鴨川はよく氾濫し、当初寺が集められたのは敵の襲来を防ぐ目的と、川の氾濫を食い止める目的があったとも考えられている。オレンジが内裏その西隣のピンクが、聚楽第の場所である。レッドが再建された本能寺の場所。因みに向かいのグリーンは現在の京都市役所である。秀吉はまた、洛中と洛外を明確に分ける為に?あるいは敵からの防御の為に? 京の市中を囲むよう御土居(おどい)なる土塁と堀を建設している。※ 秀吉の治世が終わると水害に懲りた寺院は川の向こうの安全な場所に引っ越しした所もけっこうあるらしい。御土居(おどい)1591年(天正19年)豊臣秀吉が諸侯に命じて造らせた土塁と堀による障壁。そして堀の上には美観を兼ねて竹林が植えられていたと言う。※ この御土居の工事もまた洛中の住み替えの工事と平行して始まっている。江戸時代に家康により取り壊された為に現存するのは数カ所。たまたま撮影していた北野天満宮の裏庭の御土居(おどい)は今や貴重な史跡。左が土塁(その向こうが梅園)で、その外に堀が造られている。橋は近年かけられたもので、堀も近年整備されたものだろう。また御土居(おどい)における洛中と洛外を結ぶ出入り口は限られていたので、現在のような橋はここにはなかったはずだ。下は徳川時代初期の堀の図に多少手を加えました。全ての寺が洛中の寺町通りに集中していたわけではない。もとの位置から動かなかった大徳寺、北野天満宮。また、秀吉が許した本願寺(現在の西本願寺)はわざわざ洛中でも目立つ場所を与えられて移転してきているのである。オレンジの聚楽第は秀吉の時代にすでに無くなっているが地図に残した。参考までにパープルで円を描いた所は、当時の葬送地である。本能寺跡地本能寺の変・・1582年(天正10年6月2日)織田信長が天下統一を前にして無念にも明智光秀の謀反により亡くなった場所である。この付近本能寺の標識。前の道が蛸薬師通りであるから本能寺入り口がこのあたりだったのかも。とにかく行って驚くのはただの住宅街の中である。近年発掘調査をしたものの、今更住宅をどかす事もできないだろう。せっかく場所を特定したので地図で紹介しておきます。A・・現在の本能寺B・・本能寺跡地(下の赤い点が標識の場所) 織田信長が変の時に宿坊していた寺 西・・油小路通り 東・・西洞院通り 北・・三条通り 南・・蛸薬師通りC・・南蛮寺(イエズス会の京都の教会)跡地 信長が庇護していた教会D・・妙顕寺跡地E・・妙覚寺跡地 織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺オレンジが御池通りピンクが河原町通り。現在の本能寺京都市役所の正面、御池通りはさんで南側が本能寺の場所である。表玄関(寺町通り)裏口(河原町通り)ビルの狭間に入り口があるのだが、知っているならともかく初めてだと見つけにくい入り口である。御池通り側には本能寺会館があるが、寺の入り口は寺町通りか河原町通り側からのアクセスになるようだ。本能寺つづくリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓秀吉関連リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名高台寺は正室である北野政所寧々様が夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺です。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月30日
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追記しました文字制限でどうしても縮められず2部構成になってしまいました 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)秀吉の出世大坂の陣後の家康家康の復讐?妙法院門跡秀吉の出世1582年(天正10年6月2日)(本能寺の変)1582年(天正10年6月27日)(清洲会議)本能寺の変後、織田家から完全に権力をはぎ取ると権威として冠位を受ける為に朝廷に取り入った秀吉。その出世は早かった。1584年(天正12年11月)従三位、権大納言1585年(天正13年3月)正二位、内大臣宣下1585年(天正13年7月)従一位・関白宣下、内大臣如元(正親町天皇のより関白に任じられる。)1586年(天正14年9月)豊臣姓を下賜される。11月後陽成天皇の即位に併せて太政大臣に昇進、豊臣政権誕生である。※ 後陽成天皇の在位期間は秀吉の時代から徳川家康の時代にまたがっている。秀吉は関白職を公家から武家に移して世襲とし、諸大名や武家に官位を配りまくったそうだ。しかし、1598年(慶長3年8月18日)に伏見城で薨去し、翌年後陽成天皇より「豊国乃大明神」の神号をもらい豊国社で祀られるも、1615年(慶長20年)の大坂の陣で豊臣家が滅亡すると家康により秀吉の残したものはことごとく消されて行った。大坂の陣後の家康徳川家康は大坂の陣後から朝廷の人事にも介入。秀吉の重用していた後陽成天皇は退位させられ上皇にされ一線から外される。それも後任人事は望の皇子でなく、家康の希望する不仲の第3皇子の政仁親王への譲位である。それが後水尾天皇(ごみずのおてんのう)であり、これにより「禁中並公家諸法度」の公布など家康の思うままの朝廷が誕生したのである。家康の復讐?秀吉により官位を受けていたとは言え、秀吉の行為には苦渋の思いをさせられていた家康が秀吉の栄華の後を消し去るのは想像に難くないことだ。1584年(天正12年)織田信雄(次男)、徳川家康vs秀吉の戦いの因縁もあるし・・。また、神格化されて、次の政権の足をひっぱられては困るので、政敵に利用されない為にも完全に秀吉生前の偉功を消し去る必要があったのでは? と、想像できる。かくして1615年(元和元年)豊国社は破却され、社殿は壊され本当に何も存在しなかったように草の原にされ、秀吉の遺品や豊国の神仏お宝類はすく裏にある妙法院の物となった。大仏がすでに壊れていた事は幸いしていたかもしれない。もし大仏が残っていたら破壊されていたかもしれない。その当の大仏は高さこそ6丈3尺(約19m)と東大寺を越えていたものの、材質は銅像でなく木彫の漆喰造り、事もあろうに開眼1595年(文禄4年)のその翌年1596年9月5日(文禄5年)に起きた慶長伏見地震で大仏殿は残ったものの大仏自体が倒壊していたのである。まさに幻の大仏殿跡地に豊国神社は再建されている。方広寺(ほうこうじ)梵鐘だけは今日に残っている。現在の方広寺(ほうこうじ)は豊国神社隣。上の写真の梵鐘裏手の方向に豊国神社社殿がある。梵鐘には「国家安泰」とあり、「家康」の名が分断されている・・と呪詛の解釈をしたとも言われている。妙法院門跡は最初、秀吉が両親の供養の為に行っていた僧千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所(妙法院庫裏)として歴史に出てきた寺院である。大坂の陣で豊臣家が滅亡すると同時に方広寺はほぼ解体状態。すると当時の妙法院住職は徳川にうまく乗ったようだ。夏の陣後、同年1615年(元和元年)に縮小された方広寺住職をなぜか妙法院門跡が兼務している。豊国社のお宝も妙法院門主の管轄下に入り、同時に新日吉社や秀吉が後白河院や清盛の栄華にあやかろうと肝いりで堂の修復や塀や門を直した蓮華王院(三十三間堂)もまた妙法院門主の管轄下に入っているのである。※ その時組み込まれた新日吉社と豊国社は現在独立しているが観光客収入の多い蓮華王院(三十三間堂)はまだ管轄下にあるようだ。僧千僧供養の僧の食事を準備した庫裏(くり)・・キッチンである。土間に大きな釜土があった。門跡と言うのは皇族や貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指すらしい。が、確かに妙法院は皇族と深い関わりのある寺なのである。下は明治天皇が来訪された時の碑と建物。部屋も公開されていたが、よく来ていたらしい。要するにお坊さん個人の邸宅のようなもの。御所を追われた公家が逃れて来た事や、文化人も多く集まったと言う。公家のサロン的な役割もあったのだろう。円山応挙や伊藤若冲らが出入りしていたと言う。とにかく襖絵(ふすまえ)が素晴らしかったです。本尊は普賢菩薩。写真は普賢堂。偶然立ち寄ったら一年に1度のご開帳「五月会(5月14日)」で中を観覧し、僧千僧供養の食を出した庫裏や書院やお庭が見学できました。無料でしたが中は撮影禁止。(残念)普賢堂では花びらに願いを書き込み、法要奉修していただきました なんてラッキーな日。何にしても豊臣家が滅して大もうけしたのが妙法院なのである。豊国神社奉納絵馬秀吉に因んで瓢箪(ひょうたん)と草履の2種あるようだ。瓢箪(ひょうたん)には開運絵馬草履には出世絵馬と仕事絵馬があったがどちらも仕事が順調に行く事を願う内容が多かったです 日本人は働き者ですね。豊国神社宝物館内部豊国神社が再興されても妙法院門跡はお宝は戻してくれないようである。たいしたものはほとんど無い。逆にかわいそうである。秀吉の歯・・とか珍品はあったが・・。それにしても一つだけ家康を褒めるとすれば、秀吉の墓は破壊しても柩には手を出さなかった事だ。秀吉の功績は明治に入り評価され冠位が上げられた? (格上げ人事?)1915年(大正14年)贈正一位。豊国神社おわりBack numberリンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1他、秀吉関連リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月22日
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