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2017年04月03日

与謝野晶子の『源氏物語』2(三月卅一日)




 その上で、当初の計画よりも早く完成したと言っているから、かなりの注ぎ仕事、あまりよくない言い方を使えばやつけ仕事になっていたのだろうか。それが不満で、後に古典研究の一環として、「古典全集」の刊行にかかわり、後に再び『源氏物語』の現代語訳に取り組むことになったのかもしれない。

 その一方で「源氏物語は我国の古典の中で自分が最も愛読した書である」と言い、『源氏物語』への理解については強い自信を表明している。晶子は「ひらきぶみ」と題したエッセイで、「九つより『栄華』や『源氏』手にのみ致し候少女は、大きく成りてもますます王朝の御代なつかしく」と、子どものころから『源氏物語』を読んでいたことを記している。源氏読みとしては年季が入っていたというわけだ。
 そして、江戸期に多く書かれた『源氏物語』の注釈書についての不満を述べ、明治時代にも読み続けられていた北村季吟の注釈『湖月抄』について、「原書を謝る杜撰の書」とまで批判している。ちなみに、夫の与謝野寛との共著『巴里より』の末尾には、「源氏物語を湖月抄と首引で」読むフランス人の女性が出てくる(ただしこの部分は与謝野寛の手になるものである)。

 現代語訳に際しては、「桐壺」以下の数帖は、「一般に多く読まれていて難解の嫌ひの少ない」という理由で抄訳にしたことが語られる。「桐壺源氏」「須磨源氏」なんて言葉があるぐらいだから、読み始める人は多くても、通読までした人はあまり多くなかったのだろう。だから、読んだことのない人が多いだろう中巻以降は、「原著を読むことを煩はしがる人人のために」、省略せずに殆ど全訳したという。
 重要なのは、このあとがきで、『源氏物語』が光源氏を主人公にした部分と、いわゆる宇治十帖とに二分できることを認めたうえで、「源氏物語を読んで最後の宇治十帖に及ばない人があるなら、紫式部を全読した人とは云はれない」と書いていることだ。つまり、この時点では、与謝野晶子は『源氏物語』の作者は紫式部一人であったという説をとっているのである。
 また、「源氏物語を読むには、その背景となった平安朝の宮廷及び貴人の生活を知ることが必要である」と言い、「当時の歴史を題材とした写実小説である栄華物語の新訳に筆を著けて居る」と言っているのも注目を引く。この意識が、「日本古典全集」の刊行への参加につながっているはずであるし、『栄華物語』の現代語訳は、『新訳源氏物語』と同じ版元の金尾文淵堂から、大正三年七月、八月、大正四年三月に上中下三巻で刊行されている。こちらには序文、あとがきはないが、中沢弘光の挿画は付されている。

 最後に、巴里滞在中に、彫刻家のロダンと詩人のレニエに、「この書の前二巻」を献呈したことが記される。「前二巻」がさすのは、最初の二巻ということで上巻と中巻だろうか。与謝野晶子が明治四十五年に渡欧のために東京を発ったのが、「巴里にて」によれば五月五日である。上巻は二月の発行なので問題ないにしても、中巻の刊行日は奥付によれば六月二十一日だから、普通に考えれば間に合わなかったはずである。
 可能性としては二つ。一つは当時から奥付の刊行日は公式の日付であって実際の刊行は、それよりも早いことも多かったので、五月の出発時点で印刷が済んでいて著者用に製本したのを何冊かもらっていた可能性。もう一つは、中巻が完成してから郵便でパリに送ってもらったというもの。ただし、「巴里にて」の各節の末尾の日付が、書いた日付ではなく、出来事の起こった日付であるとするなら、ロダンに面会したのは六月十九日、レニエに会ったのは前日の十八日ということになるから、奥付の日付以前に発送されたことは間違いない。
 書籍や雑誌の奥付の日付は、どこまで信用していいのか悩ましいものがある。一般には実際の刊行の方が早いのだが、諸般の事情で刊行が遅れた場合にも奥付の日付はそのままということもある。どのぐらいのずれがあるかは、出版社によっても違うし、同じ出版社でも時期よって変わることもある。だから、どうやって間に合ったかというのを考えるのは不毛といえば不毛である。

 とまれ、ロダンは、挿画の印刷に使われた木版の技術を激賞したらしい。もちろん日本語はわからないので、将来翻訳によって内容を理解できるようになればと語ったようだ。この出会いを記念してか、夫妻は大正二年に生まれた四男にアウギュストという名前をつけている。この辺り、森鴎外が子供や孫にドイツ語の名前に無理やり漢字を当てたような名前をつけた事実を彷彿とさせる。与謝野夫妻が鴎外と親密な関係だったゆえんなのかもしれない。
4月1日10時。






posted by olomou?an at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
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