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2017年04月15日
ラファイエットのオロモウツ(四月十二日)
では、アメリカの独立戦争とフランス革命で名前をはせたラファイエットとオロモウツにどんな関係があるのかというと、以前オロモウツを取り上げてドキュメンタリー番組で、ラファイエットがオロモウツの城壁の壁の中にあった牢獄に収監されていたことがあると言っていた。そのときは特に関心もなかったから、フランス革命の前にハプスブルク領にやってきて、何か革命的活動でもやって逮捕されてすぐ釈放されたのだろうと考えて済ませていた。
そもそも、ラファイエットって何したんだったっけ。高校の世界史の授業のフランス革命のところでは、カタカナの本流に圧倒された記憶がある。結構頑張って真面目に覚えたはずなんだけど、固有名詞は残っていても、それが何なのか誰なのかはっきりしない。ジャコバン、ジロンド、ロベスピエール、テルミドールなどなど。さすがにルイ16世、マリー・アントワネットに、ナポレオンの果たした役割は大体わかっているけどさ。
カレル・クリルのレリーフに気づいたときに、共和国広場の一角、聖母マリア教会の隣の建物の壁にラファイエットのレリーフがあることを思い出して、書かれていることを読んでみた。それによるとラファイエットがオロモウツで牢獄に入っていたのは、1794年から1797年のことだったらしい。と言うことはフランス革命の後である。失脚した後に亡命したか、フランス革命に対する干渉戦争の際に捕虜になるかしたのだろうか。
この場所に記念のレリーフが最初に設置されたのは、1928年9月9日のことで、1938年にナチスドイツがチェコスロバキアに侵攻して、ボヘミア・モラビア保護領が設置されたあと、レリーフは撤去され破壊されたらしい。自由の闘志としてのラファイエットを顕彰することは、ナチスドイツに対する抗議につながったのかもしれない。
同じテキストが刻まれた新しいレリーフが製作され、再び設置されたのは1997年9月のことだった。これはラファイエットの出獄200周年を記念してのことだったらしい。オロモウツ市や地方の役所だけではなく、ホテル・ラファイエットの経営者も、この新しいレリーフの作成に協力したと言うことが、下に設置されたもう一枚のレリーフに記されている。
ラファイエットとオロモウツの関係についてチェコ語で書かれたものを斜め読みしていたら、面白い話が出てきた。ラファイエットは、オロモウツの監獄に収容されてすぐの1794年11月に脱獄に成功したらしいのだ。ラファイエットが捕まったことを知ってイギリスとアメリカから、二人の人物が解放のために、わざわざオロモウツくんだりまでやってきて、脱獄の手引きをした。残念ながら三人ともすぐに捕まってしまう。ラファイエットが捕まったのはオロモウツから少し北に行ったシュテルンベルクだったらしい。
イギリスとアメリカからやってきた二人は、両国の政府とフランス政府の抗議によってすぐに釈放されたというが、ラファイエットだけは牢獄に残された。ただし、高名な囚人への配慮だったのか、家族を呼び寄せて牢内で生活することを許されたらしい。完全な囚人扱いではなかったのかもしれない。
そして、1797年にラファイエットが釈放されたのは、ナポレオンの命令によるらしい。当時はヨーロッパ中がナポレオンに震撼させられていた時期だから、内政干渉なんてことも言わずに唯々諾々と従ったのだろう。ナポレオンの側としては、ラファイエットを釈放させることで恩を売り、革命の英雄を自らの陣営に迎え入れようという下心があったのだろうか。
フランス王の宮廷で教育を受けたカレル四世もそうだけれども、必ずしも近いとは言えないフランスとチェコの間には、意外と密接な関係のあったことに驚いてしまう。この辺の国を超えたつながりというのも日本にいたのでは、実感しづらいものである。
4月13日23時。