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<雪山と桜と平和観音> 最終回の今日は、蔵王連峰を背景にした白石川の一目千本桜と船岡平和観音をお届けします。いずれもベストショットを狙って移動しながら撮ったものですが、雰囲気が良く似たものが多いので退屈に感じるかも知れません。 また中には「絵ハガキのようだ」とか、「まるで観光ポスターみたいで嫌い」と言う方が居られるかも知れませんが、わが郷土宮城県の桜の名所を読者に伝えたい言う願いからのものであることを知っていただきたいと思います。では、初めは白石川の堤防からです。訪れた4月5日はまだ五分咲き状態で、桜の色が冴えません。これが満開であれば、きっとさらに豪華に見えたかもね。 青空を背に、雪を戴いた蔵王連峰の雄姿です。以下同様。 背景は雁戸山の偉容です。 「一目千本桜」の名所、韮神堰からの眺望です。以下同様。 「しばた千桜橋」の上からの眺望です。以下同様。 船岡城址公園頂上からの眺望です。以下同様。 白石川の堤防から微かに見えた「船岡平和観音」です。ここを目指して登って行きます。 逆光の観音像が見えて来ました。 この観音像は、地元の篤志家が世界の平和を願って建立したものだそうです。 船岡城址公園の頂上にあるこの観音像は、とても良く目立ちます。 今年は観音像を塗り替えたばかりのようで、純白に光り輝いていました。 青空を背にした観音像はとても美しく見えました。 最後はハクモクレンの花の中から、観音様のお顔を写してみました。 山から下りてJR船岡駅へと歩きます。駅の構内には、歌人石川啄木の歌碑がありました。それを撮ろうとしたのですが、歌碑の表面が滑らかでカメラマン自身の姿がどうしても写り込んでしまうのです。歌碑の歌は以下の通りです。 汽車の窓はるかに北に故郷の山見え来れば襟を正すも 啄木は岩手県の旧渋民村(現盛岡市)の生まれで、故郷の山と言えば岩手山か姫神山でしょう。ここ宮城県南部からは見えるはずもなく、なぜ歌碑がここに建てられたのかは分かりませんが、東京から岩手に帰る車中で望郷の想いが募った啄木の気持ちがとても良く感じられますね。 これでこのシリーズは終了します。最後までご覧いただき、心から感謝しています。<完>
2016.04.18
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<船岡城址公園へ> 熊本の地震の被害の大きさに驚いています。あまり問題視されなかった地域だっただけに、地元の方々は今回の震災にショックを受けているのではないでしょうか。亡くなられた方々のご冥福を祈り、被害に遭われた方々の一日も早い復興をお祈りします。熊本は会議のために訪れ、その際に天下の名城である熊本城も見学しました。あの美しい城が、今は惨憺たる有様に変わりました。復旧には数十年を要すると言われているようです。 また東海大学の学生が亡くなった阿蘇の大カルデラでは、12年前に「阿蘇カルデラスーパーマラソン」の50kmの部に出場し、カルデラ内と外輪山を走破しました。煙を上げる中岳の雄姿、涅槃の仏に似た阿蘇の山容、象が鼻の急激な下り坂などが思い出されます。今回の災害が一日も早く収束することを、心から願っています。 さて、今日は「一目千本桜」から移動して、「船岡城址公園」へと向かいます。ちょうどここに「しばた千桜橋」が架けられました。4月7日が開通式でしたが、幸いなことにその2日前つまり私が訪れた4月5日から通してくれたのです。これで白石川の堤防から直接公園に向かうことが可能になりました。写真はこの橋の上の自分です。背後にはずっと見て来た「一目千本桜」の一部が見えています。ここからモミの木がある岡まで登って行きます。 大きな2本のモミの木が、麓や傍を走っている東北本線の車内から見ることが出来ます。これは山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』のモデルになった木です。ここ船岡城址は仙台藩奉行主席であった原田甲斐の居城でした。仙台藩第三代藩主の綱宗は政務を執らず、放蕩三昧だったため叔父である一関藩主伊達宗勝らが幕府に訴え、21歳の若さで強制隠居となりました。 後を継いだのがまだ2歳の嫡子亀千代(後の第四代藩主綱村)でした。幼少の亀千代を補佐しようとしたのが宗勝ら。専横を極めたその事態を憂いて藩内が2つに割れてしまいます。双方とも幕府に訴え、裁きがある当日に訴えの主である伊達宗重を惨殺したのが原田甲斐でした。彼らも大老酒井家の家臣によって直ちに切り殺されました。 いわゆる伊達家のお家騒動で、この話は『伽羅先代萩』(めいぼくせんだいはぎ)として歌舞伎でも上演されることになります。また『樅ノ木は残った』がテレビドラマ化されて、平幹二郎が原田甲斐役を演じたことが思い出されます。私はこの「モミの木デッキ」で、遅い昼食を摂りました。渡る風が心地良く、雪をいただいた蔵王連峰と眼下の「一目千本桜」が実に見事でした。 ここからかなり登った山の頂上付近に、原田甲斐の供養塔が地元の方によって建てられています。場所は離れていますが、モミの木の傍に写真を載せておきますね。 そしてこれは、供養塔の傍にあった説明板です。参考のために撮影しました。 モミの木デッキからさらに登って「船岡城址公園」へと向かいます。ここも桜の名所の一つです。 公園内の飾り付けです。ちょうど「桜まつり」が開催中でした。 この門があるのが三ノ丸広場です。結構広い場所で、船岡城の旧三の丸に当たります。門は観光用のものです。 船岡城に関する説明板を参考までに載せました。 この広場の一角に、見事な枝垂れ桜が咲いていました。 これも同じ桜を別の角度から撮ったものです。 上の写真とは別の枝垂れ桜で、これも三ノ丸広場で撮りました。 三ノ丸広場から山の頂上付近に登るための「スロープカー」です。私は元気良く歩いて登りました。 青空を背にした桜の一枝です。 濃いピンクの桜が咲いていましたが、どうやらソメイヨシノではないようですね。 同じ桜を横向きにして撮りました。 まだ若木でしたが、花の色がとても美しい桜でした。明日の最終回では、とても素晴らしい景色を紹介する予定です。どうぞお楽しみに~!!<続く>
2016.04.17
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<白石川堤「一目千本桜」その3> ずっと似たような写真が続いていますが、4月5日に行った宮城県内有数の桜の名所である白石川堤の「一目千本桜」を紹介しています。大河原町から隣の柴田町へかけての6km、白石川の両岸に1200本のソメイヨシノが植えられています。樹齢80年を超えた古木が全体の3分の1を占めているそうですが、雪の蔵王連峰を背にした風景は、やはり北国ならではのものでしょう。今日も早速続きを紹介しますね~!! 河川敷の雑草の緑をバックにして、桜の一枝を撮ってみました。 手前の桜は右岸のもの。そして奥に見える桜は対岸の土手のもの。両岸の桜の競演です。 桜の枝越しに観る雁戸山(1485m)の偉容。 白石川を下って行く小型船の姿です。 古木の幹から咲いている一枝を撮ってみました。 こちらは孫生え(ひこばえ)の若い枝です。 少し暗い枝も案外良いものです。 こちらはくっきりと晴れ上がった青空を背に。 逆光も一枚撮ってみました。なかなか神々しいでしょ? JRの駅までの距離標示と、千本桜の名所である「韮神堰」の標示です。 ほらね。川の中にあるのが韮神堰。背景の蔵王連峰と両岸の桜の組み合わせが最高でしょ? ソメイヨシノとレンギョウのコラボレーションはいかがでしたか?実はこの堤と平行に走っているJR東北本線の普通列車は、この時期千本桜に近づくとスピードを落としてくれるんですよ。それは乗客が車中から桜の花を楽しむことが出来るための配慮なんです。中でも最も目立つのが、鮮やかなレンギョウと桜の両方が楽しめるこの位置なんですよね。そんな訳で、どうぞ今日は列車の窓から眺めた気分を味わってくださいね~!! ここはもうお隣の柴田町。千本桜とはひとまずお別れして、次は船岡城址公園の桜をご案内しますね~!!<続く>
2016.04.16
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4月5日。私は宮城県内でも有数の桜の名所である大河原町の白石川へ行きました。ここから隣の柴田町まで約6kmの間、河畔の堤防上に1200本の桜並木が続いているのです。これを地元では「一目千本桜」と呼び、昔から桜を愛でて来ました。種類はソメイヨシノのみ。1200本のうち、樹齢80年を超える古木は、全体の3分の1に当たるそうです。私は撮影しながら柴田町方向に歩いて行ったのです。 少し暗いのですが、左岸の桜です。 橋を渡って、今度は白石川の右岸に出て来ます。ここは右岸の堤防です。 桜や橋の向こうに白い雪を戴いた蔵王連峰が見えます。最も左の不忘山(1817m)から刈田岳(1758m)までが見えています。 見えている山は屏風岳(1817m)から後烏帽子岳(1684m)です。今年は気温が高く、かなり雪解けが早いようですね。 桜越しに見える蔵王連峰。見えている山は上と同様です。 白石川越しに左岸の桜を観ています。 こちらも右岸から川越しに対岸を観ています。 桜越しに観る白石川です。 桜越しに観る蔵王連峰。見えている山は左は不忘山(1705m)から右は名号峰(1491m)辺りでしょうか。 変形したソメイヨシノの幹と蔵王連峰の雄姿です。 これも不忘山(左)から名号峰(右)までの蔵王連峰です。 右岸の巨木です。樹齢は80年を超えているのでしょう。 青空を背にした桜です。 2本の桜のシルエットを、どうぞお楽しみくださいませ。 桜越しに観る白石川です。 レンギョウとソメイヨシノのコラボレーションです。 全面を桜で覆ってみました。 桜の一枝をアップで。 今日の見納めは、左岸の桜と青空の中に聳える蔵王連峰です。写真はまだまだ続きます。 <続く>
2016.04.15
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4月5日火曜日。私は宮城県南部の大河原町へ行った。白石川の堤防に植えられた「一目千本桜」を撮影するためだ。ここは県内でも有数の桜の名所だが、この日はまだ五分咲きの状態なのがちょっと心配。だが天気が良いので、きっと青空に桜が映えてきれいだろうと考え、この日を選んだ。駅から早速白石川方向に向かって歩く。土手に出て桜を見ると、やはりまだ色が薄い。しまった。早過ぎたかと思ったが、まあ何とかなるだろう。 ここは堤防に沿って6kmほど桜並木が続く。全てはソメイヨシノ。「一目千本」と言うが、実際は1200本ほど植えられている。それが一斉に開花したら、それはもう壮観な眺めだ。それが隣の柴田町までずっと続く。今日は歩きながら良い撮影ポイントを探す積り。 蔵王連峰を背景に。 そもそもソメイヨシノ(染井吉野)は明治初年に大島桜と江戸彼岸桜を人工的に交配して作られた品種で、種では増えない性質を持っている。初めは「吉野」と呼ばれたが、奈良の「吉野桜」と混同されたため、明治33年(1900年)に現在の名前になった由。 良く言われるのがソメイヨシノの寿命が短いこと。何の手当てもしないままだと、寿命はわずか60年なのだとか。短命の原因は、この品種は幹の内部が腐り易いことにある。それが青森県弘前城のソメイヨシノに、リンゴの栽培技術を取り入れてから寿命が延びたそうだ。つまり積極的に枝を剪定し、消毒し、栄養剤を散布して木の勢いを保たせると、たくさんの花が咲くことが確認されたのだ。 右岸(川上から見て左の方向)へ渡る。この白石川は阿武隈川の支流の一つで、宮城県内の蔵王連峰を水源地にしてる川。ここから10kmほど下流の柴田町で、東北の代表的な大河である阿武隈川と合流し、そこから東流して太平洋に注ぎ込んでいる。白石川もここまで来ると流れは穏やかで川幅も広く、両岸の桜がとても良く映えて見える。それに一番の「売り」は何と言っても真白い雪を戴いた蔵王連峰との競演だろうか。 菜の花越しに見た右岸。 ゆったりとした白石川の流れ。水量が多いのは、少し下流に堰があるため。 左岸の桜と白石川。 左岸の土手。 桜越しに見る白石川。 上の付近その1。 上の付近その2。 青空に映える桜。やはりこの日を選んで正解だったようだ。 こちらは同じ場所を横向きに撮ってみた。 桜の古木。1200本のうちで樹齢が80年を超えた古木が、全体の3分の1を占めている由。 ほらほら。これが「一目千本」の醍醐味ですよ~!! 船に乗って川の中から両岸の桜を鑑賞することも出来るんですって。 船からのお花見なんて、何だかとっても贅沢ですね。<続く>
2016.04.14
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今日は急遽掲載内容を変更しました。朝から取材へ出かけ、帰宅は夕方になる予定です。
2016.04.05
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暫く放置していたこのシリーズも、そろそろ再開しないとね。で、今日のテーマは夕焼け空。朝焼け空とはちょっと違う魅力があると思うんだけどねえ。では早速ご覧いただきましょう。 近所の畑から。今ここにはコンビニが出来ています。 標高321mの太白山の夕景です。 昨日のカタクリやキクザキイチゲの花は、この山で撮りました。 薄暮の中に佇む樹木。これも結構良い感じでしょ? 近所の空です。徐々に空の色が変わって行きますね。 遠くの山の稜線が、次第に夕暮れに飲み込まれて来ました。 薄暮の山です。夕焼けって良いものですね。 不思議な色の雲。 その一部をトリミングすると。↓ こんな広い夕焼けも。 トリミングしてこんな風に。 この空もやって見ますか。 ほら、少し表情が変わって来ますよね。 夕暮れの中にお家があるのが見えますか~? これは別の日の夕方。場所もかなり離れています。 遠くの山が少しぼんやりして見えますね。 小さな太白山のシルエット。可愛いな♪ 朝とは違った夕方のシルエットも良いよね。 山の上に浮かんだ不思議な形と色の雲です。<不定期に続きます>
2016.04.01
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何日か前のこと、山形県長井市に住む自然運動家の方のブログを拝見したら、自宅の庭でカタクリが咲いたことが紹介されていました。それで近所のM公園へ行ってみたのですが、まだ小さな葉が地中から出て来たばかりで、花の姿は全く見えなかったのです。 昨日私は眼科へ行き、その後近くの薬局で目薬を処方してもらいました。薬が出るまでの間地元紙を読んでいると、「太白山でカタクリが満開」の記事を発見。急いで帰宅してそそくさと昼食を済ませ、愛用のマウンテンバイクに飛び乗って太白山方向へと急ぎました。我が家から4kmほどの所にあるこの山は周囲一帯が保護され、仙台市の自然観察の森に指定されているのです。 「仙台市太白山自然観察の森」の標識です。 一級河川名取川水系の笊川上流部。小さな橋が架けられているこの場所が、この日私が行った最奥部でした。 1) ちょっとピンぼけですが、自然観察の森で一番最初に私を迎えてくれたのが、このセリバオウレンでした。良く観ると案外可愛い野草の花ですね。 2) キンポウゲ科の花キクザキイチゲ(菊咲一花)です。イチリンソウとも言われていますが、花が深く切れ込んでいる特徴がイチリンソウとは違っています。 3) 驚くことに、この花は我が家から1kmも行かない谷に咲いています。散歩道の直ぐ傍なのですが、ほとんど気づいている人はいないようです。先日カタクリを探した日、この花がたった一輪だけ咲いていました。 4) 上の3)と同じ花です。今回訪ねたら咲いてるのが2輪見つかり、しかも前回よりも成長していました。 5) これは自然観察の森の中の「野鳥の森」に咲いていたもの。多年草なので、毎年同じ場所から芽が出るのです。 6) 5)と同じ場所の花ですが別な株です。竹林の傍でひっそりと咲いています。 7) 地上の枯葉を押しのけ発芽したばかりのカタクリの芽です。まだ柔らかく、孵化したばかりの鳥のような感じです。 8) 最初の群落です。自然観察センター横の広場の日溜まりに、一面のカタクリが咲いていました。 9) カタクリを漢字で書くと片栗です。球根が栗の一片の形に似てることからの命名です。10) カタクリはユリ科カタクリ属に所属する多年草です。 11) かつては地中の球根を掘り出して食用にしていました。12) 球根を原料にして製粉したのがいわゆる「片栗粉」でした。13) ここからは2つ目の群落です。14 片栗粉はとろみがある粉末ですが、今は自然保護のためジャガイモの澱粉を代用しています。 15) この日私が訪れた一番奥の群落です。16) ここも葉が落ちた木の下で、カタクリは日当たりが良い場所から咲き始めるみたいですね。17 日当たりのあまり良くない崖などでは、葉が出始めたばかりでした。18) それでも間もなく、この山全体で春の野草が咲き始めることでしょう。ニリンソウの群落もまだ葉が出始めたばかりでした。 19) これで緊急レポートを終わります。太白山のキクザキイチゲやカタクリの花を楽しんでいただけたでしょうか。これら春に先駆けて咲く野草のうち姿形の良い花は、「春の妖精」と呼ばれています。そのうち花の咲き具合を観て、続報をお届けする予定でいます。なお、この地帯一体に今も豊かな大自然が残り、広範囲に保護されているのは仙台藩祖伊達政宗公が仙台城を護るため、山林の立ち入りを禁止したためです。独眼竜政宗公は、その点でも郷土の偉大なる恩人だったわけです。
2016.03.31
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昨日の朝のブログ更新後、私は愛用のデジカメを持って家を出ました。緊急取材のためです。目的は蔵王の雪景色を撮ることと、桜の花を撮ること。桜が咲いている場所は、前日のランニングで確認済み。そして雪山は天気次第ですが、これなら撮れると判断したのです。先ず急いだのは近所のお墓。小高い山の上にあるお墓に上ると、遥か遠くに蔵王の山々が見えました。ラッキーです。晴れて澄んだ朝の大気が幸いしたようです。 遠い団地の向こうに見えるこの異形の山は、多分「仙台神室」で、その右が「大東岳」のはず。 次に向かったのが国道286号線の直ぐ傍に咲いているこの桜。緋寒桜系統の小さな木ですが、ほぼ満開状態です。 前日この横を走り抜けた時に見つけました。私が今年最初に観た桜でした。 とても小さな木なので、撮影には少々苦労しますが・・。 こうして部分的に撮れば、結構観られるはず。 優しい色合いの桜って大好き。 やっぱり桜は春の女王。この花が咲かないと春が来たような気がしないよね。 きれいな色の花弁って良いでしょ? こんなちびっこ桜でも、結構楽しめるよね。 喜び勇んで桜を撮り終え、朝食後は整骨院へ行きました。腰と肩が傷んでいましたのでね。勿論デジカメ持参です。 この朝撮った南蔵王山系、屏風岳の雄姿です。 これがある高校のキャンパスに咲く大寒桜の全容。この姿を遠くからみてビックリ!! なんと大部分の花が咲き終えていたのです。う~む、残念。それでも必死で滑る崖を登って行きます。 大寒桜は「大島桜」と「寒桜」の配合種。もっとも早咲きの種類なのです。 それにこの南に面した崖が、仙台で一番暖かいのだそうです。 これより南は平らで開けた街。南向きの崖は太陽熱を一手に集めるのでしょう。 ピンクの濃いこの花が、私は大好きです。 でも厄介なのは足場の悪さ。暫く雨が降らない崖は、大変良く滑るのですよね。 だからランニングシューズの私は、何度もズズーッと滑り落ち、一度は埃だらけになったと言う訳です。 今年は来るのが遅くて、満開の見事な花は観られなかったけど・・。 それでもこの桜の見事さの一端はご理解いただけたはず。再び私は崖を滑り落ちながら家路に着いたのでした。 これは蔵王山系の中心部、刈田岳付近の雪景色です。 帰途の途中に寄ったのが小公園。坂道を登っている時に、何か赤い花があるのを遠目で観てましたので。 これも緋寒桜系統の桜。まだ蕾状態ですが、それも可愛いですね。 澄み切った青空を目指して枝を伸ばす桜って、最高♪ 緊急取材はまあまあ成功かな。なお、仙台の「ソメイヨシノ」の開花は、4月10日だそうですよ。 では最後に、蔵王連峰の大パノラマをご覧あれ~!!
2016.03.29
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昨年撮った空の写真がまだたくさん残っている。あまりそれが続くと読者の方が飽きるだろうと思い、「歴史と美の形」など異なるテーマを適宜挿入している。今日は再び空の写真に戻した。第1回が<昼の空>、第2回が<朝空とシルエット>だった。第3回の今日は<曇天も捨てたもんじゃない>をお送りしたい。気の滅入るような曇りの日だって、案外魅力があるんじゃないのか。言ってみればそんな感じかも。では早速今日の空をお届けしますね。 人生晴れたり曇ったり。時には色んなことが起きるよね。 空も一緒でね、時には晴れてるんだか曇ってるんだか分からない日だってあるさ。 去年の10月のこと。私は空の写真を撮りに行った。この日、空は目ま苦しく変わってねえ。 こんな風に、色んな表情を見せたのさ。 なになに~っ、俺は曇り空は大嫌いだって~っ? 私は曇り空だって美しいと感じるし、それほど捨てたもんじゃないと思うんだけどねえ。 ほら、一雨来そうなこんな感じはどう? ちゃおりんさんの風神、雷神を曇り空に配したけど、さ~て効果はどうかな? もう勘弁してくれだって~?冬の北陸の空はこんなもんじゃないよ。何せ一晩に60cmも雪が積もる。私もそんな山の中で働いたこともあった。あれも今になったら、良い思いでさ。 思えば私も日本の各地で色んな空を見たものさ。で、今日の結論だけど、曇天もたまには良い。雲がなかなか良い味出してるよね。さ~て、明日はどんな空にしようかな。<続く>
2016.03.28
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A公園に朝が訪れた。空が次第に白んで来る。 沼に朝日が映える。ここは近所の小さな公園。 やあ、お早う。俺は朝の散歩中なんだがね。 アパートがあるこの辺りから、煙突が1本見えるよ。 ゴメンゴメン。2本だったね。どうやら今は使われてなさそうだが。 ここはM公園の丘の上。遠くに朝焼けの街が見える。 どうやら街は長い眠りから覚めようとしているみたいだね。 お早う、お早う。もう朝が来たよ。 気持ちが良い朝だよ。みんな起きなさ~い!! ビルから出てるのは煙。ようやく目が覚めたようだね。 さて、今日は一体どんな日になるんだろう。 まずは元気で過ごせるのが一番さ。 公園の樹木達は静かだけど、まだ眠っているのかなあ? 遠くの空が次第に明るくなって来た。 樹木がまるでインドネシアの影絵劇ワヤン・クリみたい。 ほら、これがワヤン・クリだよ。 地平線もようやく見えて来たみたい。お~い、もう顔は洗ったか~い!! 広がって行く朝焼け。とってもきれいだね。 何だかアフリカのサバンナみたいな感じだけど。 ふふふ。ここは俺が良く行く公園。今でもたまに走ったりするんだよね。 そして桜の名所のここには、間もなく大勢の花見客が集まるってわけさ。<この項不定期に続く>
2016.03.22
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私は昨年かなりの枚数、空の写真を撮った。なぜそんなに雲を撮るのかと聞かれたら、「そこに雲があるからだ」と答えようか、それとも「私が雲を撮りたいからだ」と答えようか。晴れた空、曇った空、そしてそこに浮かぶ雲の様子。ともかくそんな風に変化する空を見ると、「おおっ、これは良いな」と思って、カメラを向けてしまう。ただそれだけのことだ。 だからここに雲の特集を組んでも、飽きられてしまうのが関の山だ。それでも私は案外面白いと考えてしまう。まあ能書きは良いから、早速その「傑作」を見ていただこう。 山の向こうから太陽が昇って来る。こうして一日が始まって行く。 放送局の鉄塔が立っているのが東の方向。仙台湾から太陽が昇り、次第に空が明るくなって来る。 やあ、きれいな雲だねえ。こんなのを見ると、俺はついシャッターを切りたくなるのさ。 空の下に街が見える。昔は全て田圃だったんだが。 青い空も俺は好きだ。あんなきれいな心で生きたいものだが。 公園の樹を背にした空もなかなか良い感じ。 俺って、こんな風に木の枝を入れるのも好きなんだよね。 空に虹が出たのは、確か9月の末のことだった。 どうだい。こうして見ると、空ってなかなか広いだろ? 空に月が残ってることに気づいたかい? ほら、これなら誰だって分かるはず。 びっくりしたかい君。空にも色んな表情があるのさ。俺が空を撮りたくなる理由が少し分かっただろうか。 なになに~っ、空の素晴らしさが分かったからもう勘弁してだって~?そうは行かないよ。まだ明日も続くのさ。<続く>
2016.03.22
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<釜房の家2> 宮城県川崎町にみちのく杜の湖畔公園と言うのがあります。国土交通省管轄の国営公園です。南ゾーンには東北各県の古民家を集めた「ふるさと村」があり、その一角に釜房ダム湖の湖底に沈んだかつての集落から移築した「釜房の家」が再現されています。今日はその家に置かれていた民具とかつての集落の暮らしぶりを紹介します。 障子を通して自然光が入って来ます。そのすぐ傍に布製の背負子(しょいこ)がありました。 長持(ながもち)です。金具に棒を通して担いで運べるようになっていました。箪笥と似たような使い方をしたのでしょう。これを嫁入りの際に持参したようで、東北の各地には、それぞれ目出度い「長持歌」が残されています。 「あんか」の入ったコタツです。この「釜房の家」ではダム湖に沈む前の昭和30年代の暮らしを再現しています。 コタツを入れるまでもない寒さは、火鉢で凌いでいました。冬の朝はコタツや火鉢の火を熾(おこ)すのが一番初めの仕事で、私も小学生の頃にやっていましたね。 アイロンです。「煙突」があるので、中に炭火を入れていたのかもね。 電話器です。ダイヤルはなく、交換手を呼び出す「交換式」なのかな? 座敷の隅に晴れ着が掛けられていました。婚礼の準備でしょうか。 祝いの酒を入れる桶のようです。 酒を注ぐ道具です。考古学では「注口器」と呼ぶものですが。 お祝い用のお膳と杯です。 ここからは「釜房の家」に張られていたかつての暮らしぶりを写した写真の紹介です。最初は馬を使った農作業の様子です。耕運機がまだない頃、農家では馬や牛が重要な役割を担っていたのです。 木こりも男達の仕事。そして重要な収入源だったのではないでしょうか。 農家では女性達も重要な働き手でした。これは豆の選別作業のようです。 「念仏講」と呼ばれるものです。当時の農村での伝統的な宗教行事だったのでしょう。 「いづめこ」と呼ばれる藁製の容器に入った幼児です。農繁期は子供の面倒を見ている暇がなく、安全性の見地からこのような道具が発明されたのでしょうね。まさに「必要は発明の母」です。いよいよ明日は最終回になりました。<続く>
2016.02.29
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<釜房の家1> 宮城県川崎町にあるみちのく杜の湖畔公園「ふるさと村」の古民家紹介も、とうとう最後の「釜房の家」になってしまいました。 この「釜房の家」は元々川崎町にあり、釜房ダムの建築によってダム湖に沈んだかつての集落に建っていた家の一つだったのです。 「釜房の家」の間取り図です。あれれ?厩が見当たりませんね。 ふふふ。このみすぼらしい建物が実は厩なんですよ。ここ川崎町では厩は別棟になっていたんですねえ。 軒下です。頑丈な造りであることが分かります。 家の入口には「火の用心」の看板が掛かっていました。 台所にも障子を通じて自然光が差し込んでいます。この釜房の家は、当時の工法で忠実に民家を移築しました。と同時に生活に欠かせなかった民具も必要と、納屋に眠っていた民具を収集してここに備えたのです。「釜房の家」にはダム湖に沈む前の、昭和30年代の暮らしが再現されているのです。 竈(かまど)です。私も見たことがありますよ。 まあ懐かしいこと。これは蒸し器です。 にわ(土間)に近い場所に、囲炉裏がありました。 囲炉裏の近辺には、唐辛子や魚が干されていました。全て保存食です。 屋根裏が見えます。屋根の材料の萱(かや)や縛ってある縄が腐ったり、虫に食われないよう囲炉裏の火を焚いて炭化させ、丈夫にして保存するのです。7つの古民家が全て囲炉裏の火を燃やしていたのはそのためです。 箪笥です。農家のものなので、豪華な作りではありません。 神棚です。他の古民家全てに備えてあり、釜房の家にもありました。 神棚の「お札」です。宮城県内の神社の名が見えますね。<続く>
2016.02.28
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<青森の民芸品> 秋田の民芸品が好評でしたので、今日は「津軽の家」にあった青森県の民芸品を続けて紹介することにしますね。 何度か登場したこの写真は一体何でしょうね? 実は青森県の民芸品で、灯りの一つ一つが小さな提灯になっているんですよ。 魚はフグやアンコウでしょうか。実に発想がユニークですね。 こっちは鯛?それとも金魚? 色や形が優しくて癒されますね。 小さなお神輿と祭のポスターです。 七夕飾りや祭で使う花笠などがありました。 これが花笠ですよ~。可愛いでしょ? 珍しい形をした津軽の凧です。 女の人も描かれた凧は不思議な魅力がありますね。 ねぶた絵にも通じる凧の絵柄ですね。 ミニチュアの纏(まとい)です。 こちらは祭の時に着る半纏(はんてん)です。楽しさが伝わってくるようです。 各種のお面を並べてみました。なかなか幻想的でしょ? ひょうきんな「ひょっとこ」の面。「火男」が語源って知ってましたか~? 鯛のねぶたです。青森県と言えばやっぱりねぶたですね。青森市ではnebuta。弘前市ではneputaと発音します。五所川原市では「立ちねぶた」と、各地で呼び名も飾り方も違います。 勇壮な武者の首です。 中国の豪傑を主題にしたものには大抵「漢雲」と書かれていますね。<続く>
2016.02.27
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<秋田の民芸品> 「本荘由利の家」には秋田県の民芸品が展示されていました。今日はそれをご紹介します。 凧です。左側は「女べらぼう」、右側は「男べらぼう」と書かれてあります。これらも「北前船」で西国から伝わった文化なのでしょうか。 武者絵が描かれた凧です。 奴凧です。これらはどこでも見られますね。 化け物と戦う勇敢な男が描かれています。 鬼の面とお多福の面です。どちらも紙で出来ています。 恵比寿さま(左)と大黒さま(右)の面です。 素朴な土人形です。名前は分かりませんが、恐らくは江戸時代のものが多いようですね。 馬に乗った武将など。右の女性は恐らく明治以降のものでしょう。 おんぶでもしているのでしょうか。珍しい形です。 裃(かみしも)姿の童子です。 かなり使い古された土人形です。結構趣がありますね。 烏天狗のお面です。これも紙製のようですね。 紙と竹で出来た優雅な風車です。これでも回るのでしょうか。 翁と老女の人形です。ひょっとして現代の作品でしょうか。<続く>
2016.02.26
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<本荘由利の家> 今日紹介するのは、秋田県の本荘由利の家です。 少し離れた場所から家を見ています。左手に小さく「かまくら」が見えています。この本荘由利の家では、冬季の子供達の遊びの会場になっていて、室内の遊びもやっていたんですよ。 東側から見た家の側面です。この家は秋田県大内町(現在は由利本荘市に合併)にあった吉尾さんの邸宅で、19世紀末に建てられた両中門造りの建物です。 「両中門造り」とは玄関が2か所ある建物を言います。左側の玄関はお客様用で、右側が家族用のものです。広い厩では5頭の馬が飼われていました。 台所の一角です。障子を通して自然光が入って来ます。 こちらも台所です。光が優しいですね。 暮らしに欠かせなかった水がめです。 台所の道具類です。 ザル、桶、樽などが台所にありました。 せいろ(蒸し器=左)と臼と杵(右)です。 桶(左)と石臼(右)です。これらも生活必需品でした。 物を背負って運ぶための道具、背負子(しょいこ)です。 雨や雪の日には蓑(みの)を着、笠を被って仕事をしたのです。全て藁製です。 稲藁は道具を作るための大切な材料で、このように干して使っていました。 良く日の当たる廊下では、野菜などを干していたのでしょうね。 茶の間には囲炉裏が設けてあります。空中に鉄瓶が吊るされています。 どこの家にも必ず設けられていたのが神棚です。きっと暮らしの中心にあったのでしょうね。 神棚に張られていた紙です。扇、鯛、銅貨などの模様が切り抜かれています。 さて今日はこれから取材へ行って来ます。このシリーズもそろそろ写真が尽きますのでね。ではまた明日。<続く>
2016.02.25
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<月山山麓の家> 宮城県川崎町にあるみちのく杜の湖畔公園の「ふるさと村」に来ています。ここには7棟の古民家があり、これから5つ目の「月山山麓の家」を訪ねるところです。 これが「月山山麓の家」です。この家は山形県の朝日村(現在は鶴岡市に合併)にあった養蚕農家の伊藤さんの住まいでした。建てられた年代は19世紀半ばで、家の形は「妻入り式養蚕家屋」と呼ばれています。 伊藤家があった旧朝日村は「六十里街道」の西端にありました。とても険しい山道で、現在の「月山道路」も冬季は猛烈な吹雪に悩まされる山岳道路です。この村には山形勤務時代の職場の演習林があり、「六十里街道」を走って越えようとしたことがありましたが、計画だけで終わってしまったのが残念です。 月山山麓の家の間取り図。「にわ」は土間のことです。 家屋の断面模型です。平屋に見えますが中2階があり、さらにその上に「ずし」、「上ずし」の4層構造になっています。これは効率良く蚕を飼うための工夫です。 左側は玄関の上の飾りです。出羽三山の信仰と関係があったのでしょうか。右側は最上部の「上ずし」の明かり取り用の窓です。 竈(かまど=左)と臼と杵(うすときね=右)です。昔はこれでご飯を炊き、餅を搗いていたのです。 藁靴です。雪の多いこの地方では欠かせなかった、冬の履物です。 雨や雪を避けるための笠(左)と、藁を編んだ入れ物(右)です。 台所の一角です。 土間に置かれた大きな甕(かめ)は、藍染用のものでしょうか。 囲炉裏の炭が赤く熾(お)きています。 囲炉裏と自在鉤です。 上座敷には立派な神棚が備えてありました。 大黒様の絵に出羽三山の印が押されています。 欄間のデザインです。 養蚕用の道具です。 蚕を飼うための蚕棚です。 竹製ざる各種。中には蚕の餌である桑の葉を入れるためのざるもあるのでしょう。 糸繰り機です。繭から出る糸を何本か合わせ、これで撚(よ)ったのでしょう。 染め上げた美しい糸。 機織り機です。 これらの道具は杼(ひ)と呼ばれるもので、布を織る際横糸を通すために使います。 (参考)機織り機を使って布を織る様子です。写真はパンフレットから借用しました。<続く>
2016.02.24
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これはみちのく杜の湖畔公園「ふるさと村」津軽の家にあった津軽の民芸品。暗い家の中にほんのりと点いた灯りが、とても懐かしく感じられて良いものだ。以下は「ふるさと村」にあった7つの古民家の家の中。全ては自然光の世界だ。貧しかった頃、照明用の灯りは贅沢品であったため、油はどうしても必要な時に限られ、夜は早く寝た。そして翌朝は夜明けと共に起きて働いたのだ。今日はそんな時代を感じていただきたいので、説明は省こうと思う。 自然光の世界を味わっていただけたでしょうか。これが私達日本人の、つい100年前の暮らしでした。シンプルで清らかな世界。現代に比べればずっと貧しかったけど、きっと心豊かな時代だったのでしょうね。明日からは再び古民家の紹介に戻ります。
2016.02.23
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<南会津の家> 2月7日。私はみちのく杜の湖畔公園にある「ふるさと村」の古民家を1軒ずつ訪ね歩きました。ここは4つ目の「南会津の家」。旧南郷村(現在は南会津町)にあった山本家の邸宅は19世紀半ばに建てられた「馬屋中門造り」。家業は代々農業の傍ら木挽きを行って来ました。これは山に入って木を伐り出す仕事です。 南会津の家の間取り図。やはり家の中に厩がありますね。 東側から見た家の側面。 そしてこれが裏側から家を見たところ。 軒先。きれいに萱の先端が揃っています。良い仕事してますねえ。 屋根裏の骨組みも立派です。 囲炉裏の上の物置き台。ここで燻製でも作ったのでしょうか? 柱には立派な柱時計が架かっていました。 そして座敷の床の間には、掛け軸も。 台所にあった桶類。 これは物を掬った竹製の道具。 大きな籠もありました。一体何に使ったのかなあ? 木挽き用の大きな鋸(のこぎり)と斧(おの)。 こちらは山で使った道具類。 家の一角に東北の手仕事コーナーがありました。これは木製の容器。木地師の仕事ですね。 木製容器各種。 暗がりの中に「お椀」が見えます。 こちらには蓋付きのお椀が勢ぞろい。 漆塗りの鉢。こちらは塗師(ぬし)の仕事です。東北には質の高い漆が育ちました。 お盆やお膳など各種の漆器。会津地方では会津塗りが有名です。 こちらは重箱でしょうか。 こちらは堆朱(ついしゅ)のお盆のようです。 般若の木彫り。木地師の中には民芸品を手掛ける人も出て来ます。温泉場では観光客相手の、こけし工人も育って行ったのでしょうね。<不定期に続く>
2016.02.21
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<鳴瀬川河畔の家> 3番目の古民家の前には、こんな看板が出ていた。「鳴瀬川河畔の家」って何だろうね。それにお茶や漬けものが振舞われるんだって?ふ~ん。ところがそれが後でちょっとしたことになるんだよね。 これが「鳴瀬川河畔の家」。宮城県の色麻(しかま)町にあった養蚕農家で、中二階式構造を持ってる家屋なんだよ。 これが1階部分の間取り図。やはり中に厩(うまや)がありますね。 良く日が当たる廊下と縁側ですねえ。 そこに干されていたのは大量の白菜。きっと漬け物にするんだろうね。 こちらにも何か干してありますねえ。 こっちは唐辛子とヒョウタンみたいだよ。ふ~ん。 これは「釜神様」。主に宮城県北部と岩手県南部の旧伊達領に見られる風習で、竈のある台所に飾ってあるんだ。 囲炉裏近くの土間で、お茶と漬け物のサービスがあった。もう2時間も外を歩いて体は冷え切っていたので、嬉しい言葉だった。そこでボランティアの小母さんに聞いてみたのさ。ダメ元で「ここでお握りを食べても良いですか」とね。でも返って来た答えは「ここは文化財なので」だって。 文化財は分かるさ。それなら何故そんな場所でお茶や漬け物を提供するの?勿論汚す積りはないし、ゴミだって持ち帰る積りでいるんだけどねえ。それに彼女らには暖かい飲み物や休憩場所が他に用意されているみたいだよ。 おまけに「じか箸」まで注意されてしまった。こちらは目が良く見えない老人。「傍にあるプラスチックの小皿に取って食べて」と何故言えないのだろう。それに手づかみで食べ、後で台ふきんで手を拭く昔ながらの方法みたい。それならついでに爪楊枝も用意してくれたら助かるんだけど。 結局お握りはこの後数十分してから、トイレの中にあった休憩所で食べた。多目的ホールでやっていた「なまはげ和太鼓」でも、立ち入り禁止場所だと言って外へ出されたが、私の他にも同じように撮影していた人はいたんだけどねえ。この2つの小さな出来事が、私の心をちょっぴり曇らせてしまったんだよね。 そんなこともあって早々に土間を引き上げたものだから、その周囲ではあまり写真を撮らなかったんだよね。これは昔懐かしい炭俵。 この家にも神棚が備えてありました。昔の家には必ずあったのでしょうね。 その神棚に張ってあった紙です。 こちらも同じ。この切り抜かれた「模様」に護符としての役割があったのでしょうね。 神棚の上に飾られていた「松川ダルマ」。仙台で生産される昔からの伝統工芸品です。 こちらは床の間の掛け軸。かつて歌枕だった、大崎市の緒絶橋を詠んだ歌のようです。 2箇所の階段はとても美しい構造でした。1階部分がかなり高いことも分かりますね。 中2階の間取り図。物置きは養蚕の作業場であり、付近の鳴瀬川が氾濫した際は逃げ込む場所でした。1階部分が高かった理由が頷けます。 中2階の襖です。よほど裕福な家だったのでしょう。 屋敷の一角にある板倉。母屋(おもや)の目の前にあります。 板倉の母屋に近い位置に小舟があります。鳴瀬川が氾濫し、家が危険と判断される場合はこの舟で脱出したのでしょうね。 色麻町はウルトラマラソン仲間の合同練習会で毎年走って通るコース。さて、そんな危険な箇所があったかなと疑問に思って地図で確認したら、町の東北部が鳴瀬川に接していました。この家は低湿地にあるため、いざと言う時のために、中2階や舟の準備が必要だったのです。色んな暮らしの形があるものですね。<続く>
2016.02.20
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ふるさと村の古民家巡りは一旦お休みして、今日はみちのく杜の湖畔公園内の風景を載せることにします。 ここが公園南地区の入口付近。バス停の前に木立と雪景色が広がっています。 園内の売店です。トンガリ屋根が可愛いですね。 円形のオブジェが立っていました。ちょっと不思議な気持ちです。 雪原に大きな岩がニョキニョキと。これも何だか不思議です。 雪の丘もきれいだな♪ 前にも紹介した丘の法面(のりめん)です。 恐らく何らかの設備を収容する小屋なのでしょう。 遊歩道を歩く親子。とても広い園内です。 小さなテントとベンチ。その上には青空が広がっていますよ~!! まるでイモムシのような形の休憩所です。 休憩所の入口が「かまくら」のように見えますねえ。 休憩所の中から外を見ると、こんな具合に見えますよ~。 「ふるさと村」の周辺には、石仏や水神様が立っていました。ダムに水没した集落のものでしょうか。 寒々しい裸のケヤキも、私は大好きなんですよ。 今は真っ白の雪原ですが、春には一斉に草花が芽生えることでしょうね。 ソリ遊びに興じる親子と、かまくら前の私。明日からは再び古民家を紹介しますね~♪
2016.02.19
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<遠野の家> 国営みちのく杜の湖畔公園の一角に東北の古民家を集めた「ふるさと村」があります。このシリーズではその古民家を一軒ずつ紹介しています。今日は「遠野の家」です。 2番目の民家「遠野の家」が目の前に見えて来ました。 荒壁塗りの堂々たる風格をしている建物です。 これが岩手県遠野市にあった旧菊池邸。L字形をしたいわゆる「南部曲がり屋」で、19世紀半ばの建築物です。 「遠野の家」の間取り図です。ここは馬産地なのでとても馬を大事にしています。 ここは東側の座敷部分です。 ここが家の出入口。厩(うまや)は入って直ぐの良く見える場所にあります。 にわ(土間)の奥の炊事場です。 土間には竹製の大きな容器が転がっていました。 これは竈(かまど)でしょうか。 暮らしの中で使われた数々の藁製品です。 わらじは大事な履物。昔は田圃の稲藁で、全て手作りでした。 馬のいない厩(左)には唐辛子が干され、柱には馬の絵(絵馬=右)が張ってありました。 菊池家の長い歴史を物語るような戸棚の引き戸。 もう誰もいない裏座敷には、箪笥などが雑然と置かれていました。 ここでも神棚は大切にされていたようです。 床の間に飾られた恵比寿さまと大黒さま。きっとこれも信仰の対象だったのでしょうね。 岩手の民芸品が飾られていました。 これも岩手の民芸品。上と同様、木を削って作ったものが多いみたいですね。 藁製の馬です。ここでは馬が主役だったのでしょうね。 囲炉裏端ではボランティアの方が民話を語っていました。遠野は民俗学者柳田國男の『遠野物語』でも有名な民話の里で、様々な民話や河童伝説が残されています。<続く>
2016.02.18
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<津軽の家> 宮城県川崎町の国営みちのく杜の湖畔公園の一角に、「ふるさと村」があります。東北の古民家が7棟、ここに移転されていました。先日は「長屋門」を紹介しましたが、今日からは各県の古民家を一軒ずつ紹介したいと思います。 津軽の家が見え出しました。もっと近づいて見ましょうか。 正面から見た津軽の家です。この建物は青森県弘前市のリンゴ農家のもので、19世紀半ばに建てられた「内馬屋式直屋」と呼ばれる家の形をしています。つまり真っ直ぐの棟で、その中に馬小屋があると言うことです。 これが「津軽の家」の図面です。「まや」は厩(うまや)のこと。2か所に庇(ひさし)が出ていて、雪や雨の際の出入りを助けています。 建物を側面から見ています。萱葺(かやぶき)屋根で、壁の下部は雨や雪に耐えられるよう、板が張られてあります。 広くて大きな窓は、明かり取り用でしょうか。 窓に干されていたのは唐辛子でした。 土間の奥に竈(かまど)が見えました。 釜が藁製の容器に入っていました。これは温かく保つ工夫でしょうか。 囲炉裏の自在鉤(じざいかぎ)に突き刺された魚。煙でいぶされて燻製になります。 藁つとに刺された魚は、食べ物の乏しい冬の貴重な蛋白源となります。 天井裏の梁(はり)には、荒縄が巻かれていました。何かを吊るしたのかな? 暗い家の中の欄間(らんま)です。 欄間は単なる飾りではなく、通風や明かり取りも兼ねていたのでしょうね。 中央の座敷には神棚が備えてあります。 床の間もありました。単なる農家ではなく、きっと豪農だったのでしょうね。 三枚戸の襖は二枚戸のものよりも、広く開けることが可能です。 襖の取っ手の金具には、鶴の意匠が施してありました。 土間の奥にあった道具類。洗い張り用の板、背負子(しょいこ)、ザル、藁靴などが見えます。 まや(厩)の跡に飾られていた奉納木馬です。南部や津軽の農村では、子供の安産を祈って、飾り立てた木馬を神社に奉納したのです。これは青森市の淡島神社に奉納された木馬です。<続く>
2016.02.17
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2月7日日曜日。私はバスに乗って国営みちのく杜の湖畔公園に行きました。そこで雪で作った「かまくら」や東北の古民家を集めた「ふるさと村」などを見学しました。帰路は秋保温泉経由のバスに乗りました。乗り替えの間に、秋保里センターに立ち寄りました。今日はバス旅で出会った「形」を紹介しますね。と言っても大げさなものではなく、単なる失敗作も混じっているのですが。(笑) 最初はみちのく杜の湖畔公園内の、煉瓦の敷石です。 土手の斜面が面白い形をしていました。 ふるさと村の古民家で撮った、暗がりの中のうちわです。 これも同じ場所で撮った南部鉄器(鉄瓶)です。さて、見えるかな? トイレ内の休憩コーナーにあった日傘です。 ある古民家にあった木製の機械です。 これも同様に木製の機械です。一体何に使ったのでしょうね。 揺らめく鼓。といっても単に手ぶれになっただけですが。 屏風と生花。ふるさと村の古民家に飾ってありました。 灯りのついた窓のように見えますが、一体これは何でしょうね? 上の写真をさらに拡大するとこんな風。これは「津軽の家」にあった民芸品を納めた棚なんです。 古民家の内側から見た外の景色です。「円」の字にも見えますね。 ここからは秋保温泉「里センター」前の広場にあったモニュメント。最初は汚れたウサギです。 太っちょのネコちゃんです。いや、タヌキかもねえ? これは何だか得体の知れない動物。 現代版「六地蔵」その一。 その二。 その三。 その四。 その五。 その六。みんな合わせて六地蔵。どれも良い顔してるでしょ? 小型にして六体を並べてみましたが、さてどんな風になったかな?あれまあ、ゴメン!!どうも写真を整理した時に、同じ写真を残してしまったようですねえ。失敗失敗!! さて明日からは、みちのく杜の湖畔公園のふるさと村古民家の紹介が始まりま~す。
2016.02.16
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国営みちのく杜の湖畔公園は仙台市の西隣、川崎町の釜房ダム湖の直ぐ傍にあります。先日そこで「かまくら」を見学した後、園内を散歩して見ました。ここは南地区の一角ですが、目の前には広い雪原が横たわっていました。 「ふるさと村」に向かうと、小さな小屋が見えて来ました。あれはもしかして、水車小屋かもね。 小屋の裏側はこんな感じです。さらに近づいて見ます。 木製の車輪が見えます。溝には水が流れておらず、今は動いていないようですね。 藁ぶきの屋根から氷柱(つらら)が垂れ下がっていますよ。 これは「長屋門」と呼ばれる建物で、現在は「ふるさと情報館」として使用されています。 元々は宮城県北部の田尻町(現在は大崎市)の農家にあったものです。建てられたのは江戸時代末期の19世紀後半なので、ゆうに150年は経っています。 長屋門の図面です。「にわ」は土間で、作業場として使用していました。「くら」は農業用の道具を保管する場所で、ここを「情報館」として再利用しています。 門の中央にある通路部分を裏側から見ると、こんな具合です。 門の裏側には、藁で作った大きな人形が立っていました。これは「鹿島様」で、かつては村境などに立てられ、災難や病気が入らないように守っていたのです。東北では秋田を中心にして、青森、岩手、福島の各県で見られ、茨城や千葉でも同じような風習がありました。またこれが立てられた場所には、「賽(さい)の神」や「道祖神」などの地名が付けられることがあったようです。 これは園内のトイレに設けられた休憩コーナーに飾られていたものです。 良く見ると、紅花のドライフラワーでした。かつて東北は紅花の産地で、特に山形産のものは船で上方に運ばれ、貴重な財源となっていました。ここ川崎町では土壌や気候が合わないのか、上手に栽培出来ないみたいですね。 ここにはこんな日傘も飾ってありました。トイレの一角にあった休憩コーナーはとても暖かく、私は椅子に座ってお握りを食べたのでした。 丘の上にある多目的ホールから、何やら賑やかな音が聞こえて来ます。早速行って見ましょうか。 やっていたのは「なまはげ和太鼓」の演奏でした。 恐らくは秋田県男鹿地方の郷土芸能でしょう。 しゃがむなまはげ。 太鼓を打つなまはげ。 身構えるなまはげ。 迫力ある演奏に圧倒されたのですが、私が撮影していた場所は立ち入り禁止だったようで、追い出されてしまいました。う~む、残念!! 園内になまはげのイラストがありましたので、代わりに載せておきましょう。<続く>
2016.02.15
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<宝華殿から青龍殿(宝物館)へ> 愛姫と書いて「めごひめ」と読みます。愛らしい娘と言う意味で、「めご」は東北弁の「めんこい」の語源でしょう。政宗の正室だった彼女は、政宗の死後この瑞巌寺で夫の菩提を弔い、死んだ後は境内の一角に埋葬されました。その霊廟がこの宝華殿。宝華殿はつい最近補修工事を終えて、重要文化財に指定されたばかりです。 逆光気味ですが、華麗な軒下が見事ですね。 まるで左右に翼を広げたような、屋根の形ですね。 軒下の桟をアップして見ました。 正面軒先の上部です。 その細部です。 さらにそれをアップしてみました。 宝華殿の直ぐ裏にある洞窟です。鎌倉時代まで修行僧達がここに籠って、日夜修業していたのでしょうね。 宝華殿から再び雪道を歩いて戻り、最後の青龍殿(宝物館)に向かいます。この建物は瑞巌寺の寺務所でもあります。 ロビーに置かれた鬼瓦(左奥)と龍の彫刻です。 本堂の屋根に乗っていた鬼瓦で120kgあり、あまり重たいため修復工事後は、もっと軽い瓦に替えるそうです。 ロビーに陳列された本堂の襖絵の複製です。撮影して良いのはここまで。地下の宝物館内は撮影禁止です。 仙台藩祖伊達政宗の椅像です。政宗は現在の瑞巌寺を建立した人。彼は幼小時の天然痘で片方の目が見えませんでした。政宗の遺言で画像や彫刻には両目を入れるのが普通ですが、この木像は正室の愛姫が政宗を偲ぶために造らせたもので、隻眼(片目)のままの姿になっています。パンフレットから借用した写真です。 パンフレットから借用した大脇差です。 パンフレットから借用した水晶製の舎利容器です。このほかにもたくさんの宝物が展示されていましたが、紹介出来ないのが残念です。珍しい円空仏も初めて見ました。全国を流浪しながら鉈で仏像を彫った円空。くっきりと彫り痕が残る素朴な仏像が特徴ですが、瑞巌寺のものは堂々たる姿でした。ただ長年の虫害で、折角の姿が一部朽ちていたのが惜しまれます。 雪の境内と塀。後には鬱蒼とした杉の木立が見えます。これで瑞巌寺の見学は全て終了です。 今回は解体修復工事中で見学出来なかった本堂の姿です。これも政宗が建立させたもので、国宝に指定されています。パンフレットから借用しました。ここから歩いてJRの駅に向かいます。 何気なく裏道で雪かきしている人を見たら、高校時代の同級生Mでした。彼は瑞巌寺の付属寺院の一つであるT院(政宗の長女、五郎八=いろは姫の菩提寺)の住職をしています。思いがけない出会いでしたが、これも何かの縁でしょうね。 何年か前、彼の寺を訪ねたことがありました。その時五郎八姫の厨子を開帳して、中を見せてもらいました。その扉の内側には、当時はとても珍しいバラの模様と十字架が描かれていました。五郎八姫は隠れキリシタンだったのです。夫であった松平忠輝は父家康の不興を買って、越後高田100万石から国替され、五郎八姫も離縁されたのです。きっとその苦しみを、この松島で癒していたのではないでしょうか。 8回に亘って紹介した「雪の松島を訪ねて」シリーズも、これで終了です。最後までお付き合いいただき、心から感謝しています。<完>
2016.02.07
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<愛姫の霊廟・宝華殿へ> これは瑞巌寺境内の図面です。1の庫裏と2の大書院(仮本堂)を見学し、これから少し離れた山の上にある宝華殿(3)へと向かいます。宝華殿には政宗の正室である愛姫(めごひめ)が眠っているのです。 この岩を刳り抜いたトンネルを潜って行きます。トンネルの向こうで雪かきをしている寺の職員が見えました。 「雪吊り」した庭木が見えます。雪の重みで枝が折れないための補強です。 竹やぶの間から雪の塔頭(たっちゅう=付属寺院)が見えました。 竹の塀です。雪を被って一段と趣が増しています。 宝華殿への参道です。 坂道の向こうに大きな杉林が見えて来ました。もうすぐ宝華殿に到着です。 石段の上に宝華殿が見えます。 愛姫(1568-1653)は政宗の死後剃髪して陽徳院となります。遺体は万治3年(1660年)孫の綱宗(第3代仙台藩主)によって造営されたこの宝華殿に眠っています。 平成18年から3年をかけて創建当初の豪華絢爛な姿に復元されました。外面すべてが黒漆で塗られ、桟唐戸や蟇股は金や極彩色に彩られ、飾金具も復元されました。国の有形文化財に指定されています。 パンフレットから借用した全景です。宝形造り、堂板葺き9尺(2.72m)四方の周囲に勾欄(こうらん=手すり)付きの回廊を巡らし、正面に向拝と木階を備えています。内部は三方板壁で金箔を貼り、天井などには極彩色の花が描かれ、須弥壇に念持仏と政宗・愛姫夫妻の位牌が安置されています。 パンフレットから借用した愛姫(陽徳院)の座像です。眉目秀麗、才色兼備の夫人の面影を良く表しています。この像は生前の慶安3年(1650年)に制作され、現在は青龍殿(宝物館)に置かれています。 愛姫は田村家の出自。征夷大将軍坂上田村麻呂の末裔と言われる名家の一人娘として生まれ、政宗に嫁しました。父の田村清顕は現在の福島県田村市周辺を治めていた戦国武将でしたが、政宗の取りなしで秀吉の小田原征伐には参陣しませんでした。そのため「奥州仕置」では本領を奪われて政宗に与えられ、田村氏は絶えてしまうのです。また謀反を恐れた政宗によって、愛姫の乳母や侍女達までが殺されてしまいます。愛姫は長くそのことを恨んでいたようです。 愛姫は長らく子供を産まず、側室が生んだ長男秀宗が後年伊予宇和島藩10万石の城主となります。ところが35歳の時に長女五郎八姫(いろは=家康の子松平忠輝室)を産んだ後、嫡子の忠宗(第2代仙台藩主)などを産むのです。今なら相当の高齢出産でした。まさに執念ですね。ところが彼女の執念はそれで終わらず、孫の宗良(忠宗の三男)を一関藩主として田村家を再興するのです。大河ドラマ「独眼竜政宗」では政宗を渡辺謙が、愛姫を桜田淳子が演じました。 扁額「宝華殿」の文字は第109世住職の筆によるもの。 霊廟の裏面です。黒漆が実に美しいですね。 仙台伊達家三代藩主綱宗が祖母の菩提を祈って建てた宝華殿の素晴らしい姿は、明日も続きます。<続く>
2016.02.07
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<庫裏と大書院(仮本堂)内部> 今日も国宝庫裏の正面の写真から入ります。江戸初期に仙台藩祖伊達政宗が建てた建築物です。 庫裏の上部のアップです。屋根の上に「煙出し」が見えます。ここはかつて寺の台所として使用されていたのです。昨日は内部の様子を一部紹介しましたが、今日は宗教施設としての寺をじっくり見ていただこうと思います。この寺は創建当初の平安時代は延福寺と称し、宗旨は天台宗でした。それが鎌倉時代には臨済宗建長寺派の円福寺となり、戦国時代には同じ臨済宗でも妙心寺派に属し、瑞巌円福禅寺と3度名前を変えたのです。 庫裏の玄関を入って直ぐに目につくのがこの光雲観音です。そう言う名前の観音様が居る訳ではなく、作者の名前を採ったのです。作者は詩人で彫刻家だった高村光太郎の父、高村光雲(1852-1934)です。江戸時代に生まれた彼は仏師として暮らしていました。だが明治期に入ると仏像の注文が急激に減って、暮せなくなったのです。そこで止むなく、彫刻家としてデビューすることになったようです。 光雲観音の胸部です。 観音の顔をさらにアップしました。 歴代住職の位牌が庫裏の中に安置されていました。これは一部で、他にもたくさんあるようです。恐らくは本堂が解体修理中なので、臨時的にここに置かれたように思うのですが。 暗がりに小さな仏像が立っていました。良く見えませんが、毘沙門天でしょうか。 こちらは廊下の片隅に置かれていた地蔵尊の木像です。 地蔵尊の拡大図です。 庫裏内の裏部屋に、小さな不動明王が置かれていました。いや閻魔大王かな? それをズームアップしてみました。 ここからは大書院の中です。今は仮本堂として使用されています。「瑞巌円福禅寺」は現在の正式な名称で、戦国時代以降の扁額であることが分かります。 これらの襖絵は本来本堂にあるものの模造のようですね。 それでも目の前で観られることは貴重です。本堂解体修理期間中だけの特別拝観のようですから。 パンフレットから借用した大書院の写真です。 瑞巌寺を隆盛させた3人の高僧達の木像です。 こちらはパンフレットの写真を借用しました。 左は仙台藩主伊達政宗の、そして右側は第二代藩主忠宗の位牌です。2人の遺体は仙台市青葉区霊屋(おたまや)の霊廟(政宗は瑞鳳殿)に安置され、瑞巌寺には位牌しか置かれていないのです。 2人の位牌に寄り添うように、小さな仏像が立っていました。 「開」と書かれた衝立です。ここ大書院には、歴代の住職の書画が飾られています。 これも飾られている作品の一つ。達磨像でしょうか。<続く>
2016.02.06
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<瑞巌寺の庫裏と大書院> さて、ここからは瑞巌寺の建物に入ります。入場料は700円。国宝の本堂は本格的な修復工事中のため見学出来ず、庫裏(台所)と仮本堂として使用している大書院などが見学出来ます。 門越しに観る庫裏(くり)の姿。 今通って来た門を振り返ると、雪を被った杉並木が見えます。 門の裏面です。 庫裏の正面です。これは正面が13.8m、奥行きが23.6mもある台所です。大屋根の上には煙出しが載っています。本来は実用本位の建物ですが、政宗は建物に唐草や花肘木の彫刻を施すよう命じました。そこに政宗の美意識が垣間見られます。昭和34年(1959年)国宝に指定されています。 庫裏の玄関内に置かれていた藁靴。かつて使用されていたものでしょうか。ちょっと不思議です。 庫裏の内側に飾られていた餅花です。きっと小正月用のものでしょうね。 こちらはもう一つの餅花。白い壁と黒い木材の対比が美しいですね。 庫裏の天井です。この上に煙出しが載っています。昔はここで炊事したのでしょうが、今では台所としては使用されていません。 廊下と天井です。かなりの高さであることが分かります。 寺の中で僧侶は、沈黙を守る必要があります。これは修業時間の合図用の板でしょうか。 建物の中は暖房が無く、とても冷たいです。それもそのはず、戸が開いて雪の庭が見えます。 修業中の僧侶は冬でも素足です。私達は靴下を履いてますが、それでも足が冷えて来ます。 左は恐らく食事の合図用の板と思われます。右は住職用の駕籠(かご=乗り物)でしょうか。 またまた廊下の戸が開いていて、雪の庭が丸見え状態です。 新しい建物である大書院が見えます。これを現在は仮本堂として使用しています。(本堂は工事中) すべてこれまで使用されていた飾り金具です。瑞巌寺の華麗さが分かりますね。 左は大書院にあった太鼓。右は大書院の襖絵として描かれた羅漢図です。<続く>
2016.02.05
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<瑞巌寺の境内1> 瑞巌寺(ずいがんじ)の門前に戻りました。左の石標には「国宝瑞巌寺」と彫られています。右は境内に立っていた標識で寺名の由来について書かれています。 そしてこれが山門の左右に懸けられていた看板です。 扁額には「桑海禅林」とあります。「桑の海」はこの世、「禅林」は禅の道場と言う意味。つまり瑞巌寺は修業の場であることを世にアピールしているのです。 境内に入ると早速目の前に岩窟が見えて来ます。この寺は平安時代の初期天長5年(828年)に慈覚大師円仁によって開基された天台宗の寺で、延福寺と称されていました。鎌倉時代の中期13世紀半ば、執権北条時頼が法身性西和尚を開山とし円福寺と改称、臨済宗建長寺派の禅寺として生まれ変わりました。 円福寺は鎌倉幕府の庇護のもとに大いに栄え、室町時代も五山十刹制度の十刹に位置づけられ末寺と共に発展したのです。だが戦国時代になると寺運は衰え、戦国末期には妙心寺派に属することになりました。 江戸時代の初め、仙台藩主となった伊達政宗は幼少時代からの恩師である虎哉禅師の勧めにより、現在の大伽藍を完成させました。さらに寛永13年(1636年)政宗の遺言により松島に招かれた雲居禅師の努力により、奥羽でも指折りの禅寺となったのです。周囲には現在も残る円通院、陽徳院、天麟院などの寺院も建立されました。 岩窟はまだ天台宗だった頃、ここにたくさんの僧が籠って修業していたのです。 ガイドさんの説明によれば、その厳しい修業の場も数百年後には規律が乱れて来たとのことでした。 左は修行僧専用のトイレです。昔は「ご不浄」とも言いましたね。用を足した後は海岸の砂を被せた由。それがたくさん溜まると始末したのでしょう。 今は無人の洞窟ですが、一頃は大変な数の修行僧がここに籠って一心不乱に読経していたのでしょうね。 自然の岩山に石碑が2段に刻まれています。 岩山を見上げると、小さな祠がありました。これは神仏混淆だった時代の名残でしょうか。 中には崩落してしまった岩窟もあります。最近の度重なる大地震のせいでもろい岩山が崩れ、境内のあちこちで補修工事が行われています。 境内の杉並木です。この巨木も度重なる塩害で枯死するものが増えて来ています。遥か樹上には「セッコク」が宿り、季節になると美しい花を咲かせます。 雪を被った地蔵尊です。 工事現場の向こうに国宝の庫裏(台所)が見えて来ました。<続く>
2016.02.03
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<観瀾亭と松島博物館> 1月24日日曜日。私は電車に乗って松島へ行きました。前日は雪。これなら雪の松島が撮れそう。そう思ってのことです。松島海岸駅で降り、先ずは海岸や雪を被った島々を撮りました。(第1回)次に雪の五大堂を撮りました。(第2回)そこから15分ほど雪道を歩いて行ったのが観瀾亭です。ここには松島町立の小さな博物館も併設されています。 左が観瀾亭の入口です。右の階段を登って行きます。入場料は200円。これで博物館も観ることが出来ます。 何とも趣がある扁額(へんがく)ですねえ。 松島御仮屋御殿図 この建物は安土桃山時代の文禄年間に伊達政宗が豊臣秀吉から拝領した伏見城の一棟です。政宗は徳川の世になってから、これを江戸品川の藩邸に移築したのです。それを分解し、船でこの地まで移したのが二代藩主の忠宗。さらに五代藩主吉村によって「観瀾亭」と名付けられました。 藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ばれましたが、藩主やその家族の松島遊覧時、幕府巡検時の宿泊接待の場である「仮御殿」としても利用されたようです。現在では松島町の所有になっています。 建物は東西方向に向き、京間18畳2室からなり、四方に緑を巡らせた明快な構造です。柱間1間6尺5寸の京間であることや緩やかな屋根の特徴などから、桃山時代の建築であると考えられています。 手前の座敷。縁側で休憩が出来ます。 縁側には政宗の遺訓が置かれていました。 見事な襖絵のある奥の座敷は、遠くから望遠で影響の出ないよう撮影です。 阿吽の龍。ここからは裏の松島博物館の紹介です。この双龍は、仙台にある伊達政宗の霊廟瑞鳳殿の屋根を飾っていたものでしょう。空襲で霊廟が焼け落ちた時に、この龍を観瀾亭へ運んだものと思われます。瑞鳳殿の資料室にも同じ龍のレプリカがあります。 この水盤も元々は瑞鳳殿に奉納されたものです。戦災に遭った後、この観瀾亭に移された江戸時代の名品です。 松島屏風図です。江戸時代中期に上方で制作されたと思われます。松島湾内の島々が細かく描かれています。瑞巌寺の境内には、今では失われた幾つかの塔頭(たっちゅう=付属寺院)が描かれており、貴重な証です。 畳んだ「八幡旗」(左)と「亀岡八幡大神旗」(右)です。政宗は鎌倉の鶴岡八幡宮の神霊を仙台城下の亀岡に分祀し、戦勝の神として崇めたのです。 小室達作のレリーフ「政宗騎馬像」。これと同じ作品が青葉城天守台の巨大な政宗騎馬像の台座にはめ込まれています。 これは政宗直筆の書状。幼い時から学問に励んだ政宗の筆跡はいかにも雄渾ですね。 軍扇(左)と陣羽織(右)。陣羽織の九曜紋は伊達家の家紋の一つです。 徳川の家紋である「三つ葉葵」が入った印籠(左)と伊達家の甲冑(右)。 貝合わせです。伊達家の姫君達が遊んだものでしょうか。 松島湾の西ケ浜貝塚から出土した大型の縄文土器です。焦げた痕跡があるので、製塩に使われたのかも知れません。この周辺には縄文時代の製塩遺跡が多数残っています。後に塩竃神社へ奉納される塩も、松島湾の内外で作られています。 雪の生垣です。ここから再び歩いて次の訪問地である瑞巌寺へと戻ります。観瀾亭と松島博物館で気になったのが、展示品の管理。ほとんど無人状態の中で貴重な文化財が置かれていたことに驚きました。盗難に遭わなければ良いのですが。<続く>
2016.02.02
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<雪の五大堂> 松島へ行ったのは、雪の五大堂を撮りたいためでもあった。松島海岸の直ぐ傍にある小島。その島に小さなお堂がある。小型の漁船に雪が積っていた。 島に近づくと、五大堂の屋根が見えて来る。 小島との間に、赤い橋が架かっているのが見える。後で渡る「透かし橋」だ。 これは島の東側から見た透かし橋。右手に「特別名勝松島」の石碑が立っている。 こんなに岸に近い島なのに、長年の波の浸食で岩肌がすっかり削られている。 これが透かし橋。これを渡って五大堂に行くのだが、足元の隙間から海が見える。これは緊張感を持って参拝するための工夫らしい。 手前の島にある小社もすっかり雪だ。 橋の欄干から見る福浦島 2つ目の透かし橋とその先の小島にある五大堂。 ようやく雪の五大堂が姿を現した。 この小さな堂宇である五大堂は、瑞巌寺に所属している。伝承によれば平安初期の大同2年(807年)征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州の蝦夷征伐の際に毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。その後平泉の中尊寺や山寺立石寺を開いた慈覚大師円仁が瑞巌寺の前身である円福寺を創建した際、この小島に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に五大明王を安置したことにより「五大堂」と呼ばれることになった由。 現在の堂宇は慶長9年(1604年)、仙台藩主伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建した東北地方で最古の桃山建築で、国の重要文化財に指定されている。中に安置された五大明王像はケヤキの一木造りで平安中期の作。同じく国の重要文化財に指定され、33年に一度開帳される。前回の開帳は平成18年(2006年)であった。 左は「五大堂」の扁額で、右は堂宇の扉。 建立当時は極彩色が施されていたであろう堂宇も長年の海風ですっかり色彩が剥落し、元の白木に還ってしまった。まさに盛者必滅の様相を呈している軒下。 歳月の経過を物語る屋根と軒。 軒下には十二支の動物が全て彫られている。左甚五郎の作らしいが真偽のほどは分からない。左は子(ねずみ)で右は丑(うし)。 今年は申歳なので、猿だけ大きくしてみた。因みに私は今年年男である。 手水鉢(左)にも雪が積っている。右は石灯籠と松島の島々。 五大堂を正面から見る。 再び2つの透かし橋を渡って、次の訪問地である「観瀾亭」へと向かった。<続く>
2016.02.01
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1月24日日曜日。妻は早朝5時半にタクシーを呼び、青森へ旅行に行った。私はいつも通りブログを更新し、朝食を摂った後バス停へ向かった。外は一面の銀世界。暖冬と言われながらも3度目の雪。バスの中から見える街も、真っ白な雪景色ばかり。 仙台駅前で降り、そのまま地下の「青葉通り駅」に入る。ここは仙台と石巻市をつなぐ仙石線の始発駅。ここから乗るのは初めてだが、仙台駅まで歩く必要がなくて助かった。今日は松島を訪れる予定。天気予報では前日から雪なので、きっと素晴らしい雪景色が撮れるのではないか。そんな期待をしながら私は電車に乗っていたのだ。 陸前浜田駅周辺から雪の松島が見え始めた。松島海岸駅で降り、観光船乗り場付近に向かう。想像以上の雪の量。これは仙台よりも多そうだ。駅前の店にカキの殻が積んであった。客寄せのためだろう。松島湾ではカキや海苔の養殖が有名。厳寒期の今は、もっともカキが美味しい季節だ。町の人達が懸命に雪かきをしているが、そのまま雪が残っている箇所も多い。国道を渡って海に近づく。 最初に撮った景色がこれ。江戸時代に俳人の松尾芭蕉が弟子の曾良と一緒に東北を旅した。それを数年後に著したのが有名な「奥の細道」だ。う~む。これは絵になる。今日は良い写真が撮れそうな予感。私は喜んで雪の中をどんどん歩いて行った。 観光船乗り場は閑散としていた。これだけの雪だし、朝なので観光客もまだ少ない時間帯だ。桟橋には行かず、入口付近で雪を被った船を撮った。 これも同じ場所から、少し遠くを撮ったもの。左の奥に見える小島が雄島(おしま)。奈良時代から鎌倉初期まで、修行僧が立て籠っていた聖なる島だ。そこまで2kmほど歩けば良い写真も撮れるだろうが、今日は行く暇はないと判断。 左手に雪を被った福浦島が見えた。あの島には縄文時代の遺跡があると聞いているが、もう50年ほど行っていない。その島に架かるのが福浦橋。いつもなら赤い欄干が鮮やかなのだが、今日は雪を被って良く見えない。 こちらは「日本三景」の石碑。京都府の「天橋立」、広島県の「安芸の宮島」、そしてここ松島の3か所が日本三景として昔から有名。 この高い石碑には「特別名勝」と彫ってあるのだが、写真が暗くて良く見えない。石碑の奥に見えるのが福浦島だ。 海の上にはまだ厚い雪雲が横たわっている。その下に雪をいただいた松島の小島が点々と見える。 これは少し離れた場所から撮った似たような風景。 これは海岸の直ぐ傍の島。雪を被った風景は最高。やはりこの日に来て良かったと思う。 「五大堂」のある島から観光船乗り場方向を見ている。 これも五大堂から観た松島湾の風景。 五大堂から福浦橋と福浦島方向を観る。 観瀾亭から観た松島湾。雪のためにすっかり色が消えて、モノトーンの松島。まるで水墨画のようだ。この日に撮った写真は170枚ほどになった。それをこのシリーズでどう紹介すべきか悩んだのだが、結局は私が歩いた順番に近い形で見せるのが素直なのかも知れないと思った。<続く> 昨夜のサッカーリオオリンピック予選決勝戦、私は前半だけ見て眠ってしまった。韓国に先制され0対1のビハインド。これは負けたかも。そう思って寝たのだが、今朝起きてPCを開いたら3対2で逆転勝利。これには全く驚いた。後半2分にも追加点を取られて0対2.よくそこから逆転勝利したものだ。おめでとう手倉森ジャパン。弱い弱いと言われ続けたこのチームが、ついにアジアチャンピオンになったのだ。良く頑張ったね、選手達よ。
2016.01.31
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大雪が降った翌日、私は長靴を履いて少し遠くまで写真を撮りに出かけました。これだけ降るのは仙台でもあまりありません。それに運動にもなるかと思ったのです。 坂の途中から、遠くの団地が見えました。暖冬傾向にありましたが、本来の冬到来ですね。 約4km離れた太白山も、雪に覆われています。 今下りて来た坂道を振り返ると。 電話ボックスの前に、除雪された雪の山が。 広い畑も一面の雪です。 白菜がすっかり雪に埋もれています。 小さな谷川はZ川の上流部です。 通行止めの看板。しばらく雪がなくて役に立っていなかったのですが。 看板の脇をすり抜けて、山道を登ってみます。 ここが分岐点。車は通行止めですが、人は通行可能です。 この坂道がいつも凍結します。傾斜がきつく、車はスリップして危険です。 登って来た山道を戻ります。下りは違った風景が見られますね。 山林の中にも深い雪。 樹木の幹にも雪が残っています。 北国の樹木は、こうして冬の寒さに耐えているのです。 これでも大部分の雪は、落ちてしまったのでしょう。 雪の上に落ちた枯れ枝です。 枯葉が真っ白い雪の上に一枚だけ。 細い笹が雪の中に立っています。 アイビー(ツタ)の周囲は雪が融けてますね。 小さなアオキ。生きている物の周囲は熱で雪が融けるのでしょう。<不定期に続く>
2016.01.22
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1月16日土曜日。仙台ではうっすら雪が積もりました。我が家の近辺では今季の初積雪でした。いつもの年より3カ月近く早い椿の花にも雪が積もっています。 近所の白い南天の実。 これは我が家の南天です。 雪を被った山茶花が寒そうですねえ。 近所のピラカンサスの真っ赤な実と白い雪。 2階から見た畑(左)とブロッコリーに積った雪(右)。 1月18日月曜日。全国に大雪が降りました。朝、窓を開けると一面の銀世界です。仙台気象台発表の積雪は7cmでしたが、我が家の近辺ではその倍ほど積り、この日は2回雪かきをしました。東北新幹線や仙台空港発の飛行機が休止し、東北道の一部で通行止めとなり、バスの運行中止が多く、一部の大学と高校が休講となるなど大混乱の一日でした。 ベランダから見えた近所の様子。 雪に埋もれた車1。 雪に埋もれた車2。 我が家(手前)とお向かいさんの車。 この日の畑は、すっぽりと雪に覆われています。 雪を被った白菜(左)と東側の畑(右)。 雪の重みで倒れる南天です。 暖冬で発芽したアイリスも雪の中です。 シャラの樹(左)と郵便受け(右)。 雪を被る2基のソーラー灯。右の方は雪が積もって暗いせいか、点灯しています。 近所の小川も真っ白ですねえ。 近所の風景。雪原と家々です。 最後は我が家のユズの樹です。この日はかなり疲労感が残りました。水分の多い雪はとても重く、2回の雪かきで疲れてしまったようですね。<続く>
2016.01.21
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仙台市青葉区八幡にある大崎八幡宮は藩祖伊達政宗公の命によって創建された桃山様式の神社。社殿は国宝に指定され、その境内で行われる松焚祭(どんと祭)は300年の歴史を有しています。夕方4時半に神官によって点火されたどんとは、今盛んに燃え盛っています。高さ4m、周囲40mにも及ぶ日本一のどんとの周りには専門の係が、厳重に火を管理しています。 この日の参詣者は10万人に上ったそうです。 一方裸参りの団体は110団体で、参加者は3200名に上った由。 拝殿で祈祷を終えた善男善女は、黙々とどんとの周囲を廻ります。 どんとは年神様を天に送る清浄な火。この火に当たって1年間の無病息災を祈ります。 どんとの火もこれで見納めです。来年までさようなら。 帰途に就く私を尻目に、続々と詰めかける裸詣りの人々。 周囲には夕暮れが迫っていましたが、裸詣りの本番はこれからです。 今回は初めて最寄りの地下鉄駅(国際センター駅)まで無料の送迎バスが運行されていました。その車中から見た光景です。裸詣りの人々がまだ次々と大崎八幡宮に向かって黙々と歩いていました。皆さん風邪引かないようにね~!!<完>
2016.01.18
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さて、大崎八幡宮の境内に集められた正月飾りは4m近い高さにまで積み上げられています。周囲の長さは約40m。これは日本一の規模とのことですよ。 夕方の4時30分。神官が祝詞(のりと)を読み上げて、いよいよ松焚祭(どんと祭)の始まりです。 実はバスを降りて最初に目にしたのは神社でも神官でもなく、裸詣りの一行でした。この日裸詣りを挙行したのは合計で110団体、延べ3200人に上ったそうです。 裸詣りをするのは男性だけとは限りません。勇気ある女性達も白装束に身を固めて黙々と歩いていました。 一行は手に持った鐘をカランカランと鳴らしながら歩いています。 この日の最高気温は5度でしたが、夕方には0度ほどまで下がっていました。 お参りする方も寒いでしょうが、観てる方まで寒くなりますね。 女性達も弱音を吐かず、凛とした姿でお参りしていますね。 大崎八幡宮付近の商店では裸詣りの装束を揃えてくれ、そのマネキン人形が立っています。 ようやく大崎八幡宮に到着です。石段の下では、裸詣りの人々が登る順番を待っています。 ここから長い石段。口には「含み紙」を咥え、穢れを払っています。提灯には灯りが点ります。 裸詣りのルートは一方通行で、団体がかち合わないようになっています。 その頃にはどんとに火がつけられ 担当の職員が厳重に火の管理をしています。 次々に裸詣りの団体が押し寄せています。 真剣な表情の女性達。神々しい姿です。 境内には入ったものの、祈願を受ける拝殿はまだこの先です。 拝殿の横で、静かに祈願の順番を待っています。おお寒そう!! 拝殿での参拝を終えると口から「含み紙」が外れ、少し寛いだ表情になります。そのまま帰途に就く団体もありますが・・ ほとんどの団体は「どんと」の火に当たってから帰ります。 この火に当たると1年間無病息災で過ごせると言われています。 中には冷えた背中を暖める人もいます。 でも裸で火に近づくと熱いみたいですよ。 2周3周して暖を取る団体もありました。まだまだ善男善女の列は続きます。<続く>
2016.01.17
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「れきみん秋祭り」を連載中ですが長くなります。そこで先日取材した大崎八幡宮のどんと祭と裸詣りを割り込ませていただきますね。 一の鳥居と扁額 「大崎八幡宮」は仙台の旧市内西部、青葉区八幡にあります。元々は征夷大将軍坂上田村麻呂が、現在の岩手県奥州市水沢区に九州の宇佐八幡宮を勧請して鎮守府八幡宮を創建したのが始めです。これを室町時代に奥州探題となった大崎氏は現在の大崎市田尻に遷祀し、尊崇していましたが伊達政宗に滅ぼされます。 政宗はこれを悼み、当時の居城であった岩出山に大崎八幡宮として遷移しました。後に岩出山から仙台城に移った際、多くの寺社と共に大崎八幡宮も遷移したのです。こうして現在地に移されたこの神社は「仙台総鎮守」として、これ以降仙台の人々に尊崇されることになりました。 石段前の風景 1月14日。「小正月」のこの日、大崎八幡宮の境内では、神事の松焚祭が行われます。これは神社の行事としての正式名で、市民の間では「どんと祭」として親しまれています。お正月飾りを持参した市民がどんとの火に投げ入れ、無病息災を祈ります。また商売繁盛、家内安全を祈って市内の善男善女が裸参りを挙行するのもこの日です。 「長床」前の風景。他の神社の神門に相当します。江戸初期のもので、国の重要文化財に指定されています。 長床の裏面です。 長床に懸けられた垂れ幕です。 奉納された神馬の絵馬です。(長床内) 奉納された弓矢です。(長床軒先) 奉納された造酒(左)と仙台名物の縁起物「松川だるま」(右)です。 拝殿 大崎八幡宮の社殿は仙台藩祖伊達政宗公の命により、慶長9年(1604年)から3年間をかけて創建した桃山様式の建造物です。旧豊臣家お抱えの巨匠を招いて建造された社殿は、随所にきらびやかな金具と黒漆で飾られ、極彩色のます組みは桃山建築の真髄として、建物全体が国宝に指定されています。 拝殿の一部(左)とその内部(右)です。 拝殿の側面です。 拝殿の軒下です。 (参考資料:パンフレットから)左は拝殿主要部。右は軒下のます組みです。 御神体遷座図(慶長12年作、参考資料:パンフレットから) 拝殿格天井の格子絵(参考資料:パンフレットから) 社務所と神職。 巫女(左)と縁起物の破魔矢(右)。 参拝客(左)と引いた御神籤を結んだ枝(右)。 境内の「八幡石」(左)と社務所の富士山の絵(右)。 参拝客で賑わう境内と、延々と続く屋台の群れ。この日大崎八幡宮を参拝した客は10万人に達したそうです。<続く>
2016.01.16
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昨年の10月下旬、私は仙台市歴史民俗資料館を訪ねました。ここで「れきみん秋祭り2015」が開かれることを知っていたからです。参加するのは初めてでしたが、宮城県内などの伝統芸能が観られると喜び勇んで出かけたのです。会場の公園には何やら屋台が並んでいます。そして芝生では伝統芸能が間もなく始まりそうですよ。 先ずは公園内に設置されたお店屋さんの方からご案内しましょう。最初は仮面屋さんのお店でした。 ここは「おいしい屋台」のコーナーです。昔懐かしい「芭蕉煎餅」が並んでいました。芭蕉の葉のように大きな「せんべい」なんですよね。これは仙台独自のお菓子かなあ?江戸時代から中心街には「芭蕉の辻」と言う四つ角もあったんですよ。 今でこそ寒さで震えていますが、この頃は結構気温が高く、かき氷屋さんも出ていたのです。 女の子が頼んだのは、青いシャーベットでした。 こちらはタコ焼きの店先。美味しそうな匂いが漂っています。 最後は焼きそばの店。ソースの匂いがプーンとしていましたよ。 伝統芸能の合間に歴史民俗資料館に入ると、伝統工芸の実演をやっていました。この日は仙台箪笥(たんす)の飾り金具のベテラン職人、八重樫榮吉さんの実演でした。 暗がりの中で八重樫さんが懸命に作業していました。金属に「たがね」を当て、金槌で丹念に叩いています。 下書きと完成した彼の作品です。 見事な龍です。 これも龍ですね。 これは唐獅子でしょうか。 繊細な鹿の姿です。 唐子(からこ:中国の童子)です。 牡丹の花です。 菊の花です。これらは漆塗りのケヤキの箪笥に釘で打ちつけられ、飾りになるのでしょうか。多分このままではなく、重厚な色を塗られるように思うのですが。明日からは各地に伝わる伝統芸能(舞)をご紹介しますね。どうぞお楽しみに~!!<続く>
2016.01.13
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1月6日(水)は毎年消防出初式がある。これはブログネタの取材にはちょうど良いかも。そう判断して、私は会場へ向かった。式典の後に消防音楽隊のマーチングバンドなどがあり、その後市民広場に登場したのが市内7つの消防団員だった。彼らは各団ごとに梯子を持って入場して来た。これから始まるのが「伝統梯子乗り」だ。 1)梯子の上にすっくと立つ消防団員。 2)以下見事な演技をたっぷりとご覧あれ!! 3)これらは「江戸火消し」の流れを汲む伝統芸。 4)いなせな「木遣り節」の歌声に乗っての演技が続く。 5)梯子の高さは8m近く。言ってみれば2階の屋根の上に立っているようなものだ。 6)市内の7つの消防団が、この技を受け継いでいると言うから凄い。 7)背景の建物は、市役所の庁舎だ。 8)左は宮城野消防団の提灯。 9)そして右は青葉消防団の纏(まとい)だ。 10)梯子に乗っているのは全員が若い団員みたい。 11)東日本大震災の時、海沿いの消防団の中には職務で亡くなった団員も多かったと聞く。 12)そんなこともあって団員数は不足気味。目下募集中のようだ。 13)演技前の消防団員。 14)寛ぐ団員の姿。 15)空中では団員たちの熱演が続いている。 16)お~い。梯子の上は寒くないか~い? 17)そんな恰好をして、怖くはないのか~い? 18)あっちの梯子でも、こっちの梯子でも頑張って演技している団員たち。 19)まあ、そんなところで倒立ですか~!! 20)こっちなんか、すっかり反り返っているもんなあ。 21)こちらは足だけで体重を支えているよ!! 22)出動前の団員たち。 23)こちらも出動前の団員たちの姿。 24)2人1組での演技。 25)まあスリル満点の演技だねえ!! 26)これは2人の息がぴったり合わないとね。 27)市役所の庁舎を背景にして続く熱演。 28)おおっ、何か垂れ幕が見えるぞ? 29)やっぱり消防団だけあって、最後は「火の用心」だよね!! 30)最後は敬意を表して太白消防団の纏。これが私の住む町を火事から守っている。どうも有難うね~!! さて昨日は26枚の写真を載せ、今日は30枚の写真を載せましたが、まだ許容量には達してないですねえ。やはり楽天ブログの「改善案」は本物だったみたい。私など容量が大幅に余っているので、大いに活用しないとねえ♪<完>
2016.01.10
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1月6日(水)、仙台市消防局の出初式があった。これはブログ用の写真を撮るには持ってこい。そう判断し、予めHPで時間と場所を確認して、バスで街へと向かう。場所は市役所前の「市民広場」。これは40年来変わってないはず。会場に近付くと隊列が見えた。この日集合した隊員らは、合わせて1150名だった由。 出動した防災ヘリコプターは1機。 そして出動した消防車両は合わせて32台だったそうだ。 壇上で挨拶する奥山市長(女性)も消防用の制服に着替えている。 消防署員の整列。 市内各消防署の団旗が見事。 こちらは消防音楽隊。 整列する消防団員。市内の消防団は7つで分団は56.団員数2121名、保有車両は120台とのこと。 消防団女子隊員。 待機する消防音楽隊。この際なぜ消防署に音楽隊が必要かなどと、野暮なことは言わないでおこう。 演奏中の消防音楽隊。やはり格好良いね♪ 消防音楽隊の演奏をバックにしてカラーガード隊員によるドリル演技 華麗な演技に拍手が起きる。 大型の梯子車が待機中。 いよいよ梯子車による訓練が始まる。 これは市役所の5階からロープで垂直に下りる訓練。8階からロープで斜めに下りる姿は、あまりに速度が早過ぎてシャッターが押せなかった。 梯子車から救助に向かう隊員。 隊員の救助訓練風景。 仙台市議会議場の壁をよじ登る消防隊員。 消防団員の入場。 梯子を持ったいなせな姿だが、団員数は東日本大震災のためにかなり減った由。 おおっ!梯子を立てたよ。さて今から始まるのは何? この日、市役所には羽生結弦選手の健闘を讃える看板が出ていました。彼は仙台市の出身ですからね。右は私。この日の服装は、寒さに備えて「完全装備」でした。<続く>
2016.01.09
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<リースとおもちゃ> 昨夜のクリスマスイブはいかがお過ごしだったでしょうか。私は一人自室に閉じ籠って、ケルティック・ウーマンの美しいクリスマスソングを聴いておりました。さて、このシリーズも、いよいよ最終回になりました。今日は仙台の街で見かけたリースと、玩具をテーマにお送りしますね。 最初は松ぽっくりがたくさんついた、まるでドーナツみたいなリースです。 夕暮れの結婚式場の柵に飾られたリースです。 金の鐘がついたクリスマスらしいリースはいかが? これも松ぽっくりがいっぱい!! 真っ赤なリンゴの大収穫ですよ~♪ ここからは玩具。最初はクマのサンタさん登場。 たくさんのシロクマが可愛いな。 クマさんの兄と妹が仲良く。 ヘ~イ ミッキーカモーン!! こちらにも税揃い。ここはオフィシャルグッズのお店なんですよ。 ふふふ。クリスマスは楽しいな♪ 松ぽっくりと赤いリボンのリース。 結婚式場のリースも再登場。 こちらのリースは、リンゴと花と松ぽっくり。 アーケード街の天井にも巨大なリースが。 銀のリボンと小人さんのリースです。 こちらは金色の飾りと金の星が。 「仙台光のページェント2015」を含めて7回に亘ってお送りしたこのシリーズもこれで終了です。最後までお付き合いいただいて、どうもありがとうございます。では皆さんご機嫌よう!! <完>
2015.12.25
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クリスマスツリーとサンタさん メリークリスマス♪ 今日はクリスマスイブですね。夜中に目覚めてしまったので、一足早く、クリスマスムードに浸っています。ご存知の通りクリスマスはイエス・キリストの生誕日ですが、北欧ではそれ以前に冬至のお祭りをしていたそうですね。日が長くなる冬至を境にして、新しい年への期待や復活への期待が大きかったのでしょうね。今日はクリスマス・イブを祝って、クリスマスツリーとサンタクロースの特集にしました。どうぞお楽しみくださいね~。 あるデパートの入口にあるライオンにも、サンタの服が着せられていました。 仙台四郎のサンタです。裕福な家に生まれた仙台四郎は幼児のような知能しかありませんでしたが、いつもノコニコ笑い、彼が訪れた店はどこも繁盛したそうです。今でも仙台の商店では、彼を「福の神」として崇めているのです。 どうぞ皆様も素敵なクリスマスをお迎えくださいね。改めてメリークリスマス。 <続く>
2015.12.24
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<デコレーション> デコレーションと言ってもケーキの話ではありません。「装飾」です。12月の街は人々の購買意欲を煽るように、美しく飾られています。今日は私が仙台の繁華街で目にした「飾り」を幾つか、ご紹介しましょう。 ゲームショップの前にあった飾りに、金粉を吹きかけてみました。 中央通りのアーケードの飾りです。 ツーリストの飾りに、スプレーをかけました。 駅の隣りのビルの天井です。 あるビルに吊るされた巨大な旗です。 ゲーム店の外に立っていた「雪の女王」。 アーケードの天井の飾りつけです。 極めてシンプルな色の飾りです。 宝石や時計などを売る高級店の店頭です。 ショーウインドー1 ショーウインドー2 赤が鮮やかです。 ショーウインドー3 シックな色合いが素敵です。 とても素朴な飾り付けの窓です。 ここは色んなキャラクターグッズを売るお店。 背景の絵の方が素敵だったかも♪ 大きな赤いリボンはいかが? 電飾が輝く乳母車は、「仙台光のページェント」の風物詩です。 光り輝く乳母車は、遠くからでも良く目立ちます。 実はこの乳母車を押しているのは、あるお爺さんなんですよ。 最後はなんともエレガントなショーウインドーでした。いよいよ明日はクリスマスですね。<続く>
2015.12.23
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<灯りとポインセチア> 「仙台光のページェント」の点灯式が始まるまでの間、私は師走の街を歩きました。繁華街は年末商戦のためいつもより美しく、かつ賑やかな様相を見せていました。そんな街を撮るのも、絶好のチャンスなのかも知れません。たくさん撮った写真のうち、今回は街の灯りとポインセチアをテーマにお届けしたいと思います。 一番町商店街アーケードの入口です。 夕暮れが迫ると、街には灯りが点灯します。 どこかのビルから柔らかい光が漏れていました。 これは2階の照明を、外から見上げたものです。 とてもきれいな建物を発見して驚きました。 「このお店は一体なんの店ですか?」。たまたま外に出た女性の方に尋ねてみました。答えは「結婚式場」ですって。爺さんにはあまり縁がないみたいですねえ。 画面は一変して、ここはあるデパートの花売り場。美しいポインセチアの鉢が、たくさん並んでいました。 私は静かにポインセチアだけを撮らせてもらいました。 純白のポインセチア。とても清純な感じがしますね。 クリーム色のポインセチアは、ちょっと珍しいかもね。 この赤い葉は、師走の街にぴったりの色かも。 エレガントな色に魅了されますね。 この1枚だけは、街の花屋さんで撮らせてもらいました。 再び街の様子。これは定禅寺通りの彫刻ですが、間違ってカメラの設定を「水中モード」にしてしまいました。 こちらが彫刻の全体像。面白いので消さずに残しました。 こちらは通常のオートフォーカス仕様。明るさがまるで違いますね。 こちらは勾当台公園。中央に彫刻があるのが分かるでしょうか? コーヒーショップを撮ってみました。 これは一体何なのでしょうね。高貴な雰囲気に惹かれて、撮影した一枚です。<続く>
2015.12.22
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<仙台光のページェント2015 その3> 毎年12月になると、仙台では「光のページェント」が開かれます。定禅寺通りのケヤキ並木が、70万個のLEDで光り輝く様子は圧巻です。それに比べたら小規模ですが、宮城県庁前の勾当台公園では、定禅寺通りとは違ったイルミネーションが楽しめます。今回はその第2会場の様子を紹介しますね。 ハーイ、いらっしゃい。こちらが第2会場ですよ~。 「Love & Peace」と書かれたこのイルミの前で、恋人たちや若者は記念撮影をしています。 早速ですが、魔女の左手です。 そしてこちらが右手。(ウソだよ~ん) 青いLEDの光が幻想的ですねえ。 ちょっとしたスターウォーズの世界。 ちょうど今はこの会場で、全国のラーメンが屋台で食べられるんですってよ~。 誰です。「UFOに拉致されないか心配」なんて言うのは? 白い樹が遠くで光ってるよ。あそこまで行ってみようか。 何とまあ、2本の樹が踊っていましたよ~♪ 定禅寺通りのイルミも良いけど、こちらは若者向きかもね。 暗闇の先には、宮城県庁があるんだよね。 あれまあ。石垣まで飾られ、すっかりイメージチェンジしてますねえ。 ここは一方通行の「通り抜け」になっています。 ツリー形のイルミも素敵でしょ。後の光は、国の合同庁舎の灯りです。 まあ、樹の幹まで光ってファンタスティック!! ツリーとビルの灯りのコラボはいかが? 天辺でお星様が光ってますね。何か良いことがありますように~<続く>
2015.12.21
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<仙台光のページェント2015 その2> 「仙台光のページェント2015」の点灯式は12月6日(日)の午後5時30分から。今年でちょうど30回目のこの催しは、May Jさんの美しい歌声で始まりました。私は点灯式があった定禅寺通りのメディアテーク(仙台市図書館本館)前から、一番町方面に向かって歩き出しました。220本のケヤキの樹に飾られたLEDが、夜空に煌めいてとてもきれいです。 あるビルの前では、少年少女の合唱団が「もろびとこぞりて」を歌い始めました。その美しい歌声が、仙台の夜空に響き渡ります。 ビルのイルミネーション、樹々のLED、そして合唱団の子供達。美しいハーモニーにうっとりです。 ほら、こんな角度からの写真はいかがです。なかなか洒落てるでしょ。 合唱団の背面。暗がりがあると、より明るさが際立ちますね。 裸のケヤキの樹に70万個のLEDが点ると、それはそれは壮観な景色になります。 劇団四季の「美女と野獣」のポスターもパチリ。ちょうど今、仙台で公演中なんですよね。 ここが仙台の繁華街、1番町の北の入口に当たります。 そこから今歩いて来た定禅寺通りを振り返ると、ほら、こんな風景が目の前に広がっています。 左手前方に、青い氷の山が見え出しました。あの氷山まで行ってみましょう。 果たして「氷山」の正体は何なのでしょうね? 実はこれは市民広場の一角に植えられた、高さ20mほどのヒマラヤスギなんですよ。そこにブルーのLEDが飾られているんです。 ほらね。スカートの裾をちょっとめくると、太いのと細い2本のヒマラヤスギが見えるでしょ? 道路を渡って、向こう側から定禅寺通り方面を観ると・・・。 あれっ、モンスターの目と口が光ってますねえ。 第2会場の勾当台(こうとうだい)公園内から観ると、こんな感じ。 30年前までは、ここを市電(路面電車)が走ってたんですけどねえ。う~む、残念!!<続く>
2015.12.20
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<仙台光のページェント2015 その1> クリスマスまで後1週間となりました。師走の街はとても華やかで、美しいもので溢れています。仙台では地下鉄東西線の開通日に合わせて、今年は12月6日から「光のページェント」が始まっています。定禅寺通り、青葉通りのケヤキの樹に、大量の豆電球を飾るようになってから30年目。今年は地下鉄工事の影響で定禅寺通りだけにLEDの灯りが点っています。 長さ800mのこの通りに植えられたケヤキの樹は220本。そして飾られたLEDは合わせて70万球に及びます。新シリーズ第1回の今日は、その「仙台光のページェント2015」から始まります。 点灯式が開始されるのを、私はメディアテーク(仙台市図書館本館)の3階で待っていました。5時30分ちょうど。220本のケヤキが一斉に光を放ち始めました。どうやら無事に点灯式が開始されたようです。待っていた人々から、思わず感嘆の声が上がります。 これもメディアテーク3階からの眺めです。 この後、私は外へ出ました。ケヤキの高さは10m以上もありますが、その1本1本にLEDが取り付けられています。これは企業と個人からの寄付でまかなっているもの。「東日本大震災」のあった年は、全てのLEDが津波で流され、全国から電球をお借りして飾ったのです。なお定禅寺通りの灯りは全て温かみのあるこの色を、最初の年から使用し続けています。とても単純ですが、裸のケヤキにはぴったりの色合いですね。 点灯式のステージでは、歌手のMay Jさんがコート姿で歌っていました。近づいて撮ろうと思ったのですが、警察官に制止されてボケたのしか撮れませんでした。そこでネットから写真をお借りしました。彼女の父親は日本人ですが、母親はイランの方とか。それもロシアやイギリスの血も入っているみたいです。美人の彼女の美しい歌声が、仙台の夜空に響き渡っていました。それを聴きながら、私は1番町方向に歩いて行きました。 あるビルのガラス面に飾られたイルミネーションです。 とてもシンプルですが、それだけに美しいですね。 ビルのイルミネーションと樹々のLEDのコラボレーションです。 イルミネーションの下で、少年少女の合唱団が讃美歌の「もろびとこぞりて」を歌い始めました。 ガラスの壁面を背景にした、少年少女の合唱団です。 子供達の美しい歌声に癒されながら、私は写真を撮り続けていました。<続く>
2015.12.19
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12月6日日曜日。この日は仙台市地下鉄「東西線」が開通する日。私はこの日に合わせて、「一日フリー乗車券」(500円)を購入していた。 これが路線図。仙台市地下鉄は単純で、これまでにあったのが「縦の線」つまり南北線で、これは30年ほど前に開通している。ところが政令指定都市なのに路線が1本しかないのは「恥」とか言う理由で、新たな路線の計画が持ち上がった。それが「横の線」。つまり今回開通した東西線と言うわけ。 東の荒井駅から西の八木山動物公園駅までの13km余りだが、「八木山」の標高は140m近い。これは日本一標高の高い駅なのだそうだ。川内駅からは急勾配になって車輪が空回りするため、日本の地下鉄では初めて「リニアモーター方式」を採用している。また6か所の急角度地点を通過するため、車輪の間隔を変える機能を備えているのも特徴の一つだ。 これが「一日フリー乗車券」。東西線の建造には9年を要した。その間にマグニチュード9の「東日本大震災」があった。その日も地下では工事中だったが、崩壊することはなかった。ただし相次ぐ余震のために、工事は3ヶ月間中断された。その後工事を急ぎ、予定通り完成に漕ぎ着けたのだ。当初の一日の乗客予想は13万人。それを徐々に引き下げて最終的な予想は8万人になった。初日と2日目の平均乗客数は約5万人だったとか。まだ出足は良くないようだ。 この日はお寺で法事があった。それが終わると甥の車で、最寄りの「荒井駅」まで送ってもらい、そこから東西線に試乗した。ここは新興住宅地。あの東日本大震災では、2kmほど先まで津波が押し寄せて来ている。 真新しい駅が眩しい。駅前にはバス停が作られていた。ホームもピカピカ状態だ。私は予め「フリー乗車券」を買っていたので、並ばずに済んだ。 これが構内の標示板。我が家はこの路線の終点のほど近く。前日の試乗会では、システムがトラぶって急遽中止になっていた。その後、ソフトを入れ替えて復旧させた由。でも開通のこの日はスムースで、全く問題はなかったようだ。やれやれである。 暗闇の中から電車がやって来た。ほほう、あれがそうか。 これが車両の先頭部。運転席の前に細長い三日月が見える。これは仙台藩祖伊達政宗公の兜(かぶと)の前立(まえだち)の三日月を模したもの。 工事の経費を抑えるため、トンネルの幅はやや狭い。そのために車内のスペースもコンパクトになっている。また各車両には、車椅子を固定するためのスペースが確保されている。揺れがほとんどないのも特徴。そして八木山への急勾配の登りでも時速50km以上のスピードを出せる由。 車内の案内板は日本語、中国語、韓国語(ハングル)、そして英語での表示と変化する。 私が最初に降りた駅。ここで降りたのは旧陸奥国分寺跡を訪ねるため。現在は「薬師堂」と呼ばれる重要文化財のお寺になっている。江戸時代には芭蕉も訪れた場所。彼は弟子の曾良と松島へ旅立つ日、薬師堂の境内で句を詠んでいる。境内の様子などは、改めて紹介したい。 これが仙台市地下鉄の看板。夜空にくっきり光っている。 東西線と南北線は仙台駅で交差する。後で出来た東西線は、仙台駅では地下のかなり深い部分を通っている。この駅が一番乗降客が多い場所。JR各線ともここで連絡している。また「青葉通り一番町駅」は仙台で一番の繁華街で、ここも乗降客が多い駅だ。私は仙台駅で降り、師走の街を片っ端から撮影した。 実はこの日、12月6日は「仙台光のページェント」が始まる初日でもあった。今年は地下鉄東西線の開通日に合わせたのだ。裸のケヤキの樹に輝く無数の灯り。3時間以上も待ってこの点灯式を間近で見、それから夜の街を歩いた。それらの写真は、私が退院してからシリーズで紹介する予定でいる。さて、手術は無事成功するかな? 先を急ごう。再び地下鉄の話に戻る。ここは広瀬川に架かる地下鉄の橋の上からの眺めで、上流方向を観ている。東西線で地上の景色が見えるのは2か所だが、その1つがここなのだ。「川内駅」を過ぎるといよいよ急勾配の登りが始まるのだが、車内ではそんな風には全く感じずにとても静かだった。 そして地上の景色が見える2つ目の箇所が「青葉山駅」と終点の「八木山動物公園駅」の中間にある「竜の口渓谷」。青葉城(仙台城)付近では50mほどの断崖絶壁だが、かなり奥まったこの辺は深さが10mほどの谷だと思う。ここにも新しい地下鉄用の橋を架けた。窓の外に一瞬、冬の木立が見えた。 「八木山動物公園駅」の構内。ここは東西線の始発であり、終点でもある。各駅までの所要時間が記された標示板があった。 ここから私はバスに乗って帰宅した。東西線の開通によって、市内の路線バスはかなり編成を変えた。新たな路線が出来た一方で廃止された路線も多く、合計で800便以上のバスが無くなった。階段の多い地下鉄は、足の弱った年寄り達には極めて不評。その一方、地下鉄の新路線を利用して通勤、通学する人も増えた由。私達の暮らしも否応なしに変化せざるを得ない。さて今後どこまで私の脚が耐えられるのか、それが問題だねえ。 さて私は今日から入院します。明日は3度目の不整脈手術を受けます。退院は14日(月)の予定です。無事に帰宅したらまたブログを再開しますね。入院中はブログをお休みします。また皆様のところにお邪魔することも出来ません。どうぞよろしくお願いしますね。では、皆様も御機嫌よう。
2015.12.10
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