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~高句麗古墳群江西大墓と明日香の古墳~ さて「高句麗古墳群江西大墓」のコーナーがありました。何枚か写真を撮った中で使えたのは冒頭の説明板だけ。それも後で区切りが分かるよう、部分しか載っていません。こうなった原因は古墳を模した墓室があまりにも暗過ぎて写真が真っ暗になったことと、著作権の関係か展示物の撮影が出来なかったためです。そこでネットから必要な写真を借りてこの章を構成することにしました。 これは高句麗の地図。日本はまだ「倭」の時代です。百済の要請を受けて、白村江で戦ったこともありました。高句麗は現在の南満州まで広がる領土を持つ、牧畜民族でした。半島南部の農業中心の民族とは出自が異なっていたのです。古墳群があるのは現在の中国領。日本との協力の結果、江西大墓の研究が進んだのです。それによって明日香村の2つの古墳との関係も解明されるはずです。 江西大墓外観 キトラ塚外観 高松塚外観 どれも円墳であることが分かります。江西大墓は日本のものより大きく、見学者用の横穴を開けたことが推定されます。明日香村の2つの古墳は発見後研究などのために人が入ったことで、後に国宝に指定される壁画が損傷する事態になります。呼吸による湿気とカビが原因で、後に保護策が取られ現在は立ち入り禁止です。墓室内の壁画は高句麗の様式と極めて高い類似性を有すると言われています。 高松塚古墳壁画のレプリカです。この壁画には高句麗と共通する約束事があります。 キトラ塚古墳壁画の説明用図面です。壁画の東西南北にそれぞれの守り神(四神)を配しています。北は玄武(亀)、東は青龍、南は朱雀(朱雀門は都の南面を向いています)、西は白虎です。それらの色は季節を表し、春は青春、夏は朱夏、秋は白秋、冬は玄冬とも呼ばれます。古代中国の神仙思想から来るものでしょうか。 上が高句麗の「玄武」で、下がキトラ古墳の「玄武」です。 上が高句麗の「青龍」で下が高松塚古墳の「青龍」です。 上は高句麗の「朱雀」で右上は比較のため左右反転。下はキトラ古墳の「朱雀」です。 左はキトラ古墳の「白虎」。高句麗のものがなかったのですが、参考のために載せました。右は「星宿図」。方角及び星の位置から、中国の集安付近での観測と記憶しています。古代朝鮮の戦乱のため、百済、新羅のみならず高句麗から王族などがわが国に逃亡し、その高い技術力から朝廷に重用されました。2つの古墳は高句麗系の渡来人が葬られたか、その技術を駆使したものと考えられます。 <高松塚古墳西壁女子像切手><ご挨拶> 今日は6月30日、台湾旅行の出発日です。実際は6月19日に予約機能を使って書いています。帰宅は7月4日ですが、ブログは念のためその先まで予約してあります。では行って来ますね。皆様もどうぞお元気で。梅雨の時期の台湾がどんなものか、レポート出来るのを楽しみにしています。 ローズコーンさん入院お疲れ様でした。いよいよ退院ですね。帰宅されてもお大事にされ、お元気で過ごされますよう。
2019.06.30
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~神話と真実 その3~ 大国主命 大国主命にはたくさんの異称があった。オオナムチもその一つだ。また荒魂(荒れる性質)と和魂(にぎたま:平和な性質)の両面を持つとされる。大国主には弟がいて、彼は国譲りには反対の立場を取った。信濃国に逃げ、諏訪大社に落ち着いた由。一方大国主は出雲に留まり、皇室が新造した立派な宮殿に住まった。だが出雲族は密かに反撃の機会を窺っていたのかも知れない。摂社 その一つは荒神谷遺跡から発見された大量の銅剣。天皇側に見つかれば彼らの手に渡る。二つ目は神職。2系統の神主を残して交互に司祭を行い、豊かな国土を奪われた怨念を口伝で残した。ひょっとしてこれが荒魂と和魂の使い分けではないのか。神職の片方は少し前、急に廃止された。高円宮家の典子王女が神職である千家に嫁いだのが理由と私は考えている。皇室への怨念を嫁が知ったら一大事だ。 <拝殿と本殿> 出雲は古来より独特の文化を持つ。古墳時代の前期にも、他の地方にはない「四隅突出墓」なる変形の方墳が発達していた。また九州の宗像氏や北陸の豪族との海を通じての協力体制があり、巨大な軍事力と広範な領土を保有していたと思われる。それが大和朝廷と吉備の連合軍に敗れた。彼らは都落ちして出雲に引っ込み、一豪族に戻ったのではないのか。それが私の勝手な想像だ。 スサノオノミコオ 根っからの乱暴者で天上から追放された素戔嗚尊(すさのおのみこと)は天照大神の弟。彼は出雲の国にやって来て、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する。8姉妹のうち最後に残った姫を守るため、彼はオロチに酒を飲ませ、酔った大蛇を剣で切り殺す。その時大蛇の胴体から出て来たのが天の群雲(あめのむらくも)の剣。後の草薙(くさなぎ)の剣で、皇室の王権継承の象徴である「三種の神器」の一つとなる。 ヤマタノオロチ それではヤマタノオロチは一体何の象徴だろう。一説によれば出雲を流れる斐伊川だと言われる。この川には8つの支流がある。うねりながら流れて海に注ぐこの川を表したのであれば、出雲の国土そのものと言える。また体内から出た剣はこの川の特産の砂鉄の象徴。製鉄の材料の砂鉄は、権力者には必要不可欠だ。そして大国主の化身はヘビだから、最大の豪族を倒す意味も込められていたのだろう。 ともあれ、厄介なヤマタノオロチを退治した素戔嗚尊は一躍勇者となる。天上の暴れん坊の汚名返上だ。そして助けた娘、クシナダヒメを妻とする。天つ国の天上界を追われた男が地上でスーパースターに生まれ変わり、英雄として祀られた出雲の神社が、驚くことに熊野大社と言う名なのだ。さらに驚くことには、出雲大社と共にこの熊野大社もまた出雲国一之宮となっていること。通常ならあり得ないだろうが。 <熊野大社:島根県松江市> さて、日本語の古語「くま」には「熊」の意味はない。1)くまは隈であり、川の曲がった所。2)奥まった所。3)辺鄙な所=出雲も熊本の球磨地方も然り。4)暗くて陰になってる所。5)隠し、秘めている所。そして6番目に部落や集落の意味。これは古代琉球語も同義。九州南部の蛮族と目された熊襲(くまそ)は、くま(部落の)そ(男)の意味があるらしい。熊野大社の「くま」は、いずれに該当するのだろうか。<続く> 今日は早朝からバスツアーで、岩手県の陸中海岸方面に旅行します。1泊のため帰宅は明日の夜遅くになります。いただいたコメントへの返事と、ブロ友さんへの訪問は出来かねますので、ご了承くださいませ。では行って来ますね。皆さまもどうぞお元気で~!!
2018.07.13
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<謹告>PC不調のため、コメントへの返事やお邪魔出来ない場合があります。なおこのブログは週末の旅行に備え、予約機能を使って準備したものです。~神話と真実 その2~ 三輪山 何年か前のこと、私は「山の辺の道」を歩いた。奈良盆地の東麓を走る、日本最古の官道と言われる道だ。道はくねくねと曲がり、とても官道とは思えなかった。なぜそんな道になったのかと言えば、当時の土木技術では橋を架けられなかったため、山裾を通ったのだと思う。桜井市から途中箸墓古墳に寄り、天理市までの19km。三輪山の美しい姿が印象的だったが、その時に知って驚いたことが幾つかある。 三輪山の山麓にあるのが大神(おおみわ)神社。三輪氏の氏神とも言われるが、祭神は大国主命。大国主は出雲大社の祭神であり、古代豪族である出雲氏と同一だと思われる。それがなぜここに祀られているのか。しかも大神神社は大和国一之宮なのだ。遠い遠い地の神が、ここにいることの不思議さはどうだろう。 纏向遺跡近くの箸墓古墳にも立ち寄った。ここは卑弥呼の墓とも言われている。現在は宮内庁の所管で、皇女ヤマトトトヒモモソヒメの被葬地とされている。この皇女が嫁いだのが、三輪神社の祭神の大国主。妻問いの夫からは姿を見ないよう言われるがその禁を破る。彼女が見たのは一匹のヘビだった。彼女の巫女的な要素は卑弥呼とも通じる。また皇室と地方豪族の結び付きも窺わせて、極めて興味深い。 大神神社のシンボルはヘビ。拝殿にはヘビが好きな卵と日本酒が備えられていた。また境内には本物の白蛇が生息している。大神神社は酒の神でもあり、新酒が出来た時に掲げる杉玉は、この神社が発祥と伝わっている。つまり酒は神に捧げる神酒(みき)なのだ。そしてヘビと酒と聞いて思い出す神話が、出雲のヤマタノオロチ伝説。それは一体何を物語るのだろう。 <檜原神社の不思議な鳥居と垣根> 山の辺の道を歩いて驚いた2つ目は「御旅所」。所々でその標識を見た。お神輿(みこし)の休憩所が一般的な意味だが、天皇の御幸(みゆき)などにも用いたようだ。3つ目の驚きが「元伊勢」。何と伊勢神宮には、源となる神社があったみたい。つい最近天橋立の傍にある籠(この)神社がそれと知った。それにしても天皇が旅し、皇室に纏わる神社が動くとは。これも神武東征と関係があるのだろうか。 ここは出雲大社。独特の注連縄(しめなわ)はまるでヘビのよう。ご祭神はもちろん大国主命。出雲族の統率者でもあったはず。九州宗像大社の宗像氏とは協力関係にあったようだ。共に海に生きた海人族で、大国主の足跡は能登半島にも及んでいる。気多大社(石川)や気比大社(福井)の祭神も彼。そして重要な話が「国譲り神話」。国つ神である出雲族は、天つ神である皇室に豊かな国土を譲ったのだ。 国譲りの代償として出雲族が求めたのが立派な神殿の建立。言い伝えによれば、神殿は40mもの高さの柱の上にあり、浜辺から長い階段が設けられていた由。それは長い間虚構と思われて来た。ところが十数年前、神社の境内から恐るべきものが出土した。太い丸太3本を括った巨大な柱の根っこだ。それが何セットも地中から現れたのだから驚く。巨大な神殿の話は本当のことだったのだ。 本居宣長の『口遊』に「雲太和二京三」の言葉がある。出雲大社が一番大きく、二番目が奈良の東大寺、そして三番目が都の大極殿との大建築の比喩だが、それも真実だったと言う訳だ。<続く>
2018.07.12
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~神話と真実 その1~ 熊野那智大社石段の途中にて 今シリーズ「紀伊半島の聖地を辿る旅」の話も10回を過ぎた。ツアーの訪問先は終わりに近づき、残りは1か所だけとなった。そこでこれまでの旅で見たことを中心に、歴史について感じたことを記したい。これは妄想と思っていただけたら良い。妄想を楽しむのもまた歴史に関心がある者の喜びだ。 旅の初日に伊勢神宮近くまで来た時、ガイドさんがバスの外を見よと言った。そこには「猿田彦神社」と書かれた石の塔が立っていた。「何か気づいたことはないですか」と彼女。ツアー客の一人が答えた。「猿の字に口がない」と。私も振り返って見たが、確かに口が無かった。面白い字があるものだとその時は思ったのだが。旅を続ける中でも、ずっとそのことが気になっていた。そして一つの結論を見出した。 <猿田彦とアメノウズメ> 猿田彦は元々そこに住み着いた土地の神で、これを「国つ神」とも言う。鼻の高い異様な容貌に描かれることが多いようだ。高天原からトヨアシハラノミズホの国(日本)へ降り立った天孫族(これを「天つ神」とも言う)を案内したのが彼。そのご褒美にもらったのが天照大神が天の岩戸に隠れて世の中が真っ暗になった時に下半身を見せて面白おかしく踊ったとされる女神アメノウズメだった。 アメノウズメは天孫族、天つ神だが、国つ神の猿田彦と結婚した。天孫族を案内した猿田彦の功績は大だった。当時の統一国家である倭の建国に繋がったからだ。だが美女を妻とした代わりに「口」を塞がれた。つまりそれ以降は、天つ神の悪口を言えない立場になったのではないのか。 伊勢神宮は天皇の象徴。そしてその傍にある猿田彦神社は先住民の象徴だ。2人の結婚は先住民と高い文化を携えた渡来民との出会いとも、縄文人と弥生人の出会いとも言えようか。私は水戸勤務の時、猿田さんと言う名の人と出会ったことがある。確か秋田出身と言っていたが、猿田彦の末裔かも知れない。 紀伊半島 記紀によれば、日向を出た神武天皇は一行は、瀬戸内海を横切って難波の津(大阪湾)に着いた。そこから大和川を遡って大和へ入ろうとしたが、手長・足長と言う賊に阻まれた。そこで南に廻り、紀の川を遡って大和に入ろうとしたが再び賊に阻まれた。仕方なく紀伊半島を大きく廻って新宮から熊野川を遡って大和に向かおうとした。この時は何とか目的を果たした。猿田彦とは違った「案内人」がいたのだ。 神武天皇の弓に留まったのがトンビだが、案内したのが「八咫烏」(ヤタガラス)。奇怪なことに3本足のカラスなのだ。3本の足は地元の豪族の象徴と考えられている由。つまり3人の豪族が神武の大和入りを助けたと。無論神武天皇は架空の人物だし、3本足のカラスなど自然界に存在する訳がない。だが、たとえ神話であっても何らかの真実が潜んでいるはず。そこには一体何が隠されているのだろう。 サッカー日本代表ユニフォームのエンブレムにも採用された「ヤタガラス」。今回の旅でも、現地で右のようなポスターを発見した。3本足のカラスは、今でも日本を支援し続けている。それにしても3本の足は何のシンボルなのか。初めに考えたのは大和川、紀の川、熊野川の3つの河川。だがそれにしては広範囲過ぎる。では熊野三山はどうか。なるほど、それなら大いに可能性があるかも知れない。<続く>
2018.07.11
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<古代史はお好き?> <仙台市地底の森ミュージアム> 今年の大型連休のさ中、マックス爺は何度か博物館へ行った。最初に行ったのはこの楕円形の博物館。まるでUFOのような外観だが、ここには約3万年前の遺跡が眠っている。そう、旧石器時代の森が、そっくりそのまま博物館の地下に収まっているのだ。 だが、この日の目的は違っていた。開催中の企画展「陸奥の国府郡山遺跡と周辺の遺跡」を観るためだ。「陸奥の国府って多賀城じゃないの?」。東北の古代史に明るい人ならきっとそう言うはず。だが多賀城に国府が建てられる以前、仙台市太白区郡山の地に国府が置かれたことを知る人はそう多くはない。それだけ研究の歴史が浅いのだ。新たにどんなことが分かるのか、私は喜び勇んで出かけたのだった。 これまでの発掘調査で、官衙(かんが=官庁の建物)は2期に亘って建てられたことが判明している。第一期の建物は真北から東に約60度傾いていた。ところが第2期の建物はほぼ北向きに建て直され、付属寺院まであった。官衙は材木塀で周囲を取り囲まれ、その外に大濠があり、さらに外濠で厳重に囲まれていた。南門の南西部にあるのが付属寺院で、正式な名称が不明のため地名を採って「郡山廃寺」と呼ばれている。 発掘調査後に作成した平面図から復元した第2期の官衙。東北に初めて置かれた国府の姿は、実に堂々としている。左手前方に見えるのが大年寺山。江戸時代には伊達家の廟が置かれたが、この周囲には横穴古墳が多く存在する。一説によれば、この官衙に勤務した役人達が葬られたとの説もある。 官衙の敷地内には役人たちが住んだ家もあった。官衙に比べれば粗末な掘っ立て柱の家だが、すぐ外に材木塀があり、大濠が見えるところから武人の住居とも考えられる(私見)。恐らくは蝦夷(えみし)の襲撃から護ったのだろう。 左は円面硯(えんめんけん)で焼き物の硯(すずり)。右は刀自(とじ)でナイフのこと。これで木を削って字を書いた。両方とも当時の役人の必需品。国府の役人は税や国内の状況などを都に報告する必要があったし、刀自は木製の荷札や木簡(もっかん=木に書く記録)の間違った箇所を削って書き直すための道具。つまりそれほど紙が貴重品だった証でもある。 どちらも郡山廃寺跡からの出土品。左は軒丸瓦(のきまるがわら)で右が平瓦(ひらがわら)。 この時点ではまだ陸奥国分寺と国分尼寺は建てられておらず、瓦は超貴重品だった。官衙の建物でさえ板葺きなので、いかに寺が大切な存在かが分かる。蝦夷と接する最前線に、学生(がくしょう=勉学に励む僧)が居たことも想定される。 さらに驚かされるのは、第2期の官衙跡から石組みの池が出土したこと。同じ例が明日香村の藤原宮跡に存在する。その目的は蝦夷などの饗応にあるとされているが、この最前線にも京と同じ施設が設けられた意図が重要。当然池の傍では恭順した蝦夷を酒食でもてなしたことだろう。さらに藤原宮から神の住まう三輪山が見えたように、ここからは太白山(当時は生出が森か)を仰いだのだろう。 5月20日に開催された講演会にも私は参加申し込みをした。講師は仙台市教育委員会文化財保護課長の長嶋栄一氏。企画展は単なる発掘物の展示だが、こちらは実際に発掘した当事者から話が聞けるのだから面白い。興味深い話がたくさんあったが、ここではその一部を紹介しよう。 土師器 須恵器 土師器(はじき)は低い温度で焼いた分厚い土器で、須恵器(すえき)は高温で焼いた薄手の土器。当然須恵器の方が高い技術力を要する。郡山官衙の造営に際して、陸奥の住民だけで創ることは無理。そこで京の命により、関東から高い技術を持った人々が派遣された。なぜそれが分かるかと言うと、関東様式の土器が出土しているからだ。 だが彼らだけでも官衙は出来ない。東北様式の土器も出土しているため、土着民も一緒になって最先端の国府を創建したことが分かる。東北土着の人間が果たして役に立ったのだろうか。その謎を解く「鍵」が近くの古墳にある。 隼人の革盾 これは郡山遺跡から南西へ3kmほど離れた大野田古墳群の春日社古墳から出土した「隼人の革盾」のレプリカ。盾自体は腐って失われたが、その紋様が地中に残っていた。隼人は京を護る武人で、盾はその防具。各地に出土例はあるが、東北では初めてのものだった。古墳時代末期であれ、都と繋がりの深い豪族がこの地にいた何よりの証。さらに郡山官衙と関係の深い大型の建物跡もこの周囲で見つかっている。 土器の拡大部分 さて、郡山遺跡発掘された土器に「名取」と読める字が刻まれていたものがある。一時、郡山遺跡は「名取郡衙」だと考えられた時期があった。だが付属寺院を備えた巨大な遺構などから、多賀城の創建に先立つ「陸奥国府」と認識を変えたのだ。だとするとこの「名取」が意味するものは何か。 講師は言う。名取郡出身の兵士がいたのではないかと。それも名取郡は「名取南方」と「名取北方」の2つに分かれ、この地は名取北方に当たると考えられている由。そうか。それでかつて長町は名取郡長町村」だったのかと納得。 航空写真 最後に2人に対して質問が許された。関東から参加した1人は専門的なことを尋ねたが、その後誰も手を挙げない。そこで私が質問した。郡山の国府と水運の関係についてだ。図は遺跡付近の航空写真。左の枠内が第2期の付属寺院(郡山廃寺)で右の枠内が官衙跡(陸奥国府)。右手の川が広瀬川で左手下に少し見えるのが名取川。 郡山遺跡は2つの川の自然堤防上にあり、第1期の建物は東側に正門があり、広瀬川に向いていたことから広瀬川の水運を利用したことが分かる。第2期になると正門(南門)は西を向き、陸路(官道か)を利用した由。なお第2期後半の官衙は蛇行した広瀬川が浸食したせいで、北側(写真では右側)の敷地の余裕が無くなったことも分かっている。こんなことにも面白がるマックス爺であった。
2017.06.11
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今年の9月半ば、私は東北歴史博物館で特別展を観たついでに、多賀城跡を訪れた。ここは古代の城柵で、陸奥国府と鎮守府が置かれたところ。奈良時代から11世紀半ばの平安時代まで大和朝廷の前進基地として機能していた場所だ。ここを訪れたのは確か5回目だと思う。 南門跡から長い坂道と石段を登って行くと、やがて政庁跡に辿り着く。手前が南側で入り口に政庁の南門がある。ここから石敷広場を経て正殿の跡地へと進む。 これが政庁の南門復元図。両脇に警護の兵士が立ち並ぶ中を、役人たちが出仕して行く。これから政務がはじまるのだろう。 これが正殿の跡地で基壇部分だけが復元されている。その前の平地が石敷広場だ。 これがCGで復元された正殿。見事なものだ。ここで国司たちが政務を執った。多賀城は全部で4回建っている。蝦夷の反乱で焼け落ちたり、平安時代の貞観地震で崩壊したため3度建て替えた。 これは政庁北殿付近から後殿を通し、その南側にある正殿方向を見ている。南門へ下る坂道はその前にあるが、ここからは見えない。それだけでも広大な城域が分かるだろう。 そこから歩いて東門方向に進んで行くと、何軒かの農家があった。さらに東方に進むと、東門の推定復元図が置かれていた。これらは全て発掘調査に基づいて推定されたもの。ただし第何期のものかは見落とした。 こちらの復元図は上記に色彩をつけたもの。東門の先には街道が連なり、塩釜へと通じている。塩釜は天然の良港であり、陸奥一宮である塩竃神社が鎮座している。塩竃神社は本来製塩の神で、多賀城を鎮守する神でもあった。その塩釜から国府多賀城へは、塩や魚などが届けられていたことが分かっている。 東門跡からさらに東方に向かうと、やがて左手に総社の宮が現れる。延喜式に載っている陸奥国に置かれた100の神社がここに分祀されている。参拝しているのはこの日私に着いて来た三重県の方。3か月以上自分の車で全国を旅している由。世界の山を登り、北海道の山も30座は登ったそうだ。その趣味が高じて奥さんとは別れたと話していた。世の中には不思議な人がいるものだ。 これは多賀城廃寺の跡。国府から東方へ2kmほど離れた林の中にあり、この日は行かなかった。私がここを初めて訪れたのは約50年ほど前のこと。粗末な建物の縁の下には、古代の屋根瓦が無造作に積まれていた。今ではとても想像つかないが、貴重な遺物だったのだ。 これが多賀城廃寺の復元図。この寺は国府多賀城の安全と古代東北の平安を祈願するために建てられたのだろう。当初は地名を取って「高崎廃寺」と呼ばれていた。それが多賀城の付属寺院であることが判明して以降、「多賀城廃寺」と呼ばれることになった。 やがて少し離れた域内から「観音」の名が記された土器が発掘された。そのことからこの寺の本来の名称は「観世音寺」であったことが推定されている。観世音寺は「遠の朝廷」大宰府の付属寺院の名でもあった。北と南の政庁付属寺院の名称は、きっと同じだったのではなかったのか。 政庁復元図 私は昨年岩手県のブログ友ニッパさんの案内で盛岡市の志波城跡を訪れた。東北にあった古代城柵の最も北端の城跡で、南門などが一部復元されていた。今年は秋田城への探訪を試みた。これも古代の城柵の一つで日本海側の最前線だった基地。残念ながら時間がなくて現地を訪れることは出来なかったが、秋田県立博物館で秋田城に関するたくさんの情報を得ることが出来た。 多賀城を訪れたのは今回で5度目。岩手県出身の小説家高橋克彦の歴史小説「火怨」や「炎立つ」では、古代東北における蝦夷(えみし)と朝廷側との戦いの様子を窺い知ることが出来た。多賀城から志波城や秋田城まで、中央政府の権力が徐々に伝わって行く状況が少しは分かって来た。こうして私が長年抱いて来た謎が、また一つ解明されたのが嬉しい。 さて女帝の寵愛を受けた怪僧、弓削道鏡は和気清麻呂の宇佐神宮参拝と下された神勅により、都から追放されて下野国(栃木県)に下った。だが埋められた石碑が地中から掘り起こされたのはその900年後。果たして藤原仲麻呂(恵美押勝)の名誉は、その後回復されたのだろうか。いや現在も彼の名が刻まれた石碑が多賀城の南門付近に立っているので、恐らくは怨念も鎮まったのではないだろうか。<完>
2016.11.09
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左は石碑の拓本で、右は碑文を読み下したもの。これによれば碑文には京(平城京=奈良)、蝦夷の国、常陸国(茨城県)、下野国(栃木県)から多賀城までの距離数が記され、さらにアムール川河口周辺にあったツングース族の国靺鞨(まっかつ)の国界(境界)からの距離が刻まれている。これで古代日本の「世界観」が分かると思う。 また碑には多賀城が神亀元年(724年)按察使兼鎮守府将軍の大野東人によって築造され、天平宝字6年12月1日(762年)按察使兼鎮守府将軍藤原朝狩によって修復されたことが記されている。 南門から政庁に向かう石段と発掘調査中の人々 藤原朝狩(仲麻呂:慶雲3年=706年~天平宝字8年=764年)は藤原武智麻呂の次男で、叔母である光明皇后(聖武天皇の后で天皇亡き後孝謙天皇となる)の寵愛を受けて出世。自分が擁立した皇子が淳仁天皇となると恵美押勝の名を拝領し、天平宝字4年(760年)には太使(太政大臣)に登り詰める。多賀城を修復したのはその2年後だ。 ところが尼となった叔母の孝謙太上天皇は天平宝字6年(762年)に自ら政務を担当し、僧の道鏡を重用し、翌年には彼に小僧都の位を授けて共に政務を行った。これに対抗したのが押勝で、天平宝字8年(764年)に武力で制圧しようと決起。だがこの謀議が漏れて戦いに敗れ、全ての官位をはく奪され一族は滅亡する。これがいわゆる藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)だ。 多賀城の石碑には修復した彼の名が刻まれていた。このため反逆者の名が世に残らぬよう、石碑は地中に埋められたのだ。それが発見されたのは約900年後のこと。石碑が本物とはなかなか信じられなかった理由もその辺にあるのだろう。だが研究の結果、碑文の形式は当時の中国の制度に則った正式なものであることが判明。こうして真贋論争に終止符が打たれ、石碑は現在重要文化財として覆屋の中に収まっている。 多賀城中枢部の航空写真 これは多賀城中枢部の航空写真。下部の中央に見えるのが南門から政庁に向かう石段。中央の赤い部分が政庁南門跡で、上部中央が政庁。その奥に正殿がある。 これは多賀城の現状図。だが城柵の全体は示されておらず、実際はまだまだ広い。多賀城は一辺が約900mの不正確な矩形をしており、その中に政庁だけでなく兵士たちの駐屯地や作業のための建物などが散在した。広い域内には現在も農家が何軒か残っていて全てを買収出来てはいない。 この広い域内で、これまで90次に及ぶ発掘作業が行われて来た。多賀城跡調査研究所(宮城県立)による発掘調査は昭和44年(1969年)からで、それ以前の調査は東北大学文学部によるものではなかったか。私がこの地を最初に訪れたのは確か昭和43年ごろで、まだ多賀城跡調査研究所がなかった時期だ。<続く>
2016.11.08
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JR東北本線「国府多賀城駅」の北口傍に観光案内所がある。そこでパンフレットなどをもらった。小母さんがどこからか戻って来たので話をすると、どんな疑問にも答えてくれた。県外から多賀城市に転居して来て30年以上。そして志願して多賀城を案内するボランティアになったのだそうだ。驚いたのは駅の直ぐ傍の高台のような場所がかつて陸奥国司が住んだ住居跡らしい由。 これがその高台。私には単なる荒れ地に見えたのだが、ここが国司の館があった舘前遺跡らしい。ふ~む。 これが館の復元図。左上の山上に見えるのが国府多賀城。陸奥国府だけでなく、鎮守府もここに置かれた。結構起伏があることが分かる。 大したことは書いてないが、参考までに説明を載せておこう。昭和54年の発掘調査で発見されたようだ。 駅から1kmほど歩いて多賀城跡に向かう。ここは城柵の南辺で、築地塀があった場所。蝦夷の襲撃から守るために土を固く盛り、城の周囲に塀を巡らせていた。写真は発掘時の説明会のようだ。当時海が近くまで来ており、城の東南部には湿地もあったようなので、土木工事も困難を極めたに相違ない。 築地塀は粘土と砂を交互に入れて突き固めた「版築」と呼ばれた工法を用いている。朝鮮半島から渡来した高等技術と考えられていたが、後に青森県の三内丸山遺跡の「楼観」の基礎部分にもこの工法が使用されていたことが判明した。日本人の祖先たちは縄文時代から優れた技術を駆使していたのだ。山に城を築き、周囲を築地塀で囲む方法は古代の城柵である「秋田城」も同様だった。 多賀城の最南端にある南門の復元図。地形の関係で少し傾斜しているのが分かる。ここから政庁まではさらに階段を登る必要があった。南門の両隣に見えるのが築地塀で、土台の基礎から塀自体を版築工法で突き固めてある。 「壺の碑」の覆屋。この建物の中に立っているのが江戸時代の初期に田んぼの中から発見された石碑。それはやがて真贋論争を生むことになるのだが、長い研究の結果「本物」であったことが判明する。驚くことに石碑はわざわざ倒されて土に埋められてしまったのだ。それを偶然田を起こす作業をしていた付近の農民によって発見されたのだ。 元禄2年(1689年)の春先に江戸を発った芭蕉と弟子の曽良は、5月8日にこの多賀城を訪れている。付近には「野田の玉川」、「末の松山」、「沖の石」など有名な歌枕の地があり、彼らはそれを慕って塩釜に向かう途中に寄ったのだ。その時既に石碑は田圃から掘り起こされて立っていた。当時は覆屋もなかったから、二人は直に見たのだと思う。それは古歌に詠まれた「壺の碑」(つぼのいしぶみ)だと信じられていたのだ。しかしなぜこの石碑が長い間地中に埋められていたのだろう。<続く>
2016.11.07
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先日の「再度 伊達なマラニック」の時のこと、スタート地点の「てっぺん広場」で髭カクさんから、「大伴家持の墓が多賀城にあるんだって?」と聞かれた。「能登などにも行ってたんだよね。でもそれは知らない」。私はそう答えたが気になっていた。そこで「再度 伊達なマラニック」シリーズを書き終えると、そのことを調べてみた。実は9月の半ばに、私は多賀城を訪れていたのだ。 大伴家持像 ところが勘違いして柿本人麻呂のことを調べてしまった。彼も役人勤めをしていた歌人だが、謎の多い人。国司には六位以上でないとなれないようだが、彼は正史には登場せず、死んだ際もある資料に「死」と書かれていた由。それは六位以下の官職に対する表現らしい。 そこで慌てて多賀城で9月にもらったパンフレットを見直すと、大伴家持の話も少しだけ載っていた。そして地元紙のニュースに大伴家持の墓のことも載っていたが、詳しくは分からなかった。そこでウィキペディアで調べてみた。 陸奥国府多賀城があった丘陵の遠望 多賀城南門復元図 大伴家持(養老2年=718年~延暦4年=785)は奈良時代の貴族で従三位中納言に叙せられ、有名な万葉歌人でもあった。天平18年(746年)28歳で越中守。この時に能登へ舟で渡った。今は石川県に属している能登半島は越中国(現在は富山県)から後に分国されたもの。 天平宝字2年(758年)40歳で因幡守(現在の鳥取県)、天平宝字8年(764年)薩摩守(現在の鹿児島県)に任ぜられ、現地に赴いた。言ってみれば現在の県知事のようなものだ。宝亀11年(780年)62歳の時に参議となり翌年従三位に昇格、殿上人となる。延暦2年(783年)中納言に叙せられる。 死去したのは延暦4年(785年)で享年67歳。この時陸奥按察使特命征東将軍を兼任していた。遥任(ようにん)として平城宮にいたまま職にあったとする説と、多賀城の現地に赴いたとの両説がある。いずれにせよ少なくとも3度謀議に加担したと判断され、遠国の守として配流されるなど、数奇な運命を辿った波乱に満ちた生涯だったことは間違いない。そんな訳で、多賀城に彼の墓があったことは歴史上確認されてないと思うのだが。 多賀城城下図 多賀城を訪れたのは東北歴史博物館で開催中の『特別展 アンコールワットへのみち』を観るためだった。そのついでに多賀城があった山上まで行って見たのだ。これは当時の図面。上部の四角く囲んだ部分が陸奥国府と鎮守府があった丘陵。その麓の平地に広い道路が縦横に敷かれ、ここに整然とした城下が置かれた。 多賀城は平城宮跡、大宰府跡と並ぶ日本の三大特別史跡。平城宮はもちろん政治の中心地だが、大宰府は「遠の朝廷」(とおのみかど)と呼ばれる九州全土と大陸を見張るための中枢であり、多賀城は北国の異民族蝦夷(えみし)を抑え、大和朝廷の威力を誇示する前線基地だった。 多賀城復元図 上部の柵で囲まれたのが多賀城。下部一帯がその城下町。 多賀城は按察使(あぜち)だった大野東人が神亀元年(724年)に築城し、11世紀半ばまで存続機能した古代の城柵。全部で4度造営されている。太平洋からの舟は砂押川を遡って多賀城の城下まで入り、様々な物資を運搬していた。陸奥国司の館は図の手前の高台にあり、付属寺院は右手下部にあった。 第1期=724年~762年まで 第2期=762年~780年 恵美押勝が改修し、伊治公あざ麻呂の反乱によって焼失。 第3期=780年~869年 貞観地震により倒壊。 第4期=869年~11世紀半ば 以後廃絶。 <続く>
2016.11.06
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<東北の古代史と蝦夷> 今日もこの比較表から始まる。東北と北海道の時代区分の違いだ。何度かこの表を見比べてもらうことになるだろう。国宝合掌土偶(八戸市立是川縄文館) 今回のシリーズのために調べているうちに、北海道にも縄文文化があったことを知って驚いた。縄文人がいたのは本州だけに限らなかったのだ。そして接着剤としてのアスファルトが秋田や新潟から、翡翠が新潟から北海道へ渡っていたことも分かった。縄文時代から人は日本海や津軽海峡を、丸木舟で渡っていたのだ。考えれば、恐るべき航海技術ではないか。彼らは方角も海流も理解していたのだ。 弥生時代の意外に早い時期に、米作りの技術が青森県まで到達していたことは既に書いた。先住民族である縄文人と弥生人の混血は東北地方ではまだ中央部ほど進まなかったのではないか。そして弥生時代もまだ狩猟に携わっていた人は多かったはずだ。なぜなら当時の水田は谷間や湿地などに多く、広大な山野は手付かず状態だったはず。つまり農業主体の民と狩猟主体の民が住み分けていたと私は考えているのだが。 雷神山古墳 これは宮城県名取市にある雷神山古墳。東北最大の前方後円墳で、墳丘の長径は168mある。被葬者は仙台平野一帯を支配した首長で、4世紀末から5世紀前半にかけて築造されたと考えられている。前方後円墳の存在は東北の豪族が中央の権力者と交流があった証。前方後円墳があるのは太平洋側では岩手県の南部までで、それ以北の墓の形態は全く異なる。中央の文化がまだそこに到達してなかったのだ。 1) 2) 3) 4) いずれも多賀城市の東北歴史博物館に展示されている埴輪のレプリカ。1)は盾を持つ兵士。2)は短刀を腰に差した兵士。3)は土器を持つ女性。4)は農具を持つ農民。 稲作が進むと集落をまとめるために、権力者が誕生する。そして次第に仕事が分業化されて来る。東北にもこれだけ立派な埴輪を古墳に立てる権力者がいたことに驚く。仙台市太白区大野田の春日社古墳からは、中央から伝えられた「隼人の盾」の痕跡が見つかっている。現物は腐ったが、色と模様が土に残っていたのだ。この時代の東北南部には、中央の権力者と結びついた豪族がいた証拠と言えよう。 これは古代の城柵がどう北上したかが分かる地図。つまり大和朝廷が「蝦夷」を征服して行った行程が分かる地図とも言えよう。蝦夷はエミシと読み、後世のエゾとは異なる。中央にとって異民族と感じた東北のエミシとは何かが今日の本論なのだが、果たしてどこまで迫れるか。 これは地図の最南端、仙台市太白区の郡山遺跡の復元図。遺構は第1期と第2期があり、付属寺院がある第2期の建物は、陸奥国国府だったと考えられている。ここには小さな池が設けられ、恭順したエミシを饗応したようだ。それは飛鳥の宮と同様の機能だった由。瓦葺きの寺院はエミシを驚かせ、酒肴による連夜の接待はエミシの心を和らげたはずだ。 これは国府多賀城の南門復元図。名取川と広瀬川の間にあった郡山官衙は、洪水のために流されたようだ。そこで国府を多賀城市の小高い山の上に移した。築造は元亀元年(724年)と伝えられている。国府には付属寺院があり、城下には縦横に道路が張り巡らされ、少し離れた場所に国司の館があった。この城は平安時代初期までに2度建て替えられている。 これは宮城県北部にあった伊治城の想定図。伊治は「これはり」と読み、後の栗原(くりはら)郡に繋がるようだ。この城にいたのが元エミシだった伊治公アザ麻呂。(アザは此の下に口)城を訪れた牡鹿郡大領だった道嶋大盾の暴言に怒って殺害し、さらには多賀城の国府を襲って火を放った。宝亀11年(780年)のことだ。落城した多賀城は、間もなく再建されている。 これは盛岡市に復元された志波城の南門。征夷大将軍だった坂上田村麻呂が平安初期に築造した。つまり当時の大和朝廷の太平洋側の最前線に当たる。後に雫石川の氾濫によって城域の一部が流出し、やむなく徳丹城を築造して南下撤退する。文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が岩手県北部と青森県南部のエミシを征伐して、手向かう者がいなくなったことも撤退の理由になったようだ。 これは悪路王の面だが、岩手県の胆沢(現在の奥州市)で坂上田村麻呂と戦った阿弖流為(アテルイ)の顔と言われている。エミシの族長だった彼は、大和朝廷から大墓公(たものきみ)と言う称号を与えられていたが、エミシの権益を守るため延暦8年(789年)から十数年間に亘って副将の母礼(モレ)と共に戦った。後に恭順し、田村麻呂と一緒に都に上る。 田村麻呂は優れた人物である阿弖流為を助けるために命乞いをするが、怖がった貴族達は天皇に斬首を進言。河内国の大和川河畔で母礼と共についに斬首された。延暦21年(802年)の出来事だった。エミシの英雄阿弖流為の首の行方は不明だが、近年これを憐れんだ関西の人たちが田村麻呂が建立した清水寺の舞台の下に慰霊碑を建てている。 この辺の事情は高橋克彦の小説『火怨』に詳述されている。もちろん歴史書と違うが、エミシの実態が分かるだろう。都の人々にとって東北の民は「まつろわぬ」民。つまり、言うことを聞かない野蛮な民で恭順させる必要があった。そして王の民として、多大な税を納めさせるのだ。 このエミシがアイヌかどうか、歴史家の判断が定まっていない。アイヌだと主張する研究者も半分はいるようだ。阿弖流為は馬に乗って戦ったが、元々アイヌ語には「ウマ」の言葉はなく、日本語から借用したもの。そして北海道に初めて馬が入ったのは1789年らしい。 エミシがアイヌかどうかはまだ証明されていない。阿弖流為の首が見つかり、DNA分析が出来たらきっと分かるはずだが果たしていつのことになるか。さて蝦夷には「強い人」の意味もある。蘇我蝦夷がその例だ。わが東北人の祖先だった縄文人。そしてその末裔のエミシの謎が解けるのは、果たしていつの日だろうか。 これは蕨手(わらびて)刀。青森県の古墳から発掘されたものだ。蕨手刀は北海道から九州に到る全国各地で200振りほど出土しているが、そのうち70本は岩手県内での発掘品。この地で製作されたと考えるのが妥当だろう。そしてアイヌには製鉄技術はない。エミシがアイヌではなかったことの証明にはならないだろうか。<続く>
2016.09.30
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<縄文の謎を解く> 9月14日(水)。私は多賀城市にある東北歴史博物館を訪ねた。特別展『アンコールワットへの道』を見るためだったが、その際に東日本大震災で破壊された縄文土器の修復に関する展示を見た。我が国が世界に誇る縄文文化。中でも東北地方は縄文文化が最も栄えた地方だったのではないか。 これまでの旅で、三内丸山遺跡、亀ヶ岡遺跡、是川遺跡(ともに青森県)、大湯環状列石(サークルストーン)など縄文時代の主要な遺跡を見学出来たのは、古代史及び考古学ファンの私としては大きな喜びだった。 しかし、なぜ縄文文化が東日本中でも東北地方で栄えたのかが私の謎だった。その謎が最近になってようやく解けた。「鬼界カルデラ」の爆発だ。7千年ほど前、屋久島の沖にあった火山島が大爆発した。火砕流は鹿児島県を埋め尽くし、火山灰は西日本一帯に厚く降り積もった。それが西日本の縄文集落に大きな影響を与えた。火山灰は遠く東北南部まで飛来したようだ。 次の謎は「縄文人がどこから来たか」だろう。中国大陸や朝鮮半島から稲を持って日本列島にやって来た弥生人とは明らかに骨格が違うし、顔の造作も異なる。縄文人は彫りが深く、体毛は濃く、顎は角張り、耳垢は湿っている。 一方の弥生人は体毛が薄く、顔は扁平で顎が尖っている。そして耳垢はカサカサと乾いている。明らかに見分けがつく両者だが縄文人は先住者で、弥生人はその後海を渡って日本列島にやって来た。この両者が混血して誕生したのが日本人の祖先と言うのがこれまでの通説だった。 日本列島にはたくさんの火山があり、土壌は火山灰によって酸性化している。このため人骨は酸に溶けて残り難い。石灰岩の洞窟の場合はアルカリ性のため、比較的人骨が残り易いと言われている。これは縄文人と弥生人の頭骨だが、明らかに顔の作りが違うのが分かるだろう。 弥生人の鼻が低いのは「北方的な適応」の影響だ。冷たい空気をそのまま肺に取り入れると熱効率が悪い。このため鼻から吸った空気を一旦副鼻腔に貯めて温める必要があった。それで顔全体が扁平になったのだ。また髭や体毛が薄いのは凍傷を防ぐためだった。だが体毛が濃い縄文人やアイヌ人が北に多いのはなぜなのだろう。それは後から来た弥生人とあまり混血せず、「隅っこ」に残った人たちだったからだ。 つい最近国立科学博物館の研究者によって、縄文人が古いタイプの人々であったことが確認された。これまでは比較的容易に抽出出来る「ミトコンドリアゲノム」のDNA解析が中心だったのだが、今回は「核ゲノム」の抽出とそのDNA解析に成功したのだ。これによってより縄文人の特徴が解明出来たと言う訳だ。研究対象となったのは岩手県の洞窟から発見された縄文人。その歯から核ゲノムを抽出した由。 その結果分かったのがこの図。これは私の字でなく、ネットで検索したもの。アフリカで誕生した人類がその後歩いて世界各地へ広まった。一方はヨーロッパに向かい、もう一方はアジアに向かった。当然アフリカ大陸内に留まった人たちもいた。 アジアへ来た人類も南方に向かった人もいれば北方に向かった人もいる。日本人は中国などの人々同様に北へと向かった一群だったが、縄文人はそれ以前に別れた古い民族だったことが今回初めて分かった。どの民族のDNAとも一致しない特徴があり、容易に区別がついたそうだ。 さてこちらの画像はアイヌ人の顔。そして右側は北海道大学の研究者が作成した遺伝子の近さを元にした系統図。恐らくは「ミトコンドリアゲノム」による分析と比較だろう。これでもアイヌと「北海道縄文人」が、比較的近い関係にあることが分かる。そして中国人や「本州日本人」とは大きくかけ離れていることも同時に分かるだろう。 北海道大学は人類学研究を目的として、かつてアイヌ人の墓から人骨を「採集」したことがあった。近年その遺骨を返還したと聞いた。埋葬した人骨を勝手に掘り返して持参したのだから当然だと言える。恐らく「発掘」したのは旧帝国大学時代のことだろうが。 人類学的、遺伝学的観点からは縄文人とアイヌ人の特徴が似てることは分かった。だが、彼らが生きて暮らした時代は異なると見た方が良いだろう。縄文文化は本州と北海道では時代がずれているし、その後の時代区分も大きく異なっている。明確な「アイヌ文化」が定着したのは、ずっと後になってからなのだ。 一方沖縄人の方はどうだろう。沖縄の洞窟からは旧石器時代の人骨が多数発見されている。前述のとおり、石灰質の洞窟は人骨が残り易い条件がそろっているからだ。だが、旧石器時代の人と縄文人は異なる。これまで縄文土器が見つかっているのは宮古島までだ。「濃い顔」の人が沖縄に多いのは、弥生人との混血が少なかったため。つまり中央から遠く離れた位置が、古い特徴を持続させたと言うことだろう。 縄文人と沖縄人のDNAが似ていることは既に明らかになっている。民俗学者柳田國男の「海上の道」説が現在ではほとんど否定されている。これは稲を携えた人々が、琉球列島を経由して日本列島へやって来たと言う説だが、現在では中国本土山東半島付近から直接日本へ来たと言う説が有力だ。そして東京帝国大学がかつて収集した「百按司墓」の人骨は、未だに返還されていない。 かつて第一琉球王朝の王族の墓に埋葬されていた人骨のDNAは、インドネシア人の特徴と類似すると聞いたことがあるが実態はどうなのだろう。またつい最近、宮古島の洞窟から縄文人の人骨20体分が発掘されたと聞いた。いずれこの人骨のDNA分析が実施されれば、謎がより解明されるように思う。写真は重要文化財の中村家住宅。(北中城村)<続く>
2016.09.28
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迷走台風10号は日本海に抜けて温帯性低気圧になったようだ。被害の具合はまだ確認していないが、津軽のリンゴは大丈夫だったのだろうか。確認前に、先ず私はブログを書く必要がある。今日は眼科で検査を受けたり、用事に出かけたりと忙しい日なのだ。ゴメンm(__)m <秋田県立博物館の縄文展示から> 「縄文展示」の入り口に、こんな植物の蔓で編んだ籠のようなものが木にぶら下がっていた。この籠で縄文人は物を運んだのだろうか。 縄文人が使用していた石器。左は鋭い刃を持つ石器類。恐らくはこれで獲物を切ったり、獲物の皮を剥いだのだろう。右は漁網を鎮めるための錘。穴が開いてるのは網を通し、黒いアスファルトが残る石は、網に縛って固定したのだろう。 左は「三脚型石器」と呼ばれるもので使途は分かっていない。私は今回初めて見たが土偶の代わりのようにも見える。右は「王冠型石器」と呼ばれるもの。これも実用性はなく、恐らくは宗教行事に用いられたのだろう。 ともに深鉢だが、こんな深い鉢をどうやって使いこなしたのだろね。 見事な装飾が施された深鉢。底が尖って安定しないので、炉端の土に埋められたのだろう。黒ずんでいるのは、火を燃やされた痕かも。 いずれも深鉢の仲間。芸術的な優れたデザインが施されている。きっと土器を作る専門家がいたのだろうね。宗教儀式にでも使用されたのだろうか。 左の壺の口縁部にはなにやら呪術的な突起が見えますね。右の壺の口縁部はかなりひねられていて、これも使い難そう。恐らくは宗教行事で使用されたように思うのだが。 ともに厳かな雰囲気がある深鉢。右の土器には注ぎ口がありますねえ。 いずれも「注口土器」と称されるものです。恐らくは神事の際に、酒などを入れたのでしょう。酒の原料としてはサルナシ(キウイの原種)などが考えられるようです。まだ米はありませんので。 壊れてはいるものの立派な注口土器ですね。やはり宗教儀式に使われたのでしょうね。 これは「はそう型土器」と呼ばれるものです。漆が施された立派な物なので、恐らくこれも宗教儀式に用いられたのではないでしょうか。 これは「人面付環状注口土器」で、重要文化財に指定されています。いわば「水筒」のような形をしていますが、やはり宗教行事に使われた重要な祭祀用具だったのではないでしょうか。 いずれも漆(うるし)が施されていた浅鉢です。青森県八戸市立是川縄文館付近の遺跡では、住居付近に用途に応じて5~6種類の木を植えて管理していました。漆もその中の一つです。漆は耐久性もあることから、縄文人が塗料として重要視していたことは間違いありません。恐るべし縄文人の眼力。 <縄文の時代区分> 旧石器時代に続く縄文時代は約1万年以上も続いた世界に誇る高度な文化を持った時代で、わが日本人の祖先でした。長い間私は疑問を抱いていたのです。なぜ東北をはじめとする北日本が縄文時代は栄えていたのかと。恐らくは鮭やドングリなど食料が、他の地区に比べて豊富だったからだろうけど。 縄文時代に一番人口密度が高かったのも東北でした。なにせ青森県の「三内丸山遺跡」では常時500人もの人々が同時期に暮らしていた大集落で、これはもう「くに」レベルでしたものね。 ところが最近とんでもないことが分かるのです。「鬼界カルデラ」の火砕流が西日本を埋め尽くしたと言うことが明らかになって来たのです。薩摩半島の沖合に、硫黄鳥島、竹島という2つの小島がありますが、その南にかつて巨大な海底火山がありました。 それが大爆発して吹き飛び、火砕流や火山灰を西日本一帯に広げたというもの。最近岡山の備前市でこの火砕流の痕跡が見つかったとかでビックリ仰天。この影響で西日本の縄文集落が全滅しかけた時期があったのでしょうね。 鬼界カルデラだけではありません。九州には阿多カルデラ、姶良カルデラ(ともに鹿児島県)、阿蘇カルデラ(熊本県)など大きなカルデラがあり、その爆発が、西日本を脅かして来ました。また青森の三内丸山遺跡を発掘すると、十和田カルデラ(青森・秋田)の火山灰地層が出ています。 縄文人の悩みは平均寿命が短かっただけではなく、火山の噴火、台風、地球の温度の変化(海水の前進と後退)などの影響を受け、厳しい戦いをして来たことです。ご先祖様の縄文人はその時代の自然災害と戦い頑張って来たのです。ありがとうね、ご先祖様たち。 これで東北の縄文時代の紹介は終わりますが、このシリーズはまだもう少し続きます。<続く>
2016.08.31
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<秋田県立博物館の土偶など> このシリーズでは6月の旅で訪れた、岩手、青森、秋田の歴史を、その時に撮影した写真を元に年代順に紹介しています。3回目もまだ縄文時代の紹介で、今日は秋田県立博物館で見た土偶などが中心です。写真の撮影には予め博物館の許可を得ています。学術的で地味な内容ですが、楽しんで見ていただけたら嬉しいです。 のっぺらぼうの顔ですが、女性の土偶であることが分かりますね。 体に空いたブツブツの穴は、一体何を表しているのでしょうね。 立派な髷(まげ)とでべそですね。 体に刻まれた線は刺青(いれずみ)なのか、それとも衣服か? これは宇宙服を着た宇宙人みたいですねえ。 これは遮光器型土偶ですね。縄文式土器と同じ紋様が刻まれています。鼻が天井を向いているのがご愛敬かな? これもでべその遮光器型土偶の女性像です。 土偶の頭の部分が欠けているのは、人間に代わって災難を受けてもらうため。土偶には縄文人の祈りが込められているのです。 大小さまざまな土偶が勢ぞろい。中には頭が欠けた土偶もありますね。 扁平な首なしの土偶。腹部に開いた穴は何でしょうね。 こちらの土偶は穴だらけです。単なる模様なのでしょうか。 黒光りした土面。でもお面として実際に利用したものではないようです。 尖がり顎のアントニオ猪木みたいな顔の土面ですね。1、2、3、ダー!! 遮光器型土偶そっくりの土面ですね。 こちらの土面も遮光器(エスキモーの雪眼鏡)をつけたように見えますなあ。 これは岩版と言い、岩に美しい紋様が刻まれています。(以下同様) まるで顔のようにも見えますが・・。 素晴らしいデザイン。縄文人の芸術性の高さを感じますね。 この紋様には強い呪術性を感じますねえ。 骨片に人間の顔が彫られています。今日紹介した土偶、土面、骨製品は全て祈りの対象になったものと考えらます。平均寿命が37歳だった縄文人の切ない思いが、これらの作品に込められているように感じます。縄文人は私達が考える以上に精神性や宗教性が高く、信仰心が篤かった人々なのです。 私は帰りの電車の時間が迫るまで、夢中になって写真を撮っています。メモを取る暇もないので、説明板なども必要に応じて撮るのでどうしても枚数は増えますね。6月の旅では800枚ほど写真を撮り、帰宅後に1枚ずつ名前をつけ、内容ごとに分類しておきます。それが後日ブログで紹介する際に役立ちます。もちろん必要に応じ、ネットで事実を確認することも多いのです。<続く> 台風10号の上陸が近づいています。どうぞ大きな被害が出ませんように。読者の皆様も、くれぐれもご用心くださいね~!!
2016.08.30
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<素晴らしい縄文土器1> 遮光器型土偶 昨日私はこれまで専門書を読んで来たと書いたが、そのほとんどは忘れている。ただ、「自分が何を知らないか」は分かっているので、調査も簡単だ。昨年は岩手県盛岡市の志波城公園、遺跡まなびの館、もりおか郷土館、秋田県鹿角市の大湯環状列石(サークルストーン)、青森県五所川原市の十三湊遺跡(中島資料館)、亀ヶ岡遺跡(縄文館)、青森県立郷土館を訪ねた。 また今年は岩手県遠野市の「とおの物語の館」、遠野城下町資料館、遠野市立博物館、青森県八戸市立是川縄文館、むつ市の恐山、秋田県秋田市の旧久保田城(千秋公園)、秋田県立博物館を訪ねた。基礎知識はほとんどないまま現地に赴き、遺物や城跡などを自分の目で確かめている。そして帰宅後にネットで事実を確認し、ブログに書くのがほとんどだ。写真は是川縄文館で見た遮光器型土偶の再掲。 これは是川縄文館で見た装身具で、翡翠(ひすい)製の玉。恐らくは新潟県糸魚川市姫川産の翡翠だと思う。ここからはまだ公開してなかった写真を掲載している。 これは胸飾り(ブレスレット)だろうか。メノウ製の勾玉などからなる豪華な作りだ。(是川縄文館) 土製の耳飾り(イヤリング)で細かい装飾が施されている。耳たぶに穴を開け、これを嵌めるのだが、かなり重そうだ。まるでクッキーみたいに見える。(是川縄文館) 縄文土器の深鉢。釉薬はかかってないと思うのだが艶があり、まるで青磁のようだ。装飾も実に見事。(是川縄文館) 縄文土器の壺。これも見事なデザインだ。口縁部には小さな突起が見られ、呪術性を感じる。(是川縄文館) 「人面」のある壺。是川縄文館のパンフレットから借用。 上の写真を一部拡大した。人面が良く分かるだろう。 香炉型土器と呼ばれるもの。呪術性、宗教性を強く感じる。右のものには注口部があるようにも見える。(是川縄文館) 深鉢など。黒く焼けた痕があるので、煮炊き用に使ったのだろうか。それにしてもこんなに深い(長い)鉢を、どんな風に使用したのだろう。(是川縄文館) ここからは秋田県立博物館所蔵の縄文土器です。最初は人面のある壺の破片。 香炉型土器。独特の装飾から宗教儀式に使用したのではないか。どこか人面にも見える。 これらは「銅鐸型土器」と呼ばれるものです。小さな鈴のような形をしており、実用性はあまり感じない。おそらくは宗教行事に利用されたのではないか。 これは「キノコ型土器と呼ばれているもの。本当にキノコそっくりなので、キノコを模したのだろう。それにしても縄文人の精神性には謎が多い。 説明板には「三角溝形土製品」とある。これはユニークな郵便受けのようにも見えるし、ロールケーキのようにも見える。縄文人は一体これをどんな風に使ったのだろうね。謎が深まる。少々退屈かも知れませんが、明日も縄文土器の紹介の予定です。<続く>
2016.08.29
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<歴史と思い出> まだ小学生のころ、仙山線の線路脇の土手で白い貝の層を見つけた。それは私が初めて見た「貝塚」で、歴史に関心を持つきっかけになったようだ。東京に転勤して千葉の幕張に住んだことがあり、千葉市内で加曾利貝塚を見た。日本有数の貝塚はとても巨大で立派だった。宮城県内では大木囲貝塚などを見た。いずれも縄文時代を代表する貝塚だ。 五色塚古墳 高校生の時、近所の畑できれいな石を拾った。近くには東北地方で第3位の大きさを持つ前方後円墳の遠見塚古墳があった。土器の破片らしいものもたくさん落ちていた。拾った石は滑石製の「紡錘車」だったと思う。恐らくあれが考古学に興味を持つようになったきっかけだろう。 やがて私は転勤族となり、徳島勤務の時は岡山の作山古墳、造山古墳、神戸の五色塚古墳などを見た。いずれも日本を代表する巨大な前方後円墳で、五色塚古墳は築造当時の「葺石」や埴輪まで復元してあった。明石海峡を目の前にした古墳は船で通過する者が、権力のあまりの大きさに驚いたことだろう。そうそう、埼玉のさきたま古墳群では丸墓山古墳(円墳)や稲荷山古墳(前方後円墳)なども見た。 私の本箱の一つ 30歳を過ぎた頃から、私は「新刊ニュース」で歴史関係の専門書を選ぶようになった。対象は日本古代史や考古学関係だが、やがて神話学、文化人類学、人類学、言語学、宗教学、民俗学などにも広がり、東アジアの歴史にも関心を持つようになった。基礎知識がないため読解するには苦労したが、少しずつ読み進めた。定年後には歴史小説も読み始めた。幕末期のものが多かったが、中国の歴史小説もかなり読んだ。 沖縄勤務時には琉球史関係の本を中心に、沖縄に関する本を300冊ほど読んだ。沖縄の文化や宗教、民俗、地理、生態、文学など様々だ。また詳細な地図を持って県内の城(ぐすく)、御嶽(うたき)、拝所(うがんじゅ)、風葬墓などの聖地を40か所以上訪ねた。そのことで沖縄には原始神道はじめ、現代の日本が失った古い形が残されていることを知った。沖縄については今でも鮮烈な印象が残っている。 たまたま博物館に転勤したことから、アイヌの文化にも関心を持つようになった。「北海道マラソン」参加のついでに、アイヌ人初の国会議員となった萱野茂氏の自宅と博物館を訪ねたことがあった。氏は私が勤務していた博物館のチセ(アイヌの小屋)の祭りに毎年来られていて、顔見知りだった。風邪で臥していたのだが、わざわざ起きて来て色んな教示をいただいた。忘れられない思い出だ。 吉野ヶ里遺跡 沖縄勤務時には九州地区の会議を利用し、佐賀県の吉野ケ里遺跡を訪ねたことがあった。弥生時代を代表する遺跡だが、当時はまだ整備が始まって間もなくのこと。それでも遺跡の広さや「甕棺」などの葬制を目の当たりにして驚愕した。「邪馬台国九州説」の根拠ともなる遺跡だけに、王の絶大な権力を見せつけられた想いがした。別な機会には大宰府跡や宗像大社(福岡県)、宇佐神宮(大分県)なども訪ねた。 真脇遺跡チカモリ遺跡 石川勤務時には能登半島の真脇遺跡を訪ねた。ここは縄文時代の遺跡で、約5千年に亘ってイルカの追い込み漁をして来た場所。地下には累々たるイルカの死骸が眠っている。イルカの脂を燃やしたランプなどが出土し、住民はアイヌと同様に木の棒を立て、獲物の魂を「送る」儀式をしていた。 金沢市内のチカモリ遺跡では半分に割った栗の巨木を円形に立ててある。ここも縄文時代の遺跡。縄文時代にこんな巨木を切り倒して運搬し、真っ直ぐに立てる技術があったことに驚いた。 三内丸山遺跡 これは青森市にある三内丸山遺跡。野球場を造る工事中に発見された日本を代表する縄文時代の遺跡で、常時500人ほどが住む巨大な集落だった。道の両脇にはずらりと墓が並び、広場には巨大な楼閣(櫓)や長さが50mにも及ぶロングハウスなどが建てられていた。楼閣の基礎には版築と呼ばれる工法が用いられている。これは粘土と砂を交互に入れて突き固め、地盤を強化する方法だ。 谷のゴミ捨て場では、貴重な遺物が発掘され、北海道から新潟まで、日本海を通じての物の交流があったことが判明している。また集落の周辺では栗など、数種類の植物が栽培され、縄文時代が単なる採集文化ではなかったことが分かった。 火焔土器 4年前の旅行では、長岡市にある新潟県立博物館で、見事な火焔土器など縄文時代の遺物をたくさん見学した。現物を見ると、本で読むだけでは得られない発見や感性が起きる。この時は縄文人のパワーを感じたものだ。この旅行では越後一宮である弥彦神社へも立ち寄った。 さらには吉備津神社、吉備津彦神社(岡山)、出雲大社(島根)、大麻比古神社(徳島)、伊勢神宮(三重)、熱田神宮(愛知)、石上神社、大神神社、春日大社(奈良)、住吉大社(大阪)、八坂神社、貴船神社(京都)、白山比め(めは口に羊)神社(石川)、出羽三山神社(山形)なども訪ねている。 遮光器型土偶 これは昨年青森県立郷土館で見た遮光器型土偶。ここには「松韻堂コレクション」と言う、縄文時代の遺物を中心とした優れた展示物があった。青森在住の医師親子が二代に亘って収集した逸品だ。「遮光器」とはエスキモーが使う「雪眼鏡」のこと。目の周囲がこれに似ていることからの命名だ。新潟の火焔土器もそうだが、初めて見て縄文人のパワーと宗教性、感性に驚いたものだ。大湯環状列石 これは昨年訪れた秋田県鹿角市にある大湯環状列石(ストーンサークル)。縄文時代の巨大なお墓で、この巨大なサークルの中に、小さな円形の石組が幾つかある。また広い遺跡にはもう一つの環状列石や、幾つかの配石遺構があり、「墓」の傍には祭祀のための掘っ立て小屋が数棟建てられている。墓として使用された期間がわずか200年間だったとのことにも驚いた。 合掌土偶(国宝)これは今年の6月、八戸市立是川縄文館で見た「合掌土偶」。まるで宇宙人のようだが、縄文人の信仰心が分かる。縄文人の平均寿命はわずか37歳。自らの長寿と子孫の繁栄を真剣に祈る姿なのだ。膝の辺りが壊れ、アスファルトで接着した痕があることからも、大事にされていたことが分かる。土偶のほとんどが人間の代わりに破壊されることが多い。それが後世の「流し雛」に繋がって行くのだろう。 こんな風に、歴史や考古学に対する思いは尽きない。毎年の旅行も、私の趣味に合わせてのことが多いのだ。このシリーズは冒頭から長引いてしまった。いよいよ明日からは残った写真を使って、東北の歴史を訪ねる旅を紹介したいと思う。最後までお付き合いいただけたら嬉しい。<続く>
2016.08.28
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<豊かな縄文の暮らし> 縄文人の人骨 秋田県立博物館にも縄文文化の立派な展示があった。縄文文化に関しては、青森県八戸市立是川縄文館で土器、土偶、漆器を中心に紹介した。ここでは縄文人の暮らしと使用された石器を中心に紹介したい。 縄文人の集落。この集落は5つほどの小屋がある程度のむら。 縄文人の集落をジオラマ化したもの。とても小さなむらだ。 掘っ立て小屋にはいろんな形のものがある。中には半地下式にして、屋根には土を被せた小屋もあった。その方が夏涼しく、冬暖かいためだ。 小屋の中の様子。小屋がこじんまりしていたのは彼らが核家族だったからだ。縄文人の平均寿命は37歳程度と言われている。乳幼児期の死亡率が高いことが、平均寿命を引き下げた原因だ。 獲物の皮を剥ぐ縄文人。縄文人の暮らしの中心は採集だった。捕まえた獲物を効率良く処理するために、彼らは石で様々な道具を作った。いわゆる石器だ。 ナイフ型の石器(左)やさまざまな鋭い刃物類(右) 左は「台形石器」と呼ばれる小さくて鋭い石の刃。これを右図のように木製の台に埋め込むと、まるで包丁のような便利な道具になる。これで皮を剥ぐ作業がとても楽になる。 縄文人はどんな木がどんな作業に向いているか、木の特徴を知っていた。だからその用途に応じて、使う木を選んだ。左からミズキ、キハダ、クリ、クリ、コナラ、クリ、ヤナギ。数種類の木は、住居の傍に植えて、頻繁に使った。 左は石斧(せきふ=いしおの)。これを右図のように木の先端に結んで、斧として使用した。この斧で太い木を切り倒して丸木舟を作ったり、小屋の柱としたりした。まだ鉄器がなかった時代は、より鋭利な石を選んで道具としたのだ。 各種の槍先。これらの鋭い石器を棒の先端に取り付けて槍とし、獲物を獲る道具とした。 ナイフ形石器。これで肉片を切断したのだろうか。 左は形状から石匙(せきひ=いしさじ)と呼ばれているが、実際の用途は動物の皮剥ぎ用のもの。右のへら状の石器は、木材に深い穴を開けるための道具だと思われる。 普通の石皿(左)と使い易いように改良された石皿(右)。これらでドングリの実などを磨り潰して粉にした。粉の方が熱が通り易く、加工し易いため。また毒性のある果実は水に曝して無毒化したことが知られている。 縄文人の漁の様子 錘(おもり)型石器のいろいろ。水中に沈めるために石の錘を網に固定した。錘が外れ難いよう、アスファルトを塗った痕跡が錘の石の中央付近に薄く残っている。当時アスファルトは、接着剤として使用され、秋田が主要な産地。三内丸山でも秋田のアスファルトが使用されていた。 縄文人の食事内容。左は「タイの蒸し焼き」。「右は栗と鳥肉のハンバーグ」。 左は鹿肉のステーキ。右は出汁を入れて作ったスープ。 鹿角市にある「大湯環状列石(サークルストーン)」の模型。この神聖な石組は縄文人の墓地だった。私は昨年ここを訪問し、広大な遺跡の全容をつぶさに見学している。 左は「子持ち勾玉」。勾玉は胎児の形を表したとも言われる重要な装身具の一つ。後世は巫女もこの形の装身具を身に着けた。沖縄の祝女(のろ)は現在でも神事の際には勾玉を身に着けるのが普通。 右は石棒。一説によれば男性器を模したものとも言われる。平均寿命がとても短かった縄文人は、この石棒を炉の傍に立て、子孫の繁栄と長寿を祈ったと考えられている。いずれにしても縄文人の精神性、宗教性はとても高く、それが様々な形の土器、土偶、土版、石器、石版などに表れている。<続く>
2016.07.18
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<秋田城・東北の古代史と日本海> 旅の最終訪問地は秋田県立博物館。JR秋田駅から奥羽本線か男鹿線で3つ目の追分駅で下車し、そこから寂しい道を30分近く歩く。途中にはスポーツで有名な県立金足農業高校があった。 この博物館は出来てから40年ほど経つらしいが、全面的に改修したせいか古さは全く感じないどころか、なかなか斬新な展示だった。入館料も無料と意欲的。写真撮影の際は先ず届けて、許可を受ける必要がある。 館内で意外なコーナーを発見。秋田城や雄勝柵など古代の城柵のコーナーがあったのだ。秋田県立の博物館なので当然と言えば当然なのだが、その朝行けなかった秋田城に関する情報が得られたのは予想外の収穫だった。 何せこの博物館を見終えてまだ時間が許せば、途中の土崎駅で降りて秋田城へ行こうとし、駅前にタクシーが停まっていることを確認したほどだ。興奮して展示を見つめた。 復元された秋田城 天平5年(733年)山形の庄内地方にあった出羽柵が秋田に移転された。蝦夷を制圧するための日本海側の拠点としてだ。これがやがて秋田城と改称される。 ここで東北の古代史をおさらいしておきたい。記述は年代順にした。1)斉明天皇4年(658年)から3年間、将軍阿倍比羅夫が渡島(北海道)に押し寄せていた粛慎(みしはせ)と交戦した。この際蝦夷の恩荷(おが=後の男鹿か)を淳代(=能代)、津軽2郡の郡領とし、渡島の蝦夷を饗応した。 粛慎はロシアの沿海州付近のツングース族のこと。阿倍比羅夫は越(福井県から新潟県まで)の国守でもあり、斉明天皇9年(663年)には征新羅将軍として白村江において唐・新羅の連合軍と戦っている。いずれも日本海を船で移動するしかない。古代の日本海側は古くから舟運が盛んだったことが分かる。2)和銅5年(712年)出羽国が成立。越国の一部と陸奥国の日本海側を割譲して出来た。現在の山形県と秋田県に相当。 東北の城柵3)和銅2年(709年)には既に出羽柵(城輪柵)があったことが歴史書に記されている。場所は現在の山形県酒田市付近と考えられている。もちろん日本海側の蝦夷を制するためだ。4)神亀元年(724年)多賀城が置かれる。陸奥国国府であり、蝦夷制圧のための鎮守府でもあった。多賀城の前身である陸奥国府跡と考えられる郡山遺跡(仙台市)の成立期は不明。5)天平5年(733年)出羽柵が秋田へ移転。後に秋田城となる。出羽国北部の軍事拠点であり、政治の中心地であった。津軽や渡島の蝦夷との交流や渤海国との外交拠点でもあった。また同年内陸部に雄勝郡が成立した。6)天平宝字3年(759年)藤原朝狩が雄勝城を築城。これによって内陸部の蝦夷征伐が進んだ。7)延暦22年(803年)征夷大将軍坂上田村麻呂が現在の盛岡市に志波城を築城。こちらは北上川を北上しながら蝦夷を征服して行った。 渤海国(ぼっかいこく)や靺鞨(まっかつ)の名は聞き馴染みがない人がほとんどだろう。渤海国は唐から「海東の盛国」と呼ばれた貿易国で、現在の福岡市には鴻臚館と呼ばれる使節接待・宿泊施設があり、能登半島と秋田にも渤海使節を饗応する施設が置かれた。 靺鞨は多賀城の石碑(壺の碑)にも名が刻まれている。ツングース系の民族で阿倍比羅夫が退けた「粛慎」の末裔。東北にはこのような日本海を通じての交流や戦いが、古代からあったのだ。 秋田城跡から出土した瓦 秋田城跡から出土した柱 秋田城の発掘状況 秋田城の発掘状況。防御のための「築地塀」の跡。宮城県の「多賀城」も秋田城と同様に丘の上にあり、このような築地塀で蝦夷の侵入を防いでいた。 築地塀の構築再現状況。粘土と砂を交互に入れて突き固める「版築」と呼ばれる工法で、三内丸山遺跡(青森)の楼観の土台にもこの版築工法が用いられていた。 出土した「人面壺」 墨書土器。土器の底に墨で文字が記されている。 漆紙文書。壺に入れた漆が乾燥しないよう、使用済みの紙を蓋代わりに使った。その紙に漆が沁み込んで今日まで残ったもの。国内の各所で同様の文書が見つかっている。 円面硯(えんめんけん)。陶製の硯(すずり)で、役人達がこれで墨を磨り文字を書いた。 復元された秋田城の城門1 復元された秋田城の城門2 恐らくこの朝に訪れたとしても、あまりにも広過ぎて全部は見切れなかったのではないか。またこれだけ詳しい説明もなかったと思う。直接見られなかったのは残念だが、初期の目的は十分に果たせ、大満足の私だった。 この後も古代の東北では「前九年の役」、「後三年の役」と大きな戦いが続く。その戦乱が治まり奥州藤原氏が平泉に造営した「極楽」も頼朝によってわずか4代で終焉を迎え、中世へと突入することになる。 上の肖像は蝦夷出身の豪族であった安倍氏の末裔で、左が秋田氏で右が安東氏。彼らは日本海へ船を乗り出して巨万の富を築く。阿倍比羅夫以前、遥か縄文時代から日本海は交流と貿易の場であり、やがてその歴史は北前船による西廻り航路の開発へと繋がって行く。<続く>
2016.07.17
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<是川縄文館の至宝> 今日は「八戸市立是川縄文館」の「遮光器型土偶」と国宝の「合掌土偶」を紹介します。 首だけで胴体のない土偶です。目が眼鏡のように見えます。これがエスキモーが使用する遮光器(雪眼鏡)に似ていることから、「遮光器型土偶」と言われています。特に青森県や秋田県からたくさん出土している土偶です。 首がなく、胴体だけの土偶です。後世の「流し雛」と同じ思想で、身にまとった穢れを人間に代わって祓うため、わざと壊された人形(ひとがた)なのです。弥生時代の貫頭衣と異なって服装はかなり装飾的で、縄文人の宗教性や精神性がとても良く表れています。 乳房の形状から見て、女性と思われます。 瞑想にふけるような表情の土偶です。まるで「火焔型土器」のような珍しい頭髪をしています。こちらは男性でしょうか。 口笛を吹いているような表情が愉快です。手ぶれしたのが残念!! 爆発したような頭髪の表現に圧倒されます。これがまさに縄文パワーでしょうか。 結われた豊かな髷(まげ)に驚きますね。 UFOに乗ってやって来た異星人みたいです。 何とも奇怪な表情の土偶。縄文人の表現の奔放さには驚かされますね。呪術にでも用いられたのでしょうか。 かなりディフォルメされた顔と体です。 乳房が誇張されていますが、顔の表情が定かではないのが残念です。 口を開き、特徴ある頭髪の土偶ですね。 この土偶は首と右腕が破壊されています。 赤ちゃんのような表情の土偶ですが、ちょっと不気味かな? こちらは快活な表情の子供のように見えます。 容器型の土偶です。ちょっと変わってますね。 ほぼ完璧な状態で発掘された土偶です。 発掘中の「合掌土偶」です。 完全に泥を落とされた「合掌土偶」。縄文人の深い精神性が良く分かりますね。 「合掌土偶」に関する説明文。良くお読みいただけると幸いです。 これが「合掌土偶」に関する「国宝指定書」です。<続く>
2016.07.06
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<縄文の漆文化を見直す> 縄文人が漆を使用していたことは、三内丸山遺跡から出土した漆塗りの櫛で知っていた。だが漆が土器にまで使用されていたことを知ったのは、昨年訪れた青森県立郷土館の展示物を観たのがきっかけだった。 今回の旅で八戸市の是川遺跡を訪れ、ここでは漆は住居の近くに植えられ、きちんと管理されていたことに驚いた。そして見事な漆製品がたくさん発掘され、展示されていたことにさらに驚いた。 漆は英語で「Japan」と呼ばれる。もちろん中国大陸にも漆文化はあるが、日本の漆とは若干DNAが異なると聞いた。どうやら日本の漆文化は、独自に発達したようで、その萌芽が既に縄文時代の東北地方にあったのだ。何はともあれ、先ずは是川遺跡の漆製品をご覧いただこう。 赤い色の土器と黒い色の土器には漆が塗られ、光って見える。ひょっとしたら後の1本もそうなのかも知れない。縄文人の暮らしには、ここまで漆文化が浸透していたのだ。 漆が塗布された注口器型土器。美しいだけでなく、強度が一層増すのも漆の特徴だ。 到底土器とは思えない重厚さが感じられる作品。だがこれは生活用品であって、芸術作品として作ったわけではない。 中の材質は竹で編んだザルだが、それを補強するために漆を塗っている。これらは籃体漆器(らんたいしっき)と呼ばれ、軽くて丈夫なのが特徴だ。 木の皮で作った容器に漆を塗ったもの。私は今回初めて観た。 浅鉢の底部。本体は木製で、その上から漆を塗布してある。(☆後出の復元品を参照されたい) 容器の蓋(ふた)で材質は不明だが、木製品のようにも見える。 弓2張り。このような武具にまで漆が使用されていることに驚く。恐らくは強度を上げるためと思われる。 湾曲した木の枝。私見だが、これに網を取り付け、漁具として使用したのだろう。 腕輪と思われる装身具。 櫛(上)と土製のイヤリング(左下)。 漆器に描かれた紋様。 漆が塗られた土器類の総合展示風景。 ここからは縄文時代の技法を使って復元された漆製品の展示物。木製の木地に漆を塗っているが、到底「ろくろ」を使用したとしか思えない作品だ。 ☆前出の木胎漆器(鉢)の復元品。見事な完成度に驚かされる。 木胎漆器による深鉢。復元品とは言え、縄文時代のものとは思えない出来栄えだ。 台付き皿。現代の作品と比較しても、何の遜色もないように見える。 縄文時代の技法で復元された4本の櫛。当時の暮らしぶりが偲ばれる。 これは私の推測だが、漆が塗料として使用されたのは、偶然のことがきっかけだったのだはないだろうか。だが賢明な縄文人は長い間かかって研究を重ね、塗料として漆を使う技術を完全にマスターし、代々子孫に伝えて行った。 土器も石器の製造も同じ。先人が確立した技法を子孫が継承し、さらに発展させて行った。縄文人の精神性、宗教性の深さや、文化の高さには驚くことばかりだ。明日は是川遺跡の目玉である国宝指定の「合掌土偶」ほか、優れた「遮光器型土偶」の数々を紹介したい。<続く>
2016.07.05
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<縄文人の暮らし> これが是川縄文館(これかわじょうもんかん)の建物で、青森県八戸市の郊外にあります。 この地区の航空写真です。里山の麓に、3つの遺跡が引っ付きあっています。当時は割と近くまで海が迫っていたと思われます。 遺跡の説明板です。それぞれの時代で、縄文人は住む場所を変えていたようです。長い年月の間に、少しずつ生活のパターンが変化して行ったのでしょうか。 中居遺跡の樹相を図式化したものです。彼らは住居付近に、数種類の木を使用目的別に植えていたことが分かりました。漆(ウルシ)も自然のものを採ってた訳じゃないんですねえ!! これは当時の「ゴミ捨て場」の発掘状況です。三内丸山遺跡もそうですが、このゴミ捨て場から、貴重な遺物がたくさん発掘されています。腐敗せずに残ったのは、恐らく地下水のため空気に曝されずに済んだのが原因と思われます。 これは斧の柄です。しっかりした形がそのまま残っています。 これは長さが3mもある太い柱です。恐らくは掘っ立て小屋を支えていたものの1本でしょう。 クジラの背骨です。重量があるクジラを運ぶのは、たとえ切り裂いたとしても容易ではありません。恐らく海が近くまで来ていたと考えられる理由はこのためです。気候が温暖だった時期は、海の氷が解けて海水が増し、海岸線が現在よりも奥まっていました。これがいわゆる「縄文海進」です。 別館(縄文学習館)が建っている風張遺跡の発掘状況ですが、それほど広くはありません。またここに建っていた小屋の数もそれほど多くはなかったことが分かっています。 縄文人の集落を再現したジオラマです。家のすぐ傍に「栽培林」があります。 こちらは発掘調査結果に基づいて復元された小屋の様子です。小屋の形にも色んなパターンがあったようです。 縄文人の服装です。衣服の材料も様々でした。また装飾品も豊富で、意外なことに弥生時代よりもむしろファッション性に優れていたと考えられています。 発掘結果に基づいて再現された縄文人の「かまど」です。当時としては最先端のキッチンで、ハンバーグやクッキーなどを焼き、各種のスープを作って食べていたことも分かっています。食料が豊富だった縄文時代の東北は、国内でも最大の人口密集地でした。 集落の傍には良く管理された林があり、その木を材料に使って様々な道具を作っていました。また栗やエゴマなど数種類の食料を栽培していたことも判明しています。縄文時代はこれまで考えられて来たような、単純な採集生活ではなかったのです。 鋭い刃物を作る黒曜石、接着剤として用いるアスファルト、装身具原料のヒスイなどは、海や川を通じてかなり遠くから運ばれて来ています。その交流範囲の広さにも驚かされます。明日からは是川遺跡から発掘された見事な土器、土偶、漆製品などを順次紹介しますね♪<続く>
2016.07.04
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5月5日こどもの日。私は自転車に乗って「地底の森ミュージアム」へ行った。企画展「地下鉄沿線の遺跡」を見るためだ。ここの地下には旧石器時代の森が、そっくりそのままの形で眠っている。その森の保存館の機能も兼ねているのがこのミュージアムだ。ここのマスコットは富沢博士。アトムの「お茶ノ水博士」にちょっぴり似てるかもね。 これが地下に眠っている「地底の森」ですよ。世界でも唯一の珍しい保存状態です。 では早速企画展が開かれている部屋へご案内しましょう。 <南北線富沢駅周辺> 「下の内遺跡」(縄文時代)の発掘状況です。ここは私のランニングコースでもあります。 同遺跡出土の「土こう墓」と配石遺構です。死者を葬った聖域の雰囲気がありますね。 いずれも同遺跡から出土した深鉢です。 左は1対のイヤリング(土製)で、右は注口土器です。 伊古田遺跡から出土した浅鉢(左)と土偶(右)です。ここも富沢駅の直ぐ傍にある縄文時代の遺跡です。 左は富沢駅の東側500mほどのところにある「春日社古墳」(円墳)の発掘状況です。右はこの古墳の土中に残っていた痕跡から復元した「隼人の盾」です。この盾が出土したのは全国でも珍しく、東北では唯一の場所です。 ここが大和朝廷と深い結びつきがあった東北の最先端文化地帯であったことを証明しています。それらの貴重な遺跡が、開発の名のもとに破壊されてしまいました。30年近くかかって発掘されたこの一帯は、今新しい街並みが出来ています。 <東西線荒井駅周辺> 荒井東遺跡では、弥生時代の田圃が発掘されています。 この周辺はつい最近まで田圃で、弥生時代から既に2千年にも亘って水田が開発されて来た訳です。 左は石鏃(せきぞく:石製の矢じり)で、右は弥生式土器の高杯(たかつき)です。 <東西線薬師堂駅周辺> 薬師堂東遺跡の発掘状況です。ここは奈良時代の初頭に陸奥国分寺と国分尼寺が建立された土地でした。 この遺跡から陸奥国分寺の梵鐘を鋳造した際の遺物が出土しています。 左は出土した梵鐘の鋳型の一部で、右はこの鋳型が梵鐘のどの部位に当たるか図示したもの(赤の矢印)です。 <東西線川内駅周辺> 川内遺跡発掘状況。ここは旧仙台城の二の丸跡地で、江戸初期の遺跡です。 左は徳利で、右は注口器です。 出土した茶碗と小皿です。どちらも現在とあまり変わらない感じを受けます。 左は「亀岡トンネル遺跡」の発掘状況です。ここは武家屋敷跡です。右は軒丸瓦です。 共にここから出土した小皿です。今でもそのままで使えそうですね。 <東西線大町西公園駅周辺> 左は「桜が岡遺跡」の発掘状況。ここも江戸初期の武家屋敷跡です。右はここから出土した花瓶です。 出土した鯱瓦(しゃちがわら)で、立派な物です。恐らくは「鬼瓦」と同様に屋根を飾っていたのでしょう。 同遺跡から出土した徳利(左)と軒丸瓦の紋様(右)です。 同遺跡から出土した急須(左)と茶碗(右)です。 地底の森ミュージアムの企画展を開催するスペースも狭いのですが、前日訪れた「縄文の森広場」に比べればずっとマシな方でしょうか。ともあれ暮らしの身近な場所にあるこれらの遺跡から、私達の祖先が暮らした生活の息吹を感じられたことは幸いで、とても有意義でした。 < 本日のO川さん情報 > 「本州縦断レース」(青森~下関1512km余)に挑戦中のO川さんですが、昨日の13日目は石川県白山市から福井県福井市までの63kmを13時間で走破し、無事ゴールしたそうです。朝は雨に苦しんだものの直ぐに晴れ、途中では「一筆啓上 おせん泣かすな馬肥やせ」の短い手紙の逸話で有名な「丸岡城」にも寄り道したとか。まさに余裕ですね。 また逆方向から歩いて来る同じくらいの年齢の男性と話した所、長崎から群馬まで歩いている途中とのこと。まさに奇縁ですね。今日の第14日目は福井市から同県敦賀市までを予定。青森の息子さんが掲示板に「父が無事走れているのは皆さんの応援のお陰です」と書き込まれていました。父と子の暖かい絆に拍手です。今日も頑張って前進してね~。O川さんファイト~!!
2016.05.18
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大型連休中の5月4日、私は歩いて自宅近くの小さな博物館「縄文の森広場」へ行きました。市の広報で企画展『縄文人の精神性』が開催中と書かれていたからです。それでえっちらおっちら、暇にまかせて出かけてみた訳です。 「縄文の森広場」は自転車で15分。歩くと30分くらいの距離に在ります。私が通院している眼科の直ぐ傍にあります。 これは博物館の屋上からの眺めです。この地下には「山田上ノ台遺跡」と言う縄文時代の遺跡が眠っています。 復元された「掘立小屋」。顔を出しているのはマスコットのハナちゃんです。 これは常設展の案内の一つで、「祈る」。縄文人の宗教観や精神性を概説しています。何せ縄文人の平均寿命は37歳ととても若いのです。乳幼児の死亡率が高いことが平均寿命を極端に引き下げる原因で、そのことが縄文人の「祈り」の気持ちを高めたのでしょうね。 同じく「装う」の案内板です。意外にも縄文人は服装や装飾に強い関心を抱き、弥生人よりはずっとおしゃれだったのです。装身具も種類が豊富でした。 同じく「奏でる」の案内です。縄文時代の楽器は「土笛」くらいしか知られてません。音も恐らくは単調な響きだったことでしょう。きっとそれだけに心を慰める助けとなったように思います。 「企画展」は幅3mほどのガラスケースの中にちんまりと納まっています。これは宮城県内で発掘された縄文人の墓と人骨です。これまでの定説では、縄文人の顔は四角くていかつく、細長い顔立ちの弥生人とは様相が違うとされて来ました。でもこれは作為的に作られた学説で、実際は細長い顔立ちの縄文人も混じっていたそうです。手足を曲げて葬られるこの形は「屈葬」(くっそう)と呼ばれています。 これは人間の墓の傍に埋葬された犬の遺骸です。犬は人間に最も忠実な仲間として、狩りの手伝いをしました。だから日本人は滅多なことでは犬を食べることはしなかったのです。5千年以上にも亘って、縄文人と犬の友好は続いて来たことがこの墓によっても分かりますね。 県内の遺跡から出土した脚付き鉢。 これは装飾を施した深鉢です。(展示品は全て宮城県内の遺跡からの出土品です) この深鉢にも紋様が施されています。 深鉢の一部を拡大すると、こんな人形(ひとがた)の文様がありました。 鉢の側面に施された結び目の文様。岡山県の古墳時代の石に刻まれた紋様と酷似しているように、私は感じました。 朝鉢の底に施された精巧な装飾。これを見ても縄文人の芸術性や精神性の高さが分かります。「企画展」はいつものことながら、スペース的にも内容的にも物足りません。展示品も、解説も少ないためです。屋上には広々とした「休憩コーナー」があるのですが、有効活用されてないように見えました。そこでアンケート用紙に、そのことを書いて投函した次第です。小さな博物館に予算的、施設的な限界があるのは分かりますが、まだ智恵は出せるはずですので。 その代わりと言うのは変ですが、ここでは熱心な実習活動が行われていて、市内の小学校から学習の一環として参加するケースもあるのです。この日も振替休日ながら、親子連れが熱心に「焼物」や「火おこし」の実習を受けていました。 ボランティアの方が実習時に造った作品です。(以下同様) これも現代人の作品です。 勾玉の模造品です。 縄文時代の織り機の見本です。この簡単な装置で編まれたものは編布(あんぎん)と呼ばれ、実物が発掘されています。青森県の三内丸山遺跡で見つかった、いわゆる「縄文ポシェット」などがそうですね。 さて今日私は「仙台鉄人会5時間走レース」に出場する予定です。今は体調が悪く、全く走れません。それどころか歩くのさえやっとの状態ですが、折角参加許可をしてくれた仙台鉄人会さんへお礼を言わなくちゃね。それにきっと仲間も参加してると思うので、久しぶりに会えるのが楽しみです。 たくさんの写真を撮って来ようと思っていますので、どうぞお楽しみに~!!なお、帰宅は夕方になり、ブログ友の皆さんの所へお邪魔するのも遅れます。ゴメンナサイね~!! < 今日のO川さん情報 > 「本州縦断レース」参加中のO川さんは、昨日の10日目も無事ゴールされたようで安心しています。途中の難関「親不知」は現在全てトンネルになり、長いトンネルにかなり気を使って疲れたようです。トンネルを出た食堂で食べた「モツ煮定食」が美味しかったとか。それが効いたのか、後は元気で走れたみたいです。 昨日走ったのは新潟県糸魚川市から富山県魚津市までの53km。要した時間は12時間だった由。走った合計は650kmを超え、シューズの中敷きが足形通りに磨り減って、足に響くと書かれていました。全く厳しい毎日です。睡眠と洗濯の時間を取るのも大変なはず。それでも頑張って前進して欲しいものです。今日は魚津市から富山市まで。富山湾と立山が見えることを祈っています。O川さんファイト~!!
2016.05.15
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<角田市郷土資料館の展示物> 最終回の今回は、今年の2月末に訪れた角田市郷土資料館(宮城県南部)の展示物を紹介します。あの「牟宇(むう)姫の大名雛」を飾っていた資料館の別館で、大きな蔵の中に無人状態で展示してあったものです。なお、以下の資料は全て角田市内で発掘されたものばかりですが、遺跡名などを書き写す時間がなかったことを、お断りしておきます。 1)顔のある取っ手付き壺の破片。(縄文時代) 2)顔のある土器(縄文時代) 3)顔のある壺の破片(縄文時代)このような人面のついた土器の破片が見つかることは、宮城県内の遺跡でもさほど多くはないと思われます。その点で、破片ではありますが貴重な遺物と言えましょう。 4)顎が出っ張った土偶の破片(縄文時代) 5)6)どちらも縄文時代の土偶です。土偶は人間に代わって災難を受ける存在として製作され、手足や首などをもぎ取られたのです。このことによって、人間が無事に暮らせることを祈った訳です。これは後世の「人形」(ひとがた)や「流し雛」などと全く同一の考え方でした。 7)人面のある土器(縄文時代)何かの蓋(ふた)のようにも見えますね。 8)人面に似た文様がある蓋(縄文時代) 9)縄目がついた縄文土器 10)斬新なデザインのついた縄文土器。こうして見ると宮城県内南部の縄文土器は、新潟県の火焔型土器や青森県の遮光器型土偶のように特徴的、かつエネルギッシュな土器は少ないようです。ただし、宮城県中央部の大木囲遺跡出土の土器などには、「編年」の手がかりとなるような特徴ある装飾が見られます。 11)「有孔筒型土器」と呼ばれていますが、使用の目的は不明です。 12)左側の石器は見た目から石匙(せきひ=いしさじ)と呼ばれていますが、実際は大型動物の皮を剥ぐ時に使う道具で、持ち易いように取っ手がついています。鋭い切れ味の石器で、鋭利な石を丁寧に欠いて作ります。13)右側の石は黒曜石の原石です。この石は火山性でガラス質のため、とても鋭利な刃物の材料になり、貴重なものです。これを細かく打ち欠いて鏃(やじり)やナイフを作ります。国内で採れる場所は限られており、東北のもののほとんどは北海道日高地方産が多いようです。 14)左側の石棒には細かい線刻が施されています。15)の石棒は男性器を模倣したものです。縄文人の平均寿命は37歳程度と考えられています。特に乳幼児の死亡率の高さが、平均寿命を押し下げる原因です。このため縄文人の子孫繁栄に寄せる願いは、相当強いものがあったと考えられます。石棒の文様はこの願いの端的な表れで、宗教的な儀式では石棒を中心に据え、集団で祈ったのでしょう。同時に妊婦の姿をした土偶の存在も、縄文人の生命観を強く物語っています。 16)左は「紡錘車」(ぼうすいしゃ)と呼ばれる古墳時代の副葬品で、糸が撚れないよう工夫した道具です。17)右は展示室にあった写真を写したもので、「円筒埴輪」(えんとうはにわ)と呼ばれる古墳時代の埴輪です。 県内で私がこれだけ大きな円筒埴輪を見たのは初めてです。これが古墳の墳丘に立ち並ぶ姿は、さぞかし壮観だったことでしょう。県南部に相当の権力者が育っていた証拠です。 18)左側は馬に付けた馬鐸(ばたく)です。馬の歩みに合わせて、この小さな鈴が厳かな音を発したのでしょう。19)右側は青銅製の鏡です。どちらも権力者の証として、古墳に副葬されたのでしょう。 20)副葬品として古墳に収められた数本の鉄剣。切れ味が鋭い鉄剣は、当然権力者の象徴となります。 21)メノウ製勾玉。勾玉の形には強い呪術性があると考えられ、縄文時代から存在します。女性の副葬品でしょう。 22)メノウ製イヤリング。玦状(けつじょう)耳飾りと呼ばれ、咲け目の部分に耳たぶを挟んで使用します。 23)鍬など農耕具のミニチュアです。被葬者があの世でも食べ物に困らないよう、小さな道具を作り、副葬品として墓室内に収めました。滑石製であることがほとんどです。 24)伊具郡衙(ぐんが=郡役所の建物)軒丸瓦複製品(奈良時代~平安初期か)当時瓦を使うことが許された建物は、朝廷の出先機関か重要な官寺に限られていました。これは蓮華文なので、郡衙の付属寺院の可能性もありますね。 25)当時の役人が書類を作成するために用いた「円面硯」(えんめんけん)の破片ですが、便利なように、硯の直ぐ傍に筆を立てるための穴が開けられています。当時としては大変珍しい最新式文具です。 26)左は中国から渡来した宋銭。27)右は中国舶載の青磁の破片です。奈良時代の後半から平安時代の初期までは、この郡衙も機能していたと思いますが、東北の片田舎の郡役所にも中国大陸の貨幣や貴重な磁器が到来し、使用されていたことに驚きます。これで『歴史と美の形』は終了し、また別の形で続編をお届けする予定です。長い間お付き合いいただきありがとうございました。<完>亭主の弁 今日紹介した遺物の数々は、以前紹介した牟宇姫(伊達政宗公の次女)が嫁入りの際に持参した「大名雛」などよりもずっとずっと優れた学術資料なのです。ところが説明も少なく、見学者が直ぐに帰ってしまうのが現状。県内の考古学資料として一級品だと思うのに、なんと勿体ないことでしょう。先ずは角田市民がこぞって見学し、郷土の先達が残した重要な宝物であることを、知って欲しいと強く感じました。
2016.04.06
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<青森県立郷土館の展示物 その4> 昨年の6月末に訪れた青森県立郷土館の展示物の中で、縄文時代の遺物を中心に紹介しています。中には「もう飽きた」と言われる方もいるでしょうが、今日が最終回ですので辛抱して最後までお付き合いくださいね。 この博物館の縄文時代に関する展示物のうち、中心となっているのが『風韻堂コレクション』です。参考のため説明板の一部を撮影したのですが、欠けた部分がありました。それでもこのコレクションの趣旨や、収集された点数が辛うじて判読出来ます。恐るべきことに医師の親子が2代に亘って収集した点数は1万1千点に及ぶみたいです。一体どれだけの時間と経費を要したことでしょう。彼らの努力が、今日多大な恩恵を私達にもたらしているのです。 恐らく親子は忙しい勤務の合間を縫って色んな遺跡を訪れ、付近の住人を1軒1軒巡って遺跡から出土した遺物のうち彼らの目に適ったものを代価を支払って入手したのでしょう。今は文化財保護法でそのようなことは禁止されていますが、当時は許されていたのでしょうね。そんな苦労のお陰で、私達は優れた縄文(一部はそれ以降の時代の遺物も含まれているでしょうが)の文化に接することが出来るのです。 『風韻堂コレクション』として展示されていたのはせいぜい数百点。残りの大半はきっと大切に保存されているのでしょう。この日は旅の最終日。東北新幹線に乗る時間ギリギリまで、私は夢中になって写真を撮っていました。恐らく400枚近い枚数になったはず。今回のシリーズで紹介したのが、その一部です。では早速今日もご案内しますね。1) おどろおどろしい縄目がついた土器。これが縄文土器の特徴の一つです。縄文人のエネルギーを感じますね。2) 美しい縄文がつけられた注口器ですね。3) これは高杯(たかつき)でしょうか。透明のビニール糸は、土器の倒覆を防ぐための措置です。4) 縁の細かい飾りがとても美しい鉢です。5) 洗練されたデザインの細頸壺。後世の「綾杉紋」にも似ているような気がします。6) 浮き出た文様が美しい広口の壺。7) 見事な縄目がついています。これぞまさしく縄文土器と言った感じかな?8) 大胆なデザインの広口壺。9) 縄文人の高い精神性が良く表れた壺。見事な作品ですね。10) この文様には縄文人の呪術性や宗教観がとても良く表れているように感じました。11) まるで古代ギリシャの壺を思わせるような土器。こんなものが果たして縄文時代にあったんだろうか。12) こんな展示がありました。一番右が恐らくは酸化第二鉄の鉱石と思われます。通称ベンガラと呼ばれ、現代も優れた染料として使われています。真ん中に見える石皿は鉱石を擂り潰して粉末にするための擂り鉢ですね。そして一番左はベンガラを塗った土器。文様から縄文土器であることが分かります。と言うことは、縄文時代からベンガラが土器の着色剤として使用されていたことになります。そのことを私はここで初めて知りました。13) ひょっとしてこの香炉型壺の赤い色もベンガラなのかも知れませんね。現代にも通じる素晴らしい出来栄えですね。14) となると、当然この土器も縄文時代のものと言えますね。実に見事な縄文人の芸術的センスです。15) 製作の時期は不明ですが、高温で焼かれたような窯変が見られます。恐らくは自然の釉薬でしょう。16) 17) 16)17)は共に器台付き杯です。製作された時代は弥生時代から古墳時代にかけてでしょうが、残念ながら素人の私はこの時代の青森県の歴史に詳しくありません。18) 取っ手付きの壺で、とても珍しい形をしています。恐らく製作されたのは弥生時代から古墳時代にかけてだと思われます。 前日大雨が降る中、私は津軽半島の2つの博物館を訪れ、たくさんの展示物を見ることが出来ました。またその翌日は青森県立郷土館でたくさんの展示物に遭遇し、東北が古代から高い文化性を有していたことを再確認することが出来ました。 私は素人ながら30代頃から日本古代史、考古学、人類学、文化人類学、神話学、民俗学などの専門書を読んで来ました。それらの本で得た知識が、遺跡などの現場を訪れたり博物館の展示物を確かめることによって、さらに歴史の実態を実感出来るのです。歴史を訪ねる旅は、頼りない歩みを少しは確かなものにするのです。きっとその喜びは旅人にしか分からないでしょう。人生もまた然りです。 青森県立郷土館の展示物(他の時代、他の分野)はまだまだたくさん残っていますが、このシリーズは一旦ここで終了します。明日は宮城県内の遺物を紹介する予定です。ではまた明日。<続く>19) ちょっと待った~!!載せ終えた写真を消す作業をしながら、まだ載せてなかった写真が1枚残っていたことに気づきました。たまにこんなことがありますね。これも立派な縄文土器。しかもとても珍しい「急須型」の注口器とでも言いましょうか。私達日本人の遠い祖先である縄文人が、いかに高い文化を持っていたかがこれでも良く分かります。縄文文化は世界に誇る文化であることを知っていただきたいものです。
2016.04.04
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<青森県立郷土館の展示物 その3> 昨年の6月に行った北東北を巡る歴史の旅。その最終日に立ち寄った青森県立郷土館の展示物の紹介が途中になったままでしたが、また再開したいと思います。今回は骨角器(骨製の道具など)と縄文土器が中心です。地味なものですが、私には縄文人の美意識が表れているように思えます。なお、以下の展示物の大部分は≪風韻堂コレクション≫として別途展示してあるものです。 1) 2) 3) 4) 何の骨で作られたかは不明ですが、いずれも見事な彫刻が施されています。2)は櫛の残欠、4)は簪(かんざし)ではないかと思われます。私の個人的な見解ですが、骨角器の材料となった骨は、恐らくオホーツク海沿岸の海獣(アザラシやオットセイなど)ではないかと思われます。これは単なる推測に過ぎませんが。 5) 6) 5)は簪として作られた骨角器 6)は笊のような骨組みを基礎にした籃胎漆器(らんたいしっき)で、上の一部壊れたものが当時の遺物で、下は見本(レプリカ)として作られたものでしょう。7) 8) 9) 10) これらはいずれも深鉢でしょうか。11)12) 11)は深鉢、12)は注口器でしょうか。 13) 14) これらも注口器です。良く見ると丸い注ぎ口がついているのが分かります。 15) 16) いずれも上縁部に装飾物が載っています。縄文人の美意識の高さが分かりますね。 17) 18) 19) 20) 21) 丸い形の壺(上)と細長い形の壺(下)を並べてみました。 22) 浅鉢の裏面にも何か装飾が施されています。 23) 24) 25) 26) 23)から25)までは香炉型土器と呼ばれています。虫よけのため除虫剤を燃やしたのでしょうか。26)は蓋(ふた)つきの土器です。縄文土器はシンプルですが、極めて完成度が高いことが分かりますね。<続く>
2016.04.03
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<青森県立郷土館の展示物 その2> 北東北の歴史を訪ねる旅の最終日に訪ねた青森県立郷土館の資料は、私を興奮させるに十分の内容でした。特に縄文時代の遺物を収集した青森市の医師親子が寄贈した『風韻堂コレクション』の質の高さは、目を見張るものがありました。今日の写真もその続きです。なお写真は、前もって撮影許可を得たものです。 不気味な笑顔が浮かぶ焼物。遮光器型土偶の破片かもね。 底に小さな手形が描かれた土器。 土製のイヤリングです。耳たぶの穴を徐々に広げ、これをその穴に嵌めるのです。 ドーナツではありません。これもイヤリングです。 復元された腕輪です。 土製の鐸です。ミニチュアとして制作されたもの。考古学者が後世の(銅)鐸に似てるとして名付けたのでしょう。 共に土製の動物です。左は亀で、右はイノシシです。 共に土製のキノコです。私はキノコの特徴をよく掴んでいると思うのですが。 このようなものを「岩版」(がんばん)と呼びます。石製で、とてもシュールな美しさです。 これも美しい模様が刻まれた岩版です。 この岩版は美術品としか言いようのないほど、見事な作品に仕上がっていますね。 左側が岩版で、右側が粘土を焼いて作った土版です。 共に不思議な文様が刻まれた土版です。不思議さも縄文の美の特徴でしょうか。 上の写真は「青龍刀型石器」と呼ばれるものでしょう。下の遺物は単に「石棒」と呼ばれていますが、大部分は男性のシンボルを模しています。これらの石器は縄文人の宗教性と深く関わり、特に石棒は子孫繁栄の願いを込めて制作されたもので、全国から同じようなものが発掘されています。 いずれも翡翠で出来た勾玉(まがたま)です。翡翠(ひすい)は新潟県の糸魚川市を流れる姫川の上流に優れた産地があります。この原石が破壊され、大雨で日本海の海岸部に流されて来ます。このようにして翡翠は新潟から、黒曜石は北海道から、そして接着剤になるアスファルトは秋田から、それぞれ小さな丸木舟によって遥々と青森県まで運ばれて来ました。既に縄文時代には日本海を通じた物の交換ルートが出来上がっていたのです。 これらも全て翡翠製の勾玉です。 私が青森県立郷土館の展示物に大興奮した理由が少しは理解していただけたでしょうか。 <不定期に続く>
2016.03.27
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<青森県立郷土館の展示物 その1> 北東北の歴史を訪ねる旅の最終日、6月28日に訪れたのが青森県立郷土館でした。ここには縄文時代の遺物を始め、江戸時代辺りまでの膨大な展示物があり、私は夢中になって撮影していました。ここは例外の物を除き、フラッシュを焚かなければほとんどの物が撮影出来るのです。私も早速撮影許可を申し込みました。それで撮ったのが以下の写真です。 さて、同館の縄文時代の展示物でも一際目についたのが『風韻堂コレクション』でした。これは青森市内に住む医師親子が、自費を投じて長い間収集したものを、同館に寄贈したものです。縄文時代の代表とも言うべき秀品がたくさん含まれていることに驚きます。一般の常設展示物よりも格段に優れていると私は感じました。ただし、館内を何度も往復して撮ったため、どれが風韻堂コレクションでどれが常設展示のものかの区別が分からなくなったのが残念です。 左が風韻堂コレクション展示室に掲げられていた書です。その時は何気なく観、何気なく撮影したのですが、後で青森県が生んだ偉大なる版画家である棟方志功の書であることにようやく気づいた次第です。版画もそうですが、彼の書にも独特の味わいがありますね。私の好きな作品です。右側はとても小さな土偶で、軽く微笑みながら立っているように見えます。 縄文時代の土偶です。ほぼ完璧に残っており、かつ保存状況も良好です。目の縁が特徴的な土偶で、後で説明が出て来ます。 赤い顔をした土偶です。恐らくは赤い漆などが塗られていたのでしょう。呪術的な要素が強い作品です。 合掌する人物で、国宝に指定された土偶のレプリカです。まるでUFOに乗って飛来した異星人のような格好をしています。 遮光器型土偶です。遮光器(しゃこうき)とはエスキモーの雪眼鏡のことで、雪の眩しさから目を護る「装置」をかけたように見えることから名付けられたものです。青森県の亀が岡遺跡が主な出土地で、これもきっとそうなのでしょう。現地木造町(現つがる市)「縄文館」の出土品は東京国立博物館などへ貸し出し中で、前日訪れてガッカリしたものです。大雨の中、ずぶ濡れ状態で訪ねたものですから特にね。 だからここで会えて嬉しかったですよ。長い間追及していると、こんな風に思いがけない遭遇、予期せぬ出会いがあるのが古代史や考古学の面白さでもありますね。青森県の遮光器型土偶と新潟県出土の「火焔土器」は縄文時代の土器の中でも特に秀逸で、縄文人の不思議さや力強さを感じますね。彼らの美的センスは現代人にも負けないほどです。右側の土偶には髭が見えますね。 乳房があるので女性とわかります。とてもシュールな印象を受けます。 左側は女性の土偶。右側の土偶には全身に刺青(いれずみ)のような模様が点々と施されています。これも呪術的な要素が強いのでしょう。 見事なデザインの服を着た土偶です。 この土偶が着ている服も、極めて現代的なデザインをしていますね。 この土偶は冠のような形をしたものを被っています。 あどけない笑顔をした土偶です。 ポカンと口を開けて立っています。 この白っぽい色の土偶は、全身に模様が施されています。 一説によれば縄文人の平均寿命は37歳程度だったと言われています。こうして破壊された土偶は人間に代わって穢れを落とし、長命と繁栄を願ったと考えられています。壊された土偶には、縄文人の切なる願いが籠められていたのです。良く観察すれば、今日紹介した土偶には大抵破壊の痕跡やヒビが入っていることに気づかれるでしょう。<続く>
2016.03.26
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私は昨年北東北の3つの県を旅し、歴史的な場所を訪れました。その際の旅日記はアップしたのですが、まだ結構数多くの写真が残っていました。その大半は地中から発掘した遺物、つまり考古学資料なのです。私はそんなのが大好きだから良いのですが、大勢の読者の方々のほとんどはあまり関心がないと思われます。そこで長い間放置していたと言う訳です。でも今回は、それらの発掘物などを、「一つの美の形」として見てもらうことにしました。 まだ「空の表情」のシリーズは終わっていませんが、間に挟む形でこのシリーズと交互にお届け出来たらと考えています。では、早速始まり始まり~!! 昨年の6月25日に、私はこの「盛岡市遺跡の学び館」を訪れました。岩手のブログ友であるニッパさんが案内してくれたのです。そこにあった考古学資料の中から2点だけ紹介しますね。 土偶がついた縄文土器です。ちょっと珍しい形をしています。 これもまた、とても珍しい形をした蓋付きの土器です。模様が変わっていますね。 ここは最初にニッパさんに案内してもらった盛岡市郊外にある志波城城址公園です。志波城は平安時代の初期に建てられた、我が国で最も北に置かれた古代の城郭で、蝦夷(えみし)に備えるため征夷大将軍であった坂上田村麻呂が建造した砦です。その城址を発掘し、復元したのが上の城門(裏面)で、直ぐ傍を通る東北道からも良く見えます。 城址から発掘された鉄製の釘や斧です。このようなものを使って城が築かれました。この城によって岩手県北部や青森県東部の蝦夷が投降し、東北北部までが中央政府の支配下に入りました。つまりここは当時の日本の「最前線」だった訳です。 右側はこの城に勤務していた役人で、左側は彼らが当時使用していた円面硯(えんめんけん)で、これで墨を摺り文書を作成しました。 城内から出土した土器(浅鉢)です。城内には役人や城を護る兵士達が住んでおり、彼らが生活で使った様々な品物が発掘されています。 これは出土した土器の一部です。 これは鉄兜です。きっと兵士がこれを被って戦っていたのでしょうね。現物は「盛岡市遺跡の学び館」に陳列されていました。 これは6月26日に訪れた秋田県鹿角市にある「大湯環状列石」(サークルストーン)のうち、野中遺跡の環状列石の全体像です。写真で見ると小さいですが、現物は実に壮大なものです。これは縄文晩期のもので、当時の村人が約500年間に亘って集団墓地として使用していたもので、集落跡ではありません。 これは万座遺跡の掘立小屋で、復元されたものです。遠くに三角形の山が見え、ここが聖なる墓地だったことが分かります。小屋は住むためのものではなく、死者を弔うための宗教的な儀式に使われました。場所は川から100m以上高い台地の上にあります。縄文人の住居は飲み水が得られやすい、大湯川の傍にありました。 冬はこれだけの雪が積もると言うイメージ図です。実際にここは豪雪地帯でもあります。 出土した土偶などです。遺跡の傍にある「大湯サークルストーン館」に展示されていました。まるで骨盤と子宮のような不思議な形の土器が、とても気になります。こんな珍しい土器を見たのは初めてです。死からの再生と子孫の繁栄を祈ったのでしょうか。 3日目の6月27日には津軽半島にある2つの遺跡を訪ねました。最初に訪ねたのが半島上部の十三湖に浮かぶ中島の資料館でした。ここ十三湖には中世の豪族である安東氏の居住地があり、当時は十三湊として内外の船が出入りする貿易港でもありました。この古地図は翌日訪れた「青森県立郷土館」にあったものです。 中島遺跡から出土した縄文土器と石器。縄文時代からここにはたくさんの縄文人が住み着いていました。きっと湖には魚介類が豊富で、付近の野山にも食糧となる野獣がたくさんいたのでしょう。 美しい形をした縄文土器ですね。 これらの石器は石斧(せきふ=いしおの)と呼ばれるもので、これを木の枝に紐で縛って固定し、木を切り倒したのです。 黒曜石製の石像(左)と土偶(右)で、いずれも縄文時代のものです。鋭い刃物などが作れる黒曜石は、その性質から国内の限られた場所でしか採掘出来ません。写真のものは恐らく北海道産のものでしょう。潮流が激しい津軽海峡を、当時は小さな丸木舟で漕ぎ渡ったのです。黒曜石製の鏃(やじり)などは良く発掘されますが、このような像はとても珍しく、縄文人の宗教観、美的センスなどがとても良く分かります。 一方の土偶は一族の長命と繁栄を祈って作られたもので、人に代わって穢れを落とす意味を込めて、破壊されるのが通常です。↑の大湯環状列石の土偶の首が折れているのも、同じ理由からなのです。 十三湊遺跡出土の青磁です。これは青森県立郷土館所蔵分を載せました。安東氏によって支配されたこの中世時代の港が、日本海の海運を通じて中国大陸とも深い交流関係にあったことが良く分かります。岩手県平泉の奥州藤原氏の栄華も、この港と無関係ではありません。また源頼朝が豊かな東北を支配下に置こうとした要因の一つになったとも考えられます。 五能線のどこかの駅に張られていたポスターで、世界遺産白神山地の木こり図です。きっと江戸時代に描かれたものでしょうがが、東北の山林は昔から無限の宝庫でした。青森市の三内丸山遺跡には、高さが16mにもなる栗の丸太6本で組み立てられた櫓のような建築物や、長さが30mを超える規模のログハウスも建てられていました。趣旨に反して掲載内容がバラバラになりましたが、どうぞご容赦を~!!<続く>
2016.03.25
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先日you tubeでとある映像を観た。元はNHKのドキュメント番組のようだ。何年か前ヨーロッパアルプスの山中で発見されたミイラ「アイスマン」の子孫がイギリスで見つかったと言うもの。これはDNAやミトコンドリアの分析から解明されたのだとか。特殊な遺伝子の配列だったため、これと全く同一の遺伝子を持つ人が特定されたのだ。その方は女性で、自分の祖先がアイスマンだと知って驚いていた。周囲の人からは「アイスウーマン」と呼ばれるようになったとか。 青森県立郷土館アイヌ衣装 アイヌと縄文人の関係については、遺伝学的に極めて近い関係であることが判明した由。これまでの学説では、古代東北の蝦夷(えみし)はアイヌとは異なると言う説がある一方、アイヌと同一視する説もあった。濃い体毛や風貌など、外見上の特徴が極めて良く似ているが、科学的な調査結果は縄文人だけでなくアイヌも日本列島の先住民族だったことを意味しているのだろうか。なお、インカの末裔であるインディオも、アイヌのDNAとほぼ一致していることが判明した。 那覇市崇元寺山門 沖縄の人々と縄文人、そしてアイヌとの共通点も確認された。これまで日本人の祖先は縄文人と後から日本列島へやって来た弥生人の混血と考えられて来た。その縄文人も一様ではなく、幾つかのパターンがあることがDNAの解析で判明した由。恐らくは北から西から、そして南西や南から、それぞれ舟に乗って辿り着き、縄文人として混血したのかも知れない。そしてさらに弥生人と混血し日本人の祖先となった。中国人や朝鮮半島の人々とはDNAのパターンが異なることも分かった。 玉御殿シーサーの模造 かつて琉球王朝王族の遺骨を分析した際、インドネシア人のDNAと極めて類似性が高いことが分かった。私はそれで日本人の祖先達は結構色んな所からやって来たのだと感じていたのだ。それが最近のDNA鑑定はミトコンドリアにまで及び、さらに精度が増した。そうやって「伝説や神話」が「科学」へと変わるのかも知れない。 奈良県三輪山 一昨年の晩秋、私は妻と奈良の山の辺の道を20kmほど歩いた。その時は時間不足で三輪山に登れなかった。この山は麓の大神(おおみわ)神社のご神体そのもので、頂上には古代の祭祀跡である岩座(いわくら)があることも知っていた。だが三輪山では飲食はおろか写真の撮影も許されないことを現地で知った。別の場所で初めて岩座を見たが、何の霊力も感じなかった。果たして三輪山の岩座はどんなのだろう。 大神神社拝殿 試しにyou tubeで画像を検索してみた。そしたら何と画像が幾つかあった。何故撮影禁止の岩座があるのかが不思議。密かに撮影した人がいるのか、それとも研究上特別に許可されたのか。そんな風にも見えないが、ともかく長年の謎がそれで解けた。なるほど霊力は感じる。古代豪族の三輪氏が、山上の大岩の前で神に祈った姿が見えたと思ったのは、私の気のせいだろうか。 箸墓古墳俯瞰図 大神神社の近くには、箸墓古墳がある。そこへも立ち寄ったが、あまりにも巨大で全容が掴めなかった。この古墳は卑弥呼の墓とも言われているが、宮内庁管理の陵墓で中に入ることは出来ない。被葬者は長たらしい名前の女性で、さる天皇の皇女とされている。ところがその夫は三輪山の神で、本当の姿は蛇との言い伝えがある。一方大神神社の祭神も蛇。古代豪族と皇室の関係が窺われるが、邪馬台国は依然として謎のままだ。 奈良石上神宮 NHKの「ブラタモリ」を観た。タモリが各地の歴史と地形を学ぶ番組だ。先日観たのは四国の松山編。道後温泉のお湯と地形の関係を探るのだが、そこに伊佐庭氏と言う人が登場。「いさにわ」と読み、先祖は道後の町長だった由。その名前を私はどこかで聞いたような気がした。 さて、日本語の「いさ」とは一体何なのだろう。誘(いざな)う、十六夜(いざよい)、イザナギとイザナミ。そして姓としての伊佐は沖縄にも存在する。 石上神社 そう言えば福島の会津美里町には伊佐須美(いさすみ)神社がある。陸奥国二宮らしく、少し変人の神職が新しい神社の建築構想を語ってくれた。大きな柱の上に社殿を載せるらしい。私は驚いた。それは古代の出雲大社の形態そのものではないか。完全なパクリだと思ったが、実現出来るはずはないと無視した。それが規模こそ違え、やはり竣工すると後で聞いた。出雲大社の敷地からは高さ40mにもなる巨大な柱跡が、実際に発掘されているのだ。 石上神社 念のためにネットで「いさにわ」を検索した。その結果「伊佐爾波神社」があることが分かった。場所は道後温泉の裏手。式内社で祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、そして宗像三女神。道後が古代から天皇家や九州の宗像大社と深く関係していたことが分かる。かつては瀬戸内海を舟で渡り、温泉へやって来たのだろう。三津(みつ)と言う港が松山にあるが、恐らく元々は御津(みつ)だったはず。皇族が船出するのに相応しい名だ。 熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 額田王の有名な歌に詠まれた古代の熟田津(にぎたつ)は、三津と松山の周辺のどこかにあったと考えられている。神社の写真は便宜上奈良の旅で撮った石上(いそのかみ)神宮のを代わりに載せた。そう言えば「いさ」も「いそ」も大変良く似ている。日本の古語は日本の古代史の謎を解く鍵なのだろうが、浅学非才の私にその力がないのが残念だ。
2016.02.11
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5月下旬のある日。私は街中の田圃でカルガモの親子を発見した。その翌日、田圃の隣にあるこの博物館を訪れた。 カルガモ親子を観た日に、こんなポスターが博物館に貼られていたからだ。私が住む近辺の古墳がテーマ。これは是非観なければならないだろう。 これは大野田古墳群の第10号墳から出土した土器。左側が円筒埴輪で、右側が朝顔形埴輪。大野田古墳群は、地下鉄富沢駅の東側にあり、土地区画事業に伴う発掘調査で44基の古墳の存在が確かめられている。古代東北の一大先進地だった訳で、付近には奈良時代の郡山遺跡がある。これは陸奥国府多賀城の前身と考えられる官庁だ。その官庁の付近にこれだけの古墳が存在したのだから、この地が早くから大和政権と深い繋がりがあったことが分かる。 今回の企画展では、古墳群の中から数か所だけ出土品などが紹介された。そして発掘後それらの貴重な古墳群は、残念ながら破壊されてしまった。理由は土地の再開発に伴う発掘調査だったからである。広大な土地を20年以上に亘って調査していたが、これ以上再開発を遅らせる訳には行かなかったのだろう。実に悲しいことだ。古墳時代の話など興味がない人が大部分だろうが、我慢して写真だけでも観てほしい。 これは古墳群の中の一つである春日社古墳(円墳)の発掘風景。名前の由来は、この場所に春日神社があったことによる。きっとここには大切なものが眠っているとの言い伝えがあったのだろう。 ここから驚くべき物が出土した。左側は土の上に残された盾の痕跡。右側はそれを元に再現した「隼人の革盾」(はやとのかわたて)。東北での出土は初めてで、全国的にも珍しいもの。恐らくは大和朝廷と深い関わりがあった豪族の墓だったのだろう。 左側は馬形埴輪で、右側は家形埴輪。このような物が古代東北の古墳でも出るとは驚きだ。やはりこの地が早くから開けた所だったことの証拠だろう。 少々見にくいがこれは副葬品の鉾。やはり権力の象徴で、墓の主がこの周辺を治めていた豪族であったことが分かる。 鳥居塚古墳(前方後円墳)の発掘状況。名前の由来は春日神社の鳥居があったことによるようだ。 王ノ壇古墳(方墳)の発掘風景。これが大野田古墳群で唯一残った古墳。以前にブログで紹介したことがある。この「王ノ壇」が現在の地名である「大野田」に変化したとの説がある。その大切な古墳も、今では単なる「土の山」となってしまった。古墳の面影を全く感じないただの公園なのだ。 左側は木棺墓の跡。墳丘部はなく、単に土を掘っただけのもの。右はここから出土した須恵器。 上の木棺墓の脇にあった袋状の副葬品。左側は埋納状態で、右側はその内容物だが見事なものだ。 ここからは西多賀地区の古墳。ここは原遺跡で方墳が2基、円墳11基があった。付近には三神峯古墳(私が時々走っている公園内にある)などの古墳が数多くある。いや、「あった」と言った方が適切だろう。今はその大部分が開発のために破壊されているのだから。現在古墳の跡地には、紳士服の量販店が建っている。 原遺跡からの出土品。左から人物埴輪、円筒埴輪、朝顔形埴輪である。 これは裏町古墳(前方後円墳)の発掘状況で、右は「乳文製銅鏡」の出土状況。私は20代の一時期、この周辺に下宿していたことがあり、古墳の名は聞いたことがあった。今は住宅地になり、古墳は残っていないはず。身近な場所にある古墳が、こうして次々に姿を消してしまうのが残念でならない。 裏町古墳から出土した須恵器(左)、樽形はそう(液体を入れる容器:中央)、台付き土器(右) 土手内横穴墓の玄室内の様子。ここから愛宕神社にかけては数多くの横穴墓があった。ここ土手内は郡山遺跡から最も近く、当時の官庁であった国府に勤務した役人の墓との説もある。 写真は同横穴墓から出土したはそう(左)、長頚形土器(中央)、土師器の碗(右) 自宅からあまり離れていない場所にあったこれらの古墳は、「王ノ壇」以外は全て地上から消えてしまった。私達の遠い祖先を知る手掛かりとなるものだけに、破壊されたことが残念でならない。発掘時の調査書と、遺物が残されていることがせめてもの慰めだろうか。今となっては貴重な郷土史の史料であるこれらの遺物を観ることが出来て、幸いだったと言えるのかも知れない。 小さな写真をたくさん詰め込んで、きっと見難かったと思う。また最後までお付き合いいただいたことに感謝したい。
2015.07.18
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<幻の土偶> 昨日はいかにも十三湊の歴史が分かったようなことを書いたが、夢中になって写真を撮っていただけで、本当は良く理解していなかったのだ。もちろん安藤(東)氏の支配は分かったが、それ以前、そしてそれ以後の支配者が謎のままだ。 12時30分。五所川原駅行きのバスは予定通り発車した。橋の上から湖水と日本海が見えた。もう二度とここを訪れることはないだろう。私にとってはたった1回のフィールド調査。それでも十分な収穫はあった。いや予想以上だろう。鈍色に沈む風景を観ながら私は心の中で感謝し、そして密かに別れを告げた。 敬愛するブログ友ローズコーンさんが、昨日の旅日記を読み歌を作ってくれた。私にとっては身に余る光栄。記念に掲載したい。ローズコーンさん、どうもありがとうございます。 雨嵐厭わず歴史の道たどる 人の情熱神は見ていた たくさんの資料は語るずぶ濡れて たどり着きたる学究の徒に 長き橋人生の道に思われて 雨風の中渡り行く人 東北の歴史は語る埋もれたる 時の流れと人の暮らしを ハラハラとドキドキ感を併せ持ち 歴史の旅をお供するかな 40分間ほどバスに揺られた後、館岡で降りる。運転手がヒーターを入れてくれたお陰で、ズボンはかなり乾いていた。外は雨。バス停前の店で、「亀ケ岡考古学史料室」の場所を聞く。だが歩き出してもその名の看板はなく、代わりに「縄文館」の標識があった。 そこから左折して道なりに進む。くねくねした田舎道。雨が降って通る人など誰もいない。きっとこの道で良いはず。名前こそ違うが、他にそれらしい建物はないと確信して進む。ズボンが雨で濡れて冷たい。もちろん靴の中はグショグショ。1kmほど歩いた先の行き止まりに、それらしい建物が見えて来た。 壁に新しそうな館名が貼ってある。中に入ると中年の女性が出て来た。料金は200円也。濡れた傘を置き、靴を脱いで入館。尋ねると「考古学資料室」はこの建物の一部とのこと。きっと最近になって分かりやすい「縄文館」に改称したのだろう。ところが資料室に入って仰天。私が予想したものとは、規模も内容も大きく異なっていたのだ。 遮光器土偶(青森県立郷土館所蔵) 「資料室はここだけですか」。一旦入口に戻って事務室の女性に声をかけると、「そうですよ」と簡単な答え。私がわざわざ戻って尋ねたのは、ここ亀ケ岡は「遮光器土偶」の発見地だったため。それが一体も見当たらなかったから驚いたのだ。わざわざ遠くからこんな田舎まで雨の中を訪ねて来て、目当てのものがないショック。 「遮光器」とはエスキモーが雪で眩しくないようかける「眼鏡」様の道具。それに良く似た目をした土偶が付近の遺跡から発見されたため、そう呼ばれている日本の代表的な縄文土器なのだ。写真は翌日青森県立郷土館で見たもの。国の重要文化財に指定された逸品。私は諦めて狭い資料室内を一周してみた。 これが亀ケ岡式土器で、前日大湯のストーンサークル館でも観た。縄文時代を代表する土器で、東日本の主に日本海側から広く出土している。きっと広範囲の交流があったのだろろう。 左は王冠型の「御物石器」と呼ばれるものだと思う。珍しい形の石器が出土したとして、明治天皇に献上されたため、この名が付いた。右は「玉砥石」。石を研いで丸い玉を造るための道具で、玉を繋いで装身具にしたのだろう。玉を磨いた跡が砥石に残されている。 陳列されていたのは遮光器土偶ではなく、しかも顔が欠けたものが多かった。しかもそのほとんどが住民の寄付によるもの。ここは江戸時代から土偶が出土することで有名だったようで、菅江真澄の日記にもそのことが記されていたはず。きっと農民が畑を耕しながら、これらの土器や土偶、石器などを大切に保存して来たのだろう。いわば「家宝」のような遺物を、市がこの建物が建てた時に寄付したのだと思う。それはそれで尊いことだし、なかなか立派な遺物揃いでもある。 残念ながらここで見た遮光器土偶はレプリカ(左)や現代の作品のポスター(右)だけだった。では、本物はどこへ行ったのか。国宝になったものが東京国立博物館にあることは知っていたが、それにしても地元に一体も残されてないとはねえ。 「虫送り」の龍 これは「看板倒れ」ではないのか。そんな思いでロビーに戻った私は、ベンチに座って濡れたズボンと靴下を脱ぎ、淡々と着替えをした。ズボンと言っても、私が履いているのはトレパン。速乾性の素材ではあるが、保温性は低い。こんなこともあろうかと思い、着替えを持って来ていた。靴はビショビショのままだが、靴下を替えれば少しは違うはず。 だが折角の「着替え作戦」も、バス停に戻るまでに再びずぶ濡れとなった。寒い寒いバスの中。人生時にはこんなこともあるさ。照る日、曇る日、嵐の日。まあ、色々あらあな。五所川原駅前到着は16時5分。ここから電車で弘前市に移動する。16時11分発の各駅停車で、弘前駅17時1分着。そこから歩いてホテルへと向かう。 青森では「ねぶた:nebuta」で、五所川原は「立ちねぶた:tachinebuta」だが、弘前は「ねぷた:neputa」と濁らない。朝、五所川原駅で買ったお握りとサンドウィッチ。夕方、弘前のコンビニで買ったワンカップの日本酒とチーズかまぼこ。これがこの日の夕食の全て。お風呂は部屋の窮屈なバスタブで、料金は前夜の3分の1と大違いだが、志さえあれば人間どんなことにも耐えられる。 傘を広げ、靴の中から中敷きを取り出して干す。いよいよ明日は旅の最終日。出来れば最善の体調で備えたいもの。10時過ぎ就寝。これで第3日目も何とか無事に終了した。<続く>
2015.07.08
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<大湯ストーンサークル館> 旅の衆、では早速「大湯ストーンサークル館」に入ろうかのう。 先ず世界の巨石文化と比べてみよう。左のストーンヘンジはイギリスの遺跡で、紀元前2500年から2千年頃に造られたと考えられている。右のカルナック列石はフランスのブルターニュ地方にあるんじゃが、紀元前3千年から2千年頃の遺跡と言う学者もおれば、紀元前5千年前のものとの説もあるんじゃ。海岸まで4kmの列石は見事じゃね。 君は左側のドルメンと言う言葉を聞いたことがあるかね?支石墓とも言って、支石の上に巨大な天井石を載せたお墓での。これは世界の各地で見られ、日本でも愛媛県大洲市に小さなものがあるんじゃよ。西ヨーロッパに最も早く出現しとるが、それぞれ別個に各地で生まれたと考えられておる。 それから日本の環状列石(ストーンサークル)はここ大湯だけではない。秋田県には伊勢堂たい(「たい」は代の下に山の字)遺跡がある。それが右側の写真じゃ。北東北の各県には、幾つかこんな環状列石があるんじゃよ。もちろんどれも縄文人が造ったのさ。 それじゃ縄文人のことについておさらいするか。平均寿命が30歳にも満たなかったことはさっきも言ったね。その大きな理由は乳幼児の死亡率が極めて高かったことにある。当時は医学の知識が乏しかったからのう。 彼らの主な食料は動物の肉や魚など、これは男が獲って来た。まあ貝は女も獲っただろうがの。そして栗やドングリも重要な食料なんじゃ。これを大量に拾って来て、穴の中に貯蔵しておく。そうすれば冬の食べ物が乏しい季節も飢えずに済むからのう。彼らはドングリを粉にして肉と混ぜ、「縄文クッキー」を焼いて食べたことも分かっておるぞ。 ここから出土したのが大湯式土器(左)と亀ガ岡式土器(右)の2種類の土器。ストーンサークルが約2百年しか使用されてないと考えられる根拠での。お墓の移動先はまだ不明なんじゃよ。実に不思議な話じゃのう。 ストーンサークルの周辺からは、首のない土偶や体の一部が欠けた土偶がたくさん出土しておるぞ。これも縄文人の健康を祈る願いなんじゃよ。奈良時代以降の人形(ひとかた)と似たような考えなんじゃ。 左の一番上の土器じゃが、わしには母親のお腹の中にいる胎児のように思えてのう。右は亀。縄文人が食用にしたんじゃね。これを墓の傍に埋めて、死後も食べ物に困らないよう考えたんじゃろうなあ。 これはあくまでもイメージじゃが、あのストーンサークルの前で祈り、踊る縄文人じゃ。死者を弔い、子孫の繁栄を祈ったんじゃろう。真ん中の石棒は他の遺跡から出たものじゃが、男性のシンボルは子孫の繁栄の切望。平均寿命がとても短かった縄文人の切なる願いなんじゃよ。 そう考えると、ストーンサークルの周囲に、拝殿のような建物が建っていた理由も分かるじゃろうな。わしにはあそこで熱心に祈っていた縄文人の姿が目に浮かぶ。 左側のストーンヘンジ(模型)の直径は100m。「万座」の直径はその約半分の46mじゃが、組み石が48基あり堂々たるもんじゃ。大湯のストーンサークルは昭和6年(1931)に、農業用水の整備中に偶然発見された。あまりにも立派な石組みに驚いてその後発掘調査し、ようやく大規模な宗教遺跡であることが判明したんじゃよ。 わが国では目下、北海道と北東北の縄文遺跡群を世界遺産にしようとして準備中なんじゃ。対象は18の遺跡じゃが、その中には大湯と同じ特別史跡の三内丸山遺跡(青森)も含まれておるぞ。これが実現したらさらに日本の縄文文化の凄さが世界に知られる。わしは嬉しくてたまらないんじゃ。ふぉっふぉっふぉ。 旅の衆、今からどこへ行かれる?なになに、明日は青森の遺跡へ行くんじゃと。気の毒じゃが明日の青森は大雨の予報じゃ。十分に気をつけての。そして機会があったらまた来てくだされ。今度はたっぷり軍資金を持ってのう。ふぉっふぉっふぉ。<続く>
2015.07.04
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<特別史跡・大湯環状列石(ストーンサークル)遺跡を訪ねて> やあ、いらっしゃい。わしはドングリ博士。今日は特別史跡である大湯環状列石遺跡を案内しよう。<*お断り:画像は地底の森ミュージアム(仙台市)の「富沢博士」を借用しています。> ここは縄文後期の遺跡での、今から約4千年前に用いられた縄文人の聖地なんじゃ。大湯の場所は秋田県の東北部での。青森や岩手との県境に近い鹿角地方の一角にあるんじゃよ。では、早速遺跡を訪ねてみよう。 ほら、遠くに柱が見えとるじゃろ?左が列柱、右に見えるのが五本柱建物跡なんじゃ。 これが「五本柱建物跡」じゃ。柱の跡が5本、つまり五角形に残されているが、使い道はまだ良く分かっていない。金沢市の「チカモリ遺跡」などには栗の巨木を半分に割ってサークル状に建てた遺跡があるんじゃが、宗教上、つまり祈りの場所だったと考えられている。縄文人は極めて宗教性の強い人達だったようだね。 そしてこれが「列柱」じゃ。6本の栗の丸太が一直線に立っているじゃろ?。これもあまり実際的なものじゃないので、宗教上のものかも知れんのう。 次はこの遺跡の目玉である「万座環状列石」へ行ってみるか。俗に「サークルストーン」とも言われておる。遠くには三角形の山が見えるじゃろ?縄文人にとっては、神聖に見えたのかも知らんね。つまり富士山や筑波山と同じじゃよ。 旅の人よ、そこの展望台へ上ってご覧。ただし「てすり」がグラグラしてるので、注意してのう。 ほれご覧。こんな高さからでも遺跡が円形であることが良く分かるじゃろう。 大きな環状列石の中に、小さな環状列石があるのが分かる。 これは日時計のように見えるが、実は縄文人のお墓なんじゃ。発掘した結果、そのことが確かめられたんじゃ。ここはもともと標高30mほどの舌状台地での、縄文人の住まいは台地の下にあった。そして出土した土器の様式から、お墓として使われたのは約200年間であることも分かっておるんじゃよ。 ほれご覧。何棟かあるこの建物には壁がないじゃろ?これも住まいではなかった証拠なのじゃ。つまりこの建物は死者を弔う拝殿のような機能を持っておったと言うわけさ。 栗の花 では、道路を横切って「野中堂環状列石」へ行ってみようか。その前に向こうの林を見てご覧。あれは栗林。縄文人は栗を栽培していたんじゃね。栗の実は貯蔵できるため大事な食料での、また木は水に強いため建築材として重宝されたんじゃ。青森県の三内丸山遺跡では、栗の巨木で高さ16mの見張り台のような物まで作っておるぞ。 野中堂もきれいな円形じゃろ?実はこの中心点と、今見て来た万座の中心点を結ぶと、夏至の日の入り、冬至の日の出の角度と一致することが分かっておる。縄文人は、そのことを意識しておったんだろうなあ。 そう考えると、この石組も何となく日時計のように見えるのう。おっほっほっ。そうそう。この大量の石は、6kmほど先から運んだんじゃ。少し緑色がかった特殊な石で、きっと縄文人にとっては宝石に見えたのかもなあ。ここでは30kg以上もある重たい石が多く、冬「そり」に乗せ、雪の上を滑らせて運んだと考えられておる。縄文人は知恵が深かったんじゃのう。 ここを見てご覧、旅のお人。石が一列になって、お墓へ向かう参道のように見えんかね?三内丸山ではメインストリートの直ぐ脇に、成人のお墓が列になっておった。縄文人は聖なる墓域をちゃんと意識しておったんじゃねえ。それと言うのも縄文人の平均寿命は30歳以下。多くはお赤ちゃんのうちに亡くなり、10代で親となり、30代で爺さん婆さんになり、死んで行ったんじゃ。彼らの宗教性の強さは、そのためなんじゃよ。 さて、明日は「ストーンサークル館」を案内しようかのう。<続く>
2015.07.03
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<ブログ友ニッパさん> 肩からバッグを提げた男の人が近づいて来て私の名前を呼んだ。ニッパさんだった。彼とのお付き合いは2年ほどだと思う。その間に怪我をされ、病気で入院され手術も受けた。まだ治療中であることは、彼のブログで知っている。「もしお会いしたらよろしく伝えてほしい」と言う札幌のブロ友たくちゃんさんの伝言を伝えた。また彼のブログを見てると言う三重のマッカーサーさんのことも話したが、名前は知っておられた。 歩いて駐車場へと向かう。今日の仕事は明日に延ばしたと言う。申し訳ない気持ちだ。盛岡駅の西口へ出た。そこは「いわて銀河」のゴール後、雫石からバスで帰る時に必ず寄った懐かしい場所だった。歩きながら色んなことを話す。たくちゃんさんのこと、お互いの健康のこと、仕事のこと、家庭のこと。そして彼の車で志波城古代公園へと案内してくれた。私はささやかなお土産を渡した。この朝駅で買った仙台名産の笹かまぼこだった。<志波城古代公園> 志波城の現況 志波城は大和朝廷の最前線の城だ。古来「方八丁」と呼ばれ、中世の城跡だと考えられて来た。だが東北道の建設に際し、事前調査をして巨大な城跡があることが分かった。昭和51年(1976年)のことだ。それ以来発掘調査が続けられ、次第にその全容が分かって来た。 928m四方の土塁の中に、840m四方の築地塀(ついじべい)を持つこの城は、外大溝(濠)によって護られている。築地塀の上には60m間隔で矢倉(現在の櫓)が設けられていた。城内には1200~2千棟の掘立柱住宅があり、そこで兵士が起居していた。従って兵士の数はその2倍から3倍は居たと考えられる。 志波城は延暦22年(803年)に征夷大将軍である坂上田村麻呂が建てた。平安初期のことだ。その前年、彼は北上川の中流域にある胆沢城を建て、蝦夷(えみし)の族長であるアテルイとモレを倒して、さらに北へと向かった。なお蝦夷はアイヌ族とは異なる先住民であり、私達東北人の遠い祖先に当たる。 建物配置図 そして現在の岩手県盛岡市西方、雫石川と北上川が合流する近辺にこの城を建てた。もちろん蝦夷を征伐するためだ。だが、わずか10年でこの城を去ることになる。理由の一つが川の氾濫で城の北側が破壊されたこと。第2が文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)が弘仁2年(811年)現在の岩手県北部および青森県南部の蝦夷を全滅させ、ここに駐留する必要がなくなったためだ。 そして3つ目がこの城が余りにも巨大で、維持するには大変な労力を要したため。そこで北上川を下った矢巾に徳丹城を築いて移転したのだ。 外郭南門と築地塀 坂上田村麻呂は延暦15年(796年)に陸奥按察使(あぜち)、陸奥守、鎮守将軍に任命されている。38歳の時だ。延暦23年(804年)に征夷大将軍となって志波城を築き、蝦夷を征伐した勲功で翌年には参議に任じられた。以降中納言、大納言、右近衛大将と出世し、京都清水寺創建、富士山本宮浅間神社創建、平城遷都造宮使などを命じられている。軍人でありながら、政治にも明るく、蝦夷からも強い人望があった好人物だったようだ。 (左)外郭南門と橋。橋の位置を南門の中心とずらしてある。(右)外郭南門の扉。 (左)矢倉(後の櫓60mおきに設置)(右)外大溝断面図 政庁正殿の跡地 政庁正殿のCG復元図。ここで大将軍が政務を取ったのだろう。 (左)役人の執務姿 (右)陶製の硯(すずり) 当時の兵士と役人の服装(推定) 都から着いた使節の一行か。(推定図) (左)竪穴住居。これは兵士の宿舎や工房用で小型、形は色々なタイプがあった。城内に1200~2千棟建てられ、蝦夷の襲撃から城を守っていた。 (左)城内から出土した鉄製の武具など (右)盛岡市遺跡の学び館にあった太刀 ブロ友ニッパさん(左)と私 次にニッパさんが案内してくれたのが「盛岡市遺跡学びの館」。志波城古代公園から車で10分ほどの距離だった。ここに盛岡市内の大館町遺跡から出土した日本一大きい縄文土器(右)などが陳列してあった。志波城も学び館の出土品も長年の夢であった古代の東北を知る重要な手掛かりとなり、大いなる興味を引かれた私だった。<続く>
2015.06.30
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<夢殿と中宮寺> 大宝蔵院から夢殿へと向かう。ここが入口で、夢殿の屋根が見えている。 境内 鐘楼 回廊 夢殿(国宝:天平時代)は、天平11年(739年)に行信僧都が斑鳩宮のあった旧地に聖徳太子を偲んで建立した八角形の建物。正式な名称は上宮王院で、東院伽藍の中心的な存在になっている。 左側の救世観音(ぐぜかんのん=国宝:飛鳥時代)は、聖徳太子自身と伝えられる秘仏。 右側は夢殿を建立した行信僧都の座像(国宝:奈良時代)。共に図録から借用した。 屋根と宝珠 門の扉 中宮寺から見える夢殿 ここからは中宮寺で別料金となる。 中宮寺境内 中宮寺本堂 開基は聖徳太子または母である間人皇后とされる門跡寺院(皇族が門主を務める寺院)で尼寺。創建当時は400mほど東側にあり、現在地へ移転したのは16世紀末と推定されている。平安時代以降この寺は衰微し、鎌倉時代になってからようやく復興した。現在の本堂は昭和43年(1968年)に建立されたもの。 弥勒菩薩 本尊の弥勒菩薩(国宝:飛鳥時代=パンフレットから借用)像は、広隆寺の弥勒菩薩像と良く対比される。現状は線香の煙などで全身が黒ずんでいるが、足の裏などの痕跡から当初は彩色されていたと考えられている由。 聖徳太子は推古30年(622年)に48歳で薨去した。妃の一人である橘大郎女は深く悲しみ、太子を偲んで「天寿国」と言う理想の浄土を刺繍で製作した。これが国宝の「天寿国曼荼羅繍帳」(飛鳥時代)。写真はこの模造品でパンフレットから借用した。本堂内には、この模造品が展示されている。 境内の黄色い実 境内の赤い実 この後、私達は歩いて法輪寺へ向かった。のどかな斑鳩の地。これから先は全て初めて訪れる場所だ。森の中に宮内庁書陵部管理陵墓と似たような表札が見えた。 私はてっきり宮内庁の陵墓だと思っていたのだが、「中宮寺の墓地」だったと知ったのは後日のこと。どんどん進んで行くと墓地に出、住民の人に「標識を見なかったのか」と咎められた。私は「見なかったよ。それにここは参道でしょ」と答え、さらに奥の墓陵へと向かった。 中宮寺墓地 ここが中宮寺管轄の墓地。旧皇族である有栖川宮家の陵墓があった。同宮家は大正時代に成立し、昭和になって絶えた。 後日ネットで調べたら中宮寺の門跡をされていたことが分かった。それにしても住民の態度が私には解せない。陵墓を侵す意図などこちらにはまるでないのに、あの過剰な反応はきっと「ここは私達が守っている」との想いだったのだろう。<続く>(注記)悪質な広告が掲載し難いよう、画面をフルサイズにしています。どうぞご理解ください。また、悪質な広告は絶対クリックしないでください。
2014.11.27
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<57年ぶりの斑鳩> 11月8日土曜日。さて、奈良の旅の3日目は正直な話、何も決めてなかった。最初は古墳を見ようと思ったが止めた。交通の便もあるが、外から眺めただけではあまり面白くない。木が生い茂って普通の山にしか見えない古墳がほとんどなので、感激は薄いのだ。それに妻が興味を持つかどうか。 それで法隆寺を訪れることにした。そこから京都へ引き返し、東寺と伏見稲荷を見る案を妻に示した。帰路の夜行バスに乗る京都駅前から近いためだ。先ずはJR天理駅まで歩いて電車に乗った。奈良で法隆寺方面へ乗り換えるのだと思ったら、そのままの電車で良いのには驚いた。どうやら「三角形」の路線のようだ。 前日妻が買って喧嘩の原因になった柿とミカンは私が持った。化粧道具も私に持ってと言う。それもリュックに詰めるとかなりの重量だ。JR法隆寺駅前から法隆寺までは案外距離がある。一日中歩くことを考えればバスに乗った方が良いと思って妻に勧めたが、彼女は歩くと言う。それならばと歩き出す。法隆寺付近の観光案内所に寄り、何種類かのパンフレットをもらった。それを見ているうちに法隆寺だけでなく、中宮寺、法輪寺、法起寺へも行きたくなった。歩いて4つのお寺を見ることを妻に告げる。 枯れたアジサイ 斑鳩(いかるが)の後は、この朝予定を変えて奈良の平城宮跡へ行くことに決めていた。テレビのニュースでそこを会場にした「平城京天平祭」が開催中であることが分かったからだ。私が平城宮を最後に観たのが19年前。その後「朱雀門」が再現されたことを知り、この機会に見たくなったのだ。多分京都へはこれからも訪れる機会があるだろうが、そこから一歩奥まった奈良へはなかなか来れないとの判断だ。 大阪勤務時代、法隆寺を訪れる機会があった。だが、私は修学旅行で訪れていたため奈良市内の古墳を見て歩き、妻が1人で行ったのだ。修学旅行は中学2年生の時で、私はまだ13歳だった。あの時は大阪造幣局の通り抜けの桜を見、奈良では東大寺、春日大社と法隆寺に寄り、その後京都の清水寺と滋賀の石山寺に行った。あれは自分にとっては大旅行だった。帰宅後にその時の様子を思い出しながら、短歌を作ったのを今でも良く覚えている。 緑なる春日の宮の朝の風 吊灯籠を揺すりおるかな これは春日大社での印象。赤と緑の鮮やかな大社の建物を、私は思い出していた。 老人の鐘つき堂に一人いて 石山寺は線香の香 これは滋賀県の石山寺の印象。どこか暗いイメージが残っていた。中学生なので、まだ「鐘楼」と言う言葉は知らなかったのだ。そして法隆寺を思い出して詠んだのが次の歌だ。 斑鳩の里にそびえし塔見れば 花の如きのいにしえ思ほゆ 「いにしえ」が昔のことで、「思ほゆ」が思われる意味であることを知っていたのだ。どの歌も極めて観念的だが、それが私が初めて作った記念すべき短歌で、今でも忘れずにいる。まだ幼かったあの日から57年経った。果たして今でも本当に法隆寺を覚えているのだろうか。 パンフレットから その法隆寺が圧倒的な存在感で私の目の前に現れた。いや~っ、これは明日香村とも山の辺の道とも違う感激だ。わずか13歳だった頃の自分と、古稀を迎えて知識と経験とを重ねた自分とでは、物の見え方が丸きり違うことに気づいた私だった。<続く> 今回の旅のバックナンバーに以下の記録があります。興味がある方はご覧ください。 11月10日~14日 「奈良の歴史を訪ねて」(明日香村の話:5回分) 11月15日~21日 「山の辺の道を行く」(7回分)
2014.11.24
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<山の辺の風景> 山の辺の道標識 山の辺の道踏破の話を5回かけてようやく書き上げた。私はこの道を3回歩いたと言う想いが強い。1回目は古本にあったコース図を確かめる中で、2回目は当日のウォークで、そして3回目はこのブログを書きながらだ。何度も言うが、歩いた当日は知らなかったことばかりで、いかにも知ってるように書いてるが、これは後日ネットなどで調べたことを加味している。掲載後の推敲も毎度のこと。多い時は1日に15回以上、文章に手を入れた。 この間の体調は最悪だった。酷い風邪を引き、喉の痛みに苦しんでいた。免疫力が落ちたのか、歯まで疼き出した。そんな中で、私は部屋に閉じ籠ってこの旅日記を書き続けていたのだ。それが終わって、ようやく少し安心した私だが、本当はまだ翌日第3日目の話が残っている。今はそれを暫し忘れ、山の辺の道のまだ紹介しなかった写真を載せたい。ともあれ日本最古のこの街道が、古代史の宝庫であったことだけは間違いない。 それにしても山の辺の道は、なぜ険しい山麓にあったのだろう。あれだけアップダウンが厳しいと、牛車(ぎっしゃ)を走らすことも困難だったのではないか。私が考えたのは川の存在。奈良盆地を流れる川は、全て大和川に注ぐ。橋を架けるだけの土木技術が発達してなかった古代は、川幅が狭い上流の方が歩き易かったのではないか。それが私の推論だ。平城京が置かれる頃になると、平野部にもようやく大きな橋が架かったのだろう。行基の架橋もその頃の話だ。 街道沿いの池(左)と畑の赤い大根(右) 歩きながら色んな風景を楽しんだ。道は様々な表情を見せ、ごく稀に集落にも出会った。それでも全般的に見れば、とても静かな道であった。古代の頃はさらに淋しく、人々はきっと難儀しながら歩いたのだろう。 道端のチョウセンアサガオとその実 大和三山 丘の切れ目から時々奈良盆地が見える。ある個所から大和三山が見えた。それが唯一で、その後は全くその姿を見ていない。天の香具山、畝傍山、耳成山が大和三山であることは知っているが、どの山がそうかは分からない。きっと調べれば推定出来ると思うが、幻のままにしておくのも良いだろう。古代から親しまれたそれらの低山にまつわる話も、きっとたくさんあると思う。ブログに載せた写真はパソコンから消すのが私なりの流儀。後は心の中の映像だけだ。 柿の紅葉(左)と柿本人麻呂の歌碑(右) 奈良は柿が多い地方。どこにも柿の木があり、柿の紅葉が美しかった。その枝にはたわわな柿の実。そして山の辺の道のそこかしこに歌碑や句碑が立っていた。柿本人麻呂は有名な古代の歌人。この歌は楷書で明瞭なため再掲しない。「衾道」や「引手の山」は、多分一番最後に載せた写真の風景だと思う。 二上山 大和(奈良)と河内(大阪)の境に聳える二上山は、古来から人々に親しまれて来た山で、歌の対象になることも多かった。特徴ある山容は、遠くからでも良く目立つ。だが私の安物のデジカメでは、ここまで近寄るのが精一杯だった。 左側 さとはあれて人はふりにしやとなれや庭もまかきも秋ののらなる (里は荒れて人は古りにし宿なれや 庭も籬(まがき=垣根)も秋の野良なる) 平安前期の僧、僧正遍照の作 右側 月待て嶺こへけりと聞ままにあはれよふかきはつかりの聲 (月待ちて嶺越えけりと聞くままに 哀れ夜深き初雁の声) 室町時代~戦国時代の武将、十市遠忠の作 左側の「石仏」は大和神社御旅社のもの。昨日も1枚掲載したが、良く見ると陽物(男根)のようにも見える。すると白い布は褌(ふんどし)なのかも知れない。そう考えると、神社との関係に興味をひかれる。右側は玄賓庵付近の宝筐印塔(ほうぎょういんとう)。 のどかな山間の田圃にも、古代の条理制の姿がまだ残っているようだ。 引手の山付近か 多分8時間以上は歩き続けたこの日の旅。山の辺の道の風景を、私はきっといつまでも忘れないだろう。明日は大神神社と石上神宮の残った写真を掲載する予定。<続く>
2014.11.20
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<天理駅までの長い道> 少し話を戻そう。崇神陵を過ぎて暫く行くと、「最古の御社 大和神社御旅所」なる標識が立っていた。最古の社となれば寄らない訳には行かないだろう。そう考えて周囲を見回したら、2つの小さな社があった。 どちらが大和神社で、どちらが御旅所なのだろう。あまり有難味は感じず、後日ネットで調べても、ヒットしたのは立派な他の神社だった。あれは一体何だったのか。何だか「看板に偽りあり」の感が強い。 傍らに石仏があったが、神社と石仏の組み合わせも考えたら変。この付近で柿を安売りしていた。1個10円だと言う。熟してなかなか美味しい。お爺さんが1個おまけしてくれたので40円を渡す。妻は枝から取って食べたが、少し渋かったようだ。売り物の中から少し堅そうなのを選び、妻はお土産用に幾つか買った。小ぶりのミカンも1袋買った。そしてそれが後で夫婦喧嘩の原因になった。 買ったは良いが妻は持とうとしない。弁当もそうだが、持つのは全部私。リュックはズシリと重くつい文句を言うと、妻は怒ってそれなら自分が持つと言い出した。やがて彼女は不機嫌になり、私と離れて歩き出した。旅の途中で土産を買えばロッカーに預ける訳には行かず、全部自分達の重荷になるだけ。安さに釣られ、先のことまで考えないのはいつものことだ。 集合墓 「その先に日本一古い集合墓があるよ」。ある集落でお爺さんが教えてくれた。道を曲がった角にそれらしい墓。確かに墓が密集している。どんな理由で墓が固まったのか奇異に感じたが、先を急いだ。 フユザクラ 妻の様子がおかしい。バス停から1人でバスに乗ろうとしているが、今夜泊るホテルを彼女は知らないのだ。一旦は呼び戻したが、坂道を登り切った所で妻の姿を見失った。一体どこへ消えたのだろう。慌てて坂の下の店で電話を借り、妻の携帯に電話。彼女はかなり先の方まで行っていた。どうやら道は二手に分かれ、妻は別の道を行ったみたいだ。険しい道。淋しい道。こんな道を昔の人は良く旅したものだ。私も必死に後を追った。 妻は石上(いそのかみ)神宮近くまで行っていた。押し黙って歩くうちに、看板を見つけた。どうやらツキノワグマが紀伊半島にも生息しているみたいだ。その保護を呼び掛ける手作りの看板が珍しい。石上神宮はその看板の直ぐ先にあった。 拝殿(国宝) これが国宝の拝殿。石上神宮は布留山の西北麓に鎮座する式内社で、主祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。石上神社など9つ以上の別名を持っており、伊勢神宮同様「神宮号」を古記録に認められている有数の古社。伊勢神宮の古名である磯宮(いそのみや)と音が同じ「いそ」を冠するのも偶然ではないようだ。 明治7年(1874年)に大宮司となった菅政友は水戸藩で「大日本史」編纂に関わった歴史家。彼は長年禁足地とされていた場所を発掘し、地中から刀を得た。それが「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)。古来記紀にはこの剣に関する記述が多く、皇室との関係も深そうだ。その後本殿を建てた禁足地は、現在も同じ扱いをしている由。私は1人の神官に国宝の七支刀はどこから出土したのか尋ねた。彼は出土品ではなく伝来品だと答えて、由緒をくれた。 国宝七支刀 菅大宮司が長年田植えの儀式に使われていた七支刀(しちしとう)を良く観察し、刀身に金の象嵌文を発見したことを知ったのは後日のこと。研磨した結果、剣の両面に刻まれた61文字を発見。文字の一部は錆(鉄製のため)で判読出来なかったが、百済が倭に朝貢した際に献上したものと判明した。昭和28年(1953年)国宝に指定。 この刀は形状から、どうやら記紀に記された「ななつさやのたち」と判明。石上神宮は元々崇仏派である蘇我氏と戦って滅亡した排仏派物部氏の武器庫であった由。これもまた不思議な因縁だ。 摂社出雲建雄神社拝殿(国宝) 何気なく撮ったこの建物が国宝であることを知ったのはつい昨日のこと。「出雲建雄神」とは草薙の剣の荒魂のことらしい。草薙の剣はヤマタノオロチの腹から出た伝説上の剣で、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の時に使用したもの。話の背後に古代出雲族との関係や皇室との深い関係が偲ばれて、神宮の起源をとても興味深く感じた。 拝殿内部 この日は朝早く大神神社付近から歩き始めて、午後遅くようやく石上神宮に到着した。2つの古社を訪れることが出来たのは生涯の宝で、もう二度と訪れるのは無理。古代史研究の良いヒントになった神宮に別れを告げ、ここからさらに天理駅まで歩いた。これも実に長い道のりだった。 途中に天理教の巨大な建物。天理市が天理高校や天理大学、そして天理教の病院を持つ「宗教都市」であることは知っていたが、ここまで巨大であることに正直驚いた。 天理教は江戸時代末期に中山みきを教祖として生まれた神道派の宗教。教団の名を染め抜いた法被を着た信徒の姿を大勢見かけた。駅まで続く「天理本通り」の長さにも驚嘆。上の太鼓は本通りの店で見かけ、巫子の写真は張られていたポスターから拝借した。 この日歩いた距離は20km近く。長い道中だったが、ようやく念願の「山の辺の道」踏破を果たすことが出来た。私達が泊ったのは1泊5千円にも満たない安宿だが、夕食は意外にも豪勢だった。誰もいない風呂で旅の汗を流し、酒とビールで祝杯を上げた私だった。<続く>
2014.11.19
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<古墳の宝庫> 一旦山の辺の道と別れ、私達は里へ下りた。古墳を観るためだ。古墳の名は箸墓古墳。纏向(まきむく)には古墳が多いが、折角ここまで来たのだからせめて有名な古墳を何としても観たい。そう思って初めから予定していた。集落の中で場所を尋ね、ようやくその姿が見える場所へ出た。 箸墓古墳 これが箸墓古墳。もう一つの呼び名は「箸中山古墳」。箸中は桜井市の地名だ。全長278mで、後円部の高さが30m。全国でも11番目の大きさで我が国最古の前方後円墳。昨年20人近い考古学関係者の立ち入りが初めて許可されている。 箸墓古墳 ここは宮内庁の管理下にある陵墓の一つで、名称は「大市墓」。被葬者は第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。 日本書紀によれば、夫は三輪山の神である大物主神。神との通婚譚は巫女(みこ)的な要素が強い女性であることを物語る。大物主神の正体はヘビと言われている。もちろん動物と結婚する人間はおらず伝説と言うことになるが、古代の天皇と豪族との関係を思わせる話ではある。 ネット借用資料 現場にあった航空写真 古墳の全体像が分からないため、ネットから画像を借りた。全国でも最古級の3世紀中頃から後半にかけての築造と考えられ、これが「径百余歩」とされる卑弥呼の墓に比定する根拠。つまりは邪馬台国大和説に繋がることになる。いずれにせよ地区の古墳群の中核的存在だ。 記紀によれば、昼は人が造り、夜は神が造ったとされる伝説上の古墳にようやく会えることが出来た私は大満足だったが、妻はどう感じていたのだろう。ここからは来た道を戻らず、少し先から山の辺の道に向かった。人に聞きながら行くと、景行天皇陵に出た。 景行天皇陵 左側は宮内庁書陵部による表示で、右側は外観 宮内庁管理による陵墓の名は「山辺道上陵」。山の辺の道のほとりにある陵との意味だ。遠方に見えるのが三輪山。さて景行は伝説上の人物である日本武尊(やまとたけるのみこと=第14代仲哀天皇の父とされる)の父で、第12代天皇。記紀によれば、天皇記の半分以上は日本武尊のことが書かれている由。実在が疑われる要因の一つだろう。 和風謚号(いみな)は「おおたらしひこおしろわけのすめらみこと」。このうちの「たらしひこ」は第34代舒明天皇、第35代欽明天皇と共通し、彼らは7世紀前半の人なので、4世紀前半とされる景行とは時代が合わない。後世記紀が編纂された際の「創作」と考えられる所以だ。なお、江戸時代までは崇神天皇陵とされていた由。 航空写真 隣の円墳らしい古墳の傍に、この写真が載った標識があった。古墳の名は渋谷向山古墳。私はてっきりこの円墳(外観はそのように見えた)の名だとばかり思っていたのだが、帰宅後に調べるとこれが景行天皇陵の考古学上の呼称と分かった。墳長310m、後円部の高さは23mの前方後円墳で、4世紀後半の築造と考えられる由。 左側が「渋谷向山古墳」と誤解した「円墳」。地図にも名前は載ってないが、景行陵の陪塚(ばいちょう)かも知れない。右はその付近にあった石仏。 左側の句碑には「二た陵に一人の衛士やほととぎす」とある。「二た陵」は景行陵と付近の崇神陵のことだろう。「衛士」(えじ)は番兵のこと。陵を守る人は現在誰もいないので、恐らくは作者自身のことを言ったのだと思う。右側は奈良盆地の風景で、見えているのは天理市街だ。 崇神天皇陵 古墳の等高図 間もなく崇神天皇陵が見えて来る。宮内庁書陵部による管理上の名称は山辺道勾岡上陵。あまり近過ぎて全体像が分からない。ネットから借りた航空写真を参考にしてほしい。等高図は現場にあったもの。 第10代天皇の彼は、「実在の可能性が見込める初めての天皇」と言われるが反対説もある。第12代の景行に疑義があるのに、それより古い崇神が実在すれば矛盾が生じる。それに第9代までは架空の人物であるなら、その子である崇神も存在しないことになる。 この陵の考古学上の呼称は行燈山(あんどんやま)古墳。全長242m、後円部の高さは23mの前方後円墳だが、「帆立貝式古墳」と考える研究者もいる。これは前方部の長さが短い古墳のこと。確かに航空写真ではそう見え、等高図とは印象が異なる。築造時期は3世紀半ばから後半と考えられている由。 中山大塚古墳 この先にあったのが中山大塚古墳。墓の中に古墳らしきものが見えたためたまたま撮った。これが全長130m、後円部の高さが11.3mの前方後円墳で、箸墓古墳に次ぐ最古級の古墳であることを後日ネットで調べて知った。 この周囲には継体天皇の皇后である手白香皇女衾田陵など、数多くの古墳があるようだ。考古学ファンとしてはまさに垂涎の的だが、時間がないため先を急いだ。<続く>
2014.11.18
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<漂流する神と仏> 狭井神社の小社 1人の神官が足早に私達を追い抜いて行った。さて、そんなに急いでどこへ行くのだろう。神官はつかつかととある小社の前に進み、拝礼した。そこからが狭井(さい)神社の境内だったようだ。ここは大神神社の摂社の一つである。 拝殿への石段 拝殿は工事中のようだが、この裏側に神社の名の由来になった井戸「狭井」があるようだ。そこから湧く水は薬水と呼ばれ、昔から万病に効くとされて来た由。正式な名称は狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社である。 狭井神社境内の小社(左)と三輪山登拝口の注意書き(右) この境内に三輪山への登拝口がある。大神神社で私はある方から、三輪山の頂上に磐座があること、登りに1時間半、下りに1時間かかることを聞いていた。注意書きには山は大切な神域なので食事や撮影は禁止し、決して汚さないよう記されていた。登拝希望者は先ずここでお祓いを受け、初穂料を納めてから登るようだ。登りたい気持ちは山々だったが、先を急いだ。 白大社 暫く行くと、道端に小さな社があった。なかなかの風格だ。これも大神神社の摂社なのだろうか。傍らに「白大社」と書かれた石碑が立っていた。小さいけど大社とはねえ。さらに街道を行くと、不思議な雰囲気の一角があった。一体ここは何なのだろう。そう思って私は石仏や石塔を見ていた。 そこへ1人の老人がやって来て、私に教えてくれた。これらはある高僧の墓だと言う。明治になって別な場所からここに移され、新しく作られたものとのこと。道理で形は古いものなのに、そうは感じなかった訳がわかった。それでも実に清らかな印象を受ける。大神神社の一帯は清浄の地として、昔は墓を作らなかったそうだ。 帰宅後に調べたら、ここは玄賓庵と言うお寺の付近。元は別な場所にあったのだが、明治の神仏分離の結果ここに移動したようだ。玄賓僧都(げんぴんそうず)は桓武天皇、嵯峨天皇の信任を断り、三輪山の庵で修行に明け暮れた高僧の由。きっとそれで清浄な雰囲気が漂っていたのだろう。 護摩木を売る店 道の傍らには護摩木が置かれた店があった。こんな静かな山中で、一体誰がこの護摩木を買うと言うのだろう。考えて見れば実に不思議なのだが、さほど違和感がない。先刻出会った「杉玉作り」もそうだが、ここには未だに信仰が深く息づいている地域なのだと思う。 檜原神社社務所 暫く行くと檜原(ひばら)神社の境内に出た。ここは大神神社の最北端の摂社。しかも最も社格が高く、かつ古い歴史を有している由。三輪山が御神体であるため、ここには神殿も拝殿も存在しない。境内の建物はきっと社務所なのだろう。何とシンプルな神社。だがそのシンプルさこそが貴重なのだ。 神社の名を記した標識が立っている。右側に「聖跡倭笠縫邑」云々の文字が読める。古代史ファンの私はどこかで聞いた覚えがある。帰宅後の調査でこの神社も明日香村の飛鳥坐神社同様に、「元伊勢」と呼ばれていることが分かった。倭笠縫邑は「やまとのかさぬいむら」と読む。倭は大和国(奈良県)で、邑(むら)は行政単位ではなく、一集落の意味だろうか。 檜原神社 境内の最奥部に静まり返った一角がある。得体の知れない厳かな雰囲気だ。かつて皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)は皇居内で祀られていた。いわゆる「同床共殿」だ。ところが第10代崇神天皇がこれを恐れて皇女鋤入姫命にその神霊を託した。皇女が最初に辿り着いたのがこの社が鎮まる「笠縫邑」だったのだろう。もちろん記紀(古事記と日本書紀のこと)に伝わる伝説だが、最終的に伊勢神宮に鎮まるまで90年を要したと言う。 神籬拡大部 神霊が臨時的に宿る場所を神籬(ひもろぎ)と呼ぶ。檜原神社境内の最奥部の静かな一角が、まさにそれだったのだ。神籬は小さな木の枝や岩とされる。天照大神の神霊はこの場所で何年休んでいたのだろう。なお、神籬の前に立つ鳥居は、「三輪鳥居」と呼ばれる特異な形のもののようだ。 神の漂流は果たして何を物語るのだろうか。「神武東征伝説」によれば、日向を旅立った神武の一行は瀬戸内海を通過し、難波の地から倭(大和)へ入ろうとした。だがここで手長足長と言う兄弟に行く手を阻まれ、ヤタガラスの先導により紀伊半島を大きく迂回して伊勢から入ったとされる。ひょっとしてこの伝説と関係はないのだろうか。素人の古代史ファンは、そんなストーリーを描いてみたのだが。<続く>
2014.11.17
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<神の正体は?> 平等寺 暫くするとコンクリート造りの明るいお寺に出た。平等寺と言うらしい。寺伝によれば聖徳太子の開基とのことだが、旧町史によれば空海開基説があり、奈良興福寺の末寺だったようだ。しかし何故こんな近代的なお寺になったのかが不思議。 平等寺の塔 ここは神仏混淆時代、当時三輪明神と呼ばれていた大神(おおみわ)神社の神護寺だったようだ。それが明治になって神仏分離が進められた時に、寺は破壊されたそうだ。ようやく再建出来たのが昭和52年。それでコンクリート造りになったのだろう。これは帰宅後の調査で知った。 境内の一角に聖徳太子の立像があった。太子が建立した7つの寺の中にこの寺の名前はないが、「由緒」など所詮そんなものかも知れない。 暫く行くと、街道の傍で「杉玉」を作っている店があった。大神神社に捧げる由。杉の枝は脇に積まれていただけだが、私が丸く加工して遊んでみたもの。 さて、杉玉は新酒が出来た際の酒屋の目印だとばかり思っていたのだが、どうやらそれだけではなかったようだ。これも後日知ったのだが、元々は酒の神様に感謝して捧げるものらしい。そして大神神社は酒の神であり、杉玉は神社の杉にあやかったのだとか。ふ~む。 大昔、酒は炊いたご飯を乙女が口で噛み、それを吐き出して作ったと言われている。恐らくは唾液に含まれる酵素が発酵を促したのだろう。日本語の「醸す」(かもす)は「噛む」から変化したとも言われている。そうして出来上がったのがお神酒(みき)。つまり神様に捧げる酒だ。それだけ米は人々の暮らしにとって尊い存在で、それを原料にした酒も先ずは神に献じたのだろう。 やがて鬱蒼とした杉木立の中に、大神神社の境内が見え始めた。ここは大和国一宮。わが国でも最古の神社の一つと伝わっている。神殿はなく、標高467mの三輪山そのものが御神体だ。頂上には磐座(いわくら)があり、昔から磯城(しき)氏の族長自身が祭祀を行って来た由。神官は代々三輪氏が務めているが、三輪氏は古代豪族である磯城氏の末裔と称している由。 三輪山遠望 山頂は境内からは見えず、写真は6kmほど先で撮ったもの。姿が美しい山は太古から神奈備(かんなび)山と呼ばれ、日本人の尊崇を集めて来た。富士山、筑波山、岩木山、大山などがそうだ。社殿が無く、山自体が信仰の対象と言うのは神社の最も古い形で、その後時代が経つと祭祀した頂上に奥宮が建てられ、中腹の中社、麓の本社と次第に里へ下りて来る。きっと人間が楽に参拝出来るよう変化したのだと思う。 拝殿 こちらが拝殿で国の重要文化財に指定された堂々たる建造物。静まる境内には我が国最古とされるだけの雰囲気が漂っている。 境内の一角に柵で囲まれた場所があり、そこに苔むした岩があった。これは頂上の磐座を模したものだろうか。昨日の写真と比較すれば、磐座の畏さは一目瞭然。白砂の上には御幣が鎮まっていた。 拝殿内部とヘビのいる手水舎 祭神は大物主神で、その正体はヘビなのだとか。また大物主は大国主命(おおくにぬしのみこと)の別な姿とされていて、出雲大社の祭神でもある。記紀によれば少なくとも6人以上の妻を持ち、生まれた子供の数は180人以上。それらは神話であるとしても全容を把握するのはなかなか困難だ。つまり日本一古い神社は、それだけ各地の伝説を取り入れる必要があったのだろう。それは古代の天皇が有力豪族に協力を頼まざるを得なかったことと良く似ている。 祀られた石(左)と枯れた大杉のご神木(右) ヘビは今でもご神木の杉の根元に棲んでるそうだが、そこへの立ち入りは禁止されている。酒の神でヘビ。頂上の磐座とそれを祀った古代豪族。天皇や出雲との関係や、摂社檜原神社と伊勢神宮との関係。記紀の神話にある妻子の数。日本の神とは一体何者なのかは分からないが、その混沌がきっと日本らしさなのだと思う。 なにごとのおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる 西行法師が伊勢神宮で詠んだ歌だが、漲る聖気に思わず涙をこぼす霊力が神域にはあるのだろう。 土の坂、そして石畳の坂。厳しい山の辺の古道はさらに先へと続いている。<続く> 昨日のブログに、明日香村の方がわざわざコメントを下さった。私にとってはとても嬉しい出来ごとで、心から感謝している。また「山の辺の道」を書き始めて驚いた。まだ写真をほとんど整理してなかったのだ。そこで昨日は200枚以上の写真を慌てて整理した。1枚毎にサイズと名前を決め、時には形を変える作業はなかなか辛いものがある。それに歴史的な事実などの確認が加わる。旅日記も、旅と同じくらいのエネルギーが必要だ。
2014.11.16
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<道に迷う> 橘寺にて 明日香村に滞在したのは7時間ほど。そしてその間に訪れたのが13か所だった。帰宅してから改めて観光地図を見たら、行きたかった個所が半分以上残っていた。それだけ明日香村には歴史的な遺産が多いと言うことだろう。だが、この村を再び訪れることはもう不可能で、頭の中で想像する以外にない。それでも夢を観る楽しさだけは味わえるかも知れない。 橘寺境内 今回の奈良旅行に際して、私は古本屋で4冊の本を買った。明日香村と山の辺の道を確認したかったためだ。出来るだけ正確な地図を観て、それを頼りにする気持ちが私には強い。現地に行けば詳しい観光地図が得られるとは思ったが、油断は禁物。だが、実際は明日香村でも山の辺の道でも何度か道に迷った。決して強がる訳ではないが、自分ではそれもまた何かの勉強だと思っている。 街道沿いの文旦 11月7日(金)旅の3日目。桜井駅前のホテルを8時半に出発。いよいよ念願の山の辺の道を歩くのだ。距離は最低でも15kmにはなるはず。朝食は夕食に比べてかなり粗末だった。宿で作ってもらった弁当2個が入ったリュックは結構重たい。駅でコース図を入手。これを見ながら歩き出したのだが、最初から躓いてしまった。地図に書いてあった山の辺の道の入口までの距離を、私はうっかり見落としていたようだ。 1.5kmほど行き過ぎてから違うことに気づいた。最初に道を訪ねたお爺さんが間違って教えてくれたことを、迷子のせいには出来ない。全ては自分の地図の見方が悪かっただけ。最初から往復3kmほどのロス。ようやくスタート地点を見つけた時の嬉しさ。喜び勇んで大和川に架かる橋を渡った。かつては日本一汚れた川だったが、この辺にその面影はなく、むしろある種の清らかさを感じた。 それもそのはず、この付近が我が国に初めて仏教が伝来した地なのだとか。海柘榴市は「つばいち」と呼ぶ。交通の要衝で、古代から「市」が栄えていた由。随や百済などの使節が大和川を舟で遡り、ここまで来たようだ。川岸には港があった由。ここから明日香までは馬か歩いて行ったのだろう。この静かな住宅地に、かつてそんな栄光の日々が存在したとは。 金屋の石仏 付近には「金屋の石仏」があった。平安後期から鎌倉時代にかけて作られたもので、凝灰岩に弥勒菩薩(左側)と釈迦如来(右側)が浮き彫りにされている。それは帰宅後に知ったことで、当日は仏教伝来との関係を考えていたのだ。 左側が山の辺の道の入口で、右側が古代の街道図。今回歩いた山の辺の道が一番右側の曲がりくねった道で、奈良盆地の東縁を山裾を縫うように通っている。桜井市の三輪山の麓から奈良市の春日山の麓まで続くが、天理市以北は途中から不明個所がある由。これが我が国の歴史に残る最初の道で、さらに明日香へと繋がっていた。 持統天皇4年(680年)の藤原京の造営に前後して、新しい真直ぐな道が造られた。最初に出来たのが上ツ道で、これにより山の辺の道の通行は激減した。次いで中ツ道、下ツ道が整備され、その後も新たな直線の道が造られた。これらは当時官道として整備されたのだが、平安以降その機能は消滅したようだ。結局はその後に造営された平城京との連絡道路だったのだろう。 間もなく藪の中に1本の標識を見つけた。「磯城瑞籬宮(しきみずがきぐう)」とある。これは面白そうと思って小さな神社の境内に入る。ここは崇神天皇の都があった場所のようだ。天皇の名も宮の名も知ってはいたが、何か嘘臭い。白々しい雰囲気で、全くオーラが感じられないのだ。果たして崇神は何代目の天皇だったか。そう思っただけで、再び山の辺の道に戻った。帰宅後に確かめたら彼は10代目だった。 歴史学の定説としては初代の神武から第9代の開化までの天皇は実在しないと考えられている。第10代の崇神から第14代の仲哀までの天皇も実在が妖しいと考える研究者は多い。私があの境内で直感的に嘘臭いと感じたのは、きっと古代からそこが本当の祈りの場所でなかったせいだろう。宮跡の石碑は大正時代に建てられたものらしいが、既に100年以上経過した歴史の重みが、私には全く感じられなかった。 磐座部分拡大図 ここは志貴御県坐(しきのみあがたにいます)神社。鳥居の後の岩は磐座(いわくら)であることを、昨日ネットで調査中に偶然知った。磐座は本来山上にある自然石。天から降りた神が鎮まった場所で厳粛な祈りの対象(神社の原型)だが、ここのはいかにも取って付けた急造の感じ。なお付近の三輪山頂には、「本物」の磐座が存在するそうだ。 我が国最古の豪族と伝えられている磯城(しき)氏も、その存在を疑う研究者が多い由。初期の天皇は磯城氏との関係が深いそうだ。私がこの境内で全く崇高さや厳粛さを感じなかった理由は、案外その辺にあったのだろうか。これは最初から不思議な話だ。<続く>
2014.11.15
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<明日香村アラカルト> 明日香村の風景 歴史的な内容のブログは下調べに何時間かかかり、1回の文章を書くのにも最低2時間以上はかかる。ほとんど何も知らないからだが、何をどう調べたら良いかは分かる。それまでに知っていたこと、旅先の現地で知ったこと、そして帰宅後にネットで調べて分かったこと。それらをミックスして書いているが、新たな知識が広がるのがとても嬉しい。「現場」を観ることで学んだことが1つに繋がり、これまでの謎が解明されることが多いからだ。 明日香村の集落 昨日は原稿を書いている途中に、突然システムが不安定になった。初めての現象だが、何かウイルスが侵入しようとしたのかも知れない。一旦セーブして電源を切った。強力なウイルスバスターが効いたのか、再開後は保存されたデータがスムーズに動いてくれた。一体あれは何だったのだろう。ネットの世界では時々こんな不可思議なことが生じる。さて、今日は明日香村の最終回。説明は最低限に抑えたので、出来るだけ写真を楽しんでいただきたい。 橘寺境内 橘寺の仏像 橘寺本尊 聖徳太子35歳時の座像 境内の馬像は太子の愛馬の由。太子は蘇我氏と共に排仏派の物部氏と戦っており、馬にも乗ったのだろう。 石舞台古墳 蘇我馬子の墓と言われている石舞台古墳は巨大な方墳で、使用された石材の総重量は約2300トン。こんな巨大な古墳を築いたのが古墳時代で、大化の改新後に発布された「薄葬令」により、巨大な墓の築造は禁止された。命令を出した天智天皇自身の陵墓も、それまでの天皇のものに比べたらかなり小規模になった。 飛鳥寺の仏像。右側の聖徳太子孝養像は16歳時の太子像で、製作は鎌倉時代。 飛鳥寺の古代瓦で、創建当時に使用されたもの。 左側は飛鳥寺の古代瓦。これは龍だろうか。恐らくは鬼瓦として用いたのだろうが、とても珍しいものだと思う。右側は飛鳥寺の彩色のない曼荼羅図。 左側は今はない飛鳥寺金堂の礎石。右側は飛鳥寺の鐘楼。 飛鳥坐(あすかにいます)神社。これがエロチックな奇祭を演じる舞台だろうか。 飛鳥坐神社境内の一角にある小さな社。4柱の祭神のいずれかが祀られているのだろうか。 これは創建当時の飛鳥寺だろうか。(埋蔵文化財展示室所蔵) 丘の上から美しい都城を見下す男女の姿。これはきっと華やかだった飛鳥時代の想像図だろう。(埋蔵文化財展示室所蔵) この後私達は桜井市へ移動して一泊。翌日は「山の辺の道」を歩いた。明日からは新シリーズ「山の辺の道を歩く」を開始する予定。引き続きどうぞお楽しみに~♪
2014.11.14
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飛鳥坐神社 「水落遺跡」を探しあぐねているうちに村落の外れに出た。丘の上に飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)があるようだ。名前は聞いたことがある。そこで妻と丘へ登った。神社があったが、さらにその上にも何かがあるようだ。行って見ると小さな社があった。ここで出会った人が、この神社にはとても変わった祭があると教えてくれた。何でもセクシーなお祭りなのだとか。 旧社格は「村社」だが、延喜式神名帳にも載っている古社のようで、日本書紀の朱鳥元年(686年)7月の条にも記載がある由。天長6年(829年)現在地に遷宮した記録が残されているが、元の場所がどこかは不明。祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)はじめ4柱だが異説がある。天武天皇の病気平癒を祈願したとの社伝があり、近世には「元伊勢」と呼ばれていたようだ。 それらは帰宅後に調べて分かったことで、この時はまだ何も知らない。ただ、境内にいると、何か不思議な雰囲気をビシビシ感じたことは確か。建物がどこか不自然な感じを受けたが、最近他の神社の建物を移築した由。ああやはりそうだったのかと、今になって納得している。 奇祭のことを後日ネットで調べた。天狗の面をつけた「男」と、お多福の面をつけた「女」が舞台の上で夫婦和合の営みを滑稽な仕草で演じるらしい。いかにも古代のおおらかさを感じる祭だ。古代、筑波山頂では、年に1度だけ他人の妻との自由恋愛が許されていた。ここが明日香村での11番目の訪問先だった。 水落遺跡 12番目の訪問先は水落遺跡。場所は飛鳥坐神社の帰途にようやく発見。昭和47年(1972年)民家建築の予備調査時に遺跡の存在に気づき、それ以来10年以上かけて本格的に発掘調査を行った結果、日本書紀天智天皇10年4月25日の条に記載のある漏刻(水時計)及びその付属施設であることが判明した。 ネットからの借用資料 発掘調査によれば、ここには楼状の建物の他に水利施設、4棟以上の掘立柱建物などがあったことが分かった。次に立ち寄った「埋蔵文化財展示室」に、水落遺跡関係のものと思われる遺物や写真があったので、参考までに載せておきたい。 恐らくはこの写真が水落遺跡のもの。つまり当時の漏刻(水時計)の構造物だ。遠方から水を通すための地下構造物もある。 これは水を貯める「桝」(ます)と、そこから水を流すための設備だろう。 これは石製の水道管と思われる。このような設備を作れたのは、百済の渡来人の石工以外にいないはず。当時の技術の高さを知る貴重な遺物だが、明日香村の地下には未だ知られていないたくさんの歴史的遺産が、数多く眠っているのだろう。 都城模型 最後に立ち寄ったのが「埋蔵文化財展示室」。13番目の訪問先の入場料は無料だが、ここには飛鳥時代の歴史資料がたくさん展示されていた。最初の模型は都城で、恐らくは「板蓋宮」だと思われる。 同上 以下は村内の古墳などから発掘された遺物を復元したものだろう。見事なものが多いので紹介したい。 王冠 鏡 装飾品 装飾品 馬具の一部 閉塞石(古墳石室内部の扉代わり) 具注暦(ぐちゅうれき=当時のカレンダー) この後私達は帰途に着いたのだが、途中で再び道に迷った。村内をグルグル廻るうちに、方向が分からなくなったようだ。<続く>
2014.11.13
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<ジグザグの古代史探訪> 橘寺の境内にて 自転車で明日香村を訪ねる旅は観光地図を見ながらなので、歴史の順番通りとは行かない。道もそうだが歴史の順番もジグザグだ。7つ目の訪問先は橘寺。聖徳太子が建立した7つの寺の1つで、父である第31代用明天皇の別宮を寺に改築したと伝えられている。寺の名は、不老長寿の果物と信じられていた橘の実を植えたことに因む。 聖徳太子はこの地で誕生した由。彼にとっても思い出深い地だったのだろう。寺の直ぐ傍に、「聖徳太子御誕生所」の石碑が立っていた。ただし聖徳太子の名で呼ばれたのは、彼の死後のことだ。 境内の一角に馬の像があった。これは太子の別名「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)に由来するのだろうか。祀られているご本尊は、太子が35歳時の座像と伝えられている。 橘寺境内 秋の日差しを浴びる境内は静寂そのものだった。天皇の子でありながら皇太子(摂政)のまま生涯を終えた太子。その太子に4人の妃がいることを、今回初めて知った。彼は有力な豪族である蘇我氏の血を引き、妃も蘇我氏の出自だとばかり思っていたのだがそうではなく、国宝「天寿国曼荼羅繍帳」(法隆寺蔵)を作らせた橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)も妃の一人で皇族だった。 石舞台古墳外観 8つ目の訪問先は「石舞台古墳」。その巨大さは傍に立つ人と比べたら良く分かるだろう。この古墳は蘇我馬子の墓と言われている。大化の改新により彼の孫である蘇我入鹿は中臣鎌子(藤原鎌足)らに暗殺され、彼の子である蘇我蝦夷は自殺した。そのため祖父馬子も反逆者の一族として墓を暴かれたのだろう。元々は土で覆われていたはず。その土を剥ぎ取られ、石室は露わになり、石棺まで破壊された。古代日本最大の豪族蘇我氏は、こうして歴史から消えて行った。 石室内部 石室内から外部を見た図。写っているのは妻だが、これで古墳の巨大さが分かるだろう。巨大な花崗岩は付近の多武峰(とうのみね)から切り出され、運ばれたもの。蘇我氏は天皇家にも劣らぬ権力を振るい、聖徳太子の妃の一人である刀自古郎女(とじこのいらつめ)は馬子の娘であった。 復元された石棺 板蓋宮跡 655年に皇極天皇が斉明天皇として重祚(ちょうそ=同じ人が2度天皇になること)し、板蓋宮(いたぶきのみや)で即位した。板蓋は瓦葺きでない粗末な宮殿だとばかり思っていたのだが、当時の家屋は草葺き、わら葺き、茅葺き(かやぶき)、檜皮葺き(ひはだぶき)が一般的で、製材製板の技術が遅れていた当時としては最先端のもので、瓦は寺院だけで用いる貴重品だった由。 板蓋宮跡 ここ板蓋宮跡が私達の9番目の訪問先になった。規模としてはかなり小さな宮殿だったのだろう。 板蓋宮跡 真ん中の方形の囲いは井戸の跡だろうか。 飛鳥寺裏門 10番目の訪問先は飛鳥寺。当時は法興寺、元興寺(がんごうじ)と呼ばれ、飛鳥寺は別称。平城京遷都の際は元興寺も奈良へ移った。飛鳥寺は596年に蘇我馬子が建立した日本最古の寺で、蘇我氏の氏寺。崇仏派の蘇我氏は排仏派の物部氏と戦って勝利し、それ以降仏教は国の中心思想として重要視される。現在の正式な名称は安居院。 本尊の飛鳥大仏(釈迦如来像)は製造年代の分かる現存の仏像としては我が国最古のもの。百済からの渡来人が605年に造り始め、翌年に完成した。火災に因る損傷の跡が残されている。 寺の秘仏(左)と入鹿首塚(右) 大化の改新(乙巳の変=い(お)っしのへん、645年)により、大臣であった蘇我入鹿は暗殺され、斬首された。その首は、祖父の馬子が建てたこの寺の傍らに葬られた。政変の後、一族の蘇我倉山田石川麻呂が大臣となったが、古代豪族蘇我氏がそれ以降歴史の表舞台に立つことはなかった。 飛鳥時代はわずか100年余りの短い時代だが、その間遣隋使の派遣、朝鮮半島への遠征、大化の改新の政変などの歴史的な大事件が次々に起き、国際的な競争に打ち勝つべく律令国家体制を急速に整えた慌ただしい時代でもあった。 この日の昼食は、奈良の名物である「柿の葉寿司」を、明日香村で食べた。<続く>
2014.11.12
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<27年ぶりの明日香村> 私が明日香村を訪れるのは2度目。初めての訪問は27年前のことだった。後輩が奈良国立文化財研究所に勤務していたこともあって、車で案内してもらったのだ。だが今回は自分自身がペダルを漕ぎ、地図を持って日本の古代史を巡る旅だ。 日本の歴史が旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代と続き、その後の飛鳥時代がここ明日香村で始まったことぐらいは私も知っているが、正確な知識は持ち合わせていない。そこで理解を助けるために、簡単にこの時代を紹介したいと思う。538年 仏教伝来588年 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺)の造営を開始592年 推古天皇が豊浦宮で即位593年 聖徳太子が摂政となる603年 冠位十二階を制定 推古天皇が小墾田宮に遷宮。豊浦寺造営開始。606年 飛鳥大仏完成607年 小野妹子などを遣隋使として隋に派遣 630年 第1回遣唐使を派遣641年 山田寺の造営開始645年 中大兄皇子らが蘇我入鹿を暗殺。蘇我蝦夷自殺(大化の改新) 孝徳天皇が難波長柄豊碕宮に遷都646年 大化の改新の詔。薄葬令公布655年 皇極天皇が重祚して斉明天皇となり、飛鳥板蓋宮に即位660年 中大兄皇子が漏刻(水時計)を作る(水落遺跡)663年 白村江の戦いに敗北。百済、任那が滅亡し新羅が朝鮮半島を統一672年 大海人皇子が壬申の乱で勝利し、天武天皇となって飛鳥浄御原宮で即位683年 我が国最古の貨幣である富本銭を鋳造 人口がわずか6千人にも満たず、いまだに減少を続けているこの小さな村に、かつて我が国の最初の律令国家が誕生し、その後の発展の礎を築いたことに驚きを禁じ得ない。この後歴史の舞台はこの地から次第に遠ざかって行くのだが、明日香は今でも日本人の心の故郷のように感じている。 694年 藤原京(橿原市)に遷都701年 大宝律令制定707年 和同開宝鋳造710年 平城京へ遷都712年 古事記完成720年 日本書紀完成 飛鳥時代の服装 最初に訪れたのが高松塚古墳。27年前は壁画の修復工事のため閉鎖されていたが、今は原状に戻っていた。付近の壁画館で壁画の複製などを観た。複製とは言え、いずれも見事なものだ。 玄武(亀神) 鏡 吉備姫王墓 次に訪れたのが吉備姫王(きびひめみこ)の墓。彼女は皇極(斉明)天皇、孝徳天皇の母で欽明天皇の孫に当たる。この墓陵内に4体の猿石と呼ばれる石造物がある。 山王権現 女僧(左)と男 欽明天皇陵 欽明天皇は第29代の天皇で在位は32年間。彼の時代に百済から仏教が伝来した。 欽明天皇陵外観 天武天皇持統天皇陵墓 天武天皇は7世紀後半の第40代天皇で天智天皇(中大兄皇子)の弟。天武天皇の薨去後、皇后が即位して持統天皇となり、死後は檜隈大内陵に合葬された。 陵墓模型 埋蔵文化財展示室にあった陵墓の模型。檜隈大内陵は当時としては珍しい八角形をしていた。(天智天皇陵=京都市山科区も同形) 陵墓外観 外部からは陵墓が八角形をしていることは分からない。この後、私達は「亀石」を見学した。この周囲には大勢の中学生が歴史の学習に来ていて、熱心にメモを取っていた。 亀石 村内にはこのような謎の石造物が数多く存在しているが、その多くは使途が不明のままだ。恐らくは百済から渡来した石工の手によるものではないかと思われる。<続く>
2014.11.11
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9月22日月曜日。私は自転車に乗ってある所へ向かった。それは長年探していた古墳。前日地底の森ミュージアムを案内してくれたのは、ここでボランティアをしてる我が町内会のK副会長。その彼が古墳が載った地図を見せてくれたのだ。ずっと見つからずにいた幻の古墳に、今日こそ会える。そう思うと、私の胸は知らず知らずに高鳴った。 捜し続けていた古墳の名は「王ノ壇古墳」。四角い形をした方墳らしい。かつては周濠(墓を取り囲む堀)もあったようだ。この古墳の名が、やがてこの地区の名前である「大野田」に変化したとも聞く。この周辺にはかつてかなりの古墳があった。だが埋蔵文化財調査の後はことごとく埋め戻され、その上にビルや住宅が建っている。ここは20年以上も発掘調査を続け、たった一つだけ残されたのが地区の名の元となった方墳なのだ。 それらしい場所をグルグル廻っているうちに、あるマンションで見つけたのがこれ。「王ノ壇古墳」がこの周辺にあるのは確か。だが幾ら捜してもそれらしいものはない。古くから住んでそうなお宅を訪ねたが、住人の小母さんは知らないと言う。虚しく戻る途中、2人の自転車に乗った高校生に出会った。「ダメ元」で彼女達に古墳の場所を尋ねた。すると意外や意外。そのうちの1人が知っていて、私を案内してくれたのだ。やったー!! それがこの場所。何だ何だ~っ?これが古墳だって?ここはさっき私が通り過ぎた場所。てっきり何かの工事現場だと思ったのだ。残土をブルドーザーでかき集めたような小山。どうしてもこれが古墳とは思えない。高校生にお礼を言って、私はその「現場」に近づいてみた。看板があった。どうやら王ノ壇古墳に関する案内のようだ。とすると、この場所が古墳であることは間違いないが、なぜこんなことになったのかが謎。 これが古墳の在りし日の姿。私が捜し求めていた古墳はこんな姿だったのだ。それが開発ですっかり形を変えた。古墳の東側は新しく出来た道路に削られ、元の姿を失った。発掘調査後に周囲を再整備するため、一旦古墳を破壊したのだと思う。 こちらは発掘調査時のもの。私も何年か前、この付近での現地説明会に出たことがあった。ここは東北地方でも珍しい古墳群があった場所。それを開発の名の元にことごとく破壊した。埋蔵文化財調査なんて、言って見れば行政側の言い訳みたいなもの。私達の遠い祖先達が眠る古墳。当時の文化や歴史を伝える重要な手掛かりが、全ては闇に葬られてしまったのだから。 横長の説明板を撮ったが、くっつけても読めるかどうか。この古墳がこの地の名前の興りになったことなどが記されていた。その貴重な古墳が何と無残な姿だろう。恐らくは元の状態に復元するはずだが、それはもう古墳ではなく、ただの土山ではないのか。 こちらは古墳の頂上に建てられていた板碑(いたび)。恐らくは鎌倉時代の仏教遺跡だと思う。頭部に刻まれた梵字は古代インドのサンスクリット語。現在は会話では使われず、文字としてしか用いられていない。本来は薄い石に刻むのだが、これらは笊川(ざるがわ)の河原石みたい。 私は虚しい気分で再びペダルを漕いだ。帰る途中に小さな神社があった。名前は春日神社。ここにも説明板。元の神社は西北の方向150m離れた場所にあった。それが土地整備のために移転したのだ。埋蔵文化財調査を行った結果、地下に古墳があった。そこから見つかったのが右側の「隼人の革盾」(はやとのかわだて)だ。 これは宮中を警備する時に用いるもの。当時この地方を支配していた権力者はかなり大和朝廷とも親しい関係があったのか、親睦の証としてこの盾が朝廷から贈られた。盾はその後土の中で腐ったが、色と紋様が土に付着して残った。復元写真は前日博物館でKさんが見せてくれたもの。私もこの話は聞いたことがある。 隼人の革盾が発見されたのは東北地方ではここだけで、全国でも数か所しかない由。その貴重な古墳すら壊される文化行政とは一体何なのだろう。この地区は多賀城以前に国府があったとされる郡山遺跡(仙台市太白区郡山)に近く、そこに勤務した官人の住居だった由。古代東北文化の最先端の地が跡形もなく壊され、近代的な街に変貌してしまう理不尽さ。 10月12日日曜日。私はランニングの途中にここを通った。あれから19日。周囲の様子がすっかり変わり、荒々しい工事現場が公園風に治まっていた。台風が去った14日、私は再度デジカメ持参で訪れた。小山は整えられ、古墳らしく変身していた。多分これから芝生を張ったりするのだろう。 立ち入り禁止の柵を越えて中に入ると、片隅に石が転がっていた。そのうちの幾つかは、前回の写真に載っていた石。左側はその細部だ。消えかかっているが、微かに梵字が読める。右側は江戸時代の天保年間に建てられた雷神石のようだ。この地区にたった一つだけ残った古墳。周囲の様子がかつての風景とはすっかり変わってしまったが、やがて小山の頂上には石碑が戻されるはず。 さて、私の近所には長年の開発で姿を消した古墳が数多くある。そのうちの一つをかつて東京国立博物館で見たことがある。何と、石棺は雨ざらしになっていた。1500年後にまさかそんな扱いをされるとは、古代の勇者も考えてなかったはずだ。嗚呼。
2014.10.16
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9月21日日曜日。この日は町内会の行事で、近所の博物館へ出かけた。ビルの谷間にある古代米の田圃の直ぐ隣にある博物館だ。 この博物館は2つの名前を持っている。1つは正式名称の「仙台市富沢遺跡保存館」。そしてもう1つが通称の「地底の森ミュージアム」。それにしても「地底の森」なんて、不思議な名前だと思わない?そんな名前がついたのには、ちゃんとした訳があるんだよ。 元々、ここには小学校を建てる予定だったのさ。その工事中に発見されたのがこの遺跡。事前の「埋蔵文化財調査」で土を掘って行くと、その一番下から出て来たのが約2万年前の「森の跡」だったんだ。 それをそっくり保存し、かつ見学出来るようにしたのがこの博物館って訳。埋没林と言うのは、それほど珍しいものではないそうだ。でもね、そこで当時の人間(これは日本人の遠い祖先だね)が残した痕や、動物が棲んだ痕跡まで残っている遺跡は、世界にもほとんど例がないそうだ。そこで莫大な費用をかけて、この博物館を作ったんだって。この大昔の森は、博物館の地下にある。それで「地底の森」って名前を付けたんだね。 これが私達の先祖で、旧石器人。2万年前のこの時代は今よりも気温が7度から8度も低く、「氷河期」と呼ばれていたのさ。ここは小さな川が幾つか流れ込む湿地帯でね、鹿などの獣が水を飲みに来たんだよ。それを知っていたご先祖様達は、獲物を待ち構えてここに来たんだね。寒くて焚火をしたので、その痕も残ってるんだ。そして狩りの道具である石器を捨てた痕なんかもね。 左側がシカの標本で、右側がここで発掘されたシカの糞なんだ。「ふ~ん」なんて言ってるのは誰? そしてこれがご先祖様達が使っていた石器。つまり石製の道具だね。左側は「ハンドハンマー」と呼ばれている。これはものを砕いたり、叩いたりする時に使ったんだ。そして右側が石匙(いしさじ)。形がスプーンみたいに見えるのでそう呼ばれているが、実際は獲物の皮を剥ぐ時に使ったんだ。この時代はまだ土器がない。だから「無土器文化」と呼ばれることもあるんだよ。 当時の森の様子を再現したのが左の写真。これは博物館の周囲に氷河期の樹木を植えたんだ。右はその代表的な樹であるチョウセンゴヨウマツの実。美味しい「マツの実」はこの松ポックリの間に入っているんだよ。でもね、地球温暖化が進んでいる今では、当時の樹木は育ちにくいそうだ。 そうそう、一つ珍しいものを紹介しよう。この森の一角で咲いていたのが、ナガホノシロワレモコウ。漢字で書くと「長穂の白吾亦紅」。文字通り穂が長くて白い花のワレモコウなんだ。珍しいだろ? ところで、ここから出たのは旧石器時代のものだけじゃないんだ。地表に近いのは新しい時代のもので、深く掘るほど古い時代のものが出る。左側の写真は「剥ぎ取り地層」と言ってね、ここの地層をある厚さで剥ぎ取ったもの。勿論下が古く、上になるほど新しい時代の地層って訳。 右側は良く知ってる縄文式土器だよね。この縄文時代になってからようやく土器が使われるんだ。縄文土器は世界でも有数の優秀な土器なのさ。 この2つはどちらも弥生式土器なんだよ。左側の土器の縁にはアイヌの紋様みたいなのが付いてるけど、これもれっきとした弥生式土器。なかなか珍しいもののようだ。 そしてこれが弥生時代の石包丁。包丁と言っても料理に使う訳じゃなく、稲穂の先端を刈り取る道具でね。2つの穴に紐を通し、手に巻いて使ったみたい。当時は苗を育てる技術はなく、「もみ」を直接田圃にばら撒く方式だったのさ。蒔かれたもみの状態によって発育が違って来る。だから実った穂だけをこの道具で刈り取り、今のような一斉稲刈り方式じゃなかったのさ。 そうそう、見学会の最後に良いことを聞いてね。翌日私はある場所を訪ねてみたんだ。でも長くなるので、その話は明日にしよう。じゃあ、またね~♪
2014.10.15
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赤い線の内側が国府多賀城の範囲。地形に起伏があるため歪(いびつ)ではあるが、広さは方8町で約74万平米。標高60mの丘の頂上、つまり枠のほぼ中央に政庁が置かれていた。防備のための西門と東門があり、登城用の南門から政庁までは、直線の石段が築かれていた。国府の周囲は築地塀で囲まれ、湿地に面したわずかな部分は柵が設けられていた。 昨日は発掘調査が戦前から始まったと書いたが、戦前から始めた発掘は多賀城の瓦を焼いた利府村(現在の利府町)の遺跡であり、多賀城の学術的な調査が始まったのは昭和35年(1960年)で、第1次発掘調査の開始は昭和38年(1963年)であり訂正したい。なお発掘早々に重要な歴史遺産であることが確認され、昭和41年(1966年)に国の特別史跡に指定されている。 これは政庁前の石畳である。 これは政庁の基壇。政庁の建物の変遷は4期ある。つまり3度建て直されたことになる。現在再現しているのは、第2期の基壇。これも3年前の「東日本大震災」で被害を受け、補修してある。 政庁の建物の基礎となった礎石である。最初の建物は蝦夷出身の伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)の反乱で焼け落ちた。それは発掘調査で焼けた瓦などが出土したことで証明されている。 政庁跡に立つ標識。少し古い時代のもので、この政庁部分だけを多賀城と認識していたのかも知れない。 政庁前に設置された金属製の模型。建物は第2期のものだろう。色彩は昨日の2番目の写真を参照されたい。 政庁のある丘から下りて、南門跡方面を見たところ。この前方下部に第87次発掘調査の現場がある。この後、私と妻は、ここから約1km東方にある、国府多賀城の付属寺院「多賀城廃寺跡」へと歩いて向かった。 <参考資料1:多賀城廃寺復元図> 私が最初にここを訪れた50年前は、地名を採って「高崎廃寺」と呼ばれていた。その後、多賀城付近から「観音」と墨書された皿が発見されたことから、この寺は多賀城の付属寺院と考えられるようになった。九州の太宰府の付属寺院の名称は「観世音寺」。多賀城も同じような役割を持つ政庁であるため付属寺院があったと推定され、それ以降名称を「多賀城廃寺」に改めたのだ。恐らく正式名称は「観世音寺」だろうが、まだ確証はない。 多賀城成立以前も大和朝廷の「前進基地」があった。仙台市太白区の郡山遺跡から出土した郡山官衙(かんが:公の建物のこと)がそれだ。数次の発掘調査により、郡山官衙が多賀城以前の国府だと考えられた。そしてここにも付属寺院が置かれたことが判明している。 また郡山遺跡から西へ2kmほど離れた大野田遺跡からは、官衙の防備に当たった兵士の「隼人の盾」の痕跡が見つかっている。革製の盾は既に腐って存在しないが、紋様が土に転写していたのである。 五重塔遺構。多賀城の丘からも見える立派な塔は、恐らく蝦夷の肝を冷やしたに相違ない。国家が建てた寺も神社も、国府多賀城を精神的に防備する砦として、蝦夷の従属に貢献したのである。 五重塔心礎。この石の上に塔の中心部があった。 金堂遺構。 金堂礎石。この石を土台として金堂を建てた。 多賀城廃寺境内に立つ石塔。 多賀城廃寺の隣にある多賀神社。ここに政庁を置くことが決まってから、近江国の多賀大社の祭神を勧請したのだろう。「多賀城」の名は、この多賀神社から来てるのは相違ない。そして多賀城市の名称の起源にもなった。 前述の郡山遺跡と大野田遺跡(仙台市太白区)の西方にも多賀神社がある。これも国府の鎮護と無関係ではないだろう。名取郡に2社しかない式内社の1つであることを思うと、そう考えざるを得ない。古代東北鎮護のため、わざわざ神が近江国から「出張」して来たのである。 多賀神社本殿。この後私と妻は東北歴史博物館へ向かった。私は同館で開催中の特別展『日本発掘』を観覧し、その間、妻は博物館の外で絵を描きながら私を待っていた。 妻と妻が描いた水彩画 水彩画の対象となった今野家住宅。北上川の河口付近にあった旧家を、博物館の敷地内に移築したもの。<完>
2014.08.28
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6月下旬のある日、私は妻と「多賀城跡あやめ園」へ行った。咲き誇る300万本ものアヤメを見るためだった。500種類ほどのアヤメはさすがに見応えがあった。そして、その後に訪れたのが国府多賀城だった。 ここは大宰府と並ぶ、古代日本の政庁。大宰府が九州の鎮護と大陸や朝鮮半島への備えであるのに対し、多賀城は東北の蝦夷(えみし)に対する備えであり、北辺の政治の中心地であった。 これが国府多賀城の中心となる政庁が置かれた丘の全景。蝦夷の襲撃に備えるため、丘全体が柵や塀で囲まれていたのだ。 <参考資料1:政庁復元模型> 多賀城は神亀元年(724年)大野東人によって創建され、奈良時代から平安時代にかけて陸奥国府が置かれたところ。奈良時代には蝦夷に対する備えとして鎮守府の機能も兼ねていた。これはその中心となる政庁の復元模型。11世紀半ばに終焉を迎えるまで、古代東北地方の政治、軍事の中心地としての役割を果たした。 <参考資料2:東山道官道駅家図> 古代東北に置かれた陸奥国(後に出羽国が分離)には、東山道から続く広い官道が敷かれ、約18kmごとに駅家が置かれた。官道は都から人や文化を運び、朝廷の命令を伝えた。蝦夷を征伐しながら官道は北へと延びて行き、逆にこの道を通って東北の産物が徴税として都へと運ばれたのである。多賀城はまさに開拓と中央国家の前進基地だった。 <参考資料3:国府多賀城及び街路図> 中央の丘の頂上には政庁が置かれ、これを防御するため丘を取り囲むように柵や塀が張り巡らされていた。多賀城で執務する官人の私邸は城の外部にあり、地形に沿って街路が整備されていた。この城を東に向かえば多賀城を守る奥州一宮である塩竃神社があり、塩竃の港があった。また南側を流れる冠川(現在の七北田川)は、川幅を広げ多賀城まで舟による運送が可能だった。陸路だけでなく海路も重要な交通手段だったのだ。 第87次多賀城発掘調査の案内図である。ここでは戦前から継続して発掘調査が行われ、その都度調査報告書が発行されている。これまでの調査結果によって、多賀城の創立時期や機能、規模、官人の暮らしぶりなどが解明されている。 多賀城南門付近の発掘現場1 多賀城南門付近の発掘現場2 <参考資料4:多賀城南門復元図> これは当時の南門の復元想定図。今回は単なる発掘調査と異なり、この南門を復元再建するためのものである。 政庁への石段登り口の発掘現場 <参考資料5:これまでに発掘された人面壺1> <参考資料6:同人面壺2> <参考資料7:発掘された漆紙文書> 壺の中の漆が乾燥しないよう、使用済みの紙でふたをしたもの。その紙に漆がしみ込んだため、後世まで残った。発掘当時は我が国で最も古い漆紙文書だったが、その後他県でさらに古いものが発掘されたと記憶している。 壺の碑(つぼのいしぶみ)。多賀城創建の由来や、再建修復の由来を刻んでいる。歌枕としても有名で、芭蕉もここを訪れている。土中からこの石碑が発見されたのは江戸時代。古い文献に載ってないことや、使用されない文字があることから、長らく偽物だと考えられて来た。その後の研究により、当時の中国の様式に従って製作されたものであることが判明。天平宝字6年(762年)12月1日に創建。 <参考資料8:壺の碑の拓本> 多賀城創建の由来の他、平城京から多賀城までの距離、他国(外国も含む)からの距離などが刻まれている。高さ248cm、最大幅103cmの花崗岩質砂岩で出来ている。多賀城南門付近に西を向いて立てられており、国の重要文化財に指定。石碑を保護するため、現在は覆屋の中にあり、直接手を触れることは出来ない。当時の史料には全く出ておらず、多賀城と古代東北の解明のため重要な手掛かりとなる歴史資料。 「史跡国府多賀城」標識。政庁への石段横に立つ。 南門から政庁へ向かう石段。ここから政庁の華麗な建物を見上げた蝦夷は中央国家の威厳を感じ、恐らくは威圧されたに違いない。 同石段上部。 <明日に続く>
2014.08.27
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