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このたびの大雨で被害に遭遇された被災地の方々に、謹んで花々と拙い俳句を捧げます。 仏桑花火焔のやうな貌をして 夏の陽をマリンゴールド独り占め 負けないで雨の被害に花の声 嘆くまじシャラ哀しみに耐へながら 雨よ止め強くあれかしわが国土 花々も災害日本憂ひつつ 豪雨止み一重の薔薇も歓びて 玄関の小さき庭を飾る花 精いっぱいマーガレットの笑顔かな 夏本番カサブランカのカーニバル 立葵清しき顔の夕景色 金魚草デートの予定無きままに 朝顔は雨が嫌ひと云ひつつも 唇を歪めてカラー負け惜しみ 雨降りや紫陽花思はず微笑みて クチナシも被災地想ひ俯きぬ *うつむき ゼラニューム喪に服したる彩をして ほとんどが無季語の「俳句もどき」を載せましたが、果たして被災地の方々に届いたでしょうか。少しでも慰めになりますよう。合掌。
2017.07.07
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私が住んでいる仙台は太平洋に面しており、冬の間も滅多に雪は降りません。そこでたまに降る雪を撮影し、その写真に合わせて俳句を詠む試みを行ってみました。今日で4回目です。読者の皆さんが飽きないよう、少し間をおいて載せています。 凍る道冬の山道雪の径 *みち 洟すすり咳こんこんと登る坂 *はな *せき 雪道の二手になりて分かれけり 雪の坂登りし先に白き天 石垣も斑模様に雪積もる *まだら 枯草や精一杯の雪の舞ひ 雪の畝口をへの字の葱の列 *うね *ネギ 林未だ夢より覚めず雪の中 どっしりと雪受け止めし幹太き 見ゆるものすべて凍れる景色かな 雪の橋心許なき帰り道 *こころもと 雪の川せせらぎの音途絶へたる *とだえ 紅仄か雪積む庭に花独り *ほのか *ひとり 白南天雪にも負けぬ皓さかな *しろさ 南天の雪を背負ひし力業 *ちからわざ 大寒や雪に恨みはあらねども *うらみ 残菊や雪にも心折れぬまま 俳句はど素人の私ですが、今頃の季節は割と作り易く感じます。なぜなら知ってる季語の乏し私にもごく簡単に想像出来るからです。雪、凍る、寒さ、寒の入り、小寒、大寒、咳などが恐らく該当しているのでしょう。 でもそれをどう使うのかが勝負。ただ言葉を並べても、俳句や短歌や川柳にはなりません。最も効果的な言葉を、最も効果的に配列して読む人の心に訴える詩を書かなければならないからです。だからたった十七文字をどう選ぶか。その真剣勝負が面白くて私は俳句を詠んでいます。雪の写真はまだありますが、今回俳句を添えるのはこれでお終いにしますね。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
2017.01.23
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昨日は少し寒さが緩んだので、久しぶりに走ってみました。道路の雪は大部分融けていましたが、日陰にはまだ残っていましたよ。そして日陰の坂道は危険なので、新雪の部分を踏むようにします。その方が滑らないのです。さて、今日もしつこく雪の俳句です。ひょっとした「もう勘弁!」と言う方も居られるでしょうが、我慢してお付き合いくださいね。 鵯の声鋭くも影見へず *ヒヨドリ モノクロの景色佳きかな冬の朝 無花果の喰はれざるまま雪迎ふ *イチジク 雪の下枝耐へ忍ぶ風情かな 雪降る日辛夷の小枝震へけり *コブシ 寒さうな裸の枝に積もる雪 凍る樹々天に救ひを求めたり さらさらと杉より落つる雪の音 杉の枝まとわり着くや雪の珠 梅はまだ氷のやうな蕾かな *つぼみ 植木屋の苗にも白き雪の精 飽きもせず欅突っ立つ冬の空 しなやかな竹にも重き今朝の雪 三椏もすっぽり雪に包まれて *ミツマタ 項垂れし三椏未だ春遠く *うなだれ 雪の日も山茶花明るき花の色 ≪103歳の言葉≫ 現役の前衛芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「人生は山あり谷あり。ようやく平地を得たとき、感謝して大事にする」。 本文で彼女は「人生のなかで自分が立ちうる立場は、そうどこにでもあるわけではありません。それだから、ようやく得たときは、感謝の思いを歌に込めています」。 103歳の彼女が歌を詠むことを初めて知りました。それより驚くのは、その歳になっても自らを厳しく律し、戒めていることです。そして今、自分が受け入れられていることに心から感謝している謙虚な姿です。
2017.01.19
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思わぬ寒波襲来で、各地に大きな被害が出ている。私が住む仙台でも、珍しく3日連続の雪の朝になった。JR仙山線や高速道路の山形道では、事故のため一時通行止めとなったが、皆さんの地区ではいかがだろうか。そしてセンター試験の受験生たちも雪で苦戦したようだが、大丈夫だっただろうか。 一昨日読んだ新聞にある俳優が随筆を書いていた。私より11歳年長の方。いかにも温厚で、何不自由なく暮らしていると思われた人が、意外に厳しい述懐を漏らしていたことに驚いた。 彼が書いた文章だが、老人の死は決して安らかなものではないと言う。それは願望であって実際とは異なると言うのだ。曰く、老人は自分の肉体や精神が少しずつ衰えて行くことを知らされ、不安に苛まれながら孤独で苦しみながら死を迎えることを覚悟すべきと言うのである。 そう言えば女性社会学者が書いた「お一人様の老後」とか言う本もあった。昔なら病気であっさり死んで行った老人が、医学が進歩し栄養豊富な今は誰もが長生きする高齢化社会。だからその先にある「死の形」もこれまでとは異なるとの論法だ。確かに核家族化と高齢化が進めば、たった1人で死んで行くケースが増えるのは間違いない。これからは覚悟を持って生き、覚悟を持って死ぬ勇気が必要なようだ。 雪こんこんこの世は常に会者定離 雪十度苦しみ抜きし先の春 雪の山幾度見ても冬の山 足跡の何処に向かふ雪の径 *いずこ *道 新雪の轍の横に犬の足 *わだち 雪しんしん空き家の庭に雪しんしん 雪の朝団地も白き雪の中 雪降れば枯れ野も夢に包まれて 校庭に人影もなし雪の山 冬の畑白菜雪と戦ひつ 雪除けの笹も震へる寒さかな 雪の畑未だ小さき葱の苗 *ネギ 山頂の病院雪で消へにけり 蝋梅の香りも雪に消されたる <不定期に続く> ≪103歳の言葉≫ 現役の前衛芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「親子といえども、伝ええぬこともあったのではと想像する」。 これは篠田さんが自分の父親について語った言葉。本文には「家ではたいへんに怖い存在でしたが、父の遺言を思うと、私に言っておきたいと思ったことは、たくさんあったのかもしれないけれど、なにも言えなかったのかもしれない。折に触れて表現していたのかもしれないけれど、私には伝わっていなかったことがずいぶんあったのかもしれない、と想像することがあります」。 母親の愛情はとても具体的で子供にも直ぐ伝わる性質のものだ。だが父親の愛情は抽象的で、なかなか子供には伝わり難いものだと思う。3人の子供の父親である自分も、今そのことを強く実感している。
2017.01.17
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ある朝目覚めたら、外は一面の銀世界。あたふたと朝食を済ませて雪を撮りに家を出た。つい最近のこと、自作の俳句を3日連続でブログに載せたら、アクセス数が半分に減った。それでも懲りずに俳句を詠む。しかも今度のテーマは雪だから、色気も全くない。まあブログを始めた頃は手探り状態だったので、それに比べたらまだ良いのかも知れない。最後までお付き合いいただけたら嬉しい。 目覚むればただ一面の銀世界 指先の冷たき朝の目覚めかな 玄米に鰯一匹冬の膳 幻日や小雪そろそろ止まんとす *げんじつ 葉の落ちし小枝に重き雪の色 柿の木の仁王立ちして冬の畑 雪中にカサブランカを捨てし人 竹の雪思はず腰の曲がりたる 雪の日や五葉の松の慌てぶり 川寒し流るる傍に萎れし実 冬の川町内老人ばかりなり 生も死も超越したる雪の色 捨てし夢幾つありしか冬の山 この冬も逢ひたる雪の懐かしき 山茶花の凍てつきさうな色形 山茶花の蕾に重き試練かな 荒れし日や風雪蝋梅の灯り消す 雪被る南天の彩目出度けれ <続く> ≪103歳の言葉≫ 現役の前衛芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「運命の前では、いかなる人も無力。だから、いつも謙虚でいる」。 誰の言葉かは分からないが、小さな字で「どんなに愛する人でも、いつ奪われるかわからない」とある。本当にそうだ。最近著名人の訃報を聞くと、必ず享年を調べている。私より年長の方が多いが、中には若い方もおられる。きっとそれぞれにご家族がいることだろう。 たった1人で生きて来た篠田さんにしてこの述懐。運命とはそれほど軽く口に出来る言葉ではない。だからこそ真実を知れば知るほど、人は謙虚になるのだろう。
2017.01.14
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散歩中に撮った写真と俳句の組み合わせも、今日で3日目になりました。よほど興味がある人以外は、きっと飽きて来たことでしょうね。でも今日で終わりですから、もう少し辛抱してお付き合い下さいませ~!! 紫陽花の夢破れけり枯野原 冬の日に枯れ紫陽花の立ち尽くす 枯れるのも輪廻なりけり冬野原 冬の庭打ち捨てられし花梨かな *カリン 正月も無地の着物や白南天 冬空の少し明るき家路かな 山茶花もひれ伏し拝む石の塔 冬の沼水鳥忙しき波紋かな *せわしき 鴨の冬餌やる人の影もなく 群がりて離れて鴨の冬姿 冬の鴨孤独なりしかなかりしか 鴨三羽命温めし冬陽かな 冬空や軒先の蔦龍と化す 事始め折り鶴蘭の勁きかな *オリヅルラン *つよき 冬の雨柚子の小坊主泣かせけり *ユズ 木瓜咲きて変動の年始まりぬ *ボケ 蝋梅の微かな灯り春を呼ぶ *ロウバイ *かすか 春恋し蝋梅蕾堅くして 冬の夕蝋梅闇に紛れたる *まぎれ 冬時雨ジュリアンの恋終はりたり 少年の眸の先の冬景色 *ひとみ ≪103歳の言葉≫ 現役の前衛芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「懐かしい人との時間は、鮮明に生き続けている」。 60年前、とある小料理屋で食事した時のこと、店の柱に蝶々が停まった。男は店の主人から品書きを書く「経木」(きょうぎ:木を薄く削ったもので、物を包んだり、字を書いたりするのに用いた)を借り、それに俳句を書いて女に渡した。 秋深し柱にとまる胡蝶かな 男は詩人の三好達治。そして受け取ったのが若き日の篠田桃紅さんだった。その光景が、今でも強く脳裏に焼き付いていると彼女は言う。きっと詩人の魂は、それを知ろうとする者にしか見えないのだろう。
2017.01.12
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さて、今日も散歩中に撮った写真と俳句の組み合わせである。写真は70枚ほど撮ったが、その大部分に自作の俳句を添えて見た。まあ、これも頭の体操みたいなもの。写真を観ながら五七五の語調を整える。幸いにも今の時期なら、季語めいたものが思い浮かぶ。 17文字の中にも完結した「詩」がある。そしてその世界を句の中でどれだけ広げられるかだ。後は写真の順番をどのように並べ、全体でどんな物語を作るかが勝負。御託を並べているよりも愚作を見てもらう方が早いかも知れない。では早速第2弾をば。 年男終へて厳しき冬の空 古稀過ぎて一際寒き冬の朝 冬木立わが人生に似たるかな 初春の柘榴死んだか生きてるか *ザクロ 枯草の立ち尽くしけり冬の沼 冬の日や桂欅も裸木なり *カツラ・ケヤキ *らぼく 冬空を突き破らむと棕櫚立ちぬ *シュロ 冬の川流るる先に見へぬ海 哀しみを辛夷の冬芽耐へるごと *コブシ 冬囲ひ酉年の風冷たくて 三椏の夢も凍へる寒の入り *ミツマタ *こごえ 三椏や枯れ野の色に溶け込みて あら嬉し三椏ほんのり春の色 陽は温しヴィオラ初春の夢を見ぬ *ぬくし 初夢や孫遠くして逢はれざる 年明けて残菊未だ盛んなり *ざんぎく 山茶花の淡き初夢花弁散る *かべん 山茶花の夢それぞれに咲かむとす 冬の径知らん顔してアリッサム *みち アリッサム寒の呼吸は静かなり 朗らかにパンジー冬陽独り占め パンジーも冬の花だと主張せし 年神の訪ねて来たる扉かな ≪103歳の言葉≫ 現役の前衛芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「志ある友は、友であることが誇らしい気持ちになる」。 これはもう何も補足する必要はないだろう。本当にその通りで、現在のブログ友の中には、そんな方が何人か存在する。小さな文字で「物くれる友は、やはりありがたいけれど」と結んであるが、私は物などくれなくても、切磋琢磨出来るだけで十分だと感じるのだが。
2017.01.11
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今から15年ほど前のこと。私は雪深い北陸の山の中で勤務したことがあった。ちょうど足を傷めていて、走ることも出来なかった頃だ。そこでひらすら歩き、暇なついでに自己流の俳句を詠んでみた。当然のことだが、私は季語も知らない。ただ五七五の17文字を呪文のように唱えていた。 それでも小学生の頃から詩を書き、中学校の修学旅行で初めて短歌を作り、作文も好きだった私は言葉に対する気構えだけは備えていた。そして1年間で千句を超える俳句を詠んだ。そのほとんどは無季語のものだ。ど素人なので恥ずかしくはないが、再び俳句を詠むようになったのは、つい最近のことだ。昨日は今年初めて散歩しながら写真を撮った。それに併せて詠んだのが以下の句。ご笑覧いただけたら嬉しい。 今にでも雪降りさうな空の色 一様に行儀正しき冬の杉 冬空の向うに一人山静か 地蔵尊誰が手向けし冬の花 冬寒や地蔵涙を溢しけり 葦枯れてただ公園の冬景色 水鏡冬の公園人もなく 冬の沼波紋無言で広がりぬ 新年もヘクソカズラは枯れしまま 実も枯れて新年寿ぐ人のなし 寒の入り無花果の実の萎れけり 鵯の一声高く朽ち柘榴 小寒や木の実ひたすら春を待つ 冬の陽やバラの若葉の美しき 冬薔薇儚き色の夢を見し 霜枯れの苑に優しき薔薇の花 赤き実の喰はれもせずに年越しぬ ≪103歳の言葉≫ 現役の前衛芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「人との競争で生き抜くのではなく、人を愛するから生きる」。 かつて私のブログに「人生は勝つか負けるかだ」とコメントした女性がいました。それに対して私は、確か「そんなことはない。それ以外の生き方もある」と返事したような覚えがあります。 今振り返ると、その方はアメリカ人の無職の夫を持ち、アメリカで働いていた方でした。その女性にとって、アメリカでの暮らしはまさに勝つか負けるかの毎日だったのかも知れません。でも同じアメリカで新たな芸術を切り拓いて来た篠田さんは、決してそうは言わないのです。
2017.01.10
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大晦日は11km走り、ボクシングや総合格闘技の「RIZIN」を観ていました。そう言えば30日の夜も、ボクシングを観ました。世界タイトルマッチが中心の試合はさすがに迫力があり、70を過ぎた老人の私でさえ興奮します。いすれの日本人選手も本当に良く戦い、ほとんどがチャンピオンベルトを手にした感じです。 除夜の鐘を聴いてようやく眠りに就き、元旦の朝は6時半起床でした。6時間以上眠れ、まあまあの体調で新年の朝を迎えました。年末年始はどうしても高カロリーな食事になりがちですし、アルコールも普段より多めに摂取してしまので要注意ですね。 元旦は「ニューイヤー駅伝」や「サッカー天皇杯決勝」を観ます。2日からは恒例の「箱根駅伝」ですね。さて、今年も昨年同様年賀状は書かずに、2月頃に「寒中見舞い」を出す予定でいます。来年こそは明るい気持ちで年賀状を出したいものです。さて、こんな風景を俳句に詠んで見ました。新年早々の狂句をご笑覧あれ。なお、このブログも前日に予約したものです。 松飾り終へて晦日も暮れなずむ 紅白も観ずに過ごせし大晦日 除夜の鐘聴きてやうやく眠りけり 元日のブログ予約し寝坊する 元旦の空ほのぼのと明け初めし 新年を明るき朝で迎へけり 麗らかに明けて酉年スタートす 年頭につつがなきこと祈りつつ 「おめでとう」第一声もブログにて 元旦やブログ初めの老後かな 正月や居間に妻子の笑ひ声 帰省せし子と妻とわれ屠蘇を飲む 決断を屠蘇の動悸が迷はせる 餅一つ食ひて目出度きお正月 喰ひし餅減った分だけ歳を取り お雑煮を終へて片付け始めけり 元日も相変はらずの風呂掃除 生存の証拠届きぬ年賀状 年賀状妻のを選りて初仕事 四十近き息子にそっとお年玉 ほどほどに目出度き正月三が日 ≪103歳の言葉≫ 現役の抽象芸術家、篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋。 曰く。「自分の心が、自分の道をつくる」。 補記には、「川」を無数の線で、あるいは長い一本の線で表したい。とあります。 彼女は書と抽象画を組み合わせた新しい芸術を創り出した人です。そこに辿り着くまでには、厳しい道のりがあったことでしょう。時には白眼視されたり、激しい批判を浴びせられたこともあったはず。しかし他人の模倣ばかりしていては真の芸術は生まれません。長い間自分が信じた美と様式を追求し続け、ついに世の評価を得る。いや、きっとその後も彼女は絶えず研鑽を重ねたのでしょう。 失敗を恐れずに突き進んだ道の遥か向こうにようやく灯りが見え出し、振り返るといつの間にか自分の後には一本の道が出来ていた。そんな気持ちがこの言葉になったのではないでしょうか。
2017.01.02
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昨日の仙台は小雪が舞い散る寒い一日でした。秋に比べて咲く花はぐっと少なくなりました。そんな中でも厳しい季節に耐えながら頑張っている花もあります。今日はその花に合わせて、下手な俳句を添えてみました。ただし素人なので、季語は適当です。 石蕗(つわぶき)のいと閑かなる師走かな 石蕗や暇持て余す独り者 山茶花を目にランナーの通り過ぐ 山茶花の思ひがけなき貌をして 山茶花の儚げにして夕餉時 夕暮れの山茶花寒き風の色 山茶花にわが人生を語りけり 山茶花の彩ほのぼのと佇みし 孤高なる山茶花犯すもののなく 古稀過ぎて見る山茶花の潔き 暖かき小春日和の日もありて 渺々と山茶花風の音を聴く 夢覚めて山茶花眠き冬の径 椿一輪陽に向かひたる日和かな することもなくて椿を眺めをり 玄関の椿が迎ふ今日の客 葉牡丹や今年もつひに暮れむとす 葉牡丹も育ちたうたう暮れ迫る 正月へ葉牡丹一目散となり イソギク <103歳の言葉>103歳の現役前衛芸術家である篠田桃紅さんの著書『103歳になってわかったこと』から抜粋 曰く。「自らに由れば、人生は最後まで自分のものにできる」。 彼女は24歳で実家を出てからずっと一人で暮らして来た。だから孤独を当たり前だと思っている由。編集子はこの言葉に対し「意に染まないことはしない。無理もしない」と注記している。 「自らに由る」と書いて「自由」。自由とは自ら決断することか。自由を欲する者は、すべからく自ら決断出来る者でなければいけない訳だ。自由とは何と言う冒険なのだろう。命と引き換えなのだから。
2016.12.11
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<冬の桜> 近所に今頃咲く桜があります。一つは神社の子福桜(コブクザクラ)。そしてもう一つはM(三神峯=みかみね)公園の十月桜(ジュウガツザクラ)です。今年も寒々しい花を咲かせ始めました。それだけでは寂しいので、撮影した写真に駄作の俳句を添えてみました。ご笑覧いただけたら嬉しいです。 家の近所に鈎取八幡神社と言う小さな神社があります。この地は明治期まで名取郡鈎取村と言う名の寒村で神社は村社、つまり村の鎮守様だったのでしょう。ご多分に漏れず、この神社には平安時代の初頭、鎮守府将軍坂上田村麻呂が陸奥の蝦夷を征伐する際に、勝利を祈願したとの逸話が残されています。それだけ由緒正しい神社と言う訳でしょうが、恐らくそれは後世の作り話だと思うのです。 それはともかく、その小社の境内に何本かの桜が植えられています。そのうちの一本が「子福桜」で、石碑には寄贈者の名が刻まれています。この桜は春のみならず、秋から冬にかけても咲きます。十月桜と支那実桜(シナミザクラ)の雑種と言われ、花弁は20枚以上の八重になります。冬は貧相な感じを受け、お世辞にも豪華とは言い難い花ですが、毎年律儀に花を咲かせてくれます。では早速ご紹介しますね。 境内の桜淋しき年の暮れ 寒々と村社の桜年暮れぬ 冬空と桜も同じ色となり 良く見れば子福桜に二色あり 年暮れて桜に除夜の鐘遠し 冬桜三つ並びし師走かな 街道を外れし村社寒桜 寒空に子福桜の寄り添ひて 氏神も桜も淋しさうな冬 フユザクラ村社の由緒気にかけず 誰一人見上げざるまま寒桜 近所の三神峯公園の付近には戦前仙台陸軍幼年学校がありました。戦後は一時東北大学の第二教養部が置かれていたこともありました。この丘の上にある公園は桜の名所で、4月から5月にかけて30種類以上の桜が次々に咲き、大勢の花見客が訪れる憩いの場です。 公園の奥には雑木林があり、春先には可愛いカタクリの花が咲きます。今は晩秋で、木の葉もすっかり落ちました。その一角に1本の十月桜の樹があります。今年の秋は暖かくて、なかなか咲かなかったのですが、さすがに師走の声を聴くとチラホラ咲き始めました。素朴な十月桜の花をお楽しみいただけたら幸いです。 さて、十月桜はエドヒガンの系列で、春と晩秋の2回開花します。コヒガンの雑種と言われています。なお、ネパールにも秋に咲く野生種があるそうですよ。 丘の上十月桜凛として ちらほらと咲くは十月桜なり 秋暑く十月桜出遅れぬ 冬初め色絶へ絶への桜かな 冷へ冷へと孤高の桜冬空に 良く見れば十月桜色優し 冬木立桜も冬の彩となる 大雪を桜やうやくやり過ごし <作者の弁> 子福桜と言い、十月桜と言い、今の時期に咲く桜は決して華やかなものではありません。高い枝のさきにちらほらと、まるで孤独を楽しむように咲いているのです。その姿を安物のデジカメで捉えるには限界があります。何せ目は老眼、足はガタガタで不安定。おまけに空から時雨など降ろうものなら、たちまちレンズが濡れてしまいます。 レンズに収まる範囲は限られ、従ってどれも似たような構図にならざるを得ないのが辛いところです。このためヘボ俳句を添えて、奇襲「猫だまし」を試みたのですが賢明な読者の皆様にはきっと通じなかったことでしょう。でも作者は実に清々しい。何せやれることは全てやったのですから。後は万雷の拍手を期待するだけですが、それは冗談。黙って観て下さるだけで十分満足です。読者の皆様には時節柄、どうぞ風邪などお召しになりませんように。亭主謹言 頓首。
2016.12.09
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さて、今日も散歩中に撮った近所の菊や我が家の小菊の写真です。それに若干のヘボ俳句をつけることも一緒。こんな風にして秋の写真を片っ端から載せないと、どんどん寒くなって来るのですよね。そんな訳で、どうぞよろしくお付き合いくださいませ~(^^♪ こうして見ると菊がいかに日本人に愛されているかが分かりますね。では最後に、我が家の玄関や床の間に飾った小菊を。 秋津洲「菊と刀」と富士山と 日の本にこの菊華あり空碧し 金賞を獲りたる菊の誇らしく 菊の香の漂ふ里の平和かな 大輪の花より小菊愛しけり <完>
2016.11.21
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今、我が家の庭では小菊が真っ盛り。散歩しているといろんなお宅でも菊の花が良く目立っています。そこで今回は、そんな散歩中に撮った近所の菊の特集を組んでみました。まあ見れば分かるし、一々説明は不要でしょう。その代わりに最後に自作のヘボ俳句をつけますね。それも頭の中に浮かんだ菊の姿を詠んでみたものですが。 菊の香や愛犬死にて早や五年 菊の聲打ち消すやうな時雨かな 風立ちて小菊の少し傾きぬ 菊人形少年の日の遠きこと 宿の膳食用菊に戸惑ひつ <続く>
2016.11.20
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1月19日火曜日。全国的に大雪が降った翌日、私は長靴を履いて雪景色を撮りに行きました。今日はその時の写真に、へぼ俳句を添えてみました。 雲厚く夢凍へたる冬木立 色消して流れ去るなり冬の川 雪解けの水路溢れて寒未だ 足跡の一つも見へず雪の橋 山間の圃場静まる雪の朝 どか雪の重みに竹の耐へかねし 石一つ雪に埋もれし姿かな 橋脚の空見上ぐれば雪の谷 雪の谷繋ぎし橋の天高く 遊ぶ子も居らず遊具の白き雪 ブランコの雪も融けざる寒さかな 階段の先に雪雲続きけり 蝋梅の雪を背にして香りたる 橋渡る人影もなし雪の道 青空に清しき貌の雪の山 木立みな大寒の日は沈黙す 一本の輪だち残して雪の坂 欅いま裸木となりて雪に立つ 雪中の薔薇も凍へて倒れけり 屋根の雪青空目がけ墜ちむとす 長靴で歩いた距離は3km。雪道はかなり疲れてしまいました。<完>
2016.01.25
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<微笑・苦笑・爆笑 歳末&新春狂歌> 皆様あけましておめでとうございます。今日は2016年平成28年の元旦です。拙いブログではありますが、今年も一年間どうぞよろしくお願いしますね。 さて、皆様は一休さんをご存知だと思います。あの「とんち」で有名なお坊さんですね。一休宗純は実在の僧。彼が詠んだ狂句に次のようなものがあります。 門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし お正月に飾る門松はめでたいようでめでたくはない。なぜならお正月になると一つ歳を取り(昔の「数え年」はお正月に歳を取る仕組みだった)、それだけ「あの世」に近くなると言うのが、彼の言い分。 そこで一休さんの句を手本に、私も狂句を詠んでみました。これはあくまでもブラックユーモアなので、正月早々縁起でもないなどと怒らずに、どうぞお許しいただきたいと存じます。なお約束事として2つお願いします。一つ目は句の終わりに必ず「めでたくもあり、めでたくもなし」をつけていただきたいこと。二つ目は、出来るだけ声を出して読んでいただきたいことです。ご面倒でもどうぞよろしくお願いしますね~。では! 暖冬の年に限って原油安 めでたくもありめでたくもなし(以下下の句省略) 笑うより笑われて来たこの一年 元気良く今日も徘徊家忘れ この一年病気病気で明け暮れて また一年薬と注射で生き延びた ぜいたくを言わなきゃ何とか生きられる 年ごとに増えるは顔のしわばかり 多忙なる長男正月帰れない 初雪に喜び勇み転ぶ人 歌合戦目覚めた時は除夜の鐘 年神の居所もなし四畳半 めでたくもありめでたくもなし(以下下の句省略) 年神と貧乏神が同居して 厳かな初日拝んで風邪ひいた お年玉上げたい孫は遠過ぎて 正月は古女房と二人きり 歯が抜けて食いたい餅が噛み切れず 欲張った喉の雑煮が飲み込めず どうしましょ入歯に餅が引っ付いた 元旦の「喪中」が「夢中」になるお酒 一杯のお屠蘇(おとそ)で酔って昼寝する 年賀状来たのは良いが老眼で めでたくもありめでたくもなし(以下下の句省略) 長生きし閻魔(えんま)さまから年賀状 よしやるぞ!誓う初夢目が覚めた 初夢は七億円の大当たり 今年こそ三日坊主の日記帳 薄い髪元旦の風おお寒い 初詣で帰りに落とす財布かな 年男新年早々寝たきりで 書き初めも筆が震える齢となり 待合室年寄ばかりの新年会 笑う門には福来る。今年も大いに笑いましょう。そして健康第一でこの一年を過ごしたいものですね。改めて、今年もどうぞよろしくね~!!
2016.01.01
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驚きましたね。TVのニュースを観ていたら、札幌は昨日44cmの積雪になったそうです。今の時期の大雪は62年ぶりのことだったとか。福島のブログ友シルビアさんによれば、昨日は福島でも初雪が降ったみたいです。仙台も寒かったですよ。日中はずっとコタツに入っていましたからねえ。 さて、今日も秋以降の近所の花たちを載せますね。でも昨日と一緒では能がないので、急遽俳句を添えることにしました。出来損ないの句ですが、花と共にご覧いただけたら嬉しいです。 菊に似し花や汝の名を知らず くれなゐのジニア秋の日浴びながら 金色(こんじき)の花と秋とが連れ添ひて 晩秋や花よりも日の短くて 鮮やかな花も褪せたり秋深し 名も知らぬ秋の花々咲き終へし 木枯や花を揺らして過ぎ行きぬ 幻か晩秋白き花のごと オキザリス秋の日浴びて眠たげに オキザリス秋の岸辺に風立ちぬ ダリア汝(なれ)丸くて白き秋の貌(かお) 秋深く黄花コスモスいよよ冴へ 暑さ耐へやうやく秋の花となる 白秋やマリーゴールド色褪せて 文化の日マリーゴールド燦然と 風立ちて小菊の声の幽かなる 木枯や小菊すっくと立ちつくし 枯れし花切りて今年も冬に入る 冬立つも小菊の香り衰へず 黄昏や山茶花散るかほろほろと 山茶花や冥土も見へぬ眼となりし 中には花と雰囲気の合わない句もありますが、どうぞ笑ってお許しを~!!
2015.11.26
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今年も彼岸花が咲く季節になった。ブログ友の写真に触発され、何日か前に近所で咲いている彼岸花を撮りに行った。四国松山勤務の時、大分県の国東半島へ旅したことがあった。金色の田の畦道に、真っ赤な彼岸花の一群。何と言う見事な光景だろうか。その時はそんな感慨で終わった。 その次の転勤先でボス(日本史の泰斗)の著書を読み、彼岸花が稲と共にわが国に渡って来たことを知った。彼岸花の根には毒が含まれているが、その花をわざわざ田の畝に植えたのだ。何と有毒の彼岸花の根を恐慌で何も獲れなくなった年は掘り起こし、水に曝して食用にした由。そのため遠い祖先たちは住まいの傍にこの植物を植えた。食糧が豊富な今では、もう有毒の植物の根を食べることはない。ただ長閑な秋の風景だけが目の前にある。 近所の彼岸花には、そんな歴史も風情もない。ただ観賞用に植えたのだろう。一見華やかな花だが、見方によっては単純でもある。そこで自作の拙い句を添えることにした。お互いに補い合って、新たな風景が現出したら嬉しい。なお曼珠沙華(マンジュシャゲ)は彼岸花の別名である。 哀しみはあと幾度ぞ曼珠沙華 秋空を背に艶然と花開く 青雲の流れ果てなし彼岸花 この秋の小さき川よ赤き花 赤々と命燃やして彼岸花 秋の陽と命を競ふ花の群れ 彼岸花まつ毛の長き乙女ゐし 曼珠沙華逝きたる母と姉の顔 風止みて一際赤き彼岸花 一列のさざめき彼岸花の咲く ヒガンバナ昭和は遠き夢の果て わが命あと幾年ぞ秋の空 我が墓に似合わぬ花よ曼珠沙華 曼珠沙華今宵は月も出ぬさうな 故郷を離れて久し彼岸花 彼岸花いずれも似たる背格好 秋彼岸川辺に赤き花の列 赤とんぼ止まりし花も秋の色 マンジュシャゲ傍若無人の色をして ほどほどの人生楽し花の秋 金色と朱の入り乱れ邨の秋 秋の田や花並び立つ村外れ 秋空にパッション舞ひて花の宴 未明に目覚めてテレビを点け、国会中継を見続けていた。とうとう一つの問題に決着がついた。そこでわが国を二分した課題に関して、明日から新たなシリーズを書き始めたいと思う。さてすっかり目覚めた頭で、これから二度寝することが可能かどうか。私にとってはどうやらそれが喫緊の課題みたいだ。
2015.09.19
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不整脈が再発して3週間が過ぎました。2つの病院に行き、目下薬で対処していますが、未だに目まいや動悸、胸苦しさ、胃のむかつきなどの症状に苦しみ、自室でじっと耐える毎日です。昨日ブログ友ローズコーンさんのブログを拝見しているうちに、下手な俳句を作りたくなり、急遽メモしたのが以下の句です。ご笑覧いただけたら幸いです。 百日紅空一面を緋に染めて 夾竹桃幼き夢と幻と この夏も花火を見ずに百合の花 命ありバラ一輪の猛暑過ぐ 野牡丹や小さき庭の夏の夕 白百合の花びら透かし朝日出づ 花眺む酷暑に耐へし命かな ひと月を無言で過ごす我が酷暑 花の名も知らずに残暑息を吐く 虫の音の幽かなりけり空白む わが目まひ旬日重ね秋立てり 弱き命映して今朝の秋の沼 沼の秋命映して風立ちぬ
2015.08.28
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ヤマボウシ 山法師 乱治まりし後の顔 ヒメシャガ 夏めきて姫シャガ早も草臥れし ハナショウブ 花菖蒲 尚武の誠失せし今 ヒメウツギ 姫空木 純白の夢零れつつ スイトピー 畑渡る風のありけりスイトピー サンザシ 山査子よ妻の鼻歌汝も聴け ナデシコ 撫子や母の面影永遠に バラ 暑き日よ薔薇艶然と香を放つ クレマチス 小満に勢ひを増すクレマチス シャラ(夏椿) 夏椿 沙羅と云ふ名を忘れけり ハマナス 銀婚の旅ハマナスの知床へ ヒナゲシ(虞美人草) 虞美人草からかひ気味に初夏の風 アリウム・ギガンティウム 花の名は知らねど丸き夢二つ ヒルサキツキミソウ 夢覚めてヒルサキツキミソウ揺れぬ アネモネ アネモネや少女の恋の切なくて ペチュニア ペチュニアの若夏紅き夕景色 野バラ 走り疲れ野の果て遠し野バラ咲く マーガレット 愚直なるマーガレットを愛すかな シャクヤク(芍薬) 散る牡丹追ひて芍薬夏に入る クレマチスの変種 季語知らぬ花多くして早苗月 アリッサムなど 罪なるや花を愛せし吾なれど
2015.05.31
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<花明るく> 昨日は妻と遠出する予定でいた。だが午後から雨が激しくなりそうだと思って断念した。雨は午後からではなく、朝からずっと降り続いていた。それも冷たい雨だ。ようやく3月に入ったと思ったのに、一日中の氷雨。そんなに簡単に春は来ないようだ。自宅に引き籠ってはいたが、退屈ではなかった。私には想像を楽しむことが出来る。 畑黒く三寒四温の氷雨降る 道往けど三月の雨降り止まず 畑の菜を雨粒打ちし弥生かな 蕾菜の苦さ楽しむ日を待てり ロウバイを最初に撮りに行ったのは2月11日。妻が教えてくれた場所を、その日は探せずに帰って来た。翌日はしっかり場所を聞いて再び出かけた。そこで撮ったのがこの写真。2月25日と27日にも追加で撮った。何と近所の小川の傍の家に、10本以上のロウバイの木が植えられていた。対岸から見てたため、私はそれがロウバイであることに気付かなかったのだ。蝋細工のような可憐な花。その透き通った花は、東北にも春が近づいていることの証なのだろうが。 ここからが2月25日に撮った近所のロウバイ。まだ木はそれほど大きくないが、これだけの本数はなかなか見られないだろう。 蝋梅や薄命の女逝くごとく *ひと 光あり蝋梅の花突き抜けて 蝋梅を揺すりて風の過りたり *よぎり 蝋梅の儚き翳や雲流る *はかなき *かげ 蝋梅を融かして止みし春時雨 2月27日撮影 シンビジウムは我が家の居間で咲いているもの。これを2月14日に撮った。薄いピンクの方は、かなりの古株で、いつどこで買ったものか忘れたほど。まだ毎年頑張って花を咲かせてくれるのが嬉しい。かなり開いた花は、こうして妻が切り取り、花瓶に挿して飾っている。 濃いピンクの方は、6年前の「つくばマラソン」を走った時、たまたま沿道で応援していた後輩が写真を撮ってくれた。そのお礼に仙台の名産を贈ったら、お返しにわざわざこの花を送ってくれたのだ。これは農学部の農場で栽培したもの。私もそのキャンパスを何度か訪れたことがあった。今はとても良い思い出。人生のふとした偶然から生まれたエピソードである。 恋多き女ありけり蘭の春 春色のシンビジウムや夜の膳 夕暮やシンビジウムも閑りて *しずまり 古株の蘭咲き終へし弥生かな 一雨ごとに春は近付いているのだろうが、なかなかその実感は持てない。それでも日増しに日差しは春めいている。暖かくなったら狭い我が家の家庭菜園に、早速ジャガイモを植えよう。今はそんなことを考えつつ、「本物の春」を待っている私だ。<完>
2015.03.02
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<春の使者たち 一花一句> 昨日は天候が急変した一日だった。朝は晴れていたため、雪を戴いた奥羽山脈の写真を撮ろうと外へ出たら雪になっていた。それから曇り、雨、晴れ、曇りと変化し、午後からは吹雪になった。今日は2月の最後の日。明日からはもう3月だ。外はまだ強い風が吹いている。今日は散歩中に撮った花の第2弾。少しずつ近づく仙台の春を、共に楽しんでいただけたら嬉しい。 マンサクは2月10日に撮影した。「先ず咲く」が名の起源とされるこの花は、東北では春の到来を告げる花の一つ。明るい黄色の花は、希望を与えてくれるような気がするのだ。 万作や春の光の確かなる フクジュソウが咲いていると妻に教えてもらって、最初に写真を撮りに行ったのが2月12日。2月25日には、別な場所で撮ったのを追加した。土の中から真っ先に飛び出してくる黄色い花は、名前の通りとてもお目出度い感じがする。県南から引っ越して来られたその家の老人が言うには、赤い色のフクジュソウもあるんだとか。いつか元の家からその花を持って来たいとも話されていた。 福寿草土破りける命かな 紅梅は2月13日に撮った。下の方に咲いてるのはわずか数輪だけで、しかも幹の方に顔が向いている。日当たりの良い高い枝には、少しまとまって咲いているのが見えた。白梅はまだ蕾。我が家の梅が咲き出すのは、例年4月に入ってからだ。梅の香りを楽しみたかったのだが、1輪では少々無理だったかも知れない。 梅一輪香の幽けきを愛でにけり クロッカスを撮ったのは、2月25日の散歩中。ここは小川の狭い堤防の上。金網のフェンスの向こう側だ。近所の人が、幅1m、長さ10mほどのスペースを掘り起こして花壇を作り、長い間花を植えて楽しんでいたようだ。その古屋は壊され、住んでいた人はどこかへ引っ越して行った。今は主のいない花壇に、ひっそりとクロッカスが咲いているだけだ。 クロッカス小川の土手の客として 菜の花を見つけたのは昨日のこと。雪山を撮ろうとして出かけ、空ぶりのまま帰宅する途中農家の畑に咲いていた。柔らかな若緑の葉っぱに黄色い菜の花。この花を見ると、春が来たことが実感出来る。我が家の白菜も、葉が開き出した。これから何日か先には、何本かの蕾が出ると思う。我が家では花を愛でる前に、蕾菜として食用にする。少し苦味があるが、それがまた美味しいのだ。今年もやがて、そんな季節がやって来る。 菜の花を濡らして雨の治まりぬ <続く> 昨夜は酔っぱらった勢いで幾つかの俳句を作ってみた。「俳句歳時記」に載っていた季語の練習だ。テーマは桜。仙台で桜が咲き出すのは4月10日頃なのだが、イメージで詠む桜も悪くない。戯れに載せておきたい。 春爛漫人溢れける山ありぬ 酒を酌みまた酒を酌む桜守 花冷へや酔客の足定まらず 命ありて今年も愛でし桜かな 空青く命競ひし花とわれ 山桜その閑けさを愛でるかな 御衣黄に光溢れて午後となる 花散らしやうやくに風温みたる 黄桜も萎れしころや天に星 桜人酔うほど月の美しき お花見の本番でも、こんな風に句が作れると良いのですが。
2015.02.28
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ここ数日は言葉遊びを楽しんでいます。へぼ俳句作りです。何せ暇人なので一日中コタツに入り、ああでもない、こうでもないと頭をひねっています。これが全くお金がかからない遊び。そして、頭の体操になりますね。今日もそうして生まれた幾つかの俳句を紹介しますね。 夜の雪ただしんしんと夢包む 雪の夜や遠吠え二つ飲み込みし 仰ぎ見ん早や立春の朝ぼらけ 霜柱踏みて疑念を砕きけり 雪折れの椿に小さき蕾見ゆ 鵯の声ばかりして庭の雪 *ヒヨドリ ヒヨドリの飛び立つ影や冬の畑 梔子の倒れしままに冬の月 *くちなし 風止みて春まだ遠き老ひの坂 泡雪や青木の翳の頼りなき *かげ 名のみにて春烈風の中に在る 川流る春立ちしこと知らぬげに 冬と春せめぎ合ひして川流る 如月の真白き屋根に日の光 *きさらぎ=二月 シクラメン納骨いよよ迫り来し 立春やぽたりぽたりと雪の音 蘭咲きて部屋いっぱいに春の色<作句の舞台裏> 最初の句は しんしんと未だ止まざる夜の雪↓ しんしんとただしんしんと夜の雪↓ 夜の雪ただしんしんと夢包む と変化し、 2番目の句は 雪の夜や闇に吠へたる犬二匹↓ 雪の夜遠吠への犬二匹して↓ 雪の夜や遠吠へ二つ飲み込みし と変わりました。 他の句も同様に、何度も推敲を重ねています。これもまた俳句の楽しみなのですが。
2015.02.04
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<形 そして若干の俳句> 今日は節分とのこと。そうすると明日は立春か。暦の上の話だが、春はそこまで来ているようだ。そこで今日は雪の写真に、急遽作った幾つかの俳句を添えてみた。最終的にどんな形になるのか分からないが、それも楽しみ。では、早速作業を始めたいと思う。 自宅の畑が盛り上がっている。ここに隠れているのは、右側の白菜だ。 鵯も迷ひし雪の畑かな *ヒヨドリ 春立ちて雪なほ深き畑かな ガレージの屋根 泡雪の消へざりしまま午後となる 追難過ぐ流れる雲も春めきて *ついな=節分の豆まき 小川の土手 雪の玉遊びし子らも夕餉かな *ゆうげ=晩ご飯 雪止みて鬼の足跡点々と バス停に雪の形の椅子二脚 発光ダイオードの交通信号は、雪に弱いと言う話を聞いた。そう言えばいつもよりも光が弱いように感じたのだが。 ミラーにも車の屋根にも雪・雪・雪・・・ 私の部屋の西側の窓(左)と、いつも布団を干すベランダの手すり(右) 立春やまだまだ厚き屋根の雪 郵便受け 鬼やらひ豆拾ひたる子らの笑み *おにやらい=節分の豆まき 擁壁(上、左)とマンション(右) 春の雪墓天空に向かひけり マンションの土手(左)と滑り台(右)
2015.02.03
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先日の午後、私は小川の河川敷を走っていた。その時、岸辺に立っている鳥が見えた。白鷺のようだ。こんな小さな川に魚がいるんだろうか。しかも今は寒さが厳しい冬。鷺は全部で3匹いた。食われる魚も、食う白鷺も必死だと思う。鷺の姿が脳裏に残り、私は走りながら何とか俳句に出来ないか考え続けた。それが冒頭の二句である。 その数日後、今度は冬の鳥の俳句を作ってみようと思い立った。こちらはほとんどがイメージの世界。ど素人なのでろくろく季語も知らないが、そんなのはテキトーで良い。ともかく頭の中に浮かぶイメージを十七文字に置き替えてみる。こうして27の句が生まれた。単なる言葉遊びだが、老人の脳トレには十分だ。ご笑覧いただけたら嬉しい。 大寒や鷺悄然の象して *しょうぜん *かたち 鷺立ちし岸辺哀しき寒の夕 寒の入り鶴居ずまひを正しけり *いずまい 地吹雪や片脚の鶴身じろがず 眩暈せし鶴風花のごとく舞ふ *めまい *かざはな=風に舞う雪 雪の田や番の鶴の舞ふごとく *つがい 虎落笛ヒヨドリ一声風に鳴く *もがりぶえ=竹の切り株が放つ音 白鳥の孤独見つめし星七つ *七つ星=北斗七星 白鳥の夢凍らせて沼の漣 *さざなみを「なみ」と読ませる 北風や鳶眼を失ひぬ *トンビ *まなこ 木枯やよろけし鳶ピーヒョロロ *こがらし *トンビ 珊瑚樹やヒマラヤ越へし鶴の冬 *サンゴジュ 雪原に食はれし朱鷺の血の飛沫 *トキ *しぶき 冬晴れや鵯の声高くして *ヒヨドリ 冬木立鶺鴒の旅果てもなし *セキレイ 木枯やセキレイ尾羽忙しなく *せわし 鴎眠りニシン番屋の寒の月 *カモメ 海時化て鴎を狙ふ猫二匹 *しけ *カモメ 時化の海鴎狂ひて波に飛ぶ *しけ *カモメ 岩陰の雷鳥遠き雪崩聞く *なだれ 寒月や鴉の塒照らしけり *カラス *ねぐら 鴨今は眠りし沼の昴かな *すばる 昏き冬鴨潜りたる波紋かな *くらき 有明の月細々と鴨の冬 風花や鴨パンの耳奪ひあう *かざはな 小春日や家鴨の瞼塞ぎけり *アヒル *ふさぎ 電線に脹雀の十羽ほど *ふくらすずめ=羽毛に空気を溜めて膨れた冬の雀 真楠翁謹製 私のハンドル名である「マックス爺」は死んだ愛犬の名前を無断借用したものですが、作句の際に名乗る「真楠」(まっくす)はこの音に合わせた雅号です。
2015.01.23
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<樹木・モノトーンの世界(2)> 冬の樹木と雪の組み合わせは、いかにも寒々しい感じがします。そこで即興で作った俳句を写真に添えてみました。果たしてどんな感じになるかお楽しみに~♪ 煩悩を道連れにして大晦日(大晦日)*ぼんのう 喜びも哀しみも経て年の暮(大晦日) また一つ年去りにけり除夜の鐘(大晦日) 古稀過ぎて除夜の鐘聴くやもめかな(大晦日) 初春やこの一年も生き抜かん(元旦) 初日の出東雲の空染めにけり(初日の出) *しののめ 元旦の意気洋々のブログかな(元旦) 穏やかな年になれかし年始め(元旦) 新年ややるぞと吠へて天仰ぐ(元旦) 怨念を捨てて厄年初詣(初詣) 年毎に減る一方の賀状かな(元旦) 屠蘇に酔ひ駅伝に酔ひ年明けぬ(箱根駅伝)*とそ=酒 初場所や十年先の朝稽古(大相撲) 大望を秘めし晴れ着の二十歳かな(成人式) *はたち 松焚きや暖を取りつつ手を合はす(どんと祭) 冬の空裸参りの鐘の音(どんと祭) 海苔で食ひ納豆で食ひ餅尽きぬ(小正月) 小正月蜜柑僅かに残りけり(小正月)*ミカン <1月2日に逝きし義兄に捧げる> 新春や義兄も鬼籍に入り給ふ *あに 家族葬新春の通夜和みつつ 松の内過ぎ去らぬまま骨拾ふ 年始め骨を拾ひし竹の箸 白骨に還へりし義兄も歳男 *あに 骨壷の重きに惑ひ年明けぬ *まどい 冬の星座義兄の御霊か震へたり *あに *みたま 合掌 <不定期に続く>
2015.01.18
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≪ 広いだけの梅林 ≫ 添乗員さんが言う。「曽我の梅園は水戸の偕楽園より凄いんです。約3万本の梅があります」。ふ~ん、これは期待出来そうだ。場所は小田原市の郊外。目の前には箱根の山々。その向こうに真白な富士山が立っている。添乗員さんが地図を元に、見学コースを説明。なるほど迷子になりそうな広さ。それでも人波に押されるように、前へ進んだ。 ところが、狭い道に車がどんどん突っ込んで来て危ない。日曜日なので、観梅の観光客がどんどん押し寄せるのだろう。仕方なく遠回りして梅林を巡ることに。確かに梅の木の数は多いが、特に美しいとも感じない。ここは偕楽園のような庭園ではなく、梅干しの原料となる梅を採るための梅林なのだ。それに偕楽園は梅の種類も豊富なのだが、こちらは単純そのもの。なんだかなあ? 途中「梅祭り」の催しをしている広場があった。そこを過ぎるとようやく人波が途切れ、歩き易くなった。目の前に大きな富士が現れる。ここは梅の花よりも富士山が一番の主役なのかも知れない。 鋭角の 富士屹立し 梅林 きつりつ 咲きし梅 香りの先に 富士の嶺 紺碧の 二月の空や 富士の嶺 青空に 富士が似合うと 妻の声 歩いているうちにロウバイに出会った。もう枯れかかり、匂いもない。「そこは持ち主が手入れをしなくてね」。地元の方が申し訳なさそうに言う。確かに立派な樹なのだが、夏はツタに覆われて栄養不足のようだ。邪魔なツタを刈り取れば、かなりきれいな花が観られるのだろうが。「川の傍に咲いてるのがありますよ」と係の人。小さな流れに沿って登ると、確かにきれいなロウバイがあった。 蝋梅の 香りも失せて 雨水過ぐ 雨水は24節季の一つ 梅林を一巡して山に向かう。妻は展望台まで行こうと言うが、そこまでの時間はない。県道を過ぎて山道に入ると、家々の庭に様々な柑橘類が実っている。暖かい地方独特の風景だが、北国生まれの人間にとっては羨望の的だ。大きいのは甘夏だろうか。温州ミカンの古い種類みたいなものもある。皮の厚そうな実を1個失敬。後で車中で食べたら、昔ながらの酸味のあるミカンだった。 鈴生りの 甘夏実る 曽我の春 山の上から大勢のハイカーが降りて来る。展望台へでも登ったのだろうか。ここ曽我は、富士の巻狩りの際に仇打ちをした曽我十郎、五郎兄弟と縁の深い土地。そして江戸時代の篤学の人、二宮尊徳の生まれ故郷にも近い。尊徳の遺髪を埋めた墓があるようだが寄らず駐車場に戻る。 彼は科学的な農業を目指し、川の堤防を築くなどした郷土の偉人。一説によれば、人糞の発酵具合を確かめるため、実際に舐めたと聞く。かつて小学校の校庭には、薪を背負い本を読みながら歩く少年金次郎の石像があったのだが。<続く>
2013.02.27
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≪ 雪国からの脱出 ≫ 隣の座席で眠る妻。私は新聞を読み終えると、ウルトラマラソン仲間である「宮城UMC」の文集を読んだ。体調不良で一度もレースに出られなかった昨年の私だが、仲間が頑張る様子を知ると刺激になる。闘病中のU海さんはじめ、K合さん、Cちゃん、O長老、秋田勤務のDさんの活躍ぶりや、事務局長代理のKさんの「みちのくラン」再開へ向けての強い想いが切々と伝わる。 そして今回もT田さんは別格扱い。昨年参加したウルトラ12レース、フルマラソン7レース、その他5レースの合計24レースと全国の走友の紹介を、堂々27ページにも亘っての大公開。これなら会費を3倍ほど徴収すべきだが、宮城UMCを愛する気持ちに免じて、まあ許して上げよう。 さて、私達が乗った観光バスは、一路南へ向かっている。今朝も仙台は雪。その雪道を、最寄りの地下鉄の駅までの3.5kmを、妻と42分で歩いた。その疲れや前夜の睡眠不足が、昏々と妻を眠らせているのだ。車外は一面の銀世界。福島県に入っても続く雪道。東北はまだ冬の真っ最中なのだ。その雪景色を観ているうちに作句を作りたくなった。 銀世界 二つに裂きて 冬の旅 (国見峠) みちのくの 雪きらめきて バスツアー (福島市) 白河市を過ぎるともう栃木県。那須高原付近までは雪があったが、宇都宮に入ると景色が一変。何と空は青々として光が溢れている。ところどころに見える緑。雪の東北に比べると、ここにはもう一足早く、春が訪れている感じだ。「あの濃い緑色は麦畑ですよ」とベテランの添乗員さん。鹿沼付近のビニールハウスでは、園芸用の鹿沼土を乾かす埃が風に舞っている。 野に光溢れ 関東春近し (宇都宮) 緑濃き 下野の野や 麦畑 (佐野) しもつけ=栃木県の旧称 まるで春一番のような強い風の中、渡良瀬川を渡る。僅かの間だが、ここは群馬県。そして日本一の大河、利根川もまた強風のようだ。埼玉の羽生でトイレ休憩し、東京へ入る。荒川の上空は黄砂で霞んでいる。その向こうに東京スカイツリーが見えた。池袋から地下に潜る。珍しい地下のループを廻って地上に出ると渋谷。東京の道路事情もすっかり変わったようだ。 風轟々 渡良瀬川の 水光る (渡良瀬川) 春の嵐 大河悠々 流れ行く (利根川) 荒川や 黄砂に煙る スカイツリー (荒川) 多摩川を渡ると神奈川県。松田ICから富士山が見えた。青空にくっきりと浮かぶ秀峰が素晴らしい。妻も目を輝かせて富士の姿を追う。バスはこの旅最初の訪問地である、曽我の梅園に向かった。<続く> 不二の山 威風堂々 春近し (松田) ふじ 雪煙なびかせ 富士は一人立つ (松田)
2013.02.26
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最終目的地の温泉に向かう時に、添乗員さんが「虚空蔵菩薩を彫った木の屑が、只見川のウグイになったと言う伝説があります。そして川に架かる2本の赤い橋から見る虚空蔵さんの崖造りが絶景ですよ」と教えてくれました。あれは40年ほど前のこと、職場の旅行でこの地を訪れたことがありましたが、確かにたくさんのウグイが泳いでいる姿が見えました。それでここの名物は「ウグイ最中」なのだとか。 雪会津 川のウグイも 凍へたる 赤橋や 雪の古寺 崖造り 雪の里 土産は最中 田舎味噌 温泉はさらに只見川を遡った三島町にある早戸温泉で、私達が入るのは「つるの湯」とのこと。次弟に雪が深まるような感じがします。この只見川一帯は岩盤が堅く、降った雨が地中に沁み難いため、かなりの水量になるとか。田子倉湖や奥只見湖など、日本でも有数の巨大なダム湖がこの奥にあるのです。数年前の豪雨で、新潟県の小出へ出るJR只見線が未だに一部不通になっているそうです。 枝に柿残して 会津 雪の郷 道の駅 雪三尺に ならんとす 豪雪の ダム湖眠りし バスの旅 到着した「つるの湯」は只見川の傍で、目の前には山が迫っていました。看板には「秘湯、源泉かけ流し」とあります。泉質はナトリウム塩化物泉で、湯温は加熱加水なしの53.5度。自然に冷めて適温になり、外傷や神経痛に効果があるようです。また飲用にも適していて、消化器病や慢性の便秘にも効果があるみたいです。早速入りましたが、露天風呂も熱くて気持ちが良かったし、お湯は少し塩味がしました。 トンネルの先に 吹雪の温泉郷 雪国の さらなる奥の 秘湯かな 秘湯あり 天空舞ひし 小雪かな 雪の山 目前にして 露天風呂 冬の川 流れ静けき いで湯かな 塩味の 温泉飲みて 雪見かな 与えられた入浴時間は1時間でしたが、私は40分で満足でした。温泉から出ても、暫くの間体がポッポと火照っています。バスに乗って帰途に着くころには、夕闇が迫っていました。雪の会津は退屈かなと思ったけどそうでもなく、単純で作るのが困難と思われた俳句も、60句以上詠むことが出来ました。古代東北史の勉強も含めて、予想以上の収穫があった奥会津の旅でした。<完> 峡谷の雪 夕暮れに紛れつつ まぎれ 山眠り 河眠りたる 会津かな 奥会津 山河眠りて 冬深し
2013.01.25
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これまでは伝説上の人物と考えられていた第10代崇神天皇が、最近では実在の人と考えられているみたいです。ただし記紀のように弥生時代ではなく、もっと後世ですが。その崇神から古代東北の制圧のために遣わされた大毘古命が辿ったのは、北陸道から阿賀野川経由で。そしてその息子である建沼河別命が辿ったのは東海道を経由し、鬼怒川を遡ってと考える研究者もいるようです。 ともあれ長旅の末、親子の四道将軍がここ会津で出会います。先ほど会津若松市で見かけた「大塚山古墳」が、何とこの建沼河別命の墓と言う説もあるのです。そうすると、彼はそのまま会津に残って、この地を治めたのでしょうか。東北地方で最大の前方後円墳と2番目のものは、いずれも仙台平野にあります。やがて大和朝廷は仙台平野へと進出し、それが飛鳥時代の郡山の国衙や奈良時代の国府多賀城へと発展して行ったのでしょう。 次の目的地は温室内でのイチゴ狩りです。訪問した観光農園には、巨大な温室が3棟とたくさんのビニールハウスがありました。ここでは出荷せず、全て観光客に開放してるとのこと。温室内は暖かく、ニホンミツバチが飛び交っています。このハチが受粉を助け、立派なイチゴを作るのです。銘柄は「紅ほっぺ」と「幸の香」の2種類。食べ放題の時間は30分。 これがとても30分間も食べ続けるのは無理。何しろ甘くて大きなイチゴは、直ぐに腹いっぱいになるのです。私は多分30個近く食べたのではないでしょうか。今ごろの時期なら1パックで800円近くするみたいですが、ゆうに3パック分は食べたでしょう。いや~、満足満足。20分で早くも温室から出た私でした。 「紅ほっぺ」「幸の香」甘き 雪の小屋 蜜蜂の飛び交ひし小屋 冬苺 苺狩り 温室雪に囲まれて 次の訪問地は柳津町にある虚空蔵尊。正式なお寺の名前は圓蔵寺と言うようですが、一般的には「柳津の虚空蔵尊」で通っています。只見川の畔にあり、古来から東北人の信仰を集めて来たお寺です。本堂は崖の上にせり出した「崖造り」。京都の清水寺みたいな舞台造りになっています。広い境内は深い雪に覆われ、桜の枝が雪のために折れていました。 本堂へ降りる石段が凍っています。おっかなびっくり、手すりを持ちながら下ります。雪を被った石仏や句碑も趣があって良いですね。本堂の中は真っ暗。ほの暗い中にわずかの照明しかないためですが、雪で目が眩んだせいもあるでしょう。その暗闇の中にご本尊の虚空蔵菩薩像やたくさんの仏像が立っています。これがまた何とも不思議な雰囲気でした。<続く> 雪踏みて 古寺初詣 奥会津 虚空蔵尊 雪に埋もれし 句碑ありて 虚空蔵尊 雪に折れたる 桜かな 雪折れの 桜ありけり 圓蔵寺 初詣 石段凍る 寒さかな 雪国や 仏の顔の 暗きこと 雪の古寺 暗き御堂の 諸仏かな 雪の古寺 諸仏 お暗き堂にゐて 崖造り 虚空蔵尊の 雪深き
2013.01.24
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伊佐須美神社の境内に入って驚きました。何とそこには長い階段のある高層の神殿の絵が描かれた看板があるのです。なぜこんな神殿を作ろうとしてるのだろう。そして神門には垂れ幕がかかっています。通常参拝客はその内側には入れず、その場所で礼拝するらしいのです。そう言えば添乗員さんがバスの中で、参拝の前に宮司から講話があると話していました。何だか様子がおかしいと思いながら中へ入って行きました。 案内された先は透明なビニールが架けられた小屋。中は結構広く、椅子が並んでいます。最前列に座ると、目の前に禍禍(まがまが)しい「パワーストーン」のようなものが積み上げられています。右手には白装束の男性。だが神職のような雰囲気はなく、御神籤やお札を売る係みたいな感じなのです。にやけた神職が話したことは大体次のようなことでした。 この会津は第10代崇神天皇の御代、大毘古命(おおびこのみこと)と建沼河命(たけぬなかわのみこと)の親子の四道将軍が、北陸道と東海道に別れて陸奥の国の蝦夷を征伐に来た際に、偶然ここで出会ったために「会津」と言い、この神社は歴史に残る最も古い神社であること。岩代の国の一宮であること。会津藩の歴代の藩主が信仰した神社で、皇室からの参拝もあること。 元々は御神楽岳に鎮座し、その後博士山や明神ケ岳を経由して、現在地に落ち着いたこと。神殿と拝殿が焼け、高さ33mの神殿を造るのに20億円かかること。建築の許可は下りているが、施工はゼネコンではなく地元の宮大工を使いたいことなど。1口3千円のお布施をいただければ、署名した紙を神殿に奉納出来ること。仙台の歓楽街では暫く飲んでないが、仙台の神社に大学の級友がいることなどでした。 「なぜ高層の神殿を造るのですか」。胡散臭い神職に私は質問しました。彼の答えは「勉強すれば分かりますが、三内丸山遺跡も出雲大社も昔は高層だったんですよ」。そんなことは考古学ファンなら百も承知。三内丸山の楼閣は神殿との説もあり、栗の巨木で出来ていること。柱を内側に6度傾かせて強度を保っていること、基礎は後世の古墳と同じ粘土と砂を交互に突き固めた版築(はんちく)と言う工法を用いていること。 出雲大社の初期の神殿は確かに高層だったこと。こちらは栗の丸太3本を鉄製の箍(たが)で1本にまとめ、それを高さ40数mにまでつなぎ、その上に神殿が乗っていたこと。階段は浜辺から続いていたこと。2、3回は建て直したがいずれも台風などで破壊されたこと。境内の地中から「証拠」となる古い柱の根元が出土したこと。日本の古い建築物には「雲太和二京三」と言う言葉が残っているが、これは出雲大社の神殿が国内で一番大きな建物だったことを意味していることなどです。 私が聞きたかったのは、「この神社が元々高層でもなかったのに、何故そんな必然性があるのか」と言うことなのですが、彼には通じなかったようです。帰宅後ネットで検索したら、この神社の悪評がさる掲示板に載っていました。やっぱりなあ。2千円の「パワアーストーン」を買った人も少なかったようでした。あまり有難味を感じなかったのでしょう。 神職の態度は今一でしたが、境内にはどこか神々しい雰囲気があるのも確か。ここの薄墨桜は、とても香りが強いので有名みたいだし、神門に納まった親子の四道将軍の神像も珍しいものでした。でも高層の神殿は難しいように思いました。巨額な建設費が集まるかどうか。地元の宮大工に手が負えるかどうか。高層にするには長い階段が必要なので、境内が狭過ぎる感じがします。あっけに取られた神社でしたが、鎮座していた山から次々に神様が移動した話は興味深いものがありました。<続く> 大層な 禰宜一人ゐて 雪の宮 禰宜(ねぎ):神官の一役職 伊佐須美の 薄墨桜 雪の中 将軍の 親子神像 雪の宮 雪の宮 四道将軍 神門に
2013.01.23
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バスは会津若松市の郊外を通って、東山温泉の方に向かいます。4年ほど前のこと、「東山温泉紅葉マラソン」と言うのに出たことがありました。東山温泉をスタートし、標高千mを越える布引高原を折り返す50kmのレースでした。あの時はお金がなくて温泉に泊らず、会津若松駅前のホテルからレース当日の朝に走って参加したのです。その時に通ったのが「会津武家屋敷」の前でした。 本日最初の探訪が、この武家屋敷。裏手には藩主松平家の祖廟があるそうです。ここで早めの昼食。用意されたのは小さな「せいろ」で蒸された山菜ごはんと、可愛らしい会津ソバ。それに各種の漬けものなどが添えられています。中でも珍しいのが「身欠きニシン」と「棒ダラ」の料理。海が遠い会津地方では、魚の干物を加工した郷土料理が残っているようです。 昼食後の時間を利用して、武家屋敷を見学しました。勿論ここにもたくさんの雪が積っています。白い雪に覆われた建築物もなかなか風情があって良いものですね。大きな屋敷は家老西郷頼母(「八重の桜」では西田敏行が演じています)の居宅。でも残念ながら「本物」は維新の際の戦乱で焼失し、これは残っていた設計図から復元したものですが、実に広大で立派な構えです。 冬木立 雪に落とせし 淡き翳 かげ 枯れ尾花 風に揺れつつ 雪に立つ 尾花:ススキ 氷柱伸びて 雫垂れたる 一軒家 つらら しずく 雪の街 終日雪に埋もれけり ひねもす 雪国の凍れる路や 武家屋敷 武家屋敷 雪踏みしめて 巡りたる 雪深き 会津の里や 武家屋敷 鶴ヶ城 雪の盆地に そそり立つ 鶴ケ城:会津若松城の異称 雪に生き 会津の誇り 失はず 「ならぬものはなりません」。質実剛健で頑固なのが旧会津藩の気風です。最後の藩主松平容保公は京都守護職を命じられ、都の治安に努めます。松平家は徳川家の親戚でもあり、維新戦争では当然幕府側に立ちました。特に東北地方は「奥羽越列藩同盟」が結ばれたこともあり、官軍の攻撃は熾烈でした。まだ十代の若者だった白虎隊も城が落ちたと誤解し、飯盛山で切腹します。その城が、武家屋敷から遠望出来ます。 次の目的地は会津美里町にある伊佐須美神社。「いさすみ」と言う聞き慣れない響きが気になります。武家屋敷で1時間休んだ間に、道路の雪が少し融け出していました。でも新潟県境の山々には、雪雲がかかっています。途中で「会津ドーム」と言う体育館が見えました。これなら丸くて雪が落ちやすいでしょう。<続く> 県境の 濃き雪雲や 奥会津 雪の田に ドーム残して 冬日かな 雪原に 腹這ひ遊ぶ 会津っ子 はらばい
2013.01.22
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気が付くと通路の向いのご婦人が「歳時記」」をめくっています。そして小さなノートと鉛筆も。ほほう本格的な俳句を作る人なんだと感心。トイレ休憩の時に話すと、俳句の結社に入っているとか。その結社は季語の作法が厳しく、使って良い歳時記が限られているみたいです。そして今月は3句を上げる必要があるのだとか。素人の私の句は自由そのもので作るのも楽ですが、その分雅趣は乏しいかも知れません。何しろ粗製乱造なのですから。 全て白き風景 バスは驀進す ばくしん 冬の田や 足跡もなく 静まりて 白き田や 畦の陰影 潜めつつ あぜ 歳時記をめくる老女や 冬の旅 樹々の雪煌めき バスは会津へと きらめき トンネルを抜けて 会津の雪の路 郡山市でバスは東北道から別れ、磐越道で会津へ向かいます。幾つかのトンネルを抜けると、そこは福島県西部の会津地方。ここも一面の雪。やがて右手には磐梯山、左手には猪苗代湖が見えて来ます。今年の大河ドラマ「八重の桜」の冒頭に美しい磐梯山が映りますが、あれは明治時代に爆発した後の姿。少女時代の八重が見たのはさらに高い山だったのです。その中腹にスキー場がくっきりと映っています。 山肌にゲレンデ白き 会津富士 磐梯山 雪止みて 湖の波 輝きぬ 猪苗代湖 この周辺は「磐梯高原ウルトラマラソン」(100km)で何度か走った場所。湖に注ぐ長瀬川も懐かしい風景です。磐梯河東ICから一般道へ下りると、真っ白い観音像が見えます。高さは56mとか。ここは「会津村」と言う観光地。近くには会津藩の藩校だった「日新館」が再建されています。会津盆地最大の街、会津若松市の饅頭店でトイレ休憩。サービスの饅頭が1個ずつ配られます。 「昼食が近いので饅頭は食べないように」との添乗員さんからの注意。でも、試食用の色んな饅頭に、つい手が出ます。暖かいお茶のサービスが嬉しいですね。バスに乗り込んでから向かいの山を見てビックリ。そこは確か東北で3番目に大きい前方後円墳の「大塚山古墳」のはず。店に戻って確かめると、やはり大塚山でした。古代から会津地方には中央の文化が伝わっていたのです。<続く> 観音も雪を眺むる 会津かな 融雪の水流れたり 饅頭屋 大塚山古墳に 深き雪ありて
2013.01.21
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集合場所のN町駅東口に行ってもバスがいないのです。そのうち女性の人が、「こちらですよ」と言いながら私達を集めました。バスは少し遅れて到着。出発は県南のW町。運転手さんの話によれば、途中で事故があった由。それはともかく、乗客の1人が見つかりません。連絡はとってあったそうですが、添乗員さんが困った様子。妻が「旗を持って行ったら?」と言うと、小走りに探しに行きました。 そのお陰で、最後の一人も無事乗車。仙台駅でもさほど遅れずに出発することが出来ました。今日のバスはいつもより小型。奥会津の雪道を行くには、この大きさが都合が良いとか。仙台宮城ICから東北道に入ると、周囲はもう一面の雪。福島県会津地方の天気予報も雪だったし、今日はどうなるのだろうと心配する反面、それもまた面白そうと思う自分がいました。 長い車中に備えて、新聞と読みかけの小説を持って来ていました。それに「ランニングノート」も。これは走ったコース、距離、タイムを書き込むだけでなく、映画や園芸や東北楽天の観戦や、その他必要なことを記入するメモ帳代わりです。それを持参したのは、ひょっとして俳句が作れたら、それを書き込むため。まさか雪だらけの風景で俳句が出来るとは思えないけど、念のためでした。 宮城県南、蔵王町の青麻山(あおそやま:799m)を過ぎる頃には新聞を読み終え、外の景色に見とれていました。県境の国見峠を過ぎると、眼下に福島盆地が広がっています。ここも一面の銀世界。2年前に仙台の自宅からJR福島駅まで80kmを走った旧国道も、この近くを通っています。これは俳句を作ろう。そう思って直ぐに「ランニングノート」とボールペンを手に取りました。例によって、季語も知らないインチキ俳句なのですが。 一面の真白き雪や 峠越す 燦々と 雪の盆地に冬日かな さんさん 家々も 果樹も 畑も雪の中 一面の雪に 神秘を感じつつ 冬の旅 雪に歓声上げながら 雪雲の 吾妻小富士を 隠しけり 東北道 疾走のバス 雪煙 碧空や 安達太良 白く聳え立つ あだたら山:1700m 安達太良や 智恵子も雪に抱かれて 智恵子:高村光太郎の妻 吾妻小富士(1705m)は福島市の火山で美しい山なのですが、この日は頂上部分が雪雲に隠れていました。そして間もなく行くと、今度は安達太良連峰が見えて来ます。こちらは連峰の全容がくっきり青空に映えています。高村光太郎の妻、智恵子はここ二本松市の出身。「東京には空がない」と言った智恵子。でも二本松の空はどこまでも紺碧に澄み渡っています。晩年心を病んだ智恵子も、きっと故郷の空と山に癒されたことでしょう。<続く>
2013.01.20
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明けましておめでとうございます。不思議なもので、一夜明けたらいつしか平成25年の元旦になっています。早速カレンダーの表紙を破りました。まだまっさらな暦です。この一年、どんなことが前途に待っているのでしょう。「前期高齢者」には素晴らしい未来が開けている訳ではありませんが、「それなり」に生活を楽しむことは可能でしょう。 年頭に当たり、出来る限り健康で平和な年になることを心から祈念しています。読者の皆様にとっても、それぞれ良い年を迎えられたことと存じます。さて、年末に作った句を披露します。こちらは全くの空想上の作品。中には少々諧謔的なものも混じっていますが、戯言(ざれごと)としてご笑覧いただければ幸いです。 ≪ 新春幻想 ≫ 松飾 烈風揺すり 年明けぬ 東雲に 初日眩しき 巳年かな 東雲:しののめ 彩雲に平和を祈る 年初 元日や 巳年の暦 千切りけり 今日よりは 巳年なりけり 古稀近し この年も生き長らへて 古稀迎ふ 霜柱ザクリザクリと 初詣 初詣 村社に白き 冬桜 足早に 破魔矢握りて 受験生 酒一合 年の初めも変はりなく 初春や 屠蘇に酔ひたる 下戸二人 年賀状読むごと浮かぶ 友の貌 貌:かお 孫遠く 年玉郵送 壱万円 新春や 電話の孫の高き声 雑煮食ひ 古稀を迎ふる歳となる 餅食らふごとに近づく 黄泉の國 黄泉:よみ=あの世 新年の酒は一合 餅三つ 寒風や 痩せ我慢して 走り初 年頭の 闘志新たに 丘に立つ 地平線 新春の海 光りたり 鵯の啄ばむ冬菜 霜枯れて 鵯:ひよどり 啄ばむ:ついばむ
2013.01.01
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ついに今年も最後の日を迎えた。今日は大晦日。私にとっては波乱万丈の年だったが、読者の皆様にはどんな年だったのだろう。29日の夕方、東京の次男が帰省した。東北新幹線で3時間、立ちっ放しだった由。おまけに仕事で腰痛を患っていた。私もこの暮れ、腰を傷めていた。強風と寒い日が続き、走らずに読書を続けていたのだが、その時の姿勢が良くなかったようだ。 明日は新年を迎えるこの日、ブログ友の皆様には大変お世話になったことを心から感謝し、さらに健康で良いお年を迎えられるようお祈りしたい。この年末、腰痛に苦しみながら「言葉遊び」をしていた。季語もルールも知らないへぼ俳句作りの結果生まれたのが、以下の句。一興としてご笑覧いただければ幸いである。 ≪ 玄冬風景/歳末 ≫ 大根抜き 冬至の畑に埋めけり 凍へたる畑にも 玄冬の光かな 凍へ:こごえ 玄冬:ふゆ 干柿を食ひて 過ぎにし年想ふ 灯油売るタンクローリー 雪こんこん 腰痛を堪へて 暮の読書かな 堪へ:こらえ 手袋の指凍らせて ブログ書く 寒風に ガラス窓拭く やもめかな 塵全て 掃き清めたり 年の暮 塵:ちり 塵捨てて この一年を過去とせし 山茶花に 歳末の雨 やはらかく 歳末や 味見のなます 酢が足りず 薄味の松前漬や 妻の暮 松前漬けは昆布などの入った正月料理 凛として 葉牡丹 雪を載せて立つ 腰痛の次男帰省す 年の暮 数々の悪夢を捨てて 晦日かな 一年を無事過ごしたり 大晦日 不機嫌を流し給ふや 暮の雨 食卓にナメタ三切れ 年越祭 ナメタガレイは仙台地方の年越魚 大晦日 歌合戦も観飽きたり 除夜の鐘 愚音我音と 聴こへけり ぐおんがおん(擬音)
2012.12.31
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≪ 弘前城さくら紀行ー4 ≫ 「北のまほろば」には石場家のお婆さんが登場するらしい。「お婆さんはお元気なんですか」と尋ねると、「もう亡くなりました」との返事。教えてくれたのはお孫さんみたい。本当に残念そうな口ぶりに、深い家族愛を感じた。50巻にものぼる司馬の「街道をゆくシリーズ」は、30年ほど前の著作なので、亡くなっていてもおかしくない年齢だ。 同じシリーズの「陸奥の道」によれば、青森県東部の八戸南部藩と、西部の弘前藩とは仲が悪かったようだ。元々津軽の支配者は安東氏。戦国時代には南部の支配下となったが、南部の支族である大浦氏が最終的に手中に収め、以後津軽氏を名乗る。明治には両藩不仲の影響で県庁を中間の青森に置いた由。弘前藩は最大10万石だったが実質上は4万6千石。それにしては城郭が巨大過ぎる。 石場家を辞し、濠沿いに集合場所の「津軽藩ねぷた村」まで戻る。その街角に花木。「お父さん、リンゴの木だよ」と妻。なるほど白い花は紛れもなくリンゴ。きっと観光客へのアピールのため、わざわざ街中に植えたのだろう。弘前城、岩木山と共に、リンゴもまた津軽地方の人々の心の拠り所なのかも知れない。「りんご追分」など、美空ひばりの名曲が幾つもある。 ああ津軽 林檎も城を向きて咲く (ねぷた村) 有名なねぶた祭りだが、青森では「nebuta」と発音し、ここ弘前では「neputa」と半濁音。やはりそれぞれに「こだわり」があるようだ。この「ねぷた村」で暫し買い物。名物の「ニシン寿司」や「タケノコ寿司」、リンゴなどを買った。リュックがずっしりと重たい。 帰りのバスは連休の洗礼を受けた。ちょうどUターンの真っ只中だったのか、岩手県の前沢SAを先頭に約30kmの渋滞。結局仙台に着いたのは10時を過ぎていた。ところが乗って来た自転車がない。どうやら「始末」されたようだ。幸いにも付近を捜したら見つかった。11時から愛犬の散歩を済ませ、風呂に入る。ああ疲れた! 石場家で買った日本酒を飲んで寝ようとしたのだが、急に一句浮かんだ。それをきっかけに起き出し、弘前城の地図を眺めながらヘボ俳句作りに没頭した。季語もヘチマもない自己流の俳句。それでも20句ほど書き留めてようやく床に就いた時は、既に1時を廻っていた。探していた「北のまほろば」を自室の片隅で発見したのは、それからさらに4日後のことだったのでR。<完>
2012.05.10
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≪ 弘前城さくら紀行ー3 ≫ 通称「桜のトンネル」は凄い混雑。狭い道を大勢の人達が北へ南へ歩を進める。その中には黒人や金髪の女性など外国人も。それだけ弘前城の桜が有名な証しみたいなものだ。陽気な彼らはソフトクリームを食べながらはしゃいでいる。そして西濠には何艘ものボート。桜の木の下を漕ぐ気分はどんなものだろう。 外(と)つ国の人和みたり 花の径(みち) (桜のトンネル) ボート漕ぐ お濠に添ひし花の列 (西濠) 春陽橋の辺りで桜が途切れ、岩木山の麓が見えた。中腹から上は黒い雲に隠れている。弘前城と共に岩木山は、津軽の人にとって誇るべき宝物と聞いたことがある。ずんぐりした山容で標高は1625mあり、地元では親しみを込めて「お岩木山」と呼ばれるが、「津軽富士」の別名もある。津軽出身の作家、太宰治も幼少のころから万感の思いでこの山を見続けたはず。 春憂の 雲垂れ込めて 津軽富士 (桜のトンネル) 春急ぐ 太宰の嘆き 知らぬ気に (桜のトンネル) 波祢橋は赤く塗られた小さな太鼓橋。そこを渡って再び北の廓に入る。ここと本丸が有料ゾーンだが、チケットを見せれば何度でも通行出来るシステム。観光客が何か黒いものを齧りながら歩いている。真っ黒の不思議な物体は、どうやら売店で売ってるコンニャクのようだ。そして特売中のリンゴを今回も味見する。 花見客 黒き蒟蒻喰らひつつ (北の廓) 北の廓 花散る下の 林檎売り (北の廓) 東口から出ようとして、廓の奥に木製の展望台のようなものを発見。あれは何だろう。むくむくと好奇心が芽生え、どうしても観たくなる。説明板によれば、階段の左側は玄米を保存した「籾蔵」の跡で、階段を登った土手の上は「子(ね)の櫓」跡らしい。ここは花火の不始末で消失したとあり、基礎の石組が残っていた。それを藪椿の花が静かに見守っている。 焼け落ちし 櫓の跡や 藪椿 (子の櫓跡) 賀田橋を渡って四の丸へ。右手には広大なグラウンド。前に来た時はその周囲も走った。これだけの空間が城内にあるとは不思議。昔は馬場だったのだろうか。直進すれば北門(亀甲門)だが、大変な人混みで自由が効かない。焼き鳥を焼く香ばしい匂いや、賑やかな呼び込みの声。両側にずらりと売店が連なり、その中に「お化け屋敷」やオートバイの曲乗りの小屋が並ぶ。それが喧騒の源だろうか。おまけに足が痛んで来た。悲しいかな、歩きで足が痛むようでは、レース復帰はとても無理。 匂い 声 雑踏 酔客 城の春 (四の丸) 痛む足 引き擦りて見ゆ 花の城 (四の丸) ようやく雑踏から抜け出し、北門へ出た。他の4つの城門が太平の世になってから築造されたのに対し、この最大の門は他の城から移設され、唯一実戦の痕跡が有るらしい。堂々たる風格はそのせいか。昔はこちら側が追手門(大手門と同義で正門)だったようだ。北端の濠に架かる亀甲橋を渡ると城外。その正面に由緒ありげな古民家があった。 濠端の 民家ゆかしき 五月風 (石場家住宅) 江戸時代は津軽藩内のわら工品や荒物雑貨を商っていた豪商、石場家住宅がそれ。重要文化財だが、今も酒や煙草を扱い、人も居住している。元々の部分は1700年代の建物で、修繕に1億円ほどの経費を要したと言う。中に入るとかなりの広さ。「通り庭」と呼ばれる土間やかまども残り、板の間には囲炉裏があった。その上には屋根裏部屋もありそうだ。黒光りした太い柱が見事。 表の店に戻ると、利き酒のコーナー。意地汚なく各種の日本酒を飲ませてもらった。「ただ酒」だけでもどうかと思い直し、地酒の「ワンカップ」を購入。壁に作家司馬遼太郎の名刺が飾られていた。住所は東大阪市。彼の自宅だ。「どうしたの?」と聞いたら、「街道シリーズ」で取材に来たらしい。「北のまほろば」として出版された由。私はまだ読んでないが、急に親しみが湧いて来た。 葉桜や 作家の名刺 ぽつねんと (石場家住宅) <続く>
2012.05.09
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≪ 弘前城さくら紀行ー3 ≫ 左手に東内門が見える。堂々たる構えの門だ。その門を潜って外へ出ると左右に濠が見える。中濠と言うらしい。弘前城は東側から順に、外濠、中濠、内濠と三重の濠に囲まれている。そして本丸の西側には蓮池と西濠。その中濠に散った桜の花弁が列を連ねている。いわゆる「花いかだ」だ。桜は散ってもまだ絵になる。 花筏 浮かびし濠の深きこと (中濠) 水が濁っていて濠の深さは分からないが、石垣が高いため濠が深く感じられるのだろう。再び東方門から二の丸に戻る。「日本一古いソメイヨシノだってよ」と妻。なるほど与力番所横に曰くあり気な古木。植えられたのは明治15年(1882年)と言うから今年で130歳。寿命を既に50年ほど越えている。上部は朽ち果て、脇から数本の枝が延びた姿には妖気が漂う。 番所在り 世紀を超へし 桜かな (二の丸 与力番所) 本丸方向に進むと珍しく白い色の桜。その花も散りかけだ。さらに行くと、右手の濠の上に三重の小さな天守閣が見え出す。本来の天守閣は五重の立派なものだったようだが落雷で消失し、その跡に城内の櫓を移設した由。大きな城には似つかわしくない可愛い天守閣は、見ていても微笑ましい。 行く春や 白き桜も 散り初めし (二の丸) 花陰に 櫓と紛ふ 天守かな (本丸) 下乗橋を渡って本丸へ向かうと、何やら列が出来ている。どうやら天守閣を見学するための順番待ちみたい。30分から1時間待ちとのこと。残念だが外から見るだけにする。 人混みの 枝垂れ桜や 天守閣 (本丸) 鷹丘橋を渡って北の廓へ。瓦屋根の大きな建物は明治期になってから建てられた武徳殿。即売のリンゴを齧りながら東口を出、再び二の丸を南下する。2度目は土の道を行った。降り積もる桜の花弁。花の絨毯を踏みしめる。 花弁(はなびら)の 踏まれし果てや 泥濘(どろ)の色 (二の丸) 東南隅の辰巳櫓を仰ぎ、南内門から一旦外へ出て杉の大橋を見る。再び戻って南の廓を経由し、桜のトンネルへ向かう。蓮池と西濠の間の狭い堤。両側には桜の並木が続き、西濠の土手にも桜。弘前城には2600本の桜が植えられているようだが、その数の物凄さに圧倒される。 桜樹も二千六百 弘前城 (桜のトンネル) <続く>
2012.05.08
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≪ 弘前城さくら紀行ー2 ≫ 仙台駅から乗るはずの人が乗らないと添乗員が会社へ電話している。バスは13分遅れで次の集合地点へ向かった。だが添乗員が座席を廻ると、どうやらその人も乗っていたようだ。これは単なるチェックミス。本来なら人数を数えれば分かると思うのだが、どうも何かがおかしい。高速道路に入ってからも、添乗員は弘前城の桜の話を一切しない。「ははあ」。私は何かを予感していた。 妻は初めてだが、私は弘前城の桜を前に見たことがある。会議が弘前で開かれた時にホテルから走り、城内を一周しながら桜を見たのだ。人口の割には城が大きく、桜の本数が多いのに驚いたものだ。例え今回が「外れ」でも、一度見てるだけマシと思うしかない。そして、眺望に変化があり、歴史がある平泉では俳句は作れたが、今回の弘前では無理だと諦めていた。 ついでながら私がこれまで走った中で、桜を楽しめたマラソンは「長野」と「熊谷」だった。「長野マラソン」のコースは千曲川に沿い、有名な川中島の古戦場近くに桜がまとまって咲いている。この周辺には桃畑と菜の花も多い。ピンクと黄色の春の色を満喫し、遠くには雪を戴いた中央アルプスを望める最高のコースだった。 また「熊谷」は、正式名が「熊谷さくらマラソン」と言うだけあって、桜が見もの。荒川の土手に沿って桜並木があり、ランナーはその花の下を走ることになる。これだけ桜を身近に感じるレースは珍しいと思う。「かすみがうら」も4月だが桜は既に散り、22km付近の民家の梨の花くらいしか印象にない。 バスは一路東北道を北上する。宮城県内はまだ天気が良い方。大雨で氾濫が心配された大和町の吉田川も、流れはかなり落ち着いていた。山は今新緑に包まれ、芽吹きの微妙な色合いが美しい。この季節ならではのものだ。帰宅してから作った俳句を文章に添える。 東北道 バス新緑を追ひかけて 岩手県に入ると雲が広がり、やがてポツリポツリと雨がフロントガラスに当たり出す。退屈なので新聞を読む。北上、花巻を過ぎ、さらに盛岡を過ぎると岩手山が見えて来る。標高2038mの秀麗な山は、見る方向によって様々に形を変える。西根IC辺りでは、新緑の山の上に突き出る真っ白い山容が、目に飛び込んで来た。岩手を代表する名山で通称岩手富士。 山笑ふ 中に真白き 岩手富士 安代JCTで八戸道と分岐。バスは幾つかのトンネルを抜けて秋田へ向かう。県境付近から道はどんどん下る。鹿角など山間の街を抜け、さらにトンネルを潜るとようやく青森県だ。かつて三内丸山遺跡を観に行く際にこの辺りの温泉に泊り、ダムまで走ったことがある。11時半。配られた弁当を食べる。弁当屋は一流だが、内容はどうしようもないほど粗末。コンビニ弁当でもこんなケチなものはない。 弘前が近づくと、添乗員はようやく弘前城の桜について説明を始めた。堀端の桜は既に散ったが、城内の枝垂れ桜や八重桜はちょうど見ごろ。またお堀に浮かぶ桜の花びらが見事とのこと。その他駐車場と有料ゾーンの観覧チケット、見るべきポイントなどの説明あり。不必要な荷物はバスに置き、これから3時間の自由時間となる。添乗員がチケットを買う間、私がツアーの旗を持った。 城内は大変な人ごみ。狭い通路にたくさんの出店が並んでいる。今日が桜祭りの最終日。道理で観光客が多い訳だ。迷子にならないよう妻が私に着いて来る。最初の角を左折し、二の丸方向へ歩く。城内には5つの城門と3つの隅櫓があるが、全て築城当時の物で重要文化財の由。最初の丑寅(うしとら)櫓が左手に見える。 花の下 人往き交ひし 古城かな (二の丸) <続く>
2012.05.07
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≪ 語感を楽しむ ≫ 昨日からの大雨で、宮城県内では7000人に避難勧告が出されたみたいだ。長距離レースに参加した走友達もこの悪天候で苦戦したのではないか。さて、私は雨でも退屈しない。本も読めるし、文章も書ける。少し前の「花の名織り込みジョーク」が意外に面白かったので、第2弾を考えてみたのでR。そして花の名前が分かりさえすれば、もっと作れると思うのでR。 ガンモドキよりウメモドキ 道路工事か ヤブコウジ 姥桜より シバザクラ 太股 ハナモモ 色っぽい シラン シュンラン 酒乱気味 ヒマワリ 夜回り 朝帰り レンギョウ 残業くたびれて 部屋のスミレで あくびする タンポポ 湯たんぽ 春が来た リンリン スズラン 朝の風 ヤグルマ くるくる 風車 針がグルグル トケイソウ ガーベラ 靴べら 臭う足 イチハツ 臭い屁 スカシユリ あわてて冷や汗 カキツバタ ハスに構えた 良い男 それに見とれる 虞美人草 愛のアカシア サザンカの宿 お金は リラで払います エビネ シャコバは 寿司ネタで マロニエ 生煮え 食えないよ ウメ~料理で 腹いっぱい 代金支払う キンセンカ お金が少し アマリリス アリババ 重馬場 サツキ賞 テッポウユリは 飛び道具 羊はメ~だが ツツジは無言 ヒトリシズカに 咲いてます 鳴いて血を吐く ホトトギス アサガオ横向き 知らん顔 お前さっさと ユキヤナギ 俺はかっかと イカリソウ そんなのざらだよ ニチニチソウ 立派な名前を シュウメイギク それをひがんだ ヒガンバナ カワラナデシコ 変わらずに アシビに 西日が当たったよ 東北良いとこ 一度はおいで ネエちゃんきれいだ 花盛り 今回は出来るだけ五七調に整え、しかも「物語性」を出して見たのですが、出来栄えはどうだべ? なお、明日はバス旅行のため朝から出かけ、帰宅は夜遅くなります。行き先は ヒ・ミ・ツ
2012.05.04
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黒南風やまなこ潰えて二十年 湧川新一 作者は一体どんな人生を歩んで来たのだろう。目が見えなって早や20年。この間の苦労は並大抵ではなかったと思う。家族の思いも複雑だったはず。だが、目が見えなくなったことで、逆に見えて来たこともあったと思う。皆に支えられてここまで生きて来た。その20年の感慨が胸に蘇る。 黒南風(くろばえ)は梅雨のころに吹く南風。南風は「はえ」と読むが、沖縄では訛って「べー」と発音する。じっとりと湿り気を帯びた風が体にまとわりつく沖縄の梅雨。赴任した当時は、あまりの蒸し暑さに驚いた。4月だと言うのにバスには既に冷房が入っていた。 上司が関西出身の「いらち」(短気者)で、私は連日彼の部屋に呼ばれ、怒られてばかりいた。東北人にとって関西人は気持ちが通じない人種だと感じたが、今になって考えれば、彼も実績を上げるために必死だったのだろう。晴れない気持ち。そして鬱陶しい沖縄の梅雨。その重苦しさが20年ぶりに私に「詩」を書かせてくれた。 結局私は3年間を沖縄で過ごした。最初の2年は家族5人で。そして最後の1年は高校3年の長男と一緒に。この間クーラーはなく、扇風機だけで我慢。妻や長女がいた2年間は、アパートが1階で物騒なため、網戸にすらしなかった。ひたすら我慢をし、大汗をかきながら寝ていたのだ。あの寝苦しい夜が忘れられない。 内地とはまったく違う植物群。それに沖縄は歴史も文化も日本とは違う独自の世界だった。冷涼な土地に生まれた東北人にとっては厳しい3年間だったが、私は今でも沖縄に赴任したことに感謝している。 驚くべき経験も今は懐かしい思い出。私が沖縄に惹かれるのは、かつての東北同様に貧しかったからだと思う。だが、貧しさは同時に豊かさでもある。旅人をもてなす篤い人情が沖縄には残っていたのだ。 あれから沖縄関係のHPを幾つか見た。美しい観光写真、ある島の果樹園、子育て中の沖縄人(うちなんちゅ)などだった。だが、いずれもやがて観るのを止めた。どこか物足らなかったためだ。そして沖縄本島を自分の脚で1周することを思いついた。 1年目は西海岸沿いの140kmを3日間で。2年目は東海岸の150kmを2日間で。そして3年目の昨年は知念半島1周32kmとNAHAマラソン42kmを2日間で。今年は最後に残った本部半島1周50kmを走る予定だが、東日本大震災後体調を崩したまま。果たして実行出来るかどうかはまだ分からない。 私のお気に入りのブログの1つが「らんふぉにっき」。これは沖縄赴任時の走友であるらんふぉさんが、自慢の写真を毎日のように更新しているもの。美しく、珍しい沖縄の写真が満載され、私にとっては天国みたいな存在だ。それに同じランナーとして共感出来ることも多い。 そして私の部屋を飾っているのが沖縄出身の版画家、名嘉睦稔(なか・ぼくねん)の版画。いかにも南国らしい色合いの版画が疲れた心を癒し、懐かしい南島の風景を思い出させてくれる。12回に亘って記したこのシリーズも今日が最終回。面白くもない企画に付き合って下さった読者に心から感謝したい。<完>
2011.07.03
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パスポート笈底深く復帰の日 志多伯得壽 沖縄の歴史を返り見る時、7つの時代に区分する考えがある。「原始沖縄世」(うちなーゆー)は沖縄本島各地にグスク(城)を拠点とした権力者が現れる1100年代まで。「古代沖縄世」は江戸時代初頭の薩摩藩による琉球侵攻(1609年)以前まで。 薩摩世(さつまゆー)は明治初頭の廃藩置県まで。薩摩藩の侵攻以降、琉球は中国の冊封体制下にありながら実質上は薩摩藩の支配を受け、二重帰属となる。大和世(やまとゆー)は廃藩置県から1931年の満州事変まで。琉球王国は沖縄県として日本の一部に繰り込まれた。 戦世(いくさゆー)は1945年の太平洋戦争終結まで。ご存知の通り、沖縄は日本で唯一地上戦があった土地。アメリカの軍艦が沖縄の海を封鎖し、艦砲射撃の凄さは大変なもので15万人近い死者が出た。今でも工事の度に地中から不発弾が見つかるほど。 戦後は米軍及び米国民政府の支配下となる。これがアメリカ世(アメリカゆー)。太平洋戦争の最中からアメリカは沖縄の研究を進めて各集落の人口や言葉などを調べ尽くし、占領後の政策を練っていたそうだ。一方日本は高層気流に乗せて風船爆弾をアメリカ本土へ落とそうとしていた。それだけ軍備や情報量が違っていれば勝てるわけがない。 アメリカの占領下で沖縄は復興する。戦争で焼け野が原になった那覇市の国際通りは「奇跡の1マイル」と呼ばれたほど。だが、土地を米軍の基地として接収されるなどのため住民の不満は日増しに増大した。同じ米軍の占領下にあった鹿児島県の奄美群島は、一足早く1953年までにすべて日本政府に返還された。 それまでの間、日本に渡るにはパスポートが必要だった。奄美出身の横綱、初代朝汐太郎はパスポートが無いために、船で密入国し相撲取りになった話は有名。沖縄の日本復帰はそれから19年後。住民の喜びはいかほどだったろう。これで日本へ行くにもパスポートは不要。そのパスポートを笈(おい=木製の入れ物)の底深くしまったのが1972(昭和47)年5月15日だった。 私が沖縄に赴任したのは復帰後17年目。色んな面で「内地」の指導を受け、仕事の進め方もまだぎこちなかった。バイクの保険変更手続きに行ったら、保険料を返還してくれた。貧しい沖縄は税制でも優遇されていたのだ。 あの当時の沖縄は失業率、離婚率、犯罪数がとてつもなく高く、高校生が盗んだ車を無免許で飲酒運転し、死亡するニュースを良く耳にした。日本復帰後、今年で39年。果たして沖縄はどれだけ豊かになったのだろう。
2011.07.02
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豆打ちは乳の揺れ芭蕉布に委(まか)す 矢野野暮 何とダイナミックな動きなのだろう。梅雨が明ける5月から6月が沖縄での大豆の収穫期。蓆(むしろ)の上に干した大豆の枝を手に取り、一心不乱に棒で叩いているおばあ。莢(さや)からバラバラと大豆がこぼれる。激しい動きで芭蕉布(ばしょうふ)の着ものがはだけ、おっぱいが揺れる。 芭蕉布はイトバショウの繊維を織って作る。一反の布を織るのに必要な芭蕉は200本。野生のイトバショウは繊維が堅いため、すべて栽培で育てるようだ。切った芭蕉の皮を1枚ずつ剥ぎ、繊維を取り出す。全てが人の手による作業で、200本の芭蕉から糸を取り出すまでに20人で数日間かかるそうだ。 芭蕉の繊維はとても弱く、その糸を1本ずつ結ぶ作業は面倒らしい。また1反の反物を織り上げるには4カ月を要する由。芭蕉布はとても軽くて涼しい夏向きの布。琉球王朝時代は貴族も農民もこの芭蕉布の着ものを着ていた。王府には王宮が管理する芭蕉園があったし、庶民はイトバショウを植えるための家庭菜園を持っていた由。 イトバショウの栽培期間は3年間。繊維は内側ほど良質のものが取れるようだ。貴族や士族が着る上等のものは、「かせ」の段階で灰による精練を施すが、庶民用の物は布の状態で精練するようだ。現在では作り手も少なく高級品になっている。沖縄本島北部の大宜味村(おおぎみそん)喜如嘉(きじょか)集落が「芭蕉布の里」として有名。 大宜味村は日本一の長命の村としても有名だった。村の男は腕の立つ船大工が多く、他の地方へ出稼ぎに行っていた。村に残った女の人が始めたのが芭蕉布の織りものだった由。戦後は米軍によってイトバショウが伐採される悲劇が起きた。蚊の発生を防ぐのがその理由だったようだ。これを復活させたのが2000年に人間国宝の指定を受けた平良敏子さんだった。 3年前の7月。私は沖縄本島単独一周を目指す旅に出た。その3日目に最北端の辺戸岬を出発して名護に向かった。気温は33度ほどだが路上は45度を越え、私は2度軽い熱中症に罹った。とても走ることは出来ず、国道58号線をただノロノロと歩くだけ。この喜如嘉集落で食堂を見つけ、勇んで飛び込んだ。目当ての沖縄そばは売り切れで、私は何か他のものを食べたのだが、それが何だったのか思い出せない。 ともかく冷たい水が美味しかったことは確かだ。そして食堂の外で、芭蕉が風に揺れているのがとても印象的だった。先日の会社のカラオケ大会で、私は部屋に置かれていた泡盛の古酒(クースー)をほとんど1人で飲んだ。そしておもむろにマイクを取って歌った。沖縄の歌「芭蕉布」だった。 灰で精練した糸は白くならずに薄茶色。そしてティーチ(シャリンバイ)で染めると濃い茶色。この組み合わせが一般的なのだそうだが、最近では琉球藍で染めた紺も人気なのだとか。おばあが芭蕉布を着て豆打ちをしていた時代は、もうずいぶん遠い思い出になったのではないか。
2011.07.01
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梅雨明けの碗持ち寄りて朝豆腐 翁長 悠 古い沖縄の絵図を見ると、頭の上に「たらい」を載せた女の人が歩いているのがある。これは物売りの姿。「ムムウイアンガー」と言うのは桃売り小母さんの意。ただし桃と言っても本土の桃ではなくヤマモモのこと。魚を売って歩く小母さんもいるが、暑い沖縄では直ぐに鮮度が落ちてしまうため、魚も油で揚げることが多い。 鮮度の良い魚は「イマイウ」と言う。「イマ」は獲れ立てで「イウ」は魚。「さしみ」と端的な看板もたまに見かける。刺身に出来るほど鮮度の良い魚と言う意味だ。さて句の豆腐は朝に売りに来たもの。それをお碗を持って買いに行く風景だ。戦後の日本では、自転車に乗った豆腐売りがラッパを鳴らして売りに来た。そのラッパが、まるで「トーフ」と聞こえるような音だった。 私達が豆腐売りから買ったのは木綿豆腐。これは結構堅いものだ。ところが沖縄でお碗を持って買ったのは「ゆし豆腐」だと思う。豆乳が熱いうちに「にがり」を加えるとプリン状に固まる。これを水に曝さず、直接容器に掬い上げたものが「寄せ豆腐」。「ゆし」は「寄せ」が訛ったもので、とても軟らかい。 昔はにがりの代わりに海水を使ったそうだ。今でもまれに海水で作った豆腐の話を聞く。私が沖縄に赴任したのは平成元年だが、スーパーでビニール袋に入ったブヨブヨの豆腐を見た時はビックリしたものだ。それが「ゆし豆腐」との出会いだった。ゆし豆腐はそのまま醤油をかけて食べても美味しいし、味噌汁に入れても美味しい。 一方「島豆腐」と呼ばれる堅い豆腐もある。過重と時間をかけて含水量を減らすために堅くなるのだが、沖縄では水に曝さずに暖かい状態で売ることが多い。こちらは沖縄料理の定番である「ゴーヤチャンプルー」には欠かせない素材。堅い豆腐の仲間には荒縄で縛れるほどのものもあるようだが、私はまだそんな堅い豆腐に出会ったことはない。 沖縄で大豆が収穫されるのは5月か6月。その新しい大豆を使って作る新豆腐が梅雨明けごろには出回る。そんな賑やかな朝の風景が句から伝わって来る。さて、豆腐が原料の沖縄名産をご存知だろうか。豆腐を発酵させて作る「豆腐よう」がそれ。まるでチーズのような味をした珍味。何故豆腐があんな風になるのかとても不思議だが、泡盛には良く合う一品。まさに沖縄食文化の代表格だ。
2011.06.30
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天日へ巨花ひらき立つ火炎木 小熊一人 火炎木(カエンボク)はノウゼンカズラ科カエンボク属の高木で、西アフリカ原産の木。燃えるようなオレンジの花を開くようだ。花の直径は10cmもあるそうで、まさに巨花。英語名はアフリカンチューリップツリー。西洋人には花がチューリップのように見えるのだろう 太陽のことを沖縄では「てぃーだ」と言う。これは「天道」が訛ったもの。「てんとう」はあまり内地では使わないが、「おてんとさん」の言葉は残っている。「てぃーだ」が変化して「てだこ」とも言う。遥か西の空に没しても、翌日には再び東の海から顔を出す太陽は復活の象徴。王の別称でもあった。 その太陽と競い合って咲くのだから、火炎木には相当の勢いがあるのだろう。樹高20mの木に花が咲けばかなりの壮観。花が咲き終えるとオクラのようなさやの中に、まるで薄いセロファンのような種が出来るみたい。 厄介なことに日本で「火炎木」と誤解されているのが鳳凰木(ホウオウボク)とか。こちらはアフリカのマダガスカル島原産で、ジャケツイバラ科の高木。樹高は10mから15mほどのようだ。英語名はフレームツリー。まさに炎の木だ。火炎木の花と同じように濃いオレンジ色の花だが、花弁が裂けてやや疎らなのが異なる。 だが沖縄で火炎木や鳳凰木よりももっと親しまれているのがデイゴ。歌にもなっているくらいだから、一度は名前を聞いたことがあるはず。同じようにオレンジ色の花を咲かせるが、花が見事に咲いた年は台風の当たり年との俗説がある。沖縄県の県花。マメ科デイゴ属の落葉高木で、漢字で書くと梯梧。 こちらはインドやマレー半島が原産地。沖縄では「やしきこーさー」と呼ばれているそうだ。屋敷は家。「こーさー」は「壊すもの」の意味。つまり頑丈なデイゴの根が家の土台を壊すのが由来のようだ。軟らかく加工し易い木は「琉球漆器」の材料になるし、燃やした灰はかつて「沖縄そば」の粉に混ぜて中和した。そんな本格的な沖縄そばも今では少なくなったようだ。 さて12月の「NAHAマラソン」の頃に咲くのがインドトックリワタノキの花。これはきれいなピンク色。「トックリ」がつくのは、幹が徳利のように丸く膨らんでいるためで、他にも「トックリヤシ」などがある。幹や枝には棘がある。 一方2月の「おきなわマラソン」の頃に見られるのが「カンヒザクラ」(寒緋桜)。これは台湾原産で濃いピンクの花だ。本来は「ヒカンザクラ」(緋寒桜)なのだが、彼岸桜と音が似ているため、区別するために寒緋桜とした由。花は約1ヶ月間ほど散りもしないで下を向いて咲き続ける。その辛抱強さは、一体誰に似たのだろう。
2011.06.29
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荒梅雨や里を護りて石敢当 川上雄善 梅雨の真っ最中。雨が激しく降っている村里。その路地の「石敢当」があたかも村を護るように立っている。 沖縄の本来の宗教が「原始神道」だったことは前にも記した。小高い嶺、暗い洞穴、大きな岩や樹木、そして泉水や古いグスクなどが信仰の対象になった。山の上から海に向かって祈る老婆の姿を観た時は驚きだった。海の彼方には「ニライカナイ」と言う極楽浄土があると沖縄の人は考えていた。 沖縄本島の北にある伊是名島を訪ねた時、静謐なわら小屋を見つけた。これは「神アシャギ」と呼ばれる家。神足上げ=つまり神様が立ち寄る神聖な家なのだ。もちろん伊勢神宮のような大きさもなく、ごく粗末な造りだがその神々しさは驚くばかり。また拝所(うがんじゅ)や御嶽(うたき)のような祈りを捧げる神聖な場所には、必ず香炉が置かれている。 そこに供える御香(うこー)は日本の線香とは違って強い香りもしなければ、火もつけない。お神酒代わりになるのが泡盛。首里城の守礼門の近くに園比屋武御嶽(そのびやんうたき)があるが、これは旅立ちの時に無事を祈る場所で、近寄ると強い泡盛の匂いがする。 仏教が沖縄に伝わったのは1300年代と遅く、それも王や貴族など上流階級のもので、庶民には馴染みが薄かった。それでも清明祭(うしーみー)=春の彼岸には墓前に親戚一同が集ってご馳走を食べる風習がある。各家庭では火の神(ひぬかん)を祀るのが一般的だったようだ。 琉球王国が中国の冊封体制下に入ると、文化や宗教も中国の影響を強く受ける。久米村(現在の那覇市久米)には中国人の居住区があった。彼らは貿易船に乗り組み通訳をした。当時の中国は遥かアラビア半島まで航海していたのだ。久米の中国人はやがて琉球に帰化するが、孔子廟などは子孫にも伝わった。 句中の石敢当(沖縄では「いしがんどう」、鹿児島では「せきかんとう」)も中国の風習。魔物(まじむん)が棲む三叉路やT字路の突き当たりには、魔除けのために「石敢当」と彫った石碑や石板を置いた。「石敢当」は後漢時代の武将の名前と言われている。強い武将の名前で魔除けをするという考えだ。これは福建省の風習だ。 中国には聖地泰山の頂上にも「泰山石敢当」の石碑があるようだ。最も古い石敢当は父母の冥福を祈るもので、虎の姿を模した石敢当もある由。把竜船(ドラゴンボート)の競漕など中国から伝わった文化や食べ物も多く、琉球王国から中国へ向かう使者は、中国風の名を別に持っていた。因みに私が沖縄に行った際に立ち寄る居酒屋の名前も「石敢当」だ。
2011.06.28
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月橘の香れる闇の仄白き 山田静水 沖縄に行って驚くことは多いが、植物の多様性もその一つだろう。亜熱帯の島だから本土と植生が違うのは当然なのだが、那覇空港に降り立ち艶やかなランの歓迎を受けた時から「異国」に来たことを感じる。そして空港ビルの外に出ると、沖縄独特の匂いが風に乗って届く。「ああ沖縄に来たな」と思う瞬間だ。 バスの車中でもモノレールでも、いかにも南国らしい樹木が目に飛び込んで来る。ワシントンヤシ、ソテツ、ガジュマル、モクマオウ、ナンヨウスギ、クロトンなどがそれ。そして住宅街などを歩けばゴムの木、タマモモ、フクギなどが植えられ、ハイビスカスやブーゲンビレアなどの花々が四季を通じて咲き乱れている。 樹木の大きさや形にも驚く。ガジュマルはイチジクの仲間だが、「気根」と呼ばれるヒゲを垂らしている。これが地上に達すると直ぐに太くなり、今度は「支柱根」となって台風でも倒れないほどの頑丈な支えとなる。名護のヒンプンガジュマルには「キジムナー」が棲むとの伝説がある。小人の妖精だ。シダも内地と違って巨大。ヘゴシダはまるで植木のようだ。 柑橘類も内地のものとは違う。シークワーサーは「ひらみレモン」の別名を持つが、小型のミカンみたいで、ミカンの原種に近いのではないか。このジュースが格別に美味しい。見かけは悪いが食べて美味しいのがタンカンで、オレンジよりも甘い。皮が堅い「カーブチャー」と言うのもあるが、これは「皮を剥いて食べるもの」の意味か。 月橘(ゲッキツ)はその柑橘類の仲間で、果実は1cmほどの小さなものらしい。そして色はオレンジ色ではなく赤で、もちろん食用になる。英語名はオレンジジャスミンまたはシルクジャスミン。その名の通りジャスミンに良く似た香りを放つ由。不思議なことに月夜には特に香りが強まるとか。月の光を浴びて咲く月橘。白い花から放たれる強い香りは、周囲の暗闇へと広がって行く。 沖縄のお茶も一風変わっている。サンピン茶はジャスミンティーのことで、非常に爽やかな味がするお茶。バンシルー茶はグァバティーのことで、体に良い薬のような味。それらも庭の一角に植えられており、句中の月橘もきっと生け垣になってるのだと思う。月の夜に良い香りに魅かれてそぞろ歩くのも一興。南国の夜は闇までも甘い。
2011.06.27
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赤髭の降立つ庭に海の月 比嘉朝進 沖縄本島の北部はヤンバルと呼ばれる。漢字で書くと山原。ここには沖縄本島最高峰の与那覇岳(503m)などの山が連なり、鬱蒼とした森が広がる。豊かな大自然の中では貴重な動物達が暮らしている。セマルハコガメ、ヤンバルテナガコガネ、飛べない鳥で有名なヤンバルクイナなどだ。 今から20年前の沖縄在住の頃、ヤンバル路を車で通ったことがあった。ほとんど行き交う車もない淋しい道だった。だが、その山に好んで入って研究を続ける人がいることに驚いた。それも本土出身の若い人で、身分の安定しない非常勤職員。山の中にはハブが多く、咬まれたら30分以内に血清を打たないと死んでしまうのだが、もちろん近くに病院などは存在しない。 一昨年の11月、私はヤンバルの東海岸を走った。沖縄本島を単独で一周する計画の一部だった。辺戸岬をスタートして間もなく、奥集落付近の道路でハブの死骸を見つけてビックリ。夜行性のハブが11月でも道路に出ることを知った。月の無い真っ暗な道で、懐中電灯だけが頼り。道路の黒いヒビがハブに見えて、思わず飛び跳ねたのも良い思い出だ。 句の赤髭は、スズメ目ツグミ科コマドリ属の小鳥。「赤い毛」が変化し「赤ひげ」になった由。渓流の周辺を好み、昆虫やミミズを捕食するようだ。海から登った月が庭を照らしている。そこへ1匹のアカヒゲが飛来し、「ピュルルピュルル」と美しい声で鳴いた。まるでアンリ・ルソーの絵を観るような光景。物語の世界だ。 琉球王朝時代、ヤンバルの森から取った薪は山原船で那覇港や王府の首里に運ばれた。山原船は外洋を航海する構造を持たない帆船。首里城の修復などにはヤンバルで伐採した大木を使用したようで、木を曳いた「クンジャンサバクイ」(国頭捌理)の儀式が今も残されている。 そのヤンバルも私が勤務した20年前に比べれば格段に道路事情が良くなり、行き交う車の数が増えていた。そして東海岸にも巨大なリゾートホテルが出来、本土からの移住者がいることに驚いた。今ヤンバルの森には、飛べない鳥ヤンバルクイナをマングースなどから保護するため、数多くの「わな」が仕掛けられている。
2011.06.26
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若夏の風ふところに王の墓 山城青尚 先祖が眠るお墓を、沖縄では特に大事にする。沖縄の墓の起源が風葬墓だったことは前にも記した。それが高温高湿の風土に一番適していたからだ。かつて沖縄で集落を新たに作る場合は、風水思想に基づいて場所を選んだ。沖縄の言葉で「ふんし」と呼ぶ。これは墓も全く同様。それだけ重要な意味を持っていたのだ。 先祖が眠る墓は、暮らしの直ぐ傍にあった。大勢の先祖は、子孫の繁栄と安寧を守ってくれる存在。琉球王国が中国の冊封体制下に組み込まれると、中国の墓制が伝わる。福建省に多い亀甲墓がそれ。巨大な石造りの亀甲墓は母の胎内を意味し、死後人は母の胎内に帰ると言う考えのようだ。 句中の王墓は首里城の近くにある玉陵(国史跡、重要文化財、世界文化遺産指定)のこと。文字通り玉のように立派な陵で、「tamaーudun」のように発音する。udunは御殿で、王の死後の住まい。王の墓も王城の直ぐ傍に在って、王国を護る存在だったのだろう。玉陵は巨大な石造で、家のような形をした破風墓。正確ではないが幅は30m、奥行き10m、高さも5mほどはあると思う。ここは琉球第二王朝の墓で、基本的には王と王妃が葬られた。 最初の王都である浦添には浦添城があるが、北面の崖下に「浦添ようどれ」と呼ばれる風葬墓があり、ここに初期の王達が眠っている。また、浦添以前の王統は旧佐敷町の城に居住していたが、その背後に「佐敷ようどれ」と呼ばれる王家の風葬墓があった。こうして見ると、沖縄の城は単なる政治の場所でなく、祭祀、宗教と不可分の関係にあったことが分かる。「ようどれ」は本来夕凪のことだが、「静謐な地」を意味するのだろう。 若夏は「うりずん」の後、4月末から5月初めの頃を言う。昭和47年5月15日、沖縄は日本に返還された。その翌年に沖縄を会場にして特別に開催されたのが「若夏国体」。この時は天皇杯も皇后杯も無かったようだ。 若夏の湿った風に包まれて、巨大な王墓が静まり返っている。広く東南アジアにまで貿易船を繰り出した琉球王朝当時の栄華は既に夢と消えた。今は一つの県として日本の最南端に位置し、防衛の最先端にある沖縄。その姿をかつての王や王妃達はどんな風に見ているのだろう。そして玉陵の屋根に鎮座するシーサー(獅子)は、今何から王を護るのだろう。 慶長14年(1609年)島津藩の侵攻によってその支配下に屈した尚寧王は、生涯そのことを恥じ、代々の王が眠るこの玉陵に葬られることを拒んだ。清浄のため玉陵の庭に敷き詰められたサンゴの破片。そして墓陵の一角に茂るガジュマルは、王と王国の誇りを知っている。
2011.06.25
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赤屋根の廂の深し花福木 山城光恵 青い海に映える赤瓦の沖縄の家。その家の廂(ひさし)はやけに深い。そして屋敷を取り囲む福木(フクギ)の木。季節は初夏。フクギは薄黄色の花を枝いっぱいに広げている。こんなのどかな風景がかつての沖縄ではどこでも見られた。今は離島か、よほどの田舎でしか観られなくなった。 沖縄の土は赤いものが多い。石灰に含まれる炭酸カルシウムが溶け出し、後に残った鉄分などが酸化して、赤茶色の土になるのだ。テラロッサはイタリア語で赤い土の意味。養分はあまりなく、沖縄本島北部ではパイナップルなどを栽培している。この土が赤瓦の原料。首里城の正殿もこの瓦で葺いてある。 沖縄は台風が多いところ。猛烈な風に耐えられるよう、赤瓦を白い漆喰で固める。その赤と白のバランスが絶妙。だが、かつての民家では瓦は使えなかった。藁葺き屋根に石を載せて抑え、強風に備えた。同じように強風で苦しんだ韓国の済州島でも、そんな家が多かったようだ。 沖縄では風だけでなく日差しも強い。その強い風雨と日光を遮るため、家々は「あまはじ」と呼ばれる深い廂を持っていた。文字通り「雨をはじく」のだろう。台風の時は雨戸を閉め、「ソーメンチャンプルー」などを食べながら通過するまでじっと耐えていたようだ。大家族で暮らす沖縄には、生活上の色んな工夫があったのだ。 フクギは熱帯性の常緑高木で真っ直ぐに生え、太く丈夫な幹を持つ。また葉が密集し、風害や塩害にも強い。このため屋敷林として植えるのに最適の木なのだ。またフクギは「幸福を呼ぶ木」で火にも強く、奄美では「火事場木」の異名を持っている。 雌雄異株で、花は1.5cmほど。秋には直径3cmほどの黄色い実が実る。木はマンゴーの仲間で、まるでミカンのような実だが食用にはならず、オオコウモリの餌。だが樹皮からは黄色い染料が採れ、沖縄の有名な染色である「紅型」に使われる。まさに「幸福を呼ぶ木」だ。沖縄本島では、本部町備瀬集落の屋敷林、国頭村謝敷集落のフクギ並木が有名。
2011.06.24
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