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しかしながら過去に何人もの人たちがそれに立ち向かった。「もう無理」だからあきらめるのではなく、無理かもしれないがまず1人が立ち上がることの意義が彼ら彼女らを突き動かした。そんな人たちでも、中には最初の志を忘れて県局自分の欲に走ってしまうことも少なくなかった。一方、初心を貫こうとした人たちは結局救いたい人たちに足元をすくわれてしまったり、一見志を同じくする仲間かのように近づいてきた人たちの欲と戦うことに終始したりしてきた。また中には変人として忌み嫌われた結果、世捨て人となってしまうこともあった。この経緯を知れば知るほど人間というものは心底救いがたい存在と言わざるを得ない。
2020.07.30
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ではこの2020年の世に今一度釈迦の教えを学んで実践したらどうかとも考える。しかし既に釈迦は明言している。釈迦の死後、その教えが世の中で正しくおこなわれて釈迦と同じ悟りを開く人がいる時代を『正法(しょうほう)』といい、次の時代は『像法(ぞうほう)』といって教えを学んでも外見だけが修行者に見えるだけで悟りを開くことがない人ばかりになる。そして最後にくる時代が『末法(まっぽう)』で、釈迦の教えを学ぶ人もいなくなり世の中も人心も最悪の状態になると・・・。そしてこの世は西暦1052年に末法に入っているとされている。「もうあかんやん!」 と感じてしまうが、釈迦は末法時代を生きる我々にも状況打開の策を残してはいてくれている。でもそれを知ったことろで、私の感想は「もうあかんやん!」なのだ。
2020.07.29
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そのポイントはスバリ生き方だ。だれかのために何かをしたか!である。何かの道を究めようとした、または究めた場合は、その成果をだれのために行使できたか!である。自分のためとなるとそこに執着がうまれる・・・ということだ。そのような生き方を貫くことを「仏道を究める」ともいう。そして仏道を究めようとする心を「求道心」という。高校生の皆さんは古文で「仏道」という言葉に触れることが多いと思うが、これがその意味だ。様々な人物がこれに関して「仏道を究めるには人生はあまりに短すぎる」と表現している。しかし「誰かのために」と行動する場合、そこに本当に執着はないのだろうかと考えることがよくある。おそらく少しでも見返りを求めると、そこに執着がうまれるだろう。では「誰かのために」と思うこと自体を執着と考えることはできないかとも思う。が、仏教でいいう執着とは「自分のため」がないことを意味するようなのでこれは除外される。人類全員がこの境地に達した生き方をすることができれば、あるいはこの世から貧困や格差をなくすことができるのかもしれない。
2020.07.28
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この問題の究極をその昔釈迦が言葉にした。「執着を捨てよ」である。執着があるから欲がでる。欲が出るから多くを求める。多くを求めるから皆に行き渡らない。多くを求めるから嫉妬がうまれ諍(いさか)いが起きる。・・・といったことらしい。この釈迦の言葉を鎌倉時代のある僧が別の表現で人々に伝えた。「生も歓喜、死も歓喜」生まれることに歓喜する。これは納得できる。しかし死ぬことに歓喜できるのだろうか?この言葉には様々な深い意味が込められているのだが、執着という観点から考えると、肉体にも命にも執着しないことを意味している。だからといってもちろん生まれてきたことを否定するわけでも、生きていることを否定するわけでもない。人として生まれることは嬉しいことを通り越して奇跡的な確率であることを述べる。そして死が訪れた時に歓喜できる方法まで説いている。
2020.07.27
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二十数年前にある高校で使っていた英語の教科書には、地球上の全員の人々が現在の富裕層と同じ生活をしようとするならば、地球規模の惑星が16個必要だと記載されていた。この教科書のいう富裕層や地球規模の定義はよくわからないが、それにしても地球人の全員が富裕層になろうとすることは物理的に不可能なのだ。地球を16個用意することができれば話は別であるが・・・。それでは地球上にあるあらゆる資源を75億等分して、地球人全員に渡すことだできれが貧困はなくなるのだろうか?おろらく答えはNoであろう。もちろん満足する人も多いでろうが全員ではない。そこにはやはり『足るを知る』ことが必要だとはだれでも思うことだ。しかしながらこれがまた難しいのかもしれない。
2020.07.26
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そして昨年あたりから国連がSDGsとか言い出した。「持続可能な開発目標」ということで、あらゆる国・企業・団体・個人が取り入れるべき概念らしい。今挙げられているのは17項目であるが、そのいくつかが貧困をなくすことを目標としている。そして達成目標は2030年ということだ。その前に2001年に国連で採択されたMDGsで達成できなかった項目も含まれている。個人~団体~企業まではそれらを取り入れることは可能だとは思う。しかし国家となれば話は別であろう。ある国家が別の国とつきあうことをざっくりと外交という。外交の目的は自国の利益を守ろことらしい。ってことは国がある限り貧困をなくすことは不可能だと言い切れる。外交の概念、国家の概念の変革がまず求められるのかもしれない。
2020.07.25
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これら貧困の問題は経済というシステムを導入して以来我々人類の大きな問題であり、解決に向かているどころか年々その差は確実に拡大している。元々どんな経済システムでも、必ず一局集中してしまう富をいかに平等に分配するかをテーマにしてきたのに、いつの間にかそれらはうやむやにされてしまって一部のセレブ層の人間だけがいい思いをする世界が確定されている。宗教にしたってそうだ。元々、特に西欧の宗教は金儲けをすることを悪とした。なので彼らにとって仕事をすることは罰であったのだ。まず神を定義したユダヤ教、そのユダヤ教から派生したキリスト教、そしてそのキリスト教から派生したユダヤ教、、、すべてそうだったはずだ。なにのいつの間にかそれらはうやむやにされてしまって同じく一部のセレブ層の人間だけがいい思いをする世界が厳然と君臨してしまっている。セレブ層の宗教家たちが「貧しい人たちのためにお祈りいたましょう。」なんて言い出すことがこの上なく滑稽に感じているのは私だけではないと思う。祈りはささげても、自分がしこたまため込んでいるお金は1ドルだってささげないのだから、そりゃ神様たちも呆れかえっていることだろう。
2020.07.24
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この2つの限度が私の物欲というか収拾欲にブレーキをかけてくれる。ときおり私は考える・・・もしこれらの限度から解放されたとき私はどうなるのだろうと。考えれば考えるほど、そこに待っているのはパラダイス以外の何物でもないことを確信する。もちろんこれらの限度は基本的にだれにでも存在するのだが、その許容量は個人個人で異なる。全世界の人口は現在75億人と言われている。世界にあるお金を100とすると約360人の超セレブと言われる人たちが99を持っているらしい。残りの1を75億人で分けているのが世界の現状だといわれている。そしてその中でも絶対的貧困層と言われる人たちが約20億人といわれる。この人たちは1日190円以下での生活を余儀なくされている人と定義されている。おそらくエンゲル係数は100%に近いのだろう。
2020.07.23
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『足るを知る』という言葉がある。この歳になってこの言葉の含蓄深さをより鮮明に感じ出した。ということは私は足るを知らない人生を歩んできたことの証でもある。そんな私を救って来てくれたもののひとつは限度である。ほしうものがあっても限度がある。私的には金銭的限度と空間的限度だ。金銭的限度は説明するまでもないかと思う。ほしいものがあっても財布が許さないのだ。ひとりで2つの仕事をかけもっている私であるが、どちらも大々的に宣伝をしているわけでもなく、ひとりでできる限度があるので収入は不安定だ。ときには130円の缶コーヒーも我慢しなければならない時期だって結構ある。そして空間的限度だ。簡単に言えば置き場所の問題である。
2020.07.22
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・・・こんなことばかり考えているので、今日も私の断捨離は全くもって進まない。
2020.07.21
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それにしても自分で言い出した私が言うのも何だが「負け犬」もそうであるが、犬を用いた慣用句にはあまりいい意味があるものは見当たらないのはなぜだろう。「犬も歩けば棒にあたる」「犬に論語」「犬も食わない」「犬が西向きゃ尾は東」「犬の遠吠え」等々、、、ほかの動物でもあまりいい意味の慣用句に用いられない動物も確かにいるが、犬は人間にとって最も身近な動物のひとつとされているのに、なんでだろうと思う。特に「犬死に」はひどい!意味は「結局は何の役にも立たず、名誉にもならない死に方」といったところである。犬の死に方はみんなそうなん?はなはだ疑問である。忠犬ハチ公の死をだれも無駄死にとは言わない。しかしすでにこの世を去った主人を夕方になると渋谷の駅まで迎えに行ったその行動は、ある意味無駄だったと断言できるのかもしれない。
2020.07.20
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そして何よりこのような負け犬を処分せずに家に置いている家庭の最大の共通点は、、、なんと!空き巣に入られたことがある!!という点だ。もちろん負け犬を飼う前ではない。飼ってからだ。あれほど自分に危害を加えない近隣住民、郵便や荷物の配達人、挙句飼い主に命がけで狂ったように吠えまくるあの犬が、、、泥棒には全く吠えないのだ。これは私の近所でいうともう100%の確率だ!!100%でっせ100%!!!これぞ負け犬中の負け犬。負け犬の鏡。それでもまだ人の良い飼い主は、「こないだうちに空き巣が入ったんですよ。犬も全く吠えなかったから家族のだれも気づかなくて・・・」なんて言ってくれることもある。しかし自分か飼っている犬との付き合いもしない人のほとんどは近所の付き合いもしない。そんな家庭になぜか昼間パトカーがサイレンんを鳴らさずにやってきて、2~3時間ほど家の前に止まっていた数日後にいきなり民間警備会社のシールが門に貼られたり、防犯カメラやセンサー付きのライトなんかを設置したらもうビンゴである。
2020.07.19
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まあアホ飼い主=負け飼い主なので、飼われている犬が負け犬になるのは仕方ないのかもしれない。ある意味犬は被害者側だともいえるだろう。そしてこれらの飼い主の特徴で両極端に性質が分かれるのは、犬の外見に関する対処である。まあ散歩にも連れていかないほど興味がないのだから、ドロドロ・グシャグシャで犬種によっては汚い毛が伸び放題!その中には庭での排せつ物の処理もしていないので、毛にそれらが長年こびりついて装甲車みたいになっている犬もいる。もう一方は、トリミングだけには連れていくのでいつもしっかりカットされて、中にはブリーチとかいってわけのわからない色に染められている犬もいる。対処法は両極端ではあるが、犬を動物、あるいは命として認識していないで、アクセサリーやおもちゃくらいにしか思っていないことでは共通点を見出すことができる。
2020.07.18
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ふと我に返る。「いかんいかん!要るモノのことを考えていたら長考に入って手が止まってしまう・・・」そう思い、要らないモノの選別に入る。すると「人は要らないモノを処分しているのか?」との思いがふと頭をよぎる。私の近所には要らないモノを処分せずに、近隣に迷惑をかけても知らん顔の人間が多いことに気づく。『負け犬』をいつまでも飼う連中だ!処分することも状況を改善することもないではないか。ここで私が言う『負け犬』とは、飼い犬なのに飼い犬の体(てい)をなしていない犬だ。そんな『負け犬』には共通点ある。まずは犬種が特定できる、ペットショップで売っている犬だ。金がかかっている。次は大半が小型犬、残りは中型犬だ。大型犬と雑種は該当しない。そしてその飼い主は犬をつかまえて「うちの子」なんていう。最後は全然広くない庭に放し飼いにしていて「うちの子はいつも庭で運動をしているから散歩の必要はないざます。」とアホ飼い主が思い込んでいる。なので犬は運動不足で一日中無駄吠えをする。そして間違いなく自分に危害を及ばさばいと確信した人間には命がけで吠える。裏返った声で吠える。郵便や荷物の配達人、、、そして飼い主に命がけで吠える。飼い主はアホなのでそれに対処できない。しつけができない。我々近隣の人間には要らないどころか迷惑で仕方ない。中にはなんとかしてほしいと自治会に相談して、犬の無駄吠えの注意を喚起する回覧板を回しても、そんなアホ連中は自治会に入っていないので回覧板が回らない。馬鹿につける薬はない、、、馬鹿は死ななきゃ治らない、、、昔の人はよく言ったものだと感心する。
2020.07.17
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ひとしきりその名作コントの内容を思い出した後、なんとか気を取り直して手を動かす。これは要るもの、これはもう要らないもの、と仕分けをしていく。でもそれを言い出したらみんな要るものだから部屋にあるのではないか!との自問自答が始まる。でもモノを減らさないといけないのではないか!と、もうひとりの私がそれに異議を唱える。そこで再び長考に入る。そもそも人間は要るものをとっておいて、要らないものを処分するのだろうか・・・いやそんなことはないぞ。『雑草魂』なんて言葉がある。私が子供のころの一時期はやった言葉で大人がよく我々子供に偉そうに語るシーンをたくさん体験した。大人たちが言うには「踏まれても叩かれても負けない雑草のような根性を持て!」なんて意味らしかった。この『雑草魂』は我々人間が生きていく上でかなり重要なようだった。しかしながら雑草を重要視している人には出会ったことはない。ということは、あくまで雑草の魂が重要であって、雑草自体は重要ではないということか・・・しかも『踏まれても叩かれても』というが、雑草を踏むことはあっても叩くことなんてあるのだろうか?というかそもそも雑草に魂は存在するのだろうか?仮に存在するとして、踏まれても叩かれても枯れないのは認めるが除草剤にはめっぽう弱いではないか!そもそも雑草って強いのか?考えれば考えるほど結論が出ない!
2020.07.16
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それでもなんとか大きめの段ボール箱を2個用意して、こちらは要るものでこちらは要らないものと決める!そして「いざ!」と意気込むとき・・・ふと脳裏に芸術的ともいえる過去の名作コントが思い浮かぶ。その題名は[小須田部長]!!!会社のために社長のためによかれと思ってしたことが裏目に出て左遷される小須田部長。その引っ越し作業を手伝う部下の原田。かつては社長のお気に入りだった小須田部長に代わってお気に入りになった原田は小須田の左遷先を知っている。対して小須田本人は左遷先を知らない。二人の前には段ボールが置かれていて、片方には『いるもの』、そしてもう片方には『いらないもの』と書かれている。たとえば小須田が半袖のYシャツを『いるもの』の箱に入れようとすると原田が制止して「それはいりません。」と言いながら『いらないもの』の箱にいれる。そして数秒間をおいて小須田が言う。「北だ。次は北に行くんだ。」と言う頃には原田は泣いている。そんなことが延々と続く。そしてそのコントはシリーズ化され、小須田は国内を飛び出して海外の様々な国々を転々とする。やがて国ではなく、海底だったりエベレスト山頂だったり、、、挙句には日本の領土を広げるために島として大海原に浮いて存在するなんて社命まで受ける。そして最終回は宇宙に出て、地球への衝突軌道に乗っている巨大隕石を身を挺して爆破するミッションを成功させて小須田はその命を全うする。それまではばかばかしいばかりの笑いを提供してくれていたそのコントに、最終回は心から感動させられたことをしみじみと思い出す。
2020.07.15
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保証書に書かれてある値段は4800円。当時のデジタル腕時計としては安い方だった。なぜなら私自身が店で父に遠慮して、安いのもを選んだのだった。その領収書を見るまで全く忘れていたこれらの記憶たちが鮮明に蘇った。このようにモノはときとして忘れていた記憶を呼び起こしてくれることがある。ある意味タイムマシーンなのだ。だから私は何かとモノを捨てられずに今までの人生を歩んできた。しかしここ数年はそれが変化してきた。部屋を整理したいというよりも、自分の人生の整理を始めているのだ。私も今年で54歳。あと21年で後期高齢者となる。この歳になっての21年なんてすぐに過ぎる。家族のいない私が心配するのは、私の死後のことだ。私にとって大切なモノも他人さんにとってはただのゴミに過ぎない。ただゴミとして捨てられるのは忍びない・・・だれかに処分されるくらいなら、自分で引導を渡したいと思うようになってきた。平面的なものは小まめにスキャナで取り込んでデータとして残すからとりあえず問題はない。でも立体物はそうもいかない。苦渋の決断をしなかればならないシーンに出くわす場面がこれでもかと私を苦しめる。
2020.07.14
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私の部屋は常にモノであふれている。もちろんバイク用品も多いが、それをはるかに上回るのが本とプラモデルだ。部屋に入った時の本屋と古い模型屋のにおいが混ざった独特の雰囲気が本当に好きだ。心から落ち着くと言えば月並みだが、それ以上だ。命が落ち着くと言ったほうが正確かもしれない。それに私は基本的に大切のものは捨てない。それはいいがもう半世紀以上も生きてきたので、部屋の整理や掃除をしていると思いがけないものに出会う感動がある。先日探し物をしていたとき、本の間からどこかで見たような封筒が出てきた。中を見ると腕時計の保証書が入っていた。日にちと店の住所を見て、完全に忘れていた記憶が蘇った。購入日は私の13歳の誕生日の2日後の日曜日だ。思い出した。中学1年生の誕生日に珍しく父が「何か欲しいものはないか」と聞いてきた。亡き父が私の誕生日にそんなことを聞いてきたのは小学3年生のときと、中1のときの2回だった。小3のときは野球のグローブが欲しいと言って買ってもらった。中1のときは腕時計だった。学校の比較的裕福な家庭の男子は間違いなく腕時計をしていた。当時発売されてあまり間もないデジタルの腕時計だ。別に裕福連中のマネをしかかったわけではなく、その機能が魅力的だった。アラームをセットできて、ストップウォッチ機能もあり、夜間や暗い場所ではバックライトで時間を確認することができる。しかも生活防水機能まであるのだ。
2020.07.13
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『断捨離』という言葉がいつの間にか我々の日常生活に定着してしまった。ざっくりいうと「モノを捨てること」だというが、その本義はなにやらヨガの思想が根源にあり『余分な物を減らし、生活に調和をもたらすこと』らしい。必要最小限のもので生活をする『ミニマリスト』とは限りなく似ているようで、少し違うような気もする。歴代いつの時代であっても私の部屋を知る人は、私が断捨離とは縁遠くミニマリストとは似ても似つかないことをご存じのはすである。私はとにかくものに囲まれているのが好きだ。そんな空間が限りなく落ち付く。しかしそんな私も10日ほどであるが、ミニマリスト生活をしたことがある。学生時代に一人暮らしをはじめた最初の10日間ほどの期間だ。部屋にあるものは、蛍光灯と布団とカセットデッキだけだった。私の人生であの10日ほど生きた心地のしなかった日々は無かったような気がしている。
2020.07.12
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水道管の水にしても、背後から迫るボールにしても、超人的予知あるいは感知能力で回避したのに、なんで前方の車との車間距離を認識できてないねん。絶対ちがうわ!しかもそれが他の製品のCMやったら見逃しもするわ。車やで、車!車の宣伝でこれは絶対アカンやろう。しかし・・・もしこの車の自動ブレーキシステムが完璧なものであって、運転手は前方の様子なんて知らなくて見ていなくてもオッケーって代物かもしれない。ならばこのCMは何の問題もない!!そう自分に言い聞かせて気にしないようにしてきたのだが・・・つい最近知り合いがこの車を購入した。あんまり読まない人が多いようだが、私は車やバイクの取り扱い説明書を読むのが大好きだ。その知り合いにお願いしてこの車の取説を読ませてもらった。結果・・・「自動ブレーキシステムは完全ではありません。あくまで補助的なものなので、運転者が責任をもって安全運転を心がけてください。」・・・とのことだった。やっぱり納得いかへんわ!!!
2020.07.11
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このようにこのお母さんの超人的な予知能力をフルに我々視聴者に見せつけた後、このCMは最後のシーンに移る!お母さんが車を運転している。すると・・・ピピピピピと車内に警告音が鳴り響く。そしてこの車自慢の自動ブレーキシステムが作動して車が停まる。なんとこのお母さん!前方の車との車間距離に気付くことなく追突しかけていたのだ。いやいやいやいや・・・そんなことってあるんかいな。
2020.07.06
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さらにすごいのがあった!自動ブレーキシステムを搭載したことが売りの車のCM。小さな子供を連れたお母さんが車を運転する・・・ここまではええ。しかしこのお母さんにはものすごい能力がある!超能力というか、予知能力というかとにかくすごい。車の運転中に雨でもないのにワイパーを動かしはじめる。なんでやろうと思ってみていると、車道の横でおこなわれている水道工事現場から噴水のように水がもれだして、それがその車のフロントガラスを直撃する。でも事前に作動させていたワイパーのおかげで一瞬たりとも視界を遮られることなく安全に運転が続行される。お母さんは空から水が落ちてくることを事前に予知していたのだ。ホンマにすごい!!まだある。次のシーンではそのお母さんが子供を車に乗せている。その横の公園からお母さんの後頭部めがけてバスケットボールが飛んでくる。もちろん真後ろなのでお母さんからは見えていないし、お母さんは子供にチャイルドシートを装備させることに気を取られている。アカン!そう思った次の瞬間・・・そのお母さんはノールックのワンハンドでそのボールを受け止めるのだ!!ホンマにホンマにすごい!!
2020.07.04
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