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もちろん様々な変革が必要とされるが、今回はその中でも学校の存在意義を考えていきたい。それも通う側、つまり児童・生徒・学生諸君の目線に特化したい。学校の存在意義はすなわち学習であり勉強である。学校には勉強するために通うのだ。極論をいえばそれ以外は必要ない。しかしながら学習の範疇には勉強以外のことも含まれる。たとえば集団生活の仕方であるとか、人間関係の構築の仕方だとか、さまざまである。『一年生になったら』という歌がある。歌詞はこうだ。一年生になったら、一年生になったら、ともだち100人できるかな・・・これは小学校に上がる子供たちの目線で書かれている歌詞だ。その年代の子供たちにとって、友達ができるか否かは重要問題であることが多い。ともだちの存在で学校が楽しくなる。学校が楽しいから勉強にも前向きになれる。そういう好ましいスパイラルも起こることも多々あるのだ。ところが、、、である。この「お友達=大切」という概念に変革が求められてきている。
2020.08.31
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教育現場は当然のように混乱している。それは当然だ。だって3月から6月まで授業ができなかったのだ。中には「うちは遠隔授業で対応していますから大丈夫です。」なんて言っている学校もあるが、それはごくごく一部に過ぎない。文部科学省も各教育委員会も右往左往したし、今でもしている。しかし現場の先生たちがなんとか踏ん張って、その混乱ぶりを児童・生徒たちに感じさせることなく学校を再開させている。これに関しては「お見事!」である。遅れてしまった学習内容をどう補填するのか、そして欠落してしまった学習内容をどのように入試で扱うのかに関しても「お見事」な対応を見せてくれることを文部科学省や各地方自治体の教育委員会に期待したいことろである。でも、何も変革しないでまた元の学校教育に戻ることはおそらく不可能かと思われる。表向きにはそう大きな変革はないが、その内容は大きく変革していくことを余儀なくされるだろう。
2020.08.30
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コロナ騒ぎで様々なことが浮き彫りになっている。その中の大きなひとつが学校の在り方だ。生徒から見た学校の在り方、保護者から見た学校の在り方、先生から見た学校の在り方、学校運営側から見た学校の在り方、教育委員会から見た学校の在り方、文部科学省から見た学校の在り方、その地域から見た学校の在り方、地方自治体から見た学校の在り方、國から見た学校の在り方、今現在それらが絡み合って迷走を始めている。そしてこれらはそのまま教育の在り方でもある。
2020.08.27
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鎌倉時代のある作家が言った。「あはれ」に出会えるかどうかはその人の感受性に依存している。「あはれ」を感じられるかどうかはその人の心の穏やかさに依存している。すると私はこれまでの人生で多くの「あはれ」を見逃してきた可能性が大いにある。もう半世紀と4年も生きてきているのだから、いま少し感受性と穏やかさを心の中で育てたいと思う。が、そのように思える私自身がすでに「あはれ」なのかもしれない!・・・それはないか(^。^;・・・
2020.08.26
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しかしこの異常猛暑で新たな「あはれ」に出会うこともある。数日前の深夜2時過ぎだった。1匹だけセミが鳴いていた。ツクツクボウシだった。1匹だけで、本当に力強く鳴いていた。セミはオスだけが鳴く。目的はメスへのアピールである。もちろんオスゼミはメスの活動が盛んな時間帯に鳴く。それは明るい時間帯だ。なのに1匹だけ深夜に鳴いていた。私にとってそれは限りなく「あはれ」だった。だれもやらないことを敢えてやるというこの武骨さというか男気というか、、、何か頼もしいものを感じずにはいられない。深夜2時に力いっぱい鳴いた彼のその音の響きを私は生涯忘れないだろう。
2020.08.25
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しかし現代においては特にここ数年はこの「あはれ蚊」の定義が変化しつつある。ここ数年7月末から9月初旬にかけて蚊の姿が激減していることに皆さんはお気づきであっただろうか?我々日本人のいうことろの蚊の活動温度の上限が35度らしい。もちろん蚊そのものがいなくなったのではなく、日影に隠れているらしいのだ。でもよく気にしていると、8月の温度が37度や38度に達したといわれる日の日中に、弱々しく飛んでいる蚊の姿を目にすることがある。これからはそのように8月に飛ぶ蚊を「あはれ蚊」と呼び、蚊の姿をみるのは6月や10月が普通となっていくのかもしれないし、あるいは今まで日本に生息していなかった亜熱帯地方の蚊が8月に飛び回るようになるのかもしれない。そうなるともう「あはれ蚊」なんて言葉は消滅してしまうのだろうか。
2020.08.24
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「あはれ」を感じるヒーローはまだいる。キャシャーンとキカイダーだ。しかしそれらについて今回は多くを語ることはやめておく。それはそれだけでしっかりとトピックを立ちあげて語りつくしたいので、、、それと仮面ライダーに登場する緑川教授の娘の名前であるが、私は今回初期の原作を取り上げさせていただいたので「ルリ子」と記載した。彼女の名前については時期や作品によって異なる場合があるのでご理解願いたい。さて話題を「あはれ」に戻そう。その昔、奈良時代や平安時代では、季節外れの蚊を「あはれ蚊」と呼んで駆除しなかった人がいたようだ。真夏にブンブンと飛ばれるとうっとうしくれ仕方ない存在であるか、ごく稀に完全に夏が過ぎた時期に出てくる個体が存在する。昔はそれを「あはれ蚊」と呼んだのだ。
2020.08.23
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そういえば昔のヒーローは「あはれ」だった。基本的に理解者や味方はほんの少数で、ほとんどの人々からは理解されない。ときには忌み嫌われたり恨まれたりする。彼らは自分を嫌って恨む人たちのために命をかけて戦う。彼らに栄光や喝采なんて無縁だ。仮面ライダー1号となる青年・本郷猛は元々科学者を目指す大学生でプライベートでオートバイレースをしていた。彼の能力の高さに目を付けた世界征服を企む悪の結社・ショッカーは彼を拉致しバッタの能力を持つ改造人間にするべく改造手術を実施する。そして最後の脳改造をする前に、ショッカーに協力させられていた本郷の恩師である緑川教授が彼を逃がす。そして教授はその罪を問われてショッカーに殺害される。同時にショッカーの存在に気付き始めた教授の娘・ルリ子の命も狙われはじめたことに気づいた本郷は彼女を守るために戦う。しかしルリ子は父を殺したのは本郷であると勘違いをして彼を警察に逮捕させようとする。しかも本郷は自分がバッタの改造人間(怪人)になってしまったことを知られたくないので、彼女の前では変身しない。それでも彼女の身に危険が迫る。自分を恨み追い詰めようとする人を守る。でも戦う姿は見せたくない。その状況の中で1人苦悩しながらも戦い続ける仮面ライダーは「あはれ」なのだ。
2020.08.22
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動物で「あはれ」なのは蝙蝠(こうもり)だ。翼があって空を飛べるから鳥類かと思えば哺乳類であり、哺乳類と言われても翼があって空を飛ぶから鳥類ではないのかと思われ、、、結局どちらからも仲間外れにされる。そして活動できるのは、昼でも夜でもない夕方のほんの限られた時間だけ・・・しかもその容貌からみんなに忌み嫌われる・・・それでも歴然として生物として存在し続ける!こんな「あはれ」があるだろうか。そして蝙蝠は悪役で登場することがほとんどだ。しかし私が知る限り唯一蝙蝠を正義の存在として描かれた作品がある。『バットマン』だ。『バットマン』の作者はボブ・ケインかビル・フィンガーかと論争が繰り広げられた時期もあったが、この蝙蝠のどこにも居場所のない存在感を絶妙に描き出したのはボブ・ケインではないかと私は思っている。最近の映画シリーズではその描写をしっかり表現している。ゴッザム・シティの平和のために戦っているバットマンであるが、ときとして警察官たちに攻撃されて追いかけられるのだ。その姿も私にとって「あはれ」で仕方がないのだ。
2020.08.21
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プラモデルもまた私に「あはれ」を感じさせてくれるもののひとつだ。よく考えてほしい。あれほど完結しない状態で商品として世の中に出回っているものがあるだろうか。私の生活圏内にあるものの中では群を抜いている。購入者に「さあ、あなたが作ってください」って、、、よくよく考えれば「おいおい、なんでやねん」ツッコまれても仕方がない。しかし我々はその作る作業を楽しむためにプラモデルを手にする。そして同じものを作っても、その人によって、またはその時によって全く同じものができないところも本当に「あはれ」だ。また部品の状態でランナー(部品をつないでいるプラスチックの型枠)につながれている姿もまた「あはれ」だ。見ようによっては、それはそれですでに完成品であり芸術である。中には部品をランナーから切り離すとこなく完璧に加工と塗装を施して、額縁に入れて飾っている強者もいる。未完成のままで完成させるなんて、、、とてつもなく「あはれ」である。
2020.08.20
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人力をはるかに超えた力を生むエンジンを搭載しながら、いとも簡単に転倒してしまう可能性を有しているところがたまらなく「あはれ」なのだ。四輪車、いわゆる車は人が乗っていなくとも何も変わらない。電車も同じだ。つまりは転送する可能性がないのだ。それはある意味乗り物や物体として完成している。そこに私は「あはれ」を感じない。私にとってバイク以外の乗り物は単なる移動手段に過ぎない。でもバイクは人間が乗って運転してはじめてその存在意義を発揮する、この上無く「あはれ」な乗り物なのだ。そして速度を出せば出すほど危険度と共に安定性を加速させ、速度を落とせば落とすほど安全度を取り戻しながら安定性を放棄してしまう、反比例要素もまた「あはれ」なのだ。
2020.08.19
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確かにそう考えれば、私にとっても【源氏物語】は「あはれ」の文学だ。内容をざっくりと言ってしまえば、絶大な権力を持ち頭も良い超男前が男女問わずに恋愛しまくる前半と、ただただ凡庸なその息子が父亡き後父の面影に押しつぶされそうになりながら生きていくという後半部分で成り立っている。私に言わせれば「なんじゃそりゃ!」である。しかし私にとってK先生との職員室までのほんの数分の会話は確かに「あはれ」だったのだ。そう思えば私にとって「あはれ」なものはたくさんある。まずはバイクだ!バイクの魅力は語りだせばキリがない。その中でも私にとって強烈に「あはれ」なもののひとつは、その不安定性だ。人力で動くものは別として、エンジンのついている乗り物で、乗り手がいないと存在が成立しないところに他に類を見ない「あはれ」を感じる。
2020.08.18
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当時、私のクラスの国語担当の先生は年配の女性の先生だった。そのK先生は足が少し不自由でいつも杖をついて歩いておられた。いつもではないが、ごくごく稀に私はK先生が職員室に戻られるときに荷物を持たせてもらって一緒に職員室の入り口まで歩くことがあった。K先生の言葉はたとえ冗談を言っているときもどこか文学的であったので、私はそれを聞きたかったのだ。授業中に「あはれ」と「をかし」の違いが気になっていたので、私は職員室に用もないのにその日K先生の荷物を持って一緒に歩いた。すると先生は私の質問にたいして「今のこの状態がそうかも知れんね。」と仰った。先生のよると、、、足が不自由な先生の姿を私の心が「あはれ」と感じた。その「あはれ」は現代語の「哀れ」でもあるが、古文の「あはれ」でもある。多くの生徒がいる中で、何かあれば先生の荷物をもって会話をしようとする生徒は私だけっだたらしい。そして私はこの瞬間を快く感じている。それが「趣がある」=「あはれ」であり、だれもがそのように感じるとは限らない「趣き」だ。、、、ということだった。
2020.08.17
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おろらく古文で最初に学ぶ言葉の中にあるのが「あはれ」と「をかし」であろう。だいたいの教科書で最初にガッツリ学ぶのが【枕草子】だからだ。このふたつの語の意味は同じで「趣(おもむき)がある」「興味深い」なんて訳される。しかしこの二語には微妙に違いがあり、「あはれ」は主観的・感情的に思いがけなく心を動かされたときに用い、「をかし」は客観的・理性的に面白さや興味深さを感じ取ったときに用いられるとされている。もっとざっくりと解釈をすれば、「あはれ」はその人またはその時だけに用いられ、「をかし」はだれでもいつでも感じ取れるものといえる。【枕草子】が「をかし」の文学といわれ、【源氏物語】が「あはれ」の文学と称されることからも、このふたつの言葉には微妙だが明確な違いがあることがうかがえる。私がこの違いを最初に知りたいと思ったのは中2のときだった。もちろん国語の時間に【枕草子】を習ったときだった。
2020.08.16
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そんなことを思いながら生きてきたのだが、今年我々人類にある意味チャンスがきた。コロナウイルスだ。不謹慎といわれるかもしれないが、私は心のどこかでそう感じてしまった。この人類共通の脅威であるコロナウイルスに立ち向かうために、国家や主義主張の枠を超えて人類全体がひとつになって協力し合う!そんな状況が実際に起こるのではないか・・・そう期待してしまった。でも現実はどうだ。分断はさらに加速している。もちろん協力し合えている国々や地域もある。でも分断はそれ以上に大きく進んでいる。分断を進めている国がある。こうやって人類共通の脅威が現れても、我々人類が手を取り合うことに望みをかけることは愚かなことである・・・それを悟らされた。人類というか人間に何かを期待するのは望み薄なのだ。
2020.08.15
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これらの現実をおもん見ると、もうこの世界に希望はないように思える。私だけではなく、多くの人々もそうなのだろう。特に人類から争いを無くすことに関してはそのようだ。その証拠にこの問題に関するある種夢のような解決方法が小説、ドラマ、映画、アニメ等で描かれ続けてきた。その解決方法はこうだ!人類に共通の敵が現れる。その敵は人類を滅亡させるような力を持ち、あるいはその力を背景に人類を家畜化したり地球を植民地化することを企てている。それを知ってはじめて人類は国家・人種・宗教・その他の主義主張を越えてひとつとなり、協力し合ってその敵に挑み、勝利を得る。また人類に脅威をあたえるものが、自然現象だったりすることもある。しかしやはりそんなことがないと我々人類はひとつに成り得ないのかと情けなくも思う。
2020.08.14
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こんな調子であれば、そのうちVRとリアルな現実との区別もつかない人間も出てきて、世の中が狂わされていくことだろう。技術が進んでも人間が馬鹿であれば意味がない。あるいは、人間を馬鹿にするために技術が進化しているのかもしれない。そんな人間が平気で他人に「死ね」「消えろ」と発言して、言葉での殺し合いを始める。それがそのまま新たな戦争に発展する可能性だって大いに考えられる。なぜならこんなに安上がりの戦争なんてないからだ。核兵器も銃も要らない。言葉だけでいいのだから、いとも簡単に戦争をはじめられる。そうなれば武器商人の商売があがったりになるが、それは知ったこっちゃない。でもまあそんなことは起こらないだろう。だって国連常任理事国が世界に武器を垂れ流しているのだから、彼らがリアルな殺し合いである戦争を止めるわけなはいからだ。国家も妄想ならば、国連も妄想なのだ。
2020.08.13
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もちろん幸いなことに集団妄想をそれと認識して楽しんでいる人が大多数だ。しかしごくごく少数の人間がそれらと現実の区別がついていない。そのくせ自分は正しいと思い込んでいる。もう取返しのつかないことが起こらないと気づくことさえできない。そして絶望的なのはそんな連中が大声を出すことができる世の中になってしまっていることだ。たとえば番組の名前も知らないが『恋愛リアリティ番組』とかいうのがある(あった?)らしい。それを嬉々として見ている人たちの中に、本当にそれがリアルで現実であると思い込んでいる連中がいたようだ。その出演者の1人に非難中傷をネットで浴びせ倒した結果、その出演者が自殺に追い込まれたのだ。ホンマにその番組がリアルで現実のものだと思い込んでいたのだ・・・でもそんなアホな話があるか?出演者が番組で集められている時点でもうリアルな現実ではないことがなんでわからないのだろう?そんなことすらわからない連中だから、他人を非難するとはどういうことかも関知していない。
2020.08.12
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その「そうでないもの」がどんどん大きくなって、社会や国全体を覆ってしまった結果、我々人間は戦争に走ってしまってきた。「そうでないもの」には大義名分がついて回る。正義だったり自由だったり、、、そして「国家のため」だったりする。「国家のため」はイコール「国民のため」「同胞のため」「家族のため」「愛する者のため」と解釈されていく。もうそれを言われては後戻りできなくなるのだ。そして一度戦火を交えてしまうと、「殺さなければ殺される」となり、終わりの見えない殺し合いが始まる。殺しあう人たちは元々何の恨みもない人たちだ。殺し合いをさせている人たちは、それで膨大な利潤を得て、それで自分が死ぬことはない人たちだ。なので我々は身近にある集団妄想をそれと見抜き、選別していく能力が求めっれているのだが・・・この国はどうだろうか?
2020.08.11
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戦争が彼女の命を奪った。戦争が彼女のその後何十年も続くであろう人生を奪い、夢も希望も奪い去った。第二次世界大戦における日本人の死者は約310万人。そのうち民間人は80万人といわれる。戦争とは『外交の最終手段』といわれる。『外交』とは『外国との交際・交渉』を意味する。つまり『外交』とは国家間でおこなわれるものなのだ。国家という集団が始めた戦争で命を落とすのは個人だ。かつて「国家とは単なる集団妄想にすぎない!」と断じた作家がいた。その言葉を借りるなら、戦争で命を落とした人は、集団妄想のために死んだ・・・いや殺されたといえる。我々の生活圏には様々な集団妄想が存在する。多くの場合それは人々に幸福を与える。しかしながらその中にまぎれてそうでないものも確実に存在するのだ。
2020.08.10
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同様に日本国内で命を落とした人たちの画像を目にする機会もある。まさかこの日にこの場所でこんな形で命を奪われるとは思っていなかっただろうと感じる。今年はじめて目にした画像がある。長崎の原爆で焼死した少女の遺体を写したものだ。以前消防士の知人から聞いたことがある。息絶えてから焼かれた遺体は灰色もしくは白くなり、まだ息があるうちに焼かれた人の遺体は黒いらしい。その少女の遺体は黒焦げだった。年齢は10歳だったとのことだ。つまり単純計算で彼女は昭和10年生まれとなる。私の母と同い年だ。ここ数年入退院を繰り返していて決して健康とは言えないが、私の母は幸いなことに元気でいる。10歳で終戦を迎えた母は現在に至るまで様々な出来事を経て生きてきた。もうそれは我が母親ながら壮大なドラマだ。もしあの画像の少女もあの戦争で命を落とさなかったら、同じような壮大なドラマともいえる人生があったのだ。
2020.08.09
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部下たち全員に自決の命令を出し、隊長は副隊長と潜伏していた洞窟の中で書類を燃やした。自分たち亡き後、日本軍の情報を米軍に渡さないためだ。その炎が発する光の中で、隊長と副隊長は何か月ぶりかにお互いの顔を見た。彼らはそれほど日光が届かないほどの洞窟の深い場所にいたのだ。劣悪な衛生環境の中なので、藪蚊が彼らの前身から血を吸い、その腫れ上がった場所からさらに血を吸う。それを繰り返すと化膿して膿が出てくる。その膿にハエがたかり卵を産み付けウジが湧く。彼らは無残に腫れ上がって膿とウジだらけの互いの顔を見たのだ。そして全ての指示を出し終えて全ての作業を終えた隊長は、自分のこめかみに銃口をあてて引き金を引く前に手帳の最後のページにこう書き残した。・・・せめて言葉だけでも美しく、サクラ、サクラ、・・・醜い姿となり帰国するすべもなく母国から遠く離れた南海の孤島の密林で自決した彼らの気持ちを慮(おもんばか)ることは、平和な時代に生きる我々にはできないのかも知れない。
2020.08.08
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戦後75年を迎えようとしている。最近は戦時中の画像をしっかりテレビに出すようになった。しかも技術の進歩で、当時の白黒写真をカラーに検案したものを目にすることも増えてきた。そして戦争で亡くなった人たちの姿もその例外ではない。海外で命を落とした人たちの姿を目にすると、どれほ日本に帰りたかっただろうと考えてしまう。今年ある資料で知った事実がある。ある南の島で補給もなく戦い続けた部隊の話だ。最後は武器・弾薬・食料もなく、真夏のジャングル地帯で不衛生極まりない環境に彼らはいた。もう戦えないと判断した隊長は、日本本土の大本営に玉砕覚悟の特攻実施の許可を乞う。しかしながら答えは「持久戦に徹し陣地を死守せよ」とのことだった。死を覚悟した特攻も許されず、戦力も無く、けがや病気、そして飢餓で仲間がどんどん死んでいくなか、隊長が決断したのは自決であった。
2020.08.07
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今日ある商業施設でエレベーターに乗った。扉が閉まる瞬間外から誰かがボタンを押したので扉が開いた。20歳代くらいの女性が2人乗りこんできた。エレベーターは3人を乗せて上の階へ移動を始める。1人の女性がもう一人に話しかけた。「そういえばさあ、昔IQ180もある天才脱獄犯がいてたらしくってさ・・・」と話題を切り出した。思わず心の中で・・・「そんだけIQ高いんやったら、そもそも捕まんなや!」とツッコまずにはいられなかった私であった。
2020.08.03
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・・・こんなことばかり考えているので、今日も私の断捨離は進まない。「オチがそれかい! このブログの内容こそ Know enough ! 」やって?うまいこと言いますなぁ~。ナイスツッコミありがとう!!
2020.08.02
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我々人類はいつの日にか足るを知ることができるのだろうか。文明が発展すればそるほど、生活が便利になればなるほど、我々はそこから遠ざかっていくような気がする。もう十分文明は発展し、生活は便利になっている。これからはもっと別の視点で進歩していくときがきているのではないだろうか。2600年も昔に釈迦はそれに気づき、そしてその境地に達した。その境地に達した者を『仏(ほとけ)』と呼んだ。なので仏は釈迦だけではない。釈迦もそう言っているのだ。だれもが仏に成り得ると!そしてそれを「成仏(じょうぶつ)」と言った。成仏は死んでからするのもでなく、生きているうちにするものなのだ。この世のすべての人間が自らの執着を完全に捨てきり仏となることができたときに、はじめて人類は格差や貧困から解放されるのかもしれない。これを理想論や夢物語とあきらめるのか、ひとりでもいい、少しでもいいと歩みを進めていくのかは、我々個人個人に委ねられている。
2020.08.01
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