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国際環境NGOの『グリーン・ピース』という団体だ。設立は1971年らしいが、ここ25年ほどでその存在が広く知られるようになったグリーン・ピースは野菜です!私はそう自分の中で納得させてきた。美味しそうな緑色のお豆さんで、もちろん[Green Peas]と表記する。直訳すると「緑の豆」だ。私の幼少期に母がよくカレーに入れてくれた。『ピース』の使い分けに翻弄される私にとってグリーン・ピースは唯一といっていい安全地帯であった。ところがNGOの『グリーン・ピース』は[Green Peace]と表記するのだ。直訳すると「緑の平和」となる。平和に色があるんか?まあ環境問題を取り扱う団体なので、「緑=自然」に平和を与えよう! という意味なのだろうとは推測できる。で、植物を守る活動をしているのかと思いきや(まあしているのだろうけども)、案外「シロクマを救おう」なんて言っている。もうこうなったらいつ[Green Piece]「緑のかけら」が出てくるかとの思いに恐怖すら感じてしまう。そんなこんなでもう私はややこしい「ピース」の完全なる使い分けを半ば諦めている。雰囲気やノリなどのその場の空気に任せるしかないのだ。
2020.09.30
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これをかわきりに私はややこしいものと多々つき合ってきた。先ほどの「右」「左」のように言葉の表面的なものは、慣れとその場の機転で何とかなる。しかし専門的に身につけたことに関するややこしいものには、実は今も苦戦している。私はこんな顔をしているが、一応英米文学科卒業で、一応英語の先生だったし、今も自分の教室で教えている。でもはやり外国語は外国語なのか、私にはややこしいことがいまだに多く残っている。いつもドキドキして扱っている単語が『ピース』だ。片仮名で表記するとなるほど『ピース』と一言で表せるが、英単語にすると[peace/平和]・[piece/一片・一切れ]・[peas/豆(複数形)]の3種類もある。しかもこれらの単語は同音異義語で、発音記号は全く同じなのだ。我々の世代の人間はカメラを向けられると「ピース!」なんて言ってVサインを出す人がいるが・・・私はいつも心のなかで「え?え?…どのピースなん?」と困惑してしまうのだ。まあしかし写真を撮るときの「ピース」はその語源をたどれば[peace/平和]であることが明確になるし、その瞬間は平和な社会状況が生み出すものなのでそれで納得することにしている。後は文脈等で使い分けることで納得しようとしていたのだが・・・ややこしい人たちが出てきたのだ。
2020.09.29
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この世の中にややこしいものが結構多い。その最たるものは人間関係だと言い切った哲学者もいたが、もっとシンプルにややこしいものもある。記憶をたどると私の中で最初にややこしかったものは幼少の時期に現れた。右と左だ。私は生来の左利きだ。当時としては珍しかったことだが、親がそれを右利きに矯正しようとはしなかった。自然体のままで育ててくれたのだ。家にいるときはそれを不便と感じたことはなかった。しかし幼稚園に通いだして問もなく面倒臭いことが起きた。先生がよく我々園児に「それじゃあおはしを持つ方の手を出してください。」なんていうのだ。何も考えずに素直に私が左手を出したときには容赦なく「ゴマ君!そっちじゃないでしょ!」なんて叱られるのだ。そのうち私も余計なことで叱られたくないので、「おはしを持つ方の手」とか「お茶碗を持つ方の手」なんて言われると、ちゃんと反対側を出すようになったが、慣れるまでは本当にややこしかった。
2020.09.28
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いや、これはあらゆる仕事に該当する。そして仕事以外のことにもだ。・・・つまり、少し大げさな言葉を用いてしまったかもしれないが、唯一無二の存在になるには何も特別なことをする必要なないのだ。ただ初心を忘れない。誰に何を言われても、どんなに楽な方法があったとしても、『自分のため』ではなく、『誰のため』『何のため』を忘れず貫く。これができた人が、でき続けた人が、唯一無二の存在となる。言葉を変えていえば、こんなに当たり前のことができていない人たちがあまりにも多いとも言える。だからこそ私はこれを実行した人を羨む。
2020.09.27
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たとえば学校の先生なら、最初は「こんな先生のなりたい」との自分の理想の教師像が普通はあって教壇に立つ。もちろんその理想は『生徒のため』だ。ところが『先生』を職業にしてしまうと、そこに【効率性】あるいは【生産性】が求められる。「教育に効率性・生産性って何やねん!」と思える人は問題ないのだが、ほとんどの新米先生はそうは思わない。いや、思わせないように洗脳していく。しかしそれを洗脳とは感じない。なぜならその方が楽だからだ!そして行き着く先は、先生と続けるのは自分が生活をしてくことが目的となってしまう惨状なのだ。たとえば塾の先生なら、最初は「子供たちの成績を上げたい」と思って講師になったり、教室を開いたりする。ところがまたそれを仕事にしてしまうと、いつの間には【効率性】や【生産性】を求めてしまう。そして『良い生徒を大量に集める』ことに重きを置くようになる。1から10までのことを理解してもらうのに、100くらいのプロセスを必要とする生徒1人に1時間授業するよりも、1だけを教えれば勝手に10までを理解してくれる生徒50名を相手に1時間授業するほうを求めてしまうのだ。そしてやはりこの場合も行き着く先は、自分が生活をしていくこと、またはお金儲けが目的となる惨状だ。二輪指導員だってそうだ!
2020.09.26
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今まで私が「この人はプロだ!」と思った人は皆唯一無二の存在だ。だから何度も仕事を依頼し、用もないのに顔を合わせたりする。直接会えない人には連絡をする。この筆不精で、人に会うことが基本的に億劫な私が・・・である。でもおそらくご本人たちは自分が唯一無二だとは思っていない。それがこの人たちの唯一の共通点だ。ただただ、当たり前にするべきことをしている・・・くらいにしか思っていない。いや、そんなことすら考えていないのかもしれない。とにかく!その仕事が『だれのため』であり『何のため』かを見失わず、そこに向かって歩を進めている。それが最短距離でなかったり紆余曲折があったりもするが、必ず向かうべき方向だけは見失わないのだ。まだ仕事に就いてない人には信じがたいかも知れないが、これが案外難しい!
2020.09.24
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新総理となった菅氏。総裁選のときからもう彼が次の総理でるかのような報道をよく耳にした。結果はその通りとなった。なんでもかんでも政権を批判すればいいと思っている連中は今回はどんな批判をするのかと耳を傾けていると、今回は私の耳には2点しか届かなかった。1点目は・・・「外交に弱い」・・・という声。2点目は・・・「菅総理には、菅官房長官がいないこと」・・・という声だった。それを耳にしたとき、54歳になってやっと「ああ、社長の言われていてことはこのことか!!」と思った。18歳の時に投げかけていただいた言葉を、36年越しにやっと理解できたような気がした。それがなんだか嬉しくもあった。そしてそれ以上に本気で羨ましく思った。確かにそうだ!
2020.09.23
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私は高校を卒業して働いた会社の社長に社会人としての基礎を叩き込んでいただいた。多くを教わった。その中に「君の弱点は、脇師に君がいないことだ!…と言われる人材になりなさい。」という言葉があった。社長は常に『脇師』にこだわった。社長の言われる『脇師』とは、「側近」「片腕」「相棒」「懐刀(ふところがなた)」「後継者」というニュアンスがあった。社長は『脇師』を家族の中に求めておられた。息子を専務として育てておわれたが、彼はその器ではなかった。社長もそれをとても悔やんでおられた。「あいつの代わりはいっぱいおる!」・・・社長のこの言葉がその何よりの証拠であった。
2020.09.22
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先日、新政権が発足した。菅内閣だ。私はいつも基本的にはわが国のリーダーに期待し応援をする。そのシステムを完全に納得しているわけではなく、多少の不満はある。それにしてもとりあえず民主主義の手続きを経て総理となった人に期待し応援をする。所属政党や主義・主張に関係なくだ。今回も例外ではない。新総理は「縦割り行政や悪しき前例主義の打破」「デジタル庁の創設」「不妊治療への保険の適応」等々、いい意味で鼻息が荒い。大いに期待をしたいところだ。しかしながらどの政権もこの20年弱ほどの間、北朝鮮の拉致問題を何とも進展させていない。これには大いに落胆させられてきた。今回の新政権には期待したいところだ。ところで、今回の新首相には久しぶりに『羨ましい』と思わせてくれることがあった。
2020.09.21
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その準備段階として今から、できれば小学校低学年からしっかり学校の存在理由を教えるべきだ。『三つ子の魂百まで』という言葉がある。幼少期からそれを頭に入れて学校生活を送っていれば、よもや大学生になって血迷ったことを言い出すことは少なくなる。そしてそれはそのまま我々教える側や学校・教室を運営する側の人間にもいえることだ。今一度我々も三つ子の初心に返って学校の存在理由を再確認するべきだ。我々がそれを曖昧にしてきた結果が現在のこの体たらくを生んでいる。今、日本で、いや世界で起きている様々な問題は教育を立て直せば解決する。それができないなら我々人類に明るい未来はないだろう。
2020.09.20
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こうなるともう最低でも小学校入学時から、教わる側が自由に学校・授業形態・担当教師を選択することが可能となる。今までは小学校は、公立なら住んでいる地域で勝手に決まられる。私立にしても物理的に通える範囲内に限定される。そしてどちらにせよ、担当教師は知らないところで誰かが決めた者となる。それでは妥協と不満が起こる。その妥協と不満をごまかすために、やれ「お友達」だの、やれ「部活動」だの言い出す。それも否定はしないが、「学習」という目的に及ぶものでは絶対にないのだ。これからそれが変わっていくとするしかも途中変更も可能とする。・・・もしこうなればどうなるか!否が応でも学校の存在意義に回帰させられる。つまり「学習」を最大の目的として学校に通うようになれるのだ。どの分野でも選択肢が多いほど、その目的に目を向けることができて、向けざるを得なくなる。そうなれば、おそらく「お友達ができないから学校をやめる」なんて人間は出て来なくなる。いや、皆無にならずとも激減するはずだ。
2020.09.19
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たとえば、たとえばである。現在でも実際の授業と同時にその様子をオンラインで配信している学校はある。それが次第にオンライン専門の先生が出現してくるようになる。その先生の授業が噂になり、児童・生徒・学生が1点集中で集まる。そのうちオンライン授業が主体になる。いつでもどこでも何度でも授業を受けられるのだ。しかも面白くてわかりやすい授業だ。一時期はその授業に教わる側が集中して、実際の授業が激減していく。そして先生の失業が増える・・・とはいかずに、公務員はクビにできないので膨大な人数の失業状態先生を我々国民が税金で養うことになる・・・。まあできればこのあたりで仕事のない公務員を解雇できるような法整備が完成すればいいのだが・・・実現の可能性は希薄だろう・・・残念ながら・・・。でもやがてその中から実際の授業で革命を起こす先生が現れる。ごく少数であるが現れる。逆境は人を成長させるからだ。あるいは教わる側から実際の授業への需要が高まる。そして実際の授業が復活していく。さらにその授業の需要がさらに高まり、実際の授業がオンライン配信され始める。ところが問題点がでくる。実際の授業は目の前に先生がいることが最大の利点なのだが、その利点が活かせられない。で、次の段階として、オンライン授業を教室で行い、その場にサポートする先生が入る。そこでとうとうハイブリッド授業なるものが完成されていく。もちろん、オンライン授業も実際の授業も完全に無くなっていない。で、どうなるか?教わる側が好きな授業を選択して受けることができるようになるのだ。
2020.09.18
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最近この話題が多くて本当に恐縮であるが、触れなければどうしようもない。ICT(情報通信技術)の飛躍的発展とコロナ騒ぎが浮き彫りにした既存物事の存在意義に、我々は勇気を持って対峙するときがきている。発展・発達・進化していく物事はその本質を見失わずに流れに乗ればいい。新規に生まれ来るものは、それを継承する将来の人たちにその目的と存在意義を明確に残しながら世の中で出ていけばいい。淘汰されるものはちゃんと淘汰されていく。しかしその存在とデータやノウハウは後世に残しておこう。時代というものは再び巡って返ってくる。次に世の中に必要とされたときに、その時代に対応しながらも変化させるべきでないところは堅持すればいいのだ。ではそれを学校を含めた教育現場にあてはめるとどうなることだろう。
2020.09.16
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そのほとんどを解決するために、今一度学校の存在意義に立ち返り、それを学校運営側も教える側も教わる側も認識することが重要だ。学業の副産物として知り合いを作りたいなら通学する。そんな必要を感じないのであればリモート授業を受ける。それを児童・生徒・学生に選択させるのだ。もちろん通学しても知り合いができるとは限らないし、リモート授業だけを受けていても知り合いができることもあるだろう。それはこの際関係なしだ!そして能力的・設備的・地域的にリモート授業が厳しい学校は無理に進めなくてもいい。もうリモート授業のみの学校がどんどん出現している。そんな学校の多くは校区を持たない。通学可能距離もない。地球の裏側でもリアルタイムに授業を受けることが可能だ。だからといってリモート授業をしない学校が淘汰されていくとは限らない。どんな形態の学校でも、授業内容精査の努力を怠るところは淘汰されていく。どちらにせよ淘汰される学校は淘汰されていき、残るべき学校が残っていくよい傾向になっていく。当然これは学習塾業界も同様だ。
2020.09.15
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学校の存在意義は何か。それは学問を修めること・・・『修学』である。いうまでもない!「友達を作ることも勉強だ。」という意見もあるし、それを否定もしない。それを必要とする人もいるだろうし。私もその経験はある。しかしそれと『修学』とを天秤にかえたときは間違いなく『修学』にウエイトがかかる。『修学』に勝るものは学校に存在しない。それをもうしっかりと明確にしていく時代が来てしまったのだ。いつかくるだろう・・・と思っていたが、コロナ騒ぎがその時期を急激に具現化させた。なのにまだそれに目を向けようとしない人たちがいる。それが学校経営側の人間であるならそれでいい。そんな学校はあと数年で淘汰されていくからだ。だが不幸なのは通う側の人間だ。「お友達」「お友達」とありもしないパラダイスを求める挙句、自らの人生を棒に振ることにもなりかねない。
2020.09.14
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「ひとりぼっちは寂しい」・・・とかいうくだらない思考の押し付けをやめることから始めなければならない。確かにひとりぼっち、つまり孤独に耐えられない人間もいる。それはそれでいい。ただそれが正しいとか思うのは思い上がりである。孤独を好む人間だっている。常にそうたとしても、時と場合によるとしてもだ。こっちが好きでひとりでいるのに「こっちに来ませんか」とかいうヤツはこの上なく迷惑である。仲間がすばらしい、友情がすばらしい、愛がすばらしい。、、、そう思うのは勝手だが、押し売りをするな。それを大人が子供に強要するな。学校でそんな空気を大人が作り出すな。まあそんな考えを幼稚園や小学校の低学年に植え付けられても、正常な人間であればそのうちそんな考えが通用するほど実際の人間の世界は甘くないことを知る。しかし中にはそれを知らずにいい年になっても「お友達、お友達」といい続ける者もいる。そんな連中が大学生になって、友達ができないから学校をやめるなんて言い出すのだ。まあ、さっさとやめればよろしおまんねんけどな。それが正しいとか正論だとか思うなよ!
2020.09.13
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そして『味方でない者』をさらに2種類に分けて、『自分に害を与えない者』と『自分に害を与える者』と認識しておく。さらに『自分に害を与える者』=『敵』と明確に認識しておくのだ。『敵』なのだから、自分をあしざまに非難したり「死ね」「消えろ」なんて言ってきても当然だ。何も落ち込むこともなく、気にすることもない。完全に無視してスルーしておくのが最善の策なので、放置しておけばいい。人を非難する連中は、非難された者の反応が楽しいのだ。無視するのが一番である。あるいは全精力を注いで与えられた以上のダメージを与えてやればいいのだ。それを学校で教えるのだ。ここで重要なのはその目的だ。敵を作って戦えということではない。まず敵というのはいて当然であり、その数は予想以上に多いことを認識させること。次に自分に害を与えない知り合いの存在に感謝できること。最後に友達と呼べる人は少ないことと、その存在が本当に有難いことを教えるのだ。つまりは、お友達パラダイスなんてこの世のどこにも無いことを教え込むことで、精神的に強い人間を育てるのだ。そして次の段階として教えるべきなのは『孤独のすばらしさ』だ。
2020.09.12
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そこでまずは、『友達』もっと細分化して考える機会を持つことが不可欠だ。ここは勇気を持って行わないといけない。昔はこの細分化をだれに教わることなく自然におこなってきたのだが、近年はどうも様子が違う。先の話題でも触れたが、ここを勘違いした人が死に追いやられることだって起きている。まずは大雑把に『友達』を、[友達]と[知り合い]に分けるのだ。[友達]の認識はこれまでのそれと変える必要はない。[知り合い]は、名前と顔を知っていて会えば挨拶をする程度の人で、お互いを分かり合っているわけではない人と認識する。そしてさらに[知り合い]のほとんどは自分の理解者やましてや味方ではないことも自覚しておく。これを冷静に小学3年生か4年生の学活の時間に説明して、それぞれの児童にカテゴライズさせておくのだ。・・・「小学生にそんなことをさせるなんて!」・・・と思っている大人は『お友達パラダイス信者』だ。この世にそんなパラダイスはどこにもない事実に勇気を持って目を向けるべきである。
2020.09.11
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ではなぜ今まで当然かのように『お友達教育』がはびこってきたのかというと、それは学校運営側がその方が楽だからだ。それはある意味その通りである。全校生徒が仲良しであれば、教える側の人間が楽であり、教育委員会を含む学校運営側も楽なのだ。たまにそんな学校もある。しかし教える側や運営側が楽かといえば案外そうではない。生徒側に問題のない学校は絶対と言っていいほど教員側や運営側が仲が悪くいがみ合っていて、そっちに無駄な労力と膨大な時間が消費される。もちろん生徒側の仲が悪く、問題が山積している学校も労力と時間が必要となる。まあこの場合、それに対処するプロが教員なのだから労力がどうのこうのとか時間がどうのこうの言うな!という意見も納得はできる。でもまあどちらにしても時間と労力がかかるなら、お友達パラダイスを求めない方が本来の学校の存在意義を全うできると確信する。
2020.09.10
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国家間の関係に必ずと言っていいほど利害関係が絡むのは、国家が『個』を主張するからだ。その正体はたとえば権力者の執着や、責任職者のその責務を果たすための絶対に譲れないラインだったり、目に見えないものの場合もあれば、領土・領空・領海といったはっきりと目視できるものである場合もある。でももちろん外交の最終手段といわれる戦争に踏み出すリスクは背負いたくないので、表向きは仲良くしているように見えて、実際は水面下でさまざまな駆け引きがおこなわれている。最近の中国や韓国なんかは水面下でもなんでもなく露骨に駆け引きをおこない、いつの間にかその範疇を逸脱して実力行使に及んでもいる。つまり!そのような情勢を乗り切る能力を幼少期や青年期に『友達』の定義をしっかり学んでおくべきなのだ。『友達』とは必ずしも『仲良し』なんかではないことをしっかり大人が明言してくべきた。それらをる程度カテゴライズして、そのタイプによって対応を変えることをちゃんと示す時期がきている。・・・というか、もうすでに手遅れかもしれないが・・・
2020.09.09
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もちろん同じ意見、同じ感覚、同じ感性をもって人と出会い、仲間や親友になることだってある。そんな人たちとは言葉を介さなくとも分かり合えたり、その人が困っていれば微塵のためらいもなく助け舟を出すことができたり、自分が窮地に陥った時には即座に支えてくれる。しかしそんな人と出会うことは人生において稀である。社会に存在する数多の集団やグループにそのような関係性はほとんど見受けられない。そこには『利害』が絡む。利害関係が一致したときは、それぞれにメリットがあるときだ。国家間で考えたほうがわかりやすいだろう。わが国日本が窮地に陥ったとき、即座に、しかも利害関係などなくデメリットしか見えなくとも援助してくれる国があるだろうか。現在の国家数は196ヵ国(日本の外務省発表数)で考えると、日本を除いた195ヵ国の中で何か国あるだろうか。わか国には幸いなことに1か国そんな国がある。台湾だ。つまり195分の1だ。おそらくほとんどの国にはそんな国は1か国もないだろう。195分の1は奇跡的な数字なのだ。2011年の東日本大震災のときにもっと多くの国が支援にきてくれてのに・・・と思う人もいるだろうが、もちろん個人レベルでは無償の援助をしてくれた人たちは星の数ほどいてくれる。しかし、残念なことにそれが国家間の問題となると、そこには情けなくなるほどの利害関係が内包されているのだ。でもこれが歴然とした世界の実情でもあるのだ!
2020.09.08
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そう!『お友達教育』からの脱却だ。『個性を伸ばす教育』・・・なんて言いながらお友達パラダイスを求めているのが今の日本の学校だ。個性を主張するということは、他との差別化を図ることと同義だ。差別化を図った場合、その差別の対象となった者からは、疎まれ・嫌われ・憎まれ、そして距離を置かれることが往々にしてある。同じくこちらが差別の対象となったときは、自然と相手から距離を取らざるを得なくなる。その覚悟もないのに『個性を伸ばす』なんて言っているから、個性が伸びないのだ。しかしその覚悟と経験がある者が先生として存在している場合は話が変わってくる。距離のある人たちと、対立するのではなく、そのどのように相互理解を深めて平和なコミュニティ(学校においてはクラス・学年・部活等の集団)を築いていくのかを児童・生徒と共に模索することができる。今後はこれこそが学校の存在意義なっていくべきなのだ。なぜならこれこそが社会や世界の縮図であるからだ。
2020.09.07
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しかしそんな大学生が悪いのかといえばそうとも言い切れない。少子化が急速に進むことがわかっていて、減らすどころか大学を急速に増やしたこの国が悪いのだ。学生の学力の低下はそのまま国力の低下につながる。そう考えると、お友達ができないからと学校をやめる大学生はどんどんやめさせるべきなのかもしれない。そして大学側はそれに右往左往して、自然淘汰されていくべきなのだ。おそらく少なくともあと10年はこの現状は変わらない。大学が無くなっていくのは大歓迎だが、一度大学生になった学生を「お友達ができない」なんてくだらない理由で退学させるのはもったいない。それを防ぐには、小学校からの、いや必要であればそれ以前の段階での意識改革が不可欠であろう。
2020.09.06
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もう「友達100人できるかな」は遅くとも小学校の低学年で卒業しておかないとアカンでしょうよ!大学生になって「お友達ができないから」って退学を考えるって・・・本当に耳を疑う事実である。しかしこれには現在の大学教育それ自体と、それに至るプロセスに大いに問題があることを浮き彫りにしている。みなさん知ってます?もう2007年から高校卒業者数が大学の定員より減少しているんですよ。つまり、選り好みをせず本人とその保護者が希望すれば、高校の卒業者が全員大学生になることが可能なのだ。これは完全に大学生の質の低下を意味している。2007年から実に13年の月日が流れている。かなり以前に述べたが、「楽」という漢字が書けない大学生がいるのだ。これが確かこのブログをはじめた年に触れた話題なので、10年前のことだ。今はもっと何も知らない大学生がわんさと存在する。たとえば去年テレビで見た大学生は「太陽はどの方角から昇るか?」との問いに「右」と答えていた。小学生以下の学力しかない大学生がわんさかいるのだ。
2020.09.05
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今回その話題に触れ田たのは、ちょいと気になる情報が耳に入ったからだ。国内でコロナ騒ぎが本格的に起こってから半年経った現在、大学生の退学希望者が増え続けているらしいのだ。コロナ自粛でアルバイトができない学生が授業料の支払いに苦しんでいることは周知の事実ではあるが、各種補助制度が確立してある程度の問題解決はなされている。ではなぜ退学希望者が増えているのかというと、その理由は『友達ができない』かららしいのだ。各種リサーチではこれが言葉を変えて『学生生活への不安』なんて記述されている場合もあるが、その根幹は『友達ができない』なのだ。それを聞いて「しかたないなぁ~」と思う人もいるようだが、私はそうは思わず、全くもって耳を疑ったのだ。
2020.09.03
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約20年前くらいから学校教育で「個性」や「多様性」を重要視する風潮が生まれてきた。それはそれで悪くはないと思う。ところが「個性」や「独自性」を主張することは、一部の人間から非難される可能性がでてくる。つまりは『みんなと仲良く』ができなくなってくるのだ。もちろん「個性」や「独自性」を主張しなくても『みんなと仲良く』ができないことだって多々ある。なので学校、または家庭や地域で孤独の重要性とはでは言わないが、対処法くらいは論議する機会は設けておくべきなのだ。また同時に、ある一定の学年になったら『友達の定義』について考えてみることも必要な時代になってきている。
2020.09.01
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