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この「上の画像」は、「義経隠れ塔」を撮影したもので、金峰神社脇の小径を下った場所に建つ、宝形造・檜皮葺きの簡素な塔である。源頼朝の追っ手に囲まれた源義経が屋根を蹴破って逃げたといわれ、「蹴抜の塔」とも呼ばれている。しかし、実はこの塔の由来はさらに古く、それは今から約1300年前の修行僧にあるとされ、その修業僧こそ「役小角(役行者)」と伝わるのだ。かの「大峯山(山上ケ岳)」は、「役小角(役行者)」が開山したと伝わるが、その前にこの塔の場所で三年間の修業を経た後に、この山を開かれたことになっているそうだ。その後、弟子の僧が出て、師匠の「役小角」の徳を偲ぶために一基を建立して、今後「大峯山」へ登る修験者は必ず皆、師匠と同様に修業して登るようにと、昔から伝わって現在に及んだとのことである。この「下の画像」は、吉野のある場所にて、「役小角(役行者)」の彫像を撮影したものである。さて、ここで「役小角(役行者)」について、その略歴を(伝説を含めて)紹介しておきたい。役 小角(えん の おづぬ)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。修験道の開祖とされていて、後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになった。17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峯の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で「金剛蔵王大権現」を感得し、「修験道」の基礎を築いた。20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。「役行者」は、「鬼神」を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に「前鬼」と「後鬼」を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神「一言主」は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで「役行者」は「一言主」を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた「一言主」は、天皇に「役行者」が謀叛を企んでいると讒訴したため、「役行者」は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。「役行者」は、流刑先の「伊豆大島」から、毎晩海上を歩いて「富士山」へと登っていったとも言われている。(※以上 Wikipedia より抜粋)
2013年10月31日

9月25日の朝、奈良は「若草山」の高台より奈良盆地を展望、そして山頂より「若草山」・「御嶽山」・「八海山」の三点一直線を俯瞰した後、一路「吉野の金峯山」に向かった。台風18号の影響で吉野方面は悪路が予想されたが、今春の「春の旅」では行けなかった吉野山は「奥千本」の最奥部に鎮座する金峯神社(きんぷじんじゃ)へ・・・。案の定、「奥千本」エリアの道路事情はすこぶる悪かったが、なんとか通れる道が一本だけ見つかって、ついに金峯神社に近い奥千本駐車場に到着。その駐車場近くの展望台から、龍門岳(標高904m)を主峰とする龍門山塊方面を撮影したものが「上の画像」である。ちなみに、この龍門山塊は、大和平野と吉野山地を分ける山並で、手前の山裾を中央構造線が東西に走っている。その昔、大和平野や宇陀山地から吉野へ越える龍在峠、芋峠、細峠、関戸峠などがあって、古くはそれらの峠を越えて、天武・持統・文武・元正・聖武の各天皇が、吉野川のほとりに営まれた「吉野の宮」に行幸していたとのことである。この「下の画像」は、吉野山の最高峰「青根ヶ峰(標高858m)」の近くに鎮座する「金峯神社」を撮影したものだ。当神社は吉野山の地主神である「金山毘古命(かなやまひこのみこと)」を祀っており、栄華物語には藤原道長が詣でたことが記されている。この吉野山から「大峯山(山上ケ岳・標高1719m)」にかけての一帯は、古くから「御嶽信仰」の盛んなところで、山に黄金の縁故をつけて「カネノミタケ(金峯山)」と称したとのこと。その由来として、「白銀黄金を盛った山に神仙が宿る」という道家思想の影響を受けたものとも考えられるそうだ。ああ、一度は行ってみたかった・・・吉野の奥山・奥座敷・・・道中は崖崩れも散見され厳しかった。それでも何とか辿り着くことができ、有り難きお導きの感慨を胸に、「吉野山」に手を合わせた。
2013年10月31日

9月25日(水)の朝、かつて「春の旅」でも宿泊したホテルから出発した私は、まず奈良公園内にある「東大寺」の裏山ともいえる「若草山(標高342m)」に向かった。東大寺の横から若草山ドライブウェイを通って山頂駐車場へ、そして歩いて約3分の奈良盆地を一望できる「三重目」の展望台から、葛城山系より続く生駒山系方面を映したものが「上の画像」である。この素晴らしい眺めを満喫しつつ、ここで繰り広げられてきた奈良時代以降の・・・その紆余曲折の歴史の全体像を、まるで俯瞰できる立場に置かれたような・・・そんな想いも湧いてきた。実は、この「若草山」に登ることについては伏線があって、それは「御嶽山」に登拝した当日(9月20日)の朝に、知人からいただいた電話で語らった内容にあった。以下に、その内容を掻い摘んで記してみよう。☆どうやら日本列島には、木曾の「御嶽山」を〔中央〕として、「艮(東北)」と「坤(西南)」を結ぶ「艮坤線」なるものがあるらしい。☆その「御嶽山」の〔艮〕の方位に、「御嶽山」とは兄弟の山とされてきた新潟の「八海山」がある。☆その「御嶽山」と「八海山」を結んだ直線距離と同じ距離をを、「御嶽山」を〔中央〕として〔坤〕の方位に反転させた場所が、大和の「三輪山」ではないかと私は考えている。などと話していると、その感性の豊かな知人は・・・それ(坤の場所)は奈良の「若草山」と感じられる・・・との明解な返答があり、まさか私も「御嶽山」の麓で登拝の直前に、かような会話になろうとは思いも寄らなかったこともあり、その時点でこの「秋の旅」の帰り道に、「奈良」に途中下車することにしたのだった。かつて「春の旅」では大和の「三輪山」の山頂に登拝したので、この「秋の旅」では奈良の「若草山」に登拝できれば有り難いと感じたわけである。◎関連記事・2013年04月02日 「春」の旅日記(7)⇒ リンクさて、この若草山山頂には、5世紀頃(古墳時代前期)に築造されたとする史跡で、枕草子にも登場する「鶯塚古墳」(うぐいすづか)がある。この「鶯塚古墳」は、若草山の頂上に築かれた全長103mの前方後円墳で、後円部に「鶯陵」の石碑が立っていた。この前方後円墳を、南方にある前方部の上から、後円部に向けて映したものが「下の画像」である。標高300m以上の山頂にある古墳としては、全国でも最大級とのことで、通説では第16代 仁徳天皇の皇后の墓といわれている。 この山上の後円部にある三角点の置かれた場所にしばらく座って、そこから東北にして[中央]の「御嶽山」、さらに東北方面の「八海山」と、三点一直線で結ぶ線分を自身の心の中で展望した。そして当初は「春の旅」と同様に、東大寺と春日大社など麓の社寺を巡拝できればと考えていたが、ここ奈良の「若草山」の山上において、この「秋の旅」の終盤では、できるだけ重複は避けたいという気持ちになった。そこで次に向かったのは、今春の「春の旅」では中途半端となり名残惜しい参拝(参詣)となっていた、「吉野の金峯山」方面へ・・・。思えばこの金峯山は、「御嶽信仰」の故郷でもあった。
2013年10月30日

「上の画像」は、前回の日記と同じく「伊吹山」の山頂部より、西方にある琵琶湖から比良山系の方面を撮影したものだ。画像のように、琵琶湖の湖面に反射する黄金色の太陽光は、荘厳で美しい輝きを放っていた。ちなみに、湖の右側にかすかに見える小島は「竹生島」である。さて、この旅日記(28)にて・・・「天武天皇」が編纂を命じたとされる「記・紀」において、日本列島の中心と定められた形跡のある「伊吹山(標高1377m)」・・・と記したが、その参考となった書籍を以下に紹介しておきたい。◎参考書籍 書名「実在した幻の三角形」・大谷幸市 著・卑弥呼の金印発掘研究会 1987年刊この本の著者である大谷氏は、『古事記』・『日本書紀』に記された暗号文を読み解くキーワードが、「円接正多角形」の図形概念にあることを洞察され、その幾何学的発想から「伊吹山(標高1377m)」と奈良の「三輪山(標高467m)」、そして伊勢の「朝熊山(標高555m)」の、その三山の山頂を直線で結ぶと、「正八角形」を母体とする正確な「二等辺三角形」を形成することを見出された。ちなみに、この三山が形成する「二等辺三角形」は、その内角が45度・67.5度・67.5度を正確に示しているとのことだ。・・・ということはつまり、「朝熊山」と「三輪山」を結ぶ線分を一辺(地図では南側の線分)とする「正八角形」があるとして、その「正八角形(宇宙)」の中心が「伊吹山(北極星)」という配置になるわけである。『記・紀』が編纂された当時の国体の中心が、「伊吹山」に置かれていたことを明確に見抜いて、書籍として一般に公開されたのは、おそらく大谷氏が初めてであろう。この書籍の出版当初からの愛読者だった私の脳裏には、往時の「記紀神話」の世界観においては、大八島(日本列島)の中心は「伊吹山(北極星)」だったという感覚があったのは確かである。ところで、当日朝の熱田神宮の参拝では、「草薙剣」の本質は「南十字星」だと再認識することになり(旅日記26⇒リンク)、様々な過程を経て同日の夕刻に、「伊吹山」の山頂へ登らせていただくことができた。「記紀神話」における「日本武尊」は、「草薙剣」を持参しないで伊吹山に登ったので祟られたとある。今、改めて上記のことを考えてみると、私としては熱田神宮にて「南十字星(草薙剣)」を意識(持参)して、「北極星」の位置付けたる伊吹山に登拝する必要があったのではなかろうか。・・・もしかすると、途中下車を含む行為を経て、いよいよ「伊吹山」の山頂において、私自身の内面における「南北の統合」、あるいは「陰陽の和合」へ向けての心身の変容が、渦巻き誘われていくのかもしれない・・・などと、そのように感じはじめた今日この頃である。この「下の画像」は、伊吹山から東南方面を撮影したもので、中央部の小さく見えるなだらかな山は、伊吹山と養老山系の中間に位置する美濃の「南宮山(標高419m)」である。この「春の旅」では、「伊吹山」の山上にはまだ雪が多く残り、またドライブウェイが開通していなかったため、この南宮山の山頂部から残念な思いで暫く遥拝していたのを思い出す。そして山頂から駐車場に戻って車に乗ろうとした時、何かの工事で働く人々が帰り支度をしている場面に遭遇し、車で下山する際の注意事項が聞こえてきた。・・・とにかく「鹿」に気を付けることだ。もしぶつかったら、車は壊れるし後始末が大変だぞ!・・・と、大きな声だったので、私にも聞こえるように話してくれたのだと感じた。そういえば山頂部でも、「鹿」の鳴き声が何度か聞こえていたので、夕暮れや夜間の山道を車で走る際には、十分な注意を心がけようと思った次第である。さあ翌日は「奈良」である。奈良市内にホテルを予約した私は、安全運転で夜道を駆け抜けた。
2013年10月29日

約17Kmの伊吹山ドライブウェイを走り、滋賀県で最高峰の日本百名山の一つである伊吹山(標高1377m)の山頂付近の駐車場まで一気に上る。 山上の駐車場に到着したのは、9月24日の午後4時頃だったが、当日の車での登山者は私が最後だったようである。駐車場から約30分の徒歩で山頂へ・・・その途中に北方方面の、なだらかで美しい山脈を映したものが「上の画像」である。有り難いことに山頂には、日没まで私以外に誰一人いないという貸切状態であった。この「中の画像」は、伊吹山の山頂部に置かれた「日本武尊」の石像を撮影したものである。また山頂部には、他に弥勒菩薩像が二体安置されていることから、関西から見て、鬼門【東北】に当たる伊吹山は、「弥勒(ミロク)の山」として崇められ、また恐れられてきたことがうかがえた。夏至の頃には、「伊吹山」の頂上より「御嶽山」の山上から昇る朝日を拝むことができ、その二つの山頂に直線を引くと、その線上に「金山巨石群」の位置も乗ることから、この三つの地点を結ぶ軸線は、太古より古代人に意識されてきたと考えられる。残念ながら当日は、「御嶽山」を確認できなかったが、この「伊吹山」を中心とした場合には、「御嶽山」が鬼門を象徴する「弥勒の山」として見立てられてきたと推考できる。さて『御嶽山縁起』には、「されば、蔵王権現と申すは現世にて弥勒菩薩なり、今生にて権現なり。」とあり、「権現」とは仮の姿で現われる神仏の意であるとされている。さらに「蔵王権現」とは、吉野の金峯山で「役小角(役行者)」が感得したといわれ、仏教にない仏、つまり日本独自の仏なのだそうだ。象徴的な表現をすれば、御嶽山で王権現に出会い、伊吹山で弥勒菩薩に出会った私は、その時点ではまだ予定を立てていなかったが、既に「吉野の金峯山」に行くことになっていたのだと、今から思うとそのように感じるところである。そして「下の画像」は、伊吹山(標高1377m)の「三角点」を撮影したものである。
2013年10月29日

・・・ようやく・・・というべきか、この「秋」の旅日記(26)の熱田神宮~真清田神社編を記した時点で、今春の「春の旅」と今秋の「秋の旅」の関連性が読めてきた。この「秋」の旅日記シリーズの冒頭から、「秋の旅」は「剣(つるぎ)」がキーワードだと記してきたが、この「剣」を《三種の神器(勾玉・鏡・剣)》の一つとした場合に、陰陽の関係から「剣(男性性)」に対応するのは「鏡(女性性)」なので、「春の旅」は「鏡(かがみ)」がキーワードだと気付いたのである。そういえば「春の旅」は、《三種の神器》の「鏡(八咫鏡)」を御神体として奉祭する伊勢神宮(内宮)に参拝した経緯もあり・・・なるほど・・・と自分なりに頷けたというわけだ。☆関連記事・2013年04月05日 「春」の旅日記(11)⇒ リンクさて上の画像は、「伊吹山」に向かう道中の関ヶ原のあたりで、まるで吸い寄せられるようにして辿り着いた場所で、国史跡〔桃配山・徳川家康最初陣跡〕との立看板のある「桃配山(ももくばりやま・標高104m)」の入口を撮影したものだ。安土桃山時代に起きた関ヶ原合戦(AD1600年)の時に、家康が最初に陣をしいた場所で、この桃配山の中腹を陣地にしたことで、一日で天下を自分のものにしたと伝わる。下の画像は、「関ヶ原古戦場」と記された石碑の立つ陣地の跡を撮影したもので、合戦時に家康が使用したとされる腰掛石(画像の左下の石)と机石が今も残っていた。そもそもこの桃配山は、関ケ原合戦以前の「壬申の乱(AD672年・日本古代最大の内乱戦争)」において、「大海人皇子(後の天武天皇)」が野上行宮から吉野軍を率い、ここ不破の地に出陣して、名産の「桃」を全兵士に配り戦いに快勝したとのことで、その奇縁により「桃配山」とか「桃賦野(ももくばりの)」と呼ばれるようになったそうだ。繰り返しになるが、その後の関ヶ原合戦にて、東軍の総大将・徳川家康はその故事にならい、ここ桃配山に最初の陣を置き勝利を得たということである。思い返せば「春の旅」の際、近くの南宮山(美濃国一の宮・南宮大社の神体山)の山頂に登ったのだが、その山頂部には関ヶ原合戦における西軍の毛利秀元(一時期は西軍の総大将・毛利輝元の養子・後に長門国長府藩の初代藩主)の陣跡の碑が建っていたことを思い出す。☆関連記事・2013年04月14日 「春」の旅日記(21)⇒ リンクこの日本国内で起きた二つの大戦における戦勝の陣地となった「桃配山」に導かれ、この地に立って感じたのは、「春の旅」の近畿・東海地区では「聖武天皇」に想いを馳せた旅路だったのだが、この「秋の旅」では「聖武天皇」が慕ったと伝わる「天武天皇(大海人皇子)」の存在であった。そんな思いが過ぎるなか、その「天武天皇」が編纂を命じたとされる「記・紀」において、日本列島の中心と定められた形跡のある「伊吹山(標高1377m)」へと車を走らせるのであった。
2013年10月28日

9月24日は、午前中に熱田神宮と真清田神社の参拝を経て、午後は岐阜の「金華山」へ行った。その際、ロープウェイで山上に登り、岐阜城天守閣の最上階から長良川の下流域、そして遠方に伊吹山を望む方面を撮影したものが「上の画像」である。若い時代に約2年、この岐阜市内に住んだことがあり、おそらく30年ぶりの展望であった。次に「中の画像」は、その復元された天守閣を入口方面から映したもので、山上にある城郭(標高329m)を訪れ、その威風堂々とした姿に暫く見惚れたのを思い出す。そして「下の画像」は、その天守閣のすぐ近くにある山頂広場にある岩々を撮影したもので、なぜか私はこの剥き出しの岩々の発する「氣」がとても気に入って、その岩々と触れ合うこと小一時間・・・そうか、私はこの金華山に呼ばれて約2年の岐阜市滞在が実現したのだ・・・と感じた。歴史には・・・1567年(永禄10年) 織田信長の居城となり稲葉山城から岐阜城と改称された。天下統一の拠点として、山上には天守、山麓には壮麗な御殿(天主)が建設され、城下町には楽市楽座が設けられて繁栄した。・・・とある。山上の岩々とジックリと響き合いを堪能し、その帰り際に湧き上がってきた想いは・・・どうして信長は岐阜城から安土城に移ってしまった(1575年)のだろう・・・ということだった。・・・富士山と出雲を結ぶ「東西軸」と、木曾の御嶽山と奈良の法隆寺を結ぶ「艮坤線」の交点にある「金華山」という映え抜きの地所で、《天下統一》を維持すべきだった・・・その浮かぶ想いは、信長に謁見した宣教師「ルイス・フロイス」の心境だったのかもしれない・・・。☆関連記事・2005年07月20日の日記・タイトル《「愛」を知る体験 》 ⇒ リンクhttp://plaza.rakuten.co.jp/opektal/diary/200507200000/
2013年10月27日

愛知県内で宿泊した翌日の9月24日(火)の朝は、今回の「秋の旅」は「剣(つるぎ)」がキーワードだったことを思い出して、まずは皇位継承の物実「三種の神器」のなかの「剣」、すなわち「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」を御神体として祀る「熱田神宮」への参拝となった。「上の画像」は、近年(平成21年)の修造となる熱田神宮の拝所から、「本殿」のある御垣内を撮影したものだ。ちなみに、御垣内の一番奥に十本の勝男木(かつおぎ)が並ぶ社殿が「本殿」である。それこそ今朝、改めて「熱田神宮」について調べていると、《当神宮の主祭神「熱田大神」は、御神体である「草薙の剣」の神霊のこととされるが、明治以降の熱田神宮や明治政府の見解では、「草薙の剣」を御霊代(みたましろ)とする「天照大神」を指すとしている。》とあった。当日は境内にて、この「熱田大神」を「天照大神」とする由来書を読んだ時に、なぜか強い違和感を覚えてしまったわけだが、古くは「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と称された「草薙の剣」の神霊のことを「熱田大神」とされたのであるならば、主祭神は「天叢雲剣」に所縁の深い「素盞嗚尊」や、神宮創建の経緯からして「日本武尊」が相応しいと素朴に感じた次第である。このような複雑な思いが去来する中、拝殿の前に立つと・・・「草薙の剣(天叢雲剣)」の本質とは、南天に輝く「南十字星」のことである・・・という強い思いが湧いてきて、参拝までに感じた「わだかまり」が解けたのは有り難かった。(※関連記事は下のリンクにて)・・・という体験から考えてみると、この度の久しぶりとなる「熱田神宮」の参拝は、「剣(つるぎ)」とは「南十字星」を象徴する物実だということを再認識するための実践行為だったのではあるまいかと、そのように感じたところである。☆関連記事・2013年04月06日 「春」の旅日記(13)⇒ リンクさて当日の大枠の予定としては、夕刻までに「伊吹山(標高1,377m)」の山頂へ登るということであった。そんな流れで岐阜方面に向かって車を走らせていると、「一の宮」の看板が何度か目に入り、お導きを感じて尾張国一の宮「真清田(ますみだ)神社」へのお参りとなった。そこで「中の画像」は、当社の御本殿を撮影したものである。かつて岐阜市に住んでいた時期もあって、当神社への参拝は十回を越えただろうが、今回は久しぶりの参拝となり懐かしさが込み上げてきた。当神社の主祭神は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてる あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)」にして、古代文献『ホツマツタヱ』によると本来の「天照大神(男神)」とされる祭神である。(ここらあたりの解説は、上記のキーワードで検索されたし。)懐かしさを胸に参拝を済ますと、先ほどから気になっていた一羽のカラスがすぐ側に・・・。近づいてもなかなか逃げようとしない、その人馴れしたカラスを映したものが「下の画像」である。これは先導役の「ヤタガラス」だと感じつつ、社務所でいただいた真清田神社の由来書を読んでいると、上に記した当社主祭神「ニギハヤヒ尊」は、神代に大和国(奈良県)の葛城山麓「高尾張邑(たかおわりむら)」を出発されて、尾張国の当地にお鎮まりになられたと記されていていた。奈良の葛城山とくれば、八咫烏(ヤタガラス)と称された賀茂氏の拠点が葛城山麓にあったわけで、なるほど道案内役の「ヤタガラス」の片鱗が、道中に散見された「一の宮」の看板にも出ていたなと感じたところである。加えて今年の「春の旅」では、尾張氏とも深い関係にある賀茂氏を訪ねて、山麓に鎮座する「葛城」を代表する五社(延喜式内社)を巡拝していたことも思い出していた。☆関連記事・2013年03月29日 「春」の旅日記(4)⇒ リンク
2013年10月26日

今回の「秋の旅」においても、今年の「春の旅」の際に「金山巨石群」を訪れた時と同様に、磐座の内部に照射する太陽光が消えて見えなくなる前に、持参していた造形を磐座内に持ち込んで撮影することにした。(午後2時頃)上の画像は、『歓喜(よろこび)』と名付けた「立体七角形」を、少し遠目から撮影したものである。次の画像は、上の画像と同じく、「虹の七色」を円環状に彩った『歓喜』を、ズームアップで映したもので、その光の当たり方といい影になる部分といい、なかなかに幽玄な陰陽和合の味わいを醸している。そしてこの画像は、「春の旅」の訪問(下に関連記事)においても撮影した『玉響(たまゆら)』と題する造形で、今回の「秋の旅」でも陽光を浴びて凛とした美しい輝きを放っており、その周囲には一つ二つの小さな「たまゆら」も嬉しそうに舞っていた。☆関連記事・2013年04月12日 「春」の旅日記(19)⇒ リンクさらに下の画像は、これを拡大して映したもので、その暗闇の磐座内に「秋分の陽光」が透過した『玉響』は、何とも言えぬ深い存在感を漂わせていた。
2013年10月25日

この「金山巨石群」のある一帯には、私なりの感覚では、大きく分けて「抱合タイプ」と「林立タイプ」の2つの巨石群のまとまりが確認できた。※(一)と(二)は「抱合タイプ」の撮影画像。そこで「上の画像」は、その「林立タイプ」の巨石群を見て回っていた時、たまたまある角度から見ると、鋭い切れ込み状に2つの岩を平行して切り揃えたような姿が見出せたので、これは岩を人為的に加工した形跡が伺える確実な証拠だと感じて撮影したものだ。この幾何学的に美しく見える方向から推測すると、もし前方の森林が無かったとした場合に、おそらく遠方の山の谷間から「夏至の日の出」が観測できる方位なので、その加工された岩が形成するV字状の切れ込みを照準として、夏至の太陽が昇る「その時」を観測していたのではあるまいか・・・。この「中の画像」は、同じく「林立タイプ」の巨石群を、一番高い位置にある巨石の頂上から撮影したものだ。実は、この林立する巨石群の中央部に、大人ひとりが寝そべることのできる大きさのフラットな岩があるのだが、今回はその岩の上で面白い体験をすることができた。そのフラットな岩の近くを通った際に、なぜかその岩の上に横になりたくなったので、おもむくままに仰向けになって体を預けていると、暫くして体の力がフッ!と抜けるのが分かるのだった。それから約15分、次第に変性意識状態になっていき、その間に段階的に3回位だったと思うが、自分の意識が身体とともに深みに降りていくのを体感できたのを覚えている。その間は大変気持ちよく、しばらく恍惚感に浸っていたと思うが、心身ともにある段階に至ったのであろう、頃合いを見計るかのように「ハッ!」と正気に返って、すぐに立ち上がることができたのも不思議な感覚であった。さて9月23日「秋分の日」の最後のイベントは、「抱合タイプ」の巨石群の一角において、その複雑に組まれた岩間に差し込んでくる、「日の入」前の太陽光の写真撮影であった。そのピンポイントの撮影場所は限られているので、カメラ持参の撮影者が入れ替わり立ち代わりして、何枚か映した私のベストショットが、この「下の画像」である。画像の左手に映り込んだ大きな「たまゆら」も、今年は「春」と「秋」と二度目となる「金山巨石群」(岩屋岩蔭遺跡)の訪問を寿いでくれたようだ。帰り際には、今回も懇切丁寧に解説してくださった調査員の計らいで、JR飛騨金山駅近くの「金山巨石群調査室」にて、これまでの巨石調査の経緯に纏わる興味深いお話を伺うことができた。そして最後に、金山町観光協会会長にして金山巨石群調査資料室の室長が心魂を込めて打つ、北海道から仕入れたばかりの「新そば」に舌鼓、その甘くて深い味わいと香りを胸に、大満足で「飛騨の金山」を後にした。
2013年10月24日

さあ「秋分の日」の朝、「金山巨石群」の組み合わされた磐座の内部では、あるイベントが始まろうとしていた。その行為は古代人にとって、毎年の秋分(春分)の「その時」を確認する、大切な儀式でもあったと思われる。当日のイベントの主役は、秋分の「太陽光」であり、その複雑な岩組みの隙間から差し込む細い光を映したものが「上の画像」である。その岩間から差し込む光は、時間とともに観察用と思われる岩の上を移動していくわけだが、その様子の一コマを撮影したものが「中の画像」である。この画像の中心部の岩面上に、照射した光が描く小さな楕円形が確認できると思うが、これが秋分の朝に差し込む太陽光であり、この「楕円形の陽光」が少しづつ移動して、その斜め右下に置かれた「楕円形の小石」と重なる時が、秋分の特別な「その時」を示すことになるそうだ。そして、その「楕円形の陽光」と「楕円形の小石」が、まさしく同じ大きさで「ひとつ」になった「その時」を撮影したものが「下の画像」である。・・・まさに迎えた「その時」は、現地に集った方々との「感動の瞬間」でもあった。・・・その観測用と思われる「楕円形の小石」は、少し凹んだところもある楕円形なのだが、それとソックリそのままの大きさと形状の「楕円形の陽光」なので、おそらく観察用の岩の上に「その時」に描く光の形状を模倣して、「小石」を加工した可能性があると思われる・・・。ちなみに、この大きさと形状の「楕円形の陽光」は、秋分(春分)の日に特有のもので、たとえ観測日が一日ずれたとしても、全く違う大きさと形状になるそうである。また「中の画像」にある観察用の岩の、すぐ右横にある小さな三角形状の岩では、四年に一度の閏年を精確に計測していた形跡が見受けられることから、この磐座が形成された主目的は、年間の太陽運行における節目節目を計測する「暦」の役割だと考えられるそうだ。よくよく調べていくと、この「金山巨石群」で計測される暦における正確さの度合いは、現行の「グレゴリオ暦(西暦)」の精度をはるかに凌いでおり、既存の暦法では有り得ない正確さが確認できるとのことである。☆この「金山巨石群」に関する詳しい情報は《金山巨石群調査資料室》⇒ リンクhttp://www.seiryu.ne.jp/~kankou-kanayama/kyoseki/index.html
2013年10月24日

9月23日(月)は「秋分の日」の朝、実はこの日を意図的に狙い澄まして、ここ飛騨の「金山巨石群」を訪れたのであった。この「上の画像」は、当日の朝日に輝く巨石群を映したものである。その意味においては、言わば「聖三角形」の頂点に当たる他の2つの地点の「御嶽山」と「位山」は、ここ「金山巨石群」に至るまでの布石だったという観方もできる。・・・というのも、今年の「春の旅」において、「春分の日」に向けて「金山巨石群」を初めて訪れ、それをキッカケとして「金山巨石群」を要と見立てて、「御嶽山」と「位山」を含む「聖三角形」を見出すことができたからである。以上の観点からか・・・この「秋分の日」に「金山巨石群」を訪れた時には、私の心中には「御嶽山」は「父親」にして「位山」は「母親」、そして「金山巨石群」は「子供」という「三位一体」の三つ巴文様の「聖三角形」が明確に形成されていた。ところで、今回の「金山巨石群」への訪問においては、なぜかとても気になる巨石があった。その巨石とは、この「中の画像」の中央にある、その断面が天に向かって突き立つような配置の大きな磐座である。その中心となる巨石は、その約10m以上はあろうかと思われる卵形の巨石を、まるで真っ二つに割ったかのような感じのもので、その片割れの断面を「ある方向」に向けて安定化させるために、そのメインとなる巨石の両脇に別の二つ以上の巨石を据えた配置になっているのではないかと、その時の私には思えた。また、この度の再訪で分かったのだが、半年ぶりに再会した調査員の話によると、その中央の巨石の断面が示す角度は、冬至の約60日前(秋分の約30日後)の太陽光が、磐座に差し込む角度を示しているとのことだ。・・・ということは何と! 本日「10月23日」が、その月日に相当するというわけである。この「下の画像」は、その大きな断面のある真ん中の巨石の、その根元の東奥にある突出部の石面を意識して撮影したものだ。その左隣のA3サイズの紙には、10月23日頃の太陽光の照射の加減が示されている。上の繰り返しになるが、この巨石の根元にある突出部の石面に、「冬至」の約60日前(10/23頃-12:52頃)と約60日後(2/19頃-13:21頃)にスポット状の光が当たり、またこの太陽光が当たる石面を観測することで、1年のサイクルをかなり正確に読み取ることができるとのことである。この「金山巨石群」の中心ともいえる巨石の、おそらくは年間でも大切な月日とされたであろう本日の「10月23日」に、この記事を書けたことに有り難き幸せを噛み締める今日この頃である。
2013年10月23日

この画像は、「飛騨の位山(標高1529m)」の三角点の標識が置かれた山頂を撮影したものだ。前日まで登っていた「木曾の御嶽山(標高3067m)」と比べると、ほぼ2分の1の高さである。「位山」の山頂部では、かように木々が生い茂り、「御嶽山」の山頂部といえば植物は一切生息しておらず、剥き出しの岩刻群であった。山頂といえども標高差が2倍ともなると、これほどまでに環境が違うのだと、改めて思い知らされた。さて昼食は、前回の日記の「下の画像」のあたりにある展望広場で弁当を広げたが、そこにはピーチクパーチクと賑やかに昼食中の若い二人の「山ガール」(登山女子)がいた。食後、あまりに楽しそうだったので話しかけてみると、この「位山」への登山は初めてだという。二人とも御揃いの黄色を基調にしたお洒落な服装で、話を聞いてみると仲の良い友達同士の一人は登山が趣味で、もう一人は登山よりもパワースポットに興味があり、双方の期待と要望に答えてくれそうな山として、今回は「位山」を選んだそうだ。まだ二人とも三角点のある山頂には行っていないということだったので、私が案内することになった。この山頂にて、二人のツーショット写真を撮影後、いよいよ私のレクチャーが始まった(笑)。・・・この三角点のすぐ近くに磐座があり、そこから少し下方にある磐座の方位を調べると、真南から東に約20度の方向である。この方位は、古来より「冬至の夜にシリウスが昇ってくる方位」として重要視され、世界各地の遺跡にもその痕跡が見出されていて、その言わば「シリウス信仰」の祭祀遺構が、位山山頂にも残されている可能性がある。・・・などと、先ほど事前に山頂付近を散策して私なりに感じた見解を述べたが、二人とも興味深そうに聞き耳を立ててくれたのは嬉しかった。この上から2つ目の画像は、その山頂から少し下方にある磐座の、そのすぐ側にある三角形状の岩石(高さは約50cm)を映したものである。この画像でも確認できるが、その断面には意図的だと思われる「たくさんの穴」を見出すことができ、おそらくこの位置から見えたであろう、ある季節の夜空の星々の配置を刻印した「杯状穴(はいじょうけつ)」ではないかと感じたところである。その後もワクワクしながら、今どきの若き登山女子と共に、山頂近くの分水嶺の源泉「天の泉」を案内したり、もう一つの「シリウス遺構」と感じた(前回ブログで解説)「御魂岩」近辺の、その高台にある広場の様相などを案内できたのは、私にとっても思い出に残る経験となった。そして、その美しき二人の山ガールとは、ルートの違う登山道だったので、下山途中にある「天の岩戸」の磐座とその周囲を散策した後に別れることに・・・。(あ~楽しかったヽ(^。^)ノ)下山の後、一度は訪ねてみたかった下呂温泉近くの縄文公園にある「峰一合遺跡」へ・・・。縄文時代前期から弥生時代にかけて集落があった峰一合遺跡からは、おもに「下呂石」を使った石器類や土器類が発見されたとのことで、隣接の「ふるさと歴史記念館」では興味深い文化財の数々を見学することができた。そこで上の画像は、その縄文公園内に置いてあった、大きな「下呂石」を撮影したものである。この「下呂石」は、近くの「湯ケ峰(標高1067m)」の山頂付近にある露出した溶岩から産出する黒色ガラス質のもので、この岩石を考古学の分野では「下呂石」と呼ぶとのこと。「下呂石」は鋭利な割れ目をもつので、削ったり剥したりする作業のための石器として優れており、旧石器時代から弥生時代までの長いあいだ使われてきたそうだ。同じような石器の材料としては、長野県で産出する「黒曜石」、近畿・中国地方の「サヌカイト」等が有名だが、岐阜県や愛知県ではこの「下呂石」が最も使われてきたとのことである。さて当日9月22日は夕方の午後五時頃となり、下呂温泉で宿泊ができればと旅館案内所等に連絡してみたが、三連休の中日ということもあったのであろう、「一室」も空きが無いということで断念、仕方なく一所懸命に検索してホテルを探し、またもや「飛騨の高山」にて宿泊することに。そこで、せっかく下呂温泉に来たのだから温泉に入ろうと、飛騨川の畔にある日帰り温泉の「クアガーデン露天風呂」にて、「湯ったり気分」に浸ることができ、登山の疲れを癒すことができた。さあ明日は「秋分の日」。念頭にあった「龍の鱗紋たる三角形」の3つのポイント地点、「木曾の御嶽山」に「飛騨の位山」と、そして残るは第3地点の「金山巨石群」へ行くことに・・・。
2013年10月22日

「上の画像」は、位山の山頂付近にある「御魂岩(みたまいわ)」と名付けられた磐座である。全体としては台形状で、意図的に切り揃えられた形跡が見受けられた。この磐座を真上から見るとすれば、長方形であることが予想される。ここでさらに興味を引くのは、この画像の磐座と、ほぼ同じ大きさと形状の磐座が、すぐ横の左側にあることだ。とても気になったので、山道を外れて、この一対と思われる二つの磐座の間を通り抜けてみた。すると、そこはかなり大きな広場があって、全体としては高台になっており、その意外に広い空間の側から二つの磐座を撮影したものがこの「中の画像」である。その時の私なりの直観では、この二つの磐座の間の窪みが、この高台の広場に繋がる通り道という感じで、この広い空間の全体を俯瞰してみると、磐座は二つで「ひとつ」、つまり一対で「門」を形成しているのではないかということだった。・・・ということで、ほぼこの画像の位置から方位を調べてみると、真南から東方に約20度を示しており、これは古より冬至の頃に「シリウス」が昇ってくる聖なる方位として、世界中の古い遺跡の数々にも痕跡が認められる方位線である。思い返せば今年の「春の旅」でも、旅路の過程でこの「シリウス信仰」あるいは日本的には「弥勒信仰」を髣髴とさせる痕跡が見出せたのだが(以下に関連記事)、まさか今回の「秋の旅」においても、しかもシリウスに纏わる噂や伝承のある「位山」の山頂付近で、「シリウス」の痕跡が見出せようとは・・・。☆関連記事・2013年04月10日 「春」の旅日記(17)⇒ リンクある種の感慨を胸に、この高台の広場を散策していると、他にも巧妙な細工が施された形跡のある長い石柱のような岩石も見出せたこともあり、この一帯を散策したその時の私の印象は・・・この場所にはもしかすると、言わば「シリウス神殿」のような建造物が、太古より存在したのではないか・・・ということであった。この「下の画像」は、位山の頂上付近で最も見晴らしの良い場所から、西方の「白山」方面を撮影したものである。天候は薄曇りであったが、かすかではあるが遠方に白山連峰の最高峰である「御前峰(ごぜんがみね)」を含む「白山三峰」を確認することができた。ところで、このシリーズの《「秋」の旅日記(4)》でも少し紹介したが、記紀以前の古文書といわれる『竹内文書』には、以下のように「天孫降臨」に纏わる興味深い内容が記されている。・・・日の神の皇太子は日玉国(飛騨国)の「位山」に大宮を造営し、天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみはじめのたましいたまや)として世界統治の拠点とした。そして、その皇太子の即位によって上古二十五代の御代が始まる。(その初代は 天日豊本葦牙気皇主尊天皇 )・・・また古代史研究家の間では・・・高天原(たかあまはら)は日本にいくつもあり、中でも一番古いのが「飛彈高天原」で、「位山」はその中心となり、天照大神の幽の宮(かくれのみや)がある。・・・と言われているとのことである。日本の歴史は実際のところ、どこまでが真実なのかは分からない。もちろん『竹内文書』にしても、すべてが真実だとは思えない。しかし、現行の歴史教科書の基本とされる「記・紀」の記述のなかに真実ではないことが含まれているとするなら、それを補うに足る内容が『竹内文書』に書かれている可能性は、決して否定できないであろう。
2013年10月22日

9月22日の朝、まずは飛騨国一の宮「水無(みなし)神社」に参拝。「上の画像」は、当神社の鳥居方面から社殿を含む全体像を撮影したものである。御神前にて、神体山である「位山(くらいやま)」への登拝の旨を、ご報告させていただいた。今年の「春の旅」では、まだ雪が深くて登れなかったことや、この度の「秋の旅」では前日の御嶽山に登拝できたこと、加えて数日前の富山では「位山」とも御神縁の深い御皇城山の皇祖皇太神宮に参拝できたこともあり、是非とも位山登拝を実現したかった。☆関連記事・2013年04月11日 「春」の旅日記(18)⇒ リンク一の宮「水無神社」の由来書を見ると・・・当神社の神体山である「位山」は、神代の昔より日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主(みぬし)または水分(みくまり)の神の坐す奥宮と称している・・・とあった。社名の「水無(みなし)」は、「水主(みぬし)」が由来とのことだ。また「位山」という名前の由来についてウィキペディアには・・・朝廷に位山のイチイを笏の材料として献上した際、この木が「一位」の官位を賜ったことから木は「イチイ」、山は「位山」と呼ばれるようになったという説があり、現在でも天皇即位に際して位山のイチイの笏が献上されている。・・・とある。位山の登拝は今回で二度目となるが、前回と同様に「ダナ平林道(未舗装・約5Km)」を車で登り、その終点の駐車場から歩いて登る最短コース(山頂まで約45分)を選んだ。巨石群登山道ともいわれるこのコースは、山道の道すがらに数々の巨石(磐座)が鎮座しており、ロマンあふれる名称が記された立札が、それぞれの巨石の前に置かれている。午前9時30分頃から登り始めて、山頂まであと少しのところだったであろうか、もう一つの登山道との分岐点あたりにある磐座が、「天の岩戸」と立札のあるこの「中の画像」である。そこで試しに、磐座の前の祠の置かれた方位を磁石で見てみると、「夏至の日の出と冬至の日の入」を示す方位線を確認することができた。なるほど、典型的ともいえる・・・「天の岩戸」という名称に相応しい磐座・・・である。そして、ほぼ山頂に近いところに美味しい水の湧く場所があるのだが、そこに向かう山道の途中で撮影したのが「下の画像」で、昨日登拝した「御嶽山」の雄姿を逆の方向から映したことになる。その「天の水」と称される湧水の場所は、綺麗な水汲み場として整備されており、山頂近くにしては不思議なくらいの水量が湧出していて、それがまたとても美味いのである。・・・おそらく、ここがまさに分水嶺「位山」の源流といえる湧水なのだろう。・・・面白いことに、この美味しい水を両手を合わせて何度か飲んでいるうちに、私なりに気付いたことがあった。それは、その湧水を受ける際に、水を漏らさぬように両手を合わせた形状が、普段の食生活で使用する御飯茶碗などの「器」に観えてきたこと。それと、漏らさぬように両手でいっぱいに受けた水が、その人が一回の吸引で飲める量ではないかということであった。この日本を代表する分水嶺「位山」の山上での「気づき」は、その時の私にとっては「今後に活かせる発見だ!」と、何故か嬉しく感じたところである。
2013年10月21日

御嶽山の山頂(剣ヶ峰 3,067m)にて早朝の景色を楽しみ、ひとしきりして名残惜しくも下山へ。そこで、まずは日本で最も高所にある湖の「二の池(標高2,905m)」へ近づいてみることにした。「上の画像」は、その蒼い水を湛えた「二の池」の湖畔から、山頂方面(画像中央の少し左側の黒っぽく見える頂)に向かって撮影したものである。さらに山肌に残る万年雪にも近づき、そのすぐ側に寄ってみると、少しづつ氷が融けて滴り落ちる涼やかな水音が聴こえて・・・この湖は雨水に加えて、この万年雪の融けた水が溜まってできているわけだ・・・と、そのエメラルド色に美しく輝く湖面を、感慨深く眺めていたのを思い出す。この「中の画像」は、下山を始めておよそ半分の8合目あたりで撮影したものだ。下方の小高い山の中腹に見える人工的に切り開かれたところが、御嶽山の7合目にある「田の原天然公園」の無料駐車場を含む地域となる。さて当日の9月21日は、晴天に恵まれた土曜日(三連休の初日)ということもあり、頂上を目指す登山者がひっきりなりに登っていた。リタイヤ寸前の私も登れたということで、辛そうに登ってくる登山者を見つけては・・・あそこに見える山が「富士山」ですよ・・・山頂は雲一つない大パノラマで素晴らしい展望でしたよ・・・などと、下山まで約50組の方々に励ましの言葉をかけつつ降りていったのも楽しき思い出だ。そして、ようやく7合目の「田の原」に到着し、裾野に広がる天然公園の小路に入っていき、名残惜しそうに御嶽山を振り返って映したものが「下の画像」である。7合目の駐車場から車で降りていき、一旦は木曽町を通る国道19号線を走っていると、どうしても御嶽山の麓から湧きでる温泉に入浴したいという思いが湧いてきたので、かなりの距離を検索しつつ周遊し、ようやくある温泉地に辿り着いた。その温泉とは、標高約1400メートルの開田高原にある、御嶽明神温泉「やまゆり荘」である。その天然かけ流しで露天風呂付きの日帰り温泉では、御嶽山の雄姿を間近に眺めて入浴でき、湧き出す高温で茶褐色の湯を、時間をかけて存分に堪能することができた。当日の宿泊地は飛騨の高山、そして明日はいよいよ「飛騨の位山(標高1,529m)」への登拝である。
2013年10月20日

そして9月21日(土)の早朝、「上の画像」は日の出を待つ遠目の「富士山」を中心に据えて、中央・南アルプスの方面を撮影した画像である。まだ薄暗いなか、山小屋から山頂へは私が一番乗りだと思ったが、山頂部の特等席に先客がいた。その若い青年に声をかけてみると、前日の夜から時間をかけて登ってきたそうで、山登りが好きだけれどサラリーマンなので、登りたい山にチャレンジするときは大体こんな感じになると、山歩きの装備等に関する説明も聞くことができた。すると青年は、会話の過程で湯を沸かし、そして豆を挽き始めた・・・なるほど御来光を浴びながら、挽き立てのコーヒーを味わうわけか・・・と、限られた時間に最高の贅沢を楽しむ趣向に感銘を受けた次第。そして、いよいよ顕われし「御来光」を映したベストショットが、この「中の画像」である。山上には既に多くの登山者が集い、口々に「素晴らしい!」等と、込み上げてくる感動の言葉を漏らしていた。だんだん周囲も明るくなったところで、もしや!?と思って西方を見ると、やはりそこには真ん丸の「月」が居りましたヽ(^。^)ノ ・・・ということで、思わず嬉しくなって映したものが「下の画像」である。西方の青空を彩るグラデーションも美しく、御嶽山の描く山影が遠くまで伸びているのも印象的だ。
2013年10月20日

「上の画像」は、画像中央の遠方に霞んで「富士山」が見える中央・南アルプス方面を撮影したもの。夕暮れの東南東に拡がる雲海に浮かぶ「島」のような山脈を見ていると・・・なるほど「雲海」とは良く言ったものだなあ・・・と感心し、また納得したところである。加えて、一刻一刻と変化していく美しき天空のグラデーションも、浮上する山脈の「島」を際立たせていた。次に「中の画像」は、「秋分の日」が近いことから、ほぼ真西の雲海に沈む夕日を撮影したものである。その地平線とも水平線とも違う、この言わば「雲海線(空と雲海とが接して見える平らな線)」に隠れていく太陽は、天候に恵まれた高山の山上部でしか見ることのできない醍醐味だといえよう。ちなみに、画面左側のゴツゴツとした外輪山の、その向こう側の雲海にかすかに浮かぶ山脈が「白山連峰」である。当日の9月20日、私を含めて山頂にすぐ近い山小屋に宿泊した約30名の方々は、おそらく皆でこの神々しき「日の入」を堪能されたことであろう。いつものように日没後も私は、健康に良いとされる「緑の光」が含まれるようになる黄昏の西の空を、周囲が少し暗くなるまで眺めていた。そうして、一旦は山小屋に戻ろうと後ろを振り向いたその時、東方の地平線から大きな「月」が昇りはじめた、まさにその瞬間に遭遇したのであった。・・・オオオォォォ~~~・・・まだ山頂に残っていた方々からは、感動の歓声が漏れていた。その紺地に白銀色の、まるで絵に描いたような真ん丸の月(月齢14.6)は、前日の「仲秋の名月」よりも、より名月らしい「満月」だったし、山頂から遥拝する光に満ち満ちた「月」は格別であった。西方の日没から暫くして、東方の山脈より昇る「十六夜の月」を映したのが「下の画像」である。西方の「日の入」と東方の「月の出」の絶景を、存分に堪能して山小屋に戻った私は、一番最後に飛び込みの宿泊の手続きをしたにもかかわらず、毎年一回は御嶽山に登ると言われていた古老の宿泊者の助言で、沸いたばかりだという山小屋の主人の案内で一番風呂に入らせて貰った。おそらく3,000m越えの宿泊施設で、一般客が入浴できる最も標高の高い湯船であろう。湯加減も良く、高所で冷えた体をすぐに温めることができ、また頑張ってきた足腰が温浴に癒された。ちなみに風呂の湯水を含めて、この山小屋で使用する水は、山頂に一番近い「二の池(標高2,905m)」から汲んでいるそうだ。・・・この水がまた、すこぶる美味いのである。・・・湯から上ると夕食タイム、先ほどの70歳越えの古老に感謝の言葉を伝えて、その古老の付添人を含めた3人での会話が弾んだ。その燻し銀の矍鑠とした古老は地元の方で、年毎の登山の際には必ず酒を嗜みつつ登られるそうで、途中でリタイア寸前だった私としては、びっくり仰天したことを覚えている。私はその古老に(前回の日記にも書いたが)・・・修験道に伝わる「一立、二富士、三白山」という「三大霊山」の言い習わしは、この御嶽山山頂で謳われたのが始まりではないか・・・と話してみると、・・・それは初めて聞いたが、有り得る話だ・・・と、しきりに何度も頷かれていたのが印象に残った。私も自説が認めれたような気がして嬉しかった。ひとしきり会話を楽しんだ後、私は一人でまた山頂に駆け登って、今度は夜空に輝く天空の星々を堪能した。まず「北斗七星」の配置から「北極星」を見つけて「カシオペア」を確認、そして満天の空に広がる北天の星々から周囲の星々を仰ぎ見て、改めて御嶽山登拝の感動と歓びを噛み締めた次第である。そして、翌日の朝は・・・御来光・・・と山小屋に戻り、期待を胸に床に就いた。つづく
2013年10月19日

古より山岳信仰の盛んな日本においては「日本三霊山(にほんさんれいざん)」として、「立山」・「富士山」・「白山」の三山が挙げられ、「一立・二富士・三白山」という言い習わしもある。このたび初めての登拝となった御嶽山においては、お陰様で無風にして晴天という最高の天候に恵まれて、山頂では持参した見やすい地図が参考になり、上記の「日本三霊山」を全て自分の眼で目認できたのは嬉しかった。それでは以下に、御嶽山の主峰「剣ヶ峰(標高3,067 m)」の山頂より、三つの方向で目視できた三峰の霊山を、画像と共に紹介しよう。まず「上の画像」は、御嶽山山頂より北方の、北アルプス方面を撮影したものである。前方の山並みの向かって左から、まずなだらかな山があり、次に尖った山があって、それから遠方の霞んで二並びに見える山が「立山連邦(たてやまれんぽう)」となる。その二並びの左側の主峰が剣岳(つるぎだけ・標高2,999 m)で、右側が一般に通称「立山(たてやま)」と呼ばれ、雄山(おやま・標高3,003 m)と大汝山(おおなんじやま・標高3,015 m)、そして富士ノ折立(ふじのおりたて・標高2,999 m)の3つの峰からなる。また、中央の大きな山並みの少し右側の頂が「乗鞍岳〔剣ヶ峰(標高3,026 m)を主峰とする山々の総称〕」で、そのすぐ右隣りで遠くの尖った山が飛騨山脈(北アルプス)南部にある「槍ヶ岳(標高3,180 m)」である。次に「中の画像」は、山頂より東南東方面を撮影したもので、手前の中央アルプスから南アルプスが連なり、その向こうの中央部に七合目あたりから上の「富士山(ふじさん)」が見える画像だ。ちなみに、富士山の山頂部の向かって右側の頂が、最高峰の「剣ヶ峰(けんがみね・日本の最高標高地点 3,776 m)」となる。特にこの方向の景色は、登拝途中から休憩する度に眺め続けてきたこともあり、私にとって最も印象に残る景観である。そして「下の画像」は、山頂より西北西の「白山(はくさん)」方面を撮影したものだ。画像の手前のゴツゴツとした岩の連なりは、御嶽山の山上にある外輪山にして、その向こうにある雲海に浮かぶ山並が「白山連峰(はくさんれんぽう)」である。その山並のなかで一番高い頂が、白山の最高峰「御前峰」(ごぜんがみね・標高2,702 m)となる。ちなみに、一般に「白山」とは、この最高峰の御前峰、剣ヶ峰(けんがみね・標高2,677 m)、大汝峰(おおなんじみね・標高2,684 m)の「白山三峰」を中心として、周辺の山峰の総称ということである。夕暮れの時の西方の雲海に、白山連峰の主要な山頂部が浮かび上がり、実に美しく厳かな光景だった。私はこの「日本三霊山」を何度も見ているうちに・・・もしかするとこの三峰の霊山は、日本古来の修験道における要となる聖地の御嶽山山頂で謳われたのではないか・・・と、そんな想いが過ぎるのだった。そして、いよいよ9月20日の日没が近づき、さらに素晴らしい絶景が私を待ち受けていたのである。つづく
2013年10月18日

さて9月20日の朝、いよいよ木曾の「御嶽山(標高3,067m)」の登拝である。この御嶽山については、今年3月の「春の旅」では飛騨の「位山」の麓や美濃の「南宮山」から展望し、また7月中旬にはロープウェイで7合目まで行って山頂を遥拝した経緯があるので、この度の登拝は三度目の正直で実現することになった。また、下にリンクした関連記事では、木曾の「御嶽山」と飛騨の「位山」、そして「金山巨石群」の3つの地点を結ぶと、かなり精確な正三角形になっていることを紹介した。実は今回の「秋の旅」では、この一辺が約40kmの三角形を形成する「3つの地点」(御嶽山の山頂・位山の山頂・金山巨石群)の訪ねて、それぞれの「ひびき」を現地で体験することが主目的であった。私にとって、この「3つの地点」を体感するその始まりが、御嶽山の登拝となっていたわけである。☆関連記事・2013年07月16日 木曾「御嶽山」(2)⇒ リンクまずは1合目の御嶽神社に参拝して登拝の御挨拶。駐車場から社殿までの距離は、標高差もあって意外に長かったのを覚えている。次に5合目の八海山神社に参拝。実は山頂から降る際に、当神社の神主に聞いて分かったのだが、この御嶽山5合目に鎮座する八海山神社は、新潟県南魚沼市は「八海山(標高1,778m)」の麓に鎮座する数社ある八海山神社の総本社になるそうだ。ちなみに、私たちが9月16日に参拝させていただいた八海神社(南魚沼市長森)が、新潟の八海山を神体山として祀る神社の中で、最も古い社だということである。そして御嶽山7合目(標高2,180m)にある「田の原天然公園」の駐車場に車を止めて、登山道の入口から御嶽山の全容を映したのが「上の画像」である。パンフレットには、登山道は入口から頂上の剣ヶ峰まで距離にして約3500m、約3時間で登頂可能とあった。(注・時間はあくまでも標準的な目安で個人差あり。)午前11時頃から喜々として登り始めたのだが、8合目あたりからトーンダウン。休み休み登る際に、岩場に座ると必ず見えていた景色がこの「中の画像」である。御嶽山を背にして東南方面となるこの景色には、中央アルプスと南アルプスの山脈が連なっていて、その先にかすかに「富士山」が見える。この画像では「富士山」は判然としないが、その高度を増すにつれて「富士山」がハッキリと見えてきて、登山の励みになったのを覚えている。9合目あたりでは、これまでの旅の疲れと2日連続で高速のSAで泊まった寝不足が原因であろう、片足のふくらはぎが痙攣してしまい、一時は下山も検討したくらいに疲弊してしまった。・・・これは試されているぞ・・・と自分に言い聞かせて、時々ストレッチをしながら50歩登っては休み、また50歩進んでは休むという行為を連続する作戦で、その休憩の度にアルプス山脈の遠くに明確に見えてきた「富士山」が、心のよりどころになっていたことを思い出す。そして午後4時頃、ついに山頂に到達。その大きな達成感に包まれて、御嶽山山頂の「剣ヶ峰(標高3,067m)」より、北方の乗鞍岳や槍ヶ岳、立山連峰の方面を撮影したものが、この「下の画像」である。画像の下方に見える池は「二の池(標高2,905m・平均深度1.3m・最大深度3.5m)」といって、日本で最も標高の高い湖とされ、その湛えられた蒼い水は、照射される光に美しく映えていた。当初は「日帰り登山」を考えていたのだが、登る途中の9合目あたりで下山途中の登山者と語らう機会があり、この時間になると同日中の下山は無理だということで、私自身も体力の限界を感じていたため、教えてもらった山頂直下にある「剣ヶ峰・頂上山荘」に急遽宿泊することにした。その山荘で宿泊の手続きを済ませてからまた山頂へ・・・そこには、山頂に泊まらなければ体験できない素晴らしい景色・・・が待ち構えていたのだった。つづく
2013年10月17日

上の画像は、佐渡ヶ島を離れて本州に向かう際に、フェリーの船上から佐渡島に沈みゆく夕陽を撮影したものだ。初めての佐渡は、とても充実した一生の思い出に残る一泊二日であった。賑わしい海鳥たちは、行きも帰りもフェリーに寄り添うように渡海していたが、下の画像は船尾の近くを舞い飛ぶ華麗な姿を映したものである。さて佐渡島から本州に戻ったとして、その後の予定はといえば、とりあえず「秋分の日」までに「木曾の御嶽山」の方面に向かうことは決めていた。 けれども、新潟港からどういうルートで行くかは決めていなかった。 佐渡にいる時はまだ、「全国一の宮巡り」で最後に残った陸奥国一の宮「都都古和氣神社」については、福島原発の放射能問題もあって、ほとんど参拝する意欲は湧いていなかった。ところが佐渡ヶ島に滞在中に、ある御方から私の立体造形のHPを見たということで初メールが入り・・・それは自然の成り行きともいえよう・・・その御方と連絡を取り合ううちに、神奈川でお会いすることになったのであった。「御嶽山」に向かう前に関東方面を経由するのであれば、新潟から福島まで高速道路も通っているので、19日の早朝に陸奥国一の宮に参拝させていただいてから神奈川に行くことに決定した。9月18日の夜、新潟から高速に乗って福島方面へ向かい、その道中で一泊する予定だった私は、車中に放射線を計測するガイガー・カウンター(放射線測定装置)を置いていたので、途中にある数か所のSAで計ってみることにした。あるSAでは「0.4マイクロシーベルト」を越えるところもあり、これはまずいと眠たい目をこすりながら次のSAに移動したことや、乗車中に突然ガイガーカウンターの機械音が鳴ったので数値を見ると「0.6マイクロシーベルト」を越えていたこともあり、場所によってはホットスポットを含む放射線の高いところがあることを、高速道路上ではあったが自分の身を以て体感したところである。そんな難関を潜り抜けて、9月19日の午前7時頃、陸奥国一の宮「都都古和氣神社」に参拝。全国一の宮は六十六社の、最後の一の宮に参拝させていただき、感無量の想いで参道の鳥居を撮影したのが下の画像だ。修験道の世界では要の山岳と伝わる「木曾の御嶽山」に登らせてもらうには、やはり「基礎」を積んでからでないと・・・と、役行者(えんのぎょうじゃ)の駄洒落が聞こえてきそうである(笑)。ところで、新潟から福島を経由して関東方面に向かう高速道路を走る車中では、私の脳裏では常に福島原発問題が駆け巡っており、それと同時に東京オリンピック招致の際の、総理大臣の発言に対する疑念が渦巻いていた。実は昨日、その発言に対する京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏の見解が述べられたラジオ放送を聞く機会があったので、以下に紹介したい。(ラジオ・フォーラム 2013.9.9) http://www.youtube.com/watch?v=JdPNz6iCm6I ⇒ リンク小出氏は、未だ何の解決にも至らない福島原発問題を抱えたなかで、この度の東京オリンピックを招致する際に、世界に向けてあたかも解決のプログラムが有るかのような総理の発言は、軽々しいものだと話されていた。原子力研究に長年携わってこられた現役の京大助教の言葉は、重く受け止める必要がありそうだ。そして、同日19日の午後6時頃から始まった神奈川の「ある御方」との会談は、当日が「仲秋の名月」だったことも忘れて午後11頃まで続いた。およそ五時間に及ぶ内容の濃い男同士の会話となったわけだが、それはまるで第三者の采配によって、今年の「仲秋の名月」という日取りに、二人を引き合わせて語らいを楽しませるように、前々から段取りが組まれていたかのような、「粋な計らい」を感じた次第である。存分に語り合った私たちは別れを惜しみつつ、私は一路「木曾の御嶽山」へ車を走らせるべく、高尾山インター入口付近のコンビニで、夜の12時頃に暖かいコーヒーを飲んでいると、そこで初めて今宵が「仲秋の名月」だったことを知ることになり、思わず車から出て天空に輝く満月を仰ぐのだった。煌々と輝く望月の光を全身で浴びつつ・・・なるほど、今年の「仲秋の名月」までに、全国の「一の宮」の巡拝を達成した後に、満を持して「御嶽山」の登拝に臨むことになっていたのだ・・・などと神妙な心地となり、氣を引き締めて高速道路に車を乗り入れたのを思い出す。《 祝 》 平成25年9月19日(仲秋の名月)・「全国一の宮巡り」の満行を達成す。(※上の画像は、翌20日に「御嶽山」を登拝、山頂より東方に昇る「十六夜の月」を映したもの。)
2013年10月14日

佐渡は「能楽」の島ともいわれ、佐渡奉行の大久保長安が、能の一座を伴って赴任したので普及したといわれている。室町時代に「能」を大成した「世阿弥」が島流しされたところが佐渡なので、既に素地が出来上がっていたというか、そういう文化水準にあったのだろう。最近まで農家の人たちが畑仕事で謡曲を口ずさんでいたという。専門家の話では、大正時代以前の能舞台は全国で70くらい確認されていたが、そのうち31は佐渡にあったとのことである。この人口約8万人の佐渡ヶ島に、現在は33の能舞台があるそうだ。佐渡ヶ島滞在の最後は、その「能楽」の文化に触れてみたいと、能舞台を併設する「牛尾神社」を訪ねた。上の画像は、その出雲系の三柱神(須佐之男命・大国主命・少彦名命)を祀る神社の、三方唐破風造(さんぽうからはふうつくり)という高度な建築様式による拝殿を撮影したものである。この画像は、その拝殿の正面を飾る彫刻群で、私も今までかなりの神社仏閣等の建築様式、それに伴う彫刻や装飾を見てきたが、これほどの力作は見たことがなかった。なかでも目を引いたのが、上の画像の獅子の手前にある「御玉」であった。「玉造り」を自称する私としては、このたった一つの彫物で、この社を参拝した甲斐があったというものである。神社の向かって左手には能舞台があり、上の画像は拝殿の横から能舞台を正面にみて撮影したものだ。この画像中央となる能舞台の前方の扉が少し開いているのだが、その開口部の内側を撮影したものが下の画像である。その威風堂々とした構えと造りに、今にも朗々とした謡が響いてきそうな雰囲気があった。そして一番下の写真は、この神社拝殿の真向いに聳え立つ『安産杉』(樹高30m、胸高幹周6.7m)と呼ばれるスギの神木を、下方から撮影したものである。その何をか言わんとする見事な枝振りに、ただただ時間を忘れて眺めていたことを思い出す。
2013年10月13日

佐渡とくれば金山である。9月18日の朝はまず、日本最大の金銀山跡とされる史跡「佐渡金山」を訪ねた。上の画像は、佐渡金山発見の端緒となった主要鉱脈のひとつである国指定史跡「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」という鉱脈露頭を掘り取った跡を撮影したものだ。山頂を真っ二つに断ち割った壮大な採掘跡は、佐渡金山の象徴とされている。佐渡では、平安時代の末ごろから既に砂金が発見されており、佐渡金山が世に知れ渡るのは、1601年に相川で大金銀鉱脈が発見され、採掘が本格的に開始されてからとのことだ。1604年に代官・大久保長安は、海岸段丘の先端に大きな敷地の陣屋(後の奉行所)を建てて佐渡一国天領の拠点とし、以後400年にわたって相川は金銀山の町として大きく発展していく。ちなみに大久保石見守長安は、もともと甲斐武田氏の蔵前衆として活躍、武田氏滅亡後は徳川家康に見いだされ、1601年に石見銀山奉行、1603年には佐渡奉行に任じられ、次いで伊豆金銀山奉行を兼ねて”天下総代官”と言われていたとのことである。さて、次に訪ねたのは「トキの森公園」である。トキ(朱鷺)は、Nipponia Nipponの学名を持つ日本を代表する鳥。上の画像は、公園内の「トキふれあいプラザ」で撮影したものである。かつては日本全国に生息していたが、2003年10月に「キン」と名付けられた野生最後のトキが死亡したことにより、日本の野生生まれのトキは絶滅したとのことだ。しかし、生息域外保全により飼育・増殖技術を開発した後、2004年から佐渡トキ保護センターを中心に野生復帰に取り組み、2012年5月には放鳥したトキが、自然界で8羽のヒナを誕生させ、38年ぶりの巣立ちが実現したということである。下の画像は、「佐渡博物館」のトキに関するコーナーで、『トキと伊勢内宮』と題する解説文の参考写真を撮影したものだ。その解説文によれば、伊勢内宮に奉納される「須賀利(すがり)御太刀」(全長約115センチ)には、その柄の部分にトキの尾羽2枚を、赤い絹糸でまといつけてあるそうだ。実際の生きている朱鷺(トキ)や、剥製の羽を広げた姿を見て思ったのは、トキが空を羽ばたく際に放つ「トキ色」が素晴らしかったのだろうということ。その桜の花に似た薄桃色の美しさに、古代から多くの人々が魅せられてきたのであろう。かく言う私も、そのトキの羽ばたく時に見せるトキ色に、心ときめいた一人である。
2013年10月12日

佐渡ヶ島の滞在は一泊二日、初日に予定していた訪問地を巡り終えた私は、予約してあったホテルへ向かった。その道中で海岸沿いから撮影した夕日が上の画像である。西方に輝く夕暮れの太陽は、大きく輝いていた。日本海に沈みゆく大きな太陽を仰ぎつつ・・・そういえば、もし台風の通過が一日遅れていたら、ホテルやレンタカーの予約はキャンセル扱いとなり、かかった料金は戻ってこなかったはずだな・・・と、佐渡に来れたことの喜びを改めて噛み締めたところである。場所を変えて、美しきサンセットを撮影できたらと、さらに車を走らせて辿り着いたのが、「人面岩」と書かれた標識のある大きな岩場の前であった。そこで、人の横顔のように見える角度から撮影したものが上の画像である。なるほど、確かに「人面岩」という名称に相応しいではないか・・・。どうやらその顔は、東方の天空を見つめているようである。そこで下の画像は、この岩場から撮影した佐渡ヶ島の西海に沈む夕日である。(9月17日)その夕日が沈んだ後、なぜか私はこの「人面岩」の左側面の、それまで太陽光が照射していた岩肌に触れたくなり、実際に岩肌に両手を当ててみた。すると、やはり予想通りというか、予想以上に暖かかったのを覚えている。その心地よい岩肌の温もりに癒されながら、古代人は既に日が暮れてしまっても、なかなか温もりの消えない岩場を、神聖なる「磐座」として信仰の対象にしてきたことを思い出していた。ところで、宿泊したホテルでは、佐渡の郷土芸能を披露する民謡ショーを見る機会があった。なかでも全国に聞こえた「佐渡おけさ」という踊りの、その精細な立ち居振る舞いは目を見張るものがあり、解説を伺うと「金」を産出する佐渡を象徴するかの如く、水の中で砂と金を慎重に選り分ける所作が入っているそうだ。なるほど・・・と深い感銘を受け、コオロギの奏でる美しい音色が響く広大な露天の温泉に浸かりながら、とても充実した佐渡の初日を振り返るのだった。
2013年10月12日

9月17日は、まさしく台風一過の快晴であった。新潟港から約2時間半の航海を経て、もうすぐ佐渡ヶ島の両津港というところで、フェリーから撮影した風景が上の画像である。午後3時頃に港に到着、早速予約しておいたレンタカーを借りて、まずは佐渡国一の宮「渡津神社」へ参拝し、お国入りの挨拶をさせていただくことにした。車を走らせること約40分、上の画像はその「渡津(わだつ)神社」の鳥居を撮影したものである。主祭神の五十猛命(いそたける)はスサノヲ命の御子で、全国いたるところに樹木の種子を持って植林を普及され、その木材による家屋、舟、車等の建築や工業の技術をも盛んにした御神徳により、陸上・海上の交通安全の守護神として全島より崇敬されている。ところで、日本列島のことを古くは「大八島(おおやしま)」というが、その大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま・本州)をはじめとする八つの島々の中で、この「佐渡ヶ島」だけ渡ったことがなかった。今回の「秋の旅」のなかで、佐渡ヶ島への渡海が実現して、佐渡国一の宮に参拝することができ、今更のように感慨一入の想いが湧き上がる今日この頃である。次に訪ねたのは、佐渡市宿根木の「佐渡国小木民族博物館」であった。この画像は、併設された「千石船展示館」の復元された千石船「白山丸」を後方部から撮影したものである。この「白山丸」は、1858年に宿根木にて建造された「幸栄丸」を実物大で復元したもので、時間の許す限り船内や周囲を巡ってみたが、その全長約24mの船体は圧倒的な迫力であった。当博物館のある宿根木(しゅくねぎ)は、中世の頃より廻船業を営む者が移住し、佐渡の富の三分の一を集めたと云われるほど栄えたそうだ。そして江戸時代からは、船大工をはじめ造船技術者が移住し、千石船産業の基地として整備され繁栄したとのことである。そして下の画像は、島の南西部は小木半島の丘陵頂上部(標高175m)にある縄文遺跡「長者ヶ平遺跡」を撮影したものだ。この遺跡では、縄文時代草創期(約12000~15000年前)の「有舌尖頭器」も検出されていて、縄文時代における佐渡の文物交流と生活様式を研究する上で、重要な遺跡に位置づけられいるそうである
2013年10月11日

さて16日の宿泊は、かけ流しの温泉施設のあるホテルだったので、当日夜に翌朝とジックリと湯浴みを堪能でき、有り難き幸せを噛み締めることができた。その宿泊地は、越後国一の宮「弥彦神社」のすぐ近くにあり、屋上にある露天風呂からは、台風一過の美しき月夜に、背後に聳える弥彦山(標高634m)を展望でき、ここに向かう道中で見た信濃川の暴れっぷりが嘘のように感じられた。今回の上の画像は、上記の「弥彦神社」の鳥居を撮影したもので、その鳥居横の標石には「名神大社 越後一宮 彌彦神社」と刻まれている。17日朝の出発は午前9時前頃となり、かなり出遅れたと感じていたが、やはりそれには意味があった。今回で「お弥彦さん参り」も三度目となり、この土地の氣場に少し馴染ませていただいたのであろう、午前9時から始まった宝物館に一番乗りで入館でき、そこで重要文化財の「志田大太刀」(下の画像の刀剣)を拝観することができたのである。・・・久しぶりのお参りなので、この度は宝物の大太刀をご覧に入れましょう・・・と、私を誘う声が聴こえてきたかのように、私の体はこの大太刀に吸い寄せられるようにして近づいていった。その解説文を以下に抜粋すると、・日本刀の重要文化財中での「反り刀」では最大級(刃渡り220.4cm)、備前国長船(岡山県)の刀匠・家盛によるもので、1415年に当神社に奉納された。・昭和4年「国宝」に指定され、昭和25年「重要文化財」となった。・この大太刀は1615年に、当時の佐渡金山奉行・大久保石見守長安が弥彦神社に参拝の折に拝観したが、あまりに素晴らしい大太刀に驚き、わざわざ江戸まで運んで、時の二代将軍の徳川秀忠の上覧に供したと云われている。ここで弥彦神社の由緒を参考にすると、主祭神「天香山命(アメノカゴヤマ)」は、かつて紀州熊野(和歌山県)に住み、神武天皇のご東征の際に、「フツノミタマの剣」を奉って大功を立てられたとあり、「つるぎ」に関係の深いご祭神ということ・・・となれば「剣(つるぎ)」とは今回の「秋の旅」に纏わるキーワードでもあり・・・とくれば当神社を代表する神宝の「大太刀」に、やはり引き寄せられたはずである。そして、お陰様で台風一過の晴天となった17日、いよいよ新潟港を午後12時35分発のフェリーに乗って、佐渡ヶ島の両津港へ向かうのであった。
2013年10月10日

16日の夕方、風雨に姿を隠した霊峰「八海山」に別れを告げて、宿泊地に近い越後国一の宮「弥彦神社」に向かって車を走らせた。午後4時頃だったと思うが、今回の台風18号の影響で信濃川の現況はどうだろうと、途中のSAで映した写真が上の画像である。私自身、この信濃川のように大きな河川が、今まさに氾濫しているかのような状況を見たのは、初めてであった。激しく降り注ぐ雨と、時折吹きつける突風と戦いながら、何とかこの息を飲むような景色を一枚だけ撮影することに成功した。そして、下の画像は翌17日の午前中に、弥彦山の山頂近くの駐車場から、佐渡ヶ島方面に向けて撮影したものだ。この画像で見ても分かるように、その台風一過の青い海は、かなりの範囲の海水が茶色に濁って見えて、今回の台風のもの凄さを物語っていた。
2013年10月10日

新潟県南魚沼市に聳える霊峰「八海山(はっかいさん)」の麓にある旅館にて、9月16日に開催された「ある会合」は、前日の15日午後2時に新幹線の停まるJR駅での待ち合わせだった。「八海山」と聞けば酒好きの私としては、すぐに名酒の銘柄を思い浮かべてしまうのだが、この「秋の旅」シリーズのプロローグに書いた木曾の「御嶽山(おんたけさん)」と、ここ越後の「八海山」は(修験道の世界において)兄弟の山となっている。また約30年前に、霊峰「八海山」で修業した御方との出会いがあり、八海神社の主祭神「国狭槌尊(クニサツチ)」のことは、当時から意識していた神名であった。ちなみに「御嶽山」を神体山として祀る御嶽神社の主祭神は「国常立尊(クニトコタチ)」にして、日本神話では「国常立尊」の御子が「国狭槌尊」となっている。さて、私といえば15日は、早朝から新潟県に出土した縄文土器の代表たる「火焔土器」の、その強烈な洗礼をドップリと受けて、時間ぎりぎりに集合場所へ行くことに・・・・そして、駅構内に集合した約20名の団体は、まずは地元で戦国時代に活躍した上杉景勝や直江兼続も学んだ曹洞宗のお寺で、越後一の寺とも称される「雲洞庵(うんとうあん)」を訪ねた。創始は今から約千三百年前の奈良時代、藤原不比等の子・藤原房前(藤原北家の祖)の母が出家して、ここ雲洞の地に庵(いおり)を結んだのが始まりと伝わる。そこで上の画像は、その雲洞庵の本堂を外陣から内陣にむけて撮影したもので、その立派な建築や彫物の背景に、越後国の縄文時代より続く技巧の粋を感じ取ることができた。この日本一の庵寺とも称されるお寺を後にした私たちは、今回の会合の開催地であり宿泊地でもある割烹旅館へ向かった。一風呂を浴びての美味しい夕食から講演者を中心とした懇親会へ・・・やはりお酒はあの名酒「八海山」・・・車に乗せて持参した数種の造形も話のタネになったりして、とても楽しく充実した一時を過ごすことができた。翌16日は朝食後、しばらくして会合のメインとなる講演会が始まり、充実した濃厚な時空を堪能することができた・・・。しかし近年の私は、たとえ素晴らしい講演会に参加できたとしても、殆どその内容を覚えていないのが玉に瑕というか、なかなかに残念なところである。折しも台風18号の影響による雨模様の中、昼頃には「八海神社」に皆で集い、当神社の宮司も同席の元で、講演者による祝詞が厳かに奏上され、この度の一泊二日の会合は一段落となった。この「八海神社」のすぐ近くには、あの名酒「八海山」の酒造メーカーが存在することから・・・なるほど、この神社近辺から湧きあがる水が、あの旨い酒を醸しているのか・・・と感じた次第。そして昼食は、八海山麓のお蕎麦屋さんで「八海山そば定食」を皆で堪能し、土産は名酒「八海山」(300ml)を一人一本づついただいて解散となった。新潟出身の方々を中心とした心温まる会合に、「ありがとうございます」と感謝の想いを馳せながら、雨にむせぶ霊峰「八海山」を後にした。さあ翌17日は、念願だった「佐渡ヶ島」への渡海である。台風一過であれば良いのだが・・・。
2013年10月09日

最初の目的地だった新潟県は八海山の麓に到着する前に、たまたま道中の成り行きまかせで石川県を散策するうちに、富山県では約30年前の記憶を辿ることになったりして、今回の「秋の旅」も冒頭から、なかなかに濃厚な滑り出しである。9月14日の夕方、富山の御皇城山「皇祖皇太神宮」を後にした私は、かねてより入浴を希望していた新潟県糸魚川市にある、太古の昔から地底深くに横たわるフォッサマグナから湧き出る良質の糸魚川温泉にて日帰り温泉三昧、糸魚川産の日本を代表する鉱物「ヒスイ」の息吹を存分に堪能した私は、宿泊地の新潟県長岡市に向かった。そして翌15日の朝、まず向かったのは、あの縄文土器を代表する「火焔土器」の発見地である史跡「馬高・三十稲葉遺跡」であった。この遺跡は、信濃川左岸の段丘上にある縄文時代の大規模な集落跡で、その最初の火焔土器が発見された場所に立てられた標識の前に立ち、一人しばらく腕を組んで唸っていたのを思い出す。そういえば今年の春頃、九州国立博物館の常設展示室にて、特別企画ということで各種の「火焔土器」が展示されており、その迫力に圧倒されていた自分を思い出し・・・まさかこの土器が発見された現地に来れるとは・・・と、感慨深かったところもある。そこで今回の上の画像は、同遺跡のすぐ側に建てられたガイダンス施設の火焔土器ミュージアム「馬高縄文館」を撮影したものだ。たまたま縄文館では、訪れた日の前日から「特別展」が開かれており、個人で楽しむのであれば撮影OKということで、飽きもせずに約2時間は滞在した館内で、勿論カメラのシャッターをどれだけ押したかは定かではない。・・・ということで下の画像は、この「馬高縄文館」の後に近くの「新潟県立歴史博物館」を見学した際に、館内の「火焔土器の世界」のコーナーで撮影した「火焔土器」である。この縄文の「火焔土器」に魅せられ、これを世に知らしめた芸術家の岡本太郎は、この縄文土器に「深海」を感じていたそうだ。岡本太郎は、この「火焔」と名付けられた土器を見て、『縄文人は深海を知っていたんだ』と漏らしていたとのことである。これは、ふ・・・深い!!!
2013年10月08日

前回の日記で取り上げた「本物の宇宙船」が常設展示してあるNASA特別協力施設「コスモアイル羽咋」に訪れる前に、マニアックな世界では通称「モーゼの墓」で聞こえた、羽咋市の隣町・宝達志水町にある観光施設「モーゼパーク(伝説の森公園)」を訪ねていた。以下、その由来が纏められた文章を転載してみよう。◎石川県宝達志水町には、旧約聖書の「十戒」で有名なモーゼの墓がある。古代世界の成り立ちが記された 『竹内文書』 によると、今からおよそ3430年前、不合(あえず)朝第69代神足別豊耡(かんたるわけとよすき)天皇の時代に、モーゼは船で日本の能登に渡来。◎天皇に十戒を彫り込んだ「十戒石」を献上し、承認を待つ間、天皇の第一皇女である大室(おおむろ)姫を妻に迎えた。そして12年間、神道の修行に励んだという。◎やがて天皇から十戒の承認を得たモーゼは、天空浮船(あめそらうきふね)と呼ばれる古代世界に存在した飛行船に乗って宝達山を出発。イタリア・ボローニャ地方を経由してシナイ山に渡り、十戒を世界に広めるという大役を果たした。◎その後、モーゼは余生を過ごすために再来日。583歳という長寿を全うし、最期は宝達山のふもとにある三ツ子塚に葬られた。それが現在も宝達志水町に残されているモーゼの墓である。以上が転載した文章だが、その由来は上記の『竹内文書』にある。ウィキペディアには・・・『竹内文書』とは、神代文字で記された文書と、それを武烈天皇(むれつてんのう)の勅命により竹内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称で、いわゆる古史古伝の書物。・・・と書かれている。その「モーゼパーク」を訪れた際、私は公園内にある「三ツ子塚古墳」に向かい、「モーゼ」が葬られたとされる古墳に登り祠の前でしばらく瞑目した。そして、その観光施設を出発する時には、富山市の御皇城山(おみじんやま)に鎮座する皇祖皇太神宮(こうそこうたいじんぐう)を約30年ぶりに参拝する意向を固めていた。この『竹内文書』に由来する御皇城山の皇祖皇太神宮は、かつて一度だけ参拝を許されたとはいえ、検索して地図上で調べても分かりづらい場所にあったが、何とか夕暮れまでに辿り着くことができ、山上の高台に鎮座する本殿を映したものが上の画像である。その拝殿の壁面に書いてあった「いわれ」には、太古に起きた天変地異により消滅した皇祖皇太神宮を復興するべく、飛騨の位山(くらいやま)より神通川を下って御皇城山に再建されたとあった。そう・・・「飛騨の位山」といえば、今年の「春の旅」では積雪のために登れなかった山だった・・・これはやはり今回の「秋の旅」の過程で山頂まで登るべきだと、ここで決意を新たにした次第。また、壁面の「いわれ」の文書に興味深い内容が見出せた。それは御神前での拝礼において「四度拝八平手一度拝」の際、組手は第二指だけを立てて「剣」の形に組んで「笏」にかえるとあり、その但し書きに「笏」とは、本来は「神剣笏」(金属製)であり、いわゆる「一位笏」(位山に産するイチイの木から作った笏)は「神剣笏」が形骸化したものだという見解が記されていた。やはり今回の「秋の旅」は「剣(つるぎ)」がキーワードだと、二度目の参拝となった富山の皇祖皇太神宮を後にしつつ、感じ入った次第である。下の画像は、その帰り道の参道の一風景で、その凛として直立する青々とした竹林を見るうちに・・・いよいよ『竹のしくみ』が始まった・・・と直観!
2013年10月07日

実は、加賀国一の宮「白山ひめ神社」から能登国一の宮「氣多大社」までの道中に立ち寄った場所があった。それは、石川県羽咋市にある宇宙科学博物館「コスモアイル羽咋」であった。この博物館は、あのテレビ等でUFO番組を数多く制作してきた有名プロデューサーの矢追純一氏が名誉館長を務めるということで、かねてより噂には聞いていた施設である。施設全体の外観はドーム型で、まるで空飛ぶ宇宙船が着陸したかのような美しいデザインであった。どんな感じなのかな~と、中に入って展示物を見てみると、意外というか「アポロ月面着陸船」や「ボイジャー惑星探索船」などの実物大模型や、宇宙から帰還した本物の展示機材もあって、驚きの連続で感動の時間を過ごすことができた。展示物の中でも特に感動したのは、上の画像の「赤い球形」の機材で、初めて宇宙から地球を眺めて「地球は青かった!」という名言を残した、あのガガーリン少佐が乗ったとされる「ボストーク帰還用宇宙カプセル」の実物を目の前にした時だった。その旧ソ連製の実際に宇宙から帰還した本物の宇宙カプセルは、大気圏突入の際の激しい衝撃に伴なう焼け焦げた跡等も生々しく残っていて、思わず私はそのカプセルに触れながら「お前は本当に宇宙に行って来たんだなぁ~!」と、まるで生き物に話しかけるかのように接したのを覚えている。また、その宇宙カプセルと対面した瞬間に浮かんだものがあった。それは、今年の6月に地元で開催した個展の際に展示した作品・・・一人乗りの宇宙船を意識して作った「竹籠立体」(※1)・・・である。(※1)2013年06月23日の日記に掲載した画像の造形 ⇒ リンクこの実際に宇宙空間で実動した一人乗り用の「宇宙カプセル」の直径は約2.3m、そして私が展示会用に制作した「竹籠立体」の直径は約2.4mということから、そのほぼ同じ大きさに驚いたというよりも、なぜか妙に納得している自分がいたということである。
2013年10月06日

白山ひめ神社・金劔宮の参拝の後、能登国一の宮 氣多大社に向かった。上の画像は、当神社の拝殿を撮影したものである。由緒を拝見すると、奈良時代に能登国が越中国の一部であった時代には、越中国一の宮は現在の氣多大社であったと記されていた。地勢からしても能登半島の付け根に鎮座する氣多大社は、越中国のみならず古くは越国(越後・越中・能登・加賀・越前)を束ねる要の位置に相当したという観方もできよう。参拝は二度目となる氣多大社だったが、この度の参拝の際に拝殿では、下の画像のように「婚礼の儀」が行われていて、なかなかに神妙な心地になったのを覚えている。というのも、ここに向かう道中にて、つがいの白い鳥が朝日を浴びて羽ばたく姿を見たり、日本海を望む海岸では、つがいのトンボがひとつになって飛んでいる場面に遭遇していたことを思い出し、そしてここ神社の社殿では、今から二人の人生を羽ばたこうとする新郎新婦に出逢う運びとなり、境内ではしばし感動の時空を堪能する機会を得たというわけだ。ところで、「秋」の旅日記(1)の記事と上記の動向を俯瞰して見たときに、ここ「能登国一の宮 氣多大社」を訪れたのは、今回の「秋の旅」で「白山ひめ神社」と「氣多大社」を参拝することで、「春の旅」の際に参拝した「伊勢神宮」と併せて、《三点一直線の南北軸》を自分の内部に形成することにあったと感じている。・・・もしかすると前回の日記で書いた、この度の式年遷宮における「伊勢内宮の遷御」の時に感じた自身の内面の変化とも、連関する何かがあるのかもしれない・・・また、以下に記載の書籍(※)によると「天体の地上投影」という捉え方から、「シリウスA」を「富士山」、「シリウスB」を「伊勢」、「シリウスC」を「白山」、そしてシリウスCの周囲を巡る衛星の「ニャントロ」を「氣多大社」とする観方があるのも興味深い。(※)「シリウス星と謎の古代空間」 伊東宏之 著 文芸社(2004年刊)今年3月の「春の旅」では天体の「シリウス」に絡む気づきがあったわけだが、今年9月の「秋の旅」でも中盤から後半にかけて、「シリウス」の祭祀に関連するであろう遺構等の確認もあった。
2013年10月04日

昨夜も連載を始めた《「秋」の旅日記》を綴ろうと思っていたが、午後7時頃からどうも頭が重いというか、今まで感じたことのないような脳の痺れが続いた。原因は何だろうと思っていると、同日の午後9時直前の約1分間のニュースで、2日の午後8時より伊勢神宮の内宮では、新しい社殿にご神体を移す「遷御(せんぎょ)の儀」が斎行されたとの報道を見た。この報道を目にしてから、私の頭部あるいは脳内の違和感は、ある程度の落ち着きをみせたので、この体調は伊勢内宮の遷御にまつわるものでは・・・という思いがよぎった。それでも、とても日記を書く心境になれずに床に就くことになり、今朝の4時頃に目が覚めると、昨日の頭部の不調が嘘のように無くなっていた。そして、午前5時頃にテレビを点けると、昨夜と同様の内宮の「遷御」の報道を見ることになり、本日の午前5時より内宮参拝が許されると知る。すると急に眠くなり、また床に入って見た「夢」の、かいつまんだ内容が以下である。・あることがキッカケで、私の脳を入れ替えることになった。・恐れもあったが、様々な過程を経て、自分の脳を外に出すことに専心した。・なぜか最後は自分の頭蓋骨を自分の手で持って、清涼な水の中で濯ぐことに。・すると自分の頭蓋骨は、あの「水晶ドクロ」のように不純物の無い透明になった。・これからどうなるのだろうという不安もあったが、これで大丈夫という安心感もあった。・そして薄桃色や薄緑色の装束を着た舞姫の、たおやかな舞を観て私の心は和らいだ。以上のような夢を見て目が覚めたのは、ちょうど午前9時であった。今の私の心境としては、伊勢内宮の「遷御」にまつわる夢と感じる今日この頃である。
2013年10月03日

9月13日(金)午前11時に山口市を出発。15日には知人の講演会が新潟であるので、まずはその会合に間に合うように車を走らすことにした。山陽自動車道から名神高速を経て北陸道へ、途中のSAで仮眠して朝一番にお参りしたのが 加賀国一の宮「白山ひめ神社」であった。この画像は、その「白山ひめ神社」の社殿を映したものである。当神社の参拝は、およそ四半世紀ぶりとなるわけだが、大きな駐車場もできたりして神社周辺の景色はかなり変わっていたように思う。今回の旅のキーワードの一つに「剣(つるぎ)」を感じていた私は、参拝後に近くの「金劔宮(きんけんぐう)」を参拝した。この神社は近世に「金劔宮」と呼ばれるようになるまでは「劔宮」・「劔神社」と呼ばれ、鎮座する地名の「鶴来(つるぎ)」もこれに由来するとされる。・・・となれば、「鶴亀」も「つるぎ」と読めて、「剣」とは「鶴」と「亀」が統一した型と捉えることもできるのでは・・・などと、「カゴメの唄」を口ずさみながら次の場所へ。つづく
2013年10月01日
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