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平山郁男シルクロード美術館で心を清め、再び小海線に乗り小淵沢に出た。車で美濃戸から入山、午後4時頃赤岳鉱泉に到着。何とお風呂があって汗を流すことができ、さっぱりした。夜は7時就寝、早朝3時起床。しかし夜半に驟雨があり、どこも濡れているためしばらく様子待ちし、5時頃出発した。大同心稜の急坂を黙々と昇りつめ、大同心雲稜ルートの基部まで着いた。しかし雨のせいで岩も草も濡れていてこのコンディションではリスクが高いとの判断で、結局大同心は諦め、小同心クラックを昇ることになった。 小同心クラックを昇る私とMさん小同心クラックは3ピッチ、やさしいのでクライミングシューズに履き替えずアプローチシューズのままで昇った。岩はホールドが豊富にあり、楽しく昇ってすぐに終了点に着いた。横岳のギザギザの稜線を縦走する登山者の姿を見ながら、横岳山頂まで岩場を直登した。岩キキョウ、麝香草、ちょうのすけ草、ウルップ草、深山大根草、おだまきなどたくさんの高山植物が咲き乱れていた。一般ルートでないから踏みつけられることもなく、清らかだった。稜線は天気もよくカラリとして赤岳、阿弥陀岳、硫黄岳など南八ヶ岳の峰峰がくっきりと見え、気持ちが良かった。下山は大同心稜を降りた。ザレ場のあちこちに駒草がたくさん咲いていて可憐だった。
2012年07月31日
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ネパールから帰国してまだそう日が経たない頃、ぐにゃぐにゃの体をひきずって園芸店に出かけた。朝顔の苗が出ていたので、ヘブンリーブルーとモーニンググローリーを買ってプランターに植えた。遅い時期に植え付けたが、朝顔はすくすくと伸びてくれた。途中で支柱を添え、ネットも2階のベランダから張って上に巻き付いていくようにした。思いの外早い時期から花が咲き始め、最近は毎日いくつもの花が咲いて朝日の中で輝いている。ウォーキングに出かける前、それを見るのが朝いちの楽しみである。
2012年07月30日
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小川山にクライミングに行く時、小海線に乗ることがある。甲斐小泉という小さな駅前に平山郁男シルクロード美術館という建物が見え、いつもいつも気になっていた。今回八ヶ岳大同心のクライミングに行ったのだが、集合時間が小淵沢午後1時。千載一遇の好機到来とばかり、念願の平山郁男シルクロード美術館を訪れた。 モダンな外観非常に素晴らしく感銘を受けた。山とかクライミングとか今の自分の生活とは全く別世界の深い精神性を感じた。クライミングに来ている自分を忘れていた。昨年シルクロードを訪れた時、ガンダーラの仏像にものすごく心を惹かれて、また見たいと思っていたのだが、幸運にもガンダーラ様式の仏像が入り口に真っ先に展示してあった。恋人に会ったように見とれてしまった。ケースに入れた展示ではなく、実物が直に置いてあるので、接近して間近に見ることができたし、表面の繊細さや石の状況もよくわかった。美しく気高いその姿、心が洗われるようだった。珍しい交脚仏陀像もあって貴重だった。 弥勒菩薩交脚像 平山画伯の大作が並ぶ
2012年07月29日
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久しぶりに息子と映画を観に出かけた。息子はダークナイトライジングの先行上映、私はヘルタースケルターと共に話題の映画を観た。一言で言うととても面白く考えさせられた。まずあのエリカ様の完璧なバディと美貌、写真家出身の監督蜷川実香さんの華麗でシャープな映像、一筋縄ではいかない人々が入り組んでショッキングでしたたかに展開する筋書き。表面上は美容整形や芸能界の男女関係などスキャンダラスなことが続く反面、検事が事件を告訴するなど社会的側面も加わっていて話に現実感と厚みを出している。全身整形をして完璧な容姿を手に入れた主人公リリコが確実に崩壊していく様子が実に痛ましく可哀想だった。女はかくも自分が美でなければならないのか、心身ともにあんなしんどいことをしてまで美にこだわるのか、観ていて辛かった。顔や体が壊れていく様には恐怖を感じた。エリカ様のヌードと顔の完璧さは本当に全身整形をしたように見事だった。世の中にはあんな美しい人もいるのだ。何かと話題になることが多かった沢尻エリカさんだが、彼女自身の言動とリリコが被るようでまさにこの役にぴったり、熱演だった。彼女しかこの役はできないだろう。一方男性陣の中で唯一まともな人間、検事役の大森南朋さんが冷静で渋く魅力的だった。 音楽は落ち着きがなかったがこの映画の奇抜さにマッチしていた。途中「第九」の4楽章、例の歓喜の歌の合唱部分が挿入されたり、終わりの方で「美しく青きドナウ」が流れたりした。「何でここだけクラシック?」と違和感を感じつつも展開に合っていて場面の切迫感を出していたのでさすがだった。テルマエ・ロマエのオペラの選曲と同じで音楽は大きな力を持っている。
2012年07月28日
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以前通っていたスポーツジムが3月末で閉鎖になった。丁度私もその頃、ネパールへ長期遠征に出たので退会手続き不要で楽だった。しかし帰国して体調も回復すると、時間がありすぎる!!。週末クライミングやハイキングに出かけ、平日は家事にトレーニング、映画や美術館や図書館や孫の世話に行っても、手持ちぶさたで腐りそうな時間がある。やはりプールに行かなきゃ間がもたないと思い、スポーツクラブの見学に行った。前のジムより全体的に小さくてローカルな雰囲気である。折から子どもたちの水泳短期教室開催中で子どもと親でフロアは熱気むんむんだった。このジムはオリンピック金メダリスト鈴木大地さんの出身ジムで子どもの水泳指導には歴史と実績がある。大人の生涯スポーツ面はその後に発展してきたようである。説明を聞くとフリースイミングは平日は11時半から3時まで、土日は終日という。平日の使用時間がかなり限定されるので迷ったが、何しろ料金が安い。プールだけなら月額5040円、今なら入会金無し、入会月の受講料は半額という。つまり7560円で8月9月2ヶ月がまかなえる。それに自宅から車で7分くらいで近い。この手の習い事は近くて便利でなければ続かない。決めた。8月からここで泳ごう。
2012年07月27日
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以前からトレッキングやハイキングにはプラティパスを愛用してきた。歩みを止めないで水分補給ができるのでとても便利だし、体調管理に役にたつ。あまりに愛用したのでどんどん劣化し、チューブは既に一度交換、今回はタンクを交換した。老朽化して漏れ始めたのでネパールで捨ててきたのだった。いつも買っている登山用品店に行ったところ、店員が変わって知っている人がいなかった。ヨソの店に来たような気がして、そそくさと帰ったのだった。土日は新しいプラティパスを背負って山に行こう。
2012年07月26日
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以前からパソコンを立ち上げるとゥインゥインと音が出るようになった。危ないと思いつつも使用していたが、遂にダメになり、本日修理に出しました。1ヶ月ほどかかるようです。今、使っているパソコンは平成3年に買ったラップトップです。人間なら120才くらいなので何につけても超遅い。機体は高熱を発していてこれも危ない。ということでこれからしばらくはほんの一言ブログになるでしょう。
2012年07月25日
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最近、農協の農産物直売所(ショイカーゴ)に週1回、野菜類を買いにいくのがちょっとした楽しみになっている。朝採り野菜も多く、新鮮だし何と言っても安い。毎朝野菜や果物のスムージーを飲むのが習慣なので意気のよい野菜が手に入るのが嬉しい。今日も出かけた。火曜日のせいか人が少なくゆったり買い物できた。ほうれんそう、小松菜、おかひじき、トマト、レタス、パセリ、シソの葉、人参、ジャガイモ、メロンなどを買い、最後にブルーベリーとラズベリーを買った。ベリー類が大好きだ。ブルーベリーは何時もあるが、ラズベリーはめったに入庫しないので今日はラッキーだった。 帰宅して早速ラズベリーを食べた。ツブツブの実が引き締まってプチプチと歯ごたえがあり、酸味が気持ちよい。ささやかな幸せを感じた時間だった。
2012年07月24日
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翌22日も不安定な天気だった。夜半に雨が降り、朝の小川山周辺は一面霧がかかっていた。朝食6時出発7時の早立ちで、少しでも乾きが早いオムスビ山スラブに行った。この岩場も09年8月以来3年振りである。朝日が射してきてコンディションは悪くない。まず無名ルート(5.10a)から始め、ラベンダー(5.10a)を昇った。ラベンダーは終了点までにマントルが次々と三回出てきてまるでマントルの練習ルートみたいである。独特の手の返し方、逆の手の延ばし方などポイントがある。手に足の状態で体を上に上げるのだが、太ったせいかブランクのせいか以前はそう苦労せずできた気がするのに、今回は苦戦した。 続いて下から這い上がって昇るスラブのメイストーム(5.10c)とリメンブランス(5.10c)を昇った。体が慣れてきて少し調子がでた。この後、屋根岩2峰に移動して、サーカスというルートを昇ろうとしていたところ、雨が本格的に降り出したので諦め、下山した。まだ1時前で、下界は晴れていた。小海線も中央線も空いていてゆったり帰路に着いた。帰宅後、写真を見て自分の肥満度に仰天、「こんなに丸くなってたのか」とがっくりきたが、旺盛な食欲をコントロールできず、又してもがんがん食べてしまった。今は食欲の秋ではなく、普通の人は夏痩せする時期なのに・・・ああ、どうしよう!!
2012年07月23日
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7月21日、22日と小川山にクライミングに行った。降ったり止んだりの不安定な天気だったが、一日、外岩でクライミングできてよかった。まず、マガスラブに行って1,2本昇った所で雨が降ってきて、急遽撤収して下山。下まで降りて着たところで空が明るく見える。じゃ、ちょっと近くの左岸スラブに行って昼食食べながら様子を見ましょうということになって3年振りに左岸スラブへ。その後ぱらぱらお湿りもあったが中止するほどでもなくて、あのドスラブを登れて良かった。 白くツルツル見えるドスラブ ジャーマンスープレックスの核心部私は左岸スラブのブラックアンドホワイト(5.10a)ジャーマンスープレックス(5.10b)を見ると昇る前から脅威を感じる。身長のない私にとってはスラブはリーチ差による不利が少ないので好きな分野なのだが、この二つのルートは手強い。手も足も安心して置けるホールドは殆ど無い。ほんの1センチ位の穴とか窪みに手を置き、種子骨症で痛い足親指に力を入れて立ちこむのだが、落ちそうな気がする。「落ちない」と自分に言い聞かせ、「落ちないで」と祈りつつじりじりと体を上げていく。結構M的行動だ。 ブラックアンドホワイト トムと一緒
2012年07月22日
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7月8日午後4時半過ぎ、小川山でのクライミングが終了して小海線信濃川上駅の待合室で電車を待っていた。私達の他にもう一グループクライマーらしき人達がいた。何気なくそちらに視線をやって目が点になった。開きにくくなっている瞼をしっかり見開いてなおも凝視すると、それは確かにKさんだった。Kさんも私を認め、お互いに近づいて抱き合った。「わあ、こんな所で会えるなんて、嬉しい!!」興奮して周囲の迷惑も考えず歓声をあげ、近況報告をしあった。彼女もクライミングに行っての帰りだったのだ。私達は昨年10月韓国のインスボンにクライミングに出かけて知り合った。すっかり意気投合して「ここで知り合えたことが最大の収穫」とお互いに言い合うほど楽しく有意義な5日を過ごした。 インスボン シュイナードBをクライミングするKさん 山頂にて Kさんは高知県在住で高度な専門職につきながら、首都圏に住む私達と全く同じように小川山のクライミングに参加するスーパーウーマンである。海外登山も数知れず。今後の山行計画をあれこれ話しながら又の再会を期して別れたのだった。
2012年07月21日
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クムジュン村を更に山奥深く登るとクンデ村がある。聖山クンビラの麓である。日本の「金毘羅」のルーツはここネパールの「クンビラ山」だと言われている。クムジュンで2泊したのでクンデ村を訪ねた。のんびり道をたどって歩くと、チベット仏教の象徴であるゴンパ(仏塔)」があり、村の入り口を示していた。「クンデホスピタル」の矢印をたどって坂道を登った所に病院はあった。この病院はドーネイション(寄付)で運営されている病院と聞いている。 緑色の屋根が並ぶクンデ村 クンデホスピタル入り口 地元女性が一人座っているだけで誰もいなかった。クンデホスピタルはこれが病院?と思うような素朴な平屋1階建てで横に長く伸びていた。よく見るとCLINIC、XーRAYという字が見えた。診療室にレントゲンも設置されている。近くには健康を保つのに必要な知識を何枚も絵に書いて吊るしている啓蒙図(?)もあった。 さらに進むとショートステイにロングステイ病棟という字が見えた。入院患者も受け入れているということか、認知症や癌になる人もいるのだろうか。どんな医療用具が揃っているのか中が見たかったが、午後なのでもう診療は終わっているのだろう、どのドアも閉じていた。 SHORT STAY WARD LONG STAY WARD マニ車と女性質素ではあるが、最低限必要なものは完備しているので感動した。よくぞこんな山奥に病院を作ったものだ。ドクターはどこから来るのだろう、看護士はいるのか?などと思いながら、再び坂道を下っていくと古いゴンパのマニ車を回しながら歩く女性の姿があった。
2012年07月20日
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ネパールで見た働く人々の姿です。初めてエベレスト街道を訪ねた時、驚いたのは農業以外の産業が少なく、厳しい肉体労働に従事する人が多かったことである。懸命に働く人々を見ると遊んでいる私はこれでいいのかと思うものの、こうして外貨を落としているのだからいいのだと思い直したものだった。 小屋を作る(パクディン付近) 畑仕事(パクディン) 洗濯する女性達 (ナムツェバザール) 先生かな?(ナムツェの学校で) 大工(ナムツェのホテル付近で) 荷物を背負う女性(ナムツェ) ヤクに荷物を積む(クムジュン) 建築資材を運搬(クムジュン)
2012年07月19日
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梅雨があけ、猛烈な暑さが続いている。これからどうやって健康な体を維持し、旅に山に残された日々を楽しく元気に過ごしていくかあれこれ思案していたところへ、丁度よい本を2冊見つけた。値段も安かったので早速買った。菊池体操創始者の菊池和子さんによる「100歳まで若く美しく きくち体操」 順天堂大学白澤卓二さんの「100歳までボケない!太らない!朝のジュース&スープ」 驚いたのは78歳の菊池和子さんの若いこと、きれいなことである。菊池体操を50年間続けるとこんなに元気で美しくいられるのか?早速実践。ヨガや通常の筋トレとは全く理論が違うのが新鮮で興味深い。「筋肉を育てる」という表現をしている。シンプルな動きなんだがものすごく体に効く。脳と体を繋いで老化防止を図る。以前から野菜ジュースやグリーンスムージーは毎朝飲んでいたので、白澤さんの本は目新しくはなかったが、しっかり理論付けしてあるので心強い。知らなかったレシピもたくさん載っているのでレパートリーが広がる。図らずも2冊とも「100歳まで~」というタイトルが共通している。私はアンチエイジングという言葉には少し抵抗感がある。あれこれして若返る必要などなく、自然のままに老化していっていいじゃないの?と思っていた。しかし病気になったり、行きたい所に行けないような体になったり、おむつが必要な老後にはなりたくない。この2冊をしっかし愛読、実践して元気な熟年時代を過ごそう。
2012年07月18日
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都内に出る用事があったついでに渋谷の文化村に寄って話題のフランス映画「クレージーホースパリ」を見た。Netで調べたら平日でも全ての回が混雑マークだったので席があるかどうか不安だったが、前2列が少々空いていたのでスクリーンを仰ぎみて観た。正直に言うと美しいだけだった。 世界で最も美しく芸術的なヌードショーとして有名な、パリのナイトクラブ「クレイジー・ ホースパリ」に関するドキュメンタリー作品で 舞台上と舞台裏の様子がきちんと描かかれている。完璧なボディラインの美女が一見エロティックなパフォーマンスをさまざまにして見せるのだが、私には退屈で何度も居眠りをしてしまった。私が色気も恋気も全くない完璧なおばさんということが第一の原因だろう。でも裸体の美女のダンスに女性のエロティッシズムを全く感じられず、なんだか競技のような雰囲気だった。場内はいつもより男性が多かったから、男性には魅力的な映画だったかもしれない。
2012年07月17日
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2日目、朝7時半に回り目平駐車場に着いたら何とほぼ満車。さすがは三連休の中日、天気もよくなるということでたくさんのクライマーやキャンパーが詰めかけて賑わっていた。今日はソラマメスラブに行った。朝の早い時間だったので午前中はソラマメ下部スラブは貸切状態で十分昇れた。生木が倒れたよ(5.9)、三色すみれ(5.10a)、甘食(5.10b)、スラブの逆襲(5.11c)と昇った。スラブの逆襲は人気ルートでいつもクライマーが取り付いているし簡単に登れるルートではないので、これまで昇ってみたいと思っていてもチャンスがなかったが、今日ついに初めて昇る事ができた。超嬉しかった。全員が下部スラブを昇ったので、上部スラブに移動。ロングロングアゴー(5.10b)、ソラマメ(5.9)帰ってきたタジアン(5,11b)を昇った。タジアンは典型的なドスラブで、中間当たりに手も足も何にもない2mが曲者だった。ビレーヤーに助けられてトップアウトでき、本日2回目の超嬉しいクライミングになった。5ヶ月振りにクライミングに来て頑張った成果(?)で両手の指先が赤く腫れ、痛くてたまらなくなった。最後のタジアン終了後には2本の指から血が出た。粗いスラブの岩肌を強く抑えたり掴んだりしたことによるものだ。 スラブの逆襲 ソラマメハングを昇るYさん参加する前はクライミングができるかどうかとても不安だったが、杞憂に終わった。これまで昇った経験のない2ルートをクリアできてとても充実した。これからも何とかクライミングを続けようという気持ちが高まった。ついでにやはり減量!!
2012年07月16日
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やっとと言うかついにと言うか5ヶ月ぶりに小川山にクライミングに出かけた。心配なことがあった。一つ目はかなり体重増になってしまったのでこの太った体で岩に昇れるかどうか、次に種子骨症で足の親指が痛む状態で、足指で立ちこむ岩登りができるかどうかの二点である。結果的には何とか昇れて、無理のないように工夫すればどうにかなりそうで安堵した。土曜日、小川山は曇ってはいたが雨はなく、一日中昇れて有難かった。まず屋根岩4峰でノイズイノ(5.10b)トキオ83(5.10a)スラカン(5.10d)を昇る。さらに上の屋根岩5峰に移動。新ルートを1本と柴犬みね(5.10b)を昇った。このエリアで昇ったことはなかったので新しい経験ができて嬉しかった。 ノイズイノ スラカン 白いダイクが斜めに走るロングルート スラブとカンテが混在するのでスラカン
2012年07月15日
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記憶が薄れないうちに今回のエベレスト遠征で感じたことを記録しておこう。☆高齢者に公募登山は厳しい。何が厳しいかと言うと年齢のばらつきが予測できないことである。カトマンズで初めて参加する皆さんと顔を合わせた。年齢と性別構成は27歳男性、28歳男性、29歳男性、50歳男性、50歳女性に私65歳女性の6人だった。そのうち50歳男性は最初からC2までしか行かないという条件で参加していた。実質5名のうち20歳代男性が3人で半分以上を占めていた。トレッキングからロプツエイーストの高度馴化登山あたりまではほとんど問題なく、私もロプツエは若い男性以上に登攀できていた。しかしBCに滞在する日が長くなるにつれ、私は体力を奪われていった感がある。そこにいるだけでこれまで体にみなぎっていた活力が日々無くなり、気力も減退していった。着替えをするたびに太ももの筋肉が落ち、シナシナになっているのがわかった。若い人たちには衰退は無いようでみんな元気だった。20歳代の男性も65歳の女性も同じ隊で同じ行動を取るのは後半に違いが出てきた。☆タクティクスの違いがものを言う高所登山には大まかに分けて二つの方法があると思う。まず高度馴化にじっくり時間をかけて体を慣らしていく方法、もう一つは事前に高度馴化もしておくなど高所滞在をできる限り短くして体力の衰退の前にアタックしてしまう方法である。3年前チョー・オユーでは短期型だった。エベレストとチョー・オユーでは登攀の困難度が富士山と筑波山ほど違うと言われるが、BCそのものはチョー・オユーのほうが高い。チョー・オユーでは衰退は全くなく後遺症も皆無だった。前回の短期型と今回のじっくり型両方を経験して学んだことは私(高齢者)にはじっくり型はダメージが出てきたということである。三浦雄一郎さんも途中で一時BCからナムツェ辺りまで下って標高を下げ、調整されたとも聞いた。それと高度馴化をどこまでやってアタックするかという問題もある。今回のエベレストの馴化方法はラッセル・プライスの完璧なまでの馴化を踏襲した方法で石川直樹くんですら「For Everest」の中で「ズタボロになった」と書いている。エヴェレストに登頂できた友人と情報交換会をした。彼は驚くべきことを話した。「ロプツェ・イーストはしんどいから上まで登らなかった」勿論様々な違いはあるもののその脚力で登頂できている。更に「C2からずっと酸素ボンベを使用した」そんな方法も使えたのだ。ロプツエ・イーストを通常に登攀できた私はどうしてサミッターになれなかったのか?要するに細部に渡るタクティクスの違いがものを言ったということである。65歳の私が果たしてこのやり方で確実に登頂できるのかというその吟味や考察がおろそかになっていた。自分の課題を把握できていなかった。誰とどういうタクティクスで登頂するのが適切なのかという基本を抑えず、多額の費用を投入して自爆した私は愚かだ。しかしこれは実際に行って自分の体を通して体験しなければわからないことだった。☆自然には勝てない。今年のエベレスト周辺があんな状況になると誰が予測できよう。アイスフォールが不安定でなければ計画通りもっと早く出発できたから、BCステイの日数も少なくてすんだ。雪が例年通り降っていればローツェがあそこまで裸になって落石ひんぴんにはならなかっただろうしラッセル・プライスも撤退しなかっただろう。その撤退がフィックスロープが5月19日まで山頂に到達しなかったことや酸素ボンベの余裕がなくなったという新たな問題を引き起こしてしまったのだ。と、ここまで書いて気がついた。文が書ける!!物事の分析ができる!!やったあ、頭がほとんど通常まで回復してきた。やはり2ヶ月が必要だったのだ。
2012年07月14日
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美術館を出た後の楽しみは自然散策路の花である。この時期は初めてだったので待望の山ユリや珍しいあじさい、半化粧などを見ることができた。ここに咲いている花はいかにも自然に咲いているという雰囲気なのだが、その実、品種の選び方が洗練されていて造園家の細かな意図を感じる。 エントランス付近に涼しげな桔梗の群生 直径が顔よりも大きい名物山百合 大賀博士由来の大賀ハス 半化粧(半夏生・はんげしょう) どう見ても黄色い紫陽花に見えるがそんなのあり? 濃いテラコッタ色ガ魅力的な八重咲きカンゾウ 白地に赤い斑入りに見える ほとんど赤 この二つは同じ紫陽花だろうか?好きな絵を見て好きな花を見る、とても心にやさしく穏やかな一日だった。最近私は音楽より美術に傾いている。なぜだろう?
2012年07月13日
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久しぶりに佐倉の川村美術館を訪ねた。フラワースケープ~画家たちと旅する花の世界~という企画展が催されていた。花を題材にした西洋と日本の作品が揃っていて楽しめた。野中ユリ、有元利夫、福田美欄、三木富雄など現代日本人画家による作品が素晴らしく目を惹いた。今までその誰をも知らなかった。中でも有元利夫のテラコッタ色基調の絵は不思議に心の奥深く忍び込んできて、絵の前に長くたたずんでいた。宗教的な内面を感じた。初めて見た画家なのに長年知っている画家のように親近感があった。 有元利夫 花降る日 高島野十郎 ユリとバイオリン以前、高島野十郎展で見た「ユリとバイオリン」も展示されていた。どういうわけかこの絵が大好きだ。褐色にまとめられた静謐な画面にバイオリンの曲線と白いユリの花が対照的なのに寄り添うように調和している。単に楽器と花という以上の何かを感じるがそれが何なのかが表現できない。
2012年07月12日
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冒険終了後の後遺症について報告します。何かの参考になれば幸いです。後遺症の多くが低酸素・低気圧の影響で免疫力、抵抗力が失われてしまったことから出てきたものだと自己分析しました。酸素が通常の半分しかない標高5350mのBCで65歳の熟年女性が約1ヶ月ステイしていたことが事後に人体にこんな影響をもたらしていたのでした。 まず帰国して数日間は頭が全く働かないため、文章を考えるのがイヤでした。ぼんやりと横たわっているだけで、ブログアップもせず、頂いたコメントの返事すら書くのが苦痛で何もできませんでした。帰国翌日、日本の病院に行きました。まず耳鼻咽喉科で診療を受けましたが、抗生剤服用で通常なら3日ほどで回復してきたのに喉の痛みと咳、痰が取れません。1週間かかってやっと喉の痛みが落ち着きました。咳と痰はさらに長引き2週間ほどかかりました。同時に中耳炎も併発していたのですが、これは全く治らず、耳の聞こえが悪く、耳の中でガラガラと音がし、よく膜が張ったように耳が詰まっていました。ドクターが鼓膜にアナを空けて膿を吸い出してくれたのですが、その後もしばらく不調で、耳が通常の状態に戻るのに結局1ヶ月もかかりました。余りに回復が遅いのでドクターは「貴方はもっと早く治る人だったのに・・・。高所に長く滞在して抵抗力が落ちてるんだろうから、しばらく山にもプールにも行かずおとなしくしてて下さい!!」「ずっと静かにしてるんですけど・・・・」次は脳神経外科です。脳浮腫疑惑があったので事情を話し、MRI撮影と動脈硬化の検査を受けました。幸い両方とも異常なしでホッとしました。更に皮膚科です。顔中がかゆくて寝ている間に掻いてしまって、一面赤くなってしまいました。心当たりもなく原因不明ですが、荒れ果てた庭の手入れをして庭木の何かが顔に触れ、通常なら平気なのに抵抗力が無くなっているため、かぶれたのではないかと思います。さらに整形外科です。遠征に出発する前から足指の付け根が痛んでいたのですが、遠征中は幸い痛みはありませんでした。カトマンズに戻って来た頃からチラチラ痛みがでるようになり、帰国したら耐え難い痛みに見舞われました。整形外科でレントゲンと血液検査を受け、痛風でもリウマチでもないことが判明、変形性関節炎ではないかと言われました。退屈なので足指の機嫌を取りながら午前山に登ったら下山時に酷く痛んで惨めでした。「もう山に行けないのではないか」と悲観的になりました。その後も全く回復しないので、ミウラドルフィンズのコンディショニングルームでKトレーナーにみてもらったら種子骨症と言われ、説明を聞いて納得しました。ヒマラヤで痛くなかったのは山道はでこぼこして足指を使わざるをえないから痛みが出なかったけど、アスファルトの平坦な都市部では足指は使わないし、アーチが弱まっているから症状が再発したとのこと。足首もずれていたと言われて絶句。テーピングの方法を教えてもらって、回復への希望が持てた。「整形外科に行く前にミウラに行け」改めて自分に言い聞かせました。あと10日ほどで帰国後2ヶ月を迎え、後遺症もそろそろ落ち着きそうです。体を壊さない今後の楽しい計画を思案中です。
2012年07月11日
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カトマンズに到着してホテルに荷物を置くのもそこそこにすぐに医者に行った。シュウイッククリニック(CIWEC Clinic Travel Medicine Center Kathmandu)という旅行者専用の立派な医療機関だった。待合室で激しく咳こんでいたら、見かねた看護士さんが部屋に入れてあれこれケアしてくれた。ドクターは立派な体格の男性できちんと見てくれた。しかしもらった薬はなかなか効かず、喉の焼け付く痛みや咳はなくならなかった。市内観光する元気もなく毎日ホテルのベッドに横たわっていたらホテルから小さな見舞いの花が届いて和んだ。 シュウイック クリニック の車 見舞いのガーべラ出発した時から1ヶ月半の季節が進んで街の風景は様変わりしていた。紫色のジャカランダが通りに咲き誇り、誇りっぽい中にも華やかさを感じた。夜はホテルの前の「古都」という和食レストランに出かけた。元気をつけようと栄養のあるものをオーダーするのだが多量で何時も残した。 ジャカランダ 「古都」のすき焼き定食セット3日間カトマンズにステイし、夜行便に搭乗して帰国した。遠征荷物が重くて莫大な超過料金を取られて一層悔しかった。ついに冒険の旅は終わった。
2012年07月10日
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下山3日目はナムツェ(3450m)からルクラ(2850m)までジョサレ→モンジョ→パクディンの同じみのトレッキングルートだった。この日もロングルートで早朝出発、すり鉢状にロッジが広がるナムツェからぐんぐん下ってパクディンまではそこそこだったが、そこからの折り返しが長かった。でも今日で最後だと思って、頑張って歩いた。 まだ残っていたしゃくなげ バラ科? 純白の花ルクラのロッジに着いた時は命拾いした気分だった。ここまで来ればもう大丈夫。これで実質的に遠征は終了したことになる。普段は食べないステーキとワインを注文して自分で自分の労をねぎらった。翌日、朝一番のアグニエアーでカトマンズに向かった。機内からヒマラヤの白い峰峰がくっきりと見えた。もう十分という感慨が湧いた。 ルクラ空港 白きたおやかな峰
2012年07月09日
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下山2日目はパンボツェ(3960m)→タンボツェ→ブンキタンガ→キャンジュマ→ナムツェバザール(3450m)というルートを歩いた。行きに通ったシャンボツェやクムジュンは通らない。距離的には1日目より短いし、高度も500mほど下がるだけなのだが、これがまたしんどかった。傾斜のある登り降りが激しくて消耗した。熱こそ出ないが呼吸器周りは昨日と変わらない状態で喉の痛みは益々酷く、咳と痰で悩まされた。絶景が続いていたが、今ひとつ心から楽しむ余裕はなかった。今回はタンボツェ僧院経由だった。そこから遥かかなたにエベレストが見えた。小さくなったエベレストを見て心から悲しくなった。この間は目の前に黒く巨大にそびえていたエベレストがあんなに遠くなっている。ああ、私は登りたかったあの山に登れないで、もう登山の圏外に下山してしまったのだと思うと、心から悲しさがこみ上げてきた。 タンボツェ僧院前から見る遥かなエベレスト思い出あるタンボツェ僧院だったが、ろくに休む暇もなくベーカリーによる余裕もなく更に下った。タンボツェからナムツェは「こんなに遠かったっけ?」と思うほど遠かった。シェルパのMは新婚ほやほやだと聞いていた。その妻が何とナムツェまでまだかなりある距離がある地点に食べ物と飲み物を携えて夫を迎えに来ていたのには仰天した。このMというシェルパは不親切で、これまでも私がどんなに咳こんでも「Are you ok?」の一言もないヤツだったが、夫が夫なら妻も妻、それ以後、二人だけでネパール語で楽しそうに喋り続け、私は彼らから離れて歩いた。 今日も悲しいほど空が美しい タンボチェ僧院 新婚のM夫妻登っても下っても曲がってもなかなか着かなかった。やっとのことでナムツェのロッジに着いたと思ったらMは明日の出発の時間確認もしないで、すぐに妻とナムツェの街に遊びに出かけた。とんでもないシェルパだった。彼は親切で忠実というシェルパのイメージを完璧に覆したのだった。その夜はこのロッジで連泊しようかと思うほど疲れていた。帰りにここで仮面を買う予定で行きに下見したおいたのに、街にでる元気もなくベッドに横たわったままだったが、一晩中咳であまり眠れなかった。
2012年07月08日
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私が撤退を表明したので、すぐにシェルパとポーターを一人づつ手配し、手配が整った2日後、下山を開始した。ルクラ(2800m)からBC(5350m)まで高度差約2550mを10日かけて登って来た道を今度は3日で下るのだった。この下山ほど辛かったトレッキングを経験したことがない。呼吸器周りが崩壊状態だった。まずこの頃から声が全く出ず失声症状態、喉が焼け付くように痛い、痰が出る、激しく咳き込む、不思議に熱はない、この状態で1日目はBCからパンボツェまで下った。BC→ゴラクシェプ→ロプツェ→トクラ→フェリツェ→パンボツェと実にロングルートだった。歩いても歩いてもパンボツェは遠く、体を海老のように丸めながらコンコン咳をし、痰を飲み込みながら辛い道のりだった。夕方5時前にパンボツェのロッジに着いた時は本当にほっとした。パンボツェはアマダブラムの麓の静かなで素朴な村だった。行きとは異なる方角から見たアマダブラムは大きくゆったりと村を見下ろしていた。 単独の下山なので話す人もなく孤独だった。喉の痛みを取ろうとしてパブロンゴールドを飲んだ。自分がこんな情けない状況になっていることが信じられない気分だった。
2012年07月07日
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ミッドナイト・イン・パリ を上映最終日に観に行った。ウッディ・アレン監督作品ということしか知らずに観にいったのだが、これが予想に反する展開で上品なおかしさ満載だった。前回観た「テロマエ・ロマエ」もタイムスリップする映画だったが、この映画のタイムスリップぶりはこれまた新発想かつ芸術の都パリらしく美術史上、文学史上の人物がそっくりの姿で登場するので思わずニヤリとする場面が多かった。特にヘミングウエー、ダリ、ロートレックのそっくりぶりは必見だろう。 何も知らない秘密探偵がタイムスリップしてルイ14世時代に迷い込み、ベルサイユ宮殿で即「首を切れ」とルイ14世が命じる場面が何とも愉快だった。
2012年07月06日
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BCでのんびり過ごしている間に体力は元に戻ってきた。フィックスロープが山頂まで張られていない状況でこれからどのような段取りでアタックするのか素人には見通しが立たなかった。しかし、隊長はHimexだけが登山隊ではないし、他の隊と協力してフィックスを頂上まで伸ばし、登頂できるという考えだった。それが一体いつなのかは不明である。私のアタックに関しては脳浮腫は今、大丈夫でも発症した同じ高度になると再び出てくると言われ、専任のシェルパを付けてアタックすると言う方向で共通理解ができていた。ただ今年の山が普通ではなく非常に危険で、ある意味命がけだから、そのことを家族によく話しておいてほしいとも言われた。死亡したあと、家族が隊長を告訴することが稀にあるらしい。万一の場合でも告訴しないようにとも。しかし数日後に話は逆転してしまった。C3から上はシェルパも荷揚げその他いろいろな仕事があるので、私専任のシェルパを確保できないというのだ。 酸素ボンベと装着の練習まいった!!、こんな方法でアタックを断念させられるなんて思いもしなかった。自分がもうだめだと納得して撤退するならまだしも、自分はまだ頑張ってみたいと思っているのにアタックできないとは。つらい時間が過ぎた。でも隊長が私にアタックを断念させるということは自分では気がつかない部分でリスクがあるのだろうと考え、気持ちを落ち着かせた。「お母さん、無事に帰ってくれるだけで十分だから」という子ども達の顔も浮かんだ。そうだ、石川直樹くんやSさんたちのような大経験者ですら撤退して下山したんだ。今年は山も登山条件も最悪の状況。ここで命を捨てる必要はない。生きていればこれからも山に登れるけど、ここで亡くなったり凍傷になって手足の指を切ったりしては将来はない。ここに来るまでのさまざまなことを考えると断腸の思いだったが、撤退することにした。
2012年07月05日
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ここで重要なことを書き忘れていた。C2から一人で下山していた時、無線でHimex隊のガイドShinjiさんが日本語で興奮気味に告げているのが聞こえた。「総撤退が決まりました!。総撤退が決まりました!」 総撤退?一体何の話?BCに帰還した午後、石川直樹くんの訪問があった。Himex隊はエベレスト、ローツェ、ヌプツエのすべてのルートから撤退し、明日下山しますとの報告にわざわざ来てくれたのだった。びっくり仰天、晴天の霹靂とはこのこと。まだ5月6日で登頂シーズンはこれからである。三脚持参の彼に「いい写真が撮れましたか?」と言うと「高い所まで行ってないから・・・」と彼は悔しさをにじませていた。 いつ会っても凛々しい石川くん ラッセル・プライスご自慢のホワイト・ポッド 中にはバーとシアターがあるということだが、そこまで入ったことがない今年の山の状況は20年に一度と言われる悪さでアイスフォールも例年になく不安定、雪が少ないためローツェは岩肌丸出しでそこから落石がひんぴんとある。このためHimex隊のシェルパが重症を負ったり死んだりしている。アイスフォールに落ちて死亡したシェルパも何人かいる。そしてHimex隊の優秀なシェルパ達ですらこのような状況で活動するのは危険すぎるとしてフィックスロープを上に伸ばさない。フィックスロープはHimex隊だけが張るわけではなく他の隊からも出るわけだが、主になるのはやはりHimexのシェルパというのがここ数年の流れである。彼らの働きによって例年5月1日頃にはエベレスト山頂までフィックスロープが完成し、一般登山者は登頂可能になっていたのだった。しかし今年はこのような状況で5月6日になってもC3あたりまでしかフィックスは張られていないという。この状況でラッセル・プライスは総撤退を決断して下山していくとすると誰がフィックスを山頂まで張るのか?予期しない大問題が浮かび上がってきた。
2012年07月04日
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私はBCに下山し、本隊はその後、C3まで登りそこで1泊して、BCに戻ってきた。C3の登りはものすごく大変だった、C3のテントは不安定な地形の上に設営されていて眠る状況ではなかったとのことだった。戻ってきた隊長は早速私のテントに来て告げた。「C2でのあの状況は脳浮腫だと思うんだよ」脳浮腫!!聞いて絶句した。脳浮腫と言えば肺水腫と並ぶ高山病が最悪に進行した末期症状ではないか。私がそんなことになっている??これまで高度馴化は順調で頭痛、吐き気、下痢などほとんどなかったし、咳も出たことはなかった。その時も頭痛、吐き気、運動障害など脳浮腫につながる体の症状は特に感じていなかった。「疲れたのは確かですけど、脳浮腫の自覚症状は全くないんですけど?」「本人は自覚がなくて見ている周囲がおかしいと感じるんだ」と隊長は言った。しかしあれが脳浮腫だと言われても納得できなかった。でも隊長はエベレスト登頂5回、チョー・オユーやマナスルにも登頂している高所登山のエキスパートである。その人の判断である。素人の私はそれ以上反論できなかった。すぐに携帯メールで日本の息子に高地脳浮腫についてNETで調べて情報を送ってくれるよう頼んだ。返信はすぐ来た。脳浮腫に陥った時の体の状態や、脳浮腫になるとまっすぐ歩けなくなるのでその運動能力診断法などが有益だった。しかしそれにもほとんど当てはまらない。中でも頭痛や吐き気、めまいなど身体反応がほとんどない。自分が脳浮腫だということが信じられなかった。こういう場合の確たる診断方法はないのか?焦った。 天気の良い日には登山用品も日光浴 乾燥でひび割れた指先おおいに困惑しつつ、BCで数日間のんびりした。確かに疲れていて・・というより高所に長くステイして体力が衰退してきたという感じだった。20歳代の若い男性群はみんな平気のように見えた。
2012年07月03日
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バラ色に輝くエベレストとローツェの頂き、まさに神々の山嶺だ。 ローツェフェイスにタッチしてC2に戻ってきたらとても疲れていた。自ずとおしゃべりもしないで静かにしていた。 それが何につながったか?そんな静かな私を見て隊長は普通ではないと判断した。静かなのがとても気になるとも言った。疲労と低酸素で思考能力を失い、異常事態になっているのではないかと。 テント脇にたくさん積まれている酸素ボンベ 小さなソーラーパネル隊長は更に言った。この標高6500mというC2にいては体力が衰退することはあっても回復する見込みは全く無く悪化するばかりだから、BCへ下山したほうがよいと。 C2のテントの中 モレーンの上に石のテーブル C2の夜BCに下山せよと言う隊長の発言には大変戸惑った。そんな事態になっているのか?しかし私も疲れている自覚はあったので、皆と行動をともにできない残念さはあったものの、BCに降りて体力を回復させることには異論はなかった。ここで下山してもアタックのチャンスはあると隊長は言ったし、自分もそう考えていた。そのつもりで高所服や食料などアタックに必要な物はテントにデポしておいた。翌日、シェルパ一人を伴ってウエスタンクウムからC1へ、さらにアイスフォールを下ってBCへ帰還した。アイスフォールの降りはカラビナワークだけでユマリングは無かったので楽に下れた。BC近くまで降りると最も信頼できるシェルパのラムさんが飲み物を携えて出迎えに来てくれていた。嬉しかった。
2012年07月02日
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C2(6450m)に着いた1日目は高所服を着ていても寒くて夜はあまり眠れなかった。BCに着いてからずっとナルゲンボトルにお湯を入れてもらってそれを足元に置いて湯たんぽにしていたが、それがここでの唯一の暖房だった。1日ステイしてやっと夜眠れるように慣れた。翌日はC3に登る足慣らしと高度馴化でローツェフェース(6850m)まで登った。雪が舞うとても寒い日で標高そのものはそんなに上がらないにもかかわらず疲労感が体を襲った。ローツェフェースは荒々しい山肌を見せて迫り、ここの一体どこを登るの?という迫力で迫ってきた。 C2に立つテント群 一休みする男性陣 結論的に言うと今回の遠征でたどりついた最高地点はこのローツェフェースだった。これからが本番のアタックなのだが、ここに来るまでも決して楽なものではなかった。ローツェフェースにタッチしてC2へ下山した。
2012年07月01日
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