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かの御息所はこのような祝宴のご様子をお聞きになるにつけても、心穏やかではいられません。『かねては、お命も危ういと聞いていたものを。ご安産だったなんて......!』と、お思いになるのでした。 不審に思って呆然自失のお気持ちを辿ってごらんになると、不思議な事に御衣などにも芥子の匂いが染み込んでいます。御髪をお洗いになり、お召し物も着がえてごらんになるのですが、どうしても芥子の匂いがとれませんので、我が身ながら厭わしくお思いになります。ましてこれを世間の人がどう言い、どう思うかなど口に出して言うべき事ではなく、御息所の御心ひとつに納めてお思い嘆くしかありません。御息所の御乱心は、ますますひどくなって行くのでした。 源氏の大将殿はご安産に少し安堵なさいました。不気味だったあの生霊の問わず語りを不愉快にお思い出しになりながら、御息所へのご訪問もつい間遠になってしまった事を心苦しく、そうかといってまた、『直接御息所にお目にかかるのは、いかがなものだろう。きっと厭な気持になるであろうから、あの方にとってはお気の毒な事になろう』と、様々お思いになり、御文だけを差し上げるのでした。
July 31, 2011
そんな姉妹が貞節な母親の気持ちを案じ、父親の女性関係を探っていくのですが、四人姉妹がそれぞれの立場や思いで両親、姉妹を眺める視線に面白さがあります。★ 次女は訪ねて行った長女の家で、姉と愛人関係にある男性のしどけない姿を目撃してしまいます。憤然として黙りこむ次女に長女は、「ねえ、何か言いなさいよ。私を責めたいんでしょ。言いたい事も言わないで黙っているあんたの事が、昔っから大っ嫌いだったのよ!」と、罵ります。 一方三女は四女に「好奇心が強い癖に、恋人の1人もできないじゃない。猜疑心が強いから、こんな事(私立探偵を頼んで調べさせる)するのよ」と言われて、取っ組み合いの喧嘩になります。姉妹がお互いに痛い所を突き突かれ、見たくないものを暴かれて非難し合うのですが、それは家族として知り尽くしている者の「意地の悪さ」でもあるように思います。そうかと思えば家族全員が集まると、そうした不都合で醜いものは全て襖の向こうに隠して、ごく自然に談笑する事もできるのです。緊張した人間関係の中に出現する「和やかさ」に、違和感よりも不思議な安堵感を覚えて、視聴者はほっとするのかもしれません。父親のなかにある「身勝手な男の顔」、良妻賢母である母親に垣間見る「女としてのみっともない嫉妬心」、そして姉妹それぞれがお互いに抱く嫌悪感、欺瞞や猜疑心、あるいは意地の悪さなどが、一見平凡でどこにでもありそうな家族の中にさえ通奏低音のように流れている怖さ、言ってみれば「家族という『人間関係』の危うさ」が、向田邦子のドラマにはてんこ盛りなのだと思いました。
July 31, 2011
今年は向田邦子没後30年だそうで、彼女のドラマがTVで放映されることが多くなりました。 タイトルのドラマはずいぶん昔のものですが、お蔭で最近再放送を観る機会がありました。 定年後を二人で暮らす両親と、それぞれ独立して暮らす四人の姉妹が主な登場人物です。 寡黙な父親には、どのような関係かは分からないものの「世話をしている女性とその子ども」のいることが分かります。 母親は主婦ですが、夫には内緒にして貯金をしています。あわてて通帳を隠す妻に、心から夫を信頼していない心持ちが伝わってきます。 未亡人となった長女は華道の先生をしながら暮らしていますが、お花を活けに通う料亭の主人と、女将の目を盗んで不倫関係にあります。 次女は母親と同じような専業主婦ですが、夫の女性関係に感づいていながら、そこを見ないように、触れないようにして暮らしています。 父親に女性がいることを発見したのは、化粧っ気も男っ気もない地味な性格の三女でした。図書館司書の彼女は、私立探偵に依頼して父親と女性との関係を調べさせます。 世間知らずで一途な末っ子の四女は、鳴かず飛ばずの上に生活力のないボクサーに惚れ込んで、汚い安アパートで同棲し「結婚したい」と言い出して母親を呆れさせます。
July 30, 2011
少しばかり落ち着かれましたので、ご気分がよろしい間にと、母・大宮が御薬湯を持って傍にお寄りになりますと、女君が女房たちに抱き起こされ給いて、ほどなくお生まれになりました。皆が「やれ嬉し」と限りなくお思いになるのですが、よりましに乗り移り給える御物の怪どもが妬ましがって暴れる様子がたいそう騒がしいので、後産が心配なのです。 言いつくせぬほど祈願の数々をお立てになったお蔭でしょうか、後産も無事お済みになりましたので、比叡山の天台座主はじめこの上もなく尊い僧たちが、したり顔に汗をぬぐいつつ急いで左大臣邸を退出しました。 たくさんの人々が心を尽くして看護した数日間でしたから、少し緊張も緩み、いくらなんでももう一安心とお思いになります。 御修法などはまたあらためておさせになりましたが、先ずは無事お生まれになった御子へのお世話にかまけて、皆の気が緩んでいたのでしょう。 桐壺院をはじめとして親王達、上達部が一人残らずお祝の品を贈り、今まで見たことがないほどご立派な祝宴を、夜毎盛大に催されます。 お生まれになったのは男児でいらっしゃいますので、お作法に従った大賑わいのお祝でした。
July 29, 2011
「嘆きわび 空にみだるゝ我がたまを 結びとゞめよ したがひのつま(悲嘆のあまり空にさまよい乱れる私の魂を、どうか結び留めてくださいませ。下前の裾を結んで......)と仰せになる声や気配が女君その人ではなく、すっかり変わっています。 源氏の大将は不気味にお思いになって、さまざまお考えになりますと、全くあの御息所なのでした。 世間の人が「御息所の生霊だ」などと噂し合いますのを「よからぬ者どもが勝手に言い出した事」と苦々しい思いで打ち消していらしたのですが、こうして目の当たりになさいますと「世の中にはこういう事も本当にあるものなのだ」と、あさましく疎ましくなるのでした。『ああ、なんと厭わしい……!』とお思いになり、「そう言われても、誰の事か私には分からぬ。はっきり名乗り給え」と仰せになるのですが、ただもう御息所その人の御ありさまですので呆れるどころではなく、女房たちが近くに寄りますのも気が気ではありません。
July 28, 2011
女君がたいそう泣き給うので、『ご両親を残して先立つ心苦しさを思い、またこのように嘆く我が姿をご覧になって、耐え難くお思いなのだろう』とお感じになり、「何事もそんなにひどく思い詰めてはいけませんよ。今は苦しくとも、それほどひどくはありますまい。たとえどうなろうとも、夫婦には必ずめぐり逢う機会があるのですから、私たちはきっと再会できますよ。左大臣や大宮とも、親子という深い縁のある仲では、生まれ変わるとしても縁は切れないのですから、再会する日がきっと来るとお思いなさいね」と慰め給うのです。すると、「いいえ、そのような事ではありませぬ。私への調伏があまりに苦しいので、しばしお止めくだされますよう申し上げたいのでございます。このような所へ参上いたすなど夢にも思いませんでしたが、物を思う人の魂は、本当に身から抜け出てさまようものでございます」と、生き霊が慕わしげに言います。
July 27, 2011
源氏の大将が御几帳の帷子を引き上げて拝見なさいますと、女君はたいそううつくしいのですが、御腹がひどく高くて、臥していらっしゃるご様子は、他人の目で見ても痛々しくて心が乱れるほどなのです。 まして北の方でいらっしゃいますから、愛おしく悲しくお思いになるのは尤もな事でした。白い御衣に黒髪の色がたいそう映えて、長く多い御髪を引き結んで添えてあるのも、『こんな姿でこそ可愛らしく、あでやかさが添うてうつくしいのだ』と、御覧になります。 女君の御手をとらえて、「ひどいではありませんか。私に辛い思いをおさせになるなんて」と、ものも言えずにお泣きになります。いつもは打ち解けにくく気詰まりな女君の御眼差しですが、今はひどくだるそうに見上げて源氏の大将をじっと見つめていらして、そのうち涙がこぼれる様子をご覧になりましては、愛しさが増すばかりです。
July 26, 2011
ご出産はまだ先の事、と人々がみな気をゆるしていらっしゃるところに、にわかにその兆しがおありになってお苦しみになります。左大臣家ではなお一層の御祈祷を、数を尽くしておさせになるのですが、例の執念深い御物の怪が一つあって、一向に動こうとしません。尊い修験者どもも「これは異なこと」と、持て余すほどです。 それでもさすがにひどく調伏させられて苦しげに泣き喚き、「少し手加減してくださいませ。大将殿に申し上げたい事がございますので」と、言うのです。女房たちは、「やはりそうだったのね。何かあるのよ」とて、源氏の大将を女君に近い御几帳のもとに入れたてまつりました。 女君が今にも死に絶えそうなご様子でいらっしゃるので、申し上げたい事でもおありなのでしょうか。父・左大臣も母・大宮も遠慮なさって、女君から少しお離れになりました。 加持祈祷の僧侶たちが声を低くして法華経を読むのが、たいそう尊いのです。
July 25, 2011
斎院は去年内裏にお入りになるはずでしたが、さまざまな支障があってこの秋にお入りになりました。 九月には、そのまま嵯峨の野の宮にお移りになりますので、その前に二度目の御祓いの用意が取り重ねてあるべきなのですが、母・御息所はただもう異常なほどぼんやりなさって、しんみりと臥し悩み給うばかりですので、奉仕する宮人は『これは大変な事になった』と、御祈祷などさまざまにお仕え申し上げます。 御息所は重病というご様子ではないのですが、何となくお具合の悪いまま月日をお過ごしになりました。 源氏の大将殿も心配なさり、常に御文を差し上げるのですが、もっと大事な北の方がたいそう患っておいでですので、御心に余裕がないのでした。
July 24, 2011
六条御息所は、『ああ、自分が厭わしい。ほんに歌にもあるように、私の魂が抜け出て行ったのかもしれないわ』と、夢心地にでもおぼえ給う折々があります。『些細な事でも、人の事なら良い事さえ悪く言う世の中だわ。まして物の怪の事となれば、面白く言い立てるには絶好の話題ですものね』そうお思いになると、ひどく評判になりそうな気がなさいます。『死んでしまった後の世に、恨みを残すのは世の常というもの。でもそれだって他人の身には罪深く忌わしく思われるのに、生きている我が身ながら、そのようなおぞましい噂を他人から告げ口されるなんてたまらない事だわ。ああ、何と心憂い宿世なのかしら。やはり薄情なあの方には心をかけたりせず、きっぱり諦めてしまおう』と、お思い返しになるのですが、それさえすでに「執着心という悩みの種」には違いないのです。
July 23, 2011

日本海は目に刺さるほどまぶしい好天で、海もとろりとした凪ぎでした。 陸地がはっきりと見えるようになったので、一度も使ったことのない携帯の「GPS機能」とやらを使ってみる事にし、説明書を読みながら現在地を探すと、ちょうど男鹿半島を回り込むところでした。 船は高速船のようで、GPSの矢印がどんどん動き、半島も山も船窓からしだいに見えなくなりました。 津軽海峡に入るとあれほど良かった空のご機嫌が悪くなり出し、霧も出てきて外の景色が見えなくなりました。 上機嫌の日本海側にくらべ、太平洋側ではまるで怒っているようなお天気で、午後8時半に到着した苫小牧港は小雨が降っていました。 我が家を出てから帰り着くまで4泊5日の楽しかった旅(船中2泊)は、総計965キロのドライブ旅行となりました。★ 来年は東北北部(恐山で、紫式部と話をしたい!)を予定しているのですが、運転できるうちに九州まで足を延ばしたいとも思っています。(写真下:ホテルディアモント新潟西)
July 22, 2011

午後11時過ぎの敦賀市内は暗闇の中に静まり返っていましたが、フェリー乗り場に到着するとすでに乗船が始まっていました。 去年の八戸港でも苫小牧港でも、牛がたくさんの大型トラックに乗せられてフェリーに飲み込まれるのを見ました。牛肉は好きだけれど、何だかちょっと哀れな気がするのは、身勝手な感傷というものなのでしょう。 感傷といえば敦賀港を出港するとき、岸壁で手を振る3人の作業員がいました。最近は分かりませんが、飛行機が出発する時も、空港作業員が並んで手を振ってくれたものです。旅の無事を祈ってくれるようで、なかなかいいものだと思います。 さて、船内の受付で鍵を受け取り、船室のドアを開けようとするのですが、途中でひっかかってうまく回ってくれません。部屋の前でもたもたしていると、通りがかった男性が「開かないんですか?すぐ開くんだけどな」と言いながら、すんなり開けてくれました。「老夫婦、若者に助けらるゝの図」でした。~★~ 翌朝はとても良いお天気でしたが、レストランで簡単な朝食をとった後、船室の遮光カーテンを引いたまま、再びベッドにもぐりこんで眠りました。 再び眼を覚ましたのは、同じ船会社のフェリーと「すれ違う」というアナウンスで、すでに山形沖を進んでいるようでした。
July 21, 2011

~★~ところが涼しいのはロビーだけで、エレベーターも廊下も客室も、重く澱んだ熱気が充満して、空気のかすかな動きすら感じられませんでした。オーナーズ・デスクからの情報では、もう一か所のホテルは9000円ということでしたから『そっちの方にすればよかったかな』という気持ちがよぎります。こんなに寂れたホテルでは、どうも「騙された」という気分になってしまいます。それでも私たちは早く休みたい一心で、ここに決めました。日本庭園もレストランも、とてもきれいだったのです。最近のホテルでは、どの部屋でもインターネットが使えますが、このホテルではどうやら1室だけが対応するようで、その貴重な部屋に案内されたものの、通信速度の遅い事遅いこと。画面が変わるのに30秒もかかりました。「ねえ、これってまさかISDNじゃないよね?」「う~む、敦賀はそんなにイナカか?」「だって、ものすごく遅いよ。帰る時、訊いてみたい」「そんな事訊くなよ。失礼だよ」 このあたりが男の妙な気遣いであり、女の図々しさなのかもしれません。 古くさい鍵を返しながら尋ねると、「ケーブルTV」なのだそうです。なーるほど!
July 20, 2011

写真上は庫院(くいん)。***** 敦賀港に到着したのは午後2時近く。フェリー出港の午前1時までは半日ほどあります。それまでの時間、敦賀市内の日帰り温泉施設で一休みする予定でしたが、家人も私も一眠りしたいほど疲れきっていました。 そこでレクサスのオーナーズ・デスクを呼び出して事情を話し、午後11時まで休めるようなホテルを探してもらうことにしました。待つこと暫し、フェリー乗り場近くのホテルを数か所見つけてくれ、一番近いホテルをナビにダウンロードしてもらいました。 ホテルは気比神社のすぐ隣の、閑静な場所にありました。しかしオーナーズ・デスクの「『一部屋5800円でご提供させていただきます』とのことでした」とは話が違い、「『お1人様』5800円頂戴いたしております」と言います。丁寧な口調なわりにどこか品のない受付の女性に「あれ、レクサスさんからは一部屋5800円、というふうに聞いてましたけど」と言うと、「そうでございましたか。わたくしの言い方が悪かったんでございますね」と、これまた丁寧な口調でわびながら、一部屋10000円に値引いてくれました。(写真下、右側の小さなお堂にはお地蔵さんが祀られていました)
July 19, 2011

写真上は、永平寺の鐘楼です。扉を堅く締めた小さなお堂がありました。大きな伽藍の中で、ちょこんとお座りした小僧さんのようです。
July 17, 2011

写真上は、持国天(東・青)と多聞天(北・黒)。 「五行説」は日本人の生活の中に案外多く入りこんでいます。例えば干支(えと)。これは十干(甲乙丙丁・・・)と十二支(子丑寅卯・・・)の組み合わせで暦をあらわしたものです。十干は五行説(木・火・土・金・水)に由来します。木は「木の兄(きのえ・甲)と木の弟(きのと・乙)」、火は「火の兄(ひのえ・丙)と火の弟(ひのと・丁)」土は「土の兄(つちのえ・戊)と土の弟(つちのと・己)」、金は「金の兄(かのえ・庚)と金の弟(かのと・辛)」、水は「水の兄(みずのえ・壬)と水の弟(みずのと・癸)」というように、それぞれ二つに分けられています。「五行説」に付きものなのは「陰陽説」ですから、二つに分けるなら当然「陰・陽=女・男」になるはずですが、なぜか日本では「兄(え)・弟(と)」になっているのです。昔、中国人の中医師に「何故、『男女』ではなく『兄弟』なのか」と質問した事があるのですが、「質問の意味が分からない」と言われてしまいました。「兄弟」という考え方は多分中国にはなく、日本独自の捉え方なのではないかと思うのですが、私の疑問は未だに解決していません。
July 17, 2011

写真上は永平寺山門です。山門は仏界への入口なのだそうで、一般参拝者はここからでなく通用門から入ります。重厚な屋根周りがみごとです。永平寺最古の建物で、県の文化財だそうです。 写真下は山門を守護する四天王。向かって左が増長天・右が広目天。3年前に修復されたそうですが、どこか「京劇」の登場人物のような雰囲気があります。増長天は南、広目天は西の守り神ということで、それぞれ赤と白に塗られています。反対側に祀られた持国天は東方の青、多聞天(北方)は黒ではなく、深緑色に彩色されていましたが、この方角と色との関係は、古代中国の五行説に由来するように思いました。
July 16, 2011

翌日は北陸自動車道をさらに南下し、途中で氷見市の「きときと寿司」に寄りました。残念ながら二人ともあまり空腹感がなく、白エビ、甘エビ、まぐろを一皿ずつ食べた程度で満腹になってしまいましたが、どれも新鮮で甘く、貝がどっさり入ったはまぐりの味噌汁は味が濃く、180円という、びっくりするほど安いお値段でした。 金沢へはレクサスのオーナーズ・デスク(車載の無線コール)を通じて、駅近くの駐車場をナビに送ってもらい、目と足の悪い家人をクルマに残して、大急ぎでお土産を買いに行きました。ところが普段歩いていないため、しだいに疲れて来るのが分かります。暑さのために喉も渇き、はやくホテルで休みたい、と思ってしまうのです。旅行を楽しむにも体力の充実が求められることを実感しました。 この日は小松に宿泊しましたが、翌日は早朝に発ち、福井の永平寺を目指しました。日曜日のため、駐車場が込み合う心配があったのです。
July 15, 2011

(ホテルディアモンテ新潟西の夕食) しかしそれは私の自己満足にすぎませんでした。彼女が私の手紙など読んでいないことが分かったのです。 私は自己嫌悪に陥り、彼女にどう向き合えばいいか分からなくなりました。そのうち自営業の忙しさに埋没し、彼女とはしだいに疎遠になっていきました。*** けれど若い頃の友人(彼女に限らず)とは不思議なもので、気持ちの行き違いや長いブランクがあったとしても、それを埋めるに十分な「何か」がお互いの心の中に育っているならば、切っても切れない絆となるように思います。それは一緒に過ごした思い出への単なる懐かしさだけでなく、お互いを大切にしながら築きあげてきた人間関係が、私たちにとって「共有財産」になっているからではないかと、そんなふうに思うのです。
July 14, 2011

新潟の友人と20年ぶりの再会を果たし、私は肩の荷が下りたような気持ちになりました。 彼女は大学2年になったころ、突然授業に出なくなったのです。アパートが近かったので、毎朝起こしに立ち寄ったのですが、布団の中から出てこないのです。講義では出席のための代筆もできるのですが、午後から毎日行われる実習(実験)ではそれが不可能で、再実習の申請を自らがしないかぎり留年は必定となります。私は布団をはいだり、手を引っ張ったりして、何とか引きずり出そうとしましたが、どうにもなりませんでした。 彼女が鬱病と分かったのは何度か留年を繰り返した後に自殺を図った時のことで、母親が来て退学届を提出し、連れ帰ったようです。 というのも、その頃私は卒業したばかりで、結婚、転居、就職と自分の事に忙しかったのです。 私は「彼女に何もしてあげられなかった」という、今思い返すと、「僭越でどこか傲慢な負い目」を感じていました。それで入院した彼女に、せっせと手紙を書きました。心を籠めて、しかし重さを感じさせないようにさりげなく、投かんするまで何度も書き直しながら。(写真は北陸自動車道、米山サービスエリアからの日本海)
July 13, 2011

昨年は仙台~八戸間の太平洋側でしたが、今年は秋田から日本海側を南下し、敦賀から新日本海フェリーで、ちょうど昨夜(11日)戻ってきたところです。秋田港に到着した8日の朝は雨でした。今回の旅行の第一目的は、大学時代の古い友人の病気見舞いでしたので、まずは新潟市内の病院にナビ設定をし、暗い日本海を右手にひたすら南下しました。対向車のナンバーが「秋田」から「庄内」へと変わっていくのが楽しく、何度か休憩を兼ねて道の駅にも立ち寄りました。中でも山形県の「しゃりん」では地元産の食品の品ぞろえが豊富で、藻塩、ブルーベリージャム、それに「しなの布」のしおりなどを買いました。ここでもやはり「しな布」の製品は高価ですが、しおり、ティッシュケース、お財布、カードケースや帽子、バッグ程度と品数が少ないのが残念でした。そういえば、ここでやっと冷たい牛乳が飲めました。牛乳などどこででも手に入ると思っていたのですが大間違い。牛乳を販売するには「許可」とそれに伴う「費用」が要るのだそうで、「案外大変なんだよ」とお店の方のお話。写真は、その「道の駅しゃりん」傍の松並木です。強い海風のために、みなが身を寄せ合い陸地の方へと傾けています。ちょっといじらしい光景でした。
July 12, 2011
左大臣邸では、御物の怪がひどく起こり、女君がたいそうお苦しみになります。御息所が、「『御自分の生霊』とか、『亡き父大臣の御霊』などと言う者がある」と、聞き給うにつけ考え続けてみますと、我が身の憂き、嘆きばかりで、女君を苦しめてやろうなどと思う心などないのです。けれども、物を思うと魂が身から浮かれ出て、人にとりつくこともあるといいますので、はっと、思い当たるふしがおありなのです。 近頃は何事につけ物思いの限りを尽くしてきたけれど、こんなにまで心を砕くようなことはありませんでした。あの車争いという些細と思われる事であっても、御息所を無視し辱めを受けた御心を鎮めることがお出来にならなかったからでしょうか、少しでもうとうとなさいますと、あの姫君と覚しき人の、たいそう美しくしていらっしゃる所に行って、正気では考えられないほど猛々しく激しい怨み心が出てきて、女君を引っ張り回したり、打ちのめしたりする夢をたびたびご覧になるのです。
July 6, 2011
御息所の御手を、やはり何といってもこれほどの名手はいないだろうと、源氏の大将はご覧になりながら、『どう考えたものか分からぬのが、男女の仲というものだな。心ばえも容姿もそれぞれ申し分ないのだが、しかしまた、これと思い定めるべき女もいない』と、お思いになります。 お返事は、たいそう暗くなってしまいましたが、「袖だけが濡れるとは、どうしたことなのでしょう。それは私へのご愛情が浅いからではありませんか。浅みにや 人はおりたつ我がかたは 身もそぼつまで 深きこひぢを(袖が濡れるとあなたさまはおっしゃるが、それはお情けが浅いからではありませんか。私は身がずぶ濡れになるほど深い恋路に踏み込んでいるのに) 並みの気持ちでこの御返事を差し上げるのではありませんよ」と書いてあります。
July 6, 2011
わだかまりを残したまま迎えた早朝、お帰りになる源氏の大将の御姿のうつくしさに、御息所はやはり、振り切ってまで伊勢に下向することを止めようと、お考え直しになるのでした。 そうはいっても御子ができるのですから、左大臣家の女君にしだいにお気持ちが添うて、一所に落ち着くことにおなりでしょうし、御息所が源氏の大将のおいでをこうしてお待ち申し上げながら日々を過ごすというのも心を擦り減らすばかりであろう、となかなかお決めになれません。なまじお逢いしたために、反って動揺した心地がなさいます。夕方になって、後朝の御文が届きました。「日ごろ少し病状が治まっておりましたが、急にひどく苦しみだしまして、これを放ってはおけませんので(今夜は参上いたしかねます)」とあります。御息所は『いつもの言い訳』とご覧になり、「袖ぬるゝ こひぢとかつは知りながら おりたつ田子の みづからぞ憂き(哀しみの多い泥沼のような恋路ということを重々知りながら、その泥沼に踏み込む農夫のような我が身が切ないのです)あなたさまの薄情さに、山の井の水に私の袖が濡れるのも道理ですわ」と、お書きになりました。
July 6, 2011
桐壺の院からのお見舞いもひっきりなしにあり、御祈祷の事までご配慮いただくもったいなさにつけても、ますます痛々しい女君のご様子なのです。 世を上げて心配申し上げるのを聞き給うにつけ、六条御息所は心穏やかではいられません。今まではそれほど強くお感じではなかった競争心も、あのちょっとした車争いのためにすっかり気が動転しておしまいになったのです。けれど左大臣家では、そんな事など思い及びもしないのでした。 御息所は嫉妬のために御気分がすぐれませんので、他所にお移りになって御修法などをおさせになります。 源氏の大将がそれをお聞きになり、「どのような御病気なのか」と、お気の毒にお思いになってお渡りになりました。 お邸ではありませんので、たいそう忍んでおいでになります。不本意ながらのご無沙汰をお許しいただけるよう、そして御懐妊でお苦しみの人のご様子も愁訴申し上げます。「私自身は病人についてそれほど案じてはおりませんが、親たちがひどく大袈裟に心配するものですから、心苦しさに、このような時は外出を控えようと思っておりました。私の立場をお察しくださいますれば嬉しいのですが」など、お話し申し上げます。 いつもよりお気の毒な御様子でいらっしゃる御息所を、『それも道理』と、可哀想に見たてまつるのでした。
July 6, 2011
女房たちは、源氏の大将がご寵愛の女人たちをあれこれと思い当てるのですが、「六条の御息所と二条院においでの女君こそは、源氏の大将のご寵愛もなみなみではいらっしゃいませんから、恨みの心も深いのではないでしょうか」と、ささやき合います。そこでいろいろ占わせてごらんになるのですが、卜者は誰の怨霊ともはっきり申し当てることができません。物の怪とはいえ、女君に深い恨みを申し上げる事もないのです。姫の、今は亡き御乳母だった人、あるいは左大臣家に昔から取り付く死霊が、女君の弱り目につけ込むようにして出てきたものなどが混然と現れるのです。 女君は、たださめざめと声をたててお泣きになるばかりで、時々はお胸を詰まらせて、たいそうお苦しみになります。父・左大臣も母・大宮も途方に暮れ、恐ろしく悲しくうろたえるばかりでした。
July 6, 2011
左大臣邸では、源氏の大将の北の方に御物の怪が憑いているらしく、いたくお患いになります。誰もが皆心配して嘆いていますので、源氏の大将はお忍び歩きなどおできになるはずもなく、御自邸の二条院にさえ時々お帰りになるほどでした。とはいえ、大切な御方として格別にお思いでいらっしゃいますし、さらに御懐妊なさったためのお苦しみですから、源氏の大将はお胸がつまるほど心配なさり、御修法や何やとご自分のお部屋でもさまざまおさせになります。すると物の怪や生霊などというものが多く出て来まして、それぞれが名乗りをする中で、「よりまし」にも乗り移らず、女君にずっと付きまとう様子なのに、特におどろおどろしく煩わせる事もないけれど、かといってまた、片時も離れないものが一つ、あるのです。 効験あらたかな修験者の調伏にも従わず、執念深い様子は、並大抵のものではない、と見えました。
July 6, 2011
六条御息所は、あの車争いのあった日から、心を痛め思い乱れる事がいつもより多くなりました。源氏の大将を『つくづく薄情な方』と思い知り給うのですが、そうかといって『もう、これまで』と振り切って、斎宮とともに伊勢にお下りになるには、たいそう心細くもあろうし、都から逃げたようで人聞きも悪く、笑い者にもなろう、とお思いになります。 さりとて都に留まる事をお考えになりますと、あの日のように世間から見下げられ、侮られているのでは、心安いはずがありません。 御息所はお気持ちが定まらず、まるで「釣りする海士の浮き」のように、寝ても覚めても思い患ったせいでしょうか、御心地もふわふわとして病人のようになってしまわれました。 源氏の大将殿は、御息所の伊勢への下行には係わらず「伊勢へ行くなど、もってのほか」など、強いてお留め申し上げる事もなさいません。「私のような数ならぬ身を、見るのもお嫌とお捨てになるのも道理でしょうが、今となっては不甲斐ない者であっても、一生連れ添うてくださいますのが、浅からぬ情愛の縁というものでしょう」と、絡むように申し上げます。そこで御息所は決めかねる御心の慰めにもなろうかと物見にお出掛になったのですが、御禊河の荒瀬に出会い、ますます何事につけ辛いお気持ちに沈むようになったのでした。
July 5, 2011
源氏の大将は紫の姫と同乗していらっしゃいますから、簾垂さえお上げになりませんのを妬ましく思う女も多いのでした。「御禊の日のお姿の、ご立派だったこと。気軽な物見でいらっしゃるのだから、今日はお歩きになればよろしいのに。それにしても誰なのでしょうね。ご一緒に乗っていらっしゃるのは。きっと並みの御方ではないのでしょうね」と、想像しあうのです。源氏の大将は、「張り合いのない『かざし争い』だな」と物足りなくお思いになるのですが、典侍のように厚かましくない女は、相乗りしていらっしゃる方を憚って、ちょっとしたお返事も気易く申し上げることには気が引けるのでしょう。
July 3, 2011
女は風情のある扇の端の方を折って、「はかなしや 人のかざせるあふひゆゑ 神のゆるしの 今日を待ちける(頼みになりませんわね。逢う日として神も許すこの日を、こうしてお待ちしておりましたのに、あなたさまは他の方と同乗していらっしゃるなんて)しめ縄の内には、とても入れませんわ」と書いてあります。その筆跡をよくご覧になりますと、何とあの典侍ではありませんか。源氏の大将は、「やれやれ、年甲斐もなく派手な事をするものだ」と憎く、みっともないとお思いになります。「かざしける 心ぞあだに思ほゆる 八十氏人に なべてあふひを(浮気者のあなたがかざした葵は私にではなく、たくさんの人に向けてなのでしょう。今日は誰かれなく逢える日ですからね)」 典侍はこのお返事を、『ひどい』と思いました。「くやしくも かざしけるかな名のみして 人だのめなる 草葉ばかりを(葵の祭りが逢う日だなんて名ばかりですわ。あてにならない草葉を頼みにしていたなんて、悔しくて)」と、申し上げます。
July 3, 2011

車争いのあった御禊の日と同じように、この日もまたぎっしりと物見車が出ていました。馬場の殿舎のあたりで車が行き止まり、「上達部の車が多くて、騒がしいところだな」と、一休みなさいます。 すると、女房たちがこぼれるほどたくさん乗った、悪くはない風情の女車から、扇を差し出して供人を招き寄せ、「ここに御車をお止めになりませぬか。この場所をお譲りいたしましょう」と、申し上げる者があります。 源氏の大将は、「扇の持ち主は、いかなる好き者であろう」とお思いになるのですが、物見には良い場所ですから車を引き寄せさせて、「どうやってこの場所を手に入れなすったかと、うらやましく思いまして」と仰せになります。
July 2, 2011

「あなたの御髪は、私が削ぎましょうね。ずいぶん多い御髪ですね。末はどんなに豊かになることでしょう」と、削ぐのに難儀していらっしゃいます。「御髪の長い人でも、額髪は少し短めなものなのに。あまりに後れ毛がないのも、揃いすぎて風情がないようですね」 削ぎ終わり「千尋」と祝ってさしあげるのを、乳母の少納言はしみじみとありがたく、勿体なく見たてまつるのです。「はかりなき 千尋の底のみるぶさの 生ひゆく末を われのみぞ見ん(測り知れぬほど広い海の底に育つ、海松の房のような御髪をもつ姫。あなたの成長は、私こそが見届けましょうね)」源氏の大将が申し上げますと、紫の姫が、「千尋とも いかでか知らん定めなく 満ち干る潮の のどけからぬに(千尋とおっしゃいますけれども、どうしてそれが分かりましょう。定めもなく満ち引きする潮のように、あなたさまの御心はじっとしていないんですもの)と、歌はいかにも物慣れているのですが、何かに書きつけていらっしゃる様子がいかにも若々しく、可愛らしくて、申し分ないとお思いになります。
July 1, 2011
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