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2020年10月28日

ボヘミアの研究2(十月廿五日)



 昨日の続きである。国会図書館のオンライン検索で発見した1910年代に入ってからのボヘミアの用例を紹介する。

 1912年に大阪で刊行された石河武稚訳『 世界国歌集 : 翻訳 』(七成館)に「ボヘミヤ國歌」なるものが掲載されている。当時はまだチェコスロバキア独立以前で、最初は国もないのに国歌とはこれ如何にと思ったのだが、今のチェコの国歌は、独立以前からチェコの人たちに歌い継がれていた民族の歌とでも言うべきもので、独立直後にマサリク大統領の意向で新たに国歌を制定しようとして失敗した結果、国歌として、国歌の前半として採用されたものだと聞いているから、「Kde domov m?j(いずくんぞ我が祖国)」かと思ったら違った。
 楽譜があって、英語の歌詞が記され、その下にカタカナで読み仮名が振られているのだが、余った部分に「意訳」とする翻訳がついている。「いざわれらに美しき望を起さしめよ、/荒れし野山もゆたかにみのらせて」と始まる歌詞はどう見ても今の国歌とは違う。途中に「聖きウェンツエスラレスよ我がボヘミヤの尊き君よ」なんて部分があるから、聖バーツラフ伝説に基づいた歌のようである。戦いに向かうときの歌に見えるから、ブラニークの騎士の伝説の歌かもしれない。チェコでは聞いたことはないけど、そんなに民俗音楽は聞かないからなあ。それに聞いても歌詞が聞き取れないことが多いし。

 日本語のウィキペディアには、「聖バーツラフ」と関連して、「ウェンセスラスはよき王様」という歌が立項されているので、もしかしたらと思って覗いてみたが、ぜんぜん違う歌詞だった。説明を読んでも、何でチェコの守護聖人がイギリスでクリスマス・キャロルの題材になっているのか、さっぱりわからなかったけれども、「ウェンセスラス」とか、「ウェンツエスラレス」とか書かれてもバーツラフだとは思えないのが辛いところである。

 1914年には再び「外交時報」の9月1日付けの第236号に「ボヘミヤの民族鬩爭」という記事が掲載されている。第一次世界大戦の始まったこの年、オーストリアの一部であったボヘミアにおけるチェコ人とドイツ人の民族対立について書くとは目の付け所がいい。この時期にはすでに戦後のチェコスロバキア独立の種は蒔かれていたのである。

 翌1915年には岡島狂花『現代の西洋絵画』(丙午出版社)が「ボヘミヤの絵画」という章を立てている。著者の岡島狂花は詳細不明だが、著作権の処理が済んでいないとかで、国会図書館ではオンラインでの公開を行っていないため中が読めないのが残念である。それにしても誰が取り上げられているのだろう。クプカとかムハかな。チェスキー・クルムロフ関連でシーレなんて可能性もあるのかな。

 また同年の農商務省鉱山局がまとめた『海外諸国炭礦瓦斯炭塵爆発ノ予防規則』の中に、「プラーグ鑛山監督署管内ベーメンニ於ケル石炭礦ノ瓦斯及炭塵爆發豫防ニ關スル鑛業警察規則」(地名の「」は省略)という、恐らく当時のオーストリアの規則の翻訳が収められている。オーストリアの公用語はドイツ語なので、「ベーメン」という名称が使われているのだろう。

 続いて二冊の音楽関係の本がボヘミアを取り上げている。一冊目は1915年に刊行された田辺尚雄『 通俗西洋音楽講話 』(岩波書店)で「ボヘミア」と「ボヘミア楽派」の二章が立てられている。前者は概説的で、後者ではスメタナとドボジャークが重点的に取り上げられている。ズクとフィビッヒという作曲家も現在の作曲家として名前だけは挙げられている。ドボジャークが「ヅボルシャク」と書かれているのは、時代を考えると仕方がないかな。通俗というがいわゆるクラシック音楽の概説書であるのは間違いない。著者の田辺尚雄は、ウィキペディアによれば、東大で物理学を学んで音楽研究に進んだという人物である。

 翌1916年には、富尾木知佳『 西洋音楽史綱 』が、「独乙及ボヘミアの音楽」という章を立て、その末尾にスメタナとドボジャークを紹介している。人名は原則としてドイツ語で表記されており、日本語で書かれる場合にはひらがなが使われている。著者について詳しいことはわからないが、国会図書館の出版社のところに著者名が書かれていることを考えると、私費出版だったのかもしれない。
 この二冊の内容で気づくことは、チェコ第三の作曲家であるヤナーチェクの名前がないことである。この時期にはすでに国内では作曲家としての名声は高めていたはずだが、国外まではそれほど知られていなかったということなのか、モラビアの作曲家なのでボヘミアには入れなかったのか、どちらであろうか。

 注目すべきは大戦も終わる1918年の雑誌「新公論」9月号であろう。「マサリツク博士」の写真を表紙に使った上で、「ボヘミヤ志士の首領」という文章を掲載しているのである。著者は長醒子とあるが、どうも編集者か誰かの変名のように思われる。それはともかく記事の題名が……、マサリク大統領山賊の親分扱いされているのか。オーストリアの官憲から見ると、不逞の志士だったというのは確かなのだろうけど、これでは幕末の京都ではないか。状況は似ているのか?

 最後に1919年のものになるが、「官報」にも触れておく。この時期、チェコスロバキアがオーストリアから分離したため、郵便物などの扱いをどうするかという告示が、逓信省の名で何度か、「官報」に発表されている。面白いのは内容が郵便物にかかわる場合には「ボヘーム」「モラヴィー」という表記が使われ(第616号、5月9日付けなど)、電報にかかわるものは「ボヘミア」「モラビア」という表記になっていること(第628号、5月21日付け)である。国際条約の原文が何語かによる表記の違いだろうか。
2020年10月26日23時。










posted by olomou?an at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年10月27日

ボヘミアの研究(十月廿四日)



 武漢風邪の話ばかりだと気がめいるので、久しぶりに国会図書館のオンライン目録を使った調査の結果をまとめておこう。1918年にチェコスロバキアが独立する前は、現在のチェコ共和国全体を一語で表す言葉がなかったため、例外的に民族を表す言葉として「チェック」民族が出てくることはあっても、原則として現在までつながる地域名でしか登場しない。
 チェコの西側のプラハを中心とする地域は、チェコ語では「チェヒ」と呼ばれるが、日本語では英語起源の「ボヘミア」という言葉で呼ばれる。問題はその「チェヒ」が、「チェコ」の語源に当たることで、チェコ語でも本来「チェヒ」から出来た形容詞「チェスキー」が、地名を指す場合でも「チェヒの」、つまりは「ボヘミアの」という意味になることもあれば、現在の「チェコの」という意味になることもある。まあ、地名の「チェヒ」と民族名の「チェシ(単数はチェフ)」のどちらが先かという問題はあるのだけど。

 とまれ、今回はボヘミアを指す言葉が、いつごろから日本の印刷物に現れ始めたのかを調べてみることにしたのである。ただし、例によって、本文検索は出来ないので、雑誌の記事名か、単行本の章の名称に登場している場合しか発見できないのだけど。英語期限の「ボヘミア」「ボヘミヤ」に加えて、ドイツ語起源の「ベーメン」なども検索の対象とした。誤記もありうると考えて、あれこれバリエーションを交えて検索したが、落しがある可能性はある。

 最初の例は、19世紀後半、1986年にまでさかのぼる。東京教育社が刊行していた「教育報知」という雑誌のこの年の6月号(通巻第28号)に、「?ヘ育報知墺國ボヘミア小學?ヘ育博覽會に出づ」という報告記事が載っている。「墺國」はオーストリアを指すのだが、開催地はプラハだったのだろうか。現在ではこの手の博覧会、国際展示会の開催地というとブルノが真っ先に思い浮かぶのだが、ブルノはモラビアである。

 二つ目の例は、十年ちょっとたった1898年のもので、ドイツ語起源の「ベーメン」という表記が使われている。「大日本山林会報」という林学の雑誌の同年4月号(通巻第184号)に、「ベーメン國シエレバッハ市樂器製造用木材」(地名につけられた「」は省略)という中堀幾三?カの記事が掲載されている。問題は、ドイツ語をカタカナ表記したものと思しい「シエレバッハ」が指すチェコの地名がわからないことである。雑誌についても著者についてもよくわからないのだけど。「大日本山林会報」には後にモラビアとシレジアも登場するのだが、それは後のお楽しみである。

 三例目と四例目は、チェコスロバキアのときにも何度か登場した「外交時報」の記事である。まず1902年11月20日付けの第58号に、「歐羅巴とボヘミヤ」という記事が載り、翌年3月20日付けの第62号には「ボヘミヤの國語問題」という記事が載せられている。後者はドイツ語とチェコ語の使用者の混在を取り上げたものであろうか。注目すべきは、初例の「教育報知」が「ボヘミア」という今日と同じ表記を使っていたのが、「ボヘミヤ」という表記に変わっていることである。

 五例目は、1905年1月の「通商月報」第95号に掲載された「ボヘミヤの陶磁器及玻璃工業」になる。ボヘミアの陶器というとカルロビ・バリなどの温泉地で温泉水を飲むために使っている特殊な吸い口のついたものを思い浮かべてしまうのだが、どうなのだろう。この雑誌は大阪の「府立大阪商品陳列所」が刊行していたものである。実際に展示されたものをまとめた雑誌なのだろうか。

 続いて久津見蕨村『無政府主義』(平民書房、1906)という出版社名からしてあれな本に「ボヘミヤの無政府主義」という章が立てられている。単行本なのでオンライン公開されているのだが、抽象的な記述で章自体も短く、ボヘミアで起こったどの運動を指しているのかさっぱりわからない。フス派の運動は無政府主義とみなせるのかなあ? 共産党政権がプロパガンダに活用できたということは、共産主義的な部分がなくはなかったと言うことだから、無政府主義に近いともいえるか。

 以上が1910年以前に登場するボヘミアである。以後音楽や美術の概説書などの一章としてボヘミアが立てられることが増えていく。それについてはまた次回。
2020年10月25日22時。










posted by olomou?an at 08:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年09月17日

チエツコスロバキア考続続(九月十四日)



 さて、前回、日本という国が、第一次世界大戦後のベルサイユ会議を経て、新たに独立した国家の日本語における正式名称を「チェッコスロヴァキア」(カタカナの大小は無視する)と定め、以後公文書では、この名称を使うようになったのではないかと推測したのだが、この手の決定を遵守するのは公官庁である。ということで、官庁の出版物における表記の変遷(というほどは変わらないだろうが)を見ておこう。当時の外務省などの文書で地名につけられている「」は便宜上省略する。

 チェコスロバキアが、確認できる範囲で最初に官庁の印刷物に登場するのは、1918年09月17日付の「官報」においてである。そこには「チェック、スローヴァック民族ニ對スル帝國ノ態度宣明」と題して、「チェック、スローヴァック国民委員会理事長」の「エドワード、べネス」氏から、イギリスの日本大使に送られた、日本政府(時代がら帝国政府と書かれているけど)に対する要望を記した書簡と、それに対して日本政府が大使を通して返信した公式回答の訳文が掲載されている。ベネシュの書簡は、8月11日付けで、回答は9月9日付けである。
 二つ目の例は、外務省の内部文書の可能性もあるが、『独墺革命事情摘要』という外務省臨時調査部が作成した文書である。表紙に11月25日調査とあることから、それ以後の発行だろうと思われる。この中に「チェック、スロバック族」という章がたてられている。

 1919年になると、文部省が編集していた『時局に関する教育資料』にチェコスロバキアが現れる。最初は1月7日発行の『シベリヤの土地と住民』と題された巻で、「チェック=スロヴァック民族の?史」という章がある。「=」でつながれていることから、チェコとスロバキアを一体のものとして認識していると考えてもよかろう。それにしても文部省の「=」好きは戦前からのものだったのだなあ。
 二つ目は3月25日発行の第22輯なのだが、「チエク・スロワク民族に就きて」「チエク・スロワク軍」と、珍しく促音が省略された表記が採用されている。この『時局に関する教育資料』は、第一次世界大戦後に大きく変わった、特にヨーロッパの情勢に教育現場で対応できるように、まとめられたものだろうか。地理など国境が戦前と比べると大きく変わり、新しい国も生まれているから対応が急がれたのもわからなくはない。

 この年の「官報」では、2月22日付けに「米國ノチェック、スローヴァック支配地域トノ通商及通信許可(外務省)」、4月25日付けに「チェックスロヴァック國代理公使承認」」、11月13日付けに「チエックスロヴァック國公使館附陸軍武官新設」と、1918年10月28日に独立を果たしたチェコスロバキアについても、この時点では「チェックスロヴァック」と表記されていたことが確認できる。
 外務省の文書でも、政務局が編集発行した「外事彙報」の9月刊の号に、「チェック、スローバック國近況」という6月15日付けの調査結果が掲載されている。
 それが変わるのは、外務省が11月(表紙による)に出版した『同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約並議定書概要』で、この中に初めて、「チェッコ、スロヴァキア國」という表記が登場するのは以前も紹介した通り。

 1920年になると「官報」でも、「チエッコ、スロヴァキア國ハ工業所有權保護ニ關スル巴里同盟條約ニ加入ノ旨申込ミ效力ヲ生シタル旨瑞西聯邦政府ヨリ通知」(1月20日)と、「チェッコ、スロヴァキア國」が使われ始め、次の例外を除いてすべて「チェッコ、スロヴァキア國」となっている。

 例外は、「チェックスロヴァック國公使館員異動」(4月8日)、「チェックスロヴァック國公使離任」(6月3日)、「チェックスロヴァック國公使歸任」(6月18日)の3例で、すべて公使館に関係している。これは、前年に「チェックスロヴァック國公使」として受け入れられたことが原因として考えられそうだ。
 国名が「チエッコスロヴァキア」に定められたのちも、公使の肩書としては、受け入れたときの「チェックスロヴァック國公使」が正式名称として使用され続けたのではないか。そして、新しい公使が赴任する際に、「チエッコスロヴァキア」公使として受け入れることで、以後は公使館関係についても「チエッコスロヴァキア」を使用し始めるという手続きを必要としたのではないかと考えるのである。新しい公使の赴任のニュースは、1921年以降だろうから、現時点では未調査である。気が向いたら、調べてまた報告する。

 また、この年には、外務省臨時調査部が美濃部達吉訳『チェッコ,スロヴアキア共和国憲法』を出している。訳者の名前に驚く人もいるだろうが、美濃部は「国家学会雑誌」の11月号にも「チェコスロヴァク國憲法」という文章(憲法の翻訳かもしれんけど)を寄せていて、両者の前後関係ははっきりしないのだが、どうして国名表記が違うのだろうという疑問が浮かぶ。珍しい組み合わせだし。

 とまれ、暫定的に使われていた「チェックスロヴァック」が、1919年の終わり以降、公文書では「チエッコスロヴァキア」に取って代わられたというのは、間違いなさそうである。ならば次の問題は、「チェックスロヴァック」がいつごろまで使い続けられたのかということと、促音を廃した「チェコスロヴァキア」がいつごろから使われ始め、一般的な表記として定着したのかということである(バとヴァの差異については問題にしない)。
2020年9月15日14時。
















posted by olomou?an at 07:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年09月16日

チエツコスロバキア考続(九月十三日)



承前
 チェコ軍団、もしくはチェコスロバキア軍団が、活字となって現れるのは、シベリア出兵が開始された1918年8月以降のことである。執筆編集にかかる時間、名目上の発行日と実際の発行日の差違などを考えると、シベリア出兵に合わせて企画がたてられ、始まるよりも少し前に店頭に並ぶように計画されたと考えてもいいかもしれない。

 正確な発行日のわからない八月刊行の雑誌では、まず「實業之日本」(第21巻16号)が慶応大学教授林毅陸の「出兵の動機となつたチエックの興亡」という文章を載せている。林は政治学が専門で、外交史の研究家としても知られている。この文章は題名からチェコ民族の歴史について書かれたもののようにも思われるが、館内限定公開で読めないのが残念である。
 「實業之日本」では翌9月刊の第21巻18号でも、「浦鹽に於けるチエツク軍」と、「チエツク」という表記を採用しているが、1920年4月刊の第23巻7号では、「西比利に於けるチエツコ、スロバツク軍の近?」という表記に変わっている。この「チエツコ」と「スロバツク」という表記の組み合わせについては、別の雑誌のところで検討する。

 同月刊行の、後に政治家となる中野正剛が主筆を務めていた「東方時論」(第3巻8号)は、シベリア出兵と、それに関する外交交渉に対して強く批判しているのだが、その中にチェコ軍団に関する記事が三篇ある。そのうち二篇は、記名がないので編集部の記事だろうが、「チエック・スラヴアックは米國の傭兵=米兵六萬七千、日本兵七千」「憐れなるチエック・スラヴアック=佛國と米國の意嚮は相反す」と、チェコだけではなく「スロバキア」にあたる言葉が登場する点で注目に値する。それが「スラヴアック」になっているのは、目次だけの誤植、もしくは目録の誤植の可能性もある。ちなみに、三篇目は、松原木公という人の書いた「チエック軍の活躍」だが、「軍」のつかない前の二篇も含めて、すべてチェコ軍団について書かれたものと考えてよさそうである。「チエック・スラヴアック」が一つのものと認識されていたのか、単なる並列なのかは不明。

 8月15日付けで発行された「外交時報」(通巻331号)にも興味深い表記が見られる。「佛國政府とチェッコ・スロヴァク民族」という無記名の記事で、初めて「チェッコ」という今日の「チェコ」に直接つながる表記が登場する。ただし、同号には泉哲「チェック軍救援の眞意義」という記事も掲載されている。
 同誌は、10月1日刊の334号に、「チェック、スロヴァック軍隊に關する承認」「米國のチエック民族承認」「帝國政府のチェック・スロヴァック承認宣言」、11月15日刊の337号に「チェック・スロヴァック族獨立宣言」と「トーマス・ジー・マサリツク」の書いたものとして「チェック・スロヴァック民族」を掲載していることから、この時点では、雑誌の方針としては、「チェック、スロヴァック」という表記を使用していたと言えそうである。では、「チェッコ・スロヴァク」はというと、ここでは、「佛國政府とチェッコ・スロヴァク民族」というフランス政府と関係のある記事において使用されていることを指摘するにとどめておく。

 19 20 18 年8月以降、軍関係の雑誌(「戦友」99号、「有終」66号など)や、医学関係の雑誌(「醫海時報」1261号)などにチェコ軍団に関係する記事が散見されるのだが、その多くは、1920年になっても「チエツク(軍)」という表記を採用している(21年以後は未調査)。中には独立後のチェコスロバキアを「チェック共和国」と記している例まである。初例は19 12 18 年12月刊の「英語青年」の「外報 英國の政界 チェック共和國成る」だが、後に研究社が刊行を引き継いだ英語学習、英語研究のための雑誌だし、イギリスでこんな言い方がなされていたことを反映しているのだろうか。

 一方「チエツクスロバツク」という表記が増えていくのは、上記の「外交時報」もそうだったが、10月刊行のものからで、これは第一次世界大戦の講和会議に関する情報が増えていく中、チェコとスロバキアを一つのものとする考えが、日本にも広まりつつあったからだと考えてよさそうだ。それらの中で、雑誌と著者の知名度から注目に値するのが、大正デモクラシーの中心人物の一人とされる吉野作蔵が「中央公論」の10月号(通巻362号)に発表した「チエツク・スローヴアツクの承認」である。どんなことが書かれているのか、題名からは想像もつかないが、ちょっと読んでみたい気はする。

 11月刊行のものでは、「極東時報」(第78号)に掲載された「チェツコ・スロ?ック軍司令長官ジァナン將軍」が注目に値する。「?」はともかくとして、この「チエツコ」と「スロバツク」という組み合わせは、原則としてフランスと関係のある文脈でしか登場しないのである。「外交時報」の記事はフランス政府の動向を記したものだったし、この「極東時報」は、フランス外務省の支援で日本で日仏両文で刊行されていた雑誌で、後に「仏蘭西時報」と改題される。その「仏蘭西時報」にも、1919年10刊行の第96号に「チエツコ・スローワ゛ツク共和國の對外政策」という文章が掲載される。
 フランス語は知らないし、用例が少ないからあれなんだけど、この表記はフランス語の発音から来ているのではないかなんてことを考えてしまう。チェコスロバキアの独立運動の中心地だったフランスでは、第一次世界大戦の講和会議で、独立するチェコスロバキアの正式な国名が認定される少し前から、チェコスロバキアにあたる言葉が使われていたのではないだろうか。フランス語の「Tchécoslovaquie」の発音は知らないんだけどさ。

 その後、講和会議で条約が結ばれる段階になって、初めて英語名の「Czechoslovakia」が決定され、参加諸国に正式な国名として認定されたことで、以後日本政府も、それをカタカナ表記にした「チエツコ・スロヴァキア」を公式の表記として使うようになったのではないかと想像する。「チエツコ・スロヴァキア」の初例がすでに記事にした1919年11月刊のいわゆるベルサイユ条約の概要を紹介した外務省の刊行物であること、それ以前は英語の形容詞を二つ並べたかのような、チェコもスロバキアも「ク」で終わる表記が一般的であることも、それを裏付ける。「チエツク・スロヴアツク」は新国家の正式名称が決まるまでの便宜的な呼称だったのではないかと考えるのである。

 正式名称が決まったからといって、以後常に「チエツコ・スロヴァキア」が使用されるわけでもないのが、頭の痛いところだけれども、言葉なんてのはそんなものである。
2020年9月14日16時30分。









posted by olomou?an at 06:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年09月15日

チエツコスロバキア考(九月十二日)



 以前、ジャパンナレッジの「日国友の会」に投稿されていた、「チェコスロバキア」につながる最古の用例について怪しいと書き、すでに1919年4月の時点で、「チエツクスロヴアツク」という表記が見られ、11月には外務省の発行したベルサイユ条約関係の書物に「チェッコ、スロヴァキア」という表記が見られるということは紹介した。同時に、チェコスロバキア軍団の存在から、それ以前にも使われている可能性は高いと記したのだが、その後調べもせずに放置してあった。(参照は ここ から)

 久しぶりにこのことを思い出して、再び国会図書館のオンライン目録で、検索をかけてみた。書名と目次に使われていない用例は発見できないが、ある程度の傾向は見えてくるはずである。検索するのは、「チエツク」「チエツコ」「チエコ」「チエク」の四つ。拗音も促音も、直音に置き換えて、表記が違っても読みが同じなら、検索結果として表示されるは、ありがたくもあり、面倒でもある。
 ありがたいのは、「エ」と「ツ」の大きさを変えて、すべてのバリエーションを試す必要がないことで、面倒なのは漢字表記でも、同じ読みの部分があればリストに表示されることである。「チエコ」で検索すると確実に「智恵子」なんかも引っかかるし、「チエツク」の場合には、検査するという意味の「チェック」も引っかかる。今回は1920年以前のものを調べたので、数が少なかったのが幸いである。

 調査の結果、最も古い、今日のチェコの地域をさすと思われる用例は、「チエツク」で、1905年のものだった。東京大学法学部の機関誌のようなものである「法学協会雑誌」の10月号(第23巻10号)に「雜報 プラーグのチエツク大學に於ける新設備」という記事が載せられている。国会図書館では雑誌に関しては、古いものでデジタル化されていても、館内閲覧に限定していてネット上では見られないようになっているので、記事の内容は不明。
 この「チエツク大學」が、プラハにあった唯一の大学であるカレル大学を指すのは間違いない。ただ、当時は、ドイツ系とチェコ系の二つに分裂していたため、単にカレル大学という名称が使えなかったのであろう。また、ボヘミア、もしくは当時よく使われていたボヘミヤという表記にしなかったのは、地域的な区別ではなく、民族的な言語的な区別だったため、モラビアなどを含まないボヘミアのしようも避けたと考えるのがいいか。いや、英語での大学の名称(略称かも)をそのまま使ったと考えるほうが自然か。

 とまれ、国会図書館に収蔵されている書物の題名、および目次から確認できる限りでは、今日のチェコ共和国の領域を一語で示した言葉の使用は、直接地域名としては使われていないとはいえ、1905年の「チエツク」にまでさかのぼるのである。ここにスロバキアに相当する言葉が欠けているのは、当時はまだチェコスロバキアという概念が存在しなかったはずなので当然である。

 二つ目の用例は、第一次世界大戦勃発後の1915年のものである。外交関係を論じる記事を中心とする雑誌を刊行していた外交時報社から発行された『国際関係地図』第四に「チェック族の國」という章がたてられ、巻末に収められた地図の説明として、使用者の割合から「独逸語地方」と「チェック語地方」に属する地名が、ドイツ語使用者の割合が多い順番に羅列されている。ちなみにオロモウツは、全部で144の町のうち、順番で65番目、チェコ語使用者率が78パーセントほどで、「チェック語地方」に入っている。オーストリア=ハンガリー時代の調査だろうから最低でもこの程度だったと考えてよさそうだ。
 巻末の地図の方を見ると、基となった地図がフランスのもののようで、フランス語っぽい(本当かどうかは知らん)表記が残っている。いや、地図の題名が「チェック族の國」になっている以外は、すべて原図のままという手抜き?ぶりである。興味深いのは、「チェック族の國」と言いながら、チェコだけではなく、スロバキアの大部分の地図も含まれていることである。この事実は、1915年の段階で、フランスなどの西欧に、チェコとスロバキアを結びつけるというマサリクの考えがある程度知られていたということを示すのかもしれない。たしかこの年にスイスを経て、フランス、イギリスなどに向かっているはずである。

 『国際関係地図』は著作権の処理が済んでいて、雑誌でもないからインターネット上で閲覧できる状態で公開されている。興味のある方は こちら から。この本では、地名は原則としてチェコ語で表記されており、こんな早い時期に、日本語の書物でチェコ語のハーチェク、チャールカが使われていたとは、想像もしなかった。

 とまれ、シベリア出兵の口実となったチェコ軍団の存在が日本の書物に登場する以前に、使われた現在のチェコを指す言葉は、二例しか確認できなかったけど「チエツク」「チェック」だった。どちらも実際には「チェック」と読まれていたのだろうけどさ。
 ということで、チェコ軍団についての記述が増える1918年以降については、回を改める。
2020年9月13日14時。








posted by olomou?an at 06:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年09月05日

「ぞっとしない」考(九月二日)



 昨日、日本の首相には正確な日本語を使ってほしいなんてことを書いておきながら、自分の日本語の怪しさを実感させられる事態が起こってしまった。そんな大げさな話ではないのだけど、2日遅れでジャパンナレッジの「 日本語、どうでしょう? 」に新しい記事が投稿されていることに気づいたのである。そのテーマが「ぞっとしない」。

 この表現が、一見「ぞっとする」の否定のように見えながら(そういう使い方を否定するつもりはないが)、実は違うということは知っていて、自分でもしばしば使っているのだけど、記事を読んでその使い方が正しかったのかどうか自信が持てなくなってきた。
 明確には書かれていないが、漱石の用例を引いた「いい気持ちがしない」という意味と、文化庁の「国語に関する世論調査」の設問から「面白くない」という2つの意味があると認識されているように読み取れる。自分では、「ぞっとしない」は否定だけれども、肯定形の「ぞっとする」とほぼ同じ意味だと思っていたので驚いた。

 改めて『草枕』から引かれた用例を見ると、「幾日前に汲んだ溜め置きかと考へると、余りぞっとしない」とある。でも、これ「余りぞっとしない」を「ぞっとする」に変えても通用しないか? 何日も前に汲んだ水を使った際に何が起こるか考えると、恐ろしいと理解してもあまり問題はない。そんな用例をたくさん読んで、「ぞっとしない」=「ぞっとする」だと思い込んでいたのである。
 しかも、「いい気持ちがしない」は「気持ちが悪い」と言い換えれば、「ぞっとする」につながる。「面白くない」も、一番よく使う「つまらない」という意味では無理だけど、「気に入らない」という意味でなら、この漱石の用例にも適用可能である。ならば、「ぞっとしない」は、「気に入らない」から「気持ちが悪い」ぐらいまでをカバーする表現で、場合によっては「ぞっとする」と置き換えられると考えていいのではないか。

 なんてことを考えるのは、「国語に関する世論調査」の設問の仕方に不満があるからだ。「今回の映画は、余りぞっとしないものだった」の「ぞっとしない」は、「面白くない」と「恐ろしくない」のどちらの意味だと思うかという問いだったようだが、最初に読んだときには、どちらも選びようがないじゃないかと思ってしまった。「面白くない」=「つまらない」で解釈していたのである。
 それに、「ぞっとする」の否定として使うなら、「映画はぞっとする」というのは変で、むしろ映画の中の一シーンを「あのシーンはぞっとした」という形で使うわけだから、こちらも選べない。「あのシーンにはぞっとしなかった」なら、恐怖を感じなかったという意味で理解して全然問題ないわけである。ならば、「今回の映画には、ぞっとしないシーンが多かった」ぐらいの文にしたほうが、意味の把握の仕方の違いが現れていいのではなかろうか。

 いや、やはり漱石に戻るべきである。このぞっとしないの使い方は、漱石の用例に示されているように、「〜考えると」とか、「〜思うと」のような表現と結びついて、うんざりするような、できれば避けたいという気持ちを表わすのに使われる、というか、個人的にはこの意味で、この形で使用している。そして、それはたいていの場合、「ぞっとする」に置き換え可能である。
 今年はそうでもなかったけど、真夏の朝、すでに暑さを感じさせられているときに、「これからさらに気温が上がるかと思うとぞっとしない」とか、「これから面倒な会議に出なければならないと思うとぞっとしない」とかである。たまに、誰かに何かをしなければならないとか言われたときに、「そいつはぞっとしない」なんて返すこともある。とにかく、原則としてこれから起こることを想定して、それに対して「ぞっとしない」と現在形で評価を与えるのであって、「ぞっとしなかった」と過去の形で使ったことはない。

 なんてことを書いて、「日本語、どうでしょう?」の記事を見直したら、題名が何か変である。

  「ぞっとしない」は怖いわけではない


 これでは本文とあっていなくないか? 本文では「ぞっとしない」を「恐ろしくない」と理解するのを本来の意味からは外れていると説明しているのだから、「怖くないわけではない」とあるのが正しいはずだ。それとも、実はこの記事は、「ぞっとしない」=「ぞっとする」=「恐ろしい」だと思っているこちらのような人間に対して書かれたものだということを題名で暗示しているのだろうか。
 最後に、「ぞっとする」=「ぞっとしない」だけではなく、「気がおける」=「気がおけない」というのも誤解していたことを白状しておく。
2020年9月3日14時。










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2020年07月03日

久しぶりに日本語のことを2(六月卅日)



承前
 日本語の動詞のことを考えてみると、場所を表す際に「で」を必要とするものが圧倒的に多いことは言うまでもない。「に」を必要とする動詞は例外的なのである。だから、「で」を必要とする普通の動詞についてはいちいち覚える必要はない。あるのかないのかはっきりしないルールを覚えるよりは、「に」を必要とする動詞を特別に覚えていくほうが実用的である。
 どちらを使うかわからない動詞や、初めて見る動詞が出てきたときには、とりあえず「で」を使って、違うと言われたら「に」に変えて、それで正しかったら「に」を使う動詞として覚えこむ。違うといわれたら「を」にしてみる。「を」でも駄目なら、その動詞は場所を必要としないか、存在しないかどちらかだというのが、日本語を勉強する友人たちに対するアドバイスである。

 どうしても日本語の場所を表す助詞に関するルールが必要だというなら、覚えた「に」を必要とする動詞の共通点を探して、自分なりのルールを作り上げればいい。他人の主張するどこまで適用できるかもわからないルールを元に使用して間違えてもあまり意味はないが、自作のルールであれば間違いもまた有効に活用してルールに修正を加えていくことも可能になる。そこまで行ければ、日本人と同様に感覚的に使い分けるところまでは、もう一歩である。

 さて、上にしれっと書いてしまったけれども、日本語で場所を表わす助詞にはもう一つ、「を」がある。これは「に」以上に特殊なもので数も少なく、「を」を必要とする動詞の性質には、「に」の場合よりも顕著な特徴があるので、一度覚えてしまうと間違えなくなる。だから、この問題については、「で」と「に」だけではなく、「を」も含めて考えなければならない。

 「を」を必要とする動詞の特徴は、移動を表わす意味、もしくは移動の手段となる動作を意味として持つ動詞だというところである。移動を表わすものとしては「行く」「動く」、移動の手段を表わすものとしては、「歩く」「走る」を挙げておけば、問題はなかろう。人、もしくは物が、移動していく際に通っていく場所を「を」で表すのである。「通る」「経由する」のようにある点を通る場合でも「を」を使うし、本体は動かないけれども水が動く、「(川が)流れる」も「を」を必要とする。
 この「を」を必要とする動詞の特徴としては、「に」を使うと、方向、つまり動作の向かう先を表わせるものが多いことで、例えば、「チェコに旅行する」は、旅行の目的地がチェコであることを示し、「チェコを旅行する」の場合には、チェコに行ってからチェコ国内をあちこち移動することに重点を置いた表現である。

 助詞「で」と「を」の間で興味深いのは、「泳ぐ」である。この動詞は、「歩く」や「走る」ほど移動の手段という意識がないのか、「海で泳ぐ」「プールで泳ぐ」と普通は「で」を使う。しかし、泳いである地点から別の地点まで行くことが明白な場合には、「で」ではなく「を」を使わなければならない。移動にならない「プールを泳ぐ」は難しいけれども、オロモウツからホドニーンまでモラバ川を泳いだり、ヨーロッパから日本まで海を泳いだりすることは、文章の上では可能である。遊びやトレーニングとして泳ぐ場合には「で」で、泳いで移動するときには「を」を使うと覚えておけばいい。
 最近は、「散歩する」に「で」を使って平然としている人もいて、場所を表わす助詞としての「を」が軽視されてるような感もあるが、保守的な日本語使用者としては、「公園で散歩する」なんて表現を見るとぎょっとしてしまう。ら抜きと同じで、小説なんかの会話文の中で、話している人の特徴づけに使うのなら素晴らしいと思うけど、地の文でやられると興ざめしてしまう。

 とまれ、場所を表す助詞の「を」の存在なんてチェコ語を勉強して「v」と「na」の使い分けに苦労しなかったら気づきもしなかっただろうし、「で」と「に」も今ほど自覚的に使い分けてはいなかっただろう。外国語を勉強するということは、その外国語を通じて日本をを見直すことで、日本語の勉強にもなるのである。
 外つ国の言葉を学びて、時に日本語に思ひを致す。而して復た学ぶ。此れ亦た楽しからずや。
2020年7月1日10時。











タグ: 助詞 動詞
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2020年07月02日

久しぶりに日本語のことを(六月廿九日)



 知り合いの中に何人かいる日本語ができるチェコ人が、日本語の難しい部分として真っ先に上げるのが敬語である。これについては、最近は日本人でもまともに敬語が使えない人も増えているし、粗製乱造されている敬語指南の本の中にはでたらめを書いて恥じないものもある。悪いのはそんな日本語無能力者に本を書かせ間違いを指摘できない出版社と編集者である。そんな詐欺めいた本を読まされる日本人の敬語能力が低下するのも当然で、外国人が難しいと言うのは無理もないことである。
 その点、我が畏友は、いっしょに仕事をする日本人をして、うちの子供たちより正しい敬語を使うと言わしめるのだから素晴らしい。そいつも敬語は難しいなんて言っていたから、できるのと難しく思うのとは別問題なのだろう。こちらは敬語なんて昔から使っていて、特に難しいと思ったことはないけど、それがいつも正しく使えているということにはならないのが情けない。とまれ敬語なんて日常的に使って失敗を通じてうまくなるものだから外国で勉強しているのは不利である。

 もう一つ、チェコの日本語学習者が、チェコだけには限らないかもしれないが、難しいと不平をこぼすのが、場所を表す助詞の「で」と「に」の使い分けである。それに素直に賛成したのではチェコ語を勉強している意味がない。だから、こちらからのアドバイスは、「チェコ語の場所を表すvとnaの使い分けに比べればはるかに簡単なんだから、泣き言言うな」というものになる。
 あのややこしさに比肩するものは存在しようはないと思うのだが、念のためにどうやって使い分けをしようとしているのかを聞いてみると、それじゃあ無理だと言いたくなるようなことをしていた。「で」と「に」のどちらを使うかを決めるのが動詞だというのは問題ないのだが、「で」を使うのは動作を意味する動詞で、「に」を使うのは存在を意味する動詞だから云々というのには、そりゃ無理だと言うしかない。

 そもそも、存在を意味する動詞なんて、「ある」と「存在する」以外に存在するのか。「に」を必要とする動詞は、存在を意味するという動詞の数よりもはるかに多い。チェコの人は「v」と「na」の使い分けのような、ある程度の傾向はあってもルールがあるとは言えないようなものでも、例外がルールを裏付けるとか意味不明なことを言って、ルールがあると主張するから、日本語の助詞の使い方についてもルール化したがるのだろう。発端は日本の日本語学者の説かも知れんけど。
 その「で」は動作を表す動詞、「に」は存在を表す動詞という説明で、うまく説明できるのは、存在するという意味の「ある」と、行われるという意味の「ある」の使い分けぐらいじゃないのか。「に」を使う動詞としてすぐに思いつく「立つ」「座る」「住む」などに関して、動作じゃないなんていわれたら日本人としては頭を抱えるしかない。

 それにこの説明だとすることは同じ「日本で勉強する」と「日本に留学する」の違いを説明できない。「留学する」の場合には、勉強するだけではなく、「留」の字には「留まる/残る」という意味ががあるので、「そこに留まって勉強する」という意味になる。その留まるが、場所を表す助詞として「に」を必要とするために、「留学する」も「に」を取ると考えられる。では、「留まる」が、動作か、存在かと聞かれたら、答えは知らんである。
 確かに「で」と「に」の使い分けに関して、そういう傾向はあるにしても、それをルールだとしてしまうのはやりすぎである。他にも、「死ぬ」なら場所を表す助詞は「で」で間違いないけど、「死す」の場合には「に」でないと収まりが悪い。「生まれる」は、「で」と「に」のどちらも使えるけど、「に」を使った方が、「に死す」にしてもそうだけど、文語的というか古めかしい印象を与える。だからといって文語的な動詞は「に」を取るなんて意味のないルールを提唱する気はない。この二つの動詞の場合は、「で」は地名でも、病院などの具体的な場所でも使えるけど、「に」は地名にしか使えないと言う違いもあるか。

 それから「で」と「に」で意味が変わる動詞もある。動詞「買う」の場合、普通は買い物をする場所を「で」で表すわけだが、買うものが土地や家など動かせないものの場合には、「に」を使うことも可能になり、「で」を使った場合とは意味が変わってくる。「で」で表す場所は売買が行われた場所で、「に」は買った土地や家などがある場所を示すことになる。その意味では「に」は存在する場所を表すわけだけれども、動詞「買う」には存在の意味はない。
 「書く」の場合も、動作をしている人が居る場所は「で」で表すけれども、動作の結果が現れる場所は「に」で表す。だから「教室で手紙を書く」だけど、「便箋に手紙を書く」なのである。「掘る」の場合も同様だけど、「で」を使うのは国や町などの大きな地名で、具体的な場所の場合には結果が生じる場所として「に」を使う。だから、「アフガニスタンで井戸を掘る」に対して、「自宅の庭に井戸を掘る」となる。他にも同じような使い方をする動詞はあるはずだが、これが日本語の「で」と「に」を使い分けるためのルールだと言えるのかどうかはどうでもいい。

 自分の助詞の使い分けを考えてみると、「で」ではなく「に」を使う場合には、場所の意識だけでなく、方向めいたものも感じているのではないかと思わなくもない。ただ、この手の母語話者が何となく感じるものを使い方のルールとして、言葉を教える際に使うのは無理がありすぎる。大切なのは何らかの傾向があることを知っていて、間違いに気づいたときに修正する能力である。
 だから、日本語の場所を表す助詞の使い分けを身に付ける際にも、チェコ語で原則として「v」を使って間違いだと気づいたら、「na」に変えて「na」を必要とする名詞を覚えていくのと同じ方法を取るのがいい。違いは覚えるのが名詞か動詞かというところだけである。というところで長くなったし、きりもいいので以下次号。次が短くなりそうな気もするけど。
2020年6月30日9時。













タグ: 助詞 動詞
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2019年08月14日

シャールペンシル考(八月十二日)



 ジャパンナレッジの「日本語、どうでしょう?」でまたまた気になる 記事 を見つけた。先週の記事だけど、先週は読める環境になかったので今日になって読んだ。
 さて、日本では一般に「シャープペンシル」と呼ばれるものを、沖縄の石垣島で「シャールペンシル」という方言を使っているという。記事を書かれた神永氏は、シャープがシャールとなる変化について、「ボールペン」との混同を考えておられるようだけど、チェコにいて、チェコ式英語読みになれてしまった頭には、石垣島の方言にチェコ式発音との共通性があるようにしか見えない。

 このブログの最初のほうにあれこれ書いたように、チェコ語の外来語(ドイツ語起源の人名は除く)の発音は、一言で言ってとんでもないものが多い。傾向は二つあって、一つには、かたくなにチェコ語の発音のルールに基づいてアルファベットをローマ字読みしてしまう。もう一つは、英語などの元になった外国語の発音に過剰に合わせてしまう。そして、その場合には、つづりまで発音に合わせて変えてしまう。
 前者の例としては、パズル(puzzle)が、ドイツ語の読み方の影響もあって、「プツレ」になったり、カプセル(capsule)が「カプスレ」、ひどい場合には「ツァプスレ」になったりするものが挙げられる。一応英語で「ca」が「カ」と読まれることが多いのはわかっている人が多いようである。後者の例としては、「camp」が「ケンプ」と読まれ、「kemp」と書かれるようになったものや、「team」が「ティーム」と読まれて、「tým」と書かれるようになったものが挙げられる。
 当初後者の例としては、「ham and eggs」が、「ヘメネックス」と読まれて「hemenex」と書かれるのを挙げようかとも思ったのだが、最後の「eggs」が清音になっているのは、英語の発音ではなくチェコ語の発音の規則にのっとったものなので、両者の中間といえば言えるか。オストラバ方言の「fine」からできた「fajne」も、ヘメネックスの仲間と言ってよさそうである。

 ここで、本題に戻ろう。シャープペンシルの綴りは「sharp pencil」である。この言葉がチェコ語に入ったとして、問題の前半部分どう読まれるかと考えると、「star」が「スタル」もしくは「スタール」と読まれることを考えると、「シャルプ」か「シャールプ」であろう。「sha」はさすがに「ズハ」とは読まないだろうし。そう言えば、日本の家電メーカーのシャープのことは「シャールプ」と呼んでいるなあ。ということで、石垣島の人たちも、同様に「sharp」を「シャールプ」と読んだのではないかと推測するのである。
 この「シャールプ」の後ろに「ペンシル」を付けた場合に、「シャールプペンシル」というのは、いかにも言い難い。これは、パ行の音が重なるのが原因だろうが、「シャープペンシル」が普通に使われていることを考えると、もう一つ理由がありそうだ。それは恐らく、「シャールプ」の場合の語末の「プ」が、母音なしに弱く発音されることが原因であろう。さらにその前の「ル」も子音だけで発音されそうだし。その弱い「プ」にもう一つパ行の音が重なったために、前の「プ」が発音されなくなったと考える。
 石垣島の方言と、チェコ語の英語からの外来語の導入には同様の傾向が見られるという、ここに書いた推測が正しいかどうかは、正直どうでもいい。こういうらちもない想像を楽しむのが、言語学とは縁のない、言葉好きのやり方というものである。ちなみに、チェコ語でシャーペンはペンテルカ(pentelka)という。

 ところで、このジャパンナレッジの記事では、日本のシャープペンシルの歴史についても触れられていて、国産のシャープペンシルを最初に製造したのが、シャープの創業者で、「繰出鉛筆」という名称で販売していたことも書かれている。シャーペンとシャープは関係がないと思っていたけど、実はそんなことはなかったようだ。チェコ語のペンテルカも、日本の文房具会社のペンテルと関係があるのかもしれない。チェコ語は商標名から一般名詞化することが結構あるから。
 それはともかく、繰出鉛筆という名前を見て思い出したのが、確か高校時代に、みんなシャーペンを使っている中で、ある友人が使っていた、シャーペンの細い芯ではなく、鉛筆の芯と同じ太さのものを使って、ノックではなく、回転させることで芯を出すタイプの筆記具だ。小学校でシャーペンの使用が禁止されていたときも、これは鉛筆の芯を使っているからシャーペンじゃないと言って使えたとか言っていたかなあ。これを、つまりはシャーペンとは違う筆記具を、繰出鉛筆と呼ぶのかと思っていた。
2019年8月12日22時45分。




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タグ: 発音 方言
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2019年07月04日

「お前」考(七月二日)



 日本のプロ野球の中日の応援歌に登場する「お前」という言葉が不適切だという指摘をした人がいるらしく、それをまた球団の上層部が、親会社が新聞社である球団の上層部が受け入れて、応援団に歌詞の変更を求めたらしい。その詳細については記さないが、簡単に言うと、応援団が選手を「お前」と呼ぶのが、上から下に見下ろしているように感じられ、子供たちもいる中でそんな表現を使うのはどうかということのようだ。つまりは選手に対して敬意を欠いているのが問題だというのだろう。
 この話を聞いて、一瞬、現在の日本語はここまで変わってしまったのかと思った。日本を離れて廿年近く、自分の日本語が多少時代遅れのものになりつつあることは自覚しているし、それをあえて放置してあるのもその通りなのだが、さすがに人称代名詞(的なもの)の使い方が、たかだか廿年で根底から変わってしまうことはあるまい。ということで、「お前」の使用がなぜ問題ないのか、考えてみようと思う。

 日本語に於ける人称代名詞の使用は、特に二人称の使用は厄介極まりないものである。一般に現在の日本語で二人称の人称代名詞的なものとして認識されているのは、方言を除けば「あなた」「きみ」「おまえ」ぐらいだろうか。漫画なんかで目にするものとしては「きさま」もあるけど、実際に使用している人はいるのだろうか。
 それはともかく、敬意云々の話をする限り、ここにあげた言葉は、相手に敬意を表したい場合にはどれも使えない。「おまえ」よりも「あなた」のほうが丁寧で、敬意がこもっているのではないかと考える人もいるかもしれないが、敬語を使って話しているときに「あなた」なんて言葉を使うのは、こちらが怒っていることをわからせるとき、相手を怒らせたいときなど、あえて慇懃無礼にふるまうときに限られている。

 ならば「おまえ」という言葉を使うのは、常に不適切かというとそれは違う。ここで思い出すべきは日本語の敬語のもう一つの役割である。敬語が上下関係のある場で目上の人に対して敬意を表すためのものであるのは確かだが、もう一つ、親しくない人に対しては、上下関係がなくても敬語を使って丁寧な話し方をするという用法がある。これを親疎の関係なんて言い方をすることもある。
 つまり、敬語を使うということは、相手と親しくないことを示し、敬語を使わないということは親しい関係にあることを示すのである。日本人であれば、目上の人と話すときであっても、敬語を微妙に崩すことで親しさを表現する、もしくは親近感を表明するぐらいのことは意図的にやっているはずである。
 だから、この応援歌の場合にも、あえて「おまえ」という丁寧さを感じさせない言葉を使うことで、選手に対する親近感を表明している、いや、選手と応援団という関係を考えれば、選手たちとの一体感を高めようとしていると考えることができる。それをチームの側から批判するのは、応援団との一体感など不要だといっているに等しい。この件で最悪なのは球団のオーナー企業である新聞社の中から批判をたしなめる人が出てこなかったことである。これもまた、新聞を代表とするマスコミの質の低下、この場合には母語である日本語への鈍磨が進んでいることの証明なのだろう。

 チェコ語の場合には、二人称の代名詞は、日本語ほど豊富にあるわけでなく、使わないのが丁寧というわけでもないので、選手たちとファンの一体感を表す表現としては使えない。代わりに使われるのが、動詞の一人称複数の形である。応援するチームが勝っているときには「vyhráváme」、いいプレーをしているときには、「hrajeme dob?e」と、チームの一員であるかのように「我々は」と表現するのである。
 うちのの話では、これは勝っているときだけで、負けたときなんかは、「prohráli jsme」ではなく、「oni prohráli」と三人称複数にして自分とは関係ないことにしてしまうこともあるらしい。ただ、チェコテレビのアナウンサーや解説者は、チェコ代表の試合の中継では、勝っていても負けていても一人称複数形を使っているような気がする。

 もちろん、最初から最後まで一人称複数で話し続けると単調になるので、三人称を使うこともある。その場合に主語となるのは「oni(あいつら)」ではなく、「?eši(チェコ人たち)」である。しかし、この「?eši」という言い方が気に入らないという人もいる。先日もカレル・シープがトーク番組でゲストのアイスホッケーの解説者に噛み付いていた。どうして「naši(うちの連中)」という言い方をしないのか、「?eši」では他人事みたいに響くじゃないかというのである。
 そこにファン心理としての、選手たちとの一体感を求める気持ちを読み取ってもあながち間違いとはいえまい。ただ、「naši」は出てこなくても、「naši hrá?i(うちの選手たち)」というのはしばしば耳にするからシープの批判も、話としては面白いけど、どうかなというところはあるのだけど。
 もうちょっと言いたいこともあったはずなのだけど、今日はこの辺でおしまい。
2019年7月3日22時。










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