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2017年05月07日
スポーツの五月三日(五月四日)
母親が、新聞などを切り抜いて作ってくれたというスクラップブックをめくりながら、記事に書かれた大会のことを回想していく中で、プラハで行われた体操の世界選手権の遠藤選手の記事が出てきた。チャースラフスカーは、あの時、遠藤選手が大会の主役だったと回想し、日本の選手たちの演技を見て、自分もあのような演技がしたいと思ったのだと言う。日本選手の演技のことを「猫のような」という言葉で形容していた。
その後の東京オリンピックであれだけの活躍ができたのは、日本的な演技を学んだおかげなのだという。そして、だからこそ、自分の演技が日本の観衆にあれだけ熱狂的に受け入れられたのではないかと回想していた。東京オリンピックのときは、まるで七人目の日本チームの選手であるかのように感じていたらしい。
日本選手の演技を参考に、段違い平行棒で他の選手にはまねのできない手放し技を開発して、東京オリンピックでも披露したのだけど、チェコスロバキアチームの同僚の選手が、緊張に耐えかねて声をあげてしまったことで、上側の棒から手を放して回転するところで落下してしまった。そのとき、客席にいた日本の観客たちが、手放し技を見たいと願っているのを強く感じたために、そこで演技を止めずに、もう一度鉄棒に登って手放し技を披露したのだという。
当時のビデオには、チャースラフスカーの演技が終わって着地した瞬間に、かたずをのんで見守っていた観客席から万雷の拍手が送られる様子が残されている。落ちた瞬間にメダルの夢は消えたと言っていたので、おそらく種目別の平行棒の演技でのことだろうとは思うけれども、こんな話があったなんて知らなかった。
チャースラフスカーと日本の関係は、よくある日本側からの一方的な思い込みではなく、相互にお互いを尊重し合う、ある意味理想的な関係になっている。プラハの春の後の正常化の時代、ビロード革命の後の家族の問題を抱えていた時代を乗り越えてなお、その東京オリンピック以前から続く関係が途切れずに続いてきたことを、チェコに住む日本人としては、心の底からうれしく思う。
普段、プラハで行われる日本関係のイベントには、出席することはほとんどないのだが、そのため生前にお目にかかる機会を失したのかと思うと、斬鬼の念に堪えない。遠くからでもお姿を拝見できればそれで満足だったのだけど、さすがにオロモウツからは無理だからなあ。ほぼオロモウツから離れず、引きこもり状態であるのを誇りに思っている人間が、それを後悔してしまうほどに、チャースラフスカーの存在は、大きい。
やはり、体操選手としても、日本とチェコをつなぐ自分としても、本当の意味で不世出で不滅の存在なのである。文学や政治などには持ちえないスポーツとものの力を最高の形で体現したのがチャースラフスカーなのだろう。前回と同じく敬称は省略させていただいた。時間が経てば意識も変わるのかもしれないけれども、今はまだ無理である。
5月5日15時。