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2017年05月25日
ダビット・ビストロニュを悼む(五月廿二日)
ビストロニュは、バニークでプロデビューし、2003/04のバニーク優勝に大きく貢献した若手選手の一人だった。あのときのバニークは、ラータル、ボルフ、ハインツなどの外国でプレーした経験のあるベテランと、マトゥショビッチ、ラシュトゥーフカ、マゲラ、ビストロニュなどの生きのいい若手選手がうまくかみ合ったいいチームだった。優勝の後のチャンピオンズリーグの予選で、経験のなさを露呈して、オストラバ05などと呼ばれてしまうことになるのだけど、それはまた別の話。
その優勝後のバニークにプシーブラムから移籍してきたのが、これも当時期待の若手だったフランティシェク・ライトラルなのである。マトゥショビッチの回想では、当時のバニークの若手選手たちはサッカーを離れたところでもつるんでいろいろ好き勝手にやっていたというから、この時代に友情を育んだものだろうか。当時の監督はコムニャツキーで、コーチを務めていたのが後にプルゼニュの監督となるパベル・ブルバである。
オロモウツで一部復帰に貢献した後、2015年の夏に膝の怪我が悪化してプロの選手としては、続けていくことができなくなり、実質的に引退を余儀なくされた。ただし、つい最近まで、スイスの五部のアマチュアのチームに所属して、サッカー自体は続けていたようである。ただよくわからないのが、スイスでどんな仕事をしていたかのだけど、今となってはせんなきことである。
ビストロニュが死を選んだ理由としては、ライトラルのときと同様、いやそれ以上に、借金を返せなくなっていたことが取りざたされている。発端は、2011年にプルゼニュが初めて出場したチャンピオンズリーグの試合後のドーピング検査で、メタンフェタミンの陽性反応が出たことだった。心当たりがあったのか、ビストロニュは特に反論することもなく、二年の出場停止処分を受け入れ、プルゼニュのチームとは契約解除に至った。その結果、それまでの収入を失い、借金生活が始まったのだという。
処分が解けた後に復帰したオロモウツでは、プルゼニュ時代とは比較にならない給料だっただろうし、その給料も怪我のために一年で引退に追い込まれたことで失われてしまう。別れた奥さんの話では、最終的には二人で自己破産することになったらしい。
初優勝したときのプルゼニュのディフェンスラインの選手たちの中では、ビストロニュとセンターバックのコンビを組んでいたチショフスキーも、難病に襲われて引退を余儀なくされ、今も闘病生活を続けている。プルゼニュの試合で支援のためのイベントが行われたり、本人が試合を観戦に来たりすることもあるのだけど病気の経過についてはあまり語られない。
そうすると、あの時のディフェンスの中心選手の中で、今も元気にプレーしているのはリンベルスキーだけということになるのか。たったの数年前のことなのに、何とも寂しいものである。
日曜日には、二部のリーグの試合でバニーク・オストラバがオロモウツにやってきた。ビストロニュが活躍したチーム同士の対戦で、試合前には黙祷がささげられ、厳粛な雰囲気で試合が始まった。オストラバからは千人を超えるファンが押し寄せ、ゴール裏のスタンドを一つ占拠して、熱心に応援して、試合を盛り上げていた。
それなのに、またぞろ発煙筒を持ち込んだ奴らがいた。観客席が煙に包まれただけでなく、オストラバのキーパーが守っているゴールのそばに投げ込まれたものもあったために、試合が中断してしまった。この件がなければ、ビストロニュがプレーしたすべてのチームの成功、プルゼニュの一部優勝、オロモウツの二部優勝と一部昇格、バニークの一部昇格を願ってきれいにこの話を終わらせられたのに、すべてぶち壊しである。。
5月23日21時。