この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
広告
posted by fanblog
2017年11月20日
H先生の叙勲の話つづき(十一月十七日)
オロモウツ地方版の記事だからネット上に公開されないと言うわけではないようで、H先生の名前で検索をかけると、去年の八月の 記事 が出てきた。
これは、プシェロフ郊外で虐殺された犠牲者を火葬にしたあとの遺灰のうち女性と子供のもだけがオロモウツのネジェジーンの墓地に埋葬されていたのをH先生が突き止めて、プシェロフの男性の犠牲者が眠る墓地に移葬したことについての記事である。この件も、虐殺事件について本を出版したこととあわせてドイツから勲章をもらった理由となっている。
この発見についてはH先生から伺っていたし、穴掘りの手伝いをさせられたという人物にインタビューしたという話も聞いていた。ただ、酒の席での話しだったし、そんなに詳しい話ができたわけでもなく、こちらが素人で先生の話を完全に理解できていないところもあって、この記事などを読んでいくつか新しい発見(個人的にね)があったので、プシェロフの、ひいてはモラビアの弁護のためにも紹介しておこう。
このシュベーツカー・シャンツェというプシェロフからちょっと南にある丘の上での虐殺を実行したのがプシェロフの人たちではなく、スロバキアからやってきた再建されたチェコスロバキア軍の一部隊だったことはすでに記したが、犠牲者もまたプシェロフの人々ではなく、スロバキアの「ドイツ系」の住人だったらしい。
そういえば先生が、「(ポット)カルパチュティー・ニェムツィ」と言っていたような気もする。そのときは、「カルパチアのドイツ人」だとは理解したけれども、その人たちがプシェロフに住んでいたのだと思い込んでいた。カルパチアというのは、チェコとスロバキアの国境地帯のベスキディなどの山地から、スロバキア、ポーランド国境のタトラを経てルーマニアのほうにまで延びる大山脈を全体として示す言葉である。だから、ベスキディや、その南のビーレー・カルパティの山の中に住んでいたドイツ人がプシェロフに出てきて生活していたのかなと考えたのである。
しかし、実際には、この「カルパチュティー・ニェムツィ」というのは、チェコではなくスロバキアに12世紀から15世紀にかけての時期に殖民したドイツ系の住民をさす言葉である。チェコ領内のドイツ人が、「スデチュティー・ニェムツィ」と呼ばれたようなものだろうか。スロバキアのドイツ人としては、特にタトラ山麓のシュピーシュ地方に定住したサクソン系のドイツ人の集団が有力だったようだ。
プシェロフで虐殺されたのもタトラの近くドプシナーという村のドイツ人たちだったという。そのスロバキアのドイツ系の住民が終戦直後にプシェロフで何をしていたかというと、帰郷の途にあったのである。ソビエトとの戦いが敗色濃厚になった1944年に撤退するドイツ軍は、スロバキアのドイツ系の住民をも西方に疎開させた。侵攻してくるソ連軍や周囲の住民による略奪、虐殺をうける恐れがあったのだろうし、西方のまだ比較的安全な地域に労働力を確保するという目的もあったのだろう。
ドプシナーの住民も疎開させられていたボヘミアのズデーテン地方からスロバキアの故郷に帰るために鉄道に乗って、鉄道の要所であるプシェロフまでたどり着いたところで悲劇に見舞われたのである。このドプシナーの人々の移動が、チェコスロバキアで終戦後すぐに始まったドイツ系住民の追放の一環だったのか、本人たちが希望しての帰郷だったのかまでは確認できなかった。
ブラチスラバからやってきた部隊の司令官は、移動する人々の中にドプシナーの住民を見つけると、ナチスのSSの関係者だという嫌疑をかけて、移動の集団から引き離した。身につけていたお金、貴金属、貯金通帳などを没収したうえで、郊外まで移動させそこで270人もの、そのうち約200人は女性と子供を無慈悲にも全員射殺したのだった。蛮行の目撃者を減らすために、深夜から明け方にかけて実行するという念の入りようである。
プシェロフから駆りだされた人がやらされたのは、遺体を埋めるための穴掘りだったようだ。その後、司令官はこの事件から二年後の1947年に遺体を掘り出し火葬に付し、プシェロフとオロモウツに分けて埋葬させたのである。これは事件の発覚を防ぐための証拠隠滅の目的があったらしい。その甲斐もなく司令官自身は裁判にかけられたようだが、時の共産党政権の大統領ゴットワルトが恩赦の対象としたため刑務所に入ることはなかった。 ただ、もう一人の首謀者と目された人物は、逃走しハンガリーを経てイスラエルに亡命したのだとか。
もちろん、女性や子供を中心にしたドプシナーの人々がSSの関係者だったと言う事実はなく、中には、ドイツ人ではなくスロバキア人、ハンガリー人として民族的に登録していた人たちもいたらしい。それなのに殺されなければならなかった事情は、殺された側ではなく殺した側にあった。司令官もドプシナーの出身で、その兄弟こそがSSの関係者だったという説がある。その過去を消すためには、事実を知るドプシナーの人々を生かしておくわけにはいかなかったのだ。
ナチスの高官が過去を改竄して東側の共産諸国の高官に納まったという話は、かつて公然の秘密のように語られていたが、その一端がここに現れているということだろうか。本人がSSだったわけではないようだけれども。SSの隊員だったから、関係者だったから悪だと短絡するつもりはない。しかしこの司令官の行動は、人間というものが如何に悪になれるかの見本だと言えそうである。
その忘れられた、もしくは抹消された過去の悪に気づき、目を閉ざすことなく調査を進め、遺灰の埋葬されていた場所を発見するという成果を上げたH先生の業績は、やはり賞賛にあたいする。先生自身は勲章のために研究をしているわけではないと仰るだろうが、ドイツからとはいえ叙勲されたのは素晴らしいことだ。チェコの勲章? ハベル大統領ならともかく、ゼマン大統領がH先生に、なんてことにはならないだろうなあ。
2017年11月18日23時。