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自称ユダヤがニセモノであることは、モーセの十戒を守っていないことからも明らかである。特に、「偽証してはならない」と「財産を欲してはならない」を守っていないことが明らかである。だから、ユダヤ人が金持ちという段階で、すでにニセモノなんである。 だから、聖書では、金持ちのユダヤ人というのは存在しないことになっている。それはキリストが、金持ちは天国(神界)にいくのはほぼ不可能といったことからも明らかである。人類を霊的進化に導くのに、金銭は障害になるだけだからだ。金銭は、人類を地上に縛り付ける障害物だからである。地上のものは悪魔の支配下にあるからだ。 だから、偽証、つまり物証していけない、財産をもってはいけない、と神は教えたのである。地上の意識で、本来の天の意識が曇らされてしまうからである。十戒の「隣人」というのは、自分以外の全ての人類のことである。十戒とは、自我への戒めなんである。要するに、我儘になるな、足るを知れ、ということである。 つまり、ユダヤ人にとっては、十戒を厳密に守りさえすれば、わざわざ他の法律をつくる必要がないから、ユダヤ人の立法者というのも存在しないはずである。もし、立法者と名乗るなら偽証者となるから、ニセモノなんである。 もしホンモノのユダヤ人なら、世の中に貧困が多く、他者が十戒を守らないのは自分の責任とし、キリストのように全ての苦悩や苦痛を一手に引き受けるはずであるし、少なくとも権力上層部に君臨しようなどとは思わず、社会の底辺で人類の支えとなるだろう。 まぁそういうわけで、世の中にはニセモノが氾濫している、というわけである。 ちなみに、ユダヤとは、古代ヘブライ語の、「ヤダー」や「ヤウダ」が語源で、「知れ」、「偲べ」、「親しめ」、「感謝・感恩」という意味をもつそうである。日本にきて、「八幡」となり、八幡神社などは、古代ヘブライの神、つまりヤハウエを祀っていることがわかる。 いまは地上世界にいるが、いずれは天界に帰るから、地上にいても、天界からきていること、つまり天界のルール(カルマ=救済行為)を忘れるな、ということなのだろう。 人間は助け合って生きなさい、ということなんである。 ついでだから、ホンモノのユダヤ人、つまりヘブライ人についてシュタイナーの話から紹介する。シュタイナーは、ヘブライ人とは、簡単にいうと、キリストの自我を受け継いだ人のことだという。キリストの自我とは何かといえば、救済行為からなるカルマの法則を守る(信仰する)ことであろう。 神が人類に与えた救済行為からなるカルマの法則とは簡単にいえば、陰陽の逆転則で、例えば、苦しみを背負えば背負うほどますます精神的に楽になれることで、他者を助けるほど自分も助けられることである。 この法則を実践している人がヘブライ人なんである。 古代ヘブライ語で、へブルは、「産みの苦しみ」を意味するそうである。つまり、ヘブライ人は、「産みのために苦しみを背負う人」という意味にとれ、ヘブライ民族は、人類の霊的進化のために、苦しみを背負う民族ということになる。 また、ニセモノのシオニストは勘違いしているが、「しおん」は、古代ヘブライ語では、「従順」という意味をもち、神の言葉、つまりカルマの法則に従う人という意味にもなる。つまり助け合いの精神に従う人である。 シオニストはエルサレムを建国することを目的としているが、エルサレムとは、「神の住むところ」という意味をもつので、神界のことである。神界とは天国のことなので、「助け合いの精神から、天国をつくる」のがホンモノのシオニストの目的である。 天国は神様しかつくれないから、まず自分が神様になるしかないが、それには少なくともこの世にある苦悩や苦痛全てを背負わないといけないが、そのようなシオニストは皆無で、ニセモノばかりが蔓延っている。 さて、前置きが長くなったが、シュタイナーの民族論を紹介する。 ★ ★ ★ ヘブライ民族の発生について http://www.geocities.jp/momoforall/booknote7/mybooknote5.html シュタイナーは、『マタイ福音書講義』(1910年)において、アトランティスからアジアへの人類の移動の二つの流れについて触れている。 アジアへの移動の中の南方ルート(アフリカ経由)の最後の支流は、遠く(北方の流れの)ツランにまで至った。 この様に南北の二つのルート(流れ)があちこちで合流し、インド、イラン、ツランの三つの民族が発生した。 このインド、イラン、ツランの三つの流れが独特に混ざり合い、ツラン精神が純化されて、ヘブライ民族が発生した。 「アジアには大別して三つの民族魂がある。南のインドの民族魂、イランの民族魂、北アジアのツランの民族魂である。この三つの魂は、アトランティスからの民族移動のなかの北方ルートがアジアに向かい、アジアに拡散した事で生じた。 南方ルートは、アフリカを通り、その最後の支流は、ツランの民族魂まで達した。アトランティスからアジアに向かう北方ルートが、アフリカを通って行く南方ルートと合流し、独特に混合した土地に、ある民族が生まれ、その民族から後にヘブライの精神が発生した。」 「アトランティス時代に退廃したアストラル―エーテルを観る霊視力の名残が、外界をみる霊視力として現われたが、ヘブライ民族では、それが内部の魂に向けられた。 この民族では、太古のアトランティスの霊視力の残りとして、低次のアストラルを観る霊視力が、外界を観る視覚にならずに、魂の構成要素になった。 ヘブライ民族では、進化から取り残された霊視力がそのまま残ったのではなく、霊魂の器官となり、覚醒意識をより完全にした(意識魂となった)。 ツランの精神では堕落していた霊視力が、ヘブライ民族では克服され、魂の器官(意識魂)となり改善された。」 ●シュタイナーはまた、『西洋の光の中の東洋』において、次の様な意味を述べている。 第三文化期(古代エジプト―カルデア)との絡みで言えば、北方のカルデアの流れと、南方のエジプトの流れが、カルデアのウルからエジプトに移住したヘブライ民族において結合した。 (カルデアの代表がアブラハム、エジプトの代表がメルキデゼニクで、二人が合流することで、後のキリスト意識を受け入れるイエスの聖杯意識の原型がつくられる。) ★ ★ ★ 以前、ドリールのエメラルドタブレットの話を紹介したが、それは以下のような話だった。 ★ ★ ★ ドリールによると、アダムは、神の子(直系)の超人からすると、出来損ないに近かったそうで、だからといって、神の子でなくはないが、恐らく傍流という意味なのだろう。そのアダムの末裔のアブラハムの代になって、ようやくマトモになってきたという。 そこで、神の子(直系)の超人メルキゼデクが、太古の叡智(教え)をアブラハムに伝授し、エジプトで秘儀参入を果たしたそうである。 ★ ★ ★ というように、ヘブライ民族は、メルキゼデク(南方)とアブラハム(北方)により生まれたそうである。シュタイナーはアブラハムから遡るセムにまで言及し、ヘブライ民族をノアの息子のセム族と呼んでいる。 シュタイナーによると、メルキデゼニクは、物質的太陽の奥に霊的な太陽、つまり太陽神がみれた(秘儀参入)そうで、太陽神がやがて、地上に降下し、キリストとなること(ゴルゴダの秘儀)をアブラハムに伝えたという。 ちなみに、メルキデゼニクの「メルク」は、古代ヘブライ語では、「わが主」という意味をもつらしい。「デゼニク」は「正しい、救い」という意味をもつらしい。だから、メルキデゼニクは、「わが主は正しい、救い」という意味になる。 では、日本人についてはどうかというと、シュタイナーは次のように述べているらしい。 ★ ★ ★ 日本人 『宇宙・地球・人間』では、あらゆるモンゴル民族と同様に、日本人は「アトランティス文化から遅れてきた民族」とされ、今日の日本の発展は、外来文化に負う事が指摘されている。 「日本人は大きな進化を遂げた、と言われているが、それは幻想である。日本人は、自分達の特性から、進化を遂げたのではない。先の戦争(第一次世界大戦)で日本が勝ったのも、日本が外来文化を受け入れた御蔭だった。 というのも、ある民族が、他民族から発した個性を受け入れるのは、進歩とはいえないからである。」 とシュタイナーは語っている。 明治以後の日本の発展が、洋才によるところ大なのは明らかだが、古代での帰化人の果たした役割の大きさも忘れるべきではない。 また、『生の変容としての死』(1917年)では、「日本人がもつ様な霊的な思考は、現実の中に侵入してくる。それがヨーロッパ―アメリカの唯物論と結び付き、ヨーロッパの唯物論が霊化されなければ、その思考は、ヨーロッパの唯物論を凌ぐのは確かである。 ヨーロッパ人は、日本人が持つ様な精神の柔軟性を持たないからである。この様な精神の柔軟性を、日本人は太古の霊性の遺産としてもっている。」 『宇宙と人間の創造』および『人間と地球の生命』では、西欧文明の摂取により発展した近代日本の性格について、次の様な逸話を語っている。 日本人が蒸気船の運転を試みる譬え話である。どの様に運転するか、どの様に舵を切るかを、日本人は見様見真似で習得した。 日本人は、外国人の教師に対して、もう自分達で航行出来る、と言った。そして、外国人教師を陸に残して、日本人船長の指揮のもとに蒸気船は出発した。日本人は、舵を切って、方向転換をした。 ところが、どうやって元に戻せば良いのかを知らなくて、船は回転し続けた。 という話である。 西洋文明に同化して国力を増して来た日本が、西洋文明を十分に深くは摂取していない事が指摘されている。優れた芸術家などは例外として、一般的には外来の文化を短期間で、器用に習得するが、その深い本質までは把握していない事がよくある。 (日本人は器用貧乏といえる。) 日本でのシュタイナーの人智学の摂取についても安易な摩り替えがなされている例がよくある。 ★ ★ ★ 西洋カブレはダメということである。一昔前にお笑いのタカトシの「欧米か!?」が流行ったが、いまだに欧米から抜け出せていないのは、船が回転し続けている証拠といえるだろう。 英語教育加熱で、英語を流暢にしゃべれる日本人は増えるだろうが、肝心の語る内容が皆無なのは、集団的自衛権を唱えるアホ総理をみればわかる。アホ総理は純粋な日本人とはいえないのだが…。
2014年07月31日
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前回の続き ★ ★ ★ では、なぜこのようなパンデミック(収容所でのチフス感染)が起きたのか? 考えられることは以下のことです。 すなわち、連合軍は、ナチスドイツを打ち負かすために、ナチスドイツの武器生産施設を破壊し、人々を殺戮する必要があった。 しかし、同時に、米国は、欧州から米国へ逃げてきたユダヤ人とレッテルを貼られた技術者達「当然のことながら、核の優秀な技術者に、わざとユダヤ人というレッテルを貼らせたのでしょう」を、『ユダヤ人をナチスの犯罪から守る』という名目で、原爆の開発を手伝わせていたので、『ユダヤ人やロマ人と名付けられた人たちの強制収容所』を空から爆撃する事が出来なかった。 そこで、『ユダヤ人やロマ人と名付けられた人たち』は、密かに死んでもらう必要があった。そこで、強制収容所に潜入したスパイが、生物化学兵器として強力な致死作用を持つチフスを持ち込んだ。 チフスで人がバタバタと死んだので、強制収容所では、死んだ遺体からチフスが他の労働者に感染しないように(労働者が居なくなると武器を生産出来ずに戦争に負けてしまうという理由から)、大事なガソリンや石油を使って焼却する必要があった。 この焼却の手伝いに、『ユダヤ人やロマ人と名付けられた労働者』も参加させられた。 それでも、生物化学兵器であるために、どんどん人々が死んでいき、燃料も足りずに、焼却出来ずに、遺体がどんどん積み上げられていった。 そのことで余計にチフスが強制収容所に蔓延していき、ソ連軍がやってきた頃には、凄まじい遺体の山があった。 それを見て、「『ユダヤ人の大虐殺』が行われていた。」という話になった。 という風に考えると、すんなり納得出来ます。 ガス室で殺された話は、ガス室において、チフスが蔓延しないように、収容所に入れられた人々に対してドイツ軍が殺虫剤を撒いていたと考えるのが当然ノーマルな考え方です。 ツィクロンBというのは、基本的に、広く使われている殺虫剤ですから。 ですから、間違いなく『ガス室は存在した』のです。 チフスの蔓延を防ぐために。 その行為を、米国は、『ユダヤ人とレッテルを貼った技術者』に原爆の開発に協力させるため、それから、東京大空襲や原爆投下、ドレスデン爆撃などの、人道的に見て重大犯罪である「一般市民への無差別絨毯爆撃=ホロコースト』を正当化するためのプロパガンダとして、『人々がガス室で殺されている』として利用したのです。 そしてソ連は、敵だったナチスの『人道上許されない犯罪』としたわけです。 実際には、最も多く人々が死んでいったのは、チフスが原因だったことが明らかになっています。これは、第一次大戦末期に、スペイン風邪(実際には米国が発生源)で多くの人が死んでいったのと酷似しているといえましょう。 当ブログは、『スペイン風邪』も生物化学兵器であったと考えています。 ドイツは、武器を作るために強制収容所の労働力が必要不可欠であったため、労働者の健康管理に気を使っていたのです。彼ら労働者の存在無しには、戦争に負けてしまうのだから当たり前です。ただし使えない存在に関しては、容赦なく切り捨てたのは、重大な犯罪です。人道的に許されない重要な犯罪なのです。 ナチスが、人道的に許されない重要な犯罪を行っていたことは間違いありません。 つまり、『ガス室は存在した』し、ナチスも『ユダヤ人』とレッテルを貼った人たちを沢山殺害したが、最も多くの『ユダヤ人』とレッテルを貼った人たちを殺害したのは、連合軍なのではないでしょうか。 ですから、戦勝国(連合軍)は、この事実を、『ユダヤ人』とレッテルを貼られた人々に知られることを最も恐れているのです。 ナチスドイツが『ユダヤ人』とレッテルを貼ったドイツ人やオーストリア人やポーランド人を大量に虐殺したのは連合軍(アメリカ)なのです。 それを利用して、彼らはプロパガンダを流し、優秀なユダヤ系技術者を原爆の開発に関与させ、広島や長崎に原爆を投下させたのです。 一つは、原爆の技術を独占している間に、領土を拡大するため。FRBによるドル支配、中東の石油支配体制を確立するため。もう一つは、人体実験のため、ホロコースト=生け贄のためにです。 この作戦を行った人物は、劣った有色人種や『ユダヤ人』を殲滅する団体KKKの構成員であったトルーマンであることは、もはや疑いようがないと思えます。 そして、米ドルを印刷する権利を奪った勢力=FRBの勢力は、自分たちが資金提供したソ連とドイツが欧州を巻き込んで闘い、結果的に、それらの勢力を大幅に疲弊・弱体化させ、資金を貸し付けることに成功し、第二次大戦後のドル支配の構造を築いていきます。 戦後、欧州が、ドル支配を受け入れることになった背景には、米国の援助による欧州復興=このマーシャルプランが上げられます。 マーシャル・プラン「Marshall Plan」は、第二次世界大戦で被災した欧州諸国のために、アメリカ合衆国が推進した復興援助計画。通常は提唱者の国務長官ジョージ・マーシャルの名を冠してこのように呼ぶが、正式名称は欧州復興計画「おうしゅうふっこうけいかく、European Recovery Program, ERP」。 -wikipediaより その、丁度50年後に、欧州は、ようやく、米ドルの基軸通貨制度を抜け出すための、共通通貨『ユーロ』を生み出すのです。これは、欧州全体が、FRBの勢力の陰謀のために、互いに殺し合った反省から生まれているのでしょう。 (世界統一政府をつくるためで、反省ではないようです。) ユーロには、様々な問題も噴出していますが、今後、二度とこのような殺し合いをしないようにしようという意思が、確かに込められているのです。もちろん、ユーロを支配する人たちの中に、FRBを支配していた悪い人たちも居るにせよ、ということですが。。 そして、その人たちが、リビアやシリアで起きていることの影で蠢いているのも考えなければならないことではあります。 そして現在、新たな通貨を巡る争いが起きてます。 911も311もその過程で起きたものでしょう。 311がKKKの略称=アルファベットの11番目がK=スリー・イレブンなのは、偶然ではないのです。 そして私たちは、かつてのナチスドイツのように、中国と戦争させられようとしているのではないでしょうか? かつてナチスの役割を演じさせられているのは、日本。ソ連は、中国共産党です。私たちは、それを回避することが出来るでしょうか?? ★ ★ ★ この物質世界から証拠を消しさえすれば罪がなくなるとでも思っているのがなによりニセモノの証拠である。ホンモノならば、罪は決して消えないことやカルマの法則から、悪事は自分に返ってくることを理解しているはずだからである。 悪事をすればするほど、自分が貶められるだけなのだ。つまり神にはなれない永遠の落第者となるだけである。だからといって、この世を支配しようという考え自体が神への冒涜であろう。
2014年07月30日
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前回は自称ユダヤはニセモノである話を紹介した。ユダヤ人という人種はないことも紹介した。そのサイトで、極まて興味深い考察がなされていたので、以下に抜粋紹介する。 ★ ★ ★ 『ユダヤ人』は、なぜ殺されたのか??(原爆ホロコーストと『ユダヤ人』大量死の関係とは??) http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/08/21/6953639 本日から、歴史のお勉強などを少し さて、第一次世界大戦と第二次世界大戦は、米国のドルを支配する組織であるFRBが世界の覇権を握るために仕組まれた戦争だったと当ブログは考えています。 そのためには、オーストリア・ハンガリー帝国やロシア帝国、清といった巨大な国家が消滅する必要があったわけです。 その状況を起こすために、各国の組織に資金と武器が手渡されたわけです。 その中の一つが、日本だったり、ドイツだったり、ソ連だったりしたのです。 FRBのドル支配は、どのように行われたのでしょうか?? その一つの作戦が、『イスラエル』という人造国家を建設することでした。 (つい最近もウクライナの航空機撃墜事件とイスラエルのガザ侵攻が連動して起こされた。) イスラエルは、『ユダヤ人』の国家を作ることとされていますが、歴史上『ユダヤ人』などという民族も人種も存在したことは無いのです。 ユダヤというのは、宗教であり、キリスト教の信者を『キリスト人』と読んだり『キリスト民族』と呼ばない、あるいは、イスラム教を『イスラム人』や『イスラム民族』、仏教徒を「仏教人』や『仏教民族』と呼ばないことと同じことです。 『ユダヤ人』など存在しないのです。 では、なぜユダヤ教徒だけが『ユダヤ人』と呼ばれなければならないのか? その理由もあるわけが無いのです。 『ユダヤ人』というのは、誰かが貼ったレッテルに過ぎません。 レッテルというのは、安倍首相が、自分のやる事に反対する人全てを『サヨク』と呼んでいるようなものです。 『ユダヤ人』とは、安倍首相の言う『サヨク』のように実態の無いものです。 なので、当ブログは、絶対に、『ユダヤ人の陰謀論』にはなりません。ということです。 カバラを利用して何かやっている人たちが居ること自体は間違いないことですけどね。 でも、その人たちは、『ユダヤ人』では無いのです。 ですから、ブッシュ前大統領の祖父であるプレスコット・ブッシュ達が支援していたナチスドイツが、『イスラエル』という米英の植民地国家を作るために『ユダヤ人』を狩り出した時、まず最初にした仕事は、おばあさんが『ユダヤ教徒』である人物に『ユダヤ人』というレッテルを貼付け、彼らの財産を奪い、隔離することでした。 冷静に考えれば、おばあさんが『ユダヤ教徒』だからといって、本人が『ユダヤ教徒』であるかどうかすら全く分からないわけです。 でも、便宜上、イスラエルという人造国家=中東の莫大な石油資源を支配するための植民地を作るために、『ユダヤ人』という定義が必要だったので、そういう法律を作ったのです。 ナチスのナンバー2であったアイヒマンは、熱烈なシオニスト(イスラエルという人造国家を作る主義者)でした。アイヒマンは、イスラエルを作るために、ナチスドイツから『ユダヤ人と定義された人たち=レッテルを貼られた人たち』を追い出したのです。 彼は、後にイスラエルから、死刑宣告を受け処刑されますが、その裁判で「自分がなぜ裁かれるのか理解出来なかった様子だった」と、『ユダヤ人』というレッテルを貼られた哲学者ハンナ・アーレントは語っています。 それは、「イスラエルを作るために、あれほど頑張ったのに、なぜ俺が?」ということだったのだと思います。アイヒマンは、悪の権化のように言われていますが、イスラエルを作るための雇われだったわけです。こう考えれば、彼が法廷で発言したことも、すっきり納得が出来るのです。 ちなみに、アイヒマンは、1928年からはスタンダード石油のウィーンに於ける現地子会社であるヴァキューム・オイル・カンパニーという株式会社(AG)に入社し、1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党のうえ、親衛隊SSに入隊している。 ―wikipediaより つまり、シオニスト=イスラエルを作る主義者であったナチスのナンバー2のアイヒマンが、ロックフェラーのスタンダード石油の支援を受けて、イスラエルを作ったことが分かりますよね。 中東の石油支配のためですよ。 ナチスドイツを支えたIGファルベン社もスタンダード石油です。 そして、スタンダード石油=ナチスのSSをベースにCIAは作られていくのです。 それが、FRBのドルによる世界支配体制に繋がっていくのです。 もっとも、ナチスドイツの全ての人たちが、アイヒマンのようなシオニスト=イスラエルを作る主義者だったわけではないでしょう。多くは、人種隔離主義者「アパルトヘイト」や人種差別主義者「レイシスト」だったのです。 これは、KKKに近い人たちです。支援していたのは、ブッシュ前米大統領の祖父のプレスコットブッシュ達ですから、当然なのですが。。 米国には、共産主義のソ連と闘うナチスを支援していた人が沢山居たのです。 共産主義だと、自分たちが金儲け出来ないという理由からです。 そして、共産主義のソ連を作ったのが、迫害されていたユダヤ教徒が多かったという理由もあったでしょう。反共産主義者が、反ユダヤなのは、これが基本的な理由です。 もっとも、共産主義のソ連に金を出していたのも、ウォール街の勢力(ロックフェラー)でしたけれども。。 これは、ウォール街(FRBを支配する勢力)には、もっと大きな計画があったからですね。 まず、ロシア王朝を倒し、ソ連にバクー油田を取らせる。 ナチスドイツには、米国が石油(日本帝国軍にもスタンダード石油からパナマ経由で与えられた)を与え、ソ連と戦争させるということです。 両者を戦争させることが目的だったのでしょう。 もちろん、FRBのドル支配のためにです。 さて、ヒトラー達ナチスは、優生学を信じていたので、劣性民族を奴隷として使用し、使えない人物は処刑して戦争を行っていました。 なので、『ユダヤ人』や『ロマ人』と名付けられたドイツ人やオーストラリア人やポーランド人の多くは、財産を没収され、強制収容所でドイツ軍のために労働させられました。 ナチスが、『ユダヤ人』や『ロマ人』と名付けた人々の財産で戦争し、その人たちの労働力で戦争をおこなっていたわけですから、これは驚くべき犯罪ですし、使えない人たちを人体実験に用いたり殺処分したことも含めて、人道上決して許すことが出来ない犯罪なのは、誰の目にも明らかです。 この点に関して、当ブログは、いささかもナチスを支持出来ませんし、ネオナチの人種差別主義者を決して許しません。 ところが、このことが、逆説的に、ある疑問を生じさせるわけです。 ナチスドイツが、『ユダヤ人』や『ロマ人』と名付けた人の労働力で武器を生産し、戦争をおこなっていたのなら、労働力として必要不可欠な彼らを殺してしまったら、戦争が出来なくなるではないか??ということにです。 つまり、ナチスドイツが、最初から『ユダヤ人やロマ人と名付けた人々』の消滅を計っていたのなら、それ自体がナチスドイツの戦争遂行を不可能にするから、矛盾しているのです。 ここで、『東京大空襲』(東京ホロコースト)についてもう一度考えてみる必要があります。 米国が、なぜ10万人にも及ぶ一般人の無差別大量殺戮を行ったのか? その理由として、東京の下町で一般市民が、大日本帝国軍の武器の部品を生産していたことが上げられます 米国は、日本軍に武器生産を止めさせ、戦争に勝つために、武器の部品を作る工場や人々に対して空爆し、焼夷弾で焼き殺し、殺害したわけです。10万人にも及ぶ一般人の無差別大量殺戮を行ったのです。これは、日本人なら知らない人は居ない話だと思います。 では、ドイツではどうだったのか?ということです。 それと同じことが行われていた?? 答えはイエス、その一つが『ドレスデンの大空襲』です。 ドレスデン爆撃(ドレスデンばくげき、英: Bombing of Dresden)は、第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて連合国軍(イギリス空軍およびアメリカ空軍)によって行われたドイツ東部の都市、ドレスデンへの無差別爆撃。 4度におよぶ空襲にのべ1300機の重爆撃機が参加し、合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡した。 ―wikipediaより これも、歴史上まれに見る人道的な犯罪として広く知られているものです。 では、もう一つ重要なナチスドイツの武器生産工場であった『ユダヤ人』や『ロマ人』と名付けられた人々の強制収容所では、何が行われたのか?ということです。 当然、ここでも『東京大空襲』や『ドレスデンの大空襲』と同じようなことが行われたはずです。 『ユダヤ人』や『ロマ人』と名付けられた人たちが、ドイツ軍のために武器を制作していたからです。 当然ですね。 それをどうしたのか? というのが、歴史上の最大の疑問になってくるわけです。 実際、なぜか、ナチスドイツを降伏させるために必要な武器生産基地である『ユダヤ人』や『ロマ人』と名付けられた人たちの強制収容所でバタバタと人々が死んで行き、ドイツは、武器を生産出来なくなり戦争に負けました。 数多くの強制収容所で同様なことが起こりました。 これは、東京大空襲で武器生産をしていた一般市民たちが殺戮されたのと、同じです。 後に、彼らの非常に多くは、『チフスのために死んだ』ことが明らかになっています。 では、なぜチフスに罹ったのか? 一つ考えられることは、連合軍が強制収容所への食料や物資の補給ルートを断ったために、強制収容所内で栄養不足が起こり、チフスの感染が劇的に増えたというものです。薬の不足により死んだとする考え方です。 しかし、このことには、若干の無理があることも事実です。 強制収容所内では、医学実験が盛んに行われていたわけで、医薬品も生産していたはずですし、ユダヤ人やロマ人と名付けられた労働者による食料生産も可能だったはずですから。 実際に、ナチスは、工場労働の生産性向上のために、厳しく栄養管理・健康管理を行っていたことが、様々な資料から明らかになっています。「逆に言うと、不要な存在は、抹殺し、排除していたオドロクべき犯罪だったということでもあるのですが。。」 ★ ★ ★ 次回に続く。ユダヤを背徳者ユダと同じとみなすと、人類の背徳者ユダヤになります。勿論ニセモノですが…
2014年07月30日
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佐世保殺人事件は主知主義の唯物論の行き詰まりを感じさせる出来事である。偽ユダヤによる人類奴隷化教育の恐ろしさを垣間見させる。 悪魔は救済行為を妨害するばかりか、救済行為を差別化し、奴隷行為に結びつけようとしている。 主知主義の唯物論が行き詰まるのは、ニセモノだからである。 死体を解剖して得られる知識は、ニセモノで、死んだものなのである。唯物論では、死が無とされているから、死体も無なので、死体をいくら解剖しても、生命に対する知識も無なのである。 このような事件は、人類の傲慢さや思い上がりを感じさせる。騙しのテクニックが緻密になるだけである。 しかし、段々とダマスゴミの騙しのテクニックや自称ユダヤが、ニセモノであることが明らかになってきている。そのことがわかる話を、お馴染みの播州武侯祠遍照院さまのサイトから抜粋紹介する。 ★ ★ ★ 看板通りでない。羊頭狗肉。 て今の(偽)ユダヤ人だろう。 渾沌堂 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/ http://ameblo.jp/don1110/entry-11901647954.html 上記文抜粋 ・・・・・・・ 嘘を嘘で塗り固めるユダヤ言論弾圧機関も、連日の悪行の数々をばらされて必死のようです。w ユダヤ人権団体クーパー氏会見 2014年7月25日 朝刊(東京新聞) ユダヤ金融悪魔のパートナーである朝鮮似非右翼が意図的に反ユダヤヘイトスピーチを行い、それを口実に全面的にユダヤ批判が出来ないように規制を掛けるよう日本政府に強要する。 わざわざそんな圧力を掛けるためにユダヤ言論弾圧機関の副回虫、油ハム食うパーさんが来日されていたのですね。 311大量虐殺がユダヤ金融悪魔の仕業だと、911がユダヤ金融悪魔の内部犯行だと、衆参不正選挙がユダヤ金融悪魔の策略だと、集団的自衛権行使がユダヤ金融悪魔の戦争惹起手口だと公言できないようにしろということですね。 分かりました。お断りします。w 先程のネットゲリラさんの紹介記事全文です。 わざわざSWC副所長が再来日だそうで、ヘイトスピーチ禁止を盾に金融ユダヤ人とかユダ金とか表現するのを禁止したり、悪事告発の情報発信を出来なくしたいんですよね?ユダ金。 「ネットで憎悪拡散」 ユダヤ人権団体クーパー氏会見 2014年7月25日 朝刊(東京新聞) http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014072502000151.html 来日中の国際ユダヤ人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」(本部・米ロサンゼルス)のエーブラハム・クーパー副所長が二十四日、日本記者クラブで記者会見し、「ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)などを通じて憎悪が世界中に拡散する時代になった。テロリストのシンパを増やし国際的な危機に陥っている」と認識を語った。 今月、ジュネーブで開かれた国連規約人権委員会で日本のヘイトスピーチについて、委員側から「禁止するための具体的な法律はないのか」との質問が出た。 クーパー副所長は「法律を整備すればい... http://richardkoshimizu.at.webry.info/201407/article_133.html ユダヤ言論弾圧団体の言っていることがうそっぱちであることが、はっきりわかります。↓ (再掲) 実は、正統派ユダヤ教徒の多くは、シオニスト(イスラエルを作る運動)に反対しています パレスチナもシリアもリビアも酷いことになっているようです。 イスラエルによるガザ地区への爆撃で、ウクライナの飛行機事故を遥かに上回る犠牲者が出ています。 世界各地では、抗議行動が盛り上がっています。 その中で注目に値するのは、ユダヤ教徒による、ガザ地区への攻撃反対デモです。 ユダヤ人の陰謀論が花盛りですが、実は、正統派ユダヤ教徒の多くは、シオニスト(イスラエルを作る運動)に反対しています。 本来、経緯を考えれば当然のことですが。 『ユダヤ人』は、なぜ殺されたのか??(原爆ホロコーストと『ユダヤ人』大量死の関係とは??)1/2 http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2013/08/21/6953639 物事の分かっている人は沢山居るのです。 正統派ユダヤ教徒たちは、『シオニストは、ナチスより酷い』と言っています。 まあ、シオニストの雇われがナチスですからね。当然のことですが。。 真のユダヤ教徒はイスラエル国家を認めない http://www.youtube.com/watch?v=RPqvctYizkA イスラエルに関して分かりやすい話をしているインタビューを紹介します。 こちらは、ベルギー人ジャーナリストのミシェル・コロン氏のインタビュー メディアが広めたイスラエルに関する10の嘘 http://www.youtube.com/watch?v=iJU3VBA7euU 『イスラエルについて語りましょう』という本の執筆を準備していたとき、私は二人の助手に頼んで、ブリュッセル通りに出て、イスラエルの歴史と状況について何を知っているか、人々に訊ねてもらいました。 結果は悲惨なものでした。 大衆の無知が存在します。 そして、それは偶然ではないと思います。 60年前から世界一を誇るヨーロッパのメディアが大衆に情報を与えていますが、大衆は、もっとも重要な点を知らされていなかったと思います。 これは、メディアを用いたイスラエルのプロパガンダ作戦であると思います。 私は、それを『イスラエル正当化のためのメディアが広めた10の大嘘』として要約しました。 メディアによる第一の嘘は、イスラエルが1940年から1944年のユダヤ人虐殺への反動として建国されたというものです。 これは完全に嘘です。 実際は、それ以前からのパレスチナにユダヤ人を入植させようという植民地計画があったのです。 1897年のバーゼル会議で決定されました。 ユダヤ民族運動(シオニズム)が、パレスチナの植民地化を決定したのです。 当時は、植民地主義という言葉を使っても恥ずかしくありませんでした。 そして保護を求めるために、当時の強力な植民地保有国に援助を求めました。 トルコ帝国は関心を示しませんでしたが、大英帝国は非常に関心を持ちました。 なぜなら、大英帝国は、東西に広がるアラブ世界の中央に殖民者を必要としたからです。 イギリスは、驚異である大国・エジプトを弱体化したいと考え、莫大な利益をもたらしたインドの植民地への通り道であるスエズ運河の支配も望みました。 その後、アメリカがそれを引き継ぎました。 彼らの関心は石油なので、石油の警察官が必要でした。 ですから、イスラエル建国は1944年から45年に始まったものではなく、もっと古いもので、それは植民地計画そのものでした。 当時、ヨーロッパの植民地主義の列強は、アフリカを菓子を切り分けるように分割していたことを思い出すべきです。 1885年のベルリンの会議で、イギリス、フランス、ポルトガル、ベルギー、ドイツが、アフリカをまるで菓子のように分割しました。 アフリカ人は、当然、そこには呼ばれていませんでした。 ですから、イスラエル建国のプランは、完全に植民地時代の出来事なのです。 イスラエルは、植民地計画だと言うべきです。 イスラエルを正当化する第二の神話は、 「しかし、ユダヤ人は、彼らの国に戻るに過ぎない。紀元70年にローマ人から追放されたのだから」というものです。 これも完全な神話です。 (神話に従うなら、神話に書かれたユダヤ人という証拠を示すべきである。) 私は、本を書くためにシュロモー サンドにインタビューしました。 私自身、イスラエルの考古学者や歴史学者に話を聞いた結果、全員が追放は存在しなかったと言っています。ですから帰還もないのです。 大まかに言えば、人々は、あの地にとどまったのです(イシューブ)。そこから移動しませんでした。 もちろん、侵入や移民や混血はありました。しかし、全体的に見て、人々は移動しませんでした。 そこから、二つの滑稽な結果が生じます。 第一の結果とは、イエス・キリストの時代のユダヤの子孫は、現在パレスチナに住んでいる人々だということです。 第二の結果は、それでも人々が国を出たと仮定して、帰還すると言っている人々は誰でしょうか? 実は、彼らはヨーロッバ東部や西部やマグレブ地域の改宗者です。彼らは、さまざまな時期に、さまざまな理由でユダヤ教に改宗しました。 そして、シュロモー・サンドが言っているように、ユダヤ民族というものは存在しません。 共通の歴史や、共通の言語、共通の文化は存在しません。 あるのは宗教だけです。しかし、宗教は民族ではありません。 キリスト民族やイスラム民族とは言いません。ですから、ユダヤ民族も存在しません。 第三の大きな神話とは、「でも、彼らがパレスチナ殖民のために移住したのは許せる。なぜなら、あそこは砂漠で人も住まず、空いている土地だったから」というものです。 これも、まったくの嘘です。 当時の証言があります。19世紀初期の人の言葉ですが、「パレスチナは麦の大洋だ」と。 作物の栽培が行われており、特にフランスに輸出されていました。油、石鹸、有名なジャファのオレンジなどです。 ですから、1920年から植民地のイギリス人、ついでユダヤ人がパレスチナに居住しようとしたとき、パレスチナの農民は土地を譲ることを拒否しました。 人々は反抗し、集団ストライキやデモが行われ、多くの死者が出ました。 パレスチナにはゲリラさえ存在していました。ですから、空いた土地どころではなかったのです。 すべてが占領者のイギリス人、ついでシオニストの残忍な弾圧によって打ち砕かれました。 それでも、「確かにパレスチナ人はいたけれど、彼らは自分から出て行った」と言う人がいるかもしれません。 これも嘘です。 私も長いこと、そのように信じており、皆、この説を信じました。これがイスラエルの公式の説だったのです。 ところが、あるとき、イスラエルの新歴史学者と呼ばれる人々、私がインタビューしたベニー・モリスやパッペなどが、「そうではない。パレスチナ人は暴力とテロ行為によって追放された。土地を空にする目的でパレスチナ人を強制退去させるための徹底的な作戦が存在した」と主張したのです。 ※ベニー・モリスが. パレスチナ人難民の発生原因を検証した際、アラブ側の報道調査からパレスチナ人の「自発退去」の事実が存在しなかったことを明らかにした。 ですから、これも完全な神話です。 以上は、歴史に関することです。イスラエルの歴史に関する嘘です。 私たちに隠されていることを理解することは非常に重要です。 (表示限界の文字数を超えるので、以下は、リンク先を参照してください。) ★ ★ ★ 自称ユダヤ人は、いますぐ、武器つくりをやめ、戦争に加担し、金儲けするのをやめるべきである。でないとニセモノであることがバレルだけである。
2014年07月30日
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前回からのカルマの話の続き。 ★ ★ ★ 人間はいつでも自由に、カルマの帳簿に新たな計算式を記入できる。だから、人生は人間の手では変えることのできない運命の法則に支配されていると思うべきでない。カルマの法則により自由が妨害されることはない。過去のカルマを考えるのと同様、未来のカルマを考えるべきである。 過去の行為の影響を受け、過去の奴隷ともいえるが、未来の主人、支配者でもある。より良い未来を創造しようと思うなら、可能な限り人生の帳簿に創造的な計算式を記入していかねばならない。(P97) 例えば、自分を商人としてみる。帳簿に貸借を記していき、沢山貸したり売ったりして儲けたら、黒字経営だが、浪費したり、借金を沢山抱えたら、そのままでは倒産してしまう。借金が沢山あっても、続けて借金すると、倒産が早まる。 不渡りをだす前に、なんとかしなければならない。その不渡りを出すかどうかは、今の自分次第で、不渡りを宿命的にとらえるのは正しい考えとはいえない。また、今黒字でも、ずっと続くとは限らない。帳簿を黒字にしつづけるには努力が必要になる。 過去の自分の行ないを赤字にするのも黒字にするのも自由であり、これからの自分をどうしていくのかもまた自由である。しかし、どのようにすれば、帳簿が黒字になるのかを知らなければ、黒字にする具体的な実践方法がわからなければ、せっかくの自由を生かすこともできない。 だからこそ、「カルマ論」が必要になる。自分が望む家を建てるには、それなりの設計が必要になる。設計図に基づいて具体的な建築を考えていく必要がある。そしてなにより実際に家を建てなければ、意味がない。つまり、実践なきカルマ論は無意味である。 また、そうしたカルマ論を更に展開することが必要である。 苦しんでいる人を見て、「彼はカルマから苦しむに値する。もし彼を助ければ、カルマに干渉する愚かなことを招く。つまり彼の貧困、不幸は前世からの結果で、もし彼を助ければ、彼のカルマの帳簿に新しい結果を書き加えてしまう。」などと考えるのは愚かである。 助けることで、苦しむ人を進化させることができる。例えば、千マルクないし、一万マルクを貸せば、破産寸前の商人を救えるのに、「いや、貸せば、あなたの帳簿が変わってしまう」というのは愚かである(ただし、その商人が気持ちを入れ替えれば、の話)。 カルマの法則は万能だと知り、苦しむ人をできるだけ助けるべきで、カルマの法則から、自らを救済行為へと駆り立てるべきである。(P98) この考え方は非常に重要である。カルマは、人を非難したり裁いたりする道具ではない。カルマは「愛」の思想に他ならないからである。 勿論、援助が、甘やかしになってはダメだが、愛は「キリスト意識」であり「大乗」の実践でもあるから、自分の未来へのプラスのカルマの実践になるのと同様に、助けた人の未来をつくるカルマに寄与できるという視点を忘れてはならない。シュタイナーの教育も、このようなカルマへの干渉を恐れないことを前提にしている。 自分が恵まれた境遇にいるなら、悲惨な境遇にいる人を助けることができる。援助を通して、助けた人の人生に新たなカルマの内容を記入すべきである。力があれば、一人だけでなく、二人も助け、二人のカルマに働きかけるべきである。もっと恵まれた有力な人は十人、百人の人を、非常に恵まれた偉大な人は無数の人を救済できる。 つまり援助は、カルマの法則に矛盾しない。カルマの法則を信頼することで、このような救済行為が人間の運命に関与することがわかる。(P98-99) (人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉「救済行為=カルマの法則」により生きる。) ここで大事な視点を忘れてはならない。救済行為は、救済者の宝物にもなる。ただ困っている人のために救うだけではない。それは、他者を助けることで、自分のカルマを解消することになるからである。 (情けは他人のためならず) そうした視点を持たないと、慈善に溺れかねない。「人のため、だけでなく、自分のためにもなる」という視点を忘れてはならない。 他者のカルマへの干渉という行為は、そうした利他即自利という愛があってはじめて意味をもつ。 お布施も同じで、ご利益を期待して、お布施をするのではなく、お布施をすることがそのままご利益になる、というのが本来の視点である。貧困に苦しむ托鉢は、物乞いではない。自らの贅沢や欲深を戒めるお布施は、感謝すべきで、お布施をすることで、助け合いの精神を根付かせるのが目的である。 (本当の救済とは、社会の底辺になって、底辺から改革することである。贅沢糞坊主は邪道である。御釈迦さんがなぜ出家してホームレスになったのか理解できていない。世の中の苦悩全てを引き受けたのである。修行を荒行と勘違いしているアホ坊主ばかりである。仏教が金儲けになっているから仏教など仏滅したほうがよい。) キリストが地上に下ったとき、人類は救済を必要としていた。救世主の十字架上での死は、無数の人々のカルマに関わる救済行為だった。キリスト教の秘教と人智学との間には矛盾は一つもない。両者を正しく理解することが大事で、カルマの法則と救済行為との間には深い一致が見られる。(P99) (キリストは、当時の人類の苦悩や苦痛を一身に背負う決意から、十字架刑にかかり死んだのである。本当のユダヤ人なら、世の中の苦悩や差別を一身に背負って死ぬべきであろう。一方の頬を打たれたら、もう一方の頬を差し出すべきである。ユダヤ人が差別にあっていたとき、他のユダヤ人は何をしていたのか? ) 「郵便ポストが赤いのも私のせい」という冗談がかつてあったが、まさに、どれだけのことを自分の責任ととらえるかで、その人の器がわかる。キリストは、全人類のことを自分の責任としてとらえたわけである。 (現代人は、逆にどうみても自分の責任なのに、無責任にも他者の責任にしている。政治家や官僚などがその典型である。詐欺師である。こういう詐欺師を出すのも我々国民の責任なのだが。) だから、明らかに自分の責任であるにもかかわらず、責任を回避するどころか、他者に責任をなすりつけるような人物の器は、推して知るべし、といえる。 「どれだけ自分の責任としてとらえられるか」で、自分の魂の成長度合いが理解できる。 ★ ★ ★ 国家財政が赤字なのは政治家や官僚の責任なのに国民のせいにするわけだから、小人ばかりが跋扈する世の中です。助けとなるべき宗教団体が節税したり税金逃れしているわけで、世の中地獄ですな。 出鱈目が多い勝海舟が、その書で「昔の人はなんでも自分の責任にしたが、今の人は、なんでも他人の責任にする」と嘆いていますが、幕末でこのザマですから、現代人は、器なんかなくなっていますな。 カルマの話は次に続ける。
2014年07月29日
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昨日だったかのテレビで、スマホ依存症で、自宅の電話番号や漢字等の簡単な記憶ができなくなっている人が増えているという話をやっていた。便利さの代わりに、人間が現実世界に対応できず、馬鹿になっていることを以前、警告したが、この話はそれを実証する。 スマホといえば、アップルコンピュータだが、アップルといえば、聖書ではアダムが悪魔に唆されて食べた知恵の実の象徴ともされているが、なにやら、人類の楽園追放(失楽園)を彷彿とさせる。 スマホを獲得したがゆえに、人類は現実界から逃避しつつあるようだ! さて、前回のシュタイナーの話の続きは以前紹介した偶然の話なので、以下を参照してほしい。 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201407180000/ そこで、改めて、シュタイナーのカルマの話を続ける。 ★ ★ ★ シュタイナーのカルマ論/カルマの開示」(高橋巌訳/春秋社) http://autosam.at.webry.info/201204/article_14.html 誕生から死までの人生を見通す意識は、脳の働きによって生み出されるが、死後は別の種類の意識が現われる。この意識は脳から独立し、本質的に別の条件下で現われてくる。 新しく生まれ変わる(転生)まで持続する、この意識は誕生から死までに経験した人生総てについて、一種の回想を行なう。 自分の総ての行為をみて、その行為が自分の魂に何を加え、何を生じさせたかをみる。 (略) 例えば、誰かに苦しみを与えたなら、その行為によって自分の価値は下がる。人に苦しみを与えたことで、それまでよりも値打ちがなくなり、不完全な存在になってしまう。 (略) その死後の回想から、「再び、転生の機会を得たら、 失った価値を取り戻すためにあらゆることをしよう」、「人に加えた苦しみに自分なりの決着をつけよう」と望む意志が生じる。 (略) そのような意志から人間は再びこの世に生まれる。 (略) 死後から誕生までの霊界は思い出せず、次の人生で、前世のカルマを償おうと意志したことも思い出せない。しかしこの意志は心の中に根づいている。 (略) 自分では意識していなくても、内部の力によって、償いとなる行為に駆り立てられる。(P17-18) こうした輪廻転生を通じ一貫している「自(霊)我」という観点からカルマという視点を持つことで、宿命ともいえる出来事が起こったときも、それは「自(霊)我」によって意図された結果と捉えることができる。 しかしそれだけでは消極的なものになる。「人生の出来事を結果論でなく、将来への原因と見ることで、感情を本質的に変えられる」ように、その「意図された結果」が新たな未来をつくる「原因」となるという視点を持つことが重要である。 「カルマ」は過去の清算のためにだけあるのではなく、カルマを通じて未来を創造していく原因と結果の法則であるとしてとらえることも必要である。 動物の場合、集合魂(群魂)だけが死を体験する。動物の集合魂にとっては、死は、人間が髪を切るのと似たような体験を意味する。髪はまたゆっくりと延びていく。動物(種族)の集合魂は、次第に伸びる爪を切るのと同じように、個々の動物の死を感じる。 動物の群魂は人間の自我に相当する。その魂は、誕生も死も知らない。むしろ誕生の前段階や死の後段階を感じる。動物の誕生と死を人間と同じように考えるのは、ナンセンスで、なぜなら、全く異なる原因から生じるからである。 表面上同じにみえる現象は、内面も同じ原因によって生じる、と安易に考えるなら、霊(精神)の内面的な動きを否定してしまう。表面上同じにみえても、内面は同じではない。 人間の誕生は、動物とは異なる原因によって生じ、同様に死も、動物とは異なる原因によって生じる。(P191-192) 後の内容は、以前紹介した以下の内容と同じ。 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201407160000/ ★ ★ ★ 続けて、「薔薇十字会の神智学」からカルマの話を紹介する。 ★ ★ ★ 人間は、死後、肉体を離れ、アストラル界を通過していく前に生前の記憶像が現われてくるが、そのとき、自分が外へと広がっていく感情を持つ。それは自分が送った人生のパノラマのようにみえる。そして、「この像の総てが私である」という感情を持ち、自分のエーテル体が拡大し、太陽までをも包み込んだような感じをもつ。 肉体は、地上のものだが、エーテル体は太陽のものだからである。 その後、エーテル体が捨てられると、宇宙の遥か彼方まで広がっていくような感情をもつが、それは宇宙空間の総てを自分が満たすというのではなく、自分のなかの部分部分が宇宙の様々な場所になっていくように感じる。このように、空間的な拡大感はあるものの、その空間を満たすのわけではない感覚が、自分をアストラル界に感じるときの特徴である。 そして、こうした感情は、人生を逆方向に誕生まで遡っていく欲界(カマロカ)期に起こり、その後、他の生命体総てと結合していく。 ここが重要である。 死者はまず、人生の最後をみとった他者の中に入っていくように感じ、その後、生前に関係を持った他者総て、また存在総ての中に入っていく。(P93) つまり、自分が相手(他者)に与えたものを、相手の身になって体験していく。 例えば、生前、誰かを殴ったとする。死後、その人に与えた痛みを自分が体験することになる。もし、自分の殴った相手がまだ殴った場所辺りに住んでいれば、死後、アストラル体の一部がその土地にいき、殴られた痛みを体験する。もし、殴られた相手がすでに死んでいれば、欲界の、その相手がいる領域にいく。 殴った相手だけでなく、地上、もしくは欲界の多くの人々に対して、死後に、このような体験をする。自分の身体がいわばバラバラになって、欲界のいたる領域にいき、生前の固体性を解消していく。生涯のなかで関係をもった他者総ての中に入り込み、相手に対しての行為を相手側から体験し、永続的な結びつきを作る。 自分が殴った相手と欲界で一緒に生きることを通して、その相手と結びつく。その後、神界へと上昇し、また再び欲界へと戻る。そして、新たなるアストラル体の形成に際し、欲界で一緒に生きた相手と築いた結びつきを見つけ出す。そのような結びつきは数多くあり、自分と関わりのあった総ての関係が網のように組み合わさる。(P93-94) 自分の感情を体験していれば済むのはこの世だけのことで、死後は、生前に自分と関係のあった総ての存在に与えたものを、相手の側から全て体験する。 自分が苦痛を与えた相手、悲しませた相手、苦しめた相手、いじめた相手・・・そんな総ての相手の感情などを、その相手自身になって体験する。 勿論、上記に挙げたマイナス面だけでなく、プラス面についても相手の体験として味わうから、極めて公正といえる。 だから、自分が日々生きていく中で、相手の痛みを自分の痛みとして感じられるかどうか、というのが魂の能力から重要であることがわかる。相手の痛みがわかれば、無闇に自分のエゴを相手に振りかざすことは非常に難しくなる。 しかし、また厳しさも愛であるように、ただ過保護などで相手を甘やかすのでは、自分も甘やかされることになるので、相手がどれだけ自立して生きられるか、という視点から、「相手に何を与えるか」という観点をとらえていくことが重要に思われる。 (モノを与えるのではなく、相手の魂の成長に必要なものを与える。相手の魂を腐敗させてしまえば、自分も腐敗する。) さて、続いて、カルマと外的な遺伝の関係についても説明する。 例えば、J.S.バッハを挙げる。バッハの家系には、250年の間に29人の音楽家が生まれているが、優れた音楽家になるには、「内面の音楽的才能」だけではダメで、「ある特殊な形の耳」が必要となる。こうした聴覚器官の形が遺伝していく。音楽的才能の持ち主が受肉するときには、それに相応しい音楽的な耳をもつ家系に生まれる。音楽的才能に相応しい肉体器官がなければ、才能は発揮できない。 数学的才能も耳のなかの三半規管の特別な発達が必要とされる。それから、これも興味深い話だが、「道徳」にもそれに適した肉体が必要で、遺伝を通して伝えてくれる両親を必要とする。道徳家は、そうした両親を探し出す。 ★ ★ ★ しばらくはカルマの話を続ける。
2014年07月28日
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前回は、病因と悪魔についてのシュタイナーの話を紹介したが、今度は更に深く、治療の意味を述べた話を紹介する。現代医療の盲点と闇をついた話である。なぜ病気と患者は増え続けるのか、の理由を明らかにしてくれる話である。 ★ ★ ★ 第4講-3 治る病気、治らない病気と医療の意味 前回は病因となるルツィフェルとアーリマンの影響について述べたが、病気になるのは、そうした影響に対抗するための「高次の自我」の働きかけで、人間は病気になることでルツィフェルとアーリマンの誘惑に完全に陥ってしまう危険性から守られる、ということだった。 この悪魔の話については「悪の秘儀」(イザラ書房)の第2章の「キリストの行為と、キリストに敵対するルシファー(ルツィフェル)、アーリマン、アスラの霊力について」に、具体的に書かれているので、紹介する。 まず、ルシファーの影響への対抗手段としての病気について。 人間が完全に感覚(物質)界の関心や欲望の虜にならなかったのは、何によるのか。 それは、人間を進化させようとする霊たちが、ルシファーたちに対抗する手段を講じたためである。これらの霊たちは、元々含まれてなかった能力を人間に与えることで、ルシファーへの対抗手段とした。 つまり人間を進化させようとする霊たちは、人間の中に病気や、悩みや、痛みを与えた。このことが、ルシファーのような悪魔たちの行為に対して必要なバランスの回復(自然治癒)力を与えた。 (人間は痛い思いをしてみないと改めようとしないからである。例えば、アホ経営者や政治家なんか不祥事を起こしても、謝れば済むとでも思っている。犠牲者に対しての償いをしない限りカルマを背負う。そもそも謝って済むなら人生などなんの学びもなく無意味になってしまう。犠牲者の無言の叫びを聞き、もっと真剣に生きてほしい。) ルシファーのような悪魔たちは、人間に感覚的な欲望を与えた。これに対抗して、高次の霊たちは、人間が感覚界に無制限に落ち込まないように、ある種の対抗手段を与えた。つまり高次の霊たちは、感覚的な欲望や関心に病気や苦しみが伴うようにした。 その結果、この世には、物質、もしくは感覚界に向けられた関心と同じ数の苦痛や苦悩が存在するようになった。感覚界への関心と欲望に付随する苦痛や苦悩は、それと完全に均衡を保つ能力を与えてくれる。(前掲書P62-63) (従来の糞坊主は苦や老を悪だと決めつけているが、お釈迦さんがそんな浅薄なことをいうわけがなく、苦や老こそ人間の精神を鍛える道具なんである。執着心を断ち切り、六道の欲深地獄を脱するために苦や老がある。糞坊主は死が無というが、それなら墓や戒名など必要なかろう。糞坊主は地獄行きだ!) 更に、アーリマンの影響への対抗手段としての「カルマ」について。 人類を進化させようとする霊たちは、感覚界に関するアーリマン的な誤謬から流れ込んでくる非道徳(無秩序)性を修復(秩序づけ)しなければならなかったので、人間に「カルマを与えることで、自身が犯した誤ち総てを再び取り除き、自身が引き起こした悪総てを改善する可能性」を与えた。 (中略) もし罪(欲望をもつという原罪)や誤謬に対立する諸力として、カルマが作用しなければ、人間の目標である神々の存在に到達することは不可能になる。(前掲書P65-66) このことから、カルマがいかに人間にとっての「恵み」であるか、ということが明らかになる。 カルマとは、人間が恐れ、慄くものなのか。そうではない。カルマとは、宇宙の人類進化計画に沿って、人間に与えられた感謝すべき能力なのである。 (カルマの清算のために、人生がある。人生とは、人間が神に到達するための宿題のようなものである。) (中略) もしカルマがなかったら、人生の歩みにおいて、霊的に進化することは不可能になる(神になれない)。(前掲書P66-67) その意味で、病気やカルマは「人生の力強い教育者」である。 さて、再度「カルマの開示」に戻る。いま、病因となるルシファーの影響とカルマの原因となるアーリマンの影響とに分けて説明したが、「カルマの開示」では、特にそうした区別をしていなかった。 いまのテーマは、治療できるかできないか、だった。以前、病因となるカルマを考察しながら、病気になるのは、人間が誤謬に対抗し、より完全な進化を遂げていくための「恵み」でもあることを述べた。 では、このような観点から見た治療とはどういう意味を持つのか。 例えば、ある病気について、「カルマで病死がわかっているなら、もはや治療する意味がない」といえるのか、という疑問が生じる。この疑問について、シュタイナーは、カルマについての考え方が間違っている、と明確に述べている。治る治らないを決めるのは、患者の「高次の自我」であり、通常の覚醒意識からは判断できない。 第一に治療の意味とは、病気が治療可能かどうかというより、治療に際し、患者が治癒力をどれだけ獲得できるかにある。その意味で、医療は、病気を克服しようとする患者を、できるかぎり支援するのが大前提になる。そして、治療可能かどうか、死に至るのかどうかは、治療を行う者も、患者本人も、判断できない。 (患者が病気を糧にしてどれだけ治癒力を獲得できるかが問題で、ヨガの沖正弘によれば、1.患者を治してみせて治せることを明らかにし、2.元の病気に戻し、3.患者自身で治させる、のがよいと著書で述べている。しかし、1はヨガの達人でなければできないので、病因を説明し、患者に、段階を追って、治癒力をつけさせるしかない。) 生きるか死ぬかの決断は、当人の自我に委ねなければならない。医療は、ただできるだけ患者本人の回復力を促すしかない。(P87) 勿論、「当人の自我」というのは、患者の通常の覚醒意識ではなく、カルマに従い必要な行動を促し、輪廻転生に通じた「自我」なので、本人の覚醒意識が死を望むかどうかに委ねることではない。 (できる限り延命処置を行うに越したことはない。) 患者の自己治癒力を発達できるとき、もしくは自然の力をかりて治癒力が高められるときには、協力して全力で行う必要がある。生死の瀬戸際に立つ患者に対しては、治療に全力を尽くさなければならない。そうすれば、患者の自我を助けることになる。医療とはそのような手助けなのである。(P86) 病気が治る、治らないについて、カルマを理解し、病人の看護に全力で臨むべきである。そうするなら、高次の自我が、死の決断をしたときにも、この決断に満足できるだろう。「死の決断」について、もはや何も臨むものはない。 重要なのは、不治の病に遭遇したときでも、不完全なものしかこの世には存在しない(だからこそ、完全を目指して、病気になる)という事実に配慮し、気を滅入らせない(ポジティヴな)観点をもつことである。 カルマを理解することで、治療への努力を無駄にしないばかりか、むしろ、様々な不治の病がもたらすどんなに厳しい運命をも受け入れられるように最善を尽くすべきである。(P87) さて、その際に重要なことを、更に少し付け加える。これは、「病気になる、というカルマの目的が、人間をより完全な存在にすること」から考慮すべき問題である。「治療に全力を尽くす」必要性と同時に、患者がなぜ自分が病気になったのか、という事実を自覚していく必要がある。 (患者の自我自身で、病因をみつけ出さなければまた同じ失敗を繰り返すからダメ。) つまり、病気の「治療」のみが目的とされてはならない。 治癒の最も大きな意義は病気を治すことにあるのではなく、患者の意識を真理に目覚めさせ、患者が自然の摂理に合った生き方をするように変わることで、この地上により多くの調和をもたらすことができる点にある(大和魂をもつこと)。 仮に病気が治ったとしても、本人がまた、今まで通りの自然の摂理に反する生き方を続けるようなら、せっかくのチャンスを逃したことになるから、治療家は単に病気を治すことに止まらず、患者に対して自然の摂理を理解させるような、カウンセリングを適切に行なうことが非常に重要な仕事になる。 (だから病院に行って治してもらったんじゃダメで、「自分で」治したでなくてはダメ。依存心が膨らみ、他力本願じゃ麻薬と同じで落第である。) 実際の治療の経験では、患者は病気が治れば、気持ちを改め、今度こそ自然の理に叶った愛と奉仕の生き方をしたい、という必死の思いでやってくるが、この気持ちは決して嘘ではないが、例えば、どの医者からも見放された病気が奇蹟的に治るといったようなことで、いったんは大感激して喜ぶものの、日が経つにつれ、また以前の病気を招いた不調和な生活に戻り、物質的な欲望に溺れ、利己的な行為を繰り返すようになって行く人達があまりにも多い、ということも現実である。(P296) (患者を客とみて商売する愚かな病院も多い。銭儲けが仕事になってしまい、精神を腐敗させるだけ。麻薬を拡げるのと同じ。) このことは、なんだか宗教的な「心の教え」のようにとられがちだが、例えば、対症療法にもいえる。熱が出たから熱を下げるという治療なども、なぜ発熱が必要なのか、という観点が考慮されないでただ症状をおさえることだけを目的とした場合、病気に対する根本的なアプローチとして適切とは言いがたい。 (単なる薬づけ患者を生むだけ) 宗教的な「心の教え」というかたちをとる場合にしても、それが「教えだから」という決まりの押しつけではなく、自らの認識から、その必要性を納得しなければ、対症療法となんら変わりはない。 そういう意味でも、「治療に全力を尽くす」というのは非常に難しい問題を含むが、この困難さを含んだ医療でなければ、現在のような医療システムの問題や臓器移植の問題などといった根本的な問題は解決に向かわないことが、この講義からも伺える。 (人間の魂は腐敗しすぎている。世間に出回っているキリスト教は金儲けばかりで、嘘しか教えない。) さて、次の第5講は、「内因性の疾病と偶発性の疾病のカルマ的意味」。通常の病気だけでなく、偶然のように見える事故や外傷なども「偶発性の疾病」としてとらえ、そのカルマ的意味を述べる。 ★ ★ ★ 単純にいえば、欲望と非道徳が増える限り、病気と患者も増えるわけである。対処療法は病気を複雑化させるだけである。病気になるのは間違った生き方をしてきたのである。生き方を改めない限り無駄である。 人類はどんどん馬鹿になり、魂は腐敗し、地獄になっている。外見は健常にみえるが、魂が病んでいるクレイマーや自分に求める力を他者に求めるモンスターが増えたのがその証である。
2014年07月24日
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前回は、シュタイナーの病気とカルマの関係の話を紹介したが、今回は、悪魔との関係を続けて紹介する。悪魔と病気が関係しているというと現代ではトンデモの御笑い種にされるだろうが、笑うものは笑われることになる。 ではシュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ 第4講-2 病因としてのルツィフェルとアーリマン さて、病気になるのは「自分の中の不完全な態度や不正行為を精算し、自分をより完全にしよう」とするために、「高次の理性(自我)」が導いたものといえるが、ではなぜ人間は病気になるべき「不完全な態度や不正行為」というような病因をつくってしまうのか。 これについては、ルツィフェルとアーリマンの影響を考慮しないといけない。 ルツィフェルについては、以前触れたように、地球の進化の月紀の時代に進化を停滞させた高次の霊だが、人間の自我が働くようになる以前、そのルツィフェルが、人間のアストラル体に影響するようになった。 人間は、ルツィフェルの働きを内部に担うことで、その影響がなかったときよりも、悪へと誘う誘惑者を内部に担うようになり、激情や情熱や欲望から判断し行動するようになった。この影響により、人間の自我は、以前よりも一層「欲望の世界」に埋没するようになり、遥かに深く、地上の物質界に引き込まれるようになった。人間はルツィフェルの影響を受け、肉体の中、深く入っていき、肉体と自分とを同一視するようになった。(P79) ルツィフェルの影響によって外への感性(物質)界の誘惑が生じ、人間はこの誘惑の虜となってしまった結果、自我から形成された人間の個性にも、ルツィフェルの影響がすみずみにまで及ぶようになった。 人間は地上に受肉するようになって以来、ルツィフェルの誘惑下にあり、その誘惑を、転生を通して、後の人生にまでもち込んだ。こうしてルツィフェルの誘惑下にあることが、「人間のカルマ」の本質の一部となった。(P79) ここで注意が必要なのは、この「ルツィフェルの誘惑」とは両義的で、その「誘惑」により人間は「自由」の可能性を手に入れた。 もし人間に自由がなかったら、人間ははじめから「善」そのもので、「不完全な態度や不正行為」が生じる余地もなく、そうした病因をつくらなければ病気になることもなかった。 ルツィフェルの誘惑は人間を「悪」へと誘うもので、もしその影響がなかったら人間は「悪」の可能性を持ち得ず、例えば、病気になることで、自分をより完全にしようという「自由」さえも持ち得なかった。 さて、影響はルツィフェルだけではない。ルツィフェルが人間に影響を与えることで、人間の外界、つまり周囲の世界の観方に「曇り」が生じ、その「曇り」の中で、アーリマンが活動をはじめた。アーリマンの活動によって、外界はいわば「幻想世界」と化してしまった。 世界はマーヤー(幻)である、といわれるが、世界がマーヤーなのではなく、人間の世界の観方にアーリマンが関与し、「幻想世界」のように人間が知覚してしまう。 今でもなお通常の覚醒意識は、ルツィフェルとアーリマンの誘惑に曝されている。ルツィフェルは人間の内なるアストラル体に埋め込んだ情熱や激情から働きかけ、アーリマンは外界についての誤謬や錯覚を通して、外から人間に働きかけている。(P80-81) そのルツィフェルとアーリマンの誘惑が、人間に病気を生じさせる。ルツィフェルは人間のアストラル体に働きかけるので、アストラル体を通して病気(炎症性)を生じさせ、アーリマンはエーテル体を通して病気(腫瘍性)を生じさせる。 しかし病気を生じさせるといっても、病因をつくるだけで、病気になるのは「高次の自我」の働きによる、ということに注意が必要である。病気になるのは、ルツィフェルとアーリマンの誘惑に対抗することで、もし病気にならなければ、人間はその誘惑のままに堕落していき、「自我を完全」にするのを放棄することになってしまう。 アーリマン的な誤謬-これには嘘や不実などの意識的な不正も含まれるが-により生じる病気は、一生のうちに限ったものでなく、転生の中でも生じる。ルツィフェルの影響もまた同じで、犯した誤謬は、必ずいつかは罰せられるようになっている。 その罰は、通常の自我よりも高次の自我により下されるが、それは死から新しい誕生までの(霊界にいる)時期に、悪魔の誘惑に対抗する力を、人間に与えるためにある。だから、その結果である病気は、人生の力強い教育者として働く。 (病気から学ぶことが大切) 病気をこのように考察するなら、病気の発生にルツィフェルかアーリマンの影響が働いていたことに気づく。この事実が理解できれば、患者の肉体についての治療者の影響力は、遥かに強くなるだろう。(P82) 病気は「人生についての厳格な教育者」であるという事実を深く洞察すべきである。 また、治療に際し、こうしたルツィフェルやアーリマンの影響の洞察が重要になる。ルツィフェルの影響による病気とアーリマンの影響による病気とでは異なる治療が必要となる。 例えば、肺炎は、患者がカマロカ期に過度な官能生活を回顧し、反省した結果、その官能生活に対抗する力を組み込むために、生じる。つまり、肺炎は、ルツィフェルの影響で生じる。 対照的に、肺結核はアーリマンの影響で生じる。肺結核は、治癒の過程で、石灰・塩分を含む物質が全体を固く囲んでしまうが、これはアーリマンに対抗するためである。 アーリマン原則とルツィフェル原則の二つは、病気の中でこのように働いているので、病気はアーリマン的かルツィフェル的かいずれかの類型に区別できる。この違いが区別できれば、適切な形で患者に協力できる。ルツィフェル的疾病はアーリマン的疾病とは全く異なる治療が求められる。 ルツィフェル的疾病に対しては、電気を利用した治療を行なうべきでない。電気はアーリマン的疾病に対して有効である。ルツィフェル的疾病の場合、電気などの非ルツィフェル的なものを治療で用いてはならず、というのも、電気はアーリマンの支配領域のものだからである。 ルツィフェルの支配領域は、大ざっぱに言えば、熱の寒暖差と関係がある。人体自ら、または外の影響で発熱したり、熱が下がったりする場合は、常にルツィフェルの領域に属する。熱さと寒さに関する熱の分野では、ルツィフェル的疾病がみつかる。(P83-84) ★ ★ ★ 病気は最高の教師というわけである。
2014年07月24日
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マレーシア航空事件で八切史観との絡みもあり脱線してしまったが、シュタイナーのカルマの話に戻して続ける。 ★ ★ ★ ●魂の治癒力について 魂が全力で霊(意識)と向き合うなら、ある複雑な方法から、肉体での自己治癒を、魂の力から呼び起こすことができる。 ただその場合、病気と直接結びつく肉体の器官について魂が考えないようにしないといけない。(…) これが健康への積極的な忘却力である。この事実から、前世の過失が病気となって現われるカルマの作用に対して、必ずしも無力ではないことに気づかされる。(…) だから、次のような疑問が生じる。「魂のこれまでの体験によるカルマの結果として、魂を教育するために病気に罹患するのなら、その代わりに、その教育に相当する霊認識(霊能力)を獲得することで、病気を回避できないのか?」 人間の努力で、病気を、霊認識獲得の経過へと変化させ、病気による自我の教育ではなく、いわば魂の能力による自我の教育を行なうことも可能なはずである。 (P98-99) この「魂の治癒力」というテーマはカルマの作用について積極的に取り組むという意味でもとても重要なもので、「病気を霊認識獲得の経過へと変化させる」ための「自己教育」を試みることが、予防医学的な観点からも大きな効果を挙げることが期待できる。 (病気の背後にある精神的な問題。光や愛の不足などである。積極的な奉仕活動をすることで病気を治癒できる。) とはいえ、それには人智学的な認識が必要になり、それは、ルツィフェルやアーリマンによる影響から自由になるべく努力することでもあるので、大きな困難が横たわっている。 そういう意味でも、まず「偶然」という認識の欠如などを含む世界観の上で、各自がコペルニクス的転回を果たさなければならない、という現代的な使命がある。 ルドルフシュタイナー カルマの開示4 http://autosam.at.webry.info/201210/article_4.html 第4講-1 病気の原因と治療の意味 第3講は「カルマにおける健康と病気」がテーマだったが、まず植物と動物、そして人間での病因の違いという観点から出発し、人間が、輪廻転生する「自我」をもつがゆえに、「個人的な動機から外界と関わる」ことで、病気がアストラル体にイメージを与え、そのアストラル体がエーテル体に影響し、更に肉体にも影響する、という話だった。 更に、人間がこの世で考えたこと、感じたこと、行なったこと総てが、死後、「強烈な意識」へと変化し、それが次の転生、またその次の転生という風に再受肉する肉体に影響を及ぼすこと。また個人の生活経験からの影響は、「意識したイメージ」として持てる場合と、無意識なままにとどまる場合とでは異なり、無意識に受け取ったイメージは「深く肉体の中にまで影響を及ぼす」ので、特に生まれてからしばらくの間の教育の責任について言及された。 さて、今回のテーマは「治療」で、前回の「病気」から更に掘り下げられている。「治療」とはどういうことなのか。また、カルマ的な観点から(根本的な)「治療」は果たして可能なのか、不可能なのかが、検討される。ここで問題にされている「(根本的な)治療ははたして可能なのか」という疑問は、治療法の発見というような現在の医療の可能性と限界についてではなく、病気とは何故生じるのか、という疑問からのものである。 シュタイナーはまず、16、7世紀の頃から19世紀まで続いた「いかなる病気にも明確な病名をつけることができ、どんな病気もしかるべき薬草とその調合により必ず治療できる」という立場、いわゆる「薬信仰」があり、その正反対の立場として、「ニヒリズム派」、つまり、その代表的人物のスコーダ教授の次のような発言「恐らく病気を診断し、記述し、説明はできるが、治療はできない」に基づく立場の二つの極端な考え方があることから第4講を始めている。 では、その「ニヒリズム派」の立場での「待機療法」という考えはどういうものなのか。 ディートルは、当時非常に説得力をもっていた統計学を採り入れた一人だったが、その統計学によれば、彼が導入した「待機療法」を受けた肺炎患者と、従来の医療を受けた肺炎患者とを比べると、全快数も死亡数も同じだった。 ディートルが創始し、スコーダがさらに引き継いだこの待機療法では、自己回復力が最も力を発揮できるような生活環境に患者をおく。そして医者の役割は、主として病気の経過を見守り、回復力に異常が生じたときに、人間味のある適切な援助を与えるだけなのである。 患者の自己回復力が期待できるような処置をして、熱が下がり、人体による自己回復が達成されるまで待つ、というのが待機療法なのである。(P73) この考え方をシュタイナーが紹介しているのは、「発病とその後の病状を左右するものは、人間の手の及ばないところにある」ということの示唆のためだが、それは「カルマの法則と人生への影響」に関係づけて考えなければならない、ということを意味している。 そこで、シュタイナーは以下のように問いかける。 人生の深部に働く法則については、前世にその原因を求めるべきなのかが、当面の問題である。ある場合には自己回復力が生じ、また別の場合にはどんなに努力しても、全治できないように予め定められているのなら、それは生まれつき定まっているのではないのか。(P74-75) ある場合に治療でき、別の場合にはできない、ということが単純に予め決まっているなら、結局のところ、「ニヒリズム派」と同じ「(人為的な)治療は不可能である」という立場になってしまうが、そんなに単純ではない。 まず、単純に根本的な治療が不可能である、というのではなく、なぜ病気になるのか、なるべきだったのか、ということと同様に、治療の意味を深く洞察すべきで、更に、前世で病因が形成されたということなら、その病因の結果としての病気という現象に対して何らかの形で働きかけることで、病因を克服する機会がまさにいまこの世において与えられている、ということがわかる。治療が、現在の(前世のカルマを解消する)機会と深く関係するという点を見ていく必要がある。 さて、ここで、あらためて病因となるのは何かについて述べなければならない。 人間は自我、アストラル体、エーテル体が肉体から離れることで死を迎えるが、その際、エーテル体のエッセンスだけは残り、再受肉の際に新たなエーテル体に注ぎ込まれる。つまり、前世の「成果」がエーテル体に込められている。エーテル体は肉体の制作者でもあるから、その「成果」に応じた肉体を得る。 以前述べたように、死から新しい誕生までの間に、人間は特別な力を自分の個性の中に取り込む。カマロカ期に前世での善い行為と悪い行為、性格上の特徴などを直観して、自分の中の不完全な態度や不正な行為を精算し、自分をより完全にしようとする。 (人間の魂は既に神の意識をもち、死後、その神の意識と照らし合わせ不足分を次の転生にカルマとして持ち込む。) 人間はそのような意図と傾向をもって、新しい誕生を迎える。新しい人生のために形成される新しい肉体は、死から新しい誕生までの時期に獲得された(道徳)力に応じた形を示すので、その力が弱いか強いかで、肉体も弱かったり強かったりする。(P75) ここで重要なのは、前世で生じた課題とでもいえる病因を、死から新たな誕生までの「カマロカ期」において直観し、新たに生まれてきたときに、その課題を克服しようとする、ということである。そしてそれにふさわしい「力」をもって新たに生まれてくる。 (つまり、自然治癒力は既に身に着けて生まれている。) ここでシュタイナーは、自我が弱く、鍛え上げようとする場合と逆に、自我があまりに強く、調和的に発達させようとする場合を例として述べる。 (以前紹介した話の繰り返しになるが…) まず、前者について(日本人に多い)。 前世であまりに自我が弱かったため、現在の意識段階に相応しくないほど外に対して依存的で、自己を見失い、他者の命じるままに行動する場合(日本人に多い)、死後、このような人がカマロカ期に、この不十分な自己に由来する行動を回顧したなら、次のような意図をもつはずである。 「自我をもっと発達させよう。来世では、生まれ変わった肉体を通して、自我を鍛え上げよう。そのためには、肉体、エーテル体、アストラル体から来る力に対して、自我が十分に対応できるようになる機会を作らなければならない。肉体に特別な症状を生じさせ、弱い自我に働きかけ、それを克服する機会にしなければならない」。 とはいえ、この意図は意識されず、無意識なままに留まる。しかし、その人は無意識なその意図に従って、自我を最大限に緊張させ、大きな負担をかけるような人生を生きようとする。そのように、まるで磁力にでも引き寄せられるように、大きな障害の原因となる場所や機会に引き寄せられる。(P76-77) こうした自我が弱く依存的で自己を見失ってしまうような人は、それを克服するために、例えば、「コレラ」に罹る機会さえも得ようとする。コレラに罹ることで、それに対抗するエーテル体、アストラル体の抵抗が、自我を育てることにつながるからである。 (だから、日本人の多くは、来世はコレラなどの伝染病に罹りやすい環境に生まれる。) また、後者の場合について(偽ユダヤ人に多い)。 前世で、あまりに強い自我の下に一連の行動をとってきた人の場合(偽ユダヤ人に多い)、死後、カマロカ期に、自己をほどよく緩和し、調和的にしなければならないと悟る。そこで生まれ変わってきたときには、どうやっても自己の感情に歯止めがきかず、自己破壊的(破滅的)な性格を思い知るような機会を、肉体、エーテル体、アストラル体の三つの体を通して体験しようとするために、マラリヤなどに罹る。(P77) (だから、偽ユダヤ人の多くは、マラリヤなどの伝染病に罹りやすい環境に生まれる。) また、怒り、恐怖、嫌悪などの激情に駆られて行動した人は、そのカルマを解消するためにジフテリアという病気に罹る。 このように、カルマ的な病気の例として、コレラ、マラリア、ジフテリアがとりあげられるが、こうした伝染病とされる病気の意味やそれに罹り克服することの意味について認識を深めなければならない。 そこには、通常の覚醒意識が担う理性よりも更に高次の無(潜在)意識の道徳性によって、魂を更に発展させていく過程が示されている。この点をよく考えれば、伝染病に対する理解がひらけてくる。人間はカマロカ期の経験から、特定の病気に罹ることを選び、その病気を克服し、自己回復力(自然治癒力)を発達させることで、人生をよりよく生きようとする。(P78) ★ ★ ★ 覚醒意識には光の叡智、つまり理(道)性が必要で、潜在意識には愛の叡智、つまり徳性が必要である。魂の浄化には、光の道性と、愛の徳性が必須なのである。それらが欠けていると警告の意味で病気として現れる。次回に続く。
2014年07月23日
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マレーシア航空事件は、人類を地上に縛り付けるドル体制悪魔の仕業と明らかになりつつあるので、まとめとして、以下にお馴染みのサイトから抜粋紹介する。 ★ ★ ★ マレーシア航空機MH17便の撃墜事件について(まとめ) http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140722/1405998730#seeall ロイター通信によると、 なんと!マレーシア航空機MH17便の撃墜に、ロシアが関与していたんだとかw マレーシア機の撃墜、米国務長官「ロシア関与示す膨大な証拠」 [ワシントン 20日 ロイター] - ケリー米国務長官は20日、ウクライナ東部でマレーシア航空機が撃墜されたことについて、ロケット発射装置や戦車などが数週間前にロシアからウクライナに入っていたとし、ロシアの武器供与への関与を示す証拠が多数あると非難した。 ケリー長官は、米当局が、ロシア製SA11地対空ミサイルの親ロシア分離派勢力への移送に関する会話を傍受したほか、ロケットが少なくとも1発なくなっているミサイル発射装置がロシアに戻るのを撮影した動画を確認したと指摘。「ロシアが武器供与に関与したことを示す膨大な量の証拠がある」とCBSの番組で述べた。 NBSの番組では、ロシアが同勢力を支援し、訓練を提供していることは明白だとコメント。また国際調査団の現場へのアクセスが制限されており、「酔った分離派が遺体をトラックに積み重ね、現場から移動させている」とし、遺体の扱いが「グロテスク」だと非難した。 http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0FQ03J20140721 このブログを読んでる皆さんは、とっくにご承知かと思いますが、国際情勢のパワーバランスで、圧倒的に優勢なロシアが、テロを起こす必要なんか全くないですよね? って言うよりも、旅客機を撃墜するという卑劣な手口を見た瞬間、もっと言ってしまえば、テロとか撃墜とかいう言葉を聞いた瞬間、多くの方は「また、米国がやりやがった?」と思った方も多いのではないでしょうか? という事で、記事を整理していくと・・・ まず、ロイター通信! こちらは、ユダヤ系ドイツ人のポール・ジュリアス・ロイターが設立したした通信会社。 で、そのロイターが、ユダヤ系アメリカ人のケリー国務長官の、MH17便の撃墜にロシアが関与している発言を報道している訳ですね。 ついでに、調査団を妨害して、ロシアが何かを隠そうとしてると、喚き立ててる、オバマ大統領もユダヤ人です! ▼2013年9月20日の人工地震とユダヤ金融勢力の衰弱 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130920/1379670534 ▼最近のアメリカ合衆国大統領は、ユダヤ人? http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20111028/1319809026 っと、こんな感じで見ていくと、またまた米国のユダ公達が、悪事をしでかして、ネットワークを駆使して必死でロシアに罪をなすりつけるといういつもの構図が見えてきますよね? ではでは、ユダヤ米国はどうして、マレーシア航空機MH17便を撃墜したのでしょうか? マレーシア機撃墜事件が起こったのは、17日。 17日の大きなニュースと言えば・・・ BRICS開銀、調印 「基軸通貨ドル」に挑戦 産経新聞 7月17日(木)7時55分配信 【上海=河崎真澄、ロサンゼルス=中村将】BRICS首脳会議で決まった「新開発銀行」の設置は、世界銀行や国際通貨基金(IMF)が主導する国際金融の枠組みである「ブレトンウッズ体制」への挑戦を意味する。上海で5月に開かれた「アジア信頼醸成措置会議(CICA)」の場で、中国やロシアが掲げた安全保障における日米欧への対抗軸が、経済面にも拡大することになる。 世銀やIMFは戦後、貧困国や金融危機に陥った国への資金支援を通じ、世界経済を安定させる役割を果たしてきた。一方、近年の経済成長が著しい中国など新興国の間では、欧米の発言権との格差が埋まらないことに不満も募っていた。 12日付の中国共産党機関紙、人民日報は、首脳会談に関する記事に米ドル札が燃えるイラストを添えた。ドルが世界の基軸通貨となっている国際金融秩序に対する新興国の共闘態勢を暗示したものだ。 本部を上海に置く「新開発銀行」は、世界第2の経済大国で、世界一の外貨準備高を誇る中国が主導権を握るものとみられる。 中国は、人民元の自由化と国際化を「上海自由貿易試験区」で昨年から試行している。この流れを受け、新開発銀行が人民元建て債券を発行し、新興国や途上国が人民元建てで融資を受けることも予想され、ドル離れを加速化させる戦略が活発化する可能性もある。 だが、中国は南シナ海などの領有権問題で、ロシアはウクライナの問題で、ともに厳しい国際環境に置かれている。支援を受ける国に、こうした事情が何らかの形で影響することも考えられる。経済支援や融資の条件に政治問題が色濃く反映されるとなれば、円滑な運営は期待できない。中国やロシア、インドの足並みの乱れも懸念材料だ。 中国はBRICSとは別に、自らを最大出資国とする新たな国際金融機関、アジアインフラ投資銀行(AIIB)の創設も提唱しており、日本が総裁ポストを握るアジア開発銀行(ADB、本部マニラ)への対抗心をちらつかせている。 http://www.freezepage.com/1405996352PRHPXPVZXO およよー? なんと、ロシアと中国が基軸通貨であるドルに挑戦したそうです! これが上手く回ったら、米国は確実に破綻してしまいますねー。 ▼米国デフォルトの先延ばしと米ドルという通貨 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131017/1381971028 ▼露中の自国通貨での貿易とドル体制 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140704/1404444421 ▼露中に引き続き中韓もドル決済拒否! http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140705/1404539191 ▼ドイツ、フランス、ルクセンブルクがドル決済抜きの対中貿易協定! http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140709/1404884274 うわっ!このままだと、ヤバイですよね? そんな時、米国民を騙して支配しているユダヤ金融勢力が取る手段は、そう、いつものようにテロしかないですよね? ▼米国の政府機関停止とテロの関係 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131001/1380599863 って事で、ユダヤ米国が裏で糸を引いて、マレーシア航空機を撃墜し、ロシアに罪をなすり付ける! そして、調査団を派遣して、急いで証拠隠滅をはかろとしているのですが、それをロシアに妨害されてキレている!のが現在の状況といった感じでしょうか。 でも、どうして、テロの標的にマレーシア航空機を選んだのでしょうか? じつは、プーチン大統領の乗った航空機が、MH17便とほぼ同時刻に同じ航路を飛んでいたんだとか。 しかも、機体が良く似ているようですね。 ▼ウクライナのユダヤテロリストどもは、プーチン氏搭乗機と間違えてMH17便を撃墜したのか? http://richardkoshimizu.at.webry.info/201407/article_98.html という事で、ロシア航空機MH17便撃墜事件をまとめると・・・ プーチンを旗頭とするBRICSは、米国の石油&ドル体制に挑戦した。 ↓ これに腹を立てた、米国の金融ユダヤ勢力は、プーチン大統領の搭乗機撃墜を計画し、罪をロシアになすり付けて、ロシアの国際的な信用も失墜させようとした。 ↓ プーチン氏の搭乗機と誤って、マレーシア航空MH17便を撃墜 ↓ プーチン氏の搭乗機撃墜は失敗したが、とりあえずロシアに罪をなすり付けている 追記: 追って、色々証拠が出て来たようです! それによると、プーチン大統領の暗殺未遂で、MH17便を撃墜したのではなく、先に、米軍が拿捕したMH370便を処理したという情報が有力になっています。 ▼マレーシア航空機MH370便不明事件のまとめ http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140401/1396315550 ▼マレーシア航空便撃墜事件:偽旗作戦を示す証拠の数々 http://richardkoshimizu.at.webry.info/201407/article_115.html つまり! プーチンを旗頭とするBRICSは、米国の石油&ドル体制に挑戦した。 ↓ これに腹を立てた、米国の金融ユダヤ勢力は、プーチン大統領とロシアの国際的信用失墜を狙った ↓ 先に拿捕したMH370便の機体と犠牲者を使い偽旗作戦を敢行 ↓ マスコミ部隊を使いロシアに罪をなすり付けている ★ ★ ★ つづいて、 ★ ★ ★ ネトウヨよ、ウクライナの土となれ! http://my.shadowcity.jp/2014/07/post-5288.html ウクライナのマレーシア機撃墜で、アメリカが日本に強力しろ、と言ってきたというんだが、日本は関係ないのにw まぁ、アメリカの「工作」を支持しろ、という事だろう。イスラエルのモサドなのか、アメリカのCIAなのか知らんが、ウクライナと示し合って、マレーシア機を「撃たれそうな航路」に誘導し、親ロシア派の中に潜り込んだ西側のスパイが勝手にミサイル撃って撃墜した、というのが現実なんだが、それをプーチンの責任にしようというのがアメリカの猿芝居で、例によって捏造証拠で大騒ぎしているわけです。まぁ、ウクライナは遠いので、深入りしないほうがいいよw 米 マレーシア機撃墜原因究明で日本に協力を ウクライナ東部でマレーシア航空の旅客機が撃墜された事件を受けて、アメリカ、ホワイトハウスの高官は、日本に対しても原因究明のための国際的な調査に協力するよう求めました。 それによりますと、会談でメデイロス部長はウクライナ東部でマレーシア航空の旅客機が撃墜された事件を受けて、「日本政府も、国際社会が透明性を確保した調査を行う必要があると声をあげてほしい」と述べました。 そのうえで日本に対し、原因究明のための国際的な調査に専門家を派遣することも含め、協力を求めました。 ネトウヨよ、ウクライナの土となれ! とか、書き飽きたしw それとも「友達が殴られたら仕返しに行く」理論で、CIAが肩入れしているウクライナの敵、プーチンを殴りに行かされるんですか? 集団的自衛権だもんねw ★ ★ ★ 自称ユダヤの偽ユダヤたちに、日本も舐められたもんである。この際はっきりと、奴らが偽物で、MI6とモサドとCIAのドル支配体制悪魔の仕業といったらいいのでは? 人類のわずか1%だけが富を略奪するシステムは破綻させますと宣言したらいい。下僕の日本よりも、騙しの英国のような両建ての奴らを問題とすべきだろう。ロス茶のような両方に賭けてる奴が一番悪いのだから。
2014年07月22日
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八切史観によると、日本は古くから奴隷国家であったことがわかる。そのため、日本には奴隷根性が蔓延っていて、神を語る偽物に騙されている人々が多いのに気づかされる。 例えば、いまでも、ほんの数年前に腹痛で政権を投げ出した軟弱者のアホが不正選挙で政権を私服化し戦争屋ドル支配悪魔に加担して日本人を奴隷の如く海外派兵しようとしているのは悪い冗談だろう。 また日刊ゲンダイによると、シロアリ退治といいながら、政権とった途端にシロアリに組みして平気で嘘をついた元馬鹿デブ総理連中が道徳教育を押し進めているというから、この国の中枢は腐りきっている。 まずは隗よりはじめよ、とあるように、本人たちの不正を正すことが先決であろう。手前たちの糞も始末できないくせに、他者にチョッカイだす資格などない。余計なお世話で、他者を巻き込むな。 こういうアホバカたちが、まずは自分の行いを正すことが先決なんである。人間失格である。 さて、こういうアホたちが一刻も早く改心することを願うので、以前紹介したのだが、ついでに八切史観による「アホ」の歴史から、阿呆の意味を紹介する。 ★ ★ ★ 八切止夫の日本史 http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1785681.html 白村江の戦い(663年)で敗れた日本原住民(すなわち平家系と源氏系)の国家は、進駐してきた支那軍(藤原政権)とそれにへつらって支配階級に帰順した百済系(南朝鮮系。のちに大和朝廷で貴族化する)によって支配されることになった。 白村江の戦いの時期はざっくり言って大化の改新のころである。 支那人(藤原氏)と百済系朝鮮人は、貴族階級を形成し荘園制度の下、のちに平家系の庶民となる住民を仏教に帰順させるとともに農耕漁業などの一次産業に従事させる。それ以外の源氏系と平家系で帰順しない(仏教徒にならない抵抗勢力)は、囲い地(今日言うところの被差別部落)に押し込め、出てこられなくした。天皇はお飾りである。 藤原政権は被差別のものを、「五色の賎」と称して「綾戸、雑戸、家人、公奴婢。私奴婢」の5つに分けていた。 こちらの政策は歴史に隠されてしまい、天皇の権威化だけが日本史の主流であるかに偽装された。 平安末期に平清盛が代表する平家一族(和歌山あたりに漂着したマレーシア方面からの民族)が一時藤原氏にとって替わって隆盛を誇るのだが、これを旧来の(伊豆に分布していた)平家=北条家が、馬をつかった機動力に優れた源氏(源頼朝や義経)を利用して壇ノ浦で撃破し、再び南方へ追いやるのである。 壇ノ浦で敗れた平家はいわゆる「平家の落人」にはならず、船でほとんどは南方へ逃げ帰った。 北条平家は首尾よく源氏をつかって天下を取ると、ただちに源氏一族(義経、頼朝の子、梶原氏などの武将)を滅ぼしてしまう。源氏一族は使い捨てだった。 そうやって北条氏は平家系の民族をいったんは平安時代の藤原氏の抑圧から解放するが、一方で源氏系を再び弾圧し、これを囲い地に押し込める。これら源氏がいわゆる「平家の落人伝説」となる。 時は流れて鎌倉幕府(北条平家政権)の末期、元寇によって平家は権力が弱まるとともに、後醍醐帝という権力亡者の少しおかしな天皇によってガタガタにされ、鎌倉幕府は滅びてしまい、南北朝時代となる。 後醍醐帝は天皇家だから武力を持たないので、兵力として囲い地に追いやられた源氏系の連中を使う。結局、このときは北朝が勝って、南朝は逼塞させられるのだが、この後醍醐に仕え南朝を支えたのが囲い地(被差別部落)にいた源氏系または山中に隠れていた原住民だった。楠木正成はこの一党である。 北朝が勝って足利時代になると南朝方になった地方の者はみんな反体制とされて被差別の人間にされた。これらを再び「除地」と称する囲い地に押し込めた。同時に北条政権側だった平家系の者も再び平安時代のように差別扱いされ、農奴に戻されたのだ。 ここで歴史を区切って、この平安朝から南北朝あたりにかけて、日本の人口の約6~7割は王朝時代(藤原時代)と足利時代に農奴にされた農奴であり、山中に逃げ込んで反仏教で抵抗した源氏系などを入れると約85%が被差別人というか非支配階級とされたのである。人間扱いされなかった。 この連中=庶民のうち、美しい娘や働き者は妾や娼婦に取り立てられ、また男で丈夫で働くものは囲い地から出されて下人にされた。百姓や漁師にさせられたのである。この連中を称して支配階級は「阿呆」と蔑称した、と八切止夫は説く。 平家系庶民は「八」とも呼ばれ、また「天の民」あるいは「天(あま)」からとって「あ」の民とも呼ばれた。その「あ」だから「あほう」なのである。旗印から「赤」でもあった。 同じ阿呆と分類された庶民でも、源氏系は馬や牛、つまり運搬業に関わるため「馬鹿」と蔑称されることになっていく。だから、馬や鹿は4つ足なので、源氏系を「四」と呼んだ。「四谷」などの地名は「四つの民」が居たところである。旗印から「白」である。 こうして見てくると、アホは西日本で多くつかわれ、バカは東日本で多くつかわれる理由が、大雑把には西日本には平家系が多く、東日本は源氏系が多いから、という推測がなりたつのかと思われる。 この差別、被差別体制が壊れるのは、織田信長や秀吉、家康といった戦乱の中から登場し、被差別人から成り上がった武将による。信長、秀吉、家康は、いずれもいわゆる被差別部落から脱出して武将になった者で、美濃、尾張、三河、駿河といった地域から登場している。 (家康は、松平元康とは別人だが、なりかわって三河を治めた。) この地域がまたかなり特殊な地域で、昔から平家系(南方系)の一大集落があったところであって、中央権力から大きな囲い地とされていた処なのである。 「他外(たわけ)」の地区である。ここから奇しくも信長、秀吉、家康が出て天下統一を実現させた。彼らは大きく言えば、部落解放に立ち上がった英雄であった。つまり「他外」による叛乱である。 では徳川政権が熱心に部落解放をしたかというと、そうでもない。取って代わっただけである。とくに5代将軍綱吉あたりから、徳川家は家康の正当な家系(赤、平家系)が消えてしまい、済州島から来た朝鮮人によって徳川家が乗っ取られてしまう。それが八切止夫の説である。 尾張徳川家は、徳川家のなかで最高の家格とされながら、ついに将軍を出せなかったのは、朝鮮系でなかったためではなかろうか。徳川家でありながら、尾張だけが阿呆の系統だったから、いわば名義だけ残すために尾張が存続したのではないだろうか。 仏教寺院は庶民の、農奴や被差別の民に等しい庶民の把握のために今日で言う戸籍を管理していた。そしてどの農奴の男と女を結ばせて子を得るかの指図を坊主がやった。庶民や農奴は当人の意志で自由に結婚なんかできなかった。 それが江戸期を通じて徐々になし崩し的に壊れていき、明治維新で(フリーメーソンの策謀はあったにせよ)庶民の解放が一気になされる。 江戸期のなし崩し的解放とは、8代将軍吉宗時代から始まった、当時の大都会、江戸、名古屋、京都、大阪への人口集中現象であった。吉宗は「五街道目付」に命じて、主要街道の庶民の出入りなどの監視を(経費節約を名目に)庶民自身に担当させることにした。庶民の中の、旅芸人や旅商人として許可した者(囲い地から特別に出ることを許された者)に、公認の朱鞘の刀(武士は黒鞘)と捕縛を持たせた。 庶民に「お上御用」を担わせて、人件費をかけない監視体制を取ろうとした。「分割して統治する」であったが、これはまったくのアイデア倒れで徳川政権からすれば大失敗、庶民からすれば天佑となった。 庶民から監視役を抜擢したために、これはチャンスとこの(仲間の)朱鞘の者=監視人に渡りをつけて、被差別部落ないし農奴とされた仲間たちが次から次に囲い地や農地から脱出して、博多、京阪、名古屋、江戸へと大移動を始めてしまった。銭で「町人別」を購入して、都会で商人や職人になっていった。だから大江戸は当時世界一の100万人都市になった。 一方で警察の前身がこの「朱鞘」の木っ端役人だったから、もともと「囲い地」の出身であり、ゆえにヤクザと親戚だし、平気で税金を裏金に貯えることを集団でやらかすのだ。 勝手に自由になった彼らが町人文化を花開かせる。勝手に囲い地から脱出したのだから、いわゆる政治的に国なり体制なりが身分保障しているわけでもなく、戸籍で証明されているわけでもない、いわばみんな脱獄囚のようなものだった。明治維新になって日本の人口を調査したら、予想の倍も実際は人がいて、明治政府は驚愕した。とても全国民を喰わせられないと踏んで政府は海外移民という棄民政策を実施する。 海外に売り払ってしまえと提言したのは福沢諭吉なのだ。諭吉も侍だったから、庶民がそもそも元は囲い地からの脱走者だったことを知っていたからだろう。囲い地の人間の命など鴻毛より軽かった。 (学問のススメを書いて学のない者を欧米にあらずと差別した。) 海外棄民の一例が「からゆきさん」である。そうやって庶民を大量に海外に捨てたので、運搬した商船会社は大儲けし、その海運会社の大株主だった天皇家も巨大な蓄財をなした。 (後の従軍慰安婦) 庶民のほうもお互いさまだから、人権などなく、よって明治以降の軍隊では周知のように、内務班は陰惨なイジメの場となった。海軍では軍艦の下働きにされた庶民(水兵)には便所もろくに設置されなかった。庶民にまがりなりのも仲間意識が芽生えたのは、軍隊とか学校教育とか対外戦争とか、新聞の洗脳であったのだろう。そうやってやっと多民族国家が「単一民族国家」に出来上がっていった。 徳川政権は庶民のための警察機構は作ろうとはしなかった。お上に反抗するものは取り締まったが、庶民同士の争い事には知らん顔である。「大岡裁き」など絵空事である。庶民同士の争いに国家が介入するようになったのは、西郷隆盛が実質的首相のときに実現した。 西郷が庶民を救って自由にした。明治天皇は西郷を好きだったそうだが、それは彼=大室寅之介が本当の明治天皇の成り済ましだったから、自らの出身が「囲い地」のゆえに苦労を知っていたからではなかったか。 部落は、必ずしも南朝方、あるいは騎馬民族系=源氏系の者ではないが、一応彼ら「白山信仰」の者、源氏の「白」と世間では決め付けていたので、その者らを「しろうと」=「素人」と呼び、仏教系の体制側についた者を「黒うと」=「玄人」と称するようになった。 玄人とは「黒」すなわち仏教徒坊主の衣(墨染めの衣)の意味である、しょせん、素人(白=源氏=反仏教)は、体制である仏教徒=玄人にかなわないということ意味だ、とされているのだが、これは本来的には間違いだと八切止夫は言う。 玄人とは、「玄の人」つまり原人=日本土着原住民(最初から日本人)のこと、最初からの日本人のことだと彼はいう。それが仏教を持ち込んだ支那系の仏教徒の意味に変えられたのは、明らかに作為だと八切止夫はいう。 何が作為かというと、これによって、被差別部落(囲い地=除地)は帰化人のたまり場なのだという間違った知識を植え付けることになったからである。今でももしかすると、同和の先祖は帰化人なのだと思われている人がいるかもしれないが、それは仏教坊主が意図的に悪意で広めたウソだと八切止夫は言うのである。 ★ ★ ★ いまも体制が古代中国から米国にかわっただけの奴隷根性なのである。奴隷根性を捨てるべきときなのでは。
2014年07月22日
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マレーシア航空事件の背後に何があるのかといえば、ドル体制崩壊を阻止したい戦争屋の目論見があることがネットでは定説となっている。ドル体制の切り札がTPPだったようで、あまりに見え透いた詐欺だったので、TPP詐欺をどうかわすかがマレーシアで密かに話し合われたそうである。 散々欧米に騙されて植民地として搾取されたきたアジア人はもう白人の嘘には騙されないということなのだろう。特に名誉白人などと手先になっている日本人には警戒が必要なのと、プライドが高く口の軽い日本人は情報をもらうのには好都合のアホと思われているようだ。アホ総理をみればバレバレである。 さて、マレーシアを調べていくと、以下のような面白い話をみつける。 ☆ ☆ ☆ ★2013年8月6日中国の王毅外相がマレーシア、ラオス、ベトナム訪問を訪問して話したこととは、欧米経済が崩壊したらアジアで基金を作って協力していこうということ。 ☆ ☆ ☆ どうやら、アジア基金をつくられては、ドル体制崩壊につながるので、白人たちが戦争や紛争を誘発して邪魔しているようであるが、邪魔すればするほど、連中の策略がバレバレになり、真相が明らかになってくる。 アジア諸国の領海を荒らすことで、仲違いさせるのが目的なんであろう。 しかし、この偽装工作は、偽物たちが、自ら偽物ですよ、と言いふらしているようなものである。 さて、偽物が狙うのが本物という鉄則から考えると、偽ユダヤが狙うマレーシアが本物のユダヤなのかと思われる。八切史観から以前そのような面白い話を紹介したが、再度紹介する。 ☆ ☆ ☆ 日本人の85%が四つと八つ 四つ:騎馬民族系(源氏)、馬の足の数。八つ:古代海人族(平氏)でマレーシア(”ヤ”バン)に送られたスメラ(シュメール)出身の奴隷が逃亡したもの。今でも日本をヤパァンとかヤァバン、ヤバーナと発音する国は多い。遊郭は源氏系の限定職種。今でも源氏名と言う。八つは食糧作りがメインだが、商人も。出身を明示する意味で「ヤ」を付けて○○屋と今でも言う。商売の神様・お稲荷さんは”夷也”と差別されていたものの当て字。 ☆ ☆ ☆ 上は八切史観だが、八で「ユダヤ」を古代ヘブライ語で発音すると、「やだー」「やうーだ」となるらしい。意味は、「知れ」、「偲べ」、「親しめ」、「感謝・感恩」などであるという。 ヘブライ語での「や」はヤハウエのことらしく、八咫の鏡の八咫は、「やだー」の、ユダヤのことで、ヤハウエの鏡という意味かもしれない。 ヤハウエは、「エヘイエ アシェル エヘイエ(私は人間を存在させている意識「叡智」の源である)」とモーセにシナイ山で語ったように、古代人が崇めていた太陽神のことである。 シュタイナーによると、古代人は、霊能力により、太陽のなかに神を観れたようで、つまり太陽のなかの神界から命令をうけていたという。その命令集が宗教となったが、人類が悪魔に唆され、神の命令に背いて地上に下降(受肉)してしまったので、太陽神自らが、地上に下降する必要が生まれ、それを預言としてゾロアスター(黄金の光、星;アスターはアストラルの意味)が地上にもたらし、預言通りに太陽神がキリストとして地上に受肉し、地上のエーテルと一体化したという。 つまり、ヤハウエ(外の太陽神)=キリスト(内の太陽神)ということである。それは、太陽神が愛と光からなることの証だという。人間は太陽光がなければ生きられない。食物などは、太陽光の恩恵で生長しているわけで、いわば分光である。つまり、人間は神の言葉=太陽光により生きるのである。 さて、ユダヤ人とは、古くは秘儀参入者たちを意味した者たちで、霊能力を持ち続けた民族といえ、そのため、同族婚が原則だったようで、それでも時代の流れに逆らえずに、霊能力とともに古代の叡智を失っていったが、ヤハウエがキリストであることを伝える民族であるようだ。 さて、以前にも紹介したが、Y染色体アダム説でいうところのハプログループDが、ユダヤ人と関係あるのではないかと思わせる。以下は、ウイキの解説である。 ★ ★ ★ ハプログループD2 (Y染色体) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93) ハプログループD2 (Y染色体)(ハプログループD2 (Yせんしょくたい)、英: Haplogroup D2 (Y chromosome))とは、分子生物学・人類遺伝学で用いられる、人類のY染色体ハプログループ(型集団)の分類のうち、ハプログループDのサブクレードの一つで、「M55」の子孫の系統である。3万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられ、現在日本人の3割ないし4割[2]がこのハプログループに属している。2014年5月23日、ISOGGの系統樹が更新されたことにより、本項目で語られている内容の名称は国際的にはハプログループD1bと改訂されている。 概略 ハプログループD1bは、日本列島でのみ見られ、日本で誕生してから少なくとも3万年は経過していると考えられる。他のハプログループDのサブクレード(ヤオ族のD1a、チベットD1c)、ベンガル湾に面したアンダマン諸島のジャラワ族・オンゲ族に見られるDとは数万年の隔絶がある。日本近海ではフィリピンのマクタン島でD2系統が見つかっているほか、グアム島でも島民の17%にD系統が見つかっている。また、ハプログループDと同じくYAPと言われる痕跡を持つハプログループEは、南ヨーロッパ、中東、アフリカなどでよく見られる。 起源 アフリカ大陸のビクトリア湖の北東部を縦断するアフリカ大地溝で、現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生した後、Y染色体アダムが生まれ、サハラ砂漠以南へ移動したハプログループAやBの系統と、他の系統、つまりサハラ砂漠以南へ移動しなかった、いわゆるユーラシアン・アダムの子孫たちを含むグループとに人類は分化していった。後者の中から一塩基多型の変異(いわゆるYAPと言われる痕跡)が約6万年前頃にアフリカ大陸の北東部(現在のスーダンからエチオピア高原の辺り)において生じた。これがハプログループDとハプログループEの親グループである、ハプログループDEである。 出アフリカ以降 北方経由説 アリゾナ大学のマイケル・F・ハマーは「縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団で、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着し、日本でD1bが誕生した」とする説を唱えた。 (ツラン民族? 日本の四つの源氏?) 南方経由説 また、ジェノグラフィック・プロジェクトのリーダー研究者であるスペンサー・ウェルズ博士は「6万年前に移動を始め、そして沿岸地域を通り、インドから東南アジア・フィリピン沿岸を通って3万 - 4万年前に日本にたどり着いた」とする説を唱えている。 (ユダヤの日本の八つの平氏?) ハプログループの分岐 ハプログループDEからハプログループDが別れ、アフリカの角と呼ばれる地域から、ホモ・サピエンスとしては初めて紅海を渡ってアフリカを脱出しアラビア半島の南端から海岸沿いに東北に進み、さらにインドの沿海部を通って現在のベンガル州あたりに滞留し、そこから北部に向かった集団がのちにチベット人となったハプログループD1a、およびハプログループD1cである。 別の集団は海洋をスンダランド(マレー半島、ボルネオ島などが陸続きとなった一塊)へ南下した。スンダランドを南下した集団は、東南アジアを海岸沿いに東北に進み、長江沿岸辺りから、台湾、沖縄を島づたいに北上するルートか、もしくは長江沿岸辺りから海流に乗って日本列島の九州西岸に上陸するルートを通って、約3万年前に日本列島に到達した。 日本到達以降 当時無人の日本列島に到達したハプログループD1系統は、海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。東南アジアから長江下流域を通って弥生人が日本列島にやってくるまでの約2万7,000年間に、日本列島においてハプログループD1の中からハプログループD1bが誕生したと考えられる。彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、陸稲を栽培し主に浅瀬で漁をして生活をしていたと考えられる。 ★ ★ ★ というように、日本の名はマレーシア(”ヤ”バン)にあり、古くはシュメールにあるようだ。平(たいら)がトーラー(トラ)に似ているように、海洋民族の四つの平氏はユダヤと関係しているようである。 さて、四つだが、以下の八切史観を知ると日の丸の赤丸の意味で、赤い鳥居(トーラー)とモーセを意味しているようで興味深い。以下はウイキの日ユ同祖論から抜粋。 ★ ★ ★ 赤い(朱塗りの)鳥居 トリイ(鳥居)は、ヘブライ語アラム方言で門という意味であり、神社のトリイは過越の前にヒソプで羊の血を塗った門を意味すると主張される「トリイの起源については、インドの仏舎利塔の前に建てられたトラーナとする説や中国の陵墓の前に建てられた華表とする説などもある」。「久保『神道の中のユダヤ文化』では、門はヘブル・アラム語で「タラア」とされている。」 ★ ★ ★ というように本物のユダヤ人が現れてくるのかもしれない。そのユダヤ人はゴルゴダの秘跡を熟知し霊能者でなければおかしい。
2014年07月22日
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この国のダマスゴミは嘘情報を流すという鉄則を知っていれば、マレーシア航空事故の話は偽ユダヤの戦争屋たちが仕組んだことはバレバレなんである。 その裏取りのためにネット検索すると、いち早くロシアの責任と表明した米国が撃墜計画に絡んでいることもよくわかるので、お馴染みのサイトから以下紹介する。 ☆ ☆ ☆ マレーシア機撃墜はユダヤの陰謀 http://my.shadowcity.jp/2014/07/post-5267.html 誰が書いていたか忘れたが、イスラエルの諜報機関がやった仕事だという説が、当初から出ていた。イスラエルには、ロシアから帰国したユダヤ人がたくさんいるわけで、そういうロシア製兵器の扱いに慣れた工作員を密かに送り込んで、対空ミサイルをかっぱらって撃ったという話なんだが、実際、マレーシア機墜落のドサクサに紛れてイスラエルはガザ侵攻しているわけだ。マスコミはユダヤが押さえているし、こういう情報操作にかけては、ユダヤCIAは平気で嘘を垂れ流すので信用ならない。 ウクライナ軍迎撃レーダー作動=マレーシア機誤爆を示唆-ロシア国防省 ロシア国防省は18日、ウクライナ東部ドネツク州に墜落したマレーシア航空機が当時、ウクライナ軍の対空ミサイル「S200」「ブクM1」の射程圏内を飛行していたと発表した。ブクM1の追跡迎撃レーダーが作動したのをロシアのレーダーが感知していたという。 親ロシア派が主張するウクライナ軍による「誤爆」説を補強した形だ。 それにしてもいい迷惑なのはマレーシア航空で、立て続けに怪しい陰謀論に巻き込まれて2機も墜落させられたんじゃ、会社が潰れちゃいますw ☆ ☆ ☆ また、あるサイトでは、以下のように米国絡みだという話である。 ☆ ☆ ☆ ★2014年7月17日ウクライナでのマレーシア航空墜落事故は、ウクライナ軍が米国の軍産複合体の命令で撃墜した。マレーシア航空機に見せかけた軍用機でロシアのせいにして戦争を起こそうとしている。 ☆ ☆ ☆ というように、偽ユダヤと米軍戦争屋の手口はもはや見透かされている。コールマンの書籍によると、これにMI6が絡んでいるといつもの謀略お馴染みメンバーになる。というのも謀略の裏側には必ず英王室とバチカンが絡んでいるせいだという。 コールマンによるとケネディ暗殺はMI6の仕業だという。コールマン自身がMI6にいたらしいから確実といえる。ケネディは、米国を英王室やバチカンから独立させようとしたらしい。 以下のサイトはマレーシア航空事件が詳細に触れられているので、転載するのが難儀なので、直接参照してくだされ。 ☆ ☆ ☆ [Benjamin Fulfordからのメッセージ他]「マレーシア航空17便の撃墜」と「ガザ攻撃」の真相 https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=70743 ☆ ☆ ☆ 世界支配層といわれる人類の裏切者の連中が戦争で金儲けしないように人類は細心の注意を払って見張らないといけない。 しかしマレーシアばかり狙われるのも不思議で、マレーシアは偽ユダヤ人から強請られているのかもしれない。だとすると、本当のユダヤ人はマレーシア人かもしれない。
2014年07月22日
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ドイツを誉めたのがよくなかったのか?、ドイツ選手が祝賀会で差別問題を起こしていたそうである。人間というのは気が緩むと悪魔の誘惑に負け、すぐに天狗になるから始末に負えないものである。サッカーで世界一になったからといって、なんでも世界一になったわけではないことを肝に銘じてほしいものである。 あくまでサッカーという専門分野に限っての話なのである。厳格で定評のあるドイツ人でさえこうなのだから、曖昧さで有名な日本人など、なんでもかんでも、世界一といいたがるのは現代人が馬鹿になった証拠なのかもしれない。 そもそも、「馬鹿」とは、馬と鹿の見分けがつかない故事から生まれた言葉だという、騎馬民族にとっては大事な馬を鹿と間違えたら、生活していけないわけである。 さて、前回は、妄想について紹介したが、妄想と現実の区別がつかない人々が増えているように思われる。特に、集団的自衛妄想などはその典型で、この妄想は恐怖心が根底にあり、敵と味方の見分けがつかないことを前提にしているから妄想なんである。 一般人がこのような妄想を述べたりしたら、現代科学では精神病と診断されるはずなのだが、現代の唯物科学は権力に弱いのか、権力者には適用しないらしい。政治家は皆馬鹿になったといえる。 さて、馬鹿は死ななきゃ治らない、というからほっておくしかないので、馬鹿をみて賢くなるために、続けてシュタイナーのカルマの話を紹介する。 ☆ ☆ ☆ ルドルフシュタイナー カルマの開示3 http://autosam.at.webry.info/201210/article_3.html この第5講の内容は、第4講の「治る病気と治らない病気」の内容を再確認しているところがかなりたくさんあり、後は、その内容に基づきながら、第6講の「カルマから見た事故や災害」というテーマを展開するにあたっての土台についての講義になっている。 第4講は、病気に罹ることのカルマの意味は、人間をより完全にすることで、病気はむしろ「恵み」としてとらえなければならないこと、だからこそ「治療に全力を尽くす」必要があると同時に、物質的処置でただ痛みを除くことを目的とするのではなく、病気に罹ることで、克服すべきものが何であるのか(主に性格など)、ということに注意すべき、ということだった。 また、病因としてのルツィフェルとアーリマンについても言及され、その影響を洞察することの必要性とまたその影響に対抗するために神々が「恵み」として「病気」を与えている、ということも示唆された。 さて、この第5講では、そうした第4講での内容を受けながら、「偶発性の疾病」や更にいえば事故や災害といったような「偶然」とされているものについての基本認識が提示される。 「偶然」という言葉は、わからないことをわからないままに放置するためにはとても好都合な言葉で、認識の欠如という現実が隠蔽されてしまう。事故などでの病気はもちろんのこと、ウィルス感染とされる病気も、更にいえば「災害」なども全て「偶然」という言葉で片付けられる。 最近では「偶然の一致」について、ユングの「シンクロニシティ」という用語が使われたり、この用語が使われたからといって、認識が深まったわけではなく、むしろその神秘性だけがクローズアップされることが多い。 さて、では問題提起する。 「外(物質)的な病因が特定できる疾病と、人体内に病因が潜んでいる疾病とをどうやって区別できるか」。 なんの外的な切欠なしに、自ずから生じる病気が確かにある。人体内に病因が内在している場合である。対照的に、外的な病因を特定できる病気もある。例えば、足の骨折などである。都会の悪環境下で生じる多くの病気も同様である。 今日の医学は病因を外的な要素に、特にバクテリア(ウイルス)に求めている。これまでも病気や健康の外的な要素について語られてきたが、現代人の語り口は認識を根本から混乱させるだけである。 例えば、これまで健康だった人が、流感やジフテリアなどが流行している土地へ行って感染したなら、現代人は、病原菌に感染したせい、と考える。「たまたま」とか「偶然」とかいう言葉も使い、「たまたま、うつされた」というわけである。 この「偶然」という言葉は、厄介である。安易に「偶然」で片付けてよいのかどうか、深く考えない限りは、満足のいく観点を手に入れることは不可能となる。(P102) シュタイナーは例えば、「歴史の中での偶然」とされている次のような例を挙げている。 望遠鏡は眼鏡工房で子供たちがたまたまレンズで遊んでいたことから発明され、ピサの大聖堂の教会ランプの規則的な往復運動を見たガリレオはその振り子運動と自分の脈拍との関係を調べ振り子の法則を偶然発見し、ルターはエアフルトのアウグスト会修道院の旧友と一緒に「たまたま」語り合い、神学博士の帽子を手に入れるように説得されたのがきっかけで聖書翻訳につながった、というのだが、「歴史的な意味」を「偶然の出来事」とするのはあまりにも安易で、「偶然」という言葉で片づけるのはどうかと思われる。 「偶然」は、いわゆる自然法則や生命法則では説明できないこと、と考えられている。「偶然」は、説明可能な範囲から逸脱したものとされている。 この「偶然」の真横に、この世での人間の理性は、ルツィフェル原則とアーリマン原則の両方の支配を受けている、という事実を並べてみる必要がある。この悪魔の両原則は絶えず人間に働きかけている。 ルツィフェルの力は、人間のアストラル体の内部に作用し、アーリマンの力は、人間が周囲から受け取る外(物質)的なイメージを通して作用する。人間が外界から受け取る中にはアーリマンの力が働き、快、不快、激情などのように魂の中から立ち現われる感情の中には、ルツィフェルの力が働いている。(P105) 例えば、「なぜそうしたのか、そうしなければならなかったのか」というような行為について、自分であれこれと「理由」をつけたがる。魂の深いところにある意志から行った場合でも、自分にとって都合の良い動機にしてしまうこともあり、「意図」などなく「偶然」と思い込むこともある。 フロイトは、このような覚醒(顕在)意識上での単純な「理由」に異議を申し立て、魂の奥深くの潜在意識に「性欲」という動機があったと考えた。「建前」などは全て「性欲」という「本音」が変形し顕れたものとした。 しかしこのような一般論を提示するのには無理がある。そもそもフロイトの性欲理論も性欲に由来することになってしまうからである。 シュタイナーは、このような事例について、「ルツィフェルは人間の魂の営みをマーヤーに変え、本当に内面で働いているものとは別の全く異なる「本音」を幻として見せる」と述べている。 還元主義的な心理分析などの危険性はルツィフェルの誘惑である。シュタイナーには「精神分析批判」とでもいえる講義があり、詳しくはその講義を参照してほしい。また、アーリマンの影響についてシュタイナーは次のように述べている。 アーリマンは人間の知覚の中に外から侵入してくる。「考えてもしかたない。考えがまるで糸玉のようにもつれ、こんがらがってしまったからだ」と感じるとき、すでにアーリマンが強力に働きかけている。そのようなとき、アーリマン原則は外界の裂け目のようなところから、人間の知覚の中へと押し入る。 アーリマンに侵入されると、考えることをやめてしまい、理性と洞察力で現象を把握しようとはしなくなる。そして、「偶然」が思考の中に居すわってしまう。「偶然」が居すわるところで、アーリマンはもっとも危険な存在になる。 人間がアーリマンによって安易に騙されてしまうような現象を「偶然」と呼ぶ。(P108) このように自らの思い込みで、自分の行動の動機を安易なところに求めたり、また心理分析による還元主義的な「本音」に騙されたり、逆に認識への努力を放棄することで「偶然」という幻を手に入れてしまう。 だから、内因性の疾病にせよ、偶発性の疾病にせよ、また偶然とされる事故や災害、歴史上の偶然にせよ、それをカルマに基づいて正しく認識しなければならない。 いくら「偶然」について語っても、事象の本質に迫ることはできない。人間は自己教育によって、幻想を打破できるようになるべきである。言いかえれば、アーリマンが力強く働くところで、理性的に事象の本質を追究しなければならない。 病因について考察するときこそ、まさにそのような理性が求められる。ある人が鉄道で旅をし、列車事故で死んでしまった場合、あるいはまた、ある人が外から病原菌に感染してしまった場合、どうしてそうなったのかを理解しようとしなければならない。 研ぎ澄まされた認識力で事象を追求すれば、人生にとっての病気と健康の本質、人生全体にとっての意味が、深く把握できるようになる。 さて、第5講の基本的なテーマについて紹介してきたが、第4講との関係で「慢性疾患」、「魂の治癒力」について興味深い内容があったので補足する。 慢性疾患について 慢性疾患とは、ある意味では(肉体的には)病気が既に克服されているのだが、別の意味では(精神的には)、まだ克服されてはいないような状態で、治癒が中途半端にしか進んでいない状態である。換言すれば、エーテル体と肉体との関係は完全に調整されたが、エーテル体とアストラル体の間の不調和が調整されていないため、回復と不治との間を行ったり来たりする。 その状態から脱するには、回復した組織部位を健全に保ち、まだ無秩序に蠢いている部位を、魂の内的な働きと結びつかないようにしておくことである。そうすれば、大きな効果をあげられるだろう。 しかし、無秩序な部位がそれとは反対の働きをし、妨害する。病気が慢性化した場合、患者は絶えず、この中途半端な状態の影響下に生きる。この半ば病的な状態を根本的に忘れることができないため、健康な部位を、この不健全な状態から引き離すことができず、「病的な状態ばかり考える」ことで、健康な部位をも病的な部位に引き込み、回復部を新たに刺激してしまう。 アストラル体を興奮させると、健康であったはずの部位にも非常な悪影響が及ぶ。アストラル体の興奮は、意識的ではなく、潜在的に魂を興奮させているので、当人は、この興奮を認識できない。このような場合、激情、気分の動揺、絶え間ない倦怠感、不満足感が、意識されないまま肉体などに作用し、人体を半ば健康、半ば病的な状態にしてしまう。(P96-97) 「エーテル体と肉体との関係は完全に調整されたが、エーテル体とアストラル体の間の不調和が調整されていない」というのは肉体の健康は回復しているはずなのに、エーテル体にアストラル体からの無意識の「激情、気分の動揺、絶え間ない倦怠感、不満足感」の影響が及び、肉体の完全な治癒に到っていない、ということである。 だから、病気の治癒においてはアストラル体からエーテル体への無意識の影響ということに注目する必要がある。病気への不満感や絶望や疲れといった否定的な感情をプラスの方向に向けていくことが重要である。 とはいっても、慢性疾患の患者にいくら否定的な感情を持つなといっても、「あなたにはわからないからそんなことがいえる」とでも言われてしまうのがおちで、逆に言えば、そうした否定的な感情故に自ら病気になることを選択しているともいえるから、なおのこと困難である。 (患者がもつ否定的感情に問題がある。) ある意味、宗教的な回心が病を癒すというのも、否定的感情をなくすための切欠になるとも考えられるが、そういう(他者が介入する)「信仰」というよりは、あくまでも(自力での)認識を深めることを治癒の切欠にするというのが人智学的な方向性といえる。 ☆ ☆ ☆ 「病は気から」というのは古代からの叡智なのである。
2014年07月18日
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お笑い芸人の「どぶろっく」の妄想ネタが世間にウケているようである。この国のアホ総理の集団的自衛妄想で憲法解釈をかえようという妄想が現実化してしまっているのは一体どういうことなのか? この国は非常に恐ろしい妄想国家になってしまった! 国会にもエレキテル連合のように「駄目よ!ダメ、ダメ!!」とアホ総理の誇大妄想を拒む議員が欲しいものである。 さて振り返ってみれば実力もないのに世界一になるとほざいたサッカー選手も妄想だが、その妄想で視聴率を稼ぎ、金儲けを企んだダマスゴミの妄想も、妄想の妄想盛り沢山で、気が付いてみると、この国は世界の現実から取り残され、一気に妄想バブルが弾け飛んで、笑うしかない絶望感しかない中途半端感が猛威を震いまくっている。 妄想に付き合っている暇はないので、シュタイナーのカルマの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ ルドルフシュタイナー カルマの開示2 http://autosam.at.webry.info/201210/article_2.html 人間は、善と悪、正と不正、真実と虚偽の狭間で、様々に生きている。もっぱら個人的な動機に従って、様々な形で、外界と関わっている。外界との関わりが、アストラル体に影響を及ぼした結果、アストラル体とエーテル体の相互作用もまた、外界との体験に応じた形をとるようになる。 だから、放縦な生活を送ると、その放縦さがアストラル体に影響し、またアストラル体がエーテル体に影響を及ぼす。つまり、エーテル体は、善と悪、正と不正、真実と虚偽の狭間で、人間がどのような人生を送るかによって変化する。(P62) 動物は、輪廻転生する「自我」をもたない。アストラル体はもっているが、集合的で、本能的なので、その本能から大きく逸脱した生活を営むことができない。だから、アストラル体とエーテル体の相互作用も、本能的に予め組み込まれた「生活計画」に従ったものになる。 しかし、人間は自我を持ち、「個人的な動機に従って、外界と関わる」。その個人的な関わりがアストラル体に影響を与え、アストラル体がエーテル体に影響を及ぼす。そして、どのような人生を送るかによって変化したエーテル体のエッセンスは死後も残り、再受肉(転生)の際に、新たなエーテル体に注ぎ込まれる。 「前世の成果」が新たな肉体にも刻印されることになる。だから、動物の場合の病気とは異なり、人間の「病気」には、「前世の成果」からの影響が原因となっていることもある。 つまり、人間では「放縦な生活」がアストラル体に影響し、それがまたエーテル体に影響し、病因となる場合と、この病因が、次の転生(再受肉)の際にも影響し、病因となる場合も考えられる。 人間が死の門を通るとき、まず肉体が働きを停止し、エーテル体はアストラル体と自我に結びつき後に残る。死後数日が経過すると、そのエーテル体の大部分も第二の死体として脱け落ちるが、エーテル体のエッセンスは後に残り、その後存続していく。 このエーテル体のエッセンスの中には、例えば、放縦な生活によって人生の中に取り込まれた思考、行為、感情全てが含まれている。エーテル体はそれらを、新しい誕生(転生)を迎えるまで内に保持しつづける。動物には、このような体験がなく、死の門を越えてまで担っていくものがない。 さて、人間が再びこの世に生まれると、前世のエーテル体のエッセンスは新しいエーテル体の中に注ぎ込まれる。従って、新しく生まれた人間のエーテル体には、前世の成果が込められている。しかもそのエーテル体は、基本的には誕生後の新しい肉体の制作者であるため、新しい肉体の中にも、この成果の全てが刻印される。 だから人智学者は、この世に生を享けた人間の肉体の中に、その人間が前世でどのような行為をしてきたかを、おおよそながら霊視できる。(P62-63) また、死後、死者はエーテル体の大部分が第二の死体として脱げ落ちた後、生前の全ての出来事を振り返ることになる。人生の終わりからはじめまでの全てを再体験するのである。その際、生前のアストラル体がまだ保たれているので、それら全ての体験が深い感情を喚起することになる。 カルマを探求するなら、「この世での行為が、死後、強烈な感情に変化し」、前世の行為からなる感情が、現世に作用し、肉体にまで影響を与えている、という事実に注目する必要がある。 非常に自己中心的な考え方や感じ方や行ない方をしてきた人が死後、自分の利己的な思考、感情、行為の結果を知らされると、その人は生前の自分の行為に対して、激しい反感を持ち、自己の本性に反発する傾向を持つようになる。そして、それが前世での利己的な本性に由来するものである限り、この反発の傾向が、現世での虚弱体質となって現われる。(P68) また前世で嘘などをついた傾向は、現世では、肉体組織を間違って構築することにつながる。 前世で帰依も愛も知らない軽薄な人生、もしくは表面的な人生を送ると、次の転生(現世)において、虚偽への傾向を生じさせ、現世での虚偽への傾向をもつ人生は、更に次の転生(来世)において、器官組織を間違って形成するようになる。(P68-69) この世で考えたこと、感じたこと、行なったこと全てが死後、それら相応の「強烈な感情に変化し」、その感情が次の転生、更にその次の転生というふうに再受肉する肉体にまで影響を及ぼすことになる。 とはいえ、前世での行為全てがカルマとして現世に作用しているのではない。 再び生まれ変わってきたときに償いを可能にさせるような因縁と、死後の魂を生前の特定の生活へと執着させるような因縁とを、この世で厳密に区別する必要がある。前者の因縁は運命の法則、つまりカルマの法則を通して解消できるが、後者は死後の魂自身でその因縁を取り除くしかない。(シュタイナー「神智学」イザラ書房/P117) さて、人間では、生活を通じての経験がアストラル体にイメージとして影響を与え、アストラル体がエーテル体に影響を及ぼし、肉体にも影響する、という事実を述べてきたが、その影響の度合いは、人生経験が「意識化できる」場合と、「無意識のままにとどまる」場合とでは異なる。 人生経験は、根本的に二つに大別できる。すなわち、意識できた経験と、無意識なままの経験である。あるいはまた、経験が思い出として残っている場合と、もはや思い出せなくなっている場合とにも区別できる。 (中略) 例えば、今ある出来事を経験し、アストラル体(心)のなかで、喜び、もしくは悲しみの感情を伴ったイメージをもつとする。ほとんど全ての経験からくるイメージは基本的に感情を伴っているが、この感情は表面だけでなく、深く肉体の中にまで影響を及ぼす。 (中略) 例えば、ある経験からのイメージを無意識に受け取るとする。もし意識して受け取ったなら、ショックを受け、心臓をドキドキさせたような経験である。そのような経験からくるイメージは、意識できなくても、肉体の中にまで深く入っていく。一般に、意識的な(思い出せる)経験は、人体内に深く影響しようとしても抵抗を受けてしまう。 しかし経験からのイメージが無意識に、アストラル体に直接影響を及ぼすようなときには、その影響を妨げるものがないので、強い力を発揮する。そのような経験で、人間の内面(アストラル体)は、意識しているイメージよりも、遥かに豊富なイメージで満たされている。(P63) 意識的に受け取ったイメージは、人体に影響を与えにくいのに対して、無意識に受け取ったイメージは、「深く肉体の中にまで作用を及ぼす」。このことは非常に重要である。 このことからわかるのは、日々の生活において、とくに深い感情を伴ったイメージから目を逸らさずにできるだけ意識して受けとめることができれば、肉体への影響が少なくなるので、このような意識化の観点から、予防医学という学問が重要になってくる。 しかし、生まれてからしばらくの間は、「意識化」は困難である。そういう意味では、幼児の教育についての責任に言及する必要がある。 人生には、活力ある影響を及ぼしながら、思い出せない無意識なイメージが特別豊富な時期がある。それは、出生時から記憶が始まるまでの時期である。この時期に受け取ったイメージは、その後も心の中にとどまり、その人を変化させていく。そのイメージが忘れられているため、意識化されないイメージが何の抵抗も受けずに心のなかにとどまるからである。 (中略) このことが理解できたなら、生後数年間の教育がどんなに責任の重いものであり、後の一生にどんなに重大な影もしくは光を投げかけるか、と思わずにはいられない。 (三つ子の魂百まで) 上記のような幼児期のイメージ-特にイメージを繰り返し受けたとき-は、生きる活力を根本的に左右する。人生のある時点から、急に説明のつかない不機嫌な気持ち(鬱)に襲われることがある。このようなことは、過去に遡って、幼児期にもつイメージが、今の生活にまで光や影を落としていることを知らなければ説明がつかない。(P66) (前世療法などで明らかになることもあるらしい。) さて、この第3講では、植物や動物との違いなどもみながら、病因について、その概略をみてきた。そして、現世の中に病因を見つけられる病気、前世での体験が病因となっている病気など、人間の病気には、様々なものが作用していることがわかる。 幼児期の体験は、前述したような後年の心の働きに伴って軽度な病気を生じさせる。このように神経症、ノイローゼ、ヒステリー他の病因は、現世の中に見つけられるが、より重篤な病気の病因は、前世の中に求めるべきである。というのも、新たな誕生に際し、前世での道徳的・知的体験が既にエーテル体の中に深く影響を与えているからである。(P70) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年07月17日
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この国では、汚職がばれて泣きわめくアホもいれば、総理大臣にもなって、自分の性格を変えることができないアホもいる迷走状態が相も変わらず続いている。 それに比べサッカーワールドカップ優勝のドイツはなんと賢いのだろう。第一次世界大戦は、ドイツの躍進を畏れた偽ユダヤが英国を挑発して起こしたものらしいが、今更だが英国の狡賢さが裏目に出た感を醸し出している。ドイツの戦前との決別による平和国への変貌ぶりには英国の狡猾さも脱帽せざるをえないだろう。それはブラジルに大勝した後の謙虚さに現われていた。 この謙虚さを最も失っているのが、わが国だろう。語るのも嫌になる位、この国の政治家の汚職ぶりや傲慢さが目に余る。全てが金儲け主義で、自分たちさえよければいい、という利己主義者の巣窟である。 挙句の果てには、日本が世界一などという謙虚さの欠片もない嘘報道を流し続け、国民には厭きられている始末なんである。まさに地獄絵図と化している。 自分たちのサッカーをやれば世界一になれると思いこんだアホが醜態を曝して一勝もできずに、姿を消したが、謙虚さのなさ、つまり傲慢さや利己主義が地獄を招くことを知らないのだろうか。 地獄といえば、さて、シュタイナーのカマロカの話を紹介する。この国はいま、さながらカマロカ状態にある。 ☆ ☆ ☆ 薔薇十字の秘儀 ルドルフシュタイナー http://autosam.at.webry.info/201204/article_13.html 以前、死の瞬間に何が起きるかを述べた。どのようにエーテル体、アストラル体、自我が物質体から離れ、思い出[記憶]の壁画(走馬灯)が魂の前に並ぶか、も述べた。 この壁画(走馬灯)の特徴は、出来事が同時に出現し、一種のパノラマ形式で人生を回顧させてくれるところにあり、しかも、それが映像としてみえるところに本質がある。 物質界での出来事は、幸福や苦痛と関係するが、死後、数日間はそんな経験はない。記憶の壁画(走馬灯)は、感覚体験を伴わない完全に客観的な映像である。 では、譬えを使って、明らかにする。死後、自分が経験した人生の悲痛な場面を振り返るが、苦痛等は全く感じない。それは例えば、殉教者を主人公にした映画をみるようなものである。映画なので、いちいち苦痛を感じない。ただ出来事を第三者として客観的に眺める。 死後、生前の記憶を振り返ることは映画と同じで苦痛などを感じない。エーテル体が物質体から離脱し、自由になり、宇宙に遍くエーテルに溶けて行く瞬間、この記憶の壁画(走馬灯)が現れる。そして、生前の果実を含む精髄が、エキスとなって残る。 この後、死後の魂にとって、本質的に新しい過程が始まる。すなわち、魂がもつ物質界への愛着を断ち切る期間が始まるのである。オカルティストにとって、この期間を考察するのに最良の題材は、欲求や欲望が実在することを覚えていることである。 アストラル体に含まれる精神などは、物質体から抜けた後もなくならない。欲求や欲望の総ても存在し続ける。 例えば、物質界で生活しているときに美食家だった魂は死んでも美食への欲望を失わない。その欲望はアストラル体にしっかりとしがみつき、失ったものは、食欲を満足させる口蓋や舌などの物質的な味覚装置だけである。 物質界にもこれと似た場面があり、例えば、美食という欲望を満たす可能性が皆無なのに、美食への恐ろしい渇きに苦しむ場面である。美食への憧れに悩まされ、それを満足させる可能性がないために苦しむ。 この苦悩の目的は、物質的な感覚器を使ってしか満足出来ない欲望を持つのが、どういう意味なのかを悟るためである。この苦悩の状況は、カマロカ、もしくは欲望の領域(地獄界)と呼ばれる。そこでは物質的な慣習が断ち切られる。その期間は当人の誕生と死の間(人生)過ごした期間の大体3分の1続く。 例えば、60才で死んだら、カマロカで、約20年、つまり、生前の3分の1を過ごす。 一般に、カマロカは、物質界に結びつく欲望の総てを断ち切るまで続く。これがカマロカ期の一面だが、また別の面からも探求できる。 物質体での経験は人間にとって貴重で、というのも、地上で成就した結果に応じて高次の段階へと魂は進化していくからで、これは非常に重要な法則である。 他方、誕生と死の間(人生)には、自我自らの発展のために、障害をつくる数多くの誘惑がある。 例えば、仲間を犠牲にしたり、傷付ける行為など総てである。 仲間を踏み台にして、自分自身の満足を得る度に、また宇宙や自然、世界に影響を与える計画などに、利己的な目的から乗り出す度に、自分の成長のなかに障害をつくる。 例えば、いま単純に、他者の顔を殴ったとする。その際に生じる物質的な苦痛や道徳的な苦痛は自身の魂の成長には障害となる(負のカルマを負う)。 この成長(発達)への障害を、宇宙全体から自分で消去(克服)しない限りは、この障害は、自分のこれからの来世総てにつきまとうことになる。 このような成長を妨げる障害を除去(克服)しようとする意識が、カマロカ期に芽生える。カマロカ期に自我は大体3倍のはやさで、生前(人生)を逆向きに振り返る。カマロカ、すなわちアストラル界の興味深い特徴は、人生の出来事が鏡像として逆に現れることにある。 この鏡像の関係は、アストラル界に入った秘儀参入の弟子にとっては混乱の種となる要素で、例えば、数字の346を逆に643と読まねばならない。アストラル界に参入しているときは何もかも逆転して考えなければならない。 例えば、情念なども反対に考えないといけない。魂の浄化訓練の結果、または覚醒意識を失った状態で、霊視力を獲得したとする。するとはじめに、自分から流れ出る意識や情念がみえてくる。それらは様々な形態や姿となって現れ、周囲のあらゆる方向から光となって自分に近づいてくる。 抑制が効いた形、もしくは異常な形であれ、アストラル領域で霊視力を獲得した人は誰でも、ただちに、自分の意識や情念の姿をはじめに目にする。例えば、意識や情念がゴブリンや悪魔の姿で、自分に襲い掛かって来る。これでは悲惨な体験となる。 特に、霊視力を獲得したはいいが、アストラル界について無知な人には、悲惨な体験となる。 霊視力を次第に獲得していく人々が増加していくだろう。というのも、霊界を見る目が数多くの人々に開きつつある進化段階に現在到達しつつあるからである。霊視体験をする人々が脅えてしまわないためにも上記の事実を知る必要がある。人智学は人間を霊界に導くためにある。 霊視力を得た多くの人々にとって、アストラル界の過程(地獄)を霊視することは多くの不幸に満ちている。というのも、アストラル界の事実と状況に全く無知だからである。 アストラル界の事物を鏡像として見る必要があるが、霊界では、自らの意識や情念の他にも目にするものが沢山ある。 例えば、物質界では、めんどりが卵を産む出来事は、まずめんどりが見え、次いで卵が見えるが、アストラル界では逆に、卵がめんどりに戻る過程を目にする。つまり、あらゆる事象が逆向きに経験される。 (この現象は、子が母に戻るようにみえるので、子を食べる山姥としてみえる。) 例えば、60才で死んだ場合を考えてみる。カマロカで、前世の40才で誰かを殴った場面に出くわしたとき、今度は逆に、殴られた場面を経験する。その場合、文字どおり殴られた人のアストラル体の中にいる。 このようにして、死者は、死から誕生に至るまで逆向きに人生を経験する。しかし苦悩だけを経験するのではなく、他者に与えた幸福や喜びも経験する。魂は、発達や進化への障害を少しづつ消去(克服)し、贖いを可能にしてくれる賢明な指導に感謝を捧げるようになる。 償い、埋め合わせをしようという意志を強化するために、魂は、天国(神界)から刻印のようなものを受け取る。魂は、発達を妨げる障害を修復するために、意志の強化を刻印される。次の転生で魂は障害を消去(克服)出来る。 だから、客観的な壁画(走馬灯)は、カマロカでの回顧経験とは全く違うものと悟る。カマロカで、死者は、自分の行動の結果、他人が感じたことをそのとおりに経験する。つまり、自分の行為の反対側を経験する。 しかし、このような苦難の経験だけでなく、物質界での苦痛の経験が、反対に、霊界では幸福や喜びとして経験される。つまり苦難や苦痛は、物質界とは逆に幸福や喜びとなる。カマロカの目的は、魂に、思い出(記憶)の壁画(走馬灯)が授けられなかった苦痛や喜びの経験を、回顧の内に授ける事なのである。 思い出(記憶)の壁画(走馬灯)のエーテル界、カマロカのアストラル界の次の第3領域は、地上の大気と比較出来る。 デヴァカン(神界)と呼ばれるこの領域は、人間の感情と動物の感情全てからつくられる。これはアストラル領域の全存在の、いわば感情の総計である。 デヴァカンの本質である苦痛の流れ、喜びの流れは、地上の大気と比較できる。 例えば、仮にデヴァカンから地上の戦闘を霊視していたとする。物質的な視野では、兵士や銃などがみえるが、 霊視では、物質以上の兵士の感情などがみえる。つまり、霊視では、戦闘者たちの情念が対峙し、並んでいるのがみえる。 デヴァカンから、戦闘に関わる人々の魂のなかがみえる。どのように情念が情念に向かって襲い掛かるのかがみえる。戦闘などをデヴァカンから霊視で眺めると、高山の谷間に吹き荒れ狂う恐ろしい嵐のようにみえる。 また、対照的に、地上の愛の感情は、素晴らしく甘美な響きのように、デヴァカンの大気へと浸透する。以上のように、物質界-エーテル界、霊界(アストラル界)、神界(デヴァカン)の3つの領域を、固体、流体、気体に準え、地上と比較した。 ☆ ☆ ☆ 地獄をつくりだしているのは、この国の人々の心なんである。今この国は過去を振り返るカマロカにある。アホ総理は自分の妄想に怯え集団的自衛などという誇大妄想に突き進んでいる。まさに地獄絵図である。妄想は、お笑い芸人の「どぶろっく」だけにしてほしい。
2014年07月16日
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シュタイナーのカルマの話を続ける。人生で最も困難なことは、もって生まれた性格を変えるということだろう。例えば、病気に罹ったことで性格が温厚になるというのも、病気の困難さの御蔭といえる。 だから、ある意味、不治の病といわれるのは、利己的な性格を変えることができない困難さに原因があるともいえる。少なくとも、生活を変えることができなくては治癒は望めないものである。 シュタイナーは、前世を知る一般的に簡単な方法を挙げているが、それは、いまの自分が最も嫌う人物が、前世であった可能性が高いというのである。 というのは、カルマというのは、ある意味、前世の負の遺産なので、いまの自分の性格は、負の遺産からつくられるから、例えば、いまの性格が単純にいってネクラだったら、前世は、ネアカだった可能性が高いわけである。ネアカは一見良いようにみえるかもしれないが、例えば、ネクラの人を差別したりすれば、ネアカの性格がかえって裏目に出るわけである。 いまの例は非常に単純化した譬え話なので実際はもっと複雑で、自分がどういう性格をもって生まれてきたのかさえもわからないのが一般的だろう。しかし、遺伝というものがあるから、親をみれば大体、自分の性格がわかってくるはずである。年齢を重ね、人生経験が増えるにつれ、自分の性格が親に似ていることに気づくはずである。 カルマの負の遺産を解消するために、生まれてくるのだから、負の遺産からなる自己をなくすこと、つまり利己主義をなくす性格をつくるというのが人生のテーマになるわけである。 前世のカルマの負の遺産を解消するのに適した親を選んで生まれてくるので、そういう意味でいえば、性格についての遺伝を解消することも同時に人生のテーマにもなる。結局は、偏りや先入観を無くすということなのだろう。 さて、シュタイナーのカルマの話を続けるのに良いホームページをみつけたので、紹介する。 ☆ ☆ ☆ ルドルフ・シュタイナー カルマの開示 http://autosam.at.webry.info/201210/article_1.html 人間は、自我とアストラル体とエーテル体が、肉体から切り離されることで死を迎えることになるが、その際、エーテル体のエッセンスが残り、再受肉(転生)の際に新たなエーテル体に注ぎ込まれる。つまり、前世の「成果」がエーテル体に封入されているわけである。エーテル体は肉体の制作者でもあるから、前世の「成果」に応じた肉体がつくられるわけである。 以前述べたように、死から新しい誕生までの(霊界にいる)間に、人間は特別な力を自分の魂の個性の中に取り込む。カマロカ(欲界)期に前世での善い行為と悪い行為、性格上の特徴などを直観して、自分の中の不完全な態度や不正行為を精算し、自分をより完全にしようと努める。 人間はそのような意図と傾向をもって、新しい誕生を迎える。新しい人生のために形成される新しい肉体は、死から新しい誕生までの時期に獲得された力に応じた形をしているから、その力が弱いか強いかで、肉体も弱かったり強かったりする。(P75) ここで重要なのは、前世で生じた課題を、死から新たな誕生までの「カマロカ(欲界=地獄)期」に直観し、新たに生まれてきたときに、その課題の克服に努めることにある。そしてまた、その克服にふさわしい「力」をもって新たに生まれてくるわけである。 次に、シュタイナーが例として挙げているのは、自我意識があまりに虚弱で、それを鍛え上げようとする場合と、その逆の自我意識が強すぎるので、調和して発達させようとする場合である。 まず前者の自我が虚弱な場合について、 前世で自我意識があまりに弱かったために、現在の意識段階に適さないほど外に対して依存的で、自己を見失い、他者が命じるままに行動している人物がいたとする。 さて、その人物が死後のカマロカ(地獄)期に、この不十分な自己意識に由来する行動を回顧すれば、次のような意図をもつだろう。 「自我意識をもっと発達させよう。来世で生まれ変わった肉体を通して、自我意識を鍛え上げよう。そのためには、肉体、エーテル体、アストラル体から来る力に対して、自我が十分に対応できるようになる人生の機会を作らなければならない。肉体に特別の症状を生じさせ、弱い自我意識に働きかけ、強いものにする契機にしなければならない」。 とはいえ、この意図は意識としては現われずに、無意識の領域にとどまる。しかし、あくまでも無意識な意図に従って、自我意識を最大限に緊張させるような、自我意識に大きな負担をかける人生を生きようとする。そのように、まるで磁力に引き寄せられるように、大きな障害の原因となる場所や機会に引き寄せられる。(P76-77) こうした自我意識が弱く他者依存的で自己を見失ってしまうような人物には、それを克服するために、例えば「コレラ」に罹る機会さえも持とうとする。コレラに罹ることで、コレラに対するエーテル体、アストラル体の抵抗力が自我意識を育てるからである。 また、後者の自我が強すぎる場合について、 では、前者とは逆の場合の典型的な例を挙げてみる。 前世で、あまりに強い自我意識の下に一連の行動をとってきた人物は、死後のカマロカ(地獄)期に、自我意識を適度に緩和して、調和的にさせなればならないと悟る。そこで生まれ変わったときに、どうやっても自我意識に歯止めがきかず、自分が不条理な存在であることを思い知らされるような機会を、アストラル体、エーテル体、肉体の3つの体を通して体験しようする。そのためマラリアなどに罹る。(P77) また、怒り、恐怖、嫌悪などの激情に駆られて行動した人物は、そのカルマを解消するためにジフテリアなどの病気に罹る。 このように、カルマ的な病気の例として、コレラ(自我が弱すぎる場合)、マラリア(自我が強すぎる場合)、ジフテリア(自我が移ろいやすい)が挙げられるが、こうした伝染病とされる病気の意味やそれに罹り克服する意味についての認識を深める必要がある。 そこには、日常の(覚醒)意識が担う理性よりもさらに高次の無(潜在)意識の理性によって、魂をさらに発展させていく過程が示されている。この点をよく考えれば、伝染病についての理解がひらけてくる。人間はカマロカ(地獄)期の経験から、特定の病気に罹ることを選び、その病気を克服し、自己回復力(自我意識)を発達させることで、人生をよりよく生きようとする。(P78) ☆ ☆ ☆ というように、人生は自我の訓練場といえる。自我がある段階に達し、訓練が必要なくなると死を迎える。死といっても、それは新たな自我の進化段階への始まりであり、自我は永遠に続くのである。 さて、カマロカについて簡単に説明する。シュタイナーによると、人間は死ぬと、死後、走馬灯のように人生を振り返り、その後すぐ、地獄と呼ばれるカマロカに行くという。 カマロカは禊の場で、地上での欲望を捨てていく場で、執着心が大きいほど、欲望があればあるほど、それを満たすことができないので、地獄を感じるそうである。地獄の思いをしてはじめて自分に足りない本当のものを知るわけである。 カマロカについての説明は次回に続ける。地獄を呼び寄せるのは自己の欲望であるから、地獄も天国も自我の発達度合による。 天国や幸福は、自我のなかにある。「エヘイエ アシェル エヘイエ」の「我は我ある所以なり」は、地獄も天国も、自分次第ということなのである。
2014年07月16日
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前回はカルマが公正さを人間に求めていることを紹介したが、更に、公正さを求めるためには、自らの性格を自由自在に変えられるようになることが必要であることを以下に続けて紹介する。 ☆ ☆ ☆ シュタイナー語録【A】 (病気予防のカルマの意味)(改変) 【カルマ論 カルマの開示 ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 春秋社 P173~】・・・ 人智学の研究によると、例えば、これまでの文化期のなかでは、極度に利己主義的な冷淡さが広がるような兆候が生じたときに、天然痘が出現した。・・・・・・さて、近代になって、天然痘に対抗する「種痘」ができた。・・・・・・冷淡さが広がらないようにする一方で、、他方では、適切な人智学(精神)的な教育によって、性格を変化させる義務を人類は背負っている。その義務を真っ当しなければ、人類は、半分しか役割をこなしていないことになってしまう。・・・・・・・ さて、では、もし病気などの予防的処置を講じて、カルマの清算の機会を妨げるなどしたら、カルマは一体どうなるのか? 例えば、医学的な予防処置は、一見すると人間が恣意的(思うまま)に思いついたようにみえるが、実は違う。 ある一定期間忘れていた社会習慣、例えば、清潔さへの傾向が再び出現するのも、勝手に生じたのではなく、人類全体のカルマの法則に従って生じているのである。現在では絶滅した疫(流行)病を、(カルマの清算のために)かつての人類は必要としていた。だから、古代人は、わざと今日のような医学的な予防処置をとらなかった。 人間社会の基本的な諸制度は、宇宙の進化の法則に従って作られる。ある予防処置が人類全体の進化にとって有益なものにならないうちは、その予防処置を社会が講じる可能性は全くない。というのも、生まれてから死ぬまでの人生で獲得される、恣意的で、知的な(物質)生活から、そのような人類全体の進化に有益な予防処置を生み出せるはずがないからである。 そのような予防処置は人類全体の霊(精神)的な本性から生み出される。偉大な発明や発見も、人類がそれを行使するのに本当に成熟したときにはじめて可能になった。・・・・・・・・もしある特定の人々がカルマに反する行為を清算するために、病気を求めていたのに、医学的な予防処置によって、その病気に罹らなくなってしまった場合、そのカルマは清算できなくなる。・・・・ だから、カルマを清算するために、ある病気に罹る可能性が失われれば、また別のところに求めるようになる。 当時の人々は天然痘に罹ることで、冷淡さを克服した。 もし、医学の進歩によって冷淡さが原因で生じた疾患が治療できたとしても、冷淡さが人類にまだ残っている限り、今世あるいは来世において、別の形で、カルマの清算をしなければならない。・・・・・・・ 病気に罹らなかった人は、病気とは別の形でカルマを清算する。カルマの清算を他の様々な機会に求めなければならない。現代人は、以前よりも健康的な生活、物質的により快適な生活を保証されているが、そのことにより次第に空しさと不満とを感じるようになっている。 (物質的に豊かな生活ほどかえって不満を感じる。) 外(物質)的な生活が今後益々快適になり、身体も益々健康になっていくと、逆に、魂は益々進化に対しての目的意識を失っていく。 物質生活の繁栄と魂の荒廃とは並行して進んでいく。・・・・ 人智学を学ぶ人は、このような事態に直面せずにすんでいる。というのは、人智学はカルマをどう理解したらいいのか、カルマの清算をどの機会に行うべきかを教えてくれるからである。・・・・・・人智学のような霊的な世界観は、快適に整えられた外(物質)の生活によっては満足できない魂の要求に応えようとしている。・・・それ故、人智学は、人類のカルマの一部で、カルマとして、人類に結びついている。 (以下、妄想の治療について一部抜粋)・・・人智学を深く身に付けることができれば、他の人に対して治癒的な働きを及ぼすことができる。人智学の研究者が自らの人格を変えるほどになれば、人智学に大きな信頼を寄せることができ、その人の人格を通して、人智学の真実が外へ向かって輝き出るようになる。 人智学は地上の人生のために働くが、その働きは地上の人生を越え、その認識は、超感覚的世界に由来しているので、単なる理性的な認識よりも魂について遥かに深く働きかける。 ■コメント 数年前はSARSが、最近は鳥インフルエンザが私たちに不安の影を落としています。 シュタイナーは、「コレラは前世の自我の弱さ」「マラリアは前世の自己感情に歯止めが利かない不合理な性格」「ジフテリアは前世の激情的な性格」をもった人の魂が、その清算のためにカルマとして求めた病気であると指摘しています。 また、前世の『隣人への冷淡さ』は、死後に魂が『そのカルマの清算』を求め、来世で『天然痘にかかり易い体質』になるといいます。 つまり、伝染病とは魂の治療・改善のために存在し、カルマを負う魂はそれを自ら求めるわけです。 しかし、文明の進歩は『種痘によってカルマが清算できない状態』を生じさせます。 シュタイナーは、文明の進歩による予防医学が、人間のカルマの清算を困難にしているという点で、アーリマン的(唯物論的)な視点で考えてしまうと矛盾し、葛藤すると述べています。 しかし、こうした進歩自体は、人類に「許されたもの」であるとして、シュタイナーは肯定的な態度を示していますし、自らも食事や病気の治療についての専門的な講義も行なっています。 とはいえ、その反面では、魂が望んだカルマの清算はできなくなります。 その意味で、シュタイナーは、現代のような快適な生活状況の中では、人間の魂は荒廃してゆき、魂の渇望は癒されず、しらけた魂が横行する現代社会の原因になっていると洞察しています。 こうして、現実的には病気の問題が解決しても、霊的なカルマの清算が果たされないような場合、カルマは「別の清算方法」を求めるようになるというわけです。 それは、例えば、次の転生で「男女の性別」といった先天的なカルマ(宿命)として準備される場合があると、この講義の中で説明しています。 そして、シュタイナー自身の説く「人智学」も、実はこうした現代のように外的には快適な生活によって荒廃した社会で苦悩する魂のためのもので、人智学は人類全体のカルマの一部として存在するとしています。 さらに視点を拡大すると、個人のカルマは文明のような人類全体のカルマとも関連し、誕生以前に通り抜けてきた惑星の天使や神的存在との交流によって、今世の宿命や運命を形成してゆくので、宇宙のカルマとも強い関連性を持っていることも説いていますが、これについては、改めてご紹介できればと思います。 シュタイナーは、今世の人智学的な認識を基にした努力によって、アーリマンやルシファーによる認識の誤謬を改めることができ、自分や他人の魂を癒すことになるとしています。 さらに、別の講義でも、人智学的な努力によって、今世でよりよい来世の自分を準備できることを示唆しています。 その意味では、病気の予防と治療には、霊的な魂の認識が不可欠であると同時に、真の霊的認識を深めることは、荒廃した魂に警笛を鳴らし、更生させ、病気のカルマを軽減することにつながるとも考えられます。 そして、そうした霊的な法則性を認識することは、私たち自身の「幸・不幸」の認識を変化させてきますし、自分の中に沸き起こる周囲への不満、怨み、嫉妬といった、新たなマイナスのカルマの芽を未然に摘み取る感情を育み、未来の大難を小難にしてゆくことになるはずです。 それは、人類の努力による進歩と、魂の豊かさを両立させてくれるのではないでしょうか。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年07月15日
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前回はカルマが公正さを求めていることを紹介したが、では、公正とはどういうことなのかを、シュタイナーの話から続ける。 ★ ★ ★ シュタイナー語録【B】(自然の創造行為と霊の働きについて)(改変) http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/folder/1402401.html 【シュタイナー選集第十巻 死後の生 ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 イザラ書房 P202~】・・・外界の自然を眺めると奇妙な現象が眼につく。種を繁殖させるために、自然は途方もない数の卵を破壊し、そのごくわずかな数だけを残す。途方もない数の魚卵が海中に存在するが、その中のごくわずかが魚となり、他は破壊されてしまう。 また途方もない数の穀物の種子が田畑には存在しているが、そのごくわずかが植物に生長し、他は人間や動物の養分になったりして、破壊されてしまう。自然は、生き残り継続する種よりも、遥かに途方もなく多くの生命を産み出さなくてはならない。 そしてそれは自然にとっては善なのである。というのも、自らが属する種族を継続させる流れから逸脱していくものが他の種族を継続させる流れに奉仕することが、自然を支配する必然から生じる秩序だからである。 全ての卵や胚珠が成長してしまうと、どの生物も生存できなくなる。自分たちとは別の他の生物が生長するための、いわば土壌作りに用いられる卵や胚珠がなくてはならない。この現象を、外(唯物論)から見れば、生命が失われていくように見えるが、実際は、自然の創造行為においては何一つ失われはしない。 (他者に奉仕してこそ自分が生かされる。情けは他者のためならず。) この自然の中では霊が働いているが、外から見ると、絶えざる進化の流れから消えてゆくように見えるが、霊的な叡智を感得すれば、霊として生きているのが発見できる。唯物論では消滅しているようにみえるが、霊的な法則に基づけば、生命として継続している。 だから、我々は、霊的な観点から、この現象を観察しなければならない。そうすれば、一見宇宙の進化の流れから逸脱しているように見える生命の中にも、正当な存在理由が見つけられるはずである。そこには、霊的な根拠がある。だからこそ、霊界での生活が、この地上界の生活にとっても必要なのである。・・・ (この世を出たら、あの世に行く。あの世を出たら、この世に生まれるわけなのである。数学の世界で考えれば、高次から低次、また低次から高次に行き来しているだけなのである。) ■コメント: このシュタイナーの講義は、人智学協会の会員のために行なわれたもので、この人智学の公開講演の文章を後で読んだかした一般人が、霊的な事実を「なんと馬鹿げた話だ!」と感じたとしても、それは海の中で破壊されていく無数の魚卵と同様に、霊的に見れば重要な意味をもち、魂が能力を開発するのに必須となっている、と説明しています。 私(HP管理者)ごとですが、確か中学校の頃に、理科の授業で生態系について学ぶ時に、「弱肉強食」とか「食物連鎖」といった言葉を学びました。「弱肉強食」と「食物連鎖」を同時に成り立たせるためには、数のバランスの上で、生態系ピラミッド《底辺に生産者(植物)、2段目に第一次消費者(草食動物)、3段目に第二次消費者(肉食動物)》が保たなければならないと教わりました。 一方、仏教や儒教のような思想を学ぶと、強者は弱者を助け、動物の殺生をしないよう肉食を避け、地を這うアリを踏まないよう気をつける・・・といったような「殺生は罪」という教えがあります。 すると、弱肉強食が自然界の法則なのに、因縁と因果という霊的なカルマの法則を考えると、「動物を殺して食べる行為は、来世で家畜として生まれたり、人間として生まれても動物に殺されて食べられてしまう人生になるのではないだろうか?」という子供らしい素朴な疑問が生じてきたのです。 高校時代、手塚治虫氏の『ブッダ』を読むと、未来を予見する修行者が、狼に飲み込まれる運命が自分のカルマだとして無抵抗に受け止める場面がありました。その一方、世の中は「弱肉強食」なのだから、大蛇を殺して食べてでも生き残ることが正しいとする登場人物も出てきます。 こうした、10代の精神的な葛藤の中で私自身が20代の時に出した結論が、このブログの『4章食生活と生命の尊厳』の内容でした。 食する人間の側が、自分の生命が多くの動植物の生命の犠牲によって与えられていることを認識できれば、物質次元では「弱肉強食」に見えることでも、精神的次元からは、全ての生物は互いに「共存共栄」の中で育まれていることに気づくことができる・・・といった考え方です。 そういった精神的次元から生命の尊厳に気づけるようになると、食に対する感謝と人間の生命の尊さを感じることにもなります。更には、動植物や両親や先祖によって与えられた自分の生命とは、自分だけのものではなく、全生命に奉仕するようになるべき存在だと気づけるようになります。 その意味でも、シュタイナーの「自分の属する種族を継続させる流れから逸脱していくものが他の種族を継続させる流れに奉仕するということが、自然を支配する必然的な秩序である」という言葉は深い意味を示唆しているように感じられます。 また、この世の人はいつか必ず死ぬとすれば、100年後の世には「自分の物」などどこにも存在しないでしょうし、存在したとしても墓石くらいなもので、何処か空しさを感じます。 すると、物質的な現世を生きていることに普遍性や恒久性な意味を見つけるなら、「物質界に何を奉仕したか」「どのような精神で生きたか」といった魂的・霊的な価値観でしか、何も残すことができないことが洞察されます。 そうした霊的な価値観からすれば、シュタイナーの「外から見れば、生命が失われていくように見えるが、自然の創造行為においては、何一つ意味なく失われることはない。この自然の中には、霊が働いている。」という言葉は非常に含蓄があります。* * * * 先日、車の中でFMラジオを聴いていたら、・・・最近、学校の先生に対して、「学校では担任の先生が給食の時に、”いただきます”と手を合わせ頭を下げてから食べさせているようですが、学校には家から子供の給食費を払っているんだから、そんな事させないで下さい!」と真顔で苦情を言ってくる保護者がいるので困ってしまいます・・・。と、いった内容を耳にしました。 正直、最初は「アホな親がいるんだなぁ~。」とも思いましたが、真面目に考えると、物質至上主義になった親と、それに対して何の説明できない教師、双方に対して背筋がぞっとするような恐ろしささえ感じられてくるようになりました。 先進国の人間が生きてゆくためには、ほぼ毎日のように1日3度の食事をします。仮に毎日三食の食事を70年間したとすると、76650食にもなります。 動植物とは違う、自我を持った人間であれば、この7万回も繰り返される食事という行為の時に、自分の生命に奉仕してくれている動植物と神霊の働きに深く感謝をして食べるのか、お金を払ったんだから自分勝手に食べるのか、その違いは霊的には非常に大きな差になるはずです。もちろん、こんなことを書いている私自身、まだまだ、あらゆる意味で霊的視点も感謝も不十分だと感じています。 だからこそ、シュタイナーが述べた「我々人類は、霊的な観点から、この現象を観察しなければならない。」という言葉や「だからこそ、霊界での生活がこの地上界の生活にとっても必要なのである。」という言葉を、真摯に受け止める必要性が感じられては来ないでしょうか? ★ ★ ★ 生命を物質で捉えると、錯誤に陥ることがわかる。生命は物質ではないからである。お金は物質の象徴であるが、お金は唯物論者の世界だけで成り立つ唯物教なのである。 しかし、お金など何の価値もなく、実際は、カルマからわかるように、霊的な保存則が成立しているのである。 そもそも、お金が信用されているから、通用するだけであって、お金から信仰心をとれば、単なるゴミである。そのことがわかる話をお馴染みのサイトから以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ ドイツ、フランス、ルクセンブルクがドル決済抜きの対中貿易協定! http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140709/1404884274#seeall 先日から、このブログで「世界の貿易でドル決済が行われなくなって行く」という記事を投稿しています。 まずは、露中貿易で、次に中韓貿易で今後、徐々にドル決済をしなくなる事が決定されています。 ▼露中の自国通貨での貿易とドル体制 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140704/1404444421 ▼露中に引き続き中韓もドル決済拒否! http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140705/1404539191 さらに、フランス最大手金融機関のBNPパリバへ、罰金の支払いを要求すると、 「そんな事言うなら、ヨーロッパと中国の貿易、ドル決済やめちゃうよ!」と逆に脅され・・・ ▼BNPパリバへの巨額罰金とアメリカとフランス http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140708/1404780909 そして、ついには! 本当に、ドイツ、フランス、ルクセンブルグがドル決済なしの対中貿易協定を締結するそうです。 もはや、ユダヤ米国を見捨てた欧米諸国。 http://richardkoshimizu.at.webry.info/201407/article_46.html ドイツがフランスがルクセンブルグが米ドル抜きの対中貿易協定へ 現実を認めたくないユダヤ米国だけが、未だに日本にすがりついて必死にドル防衛姦計を継続。 惨め。 ふむ、ドイツがダメリカのスパイをまた摘発してるので、??と思っていたら、これの前ふりでしたか。 「メルケル訪中。中独貿易協定、、、米ドル抜きか?」 Monday, July 7, 2014 Germany Upset with U.S., Merkel in China, signed agreements of trade.... No dollar to be used? China signs Yuan trade agreement with France and Luxembourg http://sherriequestioningall.blogspot.it/2014/07/germany-upset-with-us-merkel-in-china.html wombat どうやら、欧州を含む国際社会の選択は、今でも強大な軍事力を持つユダヤ米国が、バタバタ暴れて周りに迷惑をかけないように、ゆっくり絞め落とすという方向性で一致したようです。 つまり、ドル決済を拒否する事で、米国を破産させて無力化する!という感じでしょうか? 今後、世界中の国々でドル決済抜きの貿易協定が結ばれるという流れになりそうです! あとは、米国の日本への抱きつき心中を何とか止めるだけ!という感じでしょうか? ☆ ☆ ☆ 殺人帝国アメリカの正体が明かされつつあります。その次は英国とイスラエルでしょう。そしてバチカンです。
2014年07月11日
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前回は宇宙が公正であることをカルマの話から紹介したが、カルマは不公正な行為などを、公正に改めるように当人に求めることも紹介した。地上への輪廻転生がいわばその道場になっていることがわかる。では続けてシュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ ■シュタイナー語録【C】(人類社会における生産活動と文化癌について)(改変) 【シュタイナー選集第十巻 死後の生 ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 イザラ書房 P204~】・・・これから述べることは、将来ますます現実になってくるような話で、今後人々は益々生産性を高めるために、工場をつくり、そして「どのくらい必要なのか」を問おうとはしなくなる。 かつて村の仕立て屋は、注文を受け付ける度に服を一着作る、というやり方をしていた。当時はどれくらい生産すべきかを教える消費者がいたが、今日ではもっぱら市場のために生産されている。商品は倉庫の中に可能な限り沢山集められ、積み上げられる。 人工的な生産といっても、自然の創造の原則と全く同じ原則に従ってなされる。だから、生産すればするほど、自然の秩序が社会の秩序の中に入り込んでいく。このことは、物質の分野において、これからますます顕著になってゆくだろう。しかし、霊的な法則は霊界にとっては有効であっても、物質界においては有害な場合もある。 だから、このことから非常に奇妙な現象が生じてくる。今は人智学徒だけのなかで話しているので、以上のことが理解できるだろうが、こういうことは一般の世間ではもちろん何も理解してもらえないだろう。 今日では、消費を顧慮しないまま、市場のための生産が続けられている。私(シュタイナー)が論文「霊学と社会問題」において述べた意味とは無関係に、生産された商品は全部、市場の仲介を通して倉庫へと集められ、そして買われるのを待っている。この傾向はますます顕著になっていくだろう。 「なぜ今私(シュタイナー)がこんなことを言うのか、すぐにご理解いただけるでしょうが」 この傾向は自己を破壊するまでやまないだろう。 社会生活の中にこのような生産方式が導入されると、それによって人類社会の秩序の中に、生体に癌が発生するのと全く同じ現象が生じる。生体と全く同じ癌が、つまり文化癌が人類の中に発生する。 今日の社会生活を霊視する人は、大量生産方式のなかに癌への傾向を発見できる。今、社会的な腫瘍形成への恐ろしい素地が至る所に作られつつある。この事実は、現実を直視する者にとって、とても憂慮すべき状況である。この現実を実感する者にとっては心を締めつけられるほどの恐ろしい事実なのである。 もし、いま人智学による発見への感動を抑え、人智学からわかる発言を差し控えたとしても、この現象は既に始まっており、益々その傾向が顕著になりつつある事実に対して、世界的な救済の手段を求めて、絶叫せざるをえないくらいに恐ろしいことなのである。 自然という創造の場において必須の原則が、今述べたような形で社会の中へ浸透してくる場合には、その原則が社会に有害な癌を発生させる。 (金儲け主義の大企業をみれば一目瞭然である。大企業は自らが破壊されるまで生産を続けるので、いずれ国家や社会を破壊していくだろう。大企業がいま金儲けの手下の政府を使って中小企業を破壊していることからもわかる。) この現実を洞察し、その対策を見つけ出すことを可能にするには、人智学が人々の考え方を変えさせなければならない。そして、この事実を洞察する人は、いま人類が岐路に立つ時代を迎えつつあることを、できる限り同時代の人々に知ってもらうために、この上なく熱心な態度で語らざるを得ない。 この現実と事実の本質を洞察できるためには、霊界での事情と人間社会での事情をよく知る必要がある。霊界の真夜中から新たなるこの世での誕生を経験してきた人には、この霊界での事情が自分に向かってくるように感じられる。 というのも、当人がこの霊界での観点に立って、創造的になる必要性を負うからである。・・・ ■コメント: このシュタイナーの言葉は、前回の【B】と同じの講義で語られた内容の抜粋です。 この講義は、1914年(大正3年)4月に行なわれたものですが、現代において色褪せるどころか、現代の私たちの社会を霊的な眼差しで予感したような内容になっています。 前回【B】では、シュタイナーは、植物の種の発芽よりも遥かに多くのものを自然が産み出さなくてはならない背後に、自然の秩序と霊的な働きかけがあることを示唆していました。 しかし、ここでは、自然の霊的な法則が霊界にとっては有効であっても、物質界においては妥当ではないことを述べています。 私は学生時代に環境化学を学んでいたのですが、物質的に環境問題を科学的に学べば学ぶほど、環境問題の改善策は、人間の『心』の問題だと確信するようになりました。 例えば、この地球を一つの生命体として考えた時、人間とは地球にとって細胞や微生物のような存在であるともいえます。しかし、癌細胞やエイズウィルスは、人間が死んでしまえば、自らも死滅せざるを得ない運命をもっています。 これと同様に、人間が地球にとって癌細胞やエイズウィルスのよな存在であるとすれば、人間が努力すればするほど、地球の体を蝕み、地球と人類の死を加速させていることになるわけです。 そうイメージすると、人間という微生物が、地球という生命体のにとって乳酸菌やビフィズス菌のように有効な作用を及ぼすか、癌細胞やエイズウィルスのように地球を蝕んで死滅に至らしめるかは、人間の量(人口)の問題以上に、人間の質つまり『心』次第だと感じたのです。 * * * * 私自身も100円ストアで店長をしていた時には、顧客の満足するだけの食品を店頭に扱えば、必ず毎日のように賞味期限切れの品がどうしても発生することに心を痛めてきました。 また、雑貨問屋でインターネットで販売を手掛けてきた時は、カタログの通信会社の膨大なデッドストック(売れない在庫品)や、100円ストア商品のメーカーの大量のデッドストックを定価の10分の1から20分の1の価格で引き取る(仕入れる)ことが何度もありました。 個人的には、こうしたデッドストックをゴミにせずに、使用してもらえればと感じて販売してきましたが、価値を失った商品は、結局は粗末に扱われる運命を辿ってゆく傾向が強い。 一方、個々人においてもセレブな人は、ブランドのバッグやコート、靴等を何十、何百と所持して喜んでいますが、そのブランド商品は増えれば増えるほど、一つ一つの物を使用する機会は減少してゆきますし、余程のプレミア物でない限り、時と共に実際の価値は下がりますし、最終的には中古品として質屋の倉庫行きとなることでしょう。・・・そうした現状を考えると、シュタイナーの言うとおり、現代社会は『文化癌』に病んでいると言っても過言ではないように感じられます。 とはいえ、必要な物を必要な時に必要な数だけ生産することを強要すれば、それでは共産主義社会になってしまい、文化は色彩と多様性を失ってしまうでしょう。 シュタイナーは、そこにこそ霊学が必要だと示唆し、後に社会三分節化運動を行なうようになります。 私個人は、社会問題を霊学と結び付けることができるほど、内面的に人智学が浸透していませんが、この文化癌について『6章 自然環境と科学技術の共存 』や『7章 政治と経済の矛盾』で部分的に触れてきたつもりでした。 しかし、100年ほど前のシュタイナーの言葉を踏まえると、個人がもっと深い霊的な観点からこの文化癌について考えることが、一番大切なことなのかもしれません。 ★ ★ ★ 必要な分だけ生産するというシステムに早期に移行しないといけないことがわかる。次回に続く。
2014年07月10日
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シュタイナーの話から、人生が一度きりではないことがわかる。確かに、受肉した肉体で生きるのは人生に一度きりだが、それだけが人生ではなく、過去に遡り、また同時に未来へと突き進んで、現在を起点に数万回もの人生が存在しているというのである。 オカルトでは、いま生まれている人の大体が数万回もの輪廻転生をしてきた、というのである。 以前、日本の戦国時代を八切史観より紹介したが、その話によると、当時の日本の住人は、輪廻転生を信仰していたそうで、しかも次のような誤った形で信じていたために、つまり、再び生まれてくるためには、自分が生まれた家系を後世に残す必要がある、と誤って信じていたために、一族のなかから少なくとも一人を坊主にし寺に奉公に出して先祖供養させるのが普通だったという。 現在から考えれば信じられないことだが、物質観全盛のいまも先祖供養が残っているのはその証である。死ねば無なのなら、先祖供養も必要ないし、宗教も必要ないはずである。物質観を突き詰めて考えてみても、先祖供養が、現世で先祖と似たような不遇にいる人々を救うためにあるとわかってもいいはずなのに、人類がどんどん馬鹿になっているために、自分のことしか考えられなくなってしまったせいなのだろう。 何度も紹介するが、死を無とするのは、死を考える思考力を人類がなくしてしまった証拠である。 さて、前回は、輪廻転生やカルマを信じない愚か者の天国にはいけない経済しか頭にない金持ちたちの地獄行きの話を紹介したが少し続ける。 ★ ★ ★ シュタイナー語録【W】(ローマ皇帝ネロの輪廻転生について)(改変) http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/20171195.html 【歴史のなかのカルマ的関連 「カルマ論」集成4 ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 イザラ書房 P93~】より ローマ皇帝ネロのような人物が現れたことは、確かに歴史的には全く意味をもたない。・・・・ しかし、ネロのおこなったことを目にして、「全世界を屈辱するネロのような魂、人の生命を軽んじた魂からは、なにが生じるのか?」と問う必要はある。・・・・ 物質界でおこなった行為全てが、死と再受肉の間の霊界での生のなかに反射する、ということを明らかにしておく必要がある。 物質界で行った行為は、魂に投げ返される。 ネロは比較的早く、二、三世紀後に再び地上に受肉したが、それは重要な人生ではなかった。その人生は、前世で権力の座にあったときにおこなった破壊意識の均衡を取るためのものだった。 ネロとして生まれた人生では、凶暴な破壊意識に荒れ狂った。その二、三世紀後の人生において、その均衡が取られた後、また破壊を行わなければならない状況に置かれるが、今度は命令に従って破壊する立場になった。 この時の魂には、自由意志から行えない、自主的に果たせないと感じる必要性があった。このようなカルマについて感情を交えずに、客観的に考察することが大切である。 ネロのように残虐で破壊的な人生も運命の1つである。その運命は、ある面においては、可哀想でもある。敵意を持つ必要はなく、激しく非難する必要もない。・・・・ オーストリア皇太子(1858-1889年)は輝かしい人物で、王位に就くのを楽しみに待っていた。・・・・ 事故と公に発表された後に、このルドルフ皇太子がヴェトセラ男爵の令嬢と狩りに行き、一緒に死んだことがわかった。・・・・ しかし、「情事を容易に隠し通すこともできたのに、また輝かしい未来を約束されている者がどうして自殺を選んだのか」という疑問が生じる。・・・・ この事件はいかにも不可解である。 この事件について多くのことが書かれ、また多くのことが語られたが、「ルドルフ皇太子の人生からは、自殺、および自殺に至る精神病理学的な症状はみつからない。何か全く別の原因があるはずだ。」 と考える者だけが、この事件を合理的に判断できる。 ネロの魂は、先ほど述べた受肉の後、ルドルフ皇太子のなかに受肉し、自殺したのである。 単純にいって、前世とは立場が逆になった。死と再受肉の(霊界にいる)間に、前世に由来する魂からは破壊力のみが発せられていることがわかり、魂は、破壊力と均衡をとるため、前世とは逆の立場を体験しなければならなかった。 その逆転は、どのように体験されるのか。 外(物質)界で、さも(物質的な)価値があるようにみえる人生が、内面(精神)に反射されると、(価値観が)逆転し、その人生を(精神的に)無価値なものとみなし、次回の転生で自殺する、というように体験される。 そのため、魂は病み、半狂乱になる。 魂は、自殺に相応しい恋愛事件という外(物質)的な葛藤を探しだす。 全ては魂の振る舞いの結果にすぎず、その魂がかつて世界に向けた(破壊の)矢を自分自身に向けるのである。 このような魂の内面を洞察すると、大変な悲劇が発生する理由が明らかになる。・・・・ ネロのようにはじめは悪人にも思われる人物も、宇宙の公正さや正義を免れることはない。 彼は、かつての不正行為に対する均衡を取らされる形で、不正が自分へと返ってくる。 カルマはこのように公正に働く。 地上の人生を通じて、過去の不正行為の均衡が図られる。 人生を無価値なものと思うように仕向けられ、オーストリアという当時の大国の支配権を犠牲にする形で、カルマの均衡が図られた。 前世での不正行為と、死後に生じる内面的影響を霊視すると、驚異的な形で不正行為の均衡が図られる、ということがわかる。 そのような魂が浄化されると、浄化された能力を次の人生へと治癒的にもたらすことにもなる。 カルマは公正に均衡を図る。 言語道断な人生であっても、その人にいかにカルマが作用するのかの霊視を怠ってはならない。 公正な均衡が図られ、人間の魂そのものは失われない。 公正な均衡が図られ、人生での行為は、時と場合によって、善の力に変化する。 だから、以上述べた運命は衝撃的にみえる。・・・・ ■コメント: この講義では、実際、シュタイナーと恩師のシュレーアー氏との会話から、ネロとルドルフ皇太子との関係に気付く経緯も同時に語られていますが、全体を抜粋したので、特に補足することは無いと思います。 シュタイナーによれば、ローマ皇帝ネロ(紀元37-68年)の魂は、200~300年の後、再び生まれ変り、前世の破壊意識の均衡を取るための人生を送り、さらに1500~1600年後、オーストリアのルドルフ皇太子(1858-1889年)としての人生を送ったというのです・・・。 以前、ご紹介した『スピリットランド』という霊界通信の本で、霊界で強力で邪悪な悪霊の勢力に対する善の力で対抗する光り輝く天使たちが登場するのですが、このような天使について以下のように語られています。 「彼らもまた、あの最低の霊界において罪の償いを果たした者たちである。はるか昔に罪で汚れた服を悔い改めの泉で洗い清めた者たちであり、自らの努力によって奴隷の死の灰の中から甦り、高次の世界へと昇った者たちである。 すなわち、自分たちの罪深い欲望のため無垢な者たちを犠牲にするような考えをもたず、長い年月をかけ熱心に努力し、悲しみと愛で多くを償い、自らの内に存在する悪を征服するために大変な苦労をなすことによって、高次の世界に昇った者たちである。 そうであればこそ、罪を犯した者たちが同じ償いの道を歩めるように支援できるのである。彼らは、地球の霊領域にある天界にいる天使たちである。一度は人間であった者たちなので、罪深い人間の苦労や奮闘に同情し得るのである。彼らは偉大な天軍であり、人を守るに強靭、救う力に強力な者たちである。」・・・という説明です。 自らの悪行はカルマによって、苦しみの経験の中で清算されます。 しかし、その苦しみは単なる清算ではなく、自己の犯した罪への呵責から、善へと立ち返った時に、今度は、悪人・悪霊を愛と慈悲から救済する強靭なパワーになるようです。 まさに、親鸞上人の「善人なおもて往生をとぐ。 いわんや悪人においておや。」という言葉が想起される衝撃的なエピソードではないでしょうか?! ★ ★ ★ 蒔いた種は自らで刈り取らねばならないということである。誰かに刈り取らせようとすれば、今度は、その誰かの立場を経験しなければいけなくなる。どんどん苦悩が増加することになるが、それだけ学ぶ項目が増えると考えれば、捨てたものではなく、救いとなる。
2014年07月09日
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前回の続き。シュタイナーの話からわかることは、現代人の誤謬の多くが、霊(精神)界の真実を物質界にあてはめて、混同してしまっていることからきていることで、特に顕著なのが聖書の解釈である。特に代表的なのはキリストの復活で、キリストが物質界に生き返った(再び受肉した)ように捉えてしまっているが、生き返るなら、そもそも、神が死ぬわけがない。 キリストの到来は、物質界にはじめてやってきたということで、人間しか経験していなかった死を経験したということである。確かに肉体は亡くしたが、そのあと生前のキリストを知る弟子たちには、みえるように霊視を与えたので、キリストがみえたから、弟子たちはキリストが復活し、人間の死を克服したことを知ったのである。 つまり、死が無ではないということを教えたわけである。 このように物質界を優先することで人類はどんどん馬鹿になってきていることがわかるのは、現代人の経済優先の感覚にある。愚かしいことに人類は仲間を売ることで社会的格差を拡げているのである。 そのことがわかる話を以下にお馴染みのサイトから抜粋紹介する。 ★ ★ ★ BNPパリバへの巨額罰金とアメリカとフランス http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140708/1404780909#seeall 米司法省は、仏銀最大手のBNPパリバの米国金融制裁対象国との取引で、100億ドル(約1兆200億円)以上の罰金支払いを求めたそうです。 BNPパリバ巨額罰金、ドル決済やめる動き助長も-仏中銀総裁 6月12日(ブルームバーグ):フランス銀行(中央銀行)のノワイエ総裁は、同国最大の銀行BNPパリバ が米国の制裁対象国と行った取引をめぐる米当局の捜査について、国際取引の決済通貨として米ドルの使用をやめる動きを企業の間で助長する可能性があると語った。 欧州中央銀行(ECB)政策委員会のメンバーでもあるノワイエ総裁は11日、BFMテレビジョンとのインタビューで、「米ドル以外の通貨で可能な限り取引を行うことに企業が最大限の関心を払うのではないか」と発言。「欧州と中国との貿易はドル建てをやめ、ユーロや人民元を使おうということになるだろう。これは今後に影響を与える問題だ」と語った。 関係者によれば、米当局は捜査決着のためBNPパリバに100億ドル(約1兆200億円)を上回る罰金支払いと有罪答弁、ドル決済業務停止の受け入れを求めている。仏当局は罰金要求額の大きさに反発を強めており、ノワイエ総裁は最も強硬な発言を行った。 http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N715B26K50YU01.html BNPパリバは米国内において、禁止されているにも関わらず、スーダンやイランなどの米国金融制裁対象国と、ドル送金や原油の取引の決済などを行なっていたようです。 これに対し、米司法省は100億ドル(約1兆200億円)を上回る罰金支払いと有罪答弁、ドル決済業務停止の受け入れを求めているとの事。 ちなみに、100億ドルの罰金は、外国の金融機関への罰金としては過去最大だそうです。 このイカれた金額や措置に怒った、フランス銀行(中央銀行)のノワイエ総裁は、「「欧州と中国との貿易はドル建てをやめ、ユーロや人民元を使おうということになるだろう。」 つまり! 「何?100億ドル払え?」「ドル決済業務禁止?」 「おいおい、そんな事言うなら、ヨーロッパと中国の貿易、ドル決済やめちゃうよ!」 要は、ドルの基軸通貨からの転落に加速を付けるゾ!って脅迫って感じでしょうか? って事で、ユダヤ米国とユダヤ仏国! 落ちぶれ国家同士の仲間割れで、怒った仏国が米国の本当の弱点を世界に公表しちゃったってお話でした(笑) 世界中のみなさーん、ドル決済をやめましょう! そうすれば、世界はすぐに平和になりますw ★ ★ ★ 戦争で金儲けしてきた罰ですな。続いてシュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ シュタイナー語録【P】(経済秩序の問題について)(改変) http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/17620633.html 【悪の秘儀 ルドルフ・シュタイナー著 松浦賢訳 イザラ書房 P123~】より・・・・そして、宗教改革とルネッサンス以降は経済型の人間が支配するようになった。 君主ですら、経済優先人間に仕えるのみの存在になった。近代の君主が経済優先人間の手先でなかったなどという吹聴を信じてはならない。 (この国のアホ総理と経団連らの悪党をみればわかる。自分たちの金儲けと減税による富の蓄積しか頭にない。連中のブタのような醜い顔をみれば明らかである。) 法と権利という名において生み出された体系は(この点について、一度徹底的に検証してみればわかるが)全て、経済優先人間が考えた結果に過ぎない。 そうしてようやく19世紀になって、経済優先人間に代わって、銀行家のような考え(投資)をする人間が台頭してきた。 つまり19世紀になって、貨幣経済がその他総ての状況を覆い隠すような秩序が、初めて作られることになった。 このような事実を洞察できなくてはならない。・・・・ 「富の栄光の象徴」(貨幣を意味する)のみの支配が台頭することによって、まさにアーリマン(人間を唯物論的な誤謬に陥れる悪魔サタンのこと)が人類を欺く重要な手段が出現した。 そして、もし人類が「経済優先人間や銀行家などによって作り出された経済秩序に、法治国家と(自由な)精神生命からなる組織体を対置させなくてはならない」という真実を洞察できなければ、アーリマンはまさに、この「人々が洞察できない」という隙に、自らの受肉(完全な憑依を示す;つまり悪魔自らの受肉の勝利が確実にやってくることになる)を相応しい方法で準備するために必要な手段を見つけ出すことだろう。・・・・ ■コメント1:(経済格差という社会問題)(改変) 現代は、日本の政治も、世界の秩序も、経済問題に集約されているといっても過言ではないでしょう。 あらゆる価値基準が経済的になったがために、政治自体がますます経済を重視する政策になってしまっています。 そのため、憲法では「労働の権利」があるにも関わらず、企業競争に敗れ、疲れ果てた自殺者は増加の一途を辿っています。 労働者が増えれば納税額も増えるはずなのに、高齢者の仕事は減少し、フリーターやニートは増加しています。 フランスでは、他国から移民した人々が、雇用や国家の対応に不満を抱え、暴動が起りました。 野球やサッカーをする人間が、数十億円もの年俸を手にしてセレブな生活をしているのに、人間の生きる糧の生産は海外に頼りきっているのです。 その海外では、生まれながらに貧しく、幼いの時から労働に従事しているにも関わらず、毎年500万人もの子供たちが餓死しているといわれます。 私たちは、民主主義国家を賞賛して歩んできましたが、本当にこれが「民主」主義なのでしょうか? もし、仮にこの問題を「前世のカルマの法則だから、貧富の差はしょうかない。」とするのなら、確かに、それも問題の一因かもしれません。 しかし、もし『カルマの法則』を引き合いに出すのであれば、私たちは現在の政治を肯定することによって生じる「貧富の差を生み、餓死者を生み、富者が貧者を支配し、搾取する経済政策の支持者であった」という負のカルマを、自分自身に新たに作用させることへの危険性にこそ、注意を払うべきはずなのです。 つまり、悪魔の幻想に魅入られて、問題意識を麻痺させ、自分自身を損なう可能性を危惧すべきです。 だからこそ、シュタイナーの言うように「経済的な人間と銀行家によって作り出された経済秩序に、法治国家と(自由な)精神生命からなる組織体を対置させなくてはならない」のです。 (シュタイナーは社会を人体と同じように3つに分節化すべきであると説いている。三権分立を発展させた話。) ■コメント2:(民主主義的でない資本主義の問題) では、シュタイナーの指摘する『法と権利の名によって生み出された体系は、経済優先人間が考えた結果』とは、現代にはどう作用しているのでしょうか? シュタイナーは「社会の未来」でこの点について詳細を述べているようですが(まだ私には研究途上なので)、ここでは、『神との対話・第2巻』をヒントに、私なりに原因と解決法を考えてみようと思います。 例えば、現在の政治は、「民主主義国家」にも関わらず「資本主義経済」に対して「民主的な制限」を設けていないことに、大きな矛盾が発見できます。 (本来は議会や行政が経済活動に制限を加えるべきだが、経済団体に買収されてしまっている。) 仮に、真に民主的であるなら『本来、地球は誰の物でもなく無料ですし、「土地や資源は皆の物」なので、全ての個人に最低限の生活は確保されるべき』はずです。 しかし、資本主義経済では、『「本来皆の無料だった物」により多額の付加価値を付けることができた人だけが、民主的に?資本や土地の独占を可能にできる』ことになります。 結果として、地球には○○○○兆円?もの価値が付き、地球の土地や、そこから生産する資源などの占有を可能とし、資本的な独裁を可能にします。富者は所有物や資源を、貧者に売り貸しするだけで、不労働所得を搾取し続けることが可能になるのです。 そのため、現在の法律は、「本来、人民のために貢献して得た資本で、人民に平等に与えられた権利を独占することを可能にする」・・・という『矛盾』と『落とし穴』が、そこに生じます。 従って、現在の法律には、結果的として富裕者を優遇し、独占させるシステムを肯定することになってしまっているわけです。 (貨幣を持つものが独占するシステムになってしまっている。) つまり、「民主主義国家」が、いつのまにか「資本(独占)主義国家」に摩り替ってしまっているのです。 私は、ここに、現代のアーリマンの働きを見るような気がしてなりません。 また、地球環境問題を考えた時、もっとも環境に良い職業は、農林水産業といった「第1次生産者」です。 そして、究極的には自給自足の循環型の生活が、最も環境にやさしいはずなのです。 しかし、自給自足の生活者が増えれば、国家の経済成長を妨げることになるでしょうし、外国との競争力も低下してしまいます。 そこで、国家は環境にマイナスである大量生産と大量消費社会を促進し、納税額の多い成功者を賞賛するのです。 また、海外で販売するものを国内で生産し、国内で消費するものを海外で生産し、資源と労力を無駄に浪費しています。 国内で経済的な「勝ち組み」であるエリートとセレブを賞賛する社会的風潮は、その裏にある「負け組み」に象徴される「少子化、自殺者、ニート」問題を肯定することにもなりかねないのです。 これこそ、現代のアーリマン的な幻想なのかもしれません・・・。 ★ ★ ★ しかし、考えてみればわかるが、貨幣をもつ奴ほど自給自足から最も遠くにいる存在で、一人では何もできない奴なのである。だから、つい最近牛丼屋チェーン店が大量辞職で閉鎖に追い込まれたように、全員が一斉に貨幣システムをやめると言い出せば、勝ち組は顔面蒼白になるのである。 ドル決済、皆でやめれば怖くないである。次回に続く。
2014年07月09日
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くだけた話を十分紹介したので、ここで、シュタイナーの話の紹介に戻ることにする。シュタイナーの話では、現代の医療自体が病んでいることを紹介したが、それよりも前に現代の歪んだ医療が原点に戻るべき話を紹介した。それは以下である。 四次元思考を獲得するために その9 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201306280001/ 以下は、上の参照からの抜き書き。 ★ ★ ★ 「悪い事をしでかすことがわかっている人を助けるべきかどうか」という命題は、恐らく、医学についてまわる問題だろう。 勿論、この命題のような至極単純な現実に遭遇することはないが、助けた相手に殺されるような、他人の親切心に付け込んだ詐欺まがいの多くの事件が、巷を賑わせていることもまた現実である。 (神は神に従う者のみを救う。だから、神に従う信仰心をもって自らを救うしかない。) さて、この命題について、1つの答えを与える話を、以前、紹介した「チベット永遠の書」のなかにみつけたので、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 触媒 http://ameblo.jp/universal-mitamamigaki/entry-11040668487.html テオドール・イリオン著「チベット永遠の書」より2 以下に転載してある記述は地震の落石の際に他者(A)を助けようとして、自らが大怪我を負ってしまった若者(B)をチベットの聖者が超自然的ともいえる不思議な力で、応急処置を施し、苦痛に苦しんでいた患者が瞬く間に回復したという現場に居合わせたテオドール・イリオンと真の隠者との会話記録です。 以下 転載開始 他のチベット人たちは終始沈黙したままである。 聖人(真の隠者)をみつめるのがやっとの状態であった。 そして、彼(真の隠者)が別れの挨拶を告げると、誰もが身を震わせながらその場を立ち去った。 わたし(テオドール・イリオン)だけが、この奇跡的な治癒の現場に残った。 彼はやや歩み寄ってきた。 目はきらきらと美しく光輝いている。 その目をみつめていると、過去も未来も忘れ、わたしは「今」をはっきり意識するようになった。 「なかなかの名医ぶりではなかったかね?」と、彼はにこにこしながら話しかけてきた。 何ということだろう。 彼はわたしがほんの二、三秒前に心に思ったのと同じ言葉をかけてきたのだ。 「はい。」とわたしは答えた。 相手はこちらの思いを読み取れるのだ。もはや、耳の聞こえない真似をしている場合ではない。 「だが、わたしが人を癒すのは、ごく例外的な場合に限るのだ。」と彼は続けた。 「たとえば、食べ過ぎばかりしおって体を悪くした者を治して、どんな意味があるかね? まあ、チベットでは西洋の者たちほど食べ過ぎるということはないのだが」 こういいつつ、彼は意味ありげな眼差しをわたしに向けた。 わたしは、その場から逃げだしたい気持ちになった。 「心配はいらぬ」と彼はいった。 「おまえを人手に渡すようなことはせぬ。わしは誰も裏切らないから安心しなさい」 わたしはこの言葉を聞いて胸を撫でおろした。 「さて、わしが食べ過ぎで体を悪くした者を治すのは、その者が治されたときから、過食をしないようになると、判断したときのみなのだ。世の中には、さらに悪事を働き自分の哀れな体をもっと酷使するためにこのような助けを悪用する者たちもいる。だが、例外はある。わし自らが人を癒したことはおまえもみた通りじゃ」 「あなたが救われたのは若者(B)のほうです」とわたしはいった。 「彼(B)が救った男(A)の方を救うこともおできになったはずですが」 「友よ、わしが彼(A)を救うべきでなかったといっても、残酷に思わないでほしい」 「救うべきでなかったと?」 「いかにもその通り」 「それはいささか冷酷なのではありませんか?」 「確かに表面だけみればそう思えるかもしれぬ。だが、実際には違うのだ。われわれに降りかかる不運はすべて、身からでたさび、悪念と悪行の結果なのだ。 ”われわれは蒔いたものを刈り取るのだ。” 岩が落ちる定めにあった男は、今回は救われたが、早晩同じ状況に陥るだろう。もし今生でなくとも、来世には」 この聖人の言葉はよく理解できた。 わたしは一度の話で、二、三語以上の意味をつかみそこねることが間々あるのだが、このときにはすべての意味が了解できた。 「人は悪に対抗しない方がよいのでしょうか? 例えば戦争に対抗してはならないのでしょうか?」 「戦争は、人間の利己心、悪念の産物じゃ。多くの者は心の中で戦争を起こしている。彼らは絶えず色々な方法で隣人と戦いながら、同時に平和を語る。 戦争が怖いという理由で戦争に対抗するのであれば、そのような抵抗に何の価値があろうか。症状に立ち向かってはならない。 心を変化させることだ。」 どんな国であれ、このような人が理解される機会は、ほとんどないだろう、とわたしは思った。 チベット聖人たちの優しさは力ある優しさである。 多くの僧侶や巡礼者、いわゆる理想主義者たちをも含む他のチベット人の優しさが弱さからうまれたそれであるのに対し、聖人の優しさはもっとも広い意味での無私の優しさだ。 前者は近視眼的、自己中心的な優しさであり、悪しき結果を生むことのほうが多い。 なぜなら、それは症状を覆い隠し、このような症状の原因というべき、誤った生命観によって作り出された腐り切った中身を、忘れさせてしまうだけだからだ。 転載終了 ここを読んでいた時思ったのは、臨死体験談や、輪廻転生と同じ教えである、ということでした。 また「日月神示」にある「改心第一じゃ」という言葉の意味も、「症状に立ち向かってはならない、心を変化させることだ」というチベット聖者の言葉と同じことを言っているのではないか?と思いました。 以上であります。ありがとうございます。 ☆ ☆ ☆ 続けて、シュタイナーの話を紹介する。現代の哲学も病んでいる。 ☆ ☆ ☆ シュタイナー語録【V】(哲学の闇について)(改変) 【悪の秘儀 ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 イザラ書房 P169~】より・・・・ ご存知のように、デカルトが明確に表現しようとした「我思う。故に我あり。」という命題が-この命題は、さらにアウグスティヌスにまで遡ることができるが-西欧世界全体に浸透している(1919年)。 西欧の人々は、思考により霊魂(精神)の存在を捉えられる、と信じた。 しかし、もし感覚(物質)界の中に生きる人間の真実を表現するなら、この命題を次のように書き換える必要がある。 「我思う。故に我(この世には)ない。」というべきである。 というのも、人間は考えはじめた途端、つまり、内的な思考に没頭する瞬間、もはや感覚界(この世)には存在しなくなるからである。・・・・(この間、図解や例によって、この命題の詳細を説明)・・・・ 「我思う。故に我なし。」という深遠な真理を、アウグスティヌスからデカルトに至るまでの哲学は闇で覆ってしまった。 このような暗闇の中では、人間は、決して誕生と死の秘密を探り出すことはできない。 なぜなら、この哲学では、「いつ魂ははじまったのか?」という問いに対しては、「誕生とともに」という答えを、そして「いつ魂は終りを迎えるのか。」という問いには、「死とともに」という答えを用意することになるからである。 これに対して、超感覚的な真理を知っているなら、次のように答えることができる。 「魂は、魂としての人生を展開していくことをいつやめたのか?」「それは人間として(この世に)生まれたとき、あるいは受胎したときである。」 「魂は、超感覚的な存在として人生を、いつ再び展開しはじめるのか?」「それは、死ぬときである。」 つまり、人間は、この地上に生まれ死ぬことで、魂のみの人生を中断する。 その目的は、超感覚だけを、魂の人生の中に作用するだけでなく、地上の感覚からくる成果を受け取り、それを人生全体のなかで携えていくことができるようにすることにある。・・・・ ■コメント: シュタイナーは、『哲学』の諸説にさえも、唯物論的な錯覚があることを指摘しています。 また、私は哲学に詳しくはないので、難しいことは判りません・・・。 でも、簡単に推測すると、「思考する私の本性は、肉体を持つ私の思考(現世)に帰するのではなく、肉体を脱した霊魂の世界に帰するべきである。」という意味だと思われます。 そうでないと、肉体を持った人間には「われ思う、ゆえにわれあり」=「われ死す、ゆえにわれ無になる。」という、霊魂否定の唯物論的な命題に陥ってしまう、というわけです。 (現代人のほとんどが死ねば無になると思いこんでいる。) 一方、アウグスティヌスは、キリスト教の原罪を霊的カルマとして認識しなかったがゆえに、対立する異教徒に反対し、結果的に本来のイエスの聖言「敵を愛し、迫害者のために祈れ」に矛盾することになります。 本来は、異教徒の負のカルマを思えば、その行く末を案じて神に救いを祈ってあげるべきだったはずです。 (「おぉ神よ、赦したまえ。彼らは自分たちが何をしているのか理解していないのです。」とでも祈ってあげるべきだった、ということ。) それは、原罪や愛といった言葉を、霊的な真実としてではなく、物質的に考えてしまった錯覚といえるのかもしれません・・・。 そのために、「神の恩寵を媒介するのが教会である」という、現代にまで続く錯覚をキリスト教にもたらし、信仰の自由を義務に、義務を肉体的行動の強制・制限・制約に縛りつけてしてしまったのです。 以前、ご紹介した『神との対話(3)』7章でも、これと同じようなことが触れられています。 同じく『パワーかフォースか』でも、イエス・キリストの語った真実はレベル1000。2世紀までに真実はレベル930、6世紀までに540、11世紀初頭から現代までは498(に減少した)としています。 これによっても、キリスト教は、歴史と共に間違った解釈を重ねてきたために、真実性を失ってきたことを証明しています。 ただ、私自身、学生時代に化学を研究していたために、一時期、物質次元的な哲学や様々な宗教的観念に魅入られてきましたので、生意気なことは言えません。 アウグスティヌスからデカルトの間の哲学の誤謬は、彼らだけの責任ではないはずです。 むしろ、アウグスティヌスやデカルトを信じてきた大衆こそが、こうした哲学を支持してきた事実を忘れてはいけない気がするのです。 その意味でも、こうした哲学者を悪だといって裁く権利は、私たちには無いはずなのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年07月08日
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自称霊能者の話によると、本当かどうかわからないが、あの世では割と似た者同士、価値観が近い者同士で暮らすというが、この世がとかく暮らしにくいのは、価値観が全く異なる人と暮らさないといけないというところにあると思う。 では、前回の話を続ける。 ★ ★ ★ 上から目線の人にイライラしない自分になる方法 http://www.kotoba-therapy.com/relationship/uekaramesen.htm 上から物を言われてムカッときたことはありませんか? 自分の立場から相手を見ると何だかイライラしてきます。自分のことを見下されているような感覚になるためです。 でも、そんな上から目線の人にイライラしないコツは相手を変えようとすることではないような気がします。そんな人はいくらでもいるし、一々そんな人を変えようとしていては人生が終わってしまいます。 少なくとも私はそんなことに時間を使って終わる人生は嫌だと思うのです。 では何をすればよいかと言うと、自分の方が変わってしまう。つまり、上から目線の人に一々イライラしない自分になることが一番簡単で楽な方法だと思うのです。 そういう自分になってしまえば、今後どれだけの上から目線の人に出会っても、笑ってスルーできるようになります。自分が変わるというのは、自分が楽になるということにつながると思うんです。 自分を意図的に見下している人には 上から物を言う人は、殆どの場合、無意識というか、意図的ではなく、そう言ってしまっているケースが多いようです。 ただ、中には意図的に、わかっていてあなたを見下してくる人がいるかも知れません。 もし、相手が意図的にやっているとしたら、そんな相手への対処法は「付き合わない」「相手にしない」というのが一番です。仕事上のお付き合いなら必要最低限のお付き合いに留めることだと思うのです。 そういう人に対しては自分が変わろうとする必要なんてないし、勿論、相手にする必要もないと思います。 ただし、殆どのケースでは、相手は意図的にやっているわけではなく、どちらかと言うと受け取る側が「上から目線だ」と捉えてしまうケースが多いのかも知れません。 「上から目線」だと感じる理由 例えば、会社の社長が従業員のAさんに向かって仕事とは何なのかを教えようとしたとします。 この時Aさんはその社長のことを「上から目線」だとは感じないでしょう。何故なら、会社の社長は自分よりも社会的立場も年齢も経験も、仕事についてのことはすべて自分よりも上だと感じたためです。 自分が尊敬するような人に対しては上から目線だとは感じない・・・という仕組みです。 ところが、Aさんは、同僚のBさんに「営業成績を上げる方法教えてやるよ」と言われてBさんのことを上から目線なヤツだとイライラしました。 何故かと言うと、Bさんのことを自分よりも上だとは思っていないからです。むしろ自分の営業成績の方が上だし、営業としての能力も自分の方が勝っていると感じていたAさんはBさんのことを「上から目線」だと感じたのです。 イライラしてしまう仕組みがわかれば・・・ さて、さきほどのAさんとBさんの話から、何故イライラしてしまうかが少し見えてきました。 「上から目線」だと感じてイライラしてしまうのは、「自分の方が勝っている」と感じている時であったり、「人に勝とうとしている時」であったり、「相手に対して、劣等感を感じている時、もしくは感じそうになった時」だと思うのです。 だとしたら、例えば、明らかに自分よりは経験が上で立場上も上の社長には「上から目線」とは思わないことになります。 でも同僚のBさんに対しては、「自分の方が勝っている」と思っているため、相手のちょっとした言葉に対して苛立ったりしてしまいます。それはきっと自分が見下されたと感じたためであり、自分の中には他人に勝りたいという気持ちがどこかにあるためではないかと思うのです。 他人と比較して勝ちたいと思ってしまうことについて しかしながら、誰にとっても少なからず人よりも勝りたい、劣っているとは思いたくない・・・という気持ちはあるものだと思うんです。 それが強く出過ぎてしまうと、それが原因でイライラしたりするわけですが。 例えば、学生の頃の経験が他人に勝ちたい、周りよりも抜きんでなければならないと強く思わせたのかも知れません。 又は、部活動なので、上下関係が厳しくて、上級生にいじめられたような人はやはり後輩に対しては自ずと厳しくなったりするものです。 だから、学生ではなくなって、社会人になったのに、自分の方が1つでも年上だったりすると、年下の人からの発言は一々気になったり、「なんでこいつにお前とか言われなくちゃだめなんだ?」とか、「してやってくれ」とか偉そうに言うんじゃない!とか感じてしまったりするかも知れません。 でもその気持ちも、自分が上で(年上で)、相手が下(年下)なんだ・・・という考えが自分の中にあるからだと思うのです。これも優劣というか、自分が「優位」で相手が「劣位」という考え方の1つだと思うんですね。 それはやはり学生時代の苦い経験であったり、そういったこれまでの経験であったり、育ってきた環境が根本にはあるのかも知れません。 もし、上下関係が全く存在しない社会で育ったのであれば、例えば、幼稚園児なんかそうですね。誰が年上だとか、あまり気にしないで、みんな名前で呼び合ったりして。 そのまま大人になれたとしたら、オレが年上でお前は年下だろ、言葉に気をつけろ・・・なんて思わなかったと思うし、あいつなんで上から目線なんだ・・・とも思わなかったかも知れません。 思い込みを捨てることで楽になる さて、ここまで書いてきましたが、上から目線の人にイライラしない方法は、それまでに身に付けてきた思い込みを捨ててしまうことだと思うんです。 他人に勝とうとする自分を捨てる 他人よりも抜きんでることが良いことという思いこみを捨ててしまう 年上とか年下という概念を捨ててしまう これらはどれも長い時間をかけて身に付けてきたものなので、捨てるにも時間がかかりそうです。でも、そんな簡単に捨てらないのが当たり前だと思うんです。 そういう私も30代半ばまでは他人に勝つことに必死でした。抜きんでることが良いことだと思っていましたし、何をやっても中途半端な自分が嫌いでした。 でもある時から他人に勝って何になるのだろうかと考えるようになりました。ふと考えてみると、他人に勝てないからという理由でやめてしまったことがそれなりにあったのです。 好きだったのに、負けているような気がしてやめてしまった趣味とかスポーツとか。 それに生きていることに息苦しさも感じていました。それは他人に勝とうとしていたし、どこかで優越感を感じていたい小さな自分もいたし、だからこそ楽しめない自分がいたからだったと思うんです。 そんなことを考えていた時に、他人に勝つことを目標にするよりも、「楽しむことを目標」にしてしまったら人生が楽しくなるのではないか、と思うようになりました。 それから、「楽しくなること」を目標に生きるようにしたのです。不思議なことに、それから人生が楽しくなってゆきました。見違えるように。 そんなちょっとしたことが思い込みを捨てるきっかけを作ってくれるようです。 ☆ ☆ ☆ 価値観は人それぞれなので、比べることができない。
2014年07月05日
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利己主義者の特徴を研究し、不快な思いをしないために、「言葉のセラピー」というサイトの紹介を続ける。 ☆ ☆ ☆ (利己主義者は、自分勝手な人であることが多いので、次の薬が有用である。) 自分勝手な人への5つの対処法 http://www.kotoba-therapy.com/relationship/jibun-katte.htm あなたのまわりには自分勝手な人がいますか? 他人のことを全く考えていない人。他人に迷惑をかけても全く気にした様子のない人。 そんな人を見るとこちらが頭にきてしまいます。でもそうやってイライラしている自分にも疲れていた何とかしたい。 そういう時はまず、相手をどうにかしたいと人は思うものです。でもそれをやるからこそ、余計に腹が立ちます。何故なら、そうやって考えても相手を変えることなどできないから。 同じ日本人だとは思わない 腹が立つのはその相手が自分の思ったようにならないからです。 だから、まず相手を変えようとするのをやめてしまうことが大切のようです。 自分勝手な人がいたとしても、そういう人がいると思うだけ。何かの現象を見ているだけというイメージです。相手が自分と同じ人だと思うと腹が立ちますが、例えば、異国の人だと思ってみる。全く文化も違えば、考え方も違う人って地球上にたくさんいます。 そういう外国の方を見ても恐らくそこまで腹が立たないはずです。それは諦めているから。そういうものだと思っているからです。 逆に言うと、相手が同じ日本人の場合は(自分がまだ)諦めていない。自分と同じであるのが当たり前だと思っているということ。 でもこれをやめると楽になります。本当は同じ日本人でもみんなそれぞれ考え方も違います。人種が違うようなもの。だから、相手は自分と同じだなんて考えない方がよいです。 (私はウイルスだと思うことにしています。○○ウイルスです。ウイルスに感染しないように注意するだけです。) 他人の欠点はよく見えるもの 相手が自分勝手なことを言ってくると、それがとても目立つものです。私たちは他人の欠点を見つけるのがすごく得意だからです。 でもそれは種族を守るための本能の1つなのかも知れません。相手が危険なところに行こうとしたら、それはダメだ。あなたのやろうとしていることは間違っていると相手に指摘する。 そうすることでその人を守ろうとする。 (そういうこと言ったりやったりすると嫌われるよと当人に指摘しても無駄です。自覚させようとしても無駄です。だからこそ自分勝手なのですから。) でもそれがこの現代では逆に作用することもあるようです。他人の欠点を見つけてイライラする・・・これはまさに良い例です。 だから、まず他人の欠点はよく見えるものだと割り切っておくことが大切だと思います。 (結局、ウイルスと思って自分が感染しないように心掛けるしかない。) 自分は完璧かどうか そう割り切った上で、自分はどうなのだろう? と考えてみることです。自分は身勝手なことは一度もしたことはないか?と。 よく親が勝手なことを言ってきて困るとか、おじいちゃんがおばあちゃんが身勝手で困る・・・なんて話も聞きます。でも考えてみたら、子供のころ、その親や祖母などにさんざん自分勝手なことを言ってきたのを忘れているのに気づきます。 結局、自分も完璧じゃないんだ。 そう気づくと他人にも自分にもやさしくなれるのかも知れません。 (自分もウイルスなのかもと思うとぞっとするが…。なるべく感染者を増やさないようなウイルスになろう。オンリーワンの感染しないウイルスならウイルスじゃなくなります。他者に感染しなくても暮らせるならウイルスじゃないってこと。) 人の振り見て・・・ それでもどうしても許せない人もいると思います。そう、世の中には色々な人がいます。大人なのに、心は未熟な人、赤ちゃんのような人もたくさんいます。 そういう人(特に権力者に多い)に向かって、ああしろ、こうしろ、と言っても相手は大人に見えて子供の心しか持っていませんから、わからないのです。 (権力をつかうと、少々の我儘ができるから、権力者に身勝手なウイルスが多い。) そういうわからない人に対しては、腹を立てる代わりに、教えてくれてありがとうと言うと案外すっきりしたりします。 (身勝手ウイルスに感染しないようにすれば、自分が身勝手でないことの証明になる。) 人の振りみて我が振り直せ・・・です。 他人は関係ない 色々書いてきましたが、結局一番大切なことは何かというと「他人は関係ない、自分がどうするか」ということになるのかも知れません。 (結局、免疫力を高めるしかない。) 他人をどうにかしたいという気持ちをやめて自分がどうするかを決める。自分ならどうにだってできますから。その人と付き合うのをやめてもいいし、職場なら必要最低限の範囲で接すればいい。 (できる限り、接触しない。左から右に流す。鏡の反射を利用する。相手が言ったことをそのまま返す。) もしくは、そういう人なんだ・・・と完全にその人のことを諦めてしまうこともできるでしょう。 どれが自分にとって一番楽か・・・そういう基準で考えてみるといいかも知れません。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年07月05日
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前回紹介した以下の「言葉のセラピー」というサイトは非常に素晴らしいので続けて紹介する。現代の聖書ともいえるものである。このサイトに出会ったのも、経験上いままで信じられないほど幼稚な人物に出会った御蔭ともいえる。あまりに幼稚なので、私はこの人物の幼稚さを研究することにした。 言葉のセラピー http://www.kotoba-therapy.com/index.htm そこで、この素晴らしい「言葉のセラピー」という薬の有効性を自分を被験者にして試してみるわけである。この薬を使うまでもなく、この人物からわかることは、この人物は自分が常に正しく最も偉い存在であるという独善に陥っている状態にあり、プライドが異常に高いという点にある。価値観が異なる誰がみても皆一様にそのように捉えているから、笑ってしまう。ご本人だけは自分のプライドの大きさに気づいていないようだ。 多かれ少なかれ、人間はプライドをもつ。一種の利己主義で、勿論、動物にもあるが、集団を超えてまで利己主義をもつことはなく、集団の長が集団を守る意味で、最大の利己をもつわけである。 しかし、人間の場合は、例外で、集団を超えてまでもつ人をたまにみかける。東大生などに多い。そのような人は自分のことしか考えない利己主義者が多い。 では、この人物の特徴から、利己主義者の研究と、その薬の効用を考えて試すことにする。 ☆ ☆ ☆ (利己主義者は、「決めつける人」であることが多いので、次の薬が有用である。) 決めつける人にイライラしない方法 http://www.kotoba-therapy.com/index.htm 何でもかんでも決めつける人がいたりします。 (あんた、裁判官かというくらいにね。) 「あなたって○○だよね」とか、「お前には○○は向いてないな」とか・・・。 でもそうやって決めつけられた方はたまったものじゃありません。何よりも決めつけられるというのは、他人に自分というものをある意味間違った形で判断されているようなもの。 そんなことをされるとイライラしてしまいます。でも、中にはイライラしない人もいると思うんです。そんな人は何故、決めつけてくる人に腹を立てないで済んでいるのでしょうか? それはきっとその相手に対する、もしくは相手の言ったことに対する受け捉え方が違うから・・・だと思うのです。 受け捉え方を変える 「あなたは○○だよね」 そんな風によく知りもしないで決めつけられると腹が立つことがあります。 それはきっと受け捉え方が原因になっているのだと思うんです。決めつけられた・・・という受け捉え方をした場合、自分は明らかに被害者です。その場合、怒りという感情がついてきます。 この受け捉え方と感情というのはある意味セットになっているものだと思うのです。 決めつけられたとしても腹が立たない人もいます。この人達は「決めつけられた」という風に自分が被害にあったとは受け取っていないはずだと思うのです。だから、イライラもしない。 じゃあ、どう思っているか、どう受け取っているか・・・というとそれはきっと、「この人は知らないだけなんだな」・・・という風に受け取っているのだと思います。人によっては例えば「この人はたぶん何でも決めつけてしまう人なのだろう」と受け取っているかも・・知れません。 この捉え方というのが大事なポイントだと思うのです。 「決めつけられた」・・・ではなくて、「知らないだけ」と捉えるだけでその後に続く感情というのは全く違ったものになります。 可哀そうな人・・・だと思うことでイライラしなくなる。 (精神が未熟な人だと思えばよい) 決めつける人をどう思うか・・・ということも自分の感情を決めることになります。 「私のことをよく知りもしないで何でも決めつけてくる人」と思ってしまうと、腹が立ちます。でも、「可哀そうな人」だと思うと、腹は立ってこなかったりします。 決めつける人は、本当は可哀そうな人だと思うのです。 (精神が未熟なので、自分の思い込みが全てだと錯覚している。) 何故か? それは、そういう人は日常的に、習慣的に物事や人を決めつけている可能性があります。そうやって、何でも白か黒か・・・という風に考えたり、思い込みが激しいと、生きていくのが苦しくなります。 まず嫌われてしまいます。 (米国などはそうですよね。勝手に悪魔の国と決めつけて戦争してきたわけです。いま米国と米軍が一番嫌われています。) 相手の気持ちを考えずに、相手を○○だ・・・という風に決めつけてしまうと、多くの場合、相手にはよくは思われません。 物事というのも、多くの場合、白か黒か・・・で判断できないことが多くあります。人についてもそうです。多くの物事は白と黒の間・・・にあることが多いのではないでしょうか。 それなのに、どちらかで判断しようとすると、やっぱり苦しみます。考え方に柔軟性がない人は、それだけストレスも多い人生を送っていると思うのです。 (狭い世界に暮らしている人に多い。職人などで、同じような環境しか知らないから相手に合わせる配慮がない。) 本当に困っているのは、決めつける人に決めつけられた自分というよりも、決めつける人本人の方だと思うんですね。 (自分のプライド―利己主義が守られない世界では暮らせない。自分が王様でないと生きられない人です。) 相手はそういう意味で可哀そうな人・・・です。 自分が被害者だ・・・と思えば、イライラしますが、本当に困っているのは、相手の方であり、問題を抱えているのは自分ではなくて、相手の方だと思えれば、そんな人相手にイライラすることも少なくなると思います。 ☆ ☆ ☆ というように、決めつける人は可哀そうな人である。可哀そうなことにその人物は皆から嫌われている。決めつけをやめて少しでも謙虚になればいいのに人生から学ばないようである。 ☆ ☆ ☆ (利己主義者は嫌われ者であることが多いので次の薬が有用。) 嫌いな人との4つの接し方 http://www.kotoba-therapy.com/relationship/kirainahito.htm 嫌いな人とはできれば付き合いたくはありませんね。でも職場であったり、近所、友達のその友達だったり・・・どうしても顔をあわせなければならないような場面だってあると思います。 そういう時は上手に相手と付き合いたいものです。やはり、嫌な思いをしながら貴重な時間を無駄にするのは避けたいものですから。 1.批判するのをやめる これは嫌いな人だけではなくて、どんな人間関係にも共通して言えることなのかも知れません。相手を批判するのをやめると、関係が驚くほどに改善されます。 ここで1つ気をつけたいのが、他人が例えば、誰かを批判していたとします。それを見て、あぁ、人に批判をしているな、それをやると人間関係が悪化するのに・・・と他人がやっていることをあれこれ言うのも批判していることになります。 自分は他人を批判しない。でも他人がなにをしようとそれについて、あれこれ判断しない・・・それが正しいやり方です。 2.相手は自分の鏡? 相手の嫌な部分というのは実は自分の嫌な部分が相手に映し出されている、ということがよくあります。これは心理学でもよく言われることです。 また、自分自身に許していないことを相手がすると、とても嫌な気分になることがあります。これは、自分に許さないことは他人にも許さないという法則が働いているからです。 ですから、相手に映る嫌な部分というのを自分は持っていないだろうか?と自分を振り返るチャンスだと思えばいいのだと思います。 3.良いところを探すのは難しい? 相手の欠点を探すのを私達はとても得意としています。でも、相手の良い点を探すのは苦手なのかも知れません。 でもそれができるようになると人間関係は円滑になります。 多くの友人に囲まれている人、信頼されている人は相手の良い点を探す達人だったりします。嫌いな人とどうせ顔をあわせる必要があるのであれば、無理にでも良い点を探してみるようにすると気持ちも楽になるかも知れません。 勿論、それは自分自身のためにするのです。嫌な思いをして損をするのは自分なのですから。相手のためにやるわけではありません。 (自分自身のためというと、利己的に聞こえるが、相手に悩まされない自分をつくることは相手との関係のためでもあるので、利他的でもある。) 4.嫌いな人は自分に教えてくれる人 嫌いな人との接し方についていくつか挙げてきました。私は今では、自分と合わないなと思う人、嫌いだと思ってしまう人は、自分に何かを教えてくれる人だという風に考えるようにしています。 (少なくとも人に嫌われる方法を教えてくれる。) そうすると、不思議と気持ちが楽になります。 そして、必要以上にそのことについて考えたりすることもなくなりました。相手のことをどうにかしたいと思っていた頃は、会っている時だけでなく、会っていない時までいらいらしたりすることがありました。しかし、それも変わったのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年07月05日
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あまりに高尚な話ばかり紹介していると退屈してくるので、日常的な話を紹介する。物質界に暮らしていると、外見ばかりに囚われてくるので、いわゆる外見に騙されて、本当の年齢、つまり魂の年齢、いわゆる精神年齢がみえなくなってくる。 例えば、いま巷では汚職を誤魔化そうと、子供のように泣きじゃくる県議が話題になっているが、外見が大人だから、嫌悪感を抱かせるわけで、もし、外見が精神と同じ子供だったら、ただ子供が泣いているだけで話題にすらならないだろう。 他者への配慮に欠ける子供を政治家にしてはいけないので、投票の際に重要なことは、候補者の精神年齢を思い描くことである。これは霊視の訓練にもなる。常に精神年齢を思い描くようにすれば、あの人は子供だからといちいち相手にせずにイライラしなくて済む。 精神年齢を思い描くようにすれば、精神が十人十色であることがわかる。つまり、価値観は1人1人違うのである。しかし、物質界に暮らすうちに、価値観が全く同じでなければいけないかのように思えてくる。精神に物質を強引にあてはめて、物証しようとするから話がややこしくなる。 このような話は男女間によくみられる。そもそも男女は陰と陽で全く価値観が異なるので、自分の価値観を相手に押し付けてはうまくいくはずがないだろう。愛している物証が欲しいといっても、男女でその価値観が全く違うので、どちらか、もしくはお互いに合わせないとうまくいくはずがない。 離婚の第一の理由に挙げられるのが、価値観の相違だが、そもそも価値観ははじめから異なっているわけで、どちらかが合わせるのに、疲れたということなのである。 男女間に限らず、精神は違って当然なのである。なにしろ、経験量が皆異なるのだから、経験量が少ない人に、適度な経験量を得て到達する価値観を当てはめてはいけないわけである。子供に大学の教科書を教えるようなものである。 以前紹介した足し算の知性で、経験量が豊富な人が、少ない人に合わせてあげればいいだけの話である。なにより経験を積ませることが先である。 日常の生活の場には、必ず、子供のような精神年齢の人がいるはずである。このような人は大人の身なりをしているから、その外見に囚われ嫌悪感を催してしまうのである。 このような大切なことに気づかせてくれたのが、以下のホームページなので、紹介する。 ☆ ☆ ☆ むかつく奴への8つの大人の対処法 http://www.kotoba-therapy.com/relationship/mukatuku.htm むかつく奴とは随分物騒な言い方で申し訳ありません・・・ただ、イラっときた時はそんな風に口にしてしまうこともありますね。そんな時にイライラして一番損をするのは自分だったりするから、余計頭に来ます。でも中にはイライラせずに済む人もいます。そういう人はただぼーっとしていたわけではなくて、その人なりのテクニックを駆使していたりします。 だから、イライラしない。今回はそんな方法をまとめてみました。参考になれば幸いです。 1.認知的再評価というテクニック(自分を客観視してみる) 認知的再評価というのは、簡単に言うと自分に言い聞かせるということです。以前にテレビである実験がありました。被験者達をある喫茶店に集め、ウエイトレスが非常識なことをして被験者達を怒らせたのです。 その中で怒った人と怒らずに済んだ人がいました。後々その人たちから何を考えていたかを聞いたところ、怒らなかった人は、「この対応は何なんだ!」と考えるかわりに、「今ここにいるのは実験の前の時間つぶしだ。」と考えたそうです。-被験者達は喫茶店で時間まで待っていて欲しいと嘘を言われていたのです。 このようにして自分のことを言い聞かせる行為は脳の中でも前頭前野と呼ばれる理性を司るとされる部分を使うことになります。すると怒りは静まるという仕組みです。 この「言い聞かせ」という方法は下記に紹介する考え方を利用する際にも使いますので覚えておくと便利です。 (思考と感情を切り離す。感情を基にして思考しない。思い込みや先入観をとりさる訓練になる。先に結論ありきの議論ほど無意味なものはない。) 2.同じレベルで考えない マイナスな行動や言動をする人にイラッとするのは、自分がその人と同じレベルまで下がっていることが原因です。例えば、幼稚園児があなたにむかって大人が言ったらむかっとくることを言ったとしましょう。でも殆どの人はイラついたりしないと思うんですね。 それは相手が幼稚園児だから。自分がそのレベルにまで下がっていないので、「はははは、子供の言うことだ。」と笑顔でスルーできたりします。 でも相手が大人だったりすると、同じレベルで怒ってしまう。 でもね、人を傷つけることを言ってみたり、他人を気にしない人、自分のことだけしか考えていない人、怒鳴ったり、わめいたりする人をよ~く見てください。幼稚園児と同じであることに気づくと思います。 そう、相手は幼稚園児なんです。自分もそのレベルにまで下がる必要なんてありません。子供が相手なのですから、「子供だなぁ・・・はは」と軽く流せばよいわけです。 3.教えてくれてありがとう(仙人の技) 嫌なことがあったら、その相手に教えてくれてありがとうといいましょう。不思議とイライラも薄らいでゆきます。他人の欠点が見えたら、そこから学べばいいのです。 (負の念を正の念で返すこと。達人技。) 嫌なことがあった時こそ、ありがとうと言う。これ多くの人が実践していることでもありますが、効果があります。 (精神界の正負の法則で、物質界には当てはまらない。金銭を失ったら取り戻そうとするのではなく、自分には必要がなかったんだと思うと、精神に余裕が生まれる。金銭を失うことで、天国に行けるわけである。天国が思い浮かばないなら、経験を買ったと思えばよい。) 4.嫌な奴を引き寄せない(善導) 先ほどの話の続きでもありますが、嫌なことがあったときに「むかつく!」「馬鹿か!」「あの野郎!」という言葉を使って反応すると、また、その言葉を使いたくなる場面を引き寄せることがどうもあるようです。 (負の念を増幅してしまうと、負の念が寄ってくる。) でも嫌なことがあった時に「ありがとう」と無理にでも言ってみると、嫌な流れが断ち切られ、今度は運を引き寄せることができます。まぁ、これはご説明するよりも、実践していただいた方が分かりやすいとは思います。 是非やってみてください。失うものは何もありませんが、得るものは沢山あると思います。 (負の念を正の念に転換すれば、自分が輝き、嫌な奴は自然と逃げていく。) 5.嫌なことがあったらラッキーと思う これも先ほどの話に通じるところがありますが、嫌なことがあったらついてるとかラッキーと言うようにしていると、何故ラッキーなのか、何故ついてるのかを脳が勝手に考え出してくれます。 (脳は霊魂-精神の働きに反応しているだけ。) 結果的にイライラはおさまります。これも論より証拠ですね。是非試してみてください。 (嫌なことも好きなことも所詮、程度の問題なので、例えば、寒さに耐えた分、熱さを感じる。北海道の人が、少々寒くても薄着でいられることなど。人智学でいえば、病気に罹れば、来世で美しい容姿が手に入る。) 6.他人にお願いすべき時もある(妄想しない) それから、これは当たり前のことかも知れませんが、時には自分の考え方を変えたり、大人の対処法を試す以前にするべきことがある時があります。 私は学生の頃スクーターに乗っていたんですね。ある時、実家を離れて数ヶ月の間、祖父のマンションに住むことになりました。そこでスクーターをマンションの下にとめました。角が空いていたので、そこにとめました。 すると、翌日、スクーターが倒されていて、そこに違うスクーターが停まっていました。そういえば、そのスクーターいつもそこにあったんです。自分のスクーターには足跡がついていましたので、倒れたんではなくて、倒されたのかも知れません。 その時はイラっときて、相手のスクーターを蹴ってしまったやんちゃで幼い自分がいました。でも話はもっと簡単だったんですね。しかるべきところに相談する。この場合はまず祖父に伝え、次に管理人さん、そして、警察ですね。足跡もあったわけですから。 これはまぁわかりやすい例ですが(笑) でもそういう風に悩む以前に警察に相談すべきだったり、しかるべきところに相談すべきという場合も沢山あります。そういう時は悩む前に行動です。 いじめなども先生が何もしてくれない場合は警察に連絡してもいいでしょう。自分に実害がある場合は遠慮なく警察や他のところに相談してください。 (思い悩むより行動が優先。理屈よりも実践が大切。物質界に住んでいるのだから、物質界の規則に従うのは当然。) 7.完璧な人はいない(助け合って生きることが基本) さて、話は大人の対処法にもどりますが、むかつく奴だけではなくて、普段は完璧に見えるような人だって、知らず知らずの間に他人に迷惑をかけていることだってあります。 普通に歩いている時に自分のバックが相手に当たっているのを気づかなかったりすることはその良い例です。当たった人は、なんて失礼な奴だと思っているかも知れません。でも自分は気づいていないのですから。 挨拶なんかもそう。自分が挨拶しているのに、無視されたり。でも相手はあなたの声が届いていなかったり、耳が悪い人かも知れません。 そういう風に自分は気づかなかっただけ・・・というケースは沢山あります。 だから、むかつく奴がいた時は、完璧な人はいない。自分も同じようなことをしたことがないだろうか・・・と少し冷静に考えてみると、むかつかなくなったりします。 (自分も誰かにむかつかれることをしていないかを考えてみる。自分もやっていることに気づくとむかつかなくなる。例えば、電車や競技場などの公共の場での席取りなど。) 子供の声がうるさい・・・と悩んでいた方を私は知っていますが、その方は自分も子供の頃はうるさかくて、大人に迷惑をかけた・・・と思うようにしてから子供の騒ぎ声などが気にならなくなったそうです。 (外見が立派にみえる金持ちが実は節税などしてケチだったり、大企業が本来は国の財政を支えるべきなのに脱税したり減税を望むことなど、完璧にみえる外見こそ実は欠陥だらけの未熟者。) 8.自分の考え方が変わると感じ方がかわる(足し算の知性) さて、最後になりましたが、私達が見ている世界というのは自分というフィルターを通して見えているようなものです。 住みにくい世の中だと思う人がいたり、平和な世の中だと思う人がいたりします。同じ世の中なのに違って見えるのはそれぞれのフィルターがあるからです。 (戦争の経験がある高齢者は戦時中がいかに酷かったか、現在がいかに恵まれているかを力説します。しかし、いまの人は、いまが暮らしにくく、かえって昔の方がよかったような幻想にとりつかれている。ただ考え方が利己的で、贅沢な生活になれてしまっているだけなのである。つまり、世のなかをどう思うかは、個人の価値観なのです。) だから、イライラしたりする自分を変えるには自分のフィルターを変えること。つまり、考え方を変えることです。 すると全く違ったものが見えてきたりしますから。 ☆ ☆ ☆ 世の中を変えるのではなく、自分が変わるために生まれてくるわけです。どんな世の中でも上手くやっていけることが重要である。嫌な奴、価値観の合わない奴ともなんとかうまくやることが経験で学びなのである。
2014年07月05日
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先日みた有名な塾講師のTV講座では、医学がテーマだったので、手塚治虫のブラックジャックを解説していた。私も大好きな漫画だったので、非常に興味深く拝見したが、ブラックジャックの本当の目的は、医師として生命を救うのではなく、家族を奪い、自分を醜い姿にした非道徳な連中への復讐であったことには全く触れてなかったのが残念だった。 ブラックジャックを通して死がうまく表現されているので、ブラックジャックは死神であろう。「ジャック」とは略奪者という意味をもつ。英国で有名なユニオンジャックとは、略奪連合で、海賊の正体を意味する。英国は紳士顔しているが、血統を遡ればわかるが、本当の正体は海賊なんである。ブリテンの地で紛争が絶えなかったのがその証である。近代で、戦争を起こしてきた第一の国は、英国なのではなかろうか? 話が逸れたが、ブラックジャックは、生命の略奪者である。ブラックジャックを死神から遣わされた人間と考えると、ある意味わかりやすい。金持ちには巨額の医療費を要求し、改心しないとメスで切り刻んで見殺しにしてしまう反面、貧しくても、真面目に生きている者は医療費も要求せずにできるだけ助けようとする。患者の生き方により、殺すか生かすかを判断する死神なのである。 またブラックジャックは復讐がテーマだから、ある意味サスペンスである。そもそも復讐対象者を患者として誘きだすために、医師として名を売る必要があったので、モグリの天才外科医という設定になったわけである。 モグリの天才外科医という設定は漫画ならではだが、死神を描き、復讐をテーマとしているカルマ的な話などは、漫画を超える現実性を表現している。復讐と外科医の腕が矛盾しないところが面白い。復讐がテーマなのだが、様々な人間模様をみるうちに、生命の美しさに惹かれていくのがミソでもある。 試しに、ウイキを調べると、 『手塚は「ブラック・ジャックは医療技術の紹介のために描いたのではなく、医師は患者に延命治療を行なうことが使命なのか、患者を延命させることでその患者を幸福にできるのか、などという医師のジレンマを描いた」としている』 とあるように、医師と患者という医療漫画ではあるが、人間の生き方をテーマにしていることがわかる。 さて、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 紹介したブログ主さんのコメントの続き(改変) (今世で輪廻転生や霊界を信じれば、来世とのつながりがわかる。) 対照的に、今世で輪廻転生や霊界を信じなければ、来世において今世との関係に気付けないため、今世は今世のみの、来世は来世のみの意味しか感じとれないわけです。 すると、無意識のうちに霊魂の永遠性を寸断することになるため、自ずと希望の無い人生感になり、殺伐とした虚無感や、精神的な苦悩が生じてしまうのです。 このつながりの断絶から、現在のわたしたちが、虚無感や空虚な心情を感じるとすれば、前世の唯物論的思考のカルマとして生じたことなのだと気付かされます・・・。 (この虚無感や空虚な心情に対する開き直りや居直りが、「自分さえよければよい」であるが、実はその自分とは全くの虚無や空虚であり、中身が空っぽなことにただ気づかないふりをしている虚勢にすぎないことがわかる。精神を物質で捉えようとする愚かさが隠れている。) 私は自らの体験で、虚無感や絶望感は自殺霊などの憑依のために感じるのだと思っていました。 しかし、例えそれが憑依によるものであったとしても、その原因は前世のカルマに起因するのかもしれません。 そして、ここにもう一つの重要な真実が隠されています。 輪廻転生とカルマを否定する人は、「自己の永遠性を否定するため、結果として、その思考を自分自身に負のカルマとして作用させ、来世の自分に裁きを与えている。」のです。 そうであれば、「神様は人に自由を与えてはいるが、決して人に裁きを下すことはない。」ことも理解できます。 さらに、「自分が自分自身を裁く」のであって、本来は「自分が他人を裁く必要は無い」はずです。 それに、霊界を信じる人は、来世の自分を救っているので、「信じる者は救われる」ことになります。 同時に、来世の自分を救うのは今世の自分自身の信仰心なので「神は汝自身を救う者を救う」ことにもなります。 この意味でも、現世において『キリストの復活』や『仏教の輪廻転生とカルマ』を学び信じることが、来世における自分自身を救済する非常に重要な手段であることに改めて気付かされるのです。 だからこそ、この永遠の真理の教えを説いたイエス、ブッダは、現在においても人類の救世主といえるのではないでしょうか。 このシュタイナーの言葉は、現代に生きる私たちに、来世に向かって、希望に満ちた心と健康な器官を築くサポートをしてくれているように感じます。 ☆ ☆ ☆ つまり、本物の医師とは、本当(道徳的)に生きる、ということの教師でなければいけないことがわかる。では、本当に生きる、とはどういうことかを、みていくために、素晴らしいサイトから紹介し、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ シュタイナー語録【A】(今世のカルマが、来世に及ぼす影響について) http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/4665082.html◆『周囲のものすべてを愛し、どのような人とも愛情をこめて接する性向を持ち、愛が溢れ出るような人生を送った人は、来世でいつまでも若々しく、いきいきとした肉体を持つことになる。全ての存在への愛、共感の達成は、いつまでも若々しい肉体を生み出す。』 【薔薇十字会の神智学・西川隆範訳・平河出版社】 解説:ダイエットやエステも大切ですが、人は内面を磨く事によって、来世では、その内面が肉体に表現される事を知ったら、私達は、心をエステする必要があるのかもしれません。 マザー・テレサの来世は、いつまでも若いことでしょう・・・。◆『もし、過去世で、多くの真実に到達したなら、再受肉(生まれ変り)の過程で優れたアストラル体を獲得できる。』 【薔薇十字会の神智学・西川隆範訳・平河出版社】◆『金銭をためたいという激しい営利心を持つ人は、来世で伝染病に罹りやすい体質に生まれる。・・・金銭を儲けようとせず、人類全体のために働きたいという客観的な努力は、エーテル体の中で一つの性向となり、来世において伝染病に対する抵抗力(免疫力)を生み出す。』 【薔薇十字会の神智学・西川隆範訳・平河出版社】◆『多くの人が「自殺をした人は、人生にうんざりしたのだから、人生に執着していないのではないか。」というが、それは誤解である。 まさに自殺した人が、非常に人生に執着しているのである。満足が得られず、楽しみが拒まれたために、死を選んだのである。そのために、物質体(肉体)を失ったことが、言葉では言い表せないほどの苦しみになる。』 【神智学の門前にて・西川隆範訳・イザラ書房】◆『大勢の人々が苦痛と苦悩を嘆いているが、高次な観点から見れば、苦痛や苦悩を克服することで、来世において、この苦痛と苦悩が、叡智と思慮と洞見の源泉となるのだから、嘆くのは正しくない。』 【薔薇十字会の神智学・西川隆範訳・平河出版社】◆『世界の偉大な叡智は、苦悩と苦痛を静かに耐えることによって得られる。苦しみと痛みを静かに絶えることが、来世において叡智を創造する。』 【薔薇十字会の神智学・西川隆範訳・平河出版社】◆『病気に耐えると、しばしば来世で美しい体に生まれる。』 【薔薇十字会の神智学・西川隆範訳・平河出版社】◆『人類の未来の進化のために人智学は必要である。・・・現在の受肉において真理を受け入れた人は、来世以降、深い真理を体現する外見をもつようになる。』 【薔薇十字会の神智学・西川隆範訳・平河出版社】【注意書き】 シュタイナーに限らず、講義や著書を断片的に抜き出すと、誤解が生じる危険は多々あるかと思います。 例えば、ジョゼフ・マーフィー牧師の著書なども、「マーフィーの法則」として有名にはなりましたが、最も本質的な部分である聖書の解説などがほとんど切り捨てられてしまっていて、単なる自己願望の達成のみを目的とした、マーフィー牧師の人格にすら誤解を生む内容になってしまっているものもあります。 シュタイナー自身も「シュタイナーのカルマ論」のなかで、部分的な言葉のみを抜き出して他人に伝える事に、誤解と弊害を招く内容がある事を厳格に注意しています。 以上の点を踏まえて、これを機会に、是非シュタイナーの著書にて、その理論の全貌に触れていただければ幸いです。 ☆ ☆ ☆ 神の言葉(霊界や輪廻転生のカルマの法則)を信じる者は救われる。神の愛と叡智に従う者は、自らで自らを救う。天は自ら救う者を救う。キリストの言葉の本当の意味を理解すれば永遠の生命を手にいれるための薬になる。 キリストの言葉さえも、自分勝手に都合よく解釈を変えてしまう輩がいるわけで、つい最近も、この国のアホ総理が憲法の理念を無視し、勝手に自己都合で解釈をかえて法律を改正する暴挙に出ているから、無知の恐ろしさをまざまざとみせつけられる思いがする。 恐ろしいことに人類はどんどん馬鹿で無知になっている。
2014年07月04日
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前回は、道徳的に生きることが本当に生きていることで、ただ闇雲になんらかの欲望に負けて生きているのは、本当は死んでいるのと同じで、ただ人工的に延命装置で生きているだけで、生き恥を曝していることであることを紹介した。 もし、道徳界のケンシロウ(北斗の拳)がいたら、「お前はもう死んでいる。己の欲望に負けたからだ。」というセリフなどを吐いて、秘孔と呼ばれる単なる延命装置を外しただろう。 本当に生きるとはどういうことか、つまり、カルマの法則に従って生きることが本当の生き方で、人生はただ一度きりではないこと、それには道徳に従って生きる、ということが大切であり、その積み重ねの人生が、永遠の生命につながる、ということがわかる。 すると、人間はお互いが助け合って生きなくてはいけないということがわかる。永遠の生命は全員が一つとなって生きなければいけないことがわかる。自分さえよければいい、というのでは、自分の生命さえも失うことになる。というわけで、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ シュタイナー語録【U】】(来世に若さと美を得る方法について) http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/19287553.html 利己主義的な振る舞いと、それとは対照的な愛に満ちた共同生活のなかに、興味深いカルマ的な関係がみつけられる。 慣習に凝り固まった利己主義と、愛に満ちた利他的な共感のどちらもエーテル体及び物質体に表現される。 ある人生で習慣などから利己的に行動した人は、次の人生(転生)では早く老け、しわが多くなる。 反対に、愛に満ち、献身的に人生を送った人は、次の人生では、いつまでも若々しく、瑞々しい容姿でいられる。 このように、いかに生きるかで、来世のために、意識的に物質体(肉体)が準備できるのである。 ・・・・ 前章で「物質体そのものの振る舞いは、どうなるのか、という疑問に対して、物質体の振る舞いが、未来の運命(宿命)をつくる」と述べた事を思い出してもらえば、次のような疑問が生じる。 では、現世で病気にかかった物質体は、どうなるのか、という疑問である。 この疑問についての次の答えは、奇妙に聞こえるだろうが、理論ではなく、霊視体験に基づいたもので、病気の役割を教えるものである。・・・・ ある人生での病気は、次の人生(転生)では肉体の美しさとして現れる。 病気を通して、肉体が美へと高められ、来世では美しい形態を伴って現れる。あるいはまた、悪しき環境による感染から病気になると、来世では、逆に(前世の教訓が生かされ)美しい環境に恵まれる。 美は、苦悩、苦痛、欠乏、病気などからカルマ的に発展するのである。 驚くべき関係だが、実際そうなのである。 苦悩、苦痛、病気なしには、世界に美は存在しない。 同様のことが、人類の進化の歴史のなかにも現れる。・・・・ 【神智学の門前にて ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 イザラ書房 P96~】 ■コメント: 前回では、「霊界や輪廻転生を否定する人は、来世で苦悩することになる。」ことや「感覚(物質)界にあるものだけで押し切ろうとする人は、そのゴリ押しの態度が肉体に伝わり、神経症になりやすい」といったことをとりあげました。 では、「今世のそうした苦悩は、単に前世のカルマの清算としてのみ意味をもつのか?」という新たな疑問が生じます。 シュタイナーは、『今世の利他的な愛は、来世の若さの持続』として、『今世の苦悩や病気は、来世の美』として、カルマ的に作用する、と述べています。 そう考えると、現在、様々な病気や苦悩という形でマイナスのカルマを経験している人は、来世において肉体の美を準備していることになるわけです。 病気や身体の不自由に耐える努力にも、神様は輝かしいプラスのカルマを用意してくれているのです! ただし、その負のカルマに対して、悲観し、嫉妬し、他人を貶めたりといった利己的な行動に及んでしまえば、せっかくの来世の『美』に、『若さの持続性』を加えることができません。 反対に、マイナスのカルマの意味を、霊的に前世のカルマに起因することと理解し、前向きに受け止め、周囲の人や、自分以上に苦しむ人々に慈善の気持ちをもって接する習慣が身に付けば、その人は『美』と『若さの持続性』を同時に手にする事ができるはずです。 人智学によれば、「ルシファー(悪魔)の誘惑によって、人間が感覚的な欲望や関心に、無制限に落ち込まないよう、形態霊(キリスト)は欲望と関心の数だけ、病気や苦しみを同時に伴うように対策を講じた。」としています。 つまり、私たち人間は、悪魔の誘惑や誤謬によって、強い不足感や欲望を感じ、利己的な行動を犯します。 その結果、負のカルマが生じ、苦悩、苦痛、欠乏、病気を経験しますが、そのカルマによって『美』を準備します。 しかし、もし「利己的欲望」を、「利他的な愛」へと向けられた努力のなかで生じた苦悩、苦痛、欠乏に転化できれば、今世も来世も『美』と『若さ』を維持できるはずです。 それは、狭義の意味では日常的な仕事、家事、育児、教育への苦労、より積極的にはボランティア活動、募金活動といった慈善活動に対する苦労によって、実現が可能なはずです。 そうした生き方の理想的な論理が、『論語』などの道徳的智慧であるわけです。 こうしたカルマの法則によって、シュタイナーが説く「ルシファーを退ける力があります。道徳です。道徳はルシファーを焼き尽くす激しい炎です。」という悪魔や悪霊から身を守る方法論に結びつくわけです。 それゆえ『カルマの法則』は、善因善果・悪因悪果といわれる『因果の法則』とも呼ばれるのです。 誰もが憧れる美貌をもって生まれたオードリー・ヘップバーン(1929-1993)は、その晩年にスイスで積極的にボランティア活動を行った、といいます。 来世で男女どちらに生まれ変わるにしても、美と若さを来世にも保持できるのではないでしょうか? ☆ ☆ ☆ この国の政治家の容姿が醜いのは、国民のためといいながら、その実、自己の欲望の実現、つまり利己主義にあることがわかる。どの面さげて出てくるのか、とよくいわれるが、獣顔の多いこと多いこと。狸や狐にそっくりなのもいる。 ☆ ☆ ☆ シュタイナー語録【T】(改変)(今世において輪廻転生とカルマを認識する意味について) http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/18942876.html ■文献1:【いかにして前世を認識するか 「カルマ論」集成1 ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 イザラ書房 P22~】より 今(1912年)、人類は輪廻転生とカルマを信じることが最も困難な時代に生きている。 世界にわずかしかいない人智学者や、古代の宗教を信奉している人はべつとして、今日の外(物質)的な文化生活に染まった人たちは、輪廻転生とカルマを信じることなどほとんど不可能だろう。 そして注目すべきことに、今日の人間は輪廻転生とカルマを信じることができない代わりに知的な学習に駆られるようになっている。 現代人は精神的に努力したか、物質的に努力したかに関わりなく、来世では、前世を感じる素質を持つようになる。 何に従事したかに関わりなく、現代人は生まれ変ったとき、前世について何かを体験したい、何かを知りたいという強い望みを持つようになる。 つまり、いま我々は時代の転換期に生きている。 輪廻転生とカルマについて知ろうとすることがほとんどない時代と、前世を知りたいという強い望みを持つようになる時代との転換期に、いま生きている。 来世では「前世について知ることができないなら、今の人生は砂上の楼閣のようなものだ。」という激しい感情を自分の内に感じることになる。 そして現在、輪廻転生とカルマを否定している人々が、来世で最も苦悩することになる。 どのように人生が形成されていくかを説明できないからである。 前世を知りたいという、後ろ向きの憧れゆえに人智学が求められるのではない。 現在の人間が再び地上に受肉するとき、人類全体に現れるものを理解するために、人智学が求められる。 今日の人智学者は、霊視力を他の人々に分け与えることになる。 こうして、他の人々も輪廻転生ということを理解できるようになり、理解を通して、魂のいとなみのなかに内的な調和(平和)を得ることになる。・・・・(この間、現在の唯物論者の来世における意識の例を説明)・・・・ 今の人生はそれだけで終わるのではなく、来世の原因をも含むものであると確信している人の来世は、その考えによって意味をもつようになる。 輪廻転生など無意味だと考えている人の来世は、その考えによって無意味で空虚で荒涼としたものになる。 このように、人間が心に抱いている考えは、思考として高められ、来世に移っていくのではなく、来世を形成する力に変化して、来世に現れるのである。 霊界においては、人間が生まれてから死ぬまでにもつような思考は、全く意味を持たず、その思考が変化するということに意味がある。・・・・ 特に、しっかり把握しておきたいのは、「思考そのものは物質界にのみ意味をもち、高次の世界で思考の影響を述べるには、思考が変化するということに注意すべきである。 輪廻転生を否定する思考は、霊界で変化し、来世では、内面の無価値さ、人生の空しさに変化し、その内面の無価値さと人生の空しさは、ついには、苦悩や不調和として感じることになる」ということである。・・・・ ■文献2:【薔薇十字会の神智学 ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 平河出版社 P91~】より 心がけ、考え方、方法などが肉体に影響を与え、心の持ちようが霊(精神)的か、唯物論的かによって来世のあり方が変わってくる。 高次の世界について何かを知っている人-霊界を信じているだけでも十分だが-は来世で脊椎がしっかりした肉体を持ち、神経系統が穏やかに働き、四肢の神経が神経組織の中枢まで穏やかに伝わっていくようになる。 対照的に、感覚界にあるものだけを強引に適応させようとする人は、その強引な態度が肉体に伝わり、神経症になりやすく、落ちつきがなく、ソワソワして、意志薄弱な、脊柱が不安定な肉体を持つことになる。 唯物論者は人体の個々の部位がバラバラに崩壊しやすくなる。 対照的に、霊(精神)論者は人体を融合する。霊(精神)は統一体だからである。 ■コメント: 「もし輪廻転生があったとしても、今世で前世のことを思い出せない様に、来世でも今世のことを思い出せないなら、今世で輪廻を信じることなど全く無意味なのではないか。」 現代人は、輪廻転生とカルマについて、以上のような素朴な疑問を投げかけます・・・。 しかし、シュタイナーからすれば、それは輪廻転生とカルマについて最も重要な要素が欠落した、誤った認識であることに気づかされます。 人間は、今世において「輪廻転生や霊界を信じる」ことで、来世において「前世とのつながり」や「魂のいとなみの中の内的な調和」を準備しているのです。 それによって、今世の経験は来世に活かされ、意味のあるものになるわけです。 それは、前世療法によって、過去世を認識した人の人生観が大きく改善される事実を知れば、どれほど人生全般に、この力が大きく作用しているかが理解できると思います。 さらに、そうした思考は、エーテル体やアストラル体に作用し、来世における神経組織にまで影響を及ぼすというのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年07月03日
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人類がどんどん馬鹿になっていることは、戦争という人殺しで金儲けしている現実をみても明らかだが、死について全く理解できていない点でも、死後の世界を論述している古代人よりは遥かに劣っていることがわかる。 現代人は死を無と考えるが、では、逆に、無から生を証明できるのだろうか。無から生命が生まれるなんていうのは、オカルト以上の馬鹿げた発言である。そもそも、死が無なら、人生全てが無に帰してしまうではないか? それでは人は何のために生きているのか無意味になる。 そもそも親から子が産まれることを物質的に考えるなら、精神だって生き写しになるはずだが、子は自分という自我を既にもっているから不思議である。自我は無にならないのか? つまり、現代人が使う「無」というのは単なる思考停止に陥っているだけである。それ以上は考えられない、というべきなのである。なぜなら、物質的存在を大前提にしているからである。 これは考えてみれば当たり前で、物質界しか想定していないので、それを超えればわからない、無であるとしか定義しようがない。考え方の問題である。 そういうわけで、死を考えるには、物質界を超える考え方が必要で、それは古代人がとくとくと伝えてきた話、神話などから窺い知ることができる。だから、前回の続きを紹介する。 ☆ ☆ ☆ ■参考資料(改変)(1) 霊界と自然(物質)界という二つの世界がありますが、霊界は自然界から何かを引き出しているわけではありませんし、自然界も、霊界から何かを引き出しているわけではありません。両者は、はっきりと区別され相応(対極)によって交流しています。・・・・ (霊界と物質界とは陰陽の関係にある。) 自然界の熱は、霊界のに対応し、自然の光は、霊界のに対応します。熱とのあいだ、および光とのあいだは、お互いに、はっきり区別できることはだれもが知っています。この二つが全く別物であることは、最初の直感で、はっきり見えてきます。・・・・ ところが、実際は、霊がもつ熱はのことであり、霊がもつ光は、のことです。両者はそれぞれ区別されながらも、相応(陰陽の関係)によって一つになっています。人が、神が発するの中で、「熱」「光」を読みとるとき、人のそばにいる霊や天使は、「熱」を「仁愛」と読みとり、「光」を「信仰」と読みとります。・・・・(2) さて、熱も光も、その源は太陽以外のなにものでもありません。ですから、霊界には自然界とは違った別の太陽があり、その太陽はとが出てくるような本質をもっています。反面、自然界の太陽は、自然の熱と光が出てくるような本質をもっています。 霊はみんな、善と真理に関係があり、その源はと以外の何ものでも在りません。善はすべて愛にかかわり、真理はすべて叡智にかかわっています。賢者が何か知ることがあるとすれば、叡智が源になっています。(3) 愛と叡智が神の本質であるからこそ、人間には二つの生命力があることになります。一つは理性、もう一つは意志です。理性とは神から叡智の流入を、自分なりに全部受けとめる能力です。意志とは、神からの愛の流入を、自分なりに全部受けとめる能力です。 叡智を味わうにしても愛するにしても、正しいやり方で行わない場合、人の能力は失われるわけではありませんが、閉じられてしまいます。閉じられると、理性は、たとえ以前と同じように「理性」と呼ばれ、意志も変わらず「意志」とよばれてはいても、本質的には機能しなくなります。 その二つの能力が働かなくなると、人間の全部がダメになってしまいます。つまり、思考すること、思考にもとづいて話すこと、自由な意志にもとづいて行動することが、できなくなります。・・・・(4)・・・・理性の源の叡智と意志の源の愛は以上のように神のなかで一つになっています。しかもその一体性は、人のなかの内なる神にあり、人を一つにする本質にもなっています。 その内なる神と人とを一つにする本質は、神の叡智によるものだからこそ、神の愛なのです。またその人のなかの内なる神の愛の本質は、神の一つにする愛によるものだからこそ、神の一つにする叡智なのです。 その両者は一つだからこそ、神のは一つです。全てのが一つである、というのが神の本質です、神の愛と叡智は一つです。この一体性は、相補的です。この相補的一体性こそが、全てが一つであるという証拠です。・・・・(5) 人間が自己改革し、再生し、救われるよう、神は配慮しておられますが、その場合も、神の摂理は、神の愛と神の叡智の両者に等しく関わっています。神の叡智より神の愛が大きかったり、神の愛より神の叡智が大きかったりすると、人は、自己改革し、再生し、救われることが不可能となります。 神の愛は、全人類を救うことを望んでおられますが、神の叡智に従うものでなくては救えません。人が救われるためのルールは、すべて神の叡智に従うことです。神の愛も、そのルールを踏み外すことができません。なぜなら、神の愛と神の叡智は一つのもの、つまり一体性のうちで働くものだからです。 【神の愛と知恵 エマヌエル・スウェーデンボルイ著 ラテン語原点訳 アルカナ出版】より(1) 私は信仰をもつこと自体には反対しません。それが理性を土台としていて盲目的でなければ結構です。スピリチャリズムの思想を正しく理解した方なら、手にした真理が全体のほんのひとかけらに過ぎないことはご存知だと思います。物的身体に閉じ込められているあなた方が、真理のすべてを手にすることは不可能なことです。 霊界へ来ても同じことです。となると、手にしたかぎりの知識を土台とした信仰をもたねばならないことになります。さて、そうした知識を土台とした理性的信仰をもっていることは、大いに結構なことです。そのこと自体に何ら問題はないと思います。 それが病の治療にとって好ましい肯定的な雰囲気を形つくるからです。霊的エネルギーは明るく楽しい、愉快な精神状態のときに最も有効に作用し、反対に、いじけて疑い深く、動揺しやすい否定的な心は、肯定的な雰囲気をかき乱し、治療の妨げとなります。 【シルバーバーチのスピリチャルな生き方Q&A スタン・バラード/ロジャー・グリーン共著 近藤千雄訳 ハート出版】より ★ ★ ★ 神の叡智(言葉)を信じる(従う)ものは救われる。つまり、神の叡智(言葉)である、自然法則の背後にあるカルマの法則に従って、光と愛の均衡を探り、治療しなさいということなのである。道徳的な生き方をしているかどうかで生死が決まるということである。これは長い短いではなく、深く学んだか、逆に怠けたかである。 死すべきときに生かすな、生かすべきときに殺すな、ということである。生死自体が問題ではなく、人生において光に向かってどれだけ進み、そのなかから愛を育んだのかが問題なのである。 戦争で金儲けするような輩は本来は死んだほうがいいが、それでは慈悲がない。肉食している人は、肉食の背後に生命の犠牲があることを考えるべきである。肉食するなということではなく、自分の生命も社会福祉や地球の生命に奉仕し、寄与しろということなのである。生き恥を曝すような奴は死んだほうがマシというわけである。 馬鹿(金持ち)は死ね、賢者(貧者)は生きろ!ということである。困難な環境ほど生命力が高まるというのは絶望の淵に神が現れるということである。
2014年07月03日
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一昨日、TVで西洋医学と東洋医学について、有名な予備校講師の非常に面白い講座をみた。特に面白いと思ったのは、西洋医学が引き算で、東洋医学が足し算と譬えた、漢方医学を講義した医師の見解である。 以前、知性の叡智化というべきものを紹介した。現代人がよく用いる知性とは、仏教でいう分別知であり、いわゆる分析による知性で、分析は現象の裏にあるとされる基本要素に還元していく解体作業で、端的にいえば、引き算の知性なのである。 この引き算の知性は次第に細分化していき、留まることを知らずに、行き過ぎると専門馬鹿になる。解体しないと知性が得られないので、破壊の知性ともいえる。この背後には還元主義がある。引き算の知性は行き過ぎると、自らを解体しないではいられなくなる。すると、わからなくなるのである。 これとは対照的に、足し算の知性というものがある。これは分解したものを組み立てなおす知性である。西洋哲学では、「再構築」などと呼ばれるが、あえて東洋哲学でいうなら、ありのままに知る、というもので、「既知」というべきだろう。 生命の原理は、この破壊せずに、そのままありのままに見ないとわからないものなのである。引き算の知性からみれば、ある意味、透視のようなものである。引き算の知性に馴らされてしまった現代人には、透視などはオカルトのようなものにみえるだろう。 しかし、実は現代人でも自然に足し算の知性を用いている。相手の心を読むということは、実は透視の一種なのである。それに経験から得られる知性も足し算の知性といえるだろう。 このように譬えると、引き算の知性と足し算の知性が全く違うかのように錯覚するだろうが、実は同じなのである。引き算の知性は、対象を変える作業だが、足し算の知性は、自分を変える作業なのである。 端的にいえば、引き算の知性は、観察者の知性はそのままだが、観察対象を変化させることで、いわば、相手を自分に合わせようとする作業であるが、足し算の知性は、観察者側の知性を変化させる、つまり自分を相手に合わせる作業なのである。 どちらの作業も、共鳴することに力点を置いている。相手を自分側に近づけるのか、自分が相手に近づくかの違いで、いずれも共鳴状態を探る行為にすぎない。 とどのつまり、人生とは、共鳴状態の探索行為といえる。相手を自分にあわせるように命じるか、自分を相手にあわせるかで、人生は引き算、もしくは足し算となるのである。 病気とは、端的にいえば、共鳴状態の探索行為が鈍い状態にある、ということである。西洋医学が、アロパシー的であるのは、引き算の知性だからで、西洋医学が権威主義なのは、相手を自分にあわせるように命じることが基本になっているからである。だから物質分析には優れるが、この知性ではけっして死を理解することはないであろう。 引き算の知性では、終いには死を自分の死でもって定義しないとダメだからである。つまり無になってしまうのである。しかし、死は現に存在する。西洋医学が死を定義するには、引き算の知性で知性を思考停止し、死を定義しないとダメなんである。 生きている医師が死を定義することは不可能である。だから、西洋医学はたえまない自己満足の整形を続けるしかない。肉体を切り刻んで納得したときに死を迎えるのである。 死を理解できないでなぜ医学といえるのだろうか? 西洋医学に比べれば、東洋医学では死は割と明確に定義されている。あの世に行くということである。成仏はこの世を卒業したことになる。ただし、この世での未練全てを断ち切れた場合のみである。 自殺が悪いのは、この世に未練タラタラなのに、つまり卒業時期でもないのに、勝手にこの世から出てしまうからである。修行放棄である。卒業時期は、教師である指導霊が決めることなのである。 西洋医学からみれば、東洋医学はオカルトにみえるだろう。東洋医学は、足し算の知だから、死を理解するためには、死を乗り越える必要があるからである。東洋医学では死者の霊魂と交信することを試みる。 現代の東洋医学を想定すると語弊があるが、本来の東洋医学は、霊視が基本になっている。霊能力のない医師は藪医者なんである。気は気体、血はエネルギー、水は液体のことだといえば、少しは科学的にみえるだろうが、アリストテレスの4大元素霊のことだといえば、いかがわしいようにみえるだろう。 アリストテレスは西洋人だが、その医術は、実は東洋医学に近いものなのである。西洋医学の源流も実は東洋医学なのである。死が理解できなくなってから、ソクラテスが死後にあの世に行くことを知っていたから平然と毒杯を飲めたことを理解できなくなってから、西洋医学が生まれた。 死が理解できなければ何をやっても無駄である。シュタイナーの話の紹介を続ける。 ☆ ☆ ☆ シュタイナー語録【Y】 http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/22164531.html 人間も含め宇宙全体を1つとみなせる注目すべき関係がある。 「物質は光で織られたもの。心魂は愛が希薄化したもの」という言葉のなかに、地球についての無数の謎を解く鍵がある。 この鍵は、地球だけに通用するもので、他の宇宙や天体には通用しない。 カルマの方向を転換するとき、地球を構成する要素と結びつく。 カルマの一方の方向では物質となった光、他方では心魂となった愛と結びつく。 人間の病は、周囲、すなわち濃縮化した光から、薬を取ってくるか、心魂の力によって癒すかのどちらかである。 光に結びつく一方で、他方でも愛に結びつくとき、地上と天からの内(精神)的な深みとの間の妥当な均衡と結びつく。 「地球」の状態とは、光と愛の均衡が図られている状態である。 光と愛の均衡が乱れると、不健康になる。 愛が弱くなるときには、人間は自らの愛の力を発展させることで支援できる。 光が弱くなるときには、人間の内のなかにある闇を消し去る光を、周囲から薬として得ることにより治癒できる。 以上の2つが、人間を救う基本要素である。地球では、全てが対立する陰陽の均衡に基づき成立している。 光と愛は、本来は対立する要素である。 地球での人生において心魂と物質のなかで経過するもの全ては、最終的には光と愛の混紡に基づく。 だから、人間生活のあらゆる面で、均衡が一方に傾くと次には他方に傾くというシーソーのような形で、時代から時代へと発展してゆくことは驚くにあたらない。 規則的に振動するような形で全てが進化していく。 実際に、人類の進化は、宇宙の振動に譬えることができる。 下降したかと思うと上昇し、振り子のように均衡が乱れると、再度均衡へと状態は調整される。 遠い将来、人間が何万回もの受肉を通して、「地球」で到達し得る最終的な均衡状態を形成する時まで、そのような均衡の乱れと回復が繰り返される。 遠い将来、人間は「地球」での使命を果たし、「地球」は新しい惑星形態(木星)へと移行していく。 いま述べた事実を抜きにしては、カルマからくる関係やカルマの法則を深く理解することは不可能である。 だから、今日の科学にはまだ理解不可能な、「物質は濃縮した光であり、心魂は希薄化された愛である」という秘密を取り上げる必要があったわけである。 【カルマの開示 ルドルフ・シュタイナー著 西川龍範訳 イザラ書房 P291~】 ■コメント わたしたち人間は、霊界に由来する心魂を肉体に担って、この物質界に人間として誕生し、生活しています。 心魂を担った肉体を持つ存在が物質空間で生きる、という地球の独自性は「愛と光の均衡」によって保たれているようです。 シュタイナーは『物質は濃縮した光であり、心魂は希薄化された愛である』という霊的な事実を前提とすると、『愛』と『光』のバランスが偏った時、人は不健康になり、バランスが取れた時に癒しが得られる、と云います。 (人体のなかで、このバランスをとっているのが、心臓の鼓動であるという。古代エジプトの最後の審判を表す壁画にあるように、人間のカルマを図るのに、人間の心臓を、天使の翼「叡智の象徴」と比べるために、天秤にかけたことの意味がわかる。心臓がどれだけバランスをとる能力をもっているのかで、当人の進化レベルがわかる。) さらに、シュタイナーは、このカルマ論の後半で「人間が外界の物質に織り込んだ闇を取り去るにつれて、愛は外界から人間へと流れだす。」「人間は光に向かって進むことで、光のなかの心魂的な対象(愛)を発展できる。光のなかの心魂的な対象の像は叡智である。」とも述べています。 (フィロソフィーの本当の意味は、光のなかの愛、つまり叡智をみつけることである。) そして、私たち人間が、『愛と叡智』に純化されてゆくと、アーリマンとルシファーという存在を克服し、同時に、ルシファーとアーリマンを救済する愛を創造できるようになる、と云うのです・・・。 ですから、霊界に由来する『希薄化された愛』である心魂は、『光』という物資界の中から『叡智』を汲み取り、その『叡智』によって(周囲の)闇に『光』を照らしていき、照らした『光』によって人間は外界から『愛』を汲み取る・・・ という流れの渦中にいるのかもしれません? (人間が灯や蝋燭の火に譬えられる理由) 物資界に生きる人間は、『愛』と『光』の振り子によって、自身を癒しながら少しずつ向上してゆくのでしょう。 実際、わたしたちは神や他人の『愛』によって癒されますし、『光』そのものによっても癒されています。 (リッターの光線力学的療法など。) また、霊的な真実である『叡智』によって信仰を深めることで、周囲に『愛』を注ぐことができるようにもなります。 そうして、魂はこの世で『愛』の糸を紡ぎ出し、現実界からは『光』の糸を紡ぎ出しているのかもしれません。。 それは、縦糸としての光と、横糸としての愛とが、機織(はたおり)のように、地球という名の反物を織ってゆくような作業なのかもしれません・・・。 とはいえ、内容が余りにも深遠過ぎるため、概念のみであまりイメージが湧きません。 しかし、スウェーデンボルグにも『愛と叡智』や『人間の救い』について、同じような叙述がみられます。 【霊界の太陽が『愛と叡智』】として存在し、【物質界の太陽が『熱と光』】として霊界の相応の理として存在している、というのです。 よって、以下の参考資料(次回に紹介するかも)を読むと、シュタイナーの言葉も矛盾なく整理できるように思います。 むしろ、スウェーデンボルグの言葉の方が、解りやすいかもしれません・・・。 そして、神の愛と叡智の一部を知ることができた時、シルバーバーチが告げるように、 人間は明るく楽しく、愉快な精神状態の中で癒されるのかもしれません・・・。 ☆ ☆ ☆ 論語読みの論語知らずと同じで、聖書読みのキリスト知らずが多いことですな。聖書を唯物的に解釈してしまえば意味が通じなくなる。聖書は読み方によっては治療薬にもなる。キリストの働きを描いているからである。 金持ちは天国にはいけないという薬が効かない馬鹿が多いようで…。馬鹿は死ななきゃ治らんですな。馬鹿には死はよい薬ということなんである。金持ちほど往生際が悪いのもわかりますね。
2014年07月02日
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人は何のために生まれてくるのか、そして生きるのか、ということを考えたことのない人は恐らくいないだろう。わずか100年生きるだけでも順風満帆に過ごすことはできないものである。 人智学を独学してきていえることは、性格を思うように変えられるために、人は生きる、とだけはいえる。 昨日TVでホテルの話をやっていた。異文化に触れるために、人は旅をするという。異文化に触れることで、自分が何者であるかを理解できるからである。 例えば、赤い布が赤くみえるのは、赤以外の光線を吸収し、赤だけを反射するからだが、つまり、赤以外の色があるから、それを分離することで赤が際立つわけである。 これと同じように、自分たちとは違う文化があるから、自分たちの文化もあるわけで、元々は1つということがわかる。そのようなシュタイナーの話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ 人智学に照らした栄養学(改変) 84 食べものについて(改変) 菜食とは脂肪分を摂らない食事である。人体は自らで脂肪を製造する能力をもち、「脂肪でないものから脂肪を作る」ように要求される。つまり、菜食にすると、人体は、内的に脂肪をつくる活動を展開しなければならず、脂肪の製造に必要なものを使い尽くすように内的に働かなくてはいけなくなる。しかし、動物性脂肪を摂取すると、そのような活動が省かれる。 唯物論者は「なんらの活動なしに、沢山の脂肪が獲得できるなら、それは人体にとって都合のよいことである」と考える。しかし、精神的な立場から、「内的な活動こそが、霊的な生命本来の進化に相当する」とみるべきである。 自らで脂肪を作り出す力を呼び起こせるとき、その内的な活動を通じて、自我とアストラル体が物質体とエーテル体に対して主導権を持つ。動物性脂肪を摂れば、その結果として、自分で脂肪を作り出す労力が省かれ、省いた分、力が有り余るが、逆に、その力のために、動物性脂肪に依存するようになる。 しかし、菜食にして、自らで活動する機会を得れば、自我は、物質体に束縛されずに自由になり、肉体の主人になる。 人間が動物から摂取するものは、動物の物質的な脂肪と肉だけではない。動物のアストラル体が産出したものも、一緒に摂取する。 菜食により、アストラル体に眠っている本来の力を呼び起こせば、内的な活動力を自分のなかに完全に目覚めさせることができる。 自分がまだ十分に強いとは感じられず、「アストラル体に全てを行わせるには無理がある」と思われるときは、肉食によって、ある程度の助けが得られるが、依存心が生じる。だから、逆に「人間が内的に益々自由になるのは、菜食の御蔭」と考えられる。 また例えば、人生を物質的に味わい尽くすために、自分たちの特異な性格を拡げるように努める闘争的な民族がどんな生活をしているかといえば、肉食中心の生活をしているのが分かる。 対照的に、性格を特に内面化し、日々、瞑想的な生活をしている民族は、もっぱら菜食中心であるのが分かる。 (肉食厳禁な仏教的な生活) 菜食にすると人間は内面的になり、自立して、自分という存在全体を導けるようになる。菜食中心にすると、自分のなかの内力が優勢になり、視野が広くなる。肉食中心の人は狭い観点に縛りつけられ、一面的な見方に固執するようになる。 肉食を完全にやめた場合に、全てをアストラル体から遂行するだけの力を持たない人には、ミルクが適している。 85 飲みものについて 次にアルコールを考える。アルコールは植物から作られる。人間が自身の中心点たる自我の力により遂行すべき行為を、アルコールは植物を通して、外(物質)界に引き起こす。 アルコールを摂取すると、通常、自我から発せられる活動を、アルコールが(自我から)横取りしてしまう。アルコールによる略奪は、人智学により解明された事実である。 アルコールは自我の活動を模倣するが、模倣の分だけ、内的な自己の代理者に委ね、人間の自我はアルコールに従属してしまい、奴隷となる。アルコールを飲まなければ、自我から最良の力を呼び起こし活動させていたのに、もはやその力を失ってしまう。アルコールという代理がいなければ自我自身で行なっていたはずだが、この代理が、自我の背後で勝手に行ってしまうようになる。 他にも多くの食品が独特の作用を人体に及ぼす。例えば、コーヒーである。コーヒーには興味深い作用がある。コーヒーの作用は、アストラル体にまで及ぶ。カフェインによって、人間の神経組織は、通常なら自らの内力を通じて生じる活動を、コーヒーの作用を利用して行なうことになる。 「人間の全ての行為は、いかなるときにも、自らのアストラル体から行なうのがよい」とは、誰も言えない。 コーヒーも植物から採られた飲み物だが、植物の働きを既に物質的に一段階進めている。その結果、コーヒーは人体の活動の一部を横取りする。神経活動が行う首尾一貫性と論理性などがコーヒーの作用に担われるようになる。コーヒーを飲む人は、論理的思考や統一的思考への集中力をコーヒーの作用に依存するようになり、その人の本来もつ内力が、その分弱まってしまう。 コーヒーを飲みながら世間話をすると、一つの対象について完全にこき下ろすまで思考が停滞する。それは神経活動が行う機知ではなく、コーヒーの作用なのである。 対照的に、お茶や紅茶はコーヒーとは正反対の作用を生じる。特に濃い茶を飲むと、思考は飛躍し、明るくなる。茶の作用は、機知に富んだ思考、もしくは一見見栄えのよい思考を輝かせるが、その思考の部分部分は薄っぺらい。 コーヒーの作用に助けられた人の思考は、ある主題を別の主題へと論理的に整えていくようになる。 茶は、その反対である。コーヒーを飲みながら世間話をすると、悪い意味で論理的に作用する(理屈っぽい)が、茶の場合、思考はとりとめがなくなる。だから、茶は外交的な飲み物として好まれる。 世界問題と人智学(改変) 86 労働とは何か(改変) 「外的な状況を変えさえすれば、全てが達成できる。人類を脅かすものからは法律によって守ることができる」というのが、今日の人々の基本的な確信である。 原因と結果のように、利己主義は困窮と関係している。人間の生活における社会秩序のなかで、利己主義は生存競争をもたらす。生存競争は、社会的な困窮や惨状の出発点である。 (生存競争が経済競争となり、国家という共同体は財政破綻に陥っている現状をみれば明らかである。) 「自分の労働に見合った報酬が支払われるのは当然で、自分の仕事から個人的に所得を得るのは当然である」と、今日の人々は言うが、それは、利己主義を経済活動のなかに配置したにすぎない。 「報酬は個人的に支払われねばならない。私が働いた分は、私に支払われねばならない」という原則で生きているかぎり、利己主義の支配下にある。 (天文学的報酬を得る者はいる反面、貧富の差等の社会問題は一層深刻化している。天文学的報酬は本来は社会福祉に還元されなければいけない。) では、仮に、無人島での生活を考えてみる。無人島で暮らすには、自給自足、つまり報酬を自分で贖わなければならない。ただ闇雲に働いてもダメである。働くことで、何かをつくり、与えなければいけない。もし、労働が他に何も与えない、場合によっては単なる懲罰的な労働だったら、その労働はまったく無益である。 このように「労働自体が生活に意味を与えるのではなく、創造的な労働が生活に意味を与えるのである」という非常に重要な定理に至る。 個人が全体への奉仕のために労働し、個人が必要とするものを全体が与えるときにのみ社会は進歩できる、というのが真実である。自分の労働を自分のために用いないことにより社会は進歩する。 自分の仕事の収益を個人の報酬という形で得ないことで社会の進歩が可能になる。「自分の労働からは自分のために何も得ようとすべきでない。自分は社会共同体に対して労働する責務がある」ということを知っている人は、事業をまったく異なった目的へと導く。 自分のために何も要求せず、社会共同体から自分に贈られるものによってのみ生計を立てるのである。 (資本主義とは全くの正反対である。資本主義は全てを個人の所得に還元させようとするものだからである。) このように、労働への意識は報酬とは別のところになくてはならない。「賃金を労働から切り離すこと」が社会問題の解決になるのである。 人々がもはや「生活が保障されるなら、私は怠けられる(金持ち連中)」とは決して口にしなくなるような意識を人間のなかに目覚めさせるのが、人間の高次な精神についての世界観なのである。 (米国社会が崩壊寸前なのに、米国の資本家たちは見て見ぬふりを決め込んでいる。現状は、シュタイナーの理想とは遥かに程遠い。) 高次世界の実現性(改変) 87 経済(改変) 経済活動のなかで何百年も発展してきたものを真剣に考察すると、経済学において「分業」という名で総括される専門性の意味が明らかになる。 分業の原則から、「完全な分業がなされる社会生命体のなかでは、誰も自分のためだけに生産することはできない」という結論が出てくるはずである。 純粋な経済活動においては、生産、消費(商品)、および生産と消費のあいだの流通の各々にのみ人々は関わる。 生産物は、流通によって商品になる。 例えば、もし、個人が、ある土地を管理する場合、その個人の管理能力が商品となる。個人の管理能力を通じて、土地の価格は変動する。資本管理についても同様である。 このような経済的な事実の意味を現実的に研究すれば、「商品と、土地および資本との間には、根本的な違いがある」ことに気づくだろう。 経済活動のなかでは、土地は商品とは異なった扱いをしなければならない。経済活動上の正当な判断は、実際の経済活動に携わっている人々の合意のみから生じるべきである。各個人が各部分的認識として得る認識は、他の各個人の認識によって客観視されることによって妥当な判断になるからである。 生産、消費(商品)、流通という三つの分野が比較的独立して、元来の性質を発展させれば、正しい意味で統一体へと協同できることを、正当な社会心理学は明らかにするはずである。つまり、生産が発展した精神分野と、人間が人間として他の人に向き合う消費(商品)が発展した法律-国家分野を、連合体へと前進させなくてはならない流通が発展した経済分野の三つである。 精神分野は、独立した基盤から管理されねばならない。例えば、教師は、授業の管理者である。だから、一方に教育学があり、他方には授業内容について、なんらかの政治的組織の指令に従う、というような縦割りに分離しない。 政治-国家分野では、全てについて、各個人の了解を得て、適切な管理制度のなかで成立する。 経済分野では、すでに述べたように、連合体を形成しなくてはならない。 経済活動を刻々と実際的に研究する連合体ができれば、そこでの観察の主題となるのは、いかに価格が上下するかということである。連合体が価格の上昇下降を取扱い、審議することによって、十分な数の人間が経済的連帯を形成し、十分な数の人間が生産部門に携わるように按配すべきである。 社会生活において製品-商品の正当な価格とは、生産者が同じ製品を再び作り出すまで、本人と家族が生計を立てられ、必要なものを調達できる可能性を与えるものでなければならない。 ★ ★ ★ キリストは、天国をこの世にもたらすことがわが使命と述べた。天国とはどういう世界なのか各個人の想像力に委ねられる。地獄の反対であることからわかる。地獄が想像しやすいのは、この世が地獄に近いからである。しかし、この世が地獄だからこそ天国に向かうことができる。
2014年07月02日
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この国はアホ総理一派に乗っ取られてしまったアホアホ国家になってしまった! 久しぶりに神々の嘆きと失望を感じた。 非常に恐ろしいことなのに、その恐ろしさに誰も気づいていない。政治家は馬鹿ばかりである。 全ては不正選挙からはじまっているのだが、権力を行使しているために、誰も取り締まることができない。非常に幼稚園児並みの知性の持ち主に権力を与えてしまったので暴走している始末で、大衆はただ傍観者と化してしまったも同然でただ税金を掠め取られる立場にある。 ここまで日本人の魂は腐ってしまったのだろうか、アホ総理の顔の水ぶくれの醜さといったらない。 私にはW杯日本代表のノー天気発言と被るように思える。実力もないのに大言壮語して、結局のところ馬鹿をみて恥を曝すだけであろう。発言をした人物の目はまるでトカゲのような顔をしていた。私にはもはや人間にはみえなかった。なにか恐怖の目をしていた。 もはや裸の王様であるアホを誰も相手にしないであろうから、いまのところ穏便に済んでいるが、実際に自衛隊が派兵されたときに現実として深刻化するであろう。 そして誰が人類の裏切り者、背徳者であったのか、次第にはっきりと明らかになっていくだろう。 太平洋戦争で儲けた連中が明らかになっていくだろう。 形だけとはいえ、平和憲法を手にいれるまで、300万人もの日本人の血が流されたことを忘れてしまったようである。自分たちさえよければいい連中である。自分たちは戦場にいくことはないと思い込んでいるようである。自分たちの名誉のために、自衛隊の血が流されるだけと高をくくっている。票が多少とも少なくなるだけだと計算している。 天はそのような権力と癒着するような甘い裁きなどはしない。自分たちで決めた法律の代償は必ず自分たちにツケがくるように、やがて何倍もの責任を取らされるような配分がなされるだろう。 天を舐めてはいけない。神々を殺してはいけない。しかし恐ろしきことに、連中には全く信仰心が皆無なことにある。生きているようで実は死んでいる。 私にはアホ総理が血の通った人間にはみえない。冷酷な悪魔の無神論者にさえみえる。 さて、そのような連中に警告するために、お馴染みのサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 集団的自衛権の行使容認、本日午後閣議決定 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140701/1404180944#seeall 集団的自衛権の行使容認について、本日午後閣議決定されるそうです。 集団的自衛権の行使容認で自公正式合意 午後に閣議決定 他国のために武力を使う集団的自衛権をめぐり、自民、公明両党は1日朝、憲法の解釈を変えて行使を容認する閣議決定案について、認めることで正式合意した。両党内の了承手続きを経た上で、安倍内閣は同日午後に臨時閣議を開き、閣議決定を行う。「専守防衛」を掲げてきた日本の安全保障政策は大きく転換することになる。 この日の自公両党による「安全保障法制整備に関する与党協議」では、政府側が示した閣議決定案について、異論なく了承された。政府は閣議決定を踏まえ、今後、日米安全保障条約に基づいて双方の役割分担を決める「日米防衛協力のための指針」の改定交渉に臨むほか、自衛隊法など関連法制の改正や整備を進める方針だ。 合意された閣議決定案は、これまでの憲法解釈では禁じてきた集団的自衛権を使えるようにするため、内閣の判断で解釈そのものを変える内容だ。 日本はこれまで、1981年の政府見解などで、自衛権発動の3要件で個別的自衛権の行使のみを認め、集団的自衛権や、国連決議に基づいて侵略国などを武力で制裁する多国籍軍に参加する集団安全保障については認めてこなかった。 これに対し、今回の閣議決定案に盛り込まれた新たな3要件は、従来の「自衛権の発動」を「自衛の措置としての武力行使」に変更。日本への直接攻撃に加えて「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」があった場合も、武力行使の対象に追加した。「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合などの要件を満たせば、日本が集団的自衛権を使えるようにする。また、集団安全保障でも「自衛の措置」であれば武力を使えるようにするなど、武力行使の範囲を大きく広げた。 公明党は当初、憲法解釈を変えることには「法的整合性がつかない」などとして慎重姿勢を示し、党内には早期の閣議決定に反発する意見も根強かった。しかし、連立を離脱しないことを優先し、政府・自民党が新たな3要件に公明党の主張を取り入れたことを理由に受け入れに転じた。 2014年7月1日08時49分 http://www.peeep.us/bafb52b8 このブログをお読みの皆さんは、とっくにご存知かと思いますが、記事を簡単に整理していきます。 まずは、日本の自衛隊はこれまで、個別的自衛権の行使のみ、つまり、他国が日本を直接攻撃してきた時のみ、反撃出来る専守防衛の部隊でした。 ところが、今回の閣議決定では・・・ 「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」があった場合の集団的自衛権、つまり、米国がどこかの国に略奪戦争を仕掛けた際には、その略奪戦に自衛隊が参加する! さらに、「集団安全保障」つまり、国連の多国籍軍として、他国の略奪に自衛隊が参加する! 要は、破綻寸前のユダヤ金融勢力のために、世界中で自衛隊が無料で使える傭兵の役割をするって訳ですね。 そして、もちろん、日本を戦争が出来る国にした暁には、日中戦争を演出! 円と元を潰して、ドル防衛を果たしながら、戦争ビジネスで大儲け。 さらに、経済恐慌&ハイパーインフレに持ち込んで、米国の天文学的な借金はチャラ。 要は、日本と中国を戦争させる事で、ユダヤ米国の起死回生&覇権復活を目論んでいる訳です。 とりあえず、今回の閣議決定は、ある意味最悪の結果になっていますよね? でも、それがそのまま続くでしょうか? (リーマンショックは連中が想定したものだったのか? そのあとの米国経済の凋落も想定したものだったのか?) あまりに強引な展開に、一般国民の間にも、疑念が広がっています。 「安倍政権は、なぜ他国の戦争に自衛隊を使いたがるんだろう?」 (戦争で儲けた隠し財産を守るためなのでは?とも思えてくる。) 「どうして、消費税とか原発再稼働とか戦争とか、日本人が嫌がる事ばかりするんだろう?」 疑問を持ったら、当然すぐに調べ始めますよね? すると、こんな事を見つけてしまう訳です! ▼安倍晋三と岸信介と統一教会 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20120927/1348754351 ▼TPP参加表明の強行と田布施人脈と明治維新の真実 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130315/1363316406 ▼アドルフ・ヒトラー総統の正体とは? http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140212/1392197563 ▼ナチスのゲシュタポ(秘密警察)長官がユダヤ人共同墓地に埋葬される理由 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20131101/1383272897 ▼最近のアメリカ合衆国大統領は、ユダヤ人? http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20111028/1319809026 これから一気に、この国の本当の姿が一般国民に知られるようになるでしょう! ユダ公をはじめ、政治家やマスコミ人、留学組の官僚etc. やましい連中が、外を出歩けなくなるまであと少し!という感じでしょうか?w ☆ ☆ ☆ いきすぎた楽観論は最悪の悲劇を招くだろう。311の悲劇を美化され、すでに頭のなかには残っていないようである。更なる被害者を求める怪物である。人類の背徳は間違った教えにある。宗教団体をつくってはならない。 宗教団体の掃除がはじまりそうな予感がする。天の怒りが最後に地に現れるように思われる。予言どおりにバチカンは解体されるのかもしれない。戦争を企図し、金儲けしてきた総本山なのだから。 人類同士で仲良く暮らせないのは、どうやら仲良く暮らすのが嫌な連中、自分さえよければいいと差別する輩がどうしてもいるようである。自分たちは選ばれたものだと錯覚している単なる思い込みの馬鹿なのにも関わらず。 戦争で金儲けすることから足を洗わない限り、人間の知性はどんどん獣化して、自分を自分で襲うほど無知になっていくだけであろう。 武力が一体何を解決してきたのだろうか? 武力で恐怖心を植え付けることが人類を同士討ちさせるだけなのに気づかない馬鹿なのか? あのようなアホや馬鹿を生んでしまった人類の知性はいま岐路に立たされている。宗教が和解でなく権力や闘争に使われるのなら、すぐにでも捨てるべきであろう。それはニセモノである。悪魔を選ぶものに未来はない。
2014年07月01日
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