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前回は、シュタイナーの秘儀参入者が霊界に入る前の番人と遭遇する話を紹介した。これまで紹介してきたシュタイナーの話から、ソクラテスも述べているが、この世は霊魂を磨く(向上させる)ためにあることがわかる。 勿論、好きなことをやること自体は否定しないが、好きなことばかりやっていては、霊魂を磨くどころか、かえって垢をつけ、次の転生で、その垢を拭わなくてはいけなくなる。それに好きなことばかりやっていても、好きなことが仕事になればやはりその仕事を通じて周囲から求められることが多くなるので、好きでなくなるように自然になるわけである。 このことから、アマとプロの違いは仕事が好きでなくなっても続けられるかにあると思われる。 シュタイナーの話から、霊界はこの世の物質界とは正反対の特徴をもつので、だから、霊界に参入するには、嫌いな仕事を続けることが必要であることがわかる。嫌いな仕事ほど、続ければ自然と好きになってくるわけで、その過程がつまり前世の行いの罪滅ぼし、生まれ持った先入観を拭い去ることになるわけである。 シュタイナーの職業についての話からもわかるように、この物質界で報酬を得るという意味で評価されない仕事ほど実は霊魂を浄化するのに役立つことがわかる。だから、御釈迦さんも王子の地位を捨て、キリストもユダヤの王を捨て、プータローのホームレスになったわけである。 御釈迦さんが説いた出家、つまり出世も、つまり、この世の血からくるコネ(家柄や遺伝)や物質的価値観(この世)から抜け出るという意味であることがわかる。 つまり、自分の血と最も遠いのは長年争い、敵対視してきた敵であるから、本当の出家とは、キリストの汝の敵を愛せという隣人(隣人とは境界を巡って争うからである)愛であることがわかる。要するに出家とはエコヒイキするな、である。 勿論、血縁や家族を大事にするのは当たり前で、家族を大事にするのと同じように家族以外の敵をも大事にしなさいということである。それはつまり争いごとをなくせであり、争いごとには仲裁に入りなさいということである。 だから御釈迦さんが説いた精神からいえば、お墓にカネをかけたりするのは馬鹿で、そういうことが争いの種になるわけで、死者だって高い墓を買うくらい生前金持ちな人生を送ったら、今度は恐らく次の転生では反対の貧困を経験するはずだから、子孫は、物質的な墓を祀るのではなく、次に転生すると思われる貧者に施しをしたほうがよいという意味になる。 つまり、金持ちは、次の転生のために、現在の反対の立場にいる貧者を施しなさいということが、仏教の教えなんである。仏陀は自ら貧者になることで、その見本を示したわけで、金持ち坊主に施すのは、仏陀の教えを悪用することになる。だから、まず出家して、ホームレス(貧者)になれ、というわけである。 だから、墓というのは自分とは反対の立場を考えるシルシでもあり、先祖に育てて貰った恩を忘れないためには、立派な墓を建てるカネがあるなら、子育てや教育に使えということで、親が亡くなってしまった恵まれない子どもを育てる福祉を充実させろということだとわかる。 どうして、立派な墓が立ち、坊主が丸儲けで贅沢な車を乗り回し、偉そうな説教を垂れるのかといえば、こいつらがニセモノで、悪党で、御釈迦さんの教えを悪用し、その精神に泥を塗っているからである。なによりも霊視ができないので、つまり物質の虜になった馬鹿なんで、御釈迦さんの怒りに鈍感なんである。 もし、霊視ができれば、いまの日本の仏教の方向性が間違っていることは一目瞭然だろう。もし坊主が霊視できたら、恥ずかしくて町なんか歩けやせず、坊主をやめて一般人になるか、せめて一人山の奥深くに閉じこもり、霊視を獲得するしかなくなるだろう。 大体国の財政が赤字だというのに、なんで日本の仏教が一般人よりも少しでも多く税金を払って立て直すか、アホ総理を忠告して、争いごとをなくすようにしないのか全くアホである。つまり逆説的にいえば、日本の仏教が金儲けに走ったから、国の財政が赤字になったわけである。そういうわけで日本の精神は腐りきってしまっているわけで、そのことが日本のアホ仏教界からみえるので、連中は悪党なんで全く期待できません。 御釈迦さんが立派な寺院をつくれといったのか? キリストは、神殿は人間の心のなかにあるといっただろう。 神殿で商売してはいけないといったはずだろう。 大体宗教は争いごとをなくすためにあるわけで、つくるためにあるわけでない。もし少しでも争いの要因となったら、即座にその宗教は身をもってなくすべきである。 というわけで、少しでも悪党から離脱し、悪に加担しない人を増やすために、シュタイナーの霊界の番人の話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 境界の大守護霊(改変) 前回までに述べてきた、第一の「境界の守護霊」の警告には、過ぎ去った世界しか現れていない。未来は、この過去の中にその可能性としてしか含まれていない。 しかし人間は未来の超感覚界(霊界)の中に、これからも感覚界から取り出せるもの全てを持ち込まねばならない。人間が、自身の過去の人生の本当の姿でもある守護霊の中にただ過去の所産だけしか織り込まないなら、地上の使命を中途半端にしか達成しないままになる。 それ故しばらくすると、この「境界の小守護霊」に(未来を司る)大守護霊が加わってくる。ここで再び、今度は、この第二の「境界の守護霊」との出会いの情景を物語の形で表現する。 解脱するために何をすべきなのかを悟った修行者の道の行く手に、崇高な光の姿が現れる。その壮麗な姿は到底筆舌に尽くし難い。 -この出会いは、魂のなかの思考、感情、意志の役割が、肉体の上でも互いに解消してしまい、それら相互の関係の調整がもはやとれず、それら自身の肉体上の条件とは全く独立した高次の意識により為される段階になって生じる。 そのとき、思考、感情、意志は、超感覚界から、それらを支配する強力な人間の魂の道具になっている。 -このように全ての(物質的)感覚からの束縛を脱した魂に、今第二の「境界の(大)守護霊」が立ち現れ、次のように語る。 「お前は感覚界からの束縛(輪廻転生)を脱し、超感覚界(もはや生まれ死ぬこともない)の住民権を獲得した。今後は超感覚界から(地上の肉体に)働きかけることができる。お前は自身の魂を磨くために、現在所有するお前の肉体をもはや必要としない。お前がこの超感覚界に住むのを求めるなら、もはや感覚界に帰る必要もないだろう。 (アヴァターラ=アバター「輪廻しない不死の存在」となった。) しかし私の姿を見なさい。そして今日までお前が作り出してきた全てのものに較べて、どれ程、この私の姿が限りなく崇高にみえるか、改めて考えてみなさい。お前が感覚界に生き、その中で獲得してきた能力によって、お前は現在の(覚醒意識で霊界を認識できる)段階にまで達した。 しかし今からお前は解脱によって得た力を感覚(物質)界に役立たせねばならない。これまでお前は自分自身の救済のみを計ってきた。解脱した今、感覚界に住むお前の仲間たちの救済のために働かねばならない。 (マイスター「輪廻の教師」、アデプト「輪廻の導師」になるということか?) これまでお前は一人の人間として努力してきた。これからは人類全体の中に自分を組み入れる必要がある。そしてお前だけでなく、感覚界に生きる他の全ての人々をも、超感覚界へと導くように努めねばならない。その過程でいつかはお前も、私の姿と合一できよう。 しかしまだこの世に不幸な人が存在する限り、私は祝福を受けるに足る存在にはなりえない。すでに解脱した者として、お前はすぐにでも超感覚界の存在になりたいだろう。 しかしそれでは、お前はまだ救われざる地上の存在たちを、ただ高所から見下すことになる。それはお前の生命を、救われるべき生命から切り離してしまうことを意味する。お前たち皆が、互いに結ばれ合って生きてきた。そして、お前たち皆は、感覚界の中へ降りていっては、そこから高次の世界へ向かう力を取り出してきた。 もしお前が、皆から、自分を切り離してしまうなら、皆と共に共同体の中で育成してきた力を、お前は自分のためだけに独占し、乱用することになる。お前以外の皆が感覚界の中へ降りていかなかったら、お前もいまの段階に達することはできなかった筈である。 お前以外の皆がいなければ、超感覚の存在となり得る力をお前は獲得できなかった。お前が皆と共に獲得した力を、お前は皆にも分け与えねばならない。だから、お前が身につけた全ての力をお前の同胞たちの救済のために使い果たさぬ限りは、超感覚界の至高の領域(天国)へお前を参入させる訳にはいかない。 既にこれまでに獲得できた力で、お前は超感覚界の低次の領域には滞在できる。しかし私は『天国の門前に立って、火の剣を手に持つケルビムとして』、この高次の領域(天国)の門前に立つ。そして感覚界で(仲間を救うために)使い果たさなかった力をお前がまだ残存させている限りは、天国への参入をお前に許すことはない。 もしお前が、お前のまだ残存させている力を使わないなら、他の誰かが代わりにその使命を遂行するだろう。そのように誰かが、お前の代わりになり、高次の超感覚界は、感覚界全ての果実を受け取る。 しかし、お前は、その力を他に明け渡した時点で、お前のこれまで親しんできた土地(能力)は取り上げられる。浄化された世界が、お前の頭上で展開されても、お前だけは永遠に天国から閉め出される。もし選択を誤れば、お前は暗黒の道に堕ち、逆に、お前が差別してきた人々はいずれ白く輝く道を昇っていくことになるだろう。」(P216-218) ☆ ☆ ☆ 以上のシュタイナーの話は、お釈迦さんが、菩提樹の下で悟りを開いた話を彷彿とさせる。つまり、ブラフマーが境界の小守護霊で、アートマンが境界の大守護霊であることがわかる。 だから、御釈迦さんは秘儀参入者で、輪廻転生を克服し、アヴァターラ=アバターになり、仏教を説くために、アデプトやマイスターになって転生したことがわかる。巷に溢れる似非宗教はニセモノである。本物は自称などはしない。
2014年02月28日
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前回は、禿知事がアホなことを抜かすので、母国語愛から批判した。前々回の話を続けたいが、その前に前回の続きを少し述べる。どうも明治維新以来の裏事情のせいか、日本人は西洋人にコンプレックスを感じているようで、特に英語に対して、その感が強いようである。 シュタイナーの話では、日本人の多くが古代ヨーロッパ人の魂が転生したものだから、遥か故郷を思う憧憬のような意識が残っているのかもしれない。 日本人の多くが、英語がしゃべれれば、西洋社会の仲間に入れてもらえると錯覚しているようであるが、それは大きな間違いであることに早く気づくべきである。英語が満足にしゃべれなかったお馬鹿ブッシュが大統領になれたのは西洋社会での何かのパロディなのだろうか? そもそも英語が流暢にしゃべれれば格好がいいという偏狭の価値観は、日本人独特の西洋コンプレックスから生まれたもので、そんなことに拘る方がおかしく、大間違いの錯覚であり、日本列島が、古くから大陸文明滅亡後の亡命政権の漂着の場であったこととも関係があるかもしれない。時代錯誤なんである。 ともかくも、物質文明後の来るべき霊文明を考慮にいれて、将来の理想的な人間社会の構築を目指すべきであろう。さて、前々回のシュタイナーの話を続ける。前々回は、秘儀参入者が生きながらにして、死後の世界の霊界に参入すると、物質界と霊界の境界を守る番人に出会うという話である。 ☆ ☆ ☆ 物質界と霊界の境界にいる守護霊(改変) 前々回に述べた守護霊の要求に応じる力をもたない人には、守護霊は、それ以上先へ進まないように警告する。修行者にとって、その守護霊の姿が恐ろしく醜い姿にみえても、この守護霊の姿は、これまでの修行者自身の過去(前世も含む)の人生経験の結果なのである。 守護霊の姿は、修行者の過去(前世も含む)の人生経験から作り上げた修行者自身の性格なのである。 守護霊は、修行者の輪廻転生の結果、彼の外で独立し、存在できるまでに覚醒され、この守護霊の覚醒は修行者の霊魂のなかの意志と思考と感情の相互の働きが分離しなければ惹き起こされない。 -秘儀参入法にとっては、守護霊との出会いの体験は極めて重要な意味をもつ。この体験を通してはじめて、自分が、この霊の産みの親のように感じるからである。 -修行者は、その事実を知るために、どんな恐怖にも負けずに、この恐ろしい姿を直視できるように、そしてまた、その出会いの瞬間に「守護霊」をより美しい姿にしようという誓いを、覚醒意識を保ちながらも十分感じられるように、魂を浄化(向上)させなければならない。 境界の守護霊との出会いを幸いにも通過できた修行者が物質界での死を迎えると、その死はこれまでの前世で体験してきた死とは全く別のものとして受けとめられる。死を、覚醒意識のなかで体験し、まるで使い古しの、または使いものにならなくなった衣服を脱ぎ捨てるような感じで、自分の肉体を脱ぎ捨てる。 死が修行者にとって、特別に大きな事件となるのは、生前親しんだ人たち、それもまだ物質界だけを現実と考えている人たちとの別離となることが考えられるからである。そのような人たちにとっては、修行者は「死者」となるからだが、修行者自身にとっては、周囲に特別の変化は見られない。彼が生前体験してきた超感覚界(霊界)全ては、生前既に獲得した霊視により自分の前に現存し、死後には、より明確になった覚醒意識をもって自分の前に現存し続ける。 さて、この「境界の守護霊」は個人の霊魂とはまた別に集団の霊とも関係する。この世の人間は家族、民族、人種に属し、その働きはどのような共同体に属するかにより左右される。個人の性格も、属する集団と関係してくる。また個人の意識活動だけが、家族、血族、民族、人種との関係から顧慮すべき対象の全てではない。 家族の性格、民族の性格等々が存在するように、家族の運命、民族の運命等々もまた存在する。自らの唯物的な感覚から生じる知覚の中に留まろうとする人には、家族霊や民族霊のような話は単なる空想の産物でしかないだろう。唯物論者は、家族や民族の性格、種族や人種の運命が、個人の性格や運命と同様に実存する、という秘教学者の主張に対して、冷笑をあびせるだろう。 しかし秘教学者は、頭や手足が人間の一部であるのと同様に、個人の人間が、頭や手足となる高次の霊魂の世界(魂界、霊界)を知っている。その意味で家族、民族、人種の営みの中には、個人とは別に現存する家族魂、民族魂、人種霊が働いている。 個人とは、ある意味、これら家族魂、人種霊等々の現場の実務機関であるに過ぎないともいえる。例えば、或る民族魂が、その民族に属する個人を用いて、特定の仕事を成就させることは真実である。民族魂は、自己の意図を物質界で実現するために、個人の肉体を道具として使用する。次元は違うが、それはあたかも建築家が建物の細部を仕上げるために、職人を雇うのと同じである。 -どの人間も、最上級の言葉の意味で、家族魂、民族魂、人類魂から自分の演じるべき役割を与えられている。物質的な感覚に埋没する人は、自分の仕事の上部にある、このような高次の計画についてはほとんど知らされてはいないが、少なくとも無意識に民族魂や人種魂の意図に従って働いている。 修行者は、境界の守護霊と出会った時から、個人的な立場を意識するだけでなく、民族霊や種族霊により与えられた使命についても意識するようになる。修行者の視野が拡がるにつれて、果たすべき義務の範囲もまた拡がる。このことは実際に、修行者が自分のアストラル体に新しいアストラル体をつけ加えることからわかる。 修行者は着物をもう一枚身にまとう。これまでは、個人だけを包む魂の衣服を着けて世界を生きてきた。そして自分の属する共同体のために、民族や人種のために為すべき役割については、その個人を道具として用いる高級霊たちが代わりに考慮してきた。 -さて「境界の守護霊」は、今後は、高級霊たちが一切援助しなくなることを打ち明ける。修行者は共同体という温かい保護室から出ていかなければならない。今もし、保護室を出て、民族霊や種族霊になり代わり、民族全体や種族全体までを考慮する能力を身につけておかなければ、宇宙のなかで孤立した存在となり、自分の中に完全に引きこもり、独り破滅の道へと埋没していくことになるだろう。 保護室を出たほとんどの修行者は次のように感じる。 「ああ、やっと、民族、人種など一切の柵から解放された。私は自由で気侭な個人の『人間』でありたい。『個人以外の何もの』にも属したくはない。」 しかし、そのような修行者に対して、守護霊から、次のような警告がなされる。 「では、お前に聞く。これまで一体、誰がお前を守り、そのような自由な身にしたのか? お前が今こうして生きていられるのは、お前をこの世に導き入れた、お前の家族ではなかったのか。 お前を現在のお前にしてくれたのはお前の血族、お前の民族、そして、お前の人種の御蔭ではなかったのか。 もしお前が全ての偏見から脱し、お前が、お前の血族や、お前の人種の指導者となり、恩人にさえなるなら、それは血族や民族や人種の教育のお陰であろう。 お前が、個人以外の何ものでもない、と思えるのも、お前が実際そのような自由な存在になったというのも、全ては、お前の代わりに、お前の知らないところで、共同体の指導霊たちが働いたお陰なのだ!」 -民族の、血族の、人種の指導霊の指導の手から離れるということが何を意味するのか、今はじめて認識するようになる。今後、これから歩もうとする人生では、指導霊の指導の一切を失うので、これまで施されてきた教育の本当の意味を経験することになる。 というのは、修行者個人に、これまで関係してきた一切の指導は、修行者の魂のなかの意志と思考と感情の絆が断ち切られたことによって、完全に解消してしまうからである。修行者は今まで受けてきた教育全てを振り返ることになる。 それはまるで、自然に積み上がっていた煉瓦が全て崩れ落ち、また再びその一つ一つを新たに積み重ねていかねばならない崩壊した建物を眺めるかのようである。 さて、境界の守護霊が、この最初の警告を語り終えると、修行者の立っていた場所から、旋風が巻き起こり、それは、これまでの人生行路を照らしていた灯りを吹き消してしまう。 この光景を単なる比喩と考えてはならない。今や修行者の前に完全な闇が拡がる。境界の守護霊から放射される輝きが、その闇を時折中断させるだけで、この暗闇の中から、この守護霊の次なる警告の声が響いてくる。 「この闇に光を当てることができるまで、お前自身が輝け。それができぬ間は、私の境界を通過しようとするな。お前自身の照明に十分燃料が備わっていると確信できるまで、一歩も前へ進もうとするな。これまでお前を導いてきた者たちの明りはもはやこれからは存在しない。」 この言葉を聴いて、修行者は思わず振り返り、視線を後ろへ向ける。すると境界の守護霊は、修行者のこれまでの人生の秘密を覆っていたカーテンを取り払う。血族、民族、人種の守護霊たちが、その在りのままの姿を現わす。 そして修行者は、自分がこれまでどのように導かれてきたのかを明らかに悟るだけでなく、今後もはや、このような指導を受けることがないことを悟る。これが霊界への境界で守護霊により与えられる第二の警告である。 ここに述べられた情景は霊魂を浄化(向上)できていない者には到底見るに耐えられぬものだが、そもそもこの境界にまで進むことを可能にした高次の修行が、この瞬間に、必要な力をみつけるようにしてくれる。修行によって獲得した調和力が新しい生(転生)への参入の段階から、一切の騒々しい煽動的な性格(恐れ)を取り除いてくれる。 そして修行者は、この境界での体験に際し、新たに再起した人生(転生)の基調となるべき浄福感を持つ。新しい自由の感情が、他の全ての感情を圧倒する。そして、同時に、新しい義務感や、新しい責任感が心中に生じる。修行者は、これらをこれから持ち続けようと誓う。(P197-P208) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月27日
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なんでも大雪で交通大混乱の一週前にこれまた大雪で運よく不正投票で当選した五輪馬鹿の禿げが、『オリンピックに向けて「すべての都民が英語を話せるぐらいにしたい」と妄言』を巷では吐いているそうだが、そもそも英語がそんなに便利な言語なのだろうか? なによりも、日本語と日本文化を知ってもらう絶好の機会なのだから、この際、なぜ日本語を国際語にしようという発想が出てこないのか、要するにニセモノの母国語愛しかないのだろう。 重要なときに転ぶと失言した元サメ脳は、確か戦後教育世代なのに、英語を敵国語とのたまわったそうだが、だったら日本語を国際語にしようという発想が出てきてもおかしくないのに、英語ができない理由の自己弁護で失言するから、言葉というよりも、人間としての中身の問題で、つまり品性に欠ける人物といわざるをえないわけである。例えば、「いまは中国語とロシア語に夢中でね」とでもいっておけばいいのにね。 つまり、いかに英語が流暢に話せても、人間としての中身が空っぽでは、かえって馬鹿にされるのがオチなんである。言葉というのは、伝える内容が肝心ということで、英語を流暢にしゃべるのなら、鸚鵡だってできるわけである。 最近、日本語を世界の公用語にしようというような本を読んだが、著者は6ヶ国語位を操るポーランド人だったと思ったが、翻訳本で、原本はどうも英語で書かれているようで、日本語を国際語というのに、英語で書くの?と思ったが、現状の国際社会は米国の軍事力を背景に戦争屋が恫喝外交をしているので仕方がないといったところかもしれない。 その本にも書かれていたが、英語が国際語になったのは、悪しき西洋の特に英国による植民地政策にあることはもはや自明だろう。軍事力を背景に、英語教育を強いたのが、米国という英国の植民地に伝染して、つまり米国人が英国人のやり方をパクッたから、英語が世界に広がったわけである。 つまり早い話、英語が広がったのは軍事力を背景にした唯物論科学を伝播するのに都合がよかったからだ。最近では資本自由主義といえば格好はつくが、本当は略奪経済力を背景にした物質主義の申し子というべきであろう。 この本にも書いてあるが、英語が国際語として便利なのはアクセントによってどこの出身かすぐにわかるところである。英語といっても、皆同じアクセントで話しているわけではなく、例えば、スコットランド訛りの英語を、南部出身の米国人が聞くと、ロシア語かなにかに聞こえるそうで、話が全く通じないそうである。 英語圏の土地に行くと、まずはヒアリングが重要になることに気づくが、特に現地の人は、共通の文化や風土や風習があるので、旅行者は、その土地に慣れるまでは苦労するわけで、例えば、都知事禿がいう英語とは何処のアクセントの英語のことをいうのか? 疑問でもある。 恐らく米国の東部のワスプ(恐らくイエズス会士たちがしゃべったアクセントだろうが)がしゃべる言葉を想定しているのだろうが、どうしても日本語の訛りが抜けないから、日本語のアクセントのまま、英語らしい単語を並べたものになってしまうのがオチであろう。 つまり音声という意味の英語は、アクセントから出身地を判別するのに便利というのは裏を返せば、意味に誤解が生じやすく非常に不便ということになるわけで、共通の出身者だけに意味が通じるようないわば暗号的な要素が高い言語といえるのである。英国ではオックスブリッジ、米国ではアイビーリーグといったようなもん。 だから逆説的にいえば、英語を国際語としてしゃべればしゃべるほど出身別に差別されていくということになる。これはどういうことかといえば、英語により序列化されるということである。 しかし、不思議にも、いまのエリザベス女王、つまり英国女王でさえ、もはやクイーンズイングリッシュ(ハノーバ王がしゃべったドイツ訛りのアクセント)と呼ばれる伝統のアクセントを話していないという説もあるから、結局、英語といっても、もはや英語ではないのである。少なくとも大英帝国公認の言語ではなくなったわけで、その土地の英語らしい言葉を話しているにすぎないわけなのだ! この本のポーランド人の著者によれば、英語は、同じアルファベットの綴りであっても、TPOにより、意味が異なり、例えば、「しっかりしろよ!」という意味に、「Hallo」が使われることもあるという。このようなことは、最近のアホの靖国参拝に、米国政府側から「失望」という日本語で解釈された表現が報道されているが、それが単なる日本語の「失望」だけの意味でないことは確かであろう。 もし、米国政府が、「しっかりしろ!」という意味で「Hallo」といったら、日本の政治家や馬鹿マスゴミは英語ができないアホばかりなので、曲解して、好意や歓迎と受け取ってしまうことは充分考えられることである。 つまり、このように、英語というのは、同じ綴りでもTPOによって意味が異なるので、日本語に意訳して伝える報道には非常に疑問に思える。 英語とは対照的に、このポーランド人の著者によれば、しゃべり言葉の日本語は、ほぼ誰でも字句通りに意味が通じることが多いという。日本語の話し言葉は通じやすいというのである。それは、昨今の「可愛いい」という日本語が、国際語になりつつあることでもわかる。 日本語の話し言葉は、気持ちを即座に相手に伝えるのに非常に便利というわけなんである。 だから、都民が英語なんかしゃべってもジャパニッシュで意味がどうせ通じないのだから、日本語の話し言葉を覚えてもらい、日本語を拡げてもらったほうが良いように思うわけである。例えば、日本のアニメやJPOPのオリンピックも同時開催して、例えば、日本語を国際語にしてもらうのがよいのではないか、と思うわけである。 むしろ、共通言語として日本のスポーツ文化を伝えるのなら、どちらかといえばオリンピックよりも、パラリンピックの方が、肉体の上ではハンデを背負っている分、そのスポーツマンの気持ちを伝えるのに、気持ちを即座に伝えられる日本語が適しているのではないだろうか。 言語になる前のイメージや思考は、人間として恐らく共通のものを持つに違いないから、早い話、脳の言語中枢で翻訳される前の霊魂の働きは共通なので、霊魂の働きに近い霊語、それに日本語の話し言葉は、古代ヘブライ語を源流としているので、最も適しているように、この本を読んで実感したわけなのである。 単純にいえば、日本語の「カワイイ」という音声を、「KAWAII」というローマ字綴りにすれば、国際語になるというわけである。アクセントを含めた音声さえ共通であれば、翻訳の手があまり介入しないほど、よいといえるわけである。それを、どう表現するかは、その土地の自由に任せればいい。 日本語の話し言葉は霊魂がしゃべる言葉に近いということである。 そうすれば、アホの靖国参拝に、米国政府は、「がっかりした! もうお前とは縁を切った。」と日本語の話し言葉でいったはずである。そうすれば、いかに夢見るアホでも母国語はわかるので現実のアホに返るのではないか? つまりアホでもわかる日本語の効用を生かすべきなのである。
2014年02月27日
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前回は、生きながらにして、死を克服するには、自分のいま生きる立場と逆の立場を考える必要があることを、シュタイナーの話から紹介した。 この話から実は死は絶対ではなく、相対であることがわかる。確かに物質界では物質的制御を失うので、死は絶対だが、もし、物質界自身が絶対であるなら、死が絶対となったときに、その絶対性を保証するために物質界自体も死を迎えることになるはずである。しかし、物質界がこれまで続いているのは、それが相対であることに相違ないからである。 ちょっと難しく言ってしまったが、自分がいま生きる立場というのは、逆の立場の相対であり、だからこそ、自分がいま生きる立場は、逆の立場を取り込むことで、いま生きる延長上の自分の死という相対を超えることができるということである。 このことをお釈迦様は解脱と呼んだのであろう。要するに、思いやりが重要であるということである。では、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 物質界と霊界の境界にいる守護霊(改変) 「境界の守護霊」との出会いは霊界へ参入する際の重要な体験である。境界の守護霊は1つの存在ではなく、本質上は「小守護霊」と「大守護霊」に分けられる。 前に述べたように、人間の霊体(エーテル体とアストラル体)のなかで、思考、感情、意志を受け持つ役割間の連携が解けはじめたとき、人間の自我は、小守護霊と出会い、この連携の解消が身体の肉体(特に頭脳)にまで及ぶときに「大守護霊」と出会う。 「小守護霊」は独立した存在だが、修行者にとっては、霊魂のこれまでのいかなる進化段階にも出会わなかった、はじめて遭遇する存在であるので、ここで、この守護霊の本質的な特質を若干述べておく。 修行者とこの守護霊との出会いは、物語の形で述べたほうがよいだろう。この出会いによりはじめて、思考と感情と意志を結びつけていた連携性が解消してしまったことを修行者は意識するようになる。 その出会いとは、思わず怖気づくような、妖怪じみた存在が目の前に立つことになる。この存在に向き合う修行者は、物質界を認識していた覚醒意識を持つので、これまでの修行で十分身につけてきた自分の認識力の確かさについて全くの自信を持っている。 この「守護霊」は自らの存在の意味を、大まかに言えば、次のような言葉で語る。 「これまでは、お前が知らない霊力がお前を導いてきた。この霊力は、これまでのお前の人生の中でお前の善行には善の恵みを、悪行には悪の報いがやって来るように働きかけてきた。この霊力の影響を通じて、お前は、人生経験から、思考を基にして、自分の性格を作り上げてきた。 だから、お前の運命は、この霊力の働きの結果なのだ。この霊力は、お前の輪廻転生のなかで、次の人生に割り当てられた快と苦を、前世でのお前の態度に従って決定した。この霊力は一切を包含するカルマの法則の形をとって、お前に対する支配力を行使してきた。 ところが今、この霊力が、その支配権の一部を手放そうとしている。そしてお前のために奉仕してきた仕事の一端は、今度は、お前自身が代わって果たさなければならない。 これまで何度も厳しい苦痛がお前を襲ったであろう。お前はそれを受ける理由を知らないが、それは、その苦痛を受けるに足る、これまで繰り返してきたお前の人生の中のある時期の、お前自身が為した有害な行為の結果にある。 お前はまた幸せを掴み、喜びを見つけ、快楽を受け取ってきたはずだ。この快楽も、これまでのお前の行為の結果である。 だから、お前の性格は美しい面と醜い面とを併せもっている。 お前はこの両方をこれまでの思考や体験を通して、自分で作り出してきた。お前はこれまでこのことに気づかず、ただその結果だけを問題にしてきた。 しかしカルマの霊力は、お前のこれまでの行い、これまでお前の心の奥底に秘めてきた思いや感情の全てをみてきた。そして、それにより、お前を今在るとおりの、今生きている通りのお前にした。 しかし今、お前の過去の一切の善き面と悪しき面とがお前自身に明示されねばならない。それら全ては、これまでお前自身の存在の中で織り込まれてきた。それらはお前自身に内在していたが、お前が、自分の頭脳の内部を見ることができないように、それらを見ることはできなかった。 しかし今、それらが、お前の内部から取り出され、お前の人格となって外へ出る。そしてお前の眼が外界の石や木を見るように、みることのできる独立した形姿となるときがきた。 そして、この私こそが、お前の真の姿なのだ。 私の姿は、お前の善の行為と悪の行為を素材として作られている。私の、この妖怪じみた姿はお前自身の人生の総括を映し出したものである。これまでお前は私の姿を見ることもなく、私は、お前の中でお前に知られずに、お前を担ってきた。 しかし、そうしてきたことはお前にとっては幸いだろう。というのも、お前の人生がお前の眼から隠されていたからこそ、お前に知られずに、お前である醜い私の形姿を、お前が悪意をもって消そうとせずに、叡智である霊力は、お前の内部で密かに仕事を続けてこれたからである。 今、私がお前の外に出てきたことで、この隠された叡知もまたお前から離れることになる。それは、もはやお前の今後一切の面倒をみないことを意味する。そして仕事をお前自身の手に委ねるが、これからも私が堕落することが許されないことは確かである。 私は益々完全で偉大な存在にならねばならない。もし私が堕落するようなことにでもなれば、お前も私と一緒に暗い奈落に引きずり込まれるだろう。 そうならないためには、お前自身の叡知を研き、お前から去って行った隠された叡知の課題を引き継がねばならない。 お前が一旦私の守護する、この境界を通過したら、もはや私がお前の眼の前から消え去るということはない。もし、その後にもなお、不正な行いをお前がするようなことになると、直ちにお前のその罪は私の姿を醜い悪鬼に変身させるだろう。 お前がこれまで己れの犯してきた全ての不正行為に決着をつけ、もはや悪行を重ねることが全く不可能な程に、自己を浄化させたなら、その時はじめて私は光輝く壮麗な形姿に変じるだろう。そして、それからのお前の活動の栄華のために、私は、再びお前と合一するだろう。 しかし、私がいるこの境界は、お前自身の中にまだ残っている恐怖感と、お前の思考や行為からくる全責任を背負うことへの恐れとを、お前が少しでも克服できないうちは、お前を守るために築かれている。お前が運命を自分で導くことについて感じる何らかの恐怖を全て手放そうとしない限り、お前が必要とする全てを全部揃えない限りは、この境界を越えることはできない。 お前が境界を越えるために、揃えるべきもののうち、たった一つが欠けても、お前は、この境界に立ち止まらなくてはならなくなる。お前が完全に恐怖から自由となり、どんな責任をも引き受けられるようになるまで、この境界を通り抜けてはならない。 これまで私は、死が、お前をこの世(物質界)から引き離した時にしか、お前の人格の外へ出たことがなかったが、それでも私の姿はお前の眼からは隠されていた。お前を導く運命を制御する霊力だけが私を認め、私の容姿から判断して、死後と転生の間の人生の休息期間に、お前のためにしかるべき能力を育成してきた。 この能力は、新しい地上生活を通して、私の姿をより美しいものにしようとするお前の未来の栄華のために、新しい生誕に際し、お前に与えられる能力である。この霊力が運命を繰り返し、お前を地上に受肉させるのは、私自身がまだ不完全な姿であるからに他ならない。 お前が死んだ時、私は常にお前と共にいた。そして、私の進歩向上のために、カルマの導き手は、お前が再び、この世(物質界)に生を受けるように定めた。もしお前が転生を通して、無意識にでも、私を完全な存在にできたら、そのときお前はもはや死の力の手に落ちずに、私との完全な合一の中で、不死となっていただろう。 私はお前の死の瞬間にも、これまでは不可視の姿でお前の傍らにいたが、今日は眼に見える姿でお前の前に立っている。私が守護する、この境界は、これまでのお前が死後入っていった霊界と物質界との境にある。これからお前は、この霊界の中へ完全な覚醒意識を持って歩み入る。 (死後の霊魂は、完全な覚醒意識をもたずに入る。完全な覚醒意識を持って入るのは秘儀参入者だけである。) これからは、地上で肉体を保持し続けながら、同時に死の国、いや、永遠不滅の国で生きることになる。私は死の天使とも呼ばれるが、同時に永遠不滅の霊魂の生活(天国)の提供者でもある。肉体を地上に保持したまま、お前は私を通して死を体験し、その死によって不滅な存在への再生も体験できる。 (この死の天使はケルビム「叡智の天使」と呼ばれることもある。) これからお前が足を踏み入れる霊界では、超感覚の存在たちに出会うだろう。この霊界で、お前は祝福をうけるが、この霊界に立ち入る前の最初の出会いは、お前のこれまでの人生の所産である、この私との出会いでなければ意味がない。 これまで私は、お前とともに、お前の人生を生きてきた。しかし今、私は、お前を通して、私自身の存在に目覚めた。そしてお前の前で、お前の未来の行為の可視の見本となり、またお前を厳しく叱咤激励する教師となるだろう。お前は私を創造できたが、同時に、お前は私を絶えず改善し続ける義務をも背負ったことになる。」 以上のように、物語の形で表現したが、単なる寓話と受け取って欲しくない。以上は、秘儀参入者の実際の体験に基づいた再現なのである。 ☆ ☆ ☆ この境界の守護者をドッペルゲンガーと呼び、シュタイナーは別の講義で、アストラル体の死体などから、人体構造の上でも解説している。
2014年02月26日
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シュタイナーの話からわかることは、この世に生まれている人は修行が足りないということである。早い話、自分のことしか考えずに、思いやりがない生き方しかしてこなかったため、実際に体験してみて、自分のこと以外を考え、思いやりをもつようになるために生まれ、仲良く平和に暮らすことを学んでいくわけである。 しかし、いまだに、自分の儲けしか頭になく、他者がどうなろうが知ったことではないという下等な人物が多いことは、天文学的な金銭を稼いでいても、人類の平和のために何もしないアホが多いことからわかるが、このようなアホが人類のなかにわずか1%の少数いるだけでも、世の中には貧困がいまだになくならないでいることからもわかる。 シュタイナーが説いたように、これらの下等な頭の持ち主たちは、自分が、自分とは逆の立場を生んでいることにすら気づかずに、その逆の立場が、死後、自分に襲い掛かってくることすらの想像力、つまり知性もない。 物質的に豊かな国の人々は、実は精神的に貧しい国の人々であるというようなことを、マザーテレサが言ったが、そのような発言も、まるで御伽噺のような話で、対岸の火事といったような立場を、特に人類の指導的な地位にある者がとり続け、いまだに快楽追求の虜となり、金儲けしか頭にないのは、まったくもって地球人全体の知性の低さを物語るものである。 せっかく太陽からキリストがやってきても、それを戦争の商売道具にしてしまう悪魔教が蔓延っているから仕方がない。 挙句の果てに、この国のアホは悪党と組んで日本版悪党CIAをつくろうとしているというから、馬鹿は死ななきゃ治りません。以下を参照に ☆ ☆ ☆ 日本版CIAを設立するそうです http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140225/1393295971#seeall ☆ ☆ ☆ アホノミックスがQEのパクリで失敗したのに、懲りずにCIAのパクリをつくるとは、情報が漏れるだけで、馬鹿につける薬はないようですね。パクリに責任をなすりつけようというニセユダヤの判断なんでしょうね。要するに悪党がやるトカゲの尻尾切りでわかりやすいです。 このアホは小学生並みの知的レベルしかないようです。外見はそれでも大人なので、醜い小学生といったところでしょう。経団連のオバカ怪物たちも、小学生のいじめっ子となんら精神上は変わりありません。死んでもまた生まれ変わるでしょう。今度は金持ちには生まれないでしょうけどね。 というわけで、このようなアホからも多くのことが学べるわけで、なんと人生は有り難いものなのかを知らせるシュタイナーの話を続ける。シュタイナーで有名なのは、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」だろう。今回は、この本から抜粋する。 ☆ ☆ ☆ いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか 内が外になる(改変) 霊界を認識するためには、全く新種の判断を身につけねばならない。というのは、人間の精神内部(アストラル界)が属する霊界が、外界として現れてくるということから考えても、その現れ方が、この世の物質の姿とは逆の形で現れてくるからである。 例えば、或る数を霊界で見た場合、鏡に写ったときのように、逆に読まなければならない。例えば、この世での「285」という数は、霊界では「582」を意味する。またこの世でみえる1つの球(面)は、霊界では、その球の中心にいるようにみえ、球面と中心が逆転して現れる。 従って、霊界での、中心にいる観点を、物質界では、正しい形で球面に変換して改めて翻訳し直さねばならない。また、魂の特性も鏡像のような正反対の現れ方をする。 この世での、外にある何か対象に向けられた願望(欲望)は、あの世では、その願望(欲望)を抱く人自身に向かってくる形姿として現れる。低次の攻撃性に基づく情欲は動物のような姿をまとって、その人自身に襲いかかってくる。 この世では、このような情欲は、それを満足させてくれる対象を外界に求めることができるが、この世での外に向けられた、この情欲(欲求)が、霊界という鏡像の中では、情欲の所有者自身への攻撃として表現される。 (四次元世界だからである。この三次元世界でも、時間が因果の役割を一時的に担っているが、それは人間の覚醒意識が、この三次元世界が過去から未来に流れているように錯覚しているせいである。だから、大まかにいって、人生の前半に行なった自分の行為「因」が、後半に実を結ぶように「果として」返ってくる。) 修行者が、このような霊視力を獲得する前に、冷静な自己観察を通して、自分の性質をよく認識していたなら、死後に、自分の内面が外界の鏡像となって立ち現れてきた時にも、直接、それと向き合う勇気と力を持つことができる。 (要するに欲望の抑制法を体得しているからである。) 冷静な自省を通して自分の精神内部に精通しようとしなかった人は、このような鏡像を己れの姿であるとは認めたがらず、それを自分ではない、異質な外界の一部と見做し混乱に陥るだろう。またはそのような鏡像に接して不安に陥り、その姿を見るに耐えなくなり、根拠のない空想であると思い込もうとするかもしれない。 (端的な例は、自分が生前嫌っていた、差別していた人物が、ストーカーのように自分につきまとうことになる。実はそれが自分の本性なのである。生前は、自分が嫌っていた、差別していた人が身代わりになって、自分の本性を鏡に映していただけなのだ。 金持ちなどは、本心がみすぼらしいので、錯誤の物証のために、物質的に着飾り、外見を取り繕っているだけである。だから東洋では外見よりも中身の精神が重視される。特に古代の中国では外見が禿げてみすぼらしくても、中身の精神が成熟していたら逆に尊ばれた。) そのいずれも、その人は魂が未成熟なまま、ある種独特で偏執した霊の認識錯誤の淵に陥ってしまったので、自分がつくりだしているものを自分で認識できずに、取り返しのつかぬ不幸な状態に陥ることになる。 (簡単にいえば、自分がゴミを出しているのに、その自覚がないことで、これは、自分が出したゴミを自分で処理できない人が物質界に現実にいることでわかる。このような人は自分のことしか考えられずに、想像力を既に失っている魂なのである。俗にモンスターといわれるのは、魂が既に獣の領域にあるほど低次元になってしまったことを意味する。) 霊界へ参入するには、自分の魂の霊的な認識(自分の魂の進化度合い)が、修行者にとって極めて重要である。人間が一番に評価すべきことは、自分の霊魂を支配する自我の内容(統御具合)である。修行者が物質界での日常の自分についての認識を充分に深めた上ではじめて、霊界での自分の鏡像に接したなら、その両方を正しく比較でき、魂を良く制御(向上)できるようになるだろう。 霊界での霊の姿を、物質界での日頃の自分の熟知している姿と関係づけられれば、自己の精神を確実な土台に乗せることから出発できる。そうでなければ、たとえどんなに多くの他の精霊(守護霊)たちが、修行者の前に出現してきても、修行者は、それらの霊が語る内容を知る手がかりも掴むことができない。 その結果、次第に、自分の拠り所も消滅してしまうだろう。それ故、自分の本性を十分に認識し、評価することを学んだ者だけが、霊界においても確実な道を歩むことができる。このことはどんなに強調してもし過ぎることはない。(P158-P160) ☆ ☆ ☆ 人間は地球に修行にきていることを忘れるなという厳しい助言である。昨今の破戒坊主らをみていると、お釈迦さんの有り難い説法も虚しく聞こえる話である。お釈迦さんは物質界に定住するための商売道具をつくったのだろうか? 仏教徒に聞きたいものである。仏像つくって魂入れずである。死者の魂を墓に閉じ込める嘘念仏で金儲けしているアホである。次回に続く。
2014年02月26日
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この国の総理は映画か小説に洗脳されているのか、現実感がまったくないようである。 腹痛で最重要な仕事である国会を休んだ癖に、更に途中で総理の椅子を投げ出した癖に、自衛隊には外国にまでも出て戦えという自分に甘々で他人に厳しい嫌われ者の典型といえる。そんなことを言うなら、腹痛を我慢しても遣り通す根性をみせてみろといいたいが、そんな根性など皆無だろう。 ホントかどうか定かではないが、日本の諸葛孔明ともいわれる、かの竹中半兵衛が、軍略の講義中に、息子が小便に行きたいと言い出したのを咎めて、なぜ、その場で垂れ流さないのかと叱ったという話がある。その後、軍略の講義に夢中になり、小便を垂れ流したというのが竹中家の美談になることがわからないのか、と説教したそうである。 まぁ、恐らく作り話だろうが、「小便垂れ流し」といえば、有名なのは、家康の脱糞話で、これは武田信玄に三方ヶ原で攻められたときに、あまりの恐怖で、糞を垂れ流して逃げたという逸話である。この武田の攻めで、徳川家は滅んでいないので、この話も武田方が流した宣伝の類かと思われる。大体、本当の軍略の話は後世にも伝わっていないからこそ、意味をもつわけである。 戦国時代といっても、戦ばかりしていたわけではなく、平時は現在の企業のCMのように、戦国大名は宣伝機関をもっていたそうである。特に武田軍は、配下に仏教徒を抱えて、隣国に過剰に宣伝しまくったそうで、いまでは信玄の肖像すら明らかになっていない位だから、信玄という人物も虚飾の可能性も大いにありえる。 信玄は父信虎を追放して家督相続しているが、大体、子が父を追い出すということはいかに秩序が乱れた戦国時代でも、武田と伊達、あと斉藤道三もあるが、義龍は子でないという話もあり、希少例である。あの独立志向の強いといわれた信長だって、父を追放などしていないどころか父の言いなりであった。 もし、いまのアホが映画や小説になるとしたら、日頃は厳しいことを言いながら、生きるか死ぬかという現場の重大事に、腹痛で逃げ出す上司というか、お笑い草にもならない。大雪で大混乱のときにテンプラ食うのを優先させる位だから、まぁ、この国が舐められるのも当然であろう。脅かせておけば、猫のように言いなりになると外国のならず者らに思われているわけである。 日頃は威勢のいいことばかり提灯掲げるが、いざとなると我先にと逃げ出すような腰抜けにみえる。腹痛で逃げ出しているんだから前科者である。 映画や小説に夢中になるのなら、せめて、家康や半兵衛の話のように、小便垂れ流して、脱糞するぐらいの気迫をみせてみろ、といいたい。さて、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 神話の描く世界(改変) 様々な民族の神話や伝説は、素晴らしい方法でアストラル界の特徴を述べている。いま例えば「岐路にたつヘラクレス」の伝説を取り上げる。 あるときヘラクレスの前に二人の女性が現れた。一人は美しく魅力的だった。彼女はヘラクレスに、快楽と至福を約束した。もう一人の女性は地味で真面目な様子だった。この女性は困難な仕事と自己犠牲を約束する。 実は、この二人の女性は悪徳と美徳である。この伝説はヘラクレスのアストラル体のなかに、彼自身の二つの性質が現れたことを物語っている。一方の性質は彼を悪に駆り立て、もう一方の性質は善に駆り立てる。 そして、この二つの性質がアストラルという鏡像(この世と反対の世界)のなかで、二人の女性の姿として現れた。悪徳は美しく豊満で魅力的に現われ、美徳は醜い姿に現れる。(P25) アストラル界では、どのようなイメージも逆に現れる。唯物論の学者は、このような神話や伝説が、民族の語り継ぎから派生した作り話であると主張するが、それは間違いである。また、このような神話や伝説は創作されたものではなく、偉大な秘儀参入者たちが、秘儀参入で得た自分たちの叡智を込めて、このような神話や伝説を作り、人々に伝えたものである。 様々な神話や伝説、宗教や民衆文学は霊界の謎を解くのに役立ち、秘儀参入者たちの霊感に由来する。(P25-P26) 三つの世界(改変) 高次の世界の意識から力を受け取り、人間がどこから来て、どこへ行くのかを知り、人間が不可視の世界の創造物であることを知るなら、確かな真実を獲得できる。物質界とは別の二つの世界も知る者だけが、可視の世界を正しく理解できる。 三つの世界がある。 一、物質界(人間の活動の舞台) 二、アストラル界(魂界) 三、神界(霊界) これら三つの世界は、空間として互いに分離しているのではない。物質界の事物が、人間を取り囲み、それらの事物を、感覚器によって人間は知覚する。しかし、人間が生きている空間のなかに、同時にアストラル界も存在する。 人間は物質界に生きていると同時に、アストラル界と神界のなかにも生きている。人間がいる場はどこでも三つの世界が併存している。 アストラル界を、人間は死後になって知ることになる。あるいは、秘儀参入者になれば、現在もアストラル界のなかに生きることになる。アストラル界をみる感覚が開かれた者は、最初、混乱する。そこに現れるのは物質界からは想像つかないものだからである。 そこでは、多くのことを新たに学ばねばならない。アストラル界は一連の特徴によって性格づけられているが、混乱するのは、なによりも自分の前に現われる事物全てが鏡像のように(正反対に)見えるからである。地上とは全く正反対(アベコベ)にみることに慣れる必要がある。 (物質界で綺麗なモノは醜くみえ、醜いモノは綺麗にみえる。) 例えば、数字を後ろから前へ読む必要がある。3、4、5と数字が並んでいたら、この世では通常は左側から三百四十五と読むが、アストラル界では逆に、五百四十三と読まねばならない。全ては鏡像のように、逆になる。この逆になることを知るのは、非常に重要である。 例えば、もっと高次の道徳的な事柄にも当てはまる。道徳的な事柄も鏡のなかのように、この世とは正反対にみえる。このことが最初はよく理解できない。(P22-P24) (以前、述べたが、この世では妊婦は子を産むが、山姥の伝説のように、あの世では逆になるので、妊婦は子を食べるようにみえる。道徳的に正反対というのは、他者を殴れば、自分が殴られるという意味である。) 邪悪な黒い姿(改変) 今日多くの人々が邪悪な黒い影のような存在(物質)に囲まれ、脅かされ不安に苛まれるのを嘆いている。多くの人々がこのような現象に襲われているが、このような現象の実体が全くわかっていない。 その邪悪な黒い影は、アストラル体のなかに生きる自分自身の意識や欲望や情念なのである。この世では、自分の欲望をみることはないが、魂と脳が特別な状態に通じると自分の欲望が目にみえることもある。 その場合、欲望は鏡像のように現れる。周囲に対象物を見るように、周囲に自身の欲望の鏡像をみる。この世では自分が他者や外に表現する行為全てが、あの世では自分に向かってくるようにみえる。他にも、この世とは逆の現象として時間や出来事が逆の方向(未来から過去)に流れていく。(P24-P25) (あの世では、この世での自分のなかの悪「欲望」と戦うことになる。だから巨悪の欲望が強い人ほど、死後、その巨悪と戦う羽目になる。自分のなかで悪魔を育てるなということである。) 二弁のチャクラの象徴としての角「つの」(改変) 人間が眠ると、アストラル体は、物質体とエーテル体から離れていき、意識を持たなくなる。アストラル体が離れたので、睡眠中の人間は意識を持たないが、疲労した肉体に調和(回復)をもたらす仕事に関わらなくてはならないが、死後のアストラル体はもはやそのような活動をしなくてもよくなる。 物質体に関わらなくてもよくなった分、睡眠時よりは、アストラル体のなかに意識が目覚める。人間が生きている間、昼間は物質体の力によって、アストラル体が曇らされ、夜は物質体の疲労を回復させるためにアストラル体は働かなくてはならない。 死後、その力は自由になる。すると、アストラル体に、ある器官が発生する。その器官というのは、七つのチャクラである。眉の間の鼻根の辺りに、二弁の蓮華のチャクラができる。霊視ができた芸術家は、このことを知っていて、作品のなかに、そのチャクラを象徴的に描いた。ミケランジェロはモーセ像に、二本の角として刻み込んでいる。(P55-P56) 宗教の本義(改変) 宗教という言葉は、神々と再結合(英語では「religion」だが、「再結合」という意味がある)するための探求法という意味である。(P134) (人類は、悪魔に従ったために神々から離れて自由になったが、再び神々と結びつくという意味である。) 賢者の石(改変) 現代という唯物論の時代は、新鮮な空気を健康の象徴にしている。ヨガの行者は、反対に洞穴に閉じこもり、できるかぎり自分の吐いた空気で呼吸しようとする。ヨーロッパ人のように窓を開け放って、自分が出した息を開け放つのとは逆である。 (ヨガは自分が出した二酸化炭素で呼吸しようとする。つまり、植物のように二酸化炭素から酸素をつくりあげることをヨガを通じて体得しようとしている。) ヨガの行者は、空気をできるだけ汚さないようにすること(二酸化炭素を外に出さないこと)を学ぶ。つまり地球の大気を利用し尽くすこと(循環)を学ぶ。この秘術は古代のヨーロッパの秘教学院でも御馴染みだった。その秘術は「賢者の石、あるいは哲学者の石の製造」と呼ばれてきた。 18世紀から19世紀への転換期に霊的な進化について多くのことが秘教学院から外に洩れた。賢者の石について多くのことが公の書物に書かれ、資料としての出典は確かであっても、それらの本に書かれている賢者の石の本当の意味や内容を著者がほとんど理解していないことがわかる。 1796年、チューリンゲンの新聞に賢者の石について次のような記事が載った。 「賢者の石は誰もが知るものである。賢者の石は誰でも毎日ある時間手にしているものでもある。賢者の石は様々な場に見つけられる。ただ人々はそれが賢者の石である、とは気づいていないだけである。」 上記のように「様々な場に賢者の石は見つけられる。」とは不思議な表現だが、この表現は言葉そのままで真実である。 (以前紹介したが、賢者の石とは炭素だからである。) 植物は炭酸を受け入れ、炭素を自分のなかに残し、炭素によって身体を築く。人間と動物は植物を食べることで炭素を摂取し、呼吸によって炭酸を再び吐き出す。このように炭素は循環している。将来、炭素は人間のなかだけでも循環するので、別の形を取るようになるだろう。 将来、人間は自己を絶え間なく拡大し、いま植物に委ねていること(光合成)を自分で可能にするだろう。人間は鉱物、植物を克服していったように、今度は逆に、その道を辿り戻る。人間は植物になる。植物を自分のなかに受け入れ、植物の行なう全過程を自分のなかで行なうようになる。 つまり、人間は炭素を自分のなかに貯め、植物が今日無意識に行なっているように炭素から自分の身体を意識的に形成するようになるだろう。炭酸の炭素と結びついた酸素を、自分の器官のなかで取り出して用意し、残りの炭素を自分のなかに貯えることで、人間は自分の基礎となる炭素構造を自らで構築できるようになる。これが未来の人類の壮大な理念である。こうなれば人間は食べるために何も殺さなくてよい。 唯物論でも知られるように炭素とダイヤモンドは同じ物質である。ダイヤモンドは炭素が結晶し透明になったものである。 将来、炭素を貯め込んだせいで人間の身体が黒くなることはない。人間の身体は透明なダイヤモンドのように輝く炭素となる。そのとき、人間は賢者の石をみつける。人間は自分の身体を賢者の石に変化させる(P167-P168) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月25日
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次回の続き。 前回は、唯物論で世界を支配しようとしている通称レプタリアンと呼ばれるヨハネの黙示録で、悪人種と呼ばれた人たちについて、シュタイナーの話から紹介した。そのレプタリアン、聖書のユダヤ人を利用して自分たちの地位を王位につけようと画策している。 しかし、そんなことは神々はとっくのお見通しなのである。この世界で王になろうとも、この世界をつくっている世界では奴隷にすぎない。そういう救いようのない連中の話を、御馴染みのサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 欧米金融ユダヤ勢力によるベネズエラとウクライナでの謀略とは? http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140224/1393204925#seeall 前回の投稿で、米国が自らの借金をご破算にするために「世界恐慌詐欺」から「極東戦争詐欺」の準備を整えているという記事を書きました。 ▼集団的自衛権の憲法解釈変更と米国の命令と演出 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140221/1392951628 米国がこのように、極東や中東で蠢いているのはご承知の通りだと思いますが、もちろん、問題は局地的でなく、世界中のあちこちで同時多発的に色んな悪さをしています! 米大使館員3人を追放 ベネズエラ大統領 ベネズエラのマドゥロ大統領は16日のテレビ演説で、在ベネズエラ米国大使館の職員3人を国外追放すると発表した。AP通信が伝えた。大統領は、3人が野党勢力に加担したためとしたが、詳しくは説明しなかった。ベネズエラではここ数日、大統領の退陣を求める野党勢力の一部が過激化して警官隊と衝突を繰り返し、緊張が高まっている。 首都カラカスでは12日、マドゥロ政権の支持者たちと、学生らの過激な反政府派が衝突。双方の計3人が死亡した。警察は野党指導者レオポルド・ロペス氏に責任があるとして、逮捕状を取り行方を追っている。ケリー米国務長官は15日、ベネズエラ政府がロペス氏の逮捕を目指していることに懸念を表明。米大使館員追放には、こうした野党寄りの米政府の姿勢をけん制する意図があるとみられる。 マドゥロ大統領は、昨年3月にがんで死去した反米左翼チャベス前大統領の後継者。(共同) 2014.2.17 19:10 http://www.freezepage.com/1393199587YYVISIGCXX ベネズエラのマドゥロ大統領が、米国大使館員3人を国外追放したそうです。 理由は野党のデモの過激化を裏で操っていたからだとか。 ベネズエラは、現在世界で1・2位を争うほどの石油の埋蔵量を誇っている国。 米国がちょっかいを出しているのは、もちろん政権を転覆させ、野党の米国傀儡政権を誕生させて石油利権を全て奪おうという魂胆です。 これに対して、マドゥロ大統領は、チャベス前大統領の後継者なので、バリバリの愛国派。 当然、米国のこの動きを封じたというお話です。 さらに、ウクライナでも! ウクライナ 親欧米派の勢い加速化 【モスクワ=遠藤良介】ウクライナのヤヌコビッチ大統領の政敵であるティモシェンコ元首相の釈放を受け、同国の内政は再び親欧米派が勢いを持つ方向に転回する可能性がある。だが、ヤヌコビッチ氏の支持基盤である東部では、首都キエフでの大規模デモなどを「武装クーデター」などと非難する声が上がり、同氏は大統領辞任を拒否している。情勢の正常化にはなお暗雲が漂っている。 大統領と野党3党の代表者が前倒し大統領選の年内実施などで合意した21日以降、事態は大きく動いた。議会は同日夜、ティモシェンコ氏の釈放を可能にする法改正案を可決。与党の地域党からは議員の離党が相次ぎ、野党側は大統領を早期退陣に追い込むべく攻勢をかけた。 2004年の民主化政変「オレンジ革命」の立役者であるティモシェンコ氏は、その痛烈な弁舌で現在もカリスマ的人気を誇る。「政治的裁判」による獄中生活も経たことで、野党側によるヤヌコビッチ政権批判の急先鋒(せんぽう)を担うと予想されている。 だが、親欧米派の野党による巻き返しには、親露派住民が主体の東部・南部が反発を強めるのが必至だ。東部と南部の地方議員が22日、ハリコフで開いた大会では、首都での大規模デモや野党の攻勢について、「合法的な政権が武装テロリストに奪取された」などと批判する声が相次いだ。ロシア国営テレビの中継によれば、議員らの多くはロシア語で演説し、「路上に出て(野党デモ隊からの)防衛を準備せよ」といった呼びかけもあった。 一連の動きによって、親欧米的な西部と親露的な東部・南部という歴史的な溝がいっそう深まったのは確実だ。前倒し大統領選がいかなる結果となっても、国民和解の道は遠い。 21日に署名された大統領と野党3党代表者の合意文書には、ドイツやポーランドの外相が証人として署名したが、協議に加わっていたロシアの特使は見送った。欧州連合(EU)が主導した調停内容に不満を抱いた可能性が高く、ロシアがヤヌコビッチ氏の側に立って批判を強めることも確実だ。 デモ隊の中核を成し、政権と野党の双方にとって制御が難しい過激民族主義勢力の動向も焦点だ。デモ隊幹部は「大統領辞任や内相逮捕が実現するまで武器を置かない」としている。http://www.freezepage.com/1393200337TYJJWGVUQUhttp://www.freezepage.com/1393202321NGVSHJUKVE このブログをお読みの方にとっては、すでに常識ですが、米国という国は、米国民を騙して金融ユダヤ勢力が支配権を握っていますよね? この金融ユダヤ人は、白系ユダヤ人やアシュケナジーユダヤ人、改宗ユダヤ人やハザール系ユダヤ人などとも呼ばれています。 じつは、この金融ユダヤ人の本国であるハザール汗国があったのが、現在のウクライナです。 ウクライナは、オレンジ革命でユダ金側が支配権を取り戻していたのですが、その後、深刻な経済状況に喘いでいる事はご存知の通りです。 そのウクライナに対する欧米=ユダ金のオファーは、さらなる搾取!w そしてそこに、ロシアがウクライナの経済状況を打破するようなオファー! 背に腹は変えられないヤヌコビッチ大統領、ユダ金を切って、ロシアと組む事を選択。 ロシアと貿易協定を締結します。 この動きに対し、欧米=ユダ金が傀儡勢力を使って、オリンピックで手出しの出来ないロシアの隙をつきながら政権転覆を謀っているというのが現在の状況って感じでしょうか? ☆ ☆ ☆ やればやるほどボロがでてくるのに、ご苦労なこってす。
2014年02月25日
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前回は、民族論から、コペルニクスについてのシュタイナーの話を紹介した。その話から、宇宙の螺旋構造(運動)があらゆる事象に浸透していることがわかる。簡単にいえば、立場の逆転、いまでいうブーメラン効果のことである。 例えば、前回、スペイン人に虐殺されたアメリカ先住民の霊魂が、今度はスペイン人に生まれ変わってくること(カルマという意味ではこれが一番わかりやすい)や、 原始キリスト教に帰依していた古代ヨーロッパ人として生きた霊魂が、20世紀にキリスト教とはあまり関係のない日本人となって生まれてきて、20世紀の唯物論的なキリスト教のヨーロッパ人のやり方に反抗したことや、 現在のキリスト教の布教に関係した19世紀から20世紀に北アメリカ文明をつくった者が、キリスト教とはほとんど関係のない秘儀に参入した霊魂の持ち主だったことなどから、 立場の逆転、つまり、カルマのブーメラン効果が伺える。 さて、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 神智学の門前にて 宇宙は螺旋を描く(改変) プトレマイオスの体系(天動説)はアストラル界に通用し、コペルニクスの体系(地動説)は物質界に通用する。将来は、全く違った宇宙像が現われるだろう。 唯物論では通常、コペルニクスは、地球は地軸を中心に回転していること(自転)と、地球は太陽のまわりを回っている(公転)という二つのことを教えた、といわれているが、彼がもう1つ別の運動、つまり(太陽系)全体が、渦巻(螺旋)状に絶えず動いている、ということを教えたことはいまだに注目されていない。 この3つ目の教えは、人類が精神的に成熟するまで、恐らく秘密糧に保管されるだろう。コペルニクスは新旧の境に立っていて、古い叡智を多分に、自分の霊魂のなかにもっていた。 古代、人間は世界をいまとは全く違う観点からみていた。 唯物論では、近代になって例えば、コペルニクスは地球は静止している、という誤謬を打ち砕いた、といわれている(コペルニクスの転回)。彼は、太陽が地球のまわりを回っていると想像するのは誤りだと教えた。ケプラーとガリレオ・ガリレイが、その教えを発展させた。 しかし、それでも、コペルニクスも、天動説を唱えたプトレマイオスも、どちらも正しい。どの立場から、太陽と地球を考察するのか、という観点が違うだけなのである。太陽系を物質界からではなく、アストラル界(高次元界)から見れば、プトレマイオスの体系(天動説)は正しい。 アストラル界から見れば、昔の人々が思っていたように、地球が中心にある。アストラル界では、全てが逆(アベコベ)にみえるからである。 (アストラル界の話は、子を食べる山姥伝説として残っている。お産を逆転させると、赤ん坊を母親が食べる世界になるからである。古代の書は、精神の世界、つまり霊界を書いた本なのである。山姥とは、現代科学でいえば、負のエネルギーの世界のことで、電子と陽電子の関係と同じで、場の理論でいえば、正の生成演算子に対する、負の消滅演算子のことである。) プトレマイオスの体系はアストラル界に通用し、コペルニクスの体系は物質界に通用する。しかし、将来は、これらとは全く違った宇宙像が現われるだろう。 ヤハウエあるいはエホヴァの意味(改変) ヤハウエ、あるいはエホヴァというのは、「私(唯一神)」、あるいは「私(唯一神)は存在する」という意味である。魂が、自らに向ける名「私」を用いて、魂のなかで、神が言葉を語りはじめる。(P17) (神は人間の思考「叡智」とともにある、という意味と考えられる。「私」という認識は、唯一神のものである。この認識を使って、人間は思考でき、その結果を唯一神に提供している。) 降霊会に現われる1つ目のもの(改変) 人間の行為全ては、たとえ歴史の本に書かれなくても、神界の境にあるアーカーシャ年代記(記録書)という不滅の歴史書に書き込まれる。意識をもつ存在により、世界に引き起こされた全てを、この境で経験できる。 意識をもつ存在が体験したことは、アーカーシャ年代記(記録書)に書きとめられる。秘儀参入者は、この境に到達し、人類の過去全てを読み取ることができる。しかし、読み取る方法を学ばねばならない。 アーカーシャ(虚空)は生命をもち、アーカーシャ像は複雑な言葉を語る。シーザーの行為が記録されたアーカーシャ像を、例えばシーザーの霊魂と混同してはならない。過去シーザーであった霊魂はもう再受肉しているかもしれないからである。 外(物質)的な方法で、アーカーシャ年代記(記録書)に近づくと、そのような混同を引き起こす。そのような混同は往往にして、降霊会などで生じる。心霊論者は、亡くなった人を見た、と信じるが、それは死者が生前行なった行為の記録によるアーカーシャ像にすぎない。 例えば、ゲーテのアーカーシャ像が、1796年に活動したときの姿で現われることがある。神秘学に通じていない者は、このアーカーシャ像をゲーテ自身と混同する。このアーカーシャ像は、質問に答えることができる。それも、昔答えたことを答えるだけでなく、昔は答えなかった、全く新しい質問にも答える。 生前述べた答えを繰り返すのではなく、当時ゲーテが答えたように(実際、生前は答えていないが)答えるのである。それどころか、このゲーテのアーカーシャ像は、当時のゲーテのスタイルとセンスをもって詩を作ることもできる。アーカーシャ像は、まさに生命体なのである。 事実はこのように驚愕すべきものだが、真実である。(P32-P34) 降霊会に現われる2つ目のもの(改変) 自我を通じて自分自身が働きかけるほど、自我の中心である青味がかった球から輝きが発する。その輝きは、アストラル体の支配力を表わしている。だから、「人間は二つのアストラル体を持っている。1つは、(生前自身で働きかけなかった)動物的な欲望を持ったアストラル体。もう1つは、自身で働きかけたアストラル体」ということができる。 死後、欲界を通過すると、人間はアストラル体の高貴な部分を、低次の部分から取り出すことができるようになる。低次の部分は取り残され、人間自らで作り上げた部分だけを取り出すのである。横暴な人、我侭な人の場合、アストラル体の大部分は低次の領域に取り残される。節度のある人の場合は、取り残される低次の部分は少なくなる。 例えば、アッシジのフランチェスコのような人が死ぬと、アストラル体はごく僅かしか残らず、自らの働きかけによって高貴になったほとんどの高次のアストラル体が取り出される。残された僅かなアストラル体は、第三の死体となる。 人間が高貴にできなかったアストラル体は、低次の意識で、俗に本能といわれている。この死体は、アストラル空間の様々な場を漂い、多くの有害な影響を与える。 この第三の死体が、降霊会で現われる第二のものである。このアストラルの死体は、しばしば長期間とどまり、霊媒などを通して語りかける。そして、人々はしばしば、このアストラルの死体が死者その人だと思い込む。 しかし、それは間違いで、それは単なるアストラルの死体なのである。このアストラルの死体のなかに、低次の意識と習慣が含まれている。このアストラルの死体は、質問に答えることもできるし、消息を伝えることもできる。また、理性的に語ることもできる。こうして、多くの混乱と誤謬が生じる。 しかし、この第三の死体、つまりアストラルの死体は次第に消滅していく。そして、それを残した人間の魂が再び地上に受肉するときには、完全に消滅している。大抵そうだが、例外もある。アストラルの死体が消滅する前に、受肉する場合である。 このような人は受肉するときに、前世での不完全さ(低次の意識)をまだ含む自分のアストラルの死体を見つけて、困難な状態に陥る。(P45-P47) 霊視者にとって、アストラル界を探求するのは、非常に興味深い。例えば、アストラルの死体が漂い、消滅するのが観察できる。低次の欲望の制御に働きかけ、高度に進化した人間のアストラルの死体は早く消滅していく。自分の性向や激情を抑えることなく、なすがままにさせておいた低級な人間の場合、アストラルの死体は長々とゆっくりと消滅していく。 それどころか、その死者の魂が再受肉への道を辿っている際に、そのアストラルの死体が残っていることもある。その場合は、困難な宿命を負うことになる。特別の事情から、死後すみやかに再受肉することになり、アストラルの死体がまだ消滅していないこともある。 そのような場合、アストラルの死体はその人に強く引きつけられ、新しいアストラル体のなかに入り込む。その人は新しいアストラル体を形成したが、古いアストラル体が新しいアストラル体に結合し、一生のあいだ二つのアストラル体を引きずっていくことになる。 すると、古いアストラル体は、悪夢や幻想のなかで、第二の自我として現われて、その人を取り囲み、苦しめる。その場合は、古いアストラル体は間違った「境域の守護者」となる。この古いアストラル体は、他の3つの構成要素、つまり肉体、エーテル体、自我と強く結ばれていないので、容易にその人から抜け出て、ドッペルゲンガーとして現われる。(P64) 自我の姿(改変) 霊眼には自我も独特の姿に映る。アストラル体を探究すると、細かな点にいたるまで、絶えず動いていることがわかる。自我は、額のうしろの鼻根の辺りに、長く引き伸ばした卵形の青みがかった球のようにある。 節度のある人の場合は、節度のない人の場合のようには、自我ははっきりと知覚できない。横暴で我侭な民族において、この球は明瞭に知覚できる。実際は、この場所にはなにもない。空虚な空間である。例えば、炎の中心には何もないが、まわりの光によって青く見えるのと同様に、オーラの光がまわりで輝いているので、この暗い、空虚な場所が青く見える。これが自我の外見的な表現である。 震える子ども(改変) 今日(1920年代)、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質である。この独特な病気は、十八世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかっただろう。 もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをすることを、秘教の導師は知っている。もし、唯物論的な思考習慣を抑止しないなら、やがて人間は神経質になるだけでなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。 (恐らくアレルギーなどのアトピーのことであろう。) (唯物論に洗脳された)子どもは周囲の世界を物質的に感じるだけでなく、苦痛を感じるようになる。とくに、精神病が非常な早さで広まる。狂気の流行病が、何十年か先には現われるだろう。精神病の流行によって、人類の進化は妨害されようとしている。このような未来が迫っているために、人類の隠れた導師たち、叡智のマイスターたちは、霊的な叡智を一般の人類に注ぎ込まねばならない必要性に迫られている。 マニ教団(改変) マニ教団は、密かに、その成員によって、将来の悪を善に導くような者になるように教育している。悪しき振る舞いの子どもでも、どこかに善の部分があり、その善を教育によって発展させていくことができる。しかし、唯物論に洗脳されてしまった悪しき人たちには、もはや、そのような可能性はない。だから、マニ教教団の課題は非常に困難である。生まれつき全くの悪の化身となった者(レプタリアン)のことを、マニ教教団の成員は今日(1920年代)すでに学んでいる。この悪を改善すると、かえって特別な善になる。 ☆ ☆ ☆ 次回はレプタリアンを紹介してみる。
2014年02月21日
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前回はアメリカ人とヨーロッパ人の違いのシュタイナーの話を紹介した。今度は、日本人の話を続ける。 ☆ ☆ ☆ いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか 日本人の唯物論は欧米人の唯物論を凌駕してしまうだろう(改変) 日本人の霊的な思考が物質界のなかに侵入し、唯物論を形成していくだろう。その唯物論がヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化(精神化=脱唯物論化)されなければ、その唯物論は確実にヨーロッパの唯物論を凌ぐだろう。 ヨーロッパ人は、日本人が持っているような霊能力を持っていないからである。このような霊能力を、日本人は太古の霊性の遺産としてもっている。(P76-P77) (ヨーロッパ人がもたない霊能力とは、以心伝心などのこと。ホンモノのユダヤ人の一派が、太古の日本に漂着したようである。) 日本人(改変) 歴史上、民族移動の時代(4世紀後半)と呼ばれる時代にヨーロッパに住み、移住した人々がいる。この住民の魂は、(前世で)南から北に広まってきた(霊的な)キリスト教を受け入れた魂に似ている。つまり、初期のキリスト教化のなかで成長した魂のことである。 今日の唯物的なキリスト教とはかなり異なった、紀元後数世紀にヨーロッパで伝承された霊的なキリスト教を受け入れた魂は、再び、ヨーロッパの中部には受肉(転生)しなかった。紀元後数世紀にヨーロッパに受肉し、霊的なキリスト教が文化的に南から北に広まってきたのを体験した魂は、いまはむしろアジアに受肉(転生)している。 いま述べたことは、1910年代の恐ろしい破局(第一次世界大戦)のときに、特にはっきりと現われている。特に日本人に、そのような魂が受肉していることを知ると、現在の地球文明を新たな洞察法(霊視)で考察できる。 かつてヨーロッパで特別な(霊的な)方法(秘儀参入法)でキリスト教化を体験した魂は、いまキリスト教とはあまり関係がない地域に住んでいる。そのような魂は、当時の霊的なキリスト教に感化された潜在意識をもつと同時に、現在の退廃した物質文明によるアジア主義の雰囲気を纏い担っている。 だから、今日のヨーロッパに対立する意識も内に担っている。その意識は、本質的には、かつては偉大であったのに退廃した東洋の叡智と、南から北上してくる霊的なキリスト教を受け入れた古代ヨーロッパの民族の純粋な叡智とが共鳴した結果なのである。 アジア人特に日本人の意識を理解するには、民族移動当時(4世紀後半)の前後に古代のヨーロッパに生きていた人々に注目し、この人々が、この民族移動の頃に、南から広まってきた霊的なキリスト教に遭遇した古代ヨーロッパ人であることを知る必要がある。 彼らはキリスト教を今日とは違って、根源的に直接、生命全体に作用する巨大な力を持った霊の形で受け入れた。当時の霊的なキリスト教は、現在の抽象的で理論的な神学にまだ侵略されていなかったので、魂のなかの土台となる潜在意識に働きかけることができた。 この当時ヨーロッパにいて、このような霊的な方法(秘儀参入法)でキリスト教を受け入れた魂の大部分は、他よりもやや長い期間にわたり、死後と再受肉(転生)の間、霊界で過ごし、今日(1920年代)アジアに受肉している。特に当時キリスト教化された魂の多くは今日、日本人の身体に受肉している。 多くの謎を提出しているアジア独特の生活を理解するには、今日アジアには前世で霊的なキリスト教の感情を受け取った魂が、子どもの頃から、既に言語を通して退廃した古代の東洋文化に囲まれている状況を明らかにする必要がある。(P78-P79) (アニメや漫画の文化は古代の霊的なキリスト教の世界と退廃してしまった古代のアトランティス文明やレムリア文明などを表現しているように思える。) 神秘学オデッセイ 20世紀初頭の日本人(改変) (以下、高橋巌によるシュタイナー解説) シュタイナーはこんなことを言っている。 「今、ヨーロッパでヨーロッパ人として生きている人の大半は、かつて(前世では)アメリカのインディオたち(アメリカ先住民族)だった。当時スペイン人たちに虐殺された無数の人たちが今、20世紀初頭のヨーロッパ人となって生きている。」 シュタイナーの日本人に対する考え方もこれと似ている。 「現在の日本人はキリスト紀元後、1世紀から4世紀頃までの間、南ヨーロッパ-北アフリカも含めて、ギリシア、ローマ、イベリア半島の辺りで原始(霊的)キリスト教徒として敬虔な宗教生活を送った人たちの魂の再来と考えないと、20世紀の日本人の霊的な意識は理解できない。」 といっている。それからまた、 「北アメリカについては、過去世において霊的なキリスト教に遭遇せず(受け入れず)に、古代ギリシアやペルシャ、エジプト、カルデアなどで古代の秘儀に参入した人々が、19世紀から20世紀にかけて転生し、アメリカ文化をつくるうえで指導的な立場に立っていた。」 (以前紹介した神智学徒のドリールなどだろう。) とも言っている。 (再び) 色と形と音の瞑想 惑星の軌道は螺旋状であり、太陽の軌道を中心にして進む(改変) 唯物論では、惑星は一定の速度で太陽のまわりを巡っているといわれているが、太陽も動いている。太陽の運動は、惑星の運動とともに、秘教学者により研究されてきた。研究の結果、太陽は中心となる神霊(銀河の中心)のまわりを動いていることが分かった。 惑星の軌道は螺旋状で、太陽の軌道を中心として追いかけることがわかった。個々の惑星が軌道を進む速度には、特定の調和(律動)的な関係がある。この調和(律動)が音となり、交響曲を奏でる。その交響曲を、ピュタゴラス派の人々は「天球の音楽」と名付けた。 この和音・音楽は宇宙の模像である。ピュタゴラス学派が教えているのは、なんら空想ではなく、真実である。 古代の秘教学者たちは、「星天は静止しているように見えるが、実際は動いていて、神霊(銀河の中心)を中心にして、100年で〈1度〉進む速度で巡っている」と考え、諸惑星の速度を次のように算出した。 土星の速度=木星の速度の2.5倍 木星の速度=火星の速度の5倍 火星の速度=太陽・水星・金星の速度の2倍 太陽の速度=月の速度の12倍 土星の速度は、星天全体の速度の1200倍で、1年に〈12度〉前進する。(P66) (この数値の意味がよくわからない。音階とも関係するようである。) 教育術2 宇宙は螺旋を描く(改変) 唯物論からくる(太陽や惑星についての)見方は次第に意味を失っていくだろう。太陽や惑星の運動についての今日(1920年代)の考え方は間違っているからである。本当は次のように運動している(下図)。 例えば、第Iの位置に太陽があると、その軌道の上位に(太陽から)火星、木星、土星、そして、下位に(太陽から)水星、金星、地球(月)が位置する。 さて、これらの天体が、矢印の方向に螺旋状に相前後して動いていくと、太陽が第IIの位置にきたとき、上図では、左右反対になり、太陽の左側に、(太陽から)火星、木星、土星、そして右側に、(太陽から)水星、金星、地球(月)がそれぞれ位置するようになる。 それから更に、太陽が第IIIの位置にまで行くと、また、左右逆転し、つまり元に戻る配置となるので、あたかも地球が太陽の周りを廻っているかのような外観を生じさせる。実際は、太陽の軌道を中心として、その後を螺旋状に、地球などの他の惑星がついていっているにすぎない。(P202) (このことは銀河が渦巻き状になっていることからもわかるはずである。DNAが螺旋構造なのも、天体の軌道、つまり太陽光から体験が転写され、遺伝情報として記録されていることがわかる。) 星と人間 コペルニクス(改変) 中世まで、東ローマ帝国がコンスタンチノープルにあった。ポーランドのユダヤ人がカフタンを着て、古い巻物を持ってやってくるのは御馴染みの光景である。彼らは著名な学者(ラビ)ではないが、ユダヤ教の基礎知識を持っている。 カフタン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%B3 霊の叡智全てが根絶やしにされたとき、このような人々がコンスタンチノープルにやってきた。彼らは、多くの叡智が記された大きな羊毛紙の巻物を携えてきた。それらの羊毛紙の巻物は、すべてコンスタンチノープルで買い取られた。 バビロニアとアッシリアから伝わってきた叡智が、コンスタンチノープルで倉庫に入れられた。やがて誰も気にとめなくなった。 ヨーロッパでは、精神文明全てが根絶やしにされた。12世紀、13世紀、中世になって、東ローマ帝国は没落していき、羊毛紙の巻物は再び白日の下に曝された。様々な人が、羊毛紙をくすねた。その羊毛紙がヨーロッパに流れた。当時の学識のない人々が、それらの羊毛紙に書かれた文字を解読した。 そのようにして、中世に、叡智が断片となった「小さな知識」が広まった。その小さな知識が、探求精神を持った人々を刺激した。羊毛紙がヨーロッパに流れ、高額で買われなかったら、ファン・ヘルモントやパラケルススなどは出現しなかっただろう。こうして、多くの古代の叡智が小さな知識という形で、ヨーロッパにもたらされた。 このようにしてヨーロッパにもたらされた小さな知識が、今日でも秘密結社のなかに伝説として残っている。フリーメーソンやオッドフェローなどの結社がある。高価な羊毛紙に由来する知識が、コンスタンチノープルからヨーロッパに来ていなかったら、それらの秘密結社は何の知識ももたなかっただろう。 (以下を参照に。 『結社の時代』マーク・カーンズ著(1993年 法政大学出版局)原題はSecret Ritual and Manhood in Victorian Americaで、フリーメイソン、オッド・フェロー、レッド・メンといった結社への参入儀礼が興味深く紹介されています。) しかし、当時の人々は、その知識を高く評価しなかった。コペルニクスのような学識のある司教座聖堂参事会員(カノン)は、高価な羊毛紙の巻物を買い取った人々のところには行かなかった。そのようなことをすれば、人望を失うからである。こうして代わりに、古代の科学は人望を失った。コペルニクスらが打ち立てた科学が、今日でも通用している。 コペルニクスは天文学を樹立したが、古代に知られていた叡智については何も知らなかった。コペルニクスに続く世代(弟子たち)は、コペルニクスの主張を理解できなかった。コペルニクスが綴った二つの文(法則)はなんとか理解できたが、三番目の文(法則)は理解できなかった。 コペルニクスが書いた二つの文をかろうじて理解した弟子たちは、「太陽が中心にある。太陽のまわりを水星・金星・地球などがまわっている」と信じた。この法則は今日、どの学校でも教えられているが、コペルニクスの主張全体を理解したら、この理解は中途半端であることがわかる。 太陽の後に水星があり、その後に金星、そして地球(月)があることに、コペルニクスは注目した。それらの惑星が、太陽とともに、宇宙空間を螺旋状に動いている。 以上のように、コペルニクスの本を読み取ることができる。 (上述したとおり。) コペルニクスは昔の科学を蹴飛ばしたが、近代人は、コペルニクスも理解できなかった。コペルニクスは二つの法則だけを述べたのではなく、三つの法則を述べた。三番目の法則は、当時では理解できなかったので、今日の天文学は単なる数学になった。(P144-P146) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月21日
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私が最初に知ったシュタイナーの本は、確か「色と形と音の瞑想」だった。眼から鱗の内容だったので、忽ちシュタイナーの話に夢中になった思い出がある。なんだかいままで勉強してきたこと全てが幼稚っぽく、馬鹿らしく感じた。 それ以来、霊界についての本、有名どころでスウェデンボルグから、グルジェフ(途中で挫折)などを色々読んできたが、やはりシュタイナーの本が一番わかりやすく書いてあるように思われる。ただし、シュタイナーの本だけ読むのもダメに思う。 シュタイナーの本はよく人種差別的であるという批判がある。私が読んだ限りはそのようにはみえないが、ドイツ語の原本ではないので、なんともいえないが、どの内容の部分がそのようにみえるのか、批判者の主張に耳を傾ける意味でも、他の本も読むべきである。 しかし、他の本を読むことでかえって、シュタイナーの語る内容を熟知すれば、そもそも人間の霊魂に発達以外の区別はできないので、霊魂が受肉する肉体の種類をもって、差別することなど理論的にも不可能であることがわかるはずである。 あえて人間に関して、霊的な差別があるとするなら、西洋での輪廻転生を脱した霊魂の呼び名のことで、マイスター「輪廻の教師」、アデプト「輪廻の導師」、アヴァターラ「輪廻しない不死の存在」のことだろうか。 しかし、これらの霊魂の存在は、人間に生まれ変わることはほとんどないというから、差別に関わる機会がないわけで、輪廻転生上で生じる差別は、そのまま幻想であることになる。 つまり、早い話、霊的に同じ水準に達しないと、その存在自体を認識できないので、霊的には差別しようがないのである。だから、逆にいえば、差別とは幻想で、幻想である外見を伴ってはじめてできるわけで、差別すること自体、幻想に囚われていることになる。 ある意味、マスクをしている霊魂を、マスクの形から判断していることで、全くの間違いだから、差別は幻想なので、相手にしないことである。 だから結局、差別する者は間違ったことをしているので、正しいことには到達できずに、差別する者は、その差別をもって、差別されるということである。 例えば、アホが間違った歴史観で他を差別すれば、その歴史観をなくさない限りは、他からアホが差別されるということになる。色眼鏡で外界をみれば、色眼鏡を外さない限りは、外界の本当の色がわからない、ということである。 というわけで、その原点に返って、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 色と形と音の瞑想 ヨーロッパの白人(改変) アジア人(黄色人)が中脳を主に活用するのに比べて、ヨーロッパ人(白人)は前脳を主に活用する。後脳を主に活用するアフリカ人(黒人)は、特に意志を促進する。 中脳を主に活用する者は、感情の営みを豊かにする。感情の働きは、主に胸部に場を占める。 ヨーロッパ人は、主に頭に場を占める思考を促進するため、あまり感情的にならず、人体をほとんど実感しない(頭でっかちで実感に乏しい)。ヨーロッパ人が頭を実感するのは、頭痛がするときや病気になったときだけである。それ以外は、頭というものをほとんど感じない。 (このためか、肩凝りという概念がないようである。) そのため、ヨーロッパ人は外界ばかりに関心が向き、容易に唯物論者になる。アフリカ人(黒色人種)は唯物論者にはほとんどならない。アフリカ人は、霊魂にとどまりがちで、精神性を重視する。アフリカ人は、内向きの意識を発展させる。 アジア人も唯物論者になりにくい。アジア人は、感情の働きにとどまり、情緒を重視する。アジア人は、ヨーロッパ人のように外(物質)的な生活を気にかけないので、 「ヨーロッパ人は、技術者になることしか頭になく、外(物質)的な生活ばかりに拘っている。ヨーロッパ人は前脳を主に発展させるので、もっぱら外界に注意を奪われてばかりいる。」 と心の底で思っている。(P41-P42) アメリカ人(改変) 白人は、外界に関心があるので、「白人はどこにでも行ける。アメリカ大陸にも行ける」と主張する。例えば、アメリカ大陸に住んでいる白人は全てヨーロッパから移住してきた人々である。白人がアメリカ大陸に来たわけである。 ヨーロッパ大陸では、前脳を主に活用し、思考を促進させる人間がつくられる。アメリカに来ると、事情が異なり、後脳を活用するようになる。 ヨーロッパでは、白人は主に前脳を活用していたが、アメリカ大陸では、後脳を活用しないと定住できず、やがて壊滅する。アメリカ大陸に行くと、頭のなかで前脳と後脳の戦いが生じるからである。 アメリカ大陸に引っ越すと、その家族の子孫はだんだん腕が長くなっていく、アメリカに定住すると、脚もいくらか伸びる。もちろん移住者自身(一世)ではなく、その子孫の腕や脚が長くなる。ヨーロッパ人がアメリカ大陸に来ると、中脳を通過して後脳の活動へと霊魂が導かれるからである。 しかし同時に、白人のアメリカ大陸移民者に独特の性質が生じる。ヨーロッパ人は思想家になると、思考そのものを物質化(実証)しようとする(夢想家になりやすい)。思想家にならなくても、確かに熟考することはあるが、そういう場合はそれほど思考を物質化しようとはしない。しかし、ヨーロッパ人がアメリカに行くとすぐに、前よりもじっくり考えなくなる。 ヨーロッパ人の本を読むと、いつも証明がなされている。証明から全く抜け出せていない。四百ページものの本を全部読んでも証明しか書かれていないこともある。小説でも、常に証明がなされている。四百ページものの本全部が証明で埋め尽くされているのに、最終的には、大抵何1つ満足に証明されてはいない。 アメリカ人はこのような馬鹿げた思想書は書かない。アメリカ人の本を読むと、様々な主張がなされている。その主張は潜在意識の近くの覚醒意識から繰り返しなされる。そもそも動物も証明しない。ライオンは、他の動物を食べる際に、その正当性を証明せずに、ただ食べる。 ヨーロッパ人が何かを行なうには、まず、その正当性を証明する。証明しなくては満足できない。ヨーロッパ人は証明し、アメリカ人は主張する。これが、ヨーロッパ人とアメリカ人の大きな違いである。 しかし、アメリカ人が主張することは嘘というわけではない。だから、アメリカ人は全身全霊で主張する。この特性が、アメリカ人がヨーロッパ人に勝っている点である。アメリカ人は一方では、滅亡していくインディアンを間近にみて、インディアンが滅亡しはじめると賢くなるのをみて、ヨーロッパ人はアメリカ大陸に来ると、賢くなって、無駄な証明をやめる。 証明を欲求するのは、精神に進化をもたらす特性ではない。いつも証明してからはじめると、朝にやるべきことができずに、証明を繰り返し、夜眠ることもできなくなる。アメリカ人は、そんな馬鹿なことはしない。アメリカ人は証明する練習・訓練をしないので、それをしないだけ、アメリカはドイツに勝る。 太陽は常に光と熱を地上に送っているが、いま(1920年代)、春分点は魚座にある。それ以前は、春分点は牡羊座にあった。後に、春分点は水瓶座へと移る。そのとき、本当のアメリカ文明が成立するだろう。それまでは、次々と文明がアメリカに向かっていくだろう。 今日すでに、アメリカ人が強大になり、ヨーロッパ人がだんだん非力になっているのがみうけられる。ヨーロッパ人は自分たちの土地(の特性)をもはや理解しない。いま(1923年)のヨーロッパは平和ではない。全文明がアメリカへと向かい、ゆっくり歩みながら、春分点が水瓶座に入ると、アメリカ文化が特別強くなるように、日光が地上へと降り注ぐようになる。その前触れが、今日既に見られる。 ヨーロッパでは、人智学が発達できる。人智学を、精神(霊魂)から発展させねばならない。人種の特徴、つまり物質性に基づく発展では、もはや手遅れである。精神(霊魂)から人智学を発展させねばならない。ヨーロッパでは、精神(霊魂)よりも人種に拘る人々が、ヨーロッパを不幸に突き落とす。 今日(1923年)まだアメリカ人は、そのような必要はない。まだ人種の特徴に支えられているので、アメリカでは、同じものが全く別の形で現われている。感性を研ぎ澄まして、アメリカの本を読み、国会演説を聞くと、アメリカで起こっていることがわかる。 「全く不思議なことだが、ヨーロッパでは、精神(霊魂)から人智学が形成されているが、アメリカでは人智学の模造品が作られている」 ということがわかる。その模造品は、すべて唯物論になる。アメリカ文化はヨーロッパの人智学に似た秘教学(神智学)をもっているが、ただアメリカでは、その模造品で、まだ生命力(オリジナリティ)をもたない。ヨーロッパでは、精神(霊魂)の働きによって人智学を活性化できる。アメリカでは、人智学を(潜在意識近くの)覚醒意識から取り出す。 このアメリカの模造品が(潜在意識=霊性を獲得し)自ら語りはじめるときが、いつかやってくる。そうなったら、ヨーロッパの人智学によく似たことを語るだろう。だから、「ヨーロッパでは、霊視から人智学が形成される。アメリカ人は人智学を、自然科学からつくる」ことになる。だから、私(シュタイナー)は人智学を説明する際に、「ヨーロッパのは、正真正銘の人智学ですが、アメリカのは紛い物で、人智学のパクリです。」と言う。 狂信者は、精神(霊魂)の活動を通してではなく、熱狂的に人智学を盲信するので、人智学の狂信者は、アメリカ主義を痛烈に批判する。人間が猿を罵倒するのは、猿が人間に似ているからである。非常に滑稽である。 ヨーロッパで精神(霊)的に達成された秘儀参入法と、アメリカで自然科学的な方法で達成された知識習得法とでは、北極と南極のような大きな差異がある。 アメリカの自然科学の本は、ヨーロッパの自然科学の本とは全く別物である。アメリカの自然科学の本も、自然法則としての霊を語るが、霊を粗雑な波動(固有波)の物質現象にしている。だから、近代の心霊主義はアメリカで発生した。 では、一体、心霊主義とは何なのか? 霊をまるで雲のような(多粒子の理想気体の)現象として語ることである。全てが雲のように現われてほしい、と思っている。だから、心霊主義はアメリカ製であり、心霊主義は唯物論的な方法で、霊(自然法則)を研究する。 アメリカでは、精神(霊)性への途上で、唯物論が猛威を振るっている。ヨーロッパ人は唯物論者になると、思考停止し、霊性をもった人間(アダム)が死ぬ。だから、ヨーロッパの精神を失ったアメリカ人は新たに生まれた唯物論の申し子である。子どもは本質的には最初、皆、唯物論者となる。そして、唯物論でない霊性へと成長していく。 アメリカのいまは未熟で極端な唯物論は、太陽が水瓶座から昇るとき、精神性へと成長していくだろう。 このようなことから、ヨーロッパ人がどのような課題を持っているかが明らかになる。アメリカ人を敵対視し、罵るのがヨーロッパ人の課題ではなく、ヨーロッパ人は、最善の霊魂から構成された文明を、全世界に築かなくてはならない。 アメリカ(唯物論)的なヨーロッパ人であるウィルソン大統領に一杯食わされたバーデンの王子のように物事を考えると、必ず失敗する。ウィルソンは生粋のアメリカ人ではなく、彼の理論(民族自決主義)は本質的に全てヨーロッパ(ロスチャイルド=バチカン=ルシファー)から受け取ったものである。そのため、彼は不毛な理論を作った。 (シュタイナーは、ウィルソンは悪魔だと述べている。) ホンモノのアメリカ主義が、霊視的な方法で真実を発見するヨーロッパ主義と、いつか結びつくだろう。霊視的な方法で研究すると、どのように物質界で行動すべきかがわかるようになる。(P46-P52) ☆ ☆ ☆ 以上で「色と形と音の瞑想」の紹介は終わる。次に民族の話を続けたい。
2014年02月20日
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日々の出来事をみると、現代社会のほとんどがニセモノだらけで、詐欺だらけであることがわかるだろう。大雪で交通マヒのときに、贅沢なテンプラを食っているアホ総理は、なんのために総理というポストがあるのかすら理解できないようである。 総理というポストは、困った人々を助ける見本となるためにある。だから本当なら、プライベートなどあってはならない存在なのである。日々公的業務に追われていないと務まらない24時間ずっと公的職務である。それぐらい、不幸な人々が量産されているのである。嫌ならさっさと辞めろ! しかも、テンプラ食ってたら、悪いのかと開きなおるアホさぶり、他者の心(気持ち)にどう映るのかが全くわからない人間の心に無関心な馬鹿なんであろう。どうせ何もせずに顰蹙を買うのなら、家康のようにテンプラ食って死んでしまえばいいのに、と思った人もいるだろう。 このようなアホのために国民の血税が無駄になっているというニセモノの悪い見本である。あのアホが全国放送、海外放送されるたびに、日本人の愚劣さ、野蛮さが広がっていく。せいぜい、あのようなアホは不正選挙で当選したアホで日本人ではないと注釈を加えるしかない。古代人がみたらまるでパロディか、地獄の沙汰で気が狂ったと思うかもしれない。では、シュタイナーのニセモノの話を続ける。 職業の未来とカルマ 機械の仕組み(改変) ポスト・アトランティスの第四文化期の推移のなかで主に生じたのは、人間が、無機(物質)的な外界への仕事から解放されたことである。無機(物質)的な外界の仕組みを、人間は器具などのなかに入れ込み機械をつくった。やがて、人間は、自分を器具などのなかに入れ込んだ機械をつくるだろう。 (ロボットやインターネットの世界のこと。) 今日(1920年代)、新しい機械が組み立てられている。今日、機械は外にあり、そのなかにはまだ、人間の特質は少ししか入っていない。しかし、いずれ増えていくだろう。人間と、人間が作り出す機械との間に特別な関係が生じるように、宇宙の歩みは進み、この関係は益々密接になっていく。 例えば、化学で習う元素を加工して薬をつくる。硫黄や酸素、もしくは水素などの元素からつくられる生産物は、それをつくる個々の元素に由来する特性しか含まない、と今日でも考えられている。現在の物質的な観点では、それでも大体は正しいが、宇宙進化の歩みは物質性とは逆の方向に進んでいる。 人間の意識と意志のなかに微妙に存在する不可視の波動が、人間が作り出す生産物のなかに組み込まれていく。例えば、調合した薬の作用は、それを調合した薬剤師の技術によって微妙に異なる。 物質的な最先端技術の発展さえ、ある特定の目的に向かっている。今日、技術の発展の未来を予測するなら、「将来、工場全体が、指導者の技術により作動するようになる」ということがわかる。 (オートメーション化のことで、現在では、手術などの遠隔操作が可能となっている。) 人間の技術などの志向性が、工場のなかに入り、それが機械の働き方に伝わるようになる。人間が触れるもの全てに、次第に人間の本質の模像が刻印されていく。 今日の賢人には愚かにみえることが実現する時代が来るだろう。 対照的に、パウロは「多くの人に、賢くみえることは、神の前ではしばしば愚かにみえる」と言った。やがて、人間は、手の動作などを通じて、空気の振動(音波)を起こし、それ(音波)による合図でモーター(電気機械)などを動かし、別の合図でモーター(電気機械)の動きを制御するようになるだろう。 経済の発展によって、このような技術が進めば、外(物質)的な特性などが完全になくなるだろう。そのようなものは、いま述べた人間の本性に由来する技術の志向性に取って代わられる。人間の本性と関係ない運動は、全て排除されていくだろう。 では、本当に善良な人、特別に道徳性の高い志向性の人には将来何ができるか、を考えてみる。そのような人は道徳性の高い世界をつくり、その世界の運動の法則を決めることができる。彼と同じように善良な志向性の人だけが遂行できる法則である。邪悪な志向性の人は、その法則に従っても、別の作用を引き起こし、思ったようには動かない。(P137-P138) (コンピューターのセキュリティのことか?) 職人(技術者)の意識(改変) これから話すことは、今日、予感している人もいるだろう。ある音波の影響で炎が揺らめく現象が起こる。この現象を更に研究すれば、これから話す霊性の道が発見できるだろう。 昔、金儲けしようとした錬金術師は、結局何もできなかった(物質界に埋没した)。金儲けなど眼中になく、神々の栄光と人類の安寧のために秘跡を行なった錬金術師は、同様の方法で、金(太陽)の領域に到達した(死を克服した)。 職業に就き、仕事をすることで、努力して手に入れた喜びにとどまったり、オーラに情念をもったりすると、太陽の領域には到達できない(死を克服できない)。職業や仕事を通じて生じる特別の感激を当てにして働かない分だけ、自身を浄化し、霊界に自身を浮上させることができる。 人間の霊魂は、仕事を通じて現われる機械的な物質界や、仕事に用いる機械的な物質界に、自分をもはや結び付けることはできない。 (例えば、小説家の書いた文学作品が、小説家とは違う世間のモノになってしまうことなど。) 好きな職業に就き、好きな仕事から、自身のなかにある情熱(欲望)を事物(物質界)に与えることは、将来、次第に不可能になっていくだろう。その代わりに、純粋に霊界(人間の精神)のなかに働きかけを行なっていくことになるだろう。霊界(人間の精神)のなかへ働きかけることで、人間の心を理解し、心から発せられる波動力を敏感に感じ取ること(霊視)ができるようになるだろう。 人間の進化に、このような霊性を与えることのできる人は、人智学により、精神の働きを具体的に認識することからはじまる。人間が再び霊性を回復できるかどうかは、「あらゆる職業や仕事を超越する」と同時に、「個性の異なる個人がお互いに共生しながら、あらゆる職業や仕事に精通する」という両局面を可能にする道を、世界の多くの人々が見つけるかどうかにかかっている。より多くの人々の共同生活を築き、多様多彩な職業の人々を結び付けることが人智学運動でもある。 職業の発展(専門化)に伴う純粋に外(物質)的な進歩(単純にいえば金儲けの御利益主義)は、人類の絆全てを解消に導くだろう。その外(物質)的な進歩(贅沢な生活)によって人間は益々理解しあえなくなり、人間の本性に相応する関係を発展することができなくなるだろう。 (生活が贅沢になればなるほど、精神の荒廃が進み、モンスターのようなクレーマーが増えていく。) 多くの人々が益々擦れ違うようになり、自分の利益しか求められなくなり、競争以外の関係を築けなくなるだろう。そうなってはいけない。そうなると、人類は完全に退廃するからである。手遅れにならないために、人智学が広まる必要がある。(P138-P140) (現状をみると、既に手遅れという感もなくはない。特に、この日本においてである。) 悪魔性の危険(改変) 今日、本人は否定しても、多くの人々が手に入れようと無意識に努力しているものを正しく指摘できる。 「霊について語るなんて、全く馬鹿馬鹿しい。我々は純粋に物質的な科学を、あらゆる領域で発展させている。それが人類の進化というものだ! 科学が本当に人類を前進させるもので、人間が成長して、霊についての無駄話をやめれば、地上に楽園ができる」 と今日言う人が沢山いるが、物質的な科学によっては、楽園(天国)は地上にやってこない。その方向だと、競争だけが人類を支配し、更に利益追求に熱心になるなら、地獄がやってくるだろう。 人類(地球人)が、本当に先(木星)に進むには、これとは別の道(霊性)が必要である。精神的な道を探求しないと、アーリマン的な力が奮われるだけである。 もし職業を専門化すると、「確かに人によって仕事は様々だが、皆が自分の職業を通して可能な限り多くの見返りを得ようとしているから、その多様性は自然に同等になってくる」という統一性が生じるが、そもそも、この統一性そのものが、アーリマン的な罠で、悪魔性の原則なのである。 世界が純粋に外(物質)的な前進でやっていけると思うのは、以下の発言と同じである。 「男たちは益々悪くなっていった。男たちは今日、世界にとって有害であり、不要だ! 男たちを根絶すれば、物質界での世界進化が適切に行われる。」 しかし、全ての男性を撲滅すれば人類は存続できないのだから、このような意見自体がおかしい。 この意見は、物質界についての意見なので、この意見が矛盾していることを人々は理解できるが、精神界について、矛盾しているかどうかは、霊能者でもない限り、わからないが、精神界についても、(内側の変化なしに)ただ外(物質)的に進化するだけ、というのは、やはり矛盾し、つまり、外(物質)的な進化ということ自体が有り得ない。 (そもそもモノの形状を比べて、進化とか、退化とかいえないからである。進化や退化は中身の問題である。) 過去の時代では、抽象論的な宗教が要求されたように、新しい時代の進化では、人智学運動のなかで努力されているような具体的な精神(霊)の認識(霊視力)が求められる。職業や仕事を通じて作り出され、人間から解き放たれた元素(運動)霊たち(霊的な技術)は、人間の霊魂が、精神界(霊界)へと上昇しようとする意識を受け取ることで満足しなければならない。 このことが人智学の唯一の課題ではないが、進歩し、変化する職業や仕事についての人智学の課題である。だから、宇宙の進化を通じて、人間の心の洞察に到達しないといけない。職業が人間を機械的にする分、つまり、専門化・機械化(奴隷化)された人々の解放のために、この職業を通じての人間の物質化の対極にある精神化の活動が集中的に行なわれなくてはならない。 専門化のいかんに関わらず、他者の霊魂にアプローチしながら、自らの霊魂を愛で満たす必要がある。 職人(技術者)にとっては、日常の生活がどうでもよかった時代が過ぎ、全く別の意識から創造を行なう時代がやってくるだろう。昔の善良な職業意識に勝るとも劣らない意識が生じるだろう。昔の職業意識を改めるだけでなく、別の意識が付け加えられる必要がある。でないと本当の人類の進化とはならないだろう。(P140-P142) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月19日
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前回までにニセモノの解説をシュタイナーの話から紹介してきた。端的にいえば、ルシファーは宗教のニセモノで、アーリマンは唯物論(科学)のニセモノといえる。 この2つの大きなニセモノに、アスラというニセモノが人類の進化に介入してくると、シュタイナーは述べている。これらの妨害に負けずに、乗り越えて、宇宙の進化に則り、自らの意識を発展させるのが人類一人一人の役割である。さて、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ アスラの介入(改変) 現在(1920年代)、ルシファーやアーリマンとは別の悪霊たちが人間に忍び寄ってくる時代を迎えている。このような悪霊たちは、将来、人類の進化に益々介入してくることになるだろう。 ルシファーの霊たちがレムリア時代に介入し、アーリマンの霊たちがアトランティス時代に介入したのとまったく同じように、このような悪霊たちが少しずつ、現在のポストアトランティス時代に介入してくるだろう。(P67) そして、まもなく到来する時代には、人間の自我のなかの意識魂に-というのは、将来、自我が、意識魂に占有されることになるからだが-アスラと呼ばれている悪霊たちが忍び込んでくるだろう。 アスラたちはアトランティス時代のサタン(アーリマン)の霊力や、レムリア時代のルシファーの霊力よりも、遥かに高い集中力を用いて悪を発達させるだろう。 ルシファーの霊たちは、人間に自由の恩恵と同時に悪を与えた。全ての人間は、地上での時間が経過する間に(人生のなかで)、悪を身に纏い、そして完全に脱ぎ捨てる(克服する)ことになるだろう。 また人間は、アーリマンの霊たちがもたらした悪を、カルマ(輪廻転生)の法則の進行によって脱ぎ捨てることになる。 しかしアスラと呼ばれる悪霊がもたらす悪は、このような方法で贖うことはできない。人間が悪の可能性を備えているにも関わらず、なおも高次の世界(天国)に向かって進化できるように、善き霊たちは人間に痛みと苦しみ、病気と死を与えた。 また善き霊たちはアーリマンの力に対抗して、人間が犯した過ちを再び取り除く機会を与えるために、カルマ(輪廻転生)の可能性を与えた。 (人生で自分が犯した過ちを償うために、カルマの法則により、次の転生が用意される。) ところが人間が地球上に存在している間に、アスラの霊たちに対して対抗手段を講じることは、さほど簡単ではない。というのは、アスラの霊たちは、人間の自我の最深にある、自我と一体となった意識魂をとらえ、地球上の感覚と一体になるように作用するからである。 アスラの霊たちに、人間の意識魂をとらえられると、人間の自我の一部が、少しずつもぎ取られていくことになる。そして、「アスラの霊たちがどれだけ意識魂の中にしっかりと入り込んでいるか」という度合いに応じて、人間は自分という存在のなかから幾つかを地球上に残さなくてはならなくなる。 (人体の腫瘍化、つまりガンは、アスラ化といってよい。自我が分離して、地球「物質」化することだからである。) 一度アスラの力の虜になった者の自我の一部は、もはや取り返す術もなく、そのまま失われてしまうことになる。「全ての人間がアスラの掌中に陥る」わけではないが、人間の精神の一部がアスラの力によって切り取られることになるだろう。 (例えば、嘘を平然とつくことができるなど。嘘をつくことに良心の呵責がなくなる。) 現代における「単に『いま』を支配している(物質的な)感覚のなかだけで生き、その背後にある、様々な真実である霊や霊界を忘却する精神」と呼べる思考のなかに、アスラの力が予兆となって現われている。 つまり、「アスラが人間を誘惑する方法が、現代では、次第に理論的に現われてくる」ことがわかる。 現在、アスラはしばしば、「人間の自我とは、物質界が生み出したものにすぎない」という嘘を人間に信じ込ませようとしている。アスラは、唯物論へと人間を誘惑しようとしている。 そしてアスラは、長い時間の経過とともに-その予兆は、現在、地上へと次第に降りてきている荒廃した情念による(物質欲的な)感覚のなかに現われている-、霊の存在や霊力について、人間の目を益々曇らせていくことになるだろう。 すなわち、人間は霊界について何も知ろうとしないようになるだろう。 「人間の最高の道徳的な理念とは、動物的な意識が高いレベルで形成されたものにすぎない」という嘘を、人間は益々教えるようになるだろう。 また「人間の思考とは、動物ですら備えているものが変化したものにすぎない」という嘘や、「人間の姿が、動物に類似するだけでなく、人間の全本質は動物に派生する」という嘘を教えるようになるだろう。 それだけではない。人間は、このような見解を実行に移し、生きるようになるだろう。 現在(1920年代)、「人間の本質は動物から派生する」という言葉通りに生きている人間は、まだ一人もいないが、このような世界観が確実に現われるだろう。そしてその結果、このような世界観とともに、多くの人々が動物のように生き、動物的な意識や情熱の中に、人間の自我が沈み込んでいくことになるだろう。 (獣の世界のことである。) ここではこれ以上詳しくは述べない現象のなかに-つまり現在、特に大都市の様々な場所に現われる虚しい官能的な荒廃した乱痴気騒ぎの中に、アスラと呼ばれる霊たちのグロテスクな地獄の反映をみることができる。(P71-P73) 律動(波動)学(改変) 自然の現象の上辺の多彩さや幻影を越えた瞬間、霊の存在に出会う。いわゆる粗雑な波動からなる物質を探求する試みは全て極めて無意味である。 自然の根底が粗雑な物質からなる、という感覚の探求を人間が将来やめるなら-人類は四千年紀(西暦3000年代)までは、このような物質感覚の方向に進むだろう-人間は、全くの別世界に到達できるようになるだろう。 その場合、人間は、自然の様々な場にリズムを、つまり律動的な秩序(波動)を発見するだろう。このような律動的な秩序(波動)は確かに存在するが、現在(1920年代)の物質主義的な学問は概して、このような律動的な秩序(波動)をただ奇妙な(特別な)現象(量子効果)としているにすぎない。 人智学徒は、このような律動的な秩序(波動)を、この建物(宇宙;人智学徒のゲーテアヌム)全体の配置の中で-すなわち七本の柱の神々(天体)において-具象的に表現した。このような律動的な秩序(波動)は、自然全体の中に存在している。 (土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星の7つの天体の波動として表現したという。) 例えば植物の葉は、次から次へと律動的に(リズムをもって)成長する。また、植物の花びらは律動(フラクタル;階層)的に配置されている。全ては律動(階層)的に整えられている。 人間が病気に罹るときには、熱が律動(規則)的に現われ、再び律動(規則)的に引いていく。生命全体が律動(規則)的な性格を備えている。将来、真の自然科学は、このような自然のリズム(波動)を解き明かすようになるだろう。 また人間は、自然のリズムを解き明かすことで、技術の分野においても律動(波動)学を利用するようになるだろう。振動の調和により-小さな振動を引き起こし、大きな振動へと拡大する-簡便な振動の調和により、途方もなく大きな作用を引き起こすことが、未来の技術の目標となるだろう。(P181-P182) (共振を利用する技術が生まれるという。広義の意味では、インターネットも該当する。) ルシファーとアーリマンの認識上の混乱(改変) 現在ミルトンやクロップシュトックが霊界について記述した描写が読めるが、これらの文学作品の内容をどのように解釈すべきか? これらの本を読むと、ルシファー的な特性を、「神のような存在」と呼んでいることに気づく。クロップシュトックやミルトンは、「神のような存在」として現われるルシファー的な霊とアーリマン的な霊との間の戦いを描こうとしていたことがわかる。 ミルトン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B3 クロップシュトック http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF 近代の人類が「神のような存在」として描写する大半は、ルシファー的な霊の話にすぎない。しかしほとんどの人々は、アーリマン的な霊と同様に、ルシファー的な霊に関わる、この手の悪の区別をほとんど理解していない。 この悪の区別は、ゲーテの『ファウスト』で、「主」と対置される場面の、メフィストフェレスにも言及できる。ゲーテもまた、アーリマン的な霊をルシファー的な霊と区別できなかった。そのためゲーテの描いたメフィストフェレスは、ルシファーとアーリマンが混ざり合った(悪)霊になった。(P212-P213) アーリマンはヨーロッパ人として出現する(改変) 紀元前の時代をルシファーの時代とするなら、現代はアーリマンの時代といえる。これから先アーリマンの影響は益々強まる。そしていよいよ、アーリマンは地上に受肉する。その時は西暦二千年代の初めで、場所はヨーロッパだろう。 ここで言う「受肉」とは、西洋の古典絵画に描かれたようなカリカチュア(戯画)のように出現するわけではなく、「ある非常に知的な人間にアーリマンが憑依し、この人間を通じて地上で活動する。」という意味である。 また、このようにして地上に受肉したアーリマンは「西欧にアーリマンの学院を創設し、多くの人間にアーリマン的な知識を植え込もうとする」だろう。 アーリマンの受肉を体験することは、人類にとっては避けることのできない宿命である。(P221-P222) ☆ ☆ ☆ 西欧文明が没落しつつあることが、このことからもわかる。
2014年02月19日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ ニュースの真相 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140218/1392687615 世界恐慌詐欺とFRBイエレン女性議長とオバマ黒人大統領 前回の投稿で、ロシアの声がナチスのヒトラー総統の正体に触れた事をお話しました。 ▼アドルフ・ヒトラー総統の正体とは? http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140212/1392197563 なぜ今、ロシアのメディアが、日本や世界に向けて、こんな情報を流したのかというと、もちろん意味がある訳です。 まずは、FRBが量的金融緩和を縮小する事に決定しています。 アメリカという国家の借金が、天文学的な数字に至っている事は有名な事実ですが、もはや、この借金をまた金を借りて返すという多重債務国家になり果てています。 簡単に言えば、FRBが大量に印刷したドル札で、借金を返していたような状態です。 (借金を返している振りを数字上で偽装しているにすぎない。) そこで、量的金融緩和をやめてドル札を印刷するのをやめてしまえば、当然、借金が返せなくなって、デフォルトに陥る訳ですよね? (偽装がバレテきた。アベノミクスと同じで、そもそもアベノミクスも、このQEのFRBのパクリである。アベノミクスの失敗のせいにして誤魔化すつもりで、アベは、ニセユダヤの生贄というわけなのだろう。QEとアベノミクスは違うといいはじめるはずだが、そもそも、アベノミクスをすすめたのはBISである。) 「え?あの往生際の悪いユダ金が自滅? あり得ない!」 なーんて思う方も居るかと思いますが、このタイミングでバーナンキは、しっかり逃亡を果たしております。 (逃亡するといっても、死からは逃亡できないから、いずれ最後の審判が下されて、地獄行きである。) FRBは、イエレン議長という新しい『女性議長』をスケープゴートに就任させてます。 で、デフォルトに陥る際の米国大統領は『黒人大統領』のオバマ大統領と。 気持ちの悪い「責任転嫁」と「人種差別」 いかにもユダ金ちゃんらしい発想ですよね?(笑) さらに視点を変えると、中国でも経済大激震の余震が始まっているようです。 ▼中国「影の銀行」6社に新たなデフォルト懸念、石炭会社向け融資で http://richardkoshimizu.at.webry.info/201402/article_82.html なんと、中国発の経済破綻が起こりそうなムード? って言うよりも、中国のせいで経済恐慌が起こった! という「責任転嫁」の準備が整ったという感じでしょうか? っとここまで見てくると、中国のせいで経済恐慌が起こり米国が破綻した! FRBの『女性議長』が無能だから米国が破綻した! 『黒人大統領』が無能だから米国が破綻した! という責任転嫁の準備がしっかり整っています! そして、この体制で世界恐慌詐欺を敢行した後は、もちろん、今までの歴史を見れば明らかなように、必死こいて戦争詐欺に持ち込もうとする訳ですよね? 日本・韓国・中国の手下を使って、極右のファシスト勢力を誕生させて育てる! で、手下同士で戦争ごっこを始めさせる!というシナリオですね? って事で、ロシアとしては、世界恐慌詐欺は良いですよ! ユダ金ちゃん、勝手に自爆してください! その後の経済の主導権を握るのは、ロシア+極東ですし。 でも、戦争は世界中の迷惑になるから、やらせないよ! とりあえず、このタイミングで、第2次大戦がユダ金の茶番劇だってばらしておくから、ヨロシク! って感じでしょうか? ☆ ☆ ☆ ていうか、メリケンはリーマンショックの責任とったのかな? 責任逃ればかりしている連中を誰が信用するのかな。もはや時間の問題でしょう。 この馬鹿馬鹿しいチキンゲームに加わらなかった人たちが新しい経済をつくることは確実だろうね。ソーシャルネットワークを基にした、共有価値観形成の経済システムが小規模ながらはじまっている。 つまり、ニセユダヤがつくったものだが、ニセユダヤ抜きで運用しようという動きが出ている。ニセユダヤのパクリで別のものをつくり、ニセユダヤだけゲームオーバーさせるという、パクリ上手な中国人らしい発想である。 アベノミクスは囮だったのだろうね。アベはその思想通りの特攻隊なんだろう。アベノミクスはQEのパクリだから、アベノミクスが崩壊すればそのままQEも崩壊するからね。そのうち、アベノミクス叩きで、アベノミクスを切り離すのに必死になるだろう。
2014年02月19日
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前回はニセモノとホンモノの違いをシュタイナーの話から紹介した。ニセモノに騙されずに、ニセモノを見破るために、ニセモノの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ アーリマンの活動(改変) 紀元前三千年紀の初めにルシファーが(東洋の中国に)受肉したのと同じように、またゴルゴタの秘儀の時代(西暦紀元がはじまる頃)にキリストが(中東に)受肉したのと同じように、現代のしばらく後の西暦三千年紀の将来に、アーリマンが西洋に受肉することになるだろう。 (ニセユダヤなどに、その兆候が現われているようである。) 人間の進化の道程では、一方の極にルシファーの受肉があり、中央にキリストの受肉があり、他方の極にアーリマンの受肉が位置している。(P107) アーリマンが用いる洗脳の一つは、「『特に近代以降支配的になった(唯物論的な)思考やイメージが、人間にどのような影響を与えるか』という問題に関心をもたなくさせること」に他ならない。(P110) アーリマンは、自らの受肉を完全にするため、特に次のような点に注意を払っている。 「近代以降支配的な幻影としての学問を、人間が自らで完全なものにし-現代の学問は基本的に全て幻影だが-、それが幻影にすぎないことを人間に気づかせずに、アーリマンにとって都合がよい状況をつくりあげること」である。 アーリマンは、人間に数学(統計学)を教えることにこの上なく大きな野望を抱いているが、「宇宙についての数学的、かつ力学的な見解は単なる人間の幻影にすぎない」という事実だけは人間に知らせないようにしている。(P114-P115) 現在、学問という迷信が、あらゆる集団を捉え-このような迷信に基づいて社会学までも形成しようとしているが-三千年紀に到るまで、このような思考が支配するなら、将来、アーリマンが人間として西洋文明の中に現われ、地上に学問的な迷信が蔓延している機会に乗じて、アーリマンは極めて大きな勝利をおさめることができる。 いま述べた話から、誤った結論を導き出してはならない。もし、あえて現代の学問を避けようとするなら、それは誤った結論である。現代の学問については、むしろ積極的に熟知しなくてはならない。 現代の学問の側からやってくるものは、全て知っておかなくてはならない。しかし、そのためには、完全な覚醒意識をもつ必要がある。完全な覚醒意識をもてば、現代の学問の幻影としての局面が-このような幻影としての局面は人類の教育には不可欠だが-、幻影であることが明らかになるからである。(P116-P115) 「人間を学問的な迷信に縛りつけておくこと」 が、アーリマンの受肉をできる限り有効にするために、アーリマンが用いる手段なのである。(P118) アーリマンが用いる第二の手段は、「多種多様な煽動により、現代の人々を互いに反目し合う小さなグループへと分裂させること」である。 このようなアーリマンの力は、人間の集団のなかに不協和音が生じる場では、どこにでも作用する。こうした不協和音の大半は何に起因するのか? ある典型的な例から始めてみるとわかる。現代のプロレタリアート(労働者)はカール・マルクスを信奉してきた。「カール・マルクスの学説は、現代のプロレタリアートの間にどのように広まっていったか」ということを正確に探求してみるとよい。 過激なまでに、無限の、莫大な量へと向かおうとするマルクス主義の文献に注目すれば、現在、通常行なわれている極めて分かり易い学問的な考察法(唯物論)が使用され、様々なことを厳密に証明している。 それらの文献では、ほとんど全てが極めて厳密に証明されているために、既にかなりの人々が-当初、誰も予想しなかったが-マルクス主義の手に落ちてしまった(俗に言うコミュニスト)。 では一体、マルクス主義のカラクリとは何なのか? 最初、マルクス主義はプロレタリアート(労働者=庶民)の間に広まった。マルクス主義は、大学で教えられる学問からは厳しく退けられたが、現在(1920年代)では、既に大学に所属する学者のうちの幾人かがマルクス主義の理論を受け入れている。 このような学者たちはマルクス主義を認め、もはやマルクス主義から抜け出すことができなくなっている(マルキスト)。 というのは、マルクス主義の文献を読めば、マルクス主義により導き出される結論は相互に見事に符合するようになっていて、現代の学問的な考察法やイメージ法を用いて、マルクス主義を実に正確に証明できることが、次第に明らかになるように洗脳されるからである。 もしカール・マルクスが、それら文献に書かれている内容と全く正反対のことを証明したならば、こんどはプロレタリアート(労働者)ではなく、ブルジョワ(資本層)側がマルクス主義を受け入れるだろう。 というのもマルクス主義の立場から、法や道徳などのイデオロギー的な性格や、剰余価値の理論や、唯物論的な歴史研究について証明できるのと全く同等に、それらとは全く正反対の対立の概念なども厳密に証明できるからである。 (左翼も右翼も同じということ。巨人ファンとアンチ巨人も巨人人気に利用されている意味で同じということ。) ブルジョワ(資本層)的なマルクス主義から、プロレタリアートとは正反対のことを、イカサマや誤魔化しなどは一切入り込む隙もないほど、同等に厳密に証明することも可能である。つまり、プロレタリアとは正反対のブルジョワについても、マルクスの証明は完璧なものとなっただろう。(P120) (左手を右手抜きで、厳密に定義できないのと同じ。つまり左も右も両方があってはじめて定義できるので、左も右も同じということ。) 支配者の歴史的変遷(改変) 「ルシファー的な時代」として描き出した古代まで時間を遡ってみる。当時は誰が支配者だったのか? 当時は秘儀参入者が支配者だった。エジプトのファラオも、バビロニアの支配者も、アジアの支配者も、全て秘儀参入者だった。(P123) (秘儀参入者とは、現代でいうなら、霊能者のこと。) アーリマンと民族主義(改変) 最近(第一次大戦後の国際連盟成立期)、世界中で「民族的な国家を、民族的な王国を打ち建てなくてはならない」という声が叫ばれているのを耳にされただろう。「それぞれの民族の自由」について実に多くのことが語られている。 しかしながら、国家が血や部族のつながりに従って建設される時代は、既に人類進化の中では遥か昔に過ぎ去ってしまった。だから今日、知性や精神の中から純粋に発したものでない民族や部族などのつながりがアピールされるならば、人類の間に不協和音が生じることになる。 (日本のネトウヨなどは、この不協和音の典型である。) アーリマン的な力は、この人類の間の不協和音をとりわけ利用できる。民族的なショービニズム(排外主義)、あらゆる倒錯した愛国主義を材料として、アーリマンは自分が必要とするものを組み立てる。(P205) (ユダヤ人でないのに、自称ユダヤを名乗るニセユダヤなど) アーリマンと統計学(改変) 現代人の知性は、事物についての上辺だけの理解に留まり、真理が存在する奥深くの中身にまで探求していくことがない。知性については十分に深く、根本的に洞察する必要がある。 現代人は、悟性の発達とともに、上辺だけの理解に留まることを好み、魂のより深くにある精神力を用いて、上辺だけでなく、更に、その先にある事物の本質に相応した霊的な存在の領域にまで探求していくことを好まない。 (上辺だけの情報しか取り入れず、実際に体験してみるということを嫌がる。) 少し自分の周囲、つまり人生を外面的に見回すだけでも、「人間は、いま自分が好むものによって欺かれる」ということがわかるはずである。 例えば、現在の学問では数字が好まれる。現代は、社会生活でさえも数字で表わし、数字が好まれる。社会学に注目すれば、この学問が純粋に(無味乾燥な)統計学から成立していることがわかる。 そして重要な事柄は統計学から、つまり数字から推論される。数字により様々な事象が証明され、信用を獲得している。 しかし、数字とは、事象を証明する手段ではなく、人々を欺く手段なのである。数字よりも、事象の質に目を向けなければ、数字を超え、質を探求しなければ、大抵、数字に騙されることになる。 (既に選挙などがそう。統計学ほどインチキな学問はない。) 数字が証明の手段として持ち出され、証明の手段としてみなされることで、アーリマンは野望を果たす。(P207) ☆ ☆ ☆ 現代人は、アーリマンに洗脳されているといえるだろう。そのことがわかる話を、御馴染みのサイトから次回抜粋紹介したい。
2014年02月18日
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前回は、ニセモノの母国語愛や民族愛について、シュタイナーの話を紹介した。では、ホンモノとニセモノの違いは何かをシュタイナーの話から紹介する。 ☆ ☆ ☆ 天使と人間 天使は人間のアストラル体に何をなすのか?(改変) 将来、人類のなかで発達することになる自由な宗教は「(これまでの)単なる理論ではなく、人生での実践のなかで、直接、個人のなかに実際に神の似姿を認める」ことを拠りどころとするようになる。 (ホンモノのキリスト教では、各個人のなかで、実際のキリストと出会うという。) そうなると、もはや宗教を強制されることもなくなる。というのも、その時には、個人が他者と出会うこと自体が、既に宗教的な儀式、秘跡となるからである。その時には誰もが、物質的な組織(宗教団体)などによる特定の教会や寺院などによって、宗教上の生活を物質界で整える必要もなくなる。 人生そのものが超感覚による表現(宗教儀式)となることから、わざわざ宗教上の生活を整える必要がなくなる。人生そのものが超感覚の表現となることで、教会が持ち得る唯一の目標は-もし教会が、本当の教会というものを正しく理解するなら-「教会そのものを物質界で不要にする」こととわかるだろう。 (教会は個人の自由な信教に委ねて解散すべきである。バチカンをみればわかるが、現代のキリスト教はニセモノで、悪魔崇拝教だからである。) 「宗教上の生活のなかで獲得した完全な自由(の思考)を、人類全体に注ぎかけること」-このことが、少なくとも天使が仕事を行なう際の意識の基礎になっている。 更に三番目の意識に注目する。それは、「(自由な)思考を通して霊(天使)へと到達し、(自由な)思考を通して、物質性を超越し、霊(天使)の体験へと到る可能性を人間に与える」ことに他ならない。 霊を探求するための人智学や、霊魂のための自由な宗教や、肉体のための友愛などが、人間のアストラル体で天使がなす仕事を通じて、宇宙の音楽(シンフォニー)として鳴り響く。(P54) 聖人の光輪はどのようにしてできるか(改変) お互いのことを絶対に好きになれない二人の人間同士が出会った場合のことを考えてみる。極端な場合だが、こうした場面が人生には起こる。 「お互いに良い感情を持たない二人の人間が出会い、通常以上の反感をお互いに向けた」場合を想定すると、その二人の人間の頭部を形成するエーテル体が、相手の方に傾くようになる。 仲の良くない人間同士が出会うと、エーテル体は頭を絶えず相手の方(前方)に傾け、反感が現われてくる。 また愛し合っている二人の人間が出会うときにも、似たような現象が認められる。この場合は、頭部のエーテル体が後方に退いて、後ろ向きに傾くようになる。 つまり、お互いを好きになれない人間同士の場合、エーテル体はまるで挨拶でもするかのように前方へと傾き、愛しあっている人間同士の場合、エーテル体は後方へと傾く。 (東洋のお辞儀は、このエーテル体の現象を真似たものかもしれない。好きになれない相手には、お辞儀というよりも、全体的には前方に角が生えるようにみえるという。だから鬼にみえるわけである。) では、この二つに共通して生じることは何か? それは「頭部のエーテル体を前か、後ろかのどちらかに傾けることで、頭部の物質部分が通常よりも自由になる」ということである。この現象は相対的な程度にすぎなく、勿論、エーテル体が物質体から完全に抜け出るわけではない。 エーテル体が、本来あるべき場所から前後に移動するために、エーテル体の突出部がみえるようになり、物質体の頭部を満たすのは、通常よりも希薄になったエーテル体となる。頭部を占めるエーテル体が希薄になった結果、霊視的に眺めると、頭部のアストラル体が明瞭に見えるようになる。 すると、その人間の頭部では、エーテル体の動きだけでなく、アストラル体の光の変化が生じるようになる。 このような現象を理解している人は、多くのものを無私に愛することができる人間の肖像を描くときに、光輪と呼ばれる頭部のオーラを描き加える。この肖像画は単なる創作ではなく、事実上の真理に基づいたものである。 (東洋風に表現するなら、「後光が差す」ということになる。) 出会う際に、愛の中に強いエゴイズムが絶えず混入するなら、頭部にこのような現象はほとんど生じない。個人的繋がりだけでは、頭部に光輪のオーラは生じない。 普遍的な人間愛をもつ-つまり普遍的な人類愛につながる人に、上述の光輪が頭部に生じる。このような人には、アストラル体が頭の辺りにはっきりと見える。 (例えば、看護師が昔していたナースキャップなどは、この光輪の表現にみえる。古代ギリシア人の服も、エーテル体を模写したものであるそうだ。つまり、古代ギリシア人は当初は裸だったが、霊能力を失うにつれ、服を着るようになった。) 無私の愛を霊視できる人は、このような愛の人の光輪をみれる。そして、霊視者は、光輪の存在-「光輪が人類愛から生じるの」を現実に認識できる。(P171-P173) (動物も霊視力があるので、善人かどうかは、光輪があるかどうかでわかる。動物に嫌われる人は、善人ではないことがわかる。) 悪の秘儀 現代の教育は人間をあまりにも早く老い(退化)させている(改変) 今日行われているような教育が続いていくなら、人間はあまりにも早い年齢で老け込み年老いていくだろう。というのは、現代の教育はアーリマン(唯物論)的だからである。アーリマン的な教育は人間を早く老い(早熟に)させる。 現在、学校で子どもたちを教育している方法は、全面的にアーリマン(唯物論)的で、まさに20世紀では、このような教育が行われているため、人類の進化はアーリマン(唯物論)的な方向に向かっているが、20世紀以前の時代では全く事情は異なっていた。(P28) 古代人は「決して老いることがない」という危険に曝されていた(改変) いまから8000年前の時代から、西暦紀元の始まる頃までの時間を遡ってみると、当時は、現代とは全く事情が異なっていた。現代とは逆に、その頃の人間は「決して老いることがない(現実を知ることがない)。」という危険に曝されていた。 このような太古の時代には、現代のような意味の学校は存在しなかった。学校は、既にかなりの年齢に達してから正式の学者になろうとする人のためだけに存在した。学校は、正規の学者になるためにあった。 古代には、子どもの教育のための学校は存在しなかった。子どもは人生そのもののなかで勉強をした。子どもは実際に目にみえるものの中から、様々なことを学んだ。当時は、学校は存在せず、未知の事柄を子どもたちに教えようと大人が骨を折ることもなかった。 この時代には、人間が完全にルシファー(幻想)の中に入り込み、ルシファー(幻想)的な熱狂に没入してしまう危険があった。古代にはまた既に述べてきたような数多くの叡智も存在していたが、当然だが、このようなルシファー(幻想)的な傾向は抑えられる必要があった。 もしこのままであったら、太古の人々は一日中幽霊の話ばかりしていただろう。当時の人々は、とりわけ幽霊の物語などを好んだ。 従って、次のような結論に達する。 「太古の昔、今から8000年前の時代から西暦紀元の始まる頃まではルシファー(幻想)的な時代だった。それから、アーリマン(唯物)的な時代がやって来た。」(P28-P29) 近代以前、福音書は禁書だった(改変) キリスト教の最初期の時代から12、13世紀、更には14世紀に到るまで、キリスト教徒が聖書を読むことは禁じられていた。例えば、新約聖書を読むことは禁じられていた。新約聖書を読むことが許されていたのは聖職者だけだった。 一般の信者が聖書を読むことは許されなかったのは、なぜか? その理由は、聖職者たちが、「聖書は正しく読まなくてはならない」ということを熟知していたからに他ならない。聖書が成立した時代には、今日の人間のような(唯物論的な)方法で思考することはなかった。 当時の人々は霊的に思考した。だから、聖書は、霊視的に、正しく読まなくてはならない。(P43) しかし現代のように、「福音書を読むのに心の準備をする必要はない(霊視力を必要としない)。」と言うようになる時代がやって来た。一般的に、現代人は、心の準備をする(霊能力を獲得する)、ということが一切ない。 現代人も、学校に入学するに際して、準備をさせられ、躾などがされるわけだが、このような躾を必要とされなくなる頃-14歳、15歳をこえる頃-には、心の準備などは必要とされず、その時期には、全てが理解できるようになっているはずである、というのが、現代の一般的な考え方である。(P45) サタンの別名(改変) アーリマンの霊やメフィストフェレスの霊とは、これらの名称を正確に捉えるなら、中世の人々がサタンの霊と呼んだ霊と本質的に同一である。(P58) 世俗の学問がもたらすもの(改変) 現代を生きるには、次のような事柄を洞察する必要がある。単なる世俗の学問だけでは、人間は幻影にとりつかれることになるだろう。世俗の学問は、基本的な(物質主義的な)意味から、最後にはもっと愚かなことを行なうようになるだろう。 現代(1920年代)でも、既に十分すぎるほど愚かなことが行なわれている。というのは、第一次世界大戦という災厄は大いなる愚行に違いないからである。現代の世俗的な学問に浸透された多くの人々が、世界大戦に関与していた。(P133) ☆ ☆ ☆ ニセユダヤのほとんどが大戦に関わり、人殺しの兵器を売って金銭を稼いでいたことは明らかになっている。ニセユダヤは賢いとされているが、実は最も愚かな連中であることがわかる。
2014年02月14日
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仏教のニセモノかどうかの見分け方は簡単である。墓を売りつける仏教はニセモノである。 もし、霊能者であるなら、意識が死なないことを知っているはずで、本来、墓が生には無用の一種の記念碑のようなものであることを理解しているはずである。 死なない者に墓は必要ないが、では何のために墓があるのか?である。 それは、恵まれない弱者の立場を配慮せよ、という教訓のためにあるのではないか。人間は、健康なときや金銭に恵まれた地位にあるときや権力機構において上位の立場にあるときは、死ぬことなどや、金銭が欠乏した地位や、危険と隣り合わせの下位の立場など考えもしない。 つまり、健康や、高い身分や、金持ちの生活が永遠に続くように錯覚しがちで、要するに天狗になりがちなのである。己と反対側にある立場に配慮がいかなくなりがちである。 栄華を極めた貴族でさえも、死んでしまえばいかに立派な墓であろうが、石コロと一緒ということである。せいぜい生前は立派だったと吹聴し歴史の書き換えを子孫などに託すしかできない。そのために唯物論に至っては無としている死を偽装した見せかけの墓(記念碑)をつくる。 むしろ立派にみえる墓こそ、自然の土地をいまだに占有し続け、死んでもなお覚らなかったのかと、虚しさ浅ましさの人生を感じさせるもんである。 キリストや釈迦のお墓があるのか?と聞きたい。あっても悪魔教の商売道具のニセモノであろう。 墓は、唯物論の塊だ! 墓場にいけば唯物論に凝り固まった馬鹿でも、自分もいずれそうなると自覚するはずである。自覚できないのは、もはや動物以下の認識不足という他はない。 死が身近にない間は墓場に葬られることなど考えもしないが、いずれはそのような立場になるはずで、現在それに近い立場の人にどれだけ思いを行き届かせることができるか?と気づかせるために墓があるのだろう。 「お前が生きているのは、死んでいる人がいる御蔭だぞ!」ということなのである。 だから、生きている間に、親孝行でもしなさい、ということになる。恵まれない、弱者の立場にある人の力になってあげなさい、という教訓なんである。 少なくとも墓場に行って内輪の自慢話をするためではない。 肉親の不幸が痛切に堪えるのは、永遠に続くものと思われた思い込みが崩されるからである。墓参りとは、天狗の鼻を折るためにあるものと思われる。 株が儲かったとか、景気が良くなったとか、一面ばかりしかみないハシャギぶりにはウンザリで、渡る世間は天狗ばかりの世の中である。その裏で損した人や、景気が悪くなった社会のことを少しでも考えたのか?全く浅墓この上ない。 復興が必要なときにオリンピックに現を抜かしている日本の非常識ぶりが大嫌いだ! やるなら、私費でやるべきだ! こんな思いやりのない天狗の国を恥ずかしく思う昨今である。 というわけで、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 秘儀参入の道 ミカエル(改変) ミカエルは独特の存在で、地上での不断の精神作業から何かをもたらさなければ、ミカエルは本来何も啓示しない存在である。ミカエルは無口な霊である。 ミカエルは自己の内に閉じこもる霊である。 他の支配的な大天使が多くを語る霊であるのに比べ、ミカエルは全く無口な霊で、至極僅かな指示しか与えない。ミカエルから経験するのは言葉ではなく、ビジョンの力なのである。 その理由は、ミカエルは本質的に、人間の精神の創造活動に関わる存在だからである。ミカエルは人間が精神的に創造した結果の中に生きる。対照的に他の霊たちはむしろ原因に生きる。 ミカエルは人間の精神が生んだ結果のなかに生き、他の霊たちは人間がなすべきことの原因となる意識を与える。ミカエルは本質的には、人間の精神が生み出した自由の霊の英雄になる。ミカエルは、人間のなすがままに身を委ねる。 そして、人間にはまだ不可能なことを、宇宙の中で発展させるために、人間の行為を受け取り、担っていく。 他の大天使たちは、人間に「程度の差はあれ、あれやこれやをなせ、という意識を生じさせる」という影響を与える。 しかしミカエルは、最初、何の意識も与えない霊である。ミカエルの統治下にある現代は、人間の自由から物事が生じる時代だからである。しかし、人間が、いずれアストラル界の光(叡智)の解読を通じて鼓舞され、意識、無意識にしろ、自由に何事かをなすと、ミカエルはその人間の地上での行為を宇宙へと担い、宇宙の行為に拡大する。 ミカエルは(人間の行為の)結果に関与し、その他の大天使たちは原因に関与する。 しかしミカエルは単なる無口な、沈黙した霊なのではない。例えば、人間、動物、植物の中の遺伝性についての認識を退ける。ミカエルは、そのような認識は何の成果ももたらさないことを示す。 人間、動物、植物のうちの、遺伝には全く関係なくみつけられる認識がミカエルの前に運ばれると、ミカエルは拒否の手振りをせず、同意のヴィジョンをみせる。 そのヴィジョンは、「お前は宇宙が望むように、正しく考えた」と語るようにみえる。 -このように人間が益々努力することを学び、アストラル界の光(叡智)にまで到達するために思考し、あらゆる存在の背後の秘密をみて、その認識をもって、ミカエルの前に進むと、その同意のヴィジョンをみる。 そのヴィジョンは「お前のこの認識は正しい。この認識は宇宙の方針にも合致する。」と語る。 例えば、ミカエルは人間の言語の分化(分離)を厳しく拒否する。人間が自分の認識を言語の中だけに閉じ込め、思考に与えないなら、ミカエルの近くに行くことはできない。言語の分化について、今日も実際に、霊界で非常に意味深い戦いが行われている。 人類の進化に入り込むミカエルの意識が一方にあり、他方には人類の進化のなかで、このミカエルの意識を受け入れず、拒絶しようとする意識も存在する。例えば、民族主義などはミカエルの意識を拒絶しようとする。 民族主義は19世紀に燃え上がり、20世紀に益々強固になった。民族主義は多くの人々を混乱に陥れる。実際、近年、民族主義は多くの混乱をもたらした。これらの民族主義全ては強固にミカエルの意識に反逆する。 人間の地上生活に意識を与えるミカエルの働きに対抗するアーリマンの力が、民族主義の中に含まれている。アーリマン側の霊たちが遺伝性の民族主義から生じる意識と、ミカエルを強固に拒絶する意識を、上方に突進させて戦っているのが観られる。 今日(1920年代)、実際に、このような激しい霊の戦いがなされている。人類の大半に、本当の思考でない、ただ単に言葉の外面だけで捉えられた皮相的な意識が注入されている。言葉だけを考えるのはミカエルの道ではない。 (言葉を意味で捉えるのではなく、外見や発音だけで捉えることはニセモノである。内容は変わらないのに、看板をつけかえて、例えば横文字にして見栄えをよくし、外面を取り繕うことなどの典型の官僚用語などはアーリマン側の意識である。) 言葉だけに止まらず、言葉が意味する本当の内(精神)的な霊体験へと到達した思考を行なうときに、ミカエルの道に至る。 言葉を超えて霊体験に至るのが、新しい秘儀参入の秘密である。言葉だけの思考を超えたとき、人間は、本当の言葉(宇宙語)を感じ、本当の言葉(宇宙語)を知覚要素として自らの内や外へ注ぐことができるようになる。特定の言語による思考を超えることが今日の人間が努力すべきことである。 (言語からくる思考の偏りをなくすこと。同じ意味をもつ言葉でも、文化によって、思考が偏り制限されてしまう。要するに宇宙語で思考せよということである。空海は、宇宙語を真言と呼んでいる。 宇宙語とは、例えば、民族固有の言語に囚われない言葉のことで、例えば日本語や英語やスペイン語など特定の言語に意味を限定されないこと。端的にいえば、言葉で表される以前の認識やイメージのこと。) 天使と人間 母国語と民族性(改変) 人生において(生きているうちに)正しい方法で霊魂をアンゲロイ(天使)の領域に達するまでに高めた人は(輪廻転生の意味を知っているので)、次の転生において、肉体に入りながらも活動する活力が霊魂に(意識的に)植えつけられる。 対照的に、死後、霊魂を高める体験を携えてこなかった人には、アンゲロイ(天使)は、再び転生を促すために、地上への憧れを無意識に作用するように、霊魂に植えつけなくてはならなくなる。このような霊魂への植えつけの際に、極めて多くの事項が決定される。 この決定事項とは、「どの民族か」、「どの言語を母国語にするか」などである。その際、民族や母国語への意識を、霊魂のなかの「より内面」、もしくは「より外面」か、なども決められる。 その結果、「母国語への愛が内側から貫かれているか」、もしくは単なる翻訳ソフトのように外的に「言語を表現する器官に自動的に移されるか」という違いが生まれる。 「言語については、この二つのうち、どちらで決定されるか」ということが、次の転生において大きな違いを生み出す。地球上での新たな人生を始める前に、アンゲロイ(天使)の領域を二度目(一度目は人生のなかで)に通過していく際に、霊魂のなかで、母国語への思慕の念が愛情豊かに満たされている人は、母国語を内面に受け入れる。 このような人は母国語と一体化し、愛が自明のものに、つまり精神的な愛になる。このような人は次の転生では、自然に母国語や民族性に溶け込んでいくことができる。 ところが、外的な形で言語と適合していく人は-先程「自動的に」という表現を用いたが-次の転生では、努力して、言語を愛することを学ぶことになる。母国語や民族性について自明の愛として精神的に獲得していない部分が、当人の肉体から歪な形で現われる。 民族性や言語との関係に自然な形で適合していくことができる平安で純粋に自明な愛は、民族性や言語と内的に結ばれている人だけが持ち得る。そうでない場合、言語や民族に、自動的に適合していかざるを得なくなる。 その結果、民族や言語についての精神的な愛を、いわば努力して強引に生じさせることになる。この二つの間には大きな相違がある。 前者は、物質的な、いわゆる世にいうショービニズム(熱狂的な愛国主義や民族主義)の形、つまり民族性を外面的に主張する形で現われることはない。 排外主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E5%A4%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9 (霊魂を高めなかった人は、言語や民族性についての愛が希薄なので、物証を求めようとする。つまり、自分が劣等であることを隠すため、他者を巻き込む形で補おうとする。早い話、愛国心のないものが、愛国心云々と主張し始めるのである。) 前世において、敬虔で理想的な体験から実際に獲得した霊魂のなかの民族や言語への愛はごく自然な姿で、真の普遍的な人類愛と一つになることができる。四海同胞主義(コスモポリタニズム)的な、あるいは国際主義(インターナショナリズム)的な感覚が、言語と民族性に向けられた霊魂の愛によって歪められることは決してない。 対照的に、なんらの精神的な愛情をもたずに「自動的に」言語や民族性に適合する場合、言語や民族性についての加熱気味で歪な偏愛を生じさせ、間違ったナショナリズムや、ショービニズム的な考えや、物証主義的な方法で言語や民族性を自慢しようする傾向などが生じる。 (領土問題などはこの典型である。) ☆ ☆ ☆ 前世で霊魂を高める人生を送ってこなかった人たちが右翼となるようである。それにつられて、反右翼の左翼も増えるわけで、つまり物質主義が横行すればするほど右翼や左翼などが増えるわけで、中道が減っていく困った状況になるようだ。
2014年02月13日
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ニセモノが氾濫横行するということは、逆に自分の眼でホンモノを判断する能力が高まるということである。 ホンモノを判断できる能力を身に着けるために、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 輪廻転生とカルマ ミカエル(改変) ミカエルは、本質的に、霊宇宙のなかの何を担っているのか? を考えてみるとよい。 ミカエルは、人間の知性でも把握できるが、霊能力からくる魂の霊性を頂点に導くことを担っている。ミカエルは知性を育成する霊ではないが、霊の存在を把握するための霊の理念や思考を与え、理念や思考そのままの形で、人類の理解を呼び起こす霊なのである。 ミカエルは、人間が自由な意志から、霊界から啓示として与えられる霊の理念や思考を、人間自らの理念と概念により洞察することを期待している。 太陽に住む大天使たちのなかで、ミカエルが最も傑出した存在である。ミカエルは太陽から物質やエーテルの太陽光線を送るだけでなく、太陽光線を通して、上述の霊感と呼ばれる霊の理念や思考を含んだ知性を地球に送る霊なのである。(P196-197) ミカエルは龍(アーリマン)を足で踏みつけている。ミカエルは宇宙精神を代表して、アーリマン的な力を足で踏みにじり戦っている。他のどんな戦いよりもアーリマンに対するミカエルのこの戦いを肝に銘じるべきである。 (龍とは、古くなった過去の自我のことで、集合自我のこと。例えば、全体主義からなる階級社会などの機械的で、物質的な理念や思考のことで、端的にいえば唯物論。) 19世紀の70年代からミカエルは人間の心のなかで覚醒を喚起している。ミカエルの任務から学び、人間の心が20世紀に行なう事業を決定しなければならない。 そして、20世紀という時代の流れのなかで、つまり暗黒時代が終わった後の最初の世紀において、人間は文明の墓場に立つか、もしくは心の中の知性と霊性を統合させ、その魂の舞台の上で、ミカエル意識のためにミカエルの戦いを成し遂げる時代のはじまりに立つか、のどちらかを選択しなければならない。(P217) アーリマンが本を書く(改変) 現代の印刷術の一種の代用技術が、古代の中国で高度に完成していた。ミカエルが天上を統治し、地上ではアーリマンが対抗的な支配をしていた当時、既に印刷術があったが、別段何も起こらなかった。 その当時(人々には霊能力があったので)、アーリマンの影響はそれほど強くなかったからである。アーリマンは、まだミカエルを、(現代のような)知性による統治についての戦いに誘い込んで、消耗させることができなかった。それから、アレキサンダー大王時代に、アーリマンは再び誘惑を試みたが、やはり失敗した。 (ヘロストラトスによるアルテミス神殿への放火事件) しかし、いまやアーリマン主義は近代の印刷技術のなかで大きな意味を持ってきた。著述はポピュラーなものになった。如何わしい悪意ある人物が、素晴らしく、輝かしい著述家になることができる。 著述家という人物については、魂のなかの平常(道徳)心をもって理解する必要があるが、著述された内容は正当な意味から、その価値を評価しないといけない。「アーリマンが著述家として現われた」と、ミカエルの大天使の領域から警告がはじめになされた。 ミカエルの意識を導く霊の教団のなかで、今日(1920年代)重要なことが起こっている。第一次世界大戦の勃発について警告されたように、人間がアーリマンに憑依されるだけでなく、アーリマン自身が人間の魂を通じて、地上に自らの存在を告知するために著述家として出現することが予言されている。 アーリマンが輝かしい著述家となることはなんら不思議でもない。アーリマンはキリストに敵対する巨大な霊だからである。ただ、アーリマンは地上の人類の進化にとっては悪霊である。アーリマンは人類の進化に戦いを挑む霊だからである。 アーリマン自身の領域では、アーリマンは必要とされるだけでなく、慈善力となっている。宇宙の多面的な事象のなかの特定の水準では慈善的な存在でも、他の水準では非常に有害なのである。 (アーリマンの領域では、高度に進んだ科学技術などをもつので、その高度な科学技術を精神の未発達な人類に与えると、道徳心よりも利己心を優先し、科学技術で他者を犠牲にし、支配して、戦争などをして金銭を稼ぐなどの身「霊魂」の破滅を招く恐れがあるから。アーリマンは、現在ではグレイやレプタリアンというような悪の宇宙人としても記述されている。) アーリマンの作品の特徴を調べれば、その作品自体をどうこう言うこともできない。それどころか、その作品の特徴をあえて理解するなら、それをつくったアーリマンを賛美することも可能だが、少なくともアーリマンの悪しき性格を認識する必要がある。 アーリマンは一人の人間を通して、心を震撼させるような恐ろしい悲劇的な性格を生じせしめた最初の存在(自我認識)でもある、とミカエルは教える。ニーチェの『反キリスト』、自叙伝『この人を見よ』、『力への意志』のなかの覚え書き等は、近代の著作のなかの輝かしい一章だが、そのような悪魔的な内容を含んでいる。 アーリマンが、印刷術を通して、自分の支配下に入った著述家を使って、それらの本を書いた。アーリマンは既に著述家として現われ、仕事をはじめている。書物に書かれている内容全てを鵜呑みにすることなく、悪魔が書かせた記述の内容に注意する必要がある。 形の上では、人間が書いた本として出版されていくが、一人の人間が最も輝かしい著述家となるべく訓練されることを知る必要がある。その訓練をするのがアーリマンである。 人間の手で本を書くが、実際はアーリマンが著述家である。かつて、福音史家が霊感を受けて、彼らに霊感を与える超感覚の存在(天使)が福音書を書いたように、アーリマンの作品が人間により書かれる。 (戦争を賛美、美化する本などである。) 人間の書く本は、これからの人類の遥かな進化の歴史のなかで二つに分かれていくだろう。ミカエルにより企図された魂たちが、超感覚の(霊界の)学院で教えた内容を、可能なかぎり地上に広めてゆくように努力しなければならない。 この認識を、人智学協会のなかで尊重し、これから受肉する人々に、二十世紀末までそのことを教えねばならない。今日、はじめてこれらの秘教の内容を経験する人々の多くが、再び輪廻転生して地上に下る。そのうちに、アーリマンによって書かれた書が数多く地上に現われる。 人智学の課題の一つは、ミカエルの叡智を誠実に維持することである。それは心に勇気を持って、ミカエルの叡智に向かいあい、勇気にミカエルの叡智を流し込み、ミカエルの霊の剣をつくり、そのミカエルの霊の剣が地上の知性を貫くのを見ることである。 こうすれば人智学者一人一人にミカエルの姿が現われる。人間の心のなかにミカエルが立ちあがる。ミカエルはアーリマン的な著作を足下に踏みつけるだろう。 ドミニコ会時代には、ドミニコ会のスコラ学者が本を持って上位に立ち、アベラールやアヴィセンナなどの異教の叡智を記した本を足で踏みつけている絵がよく描かれ、スコラ学と異教との戦いがあった様々な場所に、このような絵が残っているが、このような外(物質)的な絵は必要ない。 ドミニコ会 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%B3%E4%BC%9A アベラール http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%AB アヴィセンナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC このような外(物質)的な絵でなく、そのようなミカエルのイメージを心に持たなければならない。この世界に入ってきて、地上で知性を霊的に把握するミカエルの意識について忠実であるには、著述家として働きかけてくるアーリマンの二十世紀全体を通じての輝かしい活動に注意しなければならない。 (広告業界などは、まさにこのアーリマンの独壇場である。) アーリマンは独特な場で本を書き、アーリマンの弟子たちが育成されるだろう。今日既に意識下で魂が養成され、アーリマンの弟子たちはいち早く再受肉して、著述家として再びアーリマンの道具となることができるようになるだろう。 アーリマンはあらゆる分野にわたって書くだろう。哲学、詩、演劇、叙事詩、医学、法学、社会学について書くだろう。あらゆる分野についてアーリマンは書くだろう。 以上が、人類が二十世紀に迎える状況である。今日(1920年代)の若者は、アーリマンが著述家として現われてくる現実に遭遇するだろう。そのような若者こそ、あらゆる分野にわたる注意とミカエルの叡智への神聖な熱情が必要である。(P231-P235) ☆ ☆ ☆ ミカエル意識を選ぶか、アーリマン意識を選ぶかは、貴方次第である。
2014年02月13日
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前回は、巷に氾濫横行するニセモノについて、シュタイナーの話を紹介することで、ホンモノの意味を解き明かした。 生物が太陽光線をなぜ必要とするのか? 太陽光線から生きるエネルギーをもらっているからである。ではそれは何なのかといえば、太陽光線と同じものを生物がもっているからだとわかる。 しかし、太陽光線から、そのつくりかたを受け取る生物と、ただそのものを貰うだけの生物とではその生き方が異なることがわかる。 前者は知識獲得や創作、もしくは創造の生き方で、後者は寄生や略奪、もしくは破壊の生き方であることがわかる。 前者は太陽光線のなかに、自分に似た存在をみるが、後者は外面しかわからず、なかに何もみない。 つまり、前者がホンモノであり、後者がニセモノであることがわかる。ニセモノはホンモノがないと生きられない。 ニセモノの生き方が束の間で、永遠ではないことを知るのによい話を、御馴染みのサイトから、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ ニュースの真相 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20140212/1392197563#seeall アドルフ・ヒトラー総統の正体とは? 真実を捉える考え方 ナチスの党首であったアドルフ・ヒトラー総統。 歴史の上では、1945年4月30日にピストル自殺をした事になっていますが、実際は全く違うそうです! ヒトラーはブラジルで95歳まで生きたか アドルフ・ヒトラーは1945年4月30日にピストル自殺しているが、ブラジルの大学院生シモーニ・レネ・ヘレイロ・ディアスさんは、実際には全く違っていたと指摘する。 自らの著書「ヒトラー・イン・ブラジル その生と死」のなかでディアスさんは、ヒトラーはブラジルに逃亡し、ボリビア国境の小さな町でアドルフ・ライプツィヒとして暮らしたという。1984年に亡くなり、地元の人々は「ドイツの老人」と呼んでいたという。 「デイリー・メール」紙が報じたところによれば、遺伝子鑑定が行われる予定で、イスラエルに住んでいるヒトラーの親族らからDNAを採集しているという。また「ドイツの老人」を解剖する許可もすでにもらっているという。 2009年に行われた遺伝子鑑定によれば、ヒトラーが自殺したとされているベルリンの地下室で発見された頭蓋骨の破片が、いままで考えられていたようにヒトラー本人のものではなく、ある女性のものだったことが分かっている。 Vesti.ru http://japanese.ruvr.ru/2014_02_11/128590322/ このブログを読んでる方に、とっては「何を今さら!」な情報ですがw なんと、ヒトラーは1984年まで南米ブラジルのボリビア国境の村で暮らし、「ドイツの老人」と呼ばれていたんだとか。 えっ?マジですか?w (ナチスの高官を南米に逃がしたのはバチカンという話がある。) さらに、ユダヤ人を大量虐殺したはずのヒトラーの親族って、イスラエルに住んでるんですか? なぜなんでしょう?w それは、もちろん! ヒトラーがユダヤ人だからですよね? このブログをお読みの皆さんにとっては、当然の事ですが、ヒトラーは、第二次大戦を捏造して、ヨーロッパ中のユダヤ人を中東に追い込み、イスラエルを建国する目的で仕立てられたユダヤ人俳優です! もちろん、英国のチャーチルも、米国のルーズベルトも、ソ連のスターリンも全員ユダヤ人の俳優さん! そう! 第二次大戦って、ユダヤ人俳優を集めて始めた茶番劇だったんですね? で、今度は、極東で同じ事始めようとしている訳です! 極東の場合は、白人ではないので、ユダヤ人が直接動く事は出来ないので、日本の安倍ちゃん、韓国の朴槿恵、中国の習近平といったパペットを使って、ゴチョゴチョやってる最中ですよね? まあ、完全に世界中にバレちゃってるから、もう無理だと思いますけど(笑) ☆ ☆ ☆ ヒトラーは、マイヤーロスチャイルドのウィーンの次男ザロモン家の落胤という話がある。ヒトラーがウィーンを攻めたのは、記録のもみ消しという説もある。
2014年02月13日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 輪廻転生とカルマ 権化としてのキリスト(改変) 物質界を経験するために受肉するのではなく、人類の進化に関与するために人体に下る存在は東洋では「権化」と呼ばれている。 権化 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/83345/m0u/ 輪廻転生を繰り返して人類史の歩みのなかで(霊魂の)進化を遂げて指導的な立場に至った存在と、地上への受肉によって自分(の霊魂)を特に豊かにすることはない「権化」と呼ばれる存在とは異なっている。 権化はもっぱら人類の救済と進化のために肉体に受肉するので、「一度、もしくは数回、権化は人体に下るが、他の人間とは全く異なる存在である」と言われる。 (輪廻転生から免れているから。西洋では、マイスター「輪廻の教師」、アデプト「輪廻の導師」、アヴァターラ「輪廻しない不死の存在」のこと。) 地上に生きた最も偉大な権化は、三十歳のナザレのイエスのなかに下ったキリストである。西暦紀元の始まりに、初めて地上との接触を持ち、三年間肉体に宿った、このとき以来、キリストは、アストラル界、超感覚界の霊界と結びついている。(P25) 初期のキリスト教の秘儀参入者たちは、 「ゴルゴタの秘跡を成就した存在として、今日知られているキリストは、太陽よりも遥かに高次な世界から太陽へと下ってきた。その高次世界を、ゾロアスターはキリストのなかに見た。 次に、キリストの力は太陽光のなかに入ってゆき、そのキリストを古代エジプトの秘儀参入者(トート=ヘルメス)たちが観た。 そして、いまキリストは地球と結ばれ、地上の人々の間を取り持つ宇宙の使者として観なければならない。いまや地球と融合し、地球の隠された秘密をみて、そして、キリストは、復活した姿でみなければならない。 以上の秘密が徐々に人類の進化のなかに知として注がれてゆく。」 ということを知っていた。 東洋から密かに広がっていった初期のキリスト教の孤高の学院では、キリスト教の秘教的な教えが敬虔な形で教えられていた。キリスト教の秘教的な教義があった。初期の教父たちは、上記のようなキリスト教の秘教(霊)的な教えを知っていたが、他方で、ローマの侵攻をみた。 今日の歴史解釈から推測されるものよりも、初期のキリスト教の(霊的な)意識と反霊的なローマの精神との衝突は激しいものだった。このローマの精神が、キリスト教の奥深い秘密に浅薄な覆いをかけた。 その結果、ミサでは聖体拝受でパンを食べる、という外面の(物質的)儀式だけが残った。ローマの精神がキリスト教にもたらした外面(物質)性を広めた者たちが、キリスト教の理解には宇宙(霊)的な叡智の獲得が必須であるという考え方と強固に戦った。 彼ら(ローマ人たち)はパウロの教えも理解できなかった。 (ローマ人たちは他国を支配することで、ルシファー的な闘争的な欲望の自我を次第に獲得していったからである。) パウロは雲の向こう側の彼方から輝きながらやってくる太陽光の力やゴルゴタの秘跡を通して地上に下ったキリストの霊、つまり太陽の力と結合した宇宙的な神性を(霊能力で)みたのである。 紀元後三、四世紀までは、多くの人々はまだ、霊能力から、このキリストの秘密を知っていた。しかし、外(物質)的な世界認識が強固となり、後の時代に由来する唯物的な情報(アーリマン)によっても、紀元後数世紀の間、霊能力をもつ人々に知られていたゴルゴタの秘跡の霊的な把握法がもはやわからなくなった。 今日、人類は紀元後数世紀の間にあったキリストについての霊的な理解をどうしても呼び起こす必要がある。(P147-P149) キリスト教に我慢ならない魂とキリスト教に憧れる魂(改変) 地上での人智学運動を準備するために19世紀前半に合流した魂たちは、いわゆる「ミカエルの導き」を用意した。1870年代に現われ、近代の人類進化の流れに最も意味深い意識を与える「ミカエルの導き」を用意した。ミカエルの地上・天上の活動のための道を準備するのが、19世紀前半に集まった魂たちの課題だった。 これらの魂は、何百年、何千年もの年月をかけて再び集まることになるが、これらの魂のなかには、主に二つのグループが見つけられる。1つのグループは、紀元後数世紀の間に南ヨーロッパと、一部は中部ヨーロッパに広まっていたキリスト教を体験した魂たちである。 このキリスト教の信者たちは、キリストは太陽から地上に下った神の使者であるとみていた。理解の程度の差はあれ、これらのキリスト教徒たちは、キリストを「偉大な太陽神」と見ていた。 しかし、紀元後数世紀の人々には、古代人がもつ遺伝的な霊視力はもはやなかった。だから、太陽のなかに、キリストがかつて中央に位置した偉大な霊界を観れなかった。キリストの地上への下降を目にした古代の遺伝的な霊視力は失われ、紀元後数世紀には、キリストが太陽から地上に下り、ナザレのイエスと肉体において合一したというのは、単なる言い伝えにすぎなくなった。 (シュタイナーによると、古代は同族婚で、遺伝的に霊能力を継承したという。異族婚が普及するにつれ、霊能力は失われ、代わりに物質的感覚が養成されてきた。異族婚で生まれた混血に科学者が多いのがその証拠。) 紀元後数世紀当時のキリスト教徒の多くは、キリストという存在がかつてパレスチナに生きたというイメージ以外何ももたず、キリストの本質について、キリストは神なのか、神であり同時に人であるのか等々のことを公会議で討論するようになった。やがて、多くの人々は、ローマ人から伝え聞いたことしか知らなくなった。 (キリスト教の堕落腐敗の唯物化である。霊能力がない馬鹿が議論をはじめるのである。だから、ソクラテスは、無知の知を説いた。動物は議論しないから、自然に即座に反応できる。 人間は馬鹿だから議論する。例えば、原発を議論しても、何も変えられない。また同じ過ちを繰り返すだけだろう。こういう馬鹿は人生から何も学ばずに、何度も同じ過ちを繰り返し、輪廻転生を無限に繰り返すアホとなるだけだ!) しかし、これらのキリスト教徒たちのなかに、つねに、異端者と見なされた人々がいた。彼らは、キリストは太陽の存在であり、地上を全く知らない太陽の存在として地上の物質的・感覚界に下ったことがあるというような、直接的で遺伝的な記憶をもっていた。 これらの魂は、紀元7、8世紀にいたるまで、「キリスト教としていま広まっている宗教は、キリストをもはや理解できない」と、つぶやいた。 (現在のキリスト教はそのヒエラルキーからいっても、ルシファー教なのである。) この異端の魂は、キリスト教に我慢ならない魂と呼ぶことができる。紀元後数世紀から7、8世紀までに死の扉をくぐったキリスト教に我慢ならない魂が存在した。それ以後、地上に受肉したかどうかに関わらず、この紀元後数世紀の間における受肉は決定的だった。 これらの魂たちは、紀元8、9世紀から霊界において、19世紀前半で超感覚的器官を獲得するための儀式の準備をした。この偉大な、力強い儀式に、これらの魂は参加した。彼らが人智学協会に参加している第一のグループである。 他の魂たちは、紀元前数世紀に受肉し、古代の異教の密儀のなかで、霊視力をもって霊界を観ることができた者たちである。彼らは古代の密儀において、キリストがいつか地上に下ることを知った。これらの魂は、キリスト教の最初の発展を地上で体験しなかった。 彼らはその間、超感覚界(霊界)にいて、紀元7世紀以後になってはじめて地上に受肉した。これらの魂は、超感覚の観点から、キリストが地上の文化のなかに入ってゆくのが観えた。これらの魂はキリスト教に憧れる魂といえる。彼らは真の宇宙史を伝える霊的なキリスト教を世界にもたらすために活動しようとした。 この二つのグループが、19世紀前半に(地上で)行なわれる超感覚についての儀式を合同で行なった。物質界と直接境を接する霊界で、何十年にもわたるような偉大で壮大な宇宙史的・霊的な祭儀を行なった。 つまり、地上に下って共同で働くことになるキリスト教に我慢ならない魂とキリスト教に憧れる魂が超感覚界で儀式を行ない、彼らは19世紀末ごろに地上に下り、人智学協会に加入する準備をしたのである。 超感覚的器官を人類が再び獲得することは、何百年もかけて準備されてきたことである。地上では、福音書をナザレのイエスという人物に限定して語る書籍として受け取り、抽象的で意味不明なキリストを上から目線で告知するキリスト教(ルシファー教)が次第に広まっていった。 多くの人々は星(天体)界がいかに霊の存在を表現し、霊界と関係をもつか、ということについての霊感を失い、 「キリストは太陽の英雄と呼ばれる神で、人類の進化に関わるためにイエスのなかに下った。」 ということを理解できなくなった。 (シュタイナーによると、地球の人類と同じように各惑星には霊的な存在「ただし地球人のように物質体をもたない」の住人がいて、地球人を見守っているという。夜睡眠中に、地球人「人類」は月までは訪問できるという。 死後も、はじめは月に向かうという。月には宇宙の進化に遅れた悪霊たちもいるという。地球で欲望のままの人生を行なった魂は、この悪霊たちの餌食になるという。月といっても、物質のようにみえる月は、月の領域の境界を示すようなもので、地上も霊界としては月の領域に含まれるという。 このことを考えれば、かぐや姫というのは、霊能者の話であることがわかる。肉体をもたないので、地球人の子孫を増やす「魂に転生の機会を与える」意味ももつ結婚の意味とは異なるわけである。) 今日の普及した探求法(物質の史料等などを使った解釈)で、歴史を考察する者は、この真実を重要視しない。この「異端」の魂たちが正しく理解されていないばかりか、歴史家の大半は、この異端の魂たちが、キリスト教に我慢ならない魂、もしくはキリスト教に憧れる魂として、20世紀頃に地上に下った事実すらを知らない。 紀元7、8世紀ごろ、キリスト教に我慢ならない者たちの下で、異端として伝承されていたキリストについての知識が次第に失われていった。ただ少数の集団のなかで、中世の中期、12世紀まで、そのような本当の教えが守られていた。 少数の集団のなかに、霊のキリスト教、宇宙史のキリスト教についての古代からの伝承を保つ、神の恩寵を受けた教えがわずかに存在した。彼らのなかに、その古代からの伝承を継承し、その際、なんらかの霊感を得た者たちがいた。 彼らは程度の差はあれ、紀元後数世紀の間に、当時の霊能力をもった人々が直接体験した太陽神の下降というゴルゴタの秘跡の強大なインスピレーションの経験の反映を、自身の記憶として内面に観ることができた。(P170-P173) ☆ ☆ ☆ 巷は金銭目当てのニセモノばかりが流通しているということである。
2014年02月12日
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ニセモノの宗教家が巷を徘徊しているので、病や死や悪だなんだと騒がしく差別している。そもそも差別こそ、唯物論の賜物であろう。 そもそも宇宙をつくっているのが神様であるなら、神様が愛する人間に悪いものなど与えるはずがないではないか? 巷の似非宗教家は、この肝心な問いを忘れてしまっている。 つまり、この観点から、親鸞の悪人正機説なるものが生まれるが、世間に流れている親鸞のこの説も悪人と区別してしまっている点でまだ不足である。 悪とは何ぞやといえば、不十分な善である、というのが恐らくその応えだろう。 善に足るのに不足だから悪といわれる。悪と善の区別ほど困難なものはない。 しかし、善にはこれだといえるものがないから、果てしなく向上していかねばならない。善は留まりを知らないから、善といっても、それは善の不足分にしか観えてこないから、本質的には善も悪に帰してしまう。 だから、善くなろうとする悪が、善の要素の1つである、と親鸞が覚ったにすぎない。 「お前、善人ぶるのもいい加減にしろ!(悪人のくせして)」という意味である。そもそも善くなろうとしている奴が、自分が善だということを表明などしないはずである。善に足らない悪だからこそ、善になるにはどうするか知るわけである。はじめから善といえば、偽善で嘘つきである。 だから、世の中には、善人などいない、というわけである。しかし、絶えず、善くなろうと心がけることが大切という意味であろう。だから、神様は善の不足の悪を絶えず与えてくださっているわけなのだ! その不足分の悪をみて、「正直に白状するが、実は俺もそうなんだ。なんとかなおそうと努力しているつもり」と覚らない奴は能無しで、「はよ死んでまえ」ということである。そういうわけで、巷で善人という奴ほど信用できないわけなんである。 つまり、巷では、ウイルスが悪だ、病気が悪だなんだとのたまうが、いまの自分に相応しいからこそ、神様が与えてくださっているわけで、お前の生活の仕方や生き方が、ウイルスと同じだぞ、病気のようなもんだと、教えてくださっているわけで、差別し、避けるのは偽善なんである。 だから、善くなる有り難いチャンスなんである。何事も反省というわけである。 そういうわけで、そのようなシュタイナーの話を紹介する。 ☆ ☆ ☆ 輪廻転生とカルマ アルファの神とオメガの神(改変) 仏陀、ゾロアスター、ピタゴラスの間には普遍的な関係が存在する。世界に影響を与えるのがその関係性からくる霊力や事実だからである。霊的に発達した人物は共同で働く。彼らは無駄に同時代に生まれるのではない。 人類の進化を前進させる偉大な意識力は交じり合って相互に働く。 ゾロアスターはゴルゴタの出来事を通じて、人間が実現すべき見本を指して、将来、人間自らが、内面の(精神)霊力を通じて、進化の歩みを前方に向け、益々進化し、神界に参入できるようになることを説いた。 同じ頃、仏陀は、霊界が存在し、霊界に比べて、感覚(物質)界はマーヤー(幻想)であり、地上の存在としての渇き(欲望;アーリマン)が目覚める前に、汝らが元々いた世界へと歩みを向ければ、神のなかで魂が安らぎ、涅槃に参入できることを説いた。 以上がゾロアスターと仏陀の教えの違いである。仏陀は「元々いた世界へ、歩みを後ろに向けることで、人間は神の境地に到達できる。」と教え、ゾロアスターはザラスシュトラとして「光(人の子の霊)が地球に受肉するときがくるので、魂は前方に向かって歩めば神の境地に近づく。」と教えた。 仏陀は「後方に歩めば魂は神に会う」と語り、ゾロアスターは「前方に歩めば魂は神に会う」と語る違いがある。 神はアルファ(前方)に探究しても、オメガ(後方)に探究しても出会う。前方に向かって歩んでも、後方に向かって歩んでも、神に到達するのである。 (三次元では、前方と後方は異なるが、四次元では、同一になるから。) いずれにしろ、人間の内面の(認識)力を高めることで神をみつけるしかない。アルファ(後方)の神を見つけるのに必要な力は、人間の奥深くに眠る原初の(意識)力で、オメガ(前方)の神を見つけるのに必要な力は、人間自らが、地上で獲得しなければならない。 だから、アルファ(後方)に戻るか、オメガ(前方)に進むかでは、地上での人生は異なったものになるが、霊界に参入し、神をみつけるという意味では、後方でも、前方でも同じである。 しかし、地球を浄化し、一段階高次の状態(木星)にしようとする者は、オメガ(前方)への道を進まねばならない。(P96-P97) 地球紀到達以前、キリストは各民族からどう呼ばれていたか(改変) キリストという存在は、秘儀のなかでは御馴染みだった。古代インドの七人の神仙たちはキリストをヴィシュヴァ・カルマン(毘首羯磨)[びっしゅかつま]と呼んでいた。ゾロアスターはキリストをアフラ・マズダ(「巨大な(マズダ)オーラ(アフラ)」という意味)と名づけた。 エジプトではキリストはオシリスと呼ばれた。ユダヤ民族はキリストをヤハウエと呼んだ。そして、第四文化期(古代ギリシア-ローマ文明)に、この存在は3年間地上に生きた。この存在は将来、再び太陽を、地球と結合させる。 (シュタイナーの霊視によれば、キリストは、イエス「30歳のとき」へのヨハネの洗礼のときに、受肉し、3年間活動し、十字架刑で、地球霊と一体化したという。イエスの霊は、キリストの霊に席を譲るために、身を捧げたという。) この救世主の傷口から血がゴルゴタの丘に流れたとき、キリストは神秘的に地球と結合した。そのとき、キリストは地球のオーラのなかに出現した。それ以来、キリストを、地球のオーラのなかに観ることができる。 最初に地球のオーラのなかにキリストを観たのは誰なのか? キリスト教の拡大に大きな貢献をしたパウロである。どのようにしてサウロはパウロになったのか? 教義でもなく、パレスチナでの出来事でもなく、ダマスカスでの超感覚(霊視)的な出来事により(サウロは)パウロになった。それまでは、彼は十字架上で屈辱的な死を遂げた者がキリストであると信じることができなかった。 しかし、秘儀参入者でもあった彼は、キリストが地上に現われたとき、地球のオーラのなかに観えるようになる、というカバラ(生命の樹)の教えを知っていた。そして、ダマスカスでの出来事がパウロの体験となった。(P118) キリストの再来(改変) 紀元前3101年に始まった暗黒時代は、1899年に既に終わった。この時以来、唯物論の科学にはまだ知られていないある能力(霊能力)が次第に発達しはじめている。20世紀では、わずかながら人類の一部には、新しい魂の能力が次第に発達してきている。 例えば、20世紀のうちに、人間のエーテル体を知覚する者も出てくる。例えば他にも、これから自分がおこなうとする行為のイメージを、自分の内面を見たときに、夢のように、予め見るような能力なども現われてくる。 (予知夢のこと。) また特別に霊能の素質のある人は、更にもっと他の体験もするだろう。パウロがしたダマスカスの途上での体験のように、それが多くの人々にとって、将来、通常の体験になるだろう。 (自我の根底で、キリストの出来事として既に生じたので、後々に人類一人一人に遅かれ早かれ現われてくる。) そのようなことが20世紀に起こる意味は、以下である。 パウロは、パレスチナで起こった出来事を全て知っていたが、その事件はサウロをパウロに変えることはなかった。彼は、ナザレの男のなかにキリストが生きたことを納得できない魂のもち主だった。ダマスカスでの出来事により初めて、「キリストが現存する」ことを、彼の霊視による意識から認識できた。 20世紀にダマスカスの事件を体験する人は、キリストについての直観(霊視)力を獲得し、キリストを認識するために、文献などに頼る必要がなくなる。今日、秘儀参入者だけがもつ霊視力を持つようになる。 今日、秘儀参入の手段を用いて得られる能力が、将来の人類が通常もつ能力になる。このような霊能力を獲得した魂、つまり体験をもつ魂は、神秘学において、「キリストの再来(再認識)」と呼ばれている。 キリストが肉体に再び受肉するのではない。ダマスカスへの途上でパウロに、キリストが現われたのと同じように、将来の人類の各自のエーテル体のなかに現われる。 (ルシファーによって)人類が物質界に限定されたとき、キリストは物質界に受肉した。 今日、人智学者は「お前の能力が、霊界の扉を開けるために、お前の感覚を変化させよ」という、ヨハネ福音書の言葉の意味を、多くの人に繰り返し説くことができる。 エーテルの感覚器官による霊視により、多くの人々は、エーテル体の中でキリストを観ることになるだろう。この能力は、いま魂のなかに眠っているが、将来、その能力は発達して、人間の運命は、ある意味、人間自身の掌中にあることが認識できるようになる。 (善いことを行えば、善い結果が現われ、悪いことを行なえば、悪い結果が現われる、善因善果、悪因悪果がわかるようになる。) この能力が現われたとき、この能力が何を意味するのか、を理解することが必要になる。今日のように唯物論に後退することはもはや不可能になる。この能力が現われたとき、すぐにはその能力に注意を払わないどころか、そのような能力を持つ人々は空想家で、病気だと見なすだろう。(P158-159) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月12日
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前回は、現代人がいかに唯物思考に染まっているかがわかるシュタイナーのオカルト(秘教)の秘儀参入の7つの段階の話を紹介した。 古代では、秘儀参入の第5段階に到達した人は、「民族名」で呼ばれたそうだが、現代に置き換えれば、国民全体を常に考え、プライベートを全くもたない「公人」を意味することになる。 しかし、現代人の公人のほとんどはプライベートをもっているから、そのことだけでも、秘儀参入の上では既に失格であるといえる。有体にいえば、第5段階に到達できた人は皆無で、第1段階の烏でさえも現代人にはほとんどいないわけである。 皇室には八咫烏「やたがらす」という組織があり、重宝されていると噂されているが、それでも、秘儀参入の初歩の第一段階にすぎないことがわかる。ましてや、その上の「隠者」、「戦士」、「獅子」などはほとんど皆無であろう。 さて、「獅子」といえば、紋章や国旗などによくみられるが、例えば以下など。 ☆ ☆ ☆ ベルギーの国旗の黒、黄、赤は、黒地に赤い舌を出した黄色いライオンという伝統的な紋章にちなんでいる。 ルクセンブルグの国旗の赤白青の3色は、13世紀の大公の紋章に描かれている青い縞模様のある銀の台の上のライオンに由来する。赤はライオン、白と青は銀の台を表わす。 モンテネグロの国旗の中央の紋章は、王国時代の「黄金のワシ」、その中心にはベネチアのシンボル「聖マルコのライオン」が描かれている。 イギリスの国章には、イングランドを象徴するライオンとスコットランドを象徴するユニコーンが盾を支えている。イギリスの古くからの伝説では、ユニコーンはとても危険な獣のため、この国章では鎖でつながれている。 (ユニコーンが鎖でつながれているのは、危険だからではなく、霊魂が地「肉体」に拘束されていることを象徴化しているためだろう。) 盾の中に2組配された金色のライオン3頭はイングランド王室紋章、金の地に赤いライオンはスコットランドの紋章、竪琴はアイルランドの紋章である。 盾の上には、冠をかぶったライオンがいる。ライオンのかぶっている冠は、イギリスの代表的な冠で、このライオンはイギリスを守っている、という意味がある。 盾の周囲はガーター勲章で、フランス語で "HONI SOIT QUI MAL Y PENSE"(英: "Evil to him who evil thinks", "Spurned be the one who evil thinks", or "Shame upon him who thinks evil upon it"、思い邪なる者災いあれ)の文字が記され、下部のリボンにはイギリス(とイングランド)の "DIEU ET MON DROIT"(英: God and my right、神と我が権利)という標語が記されている。 (「思い邪なる者災いあれ」は、「我思う故に我あり」の逆説で、「邪心を抱く者は、災いを蒙る。」という意味だろう。英国にその兆候があるのを見通した古代賢者の言い伝えだろう。) ☆ ☆ ☆ というように、秘儀参入の第四段階の獅子を象徴していることがわかる。紋章などは、霊魂の象徴だから、つまり、霊魂の進化度を表わすものだから、といっても現代ではほとんど形骸化しているが、これらの霊魂(民族霊)がかつて獅子の段階にあったことを示しているわけである。 イギリスの国章のユニコーンは、古代イスラエル王国の北民族の統合の象徴でもあるが、一角というのは古代人がもっていた霊眼(松果体)を意味している。 なぜ馬なのかといえば、いまでも馬を霊眼でみると、エーテル体が1つの角のように額から突き出ていて、ユニコーンのようにみえるそうである。古代人の大半は、角をもっていたそうである。モーセが角をもつように描かれるのは、霊眼をもっている(秘儀参入者である)ことを意味する。 つまりユニコーンを象徴として用いた民族は、霊能力を受け継いでいることを意味しているわけである。 だから、イギリスの国章は、そっくりそのままオカルトで解釈すれば、霊能力をもち、高次の世界の力を自由自在に駆使する霊魂をもっているということになるが、いまのイギリスの物質主義志向をみれば、平民の貧しい生活を省みずに特に英王室の贅沢ぶりをみれば、紳士どころかせいぜい海賊の末裔でしかないことがわかる。 英王室やバチカン、メーソンの生活態度をみれば、西洋が精神的意味において没落していることがはっきりとわかるのである。悪魔の僕と化してしまった! いまとしては、ダイアナは最後の希望だったのかもしれない。しかし殺してしまったから、ダイアナの死とともに西洋は終焉を迎えるだけだろう。 さて、日本の神社の狛犬なども、実は、ユニコーンと獅子を象徴したもので、つまり、秘儀に参入すると、高次の世界で、そのような動物の形をとった霊魂に出くわすことを物質的に表現しているわけである。 神社に入って、お祈りをするわけだが、それは、獅子の次の民族霊に会い、更に次の太陽の英雄の霊(キリスト、アマテラスなど)、そして、キリストが父と呼んだ座天使(スローン)の唯一神(自己意識)に直面し、誓いをすることになる。 つまり、神社の参拝は、民族に受け継がれてきた古代の秘儀参入法を伝達するものであることがわかる。さてシュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ ヨハネ福音書講義 人の子(改変) 時代が下るにつれて、個人がアストラル界から一個の肉体の器の中に入っていった。この独立化は、アストラル界についての意識が暗くなるという代償を伴った。その代わり、肉体という器から物質界を見れるようになるが、代わりに、古代の見霊意識(霊能力)は失われていった。 (古代ギリシアの哲学者は、この前触れを予感し、伝説を残したから、それが哲学となった。「哲学」という言葉はよくないが…。愛の意識「認識」学というべきか。) こうして個人の独立した内面が、自我の担い手として現われる。眠っている人のベッドに横たわる肉体とエーテル体は、単なる霊魂の容器にすぎない。アストラル体と自我は、夜、神的な実体のもとへ、自らを強めるためにもどっていく。 勿論、古代のように見霊意識を保ってはいないが、地球紀の進化の中で生じた自らの独立(個)性は保っている。 (唯物性から個性をつくりあげていると、肉体を失ったときに、何も認識できなくなり、死に直面せざるを得なくなる。逆説的にいえば、精神性から個性をつくりあげていると、肉体の死を認識しなくてすむことになる。 だから、物質界の法則に囚われると、死を迎えることになる。つまり、物質界をつくる霊的な法則を知れば、物質界だけの死を認識せずにすむ。キリスト原理とは、物質界をつくるのが、霊界の自己意識にあることを認識することである。) 一体誰のおかげで、この独立した人間の内面は生じ得たのか? 人間の肉体とエーテル体のおかげである。それらが昼間、物質感覚によって物質界を照らし、夜、無意識の状態の中に沈むことを可能にした。この肉体とエーテル体とを、オカルティズムは「地球人の祖先」と呼ぶ。この正体が「人間」なのである。 そして夜、そこから抜け出るアストラル体と自我を、「人の子」と呼ぶ。 ではイエス・キリストは何のために地上に来たのか? 何を地球に伝えようとしたのか? 神の下(エデンの園)から切り離された、この「人の子(自己意識)」が、キリストの力によって、再び霊意識を獲得するようになるためである。人間は、物質感覚で物質界を見るだけでなく、今は無意識でしかない内面の本当の力で、神の存在を意識すべきである。 地上に出現したキリストの力(昇華力)で、人の子は再び、神の下に昇天しなければならない。 これまでは選ばれた人だけが、秘儀参入を通して、霊界を観ることができた。そのような人たちは、古代では、「蛇」と呼ばれた。蛇とは秘儀参入者のことなのである。彼らがイエス・キリストの前触れだった。 モーセが、蛇を掲げる(民数記21章8-9)のは、つまり霊界を見る人たちの霊魂を高めるという使命を、象徴として民衆に示した。キリストはこのことを、全ての「人の子」のために可能にしようとする。(P139-P140) ☆ ☆ ☆ 例えば、以下のケーリュケイオンの象徴図のこと。 医学の象徴図にも用いられるのは、霊魂を癒しなさい、つまり霊眼を獲得しなさい、という意味をもつためであろう。患者とは、霊眼を失った者である。霊眼を失ってはじめて、人間はその有り難さを知る。 肉体やエーテル体が、人の子の自己意識をつくっているのだから、その歪みは、自己意識の歪みとして現われる。逆説的にいえば、自己意識上の思い込み「不正」が、肉体やエーテル体をして、自己意識に不正を教えているわけで、つまり、霊眼の欠乏を教えているわけである。 物質的に豊かになればなるほど、精神的には貧しくなる。健康という形で現われる肉体制御の恒常性の霊眼を失うからである。 これは昔の日本人は非常に貧しかったが、精神力は現代人と比較すれば遥かに強靭だったことからもわかる。昔の日本人は、自分のことよりも、他者のことを考えた。そのことが、思いやりから霊眼を向上させるからである。 現代人は霊的な向上よりもむしろ、物質や金銭の勘定ばかりを大事にするから、まるで、スーパーのレジ係と同じである。金持ちは、人生をレジ係に費やしているにすぎない。米国をみて、世界は資本主義の馬鹿らしさに早く気づくべきである。金銭や資産を貯め込めば貯め込むほど、死の地獄に近づくだけなのである。
2014年02月12日
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現代人の特徴を1つ挙げるとするなら、「思いやり」のなさだろう。相手の気持ちに立って考えることがなく、相手の気持ちがわからないのである。 これはシュタイナーによれば唯物的な見方からくる弊害の最たるものである。この逆の霊的な視野、いわゆる霊眼をもてば、相手が何を考えているかが手に取るようにわかる。だから現代人が必要な教育とは相手の立場に立つことである。 シュタイナーが述べているように、例えば、動物の馬などは、霊眼をもっているそうである。だから例えば、競馬などで下手な騎手ほど馬のせいにしたがることもわかる。馬は、騎手の気持ちに反応していることがわかれば少しはよくなるだろう。 例えば、出遅れを恐れると馬にも伝わるようである。だから、乗り手や騎手によって馬は違う癖を出すはずである。同様に、ペットが飼い主に似るといわれるのはペットが飼い主の気持ちを読み取るからであろう。 同様に先をみようとしない。例えば、不正を働けば、将来どのような責務を負うことになるのかすら考えようとはしない。不正を働くということは、将来、その不正から生じる偽りについて贖い(罪滅ぼし)を果たさないといけないことになる。 肉体を犠牲にし、最後は人生を台無しにすることになるだろう。例えば、人体機能に不正が生じてくるだろう。不正を不正で隠すことになれば、益々機能が役立たずになってくるだろう。そうやって何者か(悪魔)に寄生し、自分の足では決して立てることがなくなっていくわけである。 というわけで、現代人に必要なのは相手の立場に立つことや思いやりの延長上の霊眼であることがわかるので、シュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ ヨハネ福音書講義 ヤハウエと6つのエロヒム(改変) 月紀が進化を終えたとき、愛を流出できる7つの神的な存在(天使)たちがいた。今、神智学が明かす深い秘密に触れることになる。 地球紀の初め、まだ幼児の状態の人間が存在していた。その人間は、これから愛を受け入れ、自我を身につける必要があった。一方、太陽は地球から分離し、高次の存在にまで高まっていった。 この太陽でこそ、光の霊であり、愛の送り手であった7主神たちは進化できた。そのうちの6つの神霊たちは太陽を居住地とし、地球へ流れてくる日光の中には、この6つの光の霊たち、つまり聖書に述べられている6エロヒムたちの愛の力が含まれている。 (エロヒムと複数形なのは人類の意識が集合意識だったことを意味している。) 一方、7番目の霊は分かれ、人類を救済するために別の道を行き、太陽ではなく、月を居住地に選んだ。自らの意志で太陽の存在をやめ、月を選んだ、この光の霊は、旧約聖書の「ヤハウエ」、または「エホヴァ」と呼ばれた存在に他ならない。 この霊は、月から豊かな叡智を地上に流し、来るべき愛の受容を準備した。 万象の背後に存する、この秘儀に眼を向けてみる。夜の世界は月のもので、このことは人間がまだ日光を通して太陽から愛の力を受けとることのできなかった太古の時代には一層あてはまるものだった。 (陰暦の由来。ファンタジーの創造力を夜の月世界に依存している。) 夜、太古の人間は豊かな叡智の力を月光から受けとった。夜の意識の続く間、反射された月光を通して、その力が人間に流れてきた。だからヤハウエは夜の支配者と呼ばれる。彼はいつか愛が人間の昼の意識の中に生じるように準備した。 太古の時代には、一方の側を太陽で、他方の側を月で象徴できる霊的な経過が生じていた。 当時、太陽の力を夜の月が反射し、人間たちに送りこんでいた。それは、いま太陽から直接人間に流れてくるのと同じ光である。ヤハウエ、またはエホバが、6つのエロヒムの豊かな叡智の力を反射していた。 そして眠っている人間に、この力を流し込み、いつか覚醒意識(起きているとき)の間に、愛の力を次第に身につけられるように準備した。 月はヤハウエ、またはエホバの象徴であり、太陽はロゴスである6つのエロヒムの象徴である。 イエス・キリストという人類史的存在は、6つのエロヒムであるロゴスの力が、西暦の初めに、ナザレのイエスに受肉したものに他ならない。(P56-P59) キリスト以前の秘儀参入の七段階(改変) (ヨハネ福音書の)作者は、ラザロの復活以後の諸章において、より深い内容を語っている。とはいえ、それ以前の諸章の中でも、この福音書の内容が秘儀に参入できた者だけに理解できるような事項を扱っている、ということを様々な記述で示唆している。 すでに最初の数章の中には、秘儀参入に関わる事実を暗示する箇所がある。 勿論、秘儀参入には様々な段階がある。例えば、東洋の或る秘儀(ミトラ教)においては、七段階が区別され、その各々が象徴的な名前で呼ばれていた。 第一に「烏(からす)」の段階、第二には「隠者」の段階、第三は「戦士」の段階、第四は「獅子」の段階である。第五段階は民族に応じて相応しい民族名が用いられていた。 例えば、ペルシア人の場合、第五段階の秘儀参入者は「ペルシア人」と呼ばれる。これらの名称の意味は以下の通りである。 第一段階の秘儀参入者は、オカルト(内面)的な生活と外(物質)的な生活を仲介するために、あちこちに派遣される。この段階の人物は、まだ外的な生活に身を捧げていなければならない。そしてそこで探知した事柄を秘儀の場(高次の世界)に報告しなければならない。 だから、外から内へ何ごとかが伝えられねばならないとき、「烏」がその伝達の役割を果たす。予言者エリアの烏やヴォータンの烏のことを思い出すとよい。バルバロッサの伝説にも、烏が出てくる。これらの烏は、外へ出ていくときが来たかどうかを、知らせる伝令役なのである。 (八咫烏「やたがらす」はユダヤカラスのことだが秘儀参入の第一段階のことである。古事記とは太古の秘儀参入法を記した入門書である。唯物論で解釈するから荒唐無稽になる。) 秘儀参入者の第二段階は、完全にオカルト(内面)の生活を送ることである。第三段階は外へ向かってオカルト(内面)の事項を主張することが許された。つまり「戦士」の段階は、戦う人を意味するのではなく、オカルト(内面)の教義の擁護が許された人の意味なのである。 (「戦士」というのは預言者で、現代でいう教師にあてはまる。) 第4段階の「獅子」は、オカルト(内面)生活を自分の中で現実化することである。オカルトの内容を言葉で擁護することが許されるだけでなく、行為、或いは魔術行為でさえも許されることなのである。 (「獅子」というのは現代にはほとんどいないが、あえて言うなら、宗教実践者、つまり祭祀者「司祭」にあてはまる。王家などの獅子「ライオン」の紋章は形骸化されたものだろう。) 第六段階は「太陽の英雄」、第七段階は「父」の段階だが、いまは第五段階を主題とする。 古代人は共同体の中で生きていた。自我を体験するときも、その自我を集合魂の一員であると感じた。 しかし第五段階の秘儀参入者は、自分の人格を捨て、自分の中に民族の本性を全面的に受け入れる、という供犠に、自身を捧げた人なのである。 (イエスのヨハネによる洗礼など。キリスト霊にイエスの霊は自身を捧げた。) 他者が自分の魂を民族魂の中に感じたように、この秘儀参入者は民族魂を自分の魂として受け入れた。自分の人格を問題にせず、個人を超えた民族霊だけを生かそうとした。だから、この第五段階の秘儀参入者は民族の名前で呼ばれた。(P102-P104) (太古のこの第五段階の秘儀参入者の呼び名が形骸化して天皇になったのだろう。) ナタナエルとの対話(改変) ヨハネ福音書によれば、イエス・キリストの最初の弟子たちの中にナタナエルもいた。ナタナエルは初めてキリストの前に連れてこられたとき、彼はキリストを霊視できるほどの高次の段階の秘儀は伝授されていなかった。 キリストは高次の叡智霊だから、第五段階の秘儀を受けたナタナエルでは、まだその本性を霊視できなかった。しかしキリストは、ナタナエルの本性を霊視する。そのことが二つの事実により示されている。 (第五段階以上の霊視はできない。このことは、形骸化したメーソンでも、位階より上の命令を知ることができないことからもわかる。メーソンは秘儀参入法のパクリでニセモノである。 だからメーソンがやっていることは出鱈目で、やればやるほど魂は死んでしまう。魂というのは本当は死なないわけで、それは物質主義を捨てることからくる。 キリストや釈迦がホームレスの暮らしをしたのは、物質を纏う必要がないからである。物質に依存し、物質を纏えば纏うほど魂は能力を開発できずに死んでしまうわけなのだ。) まずキリスト自身がナタナエル(神が与えた民族)のことを、「この霊魂こそ、真のイスラエル人である」(1章47)と呼んでいる。この人の名は民族名で呼ばれている。ペルシア人の場合、第五段階の秘儀参入者を「ペルシア人」と呼んだように、イスラエル人の場合は「イスラエル人=ナタニエル」と呼んだ。 (ヘブライ語解説のあるサイトから、「Nathan〔ネイサン、ナタン〕は、「〔彼は〕与えた」という意味をもつそうで、応用形として「神がお与えになった」という意味の名前「ナタニエル (Nathaniel)」・「ナタナエル (Nathanael)」、 「ヤハウエがお与えになった」という意味の「ネタニヤ (Nethanjah)」があるという。 古代ヘブライ語の意味では「ナタニエル (Nathaniel)」は「ナス(為す)ニ(必要)エル(神)」で、神に必要なことをなす人という意味になるだろう。「ネタニヤ (Nethanjah)」は、ナスニヤーとヤハウエに必要なことをなす人ということになるだろう。) だから、キリストはナタナエルを「イスラエル人」と呼び、そして、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがイチジクの樹(生命の樹)の下にいたのを見ました」(1章48)と彼に語る。 これは秘儀参入者についての象徴表現なのである。菩提樹(生命の樹)の下に座す仏陀の姿が象徴的に理解されたのと同じである。 イチジクの樹は、古代エジプト・カルデアの秘儀(生命の樹)を象徴している。 (菩提樹は、古代インドの秘儀「生命の樹」だろう。) キリストのナタナエルに言った言葉の本当の意味は次である。 「私はあなたが秘儀に参入して、霊界の出来事が霊視できるようになったことを理解しています。なぜなら、イチジクの樹の下のあなたを観たのですから。」 すると、ナタナエルは、キリスト(の霊)を認識する。 -ナタナエルは答えて彼に言う。 『師よ、あなたは神の子であり、イスラエルの王です。』(1章49) 「王」という言葉は、「あなたは私よりも偉大です。でなければ、『私が、イチジクの樹の下に座っているのを観た』と言えるはずがないでしょうから」という意味をもつ。 すると、キリストは次のように答える。 -「イチジクの樹の下であなたを見た」と私が言ったので、あなたは私を信じたが、そんなことよりも、あなたはもっと大切なことを観ることになるでしょう。」(1章50) 次いでキリストは次のように語る。 -「あなたは、天使たちが人の子の側に降りたり、昇ったりするのを観るでしょう。」(1章51) キリスト(の霊)を認識できた人は、これまで観た(物質界の)出来事よりももっと大切な(霊界の)出来事を観るようになるだろう、と言ったわけである。(P104-P105) ☆ ☆ ☆ 神を信じていたら、とてもメーソンのような人類牧場を支配する統一政府をつくろうなどという怪しい企てに加わろうとは思わないはずである。悪魔の企みに賛同するから、そんなことができるわけである。悪魔に賛同するかどうかを、ある意味、神は人類に試している。落第者の多いのに呆れてしまう。次回に続く。
2014年02月10日
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地球が今日の進化段階で順次進化していくための固体(基盤)となるべく準備していた時期を考察してみると、地球の絶え間ない受難の過程が現われてくる。固体化が進むことで、地球は苦しみ、「苦痛に呻吟」してきた。 人間の地上での生存は、地球の苦痛を通して獲得された。いわゆるアトランティス時代の初期まで遡ると、この苦痛が次第に増加していくのが認められる。次第に人間自らで浄化するようになった段階から、地球も再び苦痛と受難から解放される。この人間自らで浄化する過程は、まだそれほど進んでいない。 (人間の生存エネルギーを自らで作り出すことなく、自然に依存している段階で失格。) 現代人の足下にある固体(地盤)の大部分は、今日もなお苦しんでいる。霊視してみるなら、人間のために、固体となっている地球は苦痛に呻吟している様子が感じられる。このような事実を、神秘学上の伝承から探求し、偉大な宗教の文献の中に再発見すれば、こうした文献が霊界の深みを霊視することから記述されてきたことがわかる。 その時、これらの宗教の古文献を尊重する感情がなお一層高まってくるだろう。経験を通じて、外界の事実に注目するなら、「自然は、苦痛に呻吟しながら、自らの子が生まれることを待ち焦がれる。」というパウロの言葉の根拠が、どのような真実を土台にして生じているかを、経験的に認識できる。 このパウロの言葉を翻訳すると、「地球の固体形成は、地球の『子』が生まれる、つまり霊化を成し遂げるための、創造のための苦痛であり、固体への凝集に伴う苦痛である。」という意味になる。 秘密の修行と呼ばれる訓練に際し、地球の創造のための苦痛を観たとき、その苦痛を読み取る感情を呼び起こすような、地球の周囲のイメージ形成から取り掛からなければならない。 修行をやり遂げようとする弟子に、外界の自然で生起している事象を、単なる物質的な出来事として観るだけでなく、感情の体験として魂全体で、いかにこの地球の生成、つまり固体化が地球自身に苦痛を引き起こしているかを感じとれるように、師はイメージを伝えねばならない。 この師から弟子への苦痛イメージの伝達は、実際の霊的な事実を提示する。真の神秘学では、イメージは、想像上のつくり出されたものではなく、実際の霊的事実を読み取ったものなのである。 いかなる哲学、もしくは最高度の賢さも、このようなイメージの謎を解くことはできない。高次世界の事実を認識することによってのみ理解へと導かれる。だから、神秘学のイメージは霊的事実を表現している。 今日、神智学の基礎として学んでいる理念や概念や表象を、いかにして次第に実際の体験へと導くかをいま暗示してみる。神秘学のいかなる記号も、実際の体験から取りだされたものだからである。例えば、有名な卍の記号を挙げてみる。 様々な文献に、この記号に関する極めて想像的な解釈が見つけられる。この記号が、元々どのように神秘学に取り入れられたのか? この記号は、アストラルの感覚器官と呼ぶものの模像に他ならない。 (白毫「びゃくごう」のことで、修行を積み、霊眼を獲得すること。人間がもつ様々な性格に自身を変えられる能力をもつ。構造的には、松果体と下垂体の循環により起こるそうである。) ある種の修練により、人間はアストラルの感覚器官を養成できる。この記号の二本の線は、霊視者の霊眼に、アストラル体の中での運動が炎の車輪か花のように観えたのを模写したものである。この記号は蓮華とも呼ばれる。 この車輪ないし蓮華-例えば、両眼の真ん中辺りには二弁のものがあり、喉頭の辺りには十六弁のものがあるが-、つまりアストラル界の発光現象として生じるアストラルの感覚器官を表わす記号が卍なのである。 では、また別の記号、いわゆる五芒星(ペンタグラム)を考えてみる。現代の唯物論的な哲学者が真剣に議論しても、五芒星の本当の意味を見つけることはできない。五芒星は1つの霊的な事実だからである。この記号は、人間のエーテル体の中に読み取れる力の流れを描き出している記号なのである。 人間のなかでは、エーテルの力の流れが、左足から頭部のある位置まで上昇し、そこから右足へ、次いで左手へ、そこから身体を水平に通り、心臓を通って右手へ、そして右手から再び左足に戻る結果、人間の中に、頭、両腕、両手、両脚、両足を通る五芒星を描くことができる。 この五芒星を単なる幾何学の図形としてだけでなく、エーテルの力の流れとしてイメージする必要がある。人間は、エーテル体の中に、五芒星をもっている。力の流れは、正確に、この五芒星の線を辿っている。 各線は様々にねじ曲がることもあるが、全体としては常に五芒星の形を保ち、人体に書き込まれている。五芒星は1つのエーテルの実体である。象徴ではなく、事実である。 このように、神秘学では、どの記号の象徴も、霊界の事実の模像である。こうした事実の根底の世界を示唆できてはじめて、本当の意味が認識できる。従って、三次元(物質)界で最高度の知性といえども、霊眼を獲得できなければ、神秘学の記号の解釈には到達できない。 唯一[霊界の]体験から、神秘学の記号や象徴の意味を観つけることができ、この意味の認識から、人間ははじめて三次元(物質界)を超えて、「高次の何かをなすこと」ができる。だから、まず霊視力により観つけられた事実が伝達され、語られ、獲得されることが必須である。そして、探求された事実から、再び人間は、霊能力獲得の原因となった事実自体へと回帰する。 記号や象徴と同様、古い伝説や神話においても事情は同じで、伝説や神話は民衆の文学からつくり出されたとするのは、学識上の机上の空論である。民衆はそもそも創作できない。全ての伝説や神話は、人間がまだある程度霊視力をもっていた時代の遺物なのである。 ヨーロッパの伝説や神話で語られていることは、人間が太古の次代にみた事実を保存している。これらの伝説、メルヘン、神話の中にある全ては、元々は霊視で見たもので、霊視での経験をそのまま語っているものである。神話とはそもそも霊視の経験から観た通りに語ったものなのである。 今日でもなお、神話で語られている出来事をアストラル界に追求できる。ヴォータン、あるいはオーディンによる行為は、実際に起きた出来事なのである。アストラル界に参入することで、神秘学的な記号、象徴、封印の背後に、真実を探すことができる。しかも、なんらかの想像により、これらの記号の解釈を企てることが少ないほど良い。 このように、この講義では、神秘学の事実についての超感覚に参入していきたい。記号は決して、想像上考え出された作り物などではなく、霊界での実際の出来事の模像ないし複製である。そして、神話として遭遇する物語は、まだ人間の大半が霊視力をもっていた頃に観た出来事などの再現なのである。
2014年02月10日
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さて当然だが、いかなる意味においても、人体が外界に与える経過と、外界が人体にもたらす経過とを区別しなければならない。例えば、人体を通じて、血液が眼に流れ込み、眼に働きかけることで、人体内に生じる経過に注目すべきである。 人間と同様の器官をもち、眼のなかに房室や剣状突起のような、いわば血液の滞留器官をもつ動物に特別に起こる内部の経過に注目すべきである。血液を通じて、眼球のなかに自我(エゴ;自意識)が強力に送りこまれるからである。 このような動物と比べると、人間では、自我(エゴ)は後退し、眼球をいわば自由にしている。血液が全身を巡り、人体組織全体に作用を及ぼすことで、人間の眼は、感覚全体に働きかけている。だから、人間の視覚では、味覚が変容させられ、視覚を、「味覚の変容」と呼ぶことができる。 従って、味覚の変容としての視覚が、味覚や嗅覚の上位に位置づけられる。 (味覚⇒嗅覚⇒視覚) つまり、味覚の経過も、視覚の経過も、内に向かうと同時に外界にも向かっている。つまり、味覚の経過が、外界や人体上部に向かって変容した経過が、視覚の経過となる。 また逆に、人体下部に向かっても、味覚の変容が生じる。 味覚の経過は、上部の視覚の経過では外界に向かい、眼がいわば骨格の窪んだ場所に嵌めこまれ、その凹部から外に向かう器官なので、視覚の経過は外界に向かって組織されているが、味覚は逆に下部へと向かうので、味覚の変容は、眼とは逆(対極的)に内的に考えないといけない。 (全ての経過は、波動のようにイメージでき、外に向かう波と同時に内に向かう波を想定すべきである。) 上方に向かうと同時に下方に向かう経過を考察することで、いわば、視覚の経過と対極をなす人体内の経過へと到達できる。視覚と対極をなす経過は、次のような考察から、明らかになる。 視覚の経過の対極と考えられる、味覚の経過を下方に向かって変容させた場合の経過とは何なのか? 味覚の経過を下方に変容させていくと、消化機能が前提になってくる。消化を内的に理解するには、視覚を、外に変容した味覚の継続と捉え、同時に、消化を、内に変容した味覚の継続と捉える必要がある。 消化は、外界に向かう視覚に対しての完全な対極として理解できる。 外(物質)化された視覚は、いわば外界での消化の機能に相当し、人体の器官として内的に組織化されると、消化器官となる、というような認識に導かれる。また、同時に、消化の経過が、味覚の経過に親和性を持つこともわかる。 例えば、消化の経過全体を、次のように考えれば、人体内の消化機能のなかに、微妙に現われる局所的な働きを理解できる。 「良い消化とは、いわば消化管全体で味わう能力から生じ、悪い消化とは、いわば消化管全体で味わう能力の欠如から生じる。」というような考えである。 さて、これまで考察してきた経過は、味覚と嗅覚の機能に大別できる。根源となる1つの経過が分かれ、一方は、エーテルと物質との相互作用が活発な味覚の経過となり、他方は、エーテルとアストラルの相互作用が活発な嗅覚の経過となる。 味覚から継続(延長)して分かれる経過についても、上記と同様の区別ができる。すなわち、腸による糞便の排泄である消化と、腎臓による尿の排泄の2つに区別できる。 上記の2つの区別から、人体の上部組織と下部組織についての対応が得られる。上記の2つの区別から、上下で相対する対極の関係が獲得できる。味覚と嗅覚に分け、通常の消化と、それよりも内密な腎臓の働きに基づく排泄全般に分けることで、その間の対極的関係が得られる。 以上のように、いわば、外界から皮膚により隔てられた人体内で生じる事象(現象)を、外界の経過の内面化として観察できる。というのも、人体の上方に向かって継続する経過は、外界に入り込んでいくからである。この経過の流れから、人間は、外に向かって開いていることがわかる。 さて、以上の経過の流れを更に追求し、唯物論的な意味ではなく、これまでの講義からもわかるが、霊的な意味で、人体と結びつく霊魂のなかにまで辿っていくなら、視覚の変容[ein metamorphosiertes Sehen]に到達できる。 視覚の変容を、更に内面の、思考や表象(イメージ)の経過に至るまで追求すれば、思考や表象(イメージ)の根底にある器官、すなわち、頭のなかの器官(脳)を、視覚の変容器官として捉えることができる。 脳を探求すれば、思考のなかにある表象(イメージ)の多くは、視覚による表象(イメージ)の単純な継続にすぎない経過とわかる。生まれつき盲目の人や、生まれつき耳の聞こえない人の表象(イメージ)と比較すれば、思考が視覚によるイメージの継続経過であることが明らかになる。 人間は、思考のなかに、内部に向かって継続した視覚をもっている。 以上のように、頭部や脳の解剖学的構造と思考の経過との間に生じる独特な相互関係に、一条の光を投げかけることができる。 実際、奇妙にも、思考の経過に厳密に迫っていけば、医学論文も書けるが、例えば、脳の組織構造と、統合的思考との関係を探求すれば、不思議なことに、嗅覚の神経が変形したような構造を脳のなかにみつけることができるだろう。 (統合的思考は、嗅覚による匂いが継続した経過と考えられる。) 従って、次のような結論に至る。 「人間の散漫な分析的思考は、内的には、思考の対極にある視覚に似ているが、物事を統合するような観念の総合は、内的には、本質的に、嗅覚に非常によく似ている。」 上記のような結論は、顕著な形で、脳の解剖学的な構造にも現われている。以上のような考察から、いずれにせよ、表象(イメージ)や思考の一面に到達できる。
2014年02月10日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆CIAに操られる日本は「属国」以下の「属領」 - やはり政経塾内陶は、アメリカによる対日工作、TPP(環太平洋戦略的経連携協定)を含めた経済植民地化のためにでっち上げられたのでしょうか。 本澤 政経塾OBの政治家には、地方自治体の首長が多い。民主党と自民党にも送り込まれで、日本の政治を動かしているんです。米国に送られて洗脳された者が多く、その洗脳の機関がジョージタウン大学のCSIS〔戦略国際問題研究所〕。そこは米国におけるナチスの地政学の砦です。また、京セラの稲盛財団が資金を提供し、イエズス会が支配しているという事実を知り、これには唖然としました。 -CSISは小泉純一郎の次男の小泉進次郎をはじめ、浜田和幸などが籍を置いたことでも有名です。表向きは国際的な公共政策の研究所だが、実質はアメリカ軍のシンクタンクでイスラエルに兵器を供給し、中東戦争によって石油価格を高騰させる、石油王ロックフェラーのための石油価格コントロールセンターとも噂されます。 藤原 CSISの日本部長がマイケル・グリーンで、彼に育てられたのが小泉進次郎ということだけで、どんな組織か一発でわかる。ほかにも米軍の立川基地の防人として、CSISで訓練された長島昭久がいる。彼は自民党の石原伸晃の秘書をやって渡米し、SAIS〔ジョンズホプキンズ大学高等国際問題研究大学院〕ではプレジンスキー教授のゼミで仕込まれ、防衛省の政務官を経て野田の首相補佐官です。 民主党の最高顧問・渡部恒三の息子の渡部恒雄は、CSISに陣取って東京に指令を出し、それを受けて内閣では政経塾OBの玄葉光一郎(外相)や長浜博行(官房副長官)が動く。また、民主党の要職は前原誠司(政調会長)や樽床伸二(幹事長代行)が受け持ち、対米従属の政治を推進しています。 もちろんCSISの背後にはCIAがいて、日本の政治を取り仕切っている。日本政府がワシントン政府に追従するなら属国と呼んでも間違っていないが、政府の下部機関のCIAに操られる以上は、私は属領と呼ぶしかないと考えます。 -たしかに、CSISを設立したデイビッド・M・アブシャイア(博士)と稲盛和夫は「アブシャイア・イナモリ・リーダーシップアカデミー」をCSIS内に作った。稲森は、生前から松下幸之助と昵懇で政経塾の世話人となってきた。その稲森が典型的な「ジャパン・ハンドラー」であるCSISに、政経塾メンバーを送り込むという構図ですね。 本澤 政経塾は民主、自民にのみに塾生を送り込んでいると思っていましたが、すでにみんなの党にも潜り込んでいます。 -衆参合わせて自民が六名±三名、民主が二五名±二名、首長が二名ですが、これにみんなの党も加わっている、と。 本澤 一〇年の参院選で当選した江口克彦なる人物です。彼は、なぜか、みんなの党の最高顧問となっています。そして江口は松下幸之助の側近中の側近。江口は松下の意向を受けで、松下政経塾の司令塔であるPHP研究所の社長になっでコントロールしていたんです。その人物が最高位に就任している以上、「みんなの党」は松下政経塾政権の別働隊と分析できる。人気上昇中のみんなの党にも、すでに唾を付けでいたわけですよ。 -「みんなの党」の資金源は何なのか、疑問視されていましたが、江口を通じて松下財閥である可能性が高い、と。根っこは政経塾政権と一緒となります。 本澤 すでに危険な兆候は現れています。野田政権は、日本の農漁業や福祉・医療に大打撃を与えるとみられているTPPについて菅内閣同様に熱心です。いうなれば売国政治。まったく酷い状況です。 内閣調査室にコントロールされた「文藝春秋」 -それでもマスコミは広告費というアメで政経塾内閣を批判できない。TPPにせよ、パナソニックとトヨタは大賛成ですからね。 藤原 その件の背後に電通と三宝会があります。三宝会の存在を世に知らしめた平野貞夫元参議院議員との対談で知ったことなんですが、やはり中曽根内閣によるバブル経済時代に、財界によってすでに準備が始まっていたそうです。 しかも中曽根はCIAと結んで日本の核装備のために、原発の建設を財界とともに推進して、現在の破局の基盤作りをしていたんだし、それに協力したのがマスコミという構図です。 -平野貞夫氏の著書『平成政治20年史』によれば、この三宝会は竹下登元首相の指示で九六年に設立された。新開、テレビ、週刊誌、政治家、官僚、評論家が集まって、自民党にとっで最大の脅威だった小沢一郎をメディアの力で抹殺する作戦が展開された。 最高顧問は竹下登、世話人が高橋利行(読売新聞世論調査部長)、後藤謙次(共同通信編集委員)、芹川洋一(日本経済新開政治部次長)、佐田正樹(朝日新開電子電波メディア局局長付)、湯浅正巳(選択出版)などが実名で出ている(肩書きはすべて当時)。 いま現在は、共同通信、ホリプロ、朝日、毎日、読売、日経、TBS、日テレ、フジ、テレ朝、講談社、文春、プレジデント、選択、朝日出版社が会員だというから、狙われたら抹殺されるでしょうね。 藤原 私の読者に松橋息光さんという、警視総監に次ぐ警視監をやっている人がいて、その彼の警備局時代のエピソードが面白かった。松橋さんの上司の川島という人物が、何かトラブルがあると「田中を呼べ、田中を呼べ」と命令するそうなんですよ。その田中というのは、文藝春秋の田中健五、当時の文藝春秋の取材記者ですよ。 -田中健五は「諸君!」初代編集長で文春タカ派路線の生みの親でしたね。 藤原 右翼の日本文化会議の機関誌が、内閣調査室の資金で文藝春秋から出て、保守的な言論活動を展開したわけですよ。 本澤 あっておかしくない話です。 藤原 田中健五は「諸君-!」から「文藝春秋」の編集長を経て、その後は社長にと出世していくわけですが、大量の政府広報が記事のスタイルで、政府の機密費として文藝春秋に流れたことは、誌面を占めた政府提供記事で明白です。 本澤 読売新聞オーナーで、日本初のテレビ局を作り、中曽根とともに原発を推進した正力松太郎社長は、CIAのスパイになって「ポドム」という暗号名まで持っていた。文藝春秋とともに読売はけしからんメディアだとわかる。 警察官僚で内調出身の川島広守は内閣官房副長官を経て、巨人の代弁者としてセントラル・リーグの会長に就任した。 CIAのスパイだった正力松太郎や、読売ジャイアンツとの関係で、野球は警察利権。CIAの管轄下にあるのだそうです。 藤原 正カの右腕として米国と読売を結び、正カをCIAのスパイにする役目を果たした柴田秀利の『戦後マスコミ回遊記』を読めば、そういった野球の役割についてよくわかる。その延長線上に長嶋と中曽根の関係が奇妙な形で浮かび上がってくるし、さらにCIAとホモ人脈が絡んでくる。 本澤 そのCIAですが、日本人はなかなか、その存在がリアルに理解しにくい。実際にCIAは、米国大使館のなかにあるだけでなく、色んな形で企業に入り込んでいる。ソニーやメリル・リンチなどの中でも働き、内部から情報を集める。 そういう現実があるのに、知られていませんよね。東京にはCIA関係者が何百人もいて、色んな形で工作をしているらしいですが、これまでの藤原さんの経験からして、どうご覧になっていますか。 藤原 特殊な計画や事業に入り込むだけでなく、大学関係者でも、語学力や実務経験を生かしながら、情報を嗅ぎまわる者がいます。 本澤 大学関係者というのは予想外。盲点ですね。 藤原 九〇年代、私はサントリーと共同事業をした関係で、子会社のTBSブリタニカの社長室や編集部に出入りが自由でしたが、同じ場所に「ニューズウィーク」の編集部があった。そこで誰を見かけたと思いますか? 当時のCIA日本部長のエズラ・フォーゲル。ここも彼らの巣だったかと、呆れるやら恐ろしくなるやら。 本澤 ニューズウィークがそうでしたか。 藤原 ロッキード事件の時に登場したハリー・カーンは、ニューズウィークの元編集長。CIAコネクションは世問的にはバレています。 本澤 ハリー・カーンが岸信介の英語の教師になり、グラマン事件に絡んで岸をCIAのスパイにしたのは有名ですね。 藤原 「ニューヨークタイムズ」のワイナー記者が書いた『灰の遺産』に、そのことは詳しく書いてある。昔は東京に大物スパイがたくさんいて、雑誌の編集長クラスはほとんどスパイでしたよ。 -ハリー・カーンはGHQの「アメリカ対日協議会」(ACJ)のエージェントだったといわれていますよね。ACJはA級戦犯の釈放、公職追放された旧官僚の復職、解体された財閥の復興を仕切ったことで、戦後の日本に「ジャパン・ロビー」ともいうべき組織を作り上げていた。その中心メンバーなのに、その実態は本当に闇に包まれています。 藤原 彼らの諜報戦の裏工作に「ホモ関係」は重要な役割を演じてきたのです。 男が男に惚れる世界 -ジャパン・ロビー、ジャパン・ハンドラー、そうしたネットワークを形成する過程で「ホモ」が問わっでくる、と? 藤原 ええ。諜報戦の資料やナチス史を読めば、ホモ関係がいかに重要な役目をはたしていたのかわかります。「長いサーベルの夜」で突撃隊(SA)が殲滅され、「スパイキャッチャー」でKGBがMI6を崩したのも、ホモ人脈を操った謀略戦の代表例です。 本澤 言われでみるとたしかにその通りだが、われわれ常識人にとっでは異常の世界。その辺のところが理解が難しくて、簡単には受け入れ難い面があるのです。 藤原 日本には昔から衆道の世界があって、『葉隠』に三島由紀夫が傾倒していたのは、殿に命を奉げる殉死の美学だし、天皇制は男が男に惚れる世界だという。その点で日本は世界に冠たるホモ天国だから、日本に住みつく米国人の半分は、ホモ趣味への魅力だと、人類学者のシーラ・ジョンソンが、『アメリカ人の日本人観』に書いています。 本澤 そこまで言うと身も蓋もなくなりますが、天皇制が国家主義者にとって衆道の擬態なら、女性天皇の登場が必要になりますね。 藤原 そこで松下政経塾ですよ。松下幸之助は塾生と一緒に風呂に入り、背中を流し合うのが晩年の道楽だったから。それが松下政経塾の始まりという説もある(笑)。また、政治家と秘書との関係に似たものがあり、秘密を共有する快感があるといいます。 -なるほど。日本と違い聖書によって男色が否定されていた西洋では、つい最近まで男色行為の発覚は社会的な死に直結していた。日本も戦後長らく欧米なみのホモ弾圧があって、派手な「ホモ行為」が暴露されてしまうと復帰できなかった。不倫や愛人、それこそ汚職で逮捕されても復帰はできるのに。 藤原 このたぐいの話はタメにする噂も多くて、うかつに信じたら大火傷するけれど、無視できないものが多くて困ります(苦笑)。 -政経塾に入ると、ごく当たり前にホモ行為が行なわれていて、それをしなければ仲間にしてもらえないという状況なら、多分、入塾するような連中はやっちゃうでしょうね。で、それをCIAなどに証拠を押さえられて首根っこを掴まれる。 たしかに、いまの野田政権の姿を見ていると弱みを握られ、利用されているのは間違いないでしょう。それが汚職や女性スキャンダルではなく、ホモだとは……。本当に情けなくなります。今日は貴重なお話、ありがとうございました。 ☆ ☆ ☆ しかし魑魅魍魎ですな。
2014年02月10日
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前々回の続き。 ☆ ☆ ☆ 戦後生まれの人たちにはピンとこないかもしれないが、これらは正常な人間の頭で判断すれば人類の文明の破壊につながるものであることは一目瞭然である。 人間の純度を落とし、本能性に回帰させようというものである。第二次世界大戦が終わってみると、日本へはこれら一連の風潮が忍者の如く忍び寄って完全ともいえるほどに定着してしまったのである。 一体誰が巧妙に持ち込んだのか。 さらに、忠実な残置諜者(ちょうしゃ=スパイ)とでもいうべき、これら病巣をタブーとして固持、培養している勢力は何か。 その勢力と、これを持ち込んだ勢力との関係は如何。 今日の日本にとって 最も大切なことは、これらを解明することではあるまいか。 日本人の脳を「白痴化」し「精神を堕落させる」計画 http://denik-bise.blogspot.jp/2008/06/blog-post_2129.html 日本人青年男子の軟弱化計画--輸入フードの続き 忍野昭太郎氏『混迷日本にとどめを刺せ』(絶版) 抜粋 日本を内部から弱体化する方法論のひとつに日本人の脳を白痴化することや精神を堕落させることがある。 日本人の活字離れは、相当な勢いで進みつつある。日本人がもはや物事を真摯(しんし=まじめで熱心)に考える能力を失いつつあるかのような危機感を覚えさせる。 (英語は話せるが、日本語で思考できない若者が増えてきた。インスタントの外来語教育で、母国語で思考する習慣が阻まれるからである。) ヘアヌ ード解禁は、日本社会全体に緊張の糸が切れ、何か退廃への道をまっしぐらに進んでいることを示しているかのようである。 「一流」を自負しているはずの週刊誌各社がなぜ品位も見識もかなぐり捨てて恥ずべき行為を行なうのか誠に理解に苦しむ現象である。 日本の週刊誌は、毎週毎週とめどなく社会に対して害毒を流し、日本の品位を落とし続けているのだ。 もし、この行為が意図的に行なわれているならば、週刊誌各社は日本社会劣化に一役買っていることになり、「世界支配層」の手先でしかないだろう。 日本民族の将来を少しでも案じるならば、売国的行為を即刻中止すべきである。 (既に低俗化している週刊誌には無理な話だが…) 忍野昭太郎氏『混迷日本にとどめを刺せ』(絶版) 抜粋 また日本では新種の商売が繁栄しているようだが青少年のみならず、社会人一般の性的堕落を誘うものである。 ..(略) 日本の若い女性を悪の道にひきづり込もうとしている。このような行為が単なる金もうけの商売でないことは明らかである。闇からの魔の手によって日本社会はあらゆる面で爛熟(らんじゅく)し、腐敗していこうとしているのである。 日本人を娯楽漬けにしようとする計画も進んでいる。 サッカーファンには申し訳ないが、日本にJリーグが導入されたのも、日本人の視点を政治や経済・軍事情勢からそらし、娯楽に関心を呼び込むためである。 テレビ各局も総動員して白痴番組を流し続けている。 クイズや料理グルメ、旅行、ファッション、バラエティなど面白おかしい番組が大量に供給され、肝心のニュース番組もほとんどは国内ニュースであり、重要な海外ニュースは後回しである。 しかも、本質を伝える解説は何もない。このようにして、日本人を愚民化する計画は着々と進んでいる。 (海外に出てみるとわかるが、日本に関する扱いなどほとんどない。せいぜいどこから来たと聞かれ、「日本」といったら、日本の印象を応える位で、米国でさえも、日本の記事など日々の生活ではほとんどお目にかからない。しかし、マスゴミは、日本が世界から注目されているかのように報道しているから真逆である。) 紙の爆弾 http://denik-bise.blogspot.jp/ 米国に送られて洗脳された者が多く、 その洗脳の機関がジョージタウン大学のCSIS(戦略国際問題研究所)。そこは米国におけるナチスの地政学の砦です。 (ジョージタウン大学はイエズス会の米国での尖兵) また、京セラの稲盛財団が資金を提供し、イエズス会が支配しているという事実を知り、これには唖然としました。 カトリック--イエズス会--ミッションスクール〔栄光学園(ネーミングがイルミナティそのもの)〕 主な出身者 近衞忠てる 世界赤十字連盟会長、第14代日本赤十字社社長、細川護煕元首相の実弟 今井義典 NHK 副会長 清水正孝 東京電力顧問、元同社取締役社長 天野之弥 国際原子力機関〔IAEA〕事務局長 天野万利 外務省、経済協力開発機構OECD事務次長〔之弥の実弟〕 浅尾慶一郎 みんなの党衆議院議員 人類史上最悪級の原子力事故が起きたその時に事故を起こした企業のトップと原子力を規制・監視する国際機関のトップが同じ学校〔しかもカトリック系ミッションスクールという特殊な〕出身の確率はどれくらいか ---核マフィアの「虎の穴」でしょうか? 『紙の爆弾』2012年4月号 CIAに喰われた野田政経塾内閣に日本は潰される! 暴走する”松下ホモ人脈” 藤原肇(フリーランス・ジャーナリスト、慧智研究所長) 本澤二郎(政治評論家、元『東京タイムス』政治部長) 野田政権の根っこはCIAとホモ -今回は、厳しい政権批判を続けてきた二人のジャーナリストに現政権の問題を指摘していただきたいと思っています。 まずは、『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)という衝撃作を世に問うた藤原肇さんです。日本の政治と裏社会の実態を知りたいなら、従来の「暴力団、同和、半島」の三要素では不十分、これに「ホモ人脈」があり、CIAが対日工作するとき、この「ホモ人脈」が動いて政界・財界を動かしているという内容は、ショッキングでした。 藤原 日本では異常に見える新奇な仮説が、世界では常識であることが多い。その一例が政治や諜報の世界におけるホモ人脈の問題です。英国のMI6とKGBの争いをはじめ、CIAが使う脅迫の道具として、ホモ問題が活用されてきたのはインテリジェンスの世界では常識ですね。 それが中曽根政治の背景だったし、リクルート事件でもホモ恐喝があったではないか、というのが『平成幕末のダイアグノシス』の執筆動機でした。九五年発行で、残念ながら絶版になっていますが。 -それで野田政権も? 藤原 ええ。政経塾出身の野田政権も根っこになるのは、CIAコネクションとホモです。金権政治ならぬ「ホモ政権」。野田政権誕生で、日本の運命は大きく変わりそうです。 -本澤二郎さんは菅直人内閣発足直後に「ハッキリ言って、管直人には人格に問題がある。そういう男が権力を持つと権力を維持するために何をやるかわからない」と糾弾し、その後の3・11で見せた狂気の政権を、いち早く「予言」しました。その本澤さんが、強く懸念を感じているのが「松下政経塾」の存在です。 本澤 まず政経塾の思想や政治教育は、皇国史観に基づく超国家主義ということを理解しないといけません。それ以上に問題なのは、母体となった松下電器の巨大な広告費です。松下財閥の広告費の魅力に抵抗できるメディアが日本にはない。 結果、日本の大手マスコミは政経塾政権の危険性について批判することもなければ、批判的な見解を持つ人の意見も記事にしないし、日本がいかに狂っているかも報道しません。松下〔現パナソニック〕、トヨタ、東電の広告御三家が日本を支配し、大本営発表で国民を編し続けてきたから、日本は再び亡国の危機に見舞われているのです。 -10年度の広告費でいえば、第一位がトヨタで一〇五六億円、二位がパナソニックで八三一億円、東京電力は単体では二八六億円で十八位ですが、電力グループ全体では八五人億円、原発のPRを担当する電事連を含めれば一千億円を突破します。トヨタや東電は献金や選挙支援で政界工作をしていたが、パナソニックは子飼いを政権の座につけた。それは何を意味するのでしょうか。 本澤 一例を挙げれば、小沢潰しのキャンペーン。これは巨大な宣伝広告費によって懐柔されたマスコミが、"マスゴミ"になり果てた証拠。御三家の巨大な広告費に中毒したメディアは口を閉ざし、その結果、出現したのが「政経塾政権」です。こんなひどい超国家主義を前面に掲げ、皇国史観を信奉する反動政権が登場したのは、明らかにメディアの批判精神の欠如が原因です。 -莫大な広告費で絶対にメディアから批判されない政権。なるほど、やりたい放題になる可能性は高いですね。 藤原 政経塾第一期生の野田が首相になり、ファシスト的な思想で政治を動かすという点。これは、中曽根内閣以来三〇年ぶりといってよく、超国家主義路線が日本に君臨したことになる。本澤さんが「予言」した通り、無能を露呈した菅内閣は、ぶざまな迷走と醜態を曝けだして自滅し、ドサクサのなかで野田内閣が登場したわけですが、これは「羊の皮を被った狼」内閣です。 本澤 「ドジョウ内閣」を自称しても、野田首相はA級戦犯の存在を否定し、大東亜共栄圏の復活を目指す点で、財界の操り人形にすぎないですからね。なにより、組閣の前に財界を表敬訪問している。 藤原 首相がそんな恥知らずなことをすれば、財界が日本国の主人公だと言い切るのと同じ。主権在民など吹き飛んでしまう。 本澤 そんな体たらくが政経塾政権の実態。その財界がアメリカ追従をしているから、日本政府が米国に隷属することになる。しかも、それを批判するメディアがない。本当に情けない国になってしまった。さらに隷属だけでなく、ナチス思想までアメリカの手で教え込まれている。日本の社会は破壊されつくしてしまい、亡国する以外に選択はなくなります。 藤原 政経塾政権によるナチス化が進めば、日本は全体主義に向けて邁進、マスメディアは翼賛体制化しますから、中曽根が実現できなかったファシスト革命が、放射能汚染の日本列島を制圧します。 本澤 そうなると救い難い地獄絵になる。 ☆ ☆ ☆ 次回に続き。
2014年02月10日
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前回の話を続ける前に、「黄金の金玉を知らないか?」さまのブログに載っている、リーマンショックの正体をつきとめた話を紹介する。イルミナティのNWO戦略がよくわかるからである。連中は666(獣)からなるカースト帝国をつくろうとしている。 ☆ ☆ ☆ 2/7の続報は? http://golden-tamatama.com/ 良い記事を送ってくれた方がいますた。 リーマンショックとは何だったのかという記事です。 21世紀、世界大不況の、本当の、原因 http://blog.goo.ne.jp/fugimi63119/e/ddd4f1174f5c3d653486079ce619102a 2011年現在の、世界不況・金融恐慌を引き起こし、倒産した銀行リーマン・ブラザース。現在、ヨーロッパ各国政府が倒産の危機に立たされている、ヨーロッパ金融危機の「正体」は、この世界金融恐慌である。 デリバティヴ・ヘッジファンドといったギャンブル投機によって、世界中の銀行・政府に、多額の借金を背負わせ、自身も倒産し、人類全体を大不況と、第3次世界大戦の危機に直面させ、姿を消した、リーマン・ブラザース。 このリーマン・ブラザースは、元々、アメリカ南北戦争の際、北軍=エイブラハム・リンカーンの勢力の「軍需物資」の調達会社であった。 (恐らくフリーメーソンだろう。) ・・中略・・・ この「戦争ビジネス・マン」リンカーンの軍事物資の調達会社=軍事産業であった、リーマン・ブラザースは、南北戦争の最中、北軍の兵士が着用する軍服を製造するための綿花の調達に東奔西走した。南部が綿花の大産地であったため、南部を敵にした戦争では綿花の調達が困難になった。 リーマン・ブラザースは、南部に潜入し、南部の軍人・農民を「金で買収し」、綿花を買い付け、さらに不足する物資を、ヨーロッパに出向き、買い付け、ヨーロッパの商社からインド産の綿花、また、火薬・銃器を買い付け、北軍に提供した。南軍=敵軍に潜入し、敵軍を買収し、物資を調達する、スパイ活動・諜報工作を専門とする、軍事商社が、リーマン・ブラザースであった。 そして、アメリカの内乱=南北の対立・戦争に乗じ、「金儲け」しようとするヨーロッパの武器商人=戦争商人の先兵が、軍事商社リーマン・ブラザースであった。 同時に、南部の軍人を買収し資金を提供し、南軍の兵器調達の費用をリーマン・ブラザースが提供し、南軍にヨーロッパ製の兵器を売りつけ、その利益で南部の綿花を買い付け、その綿花を北軍に売り、さらに同時に、北軍「にも」ヨーロッパ製の兵器を売りつける。 南北軍の戦争を、アオリ、両者に兵器を売りつける、戦争商人が、リーマン・ブラザースであった。 2011年、世界中を大不況に陥らせた、デリバティヴ・ヘッジファンド取引には、必ず、買い手と売り手が存在する。ニューヨーク株式のダウが、11000ドルを「超える」に、1000兆円賭けるリーマン・ブラザースと、「超えない」に、1000兆円賭ける銀行ゴールドマン・サックス。 このギャンブルの契約書を「証券化」し、世界中の政府・銀行に売り付けたリーマン・ブラザース。 そして、ゴールドマン・サックス、リーマン・ブラザースは、ニューヨーク・ダウの先物を、徹底的に「共同し、売り」、ダウは11000ドルを「超えない」。リーマン・ブラザースは、1000兆円損をし、倒産する。1000兆円分の「証券」を買っていた世界中の政府・銀行が、累計1000兆円の損失を出し、倒産の危機に追い込まれる。 このギャンブル投機に勝利した、ゴールドマン・サックスは、1000兆円の利益を得る。この「利益」が、世界大不況の原因である。大量の失業者、第3次世界大戦の危機の原因である。 そして誰も、ゴールドマン・サックスと、リーマン・ブラザースが、「事実上、同一の会社」であった事を指摘しない。ゴールドマン・サックスが、ニューヨーク・ダウの先物を大量に売り浴びせ、ダウが11000ドルを「超えない」=ゴールドマン・サックスの勝利を生み出した、その先物の売買の資金を、ゴールドマン・サックスに与えていたのは、リーマン・ブラザース本人である。 リーマン・ブラザースは倒産して姿を消す。姿を消したものは、誰も非難できない。「自己責任で、倒産し、ギャンブル投機の責任を取った」、と評される。 南軍と戦争を行う北軍の「味方」をしつつ、敵軍に兵器と資金を提供していた、リーマン・ブラザース。 南軍と、北軍は、資金源と兵器の供給源が「同一」であった。 (太平洋戦争の日米の石油も、同一のロックフェラーのスタンダード石油を使ったそうである。その莫大な利益で、ロックフェラーは核兵器を開発し、原発事業を展開する。) ゴールドマン・サックスと、ギャンブル投機で戦争を行う「敵」であったはずのリーマン・ブラザースが、ゴールドマン・サックスに資金を提供していた。ゴールドマン・サックス=リーマン・ブラザースは、資金供給源が、「同一」であった。 ゴールドマン・サックスは、1000兆円を、「持ち逃げした」。世界中の政府・銀行が、その1000兆円の赤字で、倒産しつつある。 現在、倒産したリーマン・ブラザースの、旧経営陣は、「別の名前の、新しい会社を作り」、ギャンブル投機を再開している。この旧経営陣の「新しい」ギャンブル投機会社は、当然、ゴールドマン・サックスの、ビジネス・パートナー企業である。 まぁ、はっきり言えばインチキ不況ということです。 この動画もぜひ拡散して下さい。 (リンク元を参照ください。) 倒産するには大きすぎる銀行 潰れたらどうする? 怖いことが起きるぞ!! などと脅しているが、実際には彼らが所有する銀行がすべて潰れたら、毎日彼らに吸い取られていた私たちの富を取り戻す事ができるのだ。 我々が毎日忙しく、ひぃこら言いながら生きてるのは我々のせいじゃなかった。 誰も悪くないのです。 みんな騙されてるだけなのです。 まぁ、しかし。 ワタスは何だか最近この世界はこれから良くなるに決まってる。 そうとしか思えない。 そういう感覚に包まれています。 これは完全ワタスの妄想ですが。 なんだかワタスの周りは、幸せになってる人が多い。 皆さん、てんでバラバラの人生を歩いてるようでいて、それぞれの道で幸せになってるように見えます。 例えば最近、疎開村で知り合ったカップルに子供が出来たというニュースを貰ったり。 あの八丈島で暮らす島田周明氏にも彼女が出来て新年会でオノロケ会見をしていますた。 忙しい日々の生活。生活に追われてひいこら生きて来た人々。 でも、そんな中でも真面目に歩んで来た人にはご褒美の日々。 プレゼントの日々がやって来てるように見えます。 自分が外に出したエネルギーがすぐに返って来る。 そのサイクルがどんどん早くなっているような気がします。 だから皆さんはデフォルトなんてあんまり気にしないように。 おバカなニュースに惑わされずに。 もうすぐ金融がどうのこうの言わなくても済む世界が来るでしょう。 美しいことに目を向けて。 美しい音楽を聞いて。 心の通う落ち着く人達と触れ合って。 可愛い動物と触れ合って。 ゆっくりと暮らしましょう。 ワタスは、本当に後ちょっとの気がしてます。 本当にありがとうございますた。 ☆ ☆ ☆ 茶番ですな。株で儲けようなんていう人が株で損するんです。株で儲けようとする洗脳で仕込みに騙されてはいけません。はじめは勝たせて、後で数倍も巻き上げるのです。半沢直樹もビックリの手口ですな。
2014年02月10日
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茶番に付き合いたくないので、あまり話題に関わりたくなかったが、やはり都知事選は、結果を見る限り、不正が行われた可能性が濃厚だ。雪で交通が混乱していて、出口調査など恐らく小規模のは除いて、1万件のデータ調査などやっているはずはないと思われるからで、予定通り、ホソカワ票が、マスゾエ票に書き換えられた可能性が濃厚である。 でないと、ウツノミヤ票が2位というのもおかしいからである。まぁ、しかし、ホソカワ、コイズミは、自分たちがこれまで与党のときにやってきたことを、そのままやられたことになったわけで、自業自得という他はないと思う。 自分たちがやってきたことをそのままやられるという法則だけはいかに不正を行おうが、カルマとして働いているからである。 今回不正に加担した連中は、不正をやられる宿命を背負うことになるので、覚悟したらいいと思う。人生を舐めると、痛いシッペ返しを食らうだろう。 警告の意味で書き込みしてきたが、ほとほと馬鹿らしくなったので、もうあほらしくて選挙のことは書くのをやめる。日本人の魂はカネで買われて腐りきってしまったようで、救いようがないと思うからである。 だからオリンピックで金だと騒ごうが、どうでもいい、勝手にしろである。米国や中国やロシアなんか金1個、2個で騒ぐのが馬鹿らしい位なんだから、民主主義も守れないで、何がオリンピックだ、それも1個か2個でまぁアホらしいわけで、オリンピックはみないことにした! 都知事選を民主主義に則って行なうことよりも、たかが1個か2個のオリンピックに大騒ぎするアホらしさに嫌気が差したからである。しかし自民党を出た奴に、自民党を壊すといった奴が大敗したわけだから、人気なんていうものは全く当てにできないことがわかる。もっと負けたタモガミなんか自民党でさえもほとんど眼中になく語るのもアホ臭いというとこなのだろう。せめて涙位流して土下座して欲しいものである。 そういうことでこの話題はもうやめる。日本人は米国人と同じように自らの頭で考えず、獣化していることがわかるので、その警告のために、シオンの議定書について紹介したい。 ☆ ☆ ☆ シオンの議定書 http://denik-bise.blogspot.jp/2008/07/blog-post_5639.html 日本人が知らない 恐るべき真実 第一議定~第二十一議定 第二十二議定~第二十四議定注)翻訳にあるユダヤの文字はイルミナティ(イエズス会)を指すThe shadowy "Illuminati" was in fact founded by a Catholic Jesuit,a professor of Cannon Law, who was working for the Pope- Adam Weishaupt. (闇の「イルミナティ」は、法王の下で働いていたカトリック法の教授で、イエズス会士であるアダムワァイスハウストにより事実上創立された。)PROTOCOLS OF THE WISE MEN OF ZION (ジオンの賢者の議定書)This is an exact reprint of the original text.This has been written intentionally to deceive people. For clear understanding, the word "Zion" should be "Sion"; any reference to "Jews" should be replaced with the word "Illuminati";and the word "goyim" should be replaced with the word "cattle."..."Behold a Pale Horse" by William Cooper pg.267 (これはオリジナル「原本」の正確な再版である。この再版は人々を故意に欺くために書かれた。この再版を本当の意味を理解するなら、文中の言葉「ジオン」を「シオン」に、「ユダヤ人」に関する話を、「イルミナティ」に置き換えて、文中の言葉「ゴイム」を「家畜」に置き換えてみるとよいだろう。ウィリアムクーパー著「青白い馬をみよ」の267ページ?をみるとよいだろう。)William Cooper "Behold A Pale Horse" pg.96,164 I hope you caught on to the fact that the secret power structure is toward a totalitarian socialist state (fascism).It is not the Nazis, as they were a product of this power structure.It is not the Jews, although some very wealthy Jews are involved.It is not the Communists,as they fit the same category as the Nazis.It is not the bankers,but they do play an important role.The target group is blamed for everything that has ever gone wrong.One group, you see,would always be opposed by all of the other special-interest groups that exist and have always existed throughout history.That is, unless they were all really the same group (the Illuminati) or for some reason they became unified (the Bilderberg Group).The one-group scenario, except for the Illuminati, has been used effectively to divert your attention away from the truth.It has caused you to fight each other in a manipulation that always leads the REAL conspiracy closer to its ultimate goal,a New World Order. (ウィリアムクーパー著「青白い馬をみよ」の96、164ページには、秘密の権力機構が、全体主義の社会主義国(ファシズム)の方向性にあるということを知るべきである、とある。 連中は、ナチスではないが、権力機構の産物である(シオンである)。ユダヤ人ではないが、裕福なユダヤ人が関わっている(イルミナティである)。共産党員ではないが、ナチス党と同じカテゴリーに適合する。銀行家ではないが、重要な役割を担っている。 ターゲットとされた集団は、歴史上常に存在し、現在も存在する他の特定利益の集団全ての反対側に位置するように仕向けられ、これまで失敗した全てのことで非難される。 それはつまり、もし、ターゲットとされた集団が全て実際の同じ集団(イルミナティ)でなければ、何らかの理由で、1つの集団(ビルダーバーグ)に統一されるだろう。 イルミナティではないある集団のシナリオは、真実から遠ざけて注意をそらすために有効に利用された。 連中は、その究極のゴール、新世界秩序に密接に関係する現実の謀略を常にリードする操作の中でお互いを戦わせるように仕向ける。) 宣伝相 ゲッペルスがドイツ国民に与えた19の警告 『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』'79 モルデカイ・モーゼ著 訳: 久保田政男氏 抜粋 (注)【一般ユダヤ人】を陥れるために、Roma Vatican、イエズス会/イルミナティが【ユダヤ】に改竄した可能性が非常に高い。 下記【ユダヤ】の文字を世界支配層(NWO)に置換して読んで欲しい。 アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとしたとき、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だった。 『日本では家族制度が強固なため、階級闘争-労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難である。 なぜならば、労働者は失業しても、労働運動などする必要はない。 家族が温かく迎え入れてくれるからである。 この家族制度をなんとかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい』 アインシュタインも 来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に、日本の家族制度の立派さを書いているのである。 かくの如く、日本の家族制度は 類(たぐ)い稀(まれ)な存在であった。 戦前の日本の家族制度には とても及ばないが現在世界中で一番家族制度を強固に有しているのは我々ユダヤ人社会であろうと思う。 この点、我々は常にそれを誇りとしている。ここで日本人にお詫びしなければならないのであるが、この日本の素晴らしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである。 具体的には、占領改革の時ニューディール派が行なった。 先例がある。 ロシア・クーデターの後、ユダヤ勢力はソ連において「婦人固有」政策を押し付けている。 女は家庭に縛られることなく一定の夫に貞操を守る義務がなく子どもは 国家が養育してくれるのであるから母として(子どもを)世話する必要もなく労働に男と同権で参加できる。 今日、ソ連で女が男と同様の重労働に精出しているのはこの名残である。 極端な”動物回帰政策”は当時のニューディーラーの強権をもってしても、日本ではできなかったのであるが、姦通罪をはずすことにより、巧妙に性風俗の低下に拍車をかけ、家族制度の破壊を加速化したのである。 夫婦同権とすれば家庭内に互いに相(あい)譲(ゆず)らざる2人の権力者が出来、その調和を乱し、家族制度の破壊に導くことができる。 家庭内の調和が乱れると核家族化現象も促進されよう。 子は親の面倒を見なくなる。 昔からユダヤ人の間では医師、弁護士になることが勧められていた。 これは、社会的存在によるものではなく、これら二つの職業が、家庭内秘密にタッチする機会の大きいものであり、家族制度の破壊のための武器となる という計算づくのことであった。 『心を置き去りにした日本人 あと半分の教育』 井深 大(いぶか・まさる)氏 ソニ-創業者 以下抜粋 「わが国として気をつけねばならないことは、わが国に向けられている数々の企てである。 それは、愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義 過度の自由要求、道徳軽視、3S(スポーツ・セックス・スクリーン)の奨励、ことなかれ主義の政策、無気力・無信念、義理人情の抹殺、俗吏(ぞくり=役人をあざけっていう語)・属僚(下級役人の仲間)の横行、否定・消極主義、自然主義、刹那(せつな)主義、尖端主義、国粋主義の否定、享楽(きょうらく)主義、恋愛至上主義、家族制度の破壊、民族的歴史観の否定。 以上 19の企(くわだ)てをもって、わが国の持っている非常に理想的なものを潰そうとかかってくる強い勢力がある」〔『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』抜粋〕 私は、この文章を読んだ時、これこそまさに戦後から現在に至る日本の姿ではないかと思い、愕然(がくぜん)としてしまいました。 誰の言葉だと思いますか。実は、これは1934年、ドイツの宣伝相ゲッべルスがドイツ国民に与えた19の警告なのです。 ゲッべルスは、”非常に強力な超国家的勢力”〔すなわちユダヤ人〕が、文明の破壊にもつながる心理戦、神経戦を挑(いど)んできていることを察知し、これに対してドイツ国民は十分に警戒せねばならないと考えました。 この心理戦、神経戦の目的とするところは、人間の誠実性を低めることにより、現存する国家を内部からむしばんでいこうとするものであると判断し、そうした”悪(あ)しき企(くわだ)て”を19の明快な言葉でとらえ直したうえで、国民に向かって警告を発し、抵抗への奮起をうながしました。 ゲッペルスが、これら19の”悪しき企て”を総称して、”人間獣化計画”と呼んでいる点も、日本人の別名 ”エコノミックアニマル”と対応しているようで、大変興味深く思われます。 『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』 '79 モルデカイ・モーゼ著 訳: 久保田政男氏 抜粋 これらが日本人の間に巣食ってしまうと、楽しみはただ「カネ」ということにならざるを得ない。 すべてを「カネ」のために、という思想が強烈なものにならざるを得ないのである。 いわゆるエコノミックアニマルの徹底振りである。 高度成長面のほとぼりも冷めた今日日本人が真剣に取り組まなければならないのはこの精神衛生上の虚無性である。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月10日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 真珠湾もミッドウェーも山本が強引に決行 真珠湾攻撃のときもそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。山本長官の主張とは 「昭和17年(1941年)中に米太平洋艦隊をおびき出してこれを撃滅する。そのためのエサとしてはミッドウェーが最適であり、ここを占領してハワイに脅威を与えればアメリカの戦意は著しく衰え、それによって和平交渉への道が開かれる」 というものであった。 だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。その第一の理由は「占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしい」というものである。ミッドウェーはハワイからわずか1800キロしか離れていないため、ハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、すぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても、日本の奇襲以来ハワイの基地を強化し続けてきた米軍にとって脅威にはならず、米国民の士気に影響を与えることはなく、従ってアメリカが和平交渉を提案することはあり得ない、というのである。 また日本の偵察機の行動半径は20キロにすぎないので、広大な太平洋の真ん中で有効なる偵察任務は果たせない、と反論した。 それよりもニューカレドニア、フィジー、サモア諸島に対する攻撃を強め、オーストラリアとの分断をはかるほうが戦略的価値は高く、アメリカ艦隊も本国基地から遠く離れているので、補給困難に陥るだろうとし、米艦隊をおびき出す目的であれば、オーストラリアが自国の海岸線をおびやかされるためアメリカに救援をたのむのは確実である、と強く反駁したのである。 ところが山本長官は、「敵の空母勢力を撃破すれば自ずから米豪間は分断されるので、まずミッドウェーで敵の空母をおびき出し、これを必ず撃破してみせる」と豪語したのである。山本長官の主張はかたくなにミッドウェー攻撃一点ばりであった。 (最大の戦火と大本営報道された真珠湾攻撃でも敵空母は無傷だったのに、山本のこの発言は自分が無能であることを告白するものである。せめて「敵の空母勢力を撃破」してから発言してほしいものである。) ミッドウェーがアメリカ最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利なことは一目瞭然である。にもかかわらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズヴェルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊をここで壊滅させる約束をしていたからに違いない。 そもそもハワイ真珠湾で航空機による奇襲攻撃を実施し、航空機のもつ破壊力と重要性をわざわざアメリカに教えたことのみならず、生産力では圧倒的に勝るアメリカがこのことを教訓に大量生産のもと、航空戦力の飛躍的増大をはかったことは山本長官の決定的ミス〔実は陰謀〕ではなかろうか。以後アメリカはあらゆる戦局で航空戦を挑み、日本を圧倒していくのである。 ミッドウェー作戦自体も、真珠湾攻撃同様山本長官が立案したものであるが、山本長官の表向きの主張はミッドウェー島の攻略と米空母部隊をおびき出した上で、これと決戦をするという2つの目的であり、首尾よく米空母部隊を撃滅できた場合は、続いて10月頃ハワイを攻略する、というものであったが、真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破壊に導くことであった。 アメリカは充分に航空戦の練習を積み、山本長官のさし出した獲物に向かって殺到したのである。山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。だが山本長官はその反対にはまったく耳を貨そうとしなかった。最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。 (永野は山本に利用されたようである。人情が仇となったようだ。) いくら連合艦隊司令長官が特殊な立場であり強い権限を持っていたからと言っても、大本営軍令部にこれほどまで楯つくことは異常であった。フリーメーソン山本長官はルーズヴェルト大統領〔フリーメーソン33位階〕やチャーチル英首相〔フリーメーソン〕との約束を死守したのである。 ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を壊滅させた山本長官は、次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行ない、自らはアメリカ側と通謀の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。ではそこに到るまでのプロセスを見ることにしよう。 悲劇のガダルカナルを生んだ大本営軍令部 ミッドウェーは太平洋戦争全体を通じてまさにターニングポイントであった。この敗北以来、日本の帝国陸海軍は苦況に陥るのである。それを象徴するのがミッドウェーの海戦であった。 「MO作戦」でニューギニアのモレスビー攻略に失敗した日本軍が、米豪を分断するため、次に戦略的拠点として選んだのが南太平洋ソロモン諸島の主島ガダルカナル島である。この島に飛行場を敷設し、強力な基地航空隊をおけば、南西太平洋の制海権〔制空権ではない〕が得られ、アメリカとオーストラリアの連絡は分断され、オーストラリア北東部は日本軍の攻撃範囲となり、ここに猛攻を加えることによりオーストラリアを厭戦気分に陥し入れ、連合軍からの脱落を誘い、日豪単独講和にもち込むことができればアメリカも戦意を喪失、日米の和平も実現できるのではないかと海軍は考えていた。 (中略) ガダルカナル戦およびソロモン海戦で極めて特徴的なことは、日本軍に戦略というものが全く存在しなかったことだ。山本長官はソロモン海戦においても南雲忠一中将、草鹿龍之助参謀長、原忠一少将、更に後のレイテ沖海戦で「謎の反転」を演じた栗田健男中将などの無能な司令官を投入し、日本艦隊の消耗を加速させた。その分、アメリカ側の被害は最小限で済んだのである。 山本長官はソロモン海戦でも「大和」「武蔵」などの大型戦艦を攻撃隊に加えることなく、戦力の小出し投入を行なった。このため戦艦「大和」はついに「大和ホテル」と呼ばれるありさまであった。 ガダルカナルの空軍基地からは、山本長官の指揮下にあるすべての空母や戦艦など58隻からなる大艦隊と艦載機を駆使して全力投入していれば、奪還は可能であったのみならず、ソロモン海域全体で大きな勝利を手にすることができたはずであった。 戦後『大日本帝国海軍』の著者ポール・ダルは、その中で「山本長官はこの会戦をどう考えていたのか理解しにくい」と指摘しているが、山本長官の行動は良心的なアメリカ人にすら全く理解のできないものであった。 (中略) ガダルカナルおよびソロモン海戦で、日本軍は2万3800人におよぶ地上部隊員の戦傷病死を出し、艦艇の喪失も空母1隻、戦艦2隻、巡洋艦5隻、駆逐艦等25隻、それに航空機の喪失は1053機にも及んだ。 昭和17年12月31日、昭和天皇はガダルカナル島からの撤退を裁可し、翌18年2月1日から7日にかけて、3回の撤収作戦を実施、同島に取り残された飢餓と熱帯病のため生死の境を彷徨いつつあった日本軍将兵1万有余人を救出したのであった。 (中略) 山本長官は昭和18年4月16日、北ソロモン諸島にいる将兵の労をねぎらい士気を鼓舞するためと称し、前線基地視察を計画した。 疑問だらけの死体検案書 こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察のためと称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長らを乗せた二番機もほぼ同時に離陸したが、これを護衛するのは第204航空隊の零戦わずか6機だけであった。 この日、山本長官はなぜか正式な連合艦隊司令長官の軍服ではなく、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身にまとい、護衛機の数を増やすことにも強く反対したという。 山本長官の前線基地視察スケジュールの情報は事前に暗号電報で前線基地に予報された。連合艦隊司令長官の詳細な行動予定が、視察の5日も前に前線基地に伝えられるのは異例のことだった。 ショートランド第11航空戦隊の城島少将は、不用心な暗号電報に憤慨したと言われるが、ご丁寧にもこの暗号電報を受け取った現地指揮官一人は、わざわざ儀礼的に低レペル暗号の無電で関係先に知らせたともいう。 (中曽根ともいわれている。) 米軍はこの暗号を解読して山本長官搭載機撃墜計画を練ったとされるが、むしろ山本長官自身ないしはその側近が、事前に何らかの方法で米軍に詳細な行動予定を知らせていたというのが真相だろう。山本長官はすべての役目を終了し、ルーズヴェルト大統領との約束に基づいて姿を消すことにしたのである。 山本長官を乗せた一式陸攻は高度2500メートルでゆっくりと飛行、6機の護衛戦闘機はその500メートル上空を飛行していたが、ブーゲンビル島南端のブイン基地上空にさしかかったところ、ガダルカナル島ヘンダーソン基地を飛び立ったミッチェル少佐の指揮するP-38米攻撃機28機が午前7時33分、正確に山本長官機と出合った。ミッチェル隊はP-38の航続距離からしてわずか10分間という許容時間で攻撃を開始、山本長官機を撃墜したのであった。 右エンジンに弾丸を受けた長官機は火災を発し、黒煙を吐きながらジャングルの中に落下していった。2番機はモイラ岬沖の海上に不時着、宇垣参課長ら3名は助かったが、長官機は翌19日午後2時頃陸軍の捜索隊によって発見された。 山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰かけ、軍刀を握りしめたままであったとされているが、その死には深い謎がつきまとう。 大本営発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)によれば、死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス 昭和18年4月20日 海軍軍医 少佐 田淵義三郎」として署名捺印がある。 ところが墜落現場を最初に発見した浜砂陸軍少尉は次のように証言している。 「長官はあたかもついさっきまで生きていたかのような風貌で、機外に抛出された座席上に端然として死亡していた……その顔面には創はなかったし、出血の痕もなかった。その発見は墜落後実に30時間前後も経った頃である」 同様の証言は陸軍軍医・蜷川親博中尉も行なっている。蜷川中尉は長官機遭難現場近くの歩兵第23連隊の次級軍医として勤務していた。このため、中尉は救難捜索行動に参加し、長官死体の検視も行なっている。 にもかかわらず、山本長官の秘蔵っ子と言われた渡辺中佐参謀は、事故のあと19日、ラバウルより現地に急行、20日夕刻掃海艇上に運び込まれた長官の遺骸を検死して大本営と全く同一内容の証言をしている。 渡辺参謀の証言内容とは「20日夕の時点で顔面貫通機銃創と背部盲貫機銃創は共にあった。4月18日、機上での戦死は間違いない」というものである。 前出の田淵軍医は「私が検死した時点では顔面に創はあった」「姐(うじ)の侵蝕とは考えられぬ」とし、さらに重要な証言「死後の作為が加えられたかどうか判らない」と言いながらもその可能性を強く示唆している。 ☆ ☆ ☆ というように長々とメーソンをキーワードに紹介してきたが、以下の疑問 1)改革の立役者、維新の志士と呼ばれる人が、外国勢力の支援を受けていたら? 2)もしも軍や政府の高官が敵国のスパイだったら? の答えが、1)は伊藤を代表とする長州ファイブが、上海メーソンのグラバーから支援を受けていたことや、イエズス会との絡みからもわかり、2)は山本五十六、吉田茂らがメーソンリーであったことから、わかってしまうのである。
2014年02月07日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 日本の連合艦隊の撃滅が山本の目的 昭和17年5月、帝国陸海軍はニューギニア進攻作戦を実行する。この作戦の主目的はニューギニアのポートモレスビーを攻略して強固な前進基地を構築し、アメリカとオーストラリアの分断を計り、オーストラリアを孤立させることだった。 この頃、大本営では陸海軍の戦略思想の対立が再び深刻化、陸・海軍省および参謀本部・軍全部で戦争指導計画の再検討が行なわれ、「今後採ルペキ戦闘指導ノ大綱」が妥協によって3月7日に成立した。そして「戦況の許す限り、できるだけ早く占領あるいは撃滅する必要のある地域」として次の3部に分けられた。(1)ソロモン諸島のツラギ、およびニューギニア南岸のポートモレスビーの基地を占領し、珊瑚海とオーストラリア北部の支配権を確立する。(2)ハワイ北西の太平洋上に広がるミッドウェー環礁を一挙に水陸両面作戦により襲撃する。(3)フィジー、サモア、ニューカレドニアを結ぶ線を確保し、アメリカ合衆国とオーストラリアとの直接連絡路を断つ。 このうち(1)と(2)は山本長官の発案だった。計画(1)の暗号名は「MO」、計画(2)は「MI」とされ、この2作戦が失敗した場合、計画(3)は中止するというものだった。 (「M」がついているのが気になる。メーソンのMか、M資金もこのことか?) こうして先ず「MO」作戦が山本長官の強い意志で実行されたのであるが、その真の意図は、この作戦によりアメリカ太平洋艦隊をこの海域におびき出して決戦を挑み、日本の連合艦隊を撃滅させることだった。 驚くなかれ、山本長官の狙いはアメリカの太平洋艦隊を撃破することではなく、その逆だったのである。ニューギニア進攻作戦そのものは米豪連合軍の激しい反撃に遭って挫折、ポートモレスビーの陸路進攻も失敗するが、海路からこの地を攻略するため井上成美中将の指揮する第四艦隊は、珊瑚海において5月7日、8日の両日、アメリカ太平洋艦隊〔司令長官チェスター・W・ニミッツ大将〕と激突するのである。 この海戦で日米はほぼ互角のたたき合いとなり、7日の戦闘で日本側は空母「祥胤」1隻を失い、米側は駆逐艦と油槽艦各1隻、続いて8日は日本側は空母「翔鶴」が被弾、米側は空母「レキシソトン」が沈没、「ヨーククウン」は大破した。 ところがこの時、井上中将はなぜか「ヨークタウン」にとどめをさすことをせず、攻撃を中止して北上するのである。この「ヨーククウン」がハワイの海軍基地に帰り、わずか2日間で修理されて2カ月後に起こったミッドウェー海戦に参加、あの連合艦隊撃滅の立役者となるのである。 この珊瑚海海戦で井上成美第四艦隊司令長官の果たした役割は一体何であろうか。それは「手ぬるい攻撃」によって引き起こされた戦術的勝利・戦略的大敗北に他ならない。 しかも真珠湾攻撃同様、暗号はことごとく米軍によって解読されていた。ニミッツによる空母2隻の急派も日本海軍のMO作戦を全て事前に知っていたからであった。結果として日本軍はポートモレスビーの攻略に失敗、南太平洋の戦局は厳しいものとなり、日本軍の限界を示すものとなった。 なぜ暗号が米軍に筒抜けになるか こうしてミッドウェー攻略作戦は陽動作戦であるアリューシャン作戦とともに陸海軍の合同兵力で推進されることになった。ミッドウェーは太平洋上の最西端に位置する拠点であった。日本にとってもこの地点を攻略することにより東京空襲の阻止はもちろんハワイの再爆撃も可能であった。当然この作戦は秘密裡に、しかも迅速に遂行されねばならなかった。 ところが日本海軍が用いていた暗号はことごとくアメリカの暗号解読班によって傍受され、その全容はアメリカ海軍首脳部に筒抜けであった。日本海軍は秘密保持のため「JN25暗号」を定期的に変更すべきところを怠ったのである。 本来、変更は4月1日の予定であった。これが5月1日に延期され、さらに戦闘開始直前の5月28日まで再延期された。このおかけで米暗号解読班は「JN25」を完全に解読するチャンスを得たのである。 この暗号解読により日本軍が画策したアリューシャン列島への陽動作戦は全く用をなさず、始まる前からアメリカ軍にはわかっていたので、ニミッツは全力をミッドウェーに投入するために迅速な手を打った。6月4目の海戦に備えてフレッチャー少将の率いる第17機動部隊〔空母「ヨークタウン」など〕は日本軍に悟られることなく絶好の位置に待ち伏せすることができた。 山本長官は暗号の変更を延ばし延ばしにし、アメリカ側に「MI作戦」の全貌を知らせた上で日本海軍の総力を投入し、その壊滅を策謀したのである。ミッドウェー作戦には、無能であり、しくじることがわかっている南雲忠一中将や草鹿龍之助少将を最も重要な機動部隊に起用し、自らは後方400キロの北西海上で旗艦「大和」や戦艦「長門」「陸奥」などとともに主力部隊にとどまり、これまた高見の見物をしていたのである。 (将棋を指していたという証言までもある。現場は生死の境なのに、いい気なもんである。) 米太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツは珊瑚海海戦で空母「レキシントン」を失い「ヨークタウン」を大破された第17機動部隊司令長官J・フレッチャー少将をハワイに急遽呼び戻し、さらに珊瑚海海戦に間に合わず無疵でいたハルゼー中将率いる第16機動部隊を合衆国艦隊司令長官E・J・キングの反対を押し切ってミッドウェーに急派、司令長官をハルゼーからレイモンド・A・スプルーアンスに交替させた上で空母「エンタープライズ」と「ホーネット」の2隻を投入した。 ミッドウェー海戦に投入された空母3隻のうち「エンタープライズ」は、真珠湾攻撃のときに取り逃がした空母のうちの1隻だった。 山本長官は常に後方で高見の見物 この時点において日本側は「ヨークタウン」「レキシントン」の空母2隻は珊瑚海で沈没、「エンタープライズ」「ホーネット」もはるか南方海域にいるはずと固く信じていた。 日本側は連合艦隊始まって以来の大艦隊を編成。山本長官の指揮下には空母8隻、「大和」、「武蔵」など戦艦11隻、巡洋艦22隻、駆逐艦65隻、潜水艦20隻など合わせて艦船200隻、総トン数150万トン、さらに飛行機700機を含めて動員数10万人の将兵という堂々たる陣容を形成した。 これだけの大戦力を持ちながらミッドウェー海戦で日本側は大敗北を喫してしまった。この海戦で日本は虎の子の空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を一度に失ったのである。アメリカ側の損害は空母「ヨークタウン」1隻にとどまった。このような大敗北は全く予期せざるものであった。 日本は勝てる戦争を敗れるべくして敗れたのである。敗北の「大原因」すなわち戦略的失敗をもたらしたのは山本五十六であり、それは意図されたものだった。いくつかの予期せざる偶然、悪運が重なったとはいうものの、戦術的「大失策」を犯したのは南雲機動部隊司令長官だった。 南雲は刻々と変化する戦況を的確に判断することができず、逡巡し、誤った判断を下した。本来の目的であったミッドウェー島の基地爆撃も、上陸も果たせず、アメリカの艦隊撃破にも失敗した。 南雲の指揮した空母では帰投して上空で着艦を待つミッドウェー攻撃隊の収容と、第2次攻撃のための爆弾および敵空母攻撃のための魚雷換装をめぐって判断が遅れ、結果的に米艦隊の猛攻を受けて次々と沈没したのである。 (しかもこの後、山本は、自分が責任を負わせられるのを恐れて、南雲を庇ったから最悪の展開となる。) かろうじて山口多聞少将率いる空母「飛龍」が攻撃機を飛ばし米空母「ヨークタウン」に甚大な損害を与えた。6月7日、ハワイに向けて曳航中の「ヨークタウン」を日本の潜水艦が撃沈した。 ミッドウェーで山本長官がなぜ空母部隊のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたのかは一種の謎であった。空母を中心とする機動部隊本務はそもそも制空権の獲得であり、敵機動部隊の撃破もその一環であるが、逆に攻撃を受けた時には艦隊防御能力は極めて低い。 日本海軍の誇る戦艦「大和」「武蔵」「長門」など高い防御能力を持った戦艦群ははるか後方にあって、連合艦隊司令部の護衛などという戦略的に無意味な任務に就いていた。 機動部隊の空母を防御していたのは駆逐艦など数隻であり、その陣容にも大いに問題があった。米機動部隊の陣形が空母中心におよそ1.5kmの距離を保ち、1隻ごとに巡洋艦、駆逐艦を多数配置して輪陣を組み空母上空に濃密なる弾幕を張り、防御能力を最大限に高めていたのに対して、日本の空母は2隻並んでいる上にわずかの駆逐艦を横に配置しているだけであった。これでは空母に対する防御が手薄であり、米機にとっていかにも攻撃しやすい陣形になっていた。 珊瑚海海戦で軽空母「祥鳳」が撃沈、「翔鶴」が大破するという苦渋を味わったのもこの艦隊防空能力の欠如であった。連合艦隊は1カ月前の苦い教訓を生かすことができなかったのだ。 (ゼロ戦も防御能力を著しく欠いた代物である。このことから兵器を売るため、つまり人命よりも、兵器の売り上げが重要だったことがわかる。当時の日本人のほとんどが愛国心などもっていなかったことがわかる。) 日本側が機動部隊に充分な対空防御能力をつけておれば、敵機襲撃に対しても時間的余裕が生まれ、空母での攻撃機兵装を大急ぎで取り替えるという混乱は起こり得なかったであろう。 だが山本長官個人を守るために温存された強力な戦力はついに一度も投入されることなく、大事な空母を米機の攻撃にさらし、海の藻屑と消えさせたのであった。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月07日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 最後通牒を遅らせた大使館員は戦後大出世 真珠湾攻撃にはいくつかの不可解なことが起こっている。1つは宣戦布告の通知が遅れたこと、そしてもう1つは攻撃の不徹底さである。通知が遅れた件に関しては、これは最初からそう仕組まれたものであったと言う他はない。 日本から発せられた最後通牒は時間的にも充分間に合うものだった。東郷外相の訓令は対米宣戦布告の最後通牒の手交をワシントン時間、12月7日午後1時に行なうものであった。ところが野村、来栖大使が実際にそれをハル国務長官に手交したのは午後2時であり、その時真珠湾はすでに猛火と黒煙に包まれていた。最後通牒の手交がなぜ遅れたかについてはもっともらしい説明がつけられている。 対米最後通牒の電報は14通から成り、その内の13通はアメリカ時間の12月6日中に日本大使館に到着し、すでに電信課によって暗号解読され、その日のうちに書記官に提出されていた。残り、すなわち最後の14通目は翌7日早朝〔ワシントン時間〕に大使館に到着、同時に最後通牒の覚書を7日午後1時に手交すべく訓令した電報も大使館には届いていた。 その時の大使館の様子は次の如くであったとされる。●14通の電報は2種類の暗号を重ねたニ重暗号であり、最初の13通は12月6日午後1時から入電を開始、ほぼ同時に専門の電信官によって暗号解読が始まった。午後8時半頃事務総括の井口貞夫参事官が解読作業中の若手外交官たちを誘って行きつけの中華料理店の一室で夕食会を開く。これは寺崎英成一等書記官の中南米転任送別会をかねていた。●7日、早朝13通分の電文タイプを開始。寺崎一等書記官は妻グエンと娘のマリコ、および妻の母とともに郊外にドライブ、連絡もつかない状況であった。●7日の朝、大使館の電信課宿直員で若い熱心なクリスチャン藤山猶一は14通目の電報ともう1通の「最後通牒」の手交時間訓令の電報を入手したが、その日は日曜日であったため、教会の礼拝に出かけ、電信課の責任者であり前夜宿直していた奥村勝蔵首席一等書記官および松平康東一等書記官に対し連絡を怠った。 14通目の電報の暗号解読が7日の何時から始められたかの公式記録はない。だが前日に受信した13通の電報がすでに解読されており、事の重大性に大使館全員が気づかないはずはない。重大であればこそ大使館員全員が待機して14通目の到来を待ち、それ以前の13通分についても事前にタイプを済ませて、いつでもハル国務長官に提出できるようにしておくのが当然であったろう。 だが実際にタイプが始まったのは7日午前7時半頃からであり、14通目の暗号解読が終わったと推定される午前10時頃までは奥村一等書記官によるのんびりしたペースであった。ところが午前11時過ぎに最後通牒の手交時開が午後1時であることがわかり、大使館は騒然となった。だが日本の外務省から秘密保持のためタイピストを使わぬよう指示されていた日本大使館では、慣れない奥村がタイプを打ち続け、終了したのが真珠湾攻撃開始後の1時25分、ハル長官に野村、来栖大使が手交したのは1時55分であった。 この外務省、日本大使館の動きは全く理解に苦しむものである。 まず外務省であるが、わずか残り数行にすぎない14通目と最後通牒文である電報を、なぜわざわざそれまでの13通よりはるかに遅れて発信したのか。さらにこの重要な時期になぜ寺崎一等書記官を転任させる処置をとったのか。またなぜ秘密保持と称して専門のタイピストを使用禁止にしたのか――などである。 大使館側にも深い疑惑は残る。大使館員十数人全員が、まるで事の重大性をわきまえぬ無神経かつ怠慢な動きをとっていることだ。これは一体何を物語るものであろうか。答は2つ。外務省の大使館員は天下一の無能集団であるか、さもなくば確信犯であったということである。おそらく真相は後者であろう。 戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が、帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒手交遅延の責任を明らかにするよう進言したが、吉田は結局この件をうやむやに葬り去ってしまった。吉田茂こそ日本を敗北に導いた元凶のもう一人のフリーメーソンであった。 当時の日本大使館員たちは戦後いずれも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。 (こいつらが本当の戦犯で、裁かれるべき屑である。) 日米開戦の最後通牒が遅れ、真珠湾攻撃が卑怯な騙し討ちになったことで、アメリカ人の世論は開戦派が以前の3%から90%にはね上がっている。日本外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。 不徹底な攻撃で米国を助ける ところで「攻撃の不徹底」であるがそれには2つの意味がある。 1つは真珠湾上のアメリカ海軍艦船に対するものであり、もう1つはハワイ太平洋艦隊海軍基地の陸上軍事施設に対するものである。 真珠湾攻撃で受けたアメリカ太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表された程大きなものではなかった。戦艦8隻のうちアリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後すべて水深15メートルという浅い海底から引き上げられ、修理されて、いずれも戦線へ復帰して大活躍しているのである。 (大本営発表も米国のシナリオに沿って進められたことがわかる。大本営の連中のほとんどがメーソンだったことからもわかる。) また陸上施設については南雲第一航空艦隊司令長官による第1次、第2次攻撃隊は全く手を触れておらず、第3次攻撃隊を出すことも中止している。第3次攻撃に関してはほとんどの艦隊幕僚が実行の提案をし、現に第11航空艦隊司令長官の山口多聞少将は第3波攻撃準備を完了していたが、南雲中将や草鹿第一航空艦隊参謀長や源田参謀はおろか、はるか後方の旗艦「長門」で高見の見物をしていた山本五十六連合艦隊司令長官までがその必要性を認めていないのである。 (連中のほとんどがメーソンのようである。) もし、この時第3次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、さらにはアメリカ海軍基地の補給、修理施設、工場群、燃料タソク群を破壊しておれば、太平洋の戦局は大いに変わったものとなったであろう。 ハワイがアメリカの太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であったことを考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異なものであると言わなければならない。ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば、アメリカ本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、アメリカの太平洋艦隊は身動きがとれなかったのである。 さらにもう1つつけ加えるならば、ハワイ攻撃の日がなぜ12月8日であったかということだ。もちろん日米交渉の行き詰まり、最後通牒の日程上この日になったというのは1つの説明であるが、山本長官が、この日は真珠湾にアメリカ空母がいないことをあらかじめ知っていたからであろう。 (12月8日は、「聖母被昇天の大祝日」に当たるそうである。これには以下のような話があるのでここに抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ もし第二次大戦が仕組まれたこととして、戦後の日本の支配をカトリックに委ねる計画であったなら、これから述べる3つの日にちの一致も十分納得できます。 カトリックの司祭である志村辰弥氏著「教会秘話」によれば、戦争を開始した日本時間の12月8日は、カトリックの「聖母マリヤの無原罪の祝日」に当たるそうです。〔プロテスタントではマリアは無原罪ではありませんが、ここではそれ以上述べるのはやめます。〕 そして戦争の終わった8月15日は、「聖母被昇天の大祝日」に当たるそうです。さらに1951年のサンフランシスコ講和会議の調印式が、「聖母マリアのご誕生の祝日」に当たる9月8日に行われたといいます。 実際にカトリックは、1949年に行われた「ザビエル渡来400周年記念祭」に向けて日本をカトリック化しようとしたらしいです。 (カトリック化というよりは、メーソン化、イルミナティ化だろう。) その手法は、同じ年に行われた昭和天皇の九州巡幸において、天皇とカトリックを強力に結びつけるというやり方だったようです。しかしこの計画は失敗しました。〔このことに関しては鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」に詳しいです。〕 日本はクリスチャン人口が非常に少ないため、キリスト者の背教についてほとんど分かりません。しかし欧米では教会活動は形骸化され、本当の信仰者が少なくなったといわれています。ルシファー教というのに気づいていないだけ、ルシファー教信者が減ったのは良い傾向である。 ☆ ☆ ☆) 山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初からなかった。日本がアメリカを奇襲攻撃し、「卑怯な日本」という既成事実をつくればそれでよかったのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月07日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ この戦争指導者たちがユダヤ(ニセモノ)の手先である 太平洋戦争の全容は実に膨大であり、その戦闘の1つ1つを語ることは数十冊の本をしても不可能に違いない。 (中略) それぞれの戦局で日本軍を敗北に導く役割を果たした主な人物たちは次の通りである。● 米内光政 ………海軍大将、海軍大臣、首相。フリーメーソン● 山本五十六 ……連合艦隊司令長官、海軍大将・元帥。フリーメーソン。● 南雲忠一 ………真珠湾攻撃時の第一航空戦隊司令長官、海軍中将、ミッドウェー海戦時の第一機動部隊指揮官。● 源田実 …………第一航空艦隊参謀、海軍大佐。● 井上成美 ………海軍軍務局長、第四艦隊司令長官、海軍中将。● 原忠一 …………真珠湾攻撃時の第五航空隊司令官、海軍少将。● 服部卓四郎 ……大本営参謀作戦課長、陸軍大佐。● 辻正信 …………大本営参謀本部作戦課参謀、陸軍大佐。● 瀬島龍三 ………大本営参謀本部作戦評参謀、陸軍中佐。● 牟田口廉也 ……支那駐屯歩兵第一連隊長、ビルマ方面軍第一五軍司令官、陸軍中将。● 栗田健男 ………第二艦隊司令長官、海軍中将。 勿論、彼らだけが全てではない。日本の陸海軍の組織は複雑な派閥で形成されており、人脈は網の目のようにはりめぐらされていたから、日本軍が敗北していく過程には何百人、何千人という多くの協力者が暗躍したのである。 重要なことは、日本軍や政財界の中には、日本が天皇制軍事国家であることを望まず、米英(ユダヤ)やソ連(ユダヤ)と通謀して日本の国体破壊にひたすら協力した者が大勢いたということである。 (これらの人物のほとんどが戦後自決させられたのは、口封じのためであろう。) 東京裁判でも裁かれず戦後は英雄扱い 戦後、太平洋戦争を振り返って多くの本が出版されている。戦記ものから人物伝、敗北の原因探究を行なうもの、戦争の反省など無数とも言える書物が存在する。だが、日本の敗北が日本人自身の手によって現実化されたことを指摘する本は少ない。 それどころか、真の戦争犯罪者は極東軍事法廷〔東京裁判〕でも裁かれず、戦後数々のフリーメーソン作家によって「英雄」または「偉人」として最大限に賞賛されている。米内光政や山本五十六、井上成美などがそうである。 日本人は戦後においてもまだ歴史の真相を知らされず、騙され続けているのだ。太平洋戦争敗北の原因は、多くの研究家によって一般的に次のように分析されている。● アメリカを敵としたこと。● 真珠湾攻撃によるアメリカ兵の士気高揚。● 大本営による机上のプラン〔前線の実状無視〕。● 戦線の拡大、兵姑(へいたん)の無視。● 兵器(含レーダー)の発達無視。● 戦略なき戦術論。● 銃剣突撃、決戦主義(精神主義)。● 暗号の漏洩(日本はスパイ天国であった)。● アメリカ本土での諜報線を断たれた(日系人の強制収容)。● 潜水艦の使用法錯誤(米潜水艦は徹底して日本の補給線を断った)。● 航空機の戦略的位置づけ錯誤(米航空機により制空権を奪われた)。● 大艦巨砲主義から脱却できなかった。 これらの分析は一応みな正しい。だが、知らずしてか意図してかはわからないが、戦後の歴史家、研究家が掲げていないもう1つの原因がある。それは日本人のなかにいた「敗戦主義者」の存在である。彼らこそが歴史の深層に隠された最大にして最悪の原因だったのである。 大本営参謀本部、軍令部の高級参謀たち、そして陸海軍の将官、司令官たちがいかなる行動をとり、日本を敗北に導いたか、その軌跡をたどることにしよう。 骨の髄まで親米派のフリーメーソン 山本五十六は明治17年4月4日、新潟県長岡の玉蔵院町に六男として生まれた。父・高野貞吉はすでに56歳に達していたので「五十六」と命名されたという。山本姓を名のるのは少佐時代の33歳のときに山本家の養子となってからである。 (中略) 大正2年12月には巡洋艦「新高」の砲術長となるが、砲術学校時代には海兵29期で五十六より2期上の米内光政と交誼を深めた。米内も教官として赴任しており、五十六とは同じ部屋に起居している。二人はことごとく波長が合ったと言われるが、のちに米内海軍大臣、山本次官のコンビで、陸軍がすすめる三国同盟に真っ向から反対することになる。 大正5年海軍大学を卒業、第二艦隊参謀となるが病気で休職、続いて同6年、海軍省軍務局第二課を経て8年5月20日、米国駐在となって横浜を出港した。アメリカではボストンのハーバード大学に籍を置き英語力を身につけた。 大正末から昭和の初めにかけては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。米国在留中に五十六は中佐に昇進、アメリカの産業やヤンキー精神に強く瞠目するが、五十六がフリーメーソンに入信したのもこの頃と思われる。五十六は在任中にアメリカで石油および航空軍備について強い影響を受けた。 大正7年に五十六は帰国、10年から12年半ばまで海軍大学の教官に任じた。その後9カ月の欧州視察旅行を終え、大正13年3月帰国。そして1年3カ月後、五十六は三たび渡米。アメリカの日本大使館付武官となった。戦前の海軍でこれほどアメリカと縁の深い軍人は他にいないのではないか。 山本五十六が骨の髄まで親米派となる過程は、このようにして造られたのである。 空軍の重要性を熟知しながら設立を拒否 山本五十六は戦術兵器としての戦闘機改良には大いに貢献したと言えるが、海軍の航空化には賛成しても、空軍の独立には一貫して反対であった。 イギリスではすでに大正7年(1918年)に空軍を独立、ドイツでもナチス政権が昭和10年(1940年)には空軍を創設していた。 あれほど航空戦力を重視した五十六に、空軍独立の必要性と重要性がわからなかったはずはない。山本五十六は意図的に日本空軍の創設を拒んだのである。 その狙いは2つあった。1つは、日本が独立した空軍を持つことで〔米英軍に対して〕戦略的な優位に立つことを恐れたからであり、もう1つは、来たるべき対米戦で真珠湾攻撃を行なう際に、すべての航空戦力を自分の指揮下に置いておくためであった。 日本の航空戦力を海軍の補助戦力として位置づけることによって、日本は確実にアメリカよりは劣勢でいることができる。フリーメーソンの山本五十六はそのように考えたに違いない。 海軍大学校教官・加来止男中佐〔のちに空母「飛龍」艦長。ミッドウエー海戦で艦と運命をともにした〕と陸軍大学校教官・青木少佐は連名で、陸・海大学校長あてに空軍独立の意見書を提出するが、山本五十六を本部長とする海軍航空本部はこれに対して、正式に空軍独立反対を表明するのである。 (三菱からマージン「賄賂」を貰うためだろう。海軍が輸送する石油利権や麻薬利権も絡んでくるからである。飛行機で輸送されたら利権を失うからである) 真珠湾奇襲攻撃でルーズヴェルトに協力 連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は日米開戦はもはや避けられないものとして、いつの間にか真珠湾攻撃を口にするようになる。 欧州ではすでに昭和14年(1939年)9月3日、第2次世界大戦が勃発してドイツが破竹の進撃を続けていた。欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトの基本戦略であった。 ルーズヴェルトは英首相チャーチルと共謀して日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激昂させ、その怒りで対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。 フリーメーソン山本五十六はルーズヴェルトとチャーチルに協力してハワイ奇襲攻撃の構想を練ったのである。 山本五十六が連合艦隊司令長官に就任して半年あまり経った昭和15年3月、真珠湾攻撃を想定した実戦さながらの雷撃訓練が行なわれた。五十六の計画の中には、すでに機動部隊による真珠湾攻撃の具体的構想があったのである。 ハワイ奇襲攻撃の猛訓練は鹿児島県志布志湾を中心に行なわれた。こうして訓練に訓練を重ねた第一航空艦隊〔空母6隻を中心とした機動部隊。司令長官は南雲忠一中将〕は択捉島単冠(ひとかっぷ)湾に集結、昭和16年(1941年)11月26日、秘かにハワイに向けて出航した。 日本時間12月8日午前3時25分、6隻の日本空母から発進した第一次攻撃隊183機は、ハワイ・オアフ島パール・ハーバーにあるアメリカ太平洋艦隊の基地を奇襲した。 アメリカ大統領ルーズヴェルトはこの奇襲攻撃を事前に知っていた。日本の外務省が使用していた「紫暗号〔パープル〕」はアメリカに筒抜けであったが、この裏には日本に暗号解読の協力者がいたと見なければならぬ。 真珠湾に集結していた米太平洋艦隊は、主なもので戦艦が8隻、重巡1隻、軽巡3隻、そして駆逐艦5隻で、総計17隻であった。 不思議なことに空母レキシソトンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはやはり飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガはアメリカ本土西海岸にいたために無事であった。 被害を受けた戦艦はいずれも1910~1920年代に就役した旧式艦であり、しかも攻撃し易いようにわざわざ真珠湾に沿って一列に並べて停泊してあった。戦艦アリゾナは撃沈、他の艦は転覆、海底沈座、大破、中破、小破などの被害を受けたが、真珠湾は海底が浅く、海底に沈座した戦艦等はいずれも引き上げが容易で、短期間のうちに修理、再就役し、太平洋戦争中期からは攻撃力を発揮したのである。 (米海軍の老朽艦のスクラップや再生処分を手伝わされただけである。新たなる兵器開発「原爆」予算もとれるのだから、ルーズベルトや米海軍は悦んだに違いない。米国民は騙されたわけだ。実際、原子力は、米海軍から三菱らに引き継がれているわけだ。) こうしてみると真珠湾攻撃というのは一種の茶番劇であったことがわかる。山本五十六は真珠湾攻撃の「大成功」により英雄視されているが、その結果残ったものは「日本の卑怯な騙し討ち」という非難と、アメリカの対日積極参戦の意識高揚、そして今も観光地ハワイの真珠湾海底に沈む戦艦アリゾナの残骸だけである。この時死んだアメリカ兵2403名は今でもアメリカ人にとって対日憎悪の原因となっている。 (この時死んだアメリカ兵2403名はルーズベルトに殺されたと思うべきだろう。この理由で、広島、長崎に原爆投下して30万人もの死傷者を出すのだから、ルーズベルトというのは悪魔という他ない。 なぜ、広島、長崎なのだろうか? といえば、イエズス会が仏教徒に追放された土地だからである。つまり、原爆投下は、仏教の反ルシファー教に対する見せしめなんである。その見せしめが効いたので、日本にルシファー教が布教しているというわけである。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月07日
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アホのアホノミックスなるものを考えると、山本五十六の真珠湾攻撃とミッドウェイ海戦を思い出してしまう。 というのは、次の2つの疑問 (いつも一緒(旧Legacy of Ashes)http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/からの抜粋紹介。) ☆ ☆ ☆ 1)改革の立役者、維新の志士と呼ばれる人が、外国勢力の支援を受けていたら? 2)もしも軍や政府の高官が敵国のスパイだったら? ☆ ☆ ☆ が、フリーメーソンというキーワードですんなりと、日本史の裏舞台をまざまざと炙り出してくれるからである。 ルーズベルトが、メーソン最高位の33位階だったことはネットでは有名である。なぜメーソンは33位階なのかは、人間の背骨の数に由来している話はドーリルの話から以前紹介した。 以前紹介した、渡部悌治(わたなべ ていじ)氏『ユダヤは日本に何をしたか』から、山本五十六が位階は不明だが、メーソンリーだったことがわかっている。 ☆ ☆ ☆ 山本五十六フリーメイソン説(144P) 山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。 しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。 (略) 山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴(まみあな)にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。 (略) 山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり、 国全体がユダヤ諜報網の中に(146P) 戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。 またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。 日本に張りめぐらされていた敵国のスパイ網は、ミッドウェーの完敗を喫したように、誰かが写真に撮り、誰かが盗聴し、それを集めて誰かが通報するようなスケールの小さいものばかりではなく、はるか以前から計画的に仕組まれ、長年かかって出来上がった全日本的なものが多く、単に一回的なものだけではなかった。 ミッドウェー海戦では、日本の攻撃の日時から空母の接近する方角まで通報されていた。戦時における機密の重要性と情報の漏洩の結果とはどのようなものか--- なにもチャーチルに聞くことはない。日本はそれによって再起不能になった。ミッドウェーにおける敗戦は、ウルトラ=米軍の対日暗号解読作戦によったものではない。 最も怪しい人物は、ユダヤ問題の犬塚惟重(いぬづか・これしげ)と国際連盟に籍をおいた稲垣守克(いながき・もりかつ)とである。 彼らが通報したのである。日本の財閥と称されていた者たちが、実はユダヤの出店であり、日本の大会社や一流商社(三菱、三井など)が彼等の資金によって賄われ、大工場等諸施設までが、全て技師を装った敵側の諜報員たちによって設計されてあったのだから、日本の国全体がそのままそっくりユダヤの諜報網の中にあった。 (ワーバーグの子という噂の白州次郎などは三菱子会社の船で、ロックフェラーのスタンダード石油からパナマ湾経由で石油を借り受け、アジアから略奪した金塊で支払い、暴利を貪っていた話は以前紹介した。) ☆ ☆ ☆ そもそも日露戦争も、ヤコブシフというユダヤ人に高橋是清が戦費を借りてやったことで、ユダヤにはじめから嵌められていたわけである。 その話は以前紹介したイエズス会とフリーメーソンの以下の話からよくわかる。 ☆ ☆ ☆ ザビエル=ローマ法王の僧兵団(イエズス会)の一員 http://denik-bise.blogspot.jp/2009/03/blog-post.html 徳川将軍の切支丹(ルシファー)禁止令の結果としてイエズス会は、日本からその後250年間追放された。 そしてその措置が日本民族に対して、技芸と、繁栄と、平和とをもたらした。 しかし将軍や、彼の家系も、日本の国民も、切支丹禁止令のために手ひどい仕返しをされるとは、ほとんど予知できなかった! 常時謀略が企てられ、永遠に報復が仕掛けられる。 1854年、イエズス会は(メーソンリーの)ペリー准将の率いるアメリカ艦隊を使って日本を開国(商業化)させた。古き敵に対して復讐するために、外国勢力を使って、1868年の(メーソン)革命を作り出した。 徳川将軍は“権力を不法に簒奪した者”という悪名を付けられ、辞職するように強制され、徳川将軍家は15代で終焉した。 将軍家を追放した後、イエズス会は、天皇崇拝を復活させ、東京(上智大学の前身など)に、イエズス会の将棋の駒たる明治天皇を頂点とする中央集権国家を樹立した。 (明治帝はガーター騎士団員になる。) 1873年、キリスト教(ルシファー)禁止令が撤廃されるや、イエズス会は公式に日本への入国を許可された! 1874年、イエズス会宿命の敵たる仏教は、正式にその特権を剥奪され、天皇はもはや、長年の国教であった仏教を保護することをやめた。 この新しい絶対権力をもって、1945年までその“教会の日本刀”を行使する。 彼らは天皇の軍隊をもって、イエズス会の二つの旧敵、すなわち中国(1895年)、ロシア(1905年)に対する戦争を起こさせた。 (ヤコブシフをして、戦費を口実に日本に借金させた。) 北京の満州王朝は1700年代にイエズス会を追放し、モスクワのロマノフ王朝の皇帝は1820年に同じことをした仕返しではないか。 1941年、今度は日本人が報復を受けるべき時が来た。 ローマのイエズス会は総長の監督下で、東京のロヨラの息子たち〔イエズス会の兵士たち〕は、米国と日本の間の戦争を作り出す。 フリーメーソン、シュライナー位階によるルーズベルト大統領が完全に承知している状況の中で、真珠湾は東条の日本艦隊によって爆撃される。 (山本五十六もキリスト「ルシファー」教と関係が深い) そして、それは全米国民に惨劇の嵐を巻き起こす。〔米国〕議会は、この謀略にうまうまと嵌められて、対日宣戦布告を議決する。 天皇は、彼の絶対君主制を失った。太古からの文化を保有する日本は破壊され、日本人は国家的敗北の結果、未曾有の屈辱を受けた。 そしてそれからイエズス会は、日本をハワイのように彼らのアメリカ帝国に併合し、その保護と繁栄が完璧にワシントンDCに従属する如き、社会主義的商業的植民地を造り出した。 (現在も米国は、英王室とバチカンが名義上の所有となっているそうである。これはジョージタウン大学とイエズス会の関係が深いことからも連想できる。) ☆ ☆ ☆ さて、山本五十六と、ヨハンセングループの吉田茂はメーソンで有名で、悪魔の申し子といえる人物である。山本五十六の死には吉田茂が関与している事実が濃厚であるが、とりあえず、山本五十六が日本の敗戦を導いた話を紹介する。 ☆ ☆ ☆ いつも一緒(旧Legacy of Ashes) http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/ 『山本五十六は生きていた』 忍野昭太郎氏 以下抜粋 ミッドウェー環礁-- ハワイの北西1800キロ約10キロにわたって広がる小さな島嶼(とうしょ) 島嶼=(「島」は大きなしま「嶼」は小さなしま)大小のしまじま この地点を攻略できれば(の話だが)東京大空襲の阻止はもちろん、ハワイの再爆撃も可能であった。 ミッドウェー攻略作戦は秘密裡・迅速に遂行されるはず。 -- ところがなぜ暗号が米軍に筒抜けになるか-- 山本五十六長官は暗号の変更を伸ばし伸ばしにしアメリカ側に「MI作戦」の全貌を知らせた上で日本海軍の総力を投入し、その壊滅を策謀したのである。 日本は勝てる(とはわからなかったが)戦争を敗れるべくして敗れたのである。 真珠湾攻撃の時もミッドウェー攻略作戦も山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。 -ミッドウェーが、アメリカ最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利なことは一目瞭然である。 にもかかわらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズヴェルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊をここで壊滅させる約束をしていたからに違いない。 そもそもハワイ真珠湾で航空機による奇襲攻撃を実施し、航空機のもつ破壊力と重要性をわざわざアメリカに教えたことのみならず、生産力では圧倒的に勝るアメリカがこのことを教訓に大量生産のもと航空戦力の飛躍的増大をはかったことは山本長官の決定的ミス-実は陰謀 ではなかろうか。 (解体寸前の古くなった老朽艦ばかりが攻撃された。911と同じ。) フリーメーソンの山本五十六長官は、フリーメーソン33位階のルーズヴェルト大統領やフリーメーソンのチャーチル英首相との約束を死守したのである。 (チャーチルがはじめた有名なVサインはアレスタークローリーの発案ともいわれるが、恐らくメーソンであることの印に思われる。ギリシャでは、相手に手のひらをみせることは侮辱のジェスチャーとされているが、恐らく古代の悪魔召喚の儀式からきているように思える。) ☆ ☆ ☆ また、次回から紹介していくが、「山本五十六は生きていた(1) 負けるべくして始まった太平洋戦争 ヤコブ・モルガン・著 第一企画出版 1995年刊」のような話もある。この本は、恐らく、ユダヤ側のリークで書かれているので、鵜呑みにしては駄目である。 連中のリークの手口は、前半に真実を暴露して、読者を信じ込ませ、巧みに虚偽の論理に乗せ、結論では真実とは全く逆の嘘を信じ込ませるように誘導するからである。 つまり、結論部分はほとんど無視するか、生物統計学の帰無仮説のように、結論とは逆の対立仮説を自分で導きだすか、結論から逆に読んでいけば、連中が何を目論んでいるのかがわかる。 というわけで、この本の結論は全く信用できないものだが、特に坂本龍馬などという架空の脚色した人物を持ち出しているところなどは日本史の知識の無さを露呈しているが、所々には真実と思われる部分もあるので、抜書き紹介する。 坂本龍馬のモデルとなった人物を調べると、仏教徒で、イエズス会を酷く嫌っていた人物だったそうである。そもそも朝廷は大陸からきた藤原氏の末裔なので、仏教信仰に篤いから、キリスト教を嫌悪していたはずなのである。だからメーソンなどに入るわけがない。 つまり孝明天皇の西欧嫌いは、キリスト教嫌いであり、そのことは清帝国やロシア帝国がイエズス会を追放したことからもわかる。つまり、朝廷も、清やロシアに倣って、嫌悪していたにすぎない。 だから当時の尊皇攘夷とは、親仏教反キリスト教だったはずである。それを後年書き換えたのがニセユダヤであり、メーソン-キリスト(ルシファー)教なのである。敵対していた人物を殺して、英雄に仕立て上げるのが連中のやり方なんである。 いずれにしろ、連中が何を目論んでいるかが、山本五十六という人物を通じてよくわかるので、次回から紹介する。
2014年02月06日
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前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 芸術家もモデルを模写したりして、外(物質)的な対象に依存することに次第に慣れていき、芸術は次第に外(物質)的な感覚の研究に没頭することに慣れていった。芸術や教育も次第に外(物質)的な感覚に没頭していくのが、これまでの社会の指導者層の通例だった。 自らの精神の意識から創造し、芸術の手段によって、自らの精神を表現する能力が次第に失われていった。大衆は専ら自然主義に向かい、外界での自然の表現を模倣しようとする。というのは抽象的な概念やイメージのようなものからは、独自に何も形成できないからである。 近代芸術の発達を考察すれば、このような事実を様々な場で実感できる。近代の芸術は次第に徹底して外に見える形を表現するように努力してきたが、その努力は印象主義において頂点に達した。 印象主義以前の芸術家たちが、外的な対象物を、芸術の中で再現しようとした努力を受けて、それを最後まで徹底させようとした印象主義者たちは、次のような見解に達した。 「目の前の人物や風景を描く際、それを忠実に再現するにはどうすればいいのか。例えば、森の前に立つとき、太陽が森を照らしてくれるが、しばらくすると太陽の輝きは以前とは変化する。忠実に再現しようとするなら、対象物のなかの一体何を捉えればよいのか。 外界が示してくれるものは、決してその通り(静止した状態)には捉えられない。というのは、どの瞬間にも別の表情に移り変わっているからである。描こうとする人物も、笑っているかと思うと、次の瞬間には、しかめっ面をしている。 では一体何を描いたらいいのか。笑っている顔の上にしかめっ面の顔を重ねて描くべきなのか。」 外にある対象の一瞬の姿を表現するなら、その対象を静止したままでいるように強制しなければならないが、自然は決して強制などされないから、代わりに、人間をモデルとして強制し、望むポーズをとらせる。 (統計学もこれと全く同じである。) しかしそうやって自然を模倣しても、その対象は硬直した印象しか与えないから、どうしても、忠実な模写はできない。 -そこで印象主義者たちは移りゆく自然の一瞬の印象だけを捉えようとした。しかしそうなると、もはや完全に自然主義とは言えなくなる。 こうして芸術家は自然主義に徹するために、印象主義に向かうが、印象主義はもはや自然主義であることが叶わなくなった。そこで逆転の発想が起こった。 印象主義者の中の何人かはもはや、外的な印象ではなく、どんなに原始的であっても内から立ち現われてくる印象を表現しようと試みるようになった。内なる印象をしっかりと捉えようとした。この人たちは表現主義に辿りついた。 そして、これと同じ経過が、道徳や法の分野にも観ることができる。様々な場で抽象的な精神への偏愛が現われてきた。近代的な人間の発展を正しく観ることができれば、様々な場で、表現の抽象化への努力を認めることができる。 近代プロレタリアート(一般庶民)の場合、このような努力から何が生じたのか? プロレタリアートが機械の前に立たされ、無情な近代資本主義の中に組み込まれたとき、運命全てが経済に結びつけられた。市民たちに、芸術上の自然主義をもたらしたのと同じ思想、感情がプロレタリアートには、唯物史観をもたらした。 プロレタリアートは様々な場で、市民社会の内部で形成された表現主義から最後の帰結を引き出した結果が今、市民社会を酷く脅かす様相を呈している。 市民社会の内部で、人間はどのような形で宗教と関わってきたのか。以前は少数だが、キリスト教神秘主義の先祖返りのような暗い観念をもっていた。今日の抽象的な概念に堕落した精神では、もはや、キリスト原理(人類愛を基盤とする個別的自我)についてのどんな観念をも作り出すことができない。 だからキリスト教の発展の始めの頃の人間には、感覚界内部(概念)で演じられた偶像、つまり本当のキリスト教ではなく、単なるニセモノのイエス教の教えだけが問題とされてきた。 (イエズス会の名称からわかるように、ニセモノであり、ルシファー教のルシファー会が正式名である。つまりイルミナティがイエズス会の正式名である。) キリストは次第に一人の「人間」の個性として考察され、他方で、超感覚界に属するキリストは人間の視野から次第に消えていった。 抽象(概念)的な魂では、キリストへの道を見つけ出すことは不可能だった。イエス(偶像)への道で満足していた。プロレタリア(一般人)の意識はそれを見て何を感じたのか? プロレタリアート(一般庶民)は次のような結論に達した。 「-一体何のために、イエスの独特の教え(イエス教)を必要としているのか? ブルジョア(少数の支配者)たちはイエスをナザレの素朴な(普通の)男(人間)と既に認めている。もしイエスがナザレの男なら、イエスは我々と同じ人間にすぎない。我々は経済に依存しているが、なぜイエスが経済に依存していなかったと言えるのか? イエスが単なるナザレの素朴な男で、彼が置かれていた経済状況に従って教えを告げていたのなら、その彼をなぜ新しい人類の創始者と呼ぶのだろうか? 彼を救済者とするならむしろ、キリスト教創設期の経済状況こそを研究すべきである。そしてその当時のパレスチナの経済制度に従って仕事をやめた彼のような素朴な職人が、放浪の日々に様々な考えを語った際の経済状況こそを研究すべきであろう。 そうすればなぜイエスがあのように語ったのかが理解できるはずである。」 近代プロテスタント神学の最後の帰結は、以上のような陳腐な唯物論的なイエス論なのである。 (要するに現代のキリスト教はイエス教であって、ニセモノのルシファー教なんである。) ヨハネ福音書講義 イエス教(改変) 宇宙の秘密を知る者にとって、この書(ヨハネ福音書)は人類至上最高度に意味深い文献の1つである。なのに霊学上これほど重要な文献が、時代が下るにつれて、特に神学の研究者により、他の三つの福音書よりも、次第に無視されるようになっていった。(ヨハネ福音書講義 P7-P8) (神学の研究者の大半がルシファー教「イルミナティ」だからである。) 現代の神学書や説教の中で語られているのは、次のような悪魔の叫びである。 「我々はもはや超感覚的な(キリスト)原理などに訴えかけたりはしない。最初の三つの福音書が語るイエスが本当のイエスの姿だ!」 その叫びには、他の人間と似た「ナザレ出身の素朴な男」のことが語られている。 多くの神学者にとって、この素朴な男こそが理想となった。歴史上の出来事を一般の人間の出来事と可能な限り同列に置こうとする。 ヨハネ福音書の描くキリストのような崇高な存在が、一人突出している、というのは、神学者たちの神経を逆なでするので、ヨハネ福音書はイエスを神化して、ナザレ出身の素朴な男を神として崇仰している、と非難することになる。 単なる素朴な男の方が、神学者たちに都合がいいのである。そうすれば、イエス・キリストをソクラテスのような、偉大な人間の一人として語ることができるからである。 (神学者は自分たちが語れることで、権威付けができるから。自分のために、神を利用したいだけである。) イエスは他の偉人たちとは本質的に異なる存在だが、「ナザレ出身の素朴な男」として語れば、(自分たちのように)通常の陳腐な人間性を基準にして語ることができる。今日のいわゆる「啓蒙神学」の立場で書かれた無数の神学書、神学論文が「ナザレ出身の素朴な男」について語るときには、数百年来の唯物論的な感覚が生きている。 この立場は、物質的、感覚的なものだけが実在し、それだけが意味を持っている、と信じる空虚な概念思考の賜物なのである。 感覚界を超えた超感覚界に参入できた時代の人々は、外(3次元界の物質界)から見れば、歴史上の偉人たちとナザレ出身の素朴な男とを同列に比較できるが、そのナザレのイエスの中の、眼に見えない霊的な存在(キリスト)に同調できれば、この男のなかの霊が、人間とは比較できない完全な存在であることが認識できた。 超感覚界への同調力を失った人は、平均的な人間性を超える能力全てが理解できなくなった。その結果が、(唯物論的な)宗教観の中に顕著に現われている。唯物論は初めに、生活上の宗教に口を挟み、教義をつくって干渉し、働きかける。(P11-P12) パウロの学院(改変) エソテリック(密教的)なキリスト教は、エクソテリック(顕教的)なキリスト教と並んで、密かに存在してきた。しばしば述べたように、偉大な使徒パウロは様々な民族にキリスト教を伝えるために、燃えるような力強い宣教活動を行ったが、同時にエソテリックなキリスト教の一派を立てた。 使徒行伝第17章34節に引用されているアレオパゴスのディオニシオはその派の代表者である。 アレオパゴスのディオニシオス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%82%B9 直接パウロ自身がアテネで設立したこの教派において、純粋な霊学が教えられた。 このエソテリックなキリスト教は、次の教えを大切にした。 「-覚醒時の人間は、肉体、エーテル体、アストラル体および自我から成り立っている。」 勿論、今日の人智学の用語と同じではなかったが、そんなことは重要ではない。いずれにせよ、この四つの構成体を持つ人間が、どのような進化の過程を辿ってきたかが伝授された。(P31) ☆ ☆ ☆ 自らの意識のなかで、自らの神殿を打ち立てるべきである。バチカンにあるものはニセモノで、ニセユダヤが運営しているのがその証拠である。悪魔に魂を売り、権力の虜になっている腑抜けたゾンビにすぎない。人類牧場の少数の支配者を決めるゲームに現を抜かしているのである。
2014年02月06日
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一連のアホの洗脳された歴史認識や「従軍慰安婦」問題などの発言で、日本の国際的信用を失墜させているが、その背景には、日本の古い集合自我と西洋由来の新しい個的自我の葛藤があることが、シュタイナーの話からわかるので、以下に抜粋紹介する。 つまり、日本のなかで、古き東洋と新しき西洋が衝突している。それはつまり、逆説的にいえば、新しき西洋に古き集合自我を還元させ、古き東洋に新しき個的自我を演繹する役目を日本が担っていることでもある。 例えば、原発問題はその端的な一例である。原発再稼動は古い集合自我がもつ意識の典型であり、新しいエネルギー獲得への孤独な闘いは、新しき個的自我がもつ意識の典型であるからだ。 日本はいま精神(文化)の葛藤の最前線になっている。この葛藤のなかに一筋の光を探すべきである。 簡単にいえば、本当のキリスト教(個的自我)を仏教(集合自我)から生み出すことである。 ☆ ☆ ☆ アジアの背教者(改変)(2) 世界問題における精神の忘却(1921年11月6日 週報「ゲーテアヌム」第一巻十二号) ベトマン=ホルヴェークの遺著『世界大戦の考察』が近く刊行されるが、その中に次のような一節がある。 「ヨーロッパの混乱と共に、今、我々の敵たちが世界に約束した、自由と正義の時代が始まる。」 ヨーロッパ社会に責任ある地位から大きな影響力をもち得たベトマン=ホルヴェークのような人物の考えを、この主張に見受けられる方向に導くために、世界大戦が起こされたことがわかる。しかし彼はこの文章を書いたときには、既に権力の座から退いていた。 テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%AF ヨーロッパの民衆の自由と正義は世界大戦により生じたのではない。それ以前からそのような状況は存在し、そしてそのことが大戦の原因となった。その生活状況は、今(第一次)大戦を通してはっきり表面に現われてきた。 (戦争は大多数の破壊と混乱と、少数の権力者への富の集中しかもたらさない。その事情を知る者は戦場に送られ、口封じされる。少数の権力者の周辺にイエスマンしかいなくなったときは人類が奴隷化される前触れである。) 社会の指導者たちは民衆の生活の中に存在する本当の力を見ようとしなかった故に、恐るべき破局を回避できなかった。彼らは上辺の権力構造にだけ照準を合わせてきた。だが現実の社会は、民衆の魂の意識の中に根を下ろしていた。 社会の混乱の中に1つの明かりを点じるには、 「民族の魂の意識を理解することなしに、社会制度等を健全な方向へ導くことはできない」 というような洞察力をもつ必要がある。 ワシントン会議を考える人の眼は、今、極東の日本へ向けられているが、その眼は上辺の権力手段のみに呪縛されている。中国とシベリアでの西洋の経済的利害関係を十分満足できるようなものにするには、日本にどう対処したらいいのか、とそのような愚者は問う。 勿論、その問いも必要である。というのは、この経済的利害関係は現存し、そして西洋社会は、その問いに満足な答えを導き出さなければ、先へと進めないからである。しかし愚者は、今日考えている(権力という)手段だけで、この利害関係を何らかの軌道に導ける、と思い込んでいる。 しかし、本当はどのような力が生じるべきなのか? 日本は現在(1921年だが現在と被るところがある)、西洋との関係からアジア社会の最も前衛的立場に立っている。 日本は最も外面(表面)的にヨーロッパ文化を取り入れた。だから西洋の指導者は、同盟、条約他によって、政治的に西洋の慣例に従った手法で、日本に対処できている。しかし民族魂の特質に関しては、日本は今でもアジアの伝統精神に結びついているのである。 実際、アジアは古い精神の遺産をもち、日本にとっても、その精神に優るものはないと感じている。この精神は、西洋によって日本を満足させることのできないような状況が作り出されたときには、強力な焔となって燃え上がるであろう。 (夏目漱石がロンドンに留学してなかば廃人のようになって帰ってきたことなどからわかる。日本人のもつ魂を、西洋のモノは満足させることができないからである。) しかし西洋の指導者は、単なる経済的な手段によって、この状況に秩序を与えることができると信じている。このことによって、此度のヨーロッパ戦争よりも、もっと恐るべき破局の出発点(第二次世界大戦)を作っている。 (西洋の指導者の代表のイエズス会の日本への侵略から明らかである。西洋の指導者は、東洋に紛争や戦争を持つ込むことしか頭にない馬鹿なんである。競争原理などという洗脳もその1つである。 生まれながらにして貴族のような物質的贅沢な生活を身につけたアホが指導者だからである。だからメーソンロッジにまでもカースト制度を持ち込む馬鹿なんである。 メーソンにはそもそも階級などなく、博愛の下の平等主義からはじまったはずである。キリストの「弟子の足を師が洗う」という教えを愚弄している。) 今日、世界全体にまで広がった社会制度を精神に由来する意識の介入なしに遂行することは許されない。アジアの諸民族は、西洋が、彼らに真の人間性から生じる諸理念をもたらすことができたなら、西洋に対して心を開いて歓迎するだろう。 彼らは、世界全体との関連のなかで人間が存在していることや、世界全体との関係に相応しいように社会的に、人生が調整されなければならないことを理解するだろう。 東洋の古い伝統の中にありながら、今、彼らが暗い感情に促されて革新を求めて努力している諸事象について、西洋が何か新しい解決法を教えてくれることを確信すれば、西洋人と東洋人とは理解ある協力体制を作り上げるだろう。 しかし西洋の指導者が、そのような東西協力による社会的な働きを非現実的な人間の空想にすぎないと考えるなら、たとえワシントンにおいて、軍縮が世界平和にとってどんなに素晴らしいことかと話し合っても、最後には東洋が西洋に対して戦争をしかけてくるであろう。 西洋は自らの経済目標を達成するために、世界の安定を求めている。東洋は、西洋が精神的に価値のあるものを東洋に提供する、と信じたときにだけ、その経済目標に同調するであろう。今日の大きな世界問題に秩序を与えることは、精神と経済とを正しい関係に置くことができるかどうかにかかっている。 (20世紀は失敗の連続で、少数の人類の裏切り者のニセユダの悪魔の手に堕ち、現在もそれら少数は人類の支配者づらの偽装を続けている。) 人類が、社会生命体の中での精神を生来の自由な基礎の上に置かない限り、西洋と東洋との和解は可能にならないであろう。西洋は精神的発展を続ける可能性を持っている。西洋は自然科学的、技術的な思考法により、これまで蓄積した財宝の中から精神に相応しい世界観を取り出すことができる。 しかし西洋はこれまではこの財宝の中から機械的=唯物的な観点しか取り出してこなかった。社会的な思考は社会制度の中で精神を経済に組み入れ、拘束した。西洋の魂の素質(個性)に強く組み込まれている精神の自由な発展は、精神の管理を、社会制度の別面である政治や経済と結びつけてしまった故に、妨げられている。 高次の魂に関心を寄せる個人は、東洋からその古い遺産を受け取り、それを外面的な形で西洋の精神に継ぎ足そうとしている。「東方からの光」は、そのような前提下では、西洋の精神の貧困の証拠を示すにすぎない。 これは恐るべき告発なのである。それは西洋が陰惨な利害関係により、自分の光を見ようとしない事実に対する告発なのである。 (西洋が東洋に物質的なカースト制度の権力構造をもたらしたために、今度は、東洋での精神的なカースト制度の権力構造を逆輸入してしまうこと。) 西洋自身で精神的価値を高揚させることこそが、人類が今日の混乱を克服し、何もできずに混乱の中で彷徨い続ける状態から脱却する唯一の道である。この基調をもった意識改革を非現実的な人間のユートピア的=神秘的な夢想と見做す限り、混乱は更に続くだろう。 西洋の指導者は平和について語るが、戦争の原因を取り除くことができない。最近、かつて権力をもっていた西洋指導者(注)がまたそのような権力を手に入れようと努力している様を見るとき、ヨーロッパの運命について深く憂慮せざるを得ない。 状況が極めて不健全であり、そのような憂慮をもたざるをえないことについて、西洋はよく考えなければならない。 (注)カール一世。オーストリア皇帝、1921年の復活祭と10月にクーデターによってハンガリーの王位につこうとした。 文明の死をもたらすもの(改変) レーニンやトロツキーについては次のように警告しておく。 特定の地域だけでも、あまりに長期間にわたって、彼らの考える政治が支配的となったら、それは文明に死をもたらし、そして近代文明が達成した全てを破滅に追いやるだろう。 (共産主義は、ロシア文明に死をもたらすとシュタイナーは警告したそうである。実際に、ソ連は崩壊した。ニセユダがつくった共産主義からくる社会制度の束縛が、ロシアの人々の魂に崩壊をもたらしたからである。 ニセユダがつくった少数支配の資本主義も同じである。資本主義は共産主義の偽装でしかないからである。右翼が名前を変えた左翼の偽装と代わらないのと同じである。) 〔ルドルフ・シュタイナーの「大予言」- ソ連は、その70年後に崩壊した ルドルフ・シュタイナーの「大予言」2-ソラトの憑依と共産主義思想の蔓延〕 イエス教(改変) 人類の大半は魂の深層で働く意識について無知である。 (ソクラテスの無知の知とはこのことで、物質的知識のことではない。大半の人は、平和を語るが、平和の意識については無知である。) だから精神を単なる概念とイメージだけの働きに錯覚している。そして、このイメージや概念の中で、途方にくれる自己を感じている。というのは、概念自体は、何も内容をもたないからである。 そのような空虚な概念思考を偏愛してきたのがこれまでの支配者層の通例だったが、概念思考への偏愛は別の結果も生みだした。この概念思考自身は無力で、外なる感覚から生じる物証に-つまり感覚から知覚できる故に否定され得ない確かな物証に-従おうとする傾向をもっている。 つまり、外界についての感覚への信仰が、近代人の空虚な概念思考の結果から生じる無力感に伴って生みだされている。 (偶像崇拝のこと。概念思考が偶像崇拝を生み出す。それは現実の行動や経験を伴わないからである。) 概念思考の無力感は精神に関係する全分野に現われている。学者が好んで実験を行い、実証によって感覚界には存在しなかった新たな概念の何かを創り出そうとする。しかしそのようにして概念の力で感覚界を作り替えても、感覚界自体を超えることはできない。なぜなら概念自体が空虚だからである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月06日
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ネットでは、都知事選に不正マシン「ムサシ」が投入される可能性が高いことが明らかになりつつあるが、はやくもCIAネオコン洗脳機関媒体の「報捨て」のインチキ画像工作が告発されています。 なんと、ハゲの演説聴衆が少なすぎて、ホソカワ-コイズミの演説聴衆の画像を修正して用いて、ハゲをカツラのごとくみせかけたそうです。リンクを貼り、抜粋しましたので以下を参照に。 マスゾエに不利な情報を書かれない様に、ネット情報戒厳令が流れているそうです。やっていることは、中共の情報統制と同じです。自称右翼も、やることや中身は左翼と同じで、不都合な真実の隠蔽でニセユダの策略なんですな。 ☆ ☆ ☆ 報道ステーションに消された細川・小泉連合 http://my.shadowcity.jp/2014/02/post-1706.html#more はい、本日の「不都合な真実」です。上の写真、ハゲのすぐ後ろで撮っているので、ハゲのスタッフが撮った物だろう。赤の他人がこの位置から写真撮ろうとしたら、テロリスト扱いで追い払われますw 狛江の駅前ですね。ずいぶん少ないです。 こちら、物凄い人です。言うまでもない、殿さまです。ところが、良く見て欲しい。下の、街宣車の部分をアップにしてみます。 モザイクが掛かってますねw 実はこの画像、報道ステーションのキャプチャーです。ハゲの街宣の場面で使われたもの。 (地デジにしたのは、不都合な真実に、モザイクをかけるためだったのかもしれませんね。洗脳工作がミエミエでTV離れが進むわけですな。) 報道ステーション酷いな。銀座に集まった聴衆をあたかも舛添に集まった様に報道操作。細川と小泉をモザイクで消した。 実際には冒頭のような写真しか撮れないので、殿さまの画像にモザイク掛けて流用したらしいw まぁ、今の政府は、マスコミ対策で途方もないカネを使っているわけで、もちろん「政府広報」とか、そういう予算名目で出されているんだが、裏では「ホソカワ・コイズミの2ショットは絶対に掲載するな、TVで流すな」「原発に関する発言は報道するな」「小泉の演説は流すな」と命令が出ているそうで、スポンサーには勝てないマスコミの醜態です。おいらのところには政府広報は入らないので、「真実」を報道しますw ☆ ☆ ☆ 名前をモザイクで消しても、ハゲでないのでバレバレなんですが、フォトショップの達人でも雇って髪偽装でもするか、カツラでも被らないと、ハゲは隠せないので、そのうちコイズミ風の白髪カツラでも被るのでしょうか? 以前にも述べたが、「マスゴミが、細川-小泉人気を隠蔽していることでわかる。」 なぜ隠蔽するかといえば、「細川票、宇都宮票⇒マスゾエ票にすりかえられる」という不正の風をつくりだすには、人気があっても、人気がない、としなければいけないわけで、その人気をそっくりそのままマスゾエに付け足さないと、洗脳報道の嘘が通用しないからである。 TVでは既に、「細川票、宇都宮票⇒マスゾエ票にすりかえられる」工作がはじまっています。不正に組みしている人たちは悪魔に魂を売っているのですぞ! 捏造媒体のTVは詐欺だらけなので、その手口を研究する材料といってもいいでしょう。視聴者をいかに騙すかがTVなんです。ほとんどがヤラセなんですな。 お前らのやっていることはすべてまるっとお見通しだ! まるで「トリック」そのものですな。ひょっとすると、「トリック」は良心が咎めるので、内部告発なのかもしれませんな。
2014年02月06日
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前回は、シュタイナーの説く世界経済の形態が、少数として日本にも現われていることを紹介した。その代表例がエシカルビジネスという言葉だった。 エシカルビジネスの究極の理想は、人間愛という相互理解を、生産というなんらかの形で、地球全体に広げることにある。 しかし、その対極の、いわゆるニセユダヤ系のブラック企業が行なっている現実の支配の究極が少数の特権階級による人間の獣化、つまり人間奴隷工場であり、その最大のブラックビジネスが麻薬であり、戦争であったわけである。 ニセユダは性懲りも無くいまだに続けようともがきまくっているが…。 この背後には、相互理解など無視した自国の利益を他国におしつける国際的な消費、つまり国際的な要求がある。これに法が絡むと現状のように互いに法でもって束縛しあい雁字搦めになり、身動きがとれなくなり、やったのやられたので、足の引っ張り合いでおかしくなってくる。 この代表がTPPなのである。 つまり、ニセユダが目論んだシオンの議定書などの悪法により自由な精神が束縛されているのが現状なのである。有体にいえば、国家が自由な個人を束縛し、国家の奴隷としているのが現状なのである。 どうしてそんなことになってしまったのか?といえば、戦争をして大量殺人を行いながらも、足ることを知らない国際的な物質的要求にある。原爆をつくり大量殺戮しても、原発事故を起こしてもなおも再稼動するといった、自分たちの行為を反省しようとしない霊(精神)的な不感症の馬鹿になってしまったのが現代人の実体なのである。 そのような糞の連中にも覚醒を促すために、シュタイナーの話を続ける。 前々回、都知事選について、トロイの木馬の話を紹介したが、この物質的要求そのものの実体が実はトロイの木馬なんである。物質的要求には限界がないので、自ら滅ぶまで要求が止むことはないのである。滅びるまで突き進むのがニセユダヤの宿命といわざるを得ない。 永遠とデフォルト詐欺を続けているのがその証拠だ! いつ壊れても不思議ではない積み木をつみあげているわけで、積み上げれば積み上げるほどますます脆くなり、しっぺ返しを食らうからアホである。 ☆ ☆ ☆ アジアの背教者(改変)(1) 世界問題(1921年8月28日 週報「ゲーテアヌム」第一巻二号) 11月に開かれるワシントン会議の結果に世界中の関心が集まっている。西洋列強のこの会合の議題として、軍縮と太平洋問題が挙げられているが、真剣に考えているのは後者だけで、前者は一種の道徳的な装飾品と思わなければならない。 事実、北アメリカ、イギリス、日本という、今日の世界史が依存する三大強国の視線は、太平洋に向けられている。その際、何に関心が向けられているかを調べてみると、その関心の中心になっているのが経済問題であることがわかる。 経済上の利益に見合った軍縮を行なうか、利益に応じた軍備増強を行なうかしかない。各国の経済上の利益に応じて、軍事問題も対処していかざるをえず、他の問題は経済活動の光の下でしか、扱われざるをえない。 しかしヨーロッパとアメリカのような考え方は、従来の各々の歴史によってもたらされたままのものである限り、アジアでは、この上ない抵抗を受けることになるだろう。ロンドンの英連邦会議での南アフリカ連邦首相スマッツの発言は、多くの人にとって大変に重要なものであった。 彼は、「未来の政治はもはや大西洋や北海にではなく、今後の半世紀間は太平洋に目を向けなくてはならなくなるだろう」と語った。 しかしそうであったとしても、この方向で為される西洋人の行動は、アジア人の意志と衝突するに違いない。ほぼ50年前から始まった世界経済は益々発展していき、アジアの諸国民をも、その活動圏内に引き入れることになるだろう。 けれども民族間の相互理解において、現存する諸条件に更に別の諸条件が加わらなければ、西洋人の行動は良い結果をもたらさないだろう。アジア諸民族の信頼が得られず、彼らと共に経済活動行なうことができないだろう。 純粋に経済の地盤においてだけでは、或る程度の信頼しか得ることはできない。経済だけではアジアの人々の意図に充分応えることはできない。アジア人の魂を掴む事ができなければならない。そうでなければどんな対応も不信感により覆われてしまうに違いない。 このように考えると、今日の世界問題は最大限の射程距離をもって迫ってくる。西洋人は数世紀の間アジア人の不信感を呼び起こすような考え方をし、感じ方をしてきた。アジア人がこれから西洋の科学とその技術成果をどれ程知るようになろうとも、それは彼らの心をひきつけず、反発させるだけだろう。 彼らが同じアジア人仲間である日本人の中に西洋文明への傾斜を見るとき、日本人を真のアジア精神の背教者と見做すだろう。彼らはアジア人の魂の内面の豊かさに較べて、西洋文化を低次のものと見做している。 彼らは物質的進歩の点で立ち遅れていることに注意を向けない。ただ魂の努力だけを見る。そしてこの努力の点では東洋人の方が西洋人よりも優位に立っていると思っている。西洋人のキリスト教に対する態度も、彼らの宗教体験の深さにまで達しているとは見ていない。 この点で今彼らの知るもとなったキリスト教などの宗教は、彼らにとっては宗教的な唯物論でしかない。そしてキリスト教体験の真の深さは今、彼らの目の前には現われていない。 西洋の諸民族が、魂のこの東洋と西洋の対立を、世界政治の見方の中に取り入れなければ、解決不可能な問題の前に立たされてしまうであろう。この対立を考えることを感傷的だと思い、実際家には関係のないことだと思う限り、世界政治を混沌の中へ追い込んでしまうだろう。 これまでは夢想家のイデオロギーにすぎない、と思ってきた事柄の中に、実際力を認めることを学ばなければならない。 そして西洋はこの発想の転換ができる筈なのである。これまでは西洋の本質の外面だけが発達してきた。アジア人が理解しないこと、決して理解しようとしないことを、西洋人は達成した。しかしこの外面は、これまでその本質をあらわさなかった内面の力から生じたものである。 この内面の力を発展させることができなければならない。そうできたときには、物質生活の上で、アジア人にとっても世界的な価値を示すような成果があげられるであろう。 このような主張に対しては、勿論、次のようにも応じることができる。 「野蛮なアジアに較べれば、西洋には内面化した深い心情(個性)があり、高次の(個性的な)文化がある。」 そういう発言も確かに正しいが、西洋人が深い魂の本質(個性)を更に発達できる、ということが大切なのである。それなのに、これまでの西洋の歴史は、個性をもつ魂を公的な社会の中にはもち込まないように仕向けてきた。 アジア人の魂は確かに、(個性という面では)子どものようであるかも知れない。表面的でさえあるかもしれない。しかしこの魂をもって彼らは公的な社会生活を営んでいる。 いま言う西洋と東洋の対立は、倫理上善か悪かということとは無関係である。同様に美しいか醜いか、芸術的か非芸術的かということとも関係はない。 いま言いたいのは、アジア(東洋)人が外界の感覚界の中でも彼らの感性や精神を共体験しているのに対し、西洋人が世界に向き合うときには魂を内部にしまい込んだままにしている、ということなのである。 (東洋人は外界に応じて感情表現を行なうが、西洋人は外界とは切り離して感情表現を行なう。それは東洋人が風景画を親しむ傾向にあり、西洋人が人物画を親しむ傾向に現われている。) アジア人は感覚を働かせているときにも精神(感情)を発揮する。しばしば悪しき精神をも発揮するが、精神であることには変わりない。西洋人は内面においてどれ程精神と密接に結びついても、感覚が、この精神を逸脱して、機械的に考え出され、秩序づけられた世界に向かって努力していく。 (アジア人が、西洋人をみて、冷酷に感じるのは、このせいである。) 勿論、西洋人はアジア人のために精神的な考え方や感じ方を身につけようとはしないだろう。そうするなら、もっぱら自分自身の魂の要求から行なうだろう。決してアジア問題がそのための動機となることはない。 しかし西洋の物質文明は、その中に留まり続けることに満足できない段階にまで達した。その内部で自分の人間性が内的に空虚になり荒廃していく、と感じさせられている。西洋人の魂は、存在の内面化を達成するために、精神的な生活態度を求めて努力しなければならない。そうでなければ、進歩の現段階に立つ自分を本当に理解しているとは言えない。 この努力は西洋が現代という時代から要求されている進化の課題なのである。その要求が、タイミングよく、世界政治上必要となった東洋への眼差しと一致するのである。 魂を改革しようとする意志がなければ、これ以上の人類の進歩は不可能ということに、西洋人が気づかぬ限りは、時代の大きな課題について救いがたい幻想に陥り続けるであろう。 アジア人が偉大な魂と呼んでいる存在の前に西洋人が立たされたとき、魂が羞恥心に震えないでいられるだろうか。 そして西洋人が物質上の成果の見返りとして、古代東方の精神性や魂の遺産を受け取ろうとするのは、錯覚でしかない。西洋人が自分の科学、技術、経済能力を真に人間に相応しいものにできる精神内容は、西洋人自身が自分の中で発展させた能力から来るのでなければならない。 多くの人々が「光は東方より来る」と語ったが、外の方からやってくる光を、内なる光が受け取らなければ、光は知覚できない。 (知識を授けても、その知識を理解できなければ、猫に小判である。) 魂のない世界政治は魂のあるものにすべきである。確かに魂の発達は人間の内密なる要件だが、内面化された魂による人間の行為は、既に外界の秩序の一端でもある。アジア人がヨーロッパ人から学ぶコマーシャリズム(商業主義)は東洋においては退けられる。 精神内容を開示する魂だけに信頼が与えられる。中国を西洋列強に利益を提供する経済領域にするにはどうしたらいいか、という問題に答えるのが現実に思うなら、それ自体が古い思考習慣以外の何ものでもない。 アジアに住む人たちの魂とどうしたら理解し合えるのか、というのがこれからの真に現実的な問題なのだ! 世界経済とは、相互理解を見つけなければならない魂にとっての外(物質)的な身体(媒体)であるにすぎない。 いまこの時代考察がワシントン会議で始まり、魂への相互理解の要求で終わるのは、唯物論者にはイデオロギー的な態度に見えるだろう。 しかし現代のように、価値観がめまぐるしく移り変わる忙しい時代では、今の理念蔑視の唯物論者がいつ見解を改めて、魂を無視することは現実的ではない、と言い出す可能性は高い。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月05日
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前々回の続き。 ☆ ☆ ☆ 法の分野においても、自由な精神との結びつきが必要である。 (中略) しかし、抽象的な形で「精神」について語るだけでは、精神の自由についての理解を求めることはできない。精神の自由を本当に徹底して自分のものにしなければ不可能である。精神の自由とは本質的には苦労して手に入れるものである。 このことを現代人は理解しようとしない。「物質中心の社会的な要求に、精神が働きかけねばならない」と多くの人々が語っているが、精神にただ闇雲に訴えかけることしかできずにいる。 そのような人々は自分が善意で語り、十分に社会道徳を身につけている、と思っているが、次の意見に再度よく耳を傾ける必要がある。 「我々は精神を既に身につけている。しかし我々が今日、世間に訴えているのは、既に身につけているこの精神のことなのか。もしそうなら、現状に導いた精神を再確認しろ、とだけ(後ろ向きに)訴えていることになる。 果たして、この同じ精神によって、新しい(未来の)状況へ到ることができるのか? それは無理な話である。それは今、新しい精神が必要なことからわかるからだ。しかし新しい精神を手に入れるには、それなりの努力が求められる。そして、それは、政治や経済から独立した精神生活の中での努力でなされねばならない。」 では一体世界経済はどのように営まれるべきなのか? 世界中の人々が経済を個別的な形で形成していくと、相互の間に精神的や法的な関係が必然的に生じてくる。各々が個別的な形で行なう精神的、法的な働きは、他の人々の経済を理解する手段でもある。 他国の人々の経済を理解することが、本当に世界経済を営むための手段になる。そのような手段を作らない限りは、いつでも国家(の利己主義)が世界経済の中に割り込み、世界経済を国家の利害関係のために利用しようとするだろう。 他国に対する理解なしに割り込んでいくので、どうしても不調和が生じてしまう。 (ニセユダと米国が、この典型例。) それでは世界経済はどうしたら本当に生じるのか? 国家の精神機構(文化)や法機関が経済を支配しない場合にのみ、可能となるだろう。というのは、個々の経済構成体は、個別的な形でしか存続できないからである。経済構成体を精神的に理解するときにだけ、人々は統合性へと到達できる。 そのときには地球上の全ての土地において、この理解の輪を拡げることができる。様々な地域での個別性に対する拘束から地球が解放されるには、このような他国への理解の統合性が必要となる。 さて、人間の精神は、客観的な理解力を発達させながら、様々な国民についての相互理解を可能にすることができるが、人間の消費要求もまた、国家の枠を超えていく。その要求は国家間ではなく、国際的に拡がる。 ただその国際性は精神の国際性の対極に位置する。精神の国際性は(相互)理解を通してなされ、他の国民性をして愛をもって理解される。既に述べた意味で、国際性にまで人間愛が拡がる。 しかしまた利己主義も国際的になる。ただしその利己主義は、生産体制が共通の精神的理解、共通の精神的統一性から生じるときにのみ、有益な国際性に達することができる。 民族的な利己主義からでは、共通の利己主義に基づく共通の消費体制を作り出すことはできない。だからいま述べたように、共通の愛から生じる相互理解が、精神的な観点から生産体制を支配できる。 ☆ ☆ ☆ シュタイナーが述べる上記のような世界経済については以下のビジネスなどが、その前触れとして出現しているので、TVでやっていたので、リンクを貼り一部抜粋する。 ☆ ☆ ☆ 未来世紀ジパング http://www.tv-tokyo.co.jp/zipangu/backnumber/20140203/ ペルーのお宝(1)…奇跡のフルーツ「カムカム」 ペルー、アマゾン川流域の密林地帯に、奇跡のフルーツ「カムカム」を世界に広めた日本人がいる。鈴木孝幸さんだ。ビタミンCの含有量がレモンの60倍というすごい果実だが、以前は自生している地域以外では、その存在すら知られていなかった。鈴木さんは、これに目をつけ、地元の農民に採集・栽培方法などを教え、ジュースなどに商品化する。おかげで、貧しかった農民たちにも収入増加というメリットも生み出していた。 ペルーのお宝(2)…「黒いアルパカ」とは いま、日本ではアルパカブーム。アルパカ素材の衣料品が売れている。アルパカと言えば、独特の風貌をしたラクダ科の動物だが、実はそのほとんどはペルー、アンデス山脈の高地に生息している。そこに最高のアルパカ素材を求めて、やってきた日本人兄弟がいた。その名も“イノウエブラザーズ”だ。同じアルパカでも刈り方一つで値段が変わる…これまで考えもしなかった地元の人たちに、最高級のアルパカを取る方法を伝授しようとしていた。さらに彼らが、今回“最も珍しい”と探しに来たもの、それは…“黒いアルパカ”だった。 日本人こそ21世紀の“トレジャーハンター” これからの時代、先進国が富を独り占めし新興国を搾取する、そんなビジネスモデルはもう通用しない。地元の人々にも利益を還元し、共に成長していく「エシカルビジネス(倫理的・道徳的なビジネス)」こそ“21世紀型”なのだ。 ☆ ☆ ☆ 「トレジャーハンター」という呼び名は違和感があるが、国際的に相互理解を拡げる人間愛の伝道師という意味なら、新しい精神の体現ともいえる。 シュタイナーの説く経済の「利己主義は、生産体制が共通の精神的理解、共通の精神的統一性から生じるときにのみ、有益な国際性に達することができる。」を、現代では「エシカルビジネス(倫理的・道徳的なビジネス)」と呼んでいるようだが、これは「共通の精神的統一性や相互理解のこと」を、「倫理・道徳」と置き換えていっているにすぎない。 将来の貨幣は、恐らく、この「倫理・道徳」となるだろう。それこそ、霊我(マナス)の能力のことで、マネーは、このマナスからきたのであり、本当の意味は、使えば使うほど、能力が高まることなのである。 労働者を酷使し支配する資本家や経営者エゴ丸出しのブラック企業に対するホワイト企業の前身ともいえる。 このような新しい意識をもった日本人が出てきているのは頼もしいことである。 次回はこれとは逆の、アベ-タモガミのような古い日本人の集合意識についてのシュタイナーの話を抜粋紹介する。
2014年02月05日
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シュタイナーの話を続ける前に、巷では都知事選に、不正選挙マシンのムサシ投入で大騒ぎなので、不正選挙を考えてみる。 私見では、前回の参議院選挙は不正選挙だったと確信している。その証拠は、以前紹介したが、各地区の未来票の割合が揃って自民票に流れていたことから明らかなのである。他党と連携していない未来党の候補者票よりも未来票が少ないのはそもそもおかしい。 統計学を学べばわかるが、統計がいかにインチキで、だからこそ、統計的な法則がそのままデータに反映して現われる現象などありえず、各地区が揃いも揃って、同じようなある法則性をもって投票結果を出すのは人為的にしかありえないのである。 確率を計算すればわかるし、ほぼありえない事象が起こるのは、人為でしかないからである。生物統計学には帰無仮説という、事象が確率的に僅かであることを見込まれる仮説を捨て、対立仮説を選択するというやり方すらある。 非線形現象が線形として現われることは奇跡としかいいようがない。量子力学の観測論でしかありえないミクロか、あるいは一般相対論が通用する天文的なマクロの話で、日常現象で現われるというのは予めの作為があったとしか考えられない。 つまり不正選挙マシンはシュレディンガーの猫実験も吃驚の代物なんである。猫が死ぬ運命を選択するように予め決められていたわけである。 さて、今回の都知事選も、この不正選挙マシンが導入される可能性が高いのは、マスゴミの洗脳報道からもほぼ明らかである。 原発ゼロ発言から、ホソカワ人気が、マスゾエを追い落としていることが演説聴衆の数から明らかなのに、マスゾエが圧勝との洗脳報道が、しかもどのマスゴミもほぼ同じ内容なのだから、不正選挙の臭いがプンプンするわけである。例えば、以下のホームページなどを参照に。 飯山一郎のLittleHP http://grnba.com/iiyama/ また不正選挙で有名なムサシを調べると、原発とつながっていることがよくわかるから不思議である。悪名高いロックフェラー-正力-中曽根の核兵器ラインである。ただし、ウラン鉱山はロスチャイルドである。ムサシについては以下のホームページが詳しい。 <不正選挙疑惑を調べてみた> 選挙開票・企業株式会社ムサシにまつわる事実 http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2682.html さて糞マスゴミの洗脳報道によると、参院不正の手口が、「未来」が躍進し、「自民」を圧倒していたにもかかわらず、マスゴミは未来人気の黙殺を続け、未来票⇒自民票であったことから、今回は、細川票⇒マスゾエ票が濃厚であろうが、それだけでは不安なので、細川票、宇都宮票⇒マスゾエ票にすりかえてくる可能性が濃厚とみられる。 このすりかえを見破るには、各地域、もしくは投票数の多い地域で、細川票、宇都宮票⇒マスゾエ票の変換法則が成立していることが立証できればよい。その際に、組織票の動向を調査すれば、裏がとれるだろう。 共産党員皆が宇都宮票に入れたとすれば、単純にいって、宇都宮票が共産党員票よりも少ないことはありえないからである。それはつまり、マスゴミが「無党派層の動向が鍵を握る」と洗脳報道する理由でもあるからだ。 逆説的にいえば、無党派層の動向を利用してデータを書き換える余地が生まれるからである。この無党派層をB層として御用学者や知識人のA層に洗脳させたのが、電通の戦略だったことがネットでは明らかになっている。この手法を利用したのがオタク市場開拓によるアイドル商法であることがわかる。また、この手法を洗練化したのがゲーム理論である。 このゲーム理論をオカルトで考えると、メーソンの「風を蒔いて旋風を刈り取る」を彷彿とさせる。 つまり、「細川票、宇都宮票⇒マスゾエ票にすりかえられる」という不正の風をつくりだせば、原発ゼロの人気をそっくりそのまま取り込むことができるというわけなのだ。テコの原理を組み合わせたトロイの木馬のようなもので、敵側に予め味方を送り込んでおくという古来からのスパイの手法なのである。 自民の別働隊の共産なんかもこの類といってよいかもしれない。どちら側にも属すようなニセユダヤか、あるいはどちら側にも属さない第三者が漁夫の利を得るというような仕組みともいえる。 歴史的には、関ヶ原の戦いの小早川秀秋や毛利輝元がまさにこの家康のトロイの木馬といえるだろう。大坂方は、淀(文臣派)と北政所(武臣派)で割れていたのを利用して、武臣派を取り込んで、豊臣政権を乗っ取ったわけである。 あるいは、細川が説く桶狭間の戦いの家康が、信長の義元への仕込みだったかもしれない。 都知事選挙を関ヶ原と考えると、面白いかもしれない。大方の予想は不正マシン投入でマスゾエで決まりを当て込んでいるから、そのマスゾエが負ければ、逆に原発という旋風を全て刈り取ることができることも確かだからである。 それはマスゴミが、細川-小泉人気を隠蔽していることでわかる。なぜ隠蔽するかといえば、「細川票、宇都宮票⇒マスゾエ票にすりかえられる」という不正の風をつくりだすには、人気があっても、人気がないとしなければいけないわけで、その人気をそっくりそのままマスゾエに付け足さないと、洗脳報道の嘘が通用しないからである。 マスゴミの奴らの手口はそっくりそのままお見通しだ! マズゴミのお前らのやっていることは地獄行きだぞ! 馬鹿は死ななきゃ治らないそうで。 どうみても茶番だが、わずかに半沢直樹のように100倍返しができるかどうか、見所もなくはない。
2014年02月05日
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これまでシュタイナーの話から、自我(自己意識)の発展について紹介してきたが、ではシュタイナーは、どのような未来社会の理想を思い描いていたのか? 以下に紹介していきたい。 ☆ ☆ ☆ 社会の未来 社会生命体の三分節化の基本理念(改変) 生活上の精神と法と経済の理想的形態は、これまで厳格に統一国家として形成されてきた無機的な社会を三分節化した有機的な社会生命体に変えるときにのみ実現できる。 法治国家に必要な制度全般(行政、司法)は民主議会の中で管理されるべきである。これに反し、精神活動全般は、この政治、法律の(行政、司法、立法)組織から切り離され、自由に自主的に管理されるべきである。他方、経済活動も政治組織から切り離され、独自の形態や条件から、実用知識と専門能力に基づいて自主的に管理されるべきである。 (民主議会圏と、精神活動圏と、経済活動圏にわけるべきという。シュタイナーはそれぞれを人体の胸部、頭部、腹部と四肢にあてはめて解説している。) 今日の主題に移る前に、まず序論として、社会生命体の三分節化の基本理念を要約して述べる。以前、人間社会の生活上の要求が三つの基本要素から生じていること、つまり、社会問題が、国家=法律=政治問題、精神問題、経済問題の三つから成り立っていることを説明した。 近代社会の発展の経緯が洞察できれば、この三つの生活要素、つまり、法律=国家=政治、精神、経済が次第に混沌とした状態で現代へと到り、もはや相互に区別のつかないものになっていること、そして、この混沌とした状態の中から現代の社会悪が生じていることがわかる。 このことが十分に深く理解できれば、未来の社会の中では、公共の生命としての社会生命体が、政治=国家=法律関係の自主管理、公共の精神(特に教育制度における)の自主的な精神管理、そして経済の完全に自主的な管理の3つに分節化されざるをえないことがわかる。 現在は国家という唯一の管理体制が生活上の、この三要素を統合している。だから今日、社会の三分節化について語ると、即座に誤解が生じてしまい、次のように言われる。 「生活上の法律、国家、政治の自主管理や、精神のための自主管理や、経済のための自主管理を要求するのは、民主議会と文化議会と経済議会という三つの議会を求めるのと同じだ!」 もし上記のように言われるなら、社会生命体の三分節化の理念を全然理解していないことになる。この三分節化の理念は、近代の人類社会の発展経緯の中で、歴史的に生じた様々な要求を真剣に受けとめようとしている。そして、その様々な要求を、-既にスローガンにもなっているが-三つの言葉に要約できる。 しかしスローガンで、現実を表わそうとする場合には、これら三つの言葉の中に、歴史的にも、正しい認識が含まれている必要がある。その三つの言葉とは、自由への意識であり、民主主義への意識であり、そして社会共同体を形成しようとする意識である。 この三つの要求を真剣に受け止めるならば、それら三つの要求を唯一の管理体制の中に1つにまとめて押し込めるわけにはいかない。というのも、そうするなら、必ず一方が他方を妨害せざるをえなくなるからである。 例えば、民主主義を生活上の全分野に適用しようする人は、次のように主張するだろう。 「国民議会や国民投票の中で成立する民主主義において、ある成人が別の成人と同等の地位に立って、決定を下すことができる。民主主義の地盤の上では、成人した個人の判断によって、どんなことでも決定することができる。」 この主張に対し、社会生命体の三分節化の立場から、次のように反論できる。 「確かに、それぞれの成人が、生活の上で、それぞれの民主的な意識から同等に発言するように求められる分野がある。すなわち法律、国家、政治の分野であるが、民主主義を真に尊重し、法律、国家、政治の分野を完全に民主化するなら、他の精神や経済の分野を、その民主的な管理体制の中に組み入れてはならないのではないか。」 民主的な管理を行なうには何らかの議会が必要になるが、そのような民主議会が精神や教育活動をも含む分野の項目を決定することは許されないのではないか。後に詳しく取り上げるつもりだが、今回は導入として、次の点を指摘するだけにしておく。 つまり社会生命体の三分節化は、自主的な精神を求めるからである。 特に公共の場や学校他の教育施設においては、自主性が求められる。何をどのように教えるかは、国の命令によって決定されるべきではない。実際に教育に携わっている人たちが、教育活動そのものの管理者であるべきである。 言い換えれば、小学校低学年から高等教育に到るまで、教師は何をいかに教えるべきかについて、政治的、経済的な権力から独立し、自主的に決定する必要がある。教育内容については政治とは独立した精神組織内部で決める事項である。 そして教育活動全体、更には生活上の精神分野の共同管理者にもなれる時間を残せるように、個々の教育者は授業時間を配分すべきである。 後の講義で、生活上の精神に関わる自主性について、個人の精神を全く新しい基盤の上に置く必要があることを述べたい。また偏見が行き亘っている今日、とても信じられないことだが、次の事項が可能となる必要があることも明らかにしたい。 精神の自主性を通して、個人の精神は、国家や特に経済についても実りある働きかけを行うことができるようになる、ということである。自主的な精神だけが、灰色の理論や世間知らずの学者的な観点から離れ、実際の精神の中に働きかけ、経済にも役立ち得るような認識を与えてくれるからである。 まさにこの自主性を通して、精神は実際の生活に役立つものとなる。政治的な判断力をもつ成人の判断が支配的であってはならない。議会主義によって精神を管理しようという考えは、避けなければならない。精神分野においても民主的な議会が支配すべきであると信じる人は、社会生命体の三分節化の方向を根本的に取り違えている。 共同利益社会(改変) 古い権力社会が交換社会に移行したように、今日では進化の深奥から来る意識が、この交換社会を特に経済の地盤の上で、新しい社会に変えようとしている。 というのは交換社会は、次第に精神を社会規律の中に取り込んできたことで、自由な精神を不自由にし、自由な精神活動を社会から疎外し、そして社会そのものを単なる機械仕掛けの経済社会にしてしまったからである。 たとえ過激な社会主義者が、そのような単なる機械仕掛けの経済社会をむしろ求めているとしても、今日の人類の極めて強い内的な意識は、交換社会を特に経済の領域で、共同利益社会と名づけられる社会へと移行させようとしている。 この名称には納得いかないところもあるが、新しい事態に対しての名称である。新しい事態に対しては、一般に適切な名称を日常語の中から見つけ出すのが困難だが、ともかく交換経済は共同利益社会へ移行しなければならない。 現代では個人の生活圏が益々地球上に広がり、それと共に事態が益々多様化して現われるようになった。狭い地域内での経済であった古い国民経済に代わって、世界経済の時代になると、ほとんど全ての文明社会では、地球の別の場所で生産されたものを消費するようになる。 しかしそうなっても、人間の理念や魂の基調は、この世界的な要求には追いつけず、世界経済を可能にする様々な制度に従って、世界経済を運営するのに人びとは大わらわになっている。 それでは世界経済はどのような条件の下でなら可能なのか? -以前の講義で述べたように、人々が未来へ向けて新しい社会秩序を形成する必要を理解したとき、つまり古い暴力利益社会や現在の交換利益社会の代わりに、共同利益社会を形成する必要を理解したとき、はじめてその可能性が見えてくる。 (中略) この共同利益社会という、未来の国家が求めるであろう社会形態は、国際問題との関わりとは、どのような関係をもつべきなのか? 経済との関係から国際問題はどうあるべきなのか? いまわかることは、世界は世界経済を求めているのに、その世界経済の中で個々の国民国家が個々別々に分かれて存在しているということである。 個々の国民国家はそれぞれの歴史的な成立条件の相違を別にすれば、一緒に生活している人々の利己主義から生じてくるものにより、ともかくも団結を見せている。最も高貴な民族性の表現である文芸、芸術他の中にさえも、利己主義から生じてくる想像力があり、それが様々な民族の集団を結びつけている。 さて、この様々な民族の集団が、世界経済の全領域の中に入り込む。それは19世紀の間に益々強力に入り込み、そして20世紀初頭にその頂点に達した。言い換えれば、かつての古い暴力社会を想わせる色々な利害関係がこれまでの国家間を支配していたが、次第に交換社会の原則が国際社会の中で優勢になり、20世紀の初頭にその最盛期を迎えた。 他国に商品を提供したり、他国から商品を受容したりする各々の国家の生産活動、消費活動全般は、各々の国家の利己主義によってきめられ、各々の国家の利害関係だけによって支配されてきた。国家の相互関係はもっぱら通商の原則だけによってきめられてきた。それは商品の循環に関する交換社会の支配原則に従っていた。 しかし現在、単なる交換社会の原則だけではどうにもならない段階まで来てしまった。そして「何とかしなければならなくなった」ことが、今度の(第一次)世界大戦の破局を惹き起こした主因だった。 後から次第に明らかになってきたのは、世界経済が求められている一方で、世界経済に関わる各々の国家が世界経済を促進しようとはせず、関税他によって門戸を閉ざし、世界経済の成果を自分だけのために利用しようとしてきたことだった。このことが(第一次)世界大戦の破局を招いた。たしかに別の要因も働いていたが、破局を招いた主因は、このことだった。 単なる交換社会の原則とは異なる原則に従って、広範囲に亘る経済行為を行えるようにすることが、国際社会にとっては何よりも必要である。 共同利益社会においては、個人が経済の全領域、商品の消費と生産と循環とに関心をもって働くことが必要になるが、各々の国家にも他国に対する真実の関心をもとうとする意識が働かなければならない。 民族間に「偶然の市場」に似たものを形成するのではなく、民族相互の真に内的な理解を育成することが大切である。 (中略) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月04日
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前回の続きだが、これまでの話を少しまとめたい。オカルトからわかることは、我々は自己意識を絶えず発展させていかなければならない、ということである。様々な自己意識が共生するということが肝要である。さて話を続ける。 サタン=アーリマン(改変) 自我を次第に目覚めさせる使命を持つ地上の人間の進化に、二つの力が関与している。レムリア時代(月紀)以来、人間の内面のアストラル体のなかにルシファーの力が関与している。 ルシファーの力は、人間の欲望、衝動、情念のなかに忍び込むことで、人間を攻撃する。この攻撃を通して、人間は二つの能力を獲得した。 第一に、独立した自由の存在となる能力を得た。自分の思考、感情、意志に熱狂(熱中)する能力を得た。ルシファーの介入がなければ、人間は神霊の力に導かれるだけだった。 しかし同時に、人間はルシファーの力によって、衝動や欲望や情念を通して悪に陥る羽目になった。ルシファーは、人間のアストラル体の舞台である内面を攻撃することで、地球上の存在に介入する。 アストラル体のなかに組み込まれている自我も、ルシファーの力に浸透される。ルシファーとは、人間を物質性や感覚性のなかに埋没させる存在である。つまり、人間のなかの最良の自由と、最も危険な悪への可能性を、人間はルシファーの力に負っている。 ルシファーの力が人間の構成要素全体のなかに介入したことで、ルシファーが人間に介入しなかったなら生じていなかったはずの力が人間の本性のなかに入り込んだ。もし人間がルシファーの影響下に置かれていなければ、人間は世界を今とは違った風に見ていただろう。 そして、ルシファーの力に曝されるようになった後、更にもう1つの力に曝されなかったら、人間は世界をまた違った風に見ていただろう。 アーリマンが外からやってきて、人間を取り囲む感覚界(皮相面)のなかに忍び込んだ。アーリマンの影響は、ルシファーの影響の結果なのである。人間はルシファーによって内面から攻撃された結果として、人間は外から働きかけるアーリマンに攻撃される。 (アーリマンは相手の気持ちなどを察することなく、相手に介入するような皮相面「表面のみ」に関わる。結果だけ重視する打算性など。) 真実を知る神秘学は、いつの時代にも、ルシファーの力とアーリマンの力について語ってきた。神話で表現されている様々な民族の意識には、ルシファーとアーリマンの両者のような比較的明瞭な意識(自意識)が同レベルで常在したわけではない、ということは、非常に注目すべきことである。 例えば、セム族の伝統から宗教的な見解が形成された旧約聖書などが書かれた時代には、この2つの力に由来する明瞭な意識はなかった(当時は、曖昧な夢のような意識だった)。旧約聖書に登場する蛇は、ルシファーに他ならない。この記述から、ルシファーが進化に関与したことで、明瞭な意識が現われたことがわかる。 (聖書は、人間の精神の歴史を描いたもので、物質界を描いたものではない。) 聖書と類縁関係にある伝統書などのなかに、この蛇(龍)の意識についての伝説が残っている。しかし、アーリマンの影響からくる意識については語られていない。神秘学が教授されてきた学院にだけ、アーリマンの影響からくる意識が認識されてきた。そのため、福音書の著者は、アーリマンの力も考慮に入れた。 マルコ福音書には、荒野での誘惑(1章12-13)の話以外では、「デーモン」という悪魔について語られている。「デーモン」という言葉はギリシア語から採られた。しかし、アーリマンについて語られるときには、「サタン」という言葉が使われた。 マルコ福音書、マタイ福音書に出てくる、この二つの言葉の重要な区別に注意を払っている人はどれくらいいるのか? 顕教を語る人の大半は、そのような微妙な差異に気づきもしない。物質的な解釈の伝統のなかには、(霊視力を失ったので)このような区別が存在しない。(P172-P175) (端的にいえば、ルシファーは、自意識過剰な自己意識のことで、アーリマンは、その自意識過剰な基に生じる自己顕示欲や物欲や支配欲などをもつ自己意識のことである。キリスト意識は、この2つに均衡をもたらす中庸の自己意識のことになる。) 民族霊と自我の変容(改変) イギリスで議会政体がはじまったのは、世界史の舞台に意識魂の発達の兆しが現われたことを意味する。(P197) 万里の長城はアトランティスの思い出として築かれた(改変) アトランティスの文化を保管し、アトランティス後の時代にもたらした文化が、古代インド文化の他にもある。インド人はエーテル体に独自にアプローチし、エーテル体の特性から、エーテル体の力をもって偉大な文化と精神生活を創造した。 (ヴェーダ哲学として残っている。ヨガが有名。ヨガはエーテル体の制御法である。釈迦などが生まれた背景。) もう1つアトランティス文化に由来する文化で、アトランティス後の時代に持ち込まれた文化がある。その文化はエーテル体の意識の別の面を形成した。それは中国(中華)文化である。 エーテル体との関係に注目し、アトランティス文化が先に述べた「偉大な霊(大天使)」と直接的な関係を持っていることを知っていれば、中国文化の特徴がわかる。この文化は、宇宙の進化のかつての(古い)最高段階と直接的な関係を持っていた。 この意識の相違からインド文化と中国文化が、アトランティス後の時代において衝突し、対立したことも理解できる。進化の可能性を持ったインド文化と、アトランティス時代にあった意識を繰り返し保持し、新しい意識を拒んで硬直した中国文化である。 中国の発展を観察すると、オカルト的-学問的-詩的な印象を受ける。例えば、あらゆる方向に築かれた中国の石塀(万里の長城)は、アトランティス後の時代に発展した意識を遠ざけようとしている表現に他ならない。 中国の石塀は、詩的-オカルト的な感じがする。今日の学問的な研究成果と比較すれば、いま述べたことが事実をいかに解明するかがわかる。 アトランティス大陸を霊視で考察してみれば、アトランティス大陸は今日のアフリカやヨーロッパとアメリカの間の大西洋にあった。アトランティス大陸は暖流に囲まれていた。 奇妙に思えるだろうが、霊視によると、暖流の流れは南から北へ、バフィン湾を通ってグリーンランドに向かって行き、グリーンランドを囲むように東に向かっていった。そして、シベリアやロシアがまだ海中にあった頃、暖流から次第に冷えていくその流れはウラル地方を下り、方向を変えて、東カルパティア山脈に触れ、今日のサハラ砂漠のほうに流れていった。 そして、ビスケー湾でまた大西洋へと至った。このように一巡する流れだった。この流れの名残がメキシコ湾流である。 バフィン湾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E6%B9%BE 東カルパティア山脈 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E5%B1%B1%E8%84%88 ビスケー湾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E6%B9%BE 古代ギリシア人の心の営みはもっぱら(過去の)思い出からなる。古代ギリシア人には、この暖流の流れが、アトランティス時代の思い出であるオケアノスのイメージとして現われてきた。古代ギリシア人の宇宙像はアトランティス時代からの思い出からなり、この宇宙像(太陽像)は、それほど間違ってはいない。 オーケアノス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%82%B9 スバールバル諸島を越えて下っていく(アトランティス大陸の)暖流は次第に冷えていく。この一巡する流れを中国人は、アトランティス時代から保持された文化のなかで、石塀で囲まれた万里の長城に形式的に再現した。 スバールバル諸島 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AB%E8%AB%B8%E5%B3%B6 アトランティス時代には、歴史というものはまだなかった。だから、中国文化も歴史ではわからない未知の性格を持っている。中国に、インド以前の、アトランティスに由来する文化が残っている。(P200-P201) ☆ ☆ ☆ 八切史観の日本史でいえば、日本人は古代中国文化(律令制度)を受け継いでいることから、アトランティス文明を受け継いでいることがわかる。古代中国文化とは、中華思想の皇帝文化で、ルシファーを頂点とする奴隷思想に近いものである。これは古い意識を受け付けないので、律令カースト制度を受け継ぐ現在の官僚制度の性質をよく現わしている。
2014年02月04日
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前回は、世間でいう「ゆとり教育」と「詰め込み教育」をオカルトから考察し、シュタイナーの話を紹介した。 シュタイナーは、教育とは自己教育でしかありえない、とも述べているが、キリストが説く無償の愛とは、完全に独立し、自立した自己意識でないとありえないのだから、とどのつまり、自分で自分を教育するしかないのである。 例えば、現代人は、食物を食べないと生きていけないから、ある意味、食物の奴隷であり、食物をつくるのをカネで買わないといけないから、カネの奴隷となっているわけで、逆説的にいえば、カネで買う分、自立生活をどんどん切り離し、何も自分でできない怠惰を生んでいることになる。 このことは、電卓を使えば、暗算できなくなり、ワープロを使うことで、漢字がかけなくなることでわかる。何かに頼る分、どんどん馬鹿になる。このままいくと、自分の人生も他者に委ねるカオナシ君になってしまう。 教育とは、本来これとは逆に、カネがなくても生きていけ、食物を食べなくても生きていけるように、人間を環境から独立させることだから、この現代人の怠惰な流れとは逆向きになるはずである。 このまま進むと、カオナシ君のように、人間はますます自立できなくなり、現代教育は、現代教育自身を否定し続け、分離することで、生き残ろうとする傾向になる。つまり、現代教育とは、無駄だとわかっていることを、わざわざ無駄と否定するために行なうクダラナイ代物になっていくのである。 このことは予算消化のためだけの公共事業をやっている土木会社をみればわかる。原発再稼動も同じで、国から独立できない無駄な事業だから、国家の財政に寄生しようとする。 さて、このような怠惰な方向とは逆に進むために、前回のシュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 古代の太陽観 現代の物理学者や天文学者は、地球から約2千マイル離れたところに巨大なガス体(太陽)があり、さながら、それは燃焼している宇宙の巨大なガス・コンロのように思い込んでいる。 このガス・コンロは壁の前に置かれていないので、あらゆる方向に、光と熱を放射している。これが現代人の唯一の太陽観である。 けれども次のことを考えてみてほしい。 地球上で、我々は、光に包まれて立っている。周囲の至る空間から光がやってくるが、その光をそのまま反射するような鏡はどこにもない。光は進めば、どこからも戻ってこないので、光がどこかに進んでしまった空間は完全な闇になり、何も見えない完全な闇になるはずである。 光が進んでしまった空間は、完全な闇になるはずである。光がどこかで捉えられ、反射し戻ってこなければ、全くの闇になるはずである。 だから古き良き時代には、天上には、巨大なガス・コンロがあるなどとは思わず、そこには空虚な空間、というより、空間にならない空間があり、いわゆる負の空間になっている、ということを知っていた。 今日の物理学者が太陽のところまで出かけていったら、きっと吃驚仰天するだろう。巨大なガス球があると思っていた場所には、そんなものはなく、想定された通常の空間もなく、空間が抜き取られたような空間の吸収力が働いているからである。 空間がスッポリ抜かれた領域が存在する。空間が至る所にあれば、負の空間、マイナスの空間もある。ただその際、「通常の空間よりもマイナスである」という言葉を具体的にイメージしほしい。一文なしの状態よりも、更にマイナスな状態、つまり借金している状態のようにイメージして欲しい。 しかし空間は一定の境界をもつので、負の空間が宇宙の光を捉えると、光を通過させずに、そこで光の反射を受けるので、そこで、眼に見える太陽となって現われる。その負の空間の至る場所に光が現われる。 太陽という存在は、光を反射する存在であり、光を至る処へ向けて放射する反射機関なのである。 宇宙の光は古代ギリシア人の考え方によれば、その起源を黄道の獣帯よりも更に遠い領域にもっている。それは遥かな宇宙の果てから来る。我々の空間(3次元)の延長上からではない。 しかし、宇宙の光が補足され、太陽により可視化されると、太陽光により、惑星の力よりも高次の「自我の作用」を生じさせる。 太陽が自我と結びつくのは、太陽が空間よりもマイナスの存在であり、空虚な空間よりも更に空虚であり、太陽の存在する領域では、全物質が存在をやめて、霊性が吐き出されるからである。 だから古代ギリシア人は、存在全体を霊的に理解していた故に、自我を太陽と身近に感じた。 西暦6世紀まで、特に4世紀中葉までは、西洋の人びとは天を見上げれば、霊界へ参入できるという、生き生きとした感情を持っていた。だから、人智学で、惑星について述べるときは、眼に見える物質的な惑星ではなく、天使、つまりヒエラルキアの存在のことである。 つまり惑星をつき動かす存在のことで、この霊性を生き生きとイメージできれば、この世の自分を、人間としては、これまでとは全く別様にイメージできるはずである。(14歳からのシュタイナー教育 P154-P155) 新しい建築様式への道 馬は透視能力なしには人間を観ることができない 人間が、この世界を見ているように、動物も-高等動物もまた-同じように見ていると信ずるのは無意味である。この点については、現代人は正しいことを全く理解できないでいる。 例えば、現代人が、馬の傍に立つとき、彼が馬を見るのと全く同じように馬も彼を見ていると信じている。馬が眼を持つからといって、人間が馬を見るように馬も人間を見ていると信ずることは、現代人にとってはごく当たり前な思い込みである。 しかし、やはりそれは馬鹿げた間違いである。というのは、人間は透視能力なしには天使を観ることができないが、同様に馬も透視能力なしには人間を観ることができないからである。 というのも、馬から観える人間は、単なる物質存在ではなく、精神存在として映るからである。馬はある特定の透視能力に恵まれているが故に、馬にとっては天使にあたるような人間を知覚できる。 (馬は人間のこころをみているようである。) 馬が人間の中に観るものは、人間が馬の中に見るものとは全く別物であり、歩き回る人間は高等動物にとっては、まさしく幽霊のような存在なのである。もしいつか動物が固有の言葉で、現代人が、今日の動物に叫ばせる《語らせる》ようにではなく、語ることができたなら、動物は人間を自分たちと同等の存在と看做すことは決してなく、自分たちよりも高等で、霊的な存在と看做すことを人間はきっと理解するだろう。 自らの肉体が血と肉から成り立つと動物たちが考えたとしても、彼らは決して人間を血と肉から成り立つとは考えないだろう。(P214) 民族魂の使命 民族とは何か 民族とは、ある一柱の大天使によって導かれる人々のグループのことである。民族の成員の各々は、民族の一員としてなにをおこなうべきかについて、大天使から霊感を得る。地上の人間が各々異なっているように、個々の民族霊はそれぞれ異なっている。 (人間が馬のもつ透視能力をもつと、民族霊がみえるそうである。) 様々な民族グループの各々のなかに、アルヒアンゲロイ〔大天使〕は個的な使命をもっていることがわかる。世界史のなかで民族が民族に続き、また民族が民族に並んでいることを霊的に解き明かすと、民族に生起する出来事全てが、その霊(大天使)から霊感を受け取っていることを、少なくとも抽象的な形でイメージできる。(P26-P27) (馬が透視能力をもつのは、馬の種全体の霊から霊感を受け取るためである。) 民族のオーラと土地のオーラ 地表の様子は、地域によって異なっている。地上の様々な場所に、民族の特徴や個性を発展させる様々な条件が与えられている。その地方の気候や、植物相、水質などが、その他の自然環境などとならんで、民族の特性や特質などに現われる決定的な要因となる、と唯物論者は説明する。 物質思考や唯物論者が上記のように説明するのに驚く必要はない。物質界での意識は、目に見えるものしか認識できないからである。霊視力をもつ意識にとっては、これとは全く異なって観える。 霊視力の認識をもって、地上の様々な地域を歩きまわると、それらの土地の植物の物質形姿や岩石の配列のなかに、その地域について知り得る情報全てが含まれていないことがわかる。 唯物論的な思考の持ち主にもわかりやすく、その地方独特のニュアンスや、その地域のオーラについて抽象的に語るなら、霊視から、それぞれの地域に独特の霊の雲の姿、その地域独特のエーテルのオーラが映る。 スイス、イタリア、ノルウェー、デンマーク、ドイツなどで、そのエーテル-オーラは、全く異なったものになっている。人間各自が独自のエーテル体を持つように、地上のそれぞれの地域は独自のエーテル-オーラをもっていることがわかる。 このエーテル-オーラは、人間のエーテル体のオーラとは本質的に異なっている。人間のエーテル-オーラは、人間が生きている間、すなわち生まれてから死ぬまでの間だけ、その人間に結びついている。 人間のエーテル-オーラは物質体に結びつき、人間が知性、道徳性などに関して進歩を遂げることでのみ変化していく。人間のエーテル-オーラは、内面から変化していく。内面から輝くものを取り入れる。様々な地域に知覚されるエーテル-オーラは異なっている。その地方のエーテル-オーラには、確かに基調があり、長い間持続するが、このエーテル-オーラのなかには、素早い変化も観られる。 人間のエーテル体のオーラは内面からゆっくりと変化するが、土地のオーラには素早い変化も観られる。これが、土地のエーテル-オーラと人間のエーテル-オーラとの違いで、様々な地方のオーラは、人類の歴史のなかで、民族が土地を捨て、他の場所に移住すると変化する。 土地のエーテル-オーラの在り方は、その土地から発するだけでなく、どのような民族がその土地に居を定めるかにもよる、という特徴がある。 人間の運命の真相を追究するなら、その地域のエーテル-オーラの絡み合いを追究すべきである。民族移動の頃のヨーロッパのエーテル-オーラは、いまとは非常に異なっていた。このことから、土地のエーテル-オーラが変化することが、わかるだろう。 ある地域のエーテル-オーラは突然変化し得るもので、その変化はある意味、外からもたらされ得る。ある地域のエーテル-オーラは、その土地に由来するものと、民族の移動によってもたらされるものとの合流なのである。(P35-P37) 様々な地方のオーラは人類の歴史のなかで、民族が土地を捨て、他の場所に移住すると変化する。土地のエーテル・オーラの在り方は、その土地から発するだけでなく、どのような民族がその土地に居を定めるかにもよる、という特徴がある。P36-P37 民族は枝分かれすることがある ドイツ民族と共通の基盤を持っていたオランダ民族が分離したのは、そのような事情からでした。オランダとドイツは本来、共通の大天使をもっていた。(P69)またスペイン民族とポルトガル民族は、1つの民族を形成していた。(P70) 地球の力 アフリカでは、地球の力が幼年期の特徴を表現し、アジアでは、地球の力が青年期の特徴を表現し、ヨーロッパでは、地球の力は熟年の特徴を表現している。これは1つの法則である。 人間は輪廻転生をとおして、様々な人種に受肉していくので、誰かがヨーロッパ人は黒人や黄色人種よりも優れているというような異説を唱えようとも、実際は、そのような差は存在しない。(P87) ヨーロッパ人が侵入してきたのでインディアンは滅びたのではなく、インディアンは死へと導く力を受け取らねばならなかったので滅びた。(P88) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2014年02月03日
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先日テレビで「ゆとり教育は間違いか?」を討論していた。この討論を行なう以前に、教育は押し付けではなく、ゆとり教育は、それ以前の詰め込み教育の反省からでてきたということを考えないと、お互いの相違点を理解しあうのではなく、自説を相手におしつけようとするだけの議論を永遠と繰り返すのをみせつけられることになる。 繰り返しの議論がつまらなくなれば、視聴をやめたらいいというだけの代物に代わり、オカルト的に、教育を考えてみる。 まず、詰め込み教育がどうして生まれたのか、そして、詰め込み教育の弊害から、ゆとり教育がどうして生まれたのかを、自説で相手を論破する以前に、教育者は研究しないといけない。両者が補完し得るものであるとする認識もない。他者を教える前に、教える教育の質の長所と短所を充分に理解することが教育者の義務である。 それよりなにより、両者の長所を取り入れ、両者を選択できるようにもなぜ考えられないのかも、不思議におもう。お互いの欠点だけを批判するだけでは、後戻りするだけであろう。 私が知る限りでいえば、詰め込み教育の長所は、基礎学力がつくことにあり、ゆとり教育の長所は、好きな科目に集中できるという点にあると思う。つまり、両者を使い分けるカリキュラムを考えればよいのではないだろうか。 一見すると、詰め込み教育は広く浅く、ゆとり教育は狭く深くの違いがあることがわかるが、これは教育を唯物論的に、人を型にはめるものだと考えているためで、実は、個人の立場から、必要な理解や技術の獲得のいわゆる自己教育の進み具合の立場から考えると、同じであることがわかる。 つまり、個人個人の進み具合による。例えば、数学を楽しむには、公式をある程度知らないといけないが、公式に親しむには人それぞれの個性を考えないといけない。勿論、数学なんぞを、わざわざ苦しんでまでも楽しみたいと思わない生徒もいるだろう。その際に、重要なのは、生徒の態度ではなく、オカルト的にいえば、実は数学教師の数学への態度にある。 数学教師が数学を楽しいと思わなければ、少なくとも生徒が楽しいと思えるわけがない。生徒というのは、数学そのものよりも、数学の先生の個性に影響をうけるからだ。 シュタイナーが説いているように、肉体はエーテル体に、エーテル体はアストラル体に、アストラル体は自我に影響をうけるから、生徒は、教師の数学への姿勢に影響をうける。 このことは、自分が若いとき、子どものときを考えてみれば自ずとわかるはずである。好きな科目、嫌いな科目は、それを教える先生に対する好悪の影響を受けていたはずである。 例えば、数学の先生が憧れの対象であれば、どんなに詰め込み教育をしても、生徒は先生のようになりたいと思っているから、自主的に受け入れるはずである。逆に、見下す対象ならば、ゆとり教育をしても、全く受け入れる余地はないだろう。 まずは、生徒の目線にまで、教師は降りていかなければいけない。 教師は数学が使えると色々なことがわかり、楽しいことをみせつけないといけない。数学の世界の楽しさを生徒の目線で表現してやる必要がある。時には数学に命をかけることもあることを教えないといけない。命をかければかけるだけ自分も生かされるからである。 教師はすでにある程度の学力を開発しているので、まっさらな白紙からはじめるのは苦痛の何者でもないだろうが、学力の再確認にもなる。学ぶ姿勢は個性によるので、稀に生まれながらの天才(前世で獲得した学力)を発見するかもしれなく、ただ現代にどう表現してよいかわからない場合もある。 学ぶ姿勢とは、真実を探求する方法であり、どうしても個性によらざるを得ない。他者からみれば到底理解できない方法もあるから、価値観の押し付けはよくない。 しかし、一人一人の個性に応じるには、どうしても経験豊富な教師の数を増やさないといけない問題に遭遇する。例えば、フィールズ賞受賞者などの第一線での数学者を現場に一時的に呼ぶとしてもカネがかかるわけである。 このように考えていくと、詰め込み教育の弊害が、現場での、どうしても教員の数が少ないことから生じてきたことがわかる。つまり、教員数を増やそうとせずに、ゆとり教育で誤魔化してきたことがわかる。結局、教育行政の問題にあることがわかる。 しかし、現代はネット環境で、わざわざ第一線の研究者などを現場に呼ばなくても、生徒側が興味をもてばいくらでもアクセスできるような時代になっている。ヴァーチャルに、研究者の姿勢が伝わるのかという問題も考えないといけないが、ゆとり教育を行なうには十分な教材がある。 そこで、より教育をオカルト的に考えるのによいシュタイナーの話を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 14歳からのシュタイナー教育 全人教育(改変) 教育者はなんらかの教材をこなすだけでなく、特に子どものこころとからだの関係に注意を払う授業ができなければならない。 「人間であること」に常に意識を向けなければならない。人間を全人として受けとめ、睡眠中にも非常に活発に生きている存在であることを知っていなければならない。 睡眠中の働きを顧慮できず、できてもせいぜい睡眠時間の注意しかできないのが今日の授業態度である。授業で学んだことは、睡眠中にも作用し続ける。このことが理解できていない。 すると、どうしようもない結果が生じてしまい。すなわち、睡眠中のこころが、からだの外に出ていくことを無視することで、人間をロボットにしてしまう。 今日の教育と授業は、多くの点で、人間性の育成の教育と授業ではなく、人間ロボットの異様な形態を育成する教育と授業で、その典型が上級公務員採用試験制度などである。今日では全教育が本質的に上級公務員試験を目ざしている。 この試験制度の本質は、人間がもはや人間ではなく、1つの終結した機械やモノのような典型的な存在である、と考えることにある。上級公務員採用試験候補者であれば、その人間がAであるかBであるか、XであるかYであるかは、どうでもよい。 (ただ組織の歯車として、少数の上位者の言いなりになればよいという発想。この発想は、キリストがもたらした自我意識とは異なり、反キリスト的でもある。) このことは、起きている時の人間にだけ、教育者が眼を向けてきたことに基づいている。そもそも教育者は、人間の霊性を否定することで、眠ってから起きるまでの睡眠中のことを何も考えようとしなくなった。 近代哲学では、このことが愕然とするほどに、デカルトにもベルグソンにもあらわれている。いずれの哲学者も、自我を人体のなかで継続するものと主張している。人体のなかにだけある自我に常に眼を向け、自我の中に現実を見つけるべきである、という。 しかし、はっきり次のように問いたい。 「人間は眠りはじめると、人間という活動的な存在をやめ、起きるときになって、やっと再び活動的な存在をはじめるのか?」と。 というのは、睡眠中、自我を、人体のなかには見つけられないからである。その間の自我は人体内には(この世には)存在しない。 だから、デカルトやベルグソンの主張する人間という存在は、「私は思考する。故に私は存在する」ではなく、「私は1867年6月2日の朝6時から夜の8時まで思考した。それ故、私は、この時間内にだけ存在した。次に私は翌日の朝6時から夜8時まで思考した。それ故この時間内にも存在した。」となる。 このような立場では、人間という存在は一貫性をもたなくなってしまう。睡眠中の人間の存在を無視しなければならなくなる。けれども、このように考えようとはしない。というのは、起きているときに考えた様々な理念や抽象概念だけを真剣に受けとるために、根底にある人間の本性の事実を真剣に受けとろうとしないからである。 教育を行なう授業は、この睡眠中も人間は活動しているという「現実」に向き合う時にはじめて、「人間」が教育できる。立派な教育制度が作れるかどうかを心配する必要はない。「人間」として教育された人間が、人間の教育を行なう制度ができればいい。 独立した精神でなければならない理由は、まさに、このような現実の中に見つかる。教育制度は国家がつくってくれるのではなく、人間の教育の結果として生じる。精神は、国家や経済の付属物ではない。人間の精神は、自分の中から自らを発展させていくべきものだからである。(P69-P71) 音楽と想像力 想像力が乏しく、イメージの浮かび上がりにくい子どもには、なるべく楽器の練習をさせるとよいだろう。一方想像力の豊かなイメージに悩まされがちな子どもには、その極端な場合にも、なるべく歌唱の練習をさせるとよいだろう。 もし同時に一緒に演奏したり歌ったりできれば、-そのためには音楽室が必要になるが-最高だろう。音楽に耳を傾け、そして同時に音を出すことができれば、子どもの心は調和される。(P86) 現代教育の実相 人間の内面(精神)生活にとって、教育はまったく不必要なものになってしまった。今日の教育は、せいぜいのところ、外面的な人間関係に秩序を与え、機械的に人間を働かせるために役立っている。現代人は、そのように働かされるための準備を受けている。人間として必要なものは、そこから受け取れない。教育は血や肉の中に入っていかない。 現代の教育は、もっぱら知性だけに留まっている。感情と意志のためには何も役に立たない。教育上、子どもに良い影響を与えようとすると、せいぜいお説教するしかない。外側からあれこれ言うしかできない。しかし内(精神)的な働きかけは何もできない。 だから、今日、若者たちの前に立つときには、大人側の恐るべき虚偽が働いている。良き人間にならなければならない、と大人は言うが、良き人間であり得るための何かを、若者たちに与えてはいない。 (悪いことをしても責任をとろうとしない。原発再稼動問題は、この典型である。悪しき社会制度をつくりながら、良い人間を求めている。大人たちの贅沢で退廃的な生活のために、若者を犠牲にしている。) 若者たちはただ、権威に従うように、大人に従うことができるだけである。高齢になるまで、サーベルをつけた姿で若者たちに向き合おうとしている。もしも若者たちが従おうとしないのなら、いつかは警察の力をかりなければならなくなる。大人たちが言ったことを、警察の手で実行させようというのである。 人間の内面(精神)生活に何の役にも立たない頭だけの認識では、若者たちに手を差しのべることができない。こころとからだを相互に関係づけなければならない、この重要な人生の一時期の若者たちにである。 生きるために、こころをからだと結びつけようとしている若者たちに対して、何をすることができるのか? どうぞ、この問題をよく考えてみてほしい。いまは、主として、大人たちの感情を呼び覚まそうと努めた。この問題は世界全体の問題でもある。特別に重要な一時期を迎えている子どもの魂への通路を今見つけなくてはならない。(P138-P139) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
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