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人類の進化の目的を一言でいうなら、魂の治癒力の獲得だろう。魂の治癒力がどのように獲得されるのかを知るには、シュタイナーの魂の進化の話が有用なので、あるサイトから宇宙と人類の歩みの話を紹介する。 ★ ★ ★ 宇宙と人類の歩み http://blog.goo.ne.jp/steineranthroposophy/e/81114cb6c5396b3ad0b39d18ea7a3482 土星=熱(エネルギー)-状態 肉体は人間の最古のもので、人体のなかでは最も不変なものである。 人間だけでなく、地球も進化しており、地球は何度かの転生を経ている。最初の土星紀では熱(エネルギー)の状態、ついで太陽紀では空気(気体)の状態、そしてその次の月紀には水(液体)の状態だった。 土星紀は、熱だけだった。その熱だけの天体は音響を発し、外から来る光・音・匂い・味などを反射していた。その熱の天体で、人間の肉体の萌芽、つまり感覚器の萌芽が形成されていった。生命(エーテル体)・心(アストラル体)・魂(自我)はまだなかった。鉱物・植物・動物もいなかった。 土星紀の人間の意識は漠然とし、混沌としたものだった。今日の昏睡状態で、いわゆる物質(鉱物)の意識である。 土星紀の初期は、物質に伝わる低次の熱はまだなく、精神(霊)に伝わる高次の熱のみがあった。中期に、高次の熱から人間の肉体が形成された。 〈意志の神々(意志霊=座天使)〉が自らの本質を人体のために流出した。ついで〈人格の神々(時霊=権天使)〉が人体に宿って、土星紀の人間の進化段階(土星人)を通過した。そのあと、土星は宇宙の眠りに入った。 太陽=空気(気体)-状態 宇宙の眠りのあと、熱の土星が新しい天体として誕生した。気体からなる太陽である。太陽紀の初期は土星紀の熱の状態を再度短く繰り返した。中期に土星の熱が気体へと凝縮した。気体は熱を保ち、大気に進化した。光が生まれ、気体からなる太陽は輝き・響き・香りを発した。 太陽は大気から注がれる光・味・匂い・熱などを、自らのなかに浸透させて(受け取って)から反射した。太陽紀に〈叡智の神々(叡智霊=主天使)〉が自らの本質を人体のために注ぎ出し、人間に生命が与えられ、今日のエーテル体をもつ植物の段階に達した。 生命が組み入れられたことで人体は変化した。栄養摂取器官・分泌器官・消化器官・生殖器官などが加わった。人体は、熱の波動の卵となり、熱の光で輝いたり消えたりした。 太陽紀に、〈炎の神々(火の霊=大天使)〉が人間の進化段階(太陽人)を通過した。〈炎の神々〉は人体に宿って、個の意識(個の魂)を得た。 太陽紀には、人間の進化段階・個の意識(個の魂)に到らなかった〈人格の神々(時霊=権天使)〉もいた。この神々は太陽紀に、進化の遅れを取り戻さなければならなかった。この神々は太陽で、生命(エーテル体)を与えられていない人体にだけ受肉できた。だから太陽紀に、再度、肉体のみからなる人体が発生しなくてはならなかった。この人体が今日の動物の祖先となる。 月=水(液体)-状態 空気(気体)の太陽は、水(液体)の月として生まれ変わる。月紀ははじめに、土星紀の熱の状態・太陽紀の空気の状態を繰り返し、肉体と生命(エーテル体)が形成された。次いで、水(液体)が付加された。 やがて、太陽が熱と光を伴って、水(液体)の月から出ていった。高次の存在(大天使以上の神々)も、月から出ていった。月は、太陽のまわりをまわるようになった。月は音に浸透され、規則正しい運動を与えられた。 音のリズムを体験することによって成熟した人体は、魂(心)を受け取った。〈運動の神々(運動霊=力天使)〉が、自らの本質から、人間に魂(心)を流出した。人体に神経組織が発生し、人間は動物の段階に達した。 月紀に人間の進化段階(月人)を通過したのは〈黎明の神々(薄明霊=天使)〉だった。 太陽紀の進化段階に取り残された〈炎の神々〉は、肉体と生命(エーテル体)しか持たないものを作った。それが今日の動物界の祖先だ。月紀に肉体しかもたなかった存在たちは、今日の植物界の祖先となった。 植物の性質を持つ鉱物(物質)、鉱物の性質を持つ植物が、月の固体・液体状の土壌を形成した。月は運動する生命体であり、その上で生きる生命体たちは、自分を月の寄生生物のように感じていた。 (月紀の自分を寄生生物のように感じたことが後の略奪者となる。) 月紀には、人間は外界の事物を知覚できなかった。人間が知覚できたのは、今でいう夢のようなもので、生命体のイメージを夢でみるようなものだった。魂の内で上昇・下降する生命体のイメージである。このイメージは外界とも関係し、人間は外界を魂の内の夢のイメージでみて、そのイメージに導かれていた。魂(心)は、肉体と生命(エーテル体)を遥かに超え聳え立っていた。 月紀には、人間はまだ魂の内に、熱をもたなかった。人間は周囲にある熱を受け取り、その熱を再び流し出していた。 ポラール時代とヒュペルボレアス時代 やがて月紀は宇宙の夜のなかに消え去り、宇宙の夜から地球が出現する。地球は自らの内に、太陽と月を含んでいた。このころの地球はエーテル(液体)状で、今日の土星の軌道ほどに大きかった。地球は霊的な大気に包まれ、人間の心は上空にあって、地上の人体に働きかけた。 地球は最初に、土星の熱(エネルギー)状態・太陽の空気(気体)状態・月の水(液体)状態を繰り返した。そして、人体に血液が組み込まれた。 土星の熱状態の繰り返しの間に、地球から土星が分離した。太陽の空気状態の繰り返しの間に、木星と火星が分離した。ついで月の水状態が繰り返され、太陽が地球から分離した。太陽は、地球から分離したあと、水星と金星を放出した。 太陽と月と地球がまだ一体であった時代がポラール時代、太陽が地球から出ていった時代がヒュペルボレアス時代と呼ばれる。ヒュペルボレアス時代の人体は鐘の形をしており、上方の太陽に向かって開いていた。ヒュペルボレアス時代の人間は、子どもを生むと、すぐに自分の魂(心)が子どもの体のなかに入っていったために、死を経験しなかった。 レムリア時代 太陽が分離したあと、地球にとって重苦しい時代が始まった。地球は、まだ月と結び付いていた。生命を阻止する力は、主に月のなかで働く力に属している。この力が当時、地球のなかで強力に作用していた。最も強い魂(心)だけが、御しがたい人体に打ち勝ち、地上に生きた。レムリア時代だ。 レムリア大陸の気温は非常に高く、地球全体が火のように熱い液体のような状態で、火の海があった。地球は火の霧に包まれていた。火・液体状の地球から、島が形成されていった。人体を形成していた実質は、まだ柔らかく、ゼリーのようだった(クラゲのような感じ)。 月が分離していくにしたがって、徐々に人体の改善が行なわれた。魚・鳥(空を飛ぶ恐竜)のような姿だったレムリア大陸の人間は、直立するようになった。脳が発達し、人間は男女に分かれた。そして、人間は死んでから次の転生までの間、霊界に滞在するようになった。 地球紀に人間に霊魂を注ぎ込んだのは〈形態の神々(形態霊=能天使=エロヒム=ヤハウエ)〉である。月が分離したレムリア時代中期になって、霊魂が人間のなかに入ってきた。海と陸が分かれ、人間が大気の空気を吸うことによって、霊魂が人間のなかに入ってきた。 またレムリア時代に人間の魂に働きかけたのが、堕天使ルシファーである。ルシファーは人間を、神々の予定よりも早く、物質界に引きずりおろした。ルシファーが人間の心に働きかけたことで、神々のみが働きかけていたら受け取らなかったはずの衝動・欲望・情熱が、人間に植え付けられた。人間は神々から離反する可能性や悪を行なう可能性、そして自由の可能性を得た。 そのころはまだ自然法則と人間の意志とは分離していなかった。人間の邪悪な情欲は自然に働きかけ、火の力を燃え立たせた。多くの人々がルシファーの影響を受けて、悪へと傾き、レムリア大陸に火の力が燃え上がり、レムリア大陸は、荒れ狂う火によって没落した。 アトランティス時代 助かった人々は西に向かい、アトランティス大陸に行った。霧の国である。アトランティス時代前半には、人体はまだ柔らかく、魂の心の意のままだった。アトランティス大陸の人間のうち、愚かで非常に官能的だった者は巨人の姿になった。賢く非常に精神的な人間は、小人の姿になった。そして、アトランティス時代に言語が発達した。 進化から逸脱した霊の存在のアーリマンが、アトランティス時代中期から、物質のなかに混ざり込んだ。物質は煙に浸透されたように濁り、人間はもはや神を見ることができなくなった。アーリマンは人間の魂を濁らせ、天界を人間の目から隠した。 人間の内面・心を惑わせようとするルシファーと、外から人間に向かってきて、外界を幻影つまり物質として人間に現われさせるアーリマンの二大悪魔がいる。ルシファーは内面で活動する悪霊であり、アーリマンはヴェールのように物質を精神の上に広げ、天界の認識を不可能にする悪霊である。 アトランティス人は記憶力が発達しており、先祖の体験を明瞭に記憶した。アトランティス時代後期に、生命(エーテル体)の天使の輪のように突き出た頭部と肉体の頭部が一致することで、自己意識(自我)が発生した。 アトランティス時代の終わりには、二種類の人間がいた。第一に、アトランティス文化の最高度の地位にいた霊視者たち(アベルの家系=黄金伝説)である。彼らは魔術を通して活動し、天界を見ることができた。第二に、霊視力を失い、記憶に依らない来るべき知性・判断力を準備した人々(カインの家系=神殿伝説)がいた。彼らは計算・概念・論理的思考などの萌芽をもっていた。 アトランティス人は意のままに植物の発芽(生命)力や空気(気体)と水(液体)の力を支配できた。アトランティス人の意志が邪悪なものになり、魂の心の力を利己目的に使うようになったため、水(液体)と空気(気体)の力が解き放たれ、分離してしまい。こうして、アトランティス大陸は水没し崩壊する。 アトランティス大陸には秘儀を行う場(神殿)があり、そこでアトランティス大陸の叡智が育成された。さまざまな惑星から下ってきた人間の魂(心)に沿って、七つの神託が設けられた。太陽神託の秘儀参入者は、魔術力をもはやもたない素朴な人々を集めた。そのような人々(ノアの箱舟伝説)が、アトランティス大陸の沈没から救出され、新しい時代を築いていく。 ポスト(後)アトランティスの時代 ポストアトランティス時代の最初の文化は、インド文化(蟹座の文化)である。アトランティス大陸を沈めた洪水から逃れ、太古のインドに集まった人々は、天界への憧憬をまだもっていた。そこに、太陽神託の秘儀参入者は七人の聖仙を遣わした。太古のインド人は、「物質界は幻影である。私たちが下ってきた天界のみが真実である」と感じた(ヴェーダ哲学ができる)。 つぎの双子座時代である太古のペルシア文化期に、物質界は虚妄ではなく、精神の表現・模像であると認識され、地上を改造しようという思いが現われた(ゾロアスター哲学ができる)。 第三のエジプト文化期(牡牛座時代)では、天空の星々に神的な叡智が込められているのを、人間は見つけた。人間は眼差しを天空に向け、その法則を究明しようとした(後のピュタゴラスの数学につながる)。 第四のギリシア・ローマ文化期(牡羊座時代)に、人間は完全に物質界に下った。そして、外界・物質に、自分の魂を刻み込んだ(ソクラテスの神々との対話やプラトンのイデア論などギリシア哲学ができる)。 ★ ★ ★ 宇宙と人類の進化は遥かに長い道のりなんである。
2014年11月29日
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前回のシュタイナーの話から、内人間(霊魂)の進化と外人間(肉体)の進化が、いまの学問でいう宗教(哲学)と科学の主題に当てはまることがわかるだろう。 だから、医療では、内科学が宗教もしくは哲学、外科学が科学に該当することになるが、どちらにも霊魂が抜け落ちてしまっているので、悪魔崇拝教と無神論になっているわけである。 しかし、霊魂の概念を再び取り戻せば、全てが再び機能し、宗教(哲学)と科学が霊魂を土台に治療学(進化論)として融合することが逆に明らかになる。 さて、前回までのシュタイナーの話からもわかるが、霊魂の自然治癒力を向上させるには、とにかくこの世の物質界をできるだけ生き続けて経験を積むことが何よりも大切であることがわかる。いずれ、この世での経験は、死で終わりになるが、それで終わりになるのではなく、来世に持ち越されるわけである。 このことは有名な般若心経の要点でもある。とにかくこの世の物質界で経験を積みなさいというわけである。この世を生き続けることが修行なんである。自分勝手に死んではいけないのである。自分でこれは私の人生ではないとあきらめてはいけないのである。 この世を生き続けること、ただそれが修行なんである。 この世を正確に捉えるには十分な経験が何より必要である。 物質界での修行全てを終えたら、今度はエーテル界での修行となるわけである。 シュタイナーによるとなんでも物質界での本格的な(それ以前は準備段階)修行がはじまったのが今から約三千年前で、カリユガの時代と呼ばれるそうだ。人間が集合魂から個人的な自我に目覚めるためである。そのため、人間の魂は霊界から離れ、孤立する必要があった。 霊界から離れたので、自我が宇宙の進化から逸脱しないように、キリストが、自我を救うために、物質界に受肉し、3年間にわたり霊界の教えを説いて、自我の死を知り、死後の復活を弟子たちに教えた。 シュタイナーによると、復活後のキリストはエーテル界で活動しているので、再び霊視力を手に入れた人にはキリストがみえるという。次第に予知夢をみる人や前世をみれる人が増え、霊能力を再び獲得し、物質界にいながら、霊界に参入できる人が増えてくるという。 霊界とのつながりを取り戻す方法が、宗教であることが、religion(宗教)の原語の「再び(re)つながる(ligion)」からわかる。この再びつなげるものとは、外界と人間の魂であり、外人間と内人間であり、その外と内を再びつなげるのが、霊魂の自然治癒力であり、ホメオパシーであり、要するに治療なんである。 だから、人間の進化と治療は結びついているわけで、シュタイナーの治療の話を紹介する。 ★ ★ ★ 個の魂の獲得と病気と死と聖母子像 http://ameblo.jp/kmasaaki0911/theme-10063137565.html 人類の進化を、アトランティス時代よりも遥かに遡ると、人間がはじめて霊魂の上で今日のような個の意識(自我ではない)をもつ時代に到達することがわかる。その時代はレムリア時代と呼ばれる。 (この個の意識は、自我ではなく、自分を自分と認識できない意識である。) アトランティス大陸は大洪水で没し、アトランティス大陸から、生き残った民族がアフリカ、ヨーロッパ、アジアに向けて広がっていったが、アトランティス時代より前のレムリア大陸は、火山噴火によって崩壊した。 人間はレムリア時代にはじめて魂の上で個の意識を獲得した。これは人類の進化の上での大きな出来事だった。 では、実際どのように人間は個の意識を獲得したのか?。 この時代の人類をイメージするのは、今日の唯物論的な思考では困難である。当時の人間を、今日の人間のように、肉・血液・骨・筋肉を持った存在とイメージするのは大きな間違いである。当時の人間は今日よりもほとんど液体のようで、揮発性で、柔らかい形姿をしていた。後の筋肉や骨になる器官は、長い時代を経過して固くなっていった。 (いまでいうとクラゲのような存在だった。) 当時の人間の生殖は、今とは全く異なり、当時の人間は、地球の周囲の大気のなかに生きていた。当時の大気は今日のような澄んだ空気ではなく、蒸気に満ちていた。その蒸気の充満する大気のなかに、人間はクラゲのような形姿で生きていた。・・・ このレムリア時代にはじめて両性に分かれ、無性生殖から有性生殖に変わった。今から何百年万年以上も遥か昔のことである。 有性生殖と同時に、個の魂が、今日の自我の原始の萌芽状態で人類に与えられた。それまでは、今では想像もつかない別の形で、自分と同じ姿を生み出していた。当時の外や周囲の影響から、有性生殖と個の魂が生み出された。・・・ 当時の人間は自己を認識できなかった。当時の人間の体験は次のように喩えられる。 自分の行為が周囲に影響を与えることで、その影響から自分が存在することを感じた。しかし、自己は認識できず、周囲への影響を通して、「周囲の御蔭で、自分が存在している」と認識した。 (自己を認識できないので、周囲の大気の奴隷のような状態。) 当時の人類は地球という生命体の懐のなかで、地球の生命力が流れ込んでは流れ出ていたような状態で生きていた。なので当時は、まだ病気がなく、今日のような死もなかった。有性生殖と同時に個の意識が与えられたときから、病気と死が次第に人類のなかに入ってきた。 このことを霊視するなら、「当時の人間は、同じ人間の受精から生まれたのではなく、今日の呼吸のように、周囲から空気を吸い込むように受精されて生まれた」ことがわかる。当時の大気が人類の生殖力を含んでいた。大気の生殖力のなかに光(神々)が進入することで人間を受精させ、大気のクラゲのような形姿の人間を誕生させた。 当時の大気のなかに含まれていた光(神々)による生殖力が、人間のなかの健康になる力(治癒力)となった。大気が産み出した、大気と同じ形姿の人間のなかにも、生殖力が引き継がれていった。 古代エジプトの祭司はこの当時の人類の生殖を知り、「人間の生殖力を、過去の状態に戻すほど、治癒力となり、無病の条件をもたらす」と考えた。だから、古代アトランティスの神々(光)の姿を霊視することは、人間を健康にすると考えたのである。 だから、古代エジプトの祭司は神殿で眠ることで病気を癒した。というのは人間は眠ると霊魂が霊界に行くので、その霊魂を両性による(有性)生殖がまだ行われていない、大気による原始の無性生殖の状態にして、その当時の生殖に必要な光である神々の姿をみれば、治癒力が発揮され、健康になるものと考えたからである。 この叡智から、神殿で眠る病人に、有性生殖ではなく、無性生殖の姿が霊魂に現れると、それは子供を産み出す婦人、つまり子どもを抱いた処女(原始の生殖)のイメージとなった。 それはレムリア時代に人類とともに生きていた女神で、その後、人類の視界から消え去った女神である。この女神を、古代エジプトでは「イシス」と名づけた。・・・ イシスが人類の仲間でなくなり、神々の円卓のなかに戻っても、イシスは霊界から人間の健康にまだ関与している、と祭司は考えた。日常生活とは異なり、神殿で眠ることで、人間の魂が、太古の形姿に戻り、神聖なイシスのイメージを霊視できるようになれば、この女神は人間の病気を癒し、健康にする働きがあると考えた。 イシスは、人間に死が襲いかかる前の原始の人間の象徴だからである。 (このイシスのイメージが、処女マリアになり、子を抱くマリア像の由来になっている。) (有性生殖以降の)死を与えられた人間は、イシスのベールを取り去ることができず、顔をみることができない。イシスは人間にまだ死がなかったときの象徴だからである。イシスは永遠のなかに生きる女神であり、偉大な治療神である。人類が、新しい叡智、つまり再び霊視力を獲得すると、この治療神に出会うだろう。 子どもを抱いた処女なる母、聖母子像の素晴らしい象徴のなかにイシスのイメージが残った。人智学の探求から「聖母子像のなかに原始の生殖力からくる治癒力が保たれてきた」ことがわかる。 聖母子像は一種の治療薬である。眠ったときに聖母子像の夢を見ると、人間の魂に原始の生殖力であった治癒力が現れ、聖母子像は今日でも治癒力を発揮する。 「シュタイナー古代秘儀講義」p99 ★ ★ ★ 現代医療のほとんどが古代エジプト文化に由来するとシュタイナーは述べている。 聖母子像はレムリア時代の地球の大気と人類を象徴するイメージであるという。寝室に聖母子像を飾れば治癒力を高めることができるようである。
2014年11月27日
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前回紹介したシュタイナーの内人間の進化と外人間の進化の話から、医療を改めて考えてみるなら、内人間の進化のなかに永遠の生命を考えるのが、いわゆる内科学、外人間の進化のなかに永遠の生命を考えるのが外科学といえる。 大まかにいって、内人間が霊魂で、外人間が肉体だから、内科学は霊魂の進化を扱い、外科学は肉体(感覚器)の進化を扱うことになる。 そこで改めてこの2つの進化の流れを考えるために、シュタイナー『霊視と霊聴』(西川隆範訳、水声社)から考えてみる。 ★ ★ ★ 顔の変化原因・後編「アリストテレス、シュタイナー」(抜粋改変) http://moneyhelper.seesaa.net/article/1618800.html 『魂のなかをみるには、かつて何千年にもわたり通用してきた霊視力を用いないとわからない。生存競争を強いられ、外界の出来事に囚われ、精神力を浪費している現代人には、そのようなことは非常に困難である。 現代人は、(…)平静な精神統一という概念にいたることはない。(…)現代には、自我の深層(潜在)についての意識がない。(…)毎日、規則的に、短時間でも、日常生活から離れて、以前とは異なる自分の成長を見つめなおす瞑想を繰り返し行う必要がある。』(p13) 『魂において、自分よりも進んでいる(高次な)人を、自我の成長の手本にすると、高次の霊界に通じる霊能力に目覚めるために必要な条件の一つを満たすことになる。』(p16) 『最初は、高次の自我を自分の外に探さないといけない。魂の進んだ人から、自我の成長を学ぶことができる。(…)自分より魂が進んでいる人の立ち位置に、いつか将来、自分も立つようになる。』(p17) 『その人物が本当に尊敬に値する人物かどうかというよりも、内面から深い尊敬の感情を込めてその人物を見上げることが重要である。尊敬という意味深い感情が、見上げる高次のものへと自分を高める。』(p18) 『立場、職業、地位などに付随するものは、高次の生活に深く導くものではない。どんなに無意味なものでも、自主的に行うことにより、高次の生活に深く導かれる。それ以外の強制された行為などは、高次の生活には全く寄与しない。』(p25) 『醜いもののなかに美しいものを見つけ、外界のあらゆるものに、美しさを見つけるように努める。そうすると、あらゆる事物のなかに、肯定できるものがあるのに気づく。そのように努めることで、あらゆる事物、あらゆる存在を理解するのに必要な寛大さを獲得できる。』(p26) 『自分の主張に対して、より厳密な意味で責任を感じないといけない。』(p40) ★ ★ ★ 以上は内人間の進化について書かれているようにみえる。主に自我の成長が説かれている。続いて、以下にシュタイナーの黙示録の話を紹介する。 ★ ★ ★ 黙示録「第一の封印」にある人間進化 http://ameblo.jp/kmasaaki0911/theme2-10073135288.html 宇宙との関係から人間の進化のイメージは「黙示録」の封印に書かれている。・・・ 第一の封印には、白い衣の人が描かれている。 その人の足は金属・真鍮(青銅)のようで、口からは炎の剣が突き出ている。右手のまわりには土星・太陽・月・火星・水星・木星・金星の印がある。 ヨハネの「黙示録」を知る人は、このイメージによく一致する叙述があるのを思い出すだろう。ヨハネは秘儀参入者なので、この封印は、全人類の理念を描いている。 人類の進化を遡ると、人間がまだ不完全な段階にあった時代にいたる。 例えば、今日肩の上にある頭はまだなかった。・・・頭は次第に発達してきた、これからも益々発達していくだろう。 今日、人体のなかには進化が終結した器官がある。このような器官は、将来もう人体のなかにはなくなるだろう。 まだ進化していく器官もある。例えば、人間の喉頭は今日まだ進化を始めたばかりで、喉頭はいつか霊器官へと進化し、生殖器となるだろう。人間は今日、喉頭で発声し、言葉をつくっていることがわかれば、人間の将来の生殖器をイメージできる。 いま、私(シュタイナー)が話し、聴講者はその言葉を聞いている。この部屋が空気に満たされ、空気のなかに振動音が生じることで、言葉が耳や魂に伝わる。例えば、いま「世界」という言葉を発音し、その空気の波動ができることで、「世界」という言葉が受肉したともいえる。 このように、いまの人間が行うのは物質(鉱物)界での出産である。空気の運動は気体という物質の運動である。喉頭を通じて、人間は周囲に物質的に作用する。 しかし、人間はこの物質(鉱物)段階から進化し、いつかエーテル(植物)的に作用できるようになるだろう。物質的な運動(振動)だけでなく、エーテル(植物)的な運動(振動)も引き起こせるようになるだろう。人間はエーテル(植物)を語りだすようになるだろう。 更に次の進化段階では、人間はアストラル(動物)を語りだすようになるだろう。 そして、最高の進化段階では、人間は喉頭を通して人間自身(自我)を生み出すようになるだろう。いま人間は、自分の理念(自我)の内容を言葉でしか語れないが、将来は、人間自身(自我)そのものを語り、生み出せるようになる。 人間が将来、(いま自分自身を作り出している)自我を語り生み出すようになるのと同じく、人類の先駆者であった神々は、人間が将来手に入れる霊的生殖器によって、いま存在する事物全てを語り造り出した。神々は、人間・動物他被造物全てを語り造り出した。 万有万物は、神々の言葉から発せられた。 「初めに言葉があった。言葉は神のもとにあった。言葉は神であった。」・・・ヨハネは原初の事実を述べたのである。・・・ そして、人間の進化の終りにも言葉があるだろう。創造とは、言葉そのものを実現することである。将来、人間が生み出すものは、言葉そのものの実現である。 (だから、嘘をつけない。嘘をつくとそのまま破壊となる。) そのとき、人間はもはや今日のような物質の形姿ではないだろう。かつての土星紀のような火(エネルギー)の形姿にまで人間は進化しているだろう。 (かつての土星紀の現在「地球紀」の名残りが人間のもつ体温である。) そのように、宇宙進化の始まりでの神々の創造力は、宇宙進化の終わりでの人類の創造力に結び付く。 今日、宇宙にある万有万物を語りだした神々は、人類の偉大な模範である。神々が、土星・太陽・月・地球・木星・金星を語り造り出した。 地球紀の前半が火星紀、後半が水星紀にあたる。また、この七つの天体は、人間がどのような高みにまで進化できるかの印でもある。地球は最後に再び火(エネルギー)にかえる。人間は、その火のなかで創造的に語ることができるようになる。 これが、第1の封印のイメージのなかの人間の口から突き出ている炎の剣の意味である。最終的には全てが火(エネルギー)にかえる。だから、人を支える両足(肉体)は火に溶けた金属(物質)・真鍮(青銅)のようになる。この第1の封印のなかに、進化の意味が見事に示されている。 「黙示録的な現代」p175 ★ ★ ★ 以上の黙示論の話は、外人間の進化についてである。いま人間の自我は、その理念の内容しか言葉で表現できていないので、嘘もつける。 だから、自我が肉体の感覚器から正確に外界を捉えていれば、外界と巧く関係を構築でき、自我の理念を実現でき、理念が真実となるが、外界を正確に捉えられなければ、病気に罹り、治るか死ぬかで、感覚器を作り変えていくことになる。さて、更にシュタイナーの進化の話を紹介する。 ★ ★ ★ 第二・第三の封印 今日の人間を動物と比べると、両者の相違は「動物が内に持たない自我を、人間は個人として内にもつ」ことがわかる。人間は個的な魂をもち、動物は集団的な魂(集合魂)をもつ。つまり、魂の上では、人間個人が、動物の1つの種全体に相当する。 ・・・動物の集合魂は人間の自我に相当する。ただ、(動物の)集合魂は、物質界にまで降りてこないので、アストラル界に霊視できる。人間の自我は地上におり、各個人のなかにいる。・・・ 人間も、昔(約3千年前以前)は集合魂をもっていた。人間は次第に、今日のような各個人で自立した存在へと発展してきた。それまでの集合魂は動物と同じくアストラル界にあったが、肉体のなかに住むために降りてきた。 (人間も集合魂のときは動物と同じ予知能力をある程度もっていた。自我が地上の肉体に降り、個人の認識をもつとともに予知能力も予知夢となり、肉体を個人と認識するにつれ、次第に失われたという。) 人間の古来の集合魂をアストラル界に霊視すると、四つのタイプに大別される。その四つの集合魂に人間個人は由来する。 人類の自我の原型となった、この四つの集合魂と、今日の動物の集合魂を比較すると、「四つのうちの一つはライオンに似ている。二つ目は鷲、三つ目は牛に似ている。そして四つ目は、自我が降りる前の原始時代の人間に似ている」ことがわかる。 このように、第二の封印のなかに「黙示録」の獣たち、ライオン・鷲・牛・そして過去の進化段階にある人間が描かれている。地球紀に限り、高次の啓示を受け取る集合魂は、子羊のイメージで示される。 神秘の子羊は救世主の印である。第二の封印には、この五つ目の集合魂、つまり、人類全体が属す大集合魂のまわりに人間の四つの集合魂が描かれている。・・・まだ人間が魂をもたなかった時代もあった。人間の魂が上位のアストラル界にあった時代である。更に時代を遡ると、人間の魂が神界(天国)にあったことがわかる。 将来、人間の魂は地上で純化されると、再びこの高次の世界(天国)に上昇するだろう。神界からアストラル界を通って物質界へ、そして再び神界へというのが、人間の長い進化の道のりである。・・・ 人間は物質的に進化してきただけでなく、霊的・アストラル的にも変化してきたのである。その変化を追求するなら、神界(天国)にまで霊視(霊聴)できなければならない。 (天国には光しかないので、影をみることないから不可視で、聴力=観音するしかない。) 神界で、人間は天球の音楽が聴ける。・・・この音楽を神秘学では「天使たちのラッパの音」と名付けている。 だから、第三の封印はラッパである。神界から啓示がやってくる。その啓示は、人間が益々進化するときに、初めて明らかになる。そのとき、七つの封印をもつ書物が人間に開示される。・・・・・・本が真ん中にあり、下に人類の四つの進化段階が描かれている。四頭の馬は、時間を経て進化していく人類の進化段階を表している。 「黙示録的な現代」197 ★ ★ ★ 以上のように第二・第三の封印は、内人間の進化と外人間の進化を宇宙全体から述べていることがわかる。
2014年11月26日
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前回の続き。 戦前は創価が大本教だった。もし天皇制=創価であるなら、国家神道を隠れ蓑にして憲法の政教分離の原則を誤魔化せる。創価が問題なら、神道と天皇制はどうなんだと反論できる。 選挙不正で捕まらないのは天皇制=創価なら捕まえられない。捕まえる側や司法にも創価がいて、なんでも外務省のその支部は大鳳会というらしい。鳳という名からわかるように皇室を意味しているはずである。恐らく八咫烏の一つなのではないかと思われる。つまり、創価が捕まらないという長年の疑問が一気に解決する。 或いは八咫烏とは皇室管理の宗教団体なのではないか?と思われる。資金は恐らく宮内庁管理なのだろう。恐らく、創価、統一教会、国家神道のこの3つが八咫烏なのではないか?と思われる。 今度の選挙で不正を働こうとするこの八咫烏たちが明るみに出るかもしれない。あるいはこいつらはニセモノで、ホンモノの八咫烏がいるのかもしれない。本当の神が不正を赦すはずがないからである。一網打尽にされるか乞うご期待か? 一網打尽にされるかどうかは、以前紹介した以下の面白い話があるからである。 ☆ ☆ ☆ ネット情報の活用法 その265 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201305240000/ 以前八切氏の話でバチカンのスイス銀行の個人口座には日本人の大口口座が三つあると言う。一つは天皇、そしてもう一つは某法華経宗教団体(創価? 統一教会?)の代表、そして最後に大元様だという。 恐らく八咫烏と関係するのだろう。 (途中から転載紹介) さて、このネオコン。本来の目的は、 イスラエルの国家存続と、アメリカの覇権の存続ですが、 今、世界中で、今回の戦闘に対し、民族と国家を超えて、反戦運動が高まっています。 フセインは、逃げまくりますし、メディアを使った情報合戦と同時に、バクダッド制圧後は、 イラク国内やアメリアでも、米国系企業を狙って自爆テロが起きるでしょう。バクダッド制圧後の管理方法を巡って、アメリカ主導を目論むネオコンと、国連を主体と考えるブレアの英国とで、早くも、英米は分裂の様相を見せ始めています。 そこに、自国民の被害が拡大していくとアメリカ国内では、遠からず、国民の声として、「撤退」が求められてくるでしょう。 (オバマになって撤退した。) その時が、問題です。イスラエルは、四面楚歌になりますから、それをさせないために、ユダヤ系の資本が金融面からアメリカ政府を揺さぶるでしょう。 (リーマンショック) しかし、それでも、アメリカが撤退となったとき、資金はアメリカから中国・日本に逃げるでしょう。それと同時に、ユダヤの中でも富裕層が、イスラエル、そしてアメリカから、脱出します。 (ドル暴落寸前で、現状はこの段階。ロックフェラーは失脚し、ロスチャイルドが中国、日本移住を模索中。) ネオコンの密約が壊れれば、元どうりの姿、この両者は、犬猿の仲にもどります。特に、今回のイラク戦争のあと、 アメリカ経済が壊れたら、ファンダメンタリストは、イスラエルにイスラムを装って、核爆弾を炸裂させるかもしれません。 (米国はイスラム国というテロリストをつくっていることから、イスラエルに対して牽制していることがわかる。) さあ、そこでです。 同じ被爆国の日本の出番です。 いや、その前に、大和朝廷ができる前に、 日本に失われた十支族が、来ていたという言説が多く日本国内で出始めるでしょう。 日本こそ、本物のエルサレム(=平安)だった、と。 (京都がエルサレムという説が流され、淡路島を中心にユダヤが土地を買いあさり始めている。) 日本が、彼らを抱えることで、世界が平和に、そして、日本経済も復興します。和田さんが、2011年まで、ハーグの国際司法裁判所の判事を勤められますので、この間に、相当大きな変化が出ます。 あと、是非知っておいて貰いたい、ことですが、日本に三名の「天皇」がいます。 一人は、表の象徴さん。現在は、明仁。次が、アマテラス(大和朝廷成立時)に、位を譲った、ニギハヤヒ系の子孫。玉置神社の奥の院です。 最後が、貴殿もご承知の、サンラシノガラの資金を動かす、大元様。これと、日本国内の構造改革が連動しています。鴻池の秘密の秘密が分かれば解けます。 この3者の連絡係、そして皇室の監視役に、ヤタカラスがいます。 ヤタカラスは、大和朝廷に、屈服した、8つの部族の裔であり、 彼らが、一つになった物語りが、ヤマタノオロチ伝説です。スサノオは、京都の祇園祭りの八坂神社のご祭神。この大和朝廷成立時に、関東以西で、最後まで、抵抗した人たちの居住区(山陰・九州)で、恭順の証の物語として、今でも、オロチ退治の「神楽」が残されていると確信しています。 ☆ ☆ ☆ 今度の選挙色々な思惑が絡んでいるようである。
2014年11月26日
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長年疑問に思っていたことがある。それは明らかに憲法の政教分離の原則に反している創価学会が司法に糾弾されないのか、選挙時に悪質な電話勧誘や住居移動などして投票水増ししていると思われる創価学会員が選挙不正で捕まらないのか、の2つである。 その答えを明らかにしてくれる話をお馴染みのサイトでみつけたので以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 不正選挙こそが天皇家と創価学会の権力の源泉。創価学会が消えてなくなれば、天皇の権力も自ずと消えてなくなるでしょう。 http://rapt.sub.jp/?p=17504 私はこのブログを通して、この世の裏社会の構造について詳しく調べ、記事にしてきました。世界各地で起きる不可解な事件、または日本国内で起きてきた様々な事件の裏に何があるのか、ありとあらゆる情報を駆使しながら、その謎の解明に取り組んできたわけです。 そして、今や自分がこれまで調べてきたことが全て一つの糸で結ばれようとしています。今の私にはその確かな感触があります。 そのもつれた糸の中心には天皇家がいて、創価学会がいます。彼らは二つにして一つであり、彼らこそがこの日本を表からも裏からも取り仕切ってきた核心的組織です。詳しくは昨日の記事をご覧ください。 ○天皇こそがこの日本の最高権力者であり、それを裏から支えてきたのが創価学会です。 しかし、それではなぜ天皇と創価学会とがこれほどまでに勢力を拡大し、裏社会を取り仕切るまでになったのか。どういった理由で、彼らはこれほどの権力を身に着けるようになったのか。 私はその理由についてこの一日ずっと考えてみましたが、その答えはズバリ「選挙」にあるのではないかという結論に至りました。もっと正確に言えば「不正選挙」です。 このブログの読者の方であれば、この日本の政界が「不正選挙」という出来レースによって成り立っていることは既にお分かりいただけていると思います。もしお分かりにならない方がいましたら、以下のリンク記事をご覧下さい。 ○天皇家という闇。日本赤十字社という闇。田布施システムという闇。悪魔崇拝者という闇。 このように、日本の政界のトップは極めて限られた身内同士だけで固められています。これが単なる偶然であるはずがなく、誰かが裏から手を回しているとしか考えられません。つまり、この日本では長く当たり前のように「不正選挙」が行われてきたというわけです。 この不正選挙を一手に取り仕切っているのが創価学会です。それについてはネットではもう通説となっており、疑問の余地はありません。第一、創価学会ぐらいの巨大な組織力がなければ、とても不正選挙という巨大な悪事を誰にもバレずに行うことは不可能です。 創価学会のメンバーの中には、警察官も行政官もいます。彼らがグルになれば、不正選挙などいとも簡単にできてしまいます。あとは偽の票を書く人と、開票作業をする人、そしてマスコミを束ねてしまえばいいだけの話です。当然、創価学会の中にはそういった人材もいくらでも揃っています。 しかも、最近では不正開票マシン・ムサシなるものが世に出回っているようですので、以前よりも少ない人員で不正選挙を行うことができます。 ○『不正選挙とムサシ:何故不正選挙を暴けないのか』 – るいネット ちなみに、このムサシの広告がこちらです。なんだか白々しいことを書いています。 また、創価関連企業であるパソナも、早くも選挙の開票作業のバイトを募っているみたいですね。わざと年収500万以上の人に限定して人員を募集することで、誰も応募してこないように仕向けているようです。 (転載はリンク先を参照してください。) このように創価=パソナは、社会人は誰も応募してこないようにして、学生とお年寄りだけが応募してくるように仕向けているわけでしょう。で、学生もお年寄りもすべて選考で落としておいて、工作員のみで実際の開票作業にあたるわけです。 第一、500万も年収のある人が、こんなバイトにわざわざ応募するわけがありませんからね。パソナだってそんなことは端から分かっているはずです。 要するに、この募集記事はきちんと一般から開票作業者を募りましたよ、と見せかけるためのアリバイ作りというわけです。後で不正がばれたとしても、この記事を見せて、私たちに悪意はなかったと言ってごまかすつもりなのでしょう。 このように、この日本では創価学会が不正選挙の鍵を握っているわけですが、こうなると当然、不正選挙で勝たせてもらった政治家たちは創価学会に頭が上がらなくなります。 そして、この創価学会のトップにいるのが池田大作ですが、その池田大作のさらに上にいるのが金融ユダヤである……と、これまでの私たちは認識していました。 しかし、実はその金融ユダヤにはロックフェラーとロスチャイルドだけでなく、天皇家もいたことが分かってきました。天皇家もまた金融ユダヤの一派だったのです。 ○天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。 ○古代エジプトの太陽信仰=悪魔崇拝が、現在の日本の天皇家へと流れ着き、天皇家を最大級の財閥にするまで。 となれば、当然、不正選挙で勝たせてもらった政治家はみんな天皇の前で頭が上がらなくなります。 さらに、この世の財界人たちも、政治をいかに動かしてもらうかで、自分たちの儲けが決まるわけですから、当然、不正選挙を取り仕切る者の前ではやはり頭を上げることができません。 こうして天皇と創価学会とに自ずと権力が集中することになってしまうわけです。 したがって、天皇も創価学会もどんな悪さをしても誰からも咎められることはなく、警察から捜査されることもありません。彼らがいくら暴利を貪ろうとも、贅の限りを尽くそうとも、悪魔崇拝を行おうとも、全てが自由なのです。 このブログを長く書いているうちに、私はこのような結論に到達しつつあります。 もっとも、日本の天皇家がこのままいつまでも安泰でいられるかというと、決してそんなことはないと私は考えています。 なぜなら、今や天皇の権力を支えてきた創価学会の教祖・池田大作も死に、その創価の内部でも熾烈な後継者争いが起きているようですし、創価学会の行ってきた悪事もどんどんバレて、ネットなどで次々と公開されていますから。 しかも、一般の創価信者の方、特に若い信者の方は、そういった暴露記事をもう何度も目にしているでしょうから、彼らがこのままいつまでも創価学会に残ったままでいるとは考えにくいです。 そして、この創価学会さえこの世から消えてなくなれば、天皇家の権力も自然消滅していくことでしょう。 天皇家がいくら巨万の富を持っていたとしても、自分たちのために働いてくれる人材・人員がいなくなれば、彼らの権力などいとも簡単に崩れ去ってしまうはずだからです。 ですから、私はできるだけ私のブログを多くの一般の創価信者の方に読んでもらって、創価学会を脱退するなり、それが無理なら、ムダなお布施を払うのをやめてもらえばいい、と思っています。 そうすれば、創価学会も人材や資金繰りに困り果て、不正選挙も行えなくなるわけですから。 このように、不正選挙をこの世からなくすことが、裏社会をなくす第一歩だと私は考えています。そして、いずれ近いうちにそんな日が来るのではないかとも思っています。私もそのための努力を続けていくつもりですし。 皆さんも、特定秘密保護法など恐れることなく、今後も情報拡散に勤しんでいただければと思います。ここで情報拡散をやめてしまったら、それこそ裏社会の思うつぼですから。安倍晋三もこう言っていることですし……。 ○安倍首相:秘密保護法で報道抑圧されたら辞任…TV番組で – 毎日新聞 安倍の言ったことが本当かどうか、皆さんで試してみましょう。もっとも、安倍はもう次の選挙で落とされてしまうかも知れませんが。 ちなみに、私のこの結論について簡単にまとめてあるサイトがありましたので、最後に皆さんにご紹介しておきます。 どうやらこのサイトの管理者は、実際に天皇と創価学会から度重なる嫌がらせを受けてきたようです。創価と天皇に対して何かしらおどろおどろしい怨念のようなものを感じます。 ——————————————–(以下、Hatena Diaryより転載) ご存じの方もおられるかも知れませんが、「創価学会」さんは全国で嫌がらせや付きまといを行っています。 関東で3人とか東北で2人など、徹底的な犯罪ターゲットを決めて犯罪テロを行っています。 理由は信者が組織をやめることを防ぐための「見せしめ」のため。徹底的な集団ストーカーをしています。 信者をまとめるには 1 敵を作る。 2 信者に嫌がらせ、いじめの楽しさを与え、創価学会は特別なんだと優越感を与える。 3 テロ犯罪の恐ろしさを教え、組織を抜けたら「殺される」ことを認識させ 組織人員を維持。 4 信者が減らなければ、選挙で勝てる。 5 権力に侵入し、利権と権力を奪取。 警察は絶対に捜査をしません。創価学会の犯罪はもう何十年も捜査したことはありません。 理由は次の通りです。 1 明治期と戦争中、元首は天皇でした。 2 日本軍とすべての省庁の親分だったわけです。 3 敗戦後、象徴天皇になっていますが、実際は天皇が権力者です。 4 警察は旧日本軍から派生しています。 5 天皇と創価学会は選挙と様々なことで「癒着」しています。 6 ゆえに、創価学会がいかなるテロ犯罪をしても、捜査しない「密約」となっています。 7 天皇自身も、国民を恐怖統治するため「自由・民主主義を言う有名人を病院送りにして上手に始末」しています。 8 それを知っている「政財界・文化人などの上層部」は天皇をほめたたえ、殺されるターゲットにされないように「苦心」しています。 9 天皇の「お手ふり」は、何も知らない一般国民をだます「カムフラージュ」です。 10 天皇外遊時・新年の皇居一般参賀に動員されて 天皇が人気がある芝居をするのが 「創価学会信者」だと考えれば正解です。 ——————————————–(転載ここまで) 以前の私なら、こんなサイトには最初から見向きもしなかったでしょうが、長く裏社会について調べているうちに、結局、こんな一見トンデモに見えるサイトこそが真実だったと分かってきました。 世の中とは実に奇妙なものです。まさに「事実は小説よりも奇なり」です。 ☆ ☆ ☆ 文字数制限を超えるので次回に続く。
2014年11月26日
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シュタイナーは、宇宙の人間の進化は、外人間の進化と内人間の進化に大別でき、その2つが対抗することで、進むことを述べている。 この観点から、前回紹介した医療の話をアリストテレスの中庸から考えてみる。 フィクションとはいえ、前回紹介したリーガルハイというドラマを用いて考えてみると興味深い。 現代医療の発展は、外人間の進化のなかに含まれる。それは前回紹介した古美門弁護士という主人公の立場の「科学や医療の進歩は、ほんとうに数えきれない犠牲や実験によって成り立ってきたものです。人だけでなく、動物は人の何百倍・何千倍も犠牲になっています。」という発言からも現代人の認識の基本事項となっている。 つまり、オカルト的にいえば、死で終わる病気により、現代医療は進歩し、病気を死で終えることで、その経験から来世には、その死で終わった病気を今度は克服できる肉体を手に入れることができる。また唯物論でいえば、臨床データにより科学的データ収集が可能となり蓄積されるので、科学の発展につながる。 これは広義の意味で、人間の外界へのアプローチの進化につながる。 要するに、死が次の再生につながっている、という主張である。 対照的に、「医は仁術なり」という言葉に代表される、いわゆる患者に寄り添う医療などは、内人間の進化と捉えることができる。それは前回紹介した患者側の弁護士の言葉の「科学なんてクソくらえだ! 患者にとっては、たった一つの命なんだ。数パーセントという数字で済ませるな!」などの、いわゆる「医は算術ではない」という主張である。 以上はフィクションのなかでの対立だが、法廷の場で外人間の進化を代表とする病院側の弁護士と内人間の進化を代表とする患者側の弁護士が対立することになる。だから、法廷の場ではその中庸、つまり次の時代へと受け継ぐべき良心が求められることになる。 さて、アリストテレスの中庸だが、シュタイナーによると以下の紹介がなされている。 ★ ★ ★ 意識魂の美徳「中庸」 http://ameblo.jp/kmasaaki0911/entry-11542409118.html 意識魂の美徳ともいうべき「中庸」、つまり「バランス思考」について考察する。 ポスト・アトランティス第四(ギリシア・ローマ)文化期の人々では、意識魂はまだ眠っていて、潜在(無)意識のなかにあった。プラトンやアリストテレスは、意識魂を、潜在(無)意識の均衡状態として、その中心に中庸を把握し、意識魂の主要な美徳と名付けた。 人間が肉体の感覚器を通して外界を認識することで、魂のなかに意識魂(覚醒領域)がつくられる。 感覚器は意識魂の道具であり、人間は感覚器を通して自我を意識できるようになる。だから、人間の感覚器は、自我には必須である。地球上での使命のために、人間は感覚器を受け取る。でないと、地上での使命が成就できない。 しかし、感覚器には限界がある。人間つまり自我が認識できる感覚力全てを快楽のためだけに使うと、自我のなかに閉じこもり、外界の変化を見失ってしまう。 つまり、プラトンやアリストテレスは、 「自我が認識できる感覚力全てを快楽のために用いる人間は、自我のなかに閉じこもり、外界の変化を見失ってしまう。」 と考えた。 また、逆に、感覚力全てを拒み、自我が認識できる感覚力を逸脱してしまう人は自我がだんだん弱くなり、ついには外界の変化に囚われ、外界の変化により自我を消耗させ、外界の変化の奴隷となる。 つまり、自我の認識力を逸脱してしまう人は、外界の変化に囚われ、外界に迷い込んでしまう。つまり、意識魂へと発展した自我を消耗させ、かえって外界を見失ってしまう。 この感覚器の限界からくる両極端を避け、バランスをとる美徳が「中庸」である。中庸は禁欲でも享楽でもなく、両者の中間にあたる。この中間が意識魂の美徳の中庸となる。 「黙示録的な現代」p113 (感覚器の限界のなかに快楽を求め埋没し、外界の変化を見失うのがルシファーの働き。感覚器の限界を拒絶し、逸脱すると、外界を見失い幻覚に迷うのがアーリマンの働き。) ★ ★ ★ 以上のように、外界とその変化を感覚器から正確に認識し適切な距離をとり巧く均衡(バランス)をとってやっていくことが中庸であることがわかる。更に別の面から中庸を紹介する。 ★ ★ ★ 顔の変化原因・後編「アリストテレス、シュタイナー」 http://moneyhelper.seesaa.net/article/1618800.html シュタイナー『霊視と霊聴』(西川隆範訳、水声社)から 『人間の心は喜びと苦しみの間を揺れ動いており、天に上るほど歓喜することがあり、その反面、死にたいほど気が滅入ることがある。だから平静さ、冷静さを獲得しなければならない。歓喜、もしくは苦悩に我を忘れてはならない。しっかりと立ち、歓喜を抑制し苦悩に耐えるべきである。』(p25)(アリストテレスの中庸) ★ ★ ★ 以上のアリストテレスの中庸を参考にすると、人間は外界を正確に認識するために、現在持ちうる肉体の感覚器を快楽のみに用いて、満足してはならないということ、つまり自分を神のように崇めて、感覚器の限界のなかにルシファーのように埋没してはならないことが重要であることがわかる。 また外界の変化を正確に捉えるために、肉体の感覚器を新しく作り直していく必要があるが、アーリマンのように、感覚器の限界を超えて物質欲から生じる唯物的な幻覚を作り出してはいけないということがわかる。 つまり、感覚器の限界に埋没することなく、逸脱することのないように、その警告のために病気と死が神々より与えられている。 つまり、ルシファーの誘惑による感覚器に埋没せずに、アーリマンの誘惑による感覚器を逸脱せずに、外界とその変化を正確に認識することで、霊魂の成長と新しい感覚器を作り出すことが、アリストテレスの中庸で、シュタイナーの説くキリスト原理であることがわかる。 外界を正確に捉えるには確かに唯物論的科学は必要だが、アーリマンの誘惑に負け、医が算術になっては元も子もなくかえって自我をバラバラにし、また外界を正確に捉える自我の成長つまり霊魂の成長なくば、認識の限界におぼれ、ルシファーのような外界を無視した占いの類の似非オカルトになり、医は呪術となり、仁術になりえないというわけである。 このような意味から、医は仁術を含む自由な芸術になるべきだと提言したい。現代のアホバカ哲学は霊魂について何も語らないので、古代ギリシアの哲学者の言葉を曲解してしまう!
2014年11月25日
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この間TVドラマのリーガルハイのスペシャルをみたが非常に面白かった。今回は医療問題を扱ったドラマだったが、医療問題はいま岐路に立っていると思われるので、恰好の題材に思えた。 この手の旬な題材を選ぶと官僚に雇われた某解説者のように価値観の押しつけなどになって全く陳腐な下らない宣伝番組になってしまうのがオチなのだが、このドラマはパロディにすることで見事に回避している演出が良かった。 医療問題は何を救うのかにある。生命が何なのかがわからなければ医療問題は解決できない。 裁判というのは本当は良心を問う場でなければいけないのだが、残念ながら、哲学が霊魂を語らないから、裁判といえば陳腐な経済や金銭の闘争の場になってしまっている。良心とは人類が過去から受け継いできた遺産である。 そういう意味では良心はカルマの法則ともいえる。 カルマの法則とは、あらゆる立場に立ってみないとわからないものである。つまり、人間が経験できるほとんど全ての立場に立ってみてはじめて成り立つ法則である。 この物質界で生きるには真実は立場に依存し、相対的で、正義も十人十色だから、価値観の押しつけこそアホバカなことはないのである。要するに経験の足りない者が価値観を押し付けるのである。 そういう意味から正義の押しつけこそ悪徳なものはない。正義というのは自分のなかでしか成立しないものだからである。だから、経験量によって正義というのは変わってきて当然である。 そのようなことがよくわかるサイトをみつけたので、以下に紹介する。 ★ ★ ★ リーガルハイから学ぶ正義論と医療のあり方 http://next-pharmacist.net/archives/3680 堺雅人さん演じる傍若無人、常勝無敗の“毒舌弁護士”古美門研介が1年ぶりに帰ってきた。今回は大森南朋さん演じる“たかり弁護士”の九條和馬とノールールの法廷バトルを繰り広げる。 今回の題材は医療訴訟。夫を亡くし九條に弁護を依頼する未亡人(吉瀬美智子さん)と、ミスを認めない巨大総合病院との法廷闘争が展開される。難癖をつけて小金を巻き上げることをなりわいとしてきた“最下層弁護士”の九條と、病院側を弁護する百戦錬磨の古美門では勝負にならないようにみえたが……。 11/22に放送されたリーガルハイ・スペシャルは、「医療」をテーマにしたドラマでした。 ハイムリック・ルーゴル症候群(実際にはない病名のようです!)という全身性の難病と、その新規治療薬である「Zマブ」(マブだから抗体医薬?)にまつわる医療訴訟のお話でした。 私たちは、他人の人生や物語を目の当たりにしたときに「価値観」が大きく揺すぶられます。 今回のリーガルハイも、いわゆる「悪者」があっちにいったり、こっちにきたりと本当に忙しく感情がものすごく揺すぶられました。 正義と悪とは何か? 僕たちは、ある物事に対し自分なりの「正」と「悪」をもっていると思いますが、それがいかに自分の感情に左右され、いとも簡単に変わってしまうのかをリーガルハイで感じてもらえるかと思います。 この「正義」と「悪」という構図は「ワンピース」などのマンガでも考えることができます。ワンピースを読んでいる人にとって、ルフィー海賊団は「正義」ですか?それとも「悪」ですか? おそらく、ほとんどの人が無意識に「正義寄り」の感覚をもっているかと思います。 それは、ルフィーとその仲間たちの「人生や物語」を実際に自分の目で見てきているからです。そして、それらの人物の気持ちや背景に共感できているからです。 読者はもはやルフィーの仲間になっているのです。 そうなると、ルフィーたちの前に立ちはだかる人は「敵」になってしまうのです。だから、海軍が攻めてきたとき、ルフィーたちが多数の海軍たちを一度になぎ倒すシーンは「爽快」なはずです。 しかし、もしこんなシーンがあったらどうでしょう? ある日、一人の海兵が自宅の玄関先でお嫁さんに「いってきます」と一言。 奥さんの腕のなかには生まれたばかりの赤ちゃん。かわいい女の子、今日でちょうど一回目の誕生日だ。 「今日は早めに帰ってくるから3人でお祝いしよう。」 「そうね。気をつけていってらっしゃい。絶対に無理はしないで。」 今日の任務は、噂のルフィー海賊団の確保。各地で騒ぎを起こし、懸賞金が数億にもなった大海賊団。 いつものように朝礼をして、軍船に乗り込み目的地へ向かう。 そして、ついに目の前にルフィー海賊団が現れた。 大佐から交戦の号令が鳴り響く「確保だー!」 しかし、むこうは圧倒的な戦力で立ちはだかり、軍船もあっという間に沈められ、この若き海兵の行方も分からない。 ここは、グランドラインの海のど真ん中、おそらく助かる見込みは望めない。 そのころ、自宅で彼の帰りを待つ2人は・・・・・・ いかがでしょうか。ちょっと短いドラマで感情移入は難しいかもしれませんが、もしかしたらルフィーがちょっと悪い奴らに思えたかもしれませんね。 こんな感じで、善や悪の感覚は「文脈」で大きく変わってしまうものである、ということを知っておく必要があると思います。 私たちは、受けとる情報と自分の主観の多大な影響を受けて、物事の善悪を判断しているのです。 リーガルハイをみていても、それぞれの人生背景や想いを知ることで、彼らを悪者にしたり、はたまた同情したりしている自分に気づくはずです。 つまり、人間は「それぞれの正義」で生きているし、自らの信じる道を生きていくしかないのです。しかし、一方でその行動や選択は違う角度からみれば、また違った意味をもつということを忘れないようにしたいものです。 科学は犠牲のたまもの 今回の話をみて、特に印象的だった”古美門研介”の言葉があります。 「科学は無数の犠牲のうえで進歩してきた。人々はその犠牲には理解を示す。科学の恩恵にあずかりたいからだ。しかし、その犠牲が自分のまわりに起こったときには、途端に「なぜ自分だけが!」と当たり散らす。」 これは、本当にその通りだなと思います。 科学や医療の進歩は、ほんとうに数えきれない犠牲や実験によって成り立ってきたものです。人だけでなく、動物は人の何百倍・何千倍も犠牲になっています。 一方で、患者側の弁護士の言葉で「科学なんてクソくらえだ!患者にとっては、たった一つの命なんだ。数パーセントという数字で済ませるな!」 これもまたその通りだと思います。 しかし、医療行為や薬には「リスク」がつきものなのです。どんなに安全な薬であってもリスクはゼロではありません。 医療人はそのことを皆理解していて、仕方のないことであると考えますが、やはりその事実を「当たり前」と済ませるのではなく、真摯に説明する義務があるのかもしれません。 また、現場は非常に忙しいのです。忙しいと、人は「雑」になります。それは人間として仕方のないことだと思います。ある程度は、環境の整備も必要になるでしょう。 しかし、僕たちにとって数万あるケースの1つだとしても、患者にとってはかけがいのない「1」であるということを忘れてはいけません。 「数字でみる」ことは科学の進歩や正当な医療を行うには必須の視点ですが、目の前の「1人」という数字とは逆の視点も大切なのかもしれません。 やはり、アリストテレスが教えるように、物事は何事も「中庸」であるべきなのかもしれません。 ★ ★ ★ 医療問題の解決の一つは医師や治療の選択の自由が挙げられるように思われる。要するに価値観の強制がよくない。患者自らが治療と医師を自由に選択できるように医療は日々つくりかえられるべきで、最終的には治療は芸術になるべきに思える。芸術でなければ魂を癒すことができないからである。
2014年11月25日
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人間はなんて愚かなアホバカな生物なのかと思うことがある。動物は政治や経済を運営せずに、自然の進化に対応できてしまう能力を既にもっている。 真事に厄介にも、わが家に勝手に住み着く野ネズミが傍若無人に蔓延るようになったが、餓死させようと餌など一切与えなくても、こちらの隙を突いて、勝手に探し出して食べてしまう。挙句の果てには本などを齧りとってしまうから更に難儀である。 野ネズミの逞しさに比べ、人間に飼われた動物だけが奴隷化し餌を与えないと餓死してしまうのはなぜなんだろう。 おそらく自由にあるのではないか? と思うわけである。自由を失った生物は死んでしまうのではないか? と思うわけである。 人間にとって自由ほど諸刃の剣というべきものはないだろう。この物質界では全てが有限で、自分にとっての自由が、他のものにとっては不自由になるからである。 つまり、本来自由とは無制限な性質をもつものだが、物質界という場では有限という枠に区切られてしまうので、自由がときには過ちになり、不可逆な過ちは物質界からの追放という意味の死となるわけである。 しかし、逆説的に考えるなら、有限な枠のなかで生きられる自由こそ本当の自由なのではないかともいえる。つまり、無制限の自由とは、有限な枠でも生きられるからこそ無制限という意味が保障されるのである。 はじめから無制限を当てにしている時点で、それはニセモノの自由なのではないか? というわけである。 さてそういう意味では、人間に飼われた動物であっても、動物が本来もつ生存能力という自由を失わなければホンモノなのである。朱に交わっても朱にならずに、泥に塗れても汚れない自由というのがホンモノというわけである。 禅の大家の鈴木大拙(敬称略)が、「泳げない者が水に入っても溺れない。水に入っても濡れない」というような公案を課題にしていたという。 ある記者がその答えを聞いたら、「それは溺れる。それは濡れる」ということだと述べたらしい。頭でっかちな人は、この答えに納得いかないだろうが、それこそ物事を分別している証拠、つまり唯物論で考えている証拠である。 なにがいいたいかというと、この物質界では、人間の思ったようには進まないということなんである。 人間はこの物質界を離れればいつでも神のように自由な存在になれる。自分は神様だと思うのは、自分の考えのなかだけではいつでも成立する。しかし、一旦、この物質界に入り、「自分は神様だ」などといったら、誰でもとんでもない自惚れたアホバカか、頭がおかしい狂人かと思うのが常識だろう。 この物質界に入ったら、皆がほとんど同じ立場なんである。何かを選べば、何かが奪われる。何か一つしか選択できない。有限だからである。 だから、何事も経験なんである。この物質界を経験しない限りは、この物質界で生き続けることは困難である。だから、頭で考えてもダメなんである。体験しなければはじまらないわけで、泳げるようになるには、溺れないといけないわけである。 はじめは朱に染まらないといけないわけで、その経験が、やがて朱に染まらない能力を獲得させる機会を与えるのである。 現代人はあまりに頭でっかちになってしまいかえってアホバカになってしまった。つまり体験や経験を見下している。人間は過ちを犯すことで進化してきたのである。過去何度となく人類存亡の危機に陥ったからこそ、いま生き続けていられるのである。そして、過去よりも遥かに自由な選択肢を手に入れている。 例えば、江戸時代などは職業選択の自由はなかったわけである。それに階級、身分差別もあった。現代には表向きにはそのようなものはない。この自由をあらゆる場面に適応し広げていかなければいけない。 このような自由の発展は、精神の進化と物質の進化の2つに大別できる。この2つの進化からいかに人間が物質界で政治と経済を運営するか、試行錯誤し経験を積んでいくために、シュタイナーの話の紹介を続ける。 ☆ ☆ ☆ これまで述べてきたように、生まれてから死ぬまでの日常生活での経験のうち、睡眠後に霊界で魂に同化したものは、魂の能力につくりかえられ、同化しなかったものは、死から次の転生まで霊界で次の人体をつくる素地となり、いずれにしろ、魂は経験を糧に進化していく。 治癒、もしくは死に至る病気(の経験)は、このような人間(魂)の進化という課程の題材になっている。つまり、治癒する病気は内人間をより高いレベルに進化させるのに貢献し、また死に至る病気も外人間をより高いレベルに導くのに貢献することで、人間の進化計画に組み込まれている。 なので、宇宙の進化は1つの流れに沿って進むのではなく、内と外の2つの対抗する流れの中で進む。 この2つの対抗する流れを含む人生の複雑さ(矛盾)は、正に病気や治癒の中で目に見えるものになる。もし、この2つの対抗する流れの代表の健康や病気がなければ、人間は、間違いを犯さない神が垂らす糸にぶら下がりながら、限度を超えない人生と日常生活を送ることになっただろう。そして、死後には、次の人体を新しく構築する力(能力)が、死から次の転生の間に、霊界から与えられただろう。 そのような状況下では、人間は自分自身の働きから魂の能力を物質界のなかで、決して展開できずに、発達できない。人間が魂の能力からくる成果を展開できるのは、間違いを犯す可能性のある、明確に区切られた境界線の内側の物質界での人生のなかだけである。というのも、人間が自分で真実に到達できるのは、間違いを自分で知るからこそである。 魂の一部となるような真実、魂の発達に影響する真実を自分のものにできるのは、「間違い」だらけの肥沃の土壌から自分自身で真実を抽出するときだけである。もし、人間が区切られた境界線を破棄し、間違いや不完全さをもって人生に介入しなければ、人間は生まれつき完全に健康であっただろう。 しかし、霊魂の内に認識する真実と同じ起源をもつ永遠の生命、つまり、ある人生から次の人生へと人間が自分の生命で追い求めるべき永遠の生命を獲得できるのは、間違いや病気のある現実を通してだけなのである。 (永遠の生命とは、自由に生きられることで、ある制限された条件下、つまり奴隷や家畜のように生きることではない。つまり、神々の保護の下に生きるのではなく、人間自身の力で永遠に生きることである。簡単にいうなら、与えられた幸福のようななかに生きるのではなく、自分でみつけた幸福に生きることである。) 人間は、治癒から間違いや失敗を克服することを学び、また死から生前には克服できなかった間違いに遭遇することで、次の人生でその間違いを克服できるようになる。 さて、以前述べた噴火予知の例に戻ると、間違った判断を下した学者たちの知性について言えることは、次の点である。 安易に単純な結論に飛びつかないように注意深くなるだけでなく、人生での調和を少しづつ造り出せるように十分な経験を積むことである。 このように病気なしには、人間は自らの努力で進化目標を決して達成できないことがわかる。つまり言い換えるなら、病気は、人間が自らの努力で進化目標に到達するために、人生に影響することがわかる。 (つまり悪魔たちは、人類が神々から独立し、自分たちで永遠に生きられるように手助けしているわけで、要するに鬼コーチと考えればよいだろう。) もし、真実を認識することが進化目標なら、過ちがあるのは人間自らで真実を認識できるようになるためであり、霊魂の発達(進化)に対する、病気のような一見過ちにみえる人生の経験も、人間の霊魂が宇宙の進化と結びつくために、人間に課された試練であり、霊魂そのものの本質に属することがわかる。 人智学では、重要な時代に偉大な詩人が、次のような人間の過ちの真相を述べたのと同じように、病気や治療の真相を述べ、教訓としている。 「努力する人間は間違いを犯す!」 (逆説的にいえば、官僚が間違いを犯さないのは努力しないからである。) この詩人の言葉を、通常次のように解釈している。 「人間はいつも間違いを犯す!」 しかし、この言葉は、人智学から、次のように逆説的に解釈できる。 「人間が間違いを犯す間は、努力を与えよう!」 つまり、間違いが新たな努力を産み出し、永遠の生命という進化をつくりあげる。だから、「努力する人間は間違いを犯す!」という言葉は、必ずしも人類を絶望で満たすわけではなく、むしろその逆の希望である。 何故なら、あらゆる間違いは新たな努力を呼び起こし、人間はその間違いを克服するまで努力し続けないと生きられないからである。 (人生とは過去の過ちを学び成長するための猶予期間である。) これは、間違い自体が、その間違いを克服した(未来の)地点を人間に指し示し、真実に導く努力の機会を与えるのと同じである。 (失敗は成功の素) その言葉と同様に、人間には病気が生じるが、その病気を克服し、新しい健康を手に入れるために、進化していかねばならない、と解釈できる。 人類は病気を通して永遠の健康へと発達(進化)していく。こうして病気は、治癒または死でさえ、病気を克服した地点を指し示し、霊魂に、健康を作り出す治癒力を与える。そして、病気とは人類にとっては決して忌むすべき疎遠なものではなく、人類との調和の中で、病気を超えて人類に成長を与えるものなのである。 このような解釈から、神の叡智のなかにある宇宙が、あらゆる進化の段階にある人間や生命体に、アンジェラス・シレジウスの言葉の意味でいうなら、「自分自身を超えて成長(進化)していく機会を与えている」ことを示すのに適している詩であることがわかる。 私(シュタイナー)は以前、この詩人の言葉で「神秘主義とは何か?」という講義を終えた。そのときは、もっと身近な成長(進化)の話をしていたが、今は、病気や治療というような成長(進化)全般に拡大し、次のように述べることができる。 あなたが、自身のなかの神(良心)との比較の上で、いまのあなた自身を過ちと謙虚に認め、常にいまのあなたを超越しようと欲し努力するなら、あなたのなかの神(良心)が、あなたを天国へと導くだろう! (これは、キリストが言った、「心の貧しき者は幸いなり、天国はその者のためにある。」の本当の意味である。つまり、「良心に謙虚な者は幸いなり、良心によって、天国に導かれるからである。」という意味になる。) ☆ ☆ ☆ 勝海舟が横井小楠と会ったときに、小楠は「昨日の私の意見は間違っていた」と素直に認めたので、小楠は人物だと評している。 またアランチューリングというコンピュータ理論をつくった数学者は、「間違えるからこそ数学は発展する。」と言っている。つまり、間違えない人間は数学者にはなれないし、哲学者にもなれないのである。 だから、あの偉大なソクラテスでも間違えるからこそ、ホンモノの哲学が生まれるのである。ホンモノの哲学とは、過ちを素直に認める哲学でないといけないのである。 過ちを認めないアホバカ政治家、経済学者には失望の念しかない。ニセモノたちほど過ちを認めようとしない。自分をいまだ権威者だと虚飾する。 はっきりといっておく、国民を巧く騙しても、あなたの魂は騙せないのだよ! 地獄に堕ちるがよい!!
2014年11月21日
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巷では悪魔政権は最後の不正選挙という暴挙に出たようである。憲法の政教分離の原則に違反している悪魔政党と偽ユダヤ金融帝国の日本支社代表のアホバカ悪党が最後の決戦に出た模様である。 しかし、この国には自分さえよければいいというアホバカが増殖しすぎたようにも思える。 そういうアホバカたちを一網打尽にするヒントになる政策をお馴染みの播州武侯祠遍照院さまのサイトから見つけたので以下に紹介する。 それはグローバル税である。 経済を簡略化すれば、資金が左から右に流れることである。資金を得て儲かる者もいれば資金を失って損する者もいる。だから全体としては必ず差し引きゼロにならないといけないはずだ! そこでなぜ財政赤字になるのか、突き詰めて考えてみれば、財政赤字になった分、どこかが大黒字になっているはずなんである。でなければ粉飾していることになり、現実としては単純な話、帳簿に載らない裏金が存在するというわけである。 裏金はどこにいっているのかを探すのは簡単である。税務署が税金逃れを監視するような目をもてば、贅沢な暮らし、羽振りの良い暮らしをしている者が怪しいことは一目瞭然である。 一般サラリーマンよりも贅沢な暮らしをしている人は怪しいわけである。特に財政赤字なのに政治家や公務員が一番怪しいわけである。こんなことは自明である。 連中がなぜ大手を振って巷を闊歩できるのか? 律令カースト制度で連中は一般人とは身分が上だから贅沢な暮らしをしても当然として国民を洗脳しているからである。 官僚が書く文章は抽象論を駆使した洗脳文書である。カルト教と同じで悪魔崇拝文書である。 同じ人間を抽象論で差別化し洗脳しているのである。 さて、このような抽象論を打ち破る方法は公正公平の平等意識をもつことである。本来司法はそのためにあるが、もはや権力の巣窟であり、悪魔崇拝の砦となってしまっているから不可能である。 どんな悪法でも、公正ささえ失わなければ、善に導けるのである。 例えば、本来の資本主義とは、資本を平等に公正に社会に行き渡らせることなのである。だからして誰もが資本を公正平等に利用する権利があるはずで、資本は常に流通し、停滞させてはならないはずである。 だから赤字だけを強調するのはやめ、どこに黒字がわたっているのかを精査しないといけないのだ! 赤字だけを連呼するのはアホバカのやることである。どこに黒字がわたったのかを連呼しないといけない。そして、税を徴収しないといけないのである。でないと裏金や闇カネがつくられ、人間は社会を破壊することしかできなくなるだろう。 そういうわけで、前置きが長くなったが、次なるグローバル税を推奨したい。 ☆ ☆ ☆ 海賊大企業から搾り取れ。 渾沌堂 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E6%B5%B7%E8%B3%8A%E5%A4%A7%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%8B%E3%82%89%E6%90%BE%E3%82%8A%E5%8F%96%E3%82%8C%E3%80%82%E3%80%80%E6%B8%BE%E6%B2%8C%E5%A0%82 超高層マンション スカイヲーカー より上記文抜粋・・・・・・・・ 消費税増税は諦めて、グローバル税を課すべきだ。 「安倍総理大臣は、来年10月に予定されている消費税率の10%への引き上げを1年半延期し、今週21日に衆議院を解散する意向を表明した理由について、「消費税率の引き上げを18か月延期することは大きな決断であり、賛否両論ある。同時に、平成29年4月には確実に上げていくが、3党合意によってつくった法律から、いわゆる景気条項を除外して、今度は新しい法律を出す。そのことも含めて決定するのであれば、国民に信を問うべきだ」と述べました。」 結局、消費税の追加課税は持ち越しになったようだ。 実は、日経新聞を代表する御用マスコミが報道するように、世間の景気は良い訳もなく、決算のいいのは、海外でドルベースで生産し、そのまんま直送にて米国に輸出販売したり、日本国内に逆輸入することで売り上げをたてている海外企業を含むグローバル企業なのであって、国内型内需企業ではない。 むしろ、アベノミクスは内需型国内企業を円安の原料高+消費税負担で追い込み、結果、国内に残る中小零細企業を廃業に追い込もうとするのだ。 ズバリ言って、「米ドルで商いできない連中は死ね」 と宣告されているに等しい。 本来、国内の税収が減収に追い込まれる主たる理由は、海外に製造部門を移転する「グローバル企業」の製造過程において、課税権がなくなるからだ。 つまり、海外に移転してしまった企業が海外で稼いだ米ドルを国内にて課税したり、国内で預金させることができないからだ。 すなわち、日本政府は米国にいわれるまま、グローバル企業に対する徴税権を放棄しているのだ。 その結果、税収不足に追い込まれ、国内の消費税に税源を頼るほかなくなっているのだ。 日本政府の権限は、国内に限定され、海外移転した企業に徴税権が及ばないからだ。 これに対抗する手段は日本政府は原則持たないが、問題は、グローバル企業からいかに徴税するかなんだろう。これにはいくつか考えられる。 海外から輸入する財やサービスに対し、すべて課税することだろう。 つまり、輸入税を課す。 輸入関税のようなものではなく、輸入するすべての財やサービスに一律に課すのだ。 一番の方法は、円と他国通貨に変換する際に課税する方法だろう。 円から米ドルに変換する際に10%課税し、米ドルから円に変換する際に10%課税する。 こうなると、輸入商品を消費する場合、必ず10%課税されることになる。 もう一つの方法として、売り上げの過半を海外で稼ぐグローバル企業に対し、別途課税することだろう。 例えば、社会保険料の別途負担額を引き上げる。 通常、社会保険料の負担は、(社員負担分14.045%)+(会社負担分14.695%)=28.74%だが、 これを、国際貢献加算をして、グローバル企業は倍額の57.48%負担いただく。 むしろ、グローバル企業は、(グローバル輸入税+グローバル社会保険料負担)で、日本に国際貢献すべきだろう。いや、それが正しい選択だ。・・・・・・・抜粋終わり>もう一つの方法として、売り上げの過半を海外で稼ぐグローバル企業に対し、別途課税することだろう。 そうだ。やつらは海賊企業である。 殺されず多額の税金を取られるだけで感謝してこそ、恨まれる筋合いはない。 お読みくださりありがとうございます。 ☆ ☆ ☆ 消費税増税を連呼している連中の贅沢な暮らしぶりを調べてみれば一目瞭然である。奴らは悪魔崇拝で、人生から何も学ぼうとしないただ略奪者、破壊者のアホバカであることが即座にわかるだろう。
2014年11月21日
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巷はどこもかしこも悪魔崇拝だらけでアホバカ増殖中といったところだが、どうみても人間なのに、なかには天皇=キリストといいだす悪魔崇拝者や、遺伝子解析からも明らかに単一民族でない日本人をユダヤ人と言い出すお粗末さのアホバカぶりに、確かにユダヤ人という定義も疑わしいものだが、この国の危機感を感じざるを得ない。 キリストの教えを本当に守るのなら、キリストが物質界に現われるわけがないことを知っているはずである。というか、キリストはいまも生きているわけで、神が死ぬわけがないからである。つまり、ホンモノの生きるキリストをみているので、キリストを名乗る詐欺師が手に取るようにわかるわけである。 だから神の名を語るような奴は悪魔と断言できるわけである。それに十戒でも神の名を名乗るな、偶像崇拝するな、とある。十戒を守らない奴はユダヤ人とは少なくともいえないので、偶像崇拝している日本人のほとんどはユダヤ人ではないことがわかる。 大体論理的に考えても、再度キリストが現れるのなら、前回のキリスト降臨が失敗と認めることになり、神が過ちを犯し、前回の意味を打ち消してしまうことになるではないか? あまりのアホバカぶりに笑ってしまう。 このようにキリスト降臨の意味すら理解していない悪魔崇拝者、同じ人間のくせして同じ人間を差別するアホバカに騙されてはいけない。キリストはいまもみえる人にはみえるのである。我々は毎夜会っていることを忘れているだけである。 例えば、いまでも酒を飲むと記憶をなくすのは、酒が霊界に行った記憶をなくす働きをするからである。だから修行僧などは酒は厳禁である。 だから悪魔崇拝というのは人間を救いようのないアホバカにし、ダメにするのである。大体、人生の生き方として考えてみても、保護の必要な子供ならまだしも、いつまでも親に頼って生きようとする甘えた性根の持ち主こそいつまでも成長しない人間であることがわかる。 それがそのまま大人になると、親が悪魔にかわるだけで、自分を過大視し、権威にすがり甘えるようになるわけである。本当の親や神なら、自分の力で生きろというだろう。自分で生きる力や教えを与えているはずなのだから。 いつまでも神にすがるような甘えた根性を叩き直さないと人間は成長しないことがわかっているのである。だから根性を叩き直す焼き入れを悪魔にやらせているわけである。 このように日本には独立心に乏しい人々が多いので、奴隷根性が残ってしまっているので偶像崇拝の虜になってしまうのである。寄生生物のような生き方を改めるべきである。 そういう何かにすがらないと生きられないアホバカにならないように、悪魔崇拝に警笛を鳴らす預言者エリアであり、洗礼者ヨハネのような話をお馴染みのブログから紹介する。 ★ ★ ★ RAPT http://rapt.sub.jp/?p=17382 悪魔崇拝者は天皇を「救世主」に仕立てるつもりのようです。根拠のない希望にすがりつくのはやめましょう。 ここのところ、天皇家とロスチャイルド家がグルになって、天皇を中心としたNWO計画を推進しようとしているという話を連続してお伝えしています。 そのため、彼らは日本礼賛・天皇礼賛キャンペーンを張り、日本が神様から選ばれた選民であり、天皇もまた神に選ばれた尊い人であると大々的に宣伝しはじめるだろうと私は予測してきました。 しかしながら、日本が神様から選ばれたとか、天皇が神様に選ばれたといった話には、これといった根拠など一つもありません。なので、彼らがいわゆる神秘思想のようなデタラメで私たちを洗脳し、根拠のない希望を抱かせようとすることは目に見えています。詳しくは昨日の記事をご覧ください。 ○「かごめかごめ」の裏の意味。ヘブライ語に訳すと神を冒涜する歌になります。 裏社会の連中は、私たち庶民を地獄のどん底に突き落としていながらも、我々がそれに気付かないように工作し、かつ私たちに根拠のない希望を抱かせます。そうすることで、自分たちの権力を確たるものにしていくわけです。 かつて「古事記」や「日本書紀」によって天皇の権威付けをしたように、現代でもまたこれと同じことをしようとしているわけです。 しかも、驚いたことに、大手マスコミは既にこの日本礼賛・天皇礼賛キャンペーンを始めていたようです。昨日、ネットで日ユ同祖論についてあれこれ調べていたら、いきなりこんな動画が出てきました。 ぴっくりしました。まさにドンビシャ。日ユ同祖論を使って、日本人は神に選ばれし民であると言い、なおかつ日本人の中から「救世主」が現れる、なんてことを言っています。(しかも、再生回数が10万超え。) しかも、聖書を知らない民の中から「救世主」が現れるみたいな、これまた何の根拠もないことを言っています。(上の動画の6:55辺り) 多分、聖書の中に「キリストが東から再臨する」との預言が書かれているので、日本から「救世主」が現れるなんて言っているのでしょうが、聖書のどこにも「聖書を知らない民の中から救世主が現れる」なんてことは書かれてはいませんよ。一体、このユダヤ人は何を根拠にこんな話をしているのでしょうか。 このセキルバーグとか言う芸人にも要注意ですね。この人は完全に裏社会のエージェントです。多分、この人もフリーメーソンか八咫烏のメンバーなのでしょう。つまり、有名陰謀論者たちと同じというわけですね。詳しくは以下のリンクをご覧ください。 ○「有名陰謀論者と大手マスコミ」は「陰と陽」の関係。しかも、彼らが隠すことは共通して「天皇の陰謀」です。 彼らはこうやって日ユ同祖論を楯にして、我々日本人に選民思想なるものを植え付け、この日本の中から救世主が現れるなどというデタラメを私たちに信じさせようとしているわけでしょう。 で、この救世主が他ならぬ「天皇」だったということになるわけでしょうね。それも次期天皇が。 私たちのために何もやってくれたことのない、ただ車の中から手を振るだけの人が「救世主」とは恐れ入ります。しかも、陰で悪魔を拝んで、私たちの富を搾取しつつ、贅の限りを尽くしているような人が……。 ○天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。 でもまあ、日本の天皇が、実は聖書で古くから預言されていた「救世主」だった、などとマスコミが大々的にブロパガンダを流せば、中にはそれに騙されて、日本は凄い国なんだなあ、天皇は凄い人なんだなあ、日本に生まれて良かったなあ、なんて漠然と喜ぶ人も出てくるかもしれません。 もっとも、現時点ではこのセキルバーグの話を真に受けている人はほとんどいないでしょうし、今後もこんなキャンペーンに騙される人はそうはいないと思いますので、こんなキャンペーンなど、やるだけ無駄だとは思いますが……。 ○天皇家の思惑である関西遷都と天皇礼賛キャンペーンがうまくいかないと思われる四つの理由。 とはいえ、日本人の多くが「アベノミクス」という何ら根拠のない希望にしがみついてきたことを考えると、もしかしたら今回もまた多くの人が騙されるかも知れないという気がしないでもありません。 自分の生活がどんどん苦しくなっているので、これ以上、苦しくなってほしくないという願いから、無理やり「アベノミクス」にすがりつこうとしたわけでしょうが、しかし、これを盲信、洗脳と言わずして何と言うのでしょうか。まさにカルトと同じです。 そして、今やそのマスコミも、これまでとは正反対に「アベノミクス」は失敗だった、日本経済はもう終わりだ、といったプロパガンダを大々的に垂れ流しています。そうやって、私たち国民を絶望のどん底に突き落とそうとしています。 そうしておいて、我々国民に何か別の新しい希望にすがりつかせようとしているわけでしょう。つまり「天皇が再臨主だった。これから日本が世界をリードしていくだろう」と洗脳しようとしているわけです。その魂胆はもう見え見えです。 場合によっては、次期天皇の即位した直後に、四国の剣山あたりから「失われたアーク」が見つかった、なんて演出も準備されているのかも知れません。 しかし、もし日本人がこんな演出に騙され、ぬか喜びするようになったら、それこそこの日本もナチス・ドイツが辿ったのと同じ運命を辿ることになるでしょうね。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。 ○次期天皇の即位とともに関西への遷都が始まります。彼らは天皇を中心とした「神の国」を樹立していくつもりでしょう。 私たちが何かしら希望を持ちたいのなら、それなりに根拠のある希望を持たなければいけません。何の根拠もない希望にすがりつくと、後で余計に大きな絶望に見舞われてしまうだけです。 考えてもみてください。次のテストで100点がとれる、といくら希望を抱いたところで、本当に100点がとれるでしょうか。あるいは、周りの人からあなたなら大丈夫だ、あなたなら100点とれるよ、と言われて安心したところで、それで本当に100点がとれるでしょうか。とれませんよね。 しかし、いくら周りからお前なんか100点取れるわけがないと言われたとしても、その人自身、熱心に試験勉強をするならば、自然と自信も湧いてくるし、希望も湧いてくるし、もしかしたら本当に100点が取れるかも知れません。 要するに、人はやったとおりにしか報いを受けないということです。何の苦労も努力もせず、たまたま人生がよくなるということはあり得ないのです。 もし仮に、何の努力もせず、労苦もせずに生きていた人が、たまたま宝くじに当選して大金を手に入れたとしても、かえって人生をダメにしてしまうというケースがよくあります。というか、そういう話には事欠きません。 当然です。小さな器に大きなものを入れようとしても、その器はかえって割れてしまうだけですから。 したがって、もし宝くじに当選して幸せになった人がいるとしたら、その人はそれまできちんとそれなりに自分を作っていたという証拠です。 このように、何かとても良いことが起きたとしても、自分を作っていない人はその幸せをきちんと享受することはできないということです。 しかし、逆に自分をきちんと作っておいた人は、例えどんな不幸に見舞われたとしても、その不幸をものともせず、かえって幸せになれる場合が大いにあります。 例えば、日本経済が破綻してどうしようもなくなって、仕事も失ってしまったので、やむなく海外に移住してみたら、意外にいい仕事が見つかって、生き甲斐のある生活を送れるようになるとか……。 あるいは、何の仕事にもありつけないので、仕方なく山にこもって自給自足の生活を始めてみたら、これが意外に楽しかったとか……。 しかし、自分を全く作ってこなかった人には、このような運命の転換みたいなことも絶対にあり得ません。ただ国と一緒に没落していくだけでしょう。 したがって、自分を作っていない人は、この国がいくら良くなったとしても、本当の幸せを享受することはできないということです。 しかし、自分を作っていた人は、この国が栄えれば栄えるほど、それと一緒に幸せを享受できるようになるはずです。 ですから、もういい加減、メディアの報道に一喜一憂するのはやめましょう。彼らが提示してくる希望にいちいち騙されてはいけません。希望は人から与えられるものではなく、自分で作っていくものなのですから。 とにかく、これが現実主義を標榜する私の考え方です。メディアに騙されないためには、こういう考え方をきちんと持っていないとダメだと私は思います。 ★ ★ ★ もし天皇が善人で世界最大の金持ちならば、この日本の大赤字財政をほおっておくはずがないだろう。少なくとも、金持ちでないか、善人でないかのどちらかである。金持ちでないのなら、あんな暮らしはできないはずである。
2014年11月21日
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巷に溢れるニセモノの悪魔崇拝では、ソクラテスの無知の知の意味を知ることはほとんど不可能だろう。ニセモノの学者たちは、霊魂のことを何も語らないから、ソクラテスの無知の知が、単なる無知の自覚という陳腐な唯物論に陥ってしまうのである。 ソクラテスの無知の知の意味については、このブログでも何度も紹介してきたが、いまだに曲解が罷り通っているので再度紹介する。 無知の知の意味を読み解くには、ソクラテスの語る知をまず考えないといけない。ソクラテスが何を語ったのか、深く考える必要があるのはいうまでもない。 ソクラテスはこの物質界についての知を述べたのではない。以前、古代インドの象の話で紹介したように、この物質界では、真実は自分が置かれた立場に依存し、相対的にしかみえないわけで、つまり多種多様の解釈が生まれてしまうわけである。 簡単に言えば、自分しかみえず、他の誰かが何をみているかは自分からはみえないわけである。つまり自分の知は、自分の立場でしか有効でないということになる。この原則を現代人は無視してしまっているのが大間違いなんである。 この相対的な知を仏教では「分別知」と呼ぶわけである。この分別知を主張すればするほど間違いを犯していくわけである。ここでも以前紹介したプラトンの洞窟のイデア論の影を実体と思いこむことを思い出させる。 つまり、ソクラテスはそのような相対的な知識をいくら蓄積しようとも、真実に到達することはないことを述べたのである。そのことを、「神(真実)は常に唯一(物質的に1つという意味ではない)であり、分けられない」と表現した。暗黙糧に、偶像崇拝ではなく、主なる(唯一の)神を信仰することを説いた。 これを「神は自分にはわからない存在」という風に曲解しているアホバカ学者もいる。神との対話を重視したソクラテスが、自分には神がわからないというはずがないだろう。 つまり神とは全てを一つに結びつける存在という意味で、だから、決して相対的に現れるものでなく、唯一絶対的に現れるものなのだ、というわけである。だから、この相対的な世界である物質界を超えない限りは、本当の知の神には出会わないということになる。 だからソクラテスは、この地上の物質界を蛇のごとく這いずりまわる悪魔のような連中を馬鹿にしたわけである。現代人のさながら物欲に塗れた生活のことでもある。悪魔たちを見下したことで、この物質界を支配する悪魔たちの怨みを買って毒杯を飲まされて、霊界に帰ったわけである。ソクラテスにとっては愛情の説教だったはずだが、巷はアホバカばかりなんで、愛情が伝わらずにかえって憎しみが増したわけである。 そういうアホバカの連中は地獄が大好きなんで、キリストも十字架刑にかけて殺してしまうわけである。自分が偉いと思っているアホバカたちなんで仕方ないといえば仕方ない。教師を排除してしまうアホバカ学生の傲慢なエゴのなせる業である。この連中は悪魔に魂を売ってしまっているので、もはや人間の進化を遂げることはないだろう。 しかし、頭でっかちの行く末は、ついには、その重い頭を支えられなくなり、頭の重さ故に自ら崩れていくことは、自明だろう。机上の空論を振りかざしながら、物質界を徘徊し、恐竜のように環境を壊しながら、同時に自分の住居を破壊し、自分自身も破壊してしまうわけである。それは暴飲暴食をして肉体を損なうアホバカをみれば一目瞭然である。全ては執着心のなせる業である。 例えば、つい最近嘘つき解散発言したアホバカ政権は破壊しかできないから、ついに解散して崩壊してしまうわけである。不正塗れで、不正で着飾る裸の王様といったところである。再度また不正選挙をやるつもりだろうか? アホバカにつける薬はない。 アホバカは破壊しかできず、創造ができないから、何をしても無駄で自分を壊して病院に逃げるだけである。創造というのは貧困や苦悩の経験のなかで生まれるから、貧困や苦悩の経験を最も嫌うアホバカには国家運営など土台無理な話だからである。 生みの苦しみというのを知らないのだ! アホバカに苦労は、猫に小判というわけである。この小判とは永遠の生命のことである。病気や死があるからこそ、永遠の生命を自らでつくることが可能になるわけである。神とは無から全てをつくりあげる能力の持ち主だから、人間は神の子なので、誰でもこの能力が眠っているのである。 そのようなことを全く理解しないアホバカに警告するためにシュタイナーの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 死をもって終わる病気は人間にとってどのような意味があるのか? という治癒とはまた別の疑問が生まれる。 死に至る病気とは、ある意味、治癒とは正反対の、つまり、内人間と外人間の間で不調和になったバランスを回復できない、つまり、現世では、内人間と外人間の間にある境界線を越えて正しい方法で橋を架けることができない、ということを意味している。 朝起きたとき、昨夜とは変わらない肉体を健康になるように調和をもって受け入れなければならないように、病気も死をもって受け入れなければならないこともある。肉体との関係を改善できないときには、損傷を受けたままの肉体を受け入れる他はない。 健康な肉体は寝る前とほぼ同じなので、朝起きると、割とすんなり霊魂を受け入れるが、損傷を受けた体は異なるので、霊魂を受け入れないことがある。だから、結局、肉体が、霊魂を受け入れられなくなると、人間は死ぬことになる。人間は肉体を放棄しなければならないが、それはもはや再び、肉体との調和を確立できないからである。 (死はいわば離婚みたいなものである。ここにまた長寿の秘密がある。霊魂が創造性に富むほど、柔軟で協調性が高いほど、肉体との調和が確立できる。長寿の人は精神にゆとりがあり、あまりコダワリがないことに気づく。) 人間は病気の経験を、外的な肉体には何の利益もないまま、眠ることで霊界に持ち込むが、肉体に損傷を受け、死に至った結果として、肉体がもはや霊魂を受け入れられないという、この死の経験から生まれる果実(叡智)が、今度は死から次の転生まで霊界で新しい人体をつくる準備を充実したものにする。 だから、また死で終わる病気にも感謝しなければならない。 何故なら、それを教訓とし、死から次の転生まで霊界で、死で終わった病気の経験から今度はその病気を克服できる人体をつくるために、その死の経験を基にして霊魂の治癒力を結集し、充実した人体構築を準備する機会を得るからである。 (シュタイナーは、下等生物、例えばトカゲの尻尾の再生力が、高等生物ほど複雑になり、特に人間の場合、輪廻転生を通して、次の人生に持ち込まれることを説いている。つまり、現世で病弱で死んだ場合、次の転生では頑強な肉体となるように生まれてくるという。) だから、病気が死で終わるか、治癒するかは、霊魂の成長(治癒力、調和力)いかんなのである。 確かに死と治癒とでは180度異なる側面を示すが、いずれにしろ、霊魂の治癒力を強化することに変わりはないので、治癒する病気への感謝は勿論のこと、死で終わる病気にも感謝すべきである。 死で終わる病気にも感謝すべきなのは、死から次の転生の霊界でのより高次の進化段階に進むには、死が学びの上で大きな経験となり、今度は死に至る病気を克服できるように新しい人体を構築するときには、その経験が生かされるからである。 そして、死で終わった病気の経験から、次に転生したとき、前世での失敗の要因や有害な側面をも回避できるようになるだろう。つまり、治癒する病気は人間の内の精神や(自然)治癒力の発達(進化)に影響し、死で終わる病気は人間の外界での活動(生命)力の発達(進化)に影響する。 従って、必然的に2つの異なった観点が生まれるが、次のように考えるのは人智学の観点から大間違いである。 死で終わる病気が感謝すべきもので、死で終わった病気(の経験)が次の転生での失敗や有害なものを回避させるなら、病気は死で終わらせるべきで、治療する必要がないのではないか! このような考えは、人智学から得られる事実に反している。何故なら、このような考えは単なる抽象論で、つまり、現在すべきことをしないで、結果だけを求める、いわば種を植えずに実をとろうとする空理空論だからである。 というのも人智学からわかる事実とは、何もせずに利益だけ得ようとするような抽象論のマヤカシではなく、様々な観点(立場)からみることではじめて到達できる高次の真実に関するからである。 だから、生きている間は、できる限りの方法で治療を試みる義務がある。治療に最善を尽くし、できるだけ生き続けるという使命は人間の覚醒意識に根ざすもので、それでも死が生じてしまうことにも感謝すべきという観点は、通常の覚醒意識の中にはない、潜在(無)意識のためである。 (覚醒意識のなかで死を選択してはいけないということ。安楽死などは認められないということ。) 死で終わる病気への感謝は、物質界を超越できてはじめて勝ち取れる観点なのである。 (死後の世界をみれない者が、死後や死を語ることなど不可能で、生きることよりももっと苦痛な地獄に行くかもしれないからである。) 病気を死で終わらせることは、「神の観点」に立ってはじめて正当化できるが、人間の観点からは治癒のために最善を尽くすのが正当である。また死で終わる病気全てを同レベルで評価できない。 だから、当面、これら2つの全く異なる観点に折り合いをつけることはできず、双方が平行して発達(進化)していく他はない。いかなる抽象論での調和も現段階では役に立たずにかえって大きな過ちを犯すだけである。 人智学はこれら2つの全く異なる観点からくる真実の両側面の認識に向けて前進していかねばならない。 「治療は善で、義務である」のは(物質界で経験を積むために生きる上で)正しいが、同時に、「病気の結末として死が生じるのも善で、死は人間を宇宙全体の進化に導く」というのも(霊界で経験を能力や叡智に変え、次の転生の準備にかかる上で)また正しい。 これら2つの言葉は互いに矛盾しているが、両方とも超感覚(霊)的な物質界を超える知識により認識できる絶対的な真実を包含している。 遥か未来ではじめて調和できる2つの進化の流れが、正にいま物質界で生き、経験する人間の生活の中に、2つの矛盾した流れとして入っていくとき、型にはまった抽象的な考えが何の役にも立たずに間違いを犯すことを人間に気づかせ、人生をより広い霊界からの観点から眺める必要性を人間に理解させる。 この2つの流れのなかにある矛盾が、物質界での経験と物質界を超えた霊界の真実についてのより深い知識から解き明かされるときはじめて、この矛盾が、人間の知性を制限するものでなく、生命を調和に向けて進化させ、人間という生命体が生き、経験を積むことで徐々に生きた経験からホンモノの知性へと導かれることを病気などを通じてはっきりと理解すべきである。 ☆ ☆ ☆ 人間が物質界を生き経験することで、神々もまた進化するのである。人間の知性に神々が宿るのがその証拠である。ニセモノの知でなく、ソクラテスが説いたホンモノの神々の叡智は、いま人間が物質界に生き続けるということで得られるのである。 貧困であろうが、プライドを失おうが、苦悩で塗れた地獄であろうが、生き続けることが人間という生命体の弱さでもありまた強さでもあるのだ! とにかく生き続けることが、柔よく剛を制すである。
2014年11月19日
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以前、結婚のことを霊魂を基にして述べたが、日本語というのは、興味深いことに、「けっこん」を「結魂」とも書けるのに気づいた。つまり結婚とは、魂の結びつきのことである。 現代人は唯物論に染まりきってしまったので、魂やら霊界やらを語ると忽ち笑い出す始末だが、アホバカが笑い出すからこそ、真実味があると、かの老子も述べているわけで、低俗な連中に高尚な事実を語るとそのままリトマス試験紙ならぬアホバカ試験紙になるというわけである。 かの御釈迦さんも、現代が末法の世で、出鱈目な悪魔崇拝が跋扈するから注意しなさいと遥か二千年前から預言しているわけでもある。 要するに出鱈目が吹聴されるので、信じるなということである。世の中ニセモノばかりである。 なぜニセモノばかりかというと、自分しか信じられないからである。その自分も霊魂の存在とは思ってもみないので、物質的にしか考えられないから、やがて物質とともに崩壊し、なくなってしまうので、結局は何も信じられなくなってしまうわけである。 だからホンモノとニセモノの見分けもつかなくなるわけである。暗黒の時代なわけである。 しかし、アホバカたちにもそろそろ改心する機会が訪れてきたようで、物質崩壊が進む世の中なんである。 物質崩壊とともにニセモノもどんどん淘汰されるので、どんどん物質崩壊したらいいので、シュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ 前回は、極端な例だが、噴火を予知できなかった学者たちが、魂の上では十分に発達した知性をもちながら、肉体の上で外界との間に適切な関係を構築できずに、噴火が予知ができなかったという不調和に陥っていたことを挙げた。このような外界との不調和は勿論、噴火のような重大な出来事だけに起こるのではない。 このような不調和は、人体の原則または本質として、肉体やエーテル体の「外人間」に外界からの損害がふりかかるとき、「内人間」の力では太刀打ちできずに、何らかの影響を受けるときに起こる。 このような不調和は、目に見える外的な状況にも、目にみえない内的な状況にも現れるが、内的とはいっても実際には外的な状況に移行して現れる。例えば、胃の具合がおかしいのは、頭上に煉瓦が落ちてくるというような恐怖心が原因だったということもある。 つまり、「内人間」が「外人間」と一致しないとき、要するに内と外の対立が生じる-対立を生じさせてしまう-ときに、このような不調和に陥る。 全ての病気は、本質的には、内と外との不調和から生じ、つまり人智学でいうところの「内人間」と「外人間」の間の境界線の破壊から生じる。遥か未来には内と外とが巧く調和されるからといって、なんらかの思考で、内と外とを強引に一致させようとしても、所詮、実体験の伴わない抽象論なので、この境界線を破壊することになり、何らかの病気を誘発してしまうのがオチである。 つまり、現段階ではまだ外に内を巧く合わせられないことに気づきながら、「内人間」を一歩一歩段階的に発達(進化)させ、精神にゆとりをもたせていくしかない。「内人間」は自我だけでなく、アストラル体も含むが、広義には、人間が起きてから眠るまでに自我に浸透され意識されるアストラル体のなかの経験なども含む。 アストラル体は経験を霊界に持ち込むことで能力や叡智に変え、「外人間」からくる限界を破り、内人間と外人間との間に適切な調和を打ち立てるのに重要な働きをするが、この働きは、通常の覚醒意識の下の潜在(無)意識のなかに横たわっている。 だから覚醒意識では感じ取れないが、無(潜在)意識のなかにある。病気の根底にある内的性質は、無意識のなかに探求できる。 では、病気がその後辿り得る二つの道とは何か? 治癒と死のいずれかが生じる。生命が通常辿り得る発達(進化)は、治癒と死との両側面に大別される。 人間という生命の発達(進化)にとって治癒の意味を知るには、まずは病気の意味を明らかにする必要がある。 病気の根底には、人智学でいうところの、「内人間(霊魂)」と「外人間(肉体)」の間の不調和がある。「内人間」が「外人間」から退かなければならない(後退が必要な)場合もある。簡単な例として、指を切断されたときが挙げられる。切断できるのは物質の肉体だけで、アストラル体は切ることはできない。 しかし、アストラル体は絶えず肉体に浸透するので、指が切断されると、肉体の隅々にまで浸透できずに、妨害され、切断部を見失うことになる。だからアストラル体は、指の切断部から(精神的に)隔離されたように感じる。 (ネットワークの知識があればわかりやすい。例えば、IPアドレスの確認でピング=pingを飛ばしても返ってこない、接続が切れている現象などに喩えることができる。アストラル体を光と同じに考え、ある程度進むと戻ってくる光の横波の進行を考えればよい。) あらゆる病気の本質は、内人間が外人間から切り離されたと感じること、傷がまるで仕切り板(障害物)のような壁を生じさせるために、内人間が外人間に浸透できないことにある。 (接続が絶たれると孤立感を感じ、それが精神的に痛さを感じさせる。これはコミュニケーションが通じると気持ちがよく、通じないとストレスが溜まることでわかる。) さて、外から介入する方法で健康を取り戻すか、もしくは、外人間との調和力を内人間が強化することで治癒に導かれることもある。治癒後には、多少とも外人間と内人間との間の結びつきは回復され、内人間が再び外人間の中に浸透できるようになる。 つまり、治癒とは、人間が起きるとき、つまり覚醒意識の目覚めと比べられる働きである。内人間が独自に発展(進化)した後、再び、物質界でのみ可能な経験へと帰って行く働きである。だから、治癒とは、人間が、物質界に持ち込めなかった能力や叡智を持ち帰れるようにすることなのである。治癒は、覚醒意識の目覚めの働きとして、内人間の中に組み込まれ同化し、内人間の発達の枢要部になる。 病気から健康に戻ることや治癒は、睡眠時の霊界で得た能力や叡智という満足感をもって、この物質界に戻ってくることに相当する。というのも、寝て起きることで内人間を進化させるのと同じ方法で、治癒により内人間を進化させるからである。 たとえ直ぐに進化を感じられなくても、健康に戻ることで、魂の経験は能力や叡智に変わり、内人間は高められる。治癒を通して獲得した進化を、また眠りのなかで、霊界に持ち込む。 だから、睡眠中に霊魂が発達(進化)させる調和力とは、病気を治癒に導く力でもある。もし、研究する気があれば、睡眠と(自然)治癒力との間の不思議な関係について、人智学の考察から得られる事実を十分に展開できるが、研究までしなくても、夜眠るときに霊界に持ち込む経験の数々が、霊魂の発達(進化)に不可欠で、(自然)治癒力のみならず、生まれてから死ぬまでの日常生活にも発達(進化)をもたらし、睡眠が治癒と等価であることが理解できるはずである。 日常生活における物質界での健康への回復や治癒といった外の経験を更に睡眠中に霊界に持ち込むことで、生まれてから死ぬまでの人生にとっては更により高度に発達(進化)した霊魂の表現(能力や叡智)に到達できる。 しかし、治癒を通じて魂に取り込まれた経験全てが、再び、治癒力(調和力)として現れるわけではない。治癒力として現れなかった経験を死の門を通る際に伴っていくこともできる。 そして、それらの経験は、次の転生での新しい経験の糧となるだろう。けれども、人智学からわかることは、病気が治癒する度に神々に感謝しなければならないということで、というのも、病気が治癒するのは、神々の御蔭で魂が外的経験を取り込めたためで、取り込んだ経験を治癒力に変えれるのは、霊界での魂の進化の御蔭であるからである。 そして、魂が進化できるのは、神々による宇宙の進化への導きがあるからである。 ★ ★ ★ 宇宙の進化こそ信仰心の拠り所である。つまり魂の向上性、良心を羅針盤にすべきなんである。
2014年11月19日
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神々がなぜ自分たちにも背くような自由を人類に許したのか考えてみると、自由こそが未来の楽園をつくる機会になるからであろう。 つまり、簡単にいうと、自由こそが人間を前向きにする希望なんである。 過去の栄光にすがるようなアホバカさを脱し、未来の楽園こそ自らで手に入れるべきである。人間は良心という未来の栄光を手に入れるべき羅針盤をもっているはずである。良心というのは過去何度となく輪廻転生してきたなかで、自分が最も正しい行為としてきた集大成なんである。 だから自分の正しい行為の辞書みたいなもんである。 この三次元物質界で切磋琢磨し経験を積むのも良心の辞書をつくるためであることを理解するために、シュタイナーの話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ さて、人智学では、人間の生命を、「内人間」もしくは「外人間」という観点から眺めることで、真実についての異なる側面が示されることがわかっているが、これまでの話から、そのことが容易に理解できるだろう 抽象論を用いて、これら二つの側面を結びつけようとする愚かな試みは、この二つを結びつける1つの理想や1つの判断があるのではなく、十人十色の色々な観点があるのと同じくらい多くの理想や判断があり、真実も一つではなく、多種多様で、これらの異なる観点が一緒に働くというのを考慮していない。 (良心も当人にとっては正しいかもしれないが、他者にとってはまた別の良心があるから、正しいとは限らない。だからこそ、この世に生まれ経験する必要性が生まれる。) 例えば、一人の人間でも、「内人間」についての生命の観点は、「外人間」についての観点とは異なっていることが挙げられる。 そこで、真実は、どの観点から眺められるかに依存する相対性をもつことを明らかにするために、1つの例を挙げる。 子供と同じ大きさの手をもつ巨人は、その手の指の大きさぐらいのものは正しく観察できるが、子供と同じ大きさの小人が巨人の指の大きさぐらいのものを観察できるかどうかは別である。 (大は小を兼ねるが、その逆は無理) 外界の事物については絶対的な真実はなく、お互いの観点を補う必要がある。外界の事物は、異なる観点全てから眺めないといけない。だから、真実を正しくとらえるには、個々の観点の違いから生じる真実を互いに照らし出しあって、互いに不足した観点を補い合わないといけない。 (以下の古代インドの象の話を思い出す。 「目かくしをした複数の人たちが、1頭の巨大な象の一部を必死に撫(な)ではじめます。象の鼻を触った人は、「象とは、そこそこの太さで自分の身長ほどの長さがあって形が自由に変形するもの」であると思い、かたやしっぽを触った人は「像とは細長いロープひものようなもの」という印象を持つに違いありません。」 この2人が「象について」語り合ったとしてもほとんど話が通用するわけはありません。) 人生の中でも、「外人間」の肉体とエーテル体と、「内人間」のアストラル体と自我とが、いつも完全に調和した状態にある必要はない、というのもこの理由による。 もし、いつも完全に調和していたら、夜眠り、昼間の出来事を伴って霊界に入り、その経験を魂の本質的な能力や叡智などに変化させた後、朝目覚めて、霊界から物質界にもたらされた能力はただ魂だけにしか使えずに、以前述べたように、肉体によって引かれる境界線も決して越えることもない。 肉体を超える能力をもたないので、肉体の限界を超えることもないが、同時に人間は進化しなくなる。だから、人間はこの限界に自分で気づくことを学ばねばならない。自分で判断できるようにならないといけない。だから、人間には、自分自身で進化の限界を最大限突破する可能性が与えられないといけない。 人間は寝ることで霊界から絶えず(肉体の)限界を突破する可能性が与えられる! 霊界での生活では、肉体が引く境界線を絶えず越えて能力が与えられるため、朝起きてから、例えば、アストラル体と自我が肉体に影響を及ぼすとき、肉体の限界の範囲内には収まらないことがある。そのような能力を持ち込むことで、霊魂は、肉体の法則を破棄できる。 このように肉体の法則を破棄した場合、精神、すなわちアストラル体と自我により引き起こされる肉体の不調や混乱は病気として観察される。肉体の法則から生じる限界はまた別の形でも破られる。例えば、「内人間」が外界との関係に行き詰まり、失敗し、折り合いをつけられない場合である。 このような人間の内面が外界との関係を構築できないことは、次のような出来事の例で示せる。 中央アメリカのペレー山が噴火した後で、非常に注目すべき書類が廃墟からみつかった。その書類のなかには、「危険は過ぎ去ったので、もう恐れることはない。自然法則の認識から得られた噴火の法則により、もう噴火しないと思われるからである」と記されていた。 自然科学の知識から、現状を解釈すれば、もはやこれ以上のこの火山の噴火はあり得ない、と記された書類は、その書類を書いた、当時の学問的知識に基づく学者たちと共に土のなかに埋もれていたわけである。噴火という悲劇的な出来事が起こったのだが、この出来事そのものが、当時の人間が、物質界との関係を巧く構築できずに、予測できなかったことをはっきりと示している。 もし、自然法則を探求していた学者たちの知性を、日々絶え間なく十分に訓練していたなら、噴火の予兆をみつけるのに十分なのは確かである。その学者たちに欠けていたのは知性ではない。知性は人間には不可欠だが、それだけでは不十分で、例えば、もし、噴火が差し迫ったものだったなら、なんら知性をもたない動物たちなら、その地域を離れるだろう。 動物たちが噴火を予知するのはよく知られた事実である。ただ飼い馴らされた家畜だけが人間とともに噴火の犠牲になる。だから、いわゆる動物的な本能は、噴火のような未来の出来事に関する限り、今日の人間の叡智に比べて、遥かに偉大な叡智で、人間の知性を発達させるのには十分な目標となる。 「知性」が決定的な要因となるのではない。人間が現在もつ知性は悪人といわれる愚かな人たちの中にもある。だから、知性が欠けているのではない。欠けているのは、自然や物質界での出来事に関する十分に成熟した経験である。 (俗に東大生などに最も欠けているのは成熟した経験である。高学歴の人たちは現場の十分な経験なしにしばしば出世してしまうために、後に部下を犠牲にしたり、自殺に追いこんでしまうなどの災いを起こすのである。人殺しをする位なら辞めるべきであろう。) 狭く限定された経験しかもたない知性の持ち主に可能と思われる策などを主張すれば、それは外界の出来事などの現実との間に整合性を失い、ギャップを生み、不調和に陥り、その煽りを食って、その出来事の周辺になんらかの災いを勃発させることになる。 というのも、肉体と外界との間には、徐々に人間が認識できるようになる霊能力、それも、今日既にもつ感覚を進化させることで、将来把握できるような霊的関係が背後にあるからである。けれども、その霊能力を獲得するには、外界を一通り経験し、その経験を自分の魂の感覚(認識)力として身に着けないといけない。 外界の経験を一通り十分に蓄積し、感覚(認識)力とした後、今日もつような知性は、この経験の結果として、外界と調和する進化を担う新しい感覚器を創り出すだろう。というのも、人間の知性が次の段階にまで発達(進化)するのは、正に現時点での経験を糧とするからである。 現代人の知性に欠けている唯一のものとは、経験を十分に成熟させることである。もし、成熟した経験が外界の状況と一致しなければ、人間は外界との不調和に陥り、外界で生じる出来事による破滅を免れないだろう。 ★ ★ ★ いまの日本社会が外圧由来のアホノミクスにより滅ぼされるように、今から約1万年前に滅んだ、かつてのアトランティス時代、その前の数百万年前のレムリア時代と同じように、現代の人類は外界の出来事により調和を失って滅ぶわけである。 消費税増税により経済崩壊が進んだ過去の例から何も学ばないアホバカはいっそのこと滅んだ方がいいのかもしれないが…。なにしろ、自分たちが窮地に陥ってみないとわからないアホバカなんだからね。
2014年11月18日
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巷では日本人万歳が流行になっているかのような報道が跋扈しているが、誰がみても失敗するアホノミクスを強引に押し通した結果、やっぱり失敗だったことが明るみになってきているのに、日本人万歳じゃ、振り込め詐欺をされて良かったねと言っているようなアホバカさなんである。 しかし日本人はこんなにもアホバカになってしまったと嘆くのはまだ早いかもしれない。アホノミクスの失敗にも学ばずになんども税収減につながってきた消費税増税を法人税減税のために行おうとするアホバカの悪魔の見え透いた手口にネット住人が気づきつつあり、詐欺師のようなアホバカ政治家と悪魔に魂を売った大企業のアホバカ経営者たちと諸共にこの国を崩壊させる審判が下されそうな雰囲気である。 天皇制崇拝というのは悪魔崇拝の一つであるから、地獄行きなんである。悪魔は最後の砦と覚悟しているのがその証拠で、人類が生んだ、あらゆる貴族は差別の源なんで、地獄行きは免れないだろう。 差別する者は差別されるということである。 さて、キリストが言ったように、人間は誰しも神の子なんであるから、自分のなかにある良心を大切にすべきである。差別の上に胡坐を書いているような演出された人物を崇める虚像崇拝、偶像崇拝をやめるべきである。 それでは以前紹介したプラトンの洞窟の話の影を実体だと信じる愚かさそのものであろう。 さて、現代の預言者かと思われるサイトの話を紹介したい。 ★ ★ ★ RAPT http://rapt.sub.jp/?p=17196 次期天皇の即位とともに関西への遷都が始まります。彼らは天皇を中心とした「神の国」を樹立していくつもりでしょう。 ここのところ、悪魔崇拝者たちが天皇を中心とした世界政府を樹立しようと目論んでいるとのお話をしてきました。 ○京都こそが裏のエルサレム。悪魔崇拝者どもは京都を中心とした世界政府の樹立を目論んでいます。 ○悪魔崇拝者が悲願とする京都を中心としたNWO計画は、ロックフェラーの妨害工作により頓挫してきました。 そのため、彼らは先ず東京から関西への首都移転を計画しているわけですが、この計画はロックフェラーによってずっと妨害されてきました。ロックフェラーとしては、日本ではなくアメリカを拠点として世界政府を作りたかったからでしょう。 しかし、ここ最近の政界の動きを見ていると、どうも天皇家がロックフェラーを打倒したように見えます。例えば、以下のリンクをご覧ください。 ○安倍内閣に亀裂が入りつつある理由。やはり天皇との確執が原因かも知れません。 したがって、この首都移転計画はこれから次第に表面化されていくことが予想されます。いいえ。もう既に水面下ではいつでも移転できるようにきちんと準備が整えられています。 実はこの関西への首都移転計画は、とある有名な神道系の陰謀論者が唱えていて、この人は現在の皇太子が天皇に即位するときに首都が関西に移されるとも言っています。 これまで何度も話してきましたように、彼ら有名陰謀論者はみんな裏社会のエージェントです。だからこそ、彼らはこういった内部情報をすぐにリークできるのです。(詳しくは以下のリンクをご覧下さい。) ○「有名陰謀論者と大手マスコミ」は「陰と陽」の関係。しかも、彼らが隠すことは共通して「天皇の陰謀」です。 もっとも、彼らの発言の中には必ず嘘も混ざっているので、十分な注意が必要ですが、この首都移転計画は正しい情報であると見てまず間違いないと私は思っています。 というのも、2012年に一度、現在の天皇が病気で倒れ、今にもお亡くなりになりそうになったことがありました。 ○天皇陛下、検査入院 冠動脈の状態調べる : J-CASTニュース 天皇はこの後、18日に手術を受け、20日に無事に退院することになりましたが、実はこのドタバタの騒ぎの最中に、三菱商事、三井物産、三菱UFJ、三井住友銀がこぞって本社を大阪移転することを発表したのです。 ○本社移転予想地と所有者→三菱商事、三井物産、三菱UFJ、三井住友銀行が本社を大阪へ移転。都知事記者会見での発言。 この上のリンク記事の中に、この関西への移転の動きについて、当時の石原都知事が見解を述べるシーンがあります。先日も話しました通り、石原慎太郎はロックフェラーの傀儡、天皇側から見れば敵になります。 (中略) この本社移転計画がその後どうなったのかはよく分かりませんが、いずれにせよ、これらの巨大な財閥たちは、天皇がもうすぐ死ぬかも知れないという時点で、次々と本社を関西に移すことを発表したわけです。 このように、次の天皇の即位とともに、首都移転の動きが出始めるだろうことは明白な事実なのです。 今のところ、首都移転計画について誰一人として政治家たちが騒いでいる様子はありませんが、今後、天皇が亡くなり、皇太子が天皇に即位したときには、天皇家が京都御所に拠点を移すことになるでしょうし、そうすると、当然、国会でもまた首都移転について賑やかに審議されることになるはずです。 皆さんもご存じの通り、この日本には二つの「府」があります。大阪府と京都府です。これは昔からずっと変わりがありません。恐らく悪魔崇拝者たちは、かつて天皇が絶対的な権力を握って「平城京」や「平安京」を作ったときと同じように、政治の拠点を大阪、天皇の拠点を京都に置くつもりなのでしょう。 もっとも、単にこうして東京から関西に拠点を移しただけでは、天皇を中心とした世界政府を作ることはできません。やはり先ずは日本国民から絶大な支持を取り付けなければいけません。 確かに現在の天皇は「平和の象徴」として国民から広く認知され、親しまれています。ある意味、裏社会のプロパガンダが大成功を収めているわけです。しかし、だからといって天皇に権力が集まっているというわけではありません。支持されるだけでは、単にその辺の芸能人と何も変わりがないからです。 では一体、裏社会はどのようにして天皇に権力を集めていくつもりなのでしょうか。 裏社会の手口を知るためには、彼らが過去にどのような手口を使ったかを調べるのが最も手っ取り早いです。そして実際、過去にも同じように世界政府を作ろうとした人物がいました。 そうです。ヒトラーです。先日も少しお話しましたが、かのヒトラーも「千年王国」という名の世界帝国を作ろうとの野望を燃やしていました。したがって、ヒトラーのやり方を見れば、今後、天皇がどのように世界政府を作っていくつもりなのか、その手口が分かるというものです。 それに何より、ヒトラーの背後にいたのもロスチャイルド。天皇の背後にいるのも同じロスチャイルド。しかも、このロスチャイルドはいつの時代でも同じ手口しか使いません。過去にやったことの焼き直ししかできません。彼らには何か新しいことを発想する脳がないからです。神様がそんな知恵を悪魔なんかに与えるわけがないのです。 ですから、私はこれから天皇がヒトラーと全く同じ手法で国民の支持を集め、世界支配のための権力基盤を築いていくものと考えています。 では、そのヒトラーはどのようにして国民から絶大な支持をとりつけていったのでしょうか。 現在では、ヒトラーというと誰もが悪の権化というイメージしか持っていないでしょうが、実のところ、ヒトラーが政権を取った当初は、ドイツ国民から絶大な支持を受けていました。とてつもない大人気でした。詳しくは以下のリンクをご覧ください。 ○意外にも評価が高かった初期のヒトラーの政治手腕 このリンクを見ていただくと分かる通り、ヒトラーは経済問題においても外交問題においても大成功を収めました。これによって、国民から絶大な支持を取り付けていったのです。 しかし、言うまでもなく、ドイツの経済がそれまでずっと疲弊していたのも、外交問題が冷え切っていたのも、すべてはロスチャイルドの差し金によるものです。 つまり、わざと国内外の問題をこじらせておいて、ヒトラーにそれらを全て解決させることで、ヒトラーの支持を集め、ナチスによる一党独裁体制の基盤を固めていったというわけです。 恐らく天皇もこれと全く同じ手に打って出るでしょう。現に、今の日本を見てください。経済にしろ外交にしろ問題は山積しています。余りにも問題だらけなので、国民の誰もが不満と不安を抱いています。 もし仮に、これら全ての問題を次の内閣がすべて解決したらどうなりますか。国民は間違いなくその内閣を支持するでしょうね。小泉純一郎が国民のために何も良いことをしてくれなくても、マスコミの宣伝だけであれだけ国民の人気を集めたのですから、今の日本の問題をすべて解決してくれたら、国民はその内閣にぞっこん惚れ込むようになるでしょう。 そして、もし仮に内閣総理大臣が、天皇を神のように敬い、神のように崇めるならば、国民も自ずと天皇のことを敬いはじめるに違いありません。 今現在、日銀は次から次へと金融緩和を行って、わざと日本経済をボロボロにしています。今のうちに日本を問題だらけにしておいて、次の内閣にすべての問題を解決させようという魂胆かも知れません。 私は最初、このような予想を立てたとき、自分でも少し考えすぎではないかと思いました。しかし、私がこうして天皇のことを記事にすればするほど、次から次へと予想外の攻撃が入り、邪魔が入りました。 中には、天皇のことを手放しで礼賛し、天皇のことを悪く言うな、と何度もしつこくメールしてくる人もいました。中にはこんなメールまで送られてきた始末です。 「反戦、反核、世界中の人々の共通する願いを実現しようと、ロック、ロスチャ、天皇、が協力してるんではないですか?」 凄いでしょう。私が天皇を悪く言うのを止めようとして、こんないい加減なことを書いてくる人がいるのです。最初にパッと読んだとき、私もこの人が何を言いたいのかよく分かりませんでした。 誰がどう考えたってロックフェラーやロスチャイルドが反戦、反核、世界中の人々の共通する願いを実現してくれるわけがありませんからね。 でも、こんなことを平気で書いて送ってくる人がいるのです。多分、この人は工作員に違いないでしょうが、つい先ほども同じ人からこんなメールが届きました。 「日本勝利、アメリカ敗北、今上天皇勝利」 これからはこんなバカみたいな工作活動があちこちで展開されていくのでしょう。このようなメールを受け取って、私はそう確信しました。要するに、裏社会の連中がわざわざ自分たちの計画をこうしてメールで私に教えてくれたわけです。 実際、昨日もコメントされた方がいらっしゃった通り、かの有名な陰謀論者の言説も、ここのところどんどん支離滅裂になってきています。 この人は、富士フイルムが完全に金融ユダヤに乗っ取られていると分かっていながら、富士フイルムのアビガンがエボラを治す、日本の開発した薬を世界に宣伝できるチャンスだ、などと脳天気なことを言って喜んでいます。 アメリカで殺人ワクチンを作った人は、やはり日本でも同じ殺人ワクチンを作ります。実際、金融ユダヤとはそういう人たちです。それは私たちが重々分かっていることです。そして、それはこの有名陰謀論者が私たちにこれまで徹底的に教えてきたことでもあります。 (字数制限を超えるので、後はリンク先を参照してください。) http://rapt.sub.jp/?p=17196 ★ ★ ★ 日本人は世界で一番自由の意識に疎い民族のように思います。自由の意識が希薄なために、集団主義に陥りやすいので、世界から孤立化しつつあります。外国人と付き合うことで、自由の意識を持つことが先決でしょう。
2014年11月18日
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ニセモノの宗教が蔓延る世の中が現代である。宗教が金儲けの偶像崇拝に堕落したため、悪魔崇拝が蔓延っているわけである。 はっきりといっておくが悪魔崇拝は地獄に堕ちるから覚悟しておくがよい。 さて、地獄に堕ちるアホバカばかりのその証拠に、最近、そのニセモノぶりがわかる典型の話題が巷を賑わせているようなので、あまりの悪魔崇拝ぶりに笑ってしまったが、悪魔唯物教の恰好の題材なんで、お馴染みのサイトから紹介する。 この馬鹿げた解釈から、悪魔崇拝の砦のバチカンもそろそろ幕引きが必要なのではないか?と思う。 その話題とは、以下のものである。 ★ ★ ★ こんにちはキリストです http://my.shadowcity.jp/2014/11/post-6008.html キリストは2人の子持ちだった? イエス・キリストには妻だけでなく2人の子どももいたという説が、古代文献を読み解いた新著「ロスト・ゴスペル」(失われた福音書)で紹介され、物議をかもしている。 ★ ★ ★ 確かに、この古文書の内容は真実であろう。しかし解釈が大間違いなんである。 古代の文書はその当時の言葉と意味、つまり表現で書かれているわけで、現代の解釈では読み解くことができないことは何度も紹介してきた。つまり古文書を読むには当時の翻訳者となる霊魂を蘇らせないといけないわけである。 まぁ、そこまでいかなくとも、人智学の知識があればわかる。 「キリストは2人の子持ちだった」というのは、「キリストという太陽霊は二人の子イエスに受肉した」という意味なんである。そして、妻は、洗礼者ヨハネである。勿論、当時は妻とは呼ばないが、当時の受肉させる要因を産んだ者を現代風に考えれば、身籠る母だから、洗礼者ヨハネとなるだろう。人智学では三位一体として常識である。 いまでも、ホンモノのキリストの教えを守っていれば、キリストは父であり、イエスが子であることはわかる。洗礼者が聖霊である。だからキリスト教の結婚式は洗礼者ヨハネに倣って、神父が聖霊となって、父のキリスト霊を人の子イエスに宿すためにヨルダン川に入水したという意味の聖水による三位一体の儀式が行われるわけである。 現代風にいえば結婚だが本来は男女の性差は関係ない。霊魂に性差はないからである。しいていうなら子である魂には唯物論に染まらない純血の処女のような高貴な清らかさが求められる。 つまり魂の上で結ばれるかどうかが重要であり、俗世での肉体関係を基にした結婚のことではない。俗世での結婚など元々は眼中にないのである。霊魂の成長に結びつくかどうかの問題である。 後の話はシュタイナーのキリストの話を読めばよくわかる。 当時の結婚と現代の結婚を同じに考えているから間違えるわけである。当時の結婚は霊魂の結婚のことである。だからほとんどが霊界の話になる。霊界の話なのに、混同して、物質界の訳をつけるから意味不明になるわけだ。 低次元の魂は、低次元の話で解釈するという見本である。 唯物論に染まりきってしまった悪魔崇拝のキリスト教などは地獄に堕ちるだけなんで、どう解釈しようが当人の自由なんで、解釈をなるべく強制しないように、このブログではできるだけ相手にせずに無視するために、シュタイナーの話を続ける。 ★ ★ ★ もし、人間が魂の成長と同じように、朝の目覚めとともに肉体とエーテル体も成長できたなら、それらは霊界からつくることになるが、寝ると同時に、それらを霊界に持ち込んで変化させなければならない。つまり、死んで転生するとは、過去世の肉体やエーテル体を含んだ睡眠からの目覚めを意味する。 転生することで、アストラル体と自我は、前世の物質界で完成された人体ではつくれなかった成長(発展)を刻印できる肉体とエーテル体の中に受肉できることになる。つまり、転生することで、以前、霊魂の成長を高次の進化段階にまで上昇させていたのに、肉体とエーテル体が完成していたことで限界となり、実行に移せなかった成長(進化)を新しい肉体とエーテル体に受肉することで現実化できるようになる。 もし、人間が肉体とエーテル体を破壊できずに、死の門を通過できなかったら、これまで獲得してきた経験を、霊魂の成長の糧にすることも不可能だっただろう。 死をどんなに恐ろしく衝撃的なものとみなしても、また人間の誰にも必然的に降りかかる死に対して、どんなに苦痛と悲しみを感じようとも、人生を公正に客観視するなら、人間は死を望まねばならない! ということが教えられる。 というのも、死だけが、次の転生での新しい人体の構築の機会を与え、そのことから過去世での地上生活からの経験から生まれる叡智や才能の果実を実らせるのを可能にさせるために、いまの人体を破壊する機会を与えてくれるからである。 このように人生の日常生活には大きな2つの流れ、つまり、霊魂の「内人間」の成長の流れと、霊魂の成長をエーテル体と肉体に刻印する「外人間」の成長の流れとが共に活動している。 これら二つの進化の流れの一方は、肉体とエーテル体の中に、他方はアストラル体と自我の中に平行して流れていることがわかる。 では、人間は肉体とエーテル体について、誕生から死までの間に一体何ができるのか? 日常生活で消耗するのはアストラル体だけでなく、肉体とエーテル体からなる様々な器官もまた消耗する。霊視すると、次のような事実が観察できる。 夜眠ると、アストラル体は霊界に滞在する間、肉体とエーテル体を元通りに回復するように外から働きかけている。だから、昼間起きているときに、肉体やエーテル体のなかで消耗し破壊された器官は、夜眠るだけで回復する。 実際に霊界はアストラル体を通じて肉体とエーテル体にも働きかけるが、やはり限界がある。生まれもった肉体とエーテル体の機能や内部構造は、非常に狭い範囲を除いて変われない。 宇宙の進化のなかでは、いわば(霊魂と物質の)2つの進化の流れが脈々と活動しており、人為的にとってつけたような抽象論では、その2つに調和をもたらすことはできない。 例えば、もし、「人間は調和しなければならない。だから、この2つの流れは人間の中で調和しなければならない」と言うような薄っぺらな哲学などの抽象論で、この2つの流れの統一を試み、発展させようとするなら、大変な間違いを犯すことになるだろう。 生命は抽象論に従って働いているわけではない。 (世間は生きている。理屈は死んでいる。) 生命は、このような抽象論が長い発展の期間を経て到達するような何段階もの不調和に出くわし、それに対する何段階もの平衡を通過し、その調和への叡智にはじめて到達することを目的に働くようにつくられる。 これが人間の生命の秘密であり、それは実際、思想などにより調和できるようにはなっていない。生命は不調和を通過(経験)することで、バランスの回復に向けて成長し進化するという途上にあるが、抽象的で無味乾燥な思想はいつも具体性の欠けた調和しか想像できない。 人間のある一定の進化段階を単に想像するだけでは到達し得ないような永久の調整能力を持つ、というのが人間が絶え間なく進化を続ける運命にあることの証なのである。 ★ ★ ★ 霊魂を考えない限りは、現代人は益々アホバカになるだけである。さて、このようなアホバカに警笛を鳴らすために、再度、以前紹介したプラトンの洞窟のイデア論を以下に紹介する。 ★ ★ ★ 洞窟の比喩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AE%E6%AF%94%E5%96%A9 『国家』第7巻の記述 地下の洞窟に住んでいる人々を想像してみよう。明かりに向かって洞窟の幅いっぱいの通路が入口まで達している。人々は、子どもの頃から手足も首も縛られていて動くことができず、ずっと洞窟の奥を見ながら、振り返ることもできない。入口のはるか上方に火が燃えていて、人々をうしろから照らしている。火と人々のあいだに道があり、道に沿って低い壁が作られている。 壁に沿って、いろんな種類の道具、木や石などで作られた人間や動物の像が、壁の上に差し上げられながら運ばれていく。運んでいく人々のなかには、声を出すものもいれば、黙っているものもいる。 解説 洞窟に住む縛められた人々が見ているのは「実体」の「影」であるが、それを実体だと思い込んでいる。「実体」を運んで行く人々の声が洞窟の奥に反響して、この思い込みは確信に変わる。同じように、われわれが現実に見ているものは、イデアの「影」に過ぎないとプラトンは考える。 ★ ★ ★ 現代人は霊魂というイデアを失ってしまったと、プラトンはさぞ嘆くであろう。「影」という悪魔を実体「神」と崇めているアホバカぶりなのだからね。
2014年11月14日
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自己愛をどうするか、が現代人の根本的な課題だと思うが、現代人はホンモノの愛を知らないので、例えば陳腐な我儘の延長上にある愛国心などのニセモノの愛が巷を蔓延り、上辺だけの偽善の愛が蔓延し、その本質は仮想世界の虚偽と同じで、支配欲旺盛な連中が軽々しく愛を語りあう顛末となるのである。 相手を束縛拘束し犠牲を強いるために利用する「愛」は大間違いでニセモノなんである。 「愛」はよく支配の道具や犠牲の餌につかわれるので注意すべきである。 悪魔も「愛」を語るが、語った相手を束縛するのに使われる。 だから現代人が「愛」を語るときほど胡散臭いものはない。愛を語る単なる我儘な人の十中八九は独占独裁主義者であり、「愛」を語る自分に単に酔いしれているだけである。 さて、霊魂の成長なくしてはホンモノの愛は成り立たないもので、だからプラトンは現代人のように軽々しく愛を語るのを戒め、プラトニックラブを説いた。現代の哲学はニセモノばかりで、霊魂を知らずに、物質的に語り合うアホバカなんで、プラトニックラブを精神的な愛という陳腐な台詞に置き換えてしまった。 プラトンはソクラテスの弟子だから、ソクラテスの教えである「魂の配慮」なしに、愛を説くはずがない。 長々と書いてしまったが、ホンモノの愛とは魂の成長とは切り離せないものである。だから我儘とは全く正反対のところにある。だから言葉などを巧みに駆使して肉体を使って物質欲を満たすことではなく、霊魂の経験の問題であって、「愛」を口に出すのは霊魂を顕わに曝すことで本当は恥ずかしいことなんである。 前回紹介したように、この物質界での経験が何より大切であるから、キリストが言ったように、「天国に行くかどうかは、この世でどう生きるか」、つまり「魂がどう経験するか」にかかっているわけなんである。 魂は、睡眠中に、この世での経験を霊界に持ち込み、数多い試行錯誤のなかから整理し秩序づけ、宇宙の進化の方向性に叶うものだけが、能力や叡智となり、その魂の成長になる。 だから、魂の成長につながる経験をすることが肝要で、その経験の機会を与える相手、つまり魂の成長につながる相手が愛の相手なんである。 このことから考えれば、自分とは合わない相手と結婚する現実が多いことにも納得がいくだろう。試練が多いほど愛につながり、魂の成長となるからである。だから、自分の我儘が通用しない相手と結婚し、我儘を自分でどうにかする方法をみつけるのが、この世に生きる意味であり、魂の成長なんである。 子供を産めば育児のために更に我儘しにくくなり、家庭を守るには我儘を超えて、世間や社会を知るために大局的観点に立たないといけないことがわかる。子育て、それこそが魂の成長につながり、地上を這いずり回るだけの低レベルな欲望の虜の蛇の段階を超え、愛のために生命を育む魚の段階へと進化することを促す経験になる。 そういう大事なことを現代の哲学は語らないので、続けてシュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ 経験は、夜眠っている間に、魂の中で整理され、朝起きると、再び能力や叡智として戻ってくる。魂の中に取り込まれた経験は魂により発達させられ、高レベルの能力や叡智へと浄化される。 さて次に、この成長に限界はあるのか、という疑問が生じる。 この成長の限界を認識するには、夜寝て、朝起きても、肉体とエーテル体も変わらず、能力や才能も寝る前と全く同じなのを詳細に観察しないといけないが、特に肉体とエーテル体の配置や内部構成などの物質的な形態が変わることはない。 睡眠中にもし、肉体、あるいは、少なくともエーテル体を霊界に連れていければ変えることができるが、連れていけないので、毎朝、昨夜と変わらないのがわかる。 ここに生まれてから死ぬまでの人生で到達できる成長(進化)の限界が生まれる。生まれてから死ぬまでの成長(進化)は本質的に魂の経験、つまり成長のみに限定され、身体(エーテル体と肉体)を変えるまでには至らない。 (魂の成長にとって、エーテル体と肉体が障害になるようなら、死が必要となる。) だから、例えば、いくら音楽的な才能を目覚めさせるような経験を魂の奥底にもっていても、もし、その音楽的才能を現実化させる道具となる耳などを肉体にもたず、「内人間」と「外人間」との間に調和を見いだせないエーテル体であったなら、その音楽的才能は、今生では十分に発揮できない。 (天才ではなく秀才で終わる。) 一個人の人間が神のような完全体となるには、人体全ての構成体が1つの統一体を形成し、調和しないといけない。例えば、音楽的才能を叶える耳などの道具を持たなければ、いかに音楽的才能を高レベルに引き上げるような経験を得ようとも、魂の中だけにとどまり、現実的な能力として発揮されないのは、このためである。 このような才能が実りへともたらされないのは、毎朝、起きたときに、肉体やエーテル体などの(物質的)構造や形態により、魂の能力に伴う変化に対して、外側から限界という境界線が引かれるからである。 以上のように、才能や能力は、肉体やエーテル体からなる粗雑な物質的構造に依存するだけでなく、その中の魂との霊的に微妙な関係にも依存する。つまり、現世での日常生活の肉体やエーテル体のなかに表現される、魂の能力の限界を見つけないといけない。 (魂が成長した分、肉体とエーテル体が成長しないためにギャツプ「微妙な関係」が生じる。) もし、魂の能力に沿う形で、肉体やエーテル体が形成されていなければ、その才能の開花は不十分なものになる。現代の唯物論的な生理学や解剖学では示されない以上の事実、つまり、魂の成長のために、肉体やエーテル体との間に生まれる霊的な微妙な関係からくる刻印(ギャップ)こそが、生まれてから死ぬまでの間に霊魂が変化させることができない成長の限界を示すものである。 では、人間は、アストラル体や自我の中に取り込んだ経験を肉体やエーテル体の中に注ぎ込むには全く無力なのか? というのも、限度はあるが、肉体の調整がある程度可能なのがわかるからである。例えば数十年にわたって瞑想を続けてきた人などは、その仕草や顔つきが変わるのがわかる。とはいえ、このような肉体の変化が生じるのは非常に狭い範囲に限られる。 それはどの時代にも定まっているものなのか? いつの時代にも肉体の変化が非常に狭い範囲に限られるわけではないことを理解するには、以前、何度となく触れてきた、とはいえ、現代では遥か昔の遠い話になってしまった、17世紀に、低レベルな形で成立した、ある法則を知る必要がある。 17世紀になるまで、下等生物、例えば虫などは川の泥から発生すると信じられていた。昆虫が生じるには、純粋に、物質以上のものは必要なく、物質から生まれることが信じられていた。この愚かな信仰は当時一般人だけでなく、学者たちにも信じられていた。 17世紀以前の時代に遡ると、例えば、環境からどうやって生命を生み出すか、が系統だって教えられてきたことがわかる。紀元後7世紀の著書には、蜜蜂を生み出すには、畜殺された馬の胴体をどのように扱えばよいかなどの記述がみつけられる。同様に去勢牛から雀蜂を、ロバからジガバチをつくりだす方法が書かれた。 偉大な科学者、フランチェスコ・レディが、「生命は生命のみから発生する」という法則を初めて主張したのが17世紀だったのである! 今日では、この法則は、あまりにも自明と思われているため、この法則以外が信じられていたことさえ理解できないが、この真理のために、17世紀でも、レディは恐るべき異端者とされたが、かろうじてジョルダーノ・ブルーノのような火刑の運命は免れた。 このような真理はいつも異端とされる。このような法則を主張する人たちは、最初、異端者の烙印を押され、教会による審判の餌食にされ、過去には、多くの人々が火あぶりに曝されるなどして命の危険に曝された。 今日、このような審判は放棄され、火あぶりにはされないが、今日の科学を牛耳る人々は、高レベルで斬新な真実を主張する人を馬鹿者呼ばわりし、夢想家と見なす。 今日の科学者は、フランチェスコ・レディが17世紀に主張した上記の生物の法則を、別の形で奉じる人々を馬鹿者呼ばわりし夢想家と見なす。 レディは、生命が、死んだ物質からそのまま発生する、と信じるのは不正確な観察で、生命の発生を知るには、生きるのに必要な物質と力を環境から引き寄せる胎児にまで観察を辿る必要があることを指摘した。 レディと同様に、今日の人智学は、霊魂を本質とする生命体も、霊魂から発生し、(物質的な)遺伝という特徴をもつ集合体ではない、という事実を指摘しなければならない。 昆虫の幼虫(卵)が、周囲の物質を引き寄せて成長するように、霊魂の核が成長するには同様に周囲の霊的実質(光、エーテル)を引き寄せる必要がある。もし、人間の魂や精神の本質を逆向きに辿っていくなら、(物質界の)遺伝とは全く関係ない誕生前の霊魂という要素に辿り着く。 霊魂は霊魂から生じる、という法則は、結局、地上生を繰り返すという輪廻転生の法則に必然的に帰着するが、この法則は人智学的に綿密な霊的探求(霊視)により証明できる。今生での経験が発生する要因などは、前世まで辿ることができる。 霊魂の成長は、霊魂に起源を持ち、現在の人生で得られる経験は前世の霊魂の成長に起因する。死の門を通過していくとき、霊魂は、今生での経験を能力に変容させたことで得られる成長を吸収し携えていく。そして、次の誕生を通して、来世を生きるときに、霊魂は、この成長を携えて帰ってくる。 死から次の転生までの霊界での暮らしは、生きているときの夜の眠りから朝の寝起きまでの霊界での暮らし(要するに睡眠中)とは異なる。朝起きると、前の晩に残していったままの肉体とエーテル体に入る。エーテル体と肉体は生まれてから死ぬまでの日常生活での経験では変化できず、物質的に完成しているので限界がある。 死の門を通ると、霊魂は肉体とエーテル体から去り、エーテル体については、その本質の養分だけを保持する。霊界では、肉体とエーテル体を考慮する必要はなく、死んでから次の転生までの期間を通じて、純粋に霊魂だけに働きかけ、純粋に精神だけを取り扱う。 (睡眠中は、肉体やエーテル体に戻らなくてはならないので、成長には限度がある。あまり成長してしまうと、肉体やエーテル体に適応できなくなる。高次の神々が、物質界に受肉できないのは、適応できる肉体やエーテル体がないからである。) 次の転生までに、新しい肉体とエーテル体の元型(設計図)をつくる中で、前世の肉体とエーテル体の中にいたときには使うことのできなかった経験全てを、そこに織り込みながら、必要なものを霊界から取り出す。次に、この純粋に霊的な元型(設計図)のイメージが完成し、元型の中に織り込んだものを肉体とエーテル体の中に刻み込むのが可能な時がやってくる。 それらの元型(設計図)をつくるために、人間が死後に通過する、この特別な睡眠ともいえる霊界での暮らしのなかでは、以上のように次の転生の準備のために人間は活動している。 ★ ★ ★ 驚愕の事実だろうが、輪廻転生を知っていた古代人には当たり前の話なんである。現代人は霊能力と共に忘れてしまっただけである。シュタイナーによればカリユガの時代は過ぎ、再びこの輪廻転生の話が理解できる人々が増えてくるそうである。
2014年11月14日
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巷にはニセモノが蔓延っていることを何度も紹介してきたが、特に哲学が酷過ぎる。霊魂を想定できない哲学はほとんど意味がないからである。哲学とは霊魂の営みを解き明かし、自己の霊魂を宇宙の進化に結びつけるものだからである。 つまり、哲学は霊魂学といってもよいが、その霊魂について何も語らないのが現代の哲学なんで、ほとんど無意味なことをやっていることになる。 だから哲学とは簡単にいえば霊魂の育て方である。 霊魂の育て方を間違わないように、続けてシュタイナーの話を紹介する。 ★ ★ ★ さて、では日常生活のなかでの(魂の)成長(進化)を考えてみる。 何故、人間はアストラル体と自我を伴って、毎夜、精神(霊)界に帰って行くのか? 睡眠する理由とは何だろうか? 以前にも触れたが、いま扱っている病気と治癒に現れるような、一見異常にみえる状態を認識するためにも、正常な(魂の)成長(進化)を理解する必要がある。 人間はどうして毎夜、眠るのか? この疑問に答えるには、前回述べた「外人間」に対する「内人間」(アストラル体と自我)の関係を十分に考慮しなければならない。以前、アストラル体を、楽しみと苦しみ、喜びと悲しみ、本能、欲望、熱情、想像が波打つところ、知覚、思考や感情の担い手として紹介した。 けれども、アストラル体が上述の感情などの担い手であるなら、夜眠っているときに、肉体とエーテル体を外界に置いていくとはいえ、アストラル体と共にあるのに、何故、自我は感情などを経験しないのか? 睡眠中は漠然とした闇の中に沈んでしまう(無意識な)のは何故なのか? それは、アストラル体が、喜びや悲しみ、判断、想像等々の担い手なのに、自我が、それらを直接意識できないからである。自我は、アストラル体を直接意識するためには肉体とエーテル体を必要とする。 つまり、自我は、アストラル体を直接意識できない。もし、アストラル体を直接意識できれば、昼の起きているときと同じように夜の睡眠中にも経験できるはずである。 昼起きているときの意識は、本物の意識の残響もしくは鏡像である。肉体とエーテル体がアストラル体のホンモノの意識を反射する。朝起きてから眠るまでの間、魂が魔法のように出現させる経験全ては、肉体とエーテル体という鏡の中に映る反射像に他ならない。 夜眠り、肉体とエーテル体を残した後でも内にアストラル体を保持しているが、それらを認識できない。何故なら、それらを認識するには、肉体とエーテル体のような反射(鏡)の性質が必要だからである。 (霊魂は高次の世界のものなので、三次元の感覚で捉えるには、三次元化しないといけない。三次元の鏡や映写機が必要で、それがエーテル体と肉体である。) このように朝起きてから夜眠るまでの日常生活全体を通して、「内人間」と「外人間」、すなわち、自我とアストラル体、そして肉体とエーテル体が相互に影響しあっているのがわかる。実際は肉体とエーテル体は、アストラル体と自我が働く支配下にある。というのは、物質を構成する肉体やエーテル体が自ら(独立して)意識を生むことは不可能だからである。 (物質は物質しか生み出せない。) 鏡の中にうつる像が、鏡から生じたものでなく、ただ反射されているだけなのと同じように、人生の経験全ては、肉体とエーテル体に反射されただけで、アストラル体と自我(の働き)から生じる。 このように肉体やエーテル体にうつる経験全てはアストラル体と自我の中の、すなわち「内人間」の本性の中に横たわっている。そして、経験は「内人間」と「外人間」との間の相互のやり取りの中で実体験として活性化され、いわば肉体とエーテル体の「外人間」にまで手をのばすが、やがて夜には「疲れ」を感じるほど物質的に消耗状態(行き詰まり)になることがわかる。 もし人間の魂が毎夜、朝から夜まで過ごす日常生活の世界とは別の世界に入っていけなければ、経験を続けることができなくなるだろう。起きている間に住む物質界の中で、「内人間」を認識可能にし、経験を可能にするのはアストラル体の働きによるが、起きているときには、このアストラル体の力を使い果たしてしまう。 その力は、起きている間の日常生活からは補充できない。その力を補充できるのは、毎夜睡眠中に入っていく精神(霊)界だけである。人間が眠るのはそのためで、夜、霊界に入り、そこから昼間使う力を補充することなしに日常生活を送ることはできない。 以上から、エーテル体と肉体の中に入るとき、物質界に何を持ち込むのか? という問いに対する答えを得た。 ではまた逆に、物質界から精神(霊)界へも何かを運んでいくのではないのか? という第二の疑問が生まれる。この疑問も第一の疑問と同じように重要である。 この疑問に答えるには、日常生活に属する数多くの事柄を考慮する必要がある。日常生活を送るにも、いわゆる(物質的な)経験が必要である。これらの(物質的)経験は誕生から死までの人生では非常に重要である。例えば、よく触れてきた例の一つの、「書く」能力にいま光を当てる。 人は自分の思考を表現するのに「書く」技術に携わる。「書けるようになる」のに必要な条件とは何なのか? つまり生まれてから死ぬまでの間に「書く」技術を得るための経験全てが必要となる。「書く」技術を得るために必要な経験、例えば、生まれてはじめて、ペンを握り、紙に当てる等々のぎこちない動作を振り返ってみる。(転生時に)一から「書く」技術を学ばなくてよいのを、神に感謝すべきである。 というのは、もし、毎度毎度「書く」ときに、「書く」技術を得るために、これまで経験した試行錯誤、つまり線を引き損ねた経験や、叱られた経験などを一々思い出さなければならないとしたら、酷い状況に陥るからである。 それら経験を一々思い出さずに済むのは、なぜなのか? 生まれてから死ぬまでの人生で重要な意味を持つ成長(進化)が起こったのである。 人間は一連の経験という総体をもつが、この経験は非常に長い時間をかけて生じたものである。「書く」技術を習得するのに、それまで経験した試行錯誤などは、習得した後では「書く」能力と呼ばれる霊の本質へと純化したのである。書く技術習得のためにした他の失敗全ては、漠然とした忘却の闇の中へと沈んでいったが、それらを一々思い出す必要はない。 というのも、人間の魂は、日常の経験から出発し、それを糧とし、より高次の段階に達するからである。つまり、日常生活の記憶は、人生での受容力や能力として現れる霊魂の本質の中へと経験と共に流れ込む。誕生から死までの人生での成長(進化)とは以上である。 記憶を含む経験は最初に魂の能力に変容し、次にその能力は肉体という外的な道具を通して表現される。生まれてから死ぬまでの成長(進化)は、個人の経験や記憶が、霊界で能力や叡智に変化する形で生じる。 もし、例えば1770年から1815年までの期間を眺めるなら、この変化がどのように生じるか、霊視からわかる。重要な歴史的事件がこの間に生じた。 この事件が起こった同時代に多くの人が生きていたが、どのように反応したのか? ほとんどの人は、その事件が傍らを通り過ぎても気づかなかった。その事件が、叡智に変化するのを無感動に見過ごした。他の人たちはその事件を経験し深い叡智へと変化させた。経験することでその事件の霊的本質を抽出した。 では、どのようにして経験は魂の中で能力や叡智へと変化させられるのか? 日々の経験は毎夜、そのままの形で眠りの中で、魂もしくは「内人間」が滞在する霊界の中に取り込まれることで能力や叡智に変化させられる。ある期間中に起こった経験は、霊界でその本質に変化する。 人生を霊視し、もし、ある特定の活動分野での一連の経験を、技術や能力として体系づけ、自分のものにしたいなら、これらの経験を眠っている間に変化させる必要がある、ということを知るだろう。 例えば、何かを習得したければ、その何かを学ぶ経験をした後に眠り、また起きて再び学び、また眠ることを繰り返すのがよい。経験は、眠りの中で、霊界に持ち込まれなければ、能力や叡智、もしくは芸術の形で現れてくるように進化することはない。 人間が低次なレベル(物質界)で必然的に直面した経験は、高次レベル(霊界)での(霊的な)表現となる。 (プラトンの洞窟のイデア論を彷彿とさせる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AE%E6%AF%94%E5%96%A9 ) もし、今年の植物が地球の土という暗い覆いの中に帰って行かなければ、来年再び成長する植物にはなれない。植物の場合、あくまで成長のパターンを繰り返すだけだが、人間の精神(魂)は、霊界で照らされることにより真に「成長(進化)」する。 (寝る子は育つ、といわれる。) 人間の経験は、無(潜在)意識の暗い覆いの中に降り、再び、さしあたりはまだ繰り返しとして取り出されるが、最終的には、叡智や能力となり、永遠に生きる経験として現れるほどに変化させられる。 今日よりも深く精神(霊)界を観察できた(霊能力をもっていた)時代には、人生は以上のように理解されていた。古代文化を指導した人物たちが、象徴的なイメージなどを用いて話すとき、以上のような人生の重要な基礎知識を示唆しているのがわかるのはそのためである。 ではもし、一連の昼間の経験が魂の中に火をつけ、ある能力に変化するのを妨げたいのなら、何をすべきか? 例えば、ある人生の機会に、他の誰かと何らかの関係を持つときには、何が起こるのか? その人物との経験は、夜眠ると潜在意識の中に沈み、その経験が健全なものなら、その人物への愛として、いわば継続した変わらない不変な経験の本質として再び現れる。他者への愛情は、経験の総体を1つの織物へと紡ぐように統合する形で生じる。 さて、では、一連の経験が愛に変化するのを妨げるためには何をしたらいいのか? 他者との経験を本質、すなわち愛情に変化させる夜眠る行為を妨げる必要がある。昼起きているときの経験から織られた生地を夜寝る前に織物にならないように再び解かなければならない。もし、それができたなら、魂の中で愛に変化せずに、その経験は他者に何の影響も及ぼさなくなる。 ホメロスは、以上の魂のなかの深い営みを、ペネロペと彼女への求婚者の話(オデュッセイア)のなかに暗示している。彼女は織物を織り上げたときに結婚に応じることを約束するが、昼間に織った織物を、夜に解きほどくことで、約束を回避していた。 (以下はウイキでのペーネロペーの解説から 『オデュッセイア』 によれば、求婚者たちが結婚を迫ると、ペーネロペーは一計を案じ、彼女が織っている織物が織りあがったとき、求婚者のひとりを選ぶといった。求婚者たちはこれを信じたが、ペーネロペーは昼に織った織物を夜になると解いていた。) ホメロスのように霊視できた芸術家の場合、その作品のなかで非常に深遠な秘密が明かされることがある。今日、このような芸術作品から、霊魂の真の営みを探求できるほどの知識はほとんど残っていない。だから、「外人間」と「内人間」を同時に見れる詩人が、そのような事実を明かすとき、現代では単なる空想や想像と断定されてしまう。 そのような粗末な解釈により、古代の詩人も、そしてその真実も害されることはないが、現代人はそうはいかない。そのような粗末な解釈から、人生から得られる経験による魂の深い営みに入っていくことが阻まれるからである。つまり現代人はもはや魂を進化(成長)できなくなっていくのである。 ★ ★ ★ 自分の中で哲学をつくらないとダメなんである。
2014年11月11日
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端的にいって、この物質界が全てと勘違いしている人は悪魔崇拝に陥っている。陰陽論を唯物論で捉えている人の多くが悪魔崇拝に陥っている。 現代物理学でも負のエネルギー領域の方が大きいことがわかっている。オカルトでは物質界、つまり陽の世界は、陰の世界のほんの一部であることがわかっている。 そして、物質界を、光に対する影(闇)の世界と定義している。光あっての影なんで、影自体が存立するものではない。だから、この物質界を全てだと錯覚している人は、大きな間違いを犯している。 一刻も早く大きな間違いを改めるべくお馴染みのサイトから反面教師の話を紹介する。 ★ ★ ★ 菅公さんと崇徳院さんは、いつでもOK状態だ。 渾沌堂 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/ RAPT より 上記文抜粋・・・・・・・・ 「有名陰謀論者と大手マスコミ」は「陰と陽」の関係。しかも、彼らが隠すことは共通して「天皇の陰謀」です。 天皇に関する話はまだまだ続きますが、今後の話の流れをよりスムーズにしていくため、一端ここである重要な話をしておきたいと思います。 ここ最近、有名な陰謀論者のほとんどが実は裏社会のエージェントではないかとのお話をしてきました。例えば、以下のリンクなどがそうです。 ○この国は天皇を頂点とした「日本株式会社」かも知れません。私たちはこの会社で働く奴隷のようなものです。 有名な陰謀論者のほとんどは、なぜか天皇のことには触れず、例え触れたとしても天皇のことを善人扱いします。天皇が善人であるという根拠など皆無に等しいのに、なぜか天皇のことを手放しで礼賛しています。 しかも、彼らは天皇の戦争犯罪、田布施一族による天皇すり替え説などに触れないまま、ロックフェラーやロスチャイルド、ブッシュやバチカンなどを悪とする陰謀論のみを展開します。人によっては悪魔教に過ぎない神道まで信じているという始末です。そうして、天皇のことを神のように崇めてさえいます。 ちょっと調べれば、天皇が善人でないことぐらい誰にでもすぐに分かります。例えば、以下の記事をご覧ください。 ○天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。 ○天皇家とロックフェラー家。彼らは密かに対立し合っているのかも知れません。 (中略) このように、私がちょっと調べただけでも、天皇が善人であるとは口が裂けても言えないことが分かります。なのに、なぜか多くの有名陰謀論者たちは天皇の悪事を全く追求しようとはしません。 これだけでも有名な陰謀論者たちの多くが怪しいということが分かりますが、私が彼らのことを疑う理由はまだ他にもあります。その根拠は、一言で言うと「陰陽道」にあります。 (中略) この「陰陽道」は、道教や儒教、または神道から派生した宗教であると一般には言われていますが、これもまたご多分に漏れず、悪魔崇拝者たちが道教や儒教の中に「悪魔教」の思想を混入し、道教や儒教を信じる振りをして悪魔教を信仰しているに過ぎません。詳しくは以下のリンクをご覧ください。 ○天皇と裏天皇と八咫烏。彼らこそが日本と世界を操る最大の秘密組織なのか。 この「陰陽道」の思想は、悪魔崇拝者にとってとても重要なものです。少なくとも私はそう考えています。そう考えざるを得ないのです。先ずはこちらを見てください。 この画像は、陰陽師・安倍清明を祀る清明神社にある湧き水です。いわゆる「五芒星」または「ソロモンの星」と呼ばれるマークがはっきりと書かれています。これは悪魔崇拝者たちが好んで使うマークです。このように「陰陽道」が、名前を変えただけの悪魔崇拝思想であることが分かります。 さらに「陰陽道」というと、以下の図を思い出す人がいると思います。 これは「陰と陽」を表す図です。「太極図」とも呼びます。そして、彼らはこの図に乗っ取って東京にJR(国鉄)の電車を走らせました。 これは知る人ぞ知る都市伝説ですが、このように彼らは皇居を中心として東京に巨大な「太極図」を描きました。一般的には、東京にあるこの巨大な「太極図」は、富士山の霊気を皇居まで運び込むために描かれたなどと言われていますが、恐らくそんな話はデタラメでしょう。 裏社会の連中は、悪魔の力を東京に集中させようとしたのです。天皇による支配を強固なものにしようと計画したわけです。 このように、悪魔崇拝者はいつも「陰陽道」の思想を基にして計画を実行します。つまり「陰と陽」です。「裏と表」と言ってもいいかも知れません。つまり、表を立てるときには必ず裏も立てる。表を作るときには必ず裏も作る……というわけです。 実際、かのバチカンにおいても、実は表の教皇と裏の教皇が存在していると言われています。表の教皇とはもちろん、私たちが知っているローマ法王のことです。裏の教皇は決して世間に公表されることはなく、悪魔崇拝者たちにしか知らされません。そして、裏社会においては、表よりも裏の教皇の方がより強大な権力に持っているとも言われています。 つい最近、バチカンの悪魔崇拝の裁判で、ローマ法王フランシスコに有罪判決が下されましたが、それと同時にイエズス会のアドルフォ・ニコラスという人間にも同じく有罪判決が下されました。もしかしたらこのアドルフォ・ニコラスこそが現在の裏の教皇なのかも知れません。 (中略) これと同じく、天皇にもまた表の天皇と裏の天皇がいると言われています。裏の天皇が誰なのかについては諸説紛々としていて、私も今のところ正確には掴めてはいませんが、いずれにせよ、悪魔崇拝者が「陰陽道」を重視していることから見て、裏天皇が存在することは間違いのない事実だと思います。 このように悪魔崇拝者は、この世で誰か重要人物を立てるときには、必ずもう一人「陰」にあたる人物、「裏」にあたる人物を配置します。表と裏からこの世を操作し、支配するのです。その方がより確実にこの世に自分たちの影響力を及ぼせるからでしょう。 一応、私はこれを映画の世界における「俳優」と「監督」のようなものと見ています。どちらも一流であれば、その映画も輝きます。これと同じく、裏社会はこの世で何をやるにしても、常に優れた「俳優」と「監督」とを配置するわけです。 そして、これは陰謀論の世界においても、全く同じことが言えるのではないかと私は思っています。それはつまり「有名陰謀論者と大手マスコミ」です。 大手マスコミが嘘ばかり垂れ流し、大衆を騙すプロパガンダ装置の役目を果たしている、ということはもはやネットでは常識となっています。しかし、大手マスコミの言うことが全て嘘かというと、そんなことはありません。彼らはこの世で起きている出来事をきちんと報道しています。 しかし、大手マスコミの報道にはいつも必ず一部に嘘があったり、隠し事があったりします。偏向報道もします。そこで、陰謀論者の登場がどうしても必要となるわけです。有名な陰謀論者がマスコミの嘘や隠し事を指摘し、そこにいかなる陰謀が隠されているかを暴露し、解説していくわけです。 しかし、もしこの陰謀論者さえも裏社会のエージェントであるなら、B層だけでなく、A層をもうまく騙すことができます。この世のほとんど全ての人を煙に巻くことができます。このように見てみると、「大手マスコミと有名陰謀論者」が「陰と陽」の関係にあることが分かります。大手マスコミが表側からB層を騙し、有名陰謀論者が裏側からA層を騙すという仕組みです。 また、裏社会においては「陰」にあたる「有名陰謀論者」の方が、「陽」にあたる「大手マスコミ」よりも重要です。B層を騙すよりも、A層を騙す方がずっと難しいからです。それに、B層の多くもいずれ時間が経てばA層になります。もちろん、全てのB層がそうなるというわけではありませんが……。 したがって、A層さえ騙してしまえば、裏社会にとってはかなり安泰ということになります。彼らの核心部分を誰にも触れられずに済むからです。 しかし、私がこの世の中を見ている限りでは、今ではもうA層もB層もそれほど大差がないという状況になりつつあるような気がします。 なぜなら、今や多くのA層が自分の頭で物事を考えることをせず、ただ一部の有名な陰謀論者の言うことだけを信じ、受け入れているような状態だからです。この人の言説さえ読んでいれば大丈夫と信じて、自分の気に入った(自分と波長の合う)陰謀論者の話だけに耳を傾けているような状態です。これではもはやテレビや新聞だけを見ているB層と何の変わりもありません。 第一、有名陰謀論者の言うことがいつも正しいことは限りません。下手をすれば、彼らが裏社会に買収されていたり、あるいは確信犯的なエージェントであったりする可能性もなきにしもあらずだからです。それなのに、有名陰謀論者の言うことを全て100%正しい信じ込むなら、その人もまたB層と同じように裏社会に騙されることになります。 本当のA層とは、自分でありとあらゆる情報を掻き集め、精査し、その中から真実を見出していく人のことを言います。もっと平たく言えば、この世の真実を追究していく人のことを言います。 私自身、この世の様々な陰謀論者の語ったことだけでは何か物足りず、分からないことだらけだったので、自分なりに色々な情報を掻き集めて、自分が知りたいことを調べてきました。それをこうして毎日のようにブログに書き綴っているわけですが、その結果、今ではもう有名陰謀論者たちの唱える論説とは全く違う結論に達しようとしています。 どこが最も大きく違うかというと、一番はやはり天皇に関することです。有名陰謀論者たちは、なぜか共通して天皇のことだけはうまくお茶を濁し、場合によっては、天皇のことを手放しで礼賛したりしています。 もちろん、私もこれまでは様々な陰謀論者から多くのことを学んできました。彼らの言うことはそのほとんど(九割以上)が正しい情報だと思います。しかし、その中にはなぜか必ず嘘が混じっています。 私はこれまで、それを単にその人の無知のせいか、調査不足、研究不足のせいだと思っていましたが、果たして本当にそうなのだろうかと今では疑っています。意図して知らない振り、分からない振りをしているのではないかという気がしてなりません。 第一、彼らの調査能力はきわめて優れています。とても他の人が追いつけないほど膨大な情報を掻き集め、精査しています。それなのに、天皇のことについてはなぜ膨大な情報を掻き集め、精査することができないのでしょうか。 このような理由から、私はこの世の多くの有名陰謀論者が「天皇の陰謀」を隠すために配置されたエージェントではないかと見るようになりました。残念ながら、そのような結論に到達しつつあります。 もちろん、これについて皆さんがどうお考えになるかは皆さんの判断にお任せしますが、いずれにせよ、これから私が語ろうとしている話は、全てこの点を踏まえた上で進んでいくことになります。その点はご了承ください。・・・・・・・抜粋終わり お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 裏の裏は表ですよね。この物質界をいかに支配しようとも砂上の楼閣にすぎません。
2014年11月11日
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オカルト(秘教学)では、人間は小宇宙(ミクロコスモス)と呼ばれる。というのは、大宇宙をそのまま象ったのが人間だからで、だから人間には宇宙がつまっているのである。 聖書でも、人間は神の姿を象ってつくられたとあるように、神が宇宙を支配するように、人間は人体を支配できるようになっている。つまり、人間は人体を支配することで、神の宇宙支配を学びとることができる。 シュタイナーはこのことを「1プラトン年」を使ってよく次のように表現している。 ★ ★ 人間は、1分間に大体18回呼吸する。この呼吸数は、1日、つまり24時間では、25920回(18回×60分×24時間)となる。人生を1日単位で換算すると、1年は365日で、人間の平均的な寿命、つまり大体71歳(71歳は、古代では族長の年齢とされていたという。)まで生きる(長生きする可能性もあるが)と想定すると、人間の寿命の日数は、1日24時間の呼吸数と同じ、25915(365日×71年)という数になる(「5」の差は閏との関係)。 更に、黄道十二宮を巡る太陽の運行の1プラトン年、つまり太陽の春分点が、例えば、牡羊座から昇るとして、再び、牡羊座に戻ってくるまでに要する時間を考えると、25920年となる。 ★ ★ つまり、天体の軌道が右螺旋なんで平面で解釈すると閏やらの多少の誤差はあるが、 大体、人間の一日の呼吸数=人間の平均寿命=太陽の春分点移動周期となる。 だから、プラトン年により、少なくとも太陽系のリズムと人体のリズムがフラクタル(相似形)のごとく相関していることがわかる。 だから宇宙や天体の仕組みを知ることから、人体の仕組みを知ることができるので、占星術が生まれたのである。 またその逆に人体の制御を学ぶことで、宇宙の制御も学ぶこともできる。 宇宙全体を統べる能力が神であるなら、その能力を人間は人体を統べる能力に用いているので、神の子といわれるわけだが、この統べる能力が人体を超えて広範囲に及ぶほど高度になることがわかる。 人間は人体を統べる、つまり制御することで、周囲の自然環境を統べる、つまり制御することを学ぶ。だから、裏返しにいうなら、自然環境を破壊すれば、人体を破壊することになる。 例えば、自然環境から人間が多くの食べ物を摂りすぎると、人体は肥満になり、人体が肥満になった分、自然はその分の食べ物を新たにつくり出さないといけないので、自然の恒常性が破壊され、また肥満した人体は適度な運動と排泄がなされないと、成人病などに罹る だから、食べた分を補うような運動と排泄を行わない限りは制御力が衰えてしまうことになる。 つまり節度を守った生活を心がけないと人間は制御力を失いどんどんアホバカになり、周囲に迷惑をかけ、自然破壊をおこなってしまうわけである。 簡単にいえば、我儘とは自分を制御できないことである。人体でいえばガンのことである。 そのようなアホバカにならないために、ソクラテスの魂の配慮にちなんだ題で、シュタイナーの病気や治癒の話を紹介する。 ★ ★ ★ 今回の講義では、病気や治癒の本質に関わる問題を取り上げる。 以前の連続講義の中では、人智学の立場、すなわち、人間は霊(精神)的存在の表現体である、という事実からわかる人生の問題を取り上げた。更に今回は、病気や治癒を理解する上で、極めて重要な問題を取り上げる。 治癒、ときには死に至る病気は、人生に深い影響を及ぼしている。人智学では、病気や治癒を考察するための基礎となる霊(精神)的な知識を絶えることなく探求してきたので、病気や治癒について前世からくる原因や、現世でのその結果の探求も可能となっている。 そこで、前世、現世全ての経験について、人智学から説明できることは何なのか? という疑問が生じる。 人生の通常の成長のなかに、病気や死、そして治癒をどのように位置づけたらよいのか、明確にするために、成長の意味について、再度、深く探求する必要がある。というのも、病気や死、そして治癒などは通常の成長に大いに影響を及ぼすからである。 では一体、病気や死、そして治癒などは人間の成長にどのように貢献するのか? これらは人間を進化させるのか? あるいは、退化させるのか? 病気や死、そして治癒についての明確な概念に到達するには、人生全般にわたって深く考える必要がある。 これまで繰り返し述べてきたことだが、人間は4つの構成体から成立している。第1の構成体は、周囲の鉱物全般と共有する肉(物質)体で、それは内にもつ物理力や化学力に依存している。第2の構成体は、人智学ではエーテル体、もしくは生命体と呼んできたもので、周囲の植物全般や動物全般などの生命体全般と共有している。 そして、第3の構成体のアストラル体については以前何度も述べたが、楽しみや苦しみ、喜びや悲しみなど、1日を通して沸き起こる感動やイメージ、思考などを担っている。このアストラル体を周囲の動物全般と共有している。 そして、第4の構成体は、人間を被造物の頂点に立たせる最高のもの、すなわち自我で、これは自意識を担っている。 人間がもつこれら4つの構成体について考えるとき、まずわかることは、表面的に見ても、それらが、ある一定の違いをもつことである。 人間を外から見ると、まず肉体がある。肉体は外から、つまり物質的な感覚によって観察できる。 物質的な感覚に結びついた思考、すなわち脳に結びついた思考によって、人間の肉体は理解でき、肉体は、外からの観察で明らかになる。 しかし、アストラル体については全く異なる。既に以前にも説明したが、感覚を超える超感覚的な意識(霊視力)をもたないと、アストラル体を事実として捉えることはできない。つまり、アストラル体は、しばしば述べてきたような方法で意識を訓練しなければ、肉体と同じようにみることはできない。 通常の生活では、アストラル体を外からは観察できない。可視なのは、その中に波打つ感情や熱情や思考などが外に物質的に現れるときだけである。 対照的に、これらアストラル体の経験を自分の内面だけで観察する。欲望、熱情、楽しみや悲しみ、喜びや痛みと呼ばれるものを内面に観察する。 このように通常の(物質的な)生活では、アストラル体は内面で観察されるが、肉体は外から観察される、という違いをもつ。 さて、他の2つの構成体、つまりエーテル体と自我は、肉体とアストラル体という2つの対極の中間に位置する。肉体は純粋に外側から、アストラル体は純粋に内側から観察できる。そして肉体とアストラル体の中間にある構成体がエーテル体で、それは外からは観察できないが、外に影響を及ぼす。 アストラル体の感情力、つまり内面の経験はまずエーテル体に移行する。エーテル体に移行することで、物質的な道具の肉体に働きかけるのが可能となる。エーテル体はアストラル体と肉体の間の仲介役として働き、外と内の結びつきを形成する。 しかし、エーテル体を物質的感覚で見ることはできないが、エーテル体が外に向かい肉体に影響を与えることではじめて、アストラル体の道具としてみることができる。 さて、自我が内から外に向かって働くのとは対照的に、エーテル体は外から内へ、アストラル体に向かっても働きかける。というのも、自我がアストラル体に影響を及ぼすのと同じ方法で、エーテル体は、肉体が起源をもつ外界の物質的な環境から知識を獲得するからである。 動物が個々の認識、つまり自意識を持たずに生まれるのは、動物が人間のような自我をもたないからである。動物はアストラル体を通してあらゆる感情を内体験するが、その楽しみや苦しみ、共感や反感を、人間のように外界の知識を獲得する認識として用いない。 人間が楽しみや苦しみ、喜びや悲しみ、共感や反感と呼ぶ感情全般は、動物では全てアストラル体の経験にとどまり、例えば、人間が楽しみを外界の美への賞賛に変えるのに比べ、動物は、楽しみを生む感情のなかに停滞し埋没するしかない。 また動物が苦痛の中に停滞し埋没するのに対して、人間は苦痛を外界の知識を獲得する認識に用いることで自我を新しくし、苦痛を克服し、外界を発見できる。というのは、自我が苦痛を外に連れ出し、外界に結びつけるからである。 以上のようにエーテル体が外から内へと、つまりアストラル体に向かう一方で、その逆に、自我が内から外へと周囲の物質界に向かうことがわかる。 人間は昼と夜とで、内と外との交替の人生を生きている。この内と外との交替は日々の生活の中に観察できる。朝起きてから寝るまでに、内の魂の中に流れる経験-喜びや悲しみ、楽しみや苦しみ、感情、イメージ等々が観察できる。 夜寝るとアストラル体と自我が無意識、もしくは潜在意識のなかに入っていくため、日中起きているときの経験が曖昧な闇(霊界)のなかに沈み込んでいくのが霊視者にはみえる。 対照的に、起きている人を霊視すると、肉体、エーテル体、アストラル体、自我の4つが互いに結びつき、お互いに影響しあっているのがみえる。 秘教学では、意識について、人間が夜眠りにつくと、肉体とエーテル体は、この世に残り、アストラル体と自我は霊界の元来た場所に帰る、つまり、霊魂が肉体とエーテル体から抜け出す、ことがわかっている。今のテーマに沿うように、この事実を別の形で記述する。 肉体は物質面だけを外に顕しているが、睡眠中の人間は内と外を仲介するエーテル体を保持したまま肉体を物質界に残す。睡眠中の人間に外からコンタクトできないのは、内と外とを仲介するエーテル体が外界に残るためである。 (幽体離脱と呼ばれる) 睡眠中の人間は、ある意味で、肉体とエーテル体だけの物質的存在に過ぎない。エーテル体は内と外とを仲介するが外界に残っているので、肉体とエーテル体を「外(物質)人間」と呼べる。対照的に、睡眠中の人間のアストラル体は「内(精神)人間」と呼べる。これらの用語は覚醒時の人間にも使える。 というのも、睡眠中のアストラル体は自我とともに内面(霊界)にあり、覚醒時に外界から自我が獲得する知識を内面に入れ、学びながら経験を得るからである。つまり、外界の情報は自我を通して取り入れ内面になるからである。 (霊界をアストラル界ともいう。人間の内面を意味する。) 以上のように、「外人間」については肉体とエーテル体から、「内人間」については自我とアストラル体からなる領域(世界)として語ることができる。 ★ ★ ★ 以上のように知性がどの領域にまで及ぶか、例えば、最も低レベルなのが外界の物質界で、肉体のこと、高次になるほど、エーテル体から、アストラル体、そして自我の領域へと拡がっていく。簡単にいえば、人の心を読み解く知性の方が外界の物質の情報を読み解く知性よりも高度なんである。 現代人は唯物論に染まりきっているので、人の心が読めずに、自分の心も制御できない。だから、我儘でモンスターになっていくのである。このままいくと環境を破壊し、人体を破壊し、地球を破壊し、宇宙を破壊していくわけである。 地球や宇宙を破壊する前に人体を壊してしまうので、二度と受肉できずに、堕天使悪魔となり、地球や宇宙の滅亡は免れるわけではある。地球が滅亡する前に人類が滅亡することになる。
2014年11月07日
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巷にはニセモノの宗教家やニセモノの哲学者ばかりなので、ソクラテスの魂の配慮といわれる「人は身体や金銭のことよりは、魂が出来るだけ優れたものになるように配慮するべきである」を考えている人はほとんどいない。 ほとんどの人が天国も地獄も空想の世界で現実にはないと思っている。神ですら空想の物語だと語る無神論者もいる。 そもそも現実にないのなら、なぜ「地獄」や「天国」という名前やイメージがあるのだろうか? 経験したことがあるからイメージがある。 以前紹介した観念論からいえば、人の感覚器で捉えられない「地獄」や「天国」は存在しないはずである。だから、人は「地獄」も「天国」も考えられないし、存在しないはずである。 では、「地獄」や「天国」のイメージはどこからきたものなのか? 素朴実在論でも、単純に、例えば、苦しみがくる源泉を地獄とし、楽しみがくる源泉を天国として考えることはできる。 つい先日、「安楽死」が巷を賑わせたが、「安楽死」は、生=地獄、死=楽園=天国と想定して行われているようだが、「地獄」も「天国」もなければ、「安楽死」もあり得ないもので、生が苦しみという意味で当人にとっては地獄かもしれないが、死が何を根拠に救いなのかは意味不明である。 自分の生命ですら自分のものでないのに、自殺が殺人でないわけがなかろう。 なにより、なぜ死が安楽につながるのか? 全く意味不明である。 そもそも、人体のどこかが不調になることで、生きるのが苦しみに変わるのなら、それよりも不利益な人体全てを失う死の方がもっと苦しみ、多大な損失を被る分苦しみが深いと考える方が、論理的に考えて、妥当ではないのか? 唯物論で考えても、一部の金銭を失うよりも、全財産を失った方がショックが大きいのではないのか? 「安楽死」の根拠はどこにあるのか? 全く意味不明である。 百歩譲って、死にたいときに死ねるという自由論を持ち出し反論するアホバカがいるが、それは生まれたいときに生まれることができてはじめて、その自由が成立することに気づいていない。 生まれたいときに生まれることができれば、死にたいときに死ぬのも可能だろう。 だから、安楽死は安楽ではなく苦悩死というべきである。必ず地獄に行くので覚悟すべきだろう。神様は悪魔よりも曲がったことが大嫌いなんで、注意すべきである。だから悪魔も神を畏れるのである。せっかく与えた生きる罪滅ぼしのチャンスを自分勝手にやめてしまう人には容赦はないだろう。 偽自称宗教者や偽哲学者のペテン師などに耳を傾けるほど罪が深くなるだけである。 要するに、自殺も他殺も殺しにはかわりなく、生まれたいときに生まれることができない人間には生死の自由は与えられていないことに注意しないといけない。それと同様に、この世を自分勝手に地獄にかえるネガティヴな考え方や行いをまずは改めない限り、天国の扉は永久に閉じられたままとなることに注意すべきである。 古代の書を読めば、そのような戒めが至る所に載っていることに気づくはずである。 いかに書き換えられているからといっても、良心で解釈すれば、本質は変わらない。 罪滅ぼしのために生まれてきたのに、性懲りもなくまた罪を重ねるようなアホバカには地獄に行ってでも叩き直してもらうしかないのだろう。 ソクラテスの魂の配慮を考えないアホバカは必ず地獄に行くので覚悟すべきである。地獄は、この世の数倍も苦しみ深い場なんである。生きているときは肉体が代わりに傷ついてくれ、その分、痛みが和らぐが、肉体がなければ、苦しみがそのまま襲い掛かるので、注意すべきである。 例えば、加熱した鉄板上に乗っている人から、鉄板を取り去るようなものである。 しかし、加熱しているのは自分自身のなかにあるネガティヴな考えなんで、その考えを改めない限り永遠と燃やされる運命を背負うことになる。 なぜこの世は物質という光のエネルギーを奪うネガティヴなものからできているのか? それは物質がネガティヴの考え(設計図)をもつからである。だから物質を集めれば集めるほどネガティヴな考えに取りつかれるのである。もうネガティヴな考えを持ちたくないので、殺人の一つの自殺が安楽死になってしまう。 生きていても死んでいるような考えをもっているアホバカばかりである。 ニセモノの宗教家やニセモノの哲学者が巷に蔓延っているからである。 さて、人間は自分勝手に死んではいけないことを、戦争を美化する悪魔の論理のアホバカたちが行った愚かな特攻から学ぶべきであろう。毎度訪問させていただいている播州武侯祠遍照院さまのブログに特攻の美化が載っていたので紹介する。 勿論、彼らの死を悲劇として共感することに異論をはさむわけではない。死を悲しむことは愛情の表現なので魂にとっては成長の糧でもあるからである。だから葬式は悲しむことに意味がある。だから葬儀は悲しみの儀式なんである。 ただ、それを自分の利益のために美化するのはお門違いである。しかも他者の死を利用するのは全く論外で、悪魔の遣り口で人間失格の卑劣なやり方である。だから、死に関係することは他者に利用されないために喪に服すのである。 アホバカ政治家は冠婚葬祭を票集めに利用するから政治家にはアホバカしかいないのである。本来冠婚葬祭とは、現世というよりも、あの世に関することなんで、人間が自由に利用する裁量は限られているはずである。だから公的行事になっているはずである。 古代の日本は精神文化を大切にしていたので、公的行事は魂に関するものとして厳格化されていたはずである。だから天皇といえば、魂に関わる仕事をするものという暗黙のルールがあった。だから霊能者でなければ勤まらないとされたのである。 しかし、もはや天皇すらも霊能者ではなく、単なる民間人と変わりはないのだから、天皇足る由縁もなく、周囲を取り巻く公私混同のアホバカ連中や政治家をみていれば悪魔崇拝といわれても仕方がないだろう。本当の霊能者なら、あのようなアホバカたちは暗黙糧に始末していなければおかしいからである。 汚職を黙って見過ごすことができないのがホンモノの霊能者である。神様が何より不公平をお嫌いになることを熟知しているからである。 そういうわけで、特攻などという悪魔の論理に嵌ってはいけないので、戒めのために特攻は自殺と言っておく。特攻するのなら、命令した上司に逆らって殺された方がマシである。 そのアホバカな上司のために数万人の尊い命が犠牲になるのなら、部下の生命を犠牲に曝すその間違った上司と戦うのが先決である。部下の生命を守れるから上司になっているはずである。少なくとも、命じた自分が先に死ぬべきである。つまり特攻を命じるアホバカは上司でもなんでもなく単なる無能者であって人間失格者なんである。 ★ ★ ★ 狂った日本・・・ 渾沌堂 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E7%8B%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%80%80%E3%80%80%E6%B8%BE%E6%B2%8C%E5%A0%82 谷間の百合 より 上記文抜粋・・・・・・・・ お国のためとは? 集団的自衛権行使容認は余りと言えば余りにも愚かで危険な選択でした。 世界の警察を降りて凋落の一途を辿るアメリカの手足になろうというのですから、もう狂っているとしか思えません。 総理は自分が不利になったり、地位が脅かされそうになると見境がなくなるのです。 自衛隊の軍事財産を隊員も含めてアメリカに差し出すのも、自分の個人的な都合なのです。 そういう人間が「愛国心」を説き、特攻隊員の遺書を世界記憶遺産に登録しようとするのです。 大竹しのぶさんが特攻について次のように言っておられます。 特攻隊の人たちは、自分が死ぬことで(戦争を)やめてくれ、という思いだたと思う。 安倍総理は御霊をねぎらうのがなぜいけないのですかということをおっしゃっていた。 しかし、特攻は美しいことではなく、残酷で二度とあってはいけないこと。 無知な人間の妄想ほど恐ろしいものはない。 わたしは特攻を美しくないと言い切ることも残酷だと言いきることもできないのですが、それはそう言ってしまうことで、特攻隊員のほんとうの苦しみが置き去りにされるのではないかと思うからです。 特攻隊に感動する人の多くは、かれらがお国に殉じたと思っていることでしょう。 遺書の多くもそのように書かれています。 しかし、「お国のため」のお国とは何でしょう。 そのことを考える切っ掛けを与えてくれたのが、最初の特攻、敷島隊隊長に選ばれた関行男大尉の言葉でした。 かれの遺書には「帝国の為」と書かれています。 (「お国」とは悪魔の洗脳ツールなんで注意すべきである。振り込め詐欺と同じである。) しかし、ある通信社の記者が前日に特攻が決まったばかりの関大尉を訪ねると、かれの顔面は蒼白で、厳しい表情で記者にピストルを突き付けたということですが、その後、記者に次のような胸中を語っています。 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。 僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある!僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。 最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。 命令とあらば止むを得まい。 日本が敗けたらKAがアメ公に強 姦されるかもしれない。 (洗脳とは恐ろしい。米軍に報道で強 姦をけしかけていたとも思える。) 僕は彼女を護るために死ぬんだ。 最愛の者のために死ぬ。 どうだ、素晴らしいだろう!? 遺書には書けなかったことを苦悩と激情に任せて吐露しています。 最愛の妻を護るためという言葉がかなしい。 日本が敗れることは分かっていたのです。 妻を守れないことも分かっていたのです。 守れない妻を守ると言うしかなかった心情が、大竹さんの言われる「残酷」ということではないでしょうか。 天皇陛下や日本帝国のためではないと言っているのは、大日本帝国の政治家や軍人たちの無能への抗議であり呪詛だったのでしょうか。 しかし、運命を受け入れざるを得なかったのです。 守れない妻を守ると自分に言い聞かせるしかなかったのです。 「お国」のためとは、いまなら安倍総理のためということになります。 総理は最高責任者である自分の命令で若者が特攻となって死んでくれることを夢見ているのです。 だから特攻を美化するのです。 総理の取り巻きも、自分はゼッタイ死ぬことはないところで、若者が国のため(自分たちのため)に死んでくれることを夢見ているのです。 英霊への尊崇の念と言っていることの本音はそういうことです。 ほんとうに、無知な人間の妄想ほど恐ろしいものはない。・・・・・・・・・ 抜粋終わり 昨今の日本には寒気がする・・・。 我々は、1500年の歴史を持つ日本が滅びるという歴史的瞬間に生きている。 お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 多くの日本人が特攻隊を拒否していれば特攻が未遂に終わったはずである。そのことに当時もいまも気づかないのはダマスゴミの洗脳の卑劣さに驚くばかりである。 ダメリカを糾弾する政治家がでてくるのが先決で、そのためには若者が戦地に行かされるよりも、アホバカ政治家が始末された方がマシである。特攻の話はどこか苦行自慢と似ている。
2014年11月06日
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オカルト(秘教学)ではカルマ論は避けて通れないので、自分でも飽き飽きするのだが、性懲りもなくまたカルマ論を紹介する。 何度もいうが、そもそもカルマというのは、あるとか、ないとかの二元論では語れない一元論の話なんである。あるとかないとかいうのは二元論を根拠にあれこれ議論することで、二元論が土台になっている。 つまりせいぜい認識できるかどうかの話になるだけなんである。つまり自我によるもので、自我が認識できなければ、ないし、できればあるわけだ! つまり、その人の自我の認識の問題である。だからカルマといっても自我の認識度合いにより多種多様なんであるし、自我によって異なるのだから、他人が「カルマを取り去る」ことなど不可能なんである。せいぜいその他人の認識の浅はかさを物語るだけである。 第一、「取り去る」という言い方がよくない。なくなることはなく、それでは二元論に陥ってしまうからである。カルマの因と果の2つが結ばれるから、一元論で、成就と呼ぶべきである。取り去ってしまったら、因の行き場所がなくなってしまい不変でなくなってしまう。 なぜ一元論なのかというなら、宇宙の全ての命令は神からきているわけで、神なしには何者も存在しない。この「存在しない」というのは「ない」のではなく、「あるが、認識できない」ということである。だから、「カルマを取り去る」なんていうのは、字句通りにいうなら、認識を曇らせることになる。 宇宙全体に行き渡る神の命令に背くのも自由で、そこから個人的な自我が生まれ、自分独自のカルマが生まれて分化していったわけだが、この分化もやがて個人のなかにカルマの成就として統合されていくわけである。つまり、神の一元性が、人間個人の一元性へと成就し、人間は自由を司る天使になることが預言されている。 しかし、二元論に陥って自分で自分を束縛し、いつまでも不自由なままでいたい人は、堕天使になって再度認識を改めるために修行を繰り返すわけである。何度もいうが、天は自分で救う者を救うわけで、自分で認識し、自分で成就しないとカルマを成就し克服できないのである。だから、他者はただ成就を手助けできるだけである。 また、カルマと同じように、信仰や祈願も信じる信じない、祈る祈らないと二元論で語られることが多いが、これも認識の問題である。祈るとは、自分の思い通りになりたいし、なってほしい、というのだから、自分がなんであるかを知らねばならないし、周囲に自分をアピールしないといけない。また信仰は、自分の拠り所を探すことだから、これも自分がなんであるかを知らねばならない。 つまり、自我あってこその話なんである。 だから二元論で信じる信じない、祈る祈らない、とか言っても、自我の問題の解決には至らずに堂々巡りを繰り返すだけである。そのような、ある、ないの二元論を超えて、何度も輪廻転生を繰り返しても変わらない、不変な、永遠の存在が、自我であることを知らないと意味がないんである。 そもそも人生を一回きりと思っている段階で、自我の拠り所を見失ってしまうだろう。「いまさえよければいい」というのでは、過去も未来もみえてこない。「いま」のなかに過去も未来も眠ってしまう。 だから自我があってこそ、絶えず変化しながらも、変わらない存在、つまり唯一の存在に対する信仰と祈願がなくては、どんな信仰も祈願も砂上の楼閣で、取り越し苦労するだけなんである。 キリストが荒野で悪魔に試されたときに「悪魔よ!主なる神を信じよ」と返答したが、主なる神とは一元性のことで一元性に回帰せよということである。二元論に陥ってはダメなんである。悪魔は二元論でしか生きられない。陰には陽で、陽には陰で、補完すべきである。 そういう二元論に陥って堂々巡りしないために、シュタイナーの自由の哲学の紹介を続ける。 ★ ★ ★ 今回からは、実在論と観念論がともに間違いであることを詳細に検討する。 まず検討するのは、素朴実在論である。 素朴実在論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E6%9C%B4%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96 物事を単純に考える人は、自分の「知覚内容(観察の対象)」を観察する際に、なんらかの媒介を経ずに直接現われるので、その対象が、自分とは全く独立した存在と考える。そのような人は、樹木を見れば、その樹木が見えた通りの姿と色彩で、その場所に立っている、と信じている。(P79) このような素朴実在論があまりにも単純なのは明らかだが、一般の観点も、これとほとんど変わらない。しかし、現代では、ヴァーチャルリアリティ(仮想実在論)などが取りざたされるようになり、自分が知覚している世界をそのまま単純に信じることも見直されはじめている。 このような素朴実在論への批判として、知覚像から主観が生じる仮説を挙げる人もいる。この説を押し進めると、「知覚行為なしにはいかなる対象も考えられない」という観念論にまで、必然的に辿りつくことになる。 (この観念論は、量子力学で有名な観測論などが挙げられる。) この説の主張の代表者がバークレーである。バークレーの主張はとても興味深いものだが、ここでは省略する。ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」にも、このバークレーはとりあげられていた。 さしあたり、知覚像を主観のものと捉える。「知覚内容」が主観を持つことを認めると、その「知覚内容」となった根底の対象には、客観性があるのか、という疑問が生じてくる。 例えば、人体の感覚器がなければ、赤色や特定の音の知覚が不可能であることから、このような主観的な感覚器なしには、いかなる知覚対象も存在し得ない、と認めざるを得ない。これを突き詰めると、知覚行為なしにはいかなる知覚対象も考えられない、と認めざるを得ない。 ジョージ・バークレーは、このような観念論の古典的な代表者である。彼の主張によれば、知覚内容から主観的な知覚を得るや否や、人はもはや意識をもつ精神なしに存在する世界(物質界)を信じれなくなる。(P82) こうした主張に異議を唱えるには、知覚内容と主観について深く考察していく必要がある。 以上の主張に反対するなら、知覚内容が主観を決める、というような観念論から一旦離れる必要がある。そして、感覚器、つまり知覚機能から、どうやって知覚内容が生じるかがわかれば、この問題の本質が変わってくる。 知覚機能による知覚内容の生じ方がわかれば、知覚行為の最中に、何が知覚内容として生じてくるかがわかり、知覚する前の知覚内容の中に既に存在するものを知ることができる。(P84) いま考察しているのは、「知覚機能と主観」についてであるが、この考察を、知覚対象から主観に目を転じる。(P84) 外界の事物を知覚するとき、同時に自分自身も知覚する。外的な事物と一緒にそれを知覚する自分も知覚するのである。 また、外界の事物を、例えば「木」を知覚した後、外界の知覚を失っても、しばらくその木の像は残り、その像が知覚内容として自我に取り込まれる。その知覚内容は、「私の木のイメージ」と呼べる。 つまり、事物を知覚するだけでなく、自分自身も知覚している。自分自身についての知覚は、知覚内容として失うことはなく、常に存在する。また別の知覚内容を持つ際にも、自分自身という知覚内容は常に現れるが、特定の対象の知覚に専念するときは、自分自身についての知覚を度外視し、この対象についての知覚内容だけに関心を向けている。 しかし、その後、そこに自分自身についての知覚内容が加わる。その時には、対象の知覚だけでなく、その木を見ている自分も知覚する。また、木の観察中に、自分の中に生じるイメージも同時に知覚する。その木が、視野から消えても、自我の意識の中には、知覚行為の名残として、木の像が残る。 この木の像は、少し前の木を観察していた自我と結びつき、自我は木によりイメージ豊かになった。木の観察により新しい要素を自我のなかに取り込んだ。この新しい要素を「私の木のイメージ」と呼ぶ。 自我が知覚するなかで、このイメージを体験しなければ、決してこの私的なイメージを語れるはずがなく、知覚内容は記憶として残ることなく、現われては消えてゆく儚いものとなり、自我は、ただ、黙って、眼の前を通り過ぎるのを見守るしかない。 しかし自我が知覚するとき、そして、その知覚内容と共に自我が新しいイメージを取り込み変化するのを認めるときはじめて、自我は、観察対象と、自我の変化とを関係づけ、イメージが生じたことを認識できる。(P84-85) 人間は外界の事物を知覚すると共に、このような「イメージ」を自我の中にも知覚する。 そして、外の対象を「外界」と呼び、自分自身についての知覚内容を「内面(精神)」と呼び、その両者を区別できるようになる。その両者の関係を混同することで、近代の哲学は大いなる誤謬を導いた。 先のバークレーの主張と混同しやすいが、近代の観念論は、この「知覚しなければ外界は存在しない」だけでなく、知覚できるのはイメージ(表面)だけで、「物そのもの(中身)」を(分解せずに)そのまま知ることはできない、という錯誤を導いてきた。この観念論は、カントに代表される。 人間は、外界の対象の中に色や音を知覚するのと同じように、自我の中にイメージを知覚する。自我のなかにイメージを知覚することではじめて、自我が向かい合う対象を外界と呼び、イメージとなった知覚内容を、内面(精神)と呼んで区別できる。 内面のイメージと外界の対象との関係を混同することで近代の哲学は最大の誤謬に陥った。内面の変化を知覚すること、すなわち自我の変化が経験として前面に出て、この変化を惹き起こした外界の対象は消されてしまった。そして次のような表現がなされてきた。 「人間が知覚するものは対象そのものではなく、そのイメージ(表象)でしかない。例えば、机を観察の対象とすると、机そのものを知ることはできない。机を知覚することで生じた自分の中の変化だけしか知ることができない。」(P84-85) しかし、素朴実在論を批判するこのような「観念論」は、自分自身(自我)についての知覚は、素朴実在論になっている。つまり、「自分自身についての知覚は、客観的に通用する事実と考えている」。だから、この観念論は、自己矛盾に陥っていることになる。 素朴実在論をあまりにも単純と批判する観念論の誤りは、イメージ(表象)のみが知覚内容と規定しながら、自分自身についての知覚内容は、批判対象の素朴実在論を受け容れている自己矛盾にある。 観念論は、知覚内容がイメージ(表象)であることを証明しようとするが、単純にも、自分自身についての知覚だけは、客観的に通用する事実と捉え、素朴実在論になっている自己矛盾に気づかない。何よりも酷いことに、その自己矛盾に陥っている、自分自身についての知覚内容を度外視するあまり、外界と内面という二つの観察領域を混同していることに気づいていないのである。(P94) 以上の点から次のことが明らかになる。 --このような内面に安住したままの観念論では、何を探究しようとも、観念論の主張する「知覚内容がイメージであること」を証明できないし、「知覚内容が主観性を決める」という主張のために、その知覚内容の客観性も否定できない。(P95) ★ ★ ★ 体験し、認識を深めることが人生の醍醐味であるから、過酷な人生を送ることこそ永遠不変の生命を手に入れる機会となる。悪銭身に付かずである。
2014年11月05日
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このブログではキリストの教えをよく持ち出すので、クリスチャンかと錯覚されると思うが、私はクリスチャンではない。クリスチャンと名乗ることで神の名を語ることが間違いであることをよく認識しているからである。クリスチャンと名乗ることで、クリスチャンでない者を差別するアホが多いからでもある。 ニセモノの宗教家は自分を棚に上げ他者を見下し、神のごとく振る舞うのが大好きだが、本来、人間に上下はないのだから、神の教えを知っているからといって偉いわけがなく、むしろ、知っていてその教えを守ろうとしないのは知らないよりも罪が重いはずである。だから自称宗教家こそ、最も罪深い人間と言わざるを得ない。 私は聖書はほとんど読んでいないが、それでもニセモノはすぐにわかる。良心に照らしあわせれば何が悪など一目瞭然だし、自分だけは特別と思っているアホが自称宗教家に多いからでもある。 本来、自称宗教家が厳格に神の教えを自分に適用していれば悪が入りこむ余地などないはずである。しかし、この世に悪が蔓延っているのは、宗教家がダメな証拠で、神の教えを自分勝手に解釈して私服化し、自分を上位につけ、上下関係をつくっているせいである。だから自称宗教家こそ悪の元凶である。 自称宗教家は自分に自信がないから宗教を広めようとするのである。だから宗教の勧誘など一切必要ない。自称宗教家が教えを厳格に守っていればその姿に周囲が自然と感化されるはずである。 特に自称宗教家がする修行自慢が鼻につく。自慢する位なら、なぜ正々堂々とやりたくないとはっきりいわないのか不思議である。要するに仲間はずれが怖いだけ、上下関係が怖いからである。要するに洗脳である。 厳しい修行をしたからといって人の上に立てるなど悪魔の囁きであることはすぐにわかる。修行自慢などすれぼするほど悪魔の洗脳にはまるだけである。第一、御釈迦さんが何千年も前に苦行は悟るどころか、煩悩にはまるだけで意味なしと看破したではないのか? そもそも、厳しい修行をしたからといって人々の上に立とうなどという甘えが間違っている。確かに厳しい修行から学ぶべきことはあるだろう。しかし、どんなことも、自主的にやらねば何の意味もない! 強制された時点でダメなんである。 厳しい修行が嫌だから逃げ出し破門されたほうが厳しい人生を送ることにはならないのか? その方が自分らしい新しい自由な生き方を求めていることにはならないのか? 他に救いを求める生き方はよくないと思わないのだろうか? 自由な考えは一体どこに行ってしまったのか? さてさて世の中あまりにもニセモノだらけなんで、お馴染みのサイトから、戒めとしてキリストの教えを抜粋紹介する。 ★ ★ ★ 悪魔崇拝者の滅亡と日本民族の祝福とを皆さんで一緒にお祈りしましょう http://rapt.sub.jp/?p=16837 偽善者に対するイエス・キリストの言葉。 新約聖書マタイの福音書23章 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。 そのすることは、すべて人に見せるためである。 すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。 このようにあなたがたは、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。 それだから、わたしは、預言者、賢者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。 こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。 よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。 ★ ★ ★ この世の自称宗教家こそ己の罪の深さを思い知るべきである。宗教にすがる者は地獄に行くだけである。神の名を語るなかれ!
2014年11月04日
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