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裁縫の宿題提出が学期の終わり頃で、O先生が学校を離れるのを知ったのも同じころ、、、。しかしそのおとなし過ぎる性格から、生徒達にあまりインパクトの無かったO先生だったので、生徒達が特別に「お別れ会をしたい」とか「色紙に署名して先生に渡そう」といった声が上がることはありませんでした。私もみんなのその雰囲気に身をまかせていたのですが、裁縫の授業に限られていたとはいえ毎回授業中に腹痛を起し教室を抜け出したことを謝るべきかどうか迷っていました。私は子供なりに「謝るってことは、『仮病でした』って言うことと同じにならへんのか?」「ホンマにお腹が痛かったから悪い事はしてないんやから謝る必要はないのと違うやろか、、、」「でも毎回授業を抜け出して、先生に悲しい顔させたのは悪い事と違うんか?」いろいろ考えました。また宿題の件も考えました。「あれはどう見ても自分で最後までやってないのが分かる!」「先生は無理しないでいいって言うてくれた。」「たとえ途中までやったとしても自分でやったところまでで提出した方がよかったんちゃうやろか?」「宿題のことだけでも謝った方がええんと違うやろか?」やはりいろいろ考えました。で、とにかく先生に会ったら宿題のことは正直に言う決意をしました。できれば友達のいないときに!という条件付きではありましたが、、、。
2011.04.30
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その裁縫の宿題が出たのが確か2学期の終わり頃だったと思います。私は自分で最後まで完成させずに途中から母に縫ってもらった宿題を提出しました。提出する布の端にマジックで学年・クラス・出席番号・名前を書いて、机の上に重ねて置いていくことになりました。私は先生に見られないように、隠すように、私が置いたらすぐに誰かがその上に重ねて置くようなタイミングを見計らって提出しました。そしてその提出日の授業でご本人の口から、今学期いっぱいで宮崎に戻ることが告げられました。先生にしてはおとなしく、どこか遠慮がちで、生徒の中にドンドン入ってこないO先生でしたので、それを告げられてもクラスが大きくどよめくことはありませんでした。女子が小さい声で「え~、、、」と言い、男子の数人が「寂しいなるな!」「でも先生は家族や友達のいるところに帰れるからええやん!」といったことを発言し、それに対してO先生が静かな微笑みでこたえただけでその話題は流れました。
2011.04.29
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そして家庭科の裁縫の授業も終わりに近づいたときに宿題が出ました。無地の白い布に、先生が指定した数種類の縫い方をしてくるという内容でした。その宿題が発表されて次回の授業で提出となった時間の終わりに、O先生は私にそっと「家でもお腹が痛くなったら無理しないでいいよ」と耳打ちしてくれました。案の定、家でも針に糸を通して縫い始まるとやはり腹痛が襲ってきました。それでもなんとか完成させようとしたのですが、提出日前夜になっても全部の課題ができていない状態でした。それを見ていた母が「かしてみ!」といって、縫い始めました。それを断って自分ですることもできたのですが、母に甘えました。私を入れて三人の息子を育てた母でしたが、後にも先にも子供の宿題を代わりにしてことはあれが最初で最後です。縫いながら母は「苦手なことせなアカンときは胃が痛くなったりするもんや!」と言ってくれました。なんだか有難いやら申し訳ないやら、、、複雑な心境でした。完成したものを私に手渡しながら「へたくそに縫うといたから、先生にはバレへんわ」と言った母でしたが、それでもどこまでが私が縫ってどこからが別人が縫ったかは一目瞭然に分かる内容でした。代わりに縫ってくれた母には勿論感謝しました。自分では絶対に完成させられなかったと確信がありました。しかし反面、ヘタでも自分でやりきったものをO先生に提出する道を選ばなかった自分が、とても卑怯な人間であるようにも感じていました。
2011.04.28
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新任だったO先生、、、、先生の授業は前にも述べたように「私なんかの授業でゴメンなさい」といった感じがありました。そんな中で、実習中心の授業をしている中で、いつも生徒の私が腹痛をおこして保健室に行く、、、。先生はそんな私をどう感じていたのだろう、と今しみじみ思うと本当に申し訳ないことをしたと感じます。「私の授業がイヤで腹痛をおこして教室をでるのでは」と、ほんの少しでも思わせてしまってはいなかっただろうか、、、、。そう考えると、人に何かを教える立場になった今の私は本当に胸が痛みます。毎回腹痛で保健室にいく私にO先生は「いつもですね!」「また今日も?」といった言葉を一切かけることはありませんでした。《問題のベクトル》を私に一切向けることはなかった、と言いかえることができるかと思います。私が腹痛をおこして保健室にいくたびに、家庭科室のある3階から保健室のある1階に降りる階段の所まで私の背中をさすりながら連れて行ってくれたO先生の悲しそうな表情を思い出すと、本当に胸が痛いです。当時の私は何も感じずに「なんでそっちが悲しそうになってんねん」とか「なんでお腹がいたいのに背中さするねん」としか思っていなかったことも、我ながら情けない限りなのです。
2011.04.27
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でもそれから家庭科の裁縫の授業になると、絶対に私は腹痛を起こすようになりました。毎回限界まで我慢するのですが、結局は保健室に行くようになりました。勿論担任のT先生の耳にもその報告が入るのですが、このことに関しては「今は大丈夫か?」と聞かれて終わりで何のお咎めもないのです。毎回毎回保健室に行くのに、学校側から家に連絡もありません。そのうち自分から母に報告すると「そんなこともあるわ」といって終わりでした。それまで私は『お腹が痛い』といって学校を休んだり、早退したり、体育の授業を見学したりする人を「お腹痛いって何やねん」「仮病やったらもっとうまいこと言えよ」なんて思っていたので、自分がそうなるなんて夢にも思っていませんでした。しかし、私自身が先生になってからこのときのことを思い出す度に心によぎるのが、当時新任のO先生のことなのです。
2011.04.26
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当時もそうですが、今も私は『何かを作る』ということが好きです。『何かを作る』ってワクワクします。そんな私のことです。小学生当時は、図工と家庭科の授業は楽しみでした。学習単元が裁縫に入ることが告げられても、ヤル気満々でした。なぜなら家で裁縫をしたことがほとんど無かったので、新しいことに挑戦できるからです。授業では道具の名前や使い方を教わってから、実際に布に針を通していきます。そんな授業の最初の時間に、私は腹痛に襲われました。すぐに治まるかと思って我慢していたのですが、そのうちかなりキツくなってきましたどちらかというとワイワイ騒ぐタイプの私が次第に無口になり顔色も悪くなってきたので、同じ班の友人が「大丈夫?」と声をかけてくれました。その声にO先生が気付いてくれて、とにかく保健室にいくことになりました。保健室の先生にわけを話すと、一度トイレに行くように言われしばらくトイレにいましたが、痛みは治まりません。しかしなぜか家庭科の時間の終わりを告げるチャイムが鳴ると、腹痛が治まったのでした。そのときの私は「よかった!給食食べれる!」くらいにしか思っていませんでした。保健室を出た私は教室に戻る前に職員室に寄って、O先生に腹痛が治まったことと授業を途中で抜け出したことのお詫びを告げました。O先生は「君がいなかったら寂しかったわ。また次の授業で取り戻そうね」と言ってくれたので「はい」と返事をして教室に戻りました。
2011.04.25
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当時は完全なる肥満体型で勉強もスポーツもそんなにできない、、、、、。そんな私でしたが、かなかな明るく小学校生活をおくらせてもらっていました。分からないなりにも授業で手を上げていたし、ここぞというときはギャグや冗談をかまし、クラスに大爆笑を持たさすこともありました。、、、、まあ、ダダスベリすることもありましたが、、、。しかし、担任のT先生の授業では手を上げる機会はあっても、ギャグをかます機会(というかスキ)はほぼありませんでした。その分、音楽・図工・家庭科などのT先生以外の先生の授業ではいろんな意味で少しではありますが、みんな(特に男子)はハジけていました。そんなところにやってきた新任のO先生の家庭科の授業です!我々が楽しみにしていない訳がありません。もちろん私も例外ではありませんでした。特に調理実習ではヤル気満々で臨んでいた私でした。実際にO先生に「ゴマ君は料理が上手ですね」と言ってもらったこともありました。しかし、学習単元が裁縫に入るとなんだか私に異変が起こりました。自分でも信じられないことだったのですが、、、、、。
2011.04.23
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《問題のベクトルを向ける》の話題が続いていますが、今度は逆に生徒に《ベクトルを向けなかった》先生の話を紹介します。私が小学校5年から6年の間に1年間だけ家庭科の先生として赴任されたO先生という方がおられました。大学を出たばかりの女性の先生で、宮崎県から来られました。今でも宮崎県出身の方と話をするときは、その言葉のイントネーションでO先生のことを思い出します。大学出たての女性の先生というと、テレビなんかでよく見る明朗活発でいきなり生徒の中に溶け込んでしまう先生を想像しがち(私だけ?)ですが、O先生は少し雰囲気が違っていました。冗談も言わない、おとなしい、本当に真面目、どこか先生らしからぬ引っ込み思案な面もある、、、、そんな先生でした。「はじめて親元を離れておくる生活が寂しいです」なんて我々の前で少し目をうるませて発言することもあり、我々やんちゃ盛りの男子生徒も『適度な距離』というか『暗黙のルール』みたいなものを意識して接していたような記憶があります。具体的にいうと『O先生を泣かせない距離感』というか『O先生を泣かせないで接するルール』というか、、、、、。授業でも静かな声で話をされるので、私語をするにもかなりのヒソヒソ声でしたものでした。またその授業はどことなく『私なんかの授業でゴメンなさい』という雰囲気と『それでも最大限に一生懸命にやってくれている』という情熱みたいなものが子供の私たちにも伝わってきていました。授業中にウケ狙いで変な冗談を言ってO先生を困らせようものなら、後で女子たちに叱られることもあったくらいでした。そんなO先生の授業で、私に異変が起こりました。
2011.04.22
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四年前にあった実に28年ぶりの同窓会のときに、実はT先生にあの学習発表会のときの真相を聞きたかったのです。「あのときはリハーサルの状態から考えても、私が最後まで演奏できなかった可能性も十分考えられたのになぜ私一人に全てを託したのですか?」と、、、しかし実際に先生の顔を見るとなぜか聞かない方がいいような気がして、聞かずに帰ってきました。これから時間をかけて自分なりに考えていきたいと思っています。自分が『先生』になってから初めてお会いするT先生は、やはり私の『先生』でした。先生の顔を見たとき、なぜか私が小学校時代に愛読していたあるマンガの登場人物が「プロなら、プロなら自分で考えろ!」という言葉を残して物語から去っていくシーンが頭に浮かんだのでした。私も未熟ながらもプロになったのです。だからこの件はT先生の答えを求めてはいけないような気がしました。だから、聞かないでおいたのです。これは先生が私に出してくれた大きな宿題であり、私自信がこれから教育の現場の中で何らかの答えを探し続けていくべきだと、今は感じています。詳しくは述べませんので急に話が飛躍するように思われるかも知れませんが、、、、、偉大な教師と出会うことのできた生徒は、たとえ幾つになったとしても幸せ者なのです。
2011.04.21
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そして本番をむかえ、私は一人で演奏。数箇所のとちりはあったものの、なんとか演奏し終えました。本番慣れはしていた自負はあったのですが、終始ソロで演奏というのがはじめてだったこともありかなり緊張したことを覚えています。緊張しすぎて最後の曲が終わったのに「まだ何かあったやろか、、、、?」と軽くパニックを起こしてしまい、バトン隊の先頭にいたTさんに「まだ曲残ってたっけ?」と聞いたことを覚えています。そしてTさんが黙って首を横に振ってくれたので、最後の「礼」の号令をかけることができました。さて、ここまで読んでくださった皆さんから「『偉大な教師達』の話題からかけ離れ取るやん!」「お前のタジタジソロ演奏の話やん!」と突っ込まれそうですですので、ここでやっと本題に戻します。今だによく分からないのですが、とにかくこのときT先生は私に《問題のベクトル》を向けたのでした。I君と2人でも全ての曲でダメだしが出た散々なリハーサルの状態で、、、しかも1人が離脱したわけなので、その時点で『鼓笛隊の演奏を中止する』という選択肢も十分に考えられたはずなんです。もともと鼓笛隊の演奏は学習発表会のプログラムに入っていなかったし、本番数日前にT先生の思いつき(?)で決まったことなので、中止になっても何の問題もなかったのです。
2011.04.20
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「Iがさっき職員室にきて、『今日はお腹が痛いからトランペットの演奏はできません。』といってきた。だから今日はお前一人で頼むぞ!」といわれたのでした。「え、なんで、、、?」というような言葉が私の口をついて出たような記憶があります。T先生はそんな私を厳しい眼差しで見つめながら「頼んだぞ!できるな!!」と言って、教室に戻しました。教室に入った私にいきなりI君が「ごめん」といってきました。「T先生は何て言うたん?」と私は聞きました。おそらくI君はT先生に何らかのお説教を受けていると思っていましたが、「それは仕方ない」といわれただけで何のお咎めも無かったとのことでした。「2人でやれば何とかなる」といった張本人のI君が戦線を離脱したという現実が、私の心を何ともいえない重い空気に変えました。1人で演奏しなければならないことより、そちらの方が私にとって重荷でした。そしてあの朝のT先生の厳しい(ある意味怒っているともとれる)眼差しが私の心に突き刺さったままでもありました。
2011.04.18
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そして翌日、何の前触れもなく「よし、鼓笛隊のリハーサルを見せてもらおう」とT先生が言い出し、みんなの前で演奏する事になりました。前日にちゃんと楽譜を見直しておけばよかったのですが、学習発表会の準備に追われてそんな時間もなかったので、かなりピンチでした。案の定、演奏の途中で何回もストップがかかります。「音が合ってない」「リズムが崩れた」等々の理由でした、、、。そのたびに「毎日何を練習しているんだ!」といわんばかりの先生の目線が突き刺さります。また我々の曲に合わせて演技をしているバトン隊の女子も、我々2本のトランペットにダメ出しがでる度に1からやり直しになるので、さらに我々の面目が無くなっていきます。学習発表会当日までそんなに日にちが無かったので、このリハーサルは毎日続きました。そのたびに私とI君はいろんな意味でヘロヘロになっていました。私とI君は家も近所だったので、一緒に帰宅しながら楽譜の確認をして当日に望みました。前日の帰りにはI君が「でもどっちかが間違えてもどっちかがちゃんと吹いていれば何とかなるわ!」と言ってくれたので、私も「そうやな」と思い少し気楽に当日をむかえることができました。しかし当日の朝一番でT先生に呼び出された私に告げられた内容は、その気楽さを一掃してしまうには十分過ぎるものでした。
2011.04.17
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T先生の話に戻ります。以前にもお話したように我々の小学校は県下でも鼓笛クラブで有名であり、その中でも男子の花形であるトランペット隊は生き残りが難しいといわれていました。我々の1組T学級では、私とI君だけがトランペット隊として6年生まで進級していました。三学期になると毎年「学習発表会」なる催しがあり、各学年各クラス毎にお父さんお母さんに来てもらって日頃の学習の成果を発表するというもので、授業参観日とは別におこなわれていました。もちろん私も小学校生活最後の学習発表会ということもあり、友達たちと発表の準備を進めていました。しかし、本番数日前のリハーサルのとき、急にT先生が言い出しました。「よし、では当日には鼓笛隊にも出演してもらおう!このクラスにはトランペットが2人とバトン隊の女子がたくさんいてくれているから、トランペットの曲にのせてバトン演技をしてもらうぞ!!いいな。」そこまで聞いた私は「得意な曲を選んで演奏すれば、練習無しでいける」と思っていたのですが、、、、、なんと演奏曲はT先生がその場で選曲したのでした!しかもいつも演奏するスタンダードな曲ではなく、今まで特別なコンクールや催しでしか演奏した事のない、しかも難しい曲を指定したのでした!!!
2011.04.16
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T先生をはじめ私が出会ってきた偉大な教師達は、この『問題のベクトルを生徒(あるいはクラス)に向ける』ことをいつもするわけではないのです。、、、当然と言えば当然のことですが、一応伝えておきます!!、、、ときとしては問題のベクトルを本人に向けないで、一途に本人を信じきり擁護することも大切なのです。では、その切り替えはどこで判断するのか?それこそ、その教師の人間力がモノを言うのです!しかもこの判断は一瞬の躊躇もなく即断しなければ人としての信頼を失います。「この場合はどちらのほうがその生徒のためになるか!クラスのためになるか!」これを瞬時に判断するのです!!「それはできない」という人は、教壇を離れるべきです。それは生徒のためでもあり、その人のためでもあります。しかし、親はそういうわけにはいきません!親をやめるわけにはいかないのです。親御さんたちは、自分の判断を自分が疑ってはいけません。「ベクトルを向けた方が子供のためになるのか、向けないほうが子供のためになるのか、、、。」親御さんたちはここ数年の子供の姿しか知らない先生達とは違って、生れたときからの子供の状態を知っているのです!親御さんたちのその長く子供を見守ってきた目が正しい判断を導いてくれます。自信を持って子育てをしてください。
2011.04.15
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少し話が本題から逸脱してしっまった感がありますね、、、、。では本題に戻します。料理長のもう1つの狙いは『なぜそんな疑いをかけられたのか』を我々に考えさせることでした。本当にビールを飲んでいたかどうかが問題ではなく、『疑いをかけられたこと』が問題だったのです。詳しいことは割愛しますが、そのとき我々バイトの4人は自分たちが仕事をする上での置かれている立場というかポジションをよく理解できていなかったのです。その後はそれを理解した上での言動に徹して仕事をしました。そのうち社員達の方から「あのときビール飲んだって疑いかけられて大変やったね」なんていわれるようにもなりました。驚いたのは、疑いをかけた張本人までが「誰があんな疑いかけて社長にまで言うたんやろな」と白々しく言うようになったことです。そのとき私はもう30歳。大学生になるまでに1年半ほどではありますが社会人の経験もあり、大学卒業後も学校での教員や塾講師としての経験も積んでおり、職場での人間関係を良好に維持する術は身につけていたつもりでしたが、『自分の立場を理解する』という基本中の基本を忘れていたことに唖然ともしました。修学旅行から帰った後のT先生のように!ビール事件のときの料理長のように!いちど問題点のベクトルを生徒に、子供に、後輩に、部下に向けてみる責任と覚悟を持ちたいものです。
2011.04.14
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ちなみにその料理長は我々がビールを飲んではいないという確信があったと後日話てくれました。なぜならそのとき私はすでに二輪指導員の資格を取得して、実際に指導の仕事をしてからその厨房にバイトとして入っていました。飲酒運転で検挙されれば指導員資格を剥奪されてしまいます。だから私はビールを飲んだ直後に車を運転して帰宅することは考えられなかったのです。、、、自分でいうのもなんですが、全くその通りでした。しかしそれでも料理長は、今回の問題のベクトルを我々に向けてくれました。その理由の1つは料理長の仕事に対する信念でした!『クレームは出た時点で全てこちらの責任である』、、、料理人らしい信念です。いや、プロとして仕事をするならば全員が有していなければならない信念です。また料理長は『クレームが出た後で言葉で言い訳をして何とかなる、と思っている人間は人として三流以下だ』とも言っておられました。全国の公務員先生達にこの気持ちが微塵でもあれば、もっと授業はいいものになるのに、、、、(この場合の[公務員先生]は立場的なものではなく、何の危機感も向上心もない先生のことです、、、念のため)。なぜ給料をもらっていてプロの仕事(授業)をしない、あるいはできないのでしょうか?お金をもらっている時点でプロなんですけどね、、、、。プロでない人はお金をもらってはいけないんですけどね、、、、。
2011.04.13
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なぜ調理長は当事者達の事実確認をさせなかったのか?ビンや缶ビールは仕入れ数と在庫数と販売数を調べれば、我々が不正をしたかどうか分かります。まあ我々以外の誰かが不正に飲むか持ち帰るかをしていないことが前提の話ですが、、、。しかし生ビールはサーバ内のビールの残量は正確には量れないので、飲んだ飲んでないの話になると水掛け論になる可能性が高かったもの事実です。では、料理長は水掛け論になるのを嫌ったのでしょうか?あるいは、職場で対立関係を作り出したくなかったのでしょうか?もしくは、内心では我々の方が嘘をついていると思っていたのでしょうか?違うのです!料理長は、今回の問題のベクトルを一度我々に向けようとしたのです!!
2011.04.12
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30歳の頃の私は、朝8時から15時まで二輪指導をして夜は19時から学習塾で講師をしていました。そんな私に学生時代からお世話になっていたSさんから、ご主人が料理長をしているホテルの厨房の夕方の仕込みの時間を手伝って欲しいとの要請がありました。その厨房では料理長をはじめとする料理人3人と私を含めたバイト4人、それと社員の皆さんが働いていました。学習塾での授業の無いある日、厨房の仕事を最後まで手伝い終わってバイト4人で夕食を食べさせてもらって帰ったのですが、その後に問題が起きていたのでした。社員の一人が、「バイト4人が夕食のときにビールを飲んで酔っ払って騒いでいた。規定でバイトには夕食は支給されるとあるが、その支給される食事にビールまで含まれているのか?」と社長に報告と質問をしたのです。勿論、我々はビールを飲んではいません。ですから酔っ払ってもいないし、騒いでもいないのです。翌日何も知らずにバイトに入った我々は、料理長からこの一件の話を聞かされました。当然、我々はそんな事実はないと言いました。あの夜、我々が食事をしている場所の横を通った社員は一人だったので、その人間を連れてきてなぜそのようなことを言い出したのかを問いただそうとした私でしたが、料理長はそれを止めました。
2011.04.11
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その母親の言い分は以下の通りです。1:学校ではない学習塾で、プライベートをとやかく言われる筋合いは無い。2:化粧するかしないかは本人の自由だ。3:入塾規約に『化粧はいけない』とは書いていない。4:本人は授業を受けに来たのに追い返されて授業を受けることができなかったので、その分の授業料を返還してほしい。勿論、全てを瞬時に論破しました!この母親も『バカ親』なので、今回の問題点のベクトルを子供に向ける勇気や判断力、あるいは常識がなかったのです。なぜ、一言「中学生で化粧はいけません」と言えないのでしょうか?正直、その母親は娘を恐れていました。娘の機嫌を損ねたくないだけなんです!この《問題点のベクトルを生徒・子供に向ける》行為には、時として生徒・子供との対立を生むことは当然あります。ただそれを恐れていては《教育》はできず、《教育》から逃げているのです。親が教育から逃げてしまっては、親としての存在価値は無くなります。だから『バカ親』だと言われるのです。修学旅行の原爆資料館出口での出来事のときも、T先生は我々に《問題点のベクトル》を向けてくれたのです。だからみんなは理解できたのです。『人間にはたとえ冗談でも、たとえ強がりでも、言ってはいけない、口にしてはいけないことがある。』ということを、、、、。これが『教育』なのです。しかし、この時点でもまだ私にはあのときのT先生の行動に疑問が残っていました。あのときT先生は「そんな発言をする生徒は私のクラスにはいない!」と思っていてくれていたかどうか? という疑問です。私は多分思っていたと推測します。いや、当時のクラスの雰囲気から確信があります。もし私の推測や確信が的中していたなら、T先生は《問題点のベクトル》を我々に向けることに躊躇は無かったのでしょうか?その答えは私が30歳のときに、あるホテルの料理長が教えてくれました!
2011.04.10
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あまり話が長くなってはこの話題の主旨から逸脱するので、結果から申し上げます。『バカ親』と『あるべき親』の違いとは、、、、何か問題があったときに、《問題のベクトルを子供に向ける勇気と責任》があるか無いかです。『バカ親』は、子供を教育することができません。子供にいかに楽をさせるか!子供にいかに負担をかけないか!いかに子供の思い通りの状況を作るか!、、、これらのことしか考えていません。つまりは教育から逃げているのです。もしくは、『教育とは何なのか?』が分かっていないのです。しかしそれらの情けない愚かな行為を正当化する言葉だけは知っています。「子供の個性を尊重したい」「子供の自主性に任せたい」「学校が悪い」「先生が悪い」、、、。今まで腐るほど聞かされました。例えばとある塾で講師をしていたときに、化粧をして授業にきた中2の女子がいました。私はすぐに帰宅させて、化粧を落としてからまたくるように言いました。30分ほどしてその生徒の母親が塾にやってきました。そこの母親は《問題のベクトルを子供に向ける勇気と責任》がない親だったので、だいたいの予想はできていましたけど。みなさんも、もうその母親が何を言い出したか分かりますよね?
2011.04.09
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『先生』と呼ばれるようになった私は、ときとして昼間は非常勤講師として学校で授業をして夜は塾で授業をするという生活を送ることが今まで何回かありました。その最初の頃から『やたら先生にクレームをつける保護者』が目につきはじめていました。ここ数年『モンスターペアテント・モンスターペアレンツ』なんて呼び方があるみたいですが、私はそんな言い方したくはありません。何でも横文字や片仮名にすればいいって訳ではないでしょ?私に言わせればただの『バカ親』です!!ただ気をつけなければならないのは、本当に意見や要望や先生に対する注意をしたい保護者の方々もおられるのです。そういう『あるべき親』の皆さんもおられるのです!!この『バカ親』と『あるべき親』をどう見分けるのか?そのヒントが、修学旅行の原爆資料館出口で起こったとされる事件対するT先生のとった行動の中にあったのです。
2011.04.07
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そしてもう1つ当時の私は、その報告をした先生に対して担任のT先生はどうしたのだろう?という疑問を抱きました。「確かにうちのクラスの生徒だったのか?」「うちのクラスにそんな発言をする者はいない!」と一言言ってくれたのかどうかが無性に知りたかったのです。しかし直接T先生に聞く勇気はありませんでした。正直にいって、あの話題をもういちどT先生の前で口にするのが怖かったのです。それほどあの帰りの会でのT先生の怒りと悲しみが、子供ながらに身にしみていたのです。その発言が我々1組の生徒の発言であったのかどうかについてT先生はどのように思っておられたのかを知ることもなく、私は小学校を卒業してしまいました。、、、その約18年後、、、、私自身も『先生』となって教壇に立つようになって五年が経とうとする頃に、やっとT先生があのときとった態度の真意が徐々に理解できるようになってきたのでした。
2011.04.06
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修学旅行で原爆資料館を訪れたあの日、私は資料館出口での集合場所にクラスの中でも早く到着したほうでした。すでに数名のクラスメイトは私より先に到着していましたが、それでもまだ大半はまだ資料館の中にいました。しかも私が到着してクラス全員が集まるまでの間に「戦争をもっとやったらええねん」との発言をした人間はいないのです。では、私より先に到着した中の誰かが発言した可能性が考えられますが、そのメンバーでそのような発言をするような友達がいたとは思えないのです。どう考えても女子でそのような発言をする友達はいるわけはないし、男子でたとえ強がりでもそのような発言をする友達がいるとは思えなかったのです。しかもそれより私に疑問を抱かせた事実は、私が到着したときには生徒が数名いるだけで先生の姿は誰一人なかったのです、、、ということは、やはり私より先に到着していたメンバーの発言だったわけでもないのです。それに何より日頃からT先生の戦争当時の辛い苦しい体験談を聞かせてもらっていた我々が、そんな発言をするわけが無いと当時の私は強く思ったのでした。
2011.04.05
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修学旅行から帰って数日後の『帰りの会』のときにT先生は、原爆資料館出口での点呼のときの話をはじめました。「このクラスに、もっと戦争をやったらええ、といった者がいるらしい!毎日毎日訳のわからないことばかり言って訳の分からない歌ばっかり聴いているから、そんなことをいう人間になってしまうんだ!!僕は絶対にその人間を許さない!!いいか!戦争は絶対にしてはならないんだ!もう二度と戦争をしてはいけないんだ!!しっかり頭に叩き込んで覚えておけ!!」先生は、顔を真っ赤にして、涙目で、大声で、クラス全員に叫びました。T先生のあの大いなる怒りに満ちながらも深い悲しみに沈んだ表情は今も鮮明に覚えています。クラス全員が息をのんで先生の話を聞きました。、、、しかし、よくよく考えると、当時の私には納得いかないことが出てきました。
2011.04.04
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修学旅行から帰ってからある先生がT先生に、原爆資料館出口での点呼のときに我々1組の男子の1人が「もっと戦争したらエエのにな」と発言したらしいことを報告したのです。勿論当時の我々にとっても資料館で見たたくさんのものは衝撃的でした。女子の中にはその展示内容を見ながら泣いていた者もいました。随伴していた保健の先生も「館内は人でいっぱいでせまい場所だから、もし気分が悪くなったときは遠慮なく外にでていいよ」と、それとなく学年全員に声をかけていたことも覚えています。保健の先生のその言葉は「それほど資料館で見るものは衝撃が強い」ということを暗示しているのは、小学生の私たちにも分かりました。しかし、そこは悲しいかなまだ小学生の男子です。中には『強がり』を言う者もいます。T先生はそれまで男子生徒の『男』としての立場をある程度尊重してくれていました。他のみんなに迷惑をかけない程度であれば、自分勝手やわがままでない範囲であれば、尊重してくれていました。でも、この報告に対してのT先生の対応は違いました。
2011.04.02
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我々の小学校(おそらく当時の奈良市内の小学校)は、修学旅行は広島!広島に着いたら原爆ドームと資料館に行く!と決まっていました。もちろん小学生といえども、あの資料館の内容にはかなりの衝撃を受けます。いや、小学生だからこそ、かなりの衝撃を受けるのかも知れません。しかし、そこはいかんせんまだ小学生なので、ある意味その感じた衝撃を表に出すのは気恥ずかしいというか、かっこ悪いといった風潮が特に男子にはありました。資料館を出たところで各クラスが集合して、点呼を済まてからバスに乗ることになっていたのですが、そこで事件が起きた(らしい)のです、、、、。
2011.04.01
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