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2022年01月23日

シェーンバッハと砂防と諸戸博士



 以前、「大日本山林会報」という雑誌の明治時代の1898年に出た184号に、西ボヘミアのルビという町についての記事が掲載されているという話を書いた。(「 シェレバッハの謎 」)
 この雑誌には、これだけではなく同じく明治時代の1911年の351号に、「明治四十四年六月墺国メーレン(Mähren)州、及びシユレシエン(Schlesien)州修学旅行所感」と題された記事が掲載されている。著者は「在墺国維納市」の諸戸北郎という人。恐らく、オーストリアのウィーン留学中に留学先の学校の修学旅行に参加したものと思われた。
 メーレンはドイツ語でモラビアのことを指し、シュレシエンはシレジアである。ということは、この諸戸氏はモラビアとシレジアを旅行し、もしかしたらオロモウツにも滞在したかもしれないなんて予感をもとに、国会図書館オンラインの遠隔複写サービスでコピーを取り寄せることにした。

 届いたコピーを一読して大喜びしてしまった。地名がドイツ語をカタカナに直したもので、そのままでは現在のどこにあたるのかわからない場所も多いのだが、調べなくてもわかった範囲でも、ウィーンからプシェロフを経てオロモウツに入り、ブルンタールでは、ドイツ騎士団の所有していた城館に滞在している。その後、モラビア最高峰のプラデットにまで登っているのである。
 これは、地名を解読して紹介せずばなるまいと詳しい調査を開始したのだが、解読がほぼ終わったので、例によって読みやすく編集をくわえた上で紹介する。雑誌の編集は諸戸氏の覚書のようなものを、そのまま印刷に回したようですごく読みにくいのである。国会図書館からコピーが送られてきたということは、著作権はすでに切れているということだろうから、いいよね。

 紹介の前に、まず諸戸北郎氏について調べたことを。日本語版のウィキペディアには記事がなく、ジャパンナレッジの『日本人名大辞典』には、ヨーロッパに来たなんてことは書かれていないので、ネットで検索してみたら、二つ、氏の業績をまとめたものが見つかった。
 一つは、 公益社団法人 砂防学会 がネット上に公開している「 日本の近代砂防と諸戸北郎博士 」という論文で、もう一つは、 一般社団法人 砂防フロンティア整備推進機構 がPDF形式で公開している『 諸戸北郎博士 論文・写真集 』である。どちらも、「砂防」という名前のついた社団法人である。
 ということは砂防会館の設立者も諸戸氏かもしれないと思って確認したけど、砂防会館のHPには、諸戸博士の名前は出てこなかった。ただし、この二つの砂防関係の社団法人は、どちらも所在地を砂防会館の別館に置いている。砂防会館の別館と言えば、貸し会議室らしいシェーンバッハ・サボーの入っている建物である。そしてシェーンバッハというのがドイツ語で「美しい渓流」という意味だということもシェーンバッハ・サボーのHPで確認することができた。西ボヘミアのルビも渓流のほとりにあるのだろう。

 何だか一周して戻ってきたような達成感はあるのだが、話を戻そう。
 「日本の近代砂防と諸戸北郎博士」には、以下のように略歴がまとめられている。


日本における砂防学の最初の教授である諸戸北郎博士(1873-1951)は、明治31年帝国大学農科大学林学科を卒業、明治32年東京帝国大学農科大学助教授、明治42年1月から明治45年6月にオーストリアに留学、帰国後ただちに同教授となり昭和9年に同大学を退官している。



 この論文は、諸戸博士の旅行記にも登場するハーニッシュという人物について、「1892年に渓流管理事務所に奉職後、チェコ共和国のシレスィア事務所所長となり、第一次世界大戦後オーストリアに帰国し」などと歴史を百年以上先取りしてチェコ共和国を存在させているけれども、主要テーマである諸戸博士についての記述には間違いはあるまい。

 そして、掲載紙の「大日本山林会報」については、『諸戸北郎博士 論文・写真集』に以下のような説明がなされている。


大日本山林会は、伏見宮貞愛親王殿下を会頭とし、宮殿下七方のほか、山縣有朋、伊藤博文、西郷從道、松方正義、品川彌二郎等の高官を含む、多数の全国にまたがる会員(名誉・特別・通常)をもって、明治 15 年 1 月 21 日に創立された。本会は、林業の改良、進歩を図ることを目的としており、その活動の一環として毎月会誌(以下「大日本山林会誌」という)を発行することとし、この会誌を明治 15 年 2 月から刊行している




 ということで、次からは本文の紹介である。
2022年1月22日







2022年01月21日

2021年後半のできごと3、ゼマン大統領の健康問題



 ゼマン大統領は、二期目に入って、衰えた姿を見せることが増え、最近では移動だけでなく職務の際にも車椅子に座っていることが多いのだが、昨年の後半、特に下院の総選挙の前後には、その健康状態がただでさえ混迷するチェコの政局に、更なる混乱をもたらした。

 発端は、選挙を直前に控えた九月末のゼマン大統領が軍の病院に入院したというニュースだっただろうか。大統領は健康診断も兼ねた入院を、これまでも定期的に繰り返していたから、今回も選挙後に予想される首班指名を巡る困難な交渉などの激務を控えて予防的に入院したものと思っていたら、最初は同時期にバーツラフ・クラウス前大統領も同時期に入院したことがわかって大騒ぎになった。そしてゼマン大統領の入院がこれまでよりも長くなったことから、健康状態がひどく悪化したのではないかと噂されるようになった。
 その噂を払拭するためにだろうが、選挙の日には軍の病院を退院しマサリク大統領の頃から、大統領別邸となっているラーニの城館で投票する様子を写した写真がSNSで公表された。しかし、遠目からの撮影でゼマン大統領の表情もよく見えず健康に問題はないという側近たちの発言を証拠立てるようなものではなかった。しかも、注意深い人はいるもので、写真を拡大して手の皮膚や、爪の色などから重病を患っている可能性が高いという見解を表明する人もいた。

 土曜日の午後二時に選挙が終わり、開票作業が進んで、結果の見通しが出てくると、大統領の見解として、三党合同での合計の得票率がANOより高かったとしても、単独の政党ではANOの得票率の方が高くなるわけだからバビシュ氏に、首班指名、組閣の支持を出すことになるとかいうコメントが、多くは広報官を通じて発表された。また、翌日曜日には、当時の与党の政治家が具体的には確か当時のシレロバー財務大臣がラーニの城館にゼマン大統領を訪ねて会談をしたとして、その内容を発表したりもしていたが、今から考えると眉唾物である。
 それは、その日曜日のうちに、噂によればバビシュ首相のイニシアチブで、ゼマン大統領が軍の病院に緊急搬送され、再度入院することになったからである。すぐに集中治療室に入れられて面会禁止の状態に置かれたから、何日か前に一旦退院した時点でも、実はかなりよくない状態にあったのではないかと推測されるのである。この辺の事情はバビシュ首相も含めて関係者の発言が、二転三転して意味不明なことが多いのだが、ミナーシュ氏やオフチャーチェク氏などの側近たちが、選挙後の政局への影響力を維持するために瀕死のゼマン大統領を入院させないようにしていたのだと主張する人もいる。

 ゼマン大統領の入院で困ったことになったのが、改選された下院の会議をどうするかである。チェコの憲法によれば、国会を召集することができるのは大統領だけで、選挙後一か月以内に最初の会議が行われなけらばならないことになっている。大統領不在の場合にどのようにして招集するのか、上院の議長が権限を代行できるのかなんて話が、まじめに議論されるようになったころ、改選前の下院議長ANOのボンドラーチェク氏が、面会禁止のはずのゼマン大統領のところに出向いて、国会召集の書類に署名をもらったことを発表した。
 その書類の内容は、市民民主党などが、最悪の場合権限代行で招集しようと計画していた11月8日付けで招集するというもので特に問題はなかったのだが、面会禁止の病室に潜り込んだボンドラーチェク氏、ゼマン大統領のところまで案内したミナーシュ氏などが強く批判され、一部には署名が偽造なのではないかという疑いも出た。それで、ミナーシュ氏はゼマン大統領が署名する様子をビデオで公開したのだが、服装や髭の状態などから、ボンドラーチェク氏などが主張する日ではなく、発表の当日に撮影されたものじゃないかという新たな疑いが持ち上がった。

 幸いなことにその後、ゼマン大統領は快復し、たしか12月の初めに退院の日を迎えた。退院してラーニの城館に戻ったのだが、戻ったと思ったら、コロナウイルスに感染していたことが発覚して病院に逆戻りということになった。またまた幸いなことに感染はしたけれども無症状か非常に軽い症状でラーニの城館での療養が許可された。

 これで終わっていれば、大変だったねえという評価で終わるのだが、ここは不思議の国チェコである。そうは問屋が卸さない。
 12月の初めには、選挙の結果、首班指名を受けた市民民主党のフィアラ氏の組閣作業がほぼ終わっていて、後は大統領の任命を待つばかりとなっていた。ゼマン大統領は、例によって任命前にそれぞれの大臣候補者と面談をすることを求めたのだが、コロナウイルス感染による隔離期間が終わるの待っていたら、年内に任命するのはほぼ不可能になる。
 そこで、ゼマン大統領の取り巻たちが考え出したのが、ガラスの檻の中の大統領である。部屋の一部を、三方ガラスで仕切って、ゼマン大統領は、ドアから直接ガラスで仕切られた部分に入り、他の人たちは別のドアからその部屋に入って、ガラス越しに話をするという、思わず「ティ・ボレ」と叫んでしまいたくなるような方法を編み出したのだ。動物園や水族館で見られるようなガラス張りの檻の中に大統領を入れるなんて、大統領の尊厳を侵害しているのではないかと思うのだが、大統領を支える側近たちにとってはどうでもいいことのようだ。SNSなどでは、ガラス越しのゼマン大統領の写真を加工して、馬鹿にするような写真が出回っていたから、見かけた人も多いかもしれない。

 内閣の任命も、あれこれ問題はあったけれども12月の20日過ぎには無事に行われた。ただし、大統領はまだ隔離期間が終わっていなかったので、ガラス越しの任命式で、最近ただでさえ大統領が車椅子に座ったままのせいで厳粛とは言いがたい式典になることが多いのが、笑える任命式になってしまった。これがフィアラ内閣の先行きを暗示していなければいいのだけど……。
 斯くの如く、2021年後半の政局は、ゼマン大統領の健康に翻弄されたのである。
2022年1月20日






2022年01月17日

『たから舟』の童話二編について



 まずは、「 ねぼけ小僧出世物語 」だが、主人公の名前が「ヤン」というところが、いかにもチェコの童話である。ヤンという名前は、現実にも最もよく見かける名前の一つだが、童話の世界でも、ヤンやそのあだ名であるホンザ、ヤネクなどの名前が、特別な名前を必要としない匿名的な主人公の名前として使われることが多い。主人公がヤンという名前の童話を集めた『チェコのホンザ』なる童話集も存在しているほどである。
 だから、チェコの童話のヤンは、本の昔話でいうなら、「桃太郎」「力太郎」なんかの「太郎」に当たると考えられそうだ。ならば、題名の「ねぼけ小僧」も、「ねぼけ太郎」と訳してもいいのかもしれない。エルベンの「ドロウヒー・シロキー・ビストロズラキー」も。「長一」「太一」「眼力の強い男」よりも、「長太郎」「広太郎」「眼力太郎」なんて名前のほうが、この時代の翻訳としてはふさわしかった気がする。

 そんなことを考えていて、ふと思い出したのが、日本の昔話の「三年寝太郎」と「ものぐさ太郎」である。より正確には昔話そのものではなく、佐竹昭広の『下克上の文学』なのだが、佐竹は、この手の何もしたがらない極端な怠け者として登場した主人公が、途中からそれを忘れたかのように真面目に働き始めて、嫁と幸せな人生を手に入れるという物語の構造を、「まめ」という概念なども使って見事に分析して見せている。
 その分析に基づけば、この「ねぼけ小僧」の物語も、「ものぐさ太郎」の系譜に連なることになる。主人公のヤンは、最初は何時でもどこでも寝てしまう人間として登場したのに、隠者と出会って以降は、王妃の行状を突き止めるために寝ずの番をするなど、ねぼけ小僧はどこに行ったのかと言いたくなるような豹変振りである。日本の昔話と直接関係が有るなんてことを言うつもりはないが、怠け者が何かのきっかけで働き者になってという発想は、世の東西を問わず存在したのだろう。

 最後の褒美として国の半分をもらうというのも、チェコの童話にはよく出てくるものである。ただし、特に映画化されるような話の場合には、誘拐されたり呪いをかけられたりした王女を救うことができたら、褒美として王女との結婚を許して国の半分を与えるというのが一つのパターンになっているから、王妃の行状を暴いただけで国の半分というのは意外な感じがした。


 二つ目の「 一撃九匹 」のほうは、特にチェコ的だという部分はないのだけど、仕立屋という大人の職人が主人公になっているところが、ちょっとだけベチェルニーチェクの「ルムツァイス」を思い起こさせる。ルムツァイスは、仕立屋ではなく靴屋で、貴族と対立して町にいられなくなって、近くの森に移り住んで、貴族の横暴に逆らう盗賊だから、この物語の主人公のような狡さは発揮しないのだけど。
 ルムツァイスといえば、貴族の末裔を紹介する番組で、貴族のイメージを貶めるのに利用されたと批判する人が登場していた。対ナチス協力者として没収された資産の返還を、あれこれ理由をつけて求め続ける、貴族の子孫達の一部の強欲な姿を見ていると、ルムツァイスが存在しなくても、貴族に対するイメージは変わらなかったんじゃないかと思うけど。

 最初に読んだときには、童話なのにこの終わり方でいいのだろうかと思ったのだが、子供たちに現実の厳しさを垣間見せるのが童話の役割だとすれば、これはこれでいいのかもしれない。大蛇を倒してもらった褒美が一万円というのは流石にどうなんだろう。1920年当時の一万円の価値が現在とは比べ物にならないほど大きかったというのはわかってはいるんだけどさ。
2022年1月16日










タグ: 童話 昔話

2022年01月16日

2021年後半のできごと2、下院総選挙



 バビシュ政権のコロナ対策も含めて、昨年チェコで起った出来事の殆どに影響を与えていたのが、十月初めに行われた下院の総選挙である。
 バビシュ政権との対決姿勢を強める、オカムラ党以外の五つの野党は、かなり早い段階で、市民民主党・キリスト教民主同盟・TOP09と、海賊党・市長連合という二つのグループにまとまってそれぞれ共同で比例代表の候補者名簿を作成することを決めていたが、それを支援するかのように、憲法裁判所が、選挙法に違憲の疑いがあるので改正するようにという判断を下した。

 それは、所謂「一票の格差」に関するもので、地方ごとの議席数の配分とドント式での議席配分が、大政党に有利すぎるというのである。もともとは、得票率の高い政党を優遇し、ぎりぎりで議席を確保した政党を冷遇することで、安定した多数派からなる政権が成立しやすくなるようにという目的があったはずだが、政党が乱立した結果、三党以上の連立政権や、過半数を確保できない少数与党の政権になることが多く、機能しているとは言えないのも、憲法裁判所の判断に影響を与えたのかもしれない。
 また、二つ以上の党が合同で候補者名簿を作成して選挙に出る場合の、議席確保のための最低得票率が、5%×政党数、つまり二党なら10%、三党なら15%になっているのも、死票をふやす可能性があるということで、改正を求められた。憲法裁判所では、複数の政党が合同した場合も、一律で5%にすることを考えていたようだが、国会の審議で、連合する政党が一党増えるごとに、最低得票率も2,5%だったか、3%だったかずつ増えるという形に収まった。野党側の三党連合と二党連合が、それぞれ14.9%、9.9%なんてことになったら、それだけで最低でも25%もの死票が発生することになるから、妥当な判断ではあるのだろうけれども、それなら全国でという縛りを削除して、選挙区単位での議席を獲得するための最低得票率にしたほうがいいと思うんだけどなあ。

 とまれ、野党側の三党連合と二党連合は、選挙戦が開始される前から、選挙後は連立政権をクムということで合意し、バビシュ政権、つまりはANOとの対立姿勢を強め、選挙はANOと二党+三党連合の対決という構図になった。その結果、他の党、連立与党の一つでありながらバビシュ政権の提案する議案に反対の票を投じるなど、意味不明な行動を繰り返した社会民主党と、閣外協力をするという協定を結んだのに常に協力するのかしないのかはっきりしなかった共産党の左翼二党は、存在感を失っていった。ちなみに、ANOは、対立する五党のうち、海賊党に狙いを定めて、徹底的に批判するという戦略をとり、選挙結果にある程度の影響を与えることに成功したのだが、これについては後述する。

 十月の初めに行われた選挙の結果は、市民民主党・キリスト教民主同盟・TOP09が最高得票率の27.8%で勝者となった。ただし議席数では、0.8%という僅差で二位になったANOのほうが一議席多い72議席を獲得しているから、日本的にはこちらが第一党と言いたくなる。三番目は海賊党・市長連合で37議席、四番目は20議席獲得したオカムラ党だった。議席を獲得できたのはこの4つのグループの七つの政党という結果になった。
 社会民主党と共産党は、議席獲得は難しいかも知れないという選挙前の予想通り、得票率5%には届かず、議席を失うことになった。どちらも、元警察官で組織犯罪を摘発する組織の長として活躍したシュラフタ氏が設立した新政党プシーサハ(宣誓)よりも得票率が低かったのは、予想外だった。これまでの両党の迷走ぶりに愛想をつかして、左よりになりつつあるANOに鞍替えした支持者が多かったということだろうか。ANOは、右よりの支持者を失った分を、ここで補充して得票率の減少を最小限に抑えたとも考えられる。共産党の支持者はオカムラ党にもかなり流れていそうだけど。

 とまれ、選挙の結果を簡単にまとめると、政党単位での獲得議席数から言えば、ANOが市民民主党(三党連合の72議席中34議席を獲得)に倍以上の差をつけて第一党となったが、社会民主党、共産党という協力関係を築ける可能性のあった政党が議席を失ったことで、政権獲得の可能性が消えた。その意味では、この選挙で最大の敗者だったということができる。
 一方、選挙前からの公約で連立を組むことが予想された5党は、合わせて108という過半数の議席を獲得したのだが、個々の政党を見ると、海賊党が4議席の獲得に留まった。本来なら市長連合と合同で獲得した37議席が半々ぐらいになるように候補者名簿が作成されていたはずだが、市長連合の支持者の多くが、海賊党の議員が増えることを嫌ってなのか、投票の際に市長連合の候補者に特別に支持する印をつけたことで名簿の順位が変わり、海賊党の候補者の多くが落選してしまったのである。
 日本であれば選挙の後、すぐにでも国会で総理大臣選出のための選挙が行なわれ、内閣が成立するのだが、大統領議会制を取るこの国では組閣までの手続きはややこしく、ゼマン大統領の存在もあって、内閣が任命されるまで、選挙後三カ月近くかかることになる。その辺の事情についてはまた稿を改める。
2022年1月15日





タグ: 選挙

2022年01月12日

一撃九匹(チエスコ・スロヴエンスカ童話)



 あるところにひとりの仕立屋があった。この仕立屋は、為事(しごと)が暇だと、きまって靴下の直しをやらかしていたが、ある日御飯をすますと、テエブルのうえに、一ぱい蝿がたかっていたので、彼はもっていた靴下でいきなり蝿をたたいた。そして一時に九匹を殺した。
 さて、彼はあんまり長いあいだ為事がなくて、そう毎日ぼんやり靴下の直しばかりもやっていられないので、そこである日、きゅうに思い立って、世界漫遊としゃれこんだ。この時、彼は自分の帯へ、「一撃九匹を斃(たお)す」と、れいれいとおおきく金文字で書いた。
 彼は路でひとりの小僧に逢った。その小僧は彼に雀を一羽買ってくれないかと言った。彼は言われるままに、その雀を小僧から買いとって、そして持っている袋のなかへ入れた。それからしばらくゆくと、彼はある百姓家のまえをとおりかかった。見ると、そこのかみさんは、たいそううまそうな乾酪(チーズ)をこしらえていたので、彼はかみさんに、その乾酪と、それから牛乳をすこしわけてくれないかと頼んだ。かみさんは、こころよく、こしらえていた乾酪と、それから牛乳を二三杯わけてくれた。彼は牛乳を即座に飲んで、乾酪を袋へ入れて、そしてまたのこのことさきへ歩いて行った。しばらくして、彼は町へ着いた。

 その日は、夏の真中の、たいへんに暑い日であったので、のんきな仕立屋先生は、別に急ぐ旅でもないので、道端の涼しそうなところへごろりと横になって、ぐうぐうと寝込んだ。そこへ、ひとりの雲突くばかりの、おそろしい大男がとおりかかった。大男はひょいと寝ている仕立屋の帯を見ると、金文字で、「一撃九匹を斃す」と書いてあるので、目を円くしておどろいた。
 彼は仕立屋を揺りおこして、
「おいおい、君はほんとうに一時に九匹を殺したのかい?」と聞いた。
 仕立屋がそうだと答えると、大男は、
「そいつあおもしろい。それじゃこれから、君が強いか、己(おれ)が強いか、ひとつおたがいに腕くらべをやらかして見ようじゃないか。まず己はこの石を天へ投げるが、落ちてくるまでには一時間かかるから、見ていたまえ」と言った。
 仕立屋はそれを聞くと、ふふんと笑って、
「それじゃ己は、もう降りて来ないほど高くほうって見せるよ」と言って大男を茶化した。
 大男は腹を立てて、石を天へ投げたが、実際下へ落ちてくるまでには一時間の余かかった。しかし仕立屋は石のかわりに雀を投げたので、勿論かえっては来なかった。
 大男はぎゃふんとまいった。しかしこんなちっぽけな虫けら見たいな奴に負けては残念だと思ったので、彼はまた、
「それじゃあ、こんどは、別のことをやって見よう。己はこの石を握り砕いて見せる」と言った。
 だが仕立屋はにっこりと笑って、
「なんだ、砕くばかりかい。己は握り潰して、汁を出して、見せてやる」と言った。
 大男は、なにを小癪なと、石を握って粉微塵に砕いた。しかし仕立屋は乾酪を出して、それをぎゅっと握ったので、まわりから汁がはみ出した。
 大男はまた鼻っぱしをへし折られた。彼はどうしても仕立屋のほうが自分より上手だと認めないわけにはゆかなかった。
 そこで大男はさっそく仕立屋と仲よくなって、ふたりはそれからぶらぶらと、とある草原までやって来た。その草原には実が一ぱいに熟(な)っている一本の桜の樹があった。ふたりはその実が食べたくなった。仕立屋は攀(よ)じ昇ってその実を取ったが、しかし大男は無造作に、苦もなく桜の樹を曲げて、実を取った。大男は食べたいだけ食べると、きゅうに手をはなしたので、樹に乗っていた仕立屋は、弾みを食って、はるか向うへ跳ね飛ばされて、草原の隅の、枯草の山のうえにおちた。
 仕立屋は枯草の上から降りて来ると、苦い顔をして、お尻をさすりながら。
「おい君、冗談じゃないぜ。僕は飛行術を知っていたから助かったが、それでなければ、今頃は三途の川へ行っていた時分だよ」と言った。そして、その内に、折があったら、君に是非飛行術を教えてやろうと約束をした。

 ふたりは手を取り合って、それからとある町へ行った。その町へ這入(はい)ると、どうしたのか、町のなかはいやに陰気であった。ふたりは不思議に思ったので、町の人に聞いて見ると、この町の人のいうには、ある一疋の恐ろしい大蛇が、この町の会堂の中に住んでいて、さかんに人を呑んでいるので、この町の人はひとりとして安心をしている者がない、為方(しかた)がなしに、王様はその大蛇を殺した者には一万円の褒美をやるということになつているのであるが、いまだに殺す人がないと答えた。それを聞くと、ふたりは早速王様のところへ出かけて行って、われわれがその大蛇を退治いたしましょうと言った。そして彼等はおおきな鉄鎚と火箸とをあつらえた。それが出来てくると、大男は自分は火箸を持って、そして仕立屋に鉄鎚を担いでいってくれろと言ったが、仕立屋は笑って、
「おい、それっぱかしの物をふたりで持って行ったと言われてはわれわれの名折れだから、君がみんな一しょに持って行きたまえ」と言った。
 ふたりが会堂の入口まで来ると、大蛇はいきなりおそろしいいきおいで飛んで出て来て、仕立屋を押し倒して彼を呑もうとした。すると、大男は持っていた鉄鎚で力まかせに大蛇の頭を打って、ただ一撃に殺してしまった。
 仕立屋は起きあがると、喜ぶかと思いのほか、不愉快そうな顔をして、
「君、なんだって殺してしまったんだい。困るじゃないか。僕は大蛇を生捕(いけどり)にして、見世物にでもして、おおいに儲けようと思っていたんだぜ」と言った。
 大男は真に受けて、
「そうかい、それはすまなかったね」と言ったが、仕立屋はじきに機嫌をなおして、
「まあいいや。それはそうと、今日はこれから我輩の得意の飛行術を君に教えてあげよう」と言った。
 それから、ふたりは連れ立って会堂の高い屋根へ登った。
 仕立屋が大男をかえりみて、
「いいかい、己が一、二、三と合図をしたらば飛び降りるのだよ」と教えた。
 大男は仕立屋の合図にしたがって下へ飛び降りたが、脳骨を微塵に砕いて、死んでしまった。
 細(ほそ)からぬ仕立屋さんは、この容子を見ると、赤い舌をぺろりと出して、
「大蛇を退治いたしましたのは、かくもうすわたくしでございます」と言って、まんまと王様から一万円の金を貰って、ポッケットへ捻じ込んでしまった。


出典:松本苦味編『 たから舟 世界童話集 』東京、 大倉書店、1920.7.18







2022年01月11日

ねぼけ小僧出世物語(チェスコ・スロヴェンスカ童話)



 あるところにヤンという少年があったが、彼は大のねぼけ小僧で、それこそ時も処もおかまいなしに、どこへでもゆきあたりばったりにごろごろと寝た。ある日、彼は一軒の居酒屋の前をとおりかかると、中には五六人の百姓がいて、その外に山のように藁を積んだ荷馬車が三四台置いてあった。彼はこれを見るとこいつはうまい寝床があるわいと、早速一台の荷馬車のなかへ潜りこんで、そのままぐっすりと寝込んでしまった。
 百姓達は、そんなこととは夢にも気づかずに、やがて御者台へと乗りこんで、はいはいどうどうと馬を御して家路についた。彼等はそれから余程たってから、ようようヤンが荷馬車のなかに眠っているのに気がついた。
 彼等は考えた。
「さて、こいつをどう始末をつけたらいいだろうなあ。うむ、よし、馬車のなかに麦酒樽(ビアだる)がひとつあった。一番こいつをあの麦酒樽のなかへほうりこんで、そして森へ置いてきぼりにしてやろう!」
 こう考えると、彼等はそのとおりにした。
 ヤンは麦酒樽のなかへほうりこまれても、なかなか目をさまさなかった。彼はずいぶん永いあいだそのなかで眠っていた。しばらくして、彼はようよう目をさますと、自分が麦酒樽のなかにいるのに気がついた。けれども、彼は自分がどうしてこんな麦酒樽のなかへはいったか、また一体自分は今どこにいるのだか、さっぱり当(あて)がつかなかつた。ただ何だか麦酒樽のまわりに、異(い)体(たい)の知れぬものが。行ったり来たり駈けまわっている容子(ようす)なので、彼は麦酒樽のちいさい孔(あな)からそとを覗いて見た。ところがおどろいた。外には実に数えきれぬほどの狼がむらがっているのである、彼等はいずれも人間の臭いを嗅(か)いであつまって来たらしかった。
 やがて一匹の狼は、ヤンの覗いている孔へ尻尾(しっぽ)を突きこんだ。ヤンはそれを見ると、始めは生きた心地もしなかったが、しかし根が豪胆な少年であるから、いきなりその尻尾を手へ絡みつけた。狼は不意を喰らっておどろいた。そして尻尾の先へ樽をくっつけたまんま、どんどん逃げはじめたが、しかし逃げれば逃げるほど、樽はすさまじい音を立てながら尻尾へ付いてくるので、怖さはよけいひどくなった。とうとう狼は物狂わしく駈けまわったすえ、樽をとある岩角へぶつけたが、樽は岩へぶつかると同時に、微塵になってしまった。ヤンは狼をはなした。すると狼は一目散に、雲を霞と逃げていった。

 さてヤンは、人気もない、寂しい山のなかで、ひとりぼっちになった。彼はどうすることも出来ないので、唯(ただ)分(わけ)もなく山のなかをさ迷った。ところが、彼はふと思いがけなくもひとりの隠者に逢った。
 その隠者はヤンにむかって言った。
「おまえはどこの者だか知らないが、とにかく己(おれ)と一しょにここにいなさい。実は、己はもう常命がつきて、三日の内に死ななければならないのだ。己が死んだらば、どうぞ己の亡骸をうずめてくれ。そうしたら、己はおまえに立派に礼をしてやる」
 そこで、ヤンはその隠者とともに山にとどまることになったが、それから三日たつと、隠者の死はいよいよ近づいた。隠者は目を瞑ろうとする時、ヤンを膝近く呼びよせて、一本の杖をわたして言った、
「これヤンよ、この杖はな、おまえが行きたいと思うところを指せば、どこへでもゆかれるという不思議な杖だ。これをおまえにやる」と言って、それから隠者は更にひとつの袋をヤンにあたえて言った。
「それからこの袋はな、およそなんでおまえが欲しいと思うものは、おまえはこのなかから取りだせるという奇妙な効能のある袋だ」
 隠者はこう言って三番目に、更にひとつの帽子をヤンに渡して、
「またこの帽子はおまえがかぶると同時に、おまえの姿が消えてしまうという摩訶不思議の力ある帽子だ。己はおまえのやさしい心立に感じて、この三つの宝をやる」とこう言って、隠者は安らかに永劫の眠りについた。ヤンはその隠者の亡骸を丁重に葬った。

 ヤンは三つの宝物を授かると、まず杖を指して言った。
「杖や、己を王様の住んでいる都へつれてゆけ」
 すると彼はたちまちとある華かな都の真只中に自分を見いだした。ところが彼はこの都会で、奇怪千万な噂を耳にした。それは、この国の王様のお妃が、毎夜一ダースの靴を履き切ってしまうが、誰もそのお妃が、どこへどうしていって、そんなにたくさんの靴を履き切って来るのか、知る者もないというふことであった。国中の華族達や、えらい人達はみんな争ってこのお妃の秘密を探ろうとしたが、ヤンもそのなかのひとりに加わった。
 彼は王様のお城へ行って、王様に拝謁を願いたいと言った。やがて彼は王様に拝謁を許されて、王様の面前に伺候すると、彼は、自分はお妃の秘密を探りたいと思って、あがった者でございますと言った。
 王様は彼に言った。
「ふん、おもしろい奴じゃ。しかしそちの名前はなんと云うのじゃ?」
「わたくしはねぼけ小僧のヤンともうす者でございます」と彼は答えた。
「なんだ、ねぼけ小僧のヤンだ! おまえはねぼけ小僧で、どうして己の妃の秘密を探ることが出来る? おまえはもしもやり損ったら、首を亡くしてしまうことは承知か?」と王様は言った。
「無論承知でございます」ヤンはきっぱりと答えた。

 ヤンのあてがわれた部屋は、ちょうどお妃の隣りの部屋であったが、お妃が外へ出るには、どうしてもヤンの寝ている部屋をとおらなければならなかった。ヤンは一晩中まんじりともしなかった。
 真夜中になって、お妃はそろりと自分の部屋を抜け出して、さてヤンの部屋をとおろうとすると、ヤンはわざと大鼾(おおいびき)をかいて狸寝入りをしていた。お妃はどうもヤンの容(よう)子(す)をあやしいと思ってか、持っていた蝋燭の火で二三度ヤンの足の裏を焼いて見たが、それでもヤンが鼾をかいて起きようともしないので、彼女は安心をしたらしく、十二足の新しい靴を持って、お城を抜け出した。
 ヤンは寝床から跳ね退きて、手疾(てばや)く帽子をかぶり、例の杖をさして言った。
「これ杖よ、王さまのお妃の入らっしゃるところへ己を連れてゆけ」とこう言って、彼はお妃のあとを追った。
 さてお妃は、非常な疾さである巌(いわ)のところまで来ると、地は二つに割れて、中から二匹の龍があらわれて彼女をむかえた。そしてその二匹の龍は、彼女を背中へ乗せて、鉛の森へ案内した。
 ヤンはこの容子を見ると、杖に向って、
「それ、あのお妃のあとを追え!」と言って、彼もまた鉛の森へ行った。
 彼はこの森へ這入(はい)ると、証拠のため、鉛の枝を一本折って、それを持っている袋のなかに入れた。しかし彼が鉛の枝を折る時、ちょうど鈴が鳴るような強い音がした。お妃はこの音を聞くと、ぶるぶると身顛いをして、そしてまた先へ進んで行った。
 ヤンはまた杖を指して、
「己をお妃のいるところへ連れて行け」と言った。
 すると、こんどは杖はお妃のあとを追って、彼を錫の森へ連れて行った。彼はここでまたまえのように枝を一本折って袋のなかへ入れた。枝はふたたび鈴のような烈(はげ)しい音をたてた。お妃はこの音を聞くと、いよいよ真蒼(まっさお)になって、そしてまたさきへ進んで行った。
 ヤンはさらに杖に言いつけて、
「己をお妃のいるところへつれてゆけ」と言うと、彼はたちまち銀の森についた。
 彼はここへつくと、型のごとく一本の枝を折って袋のなかへ入れたが、折る時、あいかわらずけたたましい鈴のような音がしたので、お妃はとうとう気をうしなってしまった。龍はこの容子を見ると、おどろいて、路を急いで、とある青々とした草原へ出た。
 この草原へ来ると、たくさんの悪魔がむらがってお妃をむかえたが、悪魔等はお妃が気をうしなっているのを見ると、みんなして彼女をよみがえらせて、そして盛んな宴会を開いた。
 ねぼけ小僧のヤンも、この草原へ着いた。ちょうどこの日は悪魔達の抱えている料理番が留守であったが、ヤンはその料理番の席へ据わっていた。けれども彼は例の不思議な帽子をかぶっていたので、誰も彼に気付く者はなかった。悪魔は、料理番のために自分達の食物を少しづつ取り退けて置いてやった。ところが、ヤンはそれを残らずたいらげてしまった。これには、流石の悪魔達も目を回しておどろいた。しかし彼等は、それをまさかヤンの為業(しわざ)だとは気付かなかったので、べつだん大して気にもかけなかった。
 宴会がおわると、悪魔達はお妃と一しょに踊を踊った。彼等はお妃が十二足の靴をみんな履き切ってしまうまで、夢中になって踊りまはった。やがて靴が一足もなくなると、二匹の龍があらわれて来て、最初に彼女を迎えた巌のところまでおくりとどけた。彼女はここまで来ると、それから先は歩いて城へ向った。
 ヤンは彼女の後をついて歩いた。けれども、城の真近まで来ると、彼は、お妃より一足先に城へ帰って、そして床のなかへ潜り込んで、知らん顔をしていた。
 お妃はヤンの寝間を通り抜けてゆくとき、ヤンの容子を窺うと、ヤンは高鼾で眠つているので、ほっと安心をして、そのまま自分の部屋へ這入って寝についた。

 夜が明けると、華族達や、さまざまのえらい人達は王様の御前にあつまった。この時王様は一同の者に、誰か妃の秘密を探り当てた者はあるかと聞かれたが、誰もわたくしが存じておりますと云って、御前へ進み出る者もいなかつた。一堂唯面目なげにしたをむいているばかりであった。そこで王様はねぼけ小僧のヤンを呼び出して、彼に聞かれた。
 ヤンは答えた。
「陛下、わたくしはおおせのようにお妃さまのおあとをつけまして、お妃さまが、十二足の靴を、地獄の草原で履き切っておしまいなさるのをちゃんと見届けました」
 お妃は思わずまえへすすみでた。するとヤンは落付いて、袋のなかからなまりの枝を出して言った。
「お妃さまは二匹の龍に乗って地獄へむかわれまする途中、鉛の森へお立寄りになりました。わたくしがその森でこの鉛の枝を折りました時、お妃さまはたいへんおどろかれたようにお見受けつかまつりました」
「ふん、そちはなかなか旨いことを言う。しかしその枝は、そちが自分でそんな物をつくって、そして好い加減の嘘をならべたてるのであろうがな」と王様は言った。
 ヤンはそんなことには構わずに、袋のなかから更に錫の枝を取り出して、そして言った。
「さてそれからお妃さまは錫の林へおいでになりました。この枝はすなわちその林で折ったものでございます。お妃さまは、その時たいそう蒼くおなりあそばしました」
 こう云って、ヤンはこんどは銀の枝を出して言った。
「お妃さまは、それからのち、銀の森へゆかれましたが、わたくしがその森でこの枝を折りますと、お妃さまはおどろきのあまり、たおれておしまいになり、悪魔達がおよみがえしまをすまでは、なにも御存じない御容子でした」
 お妃はなにもかも一切残らずあばかれると、きゅうに大声に、
「地よ、地よ、わたしを呑んでしまっておくれ!」と叫んだ。
 すると、地は瞬く間にお妃を呑んでしまった。
 ねぼけ小僧のヤンは、その国の半分を貰った。そして王様が亡くなると、外の半分も譲られた。

出典:松本苦味編『たから舟 世界童話集』東京、大倉書店、1920.7.18


 前回、紹介したチェコの童話の翻訳の全文である。表記は読みやすいようにある程度改変を加えてある。





2022年01月08日

松本苦味編『たから舟 世界童話集』(1920)



 チェコ文学の、文学とはいっても童話だけれども、最古の日本語訳を発見してしまったかもしれない。
 これまで、チェコの作品で日本語に翻訳された最初のものは、カレル・チャペクの『R.U.R.』の日本語訳である『人造人間』(宇賀伊都緒訳、1923年発行)だと思っていた。それが、例によって国会図書館オンラインで、チェコ関係の古い記事を探していたときに、ふと思いついて「チェスコ」で検索してみたら、「チエスコ・スロヴエンスカ童話」というのが出てきた。
 童話は、チェコ語では「ポハートカ」で女性名詞だから、それにチェコスロバキアのという意味の形容詞をつけると、「チェスコスロベンスカー・ポハートカ」になる。一瞬、チェコ語からの翻訳かも知れないと思ったのだが、よく考えたら、チェコでは、もしくはチェコスロバキアでは「チェスカー・ポハートカ」「スロベンスカー・ポハートカ」ということはあっても、「チェスコスロベンスカー・ポハートカ」ということはあるまいと思い至った。でも、これがチェコスロバキアの童話として日本に紹介されたということは間違いない。

 その童話が収められている本は、大倉書店から刊行された『たから舟 世界童話集』という子供向けの本で、訳と編集をしたのは松本苦味という人である。刊行は1920年というから、チャペクの『人造人間』よりも三年早いことになる。
 この本には、25編の世界18の国、地域の童話が収録されている。18という数字については、序に、「「たから舟」といふと、どうやら七福神でも乗つてゐさうであるが、開化の「たから舟」には、十八ヶ国の違う国の異人さんが乗つてゐる」と説明があるが、どう理解すればいいのかわからない。その十八の作品のうち最初の二つが「チエスコ・スロヴエンスカ童話」とされていて、それぞれ「ねぼけ小僧出世物語」「一撃九匹」と訳されている。

 ほかの作品を見ると、「北米印度人童話」とか、「小亜細亜童話」、「ブラジル童話」のような、ほかの童話集ではあまり取り上げられていなさそうな地域の童話も多く収録されていて、「チエスコ・スロヴエンスカ童話」が冒頭にあることと考え合わせると、この本、ちょっと毛色が違うんじゃないかという印象を持った。
 訳者の松本苦味は、どうやらロシア文学が専門の人のようだから、チェコスロバキアの童話もロシア語からの翻訳だと考えてよさそうだ。そうすると「チエスコ・スロヴエンスカ」というのも、ロシア語に於いてチェコスロバキアを表す言葉であろうか。ちなみに松本苦味は関東大震災で行方不明になったという。

 ところで、冒頭で「見つけたかもしれない」という言い方をしたのは、チェコ語の原典が発見できていないので、絶対にチェコの童話を翻訳したものだと言い切れないからである。1970年代に発行された本のなかに同じような童話を見つけたのだけど、1920年に日本で出版された翻訳の原典を70年代の本にするわけにもいけないし。折角なので、次は、「ねぼけ小僧出世物語」と「一撃九匹」を紹介することにする。
 国会図書館オンラインの『たから舟 世界童話集』は、
target="_blank">こちらから。
2022年1月7日。








2022年01月06日

「外交時報」第五十八号(1902)



 国会図書館オンラインで、チェコに関する記事をあさっていたときから、この「外交時報」という雑誌に載せられた当時のボヘミア情勢に関すると思われる記事には、非常に期待していた。それで、古いほうから三つほど複写を依頼したのだけど……。署名記事ではなく「雑報」などというくくりで掲載されていることから、大した内容ではなく、ヨーロッパの雑誌の内容の引き写しでしかなかったのは、当然なのかもしれない。
 そのうち、第五十八号に掲載された「欧羅巴とボヘミヤ」という記事を引用する。引用に際しては、読みやすいように表記の手直しをしてある。


 青年チエツク党の首領として墺国議会の立物たるクラマルツ氏、英国のナシヨナルレヴェウに於いて、欧羅巴とボヘミヤの関係を論ぜり。氏は夙にパンゼルマニスムに反対し、之を以て欧洲の平和に害あるものとし、パンゼルマニスムをして跋扈せざらしむるには、ボヘミヤに自治を許すを良策なりとなす。曰く、ボヘミヤ問題は最も重大なる欧洲問題なり。大陸の中心に於てパンゼルマニスムの跋扈に対して、唯一の城壁となりて、その害悪の横溢を防ぐものはボヘミヤのみ。墺太利はボヘミヤに自治を許して、その自由なる発達を遂げしめざる可からず。然らざれば、墺は終に独に呑噬せらるるに至る可し、云々と。




 ここに登場するクラマルツ氏は、チェコスロバキア独立後に初代首相となったカレル・クラマーシュのことであろう。1891年以降、つまりはこの記事の当時もオーストリア帝国議会の議員として活動していた。その後、第一次世界大戦中は対敵協力の容疑で逮捕されたが釈放され、大戦終結後のパリ講和会議では、独立前のチェコスロバキアの代表を務め、独立後初代首相に就任した。
 ちなみに、現在のチェコの首相官邸は「クラマーシュ邸(Kramá?ova vila)」と呼ばれているが、それはこの邸宅にクラマーシュが住んでいたからである。フラッチャニにあるこの邸宅が首相官邸として使われるようになったのは1998年のことだという。ビロード革命直後でないのは、改修工事に時間がかかったせいだろうか。

 「外交時報」掲載の記事で今回手に入れたものの一つは、第六十二号(1903)に掲載された「ボヘミヤの国語問題」で、雑報としても非常に短く、ボヘミアにおける公用語をめぐる議会の対立を解消するために、当時の首相エルネスト・フォン・ケルバーが招集したドイツ系とチェコ系議員の協議会が不調に終わったというだけのもの。
 もう一つの第二百三十六号(1914)に掲載された「ボヘミアの民族闘争」には、実は一番期待していたのだが、ウィーンの新聞からの情報で、これも非常に短かった。内容は、ドイツ大使が、ボヘミアにおける、チェコ人、ポーランド人によるドイツ人迫害について注意を促したというもので、実際にどのような情勢だったのかはまったく書かれていなかった。

 日本語版のウィキペディアに依れば、「外交時報」は、日本最初の外交専門誌として埴原正直によって創刊されたものだという。ただし、埴原はその後直に外務省に入り外交官として活動を始めているようだから、実際の編集にどこまで携わったのかは不明。現在のところは、期待はずれ雑誌だけど、次に複写依頼したものの中には署名原稿もあるので、この三つよりは詳しいことが書かれているのではないかと期待している。問題は国会図書館から発送済みの連絡があって一ヶ月以上たつのに、チェコの税関で引っかかってまだ手元に届かないことである。全く以て、ふざけんなチェコ政府と言うしかない。許すまじは、カロウセクだけでなく、バビシュもである。この件については、いずれ憤懣をぶちまけよう。
2022年1月5日






タグ: ボヘミア

2022年01月05日

2021年後半の出来事1、南モラビアの竜巻



 思い返せば去年の6月の初旬に怠けぐせが再発して、毎日書くのを停止してしまったのだが、停止していなければ、確実に記事にしていたに違いない事件の一つが、六月に南モラビアで発生し多くの犠牲者と、建築物の被害を出した竜巻である。

 竜巻、もしくはカタカナでトルネードというと、アメリカのイメージが強いけれども、チェコでもごくたまに発生する。その大半は小さなもので被害もなくニュースにならないまま終るのだが、ごくごくまれに被害が出て驚きと共にニュースになることがある。こちらに来てからで記憶に残っているのは、確か2004年にオロモウツの近くの町、リトベルで発生したものである。
 モラバ川の支流の上で発生した竜巻が、リトベルの町の外側をかすめるように移動し、ちょうど進路上にビール工場があったため、設備に大きな被害を出した。それ以外にも十軒ほどの民家が屋根を飛ばされるなどの被害を受けていた。

 このときもニュースで大きく取り上げられていたのだが、去年の6月の竜巻は、その規模も、被害も桁が違った。6月24日の夕方(といっても午後7時過ぎだけど日没以前の時間帯)に、ブジェツラフの北の郊外で発生した竜巻は、国道の55号線、鉄道のブジェツラフ—プシェロフ線に沿うように、沿線の村々を一つ一つ襲いながら、北東に移動しホドニーンの北で、森に入りラティシュコビツェの近くで消滅した。移動距離実に26キロ、巾約500mに渡って壊滅的な被害を与えたという。
 壊滅的な被害を受けたのは、南からフルシュキ、モラフスカー・ノバー・ベス、ミクルチツェ、ルジツェの四つの村で、ブジェツラフとホドニーンの一部にも大きな被害を与えた。合わせて1500軒以上の建物が何らかの被害を受け、そのうちの200軒ほどは、改修も不能ということで解体されることになった。被害総額は150億コルナに上ると推計されていた。建物の被害の様子はチェコ語のウィキペディアの このページ である程度見ることができる。人的被害のほうも、亡くなった人こそ6人だったが、負傷者は数知れず、中には足の切断を余儀なくされるなど、人生に関わるような大怪我を負った人も少なくなかった。

 確か、当日から消防や警察だけではなく、軍隊も派遣されて救助活動が始まり、翌日からは復旧に向けた瓦礫の排除なども始まっていた。こういうときに、チェコ人の二面性が端的に現れるのだけど、まずいい面から言うと、夏休みに入りかけた時期だったこともあって、チェコ各地から沢山のボランティアが集って、復旧作業に協力していたし、お金や支援物資を現地に送ることで支援しようとする人たちも多かった。また、コロナで制限が多い中、各地でチャリティーのためのコンサートも開催されていた。
 悪い面としては、詐欺師めいた連中が出没したことで、どこかの村の村長が、ボランティアのふりをして村に入り、多額の謝礼を要求するような連中がいたと憤慨していた。それから、救援、復旧活動の指揮を取る南モラビア地方当局の要請を無視して、車で直接現地に乗りつけ交通渋滞を引き起こして活動の邪魔をしたボランティアも、人の話しを聞かないという意味でこちらに入るか。救援物資にしても、数は十分にあるから送らないでくれと名指しした物を送りつける人がいたらしいし。一番ひどかったのは、夏のくそ暑い中、人口が100人程度の村に、竜巻の被害で電気もガスも水道も止まっているところに、1万個のヨーグルトが送りつけられたという話で、ニュースのレポーターが切実な声で、ヨーグルトだけはこれ以上送らないでくれと繰り返していた。それも含めて在庫処分と勘違いしている人がいるんじゃないかという印象を持った。

 政治家の動きについては云々してもしかたあるまい。政府側も野党側もあれこれやっていたけれども、実際に現地の役に立つかどうかよりも、近づく選挙に向けてのパフォーマンスにしか見えないものが多かった。キリスト教民主同盟のマリアン・ユレチカ氏が、自分の農場で使っているトラクターを、必要なら貸し出すとSNSで発信していたのは面白いと思ったが、実際に貸し出されたのかも、どのぐらい役に立ったのかも知らない。

2022年1月4日







タグ: 災害
posted by olomou?an at 16:08| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2022年01月04日

「法学協会雑誌」第二十三巻第十号(1905)


 以前から、国会図書館所蔵の戦前の書籍や雑誌に掲載されたチェコスロバキア関係の記事を紹介してきたのだが、今回は、なぜか法学関係の雑誌に紹介されたプラハの学生寮についてのお話。記事の題名は「プラーグのチエツク大学に於ける新設備」と言うのだけど、それが寮(寄宿舎)のことだとは思っておらず、大学の講義室に最新の機材が導入されたという記事かと考えて、余り期待していなかったのだが、読んでいい意味で驚いた。せっかくなので全文引用して、簡単な今日の目から見た解説を加えておく。引用に際しては、読みやすいように、句読点の追加、新字体への変更などの表記の修正を施した。



 墺国ボヘミヤのプラーグに於けるチエツク人の大学は、有志者の寄附に依りて貧窮学生のために新たなる一の設備を有するに至れり。此の設備の目的は、一の寄宿として貧窮学生のために住居と食物を給し、兼ねて一の学校として教育をも施さんとするにあり。撃剣場、玉突場、体操場、図書館等の設ありて、尚お仏語、独語、英語、露語を教授す。学生は、是等諸国語のうち一語を選択して学習するの義務あり。衣服は学生自ら負担せざる可からずと雖も、他はすべて支給せらる。(但し資力ある者は食料として毎月十クローネンを納む)。すべて此の寄宿舎を利用し得る者は、成績佳良なるものに限る。一九〇三年より一九〇四年に跨る学年に於いて、此の寄宿は二百十一人の学生を収容せり。


 現在ではカレル大学と呼ばれている、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カレル4世がプラハに創立した大学は、その長い歴史の間に、政治的な理由で繰り返し改組を受けているが、その中でも最も大きなものは、1882年のドイツ系とチェコ系の二つの大学への分割である。分割後のチェコ語での名称は「C. k. n?mecká univerzita Karlo-Ferdinandova(ドイツ系)」と「c. k. ?eská universita Karlo-Ferdinandova(チェコ系)」で、ほぼ同じである。ここでは、恐らく違っている部分だけを取り上げて、「チェック大学」と称したものであろう。ちなみに、「c. k.」は、オーストリア=ハンガリー二重帝国の時代に使われた略称で、「(オーストリア)皇帝の、かつ(ハンガリー)国王の」を意味する。



 此の寄宿の落成は、極めて新しき事実にして、其の会舎の式を挙げたるは、昨年十一月二十日なりしという。チエツク人種は、常に汲々として其の屈辱の状態より脱出せんことに勉めつつあるが、此の設備の如き、また其の一現象と見る可きものなり。蓋しボヘミヤの口碑は相伝えて曰く、同国ブラニツク山に若干の騎士隠れ在りて、今は睡眠中なるも、外敵の手より祖国を救わんが為めに、其の山より出ずるの日ある可しと。此の寄宿の寄附者の一人たるフラヴカ氏は曰く、『此の寄宿をして、又一のブラニツク山たらしめよ。而して精神上の騎士、此の山より出でよ』と。


 ここに登場する「ブラニツク山」は、伝説の騎士たちが眠るというブラニーク山。この伝説については、 こちら を参照。こんなチェコスロバキア独立前の時期に、ブラニークの伝説が、日本に紹介されているとは思わなかった。読んだ人は、法学関係者だけで限られているだろうけれども。
 フラヴカ氏は、建築家、および文化活動への支援者として知られるヨゼフ・フラーフカ(Josef Hlávka)のこと。現在でもフラーフカ氏の名前のついた学生寮がプラハに残っていて、1939年のナチス・ドイツによる学生弾圧の一環として閉鎖されたという歴史を持つ。そのため現在でも11月17日には、この寮の前に、献花をしたり歌をささげたりする人たちが集ってくる。
 フラーフカ氏は、1908年に77歳で亡くなっているが、この寮が完成したのと同時期の1904年に自らの財産を投じて、チェコ人の学生を支援するための財団を設立している。財団は第二次世界大戦後、共産党政権によって解散させられたが、ビロード革命後、再び設立されて活動を続けているようである。



 尚ほチエツク人の事業にして、プラーグに於ける同種のものは、学生に廉価なる食料を与ふるを目的とするものあり、学生のために其学資を得しむる目的を以て職業を求むるものあり、学生のために衣服を給せんとするものあり、又医療を与へんとするものありといふ。


 最後の段落については特にコメントすることもないけれども、問題は、この雑誌の記事が、雑誌の関係者がプラハに出かけたときに拾ってきたネタなのか、外国、恐らくはオーストリアの雑誌からの引き写しなのか、である。後者の可能性が高そうだけど、当時、プラハ、プラハではなくてもウィーンの大学の法学部に留学していた人が、プラハで取材して書いたという可能性もなくはないような気もする。
2022年1月3日










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