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2017年12月29日

永観三年二月の実資〈中〉(十二月廿六日)




 十二日は、干支があるのみで記事は存在しない。明日の行事の準備で忙しかったのだろうか。

 十三日は、円融上皇の子の日の遊びである。この日のことは、『大鏡』などにも記されているため、よく知られている。会場の紫野まで公卿たちは騎馬で向かうのだが、左右大臣以下非参議の藤原道隆まで、多くの公卿の名前が挙がっている。上皇は途中から馬に乗り換えたようである。その公卿をはじめとする官人たちの行列を見るために出てきた人々の車が「雲の如し」というから、ものすごくたくさんあったのだろう。
 子の日の遊びの儀式としては「小松引き」というのがあるらしいが、今回は上皇の前に持参してきた小松を植えている。どこかで引き抜いてきたから「小松引き」なのか、一度植えたものを引き抜くからなのかはわからない。この松も、この後は題詠の題に出てくるだけで、どのように扱われたのかは記されない。当時の人たちにとっては当たり前だったから、書くまでもなかったということだろうか。

 この日は、和歌に堪能な者たちを呼んで和歌を作らせることになっていたようで、平兼盛などが召し出されている。ただし参上したうちの曽祢好忠と中原重節は、呼ばれていないのに出てきたということで、追い出されている。『大鏡』では実資が追い払う役になっていたような気がする。しかし、源時通の話では、曽祢好忠は召された人の中に入っているという。
 上皇が平兼盛を召して、左大臣源雅信に和歌の題を出させたところ、「紫野に於て子の日の松を翫す」というのが返ってきた。この辺は事前の打ち合わせがあったのだろうなあ。平兼盛は今回の和歌に関して序文を書くことを命じられている。恐らく歌人たちが和歌を作っている間に、蹴鞠が行われ実資も参加している。
 夕方になって上皇が、和歌と序文は院に戻ってから献上しろというので、公卿以下の官人も堀河院に向かう。実資はそこで歌を読み上げる役を務めている。右大臣以下が和歌を献上した中で左大臣だけが献上しなかった。「如何々々」と書かれているが、これこそ如何々々で、実資も歌があまり上手ではなく、詠まずに済ませてしまうことがあるのだから、ここは非難しちゃいけないだろう。それとも、後世日記を読むであろう子孫への教訓ということか。

 紫野での子の日の遊びが行われていたときに内裏の花山天皇からの使いがやってきている。実資はその使者に褒美を与える役を務めているが、使者のお礼のための拝礼が失礼ばかりだと怒っている。それから、行事に参加した四位、五位、六位の官人たちの服装が華麗なものだったことにも、批判を向けている。自分は華美にならないように白と薄色の衣服を身につけていたのだという。公卿たちの多くは布衣だったから、これから公卿になれそうな連中が派手な格好をしているということかな。

 十四日は実資の実父である藤原斉敏の忌日で、仏事を修めている。夕方室町の邸宅に出かけているが、「小児は乳母の宅に在り」とあるのは、実資の子であろうか。
 内裏から召があったようだが、父の忌日を理由に断っている。伝聞によると、この日花山天皇は射場殿で、自ら弓矢を射たようである。

 十五日は、頼忠のところに出向いた後、内裏に向かう。花山天皇の御前で石清水の臨時祭についてのことを定めている。冷泉天皇の時代に使っていた和歌を、円融天皇の時代になって改めたけれども、今回改めるのかどうか天皇の考えを聞いたところ、改めずにそのまま円融天皇の時代の歌を使うということになっている。祭りに和歌が必要だったのかな。
 よくわからないけれども祭使の手間を省くための提案が、祭使や祭で舞を舞う舞人たちが退出した後だったので、何の意味もないと評されている。誰の提案だったのだろうか。
 諸国の負担を軽減するために豊楽院の改修工事を停止すること、大嘗会が行われる八省院の工事も急がずに進めることを公卿たちが決め、天皇の許可も得ている。この時代火事が多かったのか、内裏、大内裏の建物の再建が必要なことが多いのである。それに貢献すれば位階を上げることができるから、資産家にとっては悪くないことだったのかもしれないけど。

 十六日は、内裏を退出して、昼頃上皇の許に向かう。夕方頼忠に呼び出されているが、頼忠から天皇に奏上したいことがあって、明日奏上するように求められている。関白ともなると、直接天皇のもとに出て奏上する機会は多くないというべきか、花山天皇と頼忠の関係があまりよろしくないというべきか。実資は夜になって中宮の許に出向いて、中宮に使える女房と会っている。
 二月一日に、皇太后である昌子内親王から岩倉大雲寺内の観音院の建立の仏事に侍従を派遣することを願う奏上がなされたという。この情報を、中宮の女房から聞いたということなのか、単に並べられているだけなのかは不明。

 十七日は、祈年穀の奉幣である。伊勢神宮を筆頭に畿内の有力な神社に発遣するものだが、神社の数は時期によって変動がある。このときは十六社だったという。発遣の儀式は内裏ではなく八省院で行われ天皇も出御している。使いに選ばれていながら、不都合を称して出仕しなかった参議が三人いたが、権中納言源保光と、非参議の三位藤原義懐と道隆が内裏を務めている。
 準備を担当する女官の中に月の障を訴えたものがいて、こちらも代理が務め、行幸に同行するはずの内侍のなかに欠席者もいて、こちらも代理ということで、実資は欠席者と代理が多いことに苦言を呈している。
 小安殿に移ってからの儀式はいつも通りで、内裏式に書かれているのとは違う式次第があったが、それも村上天皇の時代に改変されたものだから問題ないということを天皇に奏上している。準拠できる前例があれば儀式書の記述と多少違っていても問題ないのである。

 十八日は、毎月恒例の清水寺参詣である。戻って夕方頼忠のところに出向く。頼忠は、実資を伴って皇太后の昌子内親王のもとに出向き、明日の観音院の建立の仏事に出るように言われたけれども、差しさわりがあって出席できないことのお詫びを申し上げている。深夜になって退出しているが、酉だから夜の八時前後から一晩中雨が降っていたらしい。頼忠が、直接、しかも布衣で出向いてお詫びをするということは、昌子内親王は小野宮家の人々にとって重要な人物だったのかもしれない。そう言えば、『公卿補任』の実資関係の記事に「皇太后宮」が理由になって位階が上がったという記述があったような気がする。昌子内親王のことだったのか。
2017年12月26日23時30分。










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