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2020年01月20日

実資のいない永延二年四月(正月十七日)



史料編纂所のサイト で『大日本史料』が無料で読めるようになっているのである。ここは簡単にどんな記録が残っているのか紹介するしかない。『小右記』の記事は残っていなくても、『小記目録』に立項されている事項もあるかもしれないし。そうなると「実資のいない」というのは、看板に偽りありになるけど、他に語呂のいい題名も思いつかないので、そのままにする。以下特に出典の記載がない場合には『日本紀略』である。

 四月一日は、天皇が南殿に出御して孟夏の旬と呼ばれる儀式が行なわれるのだが、この年は天皇の出御がなく平座と呼ばれた形式で行われている。本来この旬の儀式は、毎月の上旬、中旬、下旬の最初の日、つまり一日、十一日、廿一日に行なわれていたが、摂関期に入ると四月朔日の孟夏の旬と、十月朔日の孟冬の旬の二回しか行われなくなる。しかも天皇が出御することも減り、大抵は平座で行なわれている。



 七日は、六位以下の官人の位階昇進手続きの一つである擬階奏が行なわれている。この儀式では昇進が決まった官人の名簿が奏上されたのである。その後、十五日には昇進者達に位記という書類が授けられて手続きが完了するのだが、この年のものは記録に残っていないようである。

 八日は、お釈迦様の誕生日で、本来であれば宮中でも潅仏会が行なわれるのだが、天皇の物忌のために中止。

 十日は、四月最初の申の日で、平野祭が行われている。平野神社は平安遷都に際して桓武天皇が生母に関係する神社を大和国から遷し祀ったものといわれる。例祭は四月だけでなく、十一月にも最初の申の日に行なわれていた。

 十一日は、酉の日で梅宮祭である。梅宮社はもともとは橘氏の氏神であったので、祭使には橘氏の五位のものが選ばれるのが慣例だった。例祭は四月と十一月の最初の酉の日に行われていた。

 十四日は四月の二番目の子の日で、吉田神社の例祭が行われた。吉田神社はもともと藤原北家の一流である山蔭が創建した神社。『国史大辞典』には「四月中申日と十一月中酉日」に吉田祭が行われたとの記述があるが、この永延二年と同様、「四月の中の子の日」に行われたとするのは『日本国語大辞典』である。
 またこの日は祭に際して発遣される祭使の奢侈を禁ずる太政官符が出されている。四月は祭の多い月で、祭使に選ばれた貴族たちが身なりの贅を競ったなんてことがあったのだろうか。太政官符の出典は、11世紀初頭に成立した法制書である『政事要略』。

 廿日には、賀茂祭直前の午の日ということで、賀茂斎院選子内親王が禊を行っている。『百練抄』によれば、その様子を摂政藤原兼家、左大臣源雅信などの公卿が賀茂川まで出かけて見物したようである。選子内親王は村上天皇の皇女で兄円融天皇の代に11歳で、賀茂斎院となって以来60年近くその役に奉仕し続けた。歌人としても知られる。

 廿一日は、賀茂祭に当たって天皇の身辺の警備を固める警固が行われている。普通は祭の前日に行なわれたようである。

 祭の前日の廿二日には、摂政藤原兼家が賀茂社に参詣。廿一日に普段より一日早く警固がなされたのはこれによるか。

 賀茂祭が行われたのは四月の二番目の酉の日である廿三日である。翌廿四日には、賀茂祭の前廿一日に行なわれた警固を解く解陣が行われる。

 廿六日には、摂政兼家の六十歳を賀するために年齢にあわせて六十箇所の神社に対して奉幣の使者が発遣されている。

 廿八日は、大神宮と呼ばれた伊勢神宮の宮司の補任。補任されたのは神事をつかさどる家柄の大中臣氏の宣茂。大中臣氏は、藤原不比等の子孫が藤原氏に改姓した後、中臣氏に与えられた氏名だが、このころ藤原氏との間に親類意識はあったのだろうか。この事項の出典は『類聚符宣抄』。これは十一世紀末から十二世紀初めにかけて成立したとされる法令集である。

 さて、この永延二年は五月が二度あった年で、閏五月には『小右記』の記事が残っているが、本来の五月の分は残っていない。『大日本史料』に立てられた項目も少ないので四月にまとめてしまう。

 十日には、『百錬抄』によれば大和国の橘山が変動を起している。山のふもとの部分が動いたが草木は動かず、山頂に倉があってその中に仏像が置かれていて、それがまた「不動」というのだけど、仏像が不動尊の仏像だったと思いたくもなる。文脈から言うとここも動かなかったと取るべきか。ただ山の麓が動いたってのがよくわからない。

 廿日は、国家鎮護を祈願するために『仁王経』を講ずる仁王会の前の大祓が行われた。仁王会が実際に行われたのは、廿四日である。このときの仁王会は臨時仁王会とされるが、これは毎年春と秋の二季に行われた恒例のものである。天皇一代一度行なわれる本来仁王会に対比して臨時と称されたようである。本来は臨時に行なわれたものが恒例化したとも考えられ、石清水臨時祭などと同様の例となる。

 廿七日は『小記目録』に「東宮御悩」のことが立てられ、後の三条天皇である皇太子が薬を服したことが書かれている。どのような病気だったのかは残念ながらわからない。即位後の三条天皇は病気で政務をとれないことが多いのを問題にされていたが、その意味でも気になるところである。
2020年1月17日23時、



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