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2019年04月10日
森雅裕『自由なれど孤独に』(四月八日)
久しぶりの森雅裕で、久しぶりに昨日の分の記事を今日の夜になって書き始めている。自転車操業の復活である。テーマだけは午前中に決めていたけれども、書き始める時間が残されていなかった。ということで、手早く書き上げよう。目標は一時間で書き上げることである。余計なことをしなければ、30分ぐらいで書きあがるのだろうけど、PCで書いていてネットにつながっていると、あれこれやっているうちに時間が消えてしまうのである。
さて、本題のこの『自由なれど孤独に』には、森雅裕が講談社から出版した最後の小説である。刊行の日付は1996年4月3日。乱歩賞を取って講談社から最初の単行本『モーツァルトは子守唄を歌わない』が刊行されたのが、1985年のことだったから、11年で講談社との縁が切れたということになる。その間の刊行書籍は9作、文庫版を数えなかったら平均で年一冊にならないことになる。それでもファンとしては、関係が拗れていたのに、ここまでよく付き合ってくれたと感謝するしかない。
本書が講談社から刊行された事情については、本書と前後して刊行された『推理小説常習犯』の「ミステリー作家風俗事典」の「あてつけ」のところに記されている。「ワーグナーを書いた原稿なら採用してやる」とのたまう編集者もあれだけど、注文されたワーグナーを悪役にして、これでもかというぐらいいやな人物として描き出してしまう森雅裕も森雅裕である。結果として悪役ワーグナーの方が、主人公のブラームスよりも存在感を発揮している部分があるから、編集者としては満足だったのかね。
とまれ、単行本の帯には、文庫版は出ていないからわざわざ断るまでもないのだけど、「音楽ミステリー」という言葉があり、ブラームス、ワーグナー、ロスチャイルド何かの名前が並んでいる。これを見た時点で、森雅裕ファンは、森雅裕が出世作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』の路線に戻って書いた作品ではないかと期待したはずである。過去の出来事の謎を解明するために、作曲家が探偵役としてあれこれ動き回るという筋立ては、『モーツァルトは子守唄を歌わない』の路線に近いが、主人公のタイプは傍若無人な印象も残したベートーベンよりも、『椿姫を見ませんか』の森泉音彦に近い気がする。ヒロインの強き女性に引きずり回されるところも似ている。
不満はその貴族の娘で軍人でもあるヒロインと主人公のブラームスの関係。もう一人、直接登場はしないけれども、ブラームスに思い人がいるというのは、史実どおりではあるのだろう。ただ、、昔の森雅裕だったら、また別の処理の仕方をしたのではないかと思ってしまった。作家にとっては年季の入ったファンというのは厄介なものでもあるのだろう。過去の作品と比較して、あのころのあの作品の方がよかったとかいう感想を漏らしてしまうのだから。
本書の前の作品の『鉄の花を挿すもの』もそうだけど、読んでいて作者の迷いというか、優柔不断さというかが感じられたのは確かである。いや正確には優柔不断なのは主人公のなのだが、その主人公の優柔不断さに作者の迷いが現れているように思われたのだ。視点人物がほとんど主人公のブラームスで固定されているのに、三人称で書いているのもなんだか落ち着かなかった。「ヨハネスは」というのが、ブラームスとなかなか結びつかなくて、違和感が消えなかった。ブラームスの主観の形でワーグナーの悪口を書いているわけだから、一人称の方が感情移入もしやすくて面白く読めたんじゃないかなあ。もしくは、いっそのことワーグナーの一人称で傍若無人に暴れさせるって手もあるか。
ともかく森雅裕の後期の作品には、初期の書きたいことを書きたいように書いているという爽快感が消えて、編集者や読者の顔色を伺っているような気配が感じられるものが多い。それが古手のファンにしてみればもどかしいというか残念というか。作家として成長するための試行錯誤をそのように誤解したという可能性もないとは言わないけどさ。
最後にもう一言しておけば、この作品で描かれたワーグナーだけではなく、実は森雅裕も作品の質の高さと作者の人間性が必ず一致するわけではないという実例になってしまっているのが皮肉である。ファンだからと言って森雅裕の主張をすべて信じ込むほど狂信者ではないのだ。書かれていない事実もかなりありそうだしね。本人と会いたいとは思わないけど、作品はまた読みたいなあ。うまく落とせなくてずるずる引きずったら、目標の時間を越えてしまった。
2019年4月9日23時50分。
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タグ: 推理小説
2019年04月09日
即位せざる救いの王(四月七日)
チェコに来て最初に飲んでその美味しさに目からうろこが落ちたのは、ピルスナー・ウルクエルだった。これは確かなのだが、二番目に飲んだものがはっきりしない。チェコで最初に滞在したのはプラハだから、プラハのビールだと思うのだけど、ということで有力候補になっているのが、ブラニークなのである。すでに倒産して同じプラハのスタロプラメンにブランドの使用権が移っていて、現在のブラニークはスタロプラメンなのだけど、当時はまだ独立のビール会社だったはずである。
そのブラニークが頭に残っていたので、ブラニークの騎士たちの伝説を聞いたときに、ビールのブラニークは、この伝説に基づいて名付けられたのだと思い込んでしまったのは無理からぬことだったのだ。ラベルの上のほうに片手に槍みたいなものを持った騎士に見えなくない人物があしらわれていたしさ。
しかし現実は、ブラニークはプラハのブラニーク地区で生まれたビールで、ブラニークの騎士たちの眠っているといわれるブラニーク山はプラハから南方の中央ボヘミア地方に位置している。そして、何とまあ、つづりが違うのである。ビールは「Braník」、騎士たちは「Blaník」。日本人に対する嫌がらせとしか思えない表記の違いである。発音の違いとは、聞き分けられないし、できれば言いたくない。それにしても外務省が外国の国名のカタカナ表記で「ヴァヴィヴヴェヴォ」をやめると発表したときに、批判していた人たちは「V」と「B」の音を発音し分けて、聞き分けられるのかねえ。
とまれ、プラハ南方のブラニークの山に眠る騎士たちは、チェコが自力ではどうにもできないような危機に陥ったときに、目覚めて守護聖人聖バーツラフの指揮の下、チェコを脅かす外国の軍隊と戦って危機を払うといわれている。その騎士の救援が現在まで実現していないのはおくとしても、モラビアに拠点を置く人間としては、こボヘミアは守られるかもしれないけど、モラビアは守ってくれるのかねという疑念を抱いてしまう。
その、モラビアを救いに現れると伝説に語られる存在が、本日の本題の、前置きの方が長くなりそうだけれども、モラビアの王イェチミーネクである。チェコ語ができる人なら、もしくはビール好きの人ならわかると思うが、この名前は「je?men」、つまり大麦の指小形から作られた名前である。それはイェチミーネクが大麦の畑の中で生まれたことにちなんでつけられた名前だった。
昔々、モラビアの王がハナー地方のフロピニェに居を構えていたころのこと、そんな時代が本当にあったのかどうかは知らないけれども、何かの事情で王の寵愛を失った身重の王妃(側室かもしれない)が、王宮から逃げ出し、追っ手の兵士たちを撒くために麦畑の中に隠れてやり過ごした。そして隠れている最中に生まれたのが、イェチミーネクだった。
イェチミーネクは母親とともに通りがかった農婦に救われ、村にかくまわれるのだが、やがて王に発見され、村から追放されて人里は慣れた山奥に追いやられてしまう。それから何年もの時が経ち、年老いた王の胸に、王妃とその息子を追放した悔いが沸きあがり、二人を探し始める。村から追放して住まわせていた場所には影も形もなく、モラビア中の村、森、鍾乳洞などを探し回っても、見つけることができなかった。
あきらめ切れない王はそれでも探し続けるのをやめず、一人の世捨て人に出会う。イェチミーネクとその母親を見かけなかったかと王が聞くと、世捨て人は王の非情さを避難した上で予言の言葉を並べた。王は二度とイェチミーネクと会うことはないだろう。現在姿を隠しているイェチミーネクは、モラビアが未曾有の危機にさらされたときに、再び姿を表して、真のモラビアの王としてモラビアの民を導くであろう。とかなんとか。記憶違いもあるかもしれないけど大体こんなお話。
以前見たチェコの地方を巡る紀行番組で、ハナー地方が取り上げられたときに、スカンゼンで民族衣装を着て仕事をしていたおじいさんが、ナチスに占領されたときも、共産党に支配されたときもイェチミーネクは現れなかった。我々が自力で何とかできたはずだということなのかなあなどと述懐していたのを思い出す。
プシェロフからブルノに向かう路線で二つ目の駅があるのがフロピーニェの町である。町の外れに池があって、その池の畔に小さなルネサンス様式の城館が建っている。その城館には、今でも正当なモラビア王の帰還を待ち続けて、イェチミーネクの部屋が準備されているらしい。昔このお城を訪ねたときには、チェコ語なんてかけらもできなかったので、そんな話は聞くことができなかった。残念。
個人的には、フロピーニェよりも、プロスチェヨフのほうがイェチミーネクとの結びつきが強いような印象を持ってしまう。それは恐らくプロスチェヨフ最初のミニビール醸造所がイェチミーネクの名前にちなんで名付けられているからに違いない。ということでプロスチェヨフに行ったら、即位せざるモラビア王のところでビールを飲むことにしよう。
2019年4月8日23時。
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2019年04月08日
チェコとブラジル(四月六日)
先日、サッカーで代表がブラジルと試合をして予想通り負けた。チェコ代表、いやチェコスロバキア代表とブラジル代表の対戦というと、どうしても1962年のチリで行われたワールドカップの決勝が思い出されるようなのだが、先制したのに逆転負けという展開も、スコアが1−3だったというのも、マスプストという名前の選手が出場していたのも同じだった。
チェコとブラジルの関係でぱっと思いつくのは、これくらいで、そんなに大きな結びつきはないものだと考えていた。以前、チェコ語の教科書で、ヨーロッパの外でチェコ系の人がたくさん住んでいるのは、先ずアメリカとカナダで、それに続くのが南アメリカのアルゼンチンだという話を読んだことがある。チェコスロバキアがナチスドイツによって解体されたあとも、ドイツ系とチェコ系の人たちが仲良く協力し合って生活を営んでいたというのも聞いたような気がするのだが、こちらは記憶違いかもしれない。
とまれ、ということで、トマーシュ・バテャがズリーンに設立して世界的な大企業になったバテャが、世界各地に工場を建設し、同時にズリーンと同じように従業員のための町も建設して生活環境を整えていたという話を聞いたときも、南アメリカではアルゼンチンに工場を建設したものだと思っていたのだけど、チェコテレビで国外で活躍したチェコ人、チェコ系建築家の足跡をめぐる番組「シュムネー・ストピ」を見ていたら違うことがわかった。
バテャが工場と工場城下町を建設したのは、チェコだとズリーンとその周辺のオトロコビツェやナパイェドラなんかが有名なのだが、1920年代からすでに関税対策として外国での工場設立に乗り出しており、一番最初に進出した国はスイスだったかな。そして、第二次世界大戦勃発前後からはアメリカ大陸にも乗り出し、カナダにバトバという町が建設される。チェコスロバキアを離れたバテャ社の中心がカナダとスイスにあるのには理由があるのである。それはともかく、カナダ進出と同じころにブラジルへの進出も始まり、いくつかの工場が建設され、バタで始まる地名を現在まで残すことになる。
では、何故ブラジルだったのかというと、直接関係はないかもしれないけれども、ブラジルで最も重要な大統領の一人がチェコ系らしいのである。その名はジュゼリーノ・クビッチェク・デ・オリベイラ。何もないところに新しい首都ブラジリアを建設することを決めた大統領である。このブラジルの野心的な試みについては中学校の社会の時間に勉強した記憶があるのだけど、遷都を決めた大統領の名前までは載っていなかったかなあ。
この大統領の名字の一つクビッチェクは「Kubitschek」は、ドイツ語風の表記になっているけれども、チェコ語の「Kubí?ek」がもとになっていることは明らかで、これは母親の名字だったらしい。つまり、クビーチェク大統領は母系でチェコ系ブラジル人だったということになるのである。チェコ語のウィキペディアには、母親は南ボヘミアのロマ人の家系のでだと書かれている。
番組では先祖のいたところとして南ボヘミアのインドジーフーフ・フラデツが登場して、ブラジリアの情景と重ね合わされていた。どちらも水辺の町である点で共通しているようだ。また、大統領の娘にあたる人が登場して、父親がいかに自分の出自、チェコスロバキアとの関係を重視していたかということを語っていた。チェコのテレビ局に対するサービスかもしれないが、自分の名字をクビチェクではなく、クビーチコバーだなんてことも言っていたし。
ブラジルのブラジリアとチェコ、南ボヘミアにこんな関係があったとは、全く知らなかった。ブラジリアという新たに計各都市を建設するというのも、バテャの何もないところに工場と一緒に町を建設してしまう手法に習ったものと考えられなくもないし、ブラジリアの建設に当たった人物が、ズリーンの建設にかかわった人たちと同様、フランスの建築家ル・コルビュジエに師事したというのも共通している。
2019年4月7日23時30分。
2019年04月07日
バロシュ版、神の見えざる手(四月五日)
1980年代、マラドーナといえば、サッカー界の英雄で、世界最高のサッカー選手だった。その後、サッカーでも、サッカー以外でもあれこれ問題を起こして落ちた英雄になってしまったけれども、我々の世代にとっては、かなりのノスタルジーが含まれているのは承知のうえで、いまだにマラドーナを越える選手は出現していないと断言したくなる。マラドーナの前の英雄ペレは、凄かったんだろうけど、物心つく前の選手だからなあ。
マラドーナで一番印象に残っているのは、メキシコワールドカップで見せたヘディングのふりをして手でボールをゴールに放り込むというプレーと、それを神の手と言い切ってしまったことだ。これが後のお騒がせの発端だったのかもしれない。当時はサッカーを熱心に追いかけていたというわけではないから、それ以前からあれこれやらかしていた可能性も高いけど。
チェコのサッカー界で、お騒がせものというと、マラドーナほど世界的な選手ではないけど、トマーシュ・ジェプカと、ミラン・バロシュの名前が思い浮かぶ。いや、単なるお騒がせものなら、シマークとかフェニンとか、いくらでもいるのだ。でも、マラドーナと並べるならある程度実績を残した選手でなければということでのこの二人である。
ジェプカは、スパルタからイタリア、イングランドのチームで活躍してスパルタに戻ってきて引退した選手なのだけど、引退前も引退後も、あれこれ問題を起こしてゴシップ紙に話題を提供し続けている。最近も別れた奥さんだか恋人だかに対して、ネット上で中傷するコメントをしたとかで警察沙汰になったとか、現役時代に稼いだお金が一線も残っていないから養育費なんて払えないといっているとかいうニュースをちらっと読んだ記憶がある。
バロシュは、いまだに現役を続けていてオストラバの中心選手として活躍している。バロシュを世界的に有名にしたのは、2004年のチェコが準決勝にまで進出したヨーロッパ選手権で得点王に輝いたことと、その何年かあとに当時プレーしていたフランスで、高速道路を300キロ近いスピードで走っていて警察に捕まったことである。当時は不振にあえいでいた時期で久しぶりにバロシュのニュースだと思ったら警察のお世話になったというもので、チェコサッカーのファンはがっかりしたものである。
さて、そのバロシュがまた一歩マラドーナに近づいた。先日行なわれたMOLカップと呼ばれるチェコサッカー協会のカップ戦の準々決勝で疑惑のゴールを決めたのだ。スローで映像を見てもマラドーナの神の手ほどは、はっきりとわからないのだけど、 このスポルトに載った写真 をみると結構怪しい。
このゴールに関してバロシュ本人のコメントは現時点では聞こえてきていない。対戦相手のリベレツの選手たちは、ハンドだと言って強く抗議したらしいが、審判は得点を認めた。試合後はリベレツ側はいまさらなにをっても仕方がないという態度だったし、オストラバ側は、監督が80メートル先のことで目で見てわかるかよ的なコメントを残したのを筆頭に、みんな自分は気づかなかったとか言っているようである。遠くはなれたところにいた監督はともかく、相手のハンドは確実に見るくせに、味方のハンドは見えないのがサッカー選手の目なのだろう。
これで、バニークはMOLカップの準決勝に進出し、オロモウツに勝ったボヘミアンズと対戦することになった。もう一つの準決勝はプラハダービーのスラビアとスパルタの対戦である。
この二チームに関しては、ちょっと面白い話があって、ヨーロッパカップの準々決勝でスラビアと対戦することになったイングランドのチェルシーが、準々決勝のチケットの販売を始めたのだが、対戦相手がスラビアではなく、スパルタになっていたらしい。
問題はこのニュースが四月一日のものだったことで、本当にチェルシーが誤認したのか、チェルシーが仕掛けたエイプリルフールだったのか、通信社が仕掛けたエイプリルフールだったのか判然としない。続報がないところを見るとエイプリルフールのねただったんじゃないかとも思えるんだけどね。これが冗談だったとしてもスラビアとチェルシーの準々決勝は問題含みなのである。
スラビアがホームでの試合のチケットの販売を開始すると、すぐに完売したしたのだが、その後、UEFAからチェルシーとの試合では、観客席の一部を使用禁止にするという命令が届いた。これは前の試合でスラビアファンがやらかしたことに対するペナルティとして科されたことらしいが、すでに全席売れているわけで、試用できない席の払い戻しをするにしても購入者が素直に応じてくれるかどうかわからない、スラビアはこの罰の延期を求めて提訴したが、却下されたという。チケット購入しながらスタジアムに入れなかった連中が暴動を起さなければいいのだけど。
日本ではいまだに信奉者の多い、スポーツが人間性を涵養するなんてのはでたらめもいいところだとサッカーをめぐる人々を見ていると思わずにはいられない。
2019年4月6日23時。
タグ: サッカー
2019年04月06日
clo〈私的チェコ語辞典〉(四月四日)
昨日に続いて「C」で始まる中性名詞である。読み方は当然「ツロ」なのだけど、「ツ」を子音だけで発音するのが難しくは、ない。日本人には聞き分けられないのだが、チェコ人によると日本人が母音つきの「ツ」だと思って発音している音は、子音の「C」だけに聞こえることが多いらしい。だから、日本人にとって発音が問題になるのは「clo」よりも「cukr」で、「ckr」と発音しているように聞こえるらしい。
ところで、この言葉、意味は関税である。本来関税というものは外国との取りひき、つまり貿易に際して課されるもので、仕事で輸出・輸入にかかわっているという場合を除けば、直接われわれの生活にはかかわってこないはずである。それは派生語の「celnice(税関)」「celní ú?ad(税関)」「celní ?ízení(通関)」なんかも同じはずなのだけど、チェコに住んでいて日本に知り合いがいて、その知り合いが荷物を送ってくれるような親切な人だった場合には、否が応でもかかわりを持たざるを得ないのである。
具体的な話に入る前に、言葉の話をしておくと、「clo」からできた形容詞が「celní」になるのは、例の出没母音の「e」という奴である。この関税という言葉が複数形で使えるのかどうかは確信が持てないのだが、想定しうる複数二格、つまり語尾の母音が落ちて必要ならば母音「e」が出現する格は、「cel」である。これに形容詞化するための接尾辞「ní」がついたのが「celní」だと考えればいい。「divadlo(劇場)」の形容詞が複数二格を経て「divadelní」になるのと同じである。もちろん、「clní」なんて言いにくいから「e」を入れたと解釈しても間違いじゃないんだけど、その辺はチェコ人基準で日本人にはわかりにくいしね。
閑話休題。
以前、日本から荷物を送ってもらうと、税関で止められて云々という記事を書いたことがあるが、「celnice」で止められて「celní ?ízení」の手続きを郵便局に代行してもらうので、受け取りの際に税金とは別に手数料を取られることになる。こんなのも一回だけならチェコ語の勉強になると思えば許せる。ここに挙げた関税関係の言葉も覚えたし、郵便局に代行してもらうためには「plná moc(委任状)」が必要だからこの言葉も覚えた。しかし毎回となるといい加減にしてほしい。
そもそも、チェコが日本からの荷物を税関で止めて、通関手続きをして関税を払わせるのなら、日本でもチェコからの荷物に対して同様の制度を導入するべきである。チェコ政府が、特にこの制度を導入したときの政府が姑息なのは、「celnice」で「celní ?ízení」が必要なのに、ここで課される税金を「clo」だと言わない点である。
では、何なのかと言うと、チェコ政府によれば、「DPH」という日本語にはしばしば付加価値税と訳される、付加価値のないものにも課される消費税のようなものである。日本でも売上税という名前で導入しようとして失敗し、目先を変えるために消費税と名前を変えて再挑戦という大蔵省と自民党の姑息極まりない策略の末に導入された間接税だが、チェコでも似たような敬意があったのかもしれない。
それはともかく、消費税であるのなら購入の際に税金を支払うわけだから、知り合いが日本で購入した際に税金分を支払った上で、チェコに送ってくれた本なんかに課税するのは二重課税というものであって、消費者の立場から言わせてもらえば許されることではない。チェコ人の知り合いによれば自分がチェコから日本に持っていって、荷物が多くなりすぎたからとチェコに送り返したものにさえ、課税されることがあると言うからあきれるしかない。
たしか、この法律が施行されて制度が適用されたときには、外国に拠点のあるネットショップで買い物をした場合、買い手がチェコ在住の場合ネットショップのある国の消費税も、チェコの消費税も払わなずにすむのは、チェコでお店を経営している人に対して不公平だから、チェコの消費税をかけることにしたとか何とか説明されていたはずだ。つまり、外国からチェコに配送されてくる商品にだけ課税することになっていたのである。それをEU圏外から送られてくる荷物すべてに対象を広げたのは、引っかかる商品が少なすぎて当初の目論見ほど税収が増えなかったからだろう。それに困るのはほとんど外国人だから支持率には関係ないという目論見もあったに違いない。
さらに許せないのは、アリバイ的に贈り物や個人のものであれば、無税にする手続きも存在させている点である。ただしその手続きにかかる手間と時間を考えたら税金と手数料を払ったほうがましと言う状態で、多くの人は最初から税金を払うことにしてしまうのである。この手続きに挑戦した知り合いが二人いるのだが、二人とも半年かかったと愚痴っていた。
手数料のことを考えると赤字にあえぐチェコ郵便の救済措置でもあるのかもしれない。焼け石に水だろうけどさ。いや、われわれ外国人が言われなき手数料を払うことでチェコの郵便局のサービスが向上するというのならあえて払ってもいいのだけど、最初から税金を払うことにしても、「celní ?ízení」には、EMSで送ってもらったことを後悔したくなるぐらいの時間がかかるから、やってられないのである。
あれ、何でこんな話になったんだろう。どこをどう読んでも辞書じゃない。
2019年4月5日17時30分。
2019年04月05日
centrum〈私的チェコ語辞典〉(四月三日)
この言葉、語尾が「-um」でおわる外来語の中性名詞で、格変化は多少特殊だけれども、意味は「中心・中央・センター」などで、特に難しくはない。だから、普通に考えればいちいち取り上げることもないような言葉なのだけど、二つの意味でバロメーター的に使えるのである。
一つは、日本語ができるチェコ人の日本語の使い方に対する意識を見るのに使える。チェコ語の一単語=日本語の一単語にならないことがよくわかっていて言葉の意味だけでなく使い方にまで気が使える人は、状況に応じて、「町の中心」、「スポーツセンター」などと使い分けることができる。それに対して使い方をあまり深く考えない人は、大抵の場合何でもかんでも「センター」にしてしまう。「ショッピングセンターに行きましょう」なら、何の問題もないのだけど、「町のセンター」やら、「オロモウツのセンター」やら言われると、何のセンターなんだと質問したくなる。
実はチェコ語には、もう一つこの手の「センター」という意味で使える言葉がある。それが「st?edisko」という言葉で、特にビロード革命前に、ちょっと大きな町には置かれていた(今もあるところもある)「kulturní st?edisko」は、カルチャーセンターと呼ぶにはあか抜けないけど、文化センターならぴったりの代物だった。ショッピングセンター、スポーツセンターだって、「st?edisko」が使われることも少なくない。
だから、チェコ語の「centrum」で表せるもののうち、「st?edisko」に置き換えられる場合だけ、日本語でセンターという言葉を使えばいいはずである。「st?edisko m?sta」なんて聞いたことないしさ。おそらく「st?edisko」にも中心と訳せる場合もないわけではなかろうが、それは例外と言っておけばいい。これも、外国語を使う際に言葉の使い方に鈍感な人間は、母語の使用に際しても同じように鈍感である、いや、母語に鈍感な人間は、外国語の言葉の使い方にも鈍感だという事例の一つである。外国語を学び、使用するということは、外国語だけの問題ではなく母語の問題でもあるのである。それなのに、と話を続けると本題からそれて戻ってこられなくなるのでやめておく。
二つ目は、チェコ語を学ぶ日本人の発音がどのくらい身についているかのバロメーターである。中学校から、いや最近ではトチ狂った文部省のせいで小学校から英語を勉強するようになった日本人には、最初のうちは「centrum」をチェコ語風に「ツェントルム」と発音するのは抵抗があるようで、「セントラム」と読んでしまうことが多い。
やがて、チェコ語の勉強が進んで、「C」の音が「ツァ・ツィ・ツ・ツェ・ツォ」であることがしっかり頭に入ると、何のためらいもなく「ツェントルム」と読めるようになる。チェコ語の子音で英語と完全に発音が違うのはこれぐらいなので、これができるということは、チェコ語の発音の基本的な部分は問題ないと考えてもいい。人によっては「セントラム」と「ツェントルム」の間に、「ツェントラム」と読んでしまう時期が挟まるかもしれないけど。
同じように英語とつづりはほとんど同じだけど発音が違う「muzeum」「genius」なんかも、「ミュージアム」「ジニアス」なんかではなく、「ムゼウム」「ゲニウス」と発音できるようになっているはずだ。その結果、英語を使うときに発音の問題が発生するかもしれないけど、その場合には英語は発音の地域差の大きな言葉だから、いやあチェコなまりの英語なんですよなんて笑っておけばいい。
それから日本人なら、「centrum」の派生語である「epicentrum」も覚えておいて損はない。これは地震の震源か震央を表す言葉で、チェコのニュースを聞く限りではどちらかわからないのだけど、地震のセンターとか地震センターとか言われたらさすものが変わってきてしまう。地震以外にも伝染病の発生した場所や、爆弾の爆発した場所、特に原子力爆弾なら爆心を指すのにも使える。外来語の「epicentrum」を使わなくても、「ohnisko」といえばいいから、覚えなければならないという言葉ではないけど、使えるとチェコ語ができるように聞こえる言葉の一つである。そう、ハッタリ用の語彙の一つなのである。
日本人のチェコ語学習者の間で「epicentrum」の利用が流行した場合には、この記事が「epicentrum」だということになる。流行するほど使える言葉じゃあないか。
2019年4月4日23時。
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2019年04月04日
過去と決別した男(四月二日)
チェコが産んだ世界に誇る作家というと、先ず最初に名前が挙がるのは、カレル・チャペクで間違いない。交友のあった外国の作家たちが、チャペクにノーベル文学賞をという運動をしている最中に病気で亡くなって結局受賞は叶わなかったという話を聞いた記憶がある。あれは、ナチスドイツの保護領にされてしまったチェコ民族を勇気付けるという目的もあったんだったか。
では、チャペクに続く世界的な作家となると誰だろう。チェコの中での評価なら『シュベイク』のハシェクや、映画化された作品の多フラバルなんだろうけど、世界的な知名度という点では物足りない。となるとやはりミラン・クンデラの名前を挙げることになる。クンデラも世界的に高く評価されている作家だが、ノーベル文学賞とは縁がない。フランスの評論家の間では、ノーベル文学賞の選考委員の中にフェミニストがいるからクンデラが受賞することはないだろうとか、クンデラは賞を欲していないから受賞しても辞退する可能性が高いなんてことが言われているらしい。
さて、そのクンデラなのだが、チェコを離れフランスのパリに住んで長い。作品も母語であるチェコ語ではなくフランス語で執筆発表されるようになって久しい。文学作品としての評価が高いのもチェコ語で書いたものよりも、フランス語で書いたもののはずである。だから、クンデラはどこまでチェコの作家と言っていいのか悩ましいところである。これが、恐らくチェコの人々がクンデラとその作品に対して曰く言い難い微妙な感情を抱いている理由のひとつである。
もう一つの理由は、クンデラの共産党員としての過去である。スターリン主義者だったなんて話も聞こえてくるからゴットワルトとの関係もあったのかもしれない。それだけでなくクンデラに秘密警察に売られて10年以上強制労働を科された人がいるのだという。戦前戦中の共産党なんて、インテリもたくさんいたのだから、そこに作家のクンデラが入っていたとしても何の不思議もないし、積極的に秘密警察に協力したのも、熱心な共産党員でスターリン主義者だったとすれば、当然の行動だったとも言える。
一部のチェコの人々が問題にしているのは、このクンデラの過去そのものについてではなく、過去について沈黙していることのようだ。自分が秘密警察に売った人物がどんな目にあったか知らないというわけではなく、以前どこかにそのことについて記したことがあるらしいのだが、それ以上のことは何もしていないのだという。かつての左翼が好きだった言葉でいえば、自らの過去を総括して反省することのないままに作家活動を続けているのはどうなんだろうと考える人が一定数いるらしい。
クンデラ自身はその批判は完全に無視しているらしく、それもまた気に入らない人がいるようだ。いや、批判どころではなく、チェコそのものを無視しているようにも見える。それは一度は亡命した俳優や作家などの文化人の中には、ビロード革命後チェコに帰国した人が多いのに、クンデラはフランスのパリに住み続け、フランス語で執筆を続けていることからもある程度予想できる。それどころかチェコを訪れることすら滅多にないという。
と、ここまで書いてなぜに突然、これまで一度も触れたことのない(と思う)クンデラについて書いているのかというと、90歳の誕生日を迎えたか何かで、チェコテレビのニュース番組で特集が組まれていたからである。日本だとこの手のお祝いにかこつけた特集は、何でもかんでもほめあげ、都合の悪いことには蓋をしてしまう意味のないものに終わることが多いが、チェコテレビは批判すべきは批判し、問うべき疑問は問いかけるのである。その番組への本人の出演はもちろん、インタビューさえなかった事実が、クンデラのチェコテレビ、ひいてはチェコへの態度をものがっている。
この番組を見るともなく見ながら、頭の中に浮かんでいたのは、作家に人間的な正しさを求めるのは正しいことなのかという疑問である。作家の作品と人間性というものは別々に評価されるべきだし、得てして作家というものは人間的におかしい部分があるからこそ傑作を物すものでもある。個人的には、クンデラの、過去の出来事をすべて、自分がかつてチェコ人であったことすらも切り捨ててしまっているような態度には尊敬の念を抱く。こういう態度がクンデラの作品に反映して、傑作にしているのではないかなんてことを、過去を捨てきれない、日本を捨てきれなかった人間としては考えてしまう。
これまで、フランスの作家になってしまったからという理由で敬遠してきたクンデラの作品だけど、今回のチェコテレビの特集を見て読んでみようかという気になった。いっそのことチェコ語で読んでみようかなんて、無謀なことを思いついてしまった。ここに書いたことが大いなる誤解という可能性もあるのだけどね。
2019年4月3日23時35分。
2019年04月03日
新しい年号の決まった日に(四月一日)
五月一日という何とも中途半端な日に行われる改元に先立って、新元号が発表された。日本時間の午前中の早い時間、8時とか9時に発表されるのなら、頑張って起きていて発表の瞬間に立ち会おうかとも思ったのだが、11時半の発表だというので、寝てしまうことにした。現在夏時間が始まったばかりで日本との時差は7時間だから、午前4時半まで起きていたいとは思えなかった。冬時間でも3時半だからあきらめていただろう。午後からの発表でもいいじゃないかとか、朝廷なんだから朝発表しろよとかいちゃもんを付けたくなってしまう。
さて、すでにあれこれ批判も出ている新元号の「令和」だけれども、第一印象は、耳で聞いても目で見てもなんだか落ち着かないというものだった。耳で聞いての印象は、R音で始まる言葉は、すべて漢語も含む外来語であるという日本語の特性によるものであろう。過去の年号を見てもRの音で始まるものは、数えるほどしかなく、よく知られているのは奈良時代の元正天皇の時代の霊亀ぐらいのものである。
もう一つ気になるとすれば、平成の前の昭和と音の響きが似ている点だろうか。しかし、考えてみれば平安時代なんか近接する年号で漢字も共通、読みも似ていて混同しやすいなんてのがいくつもあったわけだからあえて気にする必要もないか。あの時代は天とか長とか同じ漢字が頻出していて、最近の記憶力の衰えた頭には覚えづらくて仕方がないのである。
目で見ての落ち着かなさのほうは、どう考えても「令」という字の字体に原因がある。偏を付けて「冷」「玲」なんかにすると前に支えができて安定するのだが、「令」だけだと、特に手書きでPC上と同じように書いた場合に、前に倒れそうな危うさを感じてしまう。どちらかというと、手書きで使う人の多い、下の部分をカタカナの「マ」に似た形にした字形のほうが安定しているから、自分ではそう書くつもりなのだけど。
今回の新年号「令和」に、第一印象からいちゃもんを付けてみたが、付けられそうなのはこれぐらいで、どれもこれも本質的なものではない。漢字の意味や出典が『万葉集』とされていることなどには何の不満もない。最高の年号ではないかもしれないが、「平成」には、慣れてしまうまでの間、不満が付きまとっていたことを考えると、上々の決定ではないかと思った。それなのに批判する人が意外と多いのは、現在の日本の古典教育の貧しさを反映しているのだろう。「令」という字から命令しか連想できないと批判するのは、古文漢文の素養のなさを自ら明かして恥をさらしているに等しい。
ところで、S先生のブログでは、「令和」=クール・ジャパンと見事に読み解かれていたが、古典文学、平安時代の古記録を読むのが趣味で、できる外国語はチェコ語と漢文だけだと自慢する人間としても、S先生に倣って「令和」を「自分なりに」読み解いてみたくなる。ということで、ひねくれ者の古典愛好者が読むとこうなるというのをやってみよう。
我々平安至上主義者にとって、「令」といえば、命令なんぞではなく、「律令」である。律令が人々が守るべききまり、現代の法律のようなものであることを考えると、この文字に「きまりをまもる」「秩序ある」社会という意味を読み取ることもできる。きまりを守ること、守らせることを批判する人は、アナーキストを除けばそうはいるまい。この文字を選んだことで政府を批判するなら、命令云々という難癖をつけるのではなく、きまりを守らない政府に「令」の字を選ぶ資格はあるのかという形、もしくは「令」に則ってルールを守れという形で批判するべきなのである。
また、古典文学の徒にとっては、出典である『万葉集』に出てくる「令月」という言葉よりも、逆にした「月令」のほうが親しく感じられる。これは現存最古の年中行事書とも言われる『本朝月令』の題名からもわかる通り、月ごとに行われる儀式についてまとめたものを指す言葉である。平安時代の貴族にとっては毎年の年中行事を滞りなく行っていくことが、重要な政治の一部となっていたが、それは年中行事が催行できるということは、社会が安定していなければならないからである。社会を安定させるために年中行事をできるだけ例年通り挙行していたと考えてもいいか。
つまり、この「令」には、伝統的な年中行事を大事にしようという意味を込めることもできるし、年中行事がつつがなく行えるような安定した、事件、災害のない時代を希求する気持ちを込めることも可能なのである。殊に「平」という文字を使いながら、まったく平らかではなく、大きな事件、自然災害の多かった平成という時代を考えるとなおさらである。
ここで一つ疑問なのだが、そもそも、現代の日本語に於いて、命令の「令」の字を単独で命令の意味で使うことがあるのだろうか。「命」であれば、「命ずる」という動詞があることから、単独で命令するという意味で使用するのは明らかだが、「令」は「令ずる」という形では使わない。漢文で「令」には使役の意味があるということは知っている人も多いだろうが、使役を命令だというのは、同じく使役の助字である「使」の字に命令の意味があるというのと同じぐらい現代日本語にはそぐわない。
しかし、「令和」と言う元号は、漢文風に「令」を使役で読んで訓読してこそ、その意味が十全になるのかもしれない。何の文脈もなく単に書下した「和せしむ」であれば、なんのこっちゃだが、「国民をして相ひ和せしむ」とちょっとばかり言葉を足してやればどうだろうか。社会のあちこちでいろいろな形で分断され、相互の議論すらまともに成り立たずに多数決という数の暴力ですべてが決まり、少数派が不満を抱える状況になってしまった現在の日本社会が、新たな天皇を迎えて掲げる年号としてこれ以上のものはないように思われてきはすまいか。戦後の民主化天皇の役割は、国民の統合の象徴だったはずである。
ということで、上に書いた願いを「令」に込めた上で、「令和」とは「国民をして相ひ和せしむ」なりと解しておく。これが実現するためには、自分の話をするよりも相手の話をじっくりと聞生きて理解するという姿勢が必要なのだが、現在の政治家、マスコミを見ているとなあ。いやその前に、チェコの大統領にこの言葉を捧げておこうか。聞いてももらえないだろうけどさ。
2019年4月2日16時20分。
2019年04月02日
朝貢国チェコ(三月卅一日)
最後の王朝である清朝の滅亡以来100年、共産中国がかつての中華帝国の再現を目指して、経済力武器に、朝貢体制の確立させようとしていると考えるのは、多少の誇張はあるにしてもあながち間違いではあるまい。明確な朝貢国としては、北朝鮮があるぐらいかもしれないが、東南アジアから中央アジアを経て、アフリカまでは確実に中国の手が伸びているし、最近はヨーロッパにも朝貢国ができつつある。
その朝貢国の一つが、残念ながらわれがチェコなのだけど、チェコのみならず、中国のことを知らないヨーロッパの政治家、企業家達は対等の貿易相手だなんてのんきなことを考えているようだが、かつての経済的な力を持たなかった時期ならともかく、現在の経済大国にまでのし上がってきた中国がそんなことを許すほど殊勝なはずはない。アメリカ、ロシア以外の貿易相手は、朝貢国として位置づけようとしているに決まっているし、アメリカやロシアですら将来的には朝貢国化しようと考えているに違いない。
中華思想における西戎たるヨーロッパにおいて現時点で一番朝貢国に近いチェコでは、中国は中華帝国の本性をあらわにしつつある。その最初の徴候は、すでに三年前に国家主席がチェコを訪問した際の振る舞いに現れていた。在外の都督、もしくは節度使に任命されたトブルディーク氏を通じて、プラハの首席が通る予定の道路に中国国旗のをちりばめ、中国人の祝い屋を雇い、また反中国勢力の抗議運動を押しつぶした。チベットの旗を窓に貼っていたら、警察が来て撤去させられたというのだからトブルディーク在外都督の忠勤振りは共産皇帝には気に入られたことであろう。
このときは、プラハ市に対しても台湾を無視して中国は一つであるという共産中国の中華帝国としての正当性を認めるよう強要しているのだが、今回またまた中国が台湾がらみでチェコに無理難題を押し付けたらしい。詳しい話は覚えていないけれども、国会かどこかで行なわれていた各国の使節を招いての貿易関係の懇親会か何かに、台湾代表が出席していたのが、中国から送り込まれた観察使である大使の気に障ったのか、退出させるようにチェコ側に求め、立場の弱い朝貢国としては拒否もならず、台湾代表を排除することになったのだという。これもまた中国は一つだという、現実を無視した中華帝国の存在を押し付ける政策であろう。
この各国代表との会合を主催していたのは、産業省とでも訳せる役所で、大臣のノバーコバー氏があちこちから批判を受けている。この人、バビシュ内閣で新しく大臣になった人で、これまでも問題発言を連発してあれこれ批判の対象になっているのだけど、十年以上も前から中国に媚を売り続け、中華帝国の朝貢国となることで甘い汁を吸おうと官民一体になって進めてきたこの国に、中華帝国との関係において大臣を批判する権利を有する政治家がどれだけいるかは疑問である。チェコが中国とずぶずぶの関係になったのは、バビシュ政権のなしたことではなく、ただそれまでの路線を踏襲したに過ぎない。批判すべきは大臣よりも中国のはずなんだけど、宗主国の機嫌が悪化するのを恐れて批判できないのである。
仮にこの大臣を批判するのなら、これまで中国との関係を強化しようと主張してきた事実を、自ら批判した上で、朝貢をやめることを主張してからでなければ、同じ穴の狢とか目くそ鼻くそのそしりを免れない。中国に近づき取り込まれるということは、こういうことなのだ。そのうち、チェコ以外のヨーロッパの国も同じように朝貢国にされてしまったことに気づいて後悔することになるだろう。そう考えると、ほかのことはともかく中華共産帝国の覇権を阻止するために正面からの対立を恐れないアメリカのトランプ大統領は評価されてもいいと思うのだけど。中国にこれ以上好き勝手にさせると、世界はとんでもないことになりそうである。
2019年4月1日23時30分。
2019年04月01日
スロバキア大統領選挙決選投票(三月卅日)
今日、スロバキアの大統領選挙の決選投票が行われ、第一回投票の結果、またその後の世論調査の結果どおり、チャプトバー氏が当選し、スロバキアでは最初の女性大統領が誕生した。年齢的にもたしかまだ四十台半ばだから、若い大統領の誕生でもある。ただ、スロバキアという国の現状を考えると、若き女性大統領が誕生して万々歳とはいきそうもない。チェコなどの国と同様、様々な面で分断された社会を一つにまとめることができるのか課題は大きい。
チェコも状況は似ているが、うちの大統領、開き直って社会を一つにまとめようなんて気は全くなさそうだからなあ。就任演説では全国民の大統領になるとか何とか一定瀧がするんだけど。それはともかく、チャプトバー氏のスロバキアの大統領としての初仕事の一つが兄弟国とも言うべきチェコ訪問らしいから、大統領同士の会談で影響を受けて、わが道を走りだすなんてことのないように期待しておこう。
スロバキアはポーランドほどではないにしてもキリスト教、特にカトリックの信者の多い、チェコ以上に保守的な国民性の国である。それが女性首相につづいて女性大統領まで誕生させてしまったのだから、驚きではある。ただ、スロバキアの社会というのは保守的でありながら、時に思い切った決断をして周囲を驚かせることがあるような気がする。この辺りの旧共産圏国家では唯一ユーロを導入してしまったのもそうだし、そもそもチェコスロバキアとして、チェコ人と組んで独立することを決めたのも、当時の民族自決主義の流行を考えてもかなり大胆な決断だったはずだし。
第一回投票ではチャプトバー氏が40パーセント超でシェフチョビチ氏に20パーセント以上の差をつけたが、敗退した候補の支持者たちの動向如何では逆転もあるかと期待したのだが、その後行なわれた世論調査でもチャプトバー氏が60パーセント以上の支持を集めて、20パーセント以上の差をつけていたので、これは逆転の可能性はなさそうだと興味を失いかけていたのだが、テレビのチャンネルだけはチェコテレビのニュースチャンネルに合わせておいた。
スロバキアでは、チェコと違って選挙は一日しか行なわれないため、決選投票も土曜日だけである。ただ時間が夜十時まで投票できるようになっている。当然選挙報道もその時間から始まる。驚いたのが、開票の結果の公表が始まる前の、番組の導入の時点で、アナウンサーや解説者たちが口々に、当初の予想よりもはるかに接線になったのではないかという見解を漏らしていた。世論調査結果発表後に何かあったのかもしれない。選挙運動のやり方が問題視されているとかいうニュースがあったけどあれがチャプトバー氏のことだったのかな。
それでちょっと気になって最初の結果発表までテレビに見入ったのだが、開票率1パーセント行かないぐらいの時点で、チャプトバー氏が55パーセントちょっとで、シェフチョビチ氏に10パーセント強の差をつけていた。第一回投票や世論調査の結果ほどの差ではないけれども、接戦と言えるほどの差でもない。日本の選挙報道だったらこの時点で当選確実とか印しつけて、候補者に勝利のインタビューとかやっているだろうなあなんてことを考えてしまった。
その後も、チャプトバー氏が少しずつ差を広げて行くのだが、チェコテレビでは、チャプトバー氏の当選が確実になったなどと軽率なことを言うことはなく、あくまでも現時点では優勢だとか、このまま行けば当選だけどという形の発言を繰り返していた。こちらはそこまでスロバキアの大統領選挙に興味があるわけでもないのと、日曜日の朝から夏時間が始まるのとで、結果が出るまで起きている気にはなれず、チャプトバー氏の当選だろうと思いながら寝ることにした。
朝起きて最終的な結果もチャプトバー氏の勝利であることを知るわけだけれども、同時に日本の無駄に急いで選挙結果を確定させたがる日本の選挙報道を思い出して、チェコの方がまともだよなあなんてことを考えてしまう。出口調査とか、独自の判断で当選を決めるとか、選挙報道で視聴率争いをするなんざ勘違いもいいところである。その争いに一番熱心なのがNHKだというから、話にならない。最近お笑い番組ばっかりやっているというし、もう受信料なんか取る資格はないんじゃないのかねえ。日本にいたころはテレビがなかったから一度も払ったことないけどさ。
2019年3月31日23時。