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2019年08月21日
É?ko〈私的チェコ語辞典〉(八月十九日)
チェコ語でのアルファベットの読み方が、「アー・ベー・ツェー」になるのも、その文字そのものをさすときに、Aは「アーチコ」、Bは「ベーチコ」という言い方をすることがあるのもすでにどこかに書いたと思う。その「アーチコ」「ベーチコ」の具体的な使い方としては、例えば大学の成績がABCで評価される場合に、試験の結果を口で言うときに、「アー」「べー」などの代わりに、「アーチコ」から、不合格の「エフコ」までが使われることがある。
また、スポーツの国代表で、年代別代表と区別するために、A代表を、アーチコと呼ぶこともあるし、「reprezenta?ní á?ko」なんて言い方をすることもある。ただし、トランプのAは、アーチコではなく「eso」といい、日本語で外来語で「エース」と呼ばれるものは、たいていこのエソで表現され、テニス中継を始めてみたときは、サービスエースがエソと言われているのに反応できなかった。フランス映画の「Eso es」なんてのもあったなあ。日本語に訳すと「エースの中のエース」だろうか。「es」は「S」でもあるので、耳で聞いても何のことやらわからんかったけど。
スポーツなんかでAチームとBチームがある場合は、Bチームをベーチコと呼ぶ。Aは一番上だからあまり使わないと思うが、ベーチコからは、形容詞の「ベーチコビー」というのができて、「B級映画」「B級ホラー」なんてのに使われる。日本ではやりのB級グルメも、「bé?ková kuchy?」とかになるのかな。
Cの「ツェーチコ」で指すものとしては、複数形の「ツェーチカ」になることが多いけど、日本語で何というんだろう。プラスチック製の子供のおもちゃで、色とりどりの円形のリングに切れ目が入っていて、つなげてチェーンにできる、1980年代には自転車のスポークにはめて飾りにしている子供も多かったあれがある。一つ一つの形がCに似ているから「ツェーチコ」と呼ばれているらしい。Cだけではなく、他のアルファベットの形をしたものもあるようだけど、一番最初にでた一番基本的な形のものから名前が生まれたのだろう。
Dは「デーチコ」で、以前は特に耳にする言葉でもなかったのだが、チェコテレビが子供向けのチャンネル、「?T D」を開設したことで、頻繁に聞こえてくるようになった。「D」は子供を意味する「dít?」の「D」なのだろうが、「チェー・テー・デー」という読み方が間抜けに響くのか、「デーチコ」のほうがよく使われている。「チェー・テー・デーチコ」なんてのも聞くかな。デーチコの夜の部である「?T Art」のほうは、Aで始まるからアーチコなんてことはなく、「チェー・テー・アールト」と呼ばれている。ただし日本風発音の「アート」ではないので注意。
それで、やっと本題のE、つまり「É?ko」なのだが、何をさすと思う? 初めて聞いたときには、テレビのチャンネル、デーチコ以外に、オーチコもあるし、かなとも思ったのだが、食品添加物のことだった。チェコの食品の原材料の表示は、EUの基準に基づいて、いわゆるE番号で食品添加物を表示している。大抵はEのあとに三桁の数字がついているだけで、一般の人間にはそれを見てもどんな物質なのかはわからないが、その数で食品添加物がたくさん入っていることはわかる。
それで、エーチコの入っていない、もしくはエーチコの少ない食品を求める人たちもいるようである。同じエーチコでも、問題のありそうなものもあれば、昔から使われていて何の問題もないものもあるわけで、その辺は自分で調べるしかない。ただ、日本のように物質名が書かれていたからと言って、例えば発癌性の有無が見ただけでわかるというわけでもないから、大差はないか。
個人的にはまったく気にしないけど、健康志向で気にする人たちは気にするんだろうなあ。食品添加物の入っていないものを探すときには、「bez é?ek」という表現を覚えておくといい。わざわざ包装には書かれていないと思うけど、店員に質問するときには使えるはずである。
久しぶりに、どうしてこんなテーマで書き始めてしまったのだろうと、途中で頭を抱えるレベルで迷走してしまった。まだまだである。
2019年8月19日23時45分。
タグ: 失敗作
2019年08月20日
名前が変わってチェック・トゥール(八月十八日)
毎年八月の中旬に行なわれるチェコ最大の自転車のステージレース、チェック・サイクリング・トゥールの開催が近づいているのを思い出したのは、今年もテレジア門の近くの駐車場でボラの黒いバスを見たからである。それで、 ホームページ を開いたら、名前がチェック・トゥールに変わっていた。今年は初日のチームタイムトライアルがオストラバで行われた。何年か前にフリーデク・ミーステクで行われた以外は、ウニチョフで行われてきたのだが、今年は開催領域が例年に比べると大きく広がっている関係もあるのか、モラビア・シレジア地方のオストラバでの開催である。
出場チームは例年通り20チーム。そのうちワールド・ツアー・チームは、オーストラリアのミッチェルトン・スコットと、三年連続出場のドイツのボラ・ハンスグローエ。チェコ国内チームは、エルコフ・アルトゥルだけだが、日本と関係のあるチームが二つ出場している。一つは日本ナショナルチーム、代表ってよりは選抜チームかな。もう一つはイタリア登録のニッポ。あわせて11人の日本人選手の名前は以下のとおり。漢字が違っているかも知れないけど。
日本ナショナルチームは、石橋マナブ選手、石上マサヒロ選手、入部ショウタロウ選手、小石ユウマ選手、増田ナリユキ選手、松田ショウイ選手、岡アツシ選手の7人、ニッポからは、伊藤マサカズ選手、吉田ハヤト選手、中根ヒデト選手、草場ケイゴ選手の4人で、合わせて11人。これは国別で言うと、ポーランドの22人、オランダの17人についで三番目に多い数字である。ちなみに開催国のチェコはエルコフチームの7人だけ。
チェック・サイクリング・トゥールの日本チームというと2016年に出場したアイサン・チーム以来ということになるのかな。毎年でそうな話だったんだけどねえ。あのときはあまり日本選手は活躍できていなかったから、今年は総合は無理でも、どこかのステージで逃げに乗るなり、上位に入るなりして単なる数あわせではないことを証明してもらいたいものである。
さて、木曜日の第一ステージ、オストラバでのタイムトライアルを制したのは、予想通りワールドツアーのミッチェルトン・スコット、16kmのコースを18分35秒でゴールしている。16秒差でチェコのエルコフが2位、21秒差でボラが3位に入った。エルコフ大健闘である。日本チームは1分39秒遅れの17位、ニッポはさらに2秒遅くて1分41秒差で19位。最下位のハンガリーのチームは4分以上遅れているけどアクシデントでもあったのだろうか。
問題は、この初日の時点で、日本チーム7人のうち、3人がリタイアした可能性があること。二日目の結果に4人しか登場しない。それとも最初から3人はスタートしないで、4人での出走だったのだろうか。
二日目はオロモウツからフリーデク・ミーステクに向かうステージ。スタートのオロモウツは平地とはいえ、東に向かい丘陵地帯を抜けた後、南下してノビー・イチーンを経てベスキディの山中に入って、ちょっとだけスロバキアに入って北上してフリーデク・ミーステクにゴールする187km。1000メートルぐらいまで登るようなので、山岳ステージと言っていいのかな。
結果は、上位3位までをワールドツアーチームの選手が占めた。優勝はボラのARCHBOLD選手、2位はミッチェルトンのIMPEY選手で、3位はボラのBASKA選手。61位までが、同タイムでゴールしている。総合は初日のチームタイムトライアルの結果がほとんどそのまま残った感じで上位を占めるのはミッチェルトンの選手たち。中でもボーナスタイムを稼いだIMPEY選手が2位以下の選手に7秒の差で首位である。
日本人選手では20位に入ったニッポの中根選手が最上位。日本ナショナルチームでは60位の増田選手が最上位だった。総合では増田選手が53位、ニッポの中根選手と伊藤選手が54位、55位に並んでいる。チーム成績は、ニッポが13位に上がり、日本チームは17位のままだった。
三日目は、オロモウツからウニチョフ。直線距離ならそれほど離れていないのだが、大きく西に迂回してドラハナ丘陵地帯を抜けてボウゾフ、リトベルを経てウニチョフに向かう175kmで、タイムトライアルを除けば一番平坦なステージ。
優勝はSEGレーシング・アカデミーのDAINESE選手、2位はアドリア・モビルのRAJOVIC選手で、3位はポーランドのワールドツアーチームCCCのユースチームのANIOLKOWSKI選手。76位までが同タイムでゴールしている。総合はこの日もあまり変化なく、ミッチェルトンの選手が上位に並ぶ中、IMPEY選手が2位の選手との差を13秒に開いている。
日本人選手の最上位は16位に入った日本チームの岡選手。ニッポの中根選手は43位だった。総合では中根選手と伊藤選手が53位、55位と順位を一つ上げているが、これは増田選手がリタイアしたことによる。日本チームは松田選手もリタイアしたので、残り二人でチーム成績から除外されてしまった。残っているのは62位の石橋選手と、77位の岡選手の二人。ニッポのチーム成績は13位で変わらず。
最終日はモヘルニツェからシュンペルクを経て、北にデスナー川沿いの渓谷の奥まで入り、イェセニークの山を上り下りしながら南下して、シュテルンベルクに向かう178km。一番高いドロウヘー・ストラニェの1176mをはじめ、三つの1000m以上の山を越え、シュテルンベルクではエツェ・ホモというヒルクライムレースに使われる上り坂を三度登るなかなか過酷なコースである。
ステージ優勝は、ミッチェルトンのHAMILTON選手、2位もミッチェルトンのIMPEY選手、3位にチェコのエルコフのククルレ選手が入った。同タイムでゴールしたのはこの3人だけ、4位のボラの選手が1秒差で続き、5位以下は44秒差、17位以下は1分以上遅れてゴールした。過酷なステージだったのを反映してか30人近い選手がリタイアしている。
総合でもこの日の上位3人が順位を変えて表彰台に立った。優勝はIMPEY選手で、9秒差の2位がHAMILTON選手、3位に33秒差でチェコ人最上位のククルレ選手。10位以内にミッチェルトンの選手が3人、エルコフの選手が4人、ボラの選手が1人入っているから、チームタイムトライアルの結果が総合争いに大きな影響を与えている。
日本選手では、ニッポの中根選手が4分12秒遅れのステージ29位、総合でも6分14秒遅れで34位に入ったのが最高。伊藤選手は6分17秒遅れで総合35位だった。日本チームでは、岡選手が12分29秒遅れの総合51位、石橋選手は20分41秒遅れの総合73位に終わっている。ただし、石橋選手は、この日の序盤に山岳ポイントを3獲得しているから、見せ場は一番作ったのかな。とまれ完走したのはこの4人だけで、日本チームの5人に続いて、ニッポの草場選手と吉田選手もリタイアに終わっている。
いずれ、このチェック・トゥールのまとめの番組が放送されるだろうから、日本の選手がどのぐらい活躍したのか確認してみよう。毎日のスポーツニュースにでは日本選手のことは全く報道されないし。その前に、シクロワイアードに日本チームの浅田監督のレポートが出るかな。
2019年8月18日23時。
2019年08月19日
チェコの君主たち3(八月十七日)
ボレスラフ2世は、初期プシェミスル王朝の全盛期を築いたと言ってもいいのだが、その死後のプシェミスル家は一時混迷を極める。それは999年に跡を継いだボレスラフ3世の、ひどい言い方をすれば無能さによる。
南東のハンガリー、北東のポーランドの拡大傾向に歯止めをかけられなかったボレスラフ3世は、即位直後から、ボレスラフ2世が獲得した領地を失うだけでなく、プシェミスル家内部にも混乱を引き起こした。ボレスラフ3世は、弟のヤロミールとオルドジフに君主の地位を奪われることを恐れ、二人を捕らえて、子孫を設けられないように去勢するようにという命令を出したのだ。
ここでも無能だったのか、弟二人は、母と共にドイツ(東フランク)のバイエルン地方に逃げることに成功する。この短慮な行為が、領域内の貴族、豪族たちの反感を買い、ボレスラフ2世のもとでスラブニーク家を族滅するのに功績があり、有力な氏族となっていたブルシュ家に率いられた反乱が起こってしまう。ボレスラフ3世は、鎮圧に向かうどころか、身の危険を感じてドイツを経てポーランドに逃げ出してしまうのである。
それが1002年のことで、投げ出された君主の座に座ったのは、プシェミスル家の一員であろうとは言われるが、出自のはっきりしないブラディボイという人物である。ポーランドのミシュコ1世とその妃となったボレスラフ1世の娘ドブラバの間に生まれた子供で、後で登場するポーランドのボレスワフ1世の弟ではないかともいう。これが正しければ、外国から姻戚関係に基づいてチェコの君主の地位を手に入れた初例ということになる。そうなると、疑問なのはなぜボレスラフ1世が自らチェコの君主の座に手を出さなかったかである。
ブラディボイは自らの地位を固めるために、ドイツ王のハインリヒ2世に臣従し、ボヘミアに封じられるという手続きを取った。これによって、後にチェコが神聖ローマ帝国の領邦の一つとなることが決まったのである。ただ、このブラディボイという人は、極度の左利きだったらしく、翌1003年にはアルコール依存症の果てに亡くなってしまったらしい。
ブラディボイの死後に君主となったのは、逃亡先のドイツ王ハインリヒ2世の協力でチェコに戻ることができたボレフラフ3世の弟ヤロミールだった。しかし、すぐにポーランドのボレスワフ1世の助力を得て帰国したボレスラフ3世によって追いやられてしまい。権力を掌握することはできなかった。
チェコの君主の座にはボレスラフ3世が復帰したのだが、逃亡の原因となった反乱を主導したブルシュ家に対する復讐の念を忘れず、族滅の指示を出し、自ら娘婿の首を切ったらしい。これがまた国内に大きな混乱を引き起こし、保護者であるボレスワフ1世としては、ボレスラフ3世をポーランドに呼び寄せるしかなかった。呼び寄せて目を潰し、牢獄に幽閉したのである。この悪夢のような君主は、1003年から1037年に亡くなるまで牢獄の外に出ることはなかったという。
操り人形のボレスラフ3世を通じてのチェコ支配に失敗したボレスワフ1世だが、今度は自らチェコの君主となる。すでにこの当時にはモラビアやシレジアをプシェミスル家から奪い取っていたし、ボレスラフ1世の孫でもあるので、チェコの君主になる正当な権利があると主張していてプラハン軍勢を進めた。ちなみにこの軍の中に加わっていたのが、スラブニーク家の族滅を逃れた最後の一人である。復讐のためにチェコに戻ろうとしていたのだろうか。
一方、ボレスワフ1世は、ドイツに対しては、ボヘミアを封領として与えられるという形式を踏むことを拒否し、ドイツ王のハインリヒ2世と対立することになる。ハインリヒ2世は自ら軍を率いて、ボヘミアに侵攻し、1004年にはポーランドの軍勢をプラハから追放することに成功する。ハインリヒ2世がボヘミアの侯爵位に就けたのは、二度目となるヤロミールだった。ヤロミールが君主の座にあったのは1012年までで、弟のオルドジフの主導するクーデターで君主の地位を追われた。
オルドジフは、久しぶりに軍事的にも成功した君主で、ポーランド軍のボヘミア侵攻を何度か跳ね返し、1019年か1029年にモラビアをポーランドの手から取り戻し、息子のブジェティスラフに統治させた。しかし、神聖ローマ帝国のコンラート1世と対立し、1033年に皇帝によって幽閉されてしまう。ちなみに、即位直後の1014年には、兄のヤロミールを支援したことをとがめて、ブルシュ家の生き残りを虐殺している。
幽閉されたオルドジフに代わって、ヤロミールが三度君主の座につくのだが、今回も一回目と同様長続きしなかった。オルドジフが1034年に解放されてプラハに戻ってきて、再度権力を掌握するのである。そして、兄の目を潰し投獄する。オルドジフ自身は、同年のうちにどうも食べ過ぎ飲み過ぎで亡くなってしまう。
目をつぶされたヤロミールは、甥のブジェティスラフの即位を認め、権力を求めないことで生き残りを図ったようだが、なぜかブルシュ家の生き残りによって復讐のために暗殺されてしまう。ブルシュ家の族滅を計ったのは、兄のボレスラフ3世と、弟のオルドジフのはずなのだが、復習の牙は兄弟の最後の生き残りに向けられたのである。
名君と言ってよさそうなボレスラフ2世の統治したチェコは、息子たちの、言ってみれば兄弟げんかによって、他国の介入を招き、崩壊の危機に瀕した。最後に末子のオルドジフが多少立て直したようだけど、その息子のブジェティスラフの統治や如何にというところで、以下次回である。
プシェミスル家の君主?
7代 ボレスラフ(Boleslav)3世 999〜1002年
8代 ヤロミール(Jaromír) 1003年
—— ボレスラフ(Boleslav)3世 1003年
—— ヤロミール(Jaromír) 1004〜1012年
9代 オルドジフ(Old?ich) 1012〜1033年
—— ヤロミール(Jaromír) 1033〜1034年
—— オルドジフ(Old?ich) 1034年
一世代3人の君主で、3代というべきなのか、7代というべきなのか。これに以下のピアスト家の君主が加わるのだから、この時期はややこしい。そして血まみれの時代である。
ピアスト家の君主(ポーランド)
1代 ブラディボイ(Vladivoj) 1002〜1003年
2代 ボレスワフ(Boleslav)1世 1003〜1004年
ただし、ブラディボイがピアスト家の出身かどうかには異論があるようである。またボレスワフ1世は、チェコではボレスラフ・フラブリーと呼ばれている。
この血まみれの時代、日本では道長の全盛期じゃないか。ちょっと足が出るけど。『拾遺和歌集』の時代である。
2019年8月17日22時45分。
2019年08月18日
怪しいメール其二(八月十六日)
また、チェコ語の怪しいメールが来た。今回は本文なしで、件名だけで、その件名の内容が怪しいときた。件名だけだから短くて普段の一本分の記事にもならないかもしれないけど、たまには短く終わるというのも悪くないだろう。ということでまず、全文引用する。
Stále ?ekám na vaši odpov?? na mé ?etné neodpov?d?né e-maily, které se týkají vašeho rodinného d?dického fondu (14,5 milionu dolar?). Laskav? znovu potvr?te tento dopis pro další podrobnosti. Pozdravy. S úctou, pane, Martine.
細かく見ていこう。冒頭の「Stále ?ekám na vaši odpov?? na mé ?etné neodpov?d?né e-maily」だけ見たときには、しまったと罪悪感をちょっとだけ感じたから、うまい書き出しなのだろう。意味は「私の出したたくさんの返事がもらえていないEメールの返事を待ち続けています」とでもなるだろうか。特に「Stále ?ekám na vaši odpov??」を読んで、誰に返事してなかったっけと頭を抱えた。メールへの対応が遅いという自覚がある人は注意が必要である。
しかし、その後「které se týkají vašeho rodinného d?dického fondu (14,5 milionu dolar?)」とあるのを読んで、ああ詐欺メールなんだと理解できた。「貴家の相続基金」でいいのかどうかはわからんけど、うちの実家の遺産相続に絡んで1450万ドルなんて数字が出てくるわけがない。というか遺産に関してチェコ語でメールが来る時点でありえない。
次の「Laskav? znovu potvr?te tento dopis pro další podrobnosti」は、次の細かい手続きのために、「この手紙」をもう一度確認するように求めているようだが、「tento dopis」が何を指すのかわからない。本文のないこのメールか? 「znovu」というのも、一度もやってないんだけどと、この辺りから、罪悪感や不安よりも、笑いの要素が強くなる。「Laskav?」というのは、命令形の二人称複数を使った丁寧な形と一緒に使って、さらに丁寧さを上げるための表現である。
最後の「Pozdravy. S úctou, pane, Martine」はもう完全に笑うしかない。手紙の最後に「Pozdravy」なんて書くかなあ。普通は「s pozdravem」じゃないかと思うのだけど。次の「s úctou」と重なるのを避けたかったのかな。ちなみにこれは「敬意をこめて」と訳しておこう。最後の「pane, Martine」に気づいたときには、「俺ってマルティンって呼ばれたことあったっけ」と考えてしまった。カレルと呼ばれたことはあるけど、マルティンはないはずである。それに前の部分で、「Laskav?」なんて丁寧さを発揮しているんだから、ここも「doktore」とか「profesore」を入れておべっか使ったほうが平仄が合いそうだけどなあ。
呼びかけにマルティンという名前を使うということは、このメールを出した人は、マルティンという名前の人が引っかかることを期待しているということなのだろうか。いくらチェコ人の中でマルティンは比較的多い名前だとはいっても、えらくピンポイントの詐欺メールである。それとも最後まで読まずに反応するのを狙ったのか。それなら呼びかけは名前じゃないほうがいいと思うんだけど。
そして、この詐欺メールを出した人の名前が、フランク・マルティンスって、名字はマルティンの最後に「s」付けただけじゃないか。あり得ない名字ではないけど、何か怪しい。こんなあからさまに怪しいメールに反応してしまう人はいるのだろうか。いるんだろうなあ。だから、フィルターを通り抜けて、迷惑メールの中に落ちないようにあれこれ工夫してメールを送り続けているのだろう。人を選んで送れよととは言いたくなるけど。
もし、チェコ語でこんな変なメールが来たら、一応読んで笑ってあげよう。
2019年8月16日22時。
タグ: 詐欺メール
2019年08月17日
チェコの君主たち2(八月十五日)
ブラティスラフ1世の死後、成人してから君主の地位についたバーツラフは、チェコ史の専門家はともかく、我々一般のチェコ史に興味を持つ人間にとっては、謎の存在である。後にチェコの守護聖人になったほどの重要人物なのに、生没年がはっきりしない。それに政治的、もしくは宗教的な志向を、弟のボレスラフを筆頭とする国内勢力に嫌われて暗殺されたバーツラフが、守護聖人になった理由もよくわからない。素人の印象では、チェコの国家よりもキリスト教、いやカトリック側の必要から列聖され、後にカトリックの意向を越えて、チェコ全体の守護聖人になったようにも思える。列聖の歴史的な経緯を知らないから単なる思いつきに過ぎないけど。
また、バーツラフに関しては、弟のボレスラフとは違って、ブラティスラフ1世の妃であるドラホミーラの子ではないという説もあるようだ。そうなると、ドラホミーラがルドミラとの権力争いに勝った後、バーツラフが君主になるのを認め、バーツラフの暗殺後チェコから姿を消したと言われる理由がわからなくなる。
とまれ、907年に生まれただろうとされるバーツラフは、922年から925年の間に爵位を継いでチェコの君主となった。ブラティスラフ1世の死からバーツラフの即位までの間は、母親のドラホミーラが政を摂っていたようである。
宗教の面では熱心なキリスト教信者で、政治的な面では東フランクの権力がバイエルンからザクセンに移ったのを見て取り、ザクセン公、後の東フランク王であるハインリヒに臣従することを決め、毎年平和税とも言われる貢納を行ったらしい。どうも、この二つが理由で、暗殺に至ったようだ。
熱心なキリスト教徒、言い換えれば異教徒に非寛容なキリスト教の君主として、領域内のキリスト教化を推し進めたことが、当時まだ完全にキリスト教が浸透しきっていなかったボヘミア内の有力氏族たちに嫌われ、西からの軍事的な圧力を減らすためとはいえ、新興のザクセンに臣従して貢納することを嫌う勢力も存在したということだろう。
バーツラフは、スタラー・ボレスラフで弟のボレスラフ、即位後のボレスラフ1世によって、9月28日に暗殺されるのだが、何年の出来事だったのかについても、929年と935年の二つの説がある。ボレスラフ1世の生まれが915年だとされていることを考えると、929年では若すぎるような気もする。ボレスラフ1世の青年を910年とする説もあるようだが、それなら、929年の暗殺でもよさそうである。ただし、バーツラフの統治期間が短すぎて、後に守護聖人とされるだけの印象をチェコ人に与えられなさそうだという嫌いは残る。
スタラー・ボレスラフも、恐らく当時はまだムラダー・ボレスラフが建設される前のはずだから、単にボレスラフと呼ばれていたことだろう。そうなると、ボレスラフの領地の街だからボレスラフと名付けられたと考えてよさそうである。ならば、この時点では、街の名前としてもボレスラフも男性名詞だったのではないかと想像してしまう。それが女性名詞に変わったのは、どうしてなのだろう。
それはともかく、929年か、935年に権力を掌握したボレスラフ1世を待っていたのは、兄のバーツラフが臣従したザクセン、ひいては東フランクとの戦いで、戦争が終わったのは950年のことだという。このとき、ボレスラフ1世は兄に倣って東フランク王のオットー1世の宗主権を認めざるを得なかったのである。
その後、オットー1世のマジャール人の略奪のための西方侵攻を食い止めるための戦いに参加し、活躍したことで、後の神聖ローマ帝国につながる東フランク王国内での、プシェミスル家の地位を高めることに成功したと言われる。
ボレスラフ1世の娘のうち、ドブラバは、歴史上実在が確認できる最初のポーランドの君主であるピアスト朝の創始者ミシュコ1世の妃となっている。これによって、チェコとポーランドの君主の間に血縁関係ができ、後のチェコの王位、ポーランドの王位をめぐる、ときに血まみれの争いの発端が築かれたことになる。政治的には正しい判断だったのだろうけど。
もう一人の娘であるムラダは、プラハにボヘミアで最初の修道院を設立したことで知られる。ベネディクト会の女子修道院だったという。これもまた、西方のキリスト教世界におけるプシェミスル家の価値を高めることになっただろうが、同時に宗教と世俗権力の結びつきを強め、宗教の世俗化と腐敗の発端になったというと、強すぎる批判になるだろうか。
さて、ボレスラフ1世が、972年に没した後、後を襲ったのは息子のボレスラフ2世だった。ボレスラフ2世は、プラハに司教座を設立することに成功する。この司教座は遠く離れたマインツの大司教座の下に置かれたから、これによってボヘミアのキリスト教は、東フランクのキリスト教からある程度独立したものとなったと考えてよさそうだ。
また、支配領域を大きく広げることにも成功し、かつての大モラバの中心領域であったモラビア、スロバキア西部だけでなく、シレジアやポーランドのクラクフ地方、ガリツィアまでもがボヘミアの支配下に入ったとされる。
国内では、東ボヘミアに大きな領地を有し、プシェミスル家と親戚関係にあり、唯一対抗できる存在だったとも言われるスラブニーク家を族滅して、ボヘミアの完全なる統一を達成した。995年の聖バーツラフの命日に居城に集まったスラブニーク家の人々を大人から子供まで皆殺しにし、虐殺を生き延びたのは、二人だけだったという。この二人に、ポーランドへの逃走を許したことが、後にプシェミスル朝に不幸をもたらすことになる。
ただし、このスラブニーク家の虐殺に関しては、ボレスラフ2世がやったことではなく、スラブニーク家と対立していたブルシュ家が復讐のために行ったのだという説もあるようだ。
ボレスラフ2世の死後、999年に跡を継いだのは、息子のボレスラフ3世だが、長くなったのでまた明日ではなく次回。
プシェミスル家の君主?A
4代 バーツラフ(Václav) 922-925ごろ〜929か935年
5代 ボレスラフ(Boleslav)1世 929か935〜972年
6代 ボレスラフ(Boleslav)2世 972〜999年
聖バーツラフから始まる2世代、3人の君主の時代は、日本で摂関政治が確立されて、摂関が常設に近くなる時代と重なる。『後撰和歌集』から、『拾遺和歌集』にかけての時代である。
2019年8月15日23時。
2019年08月16日
収支報告(八月十四日)
報告ってほどのこともないのだけど、七月の後半に敢行したモラビア、東ボヘミアの観光地めぐりで二週間の乗り放題チケットを買った甲斐があったのかどうか確認しておく。二週間毎日あちこち移動していたら、確実に元は取れたはずだけど、足を傷めて靴を履くのも辛い状態になったので、結局鉄道を利用したのは、半分の七日に過ぎないのである。だからといって、一週間の券にしておけばよかったとも言い切れないのは、七日連続ではなく、間にお休みの日を二日ほど作ったからである。
チェコ鉄道の運賃体系は、私鉄との競争が始まった結果、複雑怪奇なものになってしまっていて、ネット上で購入する場合、乗る電車まで指定されたチケットだと割引されるのだが、その値下げ額が便によって違ったり、便によっては値下げがなかったりする。値下げ幅が大きい路線もあれば、近距離だと全く値下げのないところも、値下げが1コルナというところもある。
乗換えが必要な場合には、指定されるのは最初に乗る電車だけで、二本目からはどれに乗ってもいいようで、別々に便指定のチケットを買った方が安くなるようにも見えるのだが、確認はしていない。便指定の割引乗車券には途中下車するとその先は無効になるという縛りもある。普通のチケットの場合にも途中下車できるのは、乗車から100キロを超えて以降だったか。ネット上の運賃が窓口で買う場合と同じかどうかもよくわからない。
つらつらとチェコ鉄道の運賃のわからなさを記したのは、もとが取れたかどうかを比較する対象の運賃としては、定額の運賃を使うしかないことを説明するためである。今回は駅についてから行先を最終決定するようなこともしていたから、便指定のチケットでは困ったはずなのだが、これは乗り放題のチケットを買った結果であって、理由ではない。
ということで、比較対象の運賃は、その日一番遠くまで行った場所までの運賃を使うことにする。
一日目 157k?/122km/ブジェツラフ、ホドニーン
二日目 93k?/59km/シュンペルク
三日目 218k?/168km/フラデツ・クラーロベー
四日目 179k?/146km/パルドゥビツェ
五日目 181k?/122 km/ポリチカ、スビタビ、チェスカー・トシェボバー
六日目 137k?/90 km/ウヘルスキー・ブロト
七日目 65k?/46 km/ザーブジェフ、モヘルニツェ
ここにあげた数字は片道のものなので、総計すると2060k?。元は取れているけど、正直もう少し得しているかと思った。一日平均で考えると300k?弱だから、当初の予定通り10日使っていたら、3000k?分ぐらいは移動していたことになるのか。これぐらいは使いたかったなあ。
疲れてお休みにした日に、街歩きなしでひたすら電車に乗っているというのも考えたんだけどね。PC持ち込めば手持無沙汰ということもないし、ペンドリーノの座席指定券を追加で購入すれば、最長でフランティシュコビ・ラーズニェまで行けるし。とはいえ、ペンドリーノでも片道5時間19分。行くのはいいけど帰って来られるのかどうか不安になってやめてしまった。モラビアを中心にしたいという意識も残っていたしさ。
今回、行く候補に入れていた場所としては、コメンスキー関係でフルネク、ジェロティーン家関係でベルケー・ロシニ、ノビー・イチーン、バラシュスケー・メジジーチー、モラフスカー・トシェボバー、大モラバ関係でウヘルスケー・フラディシュテ、ズノイモなどいろいろあるのだけど、この計画を立てた時点で、第一の候補となっていた場所があるのを思い出した。
それはオロモウツ地方の北の果て、ポーランドとの国境の近くにある ヤーンスキー・ブルフ というお城である。ブルフというのは、チェコ語で丘、山を意味する言葉で、その言葉通りにヤボルニークという街の奥の丘の上にそびえている。20年近く前にモラビアをあちこちしたときも、何かで写真を見るかどうかして行きたいと思ったのだが、あまりの遠さにあきらめた。
あの頃は路線の改修工事も、ダイヤの効率化も進んでいなかったから、単に距離的に遠いだけでなく所要時間もものすごく長くかかったはずである。現在でも山の間を抜けていくローカル線が大部分なので、オロモウツから3時間ほどかかってしまう。お城の見学にどのぐらいかかるかわからないことを考えると、オロモウツを7時前に出る電車に乗るのが理想である。
しかし、自堕落な生活を続けていた人間がいきなり7時前の電車に乗れるわけがない。一日なら乗れても、それをやると翌日以降続かない恐れがあると考えた。それで、毎日少しずつ出発時間を早めて、7時前の電車に乗れるようにしようと、最初は9時過ぎの電車から始めたのだった。8時半までは早めたのだけど、いつの間にか目的が「シュムナー・ムニェスタ」の跡をたどるに変わってしまい、出発時間を早めるのもやめてしまったのだった。
そして、いつの間にか、ヤーンスキー・ブルフのことを忘れていたのだから救いがたい。来年もこの計画を実行するかどうかは未定だが、実行する場合には、事前に早寝早起きの習慣をつけておく必要がありそうだ。そうすれば、ヤーンスキー・ブルフにも行けるはずである。
2019年8月14日
タグ: 観光地
2019年08月15日
ブログに異変?(八月十三日)
このブログの過去の記事で、一番閲覧数が多かったのは、森雅裕に関する記事だった。これは恐らく、まだ日本に残っている森雅裕のファンが、森雅裕について書かれた文章を求めて、検索した結果たどり着いたものだと予想される。定期的に「森雅裕」で検索をかけてみるけど、記事はほとんど増えていないのが現状である。
森雅裕ファンというのは、特に近年は、というかここ20年ばかりは、露出が格段に減っているから、どんな些細なことでも森雅裕について書いてあれば喜んで読んでしまうものだ。それで森雅裕関連の記事が比較的定期的に増えるこのブログに読みに来てもらえているのだと考えていた。最近、筆が進まない本ばかりが残ってなかなか書けていないけど。
それが、先月の半ばあたりからだと思うのだが、チェコで起こった「 メタノール事件 」についての記事の閲覧数がとんでもなく増えている。これもまた「不思議の国チェコ」とか題して、シリーズ化するように見せておきながら、2本か、3本書いただけで、存在を忘れてしまったものの一つだったなあ。
その後の、裁判のことを追記しておけば、この件に関して起訴されたのは、密造酒の生産者から販売者まで全部で61人。主犯格の一人が、司法取引で完全に捜査に協力したこともあって、比較的早く事件の全貌の解明が進み、最高裁まで争った主犯2人の裁判も2018年の3月に結審している。これは事件が起こったのが2012年の9月で、起訴されたのが翌年の11月であることを考えると、かなり早かったと言っていい。注目の大きかった事件だから、警察も裁判所も威信をかけて頑張ったのかな。
メチルアルコール入りのお酒を生産し密売市場に流した、事件の主犯グループ10人については、2014年にズリーン地方裁判所で行われた第一審で、2人が終身刑、残りの8人は懲役8年から21年の判決を受けた。捜査に協力した人物は8年だったかな。終身刑の判決を受けた2人は、控訴したが、翌年オロモウツの高等裁判所での第二審でも終身刑の判決が下り、上告した最高裁判所も終身刑の判決を下した。
この事件で亡くなった人の数が48人、健康被害を受けた人の数が100人以上だったことを考えると、チェコの刑法上最も重い判決が下ったのは当然だと言っていい。日本だったら死刑判決が下っていてもおかしくはなさそうだけど、チェコではビロード革命直後の1990年に死刑は廃止され、憲法で死刑を導入することを禁止している。共産党政権の時代に、政治的な理由で死刑に処される人が多かったから、その反省もあるのだろうし、ヨーロッパの全体的な傾向に合わせたという面もあるのだろう。確か、死刑が存在しないこともEU加盟の条件になっていたはずである。
日本と違って、こんな事件の裁判の際に、犠牲者の遺族に「今のお気持ちは」なんて質問をしてニュースにするようなメディアは存在しないから、死刑を求める声はほとんど上がらないし、チェコ人の多くも死刑がないことを当然のこととして受け止めている。仮に今後日本が、世界的な潮流に倣って、死刑を廃止する方向を目指すとしたら、最大の障害になるのは、無駄に感情をあおって、被害者や遺族の感情的な発言を引き出そうとするマスコミの報道だろうなあと思う。
ところで、疑問なのは、どうしてこのメタノール事件の記事の閲覧数が増えたのかということで、日本でメタノールの事件が起こったのだろうか。書いた本人としては、このメタノール事件よりも、「 クジム事件 」のほうが、荒唐無稽な小説の設定のようで不思議の国チェコにふさわしいんじゃないかと思うのだけど。まあ、裁判が終わってなお、事件の全貌は全くと言っていいほど解明されていないし、現在わかっている部分だけでも理解不能だし、読んでも?マークが浮かぶだけかな。
今日は、ずるずると引き延ばさないで、久しぶりに簡潔に終わらせよう。ではまた明日。
2019年8月13日23時。
2019年08月14日
シャールペンシル考(八月十二日)
ジャパンナレッジの「日本語、どうでしょう?」でまたまた気になる 記事 を見つけた。先週の記事だけど、先週は読める環境になかったので今日になって読んだ。
さて、日本では一般に「シャープペンシル」と呼ばれるものを、沖縄の石垣島で「シャールペンシル」という方言を使っているという。記事を書かれた神永氏は、シャープがシャールとなる変化について、「ボールペン」との混同を考えておられるようだけど、チェコにいて、チェコ式英語読みになれてしまった頭には、石垣島の方言にチェコ式発音との共通性があるようにしか見えない。
このブログの最初のほうにあれこれ書いたように、チェコ語の外来語(ドイツ語起源の人名は除く)の発音は、一言で言ってとんでもないものが多い。傾向は二つあって、一つには、かたくなにチェコ語の発音のルールに基づいてアルファベットをローマ字読みしてしまう。もう一つは、英語などの元になった外国語の発音に過剰に合わせてしまう。そして、その場合には、つづりまで発音に合わせて変えてしまう。
前者の例としては、パズル(puzzle)が、ドイツ語の読み方の影響もあって、「プツレ」になったり、カプセル(capsule)が「カプスレ」、ひどい場合には「ツァプスレ」になったりするものが挙げられる。一応英語で「ca」が「カ」と読まれることが多いのはわかっている人が多いようである。後者の例としては、「camp」が「ケンプ」と読まれ、「kemp」と書かれるようになったものや、「team」が「ティーム」と読まれて、「tým」と書かれるようになったものが挙げられる。
当初後者の例としては、「ham and eggs」が、「ヘメネックス」と読まれて「hemenex」と書かれるのを挙げようかとも思ったのだが、最後の「eggs」が清音になっているのは、英語の発音ではなくチェコ語の発音の規則にのっとったものなので、両者の中間といえば言えるか。オストラバ方言の「fine」からできた「fajne」も、ヘメネックスの仲間と言ってよさそうである。
ここで、本題に戻ろう。シャープペンシルの綴りは「sharp pencil」である。この言葉がチェコ語に入ったとして、問題の前半部分どう読まれるかと考えると、「star」が「スタル」もしくは「スタール」と読まれることを考えると、「シャルプ」か「シャールプ」であろう。「sha」はさすがに「ズハ」とは読まないだろうし。そう言えば、日本の家電メーカーのシャープのことは「シャールプ」と呼んでいるなあ。ということで、石垣島の人たちも、同様に「sharp」を「シャールプ」と読んだのではないかと推測するのである。
この「シャールプ」の後ろに「ペンシル」を付けた場合に、「シャールプペンシル」というのは、いかにも言い難い。これは、パ行の音が重なるのが原因だろうが、「シャープペンシル」が普通に使われていることを考えると、もう一つ理由がありそうだ。それは恐らく、「シャールプ」の場合の語末の「プ」が、母音なしに弱く発音されることが原因であろう。さらにその前の「ル」も子音だけで発音されそうだし。その弱い「プ」にもう一つパ行の音が重なったために、前の「プ」が発音されなくなったと考える。
石垣島の方言と、チェコ語の英語からの外来語の導入には同様の傾向が見られるという、ここに書いた推測が正しいかどうかは、正直どうでもいい。こういうらちもない想像を楽しむのが、言語学とは縁のない、言葉好きのやり方というものである。ちなみに、チェコ語でシャーペンはペンテルカ(pentelka)という。
ところで、このジャパンナレッジの記事では、日本のシャープペンシルの歴史についても触れられていて、国産のシャープペンシルを最初に製造したのが、シャープの創業者で、「繰出鉛筆」という名称で販売していたことも書かれている。シャーペンとシャープは関係がないと思っていたけど、実はそんなことはなかったようだ。チェコ語のペンテルカも、日本の文房具会社のペンテルと関係があるのかもしれない。チェコ語は商標名から一般名詞化することが結構あるから。
それはともかく、繰出鉛筆という名前を見て思い出したのが、確か高校時代に、みんなシャーペンを使っている中で、ある友人が使っていた、シャーペンの細い芯ではなく、鉛筆の芯と同じ太さのものを使って、ノックではなく、回転させることで芯を出すタイプの筆記具だ。小学校でシャーペンの使用が禁止されていたときも、これは鉛筆の芯を使っているからシャーペンじゃないと言って使えたとか言っていたかなあ。これを、つまりはシャーペンとは違う筆記具を、繰出鉛筆と呼ぶのかと思っていた。
2019年8月12日22時45分。
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2019年08月13日
チェコの君主たち1(八月十一日)
今回、あちこちの町を訪れて、地元の歴史について説明を読んだり、聞いたりする中で、ちょっと困ったのが、その話をチェコ史のどこに位置づければいいのかとっさにはわからないことだった。チェコ史上の主要な出来事が何世紀に起こったことなのか、完全には頭に入っていないのである。今後のことも考えると、ここらでもう一度復習して頭の中を整理しておいたほうがよさそうである。
その第一歩として、ボヘミアとモラビアを支配した君主たちについて、まとめることにする。最初の何人かについては、すでに書いたことがあるので、簡単に。
現在のチェコの領域に最初に国めいたものを建てたのは、フランク人の商人サーモだと言われる。スラブ人の部族をいくつか糾合したサーモが、ボヘミアを中心とする領域を支配したのは、すでに七世紀のことで、623年ごろから659年ごろのことだというから、日本の飛鳥時代と同時期ということになる。サーモの国は、サーモの死後分裂して国と呼べるものではなくなったようである。
チェコの歴史における二つ目の国は、モラビア南部を中心に、ボヘミアからスロバキアまで支配領域を広げていた大モラバ国である。創設者モイミール1世の名前を取ってモイミール朝などと呼ぶこともある。君主の爵位としては、クニージェというから侯爵だと考えておく。大モラバ国が成立したのは九世紀の前半のことで、十世紀初めにはマジャール人の侵攻を受けて滅亡している。
君主を列記すると以下の通り。
初代 モイミール1世 830ごろ〜846年
二代 ロスティスラフ 846〜870年
三代 スバトプルク 870〜894年
四代 モイミール2世 894〜907年
それぞれの君主の血縁関係は、ロスティスラフはモイミール1世の甥、スバトプルクもロスティスラフの甥、最期のモイミール2世だけが、前代のスバトプルクの息子ということになっている。
全盛期を築いたのは前代のロスティスラフを捕らえてフランク王国に売り渡して君主の地位についたとされるスバトプルク。だたしロスティスラフの死の際にスバトプルクはフランクの捕虜になっていたという話もあるようだ。それまでのモラビアとスロバキアの西部いわゆるニトラ領に加えて、ボヘミアやラウジッツ、ハンガリーの一部にまで支配地域を広げている。これらの地域は、モイミール二世の即位後、すぐに大モラバの支配を離れ、ボヘミアではプシェミスル家を君主とする国が成立しつつあったとされる。
この辺までは、すでに書いたし、プシェミスル家の黎明期の歴史には実在を疑われる王(君主)が何人かいるなんてことも書いたのだが、では、歴史上実在が確認できる最初のプシェミスル家の君主は誰かというと、ボジボイ1世ということになっている。大モラバのスバトプルクが即位したのと同時期の870年ごろに爵位を得たと考えられている。
ボヘミアのプシェミスル家の君主たちの爵位も最初はクニージェで侯爵なのだが、いまいち当時の爵位のシステムが理解できない。ボヘミアの侯爵の上にいたはずの大モラバの君主の爵位も侯爵だし、その下にはもう一人の侯爵、ニトラの侯爵もいたわけだし、そもそも爵位を誰が、もしくはどの国に認定してもらっていたのかもよくわからないし。大モラバの場合には、フランクとビザンチンの間で行ったり来たりしていたからそのどちらかだろうけど、自称の可能性もないとは言えないような気がする。
それはともかく、本来のプシェミスル家の拠点であったレビー・フラデツから、プラハに拠点を移したのも、このボジボイで、885年ごろのこととされる。以来、プラハは、ボヘミアの首都であり続けているのである。当時のプラハは、現在のプラハ城の領域を大きく出るようなものではなかったらしいけど。
ボジボイが889年ごろに亡くなった後、その跡を継いだのは、長男の
この決定は、単に当時のボヘミアが、大モラバを経由した東ローマ、ビザンチンの文化的、政治的影響下から、東フランクの影響下に移ったというだけの意味しか持たないわけではない。ボヘミア、現在のチェコの領域が、西ローマのキリスト教、つまりカトリックの文化圏に属し、神聖ローマ帝国の一部となったその後の歴史を決定づけたと言っていい。チェコ人の好きな言い方をすれば、このとき、チェコは東を捨てて西に向かったのである。
言葉の面でも、チェコ語が、大モラバでツィリルの発明したグラゴール文字、ひいてはのちのキリル文字ではなく、ラテン文字、つまりローマ字のアルファベットを使用して筆記されるのも、このときの決定による。以後、チェコが、東の正教、キリル文字の世界に戻ることは、共産主義の時代を除いては、なかったのである。
ドラホミーラの子供で爵位を継ぐべきバーツラフと弟のボレスラフを、祖母にあたるルドミラが養育していたため、バーツラフが君主に立った後、ルドミラの影響力が増大するのではないかと恐れたドラホミーラがルドミラを暗殺することで、争いに決着がついた。ウクライナのキエフ・ルーシから来た二人のバイキングが手を下したという。ノルマン人の南下の時代に重なるのか。とまれ、これがプシェミスル家の血まみれの歴史の始まりを告げた事件である。
その後、成人に達したバーツラフがボヘミアの君主の座につくのだが、この、後にチェコの守護聖人とされた人物については、また稿を改める。
プシェミスル家の君主?
初代 ボジボイ(Bo?ivoj)1世 870ごろ〜889年ごろ
二代 スピティフニェフ(Spytihn?v)1世 894〜915年
三代 ブラティスラフ(Vratislav)1世 915〜921年
この二世代、三人の君主の時代は、日本の歴史と比べると平安前期の、藤原北家が朝廷の掌握しつつあった摂関政治の黎明期と同じころになるのか。『古今和歌集』の時代である。
2019年8月11日24時30分。
2019年08月12日
モヘルニツェ(八月十日)
チェスカー・トシェボバーとオロモウツの間で、急行、特急が停車することのある駅は、ザーブジェフ、モヘルニツェ、チェルベンカの三つである。このうちチェルベンカは、リトベルに向かうローカル線の発着駅だというだけで、特に見るべきものはない。ザーブジェフに足を向けた以上は、モヘルニツェにも行くべきだろうと考えて、ザーブジェフからの帰りに途中下車することにした。ここも街の一部が景観保護地区に指定されているようだし。
シュンペルクで知った魔女裁判の犠牲者中最大の大物ラウトネルが火刑に処されたのがモヘルニツェだというから、その記念碑が残されているのではないかとも考えた。それにチェコでもっとも脱獄が難しいと言われながら、カイーネクに脱獄を許した刑務所のあるミーロフから一番近い街なので、刑務所になっていて見学のできない城館についての情報もほしかったのである。恐ろしい伝説とか残っていそうだしさ。
この日は今年の夏でも特に暑い日で、まっすぐオロモウツに帰ってしまおうかとも思ったので、ザーブジェフの駅で、モヘルニツェに停まるかどうかもわからない電車に乗ってみた。停まらなければ諦めるつもりだったのだが、残念ながら停車した。残念ながらというのは、下車して駅の様子を見た瞬間に、下車したことを後悔したからである。
なぜにこんなところに急行が止まるのか疑問になるような小さな駅で、売店すらなく、駅前の道路は改修工事中で、自動車もちろん歩行者も通行禁止になっていた。矢印に従って線路脇を歩くとバス停があったが、電車の停車時間に合わせてバスが出るということもなく、駅前は工業団地になっていて、街がどの方向にあるのかすらわからなかった。
毒を食らわば皿までで、引き返したりはせずに頑張って街まで歩いたけど、2キロあったパルドゥビツェよりも、街までは遠かった。おまけに道の両側に建物があるということもなかったので、強い日差しにさらされ続け、引き返そうかと思ったころに、街の教会らしき建物の塔が見えてきて、帰るに帰れなくなった。
モヘルニツェの街も、ザーブジェフと同等に丘の斜面にできた小さな坂の街だった。街自体を比べたら、モヘルニツェのほうが活気があって、残っている古い建築物も多く、魅力的だったと言ってもいい。ただ、肝心の情報が手に入らなかった。オロモウツの駅前にもある地図に番号がついていて、番号を押すと説明が流れるという観光案内板があって、ラウトネルの処刑にも番号がついていたので、押してみたけど何の反応もなかった。電池切れか故障かで稼動していなかったのだ。
インフォメーションセンターは、タイミングが悪く昼休みか何かで開いていなかったし、もう一つの情報源となりうる博物館は発見できなかった。街を一周して見るべきものを見てしまった後、もう一度案内所に足を向けようかとも思ったのだが、暑さに負けて、そのまま駅に向かってしまった。その結果、モヘルニツェでも、ザーブジェフと同様に、トイレが印象に残った。
旧市街のすぐわきに、それほど大きくはないが、鉄道の駅よりも、はるかに立派で、整備が行き届いたバスターミナルがあった。その一角にトイレの入った建物があったのだが、平らな屋根の上には芝生が植えられていた。何でこんなところにという疑問の答えは、チェコだからである。屋根の軒先からは、多分暑さ対策の一環として、しばしば霧状の水が噴霧されていたのだが、かえって蒸し暑さが増していたような気がする。涼しく感じるのは霧が体に触れた瞬間だけだった。トイレ自体は、無人の料金を入れたら鍵が開けられるというモラビアには珍しいタイプだったけど、建物自体の特殊さに比べたら、特筆するほどでもない。
この日は乗り切ったけれども、モヘルニツェで散々歩かされたせいで、翌日から靴を履くだけで足が痛いと
いう状態に陥り、二週間の乗り放題乗車券はまだ何日分か残っていたが、今年の夏のモラビアの街巡りは締まらない終わりを迎えた。来年は鉄道にこだわらずに、バスも使ってあちこちするかなあ。バスは運行している会社が多いので、ないとは思うけど期間限定の乗り放題券があってもあんまり役に立たなさそうなんだよなあ。
さて、モヘルニツェについて念のためにちょっと調べてみたら、この町は教会領でオロモウツの司教座に属していたようだ。ラウトネルが魔女裁判にかけられたときのシュンペルクの領主がリヒテンシュテイン家で、当時のオロモウツ司教もリヒテンシュテイン家の出身だったらしい。この二人の許可がなければラウトネルがつかまることはなかったはずだから、カトリック教会内での勢力争いに世俗のシュンペルク領主が手を貸したようにも見える。
どうにもこうにも、宗教、とくにキリスト教というのは度し難いものである。チェコ人の多くがキリスト教から離れたのもむべなるかなである。
2019年8月10日22時30分。
タグ: チェコ鉄道