全24件 (24件中 1-24件目)
1
そしてまたこの受験虐待を産んだ要因は別にある。それは公立学校の授業レベルの低下だ。公立の授業レベルが低下しているから、せめて進学先は私立に!親がこう考えるのだ。公立小学校の授業レベルが低いから、「お受験」をして私立の小学校へ。公立中学校の授業レベルが低いから、「中学受験」をして私立の中学へ。公立高校の授業レベルが低いから、「高校受験」で私立の高校へ。この流れが首都圏を中心に出来上がっている。では、なぜ公立学校の授業レベルが低いのか?ずばり危機感が無いからだ。来年も生徒が入学してきて当たり前!入学した生徒が毎日学校に来て当たり前!そこには努力も向上心もない。しかもだれに注意されるでもなく、だれに評価されるでもない。勉強が分からないのは子供のせい、家庭環境のせい、親のせい、公立学校という性質のせい、、、となんとでも言い訳ができる。それでいて、ここ最近は『学校の先生の働き方改革が急務だ!』なんてことをほざきはじめているのだ。どこまで仕事をしたくない連中なんや!?仕事はしたくないが、給料とボーナスは欲しいって・・・どんな思考回路しとんんねん!
2019.06.30
コメント(0)
もうひとつのパターンは、親がゆとり教育世代でななく、子供がゆとり教育世代だ。先日51歳の父親が受験晩強をしないことを理由に12歳の息子を刺殺した事件の裁判が行われた。まさにこのパターンだ。もちろんこれもゆとり教育が生んだ偉大なる遺産だ。なのに先日この裁判に関して報じるテレビ番組で、コメンテイターとしてこの父親がいかに親として失格かをドヤ顔で語っていた人間は元文部科学省のトップ官僚でゆとり教育導入にあらゆる手段を講じたひとりだ。自分が導入した制度が生んだ事件を、知らん顔して親が悪いだの教育制度が悪いだのと知ったような口を叩いてギャラをもらって生活をする・・・自分で放火した建物の火を今度は消防士として消しに行くようなものだ。詐欺中の詐欺である!
2019.06.29
コメント(0)
大きな成果その1は、やはり児童虐待の増加だ。ちゃんと教育してもらってきてない人間が親になる。もちろん自分の子供に教育できない。子供が自分の思い通りにならない。「がんばらないでいい」「あなたは生まれたときから特別だ」と言い続けられた人間は、がんばって子育ての仕方を研究することもなく、特別な自分の思い通りにならない人間にはたとえそれが自分の子供であってもただの怒りの対象になって自然な流れで虐待をする。それが相手の連れ子であったらさらに容赦はない。次の大きな成果は、受験虐待だ。最近増加している、子供に受験を強いて、勉強をしなければ、あるいは親が満足いく成績がとれなければ虐待をするのだ。その原因は成果その1とほとんど差異はない。しかしこれにはパターンが2つある。ひとつはもちろん親自身がゆとりズブズブ人生だったので、勉強の仕方が分からない。そして大人になっても何の勉強もしていない。そんな親に勉強しろと言われて、子供がするわけがない。
2019.06.28
コメント(0)
年齢で言えば、40歳以下の先生はこの部類に完全に属する。厳密に言えば45歳以下だが、45~41歳の中のいくらかの割合の教師はまだ持ちこたえている者もいるようなので、おおまけにまけて現在40歳以下に指定させてもらう。学校の先生で40歳といえば、もう中堅クラスだ。よっぽどのことが無い限り、それなりの責任ある立場にあり、その仕事ぶり(正直にいうと才能・能力)が学校の運営に大きな影響を与えることも少なくない。もちろん若手教員の育成や指導も当然ながらおこなわなければならない。そういう立ち場の人たちが、児童・生徒時代にユルユルのゆとり教育を受けてきて、そのままユルユルのゆとり教育の現場で教壇に立ってきた人たちで構成されているのが現在の学校教育の実情なのだ。これは実にゆゆしき問題であり、ちょっと内情を知っている人ならだれにでも分かることなのに、誰もこれを口にしない。しかし口にしなくとも、その悪しき成果はどんどん我が国に問題や事件を起こしている。
2019.06.27
コメント(0)
これが約28年前の話である。この年から2年連続で学校視察なるものに行かせてもらったが、どの学校でも「いかにわが校は教員にゆとりを持たせているか!」の自慢を延々と教頭や校長から聞かされる。中には夏休みに教員全員で2週間にわたってオーストラリアに旅行をして教員の心にゆとりを持たせていると意気揚々と語った校長もいた!そう、これを聞いて皆さんが思ったのと同じことを私も感た。その間に学校や生徒に何かあったらどう対処するんや・・・だ。当時はまだ謙虚な心があった私は少し遠回りに「その間の部活動はどうするんですか。」とツッコんでみたら返ってきたこたえは「部活動が生徒と教員を圧迫していますからね。」だった。そう!ゆとり教育導入時は部活動は悪であった。そして休みになって土曜日は部活動は禁止で、子供を地域に返すようにと文部科学省からの通達もあり、実際東京のある中学校がその禁を破って部活動をして文科省から警告を受けたことは全国ニュースで報道されたほどであったのだ。長くなったが、ここまでは以前にも述べたことがあるが、今回はその先に言及したい。皆さん考えたことはありませんか。このユルユルのゆとり教育が完全に導入されてから教員になった先生もいる。そしてさらに、自分自身も児童・生徒時代にユルユルのゆとり教育を受けて、そのまま同じくユルユルのゆとり教育の教壇に立った先生すらいる。そんな先生たちが「脱ゆとり教育」なんて言われても何が何だか訳が分からないのだ。
2019.06.26
コメント(0)
その理由は至って簡単!「楽できるから」だ。これも再三言ってきているが、学校の先生たちの中で何の疑問もなく共通理解されていることが幾つかある。その最たるものは「我々の仕事はキツイものだ!」である。なぜキツイかというと「子供を相手にしているから」と言う。ほな辞めたらええやんけ!と私は思うし行ってきた。でも連中は辞めない。それは先生というはしんどいけど、先生という公務員は美味しいからだ。しかも私のように一般企業に勤めた経験のない連中がそれを嬉々として言い放つ!何と比較していうてまんのん?だれにもその仕事ぶり(特に授業内容)を厳しく評価されることもなく、自分の仕事の成果をいくらでもごまかせる。それでいて給料と賞与をもらえて40日を超える夏休み、2週間の春休みと冬休みがついてくるからだ。こんな美味しい仕事はないのだ。それでいて、土曜日も仕事をしなくて済んで、授業内容も削減される。仕事時間も内容も少なくなるのに給与は変わらない!そら反対しませんわ!つまり、当時の現場の先生たちは、目先の「楽さ」に飛びついた!これが真実だ。
2019.06.21
コメント(0)
ではなぜ文部科学省はゆとり教育を取り入れたか?まずこれも誰も言わないが、明確に諸外国からの圧力があった。日本人は勉強し過ぎで働き過ぎるから優秀なのだ。それを何とかしたかったのだ。そしてその圧力に乗っかったこの国の政治家や官僚が必ず行う「まず導入ありき」の精神で、いろいろ後付けのわけのわからない屁理屈や根拠の不明確なデータを振りかざして世論を先導した。それでも多くの国民は疑問符を投げかけていたが、これが選挙の争点になることもなく、いつの間にか仕方なく段階的に導入された。まずは学習内容の大幅削減と、それに伴う授業時数の削減。そして隔週週休二日制を導入して、世間がそれに慣れてきたらもう完全に週休二日制にした。これも再三申し上げているが、私が初めて教壇に立った初年度は土曜授業も実施していたが2年目からは隔週週休二日制となった。それを迎えようとする4月最初の職員会議で口裏合わせが行われた。生徒や保護者から「授業時数が減った」と言われたら「授業時数は減らない」と言い切ることが伝えられる。どう計算しても明らかに減っているのにだ!それを伝えたのは校長だが伝えさせたのは文部科学省である。これはほんの氷山の一角で、実に多くのウソの上になり立っていたのがゆとり教育なのだ。ここまで読むと、なぜ現場の教員がそれに反対しなかったのかとの疑問を抱く人も少ないないと思う。
2019.06.19
コメント(0)
ここ数日であれば、警察官を刺して拳銃を奪った犯人・・・警察官の立場を利用して高齢者から多額の現金を奪った犯人・・・最近であれば、どうせ死ぬから他人も巻き添えにと無差別殺人を実行した犯人たち・・・この世には必要ないと身体障碍者施設で何人もの人の命を奪った犯人・・・未成年であるにも関わらず深夜に外に出歩き遊び呆けた挙句に事件に巻き込まれて命を落とした多くの若者たち・・・そして13万人を超える不登校の児童・生徒たちの多く・・・これ全部がゆとり教育が生み出した人間だと言い切れる!いつだったかある場所で「文部科学省の官僚って何か変な薬でもやって頭がおかしくなって[ゆとりゆとり]って言い出したとしか思えない!」と発言し、その会の主催者から大目玉を喰らったことがあったが、つい先月の末に本当に文部科学省官僚が大麻で逮捕されたときは「見てみい!」と心の底から叫んだ。
2019.06.18
コメント(0)
この状況を作りだした連中!皆さんもうお分かりですね。そうです、再三私が言ってきている文部科学省です。彼らの言い分には何の正当性も無かったし、今に至っても微塵も無い。昨今の子供への虐待死の報道を見て、連中は心の中で思っている・・・「ゆとり教育世代だ!」と。でも黙っている。だれも気付いていないと思っているからだ。気付いてるっちゅうねん。中にはそれを口にせずに、中には当時の文部科学省でゆとり教育の推進をガンガン進めた、現在教育評論家を名乗る人間が虐待死について分析をしている姿をテレビで見ると、『恥知らず』とはこいつらのためにある言葉だと確信する。
2019.06.17
コメント(0)
厳しい環境から急激にユルユルでアマアマの環境に置かれた人間の羽根ののばし方には際限がない。そしてまた厳しい環境に戻るのであればまだしも、そうでない場合は自制のできない人間は目も当てられない状態になってしまう。それまでのいわゆる『詰め込み教育』から解放されてユルユルの『ゆとり教育』に放り込まれた人間の多くはそうなってしまったのだ。そしてそのまま大人になって親になり、、、子供をただ虐待してしまう。連中はその虐待を躾(しつけ)言うが、ちゃんと躾(しつけ)をしてもらったことのない人間が親になってその子供をちゃんと躾(しつめ)できる道理はない。ちゃんと大人に叱られたことのない人間も同様だ。今この国ではそういう人間が・・・大人が親になり、教育者になり、文部科学省の役人になり、子供に接し、教育について知った口を叩いている!この状況を30年ほど前に作った連中はだれや?
2019.06.16
コメント(0)
そんなアホガキも時間の経過につれて年齢と身体だけは大人になって、またさらなるアホガキを産む。もうそうなればショッピングセンター等の公の場はもう全てがアホガキ達の遊び場となる。どこでもかしこでもガキが走り回り叫びまわり人にケガを負わせモノを破壊してもだれも注意できない。アホ親はおそらくアホガキに言うのだ。「走れ!走れ!もっと走れ!」「騒げ!騒げ!もっと騒げ!」またやがてそんなアホガキが運転免許を取得してしまえばもう人を轢きまくり殺しまくりの運転をする。やがてそんなアホガキが子供を産んで形ばかりの親になればどうなる?自分の自由や遊びの時間を奪う自分の子供は邪魔者以外の何物でもなく、排除の対象となる。だから平然と殺すことができる。これが児童虐待だ!児童虐待は教育からはじまっている。・・・近年子供を殺害する親の年齢を考えてほしい。40歳以下だ。今40歳の人たちはちょうど以前の厳しい教育を小学校まで受けてきて、中学で急にゆとり教育に文部科学省が舵を切った時期を迎えた。「がんばれ!」「努力しろ!」と言われるのが普通。悪いことをすれば大人が愛情を持って、大人の責任から叱ってくれるのが普通。時には親や先生にビンタをくらう光景も目にしているのが普通。そんな小学校時代を過ごしてきた子供が中学生になったら・・・急にゆとり教育とか言われて、「がんばらないでいい!」「努力なんていらない!」と言われるのが普通になる。どんな悪いことをしても大人は叱らない。叱れない大人は子供の悪い面を見て見ぬふりを決め込むのが普通。そんな生活がやってきたのだ。
2019.06.15
コメント(0)
早速今日あった。大人や親が子供を叱れない状態からくる危険な状態に出会った。夕方のスーパの食料品売り場で子供が走っている。それを見て走っていない子供も走り出す。だって誰も大人が叱りも注意もしないから「走っていいんや」「自分も走ろう」と思うのだ。そのうち売り場にいる子供が全員もれなく走り回る。ほとんどの親は見て向ぬふり。それでも少しまともな親は自分の子供に声をかける。「走らないでくださ~い」なんで敬語やねん!今日は四方八方から飛んでくるアホガキたちをショッピングカートでブロックしたので、私は少し足が不自由な後期高齢者の母をガードすることができた。そのうち誰かがアホガキにぶつかられてケガをするだろう。いや、すでにケガを負わされたお年寄りは多いかもしれない。しかしガキに突き飛ばされて床に叩きつけられたお年寄りが、そのガキを捕まえることなんてできない。ガキは知らん顔して走り去る。もうケガを負わされた高齢者は泣き寝入りするしかないのだ。高齢者の身体は申し訳ないがもろい。そのアホガキの一撃でもう生涯自分の足で立てなくなることだって十分考えられる。今現在高齢者の運転が問題になっているが、そんなに遠くない未来にはガキに突き飛ばされて命を落とす高齢者が出てくることは火を見るより明らかだ。でもそのときアホガキたちは責任を取れるのか?
2019.06.14
コメント(0)
最近相次いで起こっている幼児・児童虐待による死亡事件!その理由は明らかなのに、だれもそれを口にしない。しかもあたかも他に原因があるような論調で世間に対して大声でモノを言う。たとえば「なぜ行政は気づかなかったのか」「なぜ近隣の人たちは気づかなかったのか」「なぜ法整備が進まないのか」等々、、、。そしてつい最近、児童虐待防止法改正案が衆議院で審議に入り、首相が「根絶に総力をあげる」と発言したらしい。たとえ躾(しつけ)でも親が子供を虐待してはいけないと法律で規定するとのことだ。この国のことだからまた教育の現場も知らないで自分自身の子育てを失敗している『有識者』と呼ばれるおめでたい連中が「言葉の虐待もダメ」とか言い出して、大人が子供を注意することも法律違反となる日も近い。私はいつも言っているが、そうなれば子供にも大人と同じ責任が生じなければ話がおかしくなる。でもこの国はそんなに遠くない先のことを考えずに、今この目の前のことにフタをすればいいという短絡的な手段しか講じない。
2019.06.13
コメント(0)
さて、一日間を置いて反応を見てみた。おそらく何日間を置いても結果は同じかと思う。この話題に関してのメールが個人的に十数件舞い込み、賛否両論だった。『賛』のほとんどが男性から、『否』のほとんどが女性からだった。ざまあみろ!である。しかし数件のメールは『賛』でも『否』でもなく、ただただ私を心配するものだった。その数件のメール内容の共通点は、「そんなこと言うてるのが結婚はおろか彼女もできない理由てはないか・・・」である。そう!それがこたえだ!
2019.06.12
コメント(0)
そこで、結婚を申し出るときにそのあたりの問題をクリアにしながらも短い言葉で表現することはできないか…と、世の男たちのために私なりに模索をしていたのだ。で、今年になって、令和になってそれに関する現時点で最も正解に近い言葉を発見した。ある映画にそれはあった。といってもその映画を私は見た訳ではない。その映画を見た人から聞いたのだ。その映画は原作の漫画があるが、私はそれもほぼ読んだことはない。なので原作の中にその言葉があるか否かは分からない。その言葉は、「僕はあなたを幸せにする自身はありません。でも僕が幸せになる自信はあります。」だ。どうだろうか男性諸君!そろそろ君たちも結婚後の人生に幸せを求めてもいいのではないだろうか。幸せにする結婚ではなく、幸せになる結婚だ。もちろんお互いがお互いを幸せにし合う結婚がベストなんだろうが、それはあくまで理想であってどうやら現実ではないようだぞ。男性である君が「言われなくてもお互いが幸せになることを求めている。」と思っていても相手は違うぞ。相手は一方的に「幸せにしてもらおう」と思っているぞ。そこに君の幸せは微塵も含まれていない!そんな相手に「幸せにします」なんて軽く言うから無間地獄にはまるのだ。そして男性諸君が幸せになる結婚を目指すなら、選ぶ相手の条件も自ずとから変化していくのではないだろうか。
2019.06.10
コメント(0)
『男女同権』とか、『男女平等』とか、そんな言葉を耳にするようになってかなり長い年月が経つ。それを否定するつもりはない。男性の陰に隠れてしまいその権利を侵害されてきた女性の立場も理解しているつもりだ。(そんな時代でも男性の陰から男性をいい意味で操ってその才能や影響力を社会に見せつけた賢い女性の存在についての言及は、今回は割愛させていただく)私だって伊達に学生時代に女性黒人文学の研究をしてきた訳ではない。白人社会から差別というにはあまりに惨い仕打ちを受けてきた黒人社会において、黒人男性にその人権を侵害され続けてきた黒人女性たちの歴史は筆舌に尽くしがたい。そしてやがて彼女たちは黒人男性からの独立を目指した。もっと正確に言うなら、目指したのは完全なる独立だ!なぜなら彼女たちは痛いほど知っていた・・・少しでも依存していては独立などできないことも、権利を主張するのならば、責任も背負わなければならないこともだ。だからこそ彼女たちの言う『幸せ』は、だれかにしてもらうものではなく自分自身で構築するのもなのだという覚悟を伴っている。。もちろん日本人でもそれを知っていて実行している女性もいる。が、その割合はあまりに少ない!日本はまだ男女同権とは言い難い。その証拠に企業の重役や議員の女性の割合が少ないなんていうが、その数字はそのまま覚悟のある女性の割合であると私は思う。
2019.06.09
コメント(0)
しかも男性諸君によく考えてみてほしい!なんで?いつから?どんな論拠で、男が女たちを幸せにしなかればならなくなったん?私よく生徒たちにいうんですよ。「難しいことを簡単に言うから今はよく分からんでも聞いて覚えておいてくれ・・・『自由』や『平等』って我慢することで、『平和』も我慢することで保たれる。『幸せ』も然りやで!」って。つまり、自分だけ『自由』、自分だけ『平等』、自分だけ『平和』、自分だけ『幸せ』・・・こんな状態は絶対に、誰かの『自由』、誰かの『平等』、誰かの『平和』、誰かの『幸せ』を犠牲にした上になり立っている!これを伝えたいのだ。翻(ひるがえ)って、結婚の提案をするときに男だけが「あなたを幸せにします。」と宣言することは「私の幸せは犠牲にします。」と宣言しているのと同意なのだ。女たちはそれを知っている!だからこそその言動は全て男たちにそれを言わせるために計算されたもので、言わせた後はどうなるかは分かったものはない。男たちよ!それでいいのか?
2019.06.08
コメント(0)
既婚男性諸君は経験があるはずだ。たとえば奥さんが洗面所の電気を切り忘れて就寝したとする。翌朝あなたがそのことを告げる。「昨日洗面所の電気つけっぱなしで寝てたよ。」と。どんな返事が返ってきますか?そのほとんどが間違いなく「あんただってこないだ玄関の電気つけっ放しだった」のような言葉ではないだろうか。今、昨夜の洗面所の電気の話をしているのに、論点をすり替えてきているのだ。我々男はそのとき瞬時に思う。…それやったらこっちも言うことは山ほどある。……しかしそれを言い合ってはただの泥仕合になる。……それでも続ければ最後は殴り合いになるか、離婚になるかのどちらかだ。……もうやめておこう。…そして口にする言葉が「ごめん。」なのだ。女たちはそれで男に勝ったと思っている。こんなことが女たちの言う「幸せ」なのだ。そのときそのとき、その瞬間その瞬間が自分にとって有利ならそれでいい。つまり結婚前に「幸せにする」なんて言ってしまえば、一生涯に渡って瞬間瞬間に全てにこんな譲歩を強要されることを約束してしまう。それはもう生き地獄だ。地獄の定義は終わらない苦痛だぞ!「一生幸せにします」なんて熟慮せずに口にしてしまうと、この苦痛が生涯続く。それを自ら望むことになる。男たちよ!そんなことでいいのか!
2019.06.07
コメント(0)
そのワードはズバリ!!「幸せにします」だ。逆に言うとこの台詞を言わせれば女たちの勝ちなのだ。「絶対に幸せにします」なんてのはもっての外(ほか)中のもっての外である。なぜなら「幸せ」や「幸福」の定義が明確になってないのだ。そこをしっかり明確にしておけば問題ないのだが、それをしていない男たちがあまりに多いのではないだろうか。我々男たちの「幸せ」は、人生を通した長いスパンの目線で語られている。たとえば紆余曲折はあっても人生の晩年に幸せだったと言ってもらえることを意味している。しかしながら、どうやら女たちにとっての「幸せ」は今ここ、この瞬間に存在しているようなのだ。今まで多くの夫婦を見てきたが、その相異が大きな不幸を生むことが多い。そして共に暮らしていく中でその相異からくる不協和音を感じたとき、女たちは切り札中の切り札・伝家の宝刀として「幸せにするっていったのに!」と言ってくる。しかもその不協和音を解消すべく話を進めた場合、自分が不利になることを知ると「幸せにするっていったのに!」と言い出して、話の論点をすり替えて自分を有利な立場に持っていこうとするのだ。実に卑怯極まりないことであるが、これが現実だ。
2019.06.06
コメント(0)
私が得たのは結婚を提案するときの正解だ!男性諸君!君ならどう言う?またはどう言った?まずそこでの間違いは、『どう言えば相手が喜んでくれるか』または『どう言えばオッケーしてもらえるか』を考えることだ。その根底には『この人でないとダメ』といった考えがあるのだ。執着を捨てよ!これは約2600年も前にお釈迦様が言った言葉だ。さすがお釈迦様である。『この人でないとダメ』という執着がそもそも失敗を生む。野球でいえば打席に立った初球だけをフルスイングしようとしているのと一緒だ。初級から外角竹目のクソボールを投げられたらもう終わりだぞ!ボール球はボール球と認識して見逃せばいい。君にはヒット・エンド・ランのサインもスクイズのサインも出ていない。とにかく打席に立つことを目的とするべきで、立てる打席があることに感謝するべきである。私のように打席が回ってこないどころか、球場内にも入れない人間だっているのだ!しかし実際はこの執着を持ってプロポーズをしてしまう悲しい男たちがあまりに多いのではないだろうか。それはもう完全に女たちの術中にはまってしまっている結果だ。そしてその執着は女たちが喜んでくれるであろうある単語を容易に引き出してしまう。そのワードを口に出してしまうから、地獄の日々が君たちの命を容赦なく浸食してしまう結果を呼んでしまうのだ。
2019.06.05
コメント(0)
気付けば先月53歳になっていた。もうこの歳になると私に「なんで結婚せんの?」なんておおよそこの世で考えられる最も愚かな質問をしてくる人間もいなくなって清々する。しかしながらいまだにこの私に恋愛の相談や結婚生活の悩みを打ち明けようとするアホ達はまだこの地球上に若干存在する。早々に駆逐したいものである。そんな私にも最近ひとつの正解がでた!もちろん実体験からくるのもではない。再三申し上げているが、私にとって恋愛とか結婚なんていうものはSFやファンタジーの世界のもの以外の何物でもない。もしかしたらどこかにあるものかも知れないが、私にはないものなのだ。でもそんな私でも読書や良い映画がそれなりの正解を教えてくれる。最近ある映画を見て一つの正解を得ることができた。今回はそれを紹介する。SF・ファンタジーの世界に住もうとする男、またはこれから足を踏み入れようとする男たちへのせめてもの私からの手向けである。あとはしっかり成仏してほしい!言っておくが私は君たちの骨を拾うことはない。死して屍拾う者無し!を肝に銘じておいてくれ。しかしこの正解を知っていれば、もしかしたら何十億人もの男たちの死者の中で1人か2人くらいは生き残れるかもしれないぞ。
2019.06.04
コメント(0)
世の中の全ての事象は整数で割り切れる!そう言い切った自らの論が間違っていることを自分で証明してしまう。割り切れない数・・・つまり無理数の存在を発見してしまう。彼はそれを隠して過ごすのだが、彼が育てた弟子のひとりがやがて無理数の存在に気付いてしまう。そしてそれが原因となりピタゴラスは自らの教団を追われ、弟子の手にかかって命を落としてしまう。この世を去る瞬間、彼は何を思ったのだろうか。数字を全て理解しきったと思い込んでいた自分自身の愚かさであろうか、あるいは数字の奥深さの脅威だったのであろうか、今となっては知る由もない。しかしながら、いろんな意味で数字がもつ数字以上の意味を感じずにはいられなかったのではないだろうか。
2019.06.03
コメント(0)
昔、ピタゴラスは数字には神が宿っていると言ったらしい。その根拠は、この世の全ての現象は数字で解明できるという考えにあった。その根拠の実例のひとつとして、この世のものは全て整数で割り切れるとも言い切った。たとえば円周率は現時点で割り切れていないだけでいつか割り切れるのだ。やがてピタゴラスはそれまで解明されていなかった事柄や、当たり前に身近にあり過ぎてだれも気に留めることのなかった事柄まで整数で割り切れることを証明していった。一説によると数字を神格化していったのはピタゴラス本人ではなく、彼の言葉が本当であったことを次々を目の当たりにしていった弟子たちだったともいわれているが、それも納得できるような気がする。おそらく彼ら彼女らは、次第に数字に数字以上の意味を見出し、感じずにはいられなかったのであろう。そして皮肉なことに最後の最後にそれを感じたのはピタゴラス本人だったのかも知れない。彼は数字が原因で命を落とすことになる。
2019.06.02
コメント(0)
ちなみに素数というのは一説によると数学の世界のものではなく、自然界のものだという話もある。人によっては素数は天あるいは神が人間に与えた暗号だという人もいる。たとえばセミだ。アメリカ北部では17年ゼミと呼ばれるセミが存在するという。その名が示す通りに17年周期で地上に現れる。その理由は天敵ある鳥が3~4年周期で大量繁殖するので、3と4の倍数ではない素数の17年を選んだというのだ。同様にアメリカ南部では13年ゼミというセミがいるらしい。同じく13も素数である。つまり自然界または生命は素数を意識しているといえるのだ。これを神秘だという人もいるが、その気持ちを理解するのはそう難しいものではないだろう。しかしながらそれを知っていてそのセミが姿を現す年に、人間がセミの仮装をしてパレードを楽しんだ後その17年ゼミをつまみにビールを飲むところまで自然界または生命は想定できなかったことは残念である。セミは新鮮な状態でゆでるとエビより美味しいらしいが・・・試してみる勇気は私にはない。
2019.06.01
コメント(0)
全24件 (24件中 1-24件目)
1