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そうだ、デジカメを持って走りに行こう。そう思いつたのは6日前の夜。でもこんな寒い時期に無理をすれば、筋肉を傷める可能性がある。それに古傷が痛み出す危険性も。そんなことまで心配なのが老ランナーの悲しさだ。思いついたのは4つの橋を渡り、山を登って一周するコース。これはちょっとした冒険。ここ3年ほど走ってないし、何しろ冬は初めてなのだ。 距離やその後の様子は分からないが、ともかく行って見よう。多分道路の凍結は大丈夫なはず。ところで最近は時計のストップウオッチを押していない。あまり使い過ぎてボタンが動き難いのが1つ目。手袋を2重にしてて押し難いのが2つ目。時間を気にせずに走ろうと思い直したのが3つ目の理由。距離も時間も測らないランニングは、ちょっぴり冒険心を誘う。 念のために、薄手のウインドブレーカーを腰に巻く。寒くなった時のための用心だ。ポシェットにはミカンとお菓子を若干。それに小銭も。こちらはガス欠にならないための用心。早速「ホットレモン」を買って飲む。う~む。温かくて甘くて実に美味しい♪ これは冬のランニングには持って来いだねえ。 愛宕大橋 これは1つ目の「愛宕大橋」で6km地点。名前の由来は、この近くにある愛宕神社から。この橋を渡らずに直進して向山経由で帰れば11km。登り坂が長くて良いトレーニングになるけど、交通量が多いのが難点か。土樋から米ケ袋を経由して霊屋(おたまや)に抜ける。 霊屋橋 これが2つ目の霊屋(おたまや)橋で7.2km地点。私の時計は安物で、GPS機能はついておらず、距離は帰宅後に「ジョギング・シュミレーター」で計測した。橋の名前の由来は、仙台藩祖伊達政宗の霊廟である瑞鳳殿が付近の山上にあるため。この橋を渡り、右折して評定河原へ向かう。 評定河原橋 3つ目の評定河原(ひょうじょうがわら)橋の上から向かい側を観たところ。ビルや高層のマンションが多いね。ここは7.7km地点で、川を渡って吹きつける西風が冷たい。名前の由来は、藩政当時ここで評定=裁判を行ったため。川向うの片平には、現代の裁判所があるけどね。この橋を渡って4つ目の大橋に向かう。 大橋 大橋があるのは8.4km地点。向かいの山上に通称青葉城の仙台城が見える。ここは青葉城に向かうメインストリートで、橋の下には禁制のキリシタンを処刑した「水牢」があった。今は「仙台国際ハーフマラソン」や「日本大学女子駅伝」や「全日本実業団女子駅伝」のコースで、川上には「地下鉄東西線」の橋が完成。来年はここを地下鉄が走るよ♪ 五色沼 ここは8.7km地点の五色沼。仙台城三の丸の外堀の跡。三の丸には現在「仙台市博物館」がある。五色沼では明治の初期に、我が国で最初のアイススケートが行われた。二の丸跡にあった旧第二師団の兵士が、凍結した池の上で滑ったのだ。今も池は凍結して、いかにも寒そうだ。 隅櫓 二の丸跡の石垣 ここは五色沼の直ぐ上にある隅櫓(すみやぐら)と二の丸跡の石垣。両者の間に、かつては大手門があった。隅櫓は地震のために何度か修復している。石垣も同様に歪みが出ている。ここから左折し、青葉城経由で帰れば14kmだが、直進して二の丸跡にある東北大学の構内を突っ切り、青葉山へと登って行く。コース最大の難所だ。 東北大学工学部 ここは東北大学工学部で10.5km地点。広大な敷地には20以上の巨大な建て物がある。また理学部、薬学部なども青葉山の山上にあり、麓の川内にある学部と合わせたら学生数は2万人を越えるのではないだろうか。最初に工学部が移転してから既に40年以上。目下建て替え工事が進んでいる。 地下鉄工事現場 ここは11.2km地点で、地下鉄東西線の「青葉山駅」付近。目下急ピッチで工事が進んでいる。左手に少し芝生が見えるが、ここは元ゴルフ場の跡地。東北大学の施設も建築中で、さらに雨宮地区から農学部が移転すると、医学部を除く全学部が川内と青葉山に集結し、静かな山は学生で溢れるのだろう。 宮城教育大学 ここは11.6km地点にある宮城教育大学。昭和40年に東北大学教育学部の教員養成課程が別れて独立した大学で、付属小学校、中学校、大学院を持つ。私の2番目の職場で、このキャンパスは4年3か月過ごした懐かしい場所。あれから50年近い年月が流れ、小さかった構内の樹木が今では鬱蒼と茂っている。ここからさらに坂道を登って行く。 凍った道 青葉台のバスの終点を過ぎて暫く行くと、舗装が切れた山道になる。この道は細くて、ほとんど人が通ることはない。凸凹の道が凍結している。標高は200m程度だが、周囲に建て物が全くないこの周辺は、気温が市内よりも5度は低いはず。この道が拡張して舗装される日が来るのだろうか。このまま行けばカタクリの群生地に出、春には可憐なカタクリの花が見られる。 治山の森 途中から「金剛沢治山の森」に入る。ここは営林署の管轄だが、自由に市民が入ることが出来る。青葉城の裏手にある広大な森は、藩政時代防衛上伐るのが禁止されたためほとんど原始林に近い状態で残っている。大都会の付近にこれだけの森が残るのは、北海道以外では仙台くらいなもの。「杜の都」と言われる所以だろう。自然過ぎて、時々熊が出没するため要注意。 ここは約15km地点。10年ぶりくらいに通ったのだが、すっかり道を忘れ、途中で倒木のために行き止まりになった。再び東屋まで引き返し、そこから真直ぐ降りたら道が見つかった。いつもと逆方向なので迷ったのだ。やれやれ。3時間ほどで無事帰宅。距離は17kmほどのようだ。冬は厳しいが、春から秋へかけてのトレーニングにはとても良いコースだと思うね。
2014.01.12
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≪ 今年の予定表 ≫ モクレンの花芽 私の今年の走る予定は、とても皆様にお見せ出来る代物ではない。それほど「しょぼい」内容だが、恥を忍んで発表する。2014年はレースよりもマラニックが主体だ。(「マラニック」とは、ピクニック気分でマラソンを楽しむと言う意味の造語です) 1月から3月までは、ひたすら練習のみ。これでモチベーションが落ちないよう、自分で注意 したい。4月 「秋保夢舞いマラニック」30km 仙台市内 仙台明走会主催5月 「仙台国際ハーフ」ハーフ 仙台市内 「仙台鉄人会5時間走、10時間走大会」 仙台市内 仙台鉄人会主催 出場種目は未定 冬桜6月 「いわて銀河」50kmの部 岩手県1泊 (エントリー済み) 「みちのくラン」30km程度 宮城県内:日帰り7月 「明走会チャリティーラン」 自由ラン 仙台市内 仙台明走会主催8月 「薬莱山とお足マラニック」 55km 宮城UMC主催 宮城県内:日帰り☆9月 「猪苗代湖マラソン」 50kmの部 福島県1泊☆10月「浜名湖一周ウルトラマラソン」 100km 静岡県2泊(☆はどちらか一つを選択) 12月 「NAHAマラソン」 フル 沖縄県 2泊 (古稀の記念で出場予定) 以上のレース出場に要する経費は全て私の貯金からの支出で、家計には一切迷惑をかけない。「宿泊するレースは年2回まで」との妻の要望のため、☆のレースはいずれかを選ぼうと思う。また「古稀記念特別枠」として認められた1回分は、久しぶりの「NAHA」にしたい。これには妻も連れて行こうと考えている。 以下は「峠越えラン」の予定。走るのは単独。1) 自宅(仙台) ~ 大沢峠 ~ 福島県相馬市 65km 日帰り2) 宮城県気仙沼市 ~ 岩手県一関市 50km 前日気仙沼市に1泊 ☆3) 宮城県大崎市 ~鍋越峠 ~ 山形県大石田町 62.5km 日帰り ☆は<被災地訪問枠>として妻に認められた分。 以下は被災地訪問マラニックの予定。走るのは単独。1) 自宅 ~ 名取市海岸部 ~ 仙台市内 28km 往路は妻も一緒の予定2) 浜吉田駅 ~ 名取駅 27km 宮城県内3) 矢本駅 ~ 野蒜海岸 ~ 松島海岸駅 20km 宮城県内 (妻と一緒に石巻市まで電車で行き、帰路は矢本駅で妻と別れて走る予定) 以上の計画はあくまで現在時点での予定。昨年は自分の体調が思うようにコントロール出来ない年齢になったことを実感した。「峠越えラン」、「被災地訪問ラン」は体調不良で一度も実施出来なかったし、「薬莱山とお足」はマウンテンバイクでの往復だった。今年の体調もさほど変わらないはず。 走歴は元旦で35年目を迎えたが、ますますランニングの奥深さを感じている。3月で70歳を迎える私に、今年の計画が全てこなせるかどうかは不明。ウルトラマラソンが、そんなに甘いものではないことも承知の上だ。だが敢えて厳しい道に挑戦するのも一興。今年1年の頑張りを自分自身に期待している。
2014.01.08
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今年のテーマは『走りにかける』。「かける」は懸けるでも、賭けるでも、駆けるでも良い。年末年始の走れない時も暴飲暴食を慎んでいたせいか、体重や体脂肪率はさほど変わらずに済んだ。だが、同じ体重でも腹筋力が衰えると腹が出てたちまち醜い姿に変わるため、トレーニングは欠かせない。 今年の走り初めは3日。近くの公園の芝生を10km走った。本当は元旦から走る積りだったのだが、頭痛のため断念。4日はロードに出た。走友会の練習コースで、隣の市の山の上から名取川の堤防に出る。今の時期はとても北風が冷たいコースで、風が吹けば体感温度はたちまち零下になる。 このところずっと公園の芝生を走っていた。足の保護のためで、距離は10kmから14km止まり。それを続けるとその距離しか走れなくなるのが老ランナーの悲しさ。そこでたまには距離を延ばす必要がある。だが、舗装道路で足を傷めないかと不安が過る。それに途中で走れなくなれば、低体温症になるのは必至だ。 今年厳寒期のレースを避けた理由の第一はそれだ。1月末の「勝田マラソン」では、35km付近で倒れているランナーを良く見かけた。走力や健康に自信があれば別だが、昨年の経験で冬は無理しないことにした。幸い21kmは走れた。翌日の5日は公園の芝生ランを10km。そして昨日は休足日にした。 走友会の有志が塩竃神社まで往復50kmを走るのが元旦の恒例行事だが、これは初めから無理だと思っていた。新年会の案内が来たが、行きは送迎バスに乗らず、会場まで走って行こうと思う。家から8km程度だし、リュックを背負って走る練習にもなる。 走友会の忘年会で、トレーニングウエアを作る話が出たようだ。早速注文が来たが、迷った挙句頼むことにした。これから何年も走れる訳ではなく、レース出場機会もどんどん少なくなるだろうが、同じ会のメンバーとして気持ちが繋がれば嬉しい。たとえヨレヨレでも、ランナーであることを誇りにこれからも生きて行きたいのだ。 今年の参加レースがなかなか決められないでいた。3月までレースに出ないことは前述の通りだが、4月以降でエントリーしたのは1レースだけ。理由は昨年の秋ごろ、妻に「宿泊するレースは2回だけにして」と要請されたためだ。自分でも今年はレースを減らしてマラニックを楽しむ積りでいたが、それにしても遠征が年2回とは厳しい。 そこで意を決して妻に2回の遠征の他に、今年は古稀記念の1回と、被災地ランのための1回を許可して欲しいと申し入れた。妻も納得したようだ。妻の要望はお金のかかる遠征を減らし、その分で私と一緒に旅行に行きたいと言うのが理由。被災地も自分の目で確かめたいと彼女。そう言うことであれば、今年は色々考える必要がありそうだ。 ともあれ妻との交渉は無事成立した。そこで唯一エントリーしていた「いわて銀河」の宿を昨日予約した。今年は初の50kmの部。新しい風景を見られるのが楽しみだ。町内会の仕事、妻との旅行、そして自分の体調などを勘案して立案した今年のスケジュールは、明日紹介したい。<続く> 写真は昨年12月28日に撮影した近所の山です。
2014.01.07
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太白山 次男が東京へ帰った夜は9時間眠り、昨夜は7時間眠った。普段の睡眠時間は6時間程度なので、相当疲れていたのだろう。昨日の朝食は、残り物のお節料理で妻がちらし寿司を作った。これはこれで美味しい。私は食べ物に関して文句を言わない方だ。さて、今日の写真は昨年の暮れに撮った近所の雪山の風景。文章とは合わないけれど、どうぞお許しを♪ 「足が衰えて走れなくなり、満足なマラソン暦が出来なくなったため、年賀状は今年で廃止したい」とあったのは東京の雲峰師匠。私の3学年上だと思うが、その気持ちはとても良く理解出来る。思うように走れないことや、年賀状を書くのが辛く感じるのは私も同様だからだ。 走れねど止めてはならじと家を出づ未明の走歩日課7キロ 走れぬもわれの参加のみちのくラン乾杯音頭を取るが役目に 走る歌人雲峰さんの気持ちが伝わる短歌だ。その「みちのくラン」は今年で10回目だが、どうやら今回が最後になるようだ。淋しいがこれもまた定め。この世に終わらぬものなど無いのだから。 「お元気ですか。私の方は変形性股関節症で走れなくなりました」とあるのは、岡山の走友Sさん。彼女と初めて会ったのは、第1回四万十川100kmマラソンのコース上。お互いに初ウルトラ挑戦だった。その後彼女は乳がんで両方の乳房を失い、年老いた両親の介護に明け暮れていたと聞く。まだ若い彼女がこんな風になるとは、18年前には考えてもいなかったのだが。 「足の方は少しずつ良くなり、昨年は白馬岳などへの登山を楽しんでいます」。これは水戸の走友Kさんから。水戸はわずか1年で辞職した最後の地。悲痛な想いの私を慰めてくれたのが同じ練習コースで走っていた彼女だった。その彼女は長く足底筋膜炎で苦しみ、ランニングから遠ざかっていたのだ。山登りが出来るまで回復して良かったね、Kさん。 神戸の走友Nさんの年賀状には、細かい字で近況が綴られていた。昨年は大分から熊本まで1人で横断し、四国と淡路島も走ったとある。かつてはギリシャの「スパルタスロン」や「さくら道」を何度も踏破した若い彼だが、今はレースから遠ざかり1人でマラニックを楽しんでいるようだ。彼の気持ちが私には良く理解出来る。私も今後は単独マラニックが中心になるだろう。 「富士登山中の私の姿をテレビで観た」とあるのは沖縄の走友Tさん。笑顔のアップが写ったらしいが、勿論私ではない。今は年老いて走れなくなった彼の柔和な笑顔を思い出す。私が沖縄を去ってから既に24年。今年は古稀記念にNAHAマラソンを走りたい。もし抽選に当たればだが、その時は妻も連れて行こうと考えている。 香川のYさんは徳島勤務時代の上司だが、年賀状には久しぶりに100kmを完走出来たことや、自分が生まれた韓国で走ったことが記されていた。大阪勤務時代の走友Oさんは、「まだ走っていますが、タイムはなかなか上がりません」とある。彼と毎日のように走った万博公園を、昨年の神戸マラソンの前日16年ぶりに訪れ、懐かしく思い起こした私だった。 奈良の走友Iさんの年賀状には、昨年出たレースの記録が奥様の記録と一緒に載っている。どちらもまだ現役バリバリで、写真の姿も若々しい。千葉の走友Tさんからは「100kmの時間内完走が難しくなりました」とある。彼の心境が私にはとても良く理解出来る。それは数年前に私が辿った道だ。 埼玉のSさんは4千km以上の「トランスヨーロッパ」を3回走破した唯一の日本人ランナーだが、彼の年賀状はこの1年参加したレースや行事の写真。距離もかなり短くなって、ようやく普通のランナーに戻った感じだが、同級生ランナーはまだまだ健在だ。 宮城UMCの先輩A山さんの年賀状には、昨年フルマラソン10回完走し、今年は20回完走が目標とある。心臓の手術で数年間ブランクがあり、古稀を数年過ぎた彼がここまで復活するには並大抵の苦労ではなかったはず。その強靭な精神力に、心から拍手を送りたい。 宮城UMC仲間のT田氏の年賀状には、昨年愛嬢が結婚された時の写真。例によって1年間のレース状況が細かく記録されているが、娘の幸福を祈る父親としての彼の姿に心惹かれる。年末に走ったレースに、結婚したばかりの娘さんが応援に駆け付けたとUMCの掲示板にあった。何とも心温まるエピソードだ。 さて、今年は全国の走友達にどんなドラマが待っているのだろう。年頭に際して、ランニング仲間の健康と健闘を祈りたい。皆元気で今年も走ろうね~!!
2014.01.06
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≪ ランニング編 ≫ 今年のランニングは、かなり乱高下があった。昨年2回受けた不整脈手術の影響と言うよりは、老化に伴う衰えが原因だろう。もう走るのは無理と諦めたのが3度。そのうち1度は体調不良で、死を覚悟したほどだ。それでも私にとってランニングは生涯の友。気持ち良く走れるかどうかが健康のバロメーターになっている。では、今年のランニングについて振り返ってみよう。 いわきサンシャイン[1月] 歩72km 走11回219km 計291km レース:「寅さん詣り:東京」44km 6時間41分 大震災の年に不整脈が発生し、翌年2回の手術を受けたが長く不調が続き1年3カ月ぶりのレース参加だった。長距離は厳しいがゆっくり走れば大丈夫と、手応えを感じた。[2月] 歩67km 走9回142km 計209km レース:「いわきサンシャインマラソン:フル福島」 30km地点でリタイヤ 3時間45分 練習では1km9分ペースでしか走れないのに、レースだと一緒に参加した走友を待たせないため、7分ペースで走った。このため筋力が落ちた脚が持たずに痛みを起こしたのだろう。 マイシューズ〔3月〕歩83km 走11回188km 計261km〔4月〕歩129km 走7回127km 計256km 仙台国際ハーフ〔5月〕歩93km 走12回159km 計252km レース:「仙台国際ハーフ」 2時間23分18秒(ネット2時間19分56秒)大型連休中の庭仕事で疲労と膝痛発生。ピンチの中でも1km7分ペースで走れた。参加資格が緩和されたため私でも出場出来たのだが、自分が生まれ育った街のど真ん中を初めて走れて大感激だった。〔6月〕歩106km 走10回195km 計301km レース:「いわて銀河」100km 73.3km地点で時間切れリタイヤ 10時間38分 普段の練習が最長20km程度では100kmの完走は困難だが、これまでの経験で73kmまで走れたことに大満足。レース中痛みは出たが、大きな体調変化はなかった。 1994年中島トライアスロン大会(愛媛)〔7月〕歩86km 走8回83km 計169km レース「仙台明走会チャリティラン」22kmで終了。 北海道旅行から帰宅後、極度の体調不良で思うように走れなくなった。肺活量が落ち、一時はこのまま死ぬのではと思ったほど。この状態が9月上旬まで続いた。猛暑の影響もあったと思う。〔8月〕歩62km 走10回120km 計182km レース「薬莱山とお足マラニック」宮城UMCの合同練習会だが全く走れず、往復110kmをマウンテンバイクで参加した。走って参加出来なかったのは2年連続の事態。バイクはランの40%として換算。 浜名湖一周〔9月〕歩96km 走11回153km 計249km レース「磐梯高原猪苗代湖マラソン 65kmの部:福島」 10時間21分20秒 レースの2週間前から膝痛と極度の体調不良に悩み、整骨院で超音波治療を受け、競歩スタイルのトレーニングを開始してレースに臨んだ。前夜祭の直前に急激な体調不良となり、一時はレース参加を断念した。その後体調が回復し、翌日のレースでは慎重に走って何とか完走出来た。〔10月〕歩71km 走15回180km 計233km レース「浜名湖1周 100km:静岡」このレースは交通機関を使ってのワープやコース短縮が認められている。私は舘山寺から瀬戸港まで船を利用した。その船中で突然不整脈発生。下船後は亥鼻湖岸を省略して直進し、30km短縮。70kmを11時間かけて「完走」した。写真は30km地点。 神戸マラソン〔11月〕歩54km 走15回180km 計234km レース「神戸マラソン フル:兵庫」制限は7時間なので写真を撮りながらゆっくりと楽しんで走った。初めの3か所の関門をクリヤー後は全く時計が気にならなかった。沿道の暖かい声援が嬉しかった。写真は38km地点の「浜手バイパス」の上。フルマラソンの完走は大震災の年以来で、実に2年9カ月ぶりの快挙だった。〔12月〕歩40km 走8回89km 計129km(22日現在) 今月は全く無理をせず、主に公園の芝生を時々10km走る程度。冬季のレース出場はせず、来春までじっくり練習する予定だが、目標がないとモチベーションが下がるのが少々気がかり。〔年間合計〕歩946km 走120回1820km 計2766km〔これまでの累計〕83620km=地球2周+3500km以上 <続く>
2013.12.23
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雪の庭 先週の土曜日のこと。朝起きると外は真っ白。久しぶりの雪だ。年末が近づいたこの頃は、毎日何か一つでも任務をこなすことにしている。例えば年賀状の原稿を作ること、年賀状を買いに行くこと。畑の春菊を植木鉢に植え直し、日の当たる南側に移すとかである。この日は下水のどぶ掃除と、ベランダの枯葉などを掃除した。 夕方から、雪の中を歩いて出かけた。行き先は3kmほど離れた小料理屋。いつもながらの所属走友会の忘年会会場だ。何せ交通の便が悪い所なので、歩いて行くのが一番だが、生憎の雪。途中で間に合わないと判断し、スピードを上げた。会場はいつもは1階の和室なのに、この日は2階の部屋で、テーブルと椅子だった。これは腰を傷めずに済むので、老人にはありがたい。 集まったのは例年よりかなり少ない18名。中には来年卒寿(90歳)を迎えるA原長老も居られる。その一方一番若い20代のIちゃんが転勤先の東京から駆けつけてくれた。年齢差は60歳以上。A原長老もまだレースで2kmほど走る現役の選手なのだ。F田会長の挨拶、A原長老の乾杯の音頭で開会し、直ちに宴に突入した。 昨年は心臓の手術を2回受け、思うように走れなかった私。今年も走るのはもう無理と、3度ほど諦めた時期があった。こうして現役バリバリの仲間を見ると、つい気が退けるのが正直な気持ち。それでもいつもは飲まないビール、日本酒に続き、伊豆七島青が島産の芋焼酎を飲んだ。珍しく料理もほとんど食べ、酔いも手伝って高揚し、この一年に参加したレースの話をした。 2人の長老 左のA原長老は来年90歳の現役ランナーで、右側のM長老は72歳で100kmレースを楽々完走する仙人。69歳の私は、この日は4番目の年長者だった。 駅伝メンバー こちらはスピードランナーで、好成績を上げた県下駅伝のメンバー。リレーマラソンのマスターズの部では他のメンバーで初優勝を果たした。だが、何も他のランナーと自分を比較する必要はない。老化は誰しもがいつかは通る道。人それぞれに精進し、それぞれのランニングライフを楽しめば良いのだ。 記念撮影 次の予定がある人のために、早めに撮った記念写真がこちら。前列左端でVサインをしてるのが私。数を数えたら1人足らないが、さて、どこへ行ってたのだろう。酔うとそれ以上飲めなくなる私は、宴の途中で失礼することにした。酔っ払って雪の中をフラフラ歩く。地下鉄に乗ろうと駅に向かったのは良いのだが、遠い駅まで歩いてしまった。 雪の街1 雪の街2 雪の街3 雪の街4 雪の街5 この夜は雪の街を2時間以上歩き回り、帰宅したのは11時近かった。行き先は秘密だが、歓楽街ではない。大いに酔い、大いにしゃべって楽しかった今年2回目の忘年会。来年も仲間と楽しい酒を飲みたいものだ。それには健康で走り続けられる体力と気力を失わないことが大事。現役でいる限り、ランナーにはトレーニングが不可欠なのだ。厳しくも楽しい我がランニング人生に乾杯~!!
2013.12.16
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連日の楽天の応援でかなり疲れていたが、昨日は朝からバスと地下鉄を乗り継いで、泉区の七北田へ行った。河川敷の公園で「第3回仙台リレーマラソン」があり、走友会から出場した2チームの応援と、その後芋煮会をするためだった。心配された雨は、家を出る頃にはほとんど上がっていた。 地下鉄の終点で降り、会場の方へ向かって歩く。先刻、車中から走っているランナーが見えた。J1ベガルタ仙台の本拠地「ユアスタ」の直ぐ傍が会場みたい。良く整備された街は気持ち良く、街路樹の紅葉が美しかった。 七北田公園 公園を突っ切り、会場へ近付くとランナーの姿が見えて来た。大変な数のランナーだ。その雰囲気に圧倒される。集合場所に行ったが、仲間の姿はない。辺りは物凄い人だかり。どうやらそこが「タスキ」の中継点のようだ。混んだ道路で次々に「タスキ」を渡す選手達。折角なので、見易い場所を探す。 駅伝風景 スタッフの人に尋ねると、参加チーム数は380で、種目は男子、男女混合、企業、マスターズ(50歳以上)の4つ。1、4kmのコースを30周してフルマラソンの距離42kmを走るみたい。1チームの構成メンバーは5人から8人が多いそうだ。仮装ランナーが混じっていて楽しそうだが、まるで短距離走のようなスピードのランナーもいた。 走友会メンバーで走っている姿を見たのは、T野さん、O川さん、O内さん、A部さん、そしてH岡さん。走り終えたH岡さんに聞いたら、彼はお子さんの学校関係のチームで走った由。そして芋煮会の準備をしてる場所を教えてくれた。どうやら雨が上がったため、当初の場所を変更したようだ。 選手が走る堤防の直ぐ傍に、芋煮やバーベキューが出来る場所があった。ここにF田会長と、芋煮担当のS木さんとT脇さんの女性陣がいた。牛肉で醤油味の「山形風」と、豚肉で味噌味の「仙台風」の2種類の芋煮がほとんど完成。大量の具材でとても美味しそうなのが楽しみだ。 大鍋の芋煮 情報が入って来た。マスターズに出たO川、I藤、T野、O内さんのチームが、優勝したようだ。さらに男子の部のK野、A部、H郷さんチームも5位。どちらもサブスリー(3時間以下)のタイムとは凄いことだ。上位に入るにはかなりのスピードが必要で、少人数では疲れ易いのだ。 やがて徐々に仲間が集まった。M仙人は前日フルマラソンを走り、2週間前には100kmレースにも出ている。リレーマラソンメンバーもようやく揃った。表彰式が1時間以上遅れた由。優勝の楯、賞状、リンゴ、ミカン、タオルなどたくさんの賞品を前に、早速賑やかな芋煮会が始まった。 優勝賞品の一部 冷えたビールに焼酎。山形風と仙台風の芋煮は、どちらもアツアツで美味しかった。それにお握りも食べ、たちまち満腹になった。ほかのチームにも芋煮をふるまうと、大歓迎された。 優勝メンバー おんちゃん達 K野副会長 記念撮影 最後に全員揃って記念撮影。前夜は楽天が初優勝したし、この日は仲間の初優勝。大いに話が弾み、酒が進んで、とても楽しい一日だった。一生懸命に走る仲間の姿を見るのは、刺激になって良いものだ。やはり仲間の存在はありがたい。改めて、皆さんお疲れ様でした。そして、大変お世話になりました。 帰宅後すっかり疲れ果て、ブログ友の所にはお邪魔出来なかったけど、今日は伺って楽天優勝のお礼を言わなくちゃね。
2013.11.05
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いよいよ蓼科高原「バラクラ・イングリッシュガーデン」の花達も、今日が最後になった。ブログに載せた後はパソコンから写真を消している。華やかな花々を全部失うのは淋しいが、新しい出会いに期待しよう。 先日たまたま走友会のK山長老と遭遇した。彼は既に喜寿を通り越したはず。最近出たレースをお聞きしたら、「一関ハーフ」や幾つかの10kmレースに出ている由。数年前まではフルマラソンを5時間切った彼にも、「歳波」が押し寄せているのだろう。我が走友会には米寿の現役ランナーも居られる。我が身を返り見ても本当に凄いことだと思う。 帰宅後テレビで「全日本大学女子駅伝」を観た。親を亡くされ喪章をつけて走った選手や激しいシード権争いなどに興味を引かれたが、それ以上に私は仙台市内の風景に見とれていた。特に良く知っている太白区や青葉区は、ちょっとした坂や曲がり角でも、そこがどこか直ぐに分かって面白かった。自分の住む街を画面で観るのは楽しいものだ。 9月の「磐梯高原猪苗代湖マラソン」の後、底がすり減ったシューズを2足捨てた。「浜名湖一周」から帰宅後は、古いトレパンを捨てた。そして今は2足のニューシューズを試している。1足は底の厚いウルトラ向きのもの。これは何の違和感もない。もう1足は底の薄いスピード用のもの。これは「神戸マラソン」対策用の「秘密兵器」。問題は果たして筋力の落ちた私の足が耐えられるかどうかだ。 昨日はいつもと違うコースを走った。相変わらずスピードが出ないが、走れるだけでもありがたい。川沿いで赤いリンゴを観、橋の上からは川を覗き込んだ。だが死んだ鮭が1匹横たわっていただけだ。ところが支流の小川には遡上する鮭の群れ。全部で8匹ほどを発見。猛暑で苦しんだ今年だが、もうこんな季節になったのだ。 来年のレースの案内が届いている。2月の「いわきサンシャイン」の案内は捨てた。6月の「いわて銀河」のは、まだ捨てないである。もう来年はレースに出ないと決めたものの、まだどこかに未練が残っているのだろう。迷うのもまた楽し。人生は迷いの連続なのだから。最近は食事量が少し減ったが、それでも体重は変わらない。きっと代謝機能が衰えて来たのだろう。 さて、今日から東京ドームでの戦いが始まる。楽天の先発は美馬だろうか。巨人は4番の阿部の調子が良くないが、強打者揃い。選手層の厚さには恐怖を覚えるほどだ。その圧倒的な力の差にどう耐え、どう抑え、どう立ち向かうかがカギだろう。4回続いたこの企画も今日が最終回。明日からは新しいシリーズを始める予定だ。どうぞお楽しみに~♪
2013.10.29
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レース前日に体調が急変した時、私は昨秋亡くなったK氏のことを思い出していた。彼は1歳年下だが夜学の先輩。若い時は柔道をし、山にも登った元気者。壮年になってからはシルクロードの旅に何度も出かけ、結局中国の奥地からローマまで歩き通した。その彼が仙台へ帰郷し、ホテルで入浴後、ベッドに横たわったきり2度と目覚めることはなかった。亨年68歳。若過ぎる死だった。 一方、不安を抱きながらも私は翌日猪苗代湖を一周し、65kmのレースを完走した。ひょっとしたら私も彼岸に向かう可能性があったのに、今回は無事生還することが出来た。生と死は紙一重。とても不思議な感覚だった。 「猪苗代湖M」58km付近 あの時一緒に走った走友会の仲間が全員完走したことを、M井さんのHPで知った。M井さん、Y田さん、Y広さん、T脇さん、S水さんだ。特に新潟から参加のS水さんは6位入賞とのこと。彼とM井さんは、今日「秋田内陸ウルトラ」の100kmを走っているはず。 S水さん、パナップさんからは完走記にコメントをいただいた。岩手のランナー「団子3兄弟」の長兄も私のブログを探し当て、2度コメントしてくれた。これも不思議な縁で、とても嬉しい誤算だった。 完走記に載せた写真を観て、ちっちさんが「トリカブト」だと教えてくれた。私は立山の室堂でたった一度観たことがあり、似てるとは思ったがまさか本物とは思わなかった。あの花を観たのは平潟林道を下った麓だったが、標高は600mほど。猪苗代湖の水面が標高540mくらいなのだ。果たしてあの花を、来年も観ることが出来るだろうか。 トリカブト(39km付近) レースの一週間後に練習を再開した。M公園の周回路だ。その時、走友会のK塚長老に出会った。彼がこの公園でラジオ体操を続けていることは知っていた。てっきり仲間がいるのだろうと思っていたのだが、彼は1人。携帯ラジオで体操をし、その後公園内を走っているみたいだ。85歳の長老はもうレースに出てないと話していたが、たった1人での練習を、きっと30年以上続けて来たのだと思う。 初日は5km、翌日も5km走った。もうキツネノカミソリの花は消え、ツリガネニンジンが風に揺れていた。その4日後周回コースを少し広げ、10kmを走った。ハイキングに来ていた中高年のグループが林の中にいた。そこは白くて大きなキノコが生えている辺り。ひょっとして名前が分かるかもと思って尋ねた。答えは「オニフスベタケ」。 オニフスベタケ まるで潰れたバレーボールのようなキノコ。若いうちは食用になるらしい。焼いても良いし、フライパンで炒めても良いとの話。だがネットで調べたら、大きくなったものはアンモニア臭が酷いらしい。この公園にはまだ自然が残っている。春はカタクリが咲き、秋はヌスビトハギやワレモコウが見られる。これからは老後の私の、ホームグラウンドになるはずだ。 走友会のD堂長老から電話があった。あの完走記を読んで、私が通った整骨院を紹介して欲しいとの用件だった。少々料金は高いけど、確かに「超音波治療」は効果があった。奥様の膝が本調子でないらしいが、自信を持ってお薦めした。私自身はもう通っていないのだが。 11月の「神戸マラソン」の宿泊を、ツーリストを通じて申し込んだ。「カプセルホテル」は確保していたが、そこで眠れる自信がなかったのだ。往きは仙台から大阪までの長距離バスが安くて良い。車中で眠れるかどうか不明だが、レース前日のホテルが取れたので大丈夫。一方、来月の「浜名湖一周」100kmへの参加は、まだ最終的に決めていない。 先日Kスタへ行った時、ジェット風船を膨らますことが出来なかった。あれはショックだった。体調が今一なことは自覚していたが、自分の不調をはっきりと知らされた想いだった。これからは決して無理が出来ず、来年のウルトラマラソンも無理だと思う。だが、それでも絶望ではない。まだ走る喜びが残されているはずだ。 ニューシューズ 取り寄せを頼んでいたニューシューズが届いたとの連絡があった。そこで昨日、墓参りの帰りにスポーツショップに寄った。「型落ち」のため2割引きだが、私にはこれで十分。この新しいシューズでどこを走ろうか。さしづめ狙うのは、11月の「神戸マラソン」か。老ランナーにもこんなささやかな喜びがあるのだ。ランニング万歳。俺はもう少し走らせてもらうよ!! 距離206kmの「佐渡島一周」は今日が最終日のはず。富山のテラさん、千葉のぼくしーどんは最後まで行けただろうか。宮城UMCのウルトラ仲間は今年も参加したのかどうか。T田さん、K藤さんは今回「秋田内陸」だったのかな? いずれにしても皆元気で帰宅してほしいと願っている。
2013.09.22
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明日のレース「磐梯高原・猪苗代湖マラソン」へ、後数時間したら出発します。わずか2週間前には、全くと言って良いほど走れなくなりました。それどころか、生活にも困るほどの体調でした。それがたまたま行って見た整骨院の治療により、65kmのレースのスタートラインに立てるまでに回復したのです。 これは私にとっては「奇跡」みたいなものです。人生諦めさえしなければ、何とか道は開ける。こんなことがこれまでに6回はあったでしょうか。ありがたいことです。色んな方の支えや祈りがあればこそのことです。再び走ることが出来る喜びを噛みしめながら、ゆっくりと猪苗代湖を一周したいと思っています。 早朝から出かけるのは、先ず会津若松市へ行くためです。大河ドラマにも出て来た「鶴ヶ城」を見学するのです。礼儀正しく誇り高い会津藩士が、長州藩などで構成された官軍の猛攻撃にあって敗れた城です。敗れはしましたが、会津藩士は最後まで彼らの正義を貫き通しました。「ならぬものはなりません」の精神です。 今回私は背中に「会津魂」と大書されたTシャツを持参します。暑がりの私は、それを来てレースに出ることは出来ませんが、せめて城を見学する時くらいは、その黄色いシャツを着たいと思っています。この大会は3年ぶりの参加です。あの「東日本大震災」の年も体調が悪くて参加出来なかったのです。だからこそ懐かしい猪苗代湖の風景を、しっかり目に焼きつけながら走りたいと思っています。 今回のレースに向けての準備はブログに書いた「試行錯誤」の通りです。色んな方々から励ましやらご心配をいただきました。心から感謝しています。距離の長いウルトラマラソンだし、自分自身の体調が万全ではないこともあって、今回のレースがどんな風に展開するのかは全く予想出来ませんが、その時の状態に応じて最適の判断をしたいと思っています。 この2週間私は体調が悪く、かなりナーバスになっていたため、あるいは嫌な思いをされた方がおられたかと思います。出来ればその事情を勘案のうえ、お許しいただければ幸いです。では行って来ます。帰宅は明日の深夜ですが、どのような報告が出来るか楽しみです。種々コメントいただいたことに、改めて感謝します。その励ましを胸に、一歩でも前進したいと思っています。では、また明日♪
2013.09.06
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足底に痛みを感じたのが2006年(平成18年)の秋。整形外科へ行くと、両足のアーチが落ちて、骨が変形しているとのこと。生来の偏平足が長年のランニングで助長され、痛みが発生したのだ。特に左足は異常な骨で靭帯が擦られ、腱鞘炎が起きていた。ドクターの勧めにより、医療用インソールを作った。 ところがこれを装着して走ると素材のシリコンが足に当たり、猛烈な摩擦熱が発生した。インソールはあくまでも歩くためのものであり、走ることを考えてないのだ。また素材が堅過ぎて、足底に痛みが出た。この対策としてインソールを削り、カバーをかけてもらった。金額は両足で5万円ほどしたが、その大切なインソールが入ったシューズを、翌年のマラニックの際に誰かが履いて行った。いくら探しても見つからず、止むなく義肢製作所に再び製作を依頼した。 2008年(平成20年)1月の「第18回宮古島ワイドーマラソン」(沖縄県:100km)である。もちろん医療用インソールを装着して走っている。前日は27度の猛暑だったが、この日は19度と走り易く、レースの途中で植物園などを見学しながら走る余裕があった。ここは池間大橋の上で、猛烈な西風に曝されている。撮影者はこのレースが初100kmだった仙台明走会のえみちゃん。記録は12時間02分45秒で、年齢は63歳。 2009年(平成21年)5月の「仙台鉄人会10時間走大会」で年齢は65歳。ここは1周3kmの周回コースだが1周当たりの高低差は60m近くあり、時間が経過するにつれて体への負担が大きくなる。このアップダウンの厳しいコースを25周、75km走れて自信がついた。この鉄人会の時間走は、翌月の「いわて銀河」100kmへ向けた、良い練習の場であった。 2010年(平成22年)3月の「第6回伊豆大島ウルトラランニング」(東京都:100km)。年齢は66歳、頭髪は真白である。コースは島を1周半し、三原山の中腹まで登り下りする過酷なもので、特に後半の関門の制限時間が厳しい。 撮影場所は通称「月の砂漠」と呼ばれる三原山の中腹で、撮影者は私を驚かそうと黙って参加した走友T田さん。私が2晩泊ったのは中国人が経営する部屋の水道が出ず食事もつかない怪し気なホテルで、美しいHPに騙された「事件」だった。 同年7月の「第5回磐梯高原ウルトラマラソン」(福島県:100km)である。この大会は毎回コースが変わり、この時も前年とは全く異なるコース設計だった。最初の分岐点に係員がおらず、先頭グループがコースを外れ5km以上余分に走った。猪苗代湖の同じ個所を3回走り、暑さと共に単純さとの戦いだった。記録は13時間30分57秒。 この後、同年9月の「第20回秋田内陸100km」では、制限時間を30秒オーバーし、13時間00分30秒での時間外完走。記録はリタイヤ扱いとなった。翌年2011年(平成23年)1月の「第59回勝田マラソン」(茨城)、2月の「第2回いわきサンシャイン」(福島)は共にフルマラソンで、それぞれ4時間28分00秒、4時間19分17秒で完走している。 その約1カ月後の3月11日「東日本大震災」が発生。この未曽有の大災害で妻の精神状態がおかしくなり、その影響で私は不整脈を発症した。同年4月の「東日本大震災チャリティラン」ではフルの距離を5時間23分10秒で完走したが、6月の「第7回いわて銀河」では73.3km地点でリタイヤ。不整脈の影響だった。 同年9月の「第21回秋田内陸ウルトラ」は、45km地点でリタイヤ。時間は7時間30分だった。8km地点で不整脈が発症し、急にスピードが落ちて走れなくなったのだ。それ以降のレースは全てキャンセルして治療に努めたが、めまい、動悸、吐き気など薬の副作用が出て、投薬による治療を諦めた。 またこの春から足底部に痛みが出て整形外科を訪ねると、筋膜炎が発症していた。これもアーチ陥没による骨の変形が原因で、ドクターにはランニングを止めることを勧告された。取り敢えず新しい医療用インソールを製作し直して痛みに対応。作製費用は6万円近くかかった。 翌2012年(平成24年)循環器内科医の勧めで専門病院に入院し、2月に不整脈の手術を受けた。経過は順調に見えたが再び重篤な不整脈が発生し、4月に2回目の不整脈手術を受けた。術後、体調不良のため定年後勤務していたビル管理会社を退社し、治療に専念。同年8月からようやくランニングの練習を開始した。 1年3か月ぶりのレースが今年2013年(平成25年)1月の「寅さん詣り」で、44kmを6時間41分で完走。2月の「いわきサンシャイン」(フル)は、足の裏に痛みを感じ、30km地点でリタイヤした。4月に予定していた「行田市鉄剣マラソン」は悪天候で中止。この後、庭仕事の後遺症で、足腰の痛みに不安を感じながらも練習し、5月の「仙台国際ハーフマラソン」に臨んだ。 「仙台国際ハーフマラソン」は、年齢69歳にして初参加。記録は2時間23分25秒だった。普段練習ではkm9分近くかかるのに、大会ではkm7分ペースで走らないと完走出来ず、体には相当の負担をかけた。故郷の町を初めてレースで走ることが出来て感激。レース後の懇親会で仲間と喜びを分かち合った。 同年6月の「第9回いわて銀河100km」。2年ぶりの参加だったが、前回と同じ73.3kmの第3関門でタイムアウト。時間は10時間38分00秒だった。レース後は銀河高原ビールを飲み、リタイヤバスでゴール地点へ。写真は雫石町総合運動公園のゴール地点。リタイヤながらも久しぶりのウルトラレースに、満足気な表情の私だ。 これが私が参加した最後のレース。34年8カ月のランニング史の中でフルマラソンには53回出場し、リタイヤが4回。またフル以上の距離を走るウルトラマラソン(時間走を含む)には47回参加し、リタイヤも数度あるがいずれもフル以上の距離は走っている。 62歳から66歳にかけて206kmの「佐渡島一周」に3回出場し、いずれも完走した。フル以上のレースは合計で100回。30km以下のレースは記録を残していないが40回近く参加し、全て完走している。 この他、4年かけて440kmを走った「沖縄本島単独一周」、宮城県石巻市~気仙沼市90km、自宅~福島市80km、自宅から蔵王エコーライン経由蔵王温泉までの77kmなど、リュックを背負っての長距離マラニックも40回に達した。 だが、最近膝の調子が良くない。6月の北海道旅行から帰宅後に強い違和感を感じ、今は練習がままならない状態だ。先日ネットに「後脛骨筋機能不全」のことが記されていた。偏平足と後脛骨筋の老化に伴う障害で、足のアーチの低下はじめ膝や足(脚)に障害が発生し、腰や肩にも影響することがある由。これはまさしく私が苦しんでいる症状だ。 34年以上のランニング生活が原因で起きた障害だが、私は特に悔んではいない。ランニング、特にウルトラマラソンとの出会いで、どれだけ私の人生が豊かになったか計り知れない。全都道府県を走破し、地球を2周し、未知の世界を経験出来た。 さて、現在の体調を考えれば、このままランニングを続けることは無理。これからの老後を支障なく過ごすためには、「歩ける足」残しておく必要がある。人間歩けなくなれば、一層老化は進む。近く、重大な決断を下すことになると思う。 偏平足にならないため、ランナーは日頃から足底筋を鍛えておく必要がある。そのためには「青竹踏み」や、タオルギャザリングが有効だ。老化に伴うアーチの低下を馬鹿にしてはいけない。それは自分の体験に基づく忠告でもある。歳を取ってから足の故障で苦しまないためにも、若い時から是非足の裏を鍛えて欲しい。それを強く念願して、「わがランニング史」を閉じたい。<完>
2013.08.19
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左足首の脱臼と疲労骨折の影響のため3年ほど低迷が続いたが、久しぶりに100kmに挑戦したのが2005年(平成17年)6月の「しまなみ海道」だった。これは制限が16時間なので、ゆっくり走れば完走出来ると考えたのだ。参加は61歳の時。 「しまなみ海道」は広島県の福山城をスタートし、愛媛県の今治城をゴールとする100km(当時)。文字通り瀬戸内海の島々を繋ぐ有料道路の歩道がコースの大半で、特定の島内では有料道路を降りて走る。眺めは良いが日蔭が全くないため6月でもかなり暑く、特に朝凪、夕凪の時間帯は風が吹かず蒸し暑かった。タイムは13時間01分15秒。復活の手応えを感じたレースだった。 2005年9月の「第17回秋田内陸」のもの。前年は用心して50kmの部に出場したが、この年は仲間と共に晴れて100kmの部に出場。写真は60km地点を過ぎた「北緯40度の記念ゲート」。表情からも余裕が感じられ、12時間02分02秒でゴールした。これが100kmの自己最高記録になっている。 2006年(平成18年)8月の「奥武蔵ウルトラマラソン」である。埼玉県越生町の山岳地帯がコースで、当時の距離は75kmだった。年齢は62歳。このレースまでに完走したフルマラソンは30回に達し、ウルトラマラソンへの出場は22回目だった。当日は朝から30度の高温で、最高は37度に達した。仙台との温度差は10度以上あり、高温に体が対応出来ずレース中に熱中症に罹った。 頭痛、めまい、吐き気に苦しみながらも何とか約千mの高低差をクリヤーして完走。タイムは11時間11分15秒だった。顔面蒼白でのゴール後は激しい痙攣に苦しんだ。エイドではほとんど食べ物を口にしておらず、最後の20kmはM井さんが心配して伴走してくれた。 2006年10月の「えちごくびき野ウルトラ」(100km新潟県)である。この1か月前には、「佐渡島一周」を完走している。距離は206kmだが、工事中の道路を迂回したため211kmあった。迷子になった個所を入れると実際に走った距離は215kmにはなるだろう。幻覚を体験したのも初めて。まる2昼夜眠らずに走るレースは、私のランニング史に新たなページを加えた。 「えちごくびき野」はこの4年前に50kmの部に出場した。まだ足の調子が戻らない時期だ。100kmの部は山を3度登るタフなコースだが、走友会の仲間と共に楽しく走れた。タイムは12時間58分13秒。10月なのでゴール時には真っ暗になるが、最後は明るいかがり火と元気な中学生が出迎えてくれた。 2007年(平成19年)5月の「いわて銀河」100kmで、年齢は63歳。東北楽天の若きエース、田中マー君のレプリカユニフォームを着ての参加だった。途中50km付近のトンネルは寒く、トンネルを出ると道路には雪が残っていた。だが、平地に下りると今度は灼熱地獄。汗かきの私が良くこの格好で最後まで走れたものだ。タイムは12時間17分43秒。疲労の色が濃いゴールだった。 同じ年の8月にあった「立山登山マラニック」である。コースは富山市の浜黒崎から立山連峰雄山の山頂までの65km。高低差は3003mで制限時間は11時間(当時)。難関八郎坂の坂道には大いに苦しめられたが、湿原の木道や立山連峰を望む雄大な景色に魅了された。ゴール後は山頂の立山神社で祈祷を受けた。眼下には黒部ダムや雷鳥沢、ミクリが池が見えた。 私はマラニックの部とウォークの部合わせて3度参加したが、なかなか人気が高い大会のため、フルマラソンを4時間以内でゴールする実力や登山の経験に加え、厳しい書類選考があった。ユニークなこの大会も参加者の総計が雄山と同じ3003名に達した今年が最後になったのが惜しまれる。参加賞の帽子は、今妻が被って走っている。<続く>
2013.08.17
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1993年(平成5年)12月。49歳。4度目のNAHAマラソン。通算8回目のフルマラソンで、タイムは4時間02分47秒だった。愛媛の勤務先の仲間と一緒に参加した。12月とは言え、NAHAはいつも暑く、26度になることもある。その暑さと戦いながら42kmを走るのは辛いが、沖縄の走友と会えるのが嬉しかった。 1994年(平成6年)2月の愛媛マラソン。年齢は49歳。当時の愛媛マラソンの制限時間は3時間36分と厳しく、完走するためにkm5分ペースで20kmから25kmを走る練習をした。35km地点の第3関門を2時間55分以内で通過すれば、ゴールまで走ることが出来る。「愛媛マラソン」へは3回出たが、いずれも時間外完走に終わった。この時は3時間40分27秒。この厳しいレースを完走しようとしてのトレーニングが、スピードを上げる結果に繋がったと思う。 1994年8月の「中島トライアスロン」で、年齢は50歳。愛媛勤務最終年の記念に、初めてトライアスロンに出た。スイム1.5km、バイク40km、ラン10kmのショートタイプ。水泳はウエットスーツもなく平泳ぎ。バイクは借り物のサイクリング車で、籠とスタンドを外しての参加だった。この年は瀬戸内海に「人食いザメが出没し、安全のためスイムのコースには網を張り、水中にはフロッグマンが潜っていた。 借り物のバイクだったが、小さなギアを丹念に切り替え、颯爽と風を切って走った。バイクからランに代わると、30度以上の気温でフラフラ状態。きっと軽い熱中症に罹っていたのだろうが、最後まで走り切ることが出来た。 同年同月。初トライアスロン後、自転車の面白さに目覚めてロードレーサーを購入。仲間と長距離の練習をし、石鎚山の土小屋(標高1549m)まで峠越えで往復するなどした。これは松山から徳島県鳴門市の元の職場までを440km往復した時のもの。3日連続で麻雀し、負けても交通費が不要で助かったが、ビールの飲み過ぎで帰路の途中下痢に苦しんだ。 1994年9月の「おらが村心臓破りフルマラソン」(高知県馬路村)で、タイムは3時間53分18秒。松山から原付に乗って現地に赴く途中故障して引き返し、中古の原付を「名刺」で買って再び180km先の馬路村へ向かった。それほどまでに拘ったのは、翌月に初ウルトラ「四万十100km」が控えていたからで、この練習が100kmの初参加初完走につながったと思う。 その記念すべき「四万十100km」は12時間36分06秒で完走した。12名の仲間のうち完走出来たのは私を含めて2人。他の仲間は愛媛マラソンを楽に完走する実力者揃い。初めての100kmだが、私の脳裏にはゴールのイメージがしっかり浮かんでいた。 レース途中50km地点手前で岡山のI.S.さんと遭遇した。彼女はその後経験を重ねて「トランス・エゾ」550kmや「関西周遊」350kmを走破するウルトラランナーに成長した。数年後「秋田内陸100km」で再会し、今でも年賀状を交換しているが、不思議な出会いだった。 1997年(平成9年)6月の「夏油高原マラソン」(岩手:30km)で53歳。松山から大阪勤務を経て、山形に転勤した年だ。30km以下のレースは記録を残してないため、タイムは不明だが表情が硬い。後年コースが変わって「北上マラソン」となり、30kmからフルマラソンになった。この後石川、茨城と転勤。定年1年前の平成15年3月で辞職し、仙台の自宅に戻った。 55歳以降は怪我との戦いが続き、疲労骨折、足のアーチ低下に伴う筋膜炎、腱鞘炎、膝痛などに苦しんだ。そんな中で2002年(平成14年)10月水戸勤務時代に、「地球1周走破」(4万8km)を達成した。2004年(平成16年)10月には、「47都道府県走破」達成し、2006年(平成18年)9月には「佐渡島一周」で初めて200km超級のレースを走破。62歳だった。20012年(平成24年)10月には「地球2周走破」を達成し、目下3周目に突入中。 2004年(平成16年)9月の「秋田内陸」で年齢は60歳。まだ足の調子が悪く、出場したのは50kmの部。前年に現在所属している「南仙台走友会」に入会し、このレースでは仲間の後を追いながら走った。タイムは4時間58分46秒で、これが50kmの自己最高記録になっている。<続く>
2013.08.16
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何日か前、俳優の長門勇の訃報を聞いた。亨年81歳。死因は老衰だった。確か「三匹の侍」とか言う映画に出ていた記憶がある。「おいりゃ~せんのう」と言う岡山弁が口癖で、飄々としたイメージがあった。日本人男性の平均寿命は79歳代なので長生きの部類だろうが、それにしても81歳で老衰死であることに戸惑った。私は現在69歳。81歳までには、干支を一廻りするだけなのだ。 何年か前、ある人から「100歳までウルトラマラソンを走ってください」と言われたことがある。多分「いつまでもお元気で」の意味だったのだろうが、通常ではあり得ないことを言われて、私は少しも嬉しくなかった。100歳まで生きるのが先ず困難。もし生きていたとしても100m走るだけでも奇跡だと思う。 先日1人のランナーが「生前葬」をした記事が、あるHPに載っていた。大勢の走友を招いて飲み、大いに別れを惜しんだようだ。ご丁寧に自分で「戒名」まで用意してあった。確か「女性の後について楽しく走る」と言う意味が込められていたようだ。 自分がまだ元気なうちに、仲間にお別れの挨拶をしておきたいと言う心境は私にも理解出来た。ちょうど体調が悪く、ランニングはもう無理と感じていた時だ。そして自分も「薬莱山とお足マラニック」の懇親会会場で、引退を告げようと思っていたのだ。 あの頃は自分が走る古い写真を探していた。それをブログに掲載して、「引退宣言」をする積りでいたのだ。だがマラニック当日、炎天下を必死で走る仲間の姿を見て考えが変わった。もう少し老化に抵抗して見るかと。 あの時引っ張り出した十数枚の写真が、手元にある。一旦「引退宣言」は置くとしても、34年のランニング人生を振り返るのも悪くはない。それに自分の衰えを自覚することは、老ランナーにとって必要だと思う。前置きが長くなったが、今日は古い写真を見ながら、私の思い出話に付き合ってもらおうと思う。 これが私が走っている一番古い写真。1980年(昭和55年)の9月。村民運動会の時の姿だ。今は近代的なつくば市だが、当時は純農村の桜村。近所の小学校の校庭からスタートした距離3kmのミニマラソンだと思う。階段を踏み外して左足を骨折し、そのリハビリとしてこの年の元旦から私のランニング史が始まった。年齢は36歳。パンツは卓球用で、シューズはゴム底のズックだ。 これは同じ年の10月。職場の駅伝大会で優勝した時のもの。当時は煙草も吸っていたが、キロ3分40秒で走れた。初レースは同じ月の「筑波学園マラソン」。現在の「つくばマラソン」の前身だが、当時は30kmのロードレースだった。この日に備え、年に1度20kmを走る練習をした。他は長くても16km止まり。長い距離の練習がまだ苦手の時代だった。 これは1990年3月で46歳。沖縄の職場の駅伝大会で優勝した時のもの。筑波から転勤した鳴門(徳島県)では、ランニングよりも野球に興じていた。全く走らない期間が結構長く、野球ではしょっちゅう「肉離れ」を起こした。治り切る前に試合に出て再び傷める繰り返しで、5年間で30回以上負傷。癖になったのだ。沖縄へは45歳で転勤し、ランニングを再開した。職場に走友会があったのだ。 1991年9月。47歳。職場の走友会が行った「沖縄本島縦断駅伝」の時の写真だ。場所は国頭村宜名真(くにがみそん・ぎなま)付近。ゴールの手前9km地点で、辺戸岬への坂道を登る途中だ。職場の走友会に入ったお陰でずいぶん練習量が増え、島内のレースに出ることが出来た。走る仲間がいることの楽しさを満喫した時代だ。 1991年12月。NAHAマラソンの時で47歳。沖縄へ赴任した年のNAHAマラソン(第5回)がフルマラソンの初レース。まだ走り方を知らず、高温下で長距離を走った結果体内の塩分を失い、レースの途中痙攣で倒れた。5時間22分29秒のワースト記録だった。これはその2年後でフル3回目の第7回大会。表情にも余裕があり、記録は4時間39分46秒。 これは1992年(平成4年)6月の「小豆島オリーブマラソン」(香川:ハーフ)で48歳。同年4月に沖縄から愛媛に転勤し、職場の部下と香川に遠征した時のもの。30km以下の距離が短いレースの記録は残してないためタイムは不明だが、レース参加が増えるにつれ記録は伸びた。 1993年9月の「第3回おらが村心臓破りフルマラソン」(高知県馬路村)で、タイムは3時間56分25秒。49歳の時だ。このレースは高低差が厳しく、上流のダム湖から麓まで一気に下り、集落内で再び坂を登る過酷なコース。エイドで出されたユズジュース「ごっくん馬路村」の濃厚な味が忘れられない。翌年は初100km「四万十ウルトラ」の練習のため1人で参加。360kmの山道を原付で往復したのも良い思い出だ。<続く>
2013.08.15
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遠刈田大橋から温泉街を望む 昨日から走友会の合宿に行っていた。泊った場所は県南部遠刈田温泉付近のペンション。ここは宮城蔵王の麓で、とても閑静な場所だった。 これはペンションの近所にある、走友会の仲間Sさんのお店。ここで先ず腹ごしらえ。 上が店内のインテリアで、下は奥様手作りのパン。私も買ったが、実に美味しかった♪ 上が昼食に食べた奥様手作りのパン。下がオーナーのSさん。コーヒーは彼が淹れてくれた。定年後にご夫婦で始めた店の名前は「fua」。子供さんの名前の頭文字とのことだが、ふわふわしたパンを思わせるネーミング。店内も洒落ていて、とても良い雰囲気だ。早朝に着いた仲間は、既に20kmを走り、Sさんのお店で休憩し、遅れて着いた私達はペンションへと移動。だがペンションの頑固親父から、3時にならないと中に入れないと断られ、仕方なく雨の中を走ることに。 4人の女性はかなり遠くまで走ったようだ。膝を傷めている私は、カメラを手にペンションの周囲を走ったり歩いたり。釣り堀、こけし館、こけしの里などがあり、途中で1軒のこけし工房を訪ねた。Sさんの店へ給水に立ち寄った時、猛烈な雷雨。これには恐怖を感じた。女性達もどこかで雨宿りしていたそうだ。雷雨の中を走ってペンションに戻る。濡れネズミの私達を見て、さすがの頑固親父もようやくペンションに入れてくれた。 上がペンションの正面で、下が室内から見える林。お風呂は小さいが、「源泉かけ流し」の本物の温泉。少し色が濁っているがそれがまた良い。ゆっくり温泉に浸かって疲れを取った後は、女性も全員部屋に集合し、懇親会へと移行。 懇親会風景 夕食でも一杯飲み、部屋へ戻って再び懇親会。結局飲んだ缶ビールやリキュール類は60本以上。11時まで宴会が続いたが、夕食に何を食べたのかも忘れたほど。 これが夕食だが、まるきりピンボケ。この頃からかなり酔っていたようだ。 翌朝、仲間達は元気に練習に行ったが、私は散歩だけ。実はこのところずっと不調続きで、全く走ることが出来なかったのだ。膝の痛みが他の個所にも波及し、運動不足がさらに体調を悪化させた。いよいよランニングからの引退を決意したほどだ。仲間は今回の合宿で30kmほど走ったが、私はその5分の1。それでもゆっくり走れたことに感謝したい。ペンションの前で記念撮影。帰宅する頃には青空が覗き出した。◎ 明日は、ランニング途中に立ち寄った「こけしの里」と「こけし工房」を紹介します。どうぞお楽しみに~!!
2013.07.28
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5月12日(日)の「仙台国際ハーフマラソン」まで後4日となった。今日は4月25日に試走したコース風景を紹介しよう。名称の後は、スタート地点からのおおよその距離で、( )内はスタート地点との高低差を表わしている。 ≪ 仙台市陸上競技場 ≫ ここが仙台市陸上競技場。招待選手などAブロックスタートのエリートランナーだけがこの競技場で着替えし、調整することが可能。ゴールは競技場のトラック。多くのランナーはこのゴールを目指し、必死で走ることになる。私は試走当日に無料のロッカーを借りて、ここで着替えした。 ≪JR東北本線貨物線≫ 0m(0m) 私が指定されたEブロックのスタート地点はこの付近。果たして正式のスタート地点までのロスタイムはどれくらいになるのだろう。私のようなギリギリのランナーにとって、このロスタイムはゴール出来るかどうかの重要な鍵だ。どうか前のランナーが少しでも速く出てくれることを祈りたい。レース当日は車椅子を除き、10時05分に一斉スタート。 ≪ 新寺小路 ≫ 約2km地点 (+20m) ここは往路しか通らない。スタート地点より20m高く、結構きついので要注意だ。 ≪ 青葉通り ≫ 往路4.2km地点 復路9km地点 (+25m) 杜の都仙台のシンボルであるケヤキ並木が続く美しい道路。途中で仙台随一の繁華街である一番町を通る。 ≪ 大橋から青葉城を望む ≫ 5km地点 (+20m) 青葉通りの最高地点から約10m分を下ると、広瀬川に架かる大橋が見えて来る。前方左手の山が青葉城のある天守台。大橋を渡ると徐々に高度が上がり、左手の奥に仙台城の隅櫓(すみやぐら)が見えるのだが、必死で走るランナーの目に映るかどうか。 ≪ 仙台城隅櫓 ≫ ここはコース外で観るだけ ≪ 西公園内の蒸気機関車 ≫ 往路7km地点 復路8.2km地点 (+31.1m) コース上2つ目の橋である仲の瀬橋を渡ると、目の前に急な登り坂が現れる。ここを登り切った西公園前がコース最高地点。左手の公園を見ながら走ると、左手奥に蒸気機関車が見えて来る。ここから右折して定禅寺通りへ出る。青葉通り同様に見事なケヤキ並木が続く。 ≪ 定禅寺通り ≫ ≪仙台市役所≫ 7.7km地点 (+30m) 第1折り返し地点 第1関門 この関門通過は11時10分まで。(スタート後1時間05分以内) ≪ 晩翠草堂 ≫ 復路9km地点 (+25m) ≪ 一番町 ≫ 復路9.2km地点 往路4km地点 (+20m) 仙台市内随一の繁華街。ここから間もなく東二番町通りを右折すると、仙台で一番の高層ビルが見えて来る。 ≪ 東二番町通り ≫ 復路10.2km地点 往路3km地点 (+16m) 第2関門 この関門通過は11時40分までで、スタート後1時間35分以内で通過する必要がある。 ≪ つつじが岡大通り ≫ 復路12.7km地点 (+10m) ここは東北楽天の本拠地Kスタへ続く広くて走りやすい道。ここまで来ればランナーはかなりばらけるはず。 ≪ Kスタ前 ≫ 13.4km地点 (+2m) 第3関門地点 ここの通過は11時49分まで。スタート後1時間44分以内なので、遅いランナーにとってはきつい所だ。何とか頑張って走りたいね。 ≪ 卸町 ≫ 16.5km地点 (-10m) 第2折り返し地点 第4関門 JR貨物線の跨線橋を渡り終えるとコースは下る。左折した卸町もケヤキ並木がきれい。ここに第2折り返しと最後の第4関門がある。関門の通過は12時10分まで。スタート後2時間05分以内。第3関門から3.1kmで21分なので、私のような遅いランナーはここが踏ん張りどころだろう。ここを過ぎた18km地点がコースの最低部でマイナス10.37m。そこからゴールまで約10mを徐々に登ることになる。 ≪ 陸上自衛隊仙台駐屯地正門 ≫ 19km地点 (-5m) ここまで来ればゴールまで残り2kmちょっと。苦しいけど最後まで頑張ろう。なお、スタート後2時間40分(12時45分)を過ぎたらタイムアウトとなり、まだコース上にいるランナーは大会ルールに従ってゼッケンナンバーを外し、歩道を歩いてゴールまで帰らなければいけない。そうならないよう頑張ろうね。 ≪ ゴールのトラック ≫ 私は69歳にして初出場だが、故郷の街を走るこのレースをもしも完走出来たらどれだけ嬉しいだろう。この日の試走はまあまあだったが、それは信号で休み、撮影で休んだため。その後練習で2回16km程度を軽く走ったが、右脚の裏に痛みがあるのが不安。まあここまで来れば泣きごとを言ってる暇はない。残された4日間で、どれだけ良い調整が出来るかどうかが勝負だ。見事ゴールして、仲間と共に美味しいビールを飲みたいものだ。
2013.05.08
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先日の日曜日は所属走友会のお花見でした。会場へ駆けつけると桜の下から私を呼ぶ声。ほとんど準備が出来ていました。この日、私は直前まで庭仕事をしていて疲労は極限状態。寝不足が続いていた上に、「仙台国際ハーフ」コースの試走や、妻とのハイキング、庭仕事の重労働が重なっていたのです。 ここ2年間、私は走友会の行事へはほとんど参加出来ずにいました。2回の不整脈手術と体調不良の中での勤務、高齢になった愛犬の世話、仕事を持つ妻に代わっての家事手伝いなどのためで、自分の予定と重なり不参加となった行事もありました。だからこの日は、コンビニでウコンと強壮剤を飲んでの参加でした。 席は空いていたM仙人の隣。彼は私達の走友会の長老であると同時に、県内のウルトラマラソン団体の会長でもあり、他の走友会のお世話役も務めるスーパーマンなのです。F会長の音頭で早速乾杯。私は小さめの缶ビールを慎重に飲み出します。さすがにソメイヨシノは散りましたが、このM公園には30種類近い桜があるため、約1カ月間お花見を楽しむことが出来るのです。 右端が私です。ウコンと強壮剤のお陰で、何とか大丈夫なようです。幹事の方が準備してくれたお弁当やたくさんの種類のつまみ、そして名物の団子もすべて美味しくいただけるのが嬉しいですね。小さめの缶ビール2本の後で、日本酒も1杯いただくと、こんな酔っ払いになります。左がM仙人で、右が赤い顔の私です。もう完全に出来上がっています。 M仙人からはウルトラ仲間の消息を聞きました。OさんとKさんは、520kmの「川の道」にリベンジ、TさんとK藤さんは250kmの「萩往還」に参加予定とのこと。M仙人も「仙台ハーフ」の後、100kmの「富士山一周」に出場予定とのこと。皆さん鍛えてますね。私は6月の「いわて銀河」(100km)の際、彼の車に便乗させてもらうことにしました。M仙人どうもありがとうございま~す。トイレに行くついでに、公園内の桜を何本か撮ってみました。 ヤエザクラはまだつぼみで、5月が本番でしょう。黄色い桜は「御衣黄」でしょうか。公園の片隅にはこんな石碑があります。この麓には戦前「陸軍幼年学校」があり、戦後は東北大学第二教養部の校舎が建ち、併せて学生寮もあったのです。石碑の歌は「明善寮」を偲ぶもの。同寮はその後、ここから市内北六番丁へ移転します。撮影から戻るとこんな可愛いワンちゃんがお出迎え。ある走友の愛犬です。 3時近く、酔っ払った私は散らかったものを片づけ出しました。これはいつも家でやってることなので、全く苦になりません。皆が笑っても平気です。頑張ったご褒美に「みたらし団子」を頂きました。楽しかったお花見も無事終了。最後は全員そろっての記念撮影です。次の行事は「仙台国際ハーフ」レース後の打ち上げ会です。皆さんそれまでお元気でね~!!そして今日は、大変お世話になりました。心から感謝で~す。 ≪ 4月のラン&ウォーク ≫ ラン回数:7回 ラン距離:127km ウォーク:129km 月間合計:256km 年間合計:1017km うちラン:676km これまでの累計:81933km
2013.05.01
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≪ 花見山から吾妻連峰を望む ≫ ボストンマラソンと言えば、私の中では「心臓破りの丘」と「山田敬蔵」だった。だが、3名の死者を出した今回のテロ事件は、その思いを粉砕した。犯人がチェチェン出身の若い兄弟だったが、今のところ彼らがテロ集団に所属していた証拠は見つかっていない。兄は銃撃戦で死亡し、弟は重傷を負ったようだが、彼らの胸の中には一体どんな「闇」が潜んでいたのだろう。 ≪ 庭の花1 ハナワサビ ≫ 仙台では66年ぶりの雪となった4月21日(日)。同日開催の「長野マラソン」も5cmの積雪となったようだ。優勝は公務員ランナーの川内選手。雪で路面が走り難かったせいかタイムはあまり良くなかったが、外国勢を振り切っての優勝は立派で、その挑戦心に拍手を送りたい。ブログ友走るナースさん(長野)も、日頃の練習が実って見事完走。この日の「かすみがうらマラソン」もやはり悪天候で、多くの選手達は苦戦したと思う。 ≪ 庭の花2 グリーンディスティー ≫ この日は「さくら道ネーチャーラン」(名古屋~金沢250km)のゴールの日。生憎の悪天候で、岐阜や富山の山間部では雪が降ったのではないだろうか。完走率は確か71%ほどのはず。完走者のS君は小学校と中学校の後輩で、6年前の「佐渡島一周」(206km)のレース中に偶然一緒になった青年。彼は昨年「川の道」(520km)を完走している。立派なウルトラランナーに成長したことを心から喜んでいる。 ≪ 近所のソメイヨシノ ≫ 「立山登山マラニック」(65km標高差3003m)の開催要項が届いた。富山湾の海抜0mから標高3003mの雄山山頂まで一気に駆け抜けるこのレースも、今回で累積参加者数が3003名に達することを区切りに、大会を閉じる由。悪天候で遭難騒ぎがあった年、雨の八郎坂で20回も転倒した年など想いは尽きないが、私は参加しない積り。3度の挑戦で2度山頂に立てただけで十分。あの素晴らしい風景は胸の奥底に秘めておきたい。 絵はがき ≪ 御厨が池から望む立山雄山山頂 ≫ 11月開催の「神戸マラソン」に、先日ネットから仮エントリーした。翌日には1万8千人の定員に達したため今回も抽選になる。その前に申し込んだ「大阪マラソン」よりも、大会の雰囲気がずっと優しくて好感が持てる。抽選結果が分かるのは6月。また6月下旬の「みちのくラン」(30km)へも申し込んだ。私にとっては3年ぶりの参加で、大勢の走友と走れることを今から楽しみにしている。 ≪ 近所のシャクナゲ ≫ 一昨日は6日ぶりに走った。体調不良で休み、ようやく再び走る気になったのだが以前のようなスピードが出ないのが心配。5月12日の「仙台国際ハーフ」までには、何とか間に合わせたい。昨日はコースの未知の部分をマウンテンバイクに乗って確認。今度の連休中には、コース全体を試走しようと思う。多分最初で最後の晴れ舞台。どうしても完走して、バスタオルをゲットしないとね。 ≪ 庭の花3 ペラルゴニウム ≫ 確か次の日曜日28日は「UTMF」がある。これは富士山の周囲161kmを走るトレイルレースで、累積の高低差は延べ9164mにも及ぶ激烈なもの。これに香川のフランク翔太さんと新潟の銀のねこさんが挑戦することをブログで知った。ねこちゃんはこの練習台として先日「RC三条」に出場し、女子の部で優勝したようだ。実家のある神戸では、2度の六甲縦走を敢行。その闘志がきっと良い結果をもたらすと期待している。 この他にも連休中には「川の道」(520km)や、「本州縦断」(1800km?)などの超ウルトラレースも開催され、その途中経過と結果に注目だ。私は60kmほどの峠越えを思案中。歳は取っても挑戦心を失ったらお終いだもんね。でも「仙台国際」へ悪影響が出ないよう、注意しないとね。 ≪ 南蔵王屏風岳と後烏帽子岳の遠望 ≫
2013.04.25
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「仙台国際ハーフマラソン」の大会要項が送られて来てからしばらく経つ。昨年初めてエントリーしたが、実際に走ることは出来なかった。不整脈手術後の体調が思わしくなかったからだ。69歳にして故郷の街を初めて走る心境はとても複雑。もちろん嬉しいことには変わらないが、自分の走力だと厳しいレースになることは自明。 2時間30分。それがこの大会の制限時間。そして21km余りの中に、4か所の関門がある。それをことごとく突破しなければ栄光のゴールはない。レースは5月12日。残された日は3週間に迫った。今はその条件をクリヤー出来るような練習をする時期だ。恐らくは1万人近いランナーが走るはず。そして2時間05分台でエントリーした私が指定されたスタートはEブロック。 招待選手はもちろんだが、陸連登録者で、かつ条件をクリヤーしたランナーがAブロックで先頭を走る。エリートランナーである彼らはスタート時のロスタイムはほとんどないはず。私の前には多分6千人以上はいるはずなので、スタート時のロスは8分から10分ほどではないか。遅いランナーほど不利になるが、これでも私は20分以上申告タイムを誤魔化した。(爆) 何とか制限時間内でのゴールを目指してのことだが、こんなことが出来るのも今回が最初で最後。なぜなら来年は今回の「実績」が残るからだ。練習はスピードを意識したものに変え、休まずに21kmを走り抜く。2回目の時は今年初めてランシャツ、ランパン姿になった。これもレース当日の気温を想定してのこと。暑くなれば体への負担が全然違う。 コースは前半からアップダウンがあり、最大の高低差は40m。ハーフにしては厳しいだろう。そして15km以降は土地勘のない地区。スタート時のロスタイム、途中の関門とスタート後2時間40分でレースが終了すること、今よりもっと気温が上がることなど、私にとって厳しいレースになると考える所以だ。2回目の練習では、同じ走友会のS木女史に2度お会いした。 お互いにサングラスをしていたのだが、彼女が気づき話を交わした。78歳の彼女は10kmのタイムトライアルをやっていた由。彼女の歳でタイムを取りながらの練習とは見上げた根性。さすがに73歳でホノルルマラソンを完走しただけのことはある。2度の練習で時間内完走の感触は得たが、実際のレースがどうなるかは不明。 そのうち未知の部分を自転車で確認し、コース全体を実際に試走したいと思っている。コースを熟知している走友達に対し、私は全てが初体験。今は自分にやれることを何でもやっておくしかない。レース後に「打ち上げ」する店も決まった。無事21km余を走り切り、大勢の仲間と一緒に美酒を酌み交わしたいもの。レースまで残り3週間。今はその夢に向かって、ひたすら練習するだけだ。
2013.04.20
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さて、林の奥に向かうと、そこにはこんな花が。 そうです。カタクリです。3月の下旬にここを走った時は、まだ堅いつぼみのままでした。それが2週間もしないうちに、可憐な花を開いていました。毎年ここにカタクリが咲くことは、知る人は知っています。私が訪れるようになってから17年。小さな群落はまだ残されています。だが、周囲を良く見ると、中には何かで掘った跡が。きっと誰かがカタクリの株を持ち去ったのでしょう。 心ないことをする人がいるものです。先日、庭の写真を撮らせてくれた、立派なガーデニングの持ち主であるあの婦人もその一人だったのでしょう。公園の林の片隅にひっそりと咲くカタクリを、どうぞ盗らないでください。花は眺めて楽しむだけで十分です。ブログ友himekyonさんの話によれば、確かカタクリは発芽して花を咲かせるまでに7年もの年数がかかるのだそうです。 公園の丘の上からはこんな風景が見えます。縄文時代は丘の直ぐ下まで海が押し寄せていたようです。いわゆる「縄文海進」です。この丘は東北人の遠い祖先である縄文人が活躍した場所でもありました。丘に登る山道で、石の鏃(やじり)を拾ったことがあります。青年時代、私はこの付近に下宿していたことがありました。古老の話だと、今でも探せば見つかるそうです。 夕暮れが迫って公園もひんやりして来ました。芝生と林のコースを10周した私は帰途に着きます。公園の片隅にはこんな丸い丘が2つあります。 これは古墳時代に造られた小さな円墳です。ここにも私達東北人の祖先が生きた証が残されています。私はこの祖先達が眠る丘を、昔から「神の峯」として崇めていたと考えています。そしてそれがこの公園の名前の一部になっています。電信柱の向こうに見えるのは、先日私が走った隣の市の山です。標高は250mほどですが、鈍足の私を鍛える良い練習コースになっています。
2013.04.16
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先日仙台でもソメイヨシノの開花宣言が出た後、近所の公園まで走りに行きました。ここは仙台市内でも有数の桜の名所で、季節になれば毎年大勢の花見客で賑わうところです。ソメイヨシノはまだ早くても、きっと何らかの桜は咲いているはず。それを確かめに行こうと思ってのことでした。ここは桜の種類が多く、約1カ月間いろんな桜を楽しむことが出来るのですよ。それに撮影の練習にもなりますしね。 公園はこんな感じです。芝生の広場を囲んでたくさんの品種の桜が植えられています。広々として気持ちの良いこの公園には、四季を通じてたくさんの市民が遊びに来ます。数年前まではワンちゃんを放し飼いにして「ドッグラン」のようになっていました。中には犬が嫌いな人もいるので、さすがにこれは禁止されました。 私の走るコースは芝生の広場よりもっと奥の林の中まで続いています。1周すると約800m。夏は朝露で靴下が濡れたり、泥だらけになったりします。それでもコンクリートやアスファルトよりずっとやさしいので、寛いだ気分になりたい時など私はここに来ます。林の一角にはカタクリの群落もあるのですが、まずは早咲きの桜を幾つか紹介しましょう。 この日はまだ閑散としていましたが、きっと先週末は花見客で賑わったことでしょう。私達の走友会でも月末にここでお花見をする予定です。きっとその頃は、八重桜が咲き出しているのではないかと楽しみにしています。<続く>
2013.04.15
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楽しみにしていた「行田市鉄剣マラソン」は残念ながら爆弾低気圧で流れてしまったが、特段ショックはない。桜はどこででも見られるし、21kmなら練習でも走れる。唯一心残りだったのが日本有数の古墳を観られなかったこと。でもこれはいつか必ず訪れたいと思っている。もし今回参加してたら「はるばる賞」がもらえたようだが。 次のレースは、5月12日の「仙台国際ハーフ」。故郷の街のど真ん中を、大手を振って走れる憧れの大会だ。参加資格が緩くなって遅いランナーでも出られるようになったが、元々はエリート大会で、私はこれまでずっと応援する立場だった。まだ1カ月先なので準備は出来ると思うが、このところ体調不良で暫く走れなかった。昨日の朝15分ほどコタツで寝たら調子が戻った。よし、これなら走れそう。そう思って選んだのがこれ。 背中に「会津魂」とプリントされた半袖Tシャツ。今年の大河ドラマにピッタリのこのシャツは、会津若松市の郊外にある東山温泉をスタートし、標高千mの高原を往復するマラソンの参加賞。自分に気合を入れるためにも良いし、風があるためちょうど良さそうな感じ。で、足元は?。 これは練習用とレース用を兼ねたシューズ。中にはアーチを支えるための医療用インソールが入っている。ランナーにとって一番大事なのが足。もし足が悪ければ一歩たりとも走れないからだ。さて、私の練習コースは11kmから42kmまであるが、今日選んだのは18kmのコース。山に登る厳しいコースだが、眺めが良くカメラの練習にもなる。 そう。今日はデジカメを持って走る初めての日。何だかちょっぴり緊張する。暑くなったので、スポーツドリンクとタオルハンカチは必要だし、紫外線から守るためのサングラスと帽子も必携。長距離を走る場合は、帽子を後ろ向きに被るのが常識。後頭部の延髄が熱くなると、運動機能が極端に落ちるためだ。 デジカメを入れるためのポシェットを装着。私は汗っかきだし、夏のレースでは頭から良く水を被る。カメラは防水機能付きだが、念のためケースに入れよう。軽く足首を廻し、膝を屈伸させてスタート。やはり風がひんやりしている。念のため手袋をして来て良かった。坂を下り、八幡神社に出る。境内には四季咲きの桜が満開。色は薄いが見事なものだ。 旧国道を走っているとクラクション。誰かな?と思って車を覗くと、同じ走友会のT脇さんだった。サングラスをしていたため遠慮がちの合図だったが、私だと気づいてくれたのが嬉しい。手を振って別れる。 これが3kmほど走ったところにある最初の橋。昔は渡し船が通っていたそうだ。江戸時代の「東街道」の名残らしい。そして登り坂から後を振り返るとこんな感じ。 区の名称になった三角形の山が小さく見える。標高321mの特徴のある形をしたこの山は、遠くからでも良く目立つ。東北新幹線の車窓から見え出すと、「ああ仙台に帰って来たんだ」と言う気になるから不思議。ここはもう隣の市。 さらに登るとこんな感じで、山全体が住宅地になっている。長い坂は心肺機能と足腰を鍛えるにはちょうど良い。小学校と中学校を過ぎるとようやく頂上。標高は230mほどか。公園にはトイレと水飲み場のほかに、こんなものもある。 彫刻の「ラピュータ」像。ラピュータはスウィフトの『ガリバー旅行記』に出て来る天空都市のこと。ここは3つほど彫刻がある、きれいな芝生の公園だ。 坂を下る途中に見えるのがこんな風景。遠くのビルは春霞に霞む仙台市内。晴れればこの右手には牡鹿半島や太平洋まで望める。ここで7kmくらいか。 ここが14kmほどにある橋。最初の橋の5kmほど下流だが、川幅、橋の長さがまるで違う。先日の大雨で山の雪が一気に融けて増水している。晩秋には鮭の遡上が橋の上から覗ける。海水温が高かった昨年、帰って来た鮭は数えるほどだった。 堤防がピンク色に染まっている。仙台地方にもこの日ようやく、開花宣言が出たようだ。ランナーにとって冬は強烈な風に苦しむ堤防は、散歩の市民で賑わう憩いの場所でもある。 「トンガリ山」が大きく見えて来た。もう家も近い。暫くこの小川に沿って走る。2時間12分(ただし撮影時間を除く)ほどで帰宅。特に痛む個所もなく、無事「実験ラン」を終了。玄関先で記念撮影。 これが本日のランの助っ人達。 で、こっちが初登場のマックス爺。これからはレースがある都度、登場するかも。どうもお粗末さま~。お後がよろしいようで~♪(爆)
2013.04.10
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本来なら今日は埼玉県へ出かける予定だった。「行田市鉄剣マラソン」に出るためだ。だが、猛烈な「爆弾低気圧」が日本列島を通過するとの予報で、残念ながら大会は中止となった。このハーフマラソンに出ようと思ったきっかけは、昨年の秋に観た映画「のぼうの城」。スクリーンに突如巨大な円墳が現れた。石田三成が北条攻めの一環として、武蔵国の忍(おし)城を水攻めにした時だ。 彼が陣取った丸墓山古墳は、直径が105m、高さが18.9mもある日本一巨大な円墳。さらにその傍には115文字の金象嵌鉄剣(国宝指定)が出土した稲荷山古墳(前方後円墳)がある。埼玉(さきたま)古墳群は今でも大小10以上残る日本有数の古墳群なのだ。コースはその古墳群を見ながら走れる考古学ファン垂涎の地。レースに申し込まない手はない。 出場を決めたのは良いが、私には不安があった。昨年2度不整脈の手術を受け、ランニングの練習開始は8月。それもトボトボと歩くような走りしか出来なかった。だが、近年のマラソンブームもあって、申し込み者がかなり殺到する。だからレースまで体力と走力が回復するかどうか不明のまま、エントリーすることになるのだ。 1月の「寅さん詣で」(東京)は制限が7時間と長く、何とかゆっくり44kmを走れた。2月のフルマラソン「いわきサンシャイン」(福島、6時間)は無理せず30km地点でリタイヤしたが、どちらもレース後に強い疲労感が残った。距離が短いハーフは一見楽そうだが、制限時間が短いため却ってきつい。スタート時のロスタイムを考慮すると、2時間30分ならキロ7分ペースで走っても遅いくらい。ところが私の練習速度はキロ8分ペース。 昨年12月に滋賀県であった悪友達との麻雀大会の時に、埼玉に住む後輩K君にレースのことを話した。「自分の家に泊ったら」とあっさり言ってくれた彼。本当はホテルの方が気楽なのだが、たまには人のお世話になるのも良いかも知れない。それに古墳見学には彼の愛車が好都合。そんなことで、すっかり楽しみにしていた今回のレースだった。 だが、ニュースでは「不要な外出は控えてください」との注意。それで昨日の朝、行田市の担当部局に電話してみた。返事は「開催に向けて目下準備中」。K君にも電話でそのことを連絡した。それが夕方になって行田市から中止の電話。やはり開催は危険と判断したのだろう。風速30kmの暴風雨の中でのレースも経験しているが、帰りの電車が動くかどうか分からない様では困るのだ。止むなく「今回は見合わす」とK君に断りをした私だった。 これまでも電車に乗って会場に行ったら、レースは既に前週終わっていたことがある。開催日が前年より1週間早かったことに全く気づかなかったのだ。34年も走っていれば、中にはそんな「幻のレース」もある。拘りがないため完走メダルなどはほとんど捨てる私だが、残っている記念品を幾つか紹介しよう。なお、参加賞のTシャツは35枚以上タンスの中で出番を待っている。 上の4個は「NAHAマラソン」(フル、沖縄)で、琉球ガラス製。下のメダルは「伊豆大島ウルトラ」(100km、東京)で、新島産のガラス製。これらはきれいなので記念品として残している。 「和歌山城ー高野山往復ウルトラ」(110km、和歌山)でもらった根来塗の漆器のお盆。 「立山登山マラニック」(65km高低差3003m、富山)でもらった帽子とバンダナ 同じく「立山」の日本手拭(デザインが実に秀逸ですね) 「仙台国際ハーフ」のナップザック。手術直後の体調不良で出走出来ず、参加賞のみいただく。まだ実際に走ってないこの大会も、私にとっては幻のレースで、今年の5月に再挑戦する予定。 レース中に拾った小石。左の2個は「八丈島一周」(66km、東京)の火山性軽石。中央は「佐渡島一周」(206km、新潟)の名産赤石。右の2個は「四万十川ウルトラ」(100km、高知)での記念品。
2013.04.06
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ここ数日男は悶々と過ごしていた。だから趣味のランニングも読書も一向に捗らなかった。「たまには散歩でもするか」。妻に頼まれた生協配達品を受け取るついでに、近所をひと廻りする。愛犬が生きてた時は、嫌でも1日2回散歩をした。たった30分ほどの散歩でも、彼のウンチを拾いながら歩くと、嫌なことをすっかり忘れることが出来た。黒ラブのマックスにどれだけ癒されていたかを、感度の鈍い男もようやく悟ったようだ。 近所の犬に近づく。良く吠えるのは動物センターで保護されていたため、警戒心が強いのだろう。「ヘバ!」男は子犬の名前を呼ぶ。ずいぶん大きくなった犬が近づいて男の指を舐める。「ヘバ、俺の加齢臭を覚えておけよ」。そう言いつつ、男は2枚のビスケットを子犬に与えた。するとそれまで吠えていた子犬が、なんと静かになったではないか。男の心が少しだけ和んだ。 男は着替えて走りに行く。フラつきながらも走る男の姿は、まるで「物の怪」にでも取りつかれたかのようだ。「今日はいつもと逆廻りしてみよう」。だが、見える風景に変わりはない。それに竹藪を見ると急に尿意。これは条件反射なのか、それとも単なるひん尿か。ともかくその轟音に驚いて竹藪からキジが飛び立つ。立派なオスだ。「しまった。あれを捕まえ、それに犬と猿を家来にしたら、俺は桃太郎になれたかも」。 空はどんより。男の住む町に今年初めて黄砂が飛来したのだ。最近さることで毒を吐き続け、体内からすっかり毒気が抜けた男は、ひょっとしてそれを補給しようとしたのかも知れない。何せ黄砂にはメイドインチャイナの有害物質PM2.5がたっぷりと付着している。男は大きく息を吸う。「う~む。まだ毒が足らない」。そこで次の補給ポイントへと向かった。 つい最近セシウムのホットスポットが小川の畔で見つかったのだ。男が住む町で見つかったのは初めてだが、1日そこにいても健康に害はないようだ。その付近でまたもや大きく息を吸った男は、「まだ薄いな」とつぶやいた。毒素の補給としては物足らなかったようだ。田圃に野焼きの痕がある。ほほう、もうこんな季節か。東北にもようやくそこまで春が近づいたようだ。 男は今日、朝一番のバスで病院に行く。昨年手術を受けてから1年。その検診結果が分かるのだ。「結果はともあれ、俺は病院から走って帰る」。男はそう決めたようだ。たとえお釈迦さまが地獄に1本の蜘蛛の糸を垂らしてくれても、この男ならきっと「俺は血の池の廻りを走る~っ!!」と叫びつつ、走り続けるに違いない。外はビュービュー。相変わらず春の嵐だ。
2013.03.21
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温泉から帰った昨日。そそくさと昼食を済ませてから体育館に向かった。今日は所属走友会の定例練習日なのだ。もう何年も練習に参加していなかった。一昨年の東日本震災後、通っていた内科で不整脈が発見され、循環器内科を紹介されたものの、薬が合わず酷い症状が出ていた。それをようやく2度に亘る手術で退治したはずなのだが、体調は完全に戻ってなかったのだ。 この日も走る予定はしてなかった。目的はシカ肉をもらうこと。新年会の席で希望者にシカ肉を提供すると言う話があり、私も手を挙げていた。走友会の掲示板にもそのことが載っていたので、どうしても受け取りに行く必要があったのだが、夕方から18kmを走るのは無理と考え自転車で行った。 仲間は数人集まっていた。そこへ見たことのある人が2人の若者を連れてやって来た。この人がハンター。私がシカ肉だけもらって帰りたいと言うと、駐車場まで一緒に行った。大きなクーラーボックスの中に、凍ったシカ肉の塊が幾つも入っていた。シカは北海道のエゾシカで、放射能汚染の心配はない由。それに撃ったのはライフルなので弾は入っておらず、血抜きもしてある由。 それにしてもなぜ見たことがあるのだろう。話をすると、彼はS木さんの弟だった。2年前の「いわきサンシャインマラソン」のレース中に、走友会のTシャツで走っている彼を見つけ、話しかけたことがある。彼もそれを覚えていた。今はリタイヤし自宅に帰った由。それで10年ぶりに走友会に復帰したのだ。新しく開拓した1kmと4kmのコースを仲間は走り、私は自転車で伴走した。 Eちゃんは久しぶりの練習らしく、Yちゃんがずっと一緒に走っていた。彼女も昨年は入院したそうだ。人間歳を取れば、どこかにガタが来る。それでも何とか健康を維持して走ろうとする意欲が高いのがランナーだ。途中から別れて帰り、妻にシカ肉料理のことを教えた。ビビっていた彼女も安心な肉と聞いて、ようやく関心を示すようになった。 夕方パソコンを開くと、埼玉に住む筑波勤務時代の後輩から、4月の「行田市鉄剣マラソン」についてメールが届いていた。レースの際、自宅に泊めてくれると言ってたのだが、どうやら開催日を間違えて覚えていたようだ。仙台から乗る東北新幹線の発車時刻を後日教えることにした。レースの前日には鉄剣が埋まっていた稲荷山古墳や、映画「のぼうの城」に映った丸墓山古墳を案内してもらえるのが楽しみだ。その時に桜が満開だともっと嬉しいのだが。 5月は「仙台国際ハーフマラソン」に出る予定。生まれ故郷の繁華街を走り抜けるのは初めてなので、とても楽しみだ。走友会の仲間は勿論のこと、ウルトラマラソン仲間の宮城UMCのメンバーも、相当出場するはずだ。不整脈が出る前は毎年参加していた5月の「仙台鉄人会5時間走」は、案内が来たものの出られない。その時はちょうど沖縄へ旅行中なのが残念。 6月の「しまなみ海道」も案内をもらったが参加せず、その1週間後の「いわて銀河」100kmに出る予定。コースがフラットで制限も長い「しまなみ」の方が、私にとって本当は楽なのだが。6月末には「みちのくラン」がある。今年のコースは不明だが、参加すれば3年ぶり。東京の雲峰師匠など懐かしい顔もたくさん見られるはず。 宮城UMCの恒例行事「薬莱山とお足マラニック」は例年通り、8月の開催が決定。昨年は往復110kmを自転車で参加したが、今年は何とか55kmを走れたら嬉しい。9月の「秋田内陸ウルトラ」の案内も来たが参加はしない。制限時間が私には厳し過ぎ、参加自体が無理なのだ。 9月は「磐梯高原・猪苗代湖マラソン」の66kmの部に出る積り。猪苗代湖を一周するコースで制限時間もかなり緩いため、これが私が完走出来そうな唯一のウルトラマラソンなのだ。だが、全ては今月末の術後1年検診の結果次第。 その診断材料になる24時間心電図計は、先日実施済み。わざわざ心電図計を装着しながら走ったのは決して無謀な試みではなく、普段通りの行動が心電図にどう出るかを確かめる貴重なデータ収集なのだ。夕食時にいつも通りアルコールを飲んだのも同じ考えだ。結論はまだだが、時々嫌な不整脈が生じているような感触はある。それが不安材料だが、練習でゆっくり走る分には問題はない。 このところ疲労を感じて走ってなかったが、今日は久しぶりに走る予定。最高気温はなんと17度になるとか。きっと大量の汗をかくので、ランパン、ランシャツに帽子がないと苦しいはず。ようやく仙台にも春の兆し。私の体調もどんどん良くなると嬉しいのだが。
2013.03.10
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セーターとズボンのまま寝ていた。おまけに口が臭い。歯も磨かないまま寝てしまったのだ。昨夜はウルトラマラソン仲間の新年会。結構飲んだのだと思う。 今週の月曜日。つまり建国記念の日は所属走友会の総会兼新年会があった。前日は「いわきサンシャインマラソン」で30kmを走った。と言うか、リタイヤして完走は出来なかった。それでも1年5か月ぶりのレースで、私は十分満足していたのだ。走れなかった一頃、走友会を辞めようかと思ったこともある。まして距離の長いウルトラマラソンはなおさらのこと。辛い気持ちでそんな日々を過ごしたのだ。 わずか30kmでも走れたことが、きっと自信につながったのだろう。走友会の総会兼新年会で、私は久しぶりにはしゃいだ。きっと顰蹙を買ったと思うが、許していただくしかない。司会はM井さん。いつものK野さんはなぜか遠慮したようだ。昨年の活動報告と会計報告は何の問題もなく了承。新年度の活動方針に入って、定期練習の方法に変更があった。 私が走友会の行事に参加するのは1年ぶりのこと。2回の入院と手術、その後の不調もあって、なかなか参加出来なかったのだが、練習に来る人がかなり減った由。原因には高齢化もあると思う。練習コースの距離が長いこと、スタートする時間が遅いこと、多忙なことも関係あるだろう。それでもランナーだから各自で練習はしているし、速いランナーは、別途合同練習もしている。 会則も一部改正された。わずかな会費で1年分の諸経費を賄うのだから、役員の苦労も大変なもの。それに30周年記念行事も控えているのだ。ここにも高齢化の影響が及んでいた。会員の入院見舞と出産については、今後特段の措置をしないことになった。役員の一部改選もあった。皆忙しいため、これもまた致し方なし。役員を引きうけてくれる方々に感謝するのみ。 ニューフェイスの紹介もあった。S村さんの奥さんとマックスさん。彼はアメリカ人で、臨時的に中学校で英語を教えるために日本に来たとか。懇親会では隣の席に座ってお話した。ペンシルバニア州出身の26歳。快活な青年だった。今は5kmほど走っているが、5月の「仙台国際ハーフ」にも出場するようだ。大勢の仲間と一緒に走れるのがとても楽しみになった。皆のこの1年の抱負も聞いた。まだ体調が十分でない私は、ささやかな夢を話した。 そして昨夜は雪道を会場へ急いだ。宮城UMCの新年会でも新しい顔をみかけた。200km超級のレースに出る人、500km超級のレースに出る人など皆元気が良い。フルマラソンでリタイヤする私などは「ケシ粒」みたいな存在だ。それでもランニング仲間はありがたい。勇気をもらえるし、元気ももらえる。だが、折角もらった今年の文集を、どこかに落として来たのが残念。 皆の抱負を聞いていると、自分の体調不良を話すことが出来なくなり、つい「いわて銀河では100kmに出ます」と宣言してしまった。まあエントリーしているのは本当だが、出られるかどうかはまだ不明。それでも気持ちが高ぶり、大いに酒を飲んだのだ。実は大量のアルコール摂取も不整脈の原因になる。分かっていながら楽しくなり、痛飲した私だった。 帰路、良く雪で転ばなかったものだ。行く時からツルツルに凍っていた道路。そしてバスの時間にも良く間に合ったと思う。風呂にも入らず、歯も磨かず、着の身着のままで布団に潜った私だが、案外今朝の気分は悪くない。極めて消極的だが、仲間に迷惑をかけないようにランニングを楽しむこと。それが今年の最大の願い。何をするにしても、先ずは健康であることが一番だもんね。
2013.02.17
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「いわきサンシャインマラソン」から無事帰宅しました。結果は30km地点で2時間15分を残しながらのリタイヤ。1年5カ月ぶりの本格的なレース(フル)でしたが、私の弱いアンヨではまだ楽な完走は無理だと判断して、早めに走るのを止めました。今年はこれからが本番。この段階で故障しても詰まりません。これでも十分に収穫はあったと思っています。 留守中のエールとコメント、ありがとうございました。明日は走友会の新年会&総会ですが、出来る限り早めに「リタイヤ記」を書き始めたいと思っています。今日は皆様のところにお訪ね出来ません。申し訳ありませんが、ご了承くださいね~!! 「いわきサンシャインマラソン」へ、間もなく出発します。行って来ますね。無事帰宅出来ることを願っています。では~!!
2013.02.10
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1年4カ月ぶりのレースから1週間が経った。疲労はようやく治まった感じだ。以前なら100kmを走り終えてから、厳しい肉体労働をしながら完走記を書いていた。それでも2、3日後には走れるまで回復していたのだが。レースの数日後、S原パパから葉書が届いた。そこには集合写真のほかに、私の走る姿もあった。そして日帰りで参加したことを驚く文章が添えられていた。 そして結びは「ともあれ古稀が目前な我々ですが、健康で遊べることは幸せというべきでしょう。これからもお元気で」。彼はトランスヨーロッパを3度完走した唯一の日本人ランナー。とても比較にはならないが、同郷で同学年と言うのが嬉しい。ブログには大勢の人が完走の祝辞を寄せてくれたが、自分としては「復活」したとの意識はほとんどなく、レースの厳しさを改めて認識させられた想いが強い。 同じ日の「勝田マラソン」では、参加した所属走友会の仲間全員と、宮城UMC古川グループの全員が完走したことを知った。やはり東京と同様に、いつもより暖かいレースになったようだ、フルの参加者は1万2千人近く。それだけの人数だとスタート時のロスも大きく、やはり6時間以内での完走は、今の自分にはかなりハードだと思う。 昨日はテレビで「別大マラソン」を観た。28km過ぎからの公務員ランナー川内選手(埼玉県職員)とロンドンオリンピック6位入賞の中本(安川電機)の一騎打ちが見事だった。中本はストライドが伸びていたし、表情も穏やかだった。それに対して川内はピッチ走法で、いかにも苦しげな表情。これは中本が有利と見えたのだが、川内は5回、6回と揺さぶりをかけた。 1月18日の「エジプト国際マラソン」では大会新記録で優勝した川内。出国時にパスポートを忘れて指定の便に乗れず、80万円の自費で別の便に乗るハプニングもあった。1月27日の「奥武蔵駅伝」では4.7kmながら区間新記録を出したそうだ。驚くべき市民ランナーは瀬古監督が移ったDeNAへの移籍も断ったらしい。 その川内が最後は中本を振り切って、2時間8分15秒の大会新記録、自己ベスト記録で優勝した。走っている時は物凄い表情だったが、ゴール後倒れることもなく、笑顔でインタビューを受けていた。これで世界陸上選手権の日本代表は堅いだろう。14kmにも及ぶデッドヒートは圧巻だった。良いものを見せてもらった。あれだけの執念を持つランナーは、なかなかいないと思う。 「トランスヨーロッパ」に参加したコノチャンが、今沖縄本島を一周している。初日は首里城からひめゆりの塔までの52km。2日目が糸満から恩納村までの57km。3日目が恩納村から今帰仁城までの59km。昨日の4日目が今帰仁城から辺戸岬方面に向かうはずだが、まだ書き込みはない。いずれにしても良く考えたコースで、私には絶対無理な行程。私は一周するのに4年もかかった。同行の仲間が5、6人いるみたいだが、果たしてどんな景色が待っているか楽しみだ。 さて、「いわきサンシャインマラソン」まで後1週間を切った。この間に十分な休養が出来、足の痛みもなくなった。5か所の関門の距離と、制限時間を書き込んだ紙を時計のベルトに張った。後は調整のための練習とレースの準備だけ。今回はまさに「行けるところまで行く」しかない。いわき市の復興と自分の復活具合を確かめ、出来るだけレースを楽しみたいと思う。
2013.02.04
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≪ 無事帰宅しました ≫ ゴール後、ビールを飲んでお風呂に入り、夜の10時近く頃無事帰宅しました。この日走ったのは、マラニックも含めて合計50kmほど。練習不足の割には良く走れたと思います。最後は痙攣に苦しみました。(笑)レポートは明日以降書かせていただく予定です。留守中のエールとコメント、ありがとうございました♪-------------------------------------- 目覚ましを4時にセットしていましたが、その前に目が覚めました。もう少ししたら「寅さん詣りマラニック」(44km)に出発します。スタートは東京の葛西臨海公園。一旦千葉県側へ渡ってディズニーランド、ディズニーシーの周囲を一周し、再び東京都へ戻って旧江戸川、江戸川の堤防沿いに北上し、フーテンの寅で有名な柴又帝釈天で折り返し、湯処葛飾がゴールです。 果たして寒い堤防上を44kmも走れるかどうかは分かりませんが、今の体調でどこまで行けるか試して見るのも一興です。積っている雪は7cmほど。道路が凍っているので自転車は無理みたい。最寄りの地下鉄の駅まで3km以上、これから雪道を歩いて行きます。まあ、どんな一日になるのか楽しみです。帰宅は夜になります。ではね~!!
2013.01.27
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「一泊するマラソンは止めてください」。突然妻がそう言い出したのは、帰省していた次男が東京に帰った数日後だったと思う。「ええっ?」私は驚いた。日帰りのレースは限られるし、復活を目指すウルトラマラソンで、日帰りなんて言うのはほとんど不可能なのだ。喧嘩になってはいけないと思い、「もう幾つか申し込んであるよ」と言って、自室へ戻った。 昨年は2度の不整脈手術を受けた。ランニングを開始したのが8月。あれから5か月経って、ようやく何とか20km以上の練習にも耐えられるようになった。これならレースへも出られそうだと思い、幾つかの大会にエントリーした。そのことは妻も知ってるはず。それなのになぜ今になってそんなことを言い出したのだろう。 第2弾はその数日後。「私はマラソンに反対だからね」。再び妻が言い出した。新年の挨拶のため実家へ行った時、妻の兄に「心臓の手術をした人間が走っても良いのか」とでも言われたのだろう。そのことは何度も妻に話した。今走っているのは主治医の了解の上なのだ。そしてジョギングが不整脈治療の一環としてアメリカで始まったことも。 もし私の体調を心配するなら、なぜ手術の時に立ち会わなかったのか。妻の性格からも手術当日は来ないだろうと、私は不安を感じつつ1人で手術室へ向かったのだ。マラソンは長年の趣味。苦しい練習に耐えたのも、いつの日にかレースに復帰するためだった。それがようやく実現しようとする時に、今さら何を言い出すのか。私は激高し、激しい口論になった。 口も利かない日が何日か続いた後、妻が言い出した。定年を待たず今年で仕事を辞めること。有給休暇がたくさん残っているので、それを利用して私と2人で旅行へ行きたいこと。そのためにお金がかかるので、私にも小遣いを有効に使って欲しいことなどだ。一応妻の言い分は分かった。そこで何処へ行きたいのか尋ねた。 ツーリストのパンフレットを見ながら「屋久島の宮之浦岳に登りたい」と言う。とんでもない話だ。「洋上のアルプス」と呼ばれる宮之浦岳は九州一の高山で2千m近い。山が深く、いわば海抜0mから登るためかなり時間がかかるし、経験と技術を要する山だ。私の説明でもう一度パンフレットを読み直すと、「上級」と書かれていたと妻。それで諦めたようだ。 「それなら縄文杉のトレッキングはどう?」と言う。パンフレットを見ると、高低差700m以上で11時間の行程。「去年行った南蔵王の2倍の時間だよ」。そう言うと、再び諦めた妻。6時間の行程であれだけ苦しんだのだから、11時間では到底体がついて行けないだろう。結局妻は「行きたい」と言う気持ちばかりで、対象となる場所の情報も持たず、自分の実力も知らないのだ。 3月の南九州だって1500mを越える山には、まだ雪が残っているだろう。その雪道を登る装備もなければ、経験もない。「先ずどんなところへ行きたいか、じっくり考えたら?」。そう言ったら、ようやく妻は納得したようだ。私もマラソンは日帰りだけに止める積りはない。体力の限界は自分で判断出来る。無理だと感じたら、自然と距離が短いレースになり、年齢と共に近場の大会に落ち着くだろうと思うのだ。 さて、明日は早朝から妻とバスツアーに出かける。これは昨年の晩秋に申し込んだもの。行き先は福島県の会津地方。それも結構山奥のようだ。多分かなりの積雪のはず。その深い雪を見ながらイチゴを食べ、露天風呂を楽しみたいと思う。そして2月は箱根の温泉に泊り、伊豆半島の河津桜を観る予定。折角の人生、なるべく喧嘩をしないで老後を楽しまないとね。
2013.01.18
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次男が居なくなった部屋に掃除機をかけ、ゴミを出し、ストーブの灯油を抜き、そして植木鉢を運び込む。別の部屋に移されていた植物達は、寒さで凍えているようだ。乾いた土に水を注ぐ。そのうちまた元気になるだろう。妻は次男が使ったシーツやパジャマなどを洗濯。我が家はまた夫婦2人だけの静かな生活に戻った。 小学生の頃は少年野球をしていた次男は人の言うことも良く聞いた。それが高校時代を1人で過ごしてから、自堕落になったようだ。進んだのが私立高校だったため、私の転勤先へ一緒に行けなかったのだ。東京に進学してからも借金してアメリカに遊びに行ったりの自由奔放な行動。彼の腰痛も人生を甘く考えている罰のような気がしてならない。早く精神的な自立をしてくれたら、親としては嬉しいのだが。 雪山での遭難が続いている。冬山登山の人が圧倒的に多い。それも中高年だ。天候が大荒れになれば冬山では事故につながる。それでも出かけて行き、中には尊い生命を落とす人もいる。自分の技術や体力には自信があるのだろうが、天候の変化に対応し切れなかったのだろうか。残された家族の不安はどんなだろう。それにヘリコプターが出動すれば、請求額も巨大ななものになるはずだ。 さて、風が治まった昨日、私は走りに行った。幾つかのことを試すためだ。実験の第1は距離。昨年末から強風と寒さが続き、走ったのは12kmくらいが多かった。今月末のマラニックは44kmなので、23kmのコースを選んだ。実験の第2はシューズ。レース用に買ったシューズを最初に履いた時は肉刺(まめ)が出来た。それで今回はインソールを2重にし、「隙間」を減らしてみたのだ。 実験の3つ目は呼吸。走る時は「口呼吸」が常だが、冬は空気が冷たく乾燥しているため口が乾き易く、また肺への負担が大きくなる。それで極力「鼻呼吸」をして見ようと思ったのだ。手には水が入ったペットボトルを持った。12kmなら給水が無くても済むが23kmだとそうは行かない。走り出すと足底への衝撃が強いのを感じた。シューズによって感覚が違うため、長距離のレースで履くためには実験が欠かせないのだ。 早速体が冷え、公衆トイレに飛び込む。気温は2度ほどだが日差しがあれば長袖Tシャツとロングタイツで大丈夫なはず。その服装も実験のうち。坂道や山に雪はなかった。それに道路が凍結していないのが助かる。最高部まで登ると標高は200mほど。遥か彼方に牡鹿半島が見えた。 そこから名取川へと向かう。途中の神社に参拝客は見えない。年末年始は多分混んだはず。堤防の上はさすがに寒い。用水濠に流れ込む小川がバリバリ凍っている。木々はすっかり葉を落として丸裸。右岸から左岸に移った辺りから日が翳り、急激に気温が下がった。膝周辺に違和感。きっと冷えたせいだろう。 長い堤防の前方からランナー。下は半ズボンだが上は長袖と半袖の重ね着。お互いに手を挙げて挨拶。暫くすると後ろからロードレーサーが追い抜いて行った。こちらも冬用の装備。風をもろに受ける自転車は、十分な寒さ対策が必要だ。いつもの個所から折り返し、ザル川に沿って西行。雪を戴いた奥羽山脈がちらっと見えた。手がかじかむ。スピードも出ず、走るのが辛い。 国道を横切って路地に入ると、体がふらついて来た。低体温の影響だろう。おまけにガス欠。やはり2か月ほど20kmを越える距離を走っておらず、スタミナ不足。早く家に帰って、甘いものや暖かいものが食べたい。その一心で最後の頑張り。自分では楽々走れると思っていたが、過信だった。だが、2重のインソールにしたシューズは合格。 2時間44分かかって帰宅。着替えを済ませて遅い昼食。作ったのは生ソバと餡子餅。丼で手を温め、汁を飲んで塩分の補給。少し伸び切った餡子餅も美味い。月末の「寅さん詣り」は今日よリ距離が20km以上長い。長時間江戸川の寒風に曝されるため、その対策を練る必要がある。自信は大切だが過信は禁物。まして慢心など事故の元。何事も「備えあれば憂いなし」だ。
2013.01.06
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≪ ランニング編 ≫ 暮れのある日、「寅さん詣り」の大会要項とゼッケンナンバーが届いた。申し込む際に、「当日仙台から新幹線で行くので、集合時間に遅れるかも知れない」と書いたため、主催者のS木が配慮してくれたのだと思う。これならコースも確認出来るし、予めゼッケンをつけたシャツを着れば良い。ナンバーは「555」。ゴーゴーゴー!!とは春から縁起が良いね。 参加したことのあるSさんから、「41kmではなく45kmくらいあった」と聞いた。それで念のため「ジョギングシュミレーター」で計測して見ると44.5km。きっと距離は車に乗って測ったのだろうが、江戸川に沿ったサイクリングロードは車が入れず、その差が往復で3.5kmになったのではないか。ともあれ40km以上の距離を、河川敷の強風、寒風に負けないように走らないとね。 暮れの別の日、今度は「仙台国際ハーフ」の案内が届いた。開催要項の発表が遅れていることは公式HPで知っていたが、ようやく決まったようだ。申し込み開始は10日から。昨年はエントリーしておきながら、手術後の体調不良で参加出来ず、応援に回った名門レース。今年は何とかスタートラインに立つことは出来そうだ。これから徐々にスピード練習をし、完走出来ると嬉しいのだが。 元旦は「ニューイヤー駅伝」を少しだけみた。この日、埼玉のブログ友しぃさんは12kmを走ったようだ。また古川組は恒例の元旦ラン。T田さんが送ってくれた写真を見たら、周囲は真っ白な雪。きっと道路は凍結していたはず。前夜の大晦日は遅かったのだろうし、早朝のランは辛かったはず。それでも仲間との走り初めは気持ち良かったと思う。 2日はお馴染み「箱根駅伝」を観戦。5区の「山登り」が何と言っても圧巻だ。レース中にふらついていた選手がいたが、それでも4区まではタスキが繋がった。小田原から芦ノ湖畔までのここが一番苦しい個所。観ていてもハラハラドキドキさせられる。この難関で中央大学と城西大学の2校が途中棄権になったようだ。往路の優勝は日体大。予選からの勝ち上がり組だ。 この日は走友会の初詣ランでもあった。名取市から塩竃神社までの25kmを走って参拝し、再び元の道を戻る50km。今年は何人参加したのだろう。午後は雪の予報だったが、割と強い雨になった。仲間達はあの雨に苦しんだのではないかと心配。 3日も引き続き「箱根」を観戦。結局は日体大が1度もトップを譲らずに総合優勝。予選勝ち上がり組の優勝は、史上2校目とのこと。最終10区でもふらついていた選手がいて、可哀想だった。「箱根」を観終えてから走る姿に着替える。いよいよ今日が私の走り初め。腰痛はかなり治まったので、ゆっくりなら何とか走れるはず。 風はあるが長袖のTシャツ1枚。手袋は分厚くて風が通らないものにした。愛宕神社には寄らず、向山の坂を登る。凍結した個所が所々にあるため要注意。八木山から遥か彼方に紺色の太平洋が見えた。今年最初の12kmのランを1時間32分で終える。復活の手応えは果たしてどうか。50kmを走り切れる体を、何とか取り戻したいのだが。<続く>≪ 12月のラン&ウォーク ≫ ラン回数:11回 ラン距離:167km ウォーク:80km 月間合計:247km 年間合計:2771km うちラン:1337km これまでの累計:80916km
2013.01.04
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≪ 健康とランニング編 ≫ 今、外は猛烈な北風が吹いている。今朝の最低気温は零下4度になるみたい。まるで2回の不整脈手術を受け、さらに足底筋膜炎に苦しんだ今年の私を象徴するような厳しさだ。だが、私はその絶望から這い上がって来た。再び走れるようになったとは奇跡。まさに意志さえあれば、必ず道は開けることを教えてもらった1年でもあった。 月 歩いた距離 走った回数 走った距離 月間合計 備 考 1月 98 16 154 252 2月 111 2 15 126 1回目の手術 3月 150 1 4 173 4月 137 7 57 194 2回目の手術 5月 210 2 12 222 不調で辞職 6月 130 0 0 130 足底筋膜炎 7月 110 0 0 110 足底筋膜炎 8月 100 19 221 321 ランニング再開 9月 83 13 200 28310月 113 15 249 362 地球2周走破達成11月 112 14 258 370 愛犬マックス死去12月 66 10 157 223 25日現在ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー年間計 1420 99 1327 2747 (距離はkm) 1月はまだ手術前で、いつものように帰宅ランが多かった。2月は手術前のラン。3月は手術後1カ月を過ぎてからのラン。4月は手術前のラン。5月は手術後1カ月を過ぎてからのランで、体調不良のため仕事を辞めた。6月と7月は足底筋膜炎の症状が出たため、ランニングを完全に休止。7月までに走った合計はわずか242kmのみ。これは元気な時なら1か月分の距離に過ぎない。 ランニングの再開は8月から。これは所属している宮城UMC(ウルトラマラソンクラブ)の恒例行事である「薬莱山とお足マラニック」(距離55km)に参加したかったためだが、走るのは無理なためマウンテンバイクで参加。自転車ではあったが、真夏の暑さの中を良く110km往復できたと我ながら感心。この時、走友kazuさんは私の姿を観て復活を確信したそうだ。 約半年間ほとんど走らなかったために、走るための筋肉がすっかり落ちていた。これを取り戻すのが大変なのだ。おまけに目、肩、腰、足、膝などに老化現象が起きているからなおさらのこと。幾ら走ってもスピードが出ず、まるで自分の脚でないような感覚だった。走るのと同時に青竹踏みなど11種類の強化トレーニングも行った。徐々にその効果が出て来て、少しずつ距離を延ばすことが出来た。 10月には走り出してから34年目にして、地球2周走破を達成した。8万150kmだ。1周目は24年かかったのが、2周目はわずかに10年1カ月で達成。これは参加レースがウルトラマラソン中心に変わったため、走行距離が延びたのだろう。一時は歩きでも痛みが出ていたことを思うと、良くここまで復活したと思う。仕事も辞めたため、自由に時間が使えることも大きかった。 1年4カ月もの間封印していたレースへ、来年早々に復帰する予定。6月までの4つのレースを、既にエントリー済みだ。まだ往年のスピードは戻っていないが、それでも走れることが嬉しいし、冒険に挑戦出来るのが嬉しい。それにしても健康が大事。来年も健康で走り続けたいと願っている。ランニングに感謝。そして大勢の走友達に感謝だ。来年もよろしくね~!!
2012.12.26
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≪ 五条大橋 ≫ 国道1号線を西に向かう。途中で山科川を越えた。この小さな川を天智天皇の遺骸を乗せた舟が下り、下流の土地に埋葬したとの言い伝えもあるようだ。その地が「天王」と言うらしい。確かに幾つかの墓を持つ天皇もいるが、これは地名に無理やり話を合わせただけのよう。信号で止まる。そこから左折すれば宇治。ひょっとしてブログ友ケイサンのお家はそっちの方向だろうかと想像。 道は右に急旋回。東山丘陵とでも言うのだろうか。結構急こう配の道を必死に登る。道が狭い所で歩道が途切れた。良く見ると歩行者用の道が山の方へ入って行く。そのまま山越えでも困るなあと思ったら、また国道沿いに戻る。「花山洞」と言う歩行者専用トンネルもあった。この上には花山院の陵墓でもあるのだろうか。 多分ここは「東山三十六峰マウンテンマラソン」のコースのはず。京都府では「福知山マラソン」は走ったことがあるが、福井県小浜市から京都市の出町柳まで走る「鯖街道」と、この「東山三十六峰」は残念ながら走れなかった。そんなことを思いながら山を越えた。偶然にもこの日が「東山三十六峰」の当日だったことを後日知った。 丘陵をどんどん下って行くと右手に見渡す限りの墓の山。ここが大谷本廟で16.4km地点。西本願寺のマイクロバスが門徒を乗せて地下の駐車場に入って行く。その後には車の列。急な坂を下ると交差点。そこから真っすぐ五条大橋へ向かった。旧東海道の終点は三条大橋のようだが、国道1号線はさらに大阪に向かう。その昔、弁慶が大暴れした五条大橋を無事通過して一安心。 烏丸通りの手前の小路を左折。「不明門通り」は信号が全く無いため走り易い。東本願寺前で烏丸通と合流。周辺には仏具店や門徒が泊るホテルが多い。さらに直進すると京都駅の近くに「銀閣」と言う名のホテルを発見。ほほう、まだ残っていたか。確か48年前に泊った時は小さな旅館だったのが、今は近代的な建物に変わっている。 11時35分、無事京都駅に到着。走り出してからちょうど3時間だった。大阪勤務の時は、まだ建築中だった京都駅が堂々たるビルに変わっている。身障者用トイレで着替えると、リュックもすっかり軽くなった。お土産に銘菓「雲龍」を、昼食用に奈良の柿の葉寿司とビールを購入。新幹線はトンネルを抜けたらもう滋賀県。昔から石灰岩を採掘していた伊吹山付近の山が、ほとんど形を失っていた。 名古屋でのぞみに乗り換える。さすがに速く、旅行のメモを記しているうちに新横浜に着いた。途中久しぶりに浜名湖を見た。富士山には「笠雲」がかかっていた。東北新幹線では、福島の白河から雪。さすがは東北、寒さが違う。この日仙台の最高気温も1度まで達しなかった由。琵琶湖畔のホテル前で撮った記念写真が届いたのは6日後。そこには老いた仲間達の眠そうな顔が写っていた。<完>
2012.12.17
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昨日の仙台は強風が吹き荒れた。最大瞬間風速は25mを越えていたようだ。そんな中で私は庭仕事をしていた。剪定した柚子の枝を細かく切って袋に詰める。これは棘に刺されないための用心だが、やはり刺さった。次に庭と畑の雑草を抜く。既に種を持った雑草は区分して柚子と一緒に袋に詰め、そうでない雑草は裏庭に積み上げる。 次いでコンポスト容器の始末。腐敗が進んだ生ごみの臭いが凄い。土と混ざってはいるが、ドロドロの腐敗物だ。それをスコップで掘り、雑草や苗の残骸の上に被せる。気持ちの悪い虫が繁殖したりして、結構厄介な仕事だ。それが終わるとコンポスト容器を元通りに地中に埋め、堆肥の上に乾いた土を被せる。こうすると少しは悪臭を防げ、来年の夏ごろには山全体が立派な堆肥に変わる。 次に柿、梅、柚子、牡丹の根元に発酵鶏糞を施肥。これで来年はたくさんの実をつけ、美しい花を咲かせてくれると良いのだが。まとまったゴミを所定の収集場所まで運ぶ。午後からは資源ゴミを古新聞、雑誌類、雑紙、段ボールに区分し、結束。これは日曜日に出すのだが、私は土曜日の早朝に旅行するため、前もって準備しておくのだ。 話は変わるが、ここ2、3日の間に私は3つレースを申し込んだ。1つ目は1月末の「寅さん詣り」(東京都)。これはエコジャーニークラブの主催で、江戸川の堤防を往復し、寅さんで有名な柴又の帝釈天にお参りするマラニック。距離は41kmとなっているが、参加した人の話だと45kmはあるらしい。エントリー料金は2千円でレース後は温泉に入れ、マラニックの途中では「お神酒」が出るとか。 2つ目は4月初めの「行田市鉄剣マラソン」(埼玉県)。種目はハーフで、料金は3千円。ハーフマラソンを走るのは10年ぶり。距離が短いために制限時間が厳しく、私には辛いレースになるはずだ。前日の古墳見学が楽しみの一つ。何しろ有名な鉄剣が出土した稲荷山古墳や、映画「のぼうの城」に出た、丸墓山古墳周辺がマラソンコースなのだ。それに桜が咲き残っていたら、もっと嬉しいね。 3つ目が6月の「いわて銀河」(岩手県)。これが実は大冒険。申し込んだのは1年9カ月ぶりの100kmなのだ。今年2度の不整脈手術を受けた私にとって、50kmなら何とかなりそうだが、厳しい峠越えの100kmは苦労するのが目に見えている。だが、行ける所まで行ければ良いと考え直したのだ。 今月中に申し込むとレース後2千円がキャリーバックされる、お財布に優しいアーリーエントリーシステムに目が眩んだ訳でもないが、半年先の体調を予想するのは到底不可能。3月には術後1年目の検診もあるが、ここは「エイ、ヤー!」と思い切るしかない。それにしても良くここまで回復したものだ。一時はフルマラソンさえ危ぶまれた体調が、再び100kmを走ろうと言う気持ちになったのだから。 明日は早朝に家を出る。筑波勤務時代の悪友達との麻雀大会が琵琶湖畔であるのだ。東海道新幹線に乗るのは確か十数年ぶりのはず。そして悪友との再会は3年ぶりのこと。その間に奥様が亡くなった人もいれば、大震災もあった。果たして悪友達は、あれからどれだけ老化が進んだか。そしてこの機会に私はある冒険を予定している。生憎滋賀は、この週末雪になるようだ。果たして冒険は成功するだろうか。 ≪そんな訳で、明日のブログはお休みする予定です。皆様、どうぞ悪しからず~。≫
2012.12.07
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友の葬儀に列席した旅の疲れが出たのか、土曜日の夜はぐっすりと眠った。一旦いつものように未明に起きてブログを更新した後も、二度寝。合計で9時間も眠ったのは初めてではないか。真夜中の地震も、さほど気にならなかった。起きた時は8時。既に明るくなっていた。 朝食後は新聞を読んだり、ネットでブログ友を訪ねたりして休息。おもむろにランの準備をしたのは10時半近くになってから。このところ2日ほど走ってなかったから、そろそろ走る感覚を取り戻す必要があった。気温は低そうだが、風はさほど強くなさそう。そう思ってランパンと半袖の組み合わせにした。外に出るとやはり寒い。それでも覚悟を決めて走り出す。 良く眠ったせいか、それとも2日間走るのを休んだせいか、足が軽く感じた。ほほう、これは久しぶりの感触。これならひょっとしてスピードが出るかも知れない。そう思ってそのままのスピードを維持することにした。2度に亘る不整脈手術の後、走れない日が続いた。何とかランニングを再開してから3カ月半。ようやくここまで来た。だが、この感触が果たして本物かどうか。 23kmのコースを走ることは決めていた。隣の市の山頂に向かう途中、誰かがクラクションを鳴らした。停車した車の中から笑顔を見せたのは、同じ走友会に所属するT脇さんだった。どうやら仕事の途中らしい。彼女はこのところ忙しく、練習する暇がないとこぼす。その彼女と最近良く遭う。もちろん私が走っている途中でだ。 「どこかエントリーしてる?」と彼女。「いわきサンシャインにね。いわきの復興と自分の復興を願ってさ」と私。「そうか復興か。何か目的を持たないと励みにならないものね」。そう言い残して彼女は去って行った。残念ながら走友会の忘年会は、筑波時代の悪友達との会合(滋賀県での麻雀大会)と重なり、出席出来ない。だから仲間と会えるのは来年の新年会になる。 坂を登る。いつもならここでガクガクとなる脚が、今日は何とか持っている。極力スピードを落とさずに登り切る。これも衰えた心肺機能を鍛えるためだ。筋力とスタミナ(持続力)が少し戻って来たようだ。フォームを意識しながら坂を下る。名取川の堤防の風も、それほど苦にはならなかった。結局この日は、いつもより30分ほどタイムを縮めた。復活への確かな手ごたえを感じた走りだった。 ネットで注文していたランニングシューズが先日届いた。レース用の最新モデルが25%引きで買えた。来年はレースに復帰する積り。そのためにも少し軽めのレース用シューズを履こうと思ったのだ。頼んだ時は冒険とも思えた買い物だが、こうして少しスピードが戻ると、フルマラソンやハーフマラソンでの完走も、夢ではないかも知れない。 目下、幾つかのレース出場を計画中。1月は東京の「寅さん詣り」。これは41kmのマラニック。ここでは多分3度目の「トランスヨーロッパ」を完走したSパパや雲峰師匠と再会出来るはず。2月は予定通り「いわきサンシャイン」(フル:福島)で既にエントリー済み。4月は「行田鉄剣マラソン」(ハーフ:埼玉)。5月は「仙台国際ハーフ」と「仙台鉄人会5時間走」。そして6月は「いわて銀河」の50kmの部。 全く走れなかった時のことを考えれば、まるで別世界の出来ごと。最後のレースから1年半後のレース復活なのだ。これからも当分厳しい現実と戦いながら練習を続けるが、その先には一筋の光が見え出した想いがする。やはり諦めなくて良かった。まさに「継続は力なり」だ。 一昨日の朝6時にスタートした「佐渡島一周」のゴール時間は今朝の6時。初めて11月開催になった今回は、きっと寒さと悪天候に悩んだことだろう。果たして参加した走友の結果はどうなのか心配だ。そして今日は「大阪マラソン」と「神戸マラソン」が共に朝9時のスタート。これにも多くの走友達が参加しているはず。吉報が届くのを楽しみにしていよう。そして今週の金曜日はウルトラマラソン仲間の忘年会。日に焼けた私の顔を見て、走友達は果たして何と言うだろう。
2012.11.25
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北風が冷たい季節になると、走るのが辛くなる。パートの肉体労働をして時の「帰宅ラン」はまだ良かった。距離が短く、風をまともに受ける方向ではなかったからだ。雪は少ない仙台だが、冬の季節の風は相当強いものがある。着込めば良いのだろうが、汗かきの私は厚着だと大変。暑過ぎて長い距離が走れなくなってしまうからだ。 先日来6回ほど名取川に架かる太白大橋を通るコースを走った。鮭の遡上を観るためだったが、鮭の姿を確認出来たのはそのうち4回だけ。それも2匹、4匹、2匹、2匹と、いつもの年より大幅に減っていた。今年は海水温が高く、鮭が故郷の川へ戻って来れないのだ。そのうちに繁殖の機会を失ってしまうのだろう。北海道はともかく、東北での鮭の水揚げがとても少ないようだ。 先週の木曜日、私は西の方へ向かって走った。最初は12km先の温泉まで走り、共同浴場に入ってバスで帰ることを考えていた。だが、たかだか12km走ってバスで帰るのは勿体ない。そう思い直して、往復とも走ることにした。もちろんそれだと温泉には入れないのだが、練習のためなので諦めるしかない。 この日も風の強い日だった。半袖シャツとハーフタイツで走り出したものの、腕が冷たく感じる。手袋をしていたのでまだ救われたが、これで最後まで走り通せるか不安になった。比較的平坦な国道に出ず、山道を走る。太白山裏の林道だ。ここを走るのも久しぶり。きっと2年以上は走ってないはず。死んだ愛犬マックスとザル川の上流を探検したことを思い出しながら、山道を登る。 結構な勾配だ。それも時々砂利道になる。人も車もほとんど通らない淋しい道を、息を弾ませて登って行く。登山道との分岐点から梨野へ出、そこから茂庭台の団地に入る。ここを走ったのは多分9年ほど前。すっかり記憶が薄れているが、相当広い団地で戸惑った。ここも居住者の高齢化が進み、過疎になりつつあるらしい。それでもコンビニやスーパーを見つけて、ホッとした。 団地内を走ったことで結構遠回りをしたようだ。国道を真っすぐ往復すれば24kmだが、これだと30kmは越えるだろう。果たしてどこまで走れるか。寒いなりに汗はかくが、水を飲むほどではない。ようやく団地から県道へ出、国道まで下る。ここは途中から歩道がなくなる。車の通行量が多くて危険なため小さな集落を通る道を迂回。初めて通る道だ。 茂庭の中心地には入らず、国道沿いに西に向かう。相変わらず風は強いが走っているうちは寒さに耐えられる。国道286号と別れ、秋保温泉への県道を進む。ここも歩道がない割に車の多い個所。そのため目立つように、黄色いシャツを着ていた。それに手袋が赤だから運転手からも良く分かるはず。時々道路から離れて茂みに入る。寒いためにオシッコが何度も出るのだ。 温泉へは向かわずに直進。最奥部の元湯から吊橋を渡って温泉街へ。左へ曲がるとここからが帰路。湯神社と幾つかの老舗旅館を過ぎて、とあるスーパーへ入る。ここは美味しい「おはぎ」を売ってるので有名。評判を聞きつけた温泉客が、30人ほど店内にいた。買い物籠の中にはたくさんのおはぎ。アンコ、ゴマ、ずんだの3種。「ずんだ」は枝豆を潰した仙台周辺の名物だ。 私はアンコのおはぎ2個入りのパックを買った。値段は210円。これが入った袋を持って近くのビジターセンターまで走る。暖かい室内で食べようとしたのだが、平日のためか休憩室が開いてない。仕方なく風に吹かれながら、外の椅子に座って2個のおはぎを食べた。目の前の峡谷は紅葉の盛り。でもちょっと寒過ぎなのが難点。 ほど良い甘さのおはぎを食べて元気を回復し、再び走り出す。帰りは風が逆向きなので助かる。茂庭の集落を通過し、途中から国道286号の旧道に入る。寒さに耐えた4時間27分の旅。最後はヨレヨレのランだった。ジョギングシュミレーターで測ったら、距離は31km。まあ練習にはなったと思う。そのうちランニング後に温泉に入りたいと思うのだが、果たしていつになるか。≪結局この日は、2個のおはぎが昼食でした。≫
2012.11.21
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もう少し若い頃、私は不思議に思ったものだ。何故強いウルトラランナーだった人が、65歳を過ぎた辺りから急に長い距離が走れなくなるのかと。それが自分がその年齢に達してみると良く分かる。目は霞み、耳は遠くなり、ちょっとした段差にも躓く。人間商売が長くなるとそれまで使い続けて来たあちこちの「部品」が、きっと「勤続疲労」を起こすのだろう。 ランナーならば誰だって速く走りたいし、より遠くまで走りたい。そして歳を取っても出来るだけ長い間走り続けたいと願うものだ。人によって限界は違うだろうが、それでもいつかは走れなくなる時が必ず来る。それを出来る限り「先延ばし」するのが熟年ランナーの任務かも知れない。しかし「トランスヨーロッパ」を完走した走友達は凄い。私が1年かかって走り、歩く距離を、彼らは64日間で走破したのだから。 私は68歳になる今年までせっせと働いて来た。ハローワークで見つけた仕事は、パートの肉体労働。清掃に警備、そして機密文書の裁断。今考えるとどれもきつい内容だった。だが、60過ぎの人間には仕事を選ぶ余地はない。その厳しさに耐えながら頑張って来たのは、マラソンの経費をねん出するため。週末にはクタクタになるほどの疲労を、レースが始まるまでのわずかな間に回復させるのが常だった。 8月初めにあった宮城UMCの合同練習会「薬莱山とお足マラニック」の打ち上げで、私は仲間の前で宣言した。「来年はウルトラに復帰します」と。あれはその場の勢いで出た言葉で、本心では復帰出来るとは考えてもいなかった。あれから3か月。今もリハビリは続いているが、走れなかった約半年の間に失った筋力を取り戻すのは容易ではない。走れる距離はかなり延びたが、スピードが全く出ないのだ。 目下行っている「強化メニュー」は以下の通り。1)ランまたはウォーク 2)ラジオ体操 3)ストレッチ体操 4)青竹踏み 5)貝殻踏み(共に20回程度) 6)ぶら下がり(柵に30秒程度) 7)爪先立ち 8)スクワット 9)タオルギャザリング(いずれも50回程度) 10)腹筋(20回程度) 11)壁押し(適宜) さほどの強度ではないが、それでもかなりの効果があったと思う。 来年からのレース復帰を目指して鋭意トレーニング中だが、一進一退。「おお、これは行けそうだ」と思うこともあれば、「やはり無理みたい」と感じることもしばしば。今年の2月と4月の2回不整脈の手術を行い、長年のランの結果、両足には腱鞘炎や筋膜炎という爆弾を抱えているため、あまり無理が出来ない。それを「騙し騙し」訓練しているのが実態なのだ。 「地球3周走破」は多分夢に終わるだろう。これからは老化との戦いがさらに激しくなるからだ。それでも一歩踏み出せばその分だけ夢に近づく。100kmや200km先の遥かなゴールも、頑張っているうちに徐々に近づくのと一緒。老化や死と言う未知の世界を意識しながら、走り歩くのも一興ではないか。そのためにも出来るだけ心身を健康に保ちたいと願う昨今だ。<続く> 明日10月27日(土)は、早朝から鎌倉へ向かい、帰宅は夜遅くなります。このためブログはお休みになりますのでご了承ください。
2012.10.26
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≪ フルマラソン以上のレース全記録 その3 ≫Fフル Uウルトラマラソン T時間走レース (注)本日3回目の更新です。リスト1、2は↓にあります。興味のない方はスルーしてくださいね。(64歳)71 「第10回鉄人会5時間走」10時間走の部 T宮城 平成20年 72km ★この後、左足負傷72 「第4回いわて銀河」U岩手(100km)平成20 86kmでリタイヤ11:19:0073 「第11回立山登山マラニック」U富山(65km) 60kmでリタイヤ10:20:0074 「第28回つくばマラソン」F茨城 平成20 4:40:0775 「第27回東北ブロック新春マラソン」F宮城 平成21 4:35:2676 「第1回八丈島一周」U東京(62km) 平成21 8:22:10 ★暴風雨(65歳)77 「第19回かすみがうらマラソン」F茨城 平成21 4:53:4778 「第11回仙台鉄人会5時間走」10時間走の部 T宮城 平成21 75km79 「第5回いわて銀河」U岩手(100km) 平成21 13:29:3180 「第4回佐渡島一周」U新潟(206km) 平成21 44:11:35 ★距離感狂う81 「第1回東山温泉紅葉ランニング」U福島(50km) 6:38:43 ☆高低差730m82 「第58回勝田マラソン」F茨城 平成22 4:25:1383 「第1回いわきサンシャインマラソン」F福島 平成22 4:29:38(66歳)84 「第6回伊豆大島ウルトラランニング」U東京(100km)平成22 13:36:2585 「第12回仙台鉄人会5時間走」10時間走の部T宮城 平成22 75km86 「第6回いわて銀河」U岩手(100km) 平成22 13:23:2487 「第5回磐梯高原ウルトラ」U福島(100km) 平成22 13:30:5788 「第20回秋田内陸」U秋田(100km) 平成22 13:00:30 ★時間外完走89 「第26回NAHAマラソン」F沖縄 平成22 4:50:2590 「第59回勝田マラソン」F茨城 平成23 4:20:0091 「第2回いわきサンシャインマラソン」F福島 平成23 4:19:17 ★この後、3月11日に「東日本大震災」発生。不整脈と筋膜炎の発症に苦しむ(67歳)92 「東日本大震災チャリティRUN」自由にFを走る 宮城 平成23 5:23:1093 「第7回いわて銀河」U岩手(100km) 平成23 73kmでリタイヤ10:38:4494 「第21回秋田内陸」U秋田(100km)平成23 8km地点で不整脈発症 45km地点(100kmの過去最低距離)でリタイヤ7:30:00 平成24年2月及び4月の2回、不整脈手術を受ける。この間はレース不参加。8月から約半年ぶりにランニングを開始。平成25年からのレース復帰に向けて、目下トレーニング中。現状はかなり厳しいものがあるが、何とか再挑戦したいと願っている。<続く> 私のブログを見た目下通院中のスマイルハート歯科さんから、ファックスで地球2周走破達成の祝辞をいただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
2012.10.25
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≪ フルマラソン以上のレース全記録 その2≫Fフル Uウルトラマラソン T時間走レース *リスト1は↓に、リスト3は↑にあります。興味のない方はスルーしてください。(57歳)石川勤務34 「第17回NAHAマラソン」F沖縄 平成13 4:45:00(58歳)茨城勤務35 「飛翔千葉ウルトラマラソン」U千葉(60km) 平成14 7:27:2336 「第14回秋田内陸ウルトラマラソン」U秋田 平成14 78km地点:11:11:1137 「えちごくびき野ウルトラマラソン」U新潟(50km) 平成14 6:11:30(59歳)これ以降仙台38 「第5回仙台鉄人会5時間走」T宮城 平成15 44km39 「第15回秋田内陸ウルトラマラソン」U秋田 平成15 80km地点:11:08:15(60歳)40 「第6回仙台鉄人会5時間走」T宮城 平成16年 45km41 「第15回阿蘇カルデラ」U熊本(50km) 平成16 5:08:3142 「第16回秋田内陸」U秋田(50km)平成16 4:58:46 ☆自己ベスト43 「第17回大田原マラソン」F栃木 平成16 4:06:4744 「第53回勝田マラソン」F茨城 平成17 4:14:19(61歳)45 「第7回仙台鉄人会5時間走」T宮城 平成17 43km46 「’05しまなみ海道ウルトラ遠足」U広島~愛媛(100km)平成17 13:01:1547 「第17回秋田内陸」U秋田(100km)平成17 12:02:08 ☆自己ベスト48 「第54回勝田マラソン」F茨城 平成18 4:01:52(62歳)49 「第16回かすみがうらマラソン」F茨城 平成18 3:55:3950 「第2回いわて銀河」U岩手(100km) 平成18 12:16:2451 「第2回磐梯高原」U福島(100km) 平成18 12:59:3052 「第13回奥武蔵」U埼玉(75km) 平成18 11:11:1553 「第1回佐渡島一周」U新潟(206km) 平成18 41:40:0054 「第6回えちごくびき野」U新潟(100km) 平成18 12:58:1355 「第26回つくばマラソン」F茨城 平成18 4:11:3756 「第22回NAHAマラソン」F沖縄 平成18 4:28:2357 「第55回勝田マラソン」F茨城 平成19年 4:28:1458 「第15回おきなわマラソン」F沖縄 平成19 4:19:38(63歳)59 「第26回佐倉朝日健康マラソン」F千葉 平成19 4:08:1360 「第9回長野マラソン」F長野 平成19 4:27:5861 「第3回いわて銀河」U岩手(100km) 平成19 12:17:4362 「東京喜多マラソン」F東京 平成19 4:27:2063 「第3回磐梯高原ウルトラ」U福島(100km) 平成19 12:55:3764 「第10回立山登山マラニック」U富山(65km高低差3003m)11:16:0065 「第2回佐渡島一周」U新潟(206km) 平成19 40:23:00 ☆自己ベスト66 「’07いわて北上マラソン」F岩手 平成19 4:13:3367 「第1回湯のまち飯坂ふくしまマラソン」F福島 平成19 4:17:0068 「第23回NAHAマラソン」F沖縄 平成19 4:39:0769 「第18回宮古島ワイドーマラソン」U沖縄(100km) 平成20 12:02:4570 「第8回24時間チャリティラン」T東京 平成20 114km ★膝負傷<リスト3に続く>
2012.10.25
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私のレース参加記録です。興味のない方はスルーしてください。本日(10月25日)は、3回に亘って「リスト」を掲載します。味気はありませんが良かったらぜひ覗いてくださいね!!≪ フルマラソン以上の全記録 その1 ≫ 注)F:フル U:ウルトラマラソン T:時間走レース ただし、フルの途中リタイヤ3件を除く。(45歳)沖縄勤務01 「第5回NAHAマラソン」F沖縄 平成元 5:22:29 痙攣に苦しんだ初マラソン(46歳)沖縄勤務02 「第6回NAHAマラソン」F沖縄 平成2 5:15:18(47歳)沖縄勤務03 「第7回NAHAマラソン」F沖縄 平成3 4:39:46(48歳)愛媛勤務04 「第13回瀬戸内海タートルマラソン」F香川 平成4 4:09:5005 「第31回愛媛マラソン」F愛媛 平成5 3:49:2206 「第7回全国健康マラソン宇部大会」F山口 平成5 3:49:05(49歳)愛媛勤務07 「第3回おらが村心臓破りフルマラソン」F高知 平成5 3:56:2508 「第9回NAHAマラソン」F沖縄 平成5 4:02:4709 「第32回愛媛マラソン」F愛媛 平成6 3:40:27(50歳)愛媛勤務10 「第4回おらが村心臓破りフルマラソン」F高知 平成6 3:53:1811 「第1回四万十川100kmマラソン」U高知 平成6 12:36:06 12 「第10回NAHAマラソン」F沖縄 平成6 3:36:03 ☆フル自己ベスト13 「第33回愛媛マラソン」F愛媛 平成7 3:52:38(51歳)大阪勤務14 「第2回四万十川100kmマラソン」U高知 平成7 12:51:0915 「第5回福知山マラソン」F京都 平成7 3:46:0216 「第26回篠山ABCマラソン」F兵庫 平成8 3:41:56(52歳)大阪勤務17 「第4回武庫川ユリカモメウルトラマラソン」U兵庫(70km) 平成8 7:30:2918 「第10回吹田中の島耐久5時間走大会」T大阪 平成8 49.7km19 「第10回和歌山城ー高野山往復ウルトラ」U和歌山(110km)平成8 15:37:0020 「’97泉州国際市民マラソン」F大阪 平成9 4:10:4621 「第27回篠山ABCマラソン」F兵庫 平成9 3:36:11(53歳)山形勤務22 「第7回仙台鉄人会フルマラソン」F宮城 平成9 4:07:5923 「第9回秋田内陸100kmマラソン」U秋田 平成9 12:30:3424 「第10回大田原マラソン」F栃木 平成9 3:58:37(54歳)山形勤務25 「第10回秋田内陸100kmマラソン」U秋田 平成10 12:56:1826 「第12回長井マラソン」F山形 平成10 3:49:3527 「第47回勝田マラソン」F茨城 平成11 4:18:0028 「第7回おきなわマラソン」F沖縄 平成11 4:10:25(55歳)山形勤務29 「’99かすみがうらマラソン」F茨城 平成11 3:55:1130 「第1回仙台鉄人会5時間走大会フルの部」F宮城 平成11 4:26:3831 「’99北海道マラソン」F北海道 平成11 3:55:1032 「第11回秋田内陸100kmマラソン」U秋田 平成11 12:13:3533 「第15回NAHAマラソン」F沖縄 平成11 4:15:43 ≪この後、疲労骨折によるブランクで約2年間不調≫ リスト2に続く
2012.10.25
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< 走りたいレースと走れるレース > 走りたくても走れないレースもある。レースに参加するためには実力がなければ行けないし、お金もかかる。場合によっては休暇を取る必要もあるし、家族の理解がないと行けないこともあるからだ。マラソンはタダではない。特にウルトラマラソンともなればエントリーするだけで1万5千円前後するし、その他に交通費と宿泊費も必要だ。 また、レースには制限時間がつき物。たいていの場合、コースの途中に関門が幾つかあるし、ゴールも何時間以内と決まっている。実力と言うのはそう言うことだ。そのレベルに達してないと、時間内完走は出来ない。だから出たくても出られないレースが結構多いのだが、それはそれで諦めるしかない。また例えエントリーしていても、その後の怪我や体調不良のために参加出来ないこともある。 ウルトラマラソンの場合はかなり前からエントリーする必要があるが、レースまでの間が長いため、その間の事情で出られなくなることも生じる。加齢が進めばその可能性が高くなるが、これも涙を飲むしかない。残念ながら歳を取れば取るほど、出られるレースは限られて来るのが現実だ。 ところがマラニックは違う。リュックを背負って自分のペースで走るのなら制限時間も関係ないし、途中で休むのも自由。人と争う必要もない。レースの楽しみは大勢の人と一緒に走ることで高揚感も高まるし、応援も受けられる。マラニックにはそれはないが、レースとは違った自由さと達成感が得られる。ゆっくり走って寄りたい所に寄れば、その土地の観察も歴史の勉強も出来る。 私が2年前から「峠越え」を始めたのも、そんな理由からだ。ただし自由なペースで走れるのは良いが、リスクも自分で背負う必要がある。食べ物や飲み物の確保、マラニック中の安全も全て自己責任だ。さて、老化で走れなくなったらどうするか。その時は歩こうと思う。歩くのは走るほど脚(足)に負担をかけないし、もっと景色を楽しむことが出来る。ウォーキングのツアーに参加するのも楽しいはず。< 良いお手本 > 所属する走友会には私よりも年長の方が何人か居られる。最高齢は86歳だが、まだ現役のランナー。それもがんを克服した凄い闘志の持ち主だ。距離は短いが、その歳でレースにも出る。その次の先輩は70代半ばまで登山マラソンにも出て、最高齢賞をもらっていた。これはトップとの差が30分以内にゴールしないと完走と認められない厳しいレース。何せトップは高校や大学の運動選手なのだ。 中には75歳を過ぎてなお、「全国1歳刻みランク」の上位入りを目指す先輩もいるし、70を過ぎてから「ヒマラヤマラソン」に挑戦した先輩もいる。全国各地で登山を続け、私が出られない100kmレースでも見事に完走する実力者だ。また女性でも70過ぎからランニングを始め、ハワイの「ホノルルマラソン」(フル)を見事に完走した熟女も居られる。我が走友会には見習うべき先輩が多いのだ。 ただし長い間走っていると、たまには悲しいことにも遭遇する。参加したレースで知り合った走友の訃報を聞く時だ。がんのために若くして亡くなった走友。レース中に交通事故で亡くなった走友。残念ながら病気や加齢のために走れなくなった走友など様々だ。いつまでも元気で走り続けていたいのは山々だが、人間には限界がある。でも出来る限り、その限界に挑戦したいと願っている。< 家族の評価 > 3人の子供はいずれも遠隔地で暮らしているが、私が走っていることは知っているはず。幼い頃から走っている姿を何度か見ているし、年賀状には前年のランニングのことも書いてあるからだ。子供達は父親のランニングをどう思っているのだろう。「良い趣味」と見ているか、それとも「年寄りの冷や水」と見ているか。 さて、一緒に暮らしている妻はどうだろう。「お母さん、とうとう地球2周したよ」。先日妻にそう言ったが、あまり反応は無かった。まだ若い頃から走り続けて来たが、きっと「自分勝手なことをしてる」としか思ってなかっただろう。妻には転勤族の悲哀や管理職の苦しさを話したことはない。現職時代は何度か死を覚悟したほど辛い目にも遭った。だがその苦しさに1人で耐えて来たのだ。 その苦しみを救ってくれたのがランニング。ランニングがあったからこそ、今日の私がある。生きていて良かった。長い間走って来て良かったと言うのが偽らざる実感だ。ここ数年前から妻も走るようになった。もちろんレースには出られないほどのゆっくりペースだが、ランニングの楽しさは感じているようだ。 「そのうち一緒に走りに行こうか」。先日私はそんな提案をした。行き先は5kmほどの距離にある温泉。そこまで走って温泉に浸かり、美味しいものを食べるのだ。12km先にも別の温泉があるが、果たしてそこまで彼女が走れるかどうか。彼女も後数か月で定年を迎える。定年後の楽しみが見つからないようだが、「近所の山に登るのも良いのじゃ?」と、これも私の提案。さて、私達にどんな老後が待っているか。<続く>
2012.10.24
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< 練習とレースの関係 > ランナーにとって、レースの計画を立てる時が最高の至福なのではないか。次はどのレースに出るか。交通と宿をどうするか。来年はどこへ行くか。そんなことを考えると、仕事の苦しさも忘れることが出来た。私は第2の人生になってから、ウルトラマラソンが中心になった。ウルトラマラソンとはフルマラソン以上の距離を走るもの。そのためには長距離の練習が必要になる。 20~30kmの距離を練習で走れないとフルマラソンは無理。そしてフルマラソンを楽に走れたら100kmは走れる。つまりフルマラソンに出るのは、私にとって100kmレースの練習台なのだ。同じように100kmレースを楽しく走れたら200kmも大丈夫。だから制限時間内に100kmを走れるように鍛えるのが普段の練習だった。ハーフマラソンにはほとんど出なくなった。練習で走れる距離のレースに出るなんて、お金の無駄と考えていたのだ。< 思い出のレース > 自分にとって思い出のレースは何だろう。「NAHAマラソン」(沖縄:フル)は一番多く完走したレース(10回)で、初マラソンも自己ベストもここ。12月なのに26度になることもある厳しいレースだが、沿道の応援が凄いのだ。景色が良いのが「阿蘇スーパーカルデラ」(熊本)。私はまだ脚の調子が悪くて参加したのは50kmの部だったが、大カルデラの中に聳える阿蘇五岳や、遠くに見える由布岳(大分)などの眺めは最高級。コースは厳しいが、大自然の凄さを感じられる素晴らしい景観だ。 厳しかったのが「和歌山城ー高野山往復」(和歌山)。これは標高千mまで登って往復する110kmのレースだが、途中で膝を傷め、後半はかなり歩いた。無理をしたせいか、膝の靭帯がギシギシ音を立てているのが分かった。暴風雨の中を走ったのが「八丈島一周」(東京都:62km)。風は風速30mほどで吹き飛ばされそうだし、橋の上では雨が下から吹き上げて来たほど。あれほどの荒天のレースは他にはない。 「佐渡島一周」(新潟:206km)の制限は48時間。2晩寝ないで走り、歩くと、幻覚を見たり幻聴が聞こえるほど疲労する。レース中に眠れる器用な人もいるが、私は神経が興奮してとても眠れなかった。3度目の参加では、極度の疲労で物が二重に見え、距離感が完全に狂った。ゴール寸前でコースアウトしたと思い込み、同じ所を3度も往復していたのだ。また真夜中の海岸は誰もおらず不気味。最初の参加の時は、「北朝鮮に拉致されるのでは?」とビビったほど。< ランニング障害 > 長い間走っているうちには怪我もする。また老化に伴う障害も出る。鳴門勤務(40歳~45歳)の時は軟式野球をしていたが、何度も肉離れを起こした。完全に治らないうちに運動すると、同じ個所を再び怪我するのだ。私は5年間で30回ほど肉離れを起こし、それがその後のランニングにも若干影響したように思う。 大阪勤務(52歳~53歳)の時に、膝を傷めた。医師の診断は「変形性膝関節症」とのことだったが、これは誤診で2か月ほどで治った。山形勤務(54歳~57歳)の時には、捻挫しているにも関わらずレースに出たため、左足首が脱臼。くるぶしの形が完全に崩れて全治3カ月の重傷を負った。また、左足に種子骨が出来、そこが疲労骨折をした。これがその後3年間ほどランニングに影響した。今考えると元々の偏平足が、走り過ぎでさらにアーチが下がったのだろう。老化の始まりでもあった。 63歳の頃から左足に腱鞘炎が出だした。これがアーチが落ちたことによる影響だ。スポーツ整形外科で、医療用のインソール(中敷き)を作ってもらい、シューズに装着。それ以降これがないと痛くて走れなくなった。65歳で右足にも腱鞘炎が発生。こちらも医療用インソールが必要になった。66歳で右足に筋膜炎が発生。医者からは走ることを禁止されたが、医療用インソールを作り直して対応している。 昨年の春に不整脈を発見。原因は「東日本大震災」時のストレスだと思う。循環器内科の治療でも治らず、専門病院で2度の手術を受けた。不整脈の再発と両足の状態を気にしながらランニングを再開しているが、今のところ重篤な障害は出ていない。これからも体調には十分注意しながら、少なくとも後10年喜寿を過ぎる頃まではランニング生活を楽しみたいと願っている。<続く> ≪注≫門さんのスライドショーで、「トランスヨーロッパ」のゴールシーンとゴール後の打ち上げの様子を見た。さすがに選手の皆さんは良い表情でとても嬉しそう。何よりも元気そうで良かった。4176kmを走破した勇者達に改めて拍手!!Sパパ宛てに完走祝いの葉書を出した。帰国するまでに届くはずだ。
2012.10.23
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< 私の練習コース > 私は転勤族だったため、長く赴任先で走って来た。それぞれの地に走友がいたし、それぞれの地に練習コースがあった。今振り返ってみると遠い思い出だが、とても懐かしい。苦労して走ったそれぞれの地の風景が目に浮かんで来る。 筑波研究学園都市に転勤したのは昭和49年。当時は「つくば市」はまだ存在せず、桜村と言った。私のランニング生活は、ここでスタートを切ったのだ。現在「つくばマラソン」のスタート地点が職場の駅伝大会のコース。練習で走ったのが「学園東大通り」で、私はたいてい筑波山方面に向かった。当時は建物が少なく、また水を飲める場所がないため、特に夏は苦しい思いをしたものだ。 鳴門勤務は昭和59年から。新しい職場の立ち上げに苦労した。難問の連続で眠れず、夜中に起きて走ることも再々だった。ところが私が走った海岸には照明がほとんど無い。海の向こうに浮かぶ淡路島の明りが遠くに光るだけ。鳴門は海の傍なので練習コースも磯の香りが強かった。前職を辞めた数年後、高島、大毛島、島田島をつなぐ「鳴門スカイライン」を走れたのがとても強く胸に残っている。 沖縄勤務は平成元年から。当時の沖縄は返還後まだ17年目で、未整備状態。凸凹の道路や下水の異臭。酔っ払いや泥棒の横行と物騒だった。だが亜熱帯に属する島の植生は本土とは違った風景で珍しい。厳しい暑さも内地人を苦しめた。牛舎の臭いがし、冬にはサトウキビの穂が風に揺れる凸凹の道が練習コース。職場のループ道路も良く走ったものだ。 松山勤務は平成4年から。松山城の堀端を抜け、有名な道後温泉や四国八十八か所の寺を過ぎ、湯山から権現温泉を一周するのが山のコースで、春はミカンの花の芳香がランナーを慰めた。大川(と言っても小さな川だが)に沿って堀江海岸に出、そこから松山観光港で折り返すのが海のコース。瀬戸内海の眺めは最高だが、冬は北風が厳しかった。帰路、高縄山が望めるのが楽しみだった。 大阪勤務は平成7年から。昼休みは職場の目の前にある「万博記念公園」の中を、許可を受けて走っていた。週末は淀川の支流から本流の堤防に出るコース。ここは変化に乏しく、飲み水の確保が難しい場所だった。冬の堤防は風が強くて大変。そこを20kmから30km走るのは容易ではなかった。たまには摂津峡と言う山のコースにも向かった。周囲には結構立派な古墳が多かった。 山形勤務は平成9年から。この時代は仙台の自宅からバス通勤。昼休みは馬見ヶ崎川の堤防まで走りに行った。ここは山形名物の「芋煮会」をする場所だが、冬は雪が深くて走れないため、雪かきをした道路や体育館の中を走った。1回だけ千歳山の山頂まで走ったことがある。標高500m以上のトンガリ山だ。職場のグランドではkm5分でのペース走が出来た。 石川県の職場は平成13年からの1年だけ。山の中で不便な職場だった。山形勤務時代に疲労骨折した影響が残り、前半は走ることが出来ず散歩しながら俳句を作っていた。後半は手取川の河口や金沢まで練習で走った。冬は一晩に60cm以上雪が積り、スコップ持参で通勤。雪かきした後の道路も滑るので怖い。熊も職場付近に2回出没。あまり思うように走れなかった時代だ。 水戸勤務は平成14年から。足にはまだ疲労骨折の影響が残っていた。当時は全国的な組織の改組が大きな課題で、日夜その対処に忙殺された。心身のバランスを崩し、定年の1年前に辞職することを決意。そんな中で、千波湖の周囲を走ることで辛うじて心を癒すことが出来た。後半は石岡市までの30km走も復活。懐かしい筑波山の姿が観られたのが嬉しい思い出だ。 仙台の自宅に戻ってからは第2の人生。パートの肉体労働を続けながらウルトラマラソンを目指して、幾つもの練習コースで走って来た。選ぶのはその時の体調次第。不整脈手術の前は、自宅から県境の峠を超えて隣県まで60km以上走ることもあった。仕事も辞めた今、体調と足の筋力が戻り次第、また「峠越え」を復活したいと願っている。<続く>≪注≫8月19日にデンマークのスカーイェンをスタートした「トランスヨーロッパフットレース」が64日目の昨日、スペインのラ・リネアに無事ゴール。10人の日本人選手全員が無事完走したみたいです。酷い風邪で弱っていたSパパ、終始最後尾を走りながら見事な文章をブログで披露していた旅がらすさんも無事ゴールに到着。4176kmの厳しい走り旅がようやく終わりました。皆さんおめでとうございます。そして、本当にお疲れ様でした!! 私は昨日、「トランスヨーロッパ」の最終日に合わせて長距離の練習に出かけました。ランパン、ランシャツ姿だと風が冷たく感じたほど。40km以上走るのは、昨年9月「秋田内陸」の45km地点でリタイヤして以来。最近の練習では28kmが最高だったので不安でしたが、トランスヨーロッパに出ている走友のことを思えば大したことはない。何せ彼らの1日分にもならないのですから。 自宅~米ヶ袋~川内~八幡~折立~愛子~錦ヶ丘~秋保~自宅の周回コースで、途中錦ヶ丘のコンビニでお握り2個を食べてエネルギー補充。6時間7分の旅でした。筋力はまだ戻っておらず、相変わらず脚がもつれます。休憩を入れれば時間はもっとかかっています。フルマラソンを走れるようになるためには、さらに月日を要しますね。それでもトンネルの向こうに少し明りが見え出した感じです。
2012.10.22
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< 初レース > 10km:「いずし登山マラソン」(愛媛)平成5年 20km:「四国カルストマラソン」(高知)平成6年 ハーフマラソン:「高槻シティ国際ハーフ」(大阪)平成7年 1:34:00(?) 30km:「筑波学園マラソン」(茨城)昭和56年 2:26:00(?) フルマラソン:「HANAマラソン」(沖縄)平成元年 5:22:29 50km:「えちごくびきの」(新潟)平成14年 6:11:30 100km:「四万十川100kmマラソン」(高知)平成6年 12:36:06 206km:「佐渡島一周ウルトラ遠足」(新潟)平成18 41:40:00 トライアスロン:「中島トライアスロン大会」(愛媛)平成6年 <オリンピックディスタンス>< 自己ベスト記録 > フルマラソン:「第10回NAHAマラソン」(沖縄)平成6年 3:36:03 50歳 50km:「第16回秋田内陸ウルトラ」(秋田)平成16年 4:58:46 60歳 100km:「第17回秋田内陸ウルトラ」(秋田)平成17年 12:02:08 61歳 206km:「第2回佐渡島一周ウルトラ遠足」(新潟)平成19年 40:23:00 63歳< ランニング中に出会ったもの > 北海道の阿寒湖付近と知床半島では、エゾシカに遭いました。特に阿寒湖付近では、エゾシカが集団で走っていて見事でした。(平成8年)愛媛県松山市での練習中、山中で迷子になった大型犬のシベリアンハスキーが一緒に着いて来ました。これには恐怖を感じ、途中で「まいて」逃げました。(平成5年)島根県の中の海では、凍った湖の上で眠っている白鳥を見ました。(平成8年)山形県の山寺へ抜ける二口峠では、ヤマネ(とても小さなネズミみたいなもの)が葉っぱの下に隠れるのを見ました。(平成22年) 茨城県水戸市の練習コースだった千波湖では、白鳥や黒鳥が岸辺で巣を作っているのが見られます。(平成14年)沖縄本島一周の時(平成20~23年)には、道端で死んでいるハブを2回見かけました。もしハブに噛まれたら、30分以内に血清を注射しないと死んでしまうのですが、私が走っていた場所には人家がなかったのです。 平成8年に行ったオーストラリアでは、首都のキャンベラを走っている時にオウムの大群を観ました。これはかなり大型の鳥で白い色。野兎の穴も発見しました。メルボルンではフライングフォックス(大コウモリ)の声を聞きました。姿は樹の上で見えませんが、糞の異臭が凄かったです。シドニーでは馬に乗ったお巡りさんが追いかけて来たのにビックリ。どうやら巡回中だったようです。ああ驚いた!!< 最高地点 > 私が走って登った最高地点は3003mです。これは立山の雄山山頂です。富山市の浜黒崎海岸から65km先にある雄山山頂まで走って登る「立山登山マラニック」と言うレースがあります。参加資格はフルマラソンを4時間以内で走れ、登山の経験を積んでいることです。海抜0mから3003mまで登るのですから高低差も3003mになります。 途中の八郎坂は雨の後で崩落することも多い難所です。そこを過ぎると湿原の中の木道を走り、次に観光バスが往来する立山アルペンルートを走り標高2450mの室堂へ。そこから山頂までは登山そのものです。私が雄山山頂へ立てたのはウォークの部も含めて2回。山頂からの眺め、宿舎となる雷鳥荘からの雄大な景色は忘れられない思い出ですね。<続く>≪注≫「トランスヨーロッパ」(4176km)でリタイヤ扱いだったSパパと旅がらすさんの2人でしたが、大会本部の公式HPによれば昨日の第63ステージでは復活、完走扱いとなっています。どうやら誤報だったみたいで良かったね。今日が最終日。きっと日本人選手の10人全員がゴールしてくれるでしょう。地中海の海の色は長い距離を走り続けて来た選手達に、どう映るのでしょうね。皆さんお疲れ様で~す。最後まで頑張ってくださいね~
2012.10.21
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< プロローグ > 地球2周走破達成の興奮がようやく治まった。既に一昨日から3周目に突入しているのだが、この3周目達成はかなり困難だろう。これからは老化との戦いの本番。筋力の衰え、気力の衰え、病気や怪我とも戦うことになると思うからだ。それもまた良し。これまでランニングは生活と共にあった。31年間の転勤暮らしの中で、どれだけ走ることによって慰められたか。 そのランニングを生涯続けるためには、健康が第一。これからも健康に注意し、出来るだけ前進したいと思っている。気がかりだった「トランスヨーロッパ」だが、昨日の第62ステージで、とうとうSパパと旅がらすさんが脱落した模様。Sパパは相当風邪が酷いようだ。旅がらすさんは足の痛みによる時間切れか。ともあれゴールまで後2日。ステージランナーでも良いから走り通して欲しいものだ。< 走り始めたきっかけ > 私が走り始めたのは筑波勤務時代の5年目。35歳の1月1日だった。前年の地区運動会では、子供達の前で無様な姿を曝した。自分では速いと思って出場した種目なのに、足がもつれて走れなかったのだ。それは骨折した影響で、まだ良く回復してなかったのが原因。「これは名誉挽回が必要」。そう思って元旦からランニングの練習を開始したのだ。 4月には人事異動があるが、職場にはランニングの好きな上司がいて走らされるのは確実。その「準備」のためにも鍛えておく必要があった。走り出したのは近所の道路。最初は3kmくらいでも脚がもつれた。それを5km、7kmと増やし、18kmくらいまで走れるようになった。そして職場の駅伝大会でも活躍するようになったのだ。 当時はタバコを吸っていた。それにその頃は「接待」もあり、週に2回は宴席に出たと思う。タバコを吸い、酒を飲んでも若さのためか走るのは結構速く、駅伝大会では1kmを3分34秒ほどで走れたと思う。ただし5kmが限界。走り終えると激しい息遣いで肺の中から「血の匂い」がしたものだ。尿から蛋白が出た後輩もいた。急に激しい運動をしたために、腎臓障害を起こしたようだ。< わがランニング史 > 35歳から走り始め、今年の正月でまる33年が過ぎた。今は34年目だ。あの後、茨城県の筑波から徳島県の鳴門へ転勤し、以後沖縄、愛媛県の松山、大阪、山形、石川県、茨城県の水戸と転勤を繰り返した。全部で31年間の転勤暮らしはとても長かったが、転勤先でスポーツを楽しみ、大半は走ることも出来た。各地のレースにも出たが、出張先にもランニングシューズを持参して走った。 観光地でも走った。だから地球2周走破は、そんな距離と34年分の積み重ねなのだ。寛平ちゃんはヨットと自分の脚で文字通り地球を一周したが、私のような市民ランナーはとてもそんなことは無理。走ったのはほとんどが国内の道路だし、外国は出張で行ったオーストラリアのキャンベラ、メルボルン、シドニーの路上だけ。それも今となっては良い思い出だ。< 記録 > 全都道府県を探訪し終えたのが平成8年。大阪勤務時代のことで、最後に残ったのが和歌山県だった。その記念に「和歌山城ー高野山往復ウルトラ」というレースに出た。距離は110km。文字通り和歌山城を出発して高野山の南門まで登り、そこから引き返すという厳しいコース。途中で膝を傷め、最後は寒さに震えながら夜道を歩いた。15時間もかかり、疲労困憊した思い出のレースだ。 地球一周走破を達成したのが走り始めて24年目の8月。水戸勤務の時で58歳だった。当時は地球1周を4万キロとばかり思っていた。単身赴任だったため、1人淋しく祝杯を上げたものだ。それが地球1周は4万8kmが正しいと知り、今回2周目達成で念のため「赤道の長さ」を調べたら4万75kmだった。多分同じ地球の周囲でも、自転してるせいで横の赤道の方が「縦」に測るよりも長いのだと思う。 全都道府県を走り終えたのが平成16年で61歳の秋。この時は前職を辞めて仙台の自宅に帰り、第2の職場で肉体労働をしていた。最後に残った未走県は奈良県。特に走りたいレースもなかったため、仙台から夜行バスで京都へ行き、そこから奈良へ移動して奈良市の周辺をグルリと走った。東大寺の西から奈良坂~柳生~光仁天皇陵~太安万侶の墓などを経由して、近鉄奈良駅前がゴール。先日気になって「ジョギングシュミレーター」で計測し直したら47kmだった。 こんな風に、私が全都道府県を走ったと言っても、全てレースに出たわけではない。観光で走ったのもあれば、出張で走ったのも含めている。それもまた素晴らしい思い出だ。だが滋賀県だけは納得が行かない。走った9kmは三重県の伊賀上野市がスタート、ゴールのマラソンで、たまたまコースの途中で滋賀県の山中に入るだけ。12月に滋賀に行く時に、延暦寺まで走って登ろうと思っている。< 出場したレース > 走り始めてからの10年間に出たレースはわずか3度。「筑波学園マラソン」の30kmのみ。これは「つくばマラソン」の前身で、今とはコースが丸きり違う。レース参加が少なかったのは勤務が多忙だったのと、赴任先にちょうど良いレースが無かったため。私が正式記録として残しているのは、フルマラソン以上のレースだけだが、「全都道府県走破」の資料にそれ以下の記録の断片が残っていた。 それらによれば、☆10kmレースが2回。☆20kmから23kmまでのレースが33回。☆30kmから36kmまでのレースが6回。☆フルマラソンと43kmまでのレースが50回。それ以上のウルトラレースが44回となっている。ウルトラは80km以下のレースが21回。100kmが19回。110kmが1回。200km以上が3回。参加レースの合計は135回。これだと年平均で4回以下。最初の10年でたった3回が影響しているが、これもまた我がランニング人生のうちだ。<続く>
2012.10.20
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< 走友たちの活躍 > 所属走友会のHPを見ると、頑張っている仲間の様子が良く分かる。新潟へ赴任中のSさんは、「新潟マラソン」で念願のサブスリーを達成したようだ。スピードランナーでありながら、「薬莱山マラニック」などにも挑戦している彼。単身赴任でも、頑張って走ってる様子が感じられて嬉しい。Sさんおめでとう!! 若手のホープで、今年の夏に結婚したばかりのHさんが、初めて参加した100kmレースの「越後くびきの」で、見事サブテンで完走したようだ。スピードランナーでありながら、長距離の練習もしている彼。ハネムーンは12月の「ホノルルマラソン」と言う徹底ぶり。Hさんおめでとう!!良く頑張ったね。 先日あった「松島ハーフマラソン」で、M仙人は前人未踏の36回連続出場と完走を果たしたようだ。70歳を過ぎてから「エベレストマラソン」に挑戦し、72歳の現在でも「秋田内陸」の100kmを悠々完走しているMさんは、鍛え方が私達とは全然違う。さすがは宮城UMCの会長。M仙人おめでとうございます!! いつも飄々としたO川さんが、最近の練習で山形県新庄市から鳴子、古川を経由して仙台の自宅まで走ったようだ。地図上で計算したら距離はざっと128kmほどある。以前には盛岡から仙台の自宅まで、約200kmを練習で走っている。それも単独で夜通しだから、その凄さが分かる。定年後も自宅から離れた土地で働いているO川さん。良く頑張ったね、おめでとうございます!! 山男S村さんとトレイルラン大好きのK副会長が南蔵王を駆け抜けたようだ。距離は34kmで高低差は1230m、かかった時間は8時間18分とのことだが、累積の高低差は多分その3倍にはなるはず。私が南蔵王を縦走した際は、6時間半ほどかかったが、距離は彼らが走った3分の1に過ぎない。「何か」を計画中みたいだが、全容が明らかになるのを楽しみにしておこう。お二人さん、お疲れ様~!! 新潟の銀のねこさんが「越後くびきの」を11時間ちょっとの好タイムで走ったことをブログで知ったが、その続編を読んでビックリ。何と彼女は100kmマラソンの帰りに仲間の待つ「24時間リレー駅伝」に合流し、キロ6分のペースで10kmほど走った由。少し前には「信越五岳」で、標高1500mから2000mの山道110kmを走破した彼女。まったく凄いお母さんランナーだ。 「トランスヨーロッパ」は昨日が第61ステージ。日本人ランナー10人は全員完走したみたい。このところ足の痛みが出て記録が落ちていたSパパが、昨日はとうとう最後尾でのゴールだった。残っている日本人ランナーでは最高齢の彼が、頑張っている様子が目に浮かぶ。門さんのツイッターによれば昨日のレース中に貝畑さんが転倒して、肋骨、膝、左手小指を負傷。テーピングしながら続行中とのこと。ゴールまで残り3日間。何とか頑張って全員ゴールすることを願っている。< 地球2周走破達成 > 記録達成まで残り12kmになっていた私だが、折角なので昨日のうちに挑戦した。疲労感があって本当は走りたくない気分だったのを何とか盛り上げるために着たのが、黄色い半袖Tシャツと黄色いランパン。これだけ目立てば、途中で走るのを止めるわけには行かない。冷たい風を受けながらの11kmランは結構気持ちが良かった。この日は3km歩いているため、合計で14km。いかにも私らしい達成ぶりだった。 夕食時には韓国の酒マッコリで地球2周走破(8万150km)達成を祝った。妻にも相伴させたが、私ほど感慨が湧かないのは仕方がない。走った本人しか苦労も喜びも分からないものだ。34年間の遥かな道のりが思い出される。特に2周目は58歳の時から。第2の人生に入って主にウルトラマラソンにシフトし、一気に距離が延びた。明日からは当分この話題を書く予定。ランニングに興味のない読者には気の毒だが、我慢して付き合って欲しいと願っている。ゴメンなさ~い!!<続く>
2012.10.19
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プロ野球のCSファーストステージが終わった。セリーグは2位の中日が3位のヤクルトを下し、パリーグは3位のソフトバンクが2位の西武を破った。共に1勝1敗で迎えた最終戦で、助っ人の快打で勝利を物にした。わが東北楽天の選手達も複雑な思いがあったはず。何せ3位のソフトバンクとは、わずか1ゲーム差で涙を飲んだのだから。 公式戦が終了した後、各チームでは戦力外通告や、来シーズンに向けての新体制発表がされている。わが楽天でも元大リーガー岩本選手への戦力外通告があったし、田淵ヘッドコーチの退任を含む1軍2軍の監督コーチの大幅な入れ替えがあった。そしてこれからもドラフト会議など、来季へ向けての補強が検討されるだろう。 そんな折、Kスタでの秋季練習が昨日から開かれることをニュースで知った。開場は10時でバックネット裏をファンに開放し、入場料は無料。ほほう、これは面白い。どうせならそこまで走って行けばランニングの距離を稼げ、トレーニングにもなる。そうだ、明日はKスタまでマラニックだ。(マラニックとは、ピクニック気分でマラソンを楽しむという意味の合成語)さて、リュックには何を詰めるか。 当日は見事な晴天で雨の心配はない。むしろ暑いくらいだ。服装はランシャツにランパン。そして直射日光を避けるための帽子。リュックには若干の食べ物と牛乳と着替えを入れた。走っているうちは良いのだが、練習を観てるうちに冷えて寒くならないためだ。いつも自転車で行くコースを、リュックを背負って走って行くのはとても不思議な気分。 足の痛みが最大の関心事。最近は1日置きに、割と長距離を走っているが、その疲れが出ないかが心配。右足底部の痛みが筋膜炎でないことを祈る。左脚の脛と膝周辺の痛みも気になる。だが体が温まって来ると、それらの痛みが気にならなくなった。それにしても相変わらずスピードが出ない。悲しいけれど、これが今の姿。次第に額から汗が噴き出す。 1時間13分ほどでKスタ到着。距離は9kmくらいのもの。入場口ではペットボトルのチェックがあった。まさか練習でも飲み物のチェックを受けるとは。ランニングのために必要と言い、空のペットボトルを戻してもらった。早速バックネット裏へと急ぐ。既に100人ほどの熱心なファンが詰めかけていた。 練習開始は10時で、もう30分以上経っている。練習は外野でのジョグ。ウインドブレーカーを着てるため、誰が誰やら分からない。もっと緊張してるかと思ったら、割とのんびりした雰囲気だ。次に内野に戻ってのキャッチボール。この時はユニフォーム姿で背番号も見えた。三輪、田代、米村などのコーチ陣がマスコミへ対応してる姿が見える。 分かった選手はキャッチャーの嶋、伊志嶺、井野。内野手の小斉。外野手の鉄平、島内ら。投手はどうやら別メニューのようで誰もいない。私は専ら嶋と鉄平を観ていた。キャッチボールの距離が徐々に離れて遠投になる。コーチが鉄平にスローイングを注意している。内野手の送球みたいなのが不思議。リュックから取り出した牛乳を飲み、小さなアンパン、クリームパン、果物などを食べる。 練習がトスバッティングに変わる。1人が投げ、1人が打つ。これが絶妙なバットコントロールで、さすがはプロの技。ほとんど失敗がない。次に内外野に別れてのノック。それが終わると、内野手が外野に行き、外野手が内野でノックを受ける。ほほう、それで先ほど鉄平が内野手のスローイングをしていたのか。これは内外野どちらでも対応できる練習なのだろうか。 選手層の薄い楽天は、若手の選手を徹底的に鍛えるしかない。それで1軍のバッティングコーチだった大久保が、来季は2軍の監督に抜擢されたのだろう。1時間ほど練習を観て球場を出る。隣の陸上競技場ではどこかの学校の運動会でも開かれているようだ。「何年何組、どこへ集まれ」とか、スピーカーから聞こえて来る。 帰りは街中を走った。いつもは通らない裏道だ。新寺小路裏の知らないお寺が結構多い。山形の米沢、宮城県の岩出山と、藩祖伊達政宗と共に仙台へ移動して来た寺々は、戦になった時の要塞として一か所にまとめられたのだ。連坊小路、荒町を突っ切り、古い愛宕橋を渡って帰宅。距離は20kmほどになるだろうか。思った通り楽しいマラニックになって満足だった。 これで今月のラン&ウォークは189kmで、地球2周走破まで残り24km。ようやく後2、3日で達成出来るところまで来た。34年目にしての快挙。地球1周には25年もかかったが、2周目はわずか9年目。それだけ「老後に頑張った証拠」と言えよう。地球1周目は単身赴任先の水戸で1人淋しく祝ったが、ひょっとしたら今回は妻が祝ってくれるかもね。
2012.10.17
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一昨日の夜「日本アルプス大縦断」という番組を観た。8月に行われたTJAR(トランスジャパン・アルプスレース)の総集編だった。富山県の早月川河口から静岡県の大浜海岸まで走る415kmのレースだが、普通の道路ではなく日本アルプスを縦断すると言う物凄いコース。これを1週間で走破する。 参加したのは厳しい審査を受けて選ばれた28人。スタート後に先ず向かうのが剣岳(2998m)から槍ヶ岳(3180m)に至る北アルプス。剣岳はたまに登山家でも滑落死するほど難しい山。それを出来る限りの軽装で登って行く。寝るのは自分で持つテントだけ。山小屋には泊れないのがルールだ。 天候が急変し、北アルプスで早くも4人の選手が脱落する。だがトップの望月選手(34歳、静岡県、消防士)は24時間で、既に槍ヶ岳付近まで到達。ほとんど眠っていないのだ。私は山に疎いので知らないが、剣岳から槍ヶ岳まで行くにも、2500mから3000mクラスの山を10座は登るだろう。彼が先を急ぐのは5日以内に走破して新記録を作るためとか。 2位グループは3人。このうち阪田選手は32歳の無職で三重県出身。3人一緒だと、コースを間違う心配は少ない。寝ないで先を急ぐ望月選手に対し、阪田選手達は要所で睡眠を取り、最後に逆転をねらう作戦だ。6位になった北野選手(45歳、長野県、地方公務員)は甲状腺がんで入院していた人。それを不屈の精神で跳ねのけ、困難なレースへ挑戦したのだ。 中央アルプスは駒ケ岳(2956m)から空木岳(2864m)までの縦走。ここは長野マラソンのコースである千曲川の堤防上からも良く見える。空木岳から駒ケ根に下り、仙丈ケ岳(3033m)から茶臼岳(2600m)までの南アルプスを経て駿河湾に至る。望月選手の新記録は達成出来なかったものの最小限の睡眠時間で、最後までトップは譲らなかった。 阪田選手は健闘して2位となり、がんを克服した北野選手は2人の小さなお子さんと一緒に6位でゴールした。28人中ゴールまで来れた選手は18人。それでも凄いと思う。岩崎選手(45歳 京都府 会社員)は最後のチェックポイントを通過したものの途中で時間切れ。それでもゴールへ向かう。登山の経験やトレイルランの経験が求められる過酷なレースの実態を知って驚いた。 「トランスヨーロッパ」(4176km)は昨日が第57ステージ。目下走ってるコースはスペインアンダルシア地方の山中で、アップダウンが厳しいようだ。この日まで残った日本人選手は10名。Sパパは2週間前から膝痛で苦しんでいるようだが、時速7kmで走れていると雲峰さん宛ての葉書に書いてあった。だが、公式HPによればタイムが徐々に落ちているようで心配。 毎日最後尾でゴールする旅がらすさんのブログによれば、コースの周囲はオリーブ畑が続いている由。ゴールまで残り7日。今日からはかなり距離が短くなる日が多いとのこと。脱落した8人の日本人選手も元気で、ステージランナー(正式ではなくその日ごとの)として全員走っている由。スペイン最南端、地中海のゴールまでもう少し。最後まで頑張って欲しいものだ。 私は昨日23kmを走った。山の上では足がヘロヘロ状態。先日の18km走では比較的楽に走れたと感じたのだが、半年間満足に走れなかったことで失った筋力を取り戻すのは容易ではない。この日も吹きつける秋風が気持ち良かった。3時間ちょっとかかって帰宅すると、体重が2kgほど減っている。それだけエネルギーを使い、それだけ汗をかいているのだ。 手術した心臓の調子は悪くない。スピードが出ないため、さほど負担をかけていないはず。それよりも心配なのが足。整形外科のドクターにはランニングを止めて、自転車に変えるよう勧告されている。長年のランニングで偏平足がさらに変形し、筋膜炎や腱鞘炎を引き起こすのだ。それを防ぐために、ランニングシューズに医療用インソールを装着し、痛みが出ないか注意している。 今は筋力回復を目指すと同時に、老化と戦っている感じが強い。1年以上レースから遠ざかり、走友会の仲間や、ウルトラマラソン仲間の活躍ぶりをネットで確認する現状だが、焦りはない。友は友。自分は自分。この状況を克服するのが自分に課せられた課題で、これをクリヤーしない限り前進はない。相変わらずのノロノロランでも、走れるだけで嬉しい。今日も朝焼けがきれい。健康に感謝だ。
2012.10.15
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布団を干して走りに行った。30kmでもなく、28kmでも23kmでもなく18kmのコース。もしそれで余力があったら、近所の坂道を走れば良い。山を登る。かなり涼しくなったせいか、さほど汗はかかない。名取川の堤防を東に向かう。涼しい風がとても気持ち良い。生きていて良かった、走れて良かったとしみじみ感じる瞬間だ。 脚の筋力が少し戻って来たような気がする。それでスピードを上げてみた。ほほう、良いねえこの感触。他人から見ればただのゆっくりランナーだが、当人には十分スピードを出した積り。呼吸も楽だし、鼓動も苦しくはない。ようやくここまで来れてちょっぴり安堵する。30kmを楽に走れるようになるには、まだ時間を必要とするようだ。だが去年の今頃に比べれば雲泥の差。 去年の9月の「秋田内陸」では、わずか8km地点で異常を感じた。レース中の不整脈発生。血液の一部が心房から心室に逆流するため、エンジンがストンと落ちた感じ。そこからはスピードを上げたくても上がらないのろのろラン。10km過ぎでは後ろから大会本部の車が着いて来た。何と生まれて初めて最後尾ランナーとなったのだ。 大覚野峠は何とか越えたものの、50kmの中間地点には辿り着けなかった。45km地点でタイムアウトになり、そのまま車に乗せられた。100kmレースで半分も走れなかったのは初めてのこと。ゴールに送られ、「ああ、これが最後の100kmになるなあ」と覚悟を決めた。翌月の「伊南川ウルトラ遠足」も結局は参加を見合わせた。それほど体調は良くなかった。 昨年の大震災後に発見された不整脈。それ以降循環器内科での治療を受けたが、服用した薬は全て合わなかった。激しい動悸、めまい、そして吐き気。それらは全て薬の副作用のせいだ。それで薬を飲むのは諦め、エントリーしたレースは全て取り止めた。どん底の気分を察知したドクターが専門病院での手術を勧めてくれた。名医でこれまで行った手術数も多いらしい。 だが成功したかに見えた1回目の手術後、また不整脈が起きた。私の場合は継続性のもので、長い間不整脈が続いていた由。そのために1回の手術では不整脈の発症源を、焼き切ることが出来なかったそうだ。不安に怯えながら受けた2回目の手術。術後の苦しみに耐えながら、パートの重労働をこなしていたのだが、ある朝体調が悪くて出勤出来なくなった。疲労の限界。それで9年間働いたビル管理会社を辞めた。 2回目の手術後にも不整脈が出た。妻には言わなかったが、絶望感が私を襲った。取り敢えず近所の循環器内科での治療を受け、専門病院にも連絡してもらった。治療は薬の服用。2度の手術の後遺症と薬の副作用で気持ちが悪い。この夏の猛暑との戦いも過酷だった。それらに耐えながら読書する日々が続いた。ゆっくりと走り始めたのは8月から。ウルトラマラソン仲間の練習会「薬莱山とお足」に出るためだった。 もちろん55kmを走るのは無理のため、自転車での参加。110kmをマウンテンバイクで往復出来た時、ランニング復活への微かな自信が芽生えた。あれから2カ月。ようやく気持ち良く走れるようになった。1日3回の薬の服用でも異常はなく、術後の6カ月検診も無事済み、晴れてランニングに許可が下りた。 太白大橋を渡る。名取川を覗いても、まだ鮭の遡上は見られない。今年は海水温が異常に高いため、鮭がオホーツク海から下って来るのが遅れそうだ。2時間16分余りで帰宅。ランニング日誌を見たら、前回より30分以上の短縮。やはり少しずつ練習の「成果」は現れている。暗澹たる気持ちの1年前と比べたら月とスッポン、天国と地獄ほどの差。やはり健康はありがたい。 夜、ネットで注文したジャージの上下が届く。色は私の好きなダークグリーンが基調。ところが上着にポケットが無い。あれまあ、何ということかと驚いたのだが、注文したのは確かサッカー用。へえ?サッカー用のはポケットが無いのか、と初めて知る。この日は筑波時代の悪友から「招待状」も届いていた。3年ぶりの「麻雀大会」を滋賀県で行う由。昔の仲間に会えるのも嬉しいが、この際参加するついでに、ある計画を実行しようと思いついた私だった。
2012.10.11
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