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酒でもなく、酒を提供する店でもなく、悪いのは酒の飲み方を知らない連中だ。そんな連中さえ駆除すれば、このコロナ禍でも酒を提供する店に休業なんて養成せずに済むのだ。あの連中はまわりの人たちに迷惑をかけることしかできないのに、その自覚がないというどうにもならない連中だ。かくいう私もその昔は大酒のみだった。しかし一度たりとも記憶を無くしたことはない。なので今でも「酔ってて記憶がない」なんていう連中のいう事なんて信じていない。自分が都合の悪い言動を酒の勢いを借りてやってしまったことをなんとか無かったことにするためのウソと思っている。記憶を無くすヤツは酒を飲む資格はない!私の大酒飲み時代を知っている人にはよく不思議がられたことがある。それはあまり店で飲酒をしたがらないことだ。居酒屋みたいなところは大丈夫だが、バーとかスナックとか接待を伴う店があまり好きではない。もっとちゃんと言うと、こちらの話に店の人間が割って入ってくる店が好きではないのだ。
2021.04.30
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一方、巷はどうなっているかというと、報道で見る限り自粛といった雰囲気はかなり希薄のような気がする。もちろんちゃんと自粛している人たちの方が多いとは思うが、ほんの少数の人たちが羽目を外している。しっかり感染対策をして様々なことを楽しんでいる人たちもいるが、もう完全にそんなことを考えていない人もいる。そんな中で注目視されているのが飲酒だ。「お酒だけを目の敵のようにしているのが理解できない」という声もある。お酒を提供する飲食店にとっては死活問題であることは分かる。それで収入が激減して明日の生活もままならない人たちがおれらる事実には心が痛む。厳密にいうと、問題なのはお酒でもお店でもなく酔っぱらいなのだ。最初は距離を保って、アクリル板なんかの仕切りをちゃんと活用していても、酒がまわってきたらもう関係なくマスクを外しアクリル板を撤去して大声で話をするなど・・・問題行為を繰り返す。挙句は路上などで飲酒をはじめて大声ではしゃぎまわる・・・悪いのは酔っぱらいだ。これも厳密にいうと、酒の飲み方を知らない連中だ。何度も言うが、私はそういった連中が嫌いだ。
2021.04.29
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昨年からのコロナウイルスの影響でつい先日3回目の緊急事態宣言が出された。もう去年の今頃に出された1回目のそれのときとは少し国内の雰囲気が違っているような気がする。正直、慣れてきたというか緊張感がないというか・・・もう国民の行動にはある程度期待はできないので、ワクチンの効果に頼るしかないのかもしれない。しかし私は生活にあまり影響を受けていない。これは幸いなことだと本当に思う。昨年の第一回目の緊急事態宣言のときは、学校が一斉休校になったので昼間も授業を入れた。そこは超少人数制の我が教室のフットワークの軽さを存分に発揮できた。ウイルス対策をしっかりしながら授業をおこなった。しかも昼の追加授業は無料という大盤振舞いだった。で、バイクの仕事は減るか・・・と思いきやこれが激増した。コロナで母国に帰れなくなった日本国内におられる外国人の人たちが、帰省の旅費が浮いた分二輪免許取得に充てようとする人が殺到した。午前中にバイクの指導をしてそのまま車に乗り込み、帰宅しながらおにぎりを食べて、家に着いたらもう生徒が集合してくれていてすぐに授業・・・という生活が続いた。
2021.04.28
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今日私の教室の中学生のある学年に、新学年になってはじめて教科書の内容のオリジナルプリントを解いてもらった。ある教科書のはじめのはじめ・・・PROGMRM1-1の基本文だ。生徒たちに「PROGRAM1-1はもう学校で習ったか?」と聞くと「とっくに習った」と返ってきた。「難しいと思った?」と聞くと「簡単!」「楽勝!」と返ってきた。プリントの解答内容はというと・・・全員全く理解できていなかった。おそらくサクサク進む学校の授業で心地よく「分かったつもり」にだけさえられているのだ。あまりにもの解けなさぶりに一番愕然としていたのは本人たちだ。新たな中学校の教科書・・・特に英語の教科書は、内容はともかくとして、現場においては今のところ問題山積といったところだ。
2021.04.27
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考えようによっては今回の新しい英語の教科書には結構な自由度があるとも解釈できる。たとえば教科書に載っていない『合わせ技』を生徒や先生がひねり出して、英語表現に幅を持たせることも可能だ。ただ、ここで先生側が従来の考えを踏襲して「教科書通りの文章や表現でないとダメ!」なんて言い出したら、もう新しい教科書はただ学習量が激増したもの・・・と化してしまい、その効力や可能性を押し殺してしまうだろう。つまり新しい教科書は教員側の力量まで浮き彫りにしてしまう内容なのだ。願わくば、新たな教科書内容に負けない新たな授業の進め方、そして新たな試験の在り方が模索・確立されていくことを期待する。それが可能になれば、生徒側の負担が負担ではなく学習する楽しさに変わっていく。もちろん私も今年から英語の授業形態を変えている。それにはもう皆さんが想像を絶するであろう時間を費やしている。今年一年間これが続くのかと思えばもう正直言って逃げ出したいくらいだ。しかし・・・そこを踏ん張るのがプロだ!踏ん張り切れるかどうかは今のところ分からないが全力で立ち向かう。教える側も、教わる側も、全力で新たな教科書と向き合っていくことを願わずににはいわれない。それを乗り越えた向こう側に待っているのは新世界だ!「英語って面白いや~~~ん」って心から思える世界だ!
2021.04.26
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そして【仮定法】が中3生の教科書に追加された分、それまでの各文法項目を学習する時間が短縮される。年間授業時数に変化がないので中3で【仮定法】が増えた分、いままで中3で学習してきた文法や構文のいつくかが中2に回されている。またその分本来中2で学習してきた内容のいくつかが中1に降りてきている。こうなればたとえば1日学校を休んで1回の英語の授業を受かられなかったら、もうその文法を教えてもらう機会を完全に失ってしまうことになる場合も考えられる。。それだったら何とか自主学習等でリカバリーが可能であるが、落ち着いて学習ができない環境の学校やクラスであればちょっと絶望的な結果が生まれてしまうかもしれない。ともかく日々気が抜けない学習状況が続く。その状況をどう工夫して勉強してくかが問われる。しかしそれこそ学生の本分である。
2021.04.25
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本文の量も単語の量もかなり増えている。それに加えてこの文法だ!新しい教科書を見渡す限り、中3で【仮定法】が入ったからといってその他の文法項目が削減されているわけではない。それどころか増えている。私がよく授業で言うところの『合わせ技』だ。たとえばある中3の教科書では最初に不定詞構文のひとつ[ ask 人 to ~]=「人に~するように頼む」[ tell 人 to ~]=「人に~するように言う」[ want 人 to ~]=「人に~してほしい」を学ぶ。そこに中2で学習する助動詞表現の「~してくれませんか」を合わせる文章が平気で本文の中にでてくる。「人に~するように頼んでもらえませんか。」・・・って感じだ。これをやっちゃうと、その他の文法や重要表現を自分で合わせて使いこなすスキルが求められてくる。そうなるともう「教科書に出ていない文章なので分かりません。」はもう全く通用しなくなる。文法や重要表現を知っているだけではダメ!それをいかに使いこなすかに重心が置かれて、その能力が問われるようになるのだ。
2021.04.24
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今年の4月から教科書が変わった。大体教科書の内容は4年ごとに改定される。教える側の人間は今回もその時期が来たに過ぎない・・・とはだれも思っていなかっただろう。特に毎回大きく変わるのは英語だった。本文が全て変わるからだ。しかし学習する文法なんかはそんなに変更はないものだ。ところがだ・・・今回は文法内容も大きな変更を遂げた。なんと中学3年の最後に【仮定法】が入ってきているのだ。それも【仮定法過去】と【仮定法過去完了】がどちらもしっかり入っている。これには少々驚かされた!
2021.04.23
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校則以外にも近年は様々なルールの見直しが必要と言われている。なんでもかんでも無くせばいいという軽率な考えは危険だ。ルールや決まりが無い方が自由だと思って勘違いしている人間も多い。自由というのは限定された範囲内にしか存在しないということを知るべきだ。西欧文化が急激に日本に入ってきたとき・・・今後国際語として主流になりそうな英語を日本語に訳す作業をしていた人物がいた。福沢諭吉その人だ。中でもかなりの時間をかけて悩んだ語があった。【Freedom】だ。何事も自分の好き勝手に無秩序に行動していいと思われてはいけないと悩んだのだ。考え抜いて悩みぬいてひねり出した言葉が『自由』であった。意味は「自らをもって由となす」=「自らを行動の油する」=「自らの意志や考えを行動の理由とせよ」である。もっと簡単にいうと、「自分の考えをもとにして自分の行動を律せよ」ということになる。それができるのならルールはある程度必要ないだろう。しかしそれも知らないで「ルールは不要」だとか「自由」だとか言わせてはいけない。それをも知らない大人が多い昨今である。子供たちにそれをどう知らしめていくのかが大きな問題になっている。
2021.04.22
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また話に長い回り道をさせてしまったが、何事もその歴史や意味・意義を知ってから非難や批判をするべきだと思うので、その一例として挙げさせてもらった。制服もブラック校則だと断じて廃止してしまうとどうなろだろうと考ええると、やはり諸問題は回避できないであろう。実際すでに制服を廃止している学校も近年は多い。そして未成年者が犯罪に巻き込まれる件数も増加の一途だ。未成年者数がこれだけ激減しているのにだ。もちろんその原因が全て制服を廃止した学校のせいだとは言わない。でも少なからずその要因となっていると考えることも十分にできる。なのでやはり、制服を廃止して私服登校を認めるのであれば、その責任は本人と保護者に完全に委ねならなければならない。そうなれば利点も出てくる。生徒指導なる業務から教員が解放される。ただ、著しく風紀を乱すような行為があればすぐに学校から放り出す体制は必要だ。そこでまた保護者と連絡を取って・・・なんてしていたら教員の負担となるからだ。それこそ自己責任である。自由には責任が付きまとい、権利には義務がつきまとっていることを身をもって教えるべきだ。
2021.04.21
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風下の船員の声を聞きやすくするために、風上の船員があの後ろ襟を立てて使用するのだ。風上の船員は、風に背中を向けたまま少しお辞儀をしただけで風が襟を立ててくれる。また風が後ろ襟を後頭部に密着させてくれるので、耳を大きくしたような効果が出るのだ。知ってました?さて話を本題に戻したいが・・・もう少し寄り道を・・・セーラー服の話題に触れたこの3回ほどの書き込みの回が、過去最高の閲覧数をたたき出した。2010年4月からはじめたこのブログの・・・である。そんなにセーラー服に興味を持っている人が多いわけ?この世は不思議でいっぱいだ。で、本題に戻る。その後ろ襟が肩の部分でとまるようバランスをとるために胸元まで伸びるデザイン・ラインとスカーフが当時の学園関係者の目にとまったのだ。あのラインとスカーフが胸元のラインを隠す効果を持っていることがポイントだった。
2021.04.20
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セーラー服の後ろ側に見られる肩から肩甲骨にかけての横長長方形の一見小さなマントのようなものは、正式には『後ろ襟』と呼ばれる。この『後ろ襟』には船上において重要な役割がある。ちなみにセーラー服のデザインが生まれたのは、大型の帆船で航海をする時代なのでそのつもりで以下の文章につき合ってほしい。例えば強い西風が吹く船上で作業をしている船員2人がいたとする。ひとりは西側に、もうひとりは東側にいる。西側にいる船員の声は風に乗って東側の船員に聞こえやすい。しかし東側の船員の言葉は風に押し返されて西側の船員には聞こえ難い。時として船上での小さなミスは大きな船を沈めてしまうことさえある。瞬時の情報伝達のミスが小さなミスを生むこともある。そこで登場したのがあの後ろ襟だ。
2021.04.19
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そんなときに学校関係者の目に留まったのが、海軍の制服の上着だった。もともとセーラー(正式には「セィラー」)[Sailor]は「船乗り」「水夫」「水兵」「海軍軍人」を表す言葉であることからも、その由来は簡単に推測できると思う。そして重要なのはその目に留まった理由だ。女学院の制服としては下はご存じの通りスカートが採用させるのだが、重要なポイントは上着にある。まずセーラー服の上着は寸胴だ。お腹まわりがなかりゆったりしている。あれは船上で風の方向を知るための機能なのだ。次に特筆すべきはあの背中から胸元にかけての独特なデザインである。あれは単なるおしゃれを演出するものではなく、船員にとって重要な役割があるのをご存じであろうか?
2021.04.18
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セーラー服が女学生の制服として導入されたのは大正時代の京都にある女学院だったと言われている。それからその導入の理由が受け入れられて、徐々に全国に広がり、昭和になると女学生がセーラー服を着るのが日本国内でのスタンダードとなった。最初に導入した女学院では、日本の近代化に女性も乗って行けるように様々な改革がなされたが、その目玉的なものが制服であった。当時の女性にとってはそれまで以上に着るものは非常に重要な要素であった。だから制服の選択から深く考慮された。条件のひとつとして着物ではなく西欧風のもの・・・というのが一番に挙げられたが、実際には大問題があった。それはその衣服を着用したときの身体のラインであった。それまで日本人女性が着用していた着物には、身体のラインを隠すという大きな機能があった。それを露わにすることは恥ずかしいことであったのだ。着物の着付けをしている知り合いに聞いたことがある。日本の着物が似合うのは寸胴体形らしい。胸の大きな人はそれを抑える工夫をし、腰のくびれが大きい人にはタオルを巻いてくびれを無くすらしい。それに対して当時の日本にいた外国人女性の多くは、それらを強調するもが多かった。なので西欧風の制服の採用は半ばとん挫しかけたらしい。
2021.04.17
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ただこの話に反論があるとすれば、児童・生徒がファッショナブルでおしゃれな国は未成年が犯罪に巻き込まれる割合が驚くほど高くなる。例えばアメリカの人口は日本のそれの約3倍だ。単純に考えて未成年者数も3倍となる。ならば未成年者が犯罪に巻き込まれる割合も3倍になるのかというとそうではない。ある学者のリサーチによるとほぼ100倍になるという。つまり!校則と同時に制服を廃止すると、自動的にこのリスクを考慮しなければならない。ちなみに日本で児童・生徒・学生に制服を用意した経緯をご存じだろうか?ことのついでにそれに関してもしっかり説明しておこう。まずはもちろんのことであるが、着るものの選択にかける時間があるのであれば、それをそのまま学業に費やすべきだという考えが根底にある。また学制(後の学校制度)が施行されたとき、衣服から貧富の差が露見して差別や迫害があってはならないという意図もあった。しかしこれには制服が高価で購入できずに入学を断念せざるをえない人を生み出してしまうという本末転倒な結果も残してしまったという悲しい事実があることも忘れてはならないだろう。そしてここで特に触れておきたいのは、女子の制服にセーラー服が採用された理由だ。みなさん考えたことはあるだろうか?
2021.04.16
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恩師が言いたかったのは、ファッションは自分へのご褒美であり、自分の努力が実った証でもあり、ときとしてそれはその人のアイデンティティともなり得る・・・ということであった。これはその後に出会ったサモア出身の男性の話にも共通した点がある。彼によると彼らのタトゥーにも同じ意味があるとのことだった。ただ目立ちたいという理由ではなく、自らの身を飾るといことには意味があることをそろそろ日本人も知る時期がきたのかもしれない。ちなみのその少女はピアスをつけ続けるために、常に算数でクラストップにいることができるように勉強を続け、ピアスをつけることも算数の好成績の維持も途切れさせることはなかったそうだ。ファッションやおしゃれの意味を考える・・・これはさすがに納得させられた。もちろんそれらに興味や必要性を感じない私のような人間は蚊帳の外にいればいいのだ。
2021.04.15
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おろらくそれは恩師の幼少時代の話ではないかと推測しているが、内容はこうだ。算数がすごく苦手な小学生の女の子がいた。いつもテストのたびにその点数を見た母親は彼女を叱ることなく、いつも笑顔で「努力するだけしたのでしょ? それならもっと胸を張りなさい。 あなたはできる子だからいつかお母さんがビックリするような点数を取ってくるよ。」と励まし続けた。女の子はその期待に応えたくて、学校でも家でも一生懸命勉強をした。先生にもたくさん質問したし、算数の得意な友達にもだくさん教えてもらった。そしてとうとう100点満点をとったのだ。本人もさることながら、もっと喜んだのは母親だった。次の日、女の子が帰宅すると母親が小さなプレゼントを手渡した。中身は小さくはあるがきれいでわかいいピアスだった。耳に穴を開けないタイプのピアスだったので、彼女はその翌日からそれをつけて学校に通った。これは日本の話ではないので、学校では彼女のピアスを咎める者はいなかった。友達は皆「おしゃれだ」「かわいい」と讃えた。担任の先生はだれに買ってもらったのかだけを聞いた。「お母さんです。」と答えると、「そう。よかったね。ずっと大事にしてよ。」と言って笑顔を見せた。
2021.04.14
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ポイントは3点。まずはファッション感覚、おしゃれ感覚が身につかない。まあ私は人生においてこれは求めていないのでどうでもいい。しかし子供からそういった感覚を育てる機会を奪うのはよくない・・・ということのようだ。そういわれると少し納得できる。次は金銭感覚が身につかない。まあ私はべつにそれはファッション以外でも身につくからどうでもいいと思っている。しかし、いいものは高額であるとか、いいものとは何かを考えるとか、欲しい服を買うためにどうお金をセーブしていくかを学ぶ機会を奪うのはよくない・・・ということのようだ。そういわれてもあまり納得はできなかったが、ある意味一理あるとは思う。私が納得させられたのは3つ目の理由だった。おしゃれは自分へのご褒美であり、自分を鼓舞するためのアイテムだ・・・という話だった。その話を聞いた時、よほど私はポカ~ンとしていたのだろう。恩師はピアスをした女子小学生の話をしてくれた。
2021.04.13
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大学時代の恩師に聞いたことがある。彼女はフランス生まれのカナダ人だった。彼女と日本の小中学生の制服について話をしたことがあった。制服は児童・生徒から教育の機会を奪っているというのが彼女の意見だった。私の出身県は小学校は私服で中学校から制服だった。なので幼心に制服は大人の入り口のような感覚がどこかにあった。そして実際に中学生になって制服を着るようになったら、大人云々よりもその楽さがひどく気に入った。だって明日学校に何を着ていくかを考えずに済むのだ。その点、小学生の頃は面倒くさかった。私は毎日同じ服でもいいのだが、母がそれを許さない。親の面子・・・みたいなものがあったのだ。私はといえば、気に入った服なら値段が許すなら何着も買って、常に同じものを着ていたいのだ。実際、現在の私はそれに近い生活をしている。しかし恩師は、それがいけないのだ!と言うのだ。
2021.04.12
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自由の定義!それは『公共の福祉に反しない限りの自由』だ。これを徹底させる。つまりは『他の人の迷惑にならない限りの自由』のことだ。自分の自由によって他人の自由を侵害することは許されない。これを小学生から徹底的に教える。教え込む。そしてそれに反したときのペナルティーを設定しておく。それさえしておけば、アホなヤンキーが授業中に暴れた挙句に「俺の自由や」なんて言わせないで済む。それを徹底しても理解できないような連中は即通学停止!オンライン授業のみ参加可能とする。それで成績が下がって一定の点数が取れない場合は何年でも落第させればいいのだ。そうすることで義務を背負わない人間には権利も生まれないとこを周りの人間に教えることもできて、一石二鳥だ。そしてさらに徹底させるべきなのは『ファッションの在り方』だろう。
2021.04.11
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その詳細は教員それぞれで設定すればいい。その際根底にあるのは、まず自由度が大きくなればなるほどそれに少なくとも比例した責任がついて回ること。またその責任は他の誰でもなく、学生・生徒本人が取らなければならないこと。次に【自由の定義】を常に明確にすること。なんならクラスの黒板やホワイトボードの上に大きく書いておくのもいいだろう。ちなみに・・・皆さんは【自由の定義】はご存じだろうか?これは日本国憲法に定義されているもとする。
2021.04.10
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そして『落第制度』を導入するのであれば、同時に『飛び級制度』も導入するべきであろう。さてさて、こんな話をしても、中にはもっと現場の教員にできる範囲のことに触れてくれ!という言葉が聞こえてきそうだ。さもあらんである。現場の教員ひとりひとりにできることは、自由の代わりに責任を学生・生徒に返還することを宣言することに尽きる。文部科学省はできないだろうし、学校全体で行うことも難しいだろう。よほど根性の入った校長がいれば別だが、それもほぼ期待できない。ならば教員個人がするしかないし、すればいいのだ。担任の先生は自分のクラスで。担任を持たない先生は自分の担当する授業でそれぞれ実施する。もちろん個人で落第制度を導入するわけにはいかない。しかしクラスや授業の秩序を乱す者や、学業が疎かになる者には先生が独自のペナルティーを科せばいいのだ。
2021.04.09
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制度の改革をしたいのは、学校で学習する教科以外の学習や活動の評価だ。これからは学校の学習がベースとはなりながらも、それ以外のものに関する評価も必要だ。最近10代の有名棋士が、将棋に専念したいからと高校を中退したという話が報道された。それは英断だったとか、強い意志の表れだとか、賞賛の言葉を多く耳にした。私もそう思うが、反面それでいいのか・・・とも思う。そんなことにはなってほしくはないが、もし何らかの理由で彼が将棋を続けられなくなったことがあったとしたら・・・をついつい考えてしまう。猫も杓子も大学に進学できるこのご時世に高校中退という事実は少し重い。多様性の時代だとか、それに対応できる教育環境だとかいうのなら、学習内容の多様性にも対応していかなければならない。そうなるともう小学校から単位制を導入するしかないのかもしれない。学校の勉強内容で試験を受けて一定スコアをとると単位がもらえて、学校以外の活動や学習も単位化して、どちらの単位でも指定数を獲得すれば進級・卒業できるシステムにすると可能だ。
2021.04.08
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問題点のひとつはやはり教育界がバカの大声を聞き分けて黙殺できるかどうかだ。落第制度を導入・・・なんていうと必ず出てくるバカ意見!「落第させられた学生・生徒がかわいそう。」「落第させられた学生・生徒の人勧が侵害される。」といった類だ。これらの意見をなぜ私がバカ意見というかには今回はもう触れない。バカバカし過ぎてもう嫌だ。かなり以前にこれについては忍辱の鎧を身につけて書いたことがあったので、過去の書き込みの中から見つけてほしい。これらの声を「はい、出たぁ~。」・・・といって無視するのだ。この能力がこれからの時代はどの業界にも必要となるのではないだろうか。こういうことをできるだけ早い学年で身につけさせておくと、SNSでバカ連中に避難中傷されたとしても自分自身を自殺に追い込んでしまうことに歯止めをかけられるかもしれない・・・。問題点のもうひとつは、その落第制度の見直しだ。たとえば中学生なら従来通りに主要五教科と副教科4科の計9教科の試験の点数を目安とするのだが、できればそれに何らかのプラス・アルファの設定を模索してみる必要があるかと思う。
2021.04.07
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自由が増えるということは、同時に責任も増えるってことをもう小学生から教える。今まで私はこの考えを大々的に述べることを避けていたが、これからは違う。『落第制度』『留年制度』を用いるには、今までの日本では少し問題があった。なんらかの理由で学校で授業を受けられない学生・生徒たちにとって酷だからだ。しかし今はオンライン授業がある!それは何も学校配信の授業でなくとも、学習塾や予備校が用意しているものでもいいしYouTubeでも構わない。有料・無料ももちろん問わない。画像の授業でなくとも市販の参考書や問題集で勉強してもいい。とにかく定期テストで一定の点数をとることができれば何も問題なく進級できる制度を用いればいいのだ。諸事情で自分のクラスで試験を受けたくない、または受けられない学生・生徒は学校の別室、必要なら保健室で受ける。同じく諸事情で学校に来られないのなら、別の場所または自宅で受ければいい。そこに試験問題をもった先生が足を運んで、試験監督をすればいいのだ。そして試験で一定の点数が取れない者は、ガンガン落第させればいい。それが嫌なら勉強しろ!って話だ。このシステムさえ厳守すれば、基本的に校則は必要ない。ひとつの問題点を除けば・・・ではあるが!
2021.04.06
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まあ言い出せばキリがないが、とにかく私は校則は必要と思う。しかし校則というものを無くすのなら、全く無くすべきだとも思っている。無くすなら全く無くすのだ。その代わり、学校生活の全ては学生・生徒たちの自己責任とする。何があっても教員を含めた学校側は一切の責任を問われてはいけない。教員は勉強だけを教える!勉強を通して人間性を育てる!やれることを日々しっかり実行して、あとは学生・生徒に任せるのだ。服装を含めたその他の生活面は完全に家庭に返還する。そうすれば家庭で子供の躾もできないバカ親が学校に文句を言ってくることもない。そんな無駄な時間を授業の準備に費やせる。理想的だ!!問題や、それがエスカレートして発生する事件等に関しては、速攻で警察に介入してもらう。そうなればもちろん親権者である保護者に全ての責任が移行される。教員はノータッチだ。素晴らしい。でも先に述べたように、校則無くなれば中には生活を乱して学業がおろそかになる者も出てくる。そこで導入するのが『落第制度』や『留年制度』だ。もう小学1年生から導入する!!!
2021.04.05
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そんなことも分かっていない連中が、ブラック校則見直しブラック校則見直しと言っている。そんな連中にもうひとつ教えておいてやろう!学校が荒れる原因を知っているか?あれは間違いなく最初に小さなルール違反を見逃すことから始まる。校則とはそれを見逃さないようにするためにある学校側のバロメーターなのだ。ブラック校則だの見直しだの言っている連中よ!もしひとつの学校が大きく荒れて全国的に校内暴力が横行する時代に戻ったとき、お前らはどのように責任を取るんや!具体的に述べてみろ。述べられへんやろ!お前らはそこまで思考が至ることはないし、そもそも何の責任を取る能力も無いし取れる立場でもないのや。だからといって意見を言うなとは言わん。しかし言い方にはしっかり気を使え!
2021.04.04
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まだ言わせてもらえれば、「君たちの言うブラック校則はいつできたものですか?」だ。入学式のときになかった校則が、保護者や学生・生徒の意見も聞かず勝手に施行された・・・この校則がブラックだというのなら私も納得だ!しかしながら、入学当時すでにその校則が存在していたのなら話は大きく変わる。その校則があるのを知って入学して、入学させたのでしょ?了解済みで入学して、入学させたのでしょ?ほな後からがたがたいうなよ・・・ですわ。その校則を変えたいのなら民主主義の手続きを踏んで変えろよ。ただし基本的に親は出てくるな!学生・生徒にやらせろ。民主主義の中でルールを変えるにはそのような手続きが必要か・・・それを学ぶ大きなチャンスだ。そのために校則があるのだ。それもしないで後からガタガタと文句を言う連中は一体何者や!それが学生・生徒ならまだ話もしよう。ただそれが保護者も含めた大人であればパ~プリンとしか言いようがない。そんな大人を見てきているから、子供は「後からゴネた者勝ちだ」と世の中を勘違いして受け取ってしまうのだ。そんな子供が大人になったら間違えなくモンスターペアレントに化してしまうのだ。それこそ『ひと狩りしようぜ!』で撲滅していくべきだ。何度も言うか、『親バカ』は一向に構わない・・しかし『バカ親』は駆逐しなければならないのだ。そうそう、言い忘れていたが、バレなければルールは破っていい・・・と思っている連中が政治家や官僚になるから、コロナ禍で銀座のクラブに鼻の下をのばして行く政治家がいたり、時短理業要請時間を守らない店をわざわざ選んでどんちゃん騒ぎをする官僚が現に脚光を浴びているのが事実だ!
2021.04.03
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その理由は実は多岐にわたる。しかし『ルールを守る訓練をするためのルール』という観点から言うと、第三者からは見えない、あるいは気付かない部分のルールを守ることができるかどうかを学生・生徒自身に問うためにあるのだ。考えてもみてください。先生がいちいち学生・生徒の下着の色を確認できますか?私が小中学生だった頃には特別な状況では可能だったかもしれないが、今はもう完全に無理だ。だからこそこの種の校則は学生・生徒に問いかけるのだ。「バレなければルールを破っていいのか?」「私という人間は、他人の目がなくてもルールを守る人間なのか?・・・それとも他人の目がなければルールは守らない人間なのか?」そして親の本質も暴く。子供に「たとえ誰にも分からなくてもルールは守りなさい。」と子供に言う親なのか?それとも「バレなければルールを破ってもいい」と子供に言う親なのか?昔の大人は、親としてまたは先生として子供にかかわる立場の大人は、こんなことは言われなくとも理解できていたのだ。だから何ら問題が無かったわけだ。ではなぜ今は下着の色を校則で規定することに問題が生じるのか?その答えは火を見るより明らかだ。大人がパ~プリンになっているのだ。もちろんそれは全員ではない。厄介なのはそれらパ~プリンたちが自らの馬鹿さぶりに気付かす大声を出すことができる社会環境であり、その声を無視しなければならない立場の人間が影響されてしまう情けない世の中の仕組みなのかもしれない。
2021.04.02
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さて、世に言うブラック校則は具体的にどんなものかというと、、、まずは頭髪!髪型と色の問題だ。学生・生徒の個性を認めるために自由にするべきだ・・・と仰る偉大な方々がおられる。ご高説かたじけない限りだ。しかし言わせてもらう。あなたの言うところの個性とは何ぞや?外見のことを個性というならばそれは全く間違っている。個性とは生き方そのものだ。生き方としてその髪型が必要なのであれば認められてもいいだろう。たとえば、ネイティブ・アメリカンの考え方に感銘を受けて、彼らのように生きたいと強く思う学生・生徒がモヒカンにするのは個性だ。モヒカンには「たとえ死が待っていようと恐れずに闘争する!」という意味がある。それを知っていて、そのように生きているのであればいい。ただ、目立ちたいからなどという軽率な気持ちを起点としているとすれば、我々大人がそれを個性と認めていいわけがない。つまり!個性の意味も意義も知らない歳だけ喰っているパ~プリン連中がいう個性なんて耳を貸す必要なんかないのだ。つぎに取りだたされているブラック校則が、下着の色だ!敢えて問いますよ!校則で下着の色を指定する理由が分かりますか?
2021.04.01
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