海洋冒険小説の家

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甲比丹助左衛門の冒険、天正七年の夏


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第二章 助左衛門、海賊と戦う


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 第三章 助左衛門、堺に帰る


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 (7)「風日庵様が別室で・・・」


(8)「それと?」


(9)そのあと、権大納言


(10)・・・それで、家に人がいなかった


(11)万を超す人が毬技場に・・


(12)公家衆は堺に乗り込んで・・・


 第四章 打毬の試合始まる


(2)拍手が歓声が長く尾をひいた。


(3)両チームは休憩のため・・


(4)・・歓声が繰り返された。


(5)みつけられてしまった。


(6)・・・明日の用意を・・


第五章 助左衛門、安土城に行く


(2)その胃袋の大きさに・・・


(3)早く戦のない世の中を・・・


(4)「へ~え、そんなこと・・・


(5)信長殿が上座に座った。


(6)お市様のほうを見る。


(7)助左衛門も息を呑んだ。


(8)心がうきうきしてくるのだった。


(9)悪党もいる・・・


第六章 助左衛門、陰陽師に会いに行く


(2)鳥羽街道


(3)平清盛公の屋敷があった・・


(4)「うむ、この書物はニコライ・コぺル


(5)ここで、一息・・・


(6)「ポルトガルの数(かず)に0が


(7)広く美しい南蛮風の・・・


(8)ダ・ヴィンチの飛行機


(9)人を乗せて飛ぶ船


第七章 瀧、ファッションショーをする


(2)安土城に信長を狙う曲者が・・・


(3)上様、いい智恵がござります


(4)権大納言の屋敷に行く


(5)小見の公秀殿に智恵を借りに・・


(6)安土宗論の勃発


(7)ちゃくちゃく進む安土宗論の布石


(8)権大納言より書状「日蓮党負ける・・


第八章 安土城の抜け穴見つかる


(2)いよいよ安土に


(3)空飛ぶ船出現


(4)空飛ぶ船「かぐやひめ丸」


(5)焙烙丸を船から落とす


(6)忍者の舟に爆撃、炎上


(7)助左衛門、信長と議論する


第九章 安土宗論とは


(2)法花と浄土法問次第


(3)詫び証文について


(4)信長の書状


(5)不安の中、祇園祭りの巡行が・・


(6)安土城の忍者は海賊衆?


(7)黒旗の海賊衆が出張ってきた


(8)信長の法華宗弾圧の意図


(9)信長の領国支配


(10)北山の権大納言邸で宴を・・・


(11)安土宗論は法華宗が勝った


(12)因果居士の独白


(13)問答の要「方座第四の妙」


(14)黒旗の海賊衆の襲来


(15)六条の院現る


(16)権大納言の反撃


(17)海賊衆敗走


(18)権大納言の剣のさえ


(19)海賊衆が逃げたあとで・・・


第十章 助左衛門と仲間たち堺に帰る


(2)京都奉行・村井長門守


(3)アントニオ・コレッリの絵


(4)助左衛門はいい男に描かれて・・


第十一章 六条の院との決戦 播磨沖海戦


(2)海龍丸、播磨沖にあらわる


(3)南海屋での合議


(4)黒旗の海賊衆に天神丸襲われる


(5)いざ、出帆


(6)まず、緒戦の海戦


(7)海賊船を撃沈


(8)羽柴筑前守が船に来た


(9)海龍丸発見!


(10)海龍丸轟沈す


甲比丹助左衛門の冒険、番外編


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背番号のないエース0829 @ Re:潘国連事務総長が安倍政権批判(08/27) 今回こちらのtitleは「日本一早い海開き …
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アポロン1382

アポロン1382

2010年01月14日
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ゾルゲ事件で逮捕、画家の遺族に45年ぶり勲章



宮城は沖縄出身。1919年に渡米し、アメリカ共産党に入った。ゾルゲ事件研究家の渡部富哉さんによると、宮城は33年に帰国後、ソ連軍情報機関の諜報(ちょうほう)員だったリヒャルト・ゾルゲと協力者の尾崎秀実との連絡役などを務めていたが、41年に逮捕され、43年に獄死した。

ロシア大使館によると、宮城への勲章授与は65年1月19日付で決定されたが、遺族が見つからず手渡されることはなかった。しかし、宮城のめいで米ロサンゼルス在住の徳山敏子さん(81)が勲章のことを知り、ロシア政府への働きかけを知人に依頼。モスクワの大統領府の特別保管庫で勲章が見つかったとの連絡が先月末、ロシア大使館から知人にあったという。

ミハイル・ベールイ大使から勲章を手渡された徳山さんは、「この両手で受け取るまでは半信半疑でした」と感慨深げに話していた。


▼ゾルゲ事件とは(wiki pediaによる)

太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱った。

まず1941年6月に日本共産党員であった伊藤律が逮捕され、アメリカ共産党員で当時日本に住んでいた北林トモの名を自供し、警視庁は北林を9月28日に逮捕。さらに北林がアメリカ共産党の同志、宮城与徳の名を自供したことがきっかけとなった。10月10日に宮城が逮捕され、この際に行われた家宅捜査では数多くの証拠品が見つかり、事件の重要性が認識された。宮城宅を監視することによって10月13日には九津見房子、秋山幸治が逮捕された。宮城は取調べの際に自殺を図るが失敗、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどがスパイであることが判明した。

捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁では特高第一課と外事課が協力を開始。捜査当局では尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ外国人容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などが予想されるため、一斉検挙の承認を各方面に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と捜査当局の主張を認めなかった。このため、10月14日に尾崎の検挙が先行して行われ、10月18日外事課は検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチの3外国人容疑者を同時に検挙した。この際、クラウゼン宅からは証拠として無線機が発見されている。

また、翌1942年(昭和17年)には尾崎の同僚であった朝日新聞東京本社政治経済部長田中慎次郎(3月15日)、同部員磯野清(4月28日)が検挙された。


グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ汪兆銘・南京国民政府の顧問も勤める犬養健、同じく友人で近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けたが、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人であり、しかもオイゲン・オット大使と親しいことや、前年にイギリスのスパイの疑惑で逮捕されたイギリスのロイター通信社の特派員のM・J・コックスが、特高による取調べ中に飛び降り自殺したこともあり、特に外国人に対する取調べは慎重に行われたという。

ゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオット大使は、ゾルゲが逮捕された直後から、友邦国民に対する不当逮捕だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。しかし、間もなく特別面会を許されたオットは、ゾルゲ本人からソ連のスパイであることを聞き知る。立場を失ったオットはその後大使を解任され、戦争終結まで北京で過ごした。

▼処刑

その後ゾルゲらは1942年に国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反[5]などにより起訴され、一審によって刑が確定し、それぞれに1年半・執行猶予2年(西園寺)から死刑(ゾルゲ、尾崎)までの判決が言い渡された。ゾルゲや尾崎らは巣鴨拘置所に拘留され、日本、ドイツ両国の敗色が濃厚となってきた1944年11月7日のロシア革命記念日に死刑が執行された。

死刑が執行される直前の最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」と語ったと言われている。翌1945年1月にはヴーケリッチも北海道の網走刑務所で獄死したが、マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合軍によって釈放され、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。


▼ゾルゲの果たした功績とは

当時日本の陸海軍内部では、太平洋戦争の方針を巡って「北方進出論」を唱える陸軍と、「南方進出論」(注2)を唱える海軍とが対立していた。この問題に決断を下すため、政府は御前会議を開催、陸軍の反対を抑え、最終的に南方進出の道を選んだ。

一方、イギリスを除くヨーロッパ全土を支配下に収めたナチス・ドイツは、その余勢を駆ってソ連へも侵略を開始、ヨーロッパでは独ソ戦に突入する。この戦争で、ソ連はウラル山脈西部のほとんどの地域を失い、ドイツ軍は首都モスクワに迫っていた。スターリンは、三国同盟を結び強固な関係にあった枢軸国、ドイツと日本に、東西から挟み撃ちされる恐怖に怯えるようになる。

その時、スターリンの元に、リヒアルト・ゾルゲからの電報が届く。ゾルゲは、ソ連に指導されたコミンテルンの密命により、ドイツの新聞「フランクフルター・ツァイトゥンク」紙の記者を装って日本に潜入したスパイだった。

「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」・・・ゾルゲはこの情報を、親しくしていた満鉄(南満州鉄道)調査部嘱託・尾崎秀実(おざき・ほつみ)から入手したのである。それは、超一級の情報だった。

ウラル山脈に舞台を移した独ソ戦で、当時絶望的な戦いを強いられていたソ連はこの情報により、日本の侵略に備えて極東に配置していた兵力をウラル戦線に移動させることができた。やがて1942年、冬の訪れとともにソ連はウラル山脈の麓、スターリングラードでの激戦の末ドイツ軍を敗走させる。これが転機となり、独ソ戦の戦局は一気にソ連に傾き、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの敗北を決定づけたとされている。


        ◇

歴史を調べると、戦乱の時代の人の果たした行動が、どんな歴史を作ったのかよくわかりますね。スパイとして確信をもって死に臨んだ人、戦後、戦前の裏切り行為で、非難された人々、歴史というのは、辛い時代を試練を人に与えるものだと、思います。

ゾルゲ事件にかかわった人々に旧ソ連政府が勲章を与えた訳は、よく分かりますね。ゾルゲの情報でソ連は対ドイツ戦で勝利を勝ち取ったのですから。ただ、この歴史のなかの人々の人生に思いをいたすとき、哀しいですね。勝者も敗者も・・。戦争って本当に嫌ですね。(-0-)












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最終更新日  2010年01月14日 11時44分25秒
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