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2016年07月21日
似非スロバキア語(七月十八日)
チェコ語とスロバキア語は似ている。語彙も共通のものが多いし、文法事項もほとんど同じと言えば同じだ。それでよく、チェコ語ができればスロバキア語も、問題なくわかるのだろうと思われるのだが、実はそんなことはない。
語彙に関しては、普段使いそうな言葉でチェコ語とは全く違うものをいくつか覚えてしまえば何とかならなくはない。ボールが、チェコ語の「ミーチ」ではなく、「ロプタ」になるとか、スロバキア語の「ピブニツェ」は、チェコ語の「ピブニツェ」とは意味が違うとか、長くチェコに暮らしていれば、スロバキア語に接する機会も多いので自然と覚えてしまう。「マチカ」のように最初に聞いたときには、えっと思ってしまうものもあるのだけど。この言葉、「オマーチカ(ソース)」だと思ったら、「コチカ(猫)」だった。うーん。
問題は、語彙よりも発音である。ポーランド語の影響を受けたオストラバ方言は、アクセントの位置が違うことで聞き取りずらくなってしまうのだが、スロバキア語の場合には発音そのものに問題がある。字面で見ると同じような言葉でも、妙に発音が軟らかくて耳に残らないのだ。
昔、通訳の仕事をしているときに、フランス人がいて、日本の人が英語で話そうとして話が通じず、通訳さんと呼ばれて行って英語はダメだと言ったら、スロバキア語で話し出されたことがある。スロバキア語なら多少は何とかなると思っていたのだけど、機関銃のように早口で言葉を投げかけられて、完全にお手上げだった。スロバキア語の柔らかい部分をチェコ語に置き換えるのに時間がかかって、何を言われているのかわからなくなったのだ。結局、近くにいたチェコ人の通訳を呼んで、代わりに通訳してもらった。
発音が軟らかいと言っても、わかりにくいかもしれない。日本語で言うと、先生の発音が、「せんせい」ではなく、「しぇんしぇい」、もしくは「しぇーしぇー」になるような感じと言えばわかってもらえるだろうか。日本語ならこのぐらいの変化には、問題なくついていけるのだけど、外国語では厳しいものがある。
スロバキアも東西に長い国で、東部の方言と西部の方言とではかなり違う。モラビア地方に接している西部スロバキアの人々の話し方は、比較的わかりやすいが、東部のウクライナの近くの人々のスロバキア語は、もちろん個人差はあるけれども、わかりにくいことが多い。
昔は、スロバキア人でも、チェコ語しか勉強していないのでスロバキア語はあまりわからないというと、チェコ語そのものではないにしても、ちぇごっぽい話し方をしてくれた人が多かったのだが、最近は情け容赦なくスロバキア語で話されることが多い。そんなとき、相手の言葉がわからないのは癪に障るので、こちらもでたらめなスロバキア語で話をすることがある。もちろん仕事の場などのまじめな場面ではなくて、お酒を飲んでいるときなどの場合だけだけど。
チェコ語がある程度できれば似非スロバキア語は簡単である。チェコ語の発音の原則として、アルファベットの上にハーチェクという記号「?」を付けると発音が軟らかくなる。日本語風に言うと直音が拗音になる。「S」は「ス」で「Š」は「シュ」という具合である。だからこちらが理解できないスロバキア語で話す無礼者には、徹底的にハーチェクを付けて、もしくは拗音化したチェコ語で話してやる。「ヤー・シェミュ・ジュ・オリョミョウチャ」と言った具合である。
ただ、日本語が上手なスロバキア人の場合には、「わてゃしはでぃぇしゅにぇ」などとスロバキア語なまりの日本語で返してくることもあって、スロバキア人侮りがたしなのである。
7月20日18時。
2016年07月20日
いじめられるチェコ人、もしくはふざけるなUCI(七月十七日)
昨年の自転車競技の世界選手権で、出場権を獲得したと思われていた、スピード・スケートのマルティナ・サーブリーコバーのリオ・オリンピック出場が危ぶまれている。いや、現状ではほぼ不可能というか、出場選手を決める国際自転車競技連合UCIには、サーブリーコバーを出場させる気はなさそうである。サーブリーコバー側は、スポーツ仲裁裁判所CASに提訴するようだが、判決が出る頃には、オリンピックはとっくに終わっているはずだ。
オリンピックの自転車競技の出場権は、UCIの定める国別のランキングによって、各国に割り当てられる。それとは別に、世界選手権で国別の上位十位以内に入った国には追加で出場権が与えられるということになっていた。
サーブリーコバーはタイムトライアルに出場して、12位に入り、国別の順位では十位以内を達成したため、この時点ではオリンピックの出場権を得たものと考えられていた。それが、UCIが、国別銃以内で出場権が与えられるのはロードレースだけだと言い出してサーブリーコバーの出場を認めなかったことで、話がややこしくなった。
チェコのオリンピック委員会や自転車協会でもあれこれ交渉したらしいがUCIはかたくなに決定を覆そうとはしない。しまいには、オリンピック界の伝説である体操のビェラ・チャースラフスカーが、個人的に親交のある国際オリンピック委員会の会長に手紙を出したり、ミロシュ・ゼマン大統領が交渉に乗り出そうとしたり、チェコ側では手を尽くしているけれども、UCIは自転車を本職としないサーブリーコバーの出場を歓迎していないようだ。
その後、タイムトライアルの出場権を獲得した国の中に、出場枠をすべて使わない国が出たため、サーブリーコバー側は、その枠を回すように交渉したらしいが、あっさりと却下されてしまった。そんな目標としてきたオリンピック出場が絶望的となった状況の中でも、チェコの国内選手権ではロードレースでもタイムトライアルでも優勝したのだから、その精神力には頭が下がる。
クロイツィグルのように自転車が本職で、オリンピックよりも重要なレースがある場合には、オリンピックがすべてではないと言えるのだろうが、オリンピックに出るためだけに二足のわらじを履いて自転車競技にまで手を出したサーブリーコバーは、諦めるに諦められないのだろう。
クロイツィグルも、UCIの対応に悩まされた一人である。UCIもしくは世界ドーピング機関に、あらぬドーピングの嫌疑をか
けられて、二年ほどはこの問題の対応でレースどころではなかったのではなかろうか。
確か2014年の夏だったと記憶する。2011年だったか12年だったかのバイロジカルパスポートにおかしなところがあるとの嫌疑を受けて出場予定だったツール・ド・フランスに出場できなくなり、それ以前から続いていたUCIとの交渉が表面化し、その後CASやチェコのオリンピック委員会を巻き込んで騒動が大きくなる。
問題は、バイロジカルパスポートに表れている血液関係の数値自体は、基準値内に収まっていたのに、その変動のあり方がおかしいといちゃもんを付けてきたことにある。クロイツィグル側が、専門の医師などの意見をまとめて提出しても、UCIとWADA側は、何の根拠があるのか(恐らくはないままに)、信用できないとしてドーピングを認めさせようとあらゆる手段で圧力をかけて来ていた。基準値内に収まっている以上は、ドーピングをしたことを証明するのが嫌疑をかけた側の義務であるはずだが、UCIがドーピングをしなかったことの証明をクロイツィグル側に求めたのも納得がいかない。こんなことをやっていたら基準値なんて設定する意味がなくなる。
ドーピングを撲滅しようとする意欲と努力は買う。しかし、それが恣意的に思い込みに基づいて運用されているのが問題である。クロイツィグルは、恐らく旧共産圏の選手だからという理由で疑われたのだ。この手の思い込みで選手を有罪扱いする組織が、警察然として選手たちの人権を侵害するような手法でドーピング検査を行っている現状は、とてもいいとは思えない。傲慢極まりないWADAの職員のドーピング検査に不満たらたらな選手は枚挙にいとまがない。
だから、ロシアが国ぐるみでドーピングをやっていたのは確かかも知れないが、WADAの主張をそのまま信じる気にもなれないのだ。組織ぐるみでドーピングをでっちあげている可能性もあるのだから。宗教であれ、主義主張であれ、狂信者の言葉には説得力はない。
そもそも、チェコでは、旧体制の時代に国主導で選手にドーピングを強要していた、もしくは選手をだましてドーピングをさせていたことに対する反省から、ドーピングに対する嫌悪感は非常に強いのだ。アメリカやヨーロッパで一般的に見られる、ばれなければいいという考え方よりも、日本のドーピングは犯罪であるという考え方に近いような気がする。そのためチェコ選手がドーピングの検査に引っかかることは滅多になく、引っかかっても風邪薬を飲んでしまったとか、大麻に手を出してしまったとかの能力向上にはつながらない違反であることが多い。
自転車競技なら、ドーピングの本場はイタリアとスペインだろうに、チェコに根拠のない嫌疑をかけてくるんじゃない。
7月19日12時。
2016年07月19日
親しい人(七月十六日)
一昔前、チェコでは、スピード違反や飲酒運転など自動車を運転していて、問題を起こして警察に止められたときに、「ブリースカー・オソバ」という言葉で言い訳する人が多かった。これは、日本語に訳しにくい言葉で、友人や家族などの「親しい人」を表す言葉と言えばいいだろうか。
警察に捕まったときに「自分が運転していたのではない。親しい人が運転していたのだ。ただそれが誰かは言いたくない」という形で使われていたらしい。そうすると警察としては、本当にその親しい人が運転していたのか、言い訳をしている人が運転をしていたのか確認しなければ、罰金を科すこともできず、手間が増える一方だったという。その手間に見合わないささいな違反の場合には、放置されてしまうことも多かったようだ。
警察の検問などで止められて、運転席に座った状態でのアルコールの検査で陽性反応が出たような場合には、この言い訳は通じなかったと信じたいのだが。一時期は、あまりの多さに、国会でも法律を改正して「ブリースカー・オソバ」という言い訳を使えないようにしようという動きもあったようだ。最近話を聞かないけど、どうなったのだろうか。当時の案では、実際に運転していたのかどうかの証明が警察の義務だったものを、交通違反をしたとされた容疑者の義務に変更しようとか言っていたのかな。つまり、「ブリースカー・オソバ」という言い訳が、通用するのは実際に運転していた人物を明らかにした場合だけというわけだ。
問題は、ブリースカー・オソバそのものよりも、何故この言い訳が流行して、チェコの警察を困惑させたかにある。実は発端は、警察の人間、それも交通関係の警察なのである。あるとき北モラビアの道路で、警察がスピード違反の車をパトカーで追跡して、停車させたら、車内にいたのが、確かフリーデク・ミーステク地方の交通警察の長だった。素直に自分の罪を認めればいいのに、「ブリースカー・オソバ」を言い訳に使ったらしいのだ。
現場の警官としては、それを受け入れるしかなかったのか、相手の身分を慮って受け入れたのかは覚えていないが、その場で逮捕したり罰金を科したりすることはせずに解放した。アルコールの検出テストを受けるのも、同様の理由で拒否したんだったかな。この事件のニュースを聞いたときには、交通警察を管轄する人間が、自分の担当部署の弱みをつくような言い訳をしたことに唖然とするしかなかった。
そして、ニュースを通じて、「ブリースカー・オソバ」の効力を知ったチェコ人たちが、乱用を始めるまでにそれほど時間は必要なかった。警察の人間が、同じ言い訳をして無罪放免になっているのだから、これで処罰をするなら差別だとでも言われたら、現場の警察官はさぞ困ったことだろう。
組織の偉いさんが、余計なことをして現場の人間が苦労させられるというのは、チェコでもよくある話で、いろいろな役所で手続きをするときに愚痴を聞かされることのあるのだが、ここまでひどい例は他にはなかった。この手の話は、最近はほとんど聞かなくなったので、法律が改正されるかどうかして、問題は解決されたものだと思いたい。
7月17日22時30分。
なんかうまくまとまらなかった。7月18日追記。
2016年07月18日
世はなべてカメラマン、もしくはナルシスト(七月十五日)
かつて日本人の観光客はどこに行くにもカメラを首にぶら下げて、自分の目で観光しないで写真ばっかり取っていることで、世界の笑いものになっていた。チェコに来たばかりの頃、カメラは持っていたけど、あまり持ち歩かなかったので、日本人らしくないなどと言われたこともある。
カメラというものには憧れのようなものがあって、いずれは一眼レフなるものに手を出してみたいと思っていたのだが、いつの間にかデジタルカメラの時代になっていて、手を出すタイミングを失ってしまった。オートフォーカスじゃなくて、手でレンズの焦点を合わせるとかやってみたかったのだけど、実現しなかった。
チェコに来ると決めたときに、チェコ語で取扱説明書は読みたくなかったので、一応デジタルカメラを一台とフィルムカメラを一台日本で買った。どちらもコンパクトカメラだったが、ものすごく時間をかけて選んだ。特にフィルムカメラは、わざわざ新宿の中古を扱っている店まで出かけて発見したコンタックスのT2を結構なお金を出して購入した。
昔、どこかの内戦でカメラマンが銃撃を受けたときに、セカンドカメラとして腰につけてあったチタン製のT2のおかげで命拾いをしたという記事を読んで以来カメラを買うならこれだと思っていたのだ。まあそれまでせいぜい「写るんです」ぐらいしか使ったことがなかったので、猫に小判、豚に真珠の類に終わるのは目に見えていたけれども、ほしかったからいいのだ。コンパクトカメラとは思えないボディの質感と重みは、フィルムを買うのが面倒で、あまり使わなかったが、所有欲を十分以上に満たしてくれた。
カメラは持っていても、写真を撮るためだけに出かけたりはしないし、どこに行くのでもカメラ片手なんてこともない人間の目から見ると、最近の世界は不思議に見える。日本人だけでなく、誰でも彼でも、どこでもここでもスマホを構えて、写真だか動画だかの撮影をしている。以前、何かのスポーツイベントの客席の様子を映したビデオを見て、観客がほとんど全員、目の前にスマホをかざしている様子に愕然としたことがある。
目の前の光景を自分の目に焼き付けるほうが、ディスプレイ越しに見て、それを後で見返すよりもずっとずっと印象に残るとは思わないのだろうか。それにそんなにたくさん撮影して本当に見返すのかという疑問もある。ハードディスクの肥やしになるのが関の山じゃなかろうか。そうか、ネット上に載せるという可能性もあるのか。それにしても、みんながみんな撮影する必要はなかろうというものだ。
そしてさらに理解できないのが、自撮りとかセルフとか言われる奴である。ちなみにチェコ語でもセルフォバットという動詞ができるくらいには一般化している。手前の写真なんざ撮影して何が嬉しいんだ? 自分で自分の写真を撮るなんて、よほど自分の容姿に自身があるのか、救いがたいナルシストなのか。自分で自分の写真を撮ってうっとりと眺めているような人間は知り合いにいないと信じたい。
これも、ネットにあげるということなのかと考えるとさらにうんざりする。何を好き好んで世界の人に自分が何をしたか知らせる必要があるのだろうか。ブログなんてことをやっている人間が言うのは、天に唾するような行為かもしれないが、そこまで自己顕示欲が強い人間が増えているというのは、社会的に問題があるんじゃなかろうか。誰かに見てもらっているという実感を必要としていて、見てもらうためのものが必要だということなのだろうか。
子供の頃なら、親に写真を取ってもらえるのは嬉しかったかもしれない。でも、高校生ぐらいになると、写真に写るのは、できれば避けたいわずらわしいことで、記念写真なんかでも仕方なく写ることが多くなかったか。自分で写真を撮るときは、風景の写真を撮るのが第一で、自分の写真を撮ろうなんて考えたこともなかった。カメラの性能の面で難しかったというのもあるのかもしれないが、需要があればその手のことを可能にする製品なり、補助具が開発されていたはずだから、当時は本気で自分で自分を撮影使用なんて人はいなかったのだろう。冗談でやって変な写真を撮ったことのある人は多いだろうけど。
ついつい見入ってしまうツール・ド・フランスの中継でも、沿道のファンの中に普通のカメラならまだしも、スマホを体の前に構えている人が一定数いるのに気づく。隣の人の構えた腕が邪魔にならないように前に出すぎて、選手の邪魔になっている場面も一度や二度ではなかった。こういうのを見ると技術が発展して便利になったのがよかったのかどうか懐疑的になってしまう。
それに、無駄にバイクに乗ったカメラマンが多すぎて選手たちの邪魔になっているのも気になる。数年前にバイクが自転車に乗った選手を跳ね飛ばすという事件があって以来、バイクの動きが多少大人しくなったような印象はあったが、今年は選手の自転車ぎりぎりをすり抜けて追い抜いたり、バイクがたまって通行の邪魔になっていたりする場面が目立つ。レースの、選手たちの邪魔をしてまで撮る甲斐のある写真が一体どのくらいあるのだろうか。
自分で自分の写真を撮って悦に入るぐらいなら、写真を撮られたら魂を抜かれると考える田舎者でいいや。
7月17日18時。
前半はわりと楽に書けたのだけど、着地点を見失ってしまった。ユーチューバーになりたいって子供が山ほどいるなんて話も聞くから、仕方ないのかね。7月17日追記。
コンタックスを選んだ理由のひとつはこのマンガかも知れない。
2016年07月17日
萩尾望都(七月十四日)
高校時代の先輩に、大学に入ってから教えられた漫画家は佐藤史生だけではなかった。萩尾望都の漫画を貸してくれたのもこの先輩だった。萩尾望都の存在自体は早川文庫のSF小説のカバー絵で知っていたけれども、マンガは読んだことがなかった。作品名もSF小説の解説や、SFマガジンなんかに登場していたから、『ポーの一族』ぐらいは知っていた。
最初に借りたのは『11人いる!』だっただろうか。原則として人類だけがこの宇宙に繁栄するという『クラッシャー・ジョー』などのそれまで読んできたいわゆるスペースオペラの宇宙観とは違う、多種多様な知的種族が存在していて、それが対立するのではなく、共存しているという宇宙観にまず惹かれた。宇宙学園の入試という舞台設定も、今はともかく、当時はなんかすごいと感じたんじゃなかったかな。漂流する宇宙船に乗り込む最初のシーンから、最後の11人目の正体が明かされて、合格が決まる最後まで読み始めたら一気に読ませる緊密なストーリーは、それまで読むことの多かった少年マンガのともすれば冗長になりがちなストーリーと比べて、マンガという媒体の持つ可能性を感じさせた。
少年マンガはあれはあれで面白いと思うし、好きな作品もないわけではないのだが、まじめに読むなら小説を、まあこれも玉石混交なんだけど、読んだほうがましだと思っていたのだ。暇つぶしに読むことはあっても、完全に作品の中に没入して読むようなことはなかったような気がする。いや、高校時代までは、懐が心もとなかったので、マンガ自体を大して読んでいなかったのか。
先輩には、『ポーの一族』と『トーマの心臓』だけは絶対に読むように言われた。先輩が持っているのは実家の物置にしまいこんであるから、すぐには貸せないとも言われて、購入すべきかどうか、悩むことになる。
『ポーの一族』は、詩人で作家でもあったエドガー・アラン・ポーに関係する話だろうと思っていて、先輩に言ったら、当たらずとも遠からずかなと言う答が返ってきた。『トーマの心臓』に関しては、何故だかわからないが、アメリカインディアンの話だと思い込んでいた。トーマという人物の心臓が抉り出されて、洞窟の中の台の上に置かれてそれにナイフが突き刺っている情景が頭に浮かんでいた。もしかしたら、アメリカの原住民の言葉から命名されたというトマホークからの連想だったのかもしれない。
そんなことを口にすると、先輩からは、アホとののしりの言葉を投げられて、ドイツのギムナジウムを舞台にした物語であることを教えられた。『11人いる!』の作家のイメージにそぐわない内容なのか、学園を舞台にしたSFなのか、どちらを想定すればいいのか少し悩んだ。読めばわかるということで、買うことにするんだけど。
結局、古本屋でも新本屋でも、普通の単行本は見つけることができず、書店で見つけたのは愛蔵版と称するハードカバーに近い、ちょっと値のはるものだった。『ポーの一族』は、ピンク色がかった装丁でちょっと自分で買うには気が引けたが、無理して買った甲斐はあった。短編を積み重ねて、話を進めていく手法は、後半は短編と言うよりは中編になるけど、移り変わる時代、人間というものと、変わることなく存在し続けていく「ポーの一族」の対比を浮き彫りにし、時の流れの残酷さと、変われない、死ねないことの悲哀を見事に描き出していた。
最初の予定では、全三巻の愛蔵版を一日一冊ずつ購入して、三日で読み通すはずだったのだが、一冊目を読み終わった時点で、財布を掴んで家を飛び出してしまった。一冊目を買うときにはちょっと恥ずかしいという思いもあったのだが、二冊目三冊目を買うときには、そんな気持ちは吹き飛んで堂々と本屋のレジに乗せたのだった。
『トーマの心臓』のほうは、文学的ないい話だとは思うのだが、いまひとつピンとこない。本の装丁は地味で買いやすかったのだけど、先輩の言うほどすばらしい作品だとは思えなかった。これは多分、最初に出会った『11人いる!』から、萩尾望都にはついついSF的なものを求めてしまっていたからだろう。傑作だからといって自分の読書傾向に合うとは限らないのだ。
SFファンには、むしろ流刑地としての火星に追放された犯罪者たちの末裔が生き延びて、環境に適応するために特別な能力を手に入れるという設定だけで嬉しくなってしまう『スター・レッド』とか、時間軸というものを体内に持つ特別な種族の生き残りを主人公にして、目くるめくような物語が紡ぎあげられる『銀の三角』なんかのほうがはるかに魅力的だった。
だから、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』を萩尾望都が漫画化しているのを知ったときも、当然だと納得した。古本屋で少年チャンピオンコミックス版を購入して一読してさらに納得。しかし、こんなディープなSF作品を、しかも少女マンガ家に連載させるなんて「チャンピオン」という雑誌も思い切ったことをしたものだ。
萩尾望都の作品で、むさぼるように読んだのは七十年代から八十年代初めのものが多い。九十年代の作品で評判も高かった『残酷な神が支配する』は、題名以外にはあまり惹かれず、「学校へ行く薬」のような短編のほうが魅力的だった。終わったのか終わっていないのかよくわからない『ポーの一族』や、SFじゃないけど『メッシュ』なんかの続編が出たら嬉しい。
7月16日17時。
これも忘れてはいけない。
2016年07月16日
サマースクールの思い出(九)——知り合えた人々(七月十三日)
二年目の宿舎は、前年から変更されて、街のはずれ、トラムの二番と七番の終点ネジェジーンにある新しく建設されたというパラツキー大学の寮だった。一人部屋をお願いしてみたら、一番上の階のキッチンもついたなかなかいい部屋に入れてもらえた。ベッドがソファーに内蔵されているものを寝るときだけ、変形させてベッドを引き出すものだったのが玉に瑕だった。もちろん、来客があるわけでなく、例外を除いてベッドにしたままだったけど。
サマースクールが始まる前の週末、まだ参加者が全員集まっていない土曜日に、夕食でもとろうと宿舎を出てトラムの停留所に向かった。ネジェジーン地区は旧市街まで歩いて二十分ほどなので、トラムを使うのが一般的で、事務局の手配で定期券が購入できることになっていたが、土曜日は定期券を販売している市の交通局が休みなので買えず、自動券売機で買ったんだったか、オロモウツに到着したときに駅で何枚か購入したんだったか、思い出すことができない。
とまれ、乗車券片手にほとんど誰も乗っていないトラムに乗り込んだ。そしたら、一人体格のいい男の人が乗っていて、どちらからともなく声を掛けた。こっちにしてみれば、この時間にネジェジーンからトラムに乗るのは、チェコ人と見分けがつかなくてもサマースクールの参加者だろうと思えたし、向こうは向こうでこの時期オロモウツにいるアジア人は、サマースクール関係者だと判断したのだろう。
最初に「日本人か」とあまり上手でないチェコ語で聞かれて、そうだと答えてお互い下手なチェコ語であれこれ話し始めた。これが、何だかんだでサマースクールの期間中一緒に行動することの多かったオランダ人のフランクとの出会いだった。
最初に行ったのは、指定レストランのうち一番ネジェジーンに近いMだっただろうか。武道を学んだことがある関係で、少しばかり日本語もできるというフランクは、英語で教えるクラスで勉強すると言っていた。前年の私よりははるかによくできていたのでチェコ語で教えるクラスで勉強もできるだろうと言ったら、初めてのサマースクールだから不安なんだと言っていた。英語で勉強するほうが不安な人間にはできない考え方だなあ。
このフランクとはなぜか気があって、クラスが別だった割には、食事や映画の上映、午後の講義なんかでよく一緒に行動した。昼食でビールを飲んでしまって、午後の講義中眠気をこらえるのが大変だったのもいい思い出である。
ターニャが先生だったら、フランクは学友という感じかな。ターニャもクランクも、たまにオロモウツに来ているようで、何年かに一回ばったり再会して道端で大声を上げてしまうことがある。お互い忙しくて長話もできないのだが、特に連絡することなく偶然会えるというのは本当に嬉しい。そして、外国人二人でチェコ語で話ができることを、心の底から嬉しく、誇りに思うのである。
この年は、日本の大学でチェコ語を勉強しているという人たちと、一緒にいろいろやったのかな。前の年もある大学の院生にお世話になったのだけど、その人の後輩たちが来ていたのだ。大学の二年生と四年生だったか、みんなチェコ語で勉強するクラスにいたのはさすがである。
たしかサマースクールが始まってすぐ、昼食に出かけて、同じクラスの人だけでなく大きなグループになってしまったときだったと思う。うえのクラスの人に日本のことを聞かれて答えられなくて、あたふたしていたのを見るに見かねて助け舟を出したのだった。そしたらなぜか妙に感謝されて先輩と呼ばれるようになってしまった。
大したことは言っていないのだけどね。ただ、チェコ語で話そうとして最初に考えたことがチェコ語で言えないことに気づいたときに、日本語であれこれ言い換えてからチェコ語にしたほうがいいというようなことは言ったかな。今では最初からチェコ語で考えることが多いけど、当時はまだ日本語で考えてからチェコ語にしていたので、日本語で別の言い方を考えるというのは、重要な方法だったのだ。
そんな感じで、質問されたり、こっちから質問したりしていたら、寮の一人部屋にキッチンが付いていて、数人で座れる食事用のテーブルがあるなんてことも知られた結果、最終週に何人かで集まってお別れのパーティーをしようということになっていた。せっかくなので、ターニャとフランクにも声をかけて、全部で六人か七人でお酒を飲みながら楽しい時間を過ごすことができた。おつまみを作ってくれた日本から来た人たちにも感謝である。ターニャとフランクへの御礼にもなったはずだし。
二年目は、特筆することもそんなに多くなかった。強いてあげれば、他の人たちがプラハに行っていた二週目の週末に嵐に襲われて、暴風雨はまあ日本の雨と比べたら大したことはなかったのだが、雷がひどくて、音と光に夜眠れなかったことぐらいかな。それもサマースクールが終わって、自分ひとりがオロモウツに残ったときの寂寥感に比べればなんでもないことだったし。
7月14日21時。
2016年07月15日
サマースクールの思い出(八)——二年目お世話になった人(七月十二日)
一年目はスイス人のマティアスに勉強の面であれこれお世話になったのだが、二年目にお世話になったのはスロベニア人のターニャだった。リュブリャニャの大学でチェコ語を勉強していると言っていたから、上のクラスでも十分以上に勉強できただろうけれども、なぜかクラスが分けられたときに下のクラスを選んでいた。
本人にそのことを言ってみたら、怠け者だから楽に勉強できるところでべんきょうしたいのよとか何とか言っていたけど、この人が怠け者だったら、怠け者でない学生など存在しないだろう。宿題をやってくるのはもちろん、予習復習などもしっかりしているようで、授業中に先生に聞くほどでもないちょっとわからないことなんかを質問すると、いつも親切に答えてくれた。
何かの際に、スロベニアってことはユーゴスラビアだねと言ったら、ものすごく嫌な顔をされた。サラエボオリンピックの記憶から、第一次世界大戦後のウィルソンの提唱した民族自決という理念が理想的な形で結実したのがユーゴスラビアだと考えていたのだが、オリンピックの関連番組は所詮悪いところなど見せないプロパガンダに過ぎなかったということか。
その後の内戦や、ユーゴスラビアについての本を読んで、理想は理想に過ぎなかったようだということはわかっていたのだ。だけど、チェコとスロバキアが分離したのは許せないと言うモラビアの人がいたように、ユーゴの人たちも一つの国であってほしかったと思っているのではないかと期待していたのだが、現実はまったく違った。スロベニアは、もともと旧ユーゴの中で最も西で、オーストリアとの関係も深かったため、ユーゴスラビアの一員と言う意識も持ちにくかったらしい。
こんなことを、急進的なスロベニア民族主義者ではなく、理知的で理性的に話すターニャの口から聞いたことで、我がユーゴスラビアは終焉を迎えた。それまでは、セルビアだのクロアチアだのという呼称を使うことを拒否して、かたくなにユーゴスラビアと呼び続けていたのだ。ユーゴといえば、漫画家坂口尚の名作『石の花』を思い出すのだが、あの作品に描かれていた人々の苦難の道は、報われなかったらしい。
それはともかく、この年も先生が前半と後半で代わったのだが、二人ともまだ若い女の先生で、去年の先生たちと比べると経験不足からか、説明が荒かったり、不親切だったりして、よくわからないことが間々あった。そんなときに、ターニャの説明には本当に助けられた。チェコ人よりも外国人の説明がわかりやすいのは変じゃないのかというとそんなことはない。チェコ人には当然で説明しようとも思わないから、説明できないようなことは、あれこれ考えて身に付けた外国人のほうが上手に説明できることも多いのだ。本当にターニャ先生と呼んでしまいたいぐらいには感謝していた。それを言ったら、拒否されたしまったけど。
ポーランド人をはじめスラブ系の言葉を母語としている人たちに対して、お前ら普段から似た言葉を使っているのだから、できて当然だろうと、特に自分がわからなくて苦しんでいるときには、怒りのようなものを感じることがある。こちらが一生懸命考えて理解していることを、何も考えずに理解できてしまうし、苦労して覚えたことを覚える必要がない場合があるのだ。それで、わからないことを質問したときに、わかりやすく説明できるのなら、嬉しい限りなのだが、この連中の説明は意味不明なことが多い。だからこそ、スラブ系のスロベニア人でありながら、わかりやすく噛み砕いて説明してくれるターニャの存在は貴重だった。
ターニャに助けられたのは私だけでも、同じクラスの連中だけでもなく、日本から来てチェコ語で教えるクラスで勉強していた人たちも、しばしば食事中などに質問に答えてもらっていた。ということで、サマースクールが終わるころにお礼をしようと言う話になったのだが、それについては次回に回そう。
7月14日17時。
2016年07月14日
サマースクールの思い出(七)——二年目(七月十一日)
二年連続二回目のサマースクールの思い出は、開始前の週末に事務局に出向いて師匠と話をしたところから始まる。到着の手続きをしていたら、声をかけられて、一緒にいた男の先生を紹介された。今年はこの先生のクラスに通うのよと言われて、じゃあクラス分けの試験は受けなくてもいいのかと尋ねたら、事務局が混乱するから受けろと言われた。一人、二人クラス分けの試験を受けなかったからと言って混乱するような事務局ではなかったのだけど。最初から十分以上に混乱していたのだから。
とりあえず、紹介された先生に挨拶をしてよろしくお願いしますとは言ったものの、師匠の次のクラス、つまり上から二番目のクラスの先生だと言う。あんまり上のクラスに行くのは避けたかったのだけど、前年のことを考えると、チェコ語で教えるクラスは三つだけだった。ということは一番上の師匠のクラスに行けない以上、選択肢はこの先生のクラスか、去年と同じクラスの二つしかない。
前年のような苦行じみた勉強はしたくなかったので、同じクラスを繰り返すのも悪くないと考えていたのだが、挨拶をしてしまった以上は、一度はこの先生の授業を受ける必要がありそうだ。あれこれ悩んでも仕方がないので、一応上から二番目に行く覚悟だけはしてクラス分けのテストに臨んだ。すると、一種類しかなかったテストが二種類に増えていて、中上級を希望する学生向けのものは、それなりに難しく、うれしいことに答に自信がないところが何箇所もあった。テストが難しくて自分が答えられないことを喜ぶ日が来るとは思わなかった。
初日の月曜日の朝に見たクラス分け表には、師匠の言葉通り、上から二番目のクラスに名前があった。そのクラスは、最初から人数が多めだった。廿人近くいただろうか、それが授業が始まってから、一人、二人と遅れて教室に入ってくる人がいて、そのたびに授業が中断され、先生もどうしたのかねと苦笑していた。到着が遅れて、日曜日の夜や、月曜日の朝になってしまった人たちが、所定の手続きをしてから教室に向かったためこんなことになったらしい。
一時間目はまだ教室に入りきれたのだが、二時間目の途中で、入ってきた人たちには座るべき席がなかった。先生はこれじゃやってられんと言って、教室を出て行った。しばらくして戻ってきた先生は、我々学生たちに、クラスを二つに分けることを告げた。このクラスと、チェコ語で教える一番下のクラスの間にもう一つクラスをつくることを事務局と決めてきたらしい。
下に移る人はついてきてくださいと言ったのは、まだ若い女の先生だった。学生たちが顔を見合わせながらどうしようと考えている中、真っ先に立ち上がったのは私だった。去年は一番下、今年は舌から二番目と順番に上がっていくほうがいい。教科書も去年の師匠のクラスと同じだったし、来年このクラスに来ればいいやと考えたのだ。
教室を出る前に先生のところに行って、来年よろしくお願いしますと言ったのだけど、三回目の翌年は、師匠のクラスに放り込まれたので、この先生の授業は結局受けられなかった。いや、一こまちょっと受けたけど、自己紹介やら中断やらで時間を取られて、どんな先生なのか理解できるところまではいかなかった。
結局、小さな教室に詰め込まれていたクラスの半分、十五人ぐらいが下に移ることを決めた。新しい先生の話では、最初は英語で教えるクラスを担当する予定だったのが、英語やドイツ語で授業を受けることを希望者が少なかったのと、チェコ語での授業を希望する学生が多かったのとで、担当を変更することになったらしい。去年のサマースクールの最後のアンケートに、日本人みんなであれこれいちゃもんをつけたおかげか、クラス分けのテストも含めて、運営は驚くほど向上していた。いや、違うな、これは単なる偶然だろう。
とまれ、新しいクラスで使う教科書は、去年の一つ下の授業で使った二冊目の教科書を使うことになって、去年やった部分はやらずに残っている部分を進めることになった。これは、全部で三人、経験者がいた賜物である。
一年目の件で書き忘れたが、当時のサマースクールには、アメリカ人の参加が結構多かった。英語が通じるのが当然だと考え、他の言葉が存在することすら意識しないのが典型的なアメリカ人たと思っていたので、意外だった。話を聞いてみると、アメリカからの参加者は、チェコやスロバキアからの移民の子孫たちで、祖父母、曾祖父母の言葉に触れてみたくての参加したと言う人が多かった。
クラスにもそんなアメリカ人が一人いたのだけど、言葉の使い方に関して楽しい奴だった。チェコ語にはラテン語起源の語幹に接尾辞「ovat」をつけて動詞化したものが、「studovat」をはじめかなりの数があるのだが、こいつはチェコ語の動詞を知らないときに、英語の動詞をチェコ語風に読んでそれに「ovat」をつけてごまかしていたのだ。問題なくチェコ語の言葉が出来上がることもあり、ちょっと修正が必要なことも、ぜんぜんだめなこともあったが、この姿勢は見習うべきだろう。
ということで、私も昔『動物のお医者さん』に出てきた「コンタミ」という言葉に「ovat」を付けてみた。残念ながらちょっと修正が必要だったけれども、「コンタミノバット」という動詞が存在したのだ。それでこの「コンタミノバット」はお気に入りの言葉の一つとなったのだった。この年の出来事ではなかったかもしれないけど。
以下次号。
7月13日14時。
以外なところで役に立つ漫画であった。7月13日追記。
2016年07月13日
天元五年正月の実資(七月十日)
『小右記』の天元五年正月の記事の復習が終わったので、それに基づいて実資がどんなことを書いているか、今後一月ごとにまとめてみる。これまでとは違って、書き下し文の引用もせずに、何をしたか、何が起こったかだけ簡単に説明していく。
一日、つまり元旦には、関白太政大臣である藤原頼忠のところに、午の時だから、お昼ごろに出かけている。実資だけでなく四位、五位官人たちも集まって拝礼が行なわれた。その後、頼忠が参内するのにあわせて、おそらく実資も参内したのであろう。
特筆すべきは、公卿たちの奏上で小朝拝の儀式が行なわれたことである。その開催が決まるまでの手続きについて、実資が前例を知らないのかと批判している。小朝拝の後に行なわれた節会、つまり酒宴の様子も詳しく記されている。
二日は、まず左大臣のところや按察大納言のところを訪れた後、頼忠の邸宅での私的な宴会に参加している。皇太子の主催する東宮大饗については、開催されたことは知っているようだが、参入はしていない。その理由が内裏の物忌になっているのだが、物忌でも大饗は行なわれたのだろうか。
三日は、まず実資が少将となっている右近衛府の大将藤原済時の邸宅での酒宴である。その後、一緒に左大臣源雅信のところに出向いて拝礼をしている。次に右大臣藤原兼家のところで酒宴である。そして内裏へ向かったあと、今度は自邸で蔵人所の人々を集めて宴会を行なっている。蔵人頭の行なうべきことだったのだろうか。その後また内裏で酒宴に参加しているし、左大臣の邸宅でも公卿が集まって酒宴があったというから、平安貴族の正月と言うのは、宴会ばかりなのである。
四日になってようやく仕事らしい仕事、つまり天皇と太政大臣頼忠の間の叙位についての話し合いの仲介をしている。叙位は毎年ではなく、三年に二度行なうものらしい。しかも内裏の建設が終わって天皇が住み始めた翌年は必ず行うべきなのだという。その結果、五日、六日の物忌を経て、六日に叙位の議が行なわれることになり、実資も五日の晩は内裏に候宿して、六日は早朝から活動している。
叙位の議では誰にどの位階を授けるかの話し合いが行なわれるのだが、藤原家九条流の道隆が四位下に叙されるのが実資は気に入らない。菅原輔正が四位下に叙されるのも、気に入らないが、遠国に赴任する特別扱いであろうと折り合いをつけている。この日の儀式は子の刻まで続いているので、早朝から働きづめだったということになる。もっとも、早朝という言葉で指される時間がいつなのかについては、検討の必要がありそうではあるが。
七日は、白馬の節会だが、遅参や遅延、また一部の手続きに問題があったようである。天皇が清涼殿に戻ったのが丑の二点というから、六日の儀式よりも遅くまで節会の宴会が続いたということになる。だから八日の記事がないのは、六日、七日の夜更かしのせいで何もできなかったということかと想像してしまう。
九日は、検非違使の奏や女叙位のことなどを、太政大臣、左大臣、そして天皇との間でやり取りしている。今夜も宿直である。
十日は女叙位のついでに、位階を加えるべき人々についてのコメントが続く。さまざまな理由で、叙位に漏れた人々を、女叙位のついでに救済するシステムがあったようだ。外記の勘文に誤りがあって、叙位にもれたなんてのはかわいそうな話である。この日も丑の刻まで議論が続いている。十一日の記事から見ると、この日も内裏に候宿したようだ。
十二日には、実資の妻(正室かどうかは不明)の兄弟である源惟章に男の子が生まれたことを知ったため、それを穢れとして二日の休暇を請うている。実際に生まれたのは七日なのだが、この手の穢れは、穢れの存在を知ったときから、穢れだというのが当時の認識のようである。
十三日からは、弓をいる行事である射礼に関係する儀式がつづく。練習だとも言われる荒手結、真手結、そして射礼そのものの関係がいまひとつわからない。何年分も読み込んでいけば多少はわかるようになるのだろうか。それとも『西宮記』あたりの儀式書を読む必要があるのかな。実資の『小野宮年中行事』では、ほとんど何もわからなかった。
十四日と十五日は、所労があって参内しなかったのに、十五日には何度も呼ばれて結局夜になって参内して、天皇の物忌に参加している。兵部省と近衛府の手結であれこれ問題が起こって、結局深夜を過ぎてから行われたようだ。
十六日は、踏歌の節会なのだけど、この日も公卿の怠慢で、あれこれ問題が起こっている。このころの公卿ってあんまり真面目ではなかったようだ。誰か行くだろうから、自分は行かなくてもいいやってな感覚だったのだろうか。呼び出されてくるぐらいなら、最初から来いと実資なら言いそうである。
十七日の射礼は、担当者もちゃんと出てきて問題なく終わったようである。だた、衛門府の厨町で死体が発見されるという穢れが発生している。問題はその厨町で調えた食事が、衛門府の本陣に届けられてそれを食べた人たちが多数いることであった。一応、死体発見の時間と食事が厨町を出た時間を確認して、食事は穢れていないという解釈でけりをつけている。
十八日には射礼に出られなかった人々を対象にした射遺の儀式が行なわれる予定であったが、近衛の大将が二人ともでてこないという問題が起こる。二人とも穢れが理由になっているが、左大将のほうが軽い穢れなので、召したところ、今度は病気だといって出てこない。大将が一人も参内せず、雨も降っていることから、結局翌日に延期になってしまう。
実資は毎月十八日には、清水寺に詣でることを習慣としている。これは祖父であり養父でもあった藤原実頼の命日であるためであろう。ただし今月は穢れのために中止している。
十九日になって、衛門府の厨町死人の穢れが本陣にまで及んでいることが報告される。その結果、太政大臣の決定でいくつかの対策が取られることになる。しかし、穢れに触れたものは陣に参ってはいけないというのは、常識であったろうに、今更通達しなければいけないと言うところに、官人の質の低下が表れているのだろうか。
この日は賭弓である。前日延期された射遺も行なわれたのだろうが特に記述はない。問題はまた近衛府の大将が出てこないことで、左大将が病気を言い立てるので、廿日まで休暇となっていた右大将が呼び出されることになる。賭弓の儀式自体でも不備が有ったようで、実資だけでなく、左近中将である藤原公季あたりも不満をいだいていたようである。賭弓はよくわからんけど、左側が勝ったようである。
廿日、廿一日は、左大臣源雅信の孫が十九日元服したという話以外はとくに大事なことは起こっていない。廿二日になると、除目の話が始まる。まずは日程からだが、いろいろな理由で二月六日に行なうのがよさそうだという。この日の記事で興味深いのは頼忠が、密かに天皇に書を奉っていることだ。読んだら破って捨ててくれと奏上している当たり、中身が気になってしかたがない。この後の展開を考えると、頼忠の娘遵子の中宮立后についての話だろうか。
また、最近、宮中に穢れが多いので、二月に予定されているいくつかの祭について、中止、もしくは延期することを外記に検討させている。
廿三日の記事では、室町にでかけたという部分が目を引く。実資の邸宅として知られているのは、実頼から伝領した小野宮第であるが、この天元五年当時はまだ二条第に居住していたのである。室町は室町小路に面していた小野宮第のことであろう。
廿五日からは、天皇の物忌の中、除目の準備が始まる。廿六日に除目についての話し合いが始まるが、太政大臣の頼忠は物忌や所労があって、参内するのは、廿八日になってからである。ただこの日は、右大臣藤原兼家の娘で円融院の女御であった藤原超子が急死したため、兼家が参内しない。
廿九日から雪が降り始め、卅日は、飛雪というから吹雪にでも襲われたのだろうか。公卿が参内しても、風雪のために会議もできなかったようである。積雪五寸許りというのは、十五センチほど積もったということか。積雪の記事はあまり記憶にないので、これが多いのか少ないのかよくわからない。これも今後の課題である。
7月11日17時。
2016年07月12日
カルロビ・バリ映画祭(七月九日)
カルロビ・バリは、ボヘミアの西部ドイツとの国境に近いところにある温泉街である。ドイツ名のカールスバートという名前でも知られているこの町は、カレル四世が温泉を発見して町を建設したという伝説が残っている。
毎年七月の初めに、この人口五万人ほどの小都市に毎年一万人以上の観客を集めて開催されているのが、今年で五十一回目を迎えたカルロビ・バリの映画祭である。第二次世界大戦の終戦直後の1946年に近くの温泉街、ドイツ名のマリエンバードで世界的に知られているマリアーンスケー・ラーズニェで始まり、完全にカルロビ・バリでの開催が定着したのは1950年からであったという。
1956年には国際映画製作者連盟のよって、カンヌの映画祭などと同じカテゴリーAに認定されたが、モスクワで国際映画祭の開催が始まった関係で、東側に毎年二つも大きな映画祭は不要だということだったのか、モスクワよりも大きな映画祭が行なわれることが許されなかったのか、モスクワとカルロビ・バリで一年おきに開催されるようになる。
そしてビロード革命後の1994年に、俳優のイジー・バルトシュカが実行委員長となってから、再び毎年開催されるようになり、失われてしまった世界的な映画祭としての地位を取り戻すための努力が始まった。バルトシュカの回想によると、アメリカに亡命して世界的な映画監督になっていたミロシュ・フォルマンの助力が大きかったという。この前まで共産圏だったチェコの片田舎のカルロビ・バリに、さして有名でもない映画祭に招待されたからといって来てくれるような映画関係者などいるはずがない。
それで、バルトシュカが、フォルマンに電話をかけて助力を頼んだところ、たまたま一緒に居たのだったか、すぐに電話をかけてくれたのだったか忘れてしまったが、映画界の友人たちに「友達のバルトシュカってのがやってる映画祭がチェコで行なわれるんで、行ってやってくれないか」なんて頼んでくれたらしい。そのおかげで、最初の一番大変な時期に、映画祭のネームバリューにはそぐわないような大物が来てくれて、そのおかげで次を呼びやすくなったということなのだろう。
正直な話、映画にはあまり興味がないので、夏の暑い中ボヘミアの果てのカルロビ・バリにまで出かけて、仮説のキャンプ場に張ったテントで寝泊りしてまで映画を見る気にはなれない。もちろんホテルに滞在する人たちもいるが、観客の多くを占める学生たちには、温泉街のホテルの宿泊料金は気軽に出せるものではないようで、テントでの宿泊を選ぶ人が多い。今年は晴天に恵まれたが、何年か前は、大雨に襲われてキャンプ場から非難させられていた。
映画際自体にはあまり関心は持てないのだが、期間中七時のニュースの後に放送される映画祭の表彰式の司会を務めるマレク・エベンのレポートは、楽しみに見ている。エベンの話術の巧みさと、外国人にはわかりにくい冗談はチェコ語の訓練にちょうどいいのだ。エベンは、子どものころに子役としてデビューして、その後兄弟と一緒にエベン兄弟という名前の音楽グループで歌を歌ったりもしていたけれども、最近は専ら司会者としての活動が中心となっているようだ。
その毎日のレポートだったか、去年の総集編だったカを見ていたら、昔の共産主義時代の映画祭の様子が紹介された。平和賞とか、労働賞とかのいかにも共産主義の映画祭と言いたくなる様な名前の賞がいくつも並んでおり、ソ連や東欧諸国の作品が必ず賞を取れるように配慮されていたらしい。一番びっくりしたのは、年によっては、出展作品よりも、賞の数のほうが多かったという話だ。賞が多かったのか、出展作品が少なかったのかどちらだろう。
カルロビ・バリの映画祭では出展作品を対象にした賞だけではなく、映画界への功労賞ととでもいうべき賞を内外の映画関係者を対象に与えている。その賞にチェコから選ばれたのが、今年はイジナ・ボフダロバーだった。去年受賞したイバ・ヤンジュロバーと並んで、ビロード革命前の映画やテレビドラマにこれでもかというぐらい出てくる人気女優で、二人ともボフダルカ、ヤンジュルカなんてあだ名で呼ばれることもある。
二人とも役者としては素晴らしいのだけど、どちらがいいかと言われたら、ヤンジュルカかな。ボフダルカは、特に最近はどんな役を演じても、だみ声でがなりたてるので、ヤンジュルカのほうが役柄が幅広いような感じがする。ボフダルカが、「チェトニツケー・フモレスキ」に出たときの演技は特にいただけなかった。モラビアのど田舎の村の婆さんを演じているはずなのに、モラビア方言ではなくてプラハ方言が聞こえてきたのだから。
夏の風物詩としての映画祭は、カルロビ・バリだけでなく、他の町でも行われている。ただその名称がフェスティバルではなく、「映画学校」になっているのは何故なのだろう。昔、イタリア人の友人にウヘルスケー・フラディシュテで開催される「フィルモバー・シュコラ」に誘われたことがあったけど、そいつの話では普通に映画がたくさん見られるイベントという感じだったのだけど。
昔は、毎年春に日本映画を紹介するイベントが、南モラビアのどこかの町で行なわれていて、古いモノクロの映画に、ポーランド語の字幕の付いたものを、関係者が弁士よろしくその場で通訳するのを見たことがある。字幕を見ても、チェコ語を聞いても話がよくわからなかった上に、日本語での台詞もちゃんと聞こえてこなくて、大変だった。最近は連絡が来なくなったから、イベント自体がなくなってしまったのかな。その代わりに大使館の主導で日本映画際を始めたみたいだけど、プラハまで映画を見るために出かける気にはならない。
7月11日15時。
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