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~いよいよ最終回になりました~ <阿武隈急行車両:ネットから借用させていただきました。> 2月25日。私はJR槻木駅で阿武隈急行に乗り換え、宮城県最南端の地、丸森町へと向かった。ブログネタとして斎理屋敷の雛人形を撮るためだ。阿武隈急行は元国鉄の丸森線。それが国鉄解体で第三セクターに移譲。ところがこの路線では、私鉄となった後も苦戦が続いた。その後福島まで全線開通し30年経ったと知ったのは、つい最近のことだ。 <阿武隈川と丸森橋> 丸森駅で降り、斎理屋敷まで歩いた。約2kmの道のりを30分かけて。その途中にこの橋を渡った。下を流れるのは東北の大河阿武隈川で、源流は福島県の甲子高原。そして河口は宮城県亘理町の鳥の海付近。そこは藩政時代、江戸へ米を運ぶための中継港だった。石巻、寒風澤島、鳥の海を中継し、千葉の銚子から舟を変えて利根川を遡り、途中から運河で江戸へ到達する東回り航路は政宗が開いた。 <橋のたもとにあったお堂と大国主命の石碑> 斎理屋敷は2度目の探訪だが、丸森町を訪れるのは3回目。昨年の11月にもランニング仲間と福島県の伊達市から県境を越え、丸森町まで歩いている。今回は「まるもりふるさと館」にも寄って、この町の縄文時代から近代までの歴史を学んだ。郷土の歴史を知るのは嬉しい。私達東北人の祖先たちの暮らしぶりが分かるのだから。東北は未開の地だけでなく、豊かだったからこそ古来戦いの場となったのだ。 さて、斎藤家は江戸時代から7代続いた豪商。主人はいずれも「理」か「利」の名がついた由。それで屋敷の屋号も「斎理」とした。阿武隈川の舟運と、福島へ抜ける脇街道の往来によって、商売が成り立ったようだ。最初は太物(木綿)を商ったが、明治に入ると一時期銀行を持つほど繁栄した。 それだけではない。発電所や製陶会社も作り、広い敷地内にその工場があった。第2次世界大戦後は住宅工事まで行った由。いわゆる戸建て住宅の販売だ。それほど栄えた家業がなぜ7代で潰えたのだろう。何だかとても不思議な話だ。 その謎が解けたのは、本屋敷1階の広間の火鉢付近に座っていた「番頭さん」の話。彼によれば、7代目には息子がいなかったそうだ。養子を取ることも可能だったのだろうが、同時にこの土地柄で手広い商売はもう無理。そう判断したのではないのか。それが私の推察だ。仙台へ転居後、この地は荒れ果てた。建物と土地をそっくり町に譲ったのは7代目のかなり晩年のようだ。 豪商斎理の栄枯盛衰については、この説明資料をお読みいただきたい。つまるところ、阿武隈川の舟運も脇街道としての往来も、東北本線や国道4号線、6号線の開通によってすっかり廃れた。とうていこの地では商売が成り立たなかったのだろう。それが時代の趨勢。そう読んだ7代目は静かにこの地を去り、やがて広大な敷地と建物群を、そっくり丸森町に寄付する。そして博物館として生まれ変わった。 ご主人らと奉公人たち(昭和初期) <「時の蔵」に飾ってあった肖像画。7代目とその奥方だろうか。> 「番頭さん」によればお嬢さんは婿を取らず、すべて嫁に出した由。中には村田町の紅花問屋に嫁いだ方もおられた由。往時の村田では良質の紅花が生産され、紅は笹谷峠を越えて山形に運ばれたそうだ。山形の紅花は最上川を下り、酒田港から西廻り船で大坂に運ばれた。山形の紅花の大部分は京都で口紅や、腰巻の染料として重宝された。除菌効果が高かったのだ。まだ汽車が走ってなかった当時の話だ。 ピンボケになったが、「ダンボ」は当主を指した由。斎理屋敷の歴代の主人は、使用人にはとても優しい存在だったようだ。小僧さんも含めて、家族同様に接し、寝食を共にしていたのだろう。厳しい勤務の中にも親しい交流があったことが、壁の落書きなどでも見て取れる。 斎理屋敷の使用人たち。普通は使用人などの写真は撮らないだろう。少なくとも昭和初期くらいのものと見受けられる。当時写真撮影は贅沢だったはず。 説明によれば、「繭(まゆ)の輸送風景」らしい。繭は生糸の材料。そして絹織物は明治以降、日本の主要な貿易品であった。その繭玉を満載にした三輪車が屋敷内に3台も停まっている。どれだけ大規模に繭玉を扱っていたかが推察出来よう。かつての日本にこんな時代があり、地方の小さな町でも「絹」にまつわる商売が手広く繰り広げられていたことが分かる貴重な映像だ。 12回に亘って紹介した斎理屋敷の話はこれで終わる。東北の小さな町に栄えた豪商の歴史。その栄枯盛衰を、残された「物」から辿った。本来なら屋敷の歴史や由緒は冒頭に紹介すべきかも知れないが、あえて最後に持って来た。なおタイトルの「斎理屋敷さございん」の「ございん」は「いらっしゃい」の意味で、「さ」は「へ」の意味。最後になったが追補しておこう。 この日、私は斎理屋敷と「まるもりふるさと館」の2か所を訪ね、5時間ほどこの町に滞在した。撮影も編集も大変だったが、書き終えた今は楽しい思い出ばかりが蘇る。写真は阿武隈川の下流を眺めている。直ぐ隣の角田市では「あぶくまリバーサイドマラソン」(ハーフ)を3回ほど走ったことがあった。まだ十分体が動いた時の話だ。最後までお読み下さったことに感謝し、筆を置きたい。<完>
2018.03.23
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~斎理屋敷の飾り物~ このシリーズも今回で11回目を迎えました。今日は雛人形や置物を除く、屋敷の飾り物を紹介します。すべて手作りのもので、見事ですね。 これは本屋敷の入り口、階段の下に飾られていた木。枝に白梅と紅梅の飾り物がつけられています。 吊るし雛に扇子とは珍しいですね。私は初めて見ました。 額に入った椿の花ですね。純和風の美しさです。 本屋敷の大広間、雛壇の横に艶やかな着物が飾ってありました。 白の千羽鶴とは珍しいですね。 障子を背にした吊るし雛はモノクロ状態に。 扇子のコラージュの手前には椿の花の吊るし雛が。 羽二重のような白い椿の花。 春らしい色あいの千羽鶴が遊ぶ座敷です。 あらまあ。これはどうやら干し柿のようですよ。 可愛い花々の吊るし雛。珍しいですねえ。 テーマは藤娘みたいですね。 布に描かれた七福神が見事です。 雛壇の上には紙で折られた扇子が一面に。 新館の吊るし雛(再掲) 新館の吊るし雛と大きな椿の花。 最後は習蔵の啓翁桜でお別れです。いよいよ残りは後1回になりました。<続く>
2018.03.22
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~「時の蔵」にて~ さて少々間延びしたが、「斎理屋敷シリーズ」の再開だ。これは「時の蔵」(登録有形文化財指定)を連子塀越しに見ている。この蔵は明治の後期に建てられ、質草などを保管していたが、一時期銀行としても使われた重厚感溢れる蔵だ。 「時の蔵」の入り口の看板は時計の形をしていた。 蔵の中には看板の元になった古い柱時計が2つ、壁に掛けられていた。 「時の蔵」の名前が示すように、この蔵に収容しているものは歴史的な資料が多い。これは和歌が書かれた屏風だ。 見事な屏風の前には、立派な鎧と兜。と言っても斎理は武士だった訳ではない。明治になるとかつての階級は無くなった。仙台藩に仕える武士達は、食うために先祖から伝わった武具を質草として金子を借り受けたのだろう。それが「流れ」て、斎理に残ったのだと推察出来る。 これが何かお分かりだろうか。答えは大砲の筒と弾。筒は木製で、砲弾は陶製の切込焼き。現在の加美町宮崎の焼き物で、仙台藩御用達であった。実はこの粗末な武器で官軍と戦ったのだ。 これがその説明。丸森は伊達藩の最南端。ここで攻め入る官軍と戦ったのだが、最新鋭の軍備を持つ官軍の敵ではなかった。何しろ官軍は鋼鉄製の大砲と鉛の砲弾を持っていたのだ。ゲリラ部隊である鴉組の活躍も虚しく敗北して後退する。 明治になると刀は不要となり、質草となった。ただし日清、日露戦争に赴く兵士に、斎理は無償で刀を提供したようだ。これは後に残った刀の柄(つか)など。 これは刀の鍔(つば)。見事な工芸品だが、上の柄と共に明治の軍隊には相応しくないため残されたのだろう。 江戸時代の印籠。帯に止めるための根付けもセットになっている。左端には煙管(きせる)が見える。 上等な蒔絵が施された茶道具セット。斎理の奥方が嗜まれたのかも。 こちらには斎理の奥方が使った茶飲み茶碗と説明書きがある。 お茶と来ればお茶菓子が付き物。見事な漆器製の鯛の菓子器。 茶釜(左)は狸の形。これが本当の文福茶釜。右は家紋入りの茶箱で、見事な蒔絵だ。 蓋があるので花瓶ではなさそうだ。香料などを入れたのだろうか。 獅子頭の口が開かない所を見ると、獅子舞用の物ではなさそうだ。だがそれなりに威厳はある。<続く>
2018.03.21
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~「嫁の蔵」と「習の蔵」~ 登録有形文化財指定の「嫁の蔵」(よめごのくら)は明治36年の築造。斎理屋敷の中では材料を吟味した最も立派な造りとのこと。貴重品を収納する宝蔵と呼ばれ、奉公人が立ち入ることは許されなかったそうだ。 「嫁の蔵」の看板は櫛(くし)の形をしていた。 展示品の中で真っ先に目についたのがこの水引(みずひき)だった。結納に添えられていたのだろうか。 扇型の重箱とは珍しい。お花見の時などには、わざわざこれを運んだのだろうか。 これも移動可能な重箱。上の2段が重箱で、下はひょっとして酒器かも知れない。 沈金の見事な菓子器。斎理の紋所である「三つ巴」が施されている。 蛤型(はまぐりがた)の菓子器とは珍しい。蓋に菊の花を散りばめた豪華な作りだ。 鉢と皿と徳利。 陶製のコップには平安貴族風の絵付けが施されている。 赤絵の大皿。 角皿の中に「乾山」の銘があることに気づいた。もしこれが尾形光琳の弟である尾形乾山(けんざん=江戸時代の著名な陶芸家)作の本物であれば大変なお宝だ。右は私が念のために乾山の署名を、他の作品から写し取ったもの。比べると本物のように見える。果たしてこの斎理屋敷にその認識があるかどうかと心配して電話したら、ちゃんと認識していた。やれやれ。他人事ではあるがこれで一安心だ。 火鉢と鉄瓶。共に金属製の堂々たる作品だ。 タンス類。桐材に鉄製の金具が施されている。 「習の蔵」(ならいのくら)の壺に活けられていた啓翁桜(けいおうざくら) 「蔵」と名がついていても、ここは新館と繋がった新しい建物の一室で、体験講座の時に使用出来る施設。この可愛らしい作品も、過去の体験講座で利用者が作ったもののようだ。単にかつてのお屋敷の品物を展示するだけでなく、こうした双方向性の活動が今後の地域活性化のために必要なのだろう。 これも体験講座受講者の作品だろうか。鯉のぼりの置物のようだ。 「座敷わらし」ではなく、れっきとした地元のお婆ちゃん。この日習の蔵では、地元の方が集まって昔話を聞かせていた。私が聞いたのがこのお婆ちゃんのお話。宮城の方言で訥々(とつとつ)と話す語り口がとても優しかった。庄屋のネズミと貧乏な百姓の家のネズミが相撲を取る話。優しくも貧しい爺婆に、やがて思いがけない財宝が運ばれると言うこの土地に伝わる心温まる民話だった。<続く>
2018.03.17
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~本屋敷にて~ ここは蔵ではなく本屋敷。その軒下に掛かっていたのがこの看板だ。祝いの酒とはまた縁起が良い。もともとここにあった斎理の木造の居宅(明治初期の建造物)は取り壊し、昭和63年に現在の建物を新築した由。斎理は蔵にこそお金をかけたが、居宅は至って粗末。それも臨時の増築で凌いでいたため、博物館としては危険と判断したようだ。その古い建造物のイメージを、出来るだけ再現したそうだ。 1階突き当り奥の大広間には、見事な雛人形が飾られていた。手前の火鉢の横に斎理の半纏を着た老人が座っているのが見える。後でこの人と斎理や丸森町の歴史について論議することになる。 大広間の上は巨大な吹き抜けの空間だ。天井は2階のもので、「明り取り」から自然光が差し込んでいる。 別の角度から見上げた吹き抜け。欄間も含めて、とても美しい構造だ。 逆に2階から1階の大広間を見下ろした図。頑丈な鴨居がこの巨大な空間を支えている。 大広間に飾られた人形たち。この右手奥の雛壇は隠れていて見えない。 古めかしい神棚。事代主神(左)と大国主神(右)のようだ。 上の神棚の右側。奥津彦神と奥津姫神の名が読める。二神は共に年神の子なので、紙に印刷されたのは年神だと思う。家、屋敷、竈(かまど)などの守り神。沖縄や奄美のヒヌカン(火の神)は本土のものと形は違うが、本質的には共通だろう。火を尊いものとする思想は、ゾロアスター教(拝火教)にまで至るのかも知れない。各蔵や屋敷内にはたくさんの神が祀られ、信仰心の深さを感じさせられた。 部屋の一角には小さな仏像や数珠などの仏具が置かれていた。古代に大陸から伝わった仏教もまた、屋敷の人々の心を癒してくれたに違いない。 たくさんの能面や伎楽面が見える。主人の嗜みだったのか、それとも質草だったのか。 説明板(右下)によれば、これが当屋敷の雑煮の材料とある。大根、三つ葉、するめ、昆布、蒟蒻などが見える。大富豪の割には至って質素だ。仙台の城下町の物とはかなり様相が違っている。内陸部の丸森とは事情が違っていたのだろうし、時代による相違もあろうか。 「斎理家紋入り金火鉢」とある。火鉢は当時数少ない暖房の手段だった。冬の早朝に先ず「消し炭」に火をつけて炭を熾(おこ)し、それを火鉢や炬燵(こたつ)に活けた。「消し炭」は木材の燃え殻で、火をつけるのに便利なため、「火消壺」に入れて常時保存して置いた。 薬草などを粉砕するための薬研(やげん)。薬は屋敷の者のためか、それとも商売用だったのか。 当時の枕。下の説明板には、「当主が留守の時は強盗に命を取られぬよう、店の女たちは鍵と言う鍵をかけ、店蔵の2階の荷物の隙間に布団を敷いて寝た」と書かれている。昭和20年代までの話だが、昭和も遠くなった。 1階大広間の千羽鶴。逆光のシルエットの美しさ。 番頭さんのように見えるが、この方は元会社員。町長に頼まれて、屋敷の説明役になった由。尋ねたらほとんどのことをすらすらと教えてくれた。かなり人の話を聞いたみたいだ。私も疑問点を幾つかこの方にぶつけた。古代史の専門的なことは不得意みたいだが、その他は良くご存知だった。やはり人の話を聞くことが大事なようだ。<続く>
2018.03.16
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~「童の蔵」と新館~ 「童の蔵」(登録有形文化財指定)は大正時代の建築物で、斎理屋敷の中で最も新しく、最も小さな蔵であることは以前も書いた通りだ。 「童の蔵」の入り口にある看板。もっとも小さな蔵であることから、ここは子供の玩具を中心に配置したそうだ。この看板が「凧」の形をしていることに、皆さんは気づかれただろうか。 これは「字凧」。天にも昇る勢いの「龍」の文字。 こちらは絵凧。勇ましい武者が描かれている。川中島の上杉謙信と武田信玄のようだ。 左の凧には「義経八艘跳」と書かれている。壇ノ浦の戦いの様子だ。右は「奴凧」。 右の凧には「自来也」と書かれている。自来也(別名自雷也とも)は、江戸時代の怪奇小説に出て来る盗賊で妖術使い。義賊のようだが、その実態は知らない。子供時代の私は、あまり凧を上げたことがなかった。結局は凧を買うお金がなかったからだろう。野球、かくれんぼ、鬼ごっこ、木登り、チャンバラ、独楽回しなどが遊びの中心で、刀や「杉鉄砲」(杉の実を弾にする)なども全部自分で作った。 竹で作った玩具。上の段には竹トンボ(左端)や剣玉(右端)が見える。竹製の剣玉は仙台では「チャカポコ」と呼んだ。遊ぶとそのような音がしたからで、木製の剣玉よりもずっと単純な構造で、面白味に欠ける。上段の真ん中の玩具には「ハンドル」がついている。下段の玩具同様用途が分からない。縄文時代の火きり棒にも似ている不思議な形だ。 標準語で言う「めんこ」。仙台では円形の物を「パッタ」と呼び、大抵は武者絵が描かれていた。長方形のものは「スケッチ」と呼んだ。「パッタ」は打ちつける時の擬音から来たのだろうが、「スケッチ」は意味不明。この写真のような絵から来たのだろうか。ともあれ、私の少年時代は戦後間もなくの物が乏しい時代。食料にも事欠き、貧しかったが、案外楽しかった記憶が残っている。 お手玉は女の子の遊び道具。食糧難の時代には、小豆の代わりに何を入れていたのだろう。残念ながら私はお手玉で遊んだことはない。ただあるとすれば小学校の運動会の玉入れ。あれは紅白の玉だったが、大き目のお手玉と言えなくもない。 遊ぶ子供たちの人形。真ん中に鬼はいないが、これは「かごめかごめ」だろうか。屋敷での暮らしを表現したオリジナルの人形が各蔵ごとに置かれている。その数は30にも上るだろう。具象的で優れた人形だが、今回はこの1枚だけ撮影した。撮影時の姿勢が苦しいのと時間がかかるためだ。いがぐり頭の少年におかっぱ頭の少女。この屋敷でもこんな小さな子供が働いていたのだ。 新館。博物館事業を円滑化するため平成になって新築した建物。斎理屋敷が最も栄えていた大正時代の建築物を模した。2階には昭和初期の屋敷近辺の街並みがジオラマとして再現されていた。私は撮影しなかったが、古い街の様子を知る人たちが、懐かしそうに眺めていたのが印象的だった。 歴代当主の中には珍しい物を収集する人がいたようで、蔵には色んなものがあった由。これもその中の一つでアワビの貝殻みたいだが、ひょっとしたら細工物かも知れない。 これは真珠貝だろうか。真珠の養殖には普通アコヤガイ(阿古屋貝)を用いると聞くが、これにも貝の内側に真珠のような光沢がある。 燦燦と早春の光が差し込む室内には、吊るし雛が飾られていた。どうやら椿の花のようだ。 この日、新館の1階では講習会が開かれていた。どうやら地元のご婦人を対象にした、人形作りのようだ。斎理屋敷を全て見終えて「まるもりふるさと館」(博物館)に向かう途中、付近に「高齢者振興財団」のような名称の看板が見えた。恐らくは俗に言う「シルバーセンター」なのだろう。 そして「ふるさと館」には大根の飾り物があった。「何だ何だ。福島県会津地方の大内宿でお土産として売っていた野菜の飾り物がなぜここにあるんだ」と、一瞬混乱した。だがその謎が解けた。先ほど通った「高齢者」云々の団体が、実はこれらの細工物を作っていたのではないか。高齢のご婦人でも出来る内職として。 大内宿の土産店では「アルバイトに作らせています」と言っていたが、製造元の一つがここ丸森町だったのだろう。先ほど斎理屋敷の新館でやっていた「講習」も、ひょっとして土産物を作る技術の向上を図るものなのかも。そして吊るし雛はじめ各種の飾り物は全て、町の重要な収入源なのかも知れない。私の大胆な推理が、果たして当たっているかどうか。<続く>
2018.03.14
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<「業の蔵」と「住の蔵」> さて4日間中断していたこのシリーズを再開しようと思う。斎理屋敷の10以上ある蔵のうち、今日は「業の蔵(なりわいのくら)」と「住の蔵(すまいのくら)」を紹介したい。少しでも生きた博物館としての斎理屋敷の雰囲気を感じていただけたら嬉しい。 これが業(なりわい)の蔵<登録有形文化財指定>の入り口。見事な造りであると同時に、機能美を備えた建築物であることが分かる。明治初期の建物で柱を外壁に出し、漆喰で塗り固めている。当時は太物(木綿)やご祝儀用の組膳を収納していた。 軒先に掛かる看板は、大きな桝の中に米が入っている。 1階の奥に、たくさんの米俵が積んである。この斎理が米を扱う商売をしていたわけではなく、これは食料として蓄えていた物だろう。旦那衆だけでなく、番頭から丁稚に至るまで屋敷内には大勢の人が暮らしていた。当時は米が主食だから、毎日たくさんのご飯を食べたはずだ。 米俵の前に鎮座する釜。斎理屋敷では、朝昼晩それぞれに3升の米を炊いたようだ。1人1合としても、最低で30人分の食欲を満たしたわけだ。 これは菜切り包丁か。鉄製の包丁は使わずにいると、たちまち錆びてしまう。 伊達藤五郎は伊達政宗の家臣で従兄弟である伊達成実の仮名。亘理伊達氏の初代で領地は亘理(2万石余)だが、丸森にも領地があったため、この屋敷に泊ったのだろう。 住の蔵(すまいのくら=登録有形文化財指定)は明治初期の建築。柱と柱の間隔が狭く、栗や杉の材木で頑丈に造られていた。この蔵では客の質草を保管し、2階は使用人が起居していたせいで、たくさんの落書きが残されている。 軒先に掛かる看板の意匠は障子だった。 かつて暖房用の燃料の主役は炭だった。冬は炭を熾(おこ)して火鉢に生け、暖を取った。 かつての照明器具。照明はハゼの実の油で作るロウソクが一般的だった。これはそのロウソクを立てる燭台。行燈(あんどん)や灯篭(とうろう)にロウソクを入れる場合もあった。 手広く商売を行っていた斎理屋敷では、様々な形の引き出しがたくさん備わっていた。 左はかつての納屋(なや=作業小屋)の模型か。右の蓑(みの=合羽)は業の蔵にあったものだが、内容的にここが相応しいと考えて移動した。 2階へはこの箱階段(はこかいだん)で登る。これは収容能力を高めるためで、階段の下は引き出しになっている。全ての蔵の階段はこの箱階段だった。 これが奉公人たちが残した落書きの例。落書きとも思えない立派なものだ。江戸時代から「読み書き算盤」は町人たちの必須科目だった。屋敷の奉公人たちも習字や算盤(そろばん)の習得に精進したのだろう。この識字率の高さが明治の近代国家樹立後も大いに役立ち、日本が先進国の仲間入りを果たす原動力ともなった。<続く>
2018.03.13
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~斎理屋敷の蔵など~ <屋敷内建物配置図> 昭和61年(1986年)斎理屋敷の当主から、江戸後期から7代続いた斎藤屋の屋敷跡をそっくり丸森町へ寄贈されたのです。その利用法を1年かけて検討し、その後整備を行い、蔵の郷土館「斎理屋敷」が開館しました。昭和63年のことでした。その後屋敷内の12の建造物が国の登録有形文化財に指定されています。今回は蔵を中心に、幾つかの建物を紹介しましょう。 1)これは店蔵で、県道45号線に面しています。斎理屋敷の入り口に当たり、店内は売店です。嘉永元年(1848年)建造で、屋敷内で一番古い蔵。当時1階では呉服太物(木綿)を販売し、2階は商品の収納に用いていました。1階入り口の鎧戸(よろいど)は用心のため、縦に下りる仕組みになっていたそうです。<登録有形文化財指定> 上の店蔵の裏側です。蔵の裏にも頑丈な扉が設けられているのが分かります。 2)表門です。 右隣は店蔵で、左隣は嫁の蔵になります。明治前期の建造で、門柱2本の後に控え柱2本を建て、切妻屋根をかけた「一薬医門」と呼ばれる形式です。<登録有形文化財指定> 3)嫁の蔵と呼んでいる建物で、県道に面しています。明治36年建造。屋敷内で最も立派な作りの蔵で、かつては宝蔵として用い、奉公人の出入りを許さなかった由。現在は嫁入り道具などを展示しています。<登録有形文化財指定> 嫁の蔵の裏面です。右下に一部分見えているのが石風呂で、独立した建物です。総石造りの堅牢な浴室は当時でもかなり珍しい物でした。これも登録有形文化財に指定されています。 4)童の蔵と呼ばれています。大正時代に造られた屋敷内で一番小さくて新しい蔵です。それに相応しい子供の玩具などを展示しています。<登録有形文化財指定> 5)住の蔵(すまいのくら=手前)と6)業の蔵(なりわいのくら=奥)です。共に明治初期の建築で登録有形文化財に指定されています。住の蔵は杉と栗の柱を交互に使用し、柱の間隔を狭くして頑丈に造ってあります。1階は質草の保管場所で、2階が使用人の寝床だったようで、たくさんの落書きが残されていました。 5)6)の蔵の裏面です。その中間に立つ避雷針は当時としては大変珍しいもので、高さが26mあります。当主が雷嫌いのため昭和5年に設置され、登録有形文化財指定ですが今も現役です。 業の蔵(左側)はかつて太物(木綿)やご祝儀用のお膳類を収容していました。柱を外壁に出し、その上から漆喰で塗り固めたことがはっきりと確認出来ます。 7)裏門です。屋敷の中を南北に道路が通っていました。そこで用心のために門を設けたのです。明治初期の丁寧な造りで、杮葺き(こけらぶき)の屋根で、軒下に「三つ巴」の家紋が入っています。<登録有形文化財指定> これが敷地内を通る道路です。左手奥が業の蔵の裏面で、右側が支の蔵(ささえのくら=収蔵庫で非公開)の側面です。なまこ壁の美しい蔵ですね。 上の通路を直進するとここに出ます。左は童の蔵の裏面で、右側に時の蔵の塀が続いています。南の方角を見ています。この先にもたくさんの蔵があるのですが、使用されてない模様です。 上の通路を逆方向から見ています。左側の建物は朽ち果てています。斎理屋敷の敷地内ですが、町も財政難で十分に管理し切れないのでしょうね。 8)時の蔵とその前門です。この蔵は明治後期に建築され、屋敷では質蔵、宝蔵と呼ばれて骨とう品などが納められ、微かに白檀の香りがした由。一時期は銀行としても使われ、用心のために門を設けたのでしょう。現在は歴史資料を展示しています。<登録有形文化財指定> 時の蔵2階の窓です。鉄格子を入れ、盗難を防いでいます。これなら耐火も大丈夫でしょうね。 9)中央部が納蔵(おさめのくら)です。左の守蔵(まもりのくら)奥の支蔵(ささえのくら)と共に、斎理屋敷の収蔵庫としての機能を果たしており、非公開です。 10)新館です。元々この場所にあった作業場は老朽化したために取り壊し、博物館機能充実のため平成10年にこの建物を新築しました。斎理がもっとも栄えていた大正時代の洋風建築を取り入れ、2階には昭和初期の屋敷近辺のジオラマを展示しています。また新館左手の習の蔵(ならいのくら)は、地域の催しや学習を支援する施設になっています。<続く>
2018.03.07
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~斎理屋敷のお雛様と人形 その2~ やあ、いらっしゃい。今日も爺が斎理屋敷のお雛様と人形を紹介しますぞ。ふぉっふぉっふぉ。斎理屋敷は江戸時代から昭和25年ごろまでに栄えた豪商での。今は丸森町立の博物館「蔵の郷土館」になっとるんじゃよ。堂々たる店構えで、見とっても実にほれぼれするのう。じゃあ早速ご案内進ぜよう。 今日も古典的なものから始めるとしようかのう。雛人形の美しい顔は胡粉(ごふん)と言うもので作られとるんじゃ。ハマグリなど、なるべく色の白い貝の貝殻を何年も天日に晒し、それを砕いて粉にし、加工して作るんじゃそうな。胡(こ=中国の西方の国)から製法が伝わったことから、胡粉と呼ばれたんじゃと。まあ言って見れば高級品の証じゃな。 お内裏様が着てらっしゃる着物も実に立派じゃのう。これを錦と呼ぶのかどうか。 いやいや。奥方の方も負けとらんのう。実に雅で艶やかじゃ。ふぉっふぉっふぉ。 あんまり美しいので拡大してみたぞ。「クローズアップ現代」じゃよ。今はのう。 あれまあ。奥方の宝冠が実に見事じゃ。これだけ立派なのは滅多に見かけないのう。 野次馬根性で宝冠部分を拡大したが、何ともはや見事な作りじゃのう。 ほれご覧。こっちの奥方の宝冠は普通のものじゃ。まあこれでも立派ではあるが。 ふ~む。こっちのお雛様はちと現代風かも知れんのう。 上のお雛様を拡大して見たんじゃ。凛々しいお顔立ちじゃのう。 ふ~む。奥方さまもなかなかのお顔じゃ。それに着物も立派じゃのう。 こちらの蔵では窓から光が差しての。ちょっと逆光気味なんじゃが。むにゃむにゃ。 現代風の立雛じゃの。まあ、これはこれで美しいのじゃが。 ここからは人形の紹介じゃ。これは仙台の城下に伝わる堤人形じゃろうの。 堤人形の勢揃いじゃ。堤町は仙台城下の北の外れにあって、昔から素朴な土人形を生業(なりわい)として来たんじゃよ。今でも続いておるが、江戸時代の物はとっても貴重なんじゃ。 戦前までの日本人形じゃ。中には友好の証としてアメリカに渡ったものもあったんじゃ。 はいはいする赤ちゃんの人形じゃよ。いつの時代も親と言う者は、我が子の成長を心から願っておるものなんじゃ。尊いのう。泣けるのう。 犬張子(いぬはりこ)じゃ。これも赤ちゃんに関係すると言ったら驚くかの。犬は人間に忠実で安産。昔は人間に代わって厄を祓う意味があったそうな。だから子供が生まれた時のお祝い品や、宮参りの際はお守りとなったんじゃな。それがやがて子供の玩具となったんじゃと。さて、今年は戌(いぬ)年。そんなこともあって飾ったのかものう。 さてと、人形の最後はブリキのピエロじゃ。何ともはや珍しいのう。斎理屋敷の主は、こんな物まで集めておったんじゃなあ。雛人形はこれでお終いじゃが、屋敷の紹介はまだまだ続くぞ。じゃあ、また後での。<続く>
2018.03.04
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~斎理屋敷のお雛様と人形 その1~ 皆さん、良うござったなあ。ここは斎理屋敷。江戸時代から続いた豪商じゃが、今では博物館になっとる。先日2年ぶりに訪ねてみたんじゃ。もちろん爺のブログの取材にの。おっほっほ。 店の前ではこんな石の像が出迎えてくれたんじゃ。なんだか大阪のビリケンと「仙台四郎」を足して2で割ったような顔をしとったがの。それはさておき爺が紹介したいのは、この屋敷に飾られていたお雛様と人形なんじゃ。今日は桃の節句、ひな祭りじゃからのう。ほっほっほ。では2回に分けての。 これは本屋敷の大広間に飾られていたもんじゃ。斎理屋敷には10を超える蔵があっての。そこにあったお雛さまや人形のうち、古そうなものや珍しいものをカメラで撮ったんじゃ。説明はこれくらいにして、後は勝手に眺めてくれんかの。ふぉっふぉっふぉ。 写真を載せながら見とったんじゃが、中には手作りのお雛さまや新しいのも混じっとった。まあ許してくれんかの。何せ爺はあまり目が見えんのでな。わっはっは。<続く>
2018.03.03
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<第27回定禅寺ストリートジャズフェスティバルin仙台> もう1か月ほど前になるが、男はフラリと街へ出かけた。取材である。男の趣味であるブログのネタ探しのためでもあった。結構たくさんの写真を撮ったのだが、男の都合で今日まで掲載が延び延びになってしまったのだ。「それでも載せないよりは良いだろう」。それが男の言い訳。何と言うセリフ何だろう。でもまあ付き合ってくだされや皆の衆。ふ~む、解説は爺さんのようだねえ。 このお祭りはの、皆の衆。今回で27回になるんじゃよ。最初は本当にジャズだけの演奏を、とあるビルの中でやっていたらしいんじゃ。それが翌年からはガラリと趣向を変えて、街中へと飛び出した。そして今では音楽のジャンルを問わないのさ。因みに参加バンドは700グループ以上、ステージは仙台市の中心部に48か所。そして集まった聴衆は2日間で79万人とか言っておった。 では以下に写真を並べるので観るだけでも観ておくれ。頼んだよ、ふぉっふぉっふぉ。 仙台駅前のペディストリアンデッキの上じゃ。まだ開演前みたいじゃのう。 こっちはやっとったよ、男女のデュエット。何だか良い感じ🎵 近づくとこんな感じじゃ。男の人がギターを弾いとるのう。 こちらは聴いて楽しむ市民じゃ。中には拍手してる人もおるぞ。 女性ボーカリストのアップじゃよ。 ここは仙台駅の構内。バックは伊達政宗公のステンドグラスなんじゃよ。 七夕の吹き流しじゃ。政宗公の騎馬像はさらにその上で見えんがの。 こちらはペディストリアンデッキで演奏前の打ち合わせじゃろか? 演奏者の後には、もう次の出演者が控えておるわい。 ちょっと余裕がない感じじゃが、大丈夫かのう。 こっちは大変な聴衆。きっとバンドも気合が入るじゃろう。 近づくと楽天イーグルスのユニフォームでの演奏じゃった。やるのう若い衆も。 アーケードの天井近くの通路に何人かの人が。あれまあ!! そうなんじゃ。彼らはコーラスグループなんじゃよ。 さらにアップすると真ん中が女の子じゃった。男が立ち止まって撮影しておったら、何と警備中のガードマンに怒られたそうじゃよ。通行の邪魔なんだと。もっと聞きたかったんじゃが。<明日に続く>
2017.10.05
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<墓参りと博物館の話> 土曜日の夜は遅くまで、世界陸上の4×100mの準決勝などを観ていた。翌朝も早くからその決勝などを観た。日本は選手を入れ替え、しかも戦法を変えていた。そして金メダル間違いなしのジャマイカが、最終走者ボルトのまさかの怪我で棄権となり、日本は3位の銅メダルに輝いた。誰一人9秒台を出してないのに、リレーともなれば、お家芸のバトンタッチが光る。リオに続いてのメダル獲得が嬉しい。 天気が落ち着いている感じなので、自転車で墓参りに行った。バッテリーをフル充電したはずなのが、見る見る減って来た。やはり山越えはきついのだろう。渋滞している車を尻目に、スイスイ抜いて行く。澱橋から石切町、土橋通、北六番丁、木町通りを通って北山へ。花と線香は市営墓地近辺で買った。誰かが既に花を上げていた。後で聞いたら姪が墓参したようだ。帰路は別コースで帰宅。 共に国宝 往路と違ったコースを辿ったのは、市立博物館に寄るため。特別展でこんなものが開かれていたのだ。お盆には相応しい内容だ。行きたくてもそう簡単には行けない。私はレースで和歌山から走って「大門」で折り返しただけで、境内には入らず仕舞だった。それに、例え高野山に行ったとしても、これだけの秘宝が観られるとは限らないのだ。展示品61点のうち国宝が10件、重要文化財が31件とのこと。 弘法大師座像 空海は選抜されて中国に渡り、仏教を学んだ。よほどの天才か僅か2年で修行を終えて帰国し、天皇から聖地高野山を賜って密教の真言宗をこの地で開いた。後の金剛峯寺で、弘法大師の名も賜った。天台宗の最澄(伝教大師)が延暦寺から教えを受けに来たのは有名な話。彼の方が年長で、中国留学の期間も長かったのだが、空海は快く仏法を説いた由。 国宝 恵光童子像 戦国時代、織田信長は高野山をも攻めた。だが、彼の霊廟も奥の院にあったはず。歴史上の有名人2万人の廟所が設けられ、秀吉、家康、政宗の廟所もここにあるそうだ。また有名企業の物故者もここに祀られているとか聞いた。標高千mの聖地。四国八十八か所を巡った後は、高野山にお参りしてようやく結願となる由。私にはそれだけの宗教心はないが、熊野大社と共に日本人として一度は訪ねてみたい場所だ。 <空海の24歳時の書 国宝> 東北は東日本大震災で大きな被害を受けた。その鎮魂と復興を目的とし、仏教界をはじめとする宗教界から多くの支援があった。それが寺宝や社宝を快く貸し出し、展示へとつながった。通常なら到底拝観出来ない作品を、こうして身近に観られるのは幸運とも言えようか。本当はもっと詳細に調査すべきだろうが、会期が迫っているためあえて簡略な紹介に止めた。 国宝 孔雀明王坐像 帰路は再び山越えで。暫く登り道が続き、バッテリーが見る見るうちに減って行くのが分かった。実はどれだけの距離でどれだけ電気を食うか、実験の意味もあったのだ。今週の土曜日は「薬莱山とお足」。往復110kmをこの電動アシスト付き自転車で参加する予定なのだが、バッテリーは70kmしか持たない。それがそんなにも持たないことが判明した。坂が多いと負荷が強過ぎるのだ。 それに当日は曇り時々雨の予報。雨なら自転車での110kmは危険なので、当然不参加になるだろう。博物館から直接自宅へは向かわず、1kmほど先のスーパーへ行った。前日の買い物で足らない食品があったのだ。この日、自転車に乗った距離は20km足らずだが、果たして運動になったかどうかは分からない。プロ野球は首位のソフトバンクと2位の楽天が共に勝った。激戦は当分続くだろう。<注> 高野山関係の写真はネットから借用しました。心から感謝申し上げます。
2017.08.14
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10月31日(月)。私のパソコンに、こんな映像が表示された。「ははあ、今日はハロウィン」か。そう思って一応取り込んでおいた。いつか何かに使うことがあるかも知れない。そう考えてのことだ。だが、なかなか使う機会はなかった。そうこうするうちに今日は11月11日。このまま「お蔵入り」では勿体ない。そうだ、他の写真と合わせて、小さな特集を組んでみてはどうだろう。かなり遅れたハロウィンにはなったけど。(^^♪ これは10月29日に参加した「再度 伊達なマラニック」で歩いた「青葉の森緑地」の管理センターにあった作品。木の葉や木の実の形をくり抜いて作った仮面。きっとハロウィンを意識してのものだと思うのだが。 これは「青葉の森緑地」の手前の道路わきに飾ってあったカボチャ。ここで新潟のTさんがおどけたポースを取ってくれたんだよね。 ほらね。これがカボチャの全体像。結構たくさんあるでしょ。まあ中をくり抜いてないので、きっと食べられるだろうけどね。 カボチャだけでは持たないので、我が家の庭の小菊を載せてみたよ。 ここからは暫く画家の草間彌生さんの作品を載せますね。彼女は「カボチャ好き」で「水玉好き」。ずっとこれをモチーフにして来た人なんだよね。それで87歳(たぶんそうだったはず)になった今でも、飽きずに描き続けているんだよ。今年は文化勲章を受章したね。それで何かに使おうと思って、カボチャの作品を幾つかネットで探しておいたってわけ。まあハロウィンとは直接関係ないんだけどね。 こんな風に、作品が海岸や街の中に飾られているのってすごいよね。 こうして見ると、彼女は実に色んな色のカボチャを描いたり創ったりしたんだねえ。これはほんの一部。正直言って私はあまり彼女の作品が好きじゃなかったけど、いやいやなかなか素敵。立派なアートですよね。 ここでまたまた我が家の小菊が登場。今度は黄色い花ですが。 いかがです?11日遅れのハロウィン、楽しんでいただけましたか~? ハロウィンは元々アイルランドのケルト族の冬を迎えるためのお祭りなんですってね。それがこんな風に世界に伝わったんだねえ。そうそう、そういえば北欧スカンジナビアの冬至のお祭りが、キリスト生誕の祝いと一緒になって今のようなクリスマスになったと聞いたことがあるけど、ご存知でしたか~? では、来年のハロウィンまでまたね~!!さよなら。さよなら。さよなら。 さて、今日はカボチャコロッケでも食べたいなあ。
2016.11.11
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宮城県多賀城市にある東北歴史博物館で開催されていた特別展『アンコールワットへのみち』の続編で、今日は第2回目です。展示場内は撮影が禁止されているため、撮影可能な場外のパネル、パンフレットなどを撮っています。 参道の両側にある石像が、まるで灯篭のように見えますね。 西参道から見た中央祠堂。アンコールワットはカンボジアの北西部に位置するヒンズー教の寺院建築として12世紀前半に30年かけて作られました。日本では平安時代の末期に相当します。その後で放置され、16世紀に発見されてから仏教寺院として再度修復建立されました。アンコールトムと共に世界文化遺産に指定されています。 岩を彫って造られたアンコールワットの巨大建築物。見事な装飾です。 急こう配の丘の上にそそり立つ仏塔。 象の頭を持ったガネーシャ(左)は本来ヒンズー教の神です。この遺跡ではヒンズー教と仏教が混在しています。 熱帯に近いこの地では、放置するとたちまちジャングルに変わってしまいます。 この貴重な遺跡も内戦の際は戦場になりました。そして銃弾によって遺跡は傷つき、多くの仏像が破壊されたのです。戦後日本の石工が現地の青年を指導し、現地の石を使って修復工事を始めました。その苦労が実って、遺跡は徐々に本来の姿を取り戻しつつあるのです。 アンコールワットとは王都の寺院と言う意味です。昔はここにクメール王朝の都が置かれ、大勢の人が住んでいました。遺跡の周囲には立派な水路も造られています。それが放置されたのは、渇水で飲み水が不足したからでしょうか。数百年もの間、この遺跡はジャングルと化していたのです。 ジャングルを切り開くと、その中から見事な神殿が出現したのですから驚いたでしょうね。 仏塔は理想郷を表していたのでしょう。江戸時代ここを訪れた日本人が墨で書いた痕が残っているとか。きっと彼はこの地を「祇園精舎」だと思ったことでしょう。 精密なリレーフ(浮彫)ですね。さすがは世界文化遺産です。 画像がはっきりしませんが、牛車に乗るのは王様でしょうか。 石に刻まれた大勢の女神の姿です。 こちらは踊る女神たち。何だか愉快な姿ですね。 世界文化遺産のアンコールワットはカンボジア観光の目玉。世界中から大勢の観光客がやって来ます。 長い内戦が終わって、人々の暮しは再び平和を取り戻しました。農村部に埋まっていた多くの地雷も日本などの協力で取り除かれたと聞きました。 石の塔は巨大な仏の顔です。インドから伝わった仏教は、スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオスと共に、南伝の上座部仏教(小乗仏教)として釈迦の教えが今も純粋な形で維持されています。一度は僧侶になることも功徳の一つであり、僧侶の毎日の托鉢にも庶民の熱心な協力が見られます。 これに対してインドからチベット、中国、ベトナム、朝鮮、日本へと伝わった北伝の大乗仏教は仏典に対する各種の解釈が認められています。 左側は蛇の神。これが日本に伝わると龍神、水の神に変わります。また全体の形が仏像の後にある「光背」になったとの学説があります。右側の「狛犬」も日本のものと違って野獣に近そうな感じですね。 これはカンボジアの国旗です。中央にアンコールワットが描かれています。きっとカンボジア国民に愛され、その心に深く刻まれているのでしょうね。<完>
2016.10.14
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9月の半ば、私は宮城県多賀城市にある東北歴史博物館を訪れました。ここで開催中の特別展『アンコールワットへのみち』を観るためです。会場内はもちろん撮影禁止なので、看板やポスター、パンフレット、撮影しても良い会場外のパネル、カンボジアの土産物などをデジカメで撮りました。初回の今日はカンボジアの土産物などを中心に紹介しますね。 これが東北歴史博物館の正面。JR東北本線国府多賀城駅のすぐ傍にある洒落た建物です。 これが特別展の大看板。アンコールワットや仏像が見えるだけでも興奮しますね。 アンコールワットのシルエットがくっきり。これはクッキーみたいです。異国情緒に惹かれますね。 カンボジアの民族舞踊。国民はクメール人が86%で公用語はクメール語。9割以上が仏教徒です。 子供たちの少し恥じらう表情が可愛いですね。人口は1470万人で、ベトナム人が5%、中国系が5%、それに4%の少数民族が混じっています。イスラム教徒も4%ほどいます。 アジアゾウを自由に操る象使い。カンボジアは立憲君主制国家。ベトナム戦争当時から内戦が続き、多くの国民が犠牲になった悲しい歴史を持っています。 街中の風景。どうやら輪タクの運転手は道端に車を停めて、昼寝をしてるみたいです。 大きなビルを背後にした街中の仏教寺院。日本の寺院とはずいぶん違いますね。 市場で売られている食料品。植物の種、豆、タガメのような昆虫も立派な食材です。 アンコールワットの写真でプラスチック製。観光客用の土産品でしょうね。 ひび割れた土産品。こんなちゃちな品を買う人がいるんだろうか。 植物の葉などで作った箱みたいですね。いかにも軽そうです。 これも樹皮か乾燥した葉で作った箱みたいですね。 どうやらマンゴーの木で作ったお椀のようですが・・。 布製のポシェット。金色の象が何ともファンタスティックですね。さて、私は博物館が大好き。だって飛行機に乗らなくても、外国の様子がわかるのですから。 特別展の看板やパンフレットから撮影。これでも十分興味が持てますね。 特別展の大看板。私が博物館に行ったのはもう特別展が終わる寸前でした。 遺跡の前に放たれたヤギ(左)と特別展の幟(のぼり:右) アンコールワット遺跡の朝日と夕日。これは私が勝手にそう思っているだけなのですが。 <続く>
2016.10.13
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誤解を恐れずに言えば、日本国憲法第9条が受賞しなくて良かったと思う。ノーベル平和賞の話だ。どうも憲法9条が受賞できるよう画策してる人たちがいるみたい。「人」でないものが受賞の対象になるのかは知らない。だが「間違って」受賞したら困ることも生じるだろう。もう自由に改正することが困難になるためだ。憲法や規則は改正の余地を残すのがベスト。私はそう信じて已まないのだが。 同賞を受賞したオバマ大統領。だが彼が逡巡してるうちにロシアはクリミヤ半島を我が物にし、中国は南シナ海を軍事基地化した。そしてパレスチナとイスラエルの戦いは今もなお収束しない。彼らも平和賞受賞者だ。 「もしここに1本の鉛筆があれば。もしここに1冊の本があれば・・」。銃弾で頭部に重傷を負いながらも、女子教育の必要性を世界に訴えたパキスタンの少女マララさん。彼女の懸命な演説が世界の人々に深い感銘を与えた。世界中の大人たちはもっと恥じるべきだ。 何年か前、私はブログである人から村上春樹の小説が面白いと読書を勧められた。なんでもノーベル文学賞の有力な候補者のようだ。2,3冊読んだがあまり面白くない。同賞受賞者の大江健三郎の小説など、文章が堅苦しくて全く面白くない。ノーベル文学賞は恐らく読んで面白い小説ではなく、人類への寄与が判定の基準なのではないか。私にはそんな風に思えた。 私が好きな作家は司馬遼太郎や吉村昭。特に彼らの歴史小説が私の興味を引く。司馬遼太郎の場合は紀行文も良い。彼らに共通してるのは歴史の本質や人間の本質を良く理解していること。歴史は人によってしか作られないし、それぞれの民族が住む地域によって、色んな制約もあるだろう。文化もまた然り。人と土地の関係は宿命と思うしかないものだ。そして彼らの描く世界から、先人が歩んだ道の険しさをも知ることが出来る。 ノーベル医学・生理学賞、物理学賞、化学賞など自然科学分野の受賞者は、いずれもユニークな性格の研究者が多いようだ。きっとそれがユニークな研究に繋がるのだと思う。もし科学者が皆同じような研究をテーマにしていたら、人類の発展はなかった。色んな分野に興味を持ち、長い間それを研究の対象とするうちに何らかの法則を見出す。そんな研究者たちの姿が脳裏に浮かぶが、偶然そんな場に遭遇する幸運の持ち主も稀にいるのだろう。 今回ノーベル医学・生理学賞を受賞されることになった東京工業大学栄誉教授の大隅良典博士もユニークな方。お酒が大好きで、70歳を超えた今でも若い学生たちを指導している研究者だ。若い時からへそ曲がりで、人と同じ研究は絶対しなかった由。きっと自分なりの信念と視点を持ち続けていたのだろうね。偉くなる人はどこか違うのだ。白い髭を蓄えた彼は、とてもおおらかで温かい心の持ち主のようだ。 瀬戸内寂聴さんのことで奇異に感じたことが3つある。最初は彼女が小保方晴子さんを励ましたと言う女性週刊誌の話。科学者失格の烙印を押された小保方さんを、94歳と言う高齢で病み上がりの尼僧が励ます気持ちは良く分かる。宗教者としての想いもあったのだと思う。だが、小保方さんが世間からバッシングを受けたのは、人間としてではなく科学者としての資質の問題だったのだが。 2つ目の出来事は、東京都知事選で彼女が鳥越俊太郎氏を支持したこと。誰が誰を応援しようと自由だが、私は何か勘違いしてるなと感じたのだ。著名なジャーナリストで言うこともそれなりにまとも。だが都政に対する何らのビジョンも持ち合わせていなかったし、女性に対するセクハラ行為は許せないものがあった。 3つ目はつい最近死刑制度反対の弁護士団体に対してビデオメッセージを送り、その中で「まだ殺したがる馬鹿ども」との表現を使ったこと。殺人犯の人権も大切だろうが、何の罪もないのに犠牲者となった方の遺族の気持ちを踏みにじる行為は許されない。高まる抗議に団体は遺族に対して謝罪を表明したそうだ。きっと人には様々な立場があることを、年老いた尼僧は忘れてしまったのだろう。 自分の子供が保育所に入れなかったことでブログに「日本死ね!」と書いた議員もいた。「待機児童」が多いのが入れなかった原因だが、この議員さんの「持ち点」は他の家庭よりも低かったと聞いた。議員なら世の中を動かす他の方法もあっただろうが、何と短絡的な思考の持ち主なのだろう。 短絡的と言えば山本太郎国会議員や都知事選に立候補しようとした石田純一氏も、私には同じように思える。最近はTVのワイドショウで面白おかしく政治を報じている。国民の関心も高まって良い一面、問題点を冷静に判断できない弊害もあろう。TVは「視聴率が増えてなんぼ」の世界。「原発」や「米軍基地」問題点なども、自分の頭でもう一度整理し直す必要があると私は思うのだが。 昨日はアメリカの次期大統領候補者による2回目の公開討論会があった。なんでも史上最低の候補者同士と言うのが、彼の国での評判らしい。17年間税金を払わず、さらなる女性蔑視の発言が暴かれたトランプ氏。個人メールを公用で使用したり、中国の要人から多額の献金を受けていたヒラリー女史。共和党議員の中にはトランプ氏を候補者から下すべきとの声も出始めた由。 アメリカの弱体化が世界に及ぼす影響はとても大きそうだ。北朝鮮の「恫喝的行為」も、中国の「異常な強硬策」も、みな弱くなったアメリカの姿を知ってるからなのだろう。きっと日本も今までのようには行かないのではないか。「依存」から「自立」への変容が求められているのだと思う。 先日珍しい形の風力発電機を見た。これまでの風車型とは全く違った箱型の羽根。風車型は暴風に弱く、台風来襲時には羽根が壊れないよう止めていたそうだが、新しいタイプの発電機は台風でも壊れない頑丈さ。発明したのは日本の中小企業と聞いた。人と違った発想とそれを生かす技術力。今の日本に求められるのは、きっとこのような企業なのだろう。自然エネルギーのさらなる開発に期待したい。
2016.10.11
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<イタコとユタ その2> 私がお会いしてお話ししたイタコさんはこの方で、宮城県出身だそうだ。子供の時から霊感が強く、人が見えないものが見えた由。成人してイタコさんについて修行され、ご主人を亡くされた後は、開山期間中は盛岡出身のイタコさんと一日交替で恐山にいるとのこと。 降霊(口寄せ)は一霊につき4千円と壁に張られていた。遠くは沖縄からも来られ、ユタのことも知っていた。お話を聞いたのは30分ほど。とても貴重な体験だった。 このシリーズを始めるに当たって、ネットで画像検索をした。ヒットした一枚がこれ。再度名前で検索すると盛岡の方らしい。恐らく私が会ったイタコさんと交代で勤めているのはこの方だろう。かつて恐山には20名を超えるイタコがいたが、今はたった3名と聞いた。昔は盲目の方が多かったそうだが、現代のイタコさんは携帯電話を使うモダンな方だった。 こちらの写真は昨年の一人旅で訪れた「青森県立郷土館」の民俗コーナーに掲げられていたもの。どうやら「口寄せ」の最中で、亡くなった方の霊を呼び起こしているところ。かつては民間宗教の一種で、「お山信仰」や「おしら様信仰」とも関係してると聞いた。だが現在は恐山の一角にある修行棟に常時(降雪期の閉山中は除く)常駐していた。 これに対して沖縄のユタは霊感の強い人が自然発生的に就くようで、「探し物」などの相談にも応じる一般的な職とも思える。それだけ沖縄ではユタが暮らしに関わっていたのだろうし、貧しさゆえにインチキも紛れている理由なのかも知れない。 写真は青森県立郷土館で撮影したイタコの所持品。お経、祈祷の際に弦を鳴らすための弓、数珠などが見える。弓はアイヌの儀式にも通じるものがありそうだ。 エイサー ここで沖縄の言葉と東北の言葉を比較してみたい。 (女) 東北:おなご 沖縄:いなぐ (イタコ) 東北:いたこ 沖縄:ゆたぐわー (芋) 東北:いも 沖縄:うむ 言葉の響きから、元は一緒の語源だったことが推定出来よう。2段目。東北の「こ」も沖縄の「ぐわー」も可愛いと言う意味の接尾語だ。3段目。芋の古語は「うも」で、本土ではこれが「いも」に、沖縄では「うむ」に変化したと考えられる。琉球語が日本語の古語に近く、一方言と考えられるのは、共通の語源を持つためだ。私が沖縄に赴任した時に「古い日本」を直感したのも、きっとそのためだろう。 再び東北の民間信仰に話を戻す。写真はおしら様。ご神体は桑の木を削って作り、その上からきれいな布を被せてある。2体1組で、1体は馬か男。もう1体は娘の姿をしている。主として岩手県、青森県で農業の神、蚕の神、馬の神として信仰されている。この祀りにはイタコも関わっていたようだ。この写真も青森県立郷土館で昨年撮影したもの。 最後に青森県立郷土館にあった「祭文語り」の写真を載せておこう。これは門付芸、大道芸の一種で、ほら貝を吹きながら「説教祭文」を語るという芸能。江戸初期には三味線を伴奏に歌謡や浄瑠璃を取り入れた芸能となり、浪曲の源流となったそうだ。琉球王朝時代の叙事詩「おもろさうし」も本来は歌謡で、節をつけて歌っていた由。<続く>
2016.09.26
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<イタコとユタ> 平成元年4月。私は沖縄に赴任した。東北生まれの私にとって、見るものが全て珍しい物ばかり。だが最も強く感じたのが、沖縄には既に「内地」が失った日本の古い姿が今も色濃く残っていると言う実感だった。特に言葉や宗教に関してだ。 写真はノロ。漢字で書くと祝女。内地だと巫女(みこ)に相当するが、沖縄では普通の小母さんやお婆さんがその職を担っている。かつて集落の人々は、神に仕える彼女らの神託に従って行動した。今でも離島や地方ではその傾向が色濃く残っている。 かつてのノロの姿 言うならば、卑弥呼が今の時代にもまだ生きていて、暮らしの指針になっていると思えば良い。琉球王朝時代はこのノロの頂点に立つ聞得王君(きこえおおぎみ)が神事を、そして王が政治を担当し、それぞれ密接な関係にあった。まさに卑弥呼と男弟との関係にそっくりで、祀りと政治は共に「まつりごと」だったのだ。ノロは祝詞(のりと)、呪うの「のり」や「のろ」と同じ語源を持つ古語だと分かった。 崇元寺跡地 ノロもそうだが沖縄には「原始神道」が残されている。祈りの対象は大きな岩や大木、泉、海、山や洞(ほこら)など。つまり大自然そのものだ。ある時浦添城の裏山から海に向かって祈る老婆の姿を観て、私はそのあまりの厳粛さに言葉を失った。沖縄では海の彼方に理想の国「ニライカナイ」が存在すると信じられている。つまり極楽浄土だ。 今帰仁城 沖縄の高地には必ずと言って良いほど「御嶽」(うたき)がある。これは山上に神が降臨したと言う北方系民族共通の観念だ。内地の山岳宗教と同じ思想なのだが、沖縄ではこの他城(ぐすく)、拝所(うがんじゅ)なども聖地として崇められ、大きな城の領域には必ず御嶽があった。つまり城もまた祭政一致の場所だったのだ。私は風葬墓なども含めてそんな聖地を50か所以上訪ね、とても貴重で不思議な体験をした。 神アシャギ これは「神アシャギ」と呼ばれる小屋。アシャギとは「足上げ」つまり上がって休む場所。ここは神様が憩うための小屋なのだ。内地で言えば神社の原型に当たるのかも知れない。私は沖縄本島北部にある伊是名島で神アシャギを見たが、それが唯一の経験だった。この島は第二琉球王朝の始祖である金丸、後の尚円王が生まれた島で、美しく清らかな島の景色が今でも忘れられない。 ユタ ところで沖縄には「ユタ」と呼ばれる人がいる。男性の場合も女性の場合もあるが、霊を呼び寄せる人だ。沖縄では昔から何かの拍子にマブイ(魂)を落とすことがあると信じられて来た。そのマブイを探し当てるのがユタだ。私は直感的に感じた。これは恐山のイタコと同じだなと。ただし、沖縄のユタの中にはインチキで人を騙す者がいるとも聞いた。 恐山に行きたい。その願いが今回ようやく叶った。そして本物のイタコさんとも会うことが出来たのだ。それだけではなかった。私が出会ったイタコさんは写真を撮らせてくれ、しかも話をしてくれたのだ。私にとっては、まさに奇跡的な出来事だった。<続く>
2016.09.25
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<恐山・神秘の扉> 「恐山の冷水」の石仏 今年の6月末、私は東北の歴史を訪ねる一人旅で岩手、青森、秋田の3県を訪れた。旅の3日目に訪れたのは下北半島の中央に位置する恐山。ここは古来東北の民に、死んだら人の魂は恐山に帰ると信じられてきた聖地で日本有数の霊地でもある。峠の「恐山の冷水」で迎えてくれたのが、この苔生した石仏だった。 峠を下り切ると、目の前に青い湖水が見えて来る。これが宇曽利湖(うそりこ)。「ウソリ」はアイヌ語で「窪んだ地」の意味。周囲10kmのカルデラ湖は、確かに大きな窪みには違いない。異臭がするのはここが活発な火山運動をしているため。強烈な硫黄の臭いが周囲に漂っている。 宇曽利湖に流れ込む通称「三途の川」に赤い橋が架かっている。するとこの先はもう地獄という訳なのだろう。11月から3月まで、この地は閉ざされて人は近づけない。ここは豪雪地帯でもあるのだ。 入山料500円を支払って恐山の境内に入る。目の前に荒涼たる風景が広がっている。ほほう。ここが日本を代表する北の霊地か。高野山、比叡山とこの恐山は、日本の三大霊地とも言われている。境内に硫黄臭が漂っている。ここを訪れた観光客や信者のための浴場が4つもあり、私も「話の種」に入って見た。とても熱い天然温泉だった。 寺院の先から地獄に向かう。この山を開いた慈円大師円仁が座禅を組んだ石もあった。地獄からは異臭が漂い、地下にはヒ素や硫化水素などの猛毒が眠っている。数十年前には火薬の原料である硫黄を採掘する本物の鉱山だった由。地獄には無数の石仏や石塔が建てられ、死者の霊を弔っている。地獄の向こうに小さく見えるのが宇曽利湖。神秘的な湖水の色だ。 湖に近づく。とても静寂な世界だ。この湖水は強酸性で、生物は特赦な魚であるウグイしか棲むことが出来ないそうだ。酸にも強い構造をしたウグイも、最近では極端にその数が減っているらしい。 ここは一際美しい浜辺で、「極楽浜」と呼ばれている場所。「地獄」と「極楽」が隣り合わせている不思議。死後、人が極楽に行くか地獄に落ちるかは、三途の川の金次第なのだろう。だが観光客はそんな心配もせず、無邪気に浜辺で遊んでいた。 だが私が恐山を訪れたのは、決して観光のためではなかった。恐山に対する長年の疑問を解決するため、恐山を自分の目で実際に確かめるためだった。 少々見難いが、これはかつての「恐山大祭」の写真。毎年8月のお盆の頃、全国からここに大勢の人々が集まって来た。もちろん死んだ家族の霊と対面するためだ。死者の霊は恐山に集まっている。その霊を呼び寄せる霊媒者が「イタコ」さん。境内には10名を超えるイタコがいて、集まって来た人々の願いに応じ、死者の霊をあの世から呼び寄せたと言う。これがいわゆる「イタコの口寄せ」だ。 この日の恐山は前線の通過に伴って、強い雨が3度降った。そしてその後で奇跡的に空が晴れた。周囲10kmの宇曽利湖の全容がはっきりと見え出した。アイヌがかつて偉大なる窪地と呼んだこの地は、巨大なカルデラ湖。そしてまだ雲に閉ざされている周囲の山々は外輪山。つまり恐山は典型的な火山地形なのである。 北東北の歴史を訪ねる一人旅。その3日目に訪れた恐山。その最後の最後に、私は偶然一人のイタコさんと対面して写真を撮らせてもらい、少しだけお話をすることを許された。私は死んだ両親の霊を、あの世から彼女に呼び寄せてもらうことはしなかった。私の専らの関心は、長い間胸に秘めて来た学問的な関心それだけだった。<続く>
2016.09.24
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<イタコさんとの対話> 恐山の寺院を巡りながら境内の「薬師の湯」にも入り、その後広い地獄巡りをしてたくさんの石仏を見た。激しい雨にも遭遇し、宇曽利湖の美しい浜辺「極楽浜」へも行った。また高台からは荒涼たる風景も見られた。そうして一巡するとお寺の入り口付近に戻った。 トイレに入ろうと思った建物が「供養の道場」。ここには畳敷きの大広間があり、寺が用意した法衣(半纏)が吊るされてあった。廊下には張り紙があり、その奥にどうやらイタコさんの部屋があるようだ。トイレは一つしかなく、大勢の女性が順番を待っていた。思い切ってイタコさんの居る方に行って見る。 部屋の中に携帯電話を操作するイタコさんの姿が見えた。今時のモダンなイタコさんに少々驚く。「写真を撮らせてもらって良いですか」。思い切って声をかけるとイタコさんが自分で戸を開けてくれた。若々しく優しい表情の女性だった。 緊張しながら1枚だけ写真を撮った。帰宅後写真を整理した時、目の処理をどうすべきか悩んだが、彼女が目を瞑っていたことに気づいた。恐らくは同じような注文があり、彼女はその都度瞑想する姿を撮らせていたのだと思う。眉間に傷の跡があるのを私は見た。壁には名前が張ってあり、「一霊4千円」と料金が書かれていた。 写真を撮らせてもらったついでに、イタコさんへインタビューも試みた。彼女はさほど嫌がる様子もなく、私の質問に答えてくれた。現在恐山にはイタコは3名しかいないこと。これは意外だった。かつては20人ほどいたようだ。出身は宮城県。私の2番目の職場の上司と同じ町の生まれとのこと。盛岡出身のイタコさんと交代で朝は6時前からここへ来、6時から祈祷していること。 子供の時から色んなものが見えた由。ただそれを言うと頭がおかしいと思われるため、他人には話さなかったそうだ。若い時からイタコさんについて修行し、普通に結婚もし、子供もいること。夫は既に亡くなり、家は子供に任せて恐山が開いている期間はずっとこちらでホテル住まいしている由。霊能者でありながら何故夫の早死に気づかなかったのか不思議だが、質問はしなかった。 かつての大祭典 降霊は仏の力を借りるもので、自分では何を話したのか一切記憶はない由。霊を呼び寄せた後は疲労感が激しいと彼女は言う。客は全国から集まり、遠くは沖縄や長崎の五島列島からも訪ねて来る由。私は沖縄の原始神道の話や同じ降霊をする沖縄の「ユタ」のことも話したが、彼女も大凡は知っていたようだ。 恐らく「イタコ」も「ユタ」も語源は同一のはずだ。イタコの「コ」は接尾語だから本来の形は「イタ」になる。きっと古い日本語の原型が潜んているのだと思う。 穏やかな彼女の口調が急変したことがあった。私が「イタコとゴゼの違い」を尋ねた時だ。「イタコはゴゼとは全然違います」。彼女は憤然と答えた。ゴゼは盲目の旅芸人で、かつては日本の国内を流浪していた。中には人間国宝となり105歳で亡くなった小林ハルさんのような人もいるが、春をひさぐ女性も多かったようだ。彼女もそれを知っていたのだと思う。 水上勉の小説『はなれゴゼおりん』(ゴゼは漢字だが変換不能)が昭和52年(1977年)に篠田正浩監督によって映画化されている。主演は岩下志麻だった。 「3度目の正直」で初めて訪れた恐山。長年の夢を叶え、かつイタコさんから直接話を聞くという大きな収穫もあった。大興奮の貴重な経験だった。全ての予定を終えた私は食堂で700円のカレーライスを食べ、1時ちょうどのバスに乗ってJR下北駅まで戻った。空は朝と違って、きれいな青空に変わっていた。特徴がある釜臥山が駅から見えた。<続く>
2016.07.14
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<恐山ってどんなとこ?(2)> さて皆さんは「恐山」と聞いて、一体何を思い出すだろう。恐らくは不気味で暗くて怖いイメージがあるのではないか。有名なのは「イタコの口寄せ」。つまり死者の霊を呼び起こして、その声を聴くと言う不思議な風習だ。私自身もそんな不気味な印象を、ここ恐山に対して抱いていた。 私は恐山に来たいと思ったことが2度あった。最初の時は夏の大祭へのバスツアー。例の「口寄せ」が見られると思って申し込んだのだが、私以外は全部女性だったようで、ツーリストに断られた。車内泊の弾丸ツアーだったのである。 2度目は東北の秘境を巡るバスツアー。秋田の男鹿半島、津軽半島の竜飛岬、そして下北半島の恐山などが行き先になっていた。これは良いと心が躍ったのだが、一緒に行こうとした妻に断られてあえなく断念。だから今度が3度目の正直。ようやく北東北の歴史を辿る一人旅で、長年の夢を実現出来たのだった。 「怖いもの見たさ」と言う言葉があるが、恐山に関してはそれが正直な気持ちだ。今回は自分の目で確かめ、自分の感覚で実感するのだ。荒涼たる北の大地に、一体何があるのか。 この地方の人は遠い昔から、人が死んだら霊魂は恐山に帰ると信じていたようだ。そして夏の大祭には、亡くなった人の声をもう一度聞きたいと願う人々が全国から多数訪れることも事実だ。 結論だけ先に言おう。わずか3時間ほどの滞在中に、仏教施設としての恐山、民間信仰としての恐山を知り、山から宇曽利湖までの広い広い境内を散策した。そして思いがけずイタコの女性と会って話もし、何と写真まで撮らせていただいた。それに硫黄臭の強い温泉へも入ることが出来たのだから、それ以上望むのはもう無理なほどだった。 さて、どんな風に恐山を紹介すべきか迷っている。写真は100枚以上撮った。十分な数で、順番に載せたらここだけで4、5回かかると思う。そんな訳で、少し悩んでいた私だった。でもこんな風に少し写真を載せ、少し話をする。それだけでも恐山を語る良い「準備運動」になるような気がしている。 ちょっと分かり難いが、これが境内図。パンフレットから写させてもらった。主に寺院の施設が集中している部分(ここに入山した人のための温泉も3か所ある)と、いわゆる「地獄」と称する場所とがある。山の上には奥の院もあるようだが、そこまで行くだけの時間はなかった。昨日も言ったがここは火山地形そのもので、「地獄」では蒸気や噴煙を噴き上げている箇所も多い。 これは恐山を開いたと伝えられる慈覚大師円仁自身が彫ったと言う座像。円仁は下野国(現在の栃木県)出身で、比叡山を開いた伝教大師最澄の弟子。唐に渡って仏教を学んだ高僧で、関東や東北一円の80近い古寺の開祖と伝わる人物だ。山形の山寺立石寺、岩手の平泉中尊寺、そして宮城の松島瑞巌寺も彼が開祖と言われている。だが疑い深い私は、それにも疑問を持っていた。 、 これは慈覚大師円仁が座禅を組んだと言われる石。これを境内の奥で観た私は、すぐさま疑念が湧いた。こんな傾斜のきつい石の上に座れる道理がない。たちまち体が苦しくなってしまうのが人間の体。それに禅宗が日本で起こったのは鎌倉時代だから、事実と異なるのではないか。罰当たりの私はそんな風に心の中で思っていたのだ。 これが広い境内の一部で、この奥に座禅石がある。写真を見てもお分かりのように、もうもうと噴煙が上がっている。これは水蒸気や硫化ガス。風向きによっては危険な場所。地下を掘れば猛毒のヒ素や硫化水素が出る。ガスが発火しないよう、ここではろうそくや線香、煙草は厳禁とされている。 80もの寺の開祖となったと言う円仁。だが80もの寺を建てた訳ではなく、こんな環境の厳しい各地の山奥で修行を重ねた聖人と考えたら頷ける。明日からは恐山の風景を順次紹介しよう。今日は「チャリティーマラソン」参加のため朝から出かけ、帰宅は夕方になる予定です。いただいたコメントへの返事とブログ友の皆さんへの訪問は、それ以降になりますのでよろしくね。ではでは~♪
2016.07.09
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<古き良き遠野> たくさんの川が流れ込む遠野盆地では、古くから人々の暮らしが営まれて来たのだろう。一説によれば、遠野の「とう」はアイヌ語の「沼」だと言う。中学校では「ペンケトウ、パンケトウ」を知った。これは阿寒湖の付近にある小さな沼。また尾岱沼(おだいとう)もアイヌ語の地名で、いずれも北海道の東部にある。また遠野の北(写真の上方)に聳える早池峰山は、昔から信仰の対象となった聖山だった。 写真の上の方は蕨手刀(わらびてとう)。鉄製で、柄の形がワラビに似ていることからそう呼ばれる。古墳時代終末期の6世紀から8世紀にかけて東北地方を中心に製作され、全国で200点以上が出土しているが、このうち70点以上が岩手県内の古墳から発掘されている。恐らくこの地が古くから鉄鉱石や砂鉄を産し、かつ製鉄技術を有していたからであろう。縄文時代以前から人々がこの盆地で暮らして来たのは当然だ。 これは「金山(かなやま)稼ぎ」と呼ばれた江戸時代の鉱山労働者の姿だが、奥州藤原氏の栄華を支えたのも、古くからこの地方が金や銀を産出して来たためだ。「金売り吉次」はこれらの金を持って都に上り、宮中の貴族に提供した。そのせいもあったのかどうか、かつては蝦夷(えみし)の一族であった奥州藤原氏の末裔秀衡は、陸奥守に任命されたのだった。 これは盛岡駅構内で見かけた南部鉄器で出来た大鉄瓶。鋳物製だが、鉄や金属に関する技術は、こうして古代から現代に至るまで脈々と継承されている。 これは明治初期の遠野市内。もちろん道路は舗装されておらず、道の真ん中を流れる小川も生活用水として使用されていたのだろう。 こちらは茅葺き屋根の葺き替え作業。このような大掛かりな仕事は、たいてい共同で作業した。まだ「結」(ゆい)の精神が残っていたのだ。 こちらは祭礼の様子で、大勢の子供達が祭りに加わっている。寒冷地である遠野盆地での生活は決して豊かなものではなかったろうが、秋の収穫期には豊かな実りをもたらしてくれた神々に、こうして感謝の気持ちを表したのだ。 早池峰山は古代から霊峰として崇められ、修行の場でもあった。登山道が四方にあり、麓にはそれぞれ早池峰の神を祀る神社があった。これは伝統のある早池峰神楽の一幕である。特に花巻市大迫地区に伝わる神楽は、ユネスコの無形文化財に指定されている。 これも神楽の一幕。この地方に伝わる神楽には、日本神話にまつわる演目が多い。古代から徐々に支配が進められて来た東北の歴史を思わせるような内容で、とても興味深いものがある。 恐らく花巻市大迫地区の早池峰神社の神楽だと思われる。今でこそ花巻市に編入されているがかつては山深い山村で、伝統行事を伝えて来たのは貧しい農民だった。古代、山伏によってもたらされた神楽が、数百年間もの間農民の手によって守られて来た事実に驚かされる。山形県の「黒川能」も、長年農民によって守られて来た日本が誇る伝統芸能だ。 遠野の神楽面。上の段左から「山の神面」、「宇受売(うずめ=天の岩戸の前で踊ったアメノウズメノミコト)面」、「天照大神面」。下の段左から「山の神面」、「注連切(しめきり)面」、「恵比寿面」。 同じく遠野の神楽面。上の段左から「狂言面」、「年寿面」、「女面」。下の段左から「猿田彦(さるたひこ=天孫族を案内した先住民の神=アメノウズメの夫)面」、「女面」、「手力男(たじからお=天の岩戸を開けたタジカラオノミコト)面」。 同じく遠野の神楽面。左から「機織(はたおり)面」、「山の神面」、「山の神面」。山の神は春になると山から里へと下り、秋には里から山へ帰って行く豊穣神である。 鹿踊り(ししおどり)の衣装 鹿踊り(ししおどり)の演技 観光用ポスター1 観光用ポスター2 かつての「市」と、働く老婆 「猫えじこ」と呼ばれる猫専用の暖房具(わら製) 雪に埋もれる「南部曲がり家」。この伝統家屋では人と一緒に馬が飼われていた。家が曲がっているのは、常に馬の様子を観察出来るための工夫なのだ。 馬市の様子。藩政時代の盛岡藩では「里馬制度」があった。これは藩が農民に馬を貸し、農民はそれを育てるもの。成長した牡馬は馬市で売られ、その代金が年貢の代わりになったのだ。このようにして南部藩では馬が重要な産業として大きな収入源となった。また農民は馬を家族同様に扱った。「おしら様」など馬に関する民間信仰が生まれた背景は、こんなところにもあったのだろう。 駄賃稼ぎの図。馬は古くから運搬や農作業の重要な担い手だった。南部の馬は純粋な国産種ではなく、大陸産の大型馬の血が混じっていた。このため「軍馬」としての価値も高かったのだ。藩政時代、馬は遠野から各地に延びる街道を荷を担って運搬した。鉄道が未発達の時代、山中の農産物や鉱産物の多くが馬によって運ばれたことは確かだろう。 馬がこの地でどれだけ大切な存在だったかは、神社に奉納された絵馬を見たら一目瞭然だ。 民間信仰の「おしら様」も、実は馬と人間との深い関係が起源になっているのだが、詳しい説明は次の機会に譲ろうと思う。 わら製の神。今日も長々と書いたが、遠野で撮った写真はまだまだ多い。だがいつまでもここに留まっている訳にも行かないだろう。遠野の紹介は2巡目以降に譲り、明日は少し旅を急ごうと思う。<続く>
2016.07.01
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<角田駅の吊るし雛> 阿武隈急行角田駅の構内にあった飾り付けのコーナー。きっと角田市郷土資料館の牟宇姫持参の大名雛展示へ誘導する案内役を兼ねているのでしょうね。人口3万人余の小さな地方都市。朝夕の通勤、通学客が乗り降りする時間帯以外は乗客がほとんどおらず、構内は閑散としている感じでした。でもブログネタの収集には、却って好都合。私はここでも夢中になって写真を撮り続けていたのです。 美しい日傘の下にぶら下がっている飾り。特にお雛様でもないが、これでも吊るし雛と言うのでしょうか。分からないので便宜上「吊るし飾り」と書いておきますね。(注)ブログ友のちゃおりんさんがコメントしてくれて、これらはお雛様の季節に飾るため、「吊るし雛」で良いんだそうです。どうもありがとうございます、ちゃおりんさん♪ ほとんど無人の構内に、美しい飾りがたくさんあるのがとても不思議。 いかにも日本的な美だけど、ボランティアの方々の作業は大変だったはず。 吊るし雛をアップ。 こちらも同様ですが、鮮やかな緋毛氈が背景になりました。 売店から観た飾り付けコーナー。 観光協会や売店のあるコーナーにもたくさんの吊るし雛がありました。こちらはどうやら売り物みたいです。 金魚なのか、それともおめでたい鯛なのか。 あなたは一体だ~れ? 縦に2つ並べてみました。 これは巾着かな? これってチューリップかもね。 またまた縦の2連発。 金魚や手まりのように見えますが。 こちらは張ってあった写真です。美味しそうな果物に囲まれた人形の子供達。 こちらも可愛い人形の子供達の写真。 (注)これもちゃおりんさんが、作り方が飛騨地方の「さるぼぼ」に似てると教えてくれました。(顔は違いますが)私もそんな風に感じたけど、自信がなかったので。またまた、どうもありがとうございま~す♪ 牟宇姫のお雛様の絵です。やはり角田の観光案内なんですねえ。あの大名雛はひょっとして日本一の大きさだったのでしょうか。 角田市に住んでいる大学時代の親友。お互いの結婚式の司会を務めたっけ。彼からの年賀状には「会いたいね」と書かれていた。でも昨年の暮れに入院して3度目の不整脈手術を受けたことを寒中見舞いに書いたら、その後の連絡はない。彼は出世し、天下りを繰り返して70近くまで名誉職にあった。一方の私は前職を59歳で辞職後はビル管理会社でパートの肉体労働者をしていた。あれも人生の良い勉強にはなったけどね。 阿武隈川の堤防沿いを走る、ここ角田市の「阿武隈リバーサイドマラソン」。関門通過時間の厳しかったハーフマラソンだが、私は3回完走している。でもウルトラマラソンが主体だった私には、ハーフマラソンでは距離が短過ぎるし、スピードが速過ぎた。それに練習でも走れる距離にお金をかける気持ちがなかったのも事実。多分この市に来ることはもうないだろう。そんな思いで、阿武隈急行に乗り込んだ私でした。 さようなら角田市。さようなら牟宇姫のお雛様。沿線から見える南蔵王の山々は、帰路もやっぱり雲に隠れていたんだよね。<完>
2016.03.12
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<角田駅構内の飾り付け> 牟宇姫のお雛様や石川家伝来の武具などを見終えて、角田市郷土資料館から駅へと向かいました。次の電車が来るまでにはかなりの時間があったのですが、ともかく駅へ行くことにしたのです。その途中、武家屋敷のような家がありました。かつての城下町を偲ばせるような雰囲気です。 阿武隈急行角田駅 20分ほど歩いて再び角田駅へ。外観は堂々として立派なのですが、待っている乗客は数人しかいません。平日なのに女子高生が赤ちゃんをあやしていました。何だかとっても不思議な光景でした。 構内で赤子をあやす女子高生 田舎の駅の不思議な景色 ベンチに座ってお握りを食べていると、何かを飾っているコーナーが。ふ~む。あれは一体何だろうね? 吊るし飾りと雛壇が見えました。 さらに近付くと椿の花が。 折り紙で作った紅椿も素敵ですね。 一輪だけ混じった白椿も良い感じです。 こちらはポトンと落ちた椿の花かな。 こちらは白椿だけの飾り。これも清楚で良いですね。 落下した白椿の花弁。 白椿命あるごと見へねども げに美しき紙の花なり 紙風船と紙の花。 中にはこんな黒い花弁の花も。ちょっと不思議な感覚です。 そしてここにも紙雛が飾られていました。 制作したグループは、郷土資料館の紙雛を作ったのと同じ団体でしょうか。 窓ガラスに貼られていた紙雛です。 女雛も窓ガラスに貼られていました。 紙雛の貼られてゐたる硝子窓 地方の駅の閑散として 雛壇とお人形さん。 こちらは別の角度から撮ってみました。 顔を出して撮る記念撮影用のお雛様もありました。こんな風に写真を撮り続けていたので、案外待ち時間も退屈せずに済みました。<明後日に続く>
2016.03.10
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<蔵の美> 伊達政宗の次女牟宇(むう)姫が嫁入りの際に持参したとされる大名雛を展示していたのが角田市郷土資料館でした。ここは角田城主である石川氏の出入り商人、氏家家の邸宅跡です。敷地内には今でもたくさんの蔵が残されています。今日はそれらの蔵をご紹介します。 表通りに面した蔵です。角田はかつて阿武隈川の水運で栄えました。上流の伊達郡、信夫郡(共に福島県)などは幕府の天領であり、この城米を江戸に運ぶため幕府が治水家川村瑞軒に命じて、阿武隈川の改良工事を行ったのです。当時は角田にも船着き場があり、氏家家もその水運を利用して商売を行っていたのでしょう。 美しい「なまこ壁」が施されています。 伊達藩では藩祖伊達政宗の命により、積極的に土地開発を進めました。その結果毎年30万石程の余剰米が出たのです。これを茨城県の那珂湊、千葉の銚子経由で利根川に入り、水路を通って江戸に運びました。当時伊達藩は河川用の平田船を836隻、海洋用の千石船を500隻所有していたそうです。それを見た秋田の佐竹藩、青森の津軽藩、岩手の南部藩も東廻り航路で江戸に米を運ぶようになったのです。 邸宅の内側から見た蔵です。 伊達家一門筆頭格の石川家も明治に入ると生活が苦しくなり、城の建物や什器を商人に売り払います。その商人も、阿武隈川沿いに鉄道丸森線(現在の阿武隈急行)が敷かれ、水運が廃れると次第に活気を失って行きます。現在角田市の人口は3万人余。今でも減少し続けているのです。 敷地内の別な蔵です。 かつての城下町も、今では寂れた地方都市になってしまいました。かつての栄光と町の誇りを説明してくれた職員の態度からも感じましたが、高齢化と少子化、人口減少が進む地方都市の厳しい現状を思わざるを得ませんでした。 蔵の裏面です。 たくさんの収蔵品を収める蔵型の収蔵庫です。 見事な景観ですね。この一部が資料館として公開されています。 蔵の重厚感が良く分かりますね。 蔵の扉です。この部分は収蔵庫として利用されています。 収蔵庫の扉です。きっと火災にも強いのでしょうね。 その一部を拡大して見ました。単純ですが美しいデザインです。 長屋風に収蔵部分と公開部分が並んでいます。 蔵の内部。天井と梁が見えます。単純な構造ですが地震にも強そうです。 東から見た蔵(資料館)の裏側です。 南から見た蔵(資料館)の側面です。今日は折角書いた文章が、自分の操作ミスで全部消えてしまいました。2度目なので少々簡略してあります。<続く>
2016.03.08
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<現代雛と紙雛> 宮城県の南部にある角田市。角田市郷土資料館を訪ねたのは2月下旬でした。そこに角田の石川氏に嫁いだ政宗の次女牟宇姫が嫁入りの際に持参したと考えられる大名雛が飾られていました。(第1回)また、江戸後期の作と考えられる古今雛や、明治以降の作と考えられる芥子雛もありました。(第3回)今日は現代雛とボランティアの方々の手作りの紙雛をご紹介しますね。 広い部屋に現代雛が飾られていました。 男女のお雛様です。 お雛様の調度品はこんな感じです。 以下はこの博物館を支えるボランティアの方々の作品です。 手作りの作品ですが、どれも温かみがあって素敵ですね。 最後は立ち雛を描いた絵です。今日は写真の羅列で、ちょっと安直だったかも。明日は建物の紹介になります。<続く>
2016.03.07
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<旧氏家邸 ~日本建築の良さ~> 牟宇姫のお雛様が飾られていた角田市郷土資料館は、江戸時代からの御用商人だった氏家家の邸宅そのものでした。建物の一部は角田城から移築したようです。純日本調の木造建築は、至る所に美しさが溢れていました。今日はその建物紹介の第二弾です。 屋敷の塀と松の木です。 屋根の上には「煙出し」のような構造物が載っていました。 屋敷の側面です。阿武隈川の水運を使って商売をしていたようですが、堂々たる風格の屋敷です。 階段の手すりです。 階段の二階部分の吹き抜けです。 左側は階段傍の小さな納戸(物入れ)です。右は階段傍の明り取り用の窓です。 洒落た明り取りです。 鳳凰のデザインのある欄間です。 この欄間にも鳳凰がデザインされています。 菊などの花模様が施されています。 これは蔦(つた)の意匠でしょうか。 同じく蔦模様のある欄間です。 透け透けの超近代的な欄間です。 江戸時代の画家である谷文晁の南画が床の間に懸けてありました。これこそ貴重品ですが、無防備ですねえ。 障子の硝子を通して庭が見えます。 面白いので、その部分を拡大してみました。 障子と花瓶に飾られた梅の花です。 庭と塀のとても落ち着いた外観です。このシリーズでは、目下建物とお雛様を交互に紹介しています。<続く>
2016.03.06
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2月下旬のある日、私は宮城県南部にある角田市郷土資料館を訪ね、伊達政宗の次女牟宇姫が角田城主石川宗敬に嫁入りした際に持参したお雛様などを見学しました。優雅な大名雛は貴重な文化財なので撮影禁止。この写真はパンフレットのものを借用しています。 こちらは貝合わせ。これも止むなくパンフレットからの借用です。 伊達家の家紋の一つである「三つ引紋」が入った調度品。 こちらも同様ですが、さほどの物とは感じられませんね。 和室にはやはり生花がお似合いです。 牟宇姫のお雛様は江戸初期の作でしたが、別な部屋には古今雛も飾られていました。この屋敷のかつての持ち主であった氏家家に飾られていたものでしょうか。詳細は不明ですが、江戸後期の作のようです。 男雛です。 男雛のアップです。 女雛です。 女雛のアップです。 飾られていた古今雛の全容ですが、ほとんどの人形が欠けていて興ざめです。 五人囃子のアップです。 芥子雛(けしびな)の全容です。割と小さなお雛様です。「芥子粒」と言うので小型のお雛様を指すのでしょう。明治以降の作のようですが、優雅な雰囲気が漂っています。 こちらは男雛です。 そしてこちらは女雛。白い顔は蛤の貝殻を粉砕した粉で作るみたいで、光沢があります。 三人官女ほかのお雛様。 右大臣や左大臣など。 広い部屋に飾られたお雛様を、私はたった一人で見学していました。静かな一時でした。<続く>
2016.03.05
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<旧氏家邸を巡る1> 角田市郷土資料館にある「むう姫のお雛様」の紹介が早くも終わってしまったのに、後は何があるのと思われるかも知れない。それが結構あるんですよね。今日は建物を紹介したいんです。それもたくさん写真を撮ったので、何回かになりそうです。そればかりが続くと退屈するので、これからは色々混ぜようかなと思っているのです。先ずは古い建物の良さを味わってくださいませ~!! 道路側にある蔵の正面です。建てられた時代は不明ですが、今もしっかりしているように見えますね。資料館のある氏家家は、角田の殿様である石川家の出入り商人とのことですが、何の商売をしていたのかは説明がありません。 ボランティアの方の説明によれば、阿武隈川の水運で儲けたと話していました。昨年訪ねた丸森町の斎理屋敷(旧斎藤理助邸)の商売も阿武隈川の水運とも関係しており、具体的には塩や水、古着、古道具、薬、麻や布などの販売、養蚕と織物などを江戸時代に扱い、明治に入ってからは製陶や銀行、昭和には住宅建築と販売なども手掛けていたようです。蔵も10以上ありましたが、氏家家ではそこまで手広く商売はしてなかった感じですね。 左は門の裏側で、右は邸宅や門の説明です。この門がかつての角田城から移設したことも記されています。明治に入って廃藩置県が断行されると、武士の暮らしは急速に苦しくなります。伊達藩の一門も旧家臣を食わせるため北海道へ渡って開墾したりします。札幌市白石区、伊達紋別市などは伊達藩士が移住、開墾したため地名となりました。 屋敷内の井戸の跡と「つくばい」です。没落した武士階級は糊口をしのぐため、刀や道具類を止むなく出入り商人に売ったことでしょう。そしてあの華麗なむう姫の雛人形も、結局は商人の手に渡ってしまったのでしょうね。 玄関口付近 玄関口付近の様子 静まりかえった廊下の佇まいが素敵でした。 障子の内側は資料館の事務室になっています。 欄間と障子を通して自然光が差し込んで来ます。とても軟らかい明るさですね。 とても高い位置に神棚がありました。天井が高いのは、元々この建物がお城の一部だったからみたいです。 幕末の戊辰戦争で官軍に負けた東北の各藩では、武士は特に悲惨な目に遭いました。こうして城の建物や備品類まで商人に売らざるを得なかったのです。 柱時計と仏壇置き場です。 大きな戸棚が備えつけてありました。 だがその栄えた商家でさえも時代の波には勝てなかったようです。いつか商売は傾き、家屋敷は市の管理に委ねることになりました。こうして江戸時代から続いた豪商も、今は資料館(博物館)として公開されているのです。<続く>
2016.03.04
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「むう姫のお雛様は撮れますか」。私は尋ねた。「いや、フラッシュを焚くと困るので」。「それではフラッシュを焚かなければ良いのですか」。さらに尋ねる。「一人に許すと皆に許さないといけないんで」。返事はそんな風に変わった。ダメならダメと最初からそう言えば分かるのに、この廻りくどさは一体何だろう。観光案内所の人ではないな。学芸員ならもっと端的に対応するはず。となると、教育委員会関係者かも知れない。私はそんな風に感じたのだ。 電話の相手は角田市郷土資料館の方。地元紙にむう姫のお雛様のことが出ていた。ブログで取り上げるにはちょうど良いテーマなのだが、写真が撮れないとなるとどうなのか。そこで他の展示品のことなども聞いてみたのだ。 それから数日後、私は自転車でJRの最寄り駅に行き、電車を乗り次いで県南の小さな市へと向かった。槻木駅からは「阿武隈急行」の旅。単線ののどかな電車で乗るのは今回で3回目のはず。 車窓から南蔵王の雪景色が見えた。雪雲に隠れてぼんやりした山容。それもやがて見えなくなってしまった。間もなく角田市内へ入ったようだ。角田出身の先輩や後輩の顔を思い出す。彼らは2番目までの職場の関係者だったり、夜学の同級生だったりする。その後私は東京へ転勤し、さらに全国を転勤したため、皆若いころの顔のままなのだが。 大雑把だがこれが角田市の位置。ほぼ宮城県の最南端に当たる。人口3万人ちょっとの小さな市だ。 この市の目玉はロケットと梅干。変わった組み合わせだが、ロケットはJAXAの角田ロケットセンターと言う施設が市内に在り、梅が名産品と言うわけ。梅の花の適当な写真がなかったので、梅干しにした次第。郷土資料館への行き方は頭に入っているが、念のために駅前の地図で再確認してみた。 20分ほど歩いただろうか。駅前は閑散として何もない。そこから東へ向かい、市役所の角から南へと曲がった。その先に立派な蔵が見え、資料室の看板が立っていた。そこから横へ入ると昔のお屋敷が見えた。それをそのまま資料館として使っているようだ。 左は表の蔵の横にあった門。後で聞いたら元々は角田城の城門の一つだった由。そして右はこの建物の本来の持ち主の標識。後で聞いたら角田の殿様に出入りしていた商人の屋敷だったそうだ。ふ~む。私はしばらく外の様子を撮影してから屋敷の中へと入って行った。料金は300円。決して高くはないが、果たして肝心の展示物はどうなのか。 これがむう姫の両親。父は仙台藩祖の伊達政宗。これは有名だから説明不要かも知れない。母は側室のお山の方。慶長13年(1608年)に政宗の次女として生まれたんだ。そんな姫がなぜ田舎町の角田へ? むうには14歳年上の姉五郎八(いろは)姫があった。彼女は正妻である愛姫(めごひめ)との間に生まれ、徳川家康の六男松平忠輝に嫁いだ。彼は越後高田100万石の城主だったが父の不興を買い、国替えとなった。そして五郎八姫も離縁され、仙台へと戻ったのだ。一方のむうは政宗の寵愛を一身に受けて、伸び伸びと育った。そして戦国時代ではなかったため、戦略として大名家に嫁ぐ必要はなかったのだ。 むうの嫁ぎ先は仙台藩伊達家一門筆頭格の石川家。角田初代の石川昭光は政宗の叔父で、源氏の血を引く名門石川家を継いだ。だが秀吉の小田原攻めに参陣せず、現在の福島県石川郡の領地を没収されてしまった。そこで甥の政宗に泣きつき、臣下となったのだ。そして1万石を与えられ、角田城主に落ち着いた。 政宗は最愛の娘を、一門筆頭格の石川家に嫁がせた。相手は昭光の孫の宗敬。まだ宗敬が13歳、牟宇(むう)姫は12歳の若さだった。姉五郎八(いろは)は子を産むことなく死んで松島瑞巌寺の末寺に祀られているが、次女の牟宇は3男2女を挙げ、角田市内に葬られている。享年76歳の長命だったようだ。 さて本論のむうのお雛さまが写真のもの。撮影は無理だったので、パンフレットから借用した。お雛様はむうが嫁入りした時に持参したと考えられている。それは雛人形の調度品に刻まれた伊達家の「雪薄紋」(ゆきすすきもん)で分かるとのこと。伊達家には6つほど家紋があるが、この「雪薄紋」だけは他に類例がないため、伊達本家から嫁入りしたむうの持ち物と判断された訳だ。 これが男雛の写真。江戸初期の嫁入りなので、その当時これだけの人形を作れたのは恐らく京都以外にないだろう。町雛にはない大名雛の風格はさすがだ。 そしてこれが女雛。むう姫の肖像画が残されていないため、この女雛の顔をむうの顔の代わりに描いている絵が多いのだと思う。 優しい雛人形の横顔に、政宗の次女むうの面影が偲べるだろうか。 これは「むうのお雛様」が飾られていた部屋の障子。辛うじてこれだけは何とか撮らせてもらえたのだ。<続く>
2016.03.03
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<室内の子供の遊び> みちのく杜の湖畔公園の探訪記も今日が最終回。私にしてはずいぶん長いシリーズになりました。残った写真は1回分。今日は室内の子供の遊びがテーマです。「北国の暮らし」とは言えないかも知れませんが、そのまま同じタイトルを使うことにしました。 東北の古民家を集めた「ふるさと村」の本荘由利の家では、子供の遊びが実演されていました。これは座敷で行われていた昔ながらの遊びのようです。 男の子が遊んでいたのは的当てのようです。 こちらはお絵描きでしょうか。 こちらはお手玉やおはじきかな? 障子を通して、自然光が室内に広がっています。 女の子が大好きなお人形もありましたよ。 これは秋田の土人形。どうやら少しだけ古いお雛様みたいですね。 三人官女も趣がありますね。 五人囃子の方割れです。 こちらも五人囃子の方割れです。 秋田の土人形ですが、男雛しかありませんでした。あれまあ。 こちらは昭和時代の少女像でしょうか。 現代的な雛人形が幾つかの古民家に飾ってありました。 障子から光が漏れています。 暗闇に雛人形が浮かび上がっています。 3つも並んでいたのは、宮城県の「鳴瀬川河畔の家」だったかなあ? ツーショットのお雛様です。 今日から3月です。早いですねえ。このシリーズと最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。明後日から新しいシリーズが始まりますが、明日は取りあえず別なテーマを入れますね。<完>
2016.03.01
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11月23日。私は氷雨の中、仙台城三の丸跡にある仙台市博物館に行きました。 これが仙台市博物館の正面玄関です。玄関の上に「特別展 宇和島伊達家の名宝」の看板が掲げられています。実は私が訪れたこの日が、最終日だったのです。65歳以上の仙台市民は半額で入れます。先ずは常設展をちらっと見ました。伊達政宗の家臣、片倉小十郎関係の資料が新たに展示されたと聞いたためです。 これが片倉小十郎景綱の肖像画。常設展の展示物はフラッシュを焚かなければ、撮影を許されています。伊達家の重臣である片倉家は初代の景綱以降、当主は代々「小十郎」を名乗ることになっています。 彼は神職の子として生まれましたが、両親は小十郎が幼い時に亡くなります。20歳年が離れた異父姉の喜多が彼を育て、姉が政宗の乳母になると小十郎も近習として取り立てられます。 片倉小十郎景綱に宛てた、徳川家康からの書状です。 白石城の図面です。「人取り橋の戦い」以降、景綱は小田原征伐、二度の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなどで何度も伊達家の危機を救いました。その活躍が評価され、仙台藩の南端を守る白石城主となるのです。これは「一国一城令」の特例として認められたもの。小十郎景綱の力量を、家康も認めていたのでしょうね。 片倉氏の旗指物で、「鐘」を意匠しています。戦いの時に誰が戦っているのか、この「標」で分かりました。 小十郎景綱の軍配です。これを馬上で振って、戦いを指揮したのです。大坂の陣では病床に伏していたため、嫡男の重綱(後に重長)が参陣しました。戦った相手は真田幸村親子。来年の大河ドラマの主人公がこの真田氏ですが、「冬の陣」、「夏の陣」で彼らは全滅します。実はこの時、重綱は密かに一人の男児を救って白石城で自分の子として育てます。その子がやがて成人し、仙台真田氏を継ぐのです。 以下は「プレーミュージアム」に展示してあった東北の玩具です。最初は仙台の「松川だるま」。青い色が特徴の縁起物で、毎年少しずつ大きめの物を揃えて神棚に飾るのが習わしです。 仙台市の「木下駒」です。 これも上に同じ。木彫りの馬です。 「仙台張子」の人形です。張子は紙を何重にも張って造ります。 こちらは仙台張子の飾り馬です。 山形県米沢市の「相良人形」です。とても素朴な味わいがありますね。 福島県三春町の「三春張子」の、とてもおめでたい人形です。町の名は、梅、桃、桜の3つが同時に咲くことから「三春」と名付けた由。中でも樹齢数百年の「滝桜」が有名です。 青森県八戸市の「八幡馬」です。南部は古来より馬の名産地でした。明日は「特別展」を紹介します。<続く>
2015.12.04
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ここは仙台城三の丸跡にある仙台市博物館の入口。6月のある日、私は妻とここを訪れた。同館で開催中の『特別展 国宝吉祥天女が舞い降りた』を観るためだ。同展は「東日本大震災復興祈念事業」として開催され、65歳以上の仙台市民は半額で入館することが出来た。有難いことだ。なお、展示物の撮影が許可されていないため、写真はパンフレットから転載させていただいたことをお断りしておく。 薬師寺縁起 薬師寺は奈良市西の京にある南都七大寺の一つで、興福寺と並ぶ法相宗の大本山。開基は天武天皇など。創建は天武天皇9年(680年)だが、8世紀初めに飛鳥藤原京から現在地に移転した。東塔、東院堂などが国宝に指定され、平成10年(1998年)世界遺産に登録されている。 今回の特別展には同寺から27点の文化財が借り出されているが、うち国宝が2点、国の重要文化財が9点、奈良県の指定文化財が3点含まれており、いずれも貴重な品々ばかりであった。また同寺が所蔵する21点の芸術作品が「奉納散華」として、特別に展示された。 水煙(塔上部の飾り) 薬師寺と聞いて私が真っ先に思い浮かべるのは、元管主であった高田好胤師のこと。彼は大正13年(1924年)に生を受け、平成10年(1998年)に74歳で亡くなられた。いつも笑顔でテレビに出ていたあの温和な姿がとても懐かしく感じる。修学旅行生を相手に、「青空講話」なども行っていた。 昭和24年(1949年)、第2次世界大戦の終戦から4年目。彼が25歳でこの寺の副住職に就任した時、境内は荒れ放題だったそうだ。そこで彼はこの由緒ある寺の昔の姿を何とか取り戻そうと一念発起し、「百万巻写経勧進」運動を考えついたのだ。 こうして金堂、西塔、中門、回廊などが次々に再建されて行った。荒れ放題だったあの境内が、ついに往時の姿を取り戻したのである。信者1人1人の写経が、薬師寺の復興に繋がったのだ。高田好胤管主の喜びはいかばかりだったろう。 ゆく秋の大和の国の薬師寺の 塔の上なるひとひらの雲 歌人佐佐木信綱(明治5年~昭和38年)の40歳時、明治45年の作。「の」が6つも続く特徴あるこの歌は、まだ寺が荒れ放題だった頃の東塔を詠ったものだろう。 国宝吉祥天女像 これが国宝吉祥天女像で、わが国の数少ない奈良時代の絵画遺品として重要なもの。温和な表情が印象深い。 頭部の後に光背(後光)があることから、最初から仏画として描かれがことが分かる。 こちらは国宝聖観世音菩薩立像。飛鳥時代後期作の金銅仏で、像高は188.5cmある。 地蔵菩薩 こちらは重要文化財の地蔵菩薩立像。鎌倉時代、善円の作である。 素晴らしい仏像の数々を目前にし、かつ「奉納散華」の芸術作品を堪能して清々しい気分になったのであるが、なぜか妻は私を見つけることが出来ず、先に帰宅したようだった。人生には稀にこんなことが起きる。
2015.07.15
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<登米の祭と芸能> さて、2日間お休みしたこのシリーズを再開しよう。第4回の今日は、「登米の祭と芸能」がテーマ。祭と言っても「旧登米高等尋常小学校」の校舎にある教育資料館に展示されていた写真や品物を、デジカメで撮らせてもらったものだ。では早速ご覧あれ。 中途半端に画面が欠けているが、登米の「秋祭り」のポスター。まあ何と言う芸術的で格調高い写真だろうね。 この山車(だし)が教室の中に飾られていたんだよね。 これが山車の側面だよ。確かに秋祭りの雰囲気があるよね。 こっちはその反対側。こんなのを担ぐんだね。ワッショイワッショイ!! 祭太鼓だよ。ドンドンドコドコ勇ましい音だね。 祭の半纏が傍に吊るしてありました。これで少しは祭の雰囲気が味わえたかな? いなせな祭半纏のデザイン。日本人の美のセンスを感じるねえ。 登米の祭の写真が額縁に。これはいつ頃のものだろうね。 これには「平成21年」と書かれていた。バックは旧登米警察署庁舎かな? たとえ故郷を離れても、きっと祭の風景は忘れられないんだろうね。 最後に祭の様子を彫った版画を載せておきますね。 ここからはがらりと変わって、2番目に訪れた町の伝統芸能伝承館「森舞台」の紹介。ここは冬季期間中(~3月末)までは土曜、日曜、祝日)しか開いてなかったんだけど、私が共通観覧券を購入して「観たい」と希望したため、職員の方が車で連れて行ってくれ、施設を開けて見せてくれたんだよ。実に親切な町ですね。 この能舞台では、江戸時代から登米町に伝わる「登米能」をはじめ、「岡谷地南部神楽」、「とよま囃子」などの郷土芸能が演じられている。 こちらは創建当初の森舞台。総桧造りでまだピカピカに新しい舞台だね。チケットの写真をお借りした。 左側は舞台の松の絵。右側は舞台の縁の下に置かれた音響効果を高めるための壺。普通の能舞台ではこれは隠して見せないのだとか。珍しい光景だねえ。 どちらも優雅な能衣装。 左側は舞扇で、右側は小鼓。共に能で使用する大切な道具。 これらの面は市民の方が趣味で彫られたものばかりとか。高度な技術には驚きですね。 とよま能を国立能楽堂(東京都渋谷区)で公演した際のポスター。ただ、町の伝統芸能も、現在では伝承者の高齢化と後継者不足に苦しんでいるとのこと。どこも大変なようですね。 なお、国立劇場にはほかに、国立劇場(東京都千代田区)、新国立劇場(東京都渋谷区)、国立文楽劇場(大阪市中央区:人形浄瑠璃が中心)、国立劇場おきなわ(沖縄県浦添市:組踊と琉球舞踊が中心)がある。<続く>
2015.04.15
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<斎理屋敷のお雛さま> 陶製の雛人形 宮城県最南端の町、丸森町にある博物館「斎理屋敷」を訪ねたのは、今回が初めてでした。江戸時代から続いた大富豪の屋敷に一体どんなものがあるのか、私は興味津津でいたのです。でも予めネットで調べ、このお屋敷で3月末まで雛人形を展示してることは知っていました。たくさんの蔵を巡り、最後に覗いたのが居宅跡の本屋敷。ここにたくさんの創作人形などと共に、古い人形が陳列されていました。今日はそのお雛様を紹介しますね。 先ずはセピア色に変化した、古い雛人形の写真を。この中に、果たして今日紹介する人形が混じっているでしょうか。 古めかしい一対のお雛様。さすがに歴史が感じられ、風格がありますねえ。 凛々しい姿の男雛。 そしてこちらが、どこまでも典雅な女雛。 慎ましやかな三人官女の姿。 きりりとした五人囃子の表情。 こちらも同じく五人囃子の片割れ。 年老いた左大臣の左奥には、先日紹介したお屋敷独自の創作人形が。 そして若々しい右大臣のはるか右奥にも、創作人形が幽かに見えますね。 これは別のお内裏様。 それをアップすると、こんな髭だらけのお顔ですよ~。 どこかおっとりした表情のお雛様たち。これは別なセットです。 後の屏風も超豪華な対の雛人形。 こちらも歴史と高級感が漂う一対の雛人形。やっぱり現代の物とは全然違いますねえ。 三人官女にもどこか気品が・・・。 こちらは何となく大陸風じゃあ~りませんか? さて、斎理屋敷のお雛様はいかがでしたか。もう桃の節句からは大分遠ざかってしまいましたが、敢えて最後の方に持って来たのですが、古い時代の雛人形の雰囲気を味わっていただけたでしょうか。<続く>
2015.03.19
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<歴史の一こまと民芸品> 宮城県最南端の町丸森町。そこにある江時時代末期から続いた豪商、斎理屋敷の展示品やお屋敷内にあった物の中には、歴史を感じるものが結構ありました。そして懐かしい民芸品の数々も。今日はそんなものを幾つか紹介したいと思います。 展示室に飾られていた絵。良く見ると「髪髷すきおろしの図」と書かれています。明治期の浮世絵ですね。 壁に残る習字の跡。どうやら屋敷に寝泊まりしていた奉公人が、字の稽古のため、壁に書いていたようですよ。 これは一体何か分かりますか~?木製の大砲の筒です。ここ丸森町は本州であった戊辰戦争の最終地。奥羽越列藩同盟は丸森町で最後の抵抗をします。最新鋭の西洋式軍備の官軍に対して、「賊軍」となった東北各藩の軍備は貧弱で、大砲も金属製ではなかったのですねえ。 そしてこれが砲弾。何とこれが陶製なんです。果たしてどれだけの殺傷能力があったのか疑問です。当然のように圧倒的な官軍の前に東北各藩の連合軍は破れ、薩長中心の明治政府が成立後、東北は暫くの間「冷や飯」を食わされる結果となりました。それらの事情は「八重の桜」でご存じのことでしょう。 明治新政府が成立して身分の差がなくなると、旧士族は質草として刀を斎理屋敷に預けてお金を借りに来たようです。刀に興味がなかったご主人はこうして鍔(つば)だけを残し、刀身は日清、日露戦争時に軍刀として差し出したそうです。 時代により子供の遊びにも戦争の影響が色濃く出ます。男の子が被っているのは軍帽。第二次世界大戦前のものですね。 凧の絵です。勇ましい武将の絵柄の凧は、私達の子供時代は見かけなかったですが、パッタ(仙台弁で、東京の「めんこ」に相当)の絵には、こんな絵がありましたよ。 奴凧(やっこだこ)は子供の頃にも見かけました。 上杉謙信と武田信玄の「川中島の戦い」の名場面ですね。 神出鬼没の怪盗、児雷也(じらいや)でしょうか。 これはお目出度い三番叟(さんばんそう)の絵柄。元々は猿楽の踊りだったのが、後には歌舞伎などにも用いられたようです。 屋敷神の隣に置かれていた寿老人(左)と、座敷にあった福助人形(右) 昔懐かしい堤焼き(仙台市に江戸時代から伝わる伝統人形の焼物)の人形達。子守娘や大黒さんなど。 こちらは恵比寿さん。こうした古い堤焼人形は残っている物が少なく、今ではとても貴重な存在です。 お姫様に相撲取りなど。 鶏に遠乗りの馬など。 泥天神(左)と鯛を抱える恵比寿さん(右)。 これもすべて堤焼の人形で大黒さんなど。 外国製の珍しいブリキ人形。笛を吹いているみたいですね。 庭の屋敷神の傍にあった獅子の置物。きっと神様を護っていたのでしょうね。<続く>
2015.03.18
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<斎理屋敷が栄えていた時代> 146年間続いた宮城県丸森町の豪商斎藤家。その屋敷跡が博物館になった斎理屋敷の本屋敷には、たくさんの品物が展示してありました。当時使用した民俗具、お雛様、創作人形、各種の飾り物などです。その中に一風変わった雰囲気の人形が、ケースの中に飾られていました。 さて、これは一体何だろう。創作人形には違いないけど、何だか他の人形とは様子が違うぞ。それでふと思いついたのです。これはひょっとして、まだ斎理屋敷が栄えていた頃を表現した特製の人形ではないかと。そう考えたら少し納得出来たのです。今回は私が不思議に感じた人形をご紹介しますね。 これはご主人と奉公人達が働いている様子でしょうか。斎理屋敷では質屋をやっていたので、ひょっとしたらその様子なのかも知れません。 蔵の中での整理作業。何だかとっても忙しそうですね。 うい~っ。お酒は美味しいねえ。今日は何かお目出度いことでもあったのでしょうか。それともいつもの晩酌かな? これも何だか良く分からないのです。長い竹竿を持って、水路の掃除でもしてるのかな? 屋敷の女将さんが外出から戻って来たところでしょうか。大勢の奉公人が迎えています。 本屋敷の2階に展示されていた獅子頭です。 失敗、失敗。積荷の醤油が道路にこぼれたようです。斎理屋敷では、当時醸造業も営んでいました。 これは女性達の仕事。秋になるとたくさん採れる柿の皮を剥き、干し柿を作ります。今でも丸森町の名産です。 これも良く分からない一つ。屋敷の女将さんが薬か暖かい飲み物でも作っているようですが。 年末、近所の神社へ新しい注連縄(しめなわ)を奉納するところでしょうか。 寝る前に、女の子たちが何か注意されてるようです。 作業小屋の模型です。奉公人の一部はここで寝泊まりしてたのかもね。 屋敷のお婆様に頼まれて盆栽への水やり。これは仕事外なので、時々3日分の給金に当たるお小遣いがもらえたそうです。 幼い奉公人(丁稚さん)達の食事風景です。彼らにとって食事の時間は、何よりの楽しみだったことでしょう。 長い竹竿を持ってる男の子たち。仕事なのかそれとも遊びなのか分かりません。 小さな山から滑って遊ぶ丁稚さん。この小山は今でも裏庭に残っています。 「かごめかごめ」に興じる子供たち。今はもう見られないこんな風景が懐かしいですね。 斎理屋敷の嫁蔵 ひょっとしてこの火鉢かな? 火鉢で焼き芋を焼く屋敷のご主人。大金持ちが普段こんな物を食べていたとは、何だか微笑ましい光景ですね。これらの創作人形はまとまって置かれていたのではなく、広い広い展示場にポツンポツンと置かれていました。それを一つ一つカメラで収め、後で見たら物語性があることに気付いたのです。あの時代を表わす、なかなか優れた作品だと私は感じました。<続く>
2015.03.14
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<斎理屋敷の歴史と民俗> 宮城県南で福島県と接した丸森町にある斎理屋敷を訪ねたのは先週の金曜日のこと。歴代の当主が斎藤理助を名乗ったことから、屋敷の名前がそんな風に呼ばれることになったのです。第4回目の今日は、斎理屋敷の歴史と、そこに保存されている民俗品を紹介したいと思います。 斎藤家が県道45号線に面する現在地で商売を始めたのは、江戸時代の文化元年(1804年)のことです。最初は呉服太物店としての出発です。「太物」とは綿織物や麻織物のこと。絹織物に対する呼び方です。写真の店蔵は嘉永元年(1848年)に建てられ、国の登録有形文化財に指定されています。 写真は婚礼の後のもののようです。斎藤家が扱った商売はウィキペディアによれば、呉服太物、養蚕・生糸、醸造業、金融業、縫製、発電が上げられています。一方、屋敷にあった説明では、呉服太物、木綿、味噌・醤油、質屋、銀行、仕立、蚊帳(かや)、唐織、ろうそく、塩、染物、古着、古道具、汲水(水を売る商売)などが上げられていました。 いつの頃の写真かは分かりませんが、店の前には自動車があります。さて斎藤家では戦争のため実現はしなかったものの、陶磁器製造工場や住宅販売まで企図したことがありました。でも不況のため昭和25年には経営が傾き、146年間に亘った歴史に終止符を打つことになります。 店の男衆でしょうか。当時、写真機はとても貴重で、写真は仙台の写真館まで正装して出かけて撮ったと説明にありました。昭和41年(1966年)7代目当主から屋敷の蔵や建物、収蔵品一切が丸森町に寄付されました。直系の家系が絶えた(る)ことが理由のようです。町は整備を進め、昭和43年(1968年)から郷土資料館として発足開館します。 斎藤家の神棚です。 看板には、万套(マント)、外套(オーバーコート)、二重通、コート製造販売などの文字が見えます。縫製工場を営んでいたのです。 こちらの看板には、認印、実印の文字。一時期、斎藤家では銀行業を営んでいたようです。 蚊帳(かや)も商品として取り扱っていました。 こちらは丹前です。縫製工場もあったので、これらもここで作っていたのかも知れません。 各種の資料、史料などが納められた書類箱のようです。 こちらは様々な物品を収容した長持です。長持の上にはお雛様が飾られていました。 斎藤家は米穀商ではなかったものの、蔵の中には30俵ほどの米俵が積まれています。 大きな釜ですね。店内では大勢の人が働いていたため、こんな大釜で一日何度もご飯を炊いたのでしょう。 漆塗りの酒桶です。お目出度い席に、お酒は付き物でした。 斎藤家に時を告げた柱時計は、いずれも外国製のものでした。 煙草盆です。当時喫煙は今よりもずっと大らかな習慣でした。 まだ現役で使われている火鉢です。 こちらは火鉢と鉄瓶(てつびん)。鉄瓶は恐らく南部鉄器でしょう。 石製の風呂桶です。風呂場は別棟で、すべて石で出来ています。(後日紹介予定) 小正月に飾る繭玉(まゆだま)。「繭団子」とも呼ばれる縁起物です。<不定期に続く>
2015.03.10
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今夜は最近わしが読んだ本の話をしよう。3日目の夜になって、風は少し治まったようだ。著者は韓国人の柳舜夏(ゆ・すんは)。この人は作家でね、3歳まで京都で暮らしていたそうだ。タイトルはご覧の通り。「帯」には「反日をやめなければ韓国は滅ぶ!」とある。必死の思いで書いた本のようだよ。そもそもわしがこの本を読もうと思ったのは、韓国人の考え方を知りたかったからなのじゃ。理由はお前さん方も予想がつくじゃろう。今日本と韓国はとても険悪な関係にあるからねえ。そう言って男は腕を組んだ。(小学館、2015年) 「日本または日本人を批判する日本人は良心的な日本人として称賛される」。本にはそんなことが書かれている。もちろん「韓国または韓国を批判する韓国人は「左派あるいは親日派」として糾弾される」ともね。 「韓国人は、こと日本に関しては、激昴する傾向がある」。「韓国では日本に関する学問研究さえ出来ないが、日本での韓国研究はこれとは反対に、非常に充実している」。そんな状況の中で、この本は書かれたのさ。 「昼には反日、夜には親日」。夜はカラオケで日本の歌を歌い、日本料理を食べたり日本酒を飲む人が結構いるみたいだね。「韓国人の短所が、そのまま日本人の長所となっている」。作者はそんなことを書いている。また「韓国には日本人をさげすむ言葉がたくさんあるが、日本語には韓国人をさげすむ言葉はほとんどなく、朝鮮人、韓国人と言った当たり前の表現しかない」。作者はサラリーマンとして何度も日本に来、日本人と接した経験がそう言わせているようだね。 「反日の裏にある慕日」と作者は表現する。どうやら韓国人の激しい反日の陰には、日本に対する羨望や称賛や畏敬の念が隠されているようだ。古代から朝鮮半島の国々は、倭(大和)とことごとに張り合って来た。そして近代になってから日本はアジアで一番先に先進国の仲間入りし、韓国はその日本に36年間もの間併合されたことが、強い屈辱感として今でも彼らの胸の中にしっかり刻まれているのだろう。 日本と韓国の差が開いた原因を、作者は儒教のせいと考えている。李氏朝鮮王朝時代、儒教は政治を縛り、人々の暮らしを縛っていた。だが儒教の精神は学問上の形式だけで、両班(やんぱん)が実践したことはない。これに対して江戸時代の日本が選んだのは陽明学。これは実学で武士達は実践を重んじた。つまり武士道は現実の世界で生かされ、韓国では今でも形ばかりの儒教精神に拘っていると言う訳さ。元々「兄」の朝鮮が「弟」である日本に物事を教えたと言う気持ちが今でも強いんじゃよ。 「韓国(朝鮮)の官吏はほとんど不必要な悪的存在」。作者はきっぱりと言う。「現在の韓国の統治者達も、国民と国家のためにはほとんど不必要な悪だ」。「建国以来大韓民国を駄目にし続けているのは法治の不在」。なるほどこれは思い当たるものがあるねえ。「法を握る支配層の国会議員の前科者数は大韓民国が最高」。これも聞いたことがある。確か半数以上の議員は収賄などでの逮捕歴があったはずじゃ。だが、そこまではっきり書いて、作者は大丈夫なのかと逆に心配になるのう。 「法を執行されなければならない人達が公然と保護され、この保護にメディアまで同調してえこひいきする」。「政治が100回変わってみても効果がない。政治家達や社会の指導層が何かをするというのは幻想である」。例の「フェリー沈没事件」や「ナッツリターン事件」を見ても、韓国の闇は深そうだ。何せ財閥と政治家が癒着し、前政権は必ず後の政権によってその悪が暴かれているからのう。 この本には作者の日本に対する誤解も一部にあった。また翻訳の手違いも一部に感じられた。日韓の文化の比較や、両民族の考え方の違いなどもっと掘り下げて欲しい部分もあった。だが、これだけの内容を良く勇気を持って書いたと、わしは感心してるんじゃよ。何せあの国では、日本の真実を伝えたり好意的に書こうものなら、学会やマスコミからつまはじきに遭うんじゃ。最後に作者の願いを記しておこう。 「お互いに反日や嫌韓、独島・竹島、歴史問題で不毛な論争を続けることは愚かなことだ。現在両国に差し迫っているのは中国の脅威である」。わしはヘイトスピーチには反対じゃ。そして「嫌韓論者」などとの評判も全く気にはしていない。わしが知りたいのは「真実とは何か」だけなのじゃよ。<続く>
2015.02.21
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<大阪・国立民族学博物館> 国立民族学博物館の展示物紹介も、今日が最終回になりました。一昨年の11月に「神戸マラソン」を走った前日、16年ぶりに訪れたこの博物館は私の8番目の職場でもあったことから、とても懐かしく感じたものです。では早速館内を紹介しますね。今日は東ヨーロッパと日本展示コーナーの一部です。なお、常設展の展示物は原則的に撮影が許可されています。 東ヨーロッパ地区の展示品です。恐らくはオルガンの自動演奏機だと思われます。手でハンドルを回して堅紙の楽譜を読みこませ、穴を通った空気の振動で楽器を演奏する仕組みです。 楕円形の物に色んな模様が付いていますね。これはイースター(復活祭)の卵です。東欧諸国では、国によって描く模様が異なるみたいです。 ルーマニア北部のサプンツァ村の「陽気な墓」です。亡くなった方の生前のお気に入りの姿が墓に彫刻され、観光の名所になっています。 聖職者を担ぐ人々でしょうか。ちょっと不思議な雰囲気の人形です。 ギリシャ正教では「イコン」と呼ばれる聖画です。テーマは聖母マリアと受胎告知の天使でしょうか。 こちらも同様です。テーマはイエスキリストの磔(はりつけ)図。信徒が処刑されたキリストを見守っています。 こちらは聖職者の肩かけと思われます。中央に十字架の「盾」が見えます。 ここからは日本展示コーナーです。豪壮な太鼓台はお祭りの主役です。 この大天狗は、確か南九州の物だったと記憶しているのですが。 巨大なわら人形です。手ぶれを起こしてしまいましたが、面白い感じが出ています。 「牛角」云々の文字が見えます。果たしてどの地方のものだったか? 奇妙な表情の人形です。どことなく南方系の雰囲気が漂っていますね。 お面も衣装も伎楽由来のものでしょうね。恐らくルーツはシルクロードだと思われます。 以上で国立民族学博物館の展示物紹介を終わります。専門家でないため、正確な説明が出来なかったことをお詫びします。同館は大阪府吹田市の万博公園内にあります。機会があったら是非一度お訪ねくださいませ。<不定期に続く>
2015.01.20
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≪ 南北アメリカ大陸 ≫ 昨年の11月16日。「神戸マラソン」の選手受付の前に、大阪府吹田市万博公園内にある国立民族学博物館(みんぱく)を訪ねました。ここは私の8番目の職場で、16年ぶりの訪問でした。たまたま開催していた企画展も観ましたが、時間がない中で気になっていた常設展も観たのです。館内の展示物は原則として撮影が許可されています。2時間半ほどの滞在中、140枚以上の写真を撮りました。 同館には大学院が置かれており、研究者は世界の地域を研究の対象として現地に赴き、標本を採集したり映像を撮って来ます。標本は収蔵庫に収められ、企画展や特別展の際に展示されます。収蔵点数は20万件以上。映像は編集後、公開されます。私は研究者ではないため詳しい説明は出来ませんので、写真だけ紹介します。第2弾の4回目は南北アメリカ大陸です。どうぞお楽しみくださいね。 エスキモーのトーテムポール アステカの暦(レプリカ) アステカの石像(中庭:レプリカ) 収穫の祝い 黒人のマリア様 乳製品作り 太った婦人の容器1 太った婦人の容器2 太った婦人(焼物) トランプに興じる骸骨人形 山羊人間 縞模様のある動物 <不定期に続きます>
2014.03.16
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先週の日曜日に映画を観た。昨年アメリカで制作された『大統領の執事の涙』だ。多少ネタばれになるが、この映画の話を書こうと思う。アメリカ合衆国の南部の州で、ある綿花農場に雇われている黒人労働者の息子セシル・ゲインズがこの映画の主人公だ。幼い身で綿花摘みの作業中の彼の目前で、父親が雇い主に射殺される。勿論父親に何の落ち度があった訳ではない。彼の妻が小屋に引き込まれ、レイプされたのを目撃したためだ。少年はそんな理不尽な理由で簡単に殺される黒人の悲哀を、身を以って体感したのだ。 成長した彼は、ある時偶然にホワイトハウスの執事長の眼に止まり、ホワイトハウスで執事として勤務することになり、一家は首府ワシントンに移り住む。それ以来、セシルは7代の大統領に仕えることになる。第34代のアイゼンハウアー、第35代ケネディ、第36代ジョンソン、第37代ニクソン、第38代フォード、第39代カーター、そして第40代レーガンの各大統領だ。私はいずれの名前にも馴染みがあり、同じ時代を生きて来たとの実感がある。 セシルには2人の息子がいるが、成長した長男は黒人解放運動に身を投じ、次男は兵士としてベトナム戦争に従軍する。出征する次男いわく「兄さんは国と戦っているけど、僕は国のために戦う」と。やがて次男の戦死が両親に伝えられるが、長男は葬儀にも参列せず、家族の亀裂が深まる。この話にはモデルの執事が本当にいたようだ。彼の名はユージン・アレン。実際は8人の大統領に仕えたようだ。 しかし世界から多民族を受け入れ、同じ合衆国の国民でありながら、白人の黒人や有色人種に対する差別には根深いものがあったことを、この映画で痛烈に知らされた思いだ。ストーリーの進行と共に歴代大統領の政策が露わになり、対黒人問題に関するスタンスも明らかになる。だが、長男が黒人解放運動に従事していることでセシルが職を追われることがなかったことが、民主国家アメリカの一面を物語っていた。 映画にはケネディ大統領の暗殺の場面や、ベトナム戦争の映像、非暴力運動を提唱したキング牧師の暗殺、白人暗殺集団KKK、これに激しく抵抗するピンクパンサーの運動家などが登場する。長男はその後大学院を修了し、国会議員となってさらに黒人の待遇改善運動を推進する。セシル自身も黒人執事の給与を白人と同じ額に上げるよう、大統領に訴えて実現し、長男とも和解する。 何と言うことだろう。奴隷解放を願って、アメリカは国内で戦争まで起こした。いわゆる南北戦争だ。戦争が終わって黒人は奴隷から解放されたはずなのに、実際はつい最近まで差別が存在したのだ。映画が終わる頃、南アフリカ共和国のマンデラ大統領の姿が映る。彼は黒人への差別撤廃を訴えて30年間牢獄へ入っていた人。その後出獄して同国の大統領となってアパルトヘイトなどの差別を一掃し、ノーベル平和賞を受賞した。彼はアメリカの何人もの大統領が為し得なかったことを、たった1人で解決したのだ。しかも非暴力運動で。 映画は長年の功績を讃えてバラク・オバマからセシルがホワイトハウスに招かれる場面で終わる。アメリカ合衆国で初めて誕生した黒人の大統領だ。アカデミー賞候補としてノミネートされたものの、授賞作品は同じく黒人問題を扱った『それでも夜は明ける』だった由。多くの黒人達がアフリカ大陸から船に乗せられ、先進国に奴隷として売られて行った遠い昔の悲劇の歴史を、厭でも思い出した私だった。 我が国の近辺には、国策として未だに少数民族を迫害し続ける国や、他国から人を拉致する無法国家や、自らは歴史を改ざんしながら他国を貶めようとする国家が存在する。そして昨夜からパラリンピックが始まったソチの周辺、クリミア半島でも、きな臭い煙が立ち昇っている。人種問題と民族問題。同じ地球に棲みながら争いが絶えない人間の愚かさは、ひょっとして未来永劫まで続くのかも知れない。
2014.03.08
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≪ オセアニアの工芸 その2 ≫ 昨年の11月に訪れた大阪府吹田市にある国立民族学博物館の展示品を紹介しています。同館の展示品は、研究者が自分の研究対象である地域に直接出かけて収集しています。またこれとは別に、貴重な映像も撮影することもあります。それらの標本を整理して特別展や企画展で披露し、稀に常設展の展示品も入れ替えます。館内では原則撮影が許可されています。十分な説明は出来ませんが、今日もオセアニアの続きをご覧ください。 なお、短時間に大量の写真を撮ったため、メモを記すことは出来ませんでした。この中には、パプアニューギニアやポリネシアなどの地域の工芸品なども含まれていることを、初めにお断りしておきます。 ニューギニアの原住民 ニューギニアの工芸品 ニューギニアの工芸品 オーストラリアの木製容器(恐らくは原住民であるアボリジニの制作だと思われます。) オセアニアの木製工芸品 家を模したものみたいですね。 ポリネシアの船です。ポリネシアの島々には、竹と小さな貝で作った「海図」があります。竹は海流を、そして貝は島の位置を表します。その海図を持って、彼らは大洋に漕ぎ出します。時には数百キロも遠出するみたいです。きっと夜は星を観て、現在の位置を知るのでしょうね。 ポリネシアのカヌーです。島の近海で魚を獲ったり、航海する時に使います。安定を図るため、船体の外側にアウトリガーが付いています。 ポリネシアの「あか汲み用」の柄杓です。航海中、船やカヌーには海水が入ることがありますが、あまり増えると沈没の原因になるので、時々海水を掬って捨てるための道具です。 ポリネシアの木製工芸品です。神様の仮面でしょうか。 同じくポリネシアの工芸品です。文様はどこか縄文土器にも似てますね。何だかとても不思議な気がします。<不定期に続きます>
2014.03.03
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≪ オセアニアの工芸 (1) ≫ 昨年の11月中旬にあった「神戸マラソン」の前日に、私は16年ぶりに大阪府吹田市にある国立民族学博物館を訪ねました。ちょうど企画展を開催中でしたが、私は常設展の方も気がかりでした。なぜなら私にとってそこは8番目の職場だったからです。この博物館の標本(展示物)は原則として撮影が許可されています。でも悲しいかな、私は研究者ではないため、展示物の解説は出来ません。ただ眺めるだけですが、良かったらご覧いただければ嬉しいです。 なお、民族学とは文化人類学と同一の学問で、この博物館の研究者(学芸員はおらず、大学院が置かれています)は世界各地の文化を研究するため、毎年のように自分の専門分野(地域)のフィールド調査に出かけ、標本を収集したり映像を撮って来ます。それを整理して展示に活用します。収集された標本は20万点以上に上り、毎年その中から特別展や企画展で披露されています。今日はオセアニアの工芸の第1回目です。 この中にはオーストラリアの原住民であるアボリジニの作品やパプアニューギニアの工芸などが入り乱れています。短時間で大量の写真を撮影したため、残念ながら1つ1つメモを取ることは出来ませんでした。明日も続きます。<続く>(お断り)現在進行中のテーマは4つあります。1つ目は「沖縄の詩」。2つ目は私が撮った下手な写真。3つ目は日々のことがらやニュース。そして4つ目が、この「みんぱくふたたび」です。同じテーマのものが長く続くと読者が飽きるため、これらを適宜混ぜながら更新しています。中にはあまりの変化に戸惑う方も居られるでしょうが、以上の趣旨をご理解ただけると嬉しいです。
2014.03.02
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≪ 中近東の服装など ≫ 昨年の11月、私は大阪にある国立民族学博物館(みんぱく)を訪ねました。「神戸マラソン」の前日のことでした。同館の展示物は、特に指定されたものでない限り自由に撮影することが出来ます。昨年11月から12月にかけて6回のシリーズで「みんぱくへようこそ」として紹介して来ました。今回はその続編です。詳しい解説はありませんが、どうぞお楽しみください。 これは「ベリーダンス」用の服装でしょうか。敬虔なイスラム教徒は異性に肌を見せることはないので、これは多分キリスト教徒以外は着用しないと思われます。 イスラム教の法典である「コーラン」を入れておくための容器でしょうか。<不定期に続きます>
2014.02.14
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≪ かつての仙台地方のお正月風景 ≫ このシリーズでは、仙台市歴史民俗資料館の展示を紹介しています。今日はかつての仙台地方のお正月風景を紹介します。 12月30日の夜は各家で「お年取り」と言うのをしていました。新年を迎える儀式です。普段はとても粗末な食事ですがこの夜だけは、必ず魚の煮物がお膳に並びます。仙台地方ではこの魚が「ナメタガレイ」であることが多かったようです。今でも仙台付近では、年末に欠かせない魚です。 仙台近郊の「お年取り」。魚はナメタガレイではなく、マガレイのようです。「お年取り」の名は数え年だと新年早々1つ歳を取ることからではないかと思われます。生まれたら1歳で、正月には早くも2歳になったのでしょうか。 お正月用の餅を搗いた臼(うす)にも、しめ飾りを施しています。 こうして飾ると、とても神聖に見えますね。新年を迎えられる感謝の気持ちが伝わって来ます。 これがかつての松飾りです。素材は簡単に手に入る松の枝、笹、わら、紙です。シンプルですが、厳かな気分になりますね。 神棚の上にはこんなものが飾られています。 棚の上に載っていたのは縁起物のだるまです。これは仙台地方独特の「松川だるま」で、周囲が赤でなく、青色で塗られているのが特徴です。1年ごとに少しずつ大きなものを買って並べる家もあります。今では数少なくなり、なかなか見かけなくなりました。 仙台地方の元旦のお膳です。長いネギが1本あるのは風邪を引かないためのお呪いでしょうか。また餅もあんこではなく黄粉みたいです。小豆(あずき)が貴重だったのでしょうか。お雑煮の具も今とは少し違います。とても質素ですが、これでもお正月だけのご馳走だったのでしょう。昭和初期の暮らしを初めて知りました。 仙台近郊の元旦のお膳です。町場の仙台よりもさらに質素ですね。これでもきっと普段よりはご馳走だったはず。干して焼いた魚も滅多には食べられない特別なご馳走だったことが分かります。砂糖は特に貴重で、滅多に使用しなかったようです。戦後も暫くの間は、砂糖が香典返しなどに使われていました。 左側が仙台地方の七草粥です。右側はお正月が終わる小正月の日に食べる「アカツキ粥」。これには小豆が入ってますね。 切り餅を吊るしています。仙台地方の餅は丸餅ではなく、のし餅です。それをこんな風に四角く切り、焼いて食べます。豆やゴマなどを入れた美味しい餅は、いつ頃からあったのでしょうか。 これは「餅花」と言って、旧正月の飾り物です。「まゆ玉」と呼ぶ地方もあるようですね。 こちらも餅花です。戦後は餅だけでなく、きらびやかな飾りを付けた縁起物に変わりました。 明日は「戦争と暮らし」を紹介します。どうぞお楽しみに~。<続く>
2014.01.28
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≪ 昔の町の暮らし ≫ 先日読んだ新聞に面白いことが書いてありました。さる小さな地方鉄道に再就職して社長になった人に、「人を呼ぶために蒸気機関車を走らせたらどうか」と提案したら、「自分は団塊の世代なので、蒸気機関車は知らない」とのこと。つまり、実際に自分が見聞きしたものじゃないと親しみが湧かないということみたいです。このシリーズも、昔を知る人以外には興味を引かないのでしょうか? さて、今日は昔の町の様子を紹介します。昭和初期の様子で私はまだ生まれてませんが、戦後も結構こんな風景が見られたように思います。 商店 現在の宮城野区原町です。これは多分昭和30年代の写真ではないでしょうか。何となく見覚えがある風景です。 めしいじこ 冬は「おひつ」のご飯が冷えないよう、おひつごとこれに入れて保温したようです。 ざるおはち 夏はご飯がすえないよう、通気性の良いおはち(おひつ)を使ったようです。 味噌だる 味噌製造の店で使ったもののようです。 升 柄がついている液体用の升です。私が子供の頃も醤油や油を「量り売り」していた店がまだありました。 たらいと洗濯板 洗濯するための道具。たらいでは子供が行水もしました。洗濯板の上で衣類をゴシゴシ揉んで洗いました。 サイカチの実 これはサイカチと言う名の木の実ですが、何に使ったか分かりますか? 答えは洗濯。これを水に浸けると泡が出ます。それを洗剤の代わりにしたのです。第2次世界大戦後も見かけましたが、やがて固形の洗濯用石鹸が登場します。 洗い張り板 これは布を再利用するため洗って干すための板です。戦後も良く見かけましたね。 藍染用の壺 藍染用の壺は一般の家庭ではほとんど見かけませんが、都合上ここに納めました。 便所神 仙台の堤焼で作った便所神の人形です。私は初めて見ましたが、昔は便所(トイレ)を清浄に使うために、こんな神様を祭ったんですねえ。そう言えば、♪ 便所には神様がいて~♪ 若い女性歌手がそんな歌を歌ってましたね。 一銭店屋 一銭店屋 一銭店屋 私が子供の頃もまだこんな店が近所にありました。でももう「一銭店屋」とは呼んでなかったと思います。強いて言えば「駄菓子屋」でしょうか。私が使った最小単位の貨幣は50銭。これでばら売りのキャラメルが1個買えました。1円は紙幣で1円札でしたね。お年玉は10円。これも紙幣でした。物が乏しい時代の小さなお店には、たくさんの夢がありましたね。<続く> このような写真を懐かしいと感じるのは、それだけ私が歳を取った証拠でしょうか。明日は仙台地方の昔のお正月の様子を紹介する予定です。どうぞお楽しみに~♪
2014.01.27
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≪ 昔の田舎の暮らし ≫ 1月15日に訪れた仙台市歴史民俗資料館の展示を紹介しています。今日は主に、第2次世界大戦前(昭和初期)の農村の様子を紹介します。80年ほど前のものですが、今ではもう滅多に見ることの出来ない風景です。 ここは現在の仙台市若林区荒浜です。半農半漁の集落ですが、3年前の東日本大震災の津波により壊滅的な被害を受けました。これは80年前の出漁風景です。エンジンも付いてない舟で、沖に出ようとしています。 蓑(みの)を着た農家の方です。背中にわらを背負い、手には鎌を持っています。 竹で編んだ籠(かご)です。 こちらは植物の繊維で編んだ籠です。 仙台の近郊では「いじこ」と呼ばれていたようです。わらを編んだ入れ物ですが、ここに赤ちゃんを入れます。育児の手を惜しんで、労働に従事するための工夫で、他県では「いずめこ」などと呼ばれています。 これは仙台地方では「ど」と呼ばれるもので、田圃に棲むドジョウを捕まえる仕掛けです。中に潰したタニシなどを入れて、田圃や水路に一晩放置しておくと、中にドジョウが入り込みます。ドジョウは当時の農家にとって、とても貴重な蛋白源でした。 これは大小便を入れた樽を運ぶ馬車です。戦後の仙台でも良く見かけました。かつて化学肥料のない時代は、人糞を発酵させて作った「肥やし」が一般的でした。農家は町へ肥やしをもらいに行き、そのお礼に野菜を届けていました。トイレが「汲み取り式」だから出来たのです。 ただし、肥やしの欠点は、寄生虫病を蔓延させたことです。野菜には寄生虫の卵が付着し、生で食べると体内で寄生虫が成長し、栄養を奪ったのです。小学校で「虫下し」の薬が配布されたのを今でも良く覚えています。 これは囲炉裏です。農家だけでなく、地方の家にはどこにでもありました。これが唯一の暖房装置で、簡単な煮炊きが出来るよう「自在鉤」が下がっています。 干して焼いたカレイです。囲炉裏の周辺にはこのような魚が吊るしてあり、急な来客があった時などにもてなしたのです。 こちらも焼き魚です。自在鉤に巻き付けたわら束に、串に刺した焼き魚が刺されていました。こうすると囲炉裏から上がる煙で、長持ちするのです。焼き魚は当時の農家の保存食でした。 作業着ですが、これは新品のようです。普段は継ぎ当てされた粗末な作業着を着ていました。 こちらは糸車です。農家の女性はこれで糸を紡いでいました。 これは収穫された綿です。衣服の材料になりました。 こちらは麻です。ロープや籠を編む際の材料になりました。 スゲで編んだ蓑(みの)です。手触りがとてもしなやかです。降雨時の作業の時に着用します。 わらで編んだ蓑です。わらは農家では簡単に手に入る材料で、一般的です。 科(シナ)の中皮で編んだ蓑です。科の樹は長野県に良く生えているようで、科野(しなの)がやがて「信濃」へと変化したのです。私は科を見たのは今回が初めてでしたが、経木(きょうぎ;木を薄く削って作った包装用の板)のような手触りでした。 布製の背当てです。背負子を直接背中に背負うと痛いので、余った布切れでクッションを作ったのです。これは新品ですが、「本物」はボロボロの寄せ集めの布だったのでしょうね。明日は「町の暮らし」をお届します。どうぞお楽しみに~♪
2014.01.26
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≪ 雪国の暮らし ≫ 昨日の朝、私の部屋の窓ガラスが凍っていました。気温が低かったため、結露がそのまま凍結したのです。ニュースを聞いたら仙台はこの冬一番の寒さだったようです。零下4.6度とのことですが、私が住む郊外はもっと下がったのではないでしょうか。 さて、今日から始まる新シリーズのトップバッターは、雪国の昔の暮らしです。物が乏しい時代の雪国の人々は、果たしてどんな風に冬を過ごしていたのでしょう。前半の写真は昨年の12月に見学した新潟県立歴史博物館(長岡市)の展示物です。では早速日本でも有数の豪雪地帯の様子を見てみましょう。 雪おろし1 雪おろし2 雪おろし3 雪おろし4 いずれも雪おろし作業のジオラマを撮影したものです。豪雪地帯では屋根に積る雪の量も半端ではありません。そのままにして置くと、雪の重みで屋根が潰れてしまいます。そこで、ある高さまで積ったら、家々では一斉に雪おろし作業を始めます。これはかつて行われていた「模型」ですが、今も実態はさほど変わらないと思います。雪国の厳しい冬の様子が、観る者の目に強く伝わって来ます。 米俵用のそり 薪運搬用のそり 子供用のそり かんじきとわら靴 以下の写真は仙台市歴史民俗資料館で撮影したものです。 これは屋外でわら靴などを作る、昭和初期の老人です。当時の実沢集落があったのは根白石村でしたが、その後泉町 → 泉市 → 仙台市泉区と住所表示が変わり、現在は住宅地になっています。当時は仙台市の近郊でも、相当雪が降ったことが以下の写真で良く分かります。 雪道を歩くための「かんじき」ですが、雪が多い新潟の物よりは小さめです。 いずれも保温用のわら靴です。赤い布がついたのは女の子用でしょうか。 いずれも「ツマゴ」と呼ばれるわら製の草履です。少しでも爪先を覆って寒さを防ぐ工夫なのでしょう。こうして見ると80年ほど前の仙台近郊では、かなり雪が降ったことが分かります。私の父親も、冬はこんなものを身に着けて暮していたのでしょうか。 明日は「田舎の暮らし」をお届けする予定です。どうぞお楽しみに~♪
2014.01.25
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最近新聞がつまらない。私が見たり読んだりするのは漫画、連載小説、文化面くらい。社会面や政治面は大きな活字を拾い読みするくらいで、後は地元のニュースも含めネットで見ている。今や大新聞も大衆受けを狙う記事ばかりが目立ち、週刊誌とあまり変わらないように思うのだ。 年末年始のテレビも特別番組が多かった。社員を休ますためには仕方がないことなのだろうが、若い頃は面白がって観ていた番組も詰まらなく感じるのは、歳のせいだけではないだろう。 元旦の「ニューイヤー駅伝」はちらっと観ただけで、デジカメを持って近所の神社へ初詣に行った。長時間テレビの前で拘束されるより、体を動かした方が自分のためだ。「箱根駅伝」の往路もちらっと観ただけで、少し遠い神社へ妻子を連れて初詣に行った。私が観たのはスタート直後と、2区の山梨学院大学の外国選手が疲労骨折でリタイヤした場面だけ。 3日の復路で観たのは7区以降。残念ながら箱根の山登りも下りも観ていない。既に勝負は決まった感じで、東洋大学の圧勝だった。「出雲」や「伊勢」で優勝した駒澤大学が勝てなかったのは、4年生の差なのだとか。20kmをコンスタントに走れる選手を10人以上揃えることがいかに困難か、今年も思い知らされたような気がする。 面白いと感じたのは2日夜の「北極圏サバイバル」。これは日本人の登山家と、ロシアの少数民族であるチュクチ族の青年が、食糧、燃料を持たずに極寒のシベリアを旅する話。70kmの道なき道を、魚を釣り、トナカイを仕留め、薪を集めながら幻のイワナが棲む湖まで歩いて行く。まさにサバイバルそのものの旅で、シベリアの大地の厳しさを痛感させられた。 3日夜の「黄金伝説は本当だった」も面白いと感じた。私が観たのは切れ切れだが、カリブ海で沈没したスペインの軍艦から金の装飾品を見つける話や、ブルガリアのトラキア文明の遺跡から、馬車そのものや馬具の装飾品を発掘する話が面白かった。 4日夜の「大航海ご飯」は、人類が過去の大航海で何を食べて来たかを探るもの。大英帝国では、固いビスケットとビールが主食だったし、伊達政宗がヨーロッパに使節を派遣した際の航海では、糒(ほしいい:炊いたご飯を干したもの)をお湯で戻して食べていた。 モルジブ諸島からスリランカへの航海では、釣ったカツオが主食だった。これにココナツ、パンが加わるが、カツオはサラダやカレーの具となり、日本の「鉛節」に似た加工法もあった。新大陸を発見したコロンブスの船では、ビスケットの他にワイン、干し肉、ジャガイモ、玉ネギ、ニンニクなど。またポルトガル船では、ビスケットの他に鳥肉料理を食べていたようだ。 大河ドラマは「軍師官兵衛」が始まった。福岡藩の藩祖となる黒田官兵衛(如水)の話だ。戦国時代の姫路城で若くして家老となり、機知と軍略で次々に出世して行く男を岡田准一が演じる。これまで大河ドラマでは取り上げられなかった人物だけに、初回から結構面白いと感じた。ただ、女優藤村志保のナレーションが良くない。声が暗くて実に聞きとり難く、私はミスキャストだと感じた。 朝ドラの「ごちそうさん」は、主人公の「め以子」に3人の子供が生まれた。長女の「ふ久」が変わった子供で、小学校で色んな問題を起こす。これから3月末まで、どんな展開が待っているのか楽しみだ。大阪の食文化に触れるのもそうだが、当時の人々が関東大震災の痛手からどう立ち上がり、新しい技術を得て行くのかを注目したい。 やしきたかじん氏が3日に亡くなった。私が彼の名を初めて知ったのはテレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」。政治や社会問題に関して、出演者の歯に衣着せぬ意見が飛び交い、実に痛快な番組で今も観続けている。彼の軽妙な司会ぶりに感心していたのだが、歌手でもあったことを知ったのは、彼の死を聞いた昨日のことだ。亨年64歳。心から冥福を祈りたい。合掌 写真は12月31日に近所の公園で撮影した冬桜。冬桜はマメザクラとコヒガンザクラが自然に混じり合った品種らしい。私がいつも走っている公園では11月の初め頃からずっと咲き続け、訪れる人の目を楽しませている。
2014.01.09
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