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その朝、母は家を出ようとする私を台所に呼んだ。見るとガスコンロの青い火の上にある鍋の煮立ったお湯の中に、私の昼食となるレトルトのチキンハンバーグが温められていた。「お母ちゃんが家を出るまでこうやって温めとくからな。」「お前が家に帰ったときにちょっとでも温かいようにしとくからな。」「ちょっとでも温かかったらご飯の上にかけて食べるねんで!」と母は私に言ってくれた。嬉しかった。でも母にはご飯が冷たくなっていることがバレていたこともこのとき気づいた。しかしやはり嬉しさの方が強かった。ここまでしてくれているのだから、このハンバーグはお昼まで温かさを保っているような気が私にはしたからだ。母の言葉に私は「うん、そうする。」と言って学校に向かった。この日も例外でなく終わってほしくない時間は足早に過ぎた。あっと言う間に帰宅となった。土曜日の帰りのバスの中では誰からともなくいつもの話題が提起される。『お昼に何を食べるか!』だ。いつもみんなはこの話題にたいして、「今日はお母ちゃんがラーメンしてくれるねん。」「うちはカレーや。うちのカレーはホンマに上手いんや。」「今日は俺んとこは焼きそばとコーンスープやで。」等々・・・声高に、自分の家で親と温かい食事が待っていることをアピールする。せんでもエエのにアピールをする。この時間が来ると私は窓の外を見て知らん顔をしたり本を読みだしたりしてじっと話題が過ぎるか、または降車するバス停がやってくるのを待った。それでも残酷な声がかかる。「お前んとこは?」これである。それに私は「チキンライス!」「うちもカレー。」「お好み焼き」「うどん!鍋焼きうどん。」とかなんとか適当なことを言ってその場を切り抜けた。でもこの日は違った。
2017.11.30
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しばらくすると母は冬の土曜日の昼食に、私の好きなものを用意しようとしてくれた。母は何でも手作りで我々に食べものを与えてくれていた。出来合いのものやインスタントの食品を用意することはほとんど無かった。しかしある土曜日から、いつも私が食べたがっていたものを用意してくれるようになった。レトルトのハンバーグである。一度母と買い物に行ったとき、私がどうしても食べたいと駄々をこねた結果買ってもらった。それをおいしいおいしいと私が食べたのを母は覚えていたのだ。その土曜日の朝、母が「今日のお昼はこれを食べておきや。」といってレトルトハンバーグを見せてくれた。私は喜んだ。いや、正確には喜んでみせた。なぜなら冷たいことには変わりないことを知っていたからだ。
2017.11.29
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バスの中は暖房がかかっていても、バス停から家まで歩く間に身体は冷え切ってしまう。身体を温めようと走っても、風を受ける分やはり体は冷える。家には暖房器具は石油ストーブがあったのだが、火事になるからと小学1年の私には使わせてもらえなかった。庭の隠し場所にあるカギを使って家に入ると、もちろんだれもいない。そして家の中は冷え切っている。そこに待っているのが冷え切った食事だった。母が用意してくれたおかずも、スープやみそ汁の類も身震いするほど冷えていた。中でも一番きつかったのはご飯である。水分がある程度ではあるが凍っていたのか、あるいは凍ってもおかしくない温度に下がっていたのだろう。口に運ぼうとすると、箸の間から米が一粒一粒バラバラになってお茶碗の中に落ちていく。それでも食べた。震えながら食べた。空腹を満たすためではない。冷え切った身体に冷え切った食べ物を入れるのはほとんど苦痛だったから、本音を言えば食べたくなかった。でも、夜に母が帰宅すると必ず私に聞くのだ。「ご飯、ちょっとはまだ温かかった?」と、、、。母も心配してくれていたのだ。その問いに私はいつも「大丈夫やった。」と答えた。心配をかけたくなかったのだ。「大丈夫やった。」その言葉を言うためには、冷え切った昼食を完食しておかないと説得力がない。そう思った。だから食べた。震えながら食べた。しかし、、、今思うと、母には分かっていたのだ。
2017.11.28
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冬の土曜日。まず私を苦しめたのは昼食だった。もしくは私にとっての最大の難関だったかもしれない。当時私は小学1年生。「まだ危ないから」とガスコンロを使うことは許可されていない。当時の我が家の炊飯器には保温機能がなかった。また当時は今のようにどの家庭にも電子レンジがある時代ではなかったので、もちろんのように我が家にも無かった。つまり、私は冬の土曜日の昼食に、朝母が作っていってくれたご飯を食べなければならなかったのだ。当時の冬場は現在より気温が低い。しかも盆地の奈良である。その冷え込みは厳しいものだった。私が帰宅する頃には、母が作ってくれていった食べ物は冷え切ってしまっていた。
2017.11.27
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そんな生活を続けていると、いつの間にか夏休みが終わって秋が来ていた。だてに4歳まで長野で過ごしていたわけではない。冬の厳しさはよく身にしみていた。冬はほとんどの水生生物の姿が無くなる時期であった。やがてタライの中の生き物たちにも冬がやってきた。寒さで動きもほとんど無く、こちらも屋外なので長時間眺めているわけにもいかない。最初に出会った大きなカメに至っては、母の説得もあって夏休みに終わりに池に逃がしていたので、それも寂しさを倍増させた。こうして再び学校から帰ったら、寂しくなかなか過ぎない時間が私を待つことになっていった。中でも私を一番苦しめたのは土曜日だ。さすがに二学期も中盤を過ぎると1年生でも6時間授業が定番となり、帰宅しても一人で過ごす時間は少なくなった。しかも宿題をしてしばらくすると子供向けのテレビ番組が始まる時間が近かったので、平日はなんとか切り抜けることができたのだ。でも土曜日は違った。
2017.11.26
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毎日のように川と池を探索し、私はいろんな生き物を捕まえた。しかし全てを家に持って帰るわけにはいかない。なので気に入った生き物だけを持ちかえり、タライの中で飼育した。私が持ち帰ったものは、ザリガニやエビの類がほとんどだった。そのうち網をもって家を出る日も少なくなってきた。タライの中の生き物を見ているだけで、時間が過ぎていってくれるからだ。カメやザリガニは手に取ってみたりもするが、透明なスジエビなんかは自分の手の温度だけで死んでしまうこともあったので、ただ眺めていた。小学1年の子供のすることである。生き物たちにとって、そのタライの中が快適とは言い難い状況だったのだろう。帰宅すると、ザリガニやエビたちが死んでいることもあった。それを見て次男が私を「飼い殺し」「飼い殺し」と嘲笑した。それでも私は生き物たちが死なないように、少しでも快適に過ごせるように、なんとかしようといろんなことを試みた。なぜなら彼らは私にとって、かけがえのない存在だったからである。子供ながらにではあるが、もちろん心の隅には罪悪感はあった。申し訳ない気持ちもあった。自分勝手な理由で命をもてあそんでいるのではないかとの後ろめたさがあったのも事実だった。それでも私はタライの中にいる小さな命たちと共に時間を過ごしたかったのだ。なぜなら私は、彼らと過ごせる時期は限られていることを知っていたからだ。
2017.11.25
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それまでも何度も網を持って川や池に出かけたが、いつもだれかと一緒だった。でも、『小さいから』という理由だけで「ああするな」「こうするな」「ああしろ」「こうしろ」と何をするにも口を挟まれる。言われた通りにしたにも関わらず、うまくいかなかったときは「お前が下手だから」「お前が小さいから」「お前がバカだから」と言われる。そもそもそいつの指示や説明または判断が適正でなかったのが原因のくせに、その失敗をこっちのせいにされる。だから面白くなかった。でも、これからは違う!自分の判断で、自分の思うようにできるのだ。失敗しても成功しても、すべて自分の判断や選択の結果だ。一人でいるのも悪くない!そう思えるようになった。1匹のカメとの出会いで、私の帰宅後生活は楽しいものとなった。また、同じ時間でもそれを楽しく過ごすのも寂しく過ごすのも自分の考え方次第だ・・・なんて、ちょっとした発見をしたような大人になったような気持にさえなっていった。
2017.11.24
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左側の用水路に、何やらのっしのっしと歩くものが・・・カメであった!大きなクサガメであった!無類のカメ好きの私はもう狂喜乱舞だった。狭い田んぼ道に腹這いになってカメを用水路から引き揚げて、そのまま抱えて、あれほど帰りたくなかった家に走ってたどり着き、裏庭におったおおきなタライに水道水を入れて、そこにカメを放した。それからというものは、カメのおかげで時間の経過が早くなり、一人で家にいることが苦で無くなった。カメを眺めているといつの間にか時間が過ぎてくれる。そして誰もいない家に帰るのではなく、誰かがいる家に帰る事実は私の帰宅の足取りを軽くしてくれた。しばらくするともっと家に仲間を増やそうとして、帰宅すると網とバケツを持って川や池を駆けずり回るようになった。そうなるともう学校にいっても、早く家に帰りたくて仕方がない状態になってきた。
2017.11.23
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翌日、私は学校での時間を楽しんだ。学校には必ず誰かがいて一人ではないのだ。ずっと学校にいたかった。しかし時間とは無常である。過ぎてほしくない時間は足早で、過ぎてほしい時間はなかなか過ぎない。学校での時間はすぐに過ぎてしまった。友達とバス停にいても、来てほしくないバスはいとも簡単にやってきて、気づけば私が降りなければならない停留所に到着する。仕方なくバスを降りて、ゆっくりと家路を歩く。家についてしまうと、またあのなかなか過ぎてくれない時間との戦いが待っているから、ゆっくり歩いた。それでも家はどんどん近づいてくる。そこで私は閃いた!真っ直ぐ歩くから家に着いてしまう。家の方向に対して真横に歩けば距離を稼ぐことができるのだ。早速、いつも歩く道から横にのびている小さな田んぼ道に入る。狭いでこぼこ道なので、両手を真横に伸ばしてバランスを取りながら歩く。右側が田んぼ、左側は用水路、どちらに落ちても足は泥だらけである。ほんのつかの間、これからやってくる寂しく長い時間の訪れを忘れていたそのときだった。私に救世主が現れた!
2017.11.22
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気の遠くなるような時間を一人で過ごし、夕方近くになってやっと次男が帰宅した。彼は私が寂しがって泣いているだろうことを期待していた。私が少しでもそのような様子を呈していれば、それを手柄のように家族中に言い触れて回ろうという魂胆であることは最初から重々承知だ。案の定、彼は帰宅するとすぐに私のところにきて「泣いてたんやろ?お前は弱いからな。」と言って私の顔を覗き込む。目が赤くなっていないか、頬に涙の跡がないかを確かめるためだ。私の泣いた痕跡を認められなかった彼は「まあ今日は泣いてないみたいやけど、明日からはどうかな?楽しみやな。」と言って満面の笑みを見せた。私が精一杯のやせ我慢を張り通したのは、次男にバカにされないためではない。彼は何があってもなくても私をバカにする。彼は私がほんの少し泣いていても、それをこれでもかと大げさに家族中に言いふらすのは間違いない。それはどうでもいい。毎度のことだ。しかし今回だけはそれをされたくはなかった。それをされると母に心配をかけてしまうことになるのだ。それだけは避けたかった。だから、精一杯のやせ我慢を張り通した。
2017.11.21
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家に着くと私はどこかのドアが開いていて母がいないかとすべての入り口を開けようとした。しかし全ての入り口には鍵がかかっている。母に言われたところに手を入れると、鍵の感触があった。先日母が「ここに入れとくからな」といった位置より手前に鍵の感触があった。そのカギで玄関を開ける。家の中は静まり返っていた。ランドセルも置かずに台所にいってみる。洗濯機のある場所にいってみる。二階に上がってみる。どこにも母の姿はなかった。二階の勉強机の上にランドセルを置いて再び台所にいく。食卓の上には、朝母が言っていたとおりの食べ物が置いてあった。さっきバスの中ではあんなに空腹を感じていたのに、なぜだか食べる気がしなかった。意味もなく「わ~!」っと大声を出してみる。その音はただ家の中の静寂に吸い込まれてしまうだけで、何も起こらないし何の物音も返ってこない。その静寂に耐えられずテレビをつけてみる。何やら難しい番組しかやっていない。テレビを消して、階段の真ん中に座り込む。これから兄が、母が帰ってくるまでの時間がとてつもなく長いものに感じた。
2017.11.20
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翌日の朝、母はいつもと変わらず3人の息子たちに朝食を作って送り出した。家を出る前に母は私にだけ、鍵の場所の確認と昼食の指示をした。長男はすでに中学生で部活もあり帰宅は暗くなってからだ。次男は小学3年だったが、やはりクラブに所属していた。我々の小学校の鼓笛クラブは県でもトップレベルを誇っていて、練習も遅くまで行われていた。私はといえば、昨日小学生になったばかり。新入生はしばらくは午前中授業で、給食を食べずに帰宅となっていた。帰宅しながらも私はこのときまだ家に母がいないことを半分以上信じていなかった。私の通学路は幼稚園時代とほぼ変化がなかった。幼稚園と小学校はすぐ近くにあるので、ほぼ同じ道を歩いて同じバス停から同じバスに乗る。この日も同じバスに乗って帰ってきた。
2017.11.19
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私の小学校の入学式の日の帰りのバスの中で母は言った。「明日からはお前が家に帰ってもだれもいてへんで。」「お母ちゃんは明日から大阪のおばあちゃんのいてる病院に毎日いくからな。」「帰ってくるんは夜遅くなるで。」「家で一人で留守番できるやろ?もう小学生になったんやから、、、。」そう言われても何かピンと来なかった。今までいつもだれかが家にいてくれていて、一人で時間を過ごしたことなんかほとんど無かったからだ。でも幼いながらに、「寂しいんやろな。」とは思った。帰宅後、母は私にお昼は何を食べたいかと聞いた。私は「チキンライス」とこたえた。昼食後は、明日からはじまる小学校生活に必要なものを一緒に準備した。今日もらってきたばかりの教科書やそのほかのものにも母は私の名前を書いてくれた。それは私にとって本当に幸せな時間だった。この母が明日から家にいないなんて考えられなかった。そして夕方になって兄たちが帰る前に、母は私を庭に連れ出し、家の鍵の隠し場所を教えてくれた。
2017.11.18
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これを読んで「なんでそんなことを文章にする?」「我が家ではそんなことはない!」という親族は、間違いなく『そちら側』だ。せいぜいこれからもそうやって恥ずべき生き方を貫けばいい。でも母は『こちら側』だった。いや今もそうだ。「家庭がある」「子供がいる」「忙しい」と、付き添いを断る義妹たち。長男である父でさえ、「仕事がある」「わしゃ病院嫌いや」といってこの話にタッチしとうともしない。母にも家庭があった。母にも我々3人の子供がいた。母だって多忙だった。しかしながら母は付き添いをすることにした。義妹たちは病院の近くに住んでいて、母はバスと電車を乗り継いで片道2時間以上ははかかる奈良県に住んでいた。それでも毎日通うことにした。付き添いを生業(なりわい)とする人もいたが、1人雇うと1日1万円という高額な費用を必要とした。だれも入院費や手術費を払おうともしない中、付き添い代を払う人がいるとは思えなかった。全ての費用は母が捻出しなければならないのだ。しかも入院はいつまで続くか分からないし、手術も1回で済むかどうかも分からない状態でもあった。だから母はできるだけ費用を節約したかった。それもあって母は毎日義母の付き添いに通うことにした。
2017.11.17
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翌年の春、幼稚園に通うようになっても、やはり私が一番遅くに家を出て一番早くに帰宅するのでいつでも家に母はいてくれている状態が保たれていた。そのうち次男が帰宅し、長男も帰宅し、そこに出張の無い日の父までが帰宅すると、いい意味でも悪い意味でもにぎやかな一家団欒がそこにあった。・・・しかし、私が小学校に上がる年の3月、私の生活が一変することになった。大阪に住んでいる父方の祖母が長期入院をすることになった。祖母の手術ができるのはその病院だけ。そしてその病院に入院する条件に1つに、『必ず付き添いをつけること』という項目があった。父は長男で、妹(私からすると叔母)が3人いた。当時の我が家は奈良にあり、付き添いは近くに住んでいる叔母たちがするのかと思うと、それが違っていた。自分の世話をすることや面倒をみてもらうことは当たり前で、たとえ身内でも自分以外の人間の世話や面倒をみることを極度に嫌うのが我が家の王道である!そこには情けも恥も恩義も何もなく、ただそのとき自分が楽であればいいという、心底恥ずべき血統なのだ。さらに付け加えるなら、その世話や面倒をだれかに押し付けた挙句、その人のあら捜しだけは事細かにおこない、結果論から偉そうに文句を言うことで自分の方の立場が上であることをアピールするのも我が家の恥ずべき王道なのだ。
2017.11.16
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昭和44年の3月末、3人の兄弟が越してきたばかりの2階建ての家の2階の窓から景色を眺めていた。それまで彼らが住んでいた家は平屋だったので、これからこの家で過ごすことになると思うと3人ともなんだかワクワクしていた。長男10歳、次男5歳、そして3歳の三男が私であった。それまで私は両親と2人の兄に囲まれて幸せに過ごしてきた。いつも誰かが私のそばにいてくれて、多少のわがままは聞き入れてもらっていた。もちろん親や兄たちに叱られることもあったし、仕事柄出張が多い父がほとんど家にいない状態であったが、それでも何不自由ない生活を送ってきた。さらにこれから数年は、幸せな時間が私を待っていた。4月になると、長男は新しい学校に、次男も新しい幼稚園に通いはじめた。兄2人が家を出ると、私は母親とゆったりとした時間を過ごした。父や兄たちを送り出すのに大忙しだった母とテレビを見ながら朝食を食べる時間が何より好きだったし、それから兄たちが帰ってくるまで母を独り占めできることが何より幸せだった。
2017.11.15
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しかしながら、かく言う私自身もまだまだ未熟者。ときとして、親を慕う子の心、子を想う親の心を忘れてしまうこともある。そのたびに私の脳裏をよぎる苦くもあり有り難い体験があるので、今回はそれを紹介したい。これを読んだ皆さんが何かを感じていただければ、また、親との接し方、子供との接し方をもう一度見直していただければ幸いである。
2017.11.14
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50年以上連れ添った最愛の妻から病苦に耐えられずに「殺してほしい」と懇願され、自らの手でその願いを叶えた男性は、どんな気持ちだったのだろう。独身の身で後期高齢者となった両親の面倒を見続けて、収入が途絶えて、父からみんなでこの世を去ろうと提案され、11月の関東の冷たい川に、年老いた両親を乗せて車で入っていた娘さんはどんな思いだったのだろう。考えれば考えるほど気の毒である。そして同時に、明日の自分かもしれないとの覚悟も強いられる。家族とは、きれいごとではないことを嫌というほど知っているからだ。しかしながら、怒りしか感じない場合もある。子供が言うことをきかないからと、子供が泣いてうるさいからと、親がその幼い命を奪う。堕落しきった、怠け切った生活を正すように言われた子供が親を手にかける。それらの事件には、ホンマにいったいどういうこっちゃねん!と怒りを通り越して情けなくなる。『親の心、子知らず』という言葉がある。果たしてそうだろうか?確かに『親』になったこともない人間が、親の気持ちを100%理解することは不可能かもしれない。しかし!ある程度は想像がつくのではないかと思う。その想像力が無いことを、想像もしないで自分中心の考えだけを振りかざすことを[思春期]だとか[反抗期]だとか、分かったような言葉で見過ごしてきたツケが今回ってきている。さらにそうして見過ごされていい気になって年齢と身体だけが大人になった馬鹿者たちが、今度は親になってしまい、子供を虐待する時代になってしまっている。
2017.11.13
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最近よく耳にするニュースがある。親が子供を、または子供が親を殺害する事件だ。「世も末だ」と嘆く声も聞こえるが、その言葉は少し間違っていると私は思う。なぜならこの問題は日本も含めて世界で広く、また古くから文学として描かれてきているからだ。つまり古今東西を問わず、この問題は我々人間の中で起こってきたことなのだ。家族が家族に手をかける・・・「そんなひどいことを!」と言える人はある意味幸せな人であろう。50歳を過ぎて私は強く思っている。家族であることはきれいごとではないと。ときに修羅場であり、ときに多くを救うために少数を犠牲にしなければならない残酷極まりない状況も起こり、さらには家族の絆や尊厳を守るために全てを終わらせなければならないことも起こり得る。悲しいが事実だ。これに関しても否定する人は、現時点では偶然そんな状況に遭遇していない幸せな人か・・・。あるいは、そのような状況が起きても故意に目を向けず背を向け、その対処をだれかに押し付けているにも関わらず涼しい顔をして自分だけの幸せを謳歌しているこの上無い卑怯者だ。家族の命を絶った人の事件の経緯を知ると、私は心から痛いほどのシンパシーを感じることも本当に少なくない。
2017.11.12
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長々と【随筆】について触れてきました。学生諸君は多少なりとも『随筆慣れ』をしてもらえたことかと思います。『慣れ』どころか「もうええわ!」との言葉まで聞こえてきそうですね。さて!ここで懲りることなく、たたみ掛けるように、次の話題を【小説】【物語】に移行させたいと思います。これからまたしばらくは私の文章に付き合ってもらうことになります。一度ちゃんと文章に残しておきたかったことがあるので、それを【小説】【物語】として文章化していきます。【随筆】との違いを感じてもらえると思います。全回のような長い論説部分も少なくなる(または無い)ので、全体的に読みやすいものになると思いますよ。構成は、プロローグ第一章第二章第三章エピローグとなる予定です!途中で変更があるかもしれませんが、、、。皆さんは、チキンハンバーグをご存知ですか?今でもどこにでも売っているレトルトのハンバーグです。それを話題に文章を進めていきますので、またしばしお付き合いください!
2017.11.10
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さて!『2017年 5月 友へ ・・・』の解析はここまでにしたいと思います。が、最後の問いかけです。学生諸君!君たちにとって『友』の定義とは何ですか?そして君に『友』と呼べる人はいますか?
2017.11.09
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【新品】【本】ヨーコさんの“言葉” それが何ぼのことだ 佐野洋子/文 北村裕花/絵 小宮善彰/監修価格:1404円(税込、送料別) (2017/11/8時点)これ一冊ではないのですが、とりあえず紹介させていtだきます。前回もそうでしたが、この広告みたいなのを入れるのが上手にできませんわ!
2017.11.08
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ちょっと調べたらすぐにわかりました。『ヨーコさんの言葉』の作者が・・・有名な作家さんでした。私は先日テレビで見たのは『今日でなくてもいい』という回でした。実は夏頃にも偶然一度見たことがあって、それは『普通に死ぬこと』って題名の回だったと記憶しています。どちらも示唆深い内容でした。原作本ももちろん販売されていて、[イラストエッセイ]とジャンル付けされています。だから【エッセイ】なんです。10分もない番組なんで、学生諸君も一度見てみてください。「これがエッセイ」というお手本のような内容ですよ!おそらくどの回も示唆深いものだとは思いますが・・・学生諸君にはちょっと難しいというか、ピンとこないかもしれませんがね。とにかく、作者の言いたいことをしっかり読解してください。やっぱり文章力や読解力を身につけるには、よい文章にたくさん触れるべきです!フランクな言葉の表現と思わせておいて、洗練された言葉と流れるように綴られた文章を楽しんでください。
2017.11.06
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あ、そうそう!言い忘れました。たまに質問がある【エッセイ】についてです。【随筆】ほど頻繁ではないですが、「エッセイって何ですか?」「エッセイってどう読解すればいいんですか?」との質問があります。本当にざっくり言うと、【随筆】と【エッセイ】はほぼ同じと考えていただいて問題ないですよ。私の感覚では、【随筆】は物語のストーリーを辿りながら自らの思考や論理展開を加えていくのに対し、【エッセイ】は思考や論理展開を辿りながら、それに説得力をもたせるための物語やストーリーを加えていくもの、、、です。それらのたて分けと関連性を理解できれば、入試や模試の現国文章問題は問題なく読解できます。最近、とある場所で食事をしていたとき、その店で某国営放送の番組が流れてい巻いた。手書きの絵に朗読が流れる紙芝居のような短い番組です。題名は『ヨーコさんの言葉』!!それを見ながら「エッセイの見本やな」と思いました。作者も存じ上げなければ、原作も知りませんが、私に言わせればあれはお手本のような【エッセイ】です。物語部分と論説部分のたて分けと関連性が理解できれば、あそこからどんな問題を出題されてもおそらく大丈夫ですよ!
2017.11.05
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いつものように話が長くなりましたが、結論です。高校生諸君のみならず、中学生諸君からも声のあがる「模試の範囲表に、小説・論説文・随筆とありますが、随筆って何ですか。」または「随筆ってどのように勉強すればいいのですか。」というお悩み・・・。結局は、出題された文章の部分部分で「ここは小説要素!」「ここは論説文要素!」と自分で判断して読みわけをしていけば、何も問題は無いってことですよ。ただ、これらが混在している場合は論説文的な読み進め方がベストだと個人的には思います。この物語要素は、この論説部分を強調するために書かれている・・・とか、この論説部分は、この物語部分の展開の布石になっている・・・とかね!その相互関係を読解できれば、もう楽勝です。だって、【随筆】なんてジャンルはせいぜい400年前に確立されたものなんですからね。文章の基本・ルーツは、あくまでも「物語/小説」と「論説文」なんですから。【随筆】恐るるに足らず!です。
2017.11.02
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細かく説明すると深みにはまってしまいますので、ざっくりと!【随筆】というジャンルが日本で確立された…というか登場したのは室町時代です。ヨーロッパでも1500年代だったはずですから、日本の方が早かったのではないでしょうか?あるいは日本の影響を受けて海外でも【随筆】という考え方が導入されたのかもしれませんね。だって、戦国時代後期から安土桃山時代までは、日本と西欧間の交流は盛んであったのは事実ですしね!また英語で【随筆】を意味する1語の単語が存在しないもの、それが原因ではないかと、一人密かに思っていたりします。さて、でも話の本筋はここでなないんですね。もう気付きましたかかい?学生諸君よ!つまり!清少納言も、鴨長明も、吉田兼好も、「よっしゃ、ここは一発、随筆をかいたろうかい!」と思って『枕草子』や『方丈記』や『徒然草』を書いたわけではないんですよ。後から別の人物たちが、「これは素晴らしい随筆ですやんかいさ~~~!」って言うてしもたから、「はい、これは随筆!」となったのです。もちろん文章内容は【随筆】ですよ。全体を通して考えれば・・・ですよ!
2017.11.01
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