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私が一カ月もそのパターンを続けていると、さすがにスター気取りのバカたちも気づき始める。自分に注目しない人間がいることが気に入らないのだ!しょ~もない人間に限ってしょ~もないプライドを持っているのはどの世界でも同じだった。夏休みか近づいてくる頃には取り巻き連中から「◯◯さんが怒ってるから帰ったりせんほうがええよ。」なんてご親切にも忠告してくるバカも出てくる。それらの有り難いご忠告に私も礼儀を尽くして「怒っとんのはこっちじゃ!言いたいことあんねんやったらてめぇで直接言いに来い言うとけボケ!」とお答えしていた。そうなるといよいよ私はその無料開放時間帯のスタジオ内で浮き始める。そうなったらなったで、みんな仲良くお手てつないで音楽をしたいようなうっとおしい連中からも無駄な言葉がかからなくなるので返って練習に専念することができたので、一石二鳥だった。そんな私を見た店長は「ゴマちゃんはロックやなぁ。」なんて茶化してくれたのだが、それにも私は「僕、ロック嫌いなんで!」と丁寧にお答えしていた。そして夏休みに入って私が最初にスタジオを訪れた日、、、。スター気取りの中でも1番人気だった男が私に声をかけてきた。
2017.12.31
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その日からしばらくの間、私はその店長の手ほどきを受けることとなった。彼は私の知りたい専門用語をひとつひとつ丁寧に教えてくれて、同じく私に足りない技術も伝授してくれた。毎日は通えなかったが週に2~3回はその店に足を運んだ。本格的な梅雨時期を迎えるころに店長は私に「あとはしっかり練習するだけやから、来たら2階のスタジオに上がってがんがりや!」といってくれた。その店のスタジオは平日の夜7時半までは学生に無料で開放してくれていた。平日の夜7時半以降と土日祝祭日は有料予約制で貸し出されていたので、社会人のバンド等が使用していたが、それ以外の時間はお金に余裕のない学生タイムとなっていたのだ。もちろん無料時間帯は様々な楽器を練習する学生がそれぞれの練習をしていた。ときには自然発生的にいつの間にかセッションが始まっていたりして楽しいひと時を過ごせることもあったが、そうでないときもあった。中には男前で楽器もそこそこできるスター的な高校生がいて、そいつらが練習をするときにはファンのような女子高生が集まってきてギャーギャー騒ぐ。そんなときは関係のない私のような者の練習にならないので、実に不愉快極まりないのだ。それでも我慢して練習する者もいれば、その女どもと仲良くなりたくて一緒になって騒ぐバカも現れる。私はそいつらを一匹ずつ殴って回りたかったが店長の手前それもできなかったので、そのスター気取りバカがスタジオに入ってきたらすぐに帰り、私がスタジオに入ったときにバカが一匹でもいれば練習せずにそのまま帰った。
2017.12.30
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数日後、軽音楽部の1人が私の教室にやってきた。「これMから。お前こんなん聞くんか?」とヘビー系のロックバンドのカセットを手渡した。「いや、なんやろな。」と受け取ったそのケースの中にはカセットと短い手紙が入っていた。そこにはM先生の知り合いの金管楽器の名手が小さな楽器店を経営しているので、その人に会うことを勧める内容が書かれていた。しかももう連絡してあって、その人の了承も得ているとのことだった。その人の店はちょうど私が通学で使っている私鉄の沿線のある駅から近かった。定期券もあるし途中下車しても問題なかったので、早速その日の帰り道に寄ってみることにした。そこはこじんまりとしていたが品ぞろえ豊富な店で、二階には貸しスタジオまであって多くの若者でにぎわっていた。私が店内に入ると、店長らしき人物が声をかけてくれた。「ゴマ君やな。Mから聞いているで。ちょっと待ってな!」私は「はい」と返事をしたが、店長はお客さんにギター奏法の見本を見せているところみたいで、その腕前に驚いてしまった。M先生の手紙には金管楽器の名手と書かれていたのだが、ギタリストとしても名手だったのだ。後で知ることとなるのだが、この店長は本職が金管楽器で趣味がギターという肩書にくわえてピアノの腕前も一流だった。
2017.12.29
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当時我々吹奏楽部は毎週月曜日朝の朝礼の校歌斉唱のときに校歌を演奏していた。入学してすぐにその演奏に加わった1年生トランぺッターの音色にM先生は注目してくれていたのだ。彼は私の音色の良さは褒めてくれたのだが、それに見合った技術が無いことを指摘してきた。そう言えば軽音楽部の一部の部員から「顧問と口論になって辞める人間が多い。」との噂も耳にしていたが、このときその話に納得がいった。彼の指摘は耳が痛いものであったが、それは同時にその指摘が正確に的を突いている証拠でもあったのだ。私はその指摘に感謝の言葉を述べたあと、自分のトランぺッターとしての経緯とこの時点での悩みを隠さずに話した。私の話を聞いてくれたM先生は「なるほどな。」と言って少し考えた後に、「僕に考えがあるからまた知らせるわ。」「でも安心しいや。お前のとこの顧問や部員に知られんように手は打つから。」と笑顔で言いながら私の肩をポンと叩いて職員室に戻っていった。
2017.12.28
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そうしながらも高校生活がひと月を過ぎようとしていたゴールデンウィーク明けのある日・・・。放課後の部活が始まるまでの時間に食堂でパンを食べている私にM先生が声をかけてきた。この先生は軽音楽部の顧問で、校内で唯一といっていい音楽に精通した先生だった。勉強なんかさらさらできないむくつけき男子高校生ばかりが通うこの学校には『音楽』という授業自体が無かった。つまり音楽の先生がいなかったのだ。ちなみに吹奏楽部の顧問も音楽経験が無く学生時代はずっとラグビーをしていた男だった。ラグビー部の顧問になればよかったのだがそのポストには全国制覇を経験した先生が就いていたので、全く畑違いの部の面倒をみることになったのだ。ごっつい体つきでプロレスラーの[ボボ・ブラジル]に似ていたので、我々部員からは[ボボ]と呼ばれたいた。私が入部して間もないとき、この[ボボ]がやってきて「音を合わせるぞ!」と言ってタクトを持った。彼が指定した曲は3拍子だったのだが4拍子のリズムでタクトを振りだした。先輩たちは何事もないかのようにしているので、私は「先生、この曲は3拍子です。」というと「・・・12で合うやんけ!」と平気で言い放つ男が[ボボ]であった。悪い男ではないのだが、こと音楽に関しては頼りにならないというか話にならない男であった。しかしM先生に関しては軽音楽部の連中から「うちの顧問はボケ~っとしとるけど、音楽に関してはスゴイ男や!」という情報を得ていたので、この先生から話しかけられたのは驚き半分・嬉しさ半分であった。
2017.12.26
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そして秋頃になるとやはり抜き打ちで先生がやってきて、我々は独学の成果を披露する。まずはマウスピースだけで音階を吹いて聞いてもらう。♪=120のテンポで「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」の各音を1小節ずつ吹いて、先生から合格が出たら、やっと次の日から学校所有の練習用のトランペットを貸してもらえる。そんなことをあと3段階ほど繰り返して最終試験に合格した者だけが、体育館での上級生との練習に合流できるのであった。つまり我々は何も教えてもらうことなく、独学・研究・仲間同士での技術的情報交換のみで最終試験までたどり着かねばならなかったのだ。しかし我々はそのシステムに何も疑問も持たなかった。ところが高校生になってはじめて自分がちゃんとした基本や用語を知らないままである状況だということに気付かされたのだ。ならば部活の先輩にでも聞けばいいのだが、なぜかそれもできなかった。『聞くは一時の恥』というが、その一時の恥に耐えられないような気がしたのだ。
2017.12.25
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私の通っていた小学校は鼓笛隊のレベルの高さで有名だった。そのレベルを保つために練習は長時間で、なおかつハードなことでも有名であった。それ故やめていく者も多く、入隊希望者は多いが卒業時の生残率は3割ほどの低さであった。その中でも一番生残率が低いのはトランペット隊!私の同期だけでいうと1割を大きく切っていた。だから中学1年で野球部に入ろうとしたとき、担任が「野球部なんかレギュラーになること以前に3年間続けられる人間なんか3割ほどしかおらんからやめておけ!」と言ったが、私は「3割なら楽勝です!」とい返したのも、小学校卒業時にトランペット隊として生き残っていた事実に基づく自信からであったのだ。そのトランペット隊練習生の募集は3年になってすぐに始まる。応募条件は1つだけ、300円を支払って練習用のプラスチック製マウスピースを購入すること。トランペット隊は花形だった!ビジュアル的には女子のポンポン隊が花形なのだが、その人数の少なさからトランペット隊はちょっとしたエリートのようなポジションにあった。またどの曲を演奏するにしても、その主旋律を担当するトランペットの存在感は他のベルリラや小太鼓の楽器隊とは一線を画していた。だから練習生希望者は毎年大勢になった。マウスピースを購入した者は、放課後音楽室に集合してひたすらそれを吹き鳴らす練習をする。そにはほとんど先生は顔を出さず、全くの独学で技術を習得しなければならない。もちろん最初の何日かはだれも全く音を出すことなんてできない。その時点でもう多くのメンバーがやめていく。また子供たちだけがいる音楽室なので、中にはふざけだす者も出てくる。しかし抜き打ちで先生が様子を見に来る。そのとき練習をしていない者は、即座にクビを勧告される。そうやって生残率はどんどん低くなってった。
2017.12.24
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高校の部活がない日曜日と祝祭日は地元の音楽隊に入って練習に打ち込み、少しでも早くブランクを埋めようと寸暇を惜しんだ。野球とは違って少しは才能があったのか、部活でも音楽隊でも腕を買われた。しばらくはいい気になって練習に集中していたのだが、日に日に自分でも全く気付いていなかった大きな欠点が明確になってきた。もちろん吹けといわれればトランペットを吹くことはできる。しかも私は吹き込んだ空気と楽器に与えた振動の量を実に無駄なく音色に換えることができるのが自慢だった。学校でも音楽隊でもその音色に定評があり、自分でも絶対的な自信があった。しかし問題は知識面に顕著に現れた。私のそれは文字通り小学生レベルだった。いや、正確にいうとそれ以下であった。それは私のトランペットの基本技術のほとんどが全くの独学であったことに起因していることに気付いたのだ。
2017.12.23
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そんな学校ではあったがとにかく入学したのだから3年間で卒業だけはしようと、入学式の翌日から早朝の電車に乗って通学を開始した。いざクラスが決まり授業が始まると、私は急にその学校の雰囲気に馴染みだした。後ろの席に座っている気さくなS君と友人になったこともその大きな原因だが、クラスの空気が心地よかった。「どうせアホの集まりやから!」との言葉を明るく笑いながら口にしながらも勉強に立ち向かおうとするメンバーが揃っていたし、先生たちもそんなことは重々承知で教壇に立っていてくれるので、ある意味中学のときより気楽に過ごせた。そして部活動は入学当初に決めていた吹奏楽部に入った。中学では3年間野球部に所属して部活部活の生活をしていたのだが、それがかえって自分の野球選手としての限界を私に通告した。その野球部は市の大会は優勝して当たり前!県の大会では準優勝で本気の悔し涙を流すような強豪チームであった。そんなチームの練習に野球選手として凡庸なる私がついていったのだ。中3になると同時に肩と腰に故障が出た。それでも県内の高校に万が一でも引っかかれば野球を続ける気もあったが、越県通学となると帰宅時間に心配があった。おそらく深夜帰宅を3年間も続けられない。なので、吹奏楽部を選んだ。小学校時代の約4年間、鼓笛隊に入ってトランペットを経験していたので、もう一度トランぺッターとしても腕を磨こうと考えたのだ。
2017.12.22
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15歳の春。私はかろうじて奇跡的に高校生になっていた。小学3年になってから完全に勉強から落ちこぼれた私は、どんなに成績が悪くても時間さえ過ぎれば進級できる日本の教育制度のおかげで中学3年生までは過ごすことができた。中学生活も残り半年となったときは、さすがに進学はしないで就職をする決断をした。なぜなら高校は勉強をしにいくところで、自分は勉強ができないからだ。しかし「何をするのもええけど高校くらいは出ておかなアカン!」との母の言葉に、半年だけ自分なりに懸命に受験勉強をして入試も受けた。どこにもひっかからなければ母も納得するだろうと思っていたのだが、1校だけ合格した。(当時)底辺校も底辺校、入試で名前が書ければ合格とも、チンピラ養成校とも陰口をたたかれる男子校だった。実際、入学式の日に「えらいところに来てしもたかも・・・」と思わされる数えきれない出来事に遭遇した。その高校へは自宅から越県通学となるので、電車の乗り継ぎがスムーズにいけば片道約2時間半の道のりを行き来する生活がはじまった。
2017.12.21
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そう!母だけはだませなかった。母だけは分かっていた。だからこそ母は私が家でひとりで昼食を食べる日の朝はチキンハンバーグを温め続けてくれた。「またあのハンバーグでええんか?」とたまに母は私に問いかけることもあったが、私は「うん!」と返事をした。あんなに子供にインスタントを食べさせることを嫌う母が、せめて私が食べたいというものを用意しようとしてくれたのだ。おそらく少しでも私の家に帰る足取りが軽くなれば・・・と考えてくれたのであろうことは幼い私にも感じとることができた。少しでも足取りを軽くしたい・・・ということは、私の帰宅の足取りが重いことが分かっている証拠なのだ。だからこそ、私もその思いにこたえるべくひとりの時間と対峙した。理由は勿論母に心配をかけないためだ。そして冷えたハンバーグとご飯を食べ続けた。理由は1つ。母が私に用意してくれた食べ物だからだ。私は思った。たとえこれが石であっても、毒であっても絶対に食べる!それが母の用意してくれたものであるなら・・・。あの冷え切ったチキンハンバーグの味は今も忘れてはいない。私にとってあの味は、子を想う親の気持ちであり、親を想う子供の気持ちであるからだ。
2017.12.20
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小学1年生の子供にとって、ひとつの季節が過ぎるのは果てしなく長く感じる。実際この年の冬は長かった。でも負けなかった、何事もないかのように過ごした。だれからも心配されないようにするためだ。だれからもバカにされないようにするためだ。Iさんのシチューを食べられないほどに泣いた日以降はその試みはほぼ成功させることができた。学校では明るく元気!家では一人の時間をものともしない!一人での食事もしっかりとちゃんと済ませる!そんな自分であろうとした。そしてほとんどの人たちが私をそんな子供であるといつしか認識するようになっていった実感もあった。しかしながらである。ひとりのだけ最後までその認識を持たない人がいた。私自身もその人だけはだまぜはしないことは分かっていた。
2017.12.18
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それを実行に移した。さっさと移した。いつものようにグズグズ行動をしていると考えないでいいことを考えてしまい、感じなくていいことを感じてしまうからだ。そして黙々と冷たくなったチキンハンバーグ・ライスを食べた!何も考えずに黙々と食べた!階段には行かず、食卓で食べた。食卓には家族の人数分の椅子が置いたあった。そこで1人でいると、自分は一人きりであることを再認識させられるので、それが嫌で階段の中腹に座った。そこに座れば、食卓を見ることなく過ごせるからだった。だから敢えて食卓で食べた。しかし、それらをいざ一度実行に移すと、いとも簡単に時間が過ぎた!するとなんだかひとつ強くなったような気がした。そして次にくる給食無しの半日授業の日が来るもの苦ではなくなってきた。そしてそんな生活を何週間か続けているとふと気付いた。誰かがいてくれてその人や人たちと過ごすことができる時間が特別で、寒い日に温かい食べ物があることが特別であることに!そう、それらが文字通り『有り難い』ことなんだと。逆もまた然りで、、、だれもまわりにいなくて一人で過ごす時間がごく普通で自然のことで、寒い日に冷たい食べ物があることがごく普通で自然のことなんだと。そしてさらに気付いた。自分がお昼に一人で食べるハンバーグは物体としては冷たいが、そこには母の真心がこもっていることに!今までの自分は愚か過ぎて弱過ぎたので、そのことに気づくことすらできずにただ泣いていただけなんだと!
2017.12.17
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強くなりたい!強くなろう!本当にそう思った。母は勿論のこと、大人に心配されないようになりたい。二番目の兄に、あの独特な上下の前歯を食いしばったままの言い方で憎しみを力いっぱい込めた「弱いくせに!弱いくせに!」を言われないようになりたい。そう思った。そしてまずはその次に訪れる一人の時間と対峙することに決めた!その日はいとも簡単にやってくる。まずはバスの中からだった。「今日のお昼はなに食べる?」の時間だ!私はその話題に耳も目も背けずに入り込んだ。「俺はチキンハンバーグ!」「あれが好きやからお母ちゃんが用意してくれてんねん。」「あれはホンマに何回食べても飽きへんわ。」「だから給食の無い日が嬉しいねん!」などと言い放った。そしてバスを降りると、ちょっとでも早く家に帰ってやろうと走った。そこで少しでも時間をかけると負けだと自分に言い聞かせた。あの家に、あのだれもいない家に、あの寒い家に、一秒でも早く帰って、一秒でも多く一人でいてやろう!!と思った。
2017.12.16
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次男は私によく私に言った。「弱いくせに!」「弱いくせに!」私が自分の意見を言ったり、兄の意見に反対したりすると必ずそう言われた。その言葉は言い換えれば「弱いお前は意見を持つな。」「弱いお前は存在するな。」と同意である。それでも反抗をすれば力でねじ伏せてボコボコにされる。そうなのだ。弱い人間は感情を持つことも許されず、存在するだけで誰かの迷惑になっているのだ。だから存在意義は無いのである。次男はいつも私にそれを訴えていたのだ。私に言わせれば、次男だっていつもちょっとしたことで目に涙をためている。かわいそうに思い私はそれを指摘してバカにしなりはしないだけだ。あるいはそうすると力にうったえられるので言わないだけだ。しかしそれも私の弱さなのだ。相手の涙をバカにして笑わない弱さであり、2歳年上の身体の大きな人間が攻撃してきてもそれに対抗する棒や刃物を持ってしてでも命がけで反抗しない弱さなのだ。そしてこうも言いたかった。次男だって何時間も一人で家にいれば寂しくて泣いているはずだ。自分がその状況にならないことを知っていて私を笑いものにするのは卑怯だと。しかしそれも違うのだ。そのような状況に遭遇しないのが強さであって、遭遇してしまうのが弱さなのだ。つまり・・・結局兄の言ってきたことが正しかったのだ。私は弱い。私の弱さが母に心配をかけ、それだけではなくIさんのおばちゃんにまで心配をかけ、その上迷惑までかけてしまったのだ。全ては自分の弱さが原因で、弱い自分がいることが皆に迷惑をかけているのだ。それがよく分かった!
2017.12.14
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その日、帰宅した母は食卓の上にある見慣れぬお皿に入っている料理は何かと私に問いかけた。私は泣いてしまったこと以外を話した。母は「せっかくいただいたのに、なんで温かいうちに食べへんかったん。もったいない。」と言った。私は「ハンバーグ食べたかってん。」と返事した。私にはウソをついた気持ちは無かった。次の日曜日、母が大阪の病院に行かない日、母は大小2つのお皿をIさん宅に返しにいった。そこでおそらく母はあの日の出来事をIさんのおばちゃんから全て聞いたはずである。それでも母は私にただ「今度呼んでもらったら、温かいうちにいただきや!」とだけ言ってそれ以上は何も語らなかった。それとだれも言わなかったが私にはわかっていた。Iさんのおばちゃんが私を家に招いてくれた理由だ。おそらく私がハンバーグの冷たさに泣いたあの日・・・、あの泣き声がおばちゃんに聞こえていたのだろう。だから心配になって、私の兄もケンちゃんやアカネちゃんもいないときを見計らって、私に温かいものを食べさせようとしてくれたのだ。そう考えると私は自分が本当に情けない存在に思えた。母は、いや母だけでなく隣のIさんのおばちゃんも、私のことを心配してくれている。その理由は至って簡単!私が弱いからだ。
2017.12.14
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Iさん夫妻が帰ったあと、私は食卓のお茶碗に入っている冷え切ったご飯の上に、鍋の中の同じく冷え切ったハンバーグをのせてソースをかけた。そしてそのお茶碗とスプーンを持って、いつものように階段の中央に座って食べはじめた。当然いつのもように冷たかった。身体が震えた。でもこれだ!これを食べたかったのだ!そう思った。こここそが自分の居場所であって、これこそが自分の食べるべきものなのだ。なぜならば、それは母が、、、お母ちゃんが用意してくれたものだからだ。あの忙しい朝にわざわざ自分のためだけにお母ちゃんが用意してくれたものだからだ。少しでも温かさを保てるように、少しでも私が喜ぶ食べ物を、そう思って用意してくれたものだからだ。もちろんIさん夫妻の気持ちも嬉しかったし有り難かった。食卓の上にあるシチューとフルーツに申し訳ない気持ちもあった。でも私は冷たいチキンハンバーグ・ライスを食べた。この冷たいチキンハンバーグ・ライスを、こんなに私の身体を冷え切られるチキンハンバーグ・ライスを、こんなに食べたくなるときが来るなんて思いもしていなかった。そして思った。自分はなんで今まで冷たいだの寂しいだのいって泣いていたのか!自分はこんなに母の想いの中にいるのに目の前にその姿がないからといって、隣のIさん夫妻まで私のことを心配してくれているのに、何を一人で寂しがってめそめそしていたのか!そう思うと、嬉しくもあり情けなくもあった。
2017.12.13
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おばちゃんやおじさんの問いかけに何も答えることができないまま泣き続けている私だったが、「お家に帰りたいの?」とのおばちゃんの問いかけにだけはうなずくことができた。そう。いろいろな思いが一瞬にして心に湧き出たのだが結論はそれであった。泣きながらではあるが自然に素直にうなずけたことで自分でも確信が持てた。「そうか。すまんかったな。ほなお家に帰ろう。」といって私の涙をおじさんが拭ってくれている間に、おばちゃんは素早く私のシチューにアルミホイルをかけて、デザートのフルーツもお盆に乗せた。そのお盆をおじさんが持って、私の手をおばちゃんが引いて、2人は私を家まで送り届けてくれた。家に着くとおばちゃんは食卓にお盆の上の大小2つの皿を置いて、「また温かいからな。ゆっくり食べや。」と言ってくれた。おじさんはコンロの上の鍋の中にあるレトルトハンバーグを見て、「お!フジオ君の今日のお昼はチキンハンバーグやったんやな。これはうちのシチューよりおいしいから、こっちを食べたかったんか?」と言って、笑顔で私の頭をくしゃくしゃっと撫でた。その言葉におばちゃんも「ホンマや!フジオ君が食べたい方を食べたらええよ。」と言いながら、ハンカチでもう一度私の涙を拭ってくれた。私はまだ少しべそをかきながら、2人を玄関先まで見送った。靴を履いた2人は私の方を振り返って、「びっくりさせてごめんな。今日はおばちゃんずっと家におるから、気が向いたら遊びにきてや。」とおばちゃん、「遊び相手がほしかったらまたおいでや。何でも相手するで。」とおじさんが言ってくれた。私は一言「ありがとうございます。」と言うのが精一杯だった。
2017.12.12
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それを知った地球人は思う。「あんな暗い場所に帰りたいなんて・・・」と。テレビでそれを見たとき私もそう思った。しかし今自分はあのときの怪獣と同じ思いを感じている。だれもいない寒い家に帰って冷たくなった昼食を食べるべきではないのかと感じているのだ。それらの思いが、ほんの数秒間の短い時間に私の頭の中に駆け巡った。そのことに自分でも驚いた。すると次のひと口の温かいシチューを口に運べなくなった。そして自分がどうしていいのかが分からなくなってしまった。次の瞬間、涙が1つぶ頬に流れおちた。その不意の涙にも自分で驚いてしまった結果、声を出して泣き始めてしまった。一緒に食事をしてくれていたおじさんも、台所にいたおばさんも驚いたように私に声をかけてくれる。「どうしたん? 熱かった? 美味しくなかった?」「ごめんね。口に会わへんかった? 無理に食べんでええよ。」など、いろんな声をかけてくれるのだが、自分の状況を言葉で伝えることができるほどの語彙力も無い。だから、ただ泣いた。泣いてしまった。こんなことになってしまって、せっかく温かい昼食を用意してくれたIさんのおばちゃんやおじさんに申し訳ない気持ちもあるのだが、それすらも言葉にできないまま泣き続けてしまった。
2017.12.11
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あの冷たいハンバーグは、あのだれもいない寒い家は、私のことを待っていたのにも関わらず、私はそこから出てこの温かい場所で温かい食べ物を口にしている。この状況はまた私の頭に違ったことを過らせた。ウルトラマンだ。厳密にいうとウルトラマンに出てきた1匹の怪獣だ。私の心に突き刺さった話の1つに出てきた怪獣だ。その怪獣の名前は「シーボーズ」。それは地球にいる怪獣ではなかった。宇宙空間にある「怪獣墓場」と呼ばれる、地球から追い出された怪獣の死体が漂う場所にいた。シーボーズ自体も怪獣の死体なのか、それは全身が白骨化したような容姿だった。その怪獣はひょんなことから地球に落ちてきてしまう。そして怪獣だからという理由で人間から攻撃を受けるが、泣き叫ぶだけで反撃はしない。ウルトラマンが出てきても、戦おうとはせずに頭を抱えて座り込んでしまう。怪獣の一連の行動を見て、人間はやがて気が付く。この怪獣はただもといた場所である怪獣墓場に帰りたいのだと。
2017.12.10
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その黄色い袋のチキンハンバーグを母は1つ買って、兄たちがまだ帰宅していないある日の昼食に私に食べさせてくれた。そのとき私はそれまで食べたとこのない味と、それを食べさせてもたった嬉しさで歓喜した!おそらく母はそれを覚えていて、私が独りで食べる昼食のメニューに選んでくれたのだ。Iさんの家で温かいシチューをいただいて、身体が温まってきたときになぜかそのことが頭を過った。するとすぐにもう一つの光景が頭に浮かんできた。自分の家の今の台所と食卓だ。台所のガスコンロの上の鍋の中には冷たく冷え切ってしまった水の中に、あの黄色い袋のハンバーグが入っている。しかも取り出しやすいように袋の頭を鍋の縁の上に出しながらだ。そのお鍋は、その中の水は、そしてハンバーグは、朝私が学校に行くときにはこれでもかというくらい熱く熱せられていた。少しでも温かさが残っているようにと母がそうしてくれていたのだ。そのハンバーグに見向きもしないで、その母の気持ちを無にして、私は今この温かいシチューを食べて、身体を温めている。・・・そう思った。
2017.12.09
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人間には「なんでこんなときにこんなことを思い出すのか」と自分で不思議になる場面が往々にしてある。このときも私はそう感じた。温かいシチューを食べさせてもらって身体が温かくなるのを実感したそのとき、私はひと月ほど前に母と買い物をしていたときのことを思い出した。買い物かごを持った母と食料品売り場を歩いていた。母があれこれと買い物かごに食品を入れていく。私は売り場の一画にすこしカラフルに彩られた場所を見つけた。何かが書かれていたが難しい漢字はよく分からなかったが、袋に入ったハンバーグの売り場だということは分かった。いつも母の手作りの料理を食べていた私には、ある意味既製品・インスタント食品等はめったに食べられないご馳走だった。ダメ元で母にそのハンバーグを食べてみたいことを訴えてみた。母は1つ手に取り「こんなん食べたいんか。お湯で温めるやつやろ。」と言いながら、袋に書かれている文字を読んでいる。アカンやろな・・・と思っていると「ほな1個買うて食べてみるか。」と言葉が返ってきた。「うん!」と返事をすると、母は「どっちにする。」と聞いてくれた。このときのレトルトハンバーグは2種類。赤い袋のビーフハンバーグと、黄色い袋のチキンハンバーグ。私は「こっち」と言ってチキンハンバーグの方を指さした。私にはビーフであろうがチキンであろうが関係なかった。ただレトルト食品を食べてみたかったのだ。だから袋の色で選んだ。袋の一部が透明になっていて中のハンバーグが見えている。その色と黄色がマッチしているように思えたのだ。
2017.12.08
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「こっちこっち。」おばちゃんは私を勝手口から家の中に招き入れてくれた。靴を脱げばすぐに台所だった。私はIさん宅にはじめて入らせてもらった。テーブルにはおっちゃんが座っていて新聞を読んでいたが、私の顔をみて「おお、いらっしゃい。来てくれたな。」と笑顔で話しかけてくれた。「おじゃまします。」ぎこちなく挨拶をして、私はおばちゃんに言われた通りの席についた。おばちゃんは台所に立って食事の用意をしはじめる。おっちゃんは再び新聞を読みながらもおばちゃんに何やら話しかける。明日会社にいくときに持っていくものの確認をしているようがったが、私には詳しいことは分からない内容の家族間の会話だった。しばらくすると、おっちゃんと私の前にたくさんの湯気をのぼらせたシチューが運ばれてきた。私より先におっちゃんがスプーンを持ってシチューを口に運ぶ。「お!美味い。さあ、あったかいうちにフジオ君も食べや。」と促してくれた。その言葉に私もスプーンを手にして、まずはおっちゃんに「いただきます。」と言った。おっちゃんは「しっかりしてるな。どうぞ。」と言ってくれた。そしてまだ台所に立って私に背を向けているおばちゃんにも「いただきます。」と言うと、「はいどうぞ」と返ってきた。いただきますを言ったので、いよいよシチューをひとくち食べてみる。口の中に温かく美味しいものが入ってくる。それを呑み込むと温かさが喉を通ってお腹に運ばれる。身体が冷え切っていたのが原因かどうかわからないが、一瞬身震いをしてしまった。台所からおばちゃんの「味はどう?」という言葉が飛んでくる。「温かくて美味しいです。」と私が返す。「ホンマよかったわ。おかわりもあるから言うてよ。デザートのフルーツもあるからね。」とおばちゃん。「ありがとうございます。」と言ってふたくち、みくちとシチューを食べると、、、ふとあることが心を過(よぎ)った。
2017.12.07
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玄関の戸をを開けると、そこには隣のIさん宅のお母さんが立っていた。Iさん宅には2人の子供がいた。一人は私より2歳年上の男の子で私の次男と同い年のケンちゃん。もう一人は私より1歳年上の女の子でアカネちゃん。どちらも年下の私にいつも親切にしてくれていた。そして私はこの2人の母親であるこの女性のことも「おばちゃん、おばちゃん。」と言って慕っていた。おばちゃんは「フジオ君一人やろ?あばちゃん今シチューをたくさん作ったんよ。一緒に食べてくれへん?」と言いながらいつもの笑顔を見せた。私は戸惑った。母が用意してくれたハンバーグがあるのだ。もしおばちゃんのシチューをいただいたら、それを食べることはおそらくできない。ハンバーグを残してシチューを食べるということは、母に「ちょっと温かい」と言い続けたことがウソであったことを知られてしまう。そう考えてしまって、しばらくおばちゃんの申し出に何も返事ができなかった。それを察したおばちゃんは「せっかくお母さんがお昼を用意してくれてんのに悪いけど協力してよ。」「お母さんにはまたおばちゃんから話して謝っとくから。」といって私を手を取った。私は少し時間をもらって食卓の上に置いた玄関の鍵を取りに行った。それを見たおばちゃんは「フジオ君は小さいのにしっかりしてるなぁ。」「うちのケンやアカネやったら戸締りなんかできへんわ。」と言いながら、私の手を引いて家に招いてくれた。
2017.12.06
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ひとしきり泣いたあと、私は階段でその冷たい食事をかき込んで食べた。母に「ちょっと温かかった」と言いたかった一心であった。冷たい食事は身体を芯から冷え切らせた。春まで、気温が温かくなるまで、土曜日ごとにこれを乗り越えなければならないのかと思うと気が遠くなった。しかし誰にも泣きごとは言えなかった。兄に言えばバカにされるし、親に言えば心配をかけるのは分かっていたからだ。じっと独りで耐えるしかなかった。しばらくすると、「土曜日ごと」という考えも甘かったことを知らされる。なにせ小学1年である。平日に学校が半ドンで終わってしまって給食が無い日もたまにあるのだ。そんな平日の半日授業を終えて帰宅したある日のことだった。母が用意してくれた冷え切った食事を目の前にして箸を取ることもなくぼんやりしていると、玄関のチャイムが鳴った。
2017.12.05
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そのハンバーグの袋を母が用意してくれていたお皿の上に横たえて置いた。次にお茶碗の中のご飯を指で触ってみる。いつもの通りに、思った通りに冷たかった。私はそのお皿ではなく、ご飯の上にハンバーグをのせてソースもかけた。少しでも温かかったらご飯の上に乗せるように母がいった言葉を思い出したからだ。その言葉に私は一縷の望みを見出そうとした。こうすると少しでも温かくなるのではないか、いや、なってほしい!強くそう思った。そしてスプーンでハンバーグとご飯をすくって口に運んだ。冷たい。その冷たい物体のかたまりが、口の中から体内を通ってお腹に運ばれる。寒い場所で、冷え切った体で、冷たいものを食べることがこんなにつらく悲しいものなんだと改めて知らされる。その瞬間、、、、。涙が頬をつたった。何かを期待していた自分の愚かさが悲しかった。そしてあんなに忙しい朝にも関わらず母が手間暇をかけて少しでも温かい状態を保とうとしてくれた気持ちに、なんだか自分がこたえられなかったような気持にもなって情けなくなった。私は冷たいお茶碗を両手で持ったまま、2階へとつづく階段の中腹まで行って座った。それまで堪えていた何かが崩れてしまったかのようにそこで泣いた。もうだれに何を言われても思われても構わないから、思いっきり声を出して泣いた。
2017.12.04
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台所も玄関と同じようにひんやりとして静まり返っていた。テーブルの上にはお茶碗に入ったご飯とサラダが置かれていた。ご飯は確かめるまでもなく硬くて冷たい状態であることは、その色つやが私に教えてくれていた。ガスコンロに目をやると、朝に母がぐつぐつと温めてくれていた場所にそのまま鍋が置かれてあった。朝は完全にお鍋の湯の中に横たえられていたハンバーグの黄色い袋が、今はお鍋の縁に半分立てかけられていて袋の上部が鍋の上に出ている。おそらく私が火傷をしないように、またお鍋からハンバーグの袋を取り出しやすいようにと母が配慮してくれたであろうことは小学1年の私にも想像できた。そのお鍋の前に立った。やはり家の中のどの場所とも同様にひんやりとした空気がそこにはあった。鍋の上に出ているハンバーグの袋を指で触ってみる。すこしは温かいであろうことを期待した。しかしその期待は一瞬で裏切られる。袋は冷たい。右手の人差し指と親指で袋を持ち上げる。袋からしずくが鍋の中に流れ落ちる。そのしずくからも、鍋の中の水からも全く湯気は出ていない。右手で袋を持ち上げたまま、左手の人差し指で袋の中央部分を触ってみる。冷たい。その指で鍋の中の水を突いてみる。氷のように冷たい。鍋の側面に手の平を当ててみる。痛さを感じるほど冷たい。朝あれだけ母が温めてくれていたハンバーグが、そのハンバーグを温めていてくれたあの鍋の中のお湯が、そのお湯に熱を伝えるため、コンロから出る青い炎の上でこれでもかと言わんばかりの熱さを保持してくれていたあのお鍋が、朝の出来事が無かったかのように、少しでも温かさが残るようにと私のことを案じてくれた母の気持ちさえ無かったかのように、それら全てが私を突き放すような冷さをまとっていた。
2017.12.03
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やっと家にたどり着き、庭に隠してある鍵で玄関を勢いよく開けた。家の中は静まり返っていて寒かった。その状況を認識したとき、半分夢から覚めたような気持になった。やっぱり自分の家にはだれもいなくて寒い。なんだか何か温かいものが自分を待っているかのような勘違いをしていたのかもしれない、、、。そう思った。でもまた残りの半分は望みを捨てていなかった。朝、母が言った言葉を信じたかったのだ。自分が帰った時に少しでも温かいように、、、母はそう言ってくれた。しかも私は物にも心があるように思う人間であった。あれだけ母が少しでも温かさが残っているようにと気遣いをしてくれたのだ。あの鍋も、その中のお湯も、ハンバーグ自体も、その気持ちをくみとって少しは温かさを残してくれているような気もしたので、それを期待していた。それを期待しながら台所に向かった。
2017.12.02
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その日もいつもの通り、帰宅バスの中では昼食の話題になった。何人かの発表を聞いたあとで「俺んとこはハンバーグ!あのお湯で温めるやつ!」ちょっと大きな声で私は言った。それを聞いた友達の1人は、「あ、知ってる。こないだダイエーで売ってた。でも俺まだ食べたこと無い。」別の友人は、「僕は食べたことある。あれってソースも美味しいねんで!」などと、レトルトハンバーグの話題に花が咲く。それを聞きながら私はちょっと得意顔だった。「今日はみんなが羨ましがるお昼ごはんが自分を待っている!!!」と思うと嬉しかった。またそう思うとお腹がすいてきた。そういえば寒い時期になって、土曜日の帰りのバスの中で空腹を感じることはなかったことにも気付いた。空腹だったはずなのにだ。しばらくすと口の中は、一度だけ食べたことがあるあのレトルトハンバーグの味がよみがえってきた。はふはふ言いながら食べたあの温かさまでよみがえってきた。口の中であのハンバーグとご飯が一緒になるときの触感と味まで感じられた。そしてバスから降りた私は一目散に我が家に向かって走った。帰りたくないときはすぐに到着してしまう我が家のくせに、早く帰りたいときは走れども走れどもなかなか到着しないもどかしさまで感じながら走った。
2017.12.01
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