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9月4日(水) 小雨の中をM公園に向かう。この日の院長の指示は、40%の力で芝生をゆっくり2時間走ること。走り出すと、舗装道路で40代後半と思しき男性が、走るかどうか迷っていた。私がグジョグジョの芝生を走っているのでビックリしたのだろうが、やがて彼も走り出した。結構速く、何度か追い抜かれた。 だが、スピードはあるものの長続きしない。走り始めたばかりのランナーだろうが、目の前に走っている私を見かけると抜こうとする。だがやがて急に走るのを止める。そのうちとうとうベンチに腰かけてしまった。こちらはひたすらびしょ濡れラン。たまに脚に電気が走ったような痛み。だが、それは一瞬で治まる。 1時間30分ほど走ったころ、段差がある個所で膝に痛みが発生。これはやばい。そう思って走るのを止めた。走った距離はせいぜい9kmくらいだろうか。この日は未明にブログを更新した後再び眠り、目覚めたのは7時過ぎだった。やはり疲れが溜まっていたようだ。いつもなら朝食の支度が出来たと呼ぶ妻の声が、全く聞こえなかったのだ。それでも眠れて良かった。 整骨院では全身のマッサージと、膝への超音波をお願いした。合わせて1500円の出費。だがこれは、レース前の自分への投資なのだ。院長が痛みが出てないか尋ねる。私は走った際の様子を話した。「これでスタートラインに立てますね」と、院長は私が問題なく走れると信じ切っている。本当にそうだ。良くあの体調からわずか2週間でここまで回復したものだ。あの時、レースに行くなどは夢のまた夢だった。だが、今は心も体もレースに出ても良いと思えるまでに復活した。 「65kmのレースなら35kmの練習が出来ないとダメなんですけどね」と私。「仕方ないでしょ、これが今の最大パワーなんだから」と院長。さらに明日は土のグラウンドを30分走り、その後治療に来いと言う。その時にテーピングの仕方を教えてくれるそうだ。今回のトレーニングで、私はずっとサポート機能付きのハーフタイツを穿いていた。これはテーピングと同様の効果があるものだ。 院長は私がスタートラインに立てる体調を作ってくれた。そこから先はもう自分の問題だ。膝には違和感があり、果たしてこの状態で完走出来るかどうかは分からない。これまでの経験からすれば、35kmほど走れたら良い方だろう。だが、この大会では「収容バス」を見たことがない。リタイヤの場合は、ゴールまで歩いて帰るのだろうか。まさにケ・セラ・セラだ。 私は弁解はしない。ブログには舞台裏も含めて正直に書いている積り。読んでいる方の何かの役に立つと思ってのことだ。コメント欄も常に開けてある。だから掲載内容に関して、どんなコメントを書かれても文句を言える立場ではない。だがレース目前に、あまりネガティブなコメントは目にしたくない。これは私自身の問題であり、私自身の選択なのだ。 「もし半身不随になったら、今度は障害者の生き方をします。生きているうちは縁にまかせ、与えられたことを素直に受け入れ、体験するのが私の役目」。これは私が毎日拝見してる方のブログに書かれていた言葉。とても宗教者の彼のようには達観出来ないが、私なりの生き方を絶えず求めてる積りだ。 外は雷雨。今日30分走れるかどうかは不明だが、治療には必ず行く積り。それが最善の道と私は信じている。大会の準備は全くしていないが、明日の早朝には福島県会津地方へ向かう予定。後の心配は雨だ。週末は台風17号崩れの大雨との予報が気になる。明日はブログを更新してから出発する予定。そして帰宅は土曜日の深夜になる。 「もう自分には無理だと思ったとき、願いは実現しない」。これは先ほど紹介した宗教家の方の、別の日に書かれていた言葉。これまで私は何度絶望の淵に立ったことだろう。だがその都度大きな力が働いて、何とか再出発することが出来た。例え傷ついても、20kmでも30kmでも走れたら良い。それこそが前進だ。相変わらず雨は激しいが、空がほんのり明るくなって来た。<完>
2013.09.05
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9月2日(月)。曇りのち雨。最高気温26度C。キュウリ3本、ピーマン4個収穫。梅の樹の毛虫駆除。薬剤を噴霧後毛虫のいる枝を剪定し、蜘蛛の巣状態になった枝を竹ぼうきで払う。この日は午前中と午後に、雨が降るとの予報。迷った挙句、10時過ぎに家を出る。向かった先は、当然M公園だ。 M公園の東屋(妻の絵) この日は反時計廻りで5周、時計廻りで5周、そして反時計廻りで5周の10.5kmを1時間50分42秒で早歩き。その後土の道を選び、1kmをゆっくり走った。待望のランだが、痛みは出ない。誰もいない公園を、小雨に打たれながら歩くのは異様だが、そんなことを気にしてはいない。シューズは泥だらけになり、Tシャツは汗と雨でグショグショだ。 帰宅すると、妻は10月の「蓼科高原への旅」を申し込んだ由。果たしてどんな風景なのか楽しみだ。夜、「磐梯高原ウルトラ」の資料に目を通す。ようやくそんな気持ちになったのだ。65kmの部の名簿に、走友会の仲間3人の名前を発見。長野県の「走るナース」さんの名前もあった。 さらに、ネットで長距離バスの時刻とJRの時刻表を確認。その後会津地方の天気予報を調べた。レースのある土曜日は曇り時々雨で、最高気温は28度。この時期の雨は大歓迎。火照った筋肉を冷やす効果があるし、呼吸も楽なのだ。翌日の予定をメモして就寝。 9月3日(火)。曇り。キュウリ5本、ツルムラサキ収穫。朝は下痢。どうやら連続6日間のトレーニングで疲労がピークに達した感じ。朝食後、子供部屋のベットで40分ほど眠ると、少し体調が良くなった。この日は底の厚いシューズを履いた。4日後のレースを想定してのことだ。院長からは「極力芝生を歩け」と言われているが、多分濡れているはず。 そうなると舗装道路を歩くしかないが、レース当日は否が応でも舗装道路を走る。院長の指示には反するが、この日は競歩を半分、ランを半分にして試す気でいた。公園の入口にマウンテンバイクを停めていると、坂の上から年寄り夫妻が歩いてくるのが見えた。ご主人は足取りがおかしく、よろけている。 「この自転車で来たんですか」。奥さんが私に尋ねた。「そうですよ」と答えると、「ずいぶん歩くのが速いですねえ」と言う。「失礼ですが何歳ですか」と、今度はご主人。私は年齢と早歩きの理由を話した。どうやら私が連日競歩トレーニングをしてる姿を見ていたのだろう。私は全く気にしてなかったのに、不思議に思って眺めていた人がいたようだ。 香りの良い花 この日は歩きで1周した後、ゆっくりランで1周するのを繰り返した。それも時計廻りと反時計廻りを交互に入れた。道路はそれほど濡れておらず、泥もあまり気にならなかった。それより心配だったのが脚(足)の痛み。2時間近くかかって11kmを競歩とランで走り終えたが、幸い痛みは出なかった。 午後3時に整骨院へ行くと、院長は他の患者を施術中。右手の親指を立てると、院長も同じしぐさを返してくれた。先ず膝周辺に低周波をかける。それが終わるころ、院長が私のベッドにやって来た。2日分の練習内容を話すと、彼は喜んだ。まさか今日私が、舗装道路を5.5km走るとは考えてなかったようだ。 電気をかけながらマッサージする院長。脚の「ツボ」を押えられると猛烈に痛い。この1週間で歩き、走った距離は67.3km。その疲労が溜まった脚だから、痛むのも無理はない。だが、このツボの痛みこそが、脚の疲れを取るのだとか。院長は言う。「明日も来て下さい。それがレース前の最後の治療になります。明日と明後日は芝生を2時間走ってください。もう競歩はしなくて良いですから」。 ハギの仲間 出来ればレースに向かう金曜日も軽く走った方が良いと言う。それじゃ連続10日間の運動になる。「その日は移動日なので走りません」と私は答えた。後2日間芝生を走って本当にレースは大丈夫なのだろうか。「なぜ私がレースに出られると思ったんですか」。私が尋ねると彼は答えた。 「それはAさんの本気度ですよ。だって最後まで宿をキャンセルしなかったでしょ」。そうか、自分では到底レースは無理だと思っていたのに、彼はそれとは反対のことを考えていたのだ。自由に運動できない状態から、短期間で良くここまで来れたもの。それはどうしても私を治したいと言う院長の執念だと思う。私の何気ない言動が、どうやら元アスリートの心に火を付けてしまったようだ。この夜、楽天は逆転で西武に勝った。<続く>
2013.09.04
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9月1日(日)晴れ。最高気温は32度C。キュウリ3本、ナス1本収穫。9月に入った。今年も残り4カ月だ。この日は10時から整骨院で治療を受ける予定になっていた。そう、ここは土日も祭日も休まない、珍しい整骨院なのだ。院長には4回の競歩トレーニング後、この日の診察で今後の判断をすると言われていた。 だが、私はさらにトレーニングしたかった。ブログを書き上げてカーテンを開く。前夜は雨が降ったようで、外はかなり濡れている。いつもの公園を歩くのは無理。それに自転車で往復する時間が勿体ない。そこで支度を整え、近所の坂道へ向かった。日曜日の朝の5時半、まだ人影は少ない。小さな公園の前で軽く体を動かしてから歩き出す。 東の空に朝日が上がる。今日も元気で運動できるのが嬉しい。先ず坂の上に向かう。そのまま真っすぐ行くと山に突き当たり、道路はそこで終わる。最後は急激な登りだ。ここへ来たのはいつ以来だろう。そこから引き返して今度は下る。楽なものだが、手を振って歩くと意外に疲れる。こちらはお寺の元お墓だった所でお終い。この道路はもう長い間建設中なのだ。 再び引き返してスタート地点の小公園へ。ここでようやく1往復。距離は以前「ジョギングシュミレーター」で測ったら3kmあった。いつものM公園より時間がかかるのはどうしてだろう。1つはM公園の距離が不正確なこと。あそこは木立が邪魔になって、距離感がつかみ難い。もう1つは、こちらの勾配がきついこと。1回当たりの高低差は少なくても30mはあるはずだ。 ツキミソウ どうしようか迷ったが、結局ここを3往復した。既に日は高く、かなり暑くなった。それもそのはず時間は7時。さらに1km分を歩く。合わせて10km。もうヘロヘロだ。10kmを2時間02分31秒かかった。実は歩きながら頭は全く別のことを考えていた。6日後の「磐梯高原ウルトラ」の距離は65km。それを全部歩いてみたらどうなるかと思案していたのだ。だがたった10kmでこれだけ疲れるようでは無理だ。 10時から整骨院で治療。マッサージをしながら院長が痛みが出なかったか尋ねた。膝の周辺に少し痛む個所があるが、それは筋肉の疲労だろうとのこと。「これでは次のレースは無理ですね。暫くトレーニングしながら様子を見ましょう」。院長が言った。私は半ズボンのポケットからメモ取り出し、黙って院長に手渡した。それには5回分の競歩の距離と、歩くのに要した時間が書かれている。 ○8月28日(水)4km37分20秒。 ○8月29日(木)5.6km54分25秒。 ○8月30日(金)6.4km1時間12分40秒。 ○8月31日(土)8.4km1時間24分18秒。 ○9月1日(日)10km2時間02分31秒。8月31日は競歩の後で、芝生を50m走ったことも話した。 メモを見た院長の顔つきが変わった。「明らかに成果が出てますね。Aさん、レースに出ましょう」。「いや、全部歩くのは疲れて無理です」。「そうですか。では今日から超音波を膝にかけます」。こんな風にして超音波治療は始まった。両膝の周囲にヌルヌルしたものを塗り、超音波をかける。院長にこれまでかけていた電気(低周波)との違いを尋ねた。 彼によれば低周波が皮膚の表面を流れるのに対して、超音波は皮膚の5cmほど下を流れるらしい。ヌルヌルした薬を塗るのは、電気を通り易くするためとのこと。そう言えば総合病院で内臓のエコー写真を撮った時も、ヌルヌルした薬を塗ったっけ。超音波の治療器は150万円。色んなメーカーが売り込みに来たが、院長が自ら効能を試してこの装置に決めたそうだ。 これまで何度も超音波をかけ、今では膝の痛みが全く出ないとのこと。私に使うのを躊躇っていたのは料金が上がるためと、膝関節の内部に問題があるのではないと判断してのこと。チリチリとした痛みを感じる。それが効いてる証拠らしい。両膝で30分ほどかかり、11時15分に治療が終わった。全身マッサージを省いた分いつもより45分早い。これで治療費は同じ千円だ。 治療中、院長が言った。「次は火曜日の午後に来て下さい。そして火曜日をピークにこのままトレーニングを続け、なるべく暑い中で運動して下さい」。これはあくまでもレースに出ることを想定してのようだ。意外な展開に驚く。つい先日まで運動すら出来なかった私が、65kmのレースに出るんだって~!? 「65kmを歩き通すのは無理です。どうしても走りを入れないと。でも今は走るのが怖い」。私は正直にそう答えた。「では歩いた後、土の道を1kmだけ走って痛みが出ないか確かめてください」。院長は言う。いや~、怖いなあ。走って痛みが出たらどうしよう。私は心の中でそう呟いていた。この日楽天はソフトバンクに負け、マジックナンバーはとうとう消滅してしまった。う~む残念。 その夜、私は左膝の温度がいつもより低いことに気づいた。いつもはひんやりとした右膝に比べ、左膝には常に温かさを感じていた。きっと内部で炎症が起きているのだろう。私はそう考え、院長にも伝えていたのだが、彼は直接その問いに応えたことはなかった。だが今夜は違う。その温かさが明らかに低まっている。どう考えても原因は超音波をかけたこと以外にないのだ。これは何かが起こりそうだ。<続く>
2013.09.02
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8月30日(金)。雨のち曇り。蒸し暑い日で、最高気温は32度に達した。キュウリ1本、雲南百薬、ツルムラサキ収穫。生協受け取り。楽天はソフトバンクに勝ちマジック25に。 午後自転車に乗ってM公園へ。少し草が濡れている。朝露が十分に乾かなかったようだ。それでも競歩トレーニングは続く。時計廻りで4周。反時計廻りで4周。合計6.4kmに1時間12分40秒を要す。この日は新しい粉末を試した。クエン酸とアミノ酸が入ったサプリメント。それを水で溶かし、ペットボトルに入れて飲む。 コバギボシ? 長距離を走るウルトラマラソンでは、長時間飲み続けるため最後には同じ味に飽きてしまうのだが、これは良さそう。さて競歩と言えば、レース中競歩の選手に抜かれたことがある。最初は数年前の「秋田内陸」だった。50kmほど過ぎた辺りで後から抜かれたが、とても追いつけるスピードではなかった。 2度目は今年の「いわて銀河」。こちらは早々に20km手前で抜かれた。競歩の一番長いレースは確か50kmだと思うが、練習で100kmを歩くとは凄い。そして宮城UMCの走友K村さんのことを思い出す。数年前の「薬莱山とお足」では、一生懸命手を振って歩いていた。同学年の彼女もとうとう走れなくなったのかと同情しながら、私は追い越して行ったのだ。 アカツメクサ だが自分がこんな状態になって初めて分かる。あの時彼女は、必死だったのだろう。歳を取れば誰しも筋力が落ち、以前のスピードでは走れなくなる。それでも何とか好きなウルトラを続けたい。彼女はきっとそんな想いだったのだと思う。夜、背中が苦しい。脹脛にも張りがある。競歩トレーニングは距離が短い割に、かなりハードだ。 前日撮った野生のヒガンバナは、「キツネノカミソリ」と言う名だと、himekyonさんが教えてくれた。わざわざありがとうございます。それにしても不思議な名前だ。 アザミの仲間 8月31日(土)曇り。シソ、シシトウ11本、ピーマン4個収穫。自室の掃除と、掃除機の掃除。この日は午前中から競歩トレーニングへ行った。夕方は雨の心配があったためだ。芝生や草原が濡れていたため、いつもの800mコースから、舗装道路を中心とした700mのコースに変更。公園内では近所のN中学校の駅伝部が練習をしていた。1週間後にレースがあるらしい。大勢の生徒がタイムトライアル中。指導の先生は4人。どうやら芝生の部分を400mトラックに見立てて走っているみたいだ。 この中学校は市内で一番強く、毎年のように優勝しているようだ。確かにこれだけ熱心に練習していたら強くなるはずだ。だが、1年生の足にはほとんど筋肉がついておらず、まだ弱そうな感じ。彼らの練習ぶりを横目に競歩に励む。この日は8.4kmを1時間24分18秒の練習。楽天は辛島が先発して負け、マジック25のまま。 競歩トレーニングを開始してこの日で4日目。先ず第1に、競歩は結構強い運動であることが分かった。この結果体重が減り、体調が改善された。第2はさほど体重がかからないため、足(脚)への負担が少ないと感じた。疲労感が酷いのは普段ランでは使わない筋肉を使うためだろう。第3は運動することで気分も良くなった。第4は不整地を歩くため下半身の筋肉が鍛えられ、バランスが良くなった。これは効果がありそうだ。<続く>
2013.09.02
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8月28日(水)晴れ。キュウリ5本収穫。朝食後庭の草取り。10時~12時整骨院で治療。夕方自転車でM公園へ行く。いよいよ「競歩トレーニング」の開始だ。以前膝の調子が良い時は、公園まで走って行き、園内を10周し、走って帰宅するのが常だった。これで11kmを稼げた。だが今回は整骨院の院長の指示により、先ず歩くのは土か芝生。それで自転車で行った訳だ。 この公園に行ったのは、4月末のお花見以来のはず。中央の広場はまだ草丈は短いが、そこだけを走っていたのでは距離を稼げない。そこで走る範囲を広げるのだが、生憎草刈りをしておらず、結構草丈が長い。そこには直径60cm、深さ40cmほどの円形の穴が3つあり、今は草に隠れているので要注意。それに朝は草に露が降りているため、シューズが濡れてしまう。 落ちていた栗 この日履いたシューズはウルトラ用。何せ競歩スタイルのトレーニングは初めてなので、慎重に歩き出す。手を大きく振れと言っていた院長の言葉を思い出す。公園の利点はトイレと水道があることだが、いつでも水分を補給できるよう、私はペットボトルを持つのが常だ。反時計回りで5周。初日から5km歩いた。院長からは2kmから始めなさいと言われていたのだが。 その夜、疲労感が私を襲った。左の脹脛には張りを感じた。走るのと歩くのでは使う筋肉が違うせいか、とても疲れるのだ。それに公園内は平らなところばかりではない。凸凹の不整地は足に強い負担をかける。元気な時は全く気にならないのだが、筋力が弱った今は、そんなことすら疲労の原因になるようだ。5km歩くのに要した時間は37分20秒。この夜楽天が勝ち、球団誕生後初のマジックナンバー28が点灯した。 野生の彼岸花?8月29日(木)曇り時々晴れ。キュウリ3本、ナス4本収穫。朝食後ユキヤナギを抜き、その後へバラを数本移植。夕方自転車でM公園へ。この日はニューシューズを履いた。底がすり減ってない方が、足に優しいと思ってのこと。またポシェットにはデジカメ。前日公園内で花を見つけ、ぜひ撮りたいと思っていたのだ。脹脛に痛みはあったが、迷わず一歩を踏み出す。 この日は時計廻りで6周歩いた。距離は5.6kmで、かかった時間は54分25秒。写真を撮っている時間は時計を止めた。小さなヒガンバナのような花も見つけた。ヒガンバナはまだどこにも咲いていないのに、これは何なのだろう。夜は則本が好投して12勝目。楽天のマジックは2つ減って26になった。 さて、私は整形外科のスポーツ医からは走るのを止められている。いわゆるドクターストップだ。それなのに走って障害が出た。これは自己責任だ。整骨院の院長にはそのことも含め、全て伝えてある。だが彼は走るのを止めろとは言わず、むしろどうしたらレースに出られるかを考えている。彼自ら100kmを走り、同じように膝を怪我した経験があるからだと思う。 中学生の頃から柔道をし、青年期はトライアスロンに夢中だったとか。そして1回だけだがウルトラマラソンも経験した。だから私の気持ちが分かるのかも知れない。たまたま出会った不思議な縁だが、今は彼を信じたい。ただし「超音波で膝の軟骨が再生する」かどうかは疑問。これまでそんなことは聞いたことがない。もちろん、まだその治療は受けてないのだが。今日は午前中に5回目の治療を受ける予定。「競歩トレーニング」の結果を受けて、新たな治療方針が決まるかどうか。<続く> 野菊?≪ 8月のラン&ウォーク ≫*ラン回数:10回 *ラン距離:120km ウォーク62km 月間合計:182km 年間総計:1921km うちラン:1236km これまでの累計:82775km*注 ランには競歩の距離(回数)と自転車の40%を加算してあります。(「ランナーズ」のエネルギー換算率による)
2013.09.01
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「院長、3km走ったら膝が痛くなりました。もうレースに出るのは無理だと思います」。水曜日に整骨院へ行った際、院長にそう言った。院長は痛む個所を確かめながら私に尋ねた。「ひょっとして坂道を走らなかった?走るのはまだ許可してないんだけどなあ」。 その言葉は意外だった。「競歩スタイルで2kmくらい試してみたら」と言ったのは院長じゃないか。それに坂道を走ったと言っても、本当にゆっくりなんだけど。だが、院長はたとえゆっくりとでも走るのと競歩とでは脚にかかる負担が違うと言う。走った場合、歩くのに比べて3倍の体重が脚にかかることは私も知っていたが、たった3kmをゆっくり走っただけでもこんな風に影響が出るものだろうか。 さらに院長は私に尋ねた。「痛みが出たのは走っている最中ですか。それとも走った後?」。走っている時には何ともなかったのに、走った後で左膝周辺に鋭い痛みが出た。それでもう走るのは無理と自分で判断したのだ。だが院長はレースには出られると言う。痛みが出たのは膝の内部ではなく、筋肉なのだとか。 第1回の治療の時から膝を色んな角度で捻って痛みが出るかどうかを確認していたが、きっとそれと関係しているのだろう。「スクワット(膝の屈伸運動)をしてますか?」。院長が尋ねる。私はスクワットだけでなく、現在行っているエクササイズのメニューを簡単に説明した。院長は言う。「脚は組まない方が良いですよ。膝を傷める原因になりますからね」。 そうか。それも知ってはいたが、ついつい組んでしまうのだ。それは弱い方の脚を無意識に庇うためのようだ。「登山をするのはどうですか」。私は尋ねる。「今の段階じゃ止めた方が良いですよ。それより・・」と院長はある試みを私に提案した。それはグラウンドを競歩で歩き、2kmから始めて1kmずつ距離を増やすと言う方法だった。 「院長、M公園はどうですか」。「ああ、あそこなら、土だから却って足には良いですね」。それで決まった。次の診療日の日曜日まで4回競歩スタイルで歩き、その結果どんな痛みが出るかどうかで再度治療方針を決めることになった。それにこれまで行って来た全身のマッサージを止めて、膝に超音波をかけると、同じ料金で済むとも。 実はその治療費も、本当は私を悩ませていたのだ。初回は1500円で、2回目からは千円。これはよその整骨院の倍。1週間に2回の治療だが、料金は自分の小遣いから出していた。以前、整骨院に通っていた時、妻から「自分の不注意で起きた怪我は自分で支払うこと」と言われたことがある。今回はそれを思い出し、嫌な思いをしないよう自分で支払っていた。妻は私が整骨院へ通っていることを知っているが、治療費のことは聞こうともしない。 院長の話によれば超音波をかけることで、膝の内部のすり減った軟骨を蘇らせることが出来るらしい。レースに出られることと言い、すり減った軟骨の復活と言い、自分では予想もしなかったことだ。諦めていたレースへの想いが、私の胸の中で再びうずき出したのだった。そうか、また走れるか。それは嬉しい。今は院長の言葉を信じて、「競歩」を頑張ってみるか。<続く> 1ウルトラ用 2ウルトラ用 3散歩用 4農業用 5ニューシューズ 長い距離を走るウルトラマラソンでは、シューズの底の減り方が早い。レースでは道路の左側を走るのがルールのため、脚の弱いランナーが長い間ウルトラレースに出ていると、左脚が右脚より少し長くなる。道路の左側の方が低いためだ。脚の長さが違うと、こんな風にシューズの左足だけがすり減ってしまう。 ウルトラ用のシューズは1足1万2千円程度するが、勿体ないのですり減ったものは散歩用や農業用に使っている。極端にすり減ったシューズで走り続けると、さらに足を変形させたり、膝や脚や腰に負担をかける原因になるみたいだ。ニューシューズはネットで購入したのだが、底が薄くウルトラ向きではないと判断し、これまでは使用してなかった。
2013.08.31
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さて、どう書こうか悩んだが、単純に結論を書くことにした。ランニングのことだ。26日月曜日に3kmほどゆっくり走ってみたのだが、走った後が良くない。左膝付近に痛みが出たのだ。筋肉痛なら何とでもなるが、そこは筋肉が骨についている個所。わずか3kmをゆっくり走ったくらいでこんな鋭い痛みが出るようでは、レースに出るのはとても無理だ。 今年は不思議なことばかり起きていた。最初は連休後の疲労と痛み。良くあんな状態を脱して「仙台国際ハーフ」を走り切れたと思う。大変な苦しみだったが、これは原因が分かっていた。4月末から5月初めにかけて9日連続で行った庭仕事の影響だ。昔だったらそんなことで体は傷まず、疲労も直ぐに回復したものだ。それがそうではなかった。 2番目の異常が北海道旅行からの帰宅後。旅先の青森と北海道で8kmほどの距離を3回走り、帰宅後ゆっくり11kmを走っただけなのに、膝周辺に形容し難い痛みと違和感が出た。実はその頃から本格的な長距離練習を開始し、2年ぶりに「峠越えマラニック」を試みる積りでいたのだ。それが9月から11月にかけてエントリーしているレースの良い練習になると考えていた。 だが、思わぬ事態の発生に私は戸惑った。一体何が自分の身に起きたのか分からない。これは老化が原因としか考えられなかった。走友会の合宿でも私が走ったのはわずか6kmだけ。「薬莱山とお足マラニック」では走るのは無理と判断し、往復110kmをマウンテンバイクで参加した。 その頃ネットで知った「後脛骨筋機能不全」の症状が私の体調と非常に良く似ていた。これは足のアーチが落ちたことによる足、膝、脚、腰、肩などの不調。どうしたものか悩んだ末に訪ねたのが近所に新しく出来た整骨院だった。院長の手当てが良かったのか、お陰で全身の不調はすっかり治まった。そして院長の指示に従って走ってみた結果が冒頭の始末だった。 今回の違和感は、これまで経験したことのないものだった。だから無理はせず、11日間も走るのを休んでいた。そして整骨院での治療を3回受け、自分ではもう大丈夫だろうと思っていたのだが、事態はそんなに甘くはなかった。 今年はこんな風に何度か心が揺れた。1月と2月のレースでは、ひょっとしたらこれからも走れそうな気になった。4月から5月にかけては「どん底」だったが、何とかハーフは走れた。その後も旅先で走る元気はあった。これなら復活は近いと感じた矢先に、突然原因不明の違和感が私を襲ったのだ。それでもひょっとしたら回復してレースに出られるかもと、私は淡い期待を抱いていたのだ。 整骨院の院長に「2kmほどを競歩スタイルでゆっくり走る」許可が出たことを妻に伝えた時、「お父さん、もうレースは無理だね。私と同じようにその辺を走るだけにしたら」と彼女は言った。その2か月ほど前には、「来年出たいレースは事前に示すこと。宿泊する必要があるレースは年2回に限ること」とも厳命されていた。 これは私の身を気遣ってのものではなく、「経費」が彼女の最大の関心事。その経費も家計からは一切もらっておらず、私が老骨に鞭打ち肉体労働で蓄えたものなのだ。妻に言われるまでもなく、来年のレースは無理だろうと感じていた。でも「東京マラソン」や「NAHAマラソン」には何とか出たい。例え途中リタイヤでも、私は走りたかったのだ。 こんな体調で9月のレースには行けない。3km走った後に痛みが出たことを妻には告げていないが、今日治療に行く整骨院の院長には告げる必要があるだろう。その後は暫く治療を休む積り。幸い歩くことや日常生活には困らないので、当分はじっくり様子を見るのが良いと思う。10月以降のレースへも行ける可能性は低いが、これはまだ結論を出さずにおきたい。 それにしても徐々に「フツーの老人」になって行く自分。これからはランニングに代わって散歩や自転車が私のメインの運動になりそうだ。不思議なことに今年は全く登山に行きたいと言う気持ちが起きなかった。多分、先ずはランニング出来る体調を取り戻すのが先決と考えていたのだと思う。本格的な登山が無理なら、近所の太白山にでも登るか。折しも秋の気配が少しずつ深まって来ている仙台だ。
2013.08.28
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満を持して温泉へ向かう。先ず温い浴槽に浸かり、それから露天風呂。そして水風呂、サウナ、水風呂、サウナ、水風呂の順。その間に冷たい水も飲んだ。地下深くから湧き出すこの水が美味い。幸い膝に痛みはなかった。往路は膝にテーピングし、バイクパンツを穿いた。テーピングを剥いだ復路は、サポート機能のあるハーフタイツに着替え。上は黄色い半袖シャツの下に、宮城UMCのオレンジ色のランシャツを着た。 懇親会を行う会場は正午からしか使用出来ない。仕方なく350mlの発泡酒を買って大広間へ行った。テレビの前に陣取り、少し早目の昼食。途中のコンビニで買った2個のお握りを食べながら発泡酒を飲んでいると、Cちゃんが来た。彼もビールとつまみ持参だ。そしてそのつまみを、私にも何袋かくれた。 昨年は2月と4月に不整脈の手術を受けた後で体調が悪くなり、パートの仕事を辞めた。ようやくランニングを再開したのは8月だから、この合同練習会へはマウンテンバイクで来た。片道55kmですら自信がなかったため、勿論ビールは飲まず、最初に挨拶して帰った。 1年3カ月ぶりにレースに出たのは、それから5カ月後。それに比べれば今はまだマシだが、やはり今回も走ることが出来なかった。直接の原因は膝痛だが、老化による著しい体力の低下を意識せざるを得ない状況。そしてある決断を胸に秘めてここへ来た。 大広間から出ると、到着したばかりのKさんから懇親会用の「つまみ」を受け取る。会場にはもう何人かの人が寛いでいた。つまみを配り、さらにU海さん差し入れのバナナを配った。目下重病と戦っている彼は初代の宮城UMC事務局長だが、6月の「みちのくラン」でもコースの途中で個人エイドを開き、私達を歓待してくれた。 12時半を過ぎても全員が揃わない。猛暑のために疲労が著しく、到着が遅れた人が何人かおり、Kさんも「熱中症で頭が痛い」と言っていた。F田事務局長代理の発声で、ようやく懇親会開始。先ずは会長であるM仙人の挨拶で乾杯、一気に座は盛り上がった。私は2本目のロング缶に突入。もう帰路の心配はどこ吹く風だ。 参加者各人の挨拶が始まる。昨年はトップバッターで挨拶をして帰ったが、今年は飲みながら皆の挨拶を聞き、野次を飛ばした。それが絶妙の内容とタイミングみたいで、座が盛り上がる。古川グループのS木さんがエビスのロング缶を差し入れしてくれた。彼は私のブログの愛読者。4月から新しい職場に転勤して以来会ってなかったが、久しぶりに元気そうな顔を観られたのが嬉しい。 S木さん K彦さん 私の順番になった。実はこの場で皆にお別れの挨拶をする積りだった。ここ1カ月ほど膝痛だけでなく体調不良に悩まされ、レース出場が無理なことを悟っていた。来年は一切レースに出ず、今年申し込んだレースも行くのを止めようと思っていた。だが私の口から飛び出したのは、意外にも既にエントリーしている今年のレースのことだった。 缶ビールに酔ったせいではなく、多分炎天下を激走する仲間の姿や、今後の目標などを聞いたためだと思う。宮城UMCの結成後13年。私は最古参の会員の1人で、この「薬莱山とお足マラニック」は連続10回目の参加。それが思うように走れなくなった今、長年お世話になった仲間にきちんとお礼とお別れを言おうと思っていたのだが、全く予想外の展開になった。 私がそんな気持ちでこの場に臨んだことを、仲間は知らない。とうとう本音を切り出せないまま終わったが、それはそれで良いと思った。何かが私の胸の中で変わったのだ。全員の挨拶が終わると私は半袖シャツを脱ぎ、これからマウンテンバイクで帰途に着くことを告げた。猛暑の中をたった1人で仙台を目指す自転車の旅。これからが本当の冒険だ。 これが玄関で撮ってもらった自分。顔も体もアルコールと強烈な太陽で赤黒い。帰路は目を保護するため、サングラスをした。こんな状態で果たして55kmを走り通せるか、そんな心配は既にぶっ飛んでいる。酔った勢いで高揚し、急激な坂道を一気に下る。転倒したら大けがをするため、それでも道路の状態はしっかり観察している積りだ。 サヨウナラ薬莱山。またいつか会おうね仲間たち。来年再びこの高原に来られるかどうかは分からない。だが、来られるように、出来るだけの努力はしたい。薬莱神社の里宮を抜けて国道へ出ると、灼熱地獄が私を待ち構えていた。帰宅後に知ったのだが、この日の最高気温は35.8度だった由。途中で何台かの車が私を追い抜いて行った。車窓から思い切り手を振る仲間の姿が見えた。 田圃の向こうに西日に輝く「七つ森」が見えた。ここが30km辺りで、残りはまだ25kmある。体調に問題はなかったが、時間は待ってはくれない。富谷町から厳しいアップダウンの連続で必死にペダルを漕ぐ。何とか仙台市の泉区に入ったが、将監トンネル手前で道に迷った。何故だか判断を誤り、90度方向が違う道に入ってしまったのだ。 風景がいつもと違うことが分かった。苦しみながら坂道を登っていると、右足に強烈な痙攣が起きた。大量の発汗で体内の塩分を失ったのだ。道端にマウンテンバイクを停め、固まった筋肉に冷却スプレーを吹きかける。そして小袋の塩を舐め、水分を補給。5分もせずに痙攣はピタリと治まった。何度か道を尋ね、何とか泉中央に出た。 帰宅は6時過ぎ。妻は鳥海山へハイキングに行き留守。早速カラカラに乾いた庭と畑にホースで水やり。洗濯ものを水で潅ぎ、夕食は冷やし中華を作った。その夜はなかなか寝付けなかった。炎天下の110kmを走った疲労に加え、モスクワ世界陸上で福士加代子選手が女子マラソンで銅メダルの活躍。きっと神経が興奮して眠れなかったのだと思う。 ともかく今年の「薬莱山」は終わった。幸いその後膝の痛みはなく、体調もまあまあだ。もしまだ挑戦心が残っているなら、レースに出るのも良し。なにせ俺は1年3か月のブランクから復活した男。再びあの奇跡が起きないとも限らない。相変わらず猛暑続きの仙台だが、そのうち必ず涼しい秋が来る。私はボロボロになるまで走ろうと思っているが、実際どうなるかは分からない。だからこそ人生は面白いのだ。<完>
2013.08.13
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鳴瀬川に架かる旭橋を渡り、コンビニのトイレで顔を洗い、タオルを水に浸す。買ったのはお茶とアイス。ここはゴールまで残り9km地点。アイスを食べているうちに、我が走友会のSさん、O君、住吉台の3人組が先発した。今日はまだ時間が早いが、いつもならここは長時間高温に曝されてフラついている辺りだ。 直角に2度曲がる加美町の国道347号線を西行。Cちゃんのオレンジ色のランシャツが見える。宮城UMCのユニフォームは良く目立ち、遥か先でも良く分かる。途中から農道に入り、薬莱神社の里宮に寄ることにした。カンカン照りの国道よりも、木陰のある細道のほうがかなり涼しい。 見えて来たのがこの風景。山の名は薬莱山。標高553mの山頂には、奈良時代に鎮守府将軍大野東人が医薬の守護神である大己貴神を祀った薬莱神社があり、麓の赤い鳥居はその里宮だ。大野東人は、蝦夷に襲撃されて炎上した国府多賀城を修復したことで知られているが、天平9年(737年)色麻の柵から出羽国(現在の山形県と秋田県)への新道を建設中に多くの兵士が病に斃れたため、山上で神に祈ったと縁起にある。 さらに延暦23年(804年)には、征夷大将軍坂上田村麻呂が薬莱山頂に薬師三社を勧請し、その麓に大宮大明神を奉祀して東国の安泰を祈った。これが現在の里宮だ。薬莱山の別名は加美富士。その名の通り美しい山容だ。そして郡名と町名の加美(かみ)は、本来「神」だと直感的に悟った。 清水で手と口を潅ぎ、里宮を参拝してから再び薬莱山に向かう。間もなく薬莱高原への登り口に到達。ここからは徐々に勾配がきつくなる。水沼橋の向こうで、苦しむCちゃんの姿。ここまで高温下を走り、きっと無理をしたのだろう。それでも最後まで坂を登って走ろうとする彼。 これは水沼橋の欄干にあるカモシカ像。遥か下を流れる鳴瀬川には、釣り人が天然のアユを釣っている姿が見えた。マウンテンバイクを押しながら坂を登る。ゴールまで残り600mの標識。元気な頃でも、この坂を走って登るのは大変だった。スタート地点から間もなく55km。炎天下のランは過酷だが、私は一昨年まで8年連続で完走して来た。車からM井さんの声。今回は用事があって参加出来ず、荷物だけ運んで来た由。 これがゴール地点の薬莱薬師の湯。温泉の名は山頂に祀られた薬師三社に因む。一旦はマウンテンバイクに鍵をかけ山頂まで登山しようとしたが、帰路の体力を温存し、周囲を散策することに。疲労は当初心配したほどでもなく、これならきっと往復可能なはず。 この塔は電子基準点。上空の人工衛星から発信されるGPS電波を受信し、正確な位置を確認するための装置のようだ。敷地には高原ビールの看板もあった。薬師の湯に戻り、参加者名簿にチェックを受けて入館。いつもなら温泉に入るのは11時半頃だが、今日はまだ10時過ぎ。テレビで高校野球を観戦していた。5年以上住んだ徳島の鳴門高校が圧勝。 ロビーの壁にはこんなものがずらり。これは宮城県北部と岩手県南部で信仰されて来た「釜神」。私達の祖先たちは釜神さまを台所のかまど周辺に祀って、防火と家内安全を祈ったのだ。噂には聞いていたが、「本物」を観たのは今回が初めてだった。<続く>
2013.08.12
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朝日は撮れたが、走っている走友の姿は残念ながらぶれていた。今年も8月の第1土曜日に行われた「薬莱山とお足マラニック」。これはウルトラマラソンの愛好者で作る「宮城UMC」の合同練習会。9月の「秋田内陸ウルトラ100km」を意識してのものだ。途中で「す○や」に入っているうち、3人の仲間の姿が見えなくなっていた。 Hさんは、泉中央から地下鉄で帰ると言っていたが、EちゃんとYちゃんの2人も同じ場所から引き返したようだ。私はマウンテンバイクでの参加。最近膝の調子が悪く、それを庇いながら走っていると、他の個所まで痛み出していた。それが10kmほどの短い距離でも起きるのだ。 これではレースはおろか、長距離の練習も無理であることは明白。だが、このマラニックには、例えどんな形でも参加したい。マウンテンバイクで行くべきか。それとも皆が出発する前に走り出し、途中で「伴走車」に収容してもらおうかと最後まで悩んだが、結局はマウンテンバイクで行く途を選んだ。往復110km。それを自己責任で走るのだ。 「たとえマウンテンバイクでもAさんが参加してくれるのは嬉しい」。そう言っていたYちゃん。そして思わぬ大病で昨年2度の手術を受けたEちゃん。それでなくても彼女は足の怪我で苦しんでいた。皆それぞれに故障を抱え、加齢と戦っている。私も昨年不整脈で2度の手術を受け何とか復帰しようと頑張っているが、現実はそう甘くはない。 ようやくDさん夫妻、Tさん、そしてH君に追い着く。若いH君を除いた3人はウルトラマラソンのベテランぞろい。私より13歳ほど若く、今がウルトラランナーとして一番油が乗っている時期だ。皆のたくましい脚を自転車に乗りながら観察。脚を引きずる私と違って、美しいフォームの走りだ。間もなくS原さんと合流。彼は60代の半ば過ぎだが、故障知らずの強者。 富谷町の中ほどでF田さんから2度目の給水を受けた時に「早めにゴールして、高原を散歩でもしたら」とKさんが言ってくれた。これは正直嬉しかった。自転車で伴走するのは、スピードが遅過ぎて逆にきついのだ。折角なので甘えさせてもらい、そこからスピードを上げた。大衡村大柳で国道4号線と別れ、国道457号線へ。通称「羽後街道」の歩道はあまり整備されておらず、凸凹のため注意深く道路の状態を観察しながらペダルを踏む。 坂の上で自転車を止める。ここは羽後街道から別れて、山形の尾花沢方面に抜ける旧街道との分岐点。「追分の石」と説明板があった。かつての抜け道は細く、今では農作業でしか使ってない感じ。1台の車が止まった。降りて来たのは仙台明走会のFさん。ここで給水をするみたいだ。先日の「蔵王トレイルラン」で膝を傷め、今日は仲間の荷物運びに徹するとのこと。 彼は私より年下だが、70近いはず。アップダウンが激しく、制限時間が厳しい山岳コースを完走出来たのだろうか。山が得意なM仙人でもリタイヤしたと聞く、難コースだ。失礼だと思って結果は尋ねなかったが、懇親会の挨拶で見事完走したことを知った。彼は仙台から新潟の山中までの180kmを、たった1人で走った強者でもある。 王城寺演習場方面には向かわずに直進。その時、ちらっと2人のランナーが左折するのが見えた。この道は初めてだが、折角のチャンスなので挑戦して見ようと思ったのだ。間もなく変わった橋が見えた。思わず自転車を止めて撮影する。 橋の名は「河童橋」。へえ~っ、色麻(しかま)町には、こんな橋があったんだ。そこから間もなく左折し、田圃道へ。どうやら私が考えた道と異なり、町役場が見えない。やがて「かっぱの湯」の看板発見し、そこから右折。ここが本来のマラニックコースだ。前方にM仙人の給水車が見え、2人のランナーが休んでいた。 私達の走友会に所属するO君とSさん。先ほど左折する姿がちらっと見えたのがこの2人だ。恐らくここまで1kmを5分台で走っているはず。既に気温は30度を越えている。この炎天下をそれだけのスピードで走れるのは、かなりの走力と体力が必要。若い彼らは、我がチームの駅伝の主要メンバーなのだ。 さらに先行すると、住吉台走友会の両S木氏とCちゃんがいた。先頭を引っ張るCちゃんも60代の半ばを過ぎている。 先ほど見たのが「河童橋」で、こんどは「かっぱの湯」だが、河童とどんな関係があるのだろう。さらに進むと歩くような足取りのK村さんがいた。そしてその前方からK藤さんも。彼女はゴール地点に車を置き、K村さんを出迎えようと逆走して来たのだ。K村さんは私と同学年で、今年古稀を迎えるベテランランナー。そしてK藤さんは、今でも200km超級のレースを完走する実力者ランナーなのだ。 「Aちゃん、私もとうとう走れなくなったよ」とK村さん(左側)。それでも家から35kmは走るのだ。「もうダメだと思いながら、その都度復活するんだよね」とK藤さん(右側)。2人とも私の不調を知っている。走友よありがとう。歳も近く、厳しいウルトラマラソンに挑戦し続けて来た仲間だからこそ、共に加齢と戦う苦しみが分かり合えるのだ。やはりマウンテンバイクでも参加して良かった。<続く>
2013.08.11
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≪ ランニング再び ≫ 最近の私の生活パターンは以下のようなものである。起床後ブログ → 10km程度のランニング → 体操 → 愛犬との散歩 → 畑へ水やり(収穫) → 水シャワー → 朝食 → 新聞 → 休息・読書・エクササイズ → 昼食 → 休息・読書・エクササイズ → 愛犬との散歩 → 庭への散水 → 水シャワー → 夕食 → ナイターを観(聞き)ながらのエクササイズ → 就寝。 3週間前までは全く走れなかった。2度に亘る不整脈手術の後遺症で目まいがあったのと、右足に痛みがあったせいだ。これまで足を傷めたことが何度かあったが、今回の症状はかなり深刻で、もう走るのは絶対無理と諦めたほど。だからブログへ自分のランニングのことを書くこともないと思っていた。もちろんテーマによっては書けないこともないのだが。 例えば走友達の活躍やランニングに関する一般論としてだ。そして自分の過去のレースや、ランニングの思い出についても。ただし、過去の思い出だけしか書かない、元ランナーにはなりたくなかった。私はこれまで94回の長距離レースを走っている。そのうち約半分がフルマラソンでの完走。そして残りの約半分がウルトラマラソンの記録。ただしそれには42km以上走ってのリタイヤも幾つか含まれているが。 その記録を、私の墓碑銘代わりにブログに載せようとしたこともあった。もちろん私は生きているのだが、ランナーとしては死んだ、つまりそれ以上レースに出ることはないと考え、記念碑として残したいと思ったのだ。100回ではなく94回と言う中途半端な数字も、私に相応しいのではないか。自嘲ではなく、私は心底そう感じていた。 それが何の悪戯か、私は再び走れるようになった。ただし思うように走れなかった半年間のうちに、走るための筋肉がすっかり落ちてしまっていた。これが戻るには後数カ月はかかるだろう。今はまるでロボットのような動きしか出来ない。初めて出た100kmレースの99km地点のような感じ。つまり自分の脚であって、自分の脚でない感覚と言えば分かるだろうか。 たとえそんな拙い走りであっても、ただ走れるだけで嬉しい。ランナーとしての復活を目指し、来年は幾つかのレースに出場したいと願っている。既に「東京マラソン」と「京都マラソン」は仮エントリーを済ませた。どちらも人気大会だけに、当選するのは困難だろう。これまで「東京」は6連敗だし、「京都」も外れている。 だが再びレースに出たいとの強い想いが、きっと私のリハビリを助けてくれるはず。2つのマラニックを含め、今10のレースへの出場を頭の中で思い描いているが、それだけでも嬉しく思える。94回で終わっている自分の記録を少なくても100回まで延ばし、後数百kmに迫った地球2周走破を、何としても今年中に達成すること。そんな目的も、私を奮い立たせると思う。 今回の整骨院での施療は5回で終わり、それ以降あの若い先生には会っていない。私があの後薬莱山まで自転車で往復したことや、再び走り出したことを知れば、きっと驚くと思う。それほどあの頃の私はコンディションが最悪の状態だった。果たして彼にその後の報告をする日が来るだろうか。早く報告したい気もするが、したくない気持ちもある。何故なら彼の整骨院を訪れるのは、私が怪我をした時に限られるからだ。<続く>
2012.08.26
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夜中に目が覚めてブログを読むと、何人かの人が書き込みをしてくれていた。これだけ私のことを心配してくれる人がいたことに驚くとともに、改めてとても有難い気持ちになった。今日は別な話題を書こうと決めていたのだが、これだけの気持ちを寄せていただいた以上、やはりランニングと障害に関する話題に触れない訳には行かないだろう。 昨日ブログにコメントを書き込んで下さった8人の方のうち、現実の私を知っている人は3人だけ。後の5人はネットを通じての友人なのだ。そんな方が心から心配してくれたこと、そして喜んでくれたことは、私の生涯の宝だと感じている。「どん底」に落ちた時に手を差し伸べてくれた人こそが本当の友人。そして、そんな方々に感謝する気持ちを失ってはいけないとも。 私がまだ走れないでいる頃、妻は朝起きると走りに行くことがあった。それを観て、羨ましいとも、悔しいとも感じたことはない。まして「嫉妬」などはなおさらだ。私はそれまでに十分走って来たし、妻はまだ初心者。健康維持のためにランニングをするのは、むしろ良いことだと思っていた。それに私にはランニングに代わる多くの趣味があった。 家庭菜園、歴史研究、読書、自転車、プロ野球東北楽天の応援、映画鑑賞などなどだ。30数年続けて来たランニングが最大の趣味だが、それを補完する他の楽しみを、私は見つけることが出来ていたのだ。また、「諦める」ことは人生の修行のうちと考えてもいた。ありのままの自分を受け入れる、そんな心境だった。ただし、これまでに聞いた幾つかの意見をどう解釈し、どう行動すべきなのか。 「心拍数が110以上になる運動はしないように」。不整脈手術を執刀したドクターの注意だが、これは果たして手術直後の数カ月間だけの話だろうか。それとも一生守るべきルールなのか。ハートレートモニター(心拍計)でも胸につけていない限り守れないと思うのだが、実際はどうなのだろう。運動中に胸が苦しいことはないのだが、6か月検診の際にでも尋ねてみようと思う。 「筋膜炎はアーチの崩れが原因だから、足に負担をかけぬように体重を減らすのが重要。ランニングは止めて、自転車に乗るように」。これは整形外科の院長の話で良く理解出来るのだが、出来ればこれからもランニングを続けたいのがランナーの本音。そのために今回医療用インソールを新調したんだもんね。さてその辺をどう調整するかが今後の課題だね。 「変形している左右の第5中足骨(舟状骨)は疲労骨折し易い個所」。これは整骨院の院長の指摘。なるほどやはりそうか。私の舟状骨は既に変形している。これを医療用インソールで補正しない限り、疲労骨折や筋膜炎や腱鞘炎が発生する危険性が高いのだろう。それはこれまでの11年間で生じた自分自身のランニング障害でも実証されると思う。 「シリコン製の医療用インソールは、堅い(痛い)と感じても、最低1ヶ月間は我慢して使用してください。自分勝手に加工してはダメです」。これは義肢製作所のスタッフの話。なるほど、前のは堅いと感じて削ったりしたもんね。それがアーチを補正出来なくて痛みが出た原因かもね。今回作ったインソールがそんなに堅いと感じないのは、「青竹踏み」などで足底を鍛えたせいだろうが、今後走る距離を伸ばした時にどうなるかな。 私の両足には、ランニング障害の長い歴史がある。だからこそ大事に付き合わないと、これから向かう老後の生活に支障を来たす恐れもあるのだ。ただ「走りたい、走りたい」だけでなく、痛み発生の原理をちゃんと理解しておかないと、後で悔やむ可能性が高いのだ。中高年にとってランニングは魅力に溢れたスポーツだけど、その危険性についても十分理解しておかないとね。 そんなことを感じながらも、私は来年出場したいレースのリストを作った。出たいレースは10もあるんだよね。ビックリでしょ?そしてずいぶん気が早いでしょ?まだ十分に走れないのにねえ。でもそれがランナーの夢。出たい、走りたいレースがあればこそ、苦しいリハビリにも耐えられる。多くの友情に感謝♪ ドクター達の指導に感謝♪ そして夢を与えてくれるランニングに感謝♪
2012.08.22
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つい2週間前まで、私は読書三昧の日を過ごしていた。不整脈手術の後遺症で軽いめまいがしていたし、右足の底部には筋膜炎の痛みがあったため、運動など出来る状態ではなかったのだ。それが「薬莱山とお足マラニック」に出ると決めてから、体調が飛躍的に改善された。マラニックの前に行ったのは、2回の早歩きと整骨院での5回の施療。そして1週間の「エクササイズ」だった。 わずかそれだけで、110kmの道のりをマウンテンバイクで往復することが出来た。きっとどうしても参加したいと言う強い気持ちが、そこまで復活させたのだと思う。人間の潜在能力の凄さを知った思いだ。そして今では不格好ながらランニングも再開している。歩いても何もしなくても痛かった私の右足。だから走ることは不可能と、私はすっかり諦めていたのだ。 それが何故再び走れるようになったのだろう。とても不思議だが、幾つか原因として考えられることがある。第1は痛みがある時に全く走らなかったこと。これは筋膜炎の場合、とても重要なことだと私は認識している。痛みがありながらつい走ってしまうと、いつまで経っても治らないのがこの病気だ。第2は整骨院での施療が痛みを和らげたこと。これは嬉しい誤算だった。 そして、自己流のエクササイズも案外効果があった。衰えた筋力の向上に役だち、体調を整える効果もあった。特に「貝殻踏み」と「青竹踏み」は足底部を刺激し、強化につながっているように感じる。それもこれも、「何とか復活したい」と言う強い気持ちがもたらした「奇跡」だったように思う。 7月の東京見物で巣鴨の「とげ抜き地蔵」に行った時、私は見よう見真似で「洗い観音」の足に水をかけた。自分の悪い個所に水をかけると、その個所が治ると信じられている「洗い観音」。私はそんな迷信は信じない方だが、ブログ友のよっちゃんさんやherenさんは、「きっと治る」と信じてくれていた。私は総合病院で手術でも受けない限りは治らないと思っていたのだが、その決断すら出来なかったのだ。 昨日は走らなかった。前日の18km走が利いて、すっかり草臥れたのだ。早歩きも含め、この2週間で走った距離は76km。自転車(走行距離の40%相当)は66km。そしてウォーク(1回20km以下の自転車の40%相当分も含む)が48kmで、合計190km。1日平均13.6kmの運動量だから疲れても当然。その前は老犬との散歩しかしてなかったことを思えば雲泥の差だ。 体調がまだ思わしくなかった頃、自分がしたい夢を幾つか書き出したことがある。登山、トレイルラン、長距離のランニング練習、自転車での旅などがそうだ。体調と体力が戻りつつある今、それらは決して夢ではなくなった。そして夢の続きである「東京マラソン」、「仙台国際ハーフマラソン」への出場も、今後のトレーニング次第では、実現出来るかも知れない。私にとってはまさに奇跡。実に有難く、嬉しいことだ。 昨日は整形外科で新しいインソールを受け取った。これまでのものより素材が軟らかく感じた。これを装着して走ったら、果たしてどんな感じかとても楽しみだ。病院に向かう途中、走友会のD堂長老に会った。山の地図を売っている店が見つからずガッカリしていた時だ。だが登山にも造詣が深いD氏は、それを売ってる書店を知っていた。氏に聞いた店を後で訪ね、蔵王山と不忘山の地図を買うことが出来た。これは9月の初めに妻と縦走する予定。 「奇跡」のお陰で、今後の展望も開けそうな気がする。だが油断は禁物。老化は決して待ってはくれず、突然色んな現象を引き起こすことがあるからだ。規則正しい生活を送るのが第一。それを肝に銘じてこれからの日々を過ごしたいと思う。「トランスヨーロッパ」出場中の日本人18選手は、第1日目、第2日目とも全員完走のようで嬉しい。健康に注意して、見事スペインの港町にゴールして欲しい。
2012.08.21
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夜半の大雨のせいか、翌朝はすっかり涼しくなった。あれほど激しかった愛犬の息遣いが、昨日は一日中静かだった。深夜中テレビを観続けたため調子は良くなかったが、歩いて病院へ向かった。そこは12年前に左足の疲労骨折で治療を受けたところ。その売店に偏平足を保護する特殊なサポーターを売っていることを思い出したのだ。 医療用なので今でも取り扱っているはず。そうは思ったものの、本当にあるのかどうか。優しそうな小母さんに聞くと、縦型と横型があるらしい。見本を観ると、かつて私が使用したのは縦型の方だ。袋の中には左右の1足分、つまり2個入っているのに気づかず、2袋を買って帰った。家に帰って早速装着してみる。クッションがポリウレタン製のためか、感触がとても足に優しい。そしてこの最大の利点は、室内でも使用出来ることだ。 これで医療用インソールは、目下製作中の物を含めて3種類揃うことになる。足首用のサポーターも大中小の3種類。目下所有しているランニングシューズは4種類。底の堅さに若干の差はあるが、いずれも練習用で底は厚い。そして4Eかワイドタイプの幅広のもの。これだと医療用インソールや足首用のサポーターを装着したままでも履ける。それらをどう組み合わせてトレーニングするか考えるのも楽しみだ。 フランス製のトレッキングシューズは重量があり、底がガッチリしているため、近所の森や山でのトレーニングには最適だ。足の痛みさえ取れれば、こんな風にトレーニングのメニューが広がる。午前中妻の姉へ採りたてのトマトを届け、午後は生協の配達品を取りに行く。我が家の完熟トマトはとても甘く、どこへ上げても極めて好評だ。 眠くても昼寝はせず、仙台育英の試合を観た。この日から甲子園での高校野球が始まったのだ。相手は優勝したこともある佐賀北だったが、何と大差での勝利。そしてその夜はわが東北楽天も久しぶりに勝った。これがオールスター後の初めての白星。結局愛犬はこの日一日外に居た。涼しくて過ごし易かったが、今日からまた猛暑復活だ。 ブログの途中でオリンピックで2つの金メダルを獲ったニュースを知った。女子レスリングの小原選手と伊調選手。やはり女子は強い。金メダル4個のうち3個が女子選手によるもの。さて今日から妻は関西方面に出かけ、私とマックスが留守番になる。時間がたっぷりあるし、どうやら良いトレーニングが出来そうだ。
2012.08.09
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昨日は朝から2つの病院をかけ持ちした。最初は歩いて整骨院へ。2ヶ月半全く走らなかった(走れなかった)ことと、強烈な指圧のお陰で右足底部の痛みがほとんど感じないようになっていた。指圧で炎症が治まることはないとは思うのだが、4日間の施術で体調が劇的に改善されたのは事実。保険が利いて1回500円は安いもの。 次にバスで中心街の整形外科へ向かう。少し手前のバス停で降り、一番町を歩く。アーケード街は豪華な七夕飾りで溢れ、その下を大勢の観光客が驚いた様子で歩いている。江戸時代から続く仙台の伝統行事である七夕だが、中には電気で動く「仕掛け物」もある。わずか300mほどだが、観光客気分を味わった。途中のコンビニでお握りとサンドイッチを購入。 待合室には既に既に50人ほどの先客がいた。いつもは3人いるドクターが、この日は院長1人だけで診療に当たるようだ。受付に診察券と保険証を出し、係の人に症状を話す。この日の最大の目標は新しくインソールを作り直すこと。以前に作ったものは走るためにかなり手を加え、本来の機能が半減したせいで痛みが出たのではと考えたのだ。 ここに至るまでに、私はかなり悩んだ。このまま痛みに耐えて老後を過ごすのも覚悟したほど。2度の手術と投薬で、今のところ不整脈は治まっている。もし足の痛みさえなければ、ちょっとした運動が出来るのではないか。だが昨年3月の診察でランニングの禁止を勧告されたことが、通院を迷った原因だった。 午前中は2時間半待ち。その間に外は激しい雷雨となった。傘の心配をしたが、全くの杞憂だった。午後も4時間ほど待つうちに、すっかり雨が上がったためだ。待合室でお握りとサンドイッチを食べ、本も140ページほど読むことが出来た。院長へはこれまでの症状を話し、インソールを新調したいと言うと、直ぐに了承された。 話によれば横に出っ張った骨は種子骨ではなく、第5中足骨(舟状骨)がアーチの崩れで変形した結果。だから痛み止めの注射は一時的な効果しかなく、インソールによる補正が最適の由。次に処置室で専門業者によるインソールの型取り作業。ここでインソールを作るのは今回で3回目だが、担当者は若い人に変わっていた。 今回は足の補正を第一に考え、一切加工しないことにした。私のレース経歴を聞いて驚く業者。足の変形もそれが原因と納得。骨の出っ張りはアーチが潰れてX脚になったためと言う。足首の細さは陸上選手と似てる由。出来上がりは2週間先。定価は6万円ちょっとだが、これまでの経緯があるため改めて電話する由。今回も保険は利き、かつ残りの7割分も国保から補助されるようで有難い。 帰宅後、疲労と頭痛に苦しみながら、愛犬との散歩、夕食、そして遅いブログの公開。長時間のエアコンで、すっかり体調が狂ったのだろう。9時過ぎに就寝したものの、12時過ぎには目が覚めた。そのまま起きて、なでしことフランスの準決勝を観る。凄い戦いだった。さすがに2大会連続銀メダルのフランスは強かった。 それでも日本は2回のチャンスをことごとく物にし、フランスは折角のチャンスを決め切れずに1点だけに留まった。タイムアウトまでハラハラドキドキの展開だったが、何とか最後まで頑張り続け、宿敵アメリカとの決勝戦に進出した。そんな訳で、今朝もエクササイズの「速歩」はこなしていないが、体調はさほど悪くもない。なでしこ同様、私もまだ一縷の望みを失ってはいない。
2012.08.07
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≪ 実験と診断(2) ≫ 「お待たせしました」。そう言って診察室へ入って来たドクターは初めての人だった。電子カルテで私の病歴を見、「それでどうしました?」と尋ねる。私は昨年12月初旬からの症状と、近くレースがあるが、このままの状態では長い距離の練習が出来ないことを話した。ドクターは私の右足を触りながら、「すっかりアーチが落ちてますね、縦も横も。これじゃ100kmも走るのは無理ですよ」と一言。 それは自分でも分かっていた。この状態では100kmはおろか、フルマラソンですら走るのは無理のはず。それでも必死になって靴底の堅さと医療用インソールの堅さを訴えた。「アーチが落ちた足では、底が軟らかいシューズだと余計に負担がかかるんです。それにシリコンは軟らかいですよ」。そうか、あれで軟らかいのでは、とても走るのは無理と言うことになる。 「どこですか、痛いのは?」。そう言いながらドクターは右足を触った。足底の痛んでいる個所は直ぐに分かったが、内側の突起部分も痛かった。「その種子骨のところが痛いです」。「そこは種子骨ではなく、骨が落ち込んでいるため靭帯が擦れているんです」。私は左足同様に種子骨の突起だと思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。 思いがけない重症。「今回は注射を打ちますが、走るのは無理ですね。これからは負担がかからない自転車にしましょう」。私がランニングへの未練を話すのも聞かず話を終えた。足への2本の注射の他、階段を降りる際に痛みが出だした右膝関節へも注射を打ってもらった。心臓が悪い上にこの足でまだ走ろうとする私に、「このままだと靭帯が切れますよ」。そう告げてドクターは部屋を出て行った。 走後、エアサロンパスで足を冷却するなど、これまで色んな方法で何とか走れないかを試して来たが、それはあくまでも誤魔化しでしかなかった。極度に変形した私の足を補うには、やはり堅い底のシューズと医療用インソールが不可欠なのだろう。それで走って痛むとなれば、走るのを止めるしかない。初めて出会ったドクターの考え方は、実に明快だった。 それは分かるのだが、このままランニングを止めるのは忍びない。痛みが無くなったら、堅いシューズとインソールの組み合わせ、堅いシューズと軟らかいインソールの組み合わせで走ってみる。底の軟らかいシューズを探し、堅いインソールと組み合わせて見る。走るのは止めて、速歩きの練習を始める。レースは数を限定し、なるべく距離を短くする。レースは出ずに、自分のペースでゆっくり走ったり歩いたりする。そんなことを試すしかないだろう。 それでもだめならウォークや登山や自転車を運動の中心にすれば良い。走り出してから33年目の私にとって、ランニングを簡単に諦めるのは難しいが、いずれは決断を迫られる日が来るのは明らか。いや、今がその時期なのかも知れないのだ。さて、来週は専門病院に行って心臓の検査と診断を受ける予定。果たしてこちらの方は、どんな宣告が下されるのだろう。
2012.01.12
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≪ 実験と診断(1) ≫ 前日の朝は、月光の下を愛犬と散歩した。そして今朝の散歩は雪の中だった。これでは帰宅ランは無理。折角走るのを休むのだから、今日は思い切って病院へ行ってみよう。そう決めてみたものの、まだ何とかして走ろうとする自分がいた。そして走らないまでも、病院に行くのは止めようと迷う自分もだ。先月初旬に傷めてから、一進一退状態が続いていた私の右足。 痛みの状況とこれまでの経験から、足底筋に炎症が生じていることは間違いないが、どうやったら治せるか。いや、私の足の形状からして治ることはないが、少しでも負担を軽減する方法はあるはずだ。整形外科医の指導には反するが、底の軟らかいシューズならどうか。これはシューズがかなり摩り減ったことで、長くは続かなかった。 ネットの通販で買った2足のシューズはいずれも底が堅い。本当はその方が、私の足のためには良いようだが、何せ走ると痛むのだ。スポーツ店に行っても、かつて私が愛用した底の柔らかなものは売ってない。医療用インソールと組み合わせるならそれが良いのだが、やむを得ず底が堅いシューズを使うとしたら軟らかい「中敷き」と組み合わせたらどうか。そこで思い出したのが、物置にしまった長靴だった。 少し厚いフェルト状の中敷きは、なかなかのクッション性。ただし、長い間長靴の中に放置していたため、青カビや赤カビに染まっている。それさえ気にしなければ、なるほど足には優しかった。これは良いと思い、新しいのを買いに行った。袋には羊毛製とあってビックリ。そうか、フェルトには羊毛も使われていたんだと納得。 この新しい中敷きと組み合わせたら、底の堅いシューズでも足が痛まないかも。この新たな実験に向かう朝、雪になったのだ。第1現場での勤務を終えた後、病院へ診察券だけ出して第2現場へ向かった。1時間30分後に再び来院する約束で「外出券」を受け取る。これだと仕事を休む必要がなくてとても助かる。 その病院へ向かう途中にお握りを買った。もし混んでいた場合は診察が長引くために腹が減る。ところが生憎の雪で、待合室には患者がいつもの半分くらいしかおらず、間もなく診察室へ入るよう名前を呼ばれた。だが、何時まで経ってもドクターが現れない。隣の処置室からドクターと患者のやりとりが聞こえる。どうやら患者は怪我をした体で、ヨーロッパへ旅行したいみたいだ。<続く>
2012.01.11
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≪ ランニング編(2) ≫ 6月 294km(うちラン:155km) 「いわて銀河」(100km)73.3km地点でリタイア 10:38:44 今年初めてのウルトラレースを迎えて、不安が募った。不整脈の体でウルトラレースに出るのは無謀なのではないかとの想いだ。ただ、不整脈が見つかってからまだ日も浅く、ゆっくりなら結構走れる気もしていた。実際のレースでは峠の登りが苦しかった。行けるところまで行こうと思ったのだが、第3関門(73.3km)で捕まりリタイヤ。まあ良く走れた方ではないか。走ったのは10回。(1回平均15.5km) 7月 284km(うちラン:159km) 「薬莱山とお足」(55km) 8:40:00 不整脈が慢性化して来たこと、梅雨明けが早く気温が急上昇したこと、薬の副作用が激化したことで体調が悪く、疲れが出易くなった。宮城UMCの合同練習会である「薬莱山」のスタート時間を間違えて1時間早く出発。それでも前年より30分タイムが遅かった。走ったのは10回。(1回平均15.9km) 8月 240km(うちラン:83km) 仙台は過去最高の暑さとなった。不整脈が進行したのか疲労感が激しく、居眠りと昼寝で何とか生活が維持できるような状態。辞職を意識し始めた時期だった。走ったのは9回。(1回平均9.2km) 9月 244km(うちラン:140km) 「秋田内陸」(100km)45km地点でリタイア 7:30:00 ますます体調は悪化し、とてもウルトラレースに出場できる状況ではなかった。このため7月から9月に延期された「磐梯高原猪苗代湖マラソン」は不参加。「秋田内陸」でも5km地点手前で胸苦しくなり、以後全くスピードが出なくなった。大覚野峠の登りが苦しく感じ、45km地点で制限時間オーバー。このタイムではフルマラソンの完走も無理と感じた。走ったのは11回。(1回平均12.7km) 10月 250km(うちラン:122km) 「秋田」の後で右膝に痛み発生。整形外科で診断の結果は変形性膝関節症。膝関節内の軟骨がすり減ったことが痛みの原因とのこと。ヒアルロン酸を注射し、痛みが治まった。体調の悪化で「伊南川ウルトラ」(100km)は参加を取り止め、職場には辞職願を提出。走ったのは9回。(1回平均13.6km) 11月 302km(うちラン:203km) 沖縄本島本部半島マラニック(63km) 気温が下がったせいか、やや体調を持ち直す。「沖縄本島単独一周」の4年目で、屋我地島、古宇利島、今帰仁城、海洋博記念公園経由での本部半島一周を達成。気温は25度と高目で、途中疲労と吐き気による体調不良3度。これで427kmに及ぶ沖縄本島単独一周走を達成。走ったのは17回。(1回平均11.9km) 12月 23日現在で135km(うちラン:49km) 初旬底の堅いシューズに医療用インソールを挿入して帰宅ランを開始。これはかねてからの整形外科医の指導に基づくもの。だが歩くのに比べて3倍の体重がかかるランニングでは、逆に障害のある足に負担がかかり過ぎた。このため右足底筋筋膜炎と右膝痛が再発し、目下ランニングを休止中。 不整脈の症状が厳しいことと併せて、ランニング計画が全く立たない状況になった。こんな中で、自分に何が出来るかを目下検討中だ。こんな風に今年はランニングにおいても波乱万丈の年となった。本日現在で今年の累計距離は3426km(うちラン:1770km)、これまでの総計は78106km。地球2周走破まで残り1910kmになった。来年中の達成は可能かな?
2011.12.23
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順調に滑り出したかに見えた「ジョガー移行計画」が躓いたのは、数日後のことだった。あれは先週木曜日。夜中に目が覚めると鼓動が変。日中静かにしている時にも、突然強い動悸がすることがあったが、寝ている時の強い動悸は初めてだった。やはり心臓の調子が良くない。出来るだけ早く心臓の手術を受けたいと思った。 2つ目の異常は右膝。これは土曜日の朝だった。いつものように愛犬と散歩に行こうとしたら膝が痛い。これまでも右膝がキリリと痛むことはあった。だが今回はどうしても痛みが退かない。仕方なくそのまま散歩を続け、その日は一日中静かに過ごした。だが痛みは翌日になっても同じ。結局週末の土日はどこへも出かけられなかった。 突然襲った痛みの原因は何だろう。ガラスの破片が突き刺さったような痛みからすると、膝関節中の軟骨がすり減ったとしか思えない。ここまで膝が痛んだことはかつてなかった。激痛を伴うままでの「伊南川」への参加はとても無理。そう考えてお世話役のKさんに電話し、参加を断念する旨伝えた。宿泊先のこともあり、早めに連絡しないと迷惑をかけるためだ。 今月中旬には登山に行く予定だったが、これは妻に1人で行ってもらおう。また、11月の最初の連休には沖縄本島の本部半島を一周する予定だが、キャンセルが無理のためバスで巡るしかない。ジョギングどころか歩くのさえ困難な状態では、この先が思いやられる。右足に出来たガングリオンのことも含めて、なるべく早めに整形外科へ行こう。 こんな訳で月曜日に出勤した後、近々お会いしたい旨を係長に伝えた。彼は本社ビルに居てなかなか現場へ顔を出さないのだ。もちろん用件は私の辞職について。そして勤務後、ようやく整形外科へ行った。レントゲン写真を撮り、ドクターの診察を受ける。診断の結果右足の腫れの原因は、CTスキャンで撮らないと不明の由。悪性腫瘍のケースも考えているようだ。 肝心の右膝は関節の軟骨が摩り減って来ており、骨と骨がぶつかる痛みだろうとのこと。関節にヒアルロン酸を注射して様子を観ることになった。先ずは原因が分かってホッとした。その膝の痛みが消えたのが翌日の夕方。そして違和感が消えたのが翌々日の夕方頃だった。あれほどの痛みが注射1本で治まるとはビックリだ。 ヒアルロン酸の効果は、1)関節の痛みを抑える 2)関節の炎症を抑える 3)関節の動きを滑らかにする 4)軟骨の摩耗を抑える これは老人には有難い薬だ。私は8年ほど前から「サメの軟骨」を飲んでいたが、膝を酷使するランナーにとって、コンドロイチンやグルコサミン入りのサプリメント服用は大切だと思う。 今日ようやく辞職したい理由を係長に話せた。体調のことだけに、彼も了承せざるを得なかったようだ。早ければ12月中、遅くても来年3月中には辞職することになると思う。膝の調子も良いので、妻との登山も沖縄本島単独一周の最後のランも、多分大丈夫のはず。それにしても今年参加を見合わせたウルトラ3回分のエントリー料金4万6千円がパーになったのがちょっぴり悲しい。 迷っていた来年1月の「勝田マラソン」は、その後正式にエントリーした。そして5月の「仙台国際ハーフマラソン」は、自分への期待を込めて2時間29分30秒の予想タイムで申し込んだ。マラソンはかなり前に申し込む必要があるため、実際のレース時にはたまたま体調が悪くなることがある。それでも無理して体を壊すより、エントリー料を無駄にする方が良いのかも知れない。
2011.10.06
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「秋田」から帰宅し、増えた体重2kgを落とすのに4日かかった。これから運動量が落ちる場合は、摂取エネルギー量には相当注意しないといけないと感じた次第。今回の「秋田」では、ゆっくり45kmを走っただけだったので、さほど疲労は残ってなかった。また筋肉痛なども全くなかった。木曜日にいつもの帰宅ラン7kmを実施。 この間に私が考えたのは、「ランナー」から「ジョガー」に戻ること。レースなどで必死に走るランナーはもう無理でも、ゆっくり走るジョガーならこれからも何とか続けられそうだ。それにアメリカでは、ジョギングは心臓治療の一環として始められたと聞く。ゆっくり無理のない有酸素運動は、間違いなく心臓にも良いはずなのだ。 この間に届いた資料が2つ。1つは8月に実施した社内の健康診断の結果。これによれば、肝機能が昨年までのデータに比べて格段に悪化している。道理でこの夏は疲れを感じて仕方が無かった訳だ。それとも強い疲労感が、肝機能の悪化をもたらしたのか。いずれにしても次に内科の診察を受けに行く際、このデータをドクターに見せようと思う。 届いた資料の2つ目は、10月のレース「伊南川」のゼッケンナンバーと詳しいコース図など。これでようやくレースの実態が掴めた。最大の高低差は1200mほどある。心臓が悪くなる前なら楽しいコースだが、現状ではかなり心臓に負担をかける感じ。もし行けても沼山峠までだと思う。そこから路線バスに乗れば、何とかゴールまで戻れそうだ。 「秋田」の総括と今後のレース対策に向けて、やっておきたかったのが走行スピードの計算だった。自分が出られそうなレースの判断材料になるからだ。1)秋田の速度:7時間30分を45kmで割ると1kmに10分もかかっている。峠越えとは言えかなり遅いスピードだった。 2)伊南川の条件:16時間を100kmで割ると、1km当たり9分36秒程度のスピードで走れば間に合う計算。だが秋田より厳しいコースでの完走は到底無理だと思う。 3)50km7時間のレース(「秋田」や「いわて銀河」など):1kmが8分24秒の計算。完走は難しいとしても100kmのコースよりは平坦なので、40~45kmまでは走れるかも知れない。 4)フルが6時間のレース:1km当たり8分30秒の計算。これも35kmくらいなら走れるかも知れない。 5)制限が2時間30分のハーフマラソン:1kmを7分8秒ペースなので、必ず途中の関門に捕まる計算。 「伊南川」に関しては沼山峠まで走るとし、そこからのバス時刻と経路を時刻表で調べた。16時20分まで着けば最終バスに間に合う。これなら何とか行けそう。また下車する内川からゴールまでは走ることになるが、距離は短い。調子が良ければバスに乗らず、往路の国道をゴールまで逆走するのも可能。また夜間のランに備えて、ヘッドライトと赤色灯が点灯するかを確認した。 さらに冒険ではあるが、来年1月のレース「勝田」(フル)を仮エントリーした。料金は少し体調を見てから振り込む予定。また今後走り続けるためにも、心臓手術の可能性に関してドクターに聞こうと思う。このため、早めの辞職を上司に相談する予定。1人現場のパート職員は休暇が取り難いし、警備員の補てんには時間がかかるためだ。<続く>
2011.10.05
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第1現場に着くなりトイレに入った。バスに乗ってる時から腹痛が酷かったからだ。間一髪セーフ。いやはや危なかった。昨夜も網戸にして寝た。そして腹に掛けるのは、綿毛布からタオルケットに替えた。朝方は少し冷えたが、それが原因とは思えない。きっと朝食前に食べたカスピ海ヨーグルトのせいだと思う。何せ腸の働きが活発になるのだ。 つい最近、カスピ海ヨーグルトの「種」を新しいのに替えたばかり。前のが古くなって分離したりしていたからだ。それが今度のは物凄く濃厚で、おまけにビンも買い替えたため1回当たりの食べる量も増えたのだ。その「効果」がてきめんに現れたと言うわけだ。 第2現場に着くなり、またまたトイレに駆け込んだ。だが今度は失敗し、下着を汚した。慌てて「個室」で処理したが、下着の着替えがない。結局は作業ズボンだけを穿いて仕事をしたが、あまり良い気持ちではなかった。こちらの原因は冷たいココア飲料を一気飲みしたこと。 勤務後、整形外科へ行った。第2現場への移動の前に診察券を出していたため、直ぐに診てもらえた。今日は初めての先生だ。右足の底部に痛みがあることと、これまでの経緯を簡単に話した。気さくなドクターはレントゲン写真と私の足を交互に見ながら、「右足の偏平足には奇形が出ており、それが原因で足底筋が筋膜炎を起こしている」と説明してくれた。 そして私が最近底の軟らかいシューズを履いて走っていることを告げると、それが痛みを助長しているとも。私のように足底筋が伸び切った状態だと痛みを生ずるため、あまり足底の形態が変わらぬよう底の堅いシューズにインソールを入れて走る必要があるらしい。どうやら私は全く逆の考え方をしていたようだ。 底の堅いシューズは足に響くし、まして堅いシリコン製のインソールを入れると衝撃が強すぎて足が痛む。このためにクッション性の高いものを選んでいたのだが、変形した私の足のためには良くなかった訳だ。痛む個所に注射を打って診察は終わったが、果たして底の堅いシューズとインソールの共用で、足がレースに耐えられるものだろうか。 だが痛みの原因が解明できたのは良かった。今後ウルトラレースに復帰できるかどうかは分からないし、フルマラソンも走れるかどうか。ゆっくりとなら20kmくらいは走れると楽観しているが、今後の生活に支障を来さない足であって欲しい。少なくてもウォーキングくらいは楽しみたいと願っているのだが。
2011.07.12
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< 痛み勃発 > 注射自体の痛みは2日ほどで取れた。腱鞘炎の痛みもほぼ取れ、日常生活には何の問題も無い感じ。ただ、足に体重の3倍のショックが伝わるランニングだと、痛みがどう出るのか分からない。だが、その不安を解消するためにも「実験」は不可欠。久しぶりに走れる喜びと一抹の不安。正直言って喜び半分、不安半分の実験だ。 軽いストレッチの後、痛みがないか確かめながら200mほど歩く。そしてゆっくり走り出す。10日ぶりのランニングではさすがに足が重い。平日は仕事も含めて9km歩き、結構体を動かしているのだが、いざ走ってみると筋力の衰えを感じる。それでも走れるのが嬉しい。31年間続けたランニングは、もはや私の生活の一部になっている。 次第に体が温まり、脱いだウインドブレーカーを腰に巻く。その方が長い時間走れるからだ。30分経つと今度は脳内から分泌されるホルモンのせいで、気持ち良くなって来る。これがいわゆる「ランニングハイ」。ランナーにとって至福の現象だ。だが走り始めて50分後、右足に痛みが出た。 10分ほど我慢したが、益々酷くなる痛み。これ以上の無理は禁物。そう判断して家に戻った。多分走った距離は7kmにも満たないだろう。ソファーに座って靴下を脱ぎ、足の様子を見る。痛みの元は擦れて出来た肉刺(まめ)。その原因も分かっていた。 レースの数日後右足に生じた痛みを緩和するため、医療用インソールを削って履いた。堅いシリコンはサンドペーパーでは歯が立たず、鋭利な包丁を使用した。その僅かな凹凸が、足の裏へ強い刺激を与えたのだ。私にとって必死の策が、逆に禍となった。取り敢えずバンドエイドを張り、今は様子を見るしかない。 翌日の日曜日。よほど医療用インソール無しで走ってみようかと思案したが、結局は思い止まった。早めにブログを仕上げ、「びわ湖毎日マラソン」を観戦。先日の「東京マラソン」同様、この日も意外な若手選手が世界選手権大会への切符を手にした。旭化成所属の堀端宏行選手がその人だ。 レース中に何度かスペシャルドリンクを取り損ねたり、接触で転倒しかかるアクシデントがあった彼。だが懸命に盛り返して3位に食い込み、選考基準をクリヤーした。身長1m89cmの大型選手は高校時代さほどの実力はなかったようだ。だが最初から果敢に飛ばす姿が、旭化成の宗監督の目に留まった。ラッキーボーイの誕生の瞬間だ。 さて、翌日の月曜日は病院で診察後、インソールを調整する手はずになっていた。義肢製作所の方が病院に来る日なのだ。ギザギザに切り刻まれたインソールを観て、医師と専門家が果たして何と言うか。シリコンの材質上、一旦削った個所を充填するのが不可能なのは十分承知していたが、今さらどうしようもない。<続く>
2011.03.07
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< 故障とランナー心理 > 2月中旬の「いわきサンシャインマラソン」では、近年にない好タイムで完走出来た。スタート時のロスタイムが少なかったのが大きな要因だが、準備体操と軽いジョグをしたこと、極力イーブンペースで走ったことも良かったのだろう。あの日履いたのは底が薄くて軽いシューズ。少々きついため、医療用インソールは装着せず。それは1月の「勝田マラソン」でも成果を上げた自信の表れだった。 だが、レースの4日後になって嫌な痛みが発生した。やはりレースが引き金になったと考えざるを得ない。痛みがいつもの左足でなく、8年以上安泰だった右足なのが不思議。私の両足には「種子骨」と言う爆弾が潜んでいて、これが悪さをしたのだと思う。ひとまずランニングを中止し、思い切って以前にかかった整形外科を訪ねた。 医師の診断は腱鞘炎。3年前の左足と全く同じ理由だった。つまり飛び出た種子骨が腱を無理やり引っ張るための痛みだ。手術で邪魔な骨を取り去るのが一番なのだが、取り敢えず注射で痛みを抑え、医療用インソールの装着を勧められた。長年のランニングで緩んだ偏平足のアーチは、再び元に戻ることはないからだ。 3年前に同時に作った右足用は、逆に痛みが増すため短期間しか使用しなかった。医療用インソールは通常の生活で痛みが出ないための補助具だが、激しく地面を蹴り続けるランニングのことまでは想定していない。先ず堅い素材のシリコンが、走る際に足への強い衝撃になる。 次に長時間シリコンと擦れ合ううちに摩擦熱で肉刺(まめ)が出来る。つまり、緩んだアーチをフォローするための凹凸が、ランニングの場合には却って邪魔になるのだ。擦れる個所を削り、保護膜を張るなどの調整を重ねた貴重なインソールが、シューズを間違われて行方不明となり、再び作り直した苦い思い出もある。 ランナーにとって走ることは生き甲斐そのものだが、何らかの理由で走れなくなると悲劇。この落差が結構大きい。ウルトラマラソンの場合エントリーは何カ月も前に始まり、その料金も高額。特に故障を抱える老ランナーには、果たして数か月先のレースに間に合うのだろうかと不安も過る。長い距離を走るウルトラマラソンには、日頃のトレーニングとそれなりの準備が欠かせないためだ。 ともあれ私は9日間走らなかった。昨日の土曜日が10日目のラン。いよいよ実験の日だ。だが前日右足用のインソールを入れて歩いた時に感じた嫌な痛み。果たしてこんな状況で走れるのだろうか。そこで考えたのが新しいシューズの使用。まだ癖がついていないシューズなら、少しは足への負担を減らせるかも知れない。 体調に不安がある時に遠出は無理。何か起きたら直ぐに帰れる近所の緩い坂道をチンタラ走るのが良いだろう。ただ9日間も走ってないためスピードは出ず、風が冷たく感じるはず。そこで薄いウインドブレーカーをはおり、念のためにポシェットにはシューズ本来の薄いインソールを入れることにした。<続く>
2011.03.06
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しかし、何故今頃になって右足が再度痛み出したのだろう。右足の種子骨が疲労骨折したのが今から11年前。最初に行った整形外科では痛みの原因が種子骨だと教えてくれたが、疲労骨折していることまでは分からなかった。微細な「ひび」が見つかったのは総合病院で受けたMRIによる。この疲労骨折はその後3年ほど私を苦しめた。 あれから鳴りを潜めていた右足の種子骨。一方左足が急に痛み出したのは3年前。種子骨の突起による腱鞘炎が強烈な痛みの原因だと分かったのはレースの3週間後。最初に診察した老整形外科医はレントゲン写真を見ても、種子骨の発生にすら気づいてなかった。これでは治らないと見切りをつけ、スポーツ整形外科の専門医がいる今の病院を訪れたのだ。 注射1本で激痛が奇跡的に解消し、事後は医療用インソールを装着することを勧められた。バランスを保つため両足分のインソールを作ったが、痛みがない右足には装着せずにいたのだ。期せずして今回はそれが役立つことになった。 さて、超長距離を走るウルトラマラソンには必ず限界が訪れる。制限時間内で完走するためには、両脚(足)にかなりの負担をかけるからだ。また老化に伴って筋肉や関節や靭帯の機能が衰え、次第に「激務」に耐えられなくなる。だから老後の生活を楽しむためにも、無謀なランニングで足を破壊するわけには行かないのだ。 3年前から「沖縄本島一周単独走」を始めたのも、そして昨年から「峠越え」を始めたのも、ウルトラランナーとしての「賞味期限」がそろそろ限界に近づいていることを認識してるため。70歳を迎える3年後まで何とかウルトラに挑戦し続けたいし、出来ればその後もランニングを楽しみたいと願う次第。 走らない日が今日で8日間続いた。医師との約束で明日までは歩くだけで済ませ、いよいよ明後日は両方のシューズにインソールを入れて走る実験開始。その結果違和感があれば、厚みを調整してもらう積り。このインソールが今後最後まで私と付き合うことになるはず。シューズもこれからは底が厚く、クッションが効いたものを使用したいと思う。 今日は3月3日で桃の節句。妻は1週間ほど前にひな人形を出して、和室に飾っている。私達夫婦の最初の子供である長女が生まれた39年前に、今は亡き妻の母がわざわざ送ってくれたものだ。フリージアの香りが漂う和室。桃の花はないが妻と桜餅を食べ、お茶を飲みながら、2人の孫娘達の成長を祈った。
2011.03.03
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第1現場の勤務が終わるのが午前10時。急いで着替えを終え、病院に向かう。幸い、病院は目の前にある。だが、交差点を渡ろうとした時、最初の現場で一緒だった先輩にばったり会った。急いでいるのだが、約5年ぶりの再会でもあり、むげには出来ずに立ち話。簡単に近況報告をして別れた。 元々顔色が良くない人だったが、糖尿病に加えて腎臓が悪く、医者に禁煙を勧告されたとかで顔色が少し良くなっていた。だが別れて5年なのに、7つ歳を取っていた。当時「72歳で死ぬのが理想」と話していた彼は、ちょうど72歳のはずなのだ。何故そんな嘘をつく必要があるのかが分からない。 ビルの5階にある整形外科を訪ねると、待合室には既に30人ほどの患者が居た。診察券と保険証を出し、名前を呼ばれた後「問診表」に症状などを記載。さらに事情を話して「外出券」をもらう。12時までに来て、外出券を出せばOKとのこと。取り敢えず診察のための手続きを済ませ、急いで第2現場へ向かう。少し走ったが痛みはない。 「どうしたの?」。皆が尋ねる。いつもより20分も遅いからだ。整形外科で診察を受けることは話さず、途中で元の現場の先輩に会ったことを話した。隠す理由はないのだが、敢えて話す必要性もない。ランニングのことを良く知らない会社の人に、「あの人は足が悪くなるほど走ってる」なんて変な噂が広がってもいけない。まあ、あながち見当違いでもないのだが。 再び病院を訪れたのは11時40分。名前を呼ばれてレントゲン写真を撮ったのが12時半過ぎ。そして診察室へ入ったのが午後1時頃。診察券を出してから約3時間後だった。診察をしたのは3年前と同じ先生。私はてっきりスポーツ整形の専門医だとばかり思っていたのだが、どうやら院長だったようだ。 彼は一通りカルテに目を通し、私の話を聞きながら患部を診る。そして「かなり腫れてますね」と一言。痛みの原因である右の種子骨周辺を押しながら、どの辺が強く痛むかを私に尋ねる。3年前と違って触られてもそれほど痛みは感じない。今回は直ぐに練習を自重したためだ。「痛みが治まるかどうかは分からないが、注射を打ってみよう」と院長。 後で診療明細書を見たら、注射は腱鞘内と関節腔内用のものだった。これがとても痛くて、強い痛みがまる1日以上続く。もちろん風呂へも入れない。院長の指示は以下の通り。1)左足のインソールは今後も使用し続けること。2)今まで使用しなかった右足用のインソールは、今後必ず使用すること。3)調整を要する場合は、次の診察時にシューズとインソールを持参すること。4)今後2、3日間は走らないこと。 つまり私は今後、医療用インソール無しには走れないことを宣告された訳だ。これまで私は筋肉などを強化さえすればインソールを装着しないでも走れるものと誤解していた。だが、完全に伸び切ってアーチが下がり、障害の原因となる両足の種子骨がこれだけ巨大化した現状では、インソールの助けを借りるしか他に方法はなさそうだ。 どうやら私の認識は甘過ぎたようだ。次回の診察は来週月曜日の午後。その時にインソールの調整を義肢製作所の方に依頼することになった。インソールを着けても、果たして私の足がウルトラマラソンに耐えられるかどうかは分からない。それでも私の心には、一縷の希望が湧いていた。何とか走れるのではないか。いや、どうしてもまた走れるようになりたいと。
2011.03.02
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明日よりは弥生三月 止まぬ雪 昨日の仙台は朝から雨が降っていた。それがやがて雪に変わった。前日の日曜日はとても温かく、久しぶりに庭や畑の雑草を取った。梅の蕾はまだ堅いけど、スイセン、チューリップ、菊などの芽が出始めていることに気づき、とても嬉しく感じたものだ。それが一変して冬へと逆戻り。やはりそう簡単に春は来ないようだ。 月末の妻は忙しい。ホームヘルパーとして訪問する仕事の他に、月のまとめを事務所に届ける必要があるからだ。「帰るのが遅くなるからね」。そう言い残して家を出た妻。日課のブログを仕上げた私は台所へ行った。先ず2合の米を研ぎ、味噌汁を作る。具はチンゲン菜と油揚げと豆腐。次に小松菜のお浸しを作り、ご飯を炊く。 その作業中に妻が帰宅した。自転車で8kmを往復するうち冷たい「みぞれ」に当たり、すっかり体が冷えたようだ。思いがけず夕食の準備が進んでいることに喜ぶ妻。夕食後はいつも通り私が食器を洗う。この程度なら慣れてしまえばどうと言うことはない。妻は風呂に入った後、風邪薬を飲んで早めに床に入ったようだ。 私はU-Tubeでオードリー・ヘップバーンを観た。「ローマの休日」、「ティファニーで朝食を」、そして「緑の館」。小さな画面でほほ笑む彼女。子供の頃から青年期にかけて私が大好きだった女優は、映像の中で永遠の若さを保っていた。純粋無垢の笑顔は、いつ見ても癒される。 その次が「サウンドオブミュージック」。素晴らしい歌声とアルプスの風景で、数々の名場面を思い出す。そして初めて「ケルティック・ウーマン」の歌も聴いた。女性グループの抜群のハーモニーだった。最後はパイプオルガン。バッハの荘厳な宗教曲は心を清らかにしてくれる。どうやらそれらの音楽が、私に安らかな眠りをもたらしてくれたようだ。 今日から3月。この朝になっても私はまだ逡巡していた。果たして整形外科へ行くべきかどうかと。1週間ほど前から異変が生じていた右足。ハムストリングの痛みがほぼ消えたのと入れ替わりに、今度は「土踏まず」の周囲が腫れて、嫌な痛みが出ていた。元々偏平足の私の足はとてもアーチが低く、長い間のランニング生活で負担をかけたせいか、「種子骨」と言う余分な骨が両足の「土踏まず」に突起している。 左足の方は医療用インソールでカバーしていたのだが、今度は右足が腱鞘炎を起こした感じなのだ。そこはかつて疲労骨折で3年ほど苦しめられた弱点でもある。前回行った整形外科はとても混んでいて、かなり待たされる。本当に今回の痛みは長引くのか。インソールの使用が必要となるかどうか。だがこのまま痛みが引かなければ、レースはおろか、走ることすら無理なのは自覚している積り。 現場のビルの屋上に登ると、仙台市内の低い山にも真っ白い雪が積っていた。階段を降りて巡回を始めた途端、足に痛み。これはやはり整形外科へ行こう。その時、ようやく決心がついた。リュックには右足用のインソールも入れて来たが、実は私が包丁で変な風に削ってしまった。果たしてそれがどう影響するか。<続く>
2011.03.01
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猛暑による熱中症で亡くなった方は、全国で200名を超えたとか。亡くなられた方の大部分はお年寄りで、場所は家の中というのが今年の特徴のようです。 日頃鍛えている私達ランナーでも、夏場のレースは要注意です。大量の発汗が原因で、思わぬ障害を引き起こすことがあるからです。特に長距離を走るウルトラランナーは、十分な水分やミネラルの補給を心がけて下さいね。今日は私がこれまでに体験した熱中症の症状を紹介します。 <凡例> 1)レース名 2)開催年月日 3)気温 4)レース中に出た症状と対応 5)レース後の症状 6)補足事項など 1)第5回NAHAマラソン(フル) 2)平成元年12月 3)26度 4)35km付近で両脚に激しい痙攣があり10分以上倒れる。観客がくれたスポーツドリンクで回復 5)両脚の痙攣 6)初マラソンのための経験不足、水分、塩分補給の知識不足、練習不足、暑さに体が順応してなかったこと。 1)伊賀上野忍者道マラソン(36km) 2)平成8年6月 3)28度 4)頭痛、悪寒、眩暈、吐き気(農業用水で体を冷やしゴール 5)プールで1km水泳(レースの条件)したら軽快 6)主催者のミス 24kmが実際は36kmだったこと。急に気温が上昇したため給水所に水がなかったこと。 1)第13回奥武蔵ウルトラマラソン(75km) 2)平成18年8月 3)38度 4)頭痛、悪寒、痙攣、吐き気、眩暈(我慢しながらゆっくり走った) 5)激しい痙攣 6)酷暑(38度)の埼玉県に体が順応しなかったこと。熱帯夜でスタート前から脱水症状だった。スタート時に30度もあり、23度と冷涼な仙台との温度差が大きかったこと。 1)沖縄本島西海岸単独縦断(140km) 2)平成20年7月 3)32度(体感温度40度) 4)眩暈、頭痛、軽度の意識障害 5)倦怠感、疲労感 6)冷涼な仙台との温度差が大き過ぎたこと。2日目以降、朝は9時半まで、夕方は19時半過ぎにしか走れず、歩くしか出来なかった。 1)薬莱山とお足マラニック(55km) 2)平成20年8月 3)28度 4)眩暈、吐き気、悪寒、痙攣、嚥下障害 5)上半身の痙攣、眩暈、疲労感、倦怠感 6)前月の「沖縄本島単独縦断」時の蓄積疲労と重労働の残業が長期に続いたことが体調不良の原因。 1)石巻市~気仙沼市単独マラニック(90km) 2)平成21年7月 3)25度 4)吐き気、眩暈 5)眩暈、視覚障害 6)エネルギー補給、ミネラル分補給のミス。 1)第5回磐梯高原ウルトラマラソン(100km) 2)平成22年7月 3)24度 4)眩暈、視覚障害、味覚異常 5)味覚障害、痙攣、悪寒 6)ミネラル分の補給ミス。 こうして見ると長距離走の場合は走る時間が長いだけに、気温が24度でも発汗量はかなりのものとなり、体調不良や水分、エネルギー、ミネラル分の補給ミスと相まって、熱中症の症状が現れることがあるのが分かります。 今週末の8月7日(土)は、宮城UMC主催の「薬莱山とお足マラニック」が開催されます。当日の天気予報は晴れ時々曇りで、最低気温が25度、最高気温が32度となっています。(8月3日現在)前夜は熱帯夜でもあり、熱中症に罹り易い条件を備えています。参加されるランナーの皆さまは、水分、ミネラル分の補給に十分ご注意くださいね~。
2010.08.03
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昨夜の仙台はかなりの雨が降ったようだ。全てのシャッターを閉めて寝ていたため、状況は良く分からなかったが、朝起きたらトウモロコシやヤーコンの苗が倒れ、ベランダが水浸しになっていた。愛犬は玄関に避難させていたため濡れずに済んだ。散歩から帰ってテレビを点けたら、聞きたかった台風のニュースでなく静岡県を襲った地震のニュースが続いた。 今日7ヶ月ぶりに整形外科に行くことは昨日書いた。目的は誰かが間違えたシューズに入っていた医療用インソールを再び作り直すためだ。何故履き間違えたのか、色んな推理も可能だ。だがそんな推理をしてもあのインソールが帰って来るわけではない。そして対策も考えたが、206kmもの「佐渡島一周」を来月走るためには、お金はかかっても医療用インソールを作り直すことが最善だと考えたのだ。 義肢製作所に連絡した結果、病院で再び足型を採ることになった。前回の足型は3ヵ月後に処分した由。今日は残っていた右側のインソール、便宜的に私が作ったインソール、レース用のシューズを持参して午後からの診察に備えた。勤務後第2現場で昼食を摂りながら観たニュースで、台風8号により台湾で大きな被害が出たことを知った。 午後2時、診察券を出して看護婦さんに事情を話す。2時40分、処置室に呼ばれ義肢製作所の方と久しぶりに対面。「手作りインソール」で90kmのマラニックを走ったことを話すと、さすがに驚いていた。そして丹念に悪い方の左足を触りながら、アーチの落ち具合を調べる。これは前回なかったこと。基礎となる材料はやはりシリコンが良いとのこと。 湿気対策用に細かい穴を開けること、インソールの表面に摩擦避けの素材を張ること、出来上がったインソールはもとより、今回は「足型」も私が預かり今後に備えることなどの注文を出した。私が困っている様子を知って、Hさんは代金を値引いてくれると言う。どうやら足型を採った本人が社長だったようだ。そして病院の方も事情を知って再診料を取らないでくれた。 1週間後、来週の火曜日には新しいインソールが出来上がるそうだ。だが、足にぴったりフィットし、障害が出ずに長距離が走れるかは、実際に走ってみないと分からない。そうではあっても無事足型が採れたことで少し心が軽くなった。第1現場に戻って着替え、久しぶりに帰宅ランでゆっくりゆっくり走って帰った私だった。 そう言えば、アースマラソン中の寛平ちゃんがアメリカ合衆国を横断中に足を傷めたことを思い出した。彼も私同様に偏平足だが、超長距離を走ったことで元々低いアーチがさらに落ち、痛みが発生した由。それをトレーナーの坂本氏が「スポンジテープ」などでテーピングし、その場を凌いだようだ。寛平ちゃんの場合は並外れた足底筋の強さがレースの続行を可能にさせているとか。彼に比べれば私の苦労などはまだ軽い方だろう。
2009.08.11
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今週の火曜日にインソールの完成品を病院で受け取った。届けてくれたのは義肢製作会社の息子さん。お父さんは所用があって来られなかったようだ。早速シューズの中に装着して、病院内を走ってみる。だが足の裏の感触はイマイチだった。足の指が窮屈な感じだし、足の底に強く当たる感触が何とも厳しい。歩くと言う日常の動作には支障は出ないのだろうが、これを装着してフルマラソンほどの距離を走ったらどうなるのか。 だが、直ちに返却して手直しをしてもらうわけには行かないだろう。暫くの間はこれを装着して実際に走れるかどうかを試すしかない。堅いシリコンのインソールが足底部に当たる痛みを感じながらも、今はどれだけそれに慣れるかが大切なのだろう。何故ならこのインソールは走るためのものではなく、扁平足による障害を防止する医療用のものだからだ。 医師は診断書を書いてくれた。「左後脛骨筋腱鞘炎」及び「両足偏平足」とある。診察料は診断書も含めて3千数百円也。妻から借りた3万円も含め5万3千円也を義肢製作会社に支払う。この領収書と診断書を持って区役所の国民健康保険課に急ぐ。診断書の分は無理だが、インソール代の7割が国保から返ってくる。3割は自己負担だ。区役所では若い職員が懇切丁寧に指導してくれた。お金が返るのは来年1月末とのこと。 水曜日は職場でインソールのつま先部分をカッターナイフで削ってみた。指が痛むのだ。シリコンは一旦削ると修復は不可能になると聞いたが止むを得ない。そのインソールで山越えの帰宅ランを決行。木曜日は同じ状態で街を通っての帰宅ラン。やはりまだ指が痛む。帰宅後DIY店で「紙やすり」を買い、指が当たる部分を滑らかになるようこすってみた。ついでに左右の「土踏まず」部分も軽くこする。 実はこの「土踏まず」部分が一番違和感がある。私の足は両足とも元々土踏まずが形成されておらず真っ平らだから、「異物」が当たれば痛むのが当たり前なのだ。でも取り返しがつかなくなると困るので、それ以上削るのは止めた。それに紙やすりでの作業には限界もあった。それだけシリコンが堅かったのだ。 実はこの状態で明日「つくばマラソン」へ出かけようと思っている。果たして練習していない足とこのインソールで、42.195kmもの距離を走り通すことが出来るだろうか。制限時間は6時間。ゆっくりとでも良い。どこまで痛まずに走れるかが問題だ。コースが平らな「つくば」でまあまあの感触が得られれば、今後の練習次第ではウルトラマラソンへの復帰も不可能ではないかも知れない。今回の「つくば」はまさに実験走。これが今私が出来る最大の冒険だと思っている。
2008.11.28
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今年の日本シリーズは埼玉西武ライオンズが制した。3勝3敗で迎えた最終の7戦目。勝利の女神がどっちに微笑んでもおかしくない展開が続いた。だが勝ったのは原監督ではなく渡辺監督の方。このシリーズでは投手出身らしい采配が随所に見られ、最終戦でも起用がずばりと的中したのはさすがだった。 昨年は確かBクラスだった西武。だが監督1年目の同じチームが日本一に輝く不思議さ。敗れた巨人の原監督が先日決まったばかりのWBCの監督をこれで辞退することは無いと思うが、なんとも皮肉な結果になった。同じパリーグに所属する東北楽天のファンとしては、ライオンズに対して心からの祝辞を述べておこう。待ってろよライオンズ。来年は楽天がチャンピオンフラッグを奪取するぞ~ 昨日山越えで帰宅ランをしていた時、公園の傍で男の声で呼び止められた。姓ではなく名前。それも呼び捨てだった。声の主を見ると高校の同級生。ダブルの背広を着こなした堂々たる紳士が、にこやかな笑顔で立っていた。クラス会の永久幹事を務めるA君だった。さる銀行の支店長を務めていたのだが、今は第2の人生で大手の建築会社勤務の由。 今月末にある学年会の幹事も務めている彼曰く。自分としては学年会よりはクラス会を重視しているので、クラス会を開く時は必ず出席して欲しいと。学年会の出欠の葉書には欠席と書いた。理由は同じ日にある「つくばマラソン」にエントリーしていたからだ。そのゼッケン通知の案内も既に届いていた。後は故障中の左足の調子が問題だ。 今日は整形外科へ行って来た。前回予約を取ったインソールの型採りをするためだ。念のためランニングシューズを持参した。いつも通りかなり待たされたがようやく処置室へ呼ばれる。待っていたのは義足や義手を製作する会社。スポーツ整形外科医の指示のもとに型採りを進める。自分の目で見ても分かったのだが、今回傷めた左足のアーチが右足に比べてかなり低くなっていた。 1週間後に出来る仮のインソールを再度調整するため、完成は2週間後とのこと。最終的には20kmほど走って見てから調整することになるようだ。気になる値段だが左右両方で5万3千円ちょっととか。う~む。特注なのでかなり高価になると覚悟はしていたものの、予想外の値段だった。一旦全額を支払うが、医師の診断書と領収書を市役所に提出すれば金額の7割は帰って来るとのこと。それなら何とか小遣いでも支払えそう。 だが、2週間後と言えば25日。もし今月の30日の「つくばマラソン」に出ればぶっつけ本番になってしまう。それは余りにも無謀。高額なインソールをシューズに装着して、20kmの試走はしてみたいのが本音。やはり出場は見合わせた方が無難かも。そうなると今年のレースは8月の「立山登山マラニック」で最後になってしまう。何とも淋しい話だが、事情が事情なので欠場も止むを得ないのかも知れない。ああ無情。
2008.11.11
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何だかとっても疲れた。昨日は準備体操をして15kmほど走り、補強運動を少ししただけなのだが、それだけでも疲れてしまった。怪我のため約2ヶ月走れないでいたら走るために必要な筋肉が衰えるだけでなく、自信があったスタミナまで失ってしまった感じなのだ。 金曜日の夜、思いがけず「秋田内陸ウルトラ」の特集番組を観た後で1本の電話がかかって来た。山形時代の部下S氏からだった。どうやら彼も同じ番組を観ていたようで、ひょっとしたら私がテレビに映るかと目を凝らしていたとの話。残念ながら怪我で参加出来なかったことを話す。私より3学年下の彼は現職中ピロリ菌で胃をやられて治療中だったのだが、今はすっかり良くなったようだ。懐かしがってわざわざ電話をかけてくれる人がまだいたことが嬉しい。 先週の金曜日、スポーツ整形外科医の治療を受けたことは前にも書いた。その翌日私は整骨院を訪れ、先生に詳細を話した。先生が結果を知りたがっていたからだ。私の話を聞いた彼はすっかり納得したようだ。「整形外科と整骨院の役割は違いますからね」。今後整形外科へ行った方が良いと思われる症状の患者が来たら、その病院を紹介したいとも話していた。 整骨院の先生にはありのままを話したが、患部に打った注射が効けばもう整骨院へ通う必要はなくなる。だが若いこの先生から聞いた話はためになることが多かったし、10回通院して支払った5千円の代金も丁寧なマッサージや電気治療を受けたことを考えればとても安く、決して無駄にはならなかったと思うのだ。 整形外科で患部に注射してもらってから、足の痛みは薄らいだ。だが全く痛みを感じないわけではない。微妙な痛みの存在はそれだけ今回の症状が重かった証だろう。3日経てば注射の痛みはなくなると説明されてはいたが、いざ走りに行くとなると躊躇したのはまだ不安が解けなかったからだ。 ある時期全く走れないことで、宮城UMCへ入る意味があるのか自問自答していたことがあった。ウルトラを走ることはもう無理だと諦めていたのだ。さらに走友会に所属する意義について考えていた。走れないのはランナーじゃない。ランナーじゃない人が走友会に入っていてもしょうがないんじゃないか。そんな考えに捉われていたのも事実だ。 それがスポーツ整形外科医の診察と治療と症状の説明を受けてから、遥か彼方に一筋の明かりが見え出した感がある。しかし・・。私はまだ疑問を持っていた。もし痛みの原因が不要な骨の出っ張りとこすれた腱の炎症にあるとすれば、なぜそれまで痛みが出なかったのだろう。不要な骨は怪我の前から私の左足底部に潜んでいた訳だから。 でも、その解答も私自身が既に書いていた。引き金になったのはやはり「立山登山マラニック」の八郎坂でよろけた時に足をひねったことなのだろう。偏平足である私の足のアーチは加齢と疲労によってさらに低くなり、怪我をし易い状態になっていたのだ。そして雨で濡れた岩で滑った時にあの事故が起きたと思うしかない。 不安のままに走り出した昨日の15km走。坂道を登る時に左脚の脛が異常に張った。きっと坂道での練習不足と痛みをカバーするために体が発したシグナルだと思う。帰路「名取川漁協・調査採捕中」と書いた旗を立て、ザル川の中で魚網を振るう3人の人がいた。「何がいるんです?」と私。答えは「雑魚ですよ。でも鮭やアユも間違って入って来るみたいで」。こんな小さな川にも迷い込む鮭がいたとは。ちょうど今の私に似てるかもねえ。
2008.11.04
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さて、2ヶ月間苦しんだ痛みだが、医師の診断によれば左足の第1中足骨に出来た幅1cmほどの余分な骨の出っ張りで腱がこすれているのが原因のようだ。私は偏平足のため元々足のアーチが低いのだが、老化や過度の運動や疲労によってさらにアーチが低くなった分、腱に負担をかけて痛みと炎症を起こしているとのことだった。 レントゲン写真と足への触診によって得られた結論は、なるほどと私を納得させるものだった。その前に行った整形外科の老院長とは全くことなる見解。彼はレントゲン写真を診て、左足に余分な骨は出来てないと断言した。腱や靭帯は写真に写らないと言い、痛みの原因は示さなかった。私はこの老院長を信頼できなくなり、静脈に注射をしようとしたのを断って痛み止めの薬だけをもらって帰った。老院長の結論は「走り過ぎなので、これからは走らないように」とだけ。結局何が痛みの原因で、今後どう対策すべきかまるきり分からなかった。 若いスポーツ整形外科医は先ず患部に直接痛み止めの薬を注射し、以下のような説明をしてくれた。この注射で3日間ほど痛みが出る可能性があるが、その後、注射による痛み止めの効果は約1ヶ月間持続すること。だが今後注射で痛みを抑えながらランニングを続けるのは根本的な解決にはならないこと。低いアーチを上げて腱がこすれることによる痛みを緩和するためには、私の足型に合わせたインソールを作るのが望ましいこと。今後は痛みの程度を見ながら走っても良いこと。また効果があると自分で判断すれば整骨院の治療を受けても良いことなどだ。 そして最後に、「何か質問はありますか」と私に訊ねた。私はこれまでのもやもやが一気に晴れたような気分になり、喜んで診察室を出た。だが、「待てよ」と思い直した。原因と対策は分かったが肝心のことが解決してない。足型に合ったインソールを作ることの大切さは、これまでランナーズなどでも読んだし、全国の走友の事例からも知ってはいる。問題はインソールをどうやって作るかだ。 そこで看護師さんにお願いし、つい先ほど診察を受けたばかりの医師にメモを渡してもらうことにした。そのメモには「仙台近辺でインソールを作ってくれるところがあれば紹介して欲しい」と書いてある。暫くしてから返事があった。業者はこの病院にも出入りしているとのこと。早速最短の空いてる日時である11月12日(火)の午後3時半で予約が取れた。何の解決にもならなかった前の整形外科と違って、ここはまさに専門医だった。 今回の私自身の事例から教訓として引き出せるのは、アスリートは自分自身の怪我に備えて、評判の高い整形外科、出来ればスポーツ整形外科医がどこにいるか常日頃から関心を持つことが重要だと言うことである。もちろんその前提として、どの程度の痛みが出たら病院に行くべきか判断出来ることが必要だが。 私の足の痛みの原因と今後の対策はこれでほぼ明白になった。問題はこれから。足型に合ったインソールを入れたシューズを履いて、どんな痛みが生じるのか生じないのか。また足に負担をかけないために今後どんな注意を払う必要があり、失った筋力をどう強化するか。課題は多く前途多難ではあるが、少しでもランニング生活を楽しめるよう頑張ってみたい。今後の経過についても出来る限り報告したいと思っている。 仙台近辺にお住まいで、もしこのスポーツ整形外科医がいる病院に関心のある方がおられましたら、トップページ左上の<Mail>の「メッセージを送る」から私宛にメッセージをいただければご紹介いたします。
2008.11.01
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今日は勤務を少しだけ早めに終わらせてもらい、ようやく別の整形外科を訪ねた。職場から100mくらいのビルの5階にその病院はあった。エレベーターを降りるとそこが病院内。どうやら5階全体を改装して、受付、診察室、レントゲン室、運動療法室、作業療法室、手術室などを作ったようだ。実に本格的な病院だった。 保険証を出し、問診表に症状を記入して提出。そこまでは良かったのだが、待ち時間が2時間から3時間とのこと。待合室には既に35名ほどの患者。ちらっと見えた運動療法室にも数人いたから、午前11時30分現在で40人以上の患者がここにいるわけだ。きっと評判が良いのだろう。昼食のため外出したいと言うと、13時までに必ず帰ってカードを出すようにと、そのためのカードを手渡してくれた。デパ地下で弁当を買い、現場の休憩室で仲間と昼食を共にする。 約束どおり午後1時まで病院に戻り待合室へ。その間トイレに行きながら院内を観察。医師は院長以下3名。うち1名がスポーツ整形外科医に認定されていた。これは嬉しい。やっぱりここへ来て良かった。看護婦5名、運動療法士2名、作業療法士4名、事務員が4名とスタッフも充実。小さなビルの1フロアだけだが個人病院ではなく法人化されていたことにも驚く。 実はここの病院の名を聞いたのは初めてではない。目と鼻の先に在る現場のビルで立哨時に、この病院の場所を通行人から30回ほどは訊ねられていた。また通っている整骨院の先生からも評判は聞いていたのだが、それほど医療技術が優れていたのだろう。まさに「灯台元暗し」とは良く言ったもの。 診察が始まる前にレントゲン室に呼ばれた。忙しいのか若い女性のレントゲン技師も、指示がてきぱきとしている。聞かれるままに症状を話し、左足を2方向、左膝を1方向から撮った。それから待たされること1時間20分。最初に訪れてから既に2時間半近い。診察室の中には比較的若い医師がいた。どうやら彼が、スポーツ整形外科医に認定された医師のようだ。 レントゲン写真が既にパソコン内に取り込まれ、医師はそれを見ながら私の症状を聞く。左足底部の痛みとこれまでの経過、そして左脚裏側の神経痛だと思われる痛みについて説明する。医師は左足を触りながら痛みがある部分を確認。直ぐに原因が分かったようだ。左脚裏側の痛みには首をひねる。膝関節に変形はない由。坐骨神経痛の原因は腰から来ているけど、それではないようだ。医師は特に問題にはしなかった。<続く>今月の参加レース:DNS 走った回数:6回 走った距離:47km 歩いた回数:毎日 歩いた距離222km 年間走行距離:1481km 年間合計:3343km これまでの累計:64、865km
2008.10.31
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