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八切史観の家康の話を続ける予定だったが、あまりに酷いこの国の現状に一言述べてみたくなった。それはアホの米国議会での下手糞な英語らしき自称演説とされる単語の羅列についてである。 周囲がアホの酷い演説?で話題だったので、当初はスルーするつもりだったが、今夜TVで数分みてしまい、あまりに酷かったのを馬鹿ダマスゴミが絶賛しているので呆れてしまったからである。なんでも、あんな下手糞な英語らしき単語の羅列を45分も続けたらしい。米国議員の忍耐強さに驚かされた! もしあの下手糞な単語羅列、しかも単語の発音を何度もカンでいて言い直す始末が、日本の国会で行われてたら「下手糞!」と野次られていたか、あの英語らしき騒音を左から右に聞き流すうちにほとんどの議員が居眠りをしたに違いない。もしかしたら、野次に対しては、あのアホは「ニッキョソー」とでも叫んだかもしれない。 あの単語羅列を絶賛している馬鹿ダマスゴミの英語力のなさのせいで、ポツダム宣言を「黙殺」としてしまい、広島と長崎に原爆が落とされたのは、通史が物語っているところである。アホの単語羅列こそ黙殺すべきものである。 どうせだったらロボットにでもやらせたほうがまだマシである。マツコデラックス氏のマツコロボというハイテクがTVを賑わせているくらいなのだからね。どうせ原稿棒読みなんだから、全くアホ臭い茶番である。 その実態をお馴染みのサイトから抜粋紹介する。 あの発音噛みまくりの単語羅列をみたら、日本は終わったな、としか思えない。 ★ ★ ★ 台本を読む http://my.shadowcity.jp/2015/04/post-6956.html#comments コメント(18) 弦巻町 | 2015年4月30日 11:11 | 返信 モノクルタイプHMD使えばよかったのに。 (べジータ) http://dic.pixiv.net/history/view/600595 (アルセーヌ・ルパン) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E7%9C%BC%E9%8F%A1#/media/File:Lupin01.jpg ねこてつ | 2015年4月30日 11:11 | 返信 カタカナのルビがついているものと思っていたが。 海DON | 2015年4月30日 11:32 | 返信 口パクでスピーカー付いてるんだろw秋元プロデュースだろwww 野次馬 | 2015年4月30日 11:37 | 返信 よっぴて演説の練習でうるさくて、女房が逃げ出したらしいw じろう | 2015年4月30日 12:00 | 返信 池沼(^p^)安倍ちゃん本領発揮。 (顔上げ拍手促す)が日本語でワロタ。 安倍ちゃん躁状態でジョーク連発、統失まで発症か? 政治家のジョークなんて大したこと無い。言う方も笑う方も社交辞令。 戦後歴代首相で吉田茂だけはジョーク感覚優れてた気がする。麻生太郎はその劣化版。岸の孫はついに売国奴になっちゃった。 思えば岸の時代はイデオロギー政治の時代。岸のあとは低姿勢で経済成長スローガン中心のの池田が首相になった。安倍ちゃんもイデオロギー重視が似ている。ポスト安倍はイデオロギー軽視、アベノミクスを批判して経済に専念する首相が望ましい。 誰でもいいから出てこいや。石破でもええわ。ただしサティアン石原は除く。 じろう | 2015年4月30日 12:16 | 返信 今、Birth of blues さんとこで演説全文読んできた。 演説内容については個々に異論はあるが悪くはない。 まいんちゃん | 2015年4月30日 12:17 | 返信 アメリカの新聞が軒並み安倍をフルボッコw 国会に出されてもいない、議論してもいない安保法制を、夏までに成立させると宣言してきたり、この池沼の暴走はホント酷い 上昇 | 2015年4月30日 12:18 | 返信 安倍ちゃん一人でできた!w 海DON | 2015年4月30日 12:38 | 返信 あーニュースで動いてるの見たはwドローンみたいにホバリングしまくりだったはwww 一語一語ホバリングだったはwww ペンタ刑事 | 2015年4月30日 13:10 | 返信 ニュース見たよ>一語一語ホバリングだったはwww あの語りで45分???米議員連中は耳栓でもしてたのか? 東日本大震災時の支援に関してお礼や友情とかは良いとして それ以外なんだあれは>国会に出されてもいない、議論してもいない安保法制を、夏までに成立させると宣言してきたり、>この池沼の暴走はホント酷い 擁護するような報道があったので唖然とした。 ぶん殴りたくなるようなニュース解説だ。 弦巻町 | 2015年4月30日 13:46 | 返信 それにしても安倍に上下院合同でスタンディングオベーションとは、アメリカも友だちらしい友だちがいなくなって相当こたえているようだな。中国筋なんかは、警戒するどころか、哀れんでいるんじゃなかろうか。 nanasi | 2015年4月30日 15:10 | 返信 >>岸の孫はついに売国奴になっちゃった。 えっ? それじゃあ岸が売国奴じゃないみたいじゃないか ペンタ刑事 | 2015年4月30日 15:20 | 返信 安倍ちゃんの米議会演説の評価 →本日の日経平均 マイナス538.94円 かぁwww じろうからnanasiへの返信 | 2015年4月30日 16:14 | 返信 訂正します。 売国奴の孫は売国奴。 あちき、売られました | 2015年4月30日 18:52 | 返信 演説させてやっから、 日本、丸ごと寄越せ、 あいあいさー byアベ じゃ、別の台本書いてみぃ | 2015年4月30日 19:30 | 返信 じろうさん、オラもそう思う。 批判的なこと言ってる人は、自分だったら日本を最大限にプレゼンテーションするには、どう演説するか言ってみぃw どうせ悪口ばかりの別の国の人たちw aaa | 2015年4月30日 21:18 | 返信 最近はステハンでミスリード狙い=安倍ちゃん擁護レスが流行っているのかな??? ま、それは良いとして、ニュース速報+板で、安倍ちゃん人生最高のハレ舞台@上下両院演説関連スレを覗いてみたら、日中のレスは殆どネトウヨサポーターの安倍ちゃん擁護の弾幕ばっかだね(笑) 深夜の演説は20秒くらいは生中継で聴いてやったが、たどたどしいカタカナ英語に変なイントネーションで失笑しちゃって、それ以上の視聴には耐えられなかったなあ。俺には20秒以上は退屈で耐えられなかった。辛辣に言っちゃうと教養が感じられない。原稿の棒読みだけで精一杯なんだろうなあと思いました。 iwao | 2015年4月30日 22:04 | 返信 >原稿の棒読みだけで精一杯なんだろうなあと バッファリング中-------50%------- みたいなwww>どう演説するか言ってみぃw 演説内容は事務方の作文じゃね? 安倍ぴょんの作文とは思えない。 ★ ★ ★ 鳩山宇宙人はまだマトモな英語をしゃべっていたけど、英語らしき単語羅列を吠える類人猿が、作文を読めるようになったのを米国議会で、京都大学の霊長類の研究者たちが遠隔操作で発表したということにしよう。 類人猿は研究施設の檻のなかに不正をしないようにしっかりと閉じ込めておくべきである。ビールを配ったり、温泉に入ったり、演説?したりするサルは観光資源で日本特有のものなので、日本から出してはダメである。 猿回しの手を離れて米国議会で作文を読むサルに米国議会もスタンディングオベーションということなんでしょう。サルと比較すれば遥かに知的ではあるが…。 ちなみにお馬鹿ブッシュはゴリラと比較されて大量破壊兵器保有で全世界を騙すだけの僅少の差で知的とされた。しかし、米国大統領がブッシュでなくゴリラだったら911も、あのような戦争も起こってなかったはずである。 宇宙人の次にサルとくれば、今度はロボットしかないだろうな。あのアホはサルというよりロボットの失敗作だったのかもしれない。というかヒトとしては認めてはいけない作文朗読の出来事だった。 ヒトというのは自分で考え、自分の道徳を自分の言葉で表明し、世界平和に向かって賛同を得る知性をもった存在である。そのような人物を選挙により選んだはずである。ゴーストライターなどいては茶番であり、国家や国民を欺く行為なんである。 音楽ではゴーストを糾弾するのに、政治家のゴーストはなぜ糾弾しないのか? 人類が洗脳されている証拠である。 現代人は操り人形か、ロボットと化してしまったアホか馬鹿である。1%の支配者の奴隷となって人として生きることができるのだろうか? よく考えてほしい。人類の大半は知性を失いもはや奴隷となってしまった。 与えられた誰かの幸福よりも、自分で幸福をみつけるから、永遠の幸福となるのである。自分でやらなくて、誰が自分の幸福などみつけられるのか。人類は知的水準ではほぼ滅亡している。 とてもヒトという知的自由を志向した存在ではないからだ。人はこの世界をいずれ去るということを肝に銘じるべきである。
2015年04月30日
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前回の続き。 ★ ★ ★ 【家康二人説】(2) 石が瀬合戦から、森山くずれ、さらに武田信玄は、「家康、元康別人知悉説」までを箇条書きにしてみます。 遠州服部村の鍛冶屋の家を溜まり場にして、弓矢を鍛えさせ、武具を整え人集めした若き日の家康は、この天下争乱の時一旗上げようとした。だが今川義元亡きあとの氏真は出て戦わず、尾張の信長も勝って兜の緒をしめよと清洲城から動かない有様。 そこで業をにやした家康は中に挟まれた弱体の三河を奪い盗ろうとして、遠州から矢矧川の上流を渡って攻め込んだ。この時松平蔵人元康は放ってはおけず、これを石が瀬の原で迎え撃った。 しかし何といっても、松平党は長年にわたって父祖の代から君臣の間柄。一方家康側は烏合の衆である。正面衝突してはとても松平党の敵でなく、負けて降参してしまう。降人した時家康は松平の家来にされるような話しだったが、抜け目のない家康は直ちに山中城を攻め、城主の松平権兵衛重弘を追って自分が城主となってからは、もう元康の家来ではなく合力衆のような形になった。 刈谷城の水野信元を攻めた時など、岡崎勢の先手となって十八町畷まで押し寄せて戦った。ついで家康は元康に協力して野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ケ坪の砦と火を付けて廻ったから、元康も喜び「この分なら織田信長を攻め滅ぼして人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう」と、桶狭間のあった翌年の十二月四日、合力の家康や三河党をもって尾張に入り、岩崎から翌日は森山へ兵を進め本陣を移した。 処が、その陣中で、粗忽な家臣の為に、元康は間違って討たれてしまった。仕方がないのでひとまず陣をはらって退却ということになった。 これが世に謂う「森山崩れ」だが、討ち果たされたのは、永禄三年より二十六年前の天文四年のことで、討たれたのは元康の祖父の清康と通説はなっている。しかし天文三年なら、信長の父織田信秀が岡崎城と目と鼻の先の安祥の城まで確保して、三河の半分は織田の勢力に入っていた頃、どうして岡崎衆が入りこんで尾張の森山へ陣取りなど出来るだろう。 この頃の信秀は小豆坂合戦で今川や、松平を撃破して”東海一の弓取り”とうたわれ、尤も威勢の良かった時である。だから、それまで互いに戦いあっていた二人が合併してその時から一人になる。 つまり松平元康が急死したので、当座しのぎの恰好で家康が後始末する為、元康の後釜に入った。ついで、尾張の熱田に居た、信康を取り返すため、家康は元康の死を隠して、まんまと顔の知られていない事を奇禍として、自分が化けて代わりに乗り込み、清洲城で信長と談合して起請文を入れ和平を誓い、信康を戻して貰った。 その手柄を買われて松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち回り、幼い信康の後見人に収まり、やがて松平党を、その属とした。-ここは大事な処なので重複するが詳細に記しておきます。 殿様の松平元康が誤って家来の阿部弥七郎の手に掛かって急死した、岡崎城では跡目の信康がいないから困った。 その時三州山中城を自力で乗っ取り、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿の身代わりに仕立てい」と言えば、松平党の面々は「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」と、賛成したものと思われる。だから、諸説は色々あるが、家康、元康の入れ替わりはこの時になる。 そこで、まんまと松平元康に化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へ乗り込み、三河と尾張の攻守同盟を結んで、熱田に居たか、清洲に居たか、大須万松寺天王坊の説もある。はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は、既に何百と私兵を持った大勢力だったから「この儘で、元康様が成人の時まで後見人」ということになった。 (後に家康は、秀吉亡き後、秀頼の後見人になる。まさに、秀吉=元康、秀頼=信康である。家康の乗っ取りは得意としたものなのだろう。秀吉も織田家を乗っ取ったが。) 時に家康二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのは少し早いが、何しろ苦労してきたので、ませた風采をしていたのだろう。だから信長もこの時は、永禄四年から毎年美濃へ攻め込んでは負けていた矢先であるし、まんまと尋ねてきた松平蔵人元康(家康)を本物と思ってしまい、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、東隣の三河と和平をした。 そして足かけ三年も尾張にいたのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の倅らと仲良く遊んでいる様子に、その頃生まれた女の子に「信忠、信雄、信孝信康も加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と初手から嫁にやる気で五徳と名ずけた。 その縁談も信康を戻す条件として家康に持ちかけたものだろう。この時家康は一時の便法でまんまと信長を欺き元康に化けたものの、どうせ信長などたいした事はない、その内誰かに滅ぼされるだろうと、高をくくっていたが、これがどうして、頑張って美濃も攻略し稲葉山の井ノ口城をとって大普請し、岐阜城と改名。 こうなると家康たるもの、化けの皮が剥がれて瞞していたことが判ったらどうしようと戦々恐々とした。よって元康と家康が別人であったなどという証拠は、ことごとく湮滅させた。 だから、三河の一向門徒の騒動とは、所詮は家康が元康に変身した為に起きた宗門争いである。というのは、三河岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手を組んでいた。 そこに、野州二荒別所から、駿府の久能別所にいた家康は、その家臣達も大久保党は七福神系、本多一族は白山神社系。榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子。酒井一族は修験者あがり、といったようにどれもが神信心の者達で占められている。時はお寺とこれらの社は仇敵同志の世の中である。 (神道と仏教の争い) 反目している内に・・・・先ず岡崎城で、亡き松平元康の家老であった酒井將監が松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して猿投山中へ逃亡した。 ついで昔は城代までしていた三木領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきて明大寺合戦で一族もろとも家康に皆殺しにされている。この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲され全滅。そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢から来ている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、一向宗の力を借りたゆえ、表向きは一向宗騒動となったのである。 その後は三河岡崎城では最早家康に楯突く松平衆は居なくなった。家康に忠誠を誓う者は、松平姓でもそのまま許され懐柔策はとられていた。しかし合戦の時は徳川衆は「東三河衆」と呼ばせて、これを酒井忠次に率いさせ、いつも危険なところや先陣は石川数正率いる「西三河衆」を使った。たまりかねた石川数正は小笠原秀政らを伴って徳川を見切って、太閤秀吉の許へ走ってしまったのである。 ★ ★ ★ この話から、重臣だった石川数正が徳川家を出奔した理由がわかる。なお、八切氏によると、信玄との三方が原の戦いは、信玄の京上洛が目的ではなく、徳川に三河を乗っ取られた旧松平家の家臣が、武田を呼びだして反徳川連合軍を結成した三河一国の戦だったらしい。 だから、信長も桶狭間の戦いの真相を知る平手汎秀を援軍に送って討死させている。もし、京上洛が信玄の目的なら、勝ったのに、兵をひくのはおかしいし(通史では病死というこじつけがある)、信長も長篠の戦いのように、大部隊を送り、徹底抗戦していたはずである。信長はどちらが勝ってもよかったのである。 また、通史のように、重臣の籠城策に反対し、討って出たというのも嘘の可能性が高い。この「籠城策に反対し討って出た」というのは通史の信長の桶狭間と同じで、後のこじつけの可能性が高い。 慎重な家康が、討って出るなど余程の理由があったからで、また有名な自分の醜い姿を描かせたという話もでっち上げの可能性が高い。勝海舟の氷川清話でわざわざ家康を絶賛しているのが嘘くさいからである。駿府に引き籠っていた家康が、信玄に三河を荒らされては、沽券に係わるので駿府から三河に討って出たが、信玄に散々に討ちのめされたので、命からがら駿府に帰ったというのが真相だろう。 つまり駿府から三河に討って出たのが、三河領内の話になり、更に信玄京上洛が後付けされたようにみえる。確かに通史のように信長と関係が悪くなった義昭により上洛の催促はあっただろうが、信濃を上杉と争っている現状で、他国を攻め入って将軍を補佐できるほど武田家の財政は潤沢ではないはずだからである。次回に続く。
2015年04月30日
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前回の続き。 ★ ★ ★ 家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します。 次郎三郎(後の家康)は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代(後の信康)を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。 (家康人質説というのは、この家康が、元康の子信康をさらったことが誤って伝承したものと考えられる。) さて、この時の事。次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい=後の西郷の局、秀忠の母のいる、掛塚へ戻った。 次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。 「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。 しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。 桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。 つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額が、この間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。 是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩於尼公、従幼至志学之後、既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、使人送葬干此然是行、戎役未息墳墓唯為封而己、 「旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略」 龕 慶長十四年春三月 大將軍 翁 印 さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、「禅尼=源応尼がこのことで思い痛め心配した」という一句である。 家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。 つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。 さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。 しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。 どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。 竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。 天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。 しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか? と疑問が生じる。俗説の家康がこれでは八歳で変てこだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。 又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。 (桐紋は後に秀吉のトレードマークとして有名になる。) だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸=信忠、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。 つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。 だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく、これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑であると、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。 家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。 (信長が悪者になっている。) だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。 信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。 これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。 そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」と、既に元禄時代にこれを注意している。 つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。 ★ ★ ★ 八切史観によると、通史では、松平元康の子信康(二歳)が、家康(八歳)となっており、6歳も歳をとっていることになり、6年の空白がある(後にも、通史のこの年齢が合わないことが頻繁にある)。 また、通史の信長が、五徳のチクリで、家康に、信康と築山を謀反の疑いで殺させる、というのはいかに独断の信長でも無理がある。それが理由になって徳川がかえって武田側に寝返るか、謀反されるのがオチである。 それに当時織田家と武田家の関係は信長の娘が信玄の子勝頼の嫁に入っているほど良好で、武田家への内通により謀反というのは織田家からは考えられない。むしろ、徳川家に対する武田家内通の松平家の謀反で、家康の松平の跡取り封じと考えた方が妥当である。 また、八切氏によると、信玄の父信虎追放もでっちあげで、信虎は信玄の本名だという。 なお、徳川家の有名な葵紋だが、朝廷からの桐紋の下賜を断って使っていたそうである。もし松平家が先祖なら同じ桐紋を使っていたので断る理由がないはずである。つまり徳川家は松平家とは違うということが家紋に現れている。次回に続く。
2015年04月28日
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ちょっと医療の話に偏ってしまっているので、再び、歴史の話も続ける。なんでも今年は「徳川家康公薨去四百年」ということなんで、家康の実像に迫っていると思われるお馴染みの八切史観の家康の話を紹介する。 なにしろ家康ぐらい出鱈目が罷り通っている人物はいないからである。家康が言ったとされる有名な「人生は重い荷物を背負って歩くようなものである。」という言葉は、勝海舟の作り話だそうで、徳川家存続のために、多くの話がでっちあげられたらしい。 ★ ★ ★ 史擬 徳川家康 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/ieyasu.htm 【紹介者・注】 この一連の徳川物は、以前歴史会議室で議論されたものを、加筆訂正して、ここに改めてUPするものである。重複する箇所も多いが何卒御容赦願いたい。 現代、家康を尊敬している人間は非常に多く、彼の生き方を経営戦略の手引きとしている本もある。しかし、ここに敢えて水を差すような一文を書いたのは、事、日本史に関しては相当の碩学といえども、既成概念が強く、なかなか文部省の歴史から脱却できないという現実が在るからである。 以下に書かれている内容に驚かれ、反発されるも御自由です。しかし、人類の生活が大きく変わろうとしている今、この国の現状はどうでしょう。 今こそ新しい、高い目線で”新史観”が必要ではないでしょうか。それには勿論隣国の韓国や、中国との歴史の「スリアワセ」は不可欠です。さすれば日本は何時までも過去の呪縛から脱却出来ないでいる、「自己悪逆史観」や「お詫び史観」から脱却できる、と想うからです。 さて、家康は天下を平定するまで随分と邪魔者を殺しております。 しかし時は、人肉を食べるまでに追い詰められた悲惨な時代でした。古今の英雄で「殺し」という行為を成さなかった人物は少ないでしょう。弱肉強食の中世にあっては、致し方もなかった事でしょう。 父親に去られ、母親に売られた幼い家康は辛酸をなめました。戦乱で百姓も疲弊し、庶民も貧困のどん底の状況を見て育った家康は、徒手空拳の一介の土民の身から革命を志し、「おりゃあ、偉くなったる。世直しせなあかんぎゃあ」と、同じ虐げられた仲間を糾合して、ついには徳川政権を作りました。 そして家康は同族を解放し差別の撤廃を断行しました。これは立派な事です。これは秀忠の時代まで続きます。現代で言えば、お上から搾取され続け、ただ黙々と体毛を剃られるため、働き続ける羊のような従順なサラリーマンを団結させ、政権を奪還するようなものでしょう。 しかし、三代将軍家光の時から家康の意志は踏みにじられ、これが幕末まで続く事になる訳です。即ち、現代にまで尾を引く差別問題です。以下から、どうぞこのイントロ部分を頭の片隅に置いて読んで下さい。 徳川家康について、明治三十五年四月十八日、村岡素一郎が『史疑徳川家康』を東京の民友社から出しました。八切説でも「家康二人説」ですが、明治史学界は『松平記』を出してこの説を封じ込んだ。しかし、明治の学会でも村岡説に同調というか、理解を示したような学者は皆無だった訳ではない。 時の内閣修史局編修官東京帝国大学教授、重野安繹博士がそれである。博士は『史疑徳川家康事蹟』の刊行に際して序文を書き、 「東照公は幕府の烈祖三百年の基業を開く。世にその事蹟を云うる者粉飾避諱なき能はず。仮に豊臣氏の子孫歴世絶たざりしならば、則ちその太閤微賤の時を伝ふる、未だ必ずしも今日の史上の如くならざりしならん。流離関関、変故百出、而も功業を意料の外に成す。古今の大豪傑皆かくの如し。何ぞ独り東照公を怪しまんや」といっています。 さらに「もし豊臣秀吉の子孫が現存し公爵にでもなっていたならば、やはり秀吉の卑賤な素性を糊塗し、先祖を藤原氏か源氏に持っていったであろう。だから家康もそのような工作を試みなかったとは言い切れぬ」と述べています。 また南条範夫著「三百年のベール」によれば、重野博士は村岡説に対して、「自分も徳川氏の出自が新田源氏だなどということは全く出鱈目だと思っていた。しかし家康自身がササラ者の倅だとは夢にも考えていなかった。全く驚くべき新説である」と批評し、村岡が「史実として成立し得るとお考えですか」という質問に対しては、「いやそこまでは断定できない。今君の挙げた全資料を自分は同じくらいの反対資料で片端から反駁できる」と答えた。 しかし、「自分の出来る限りの反論の方が正しいか、君の立場の方が正しいか、それは今のところ何ともいえない。徳川幕府は二百七十年続いたのだ。開祖家康についての不利な資料は悉くこれを破却し湮滅させた。公的、半公的な徳川氏の歴史は粉飾の極を尽くしたに相違ないし、又民間の史的述作も徳川氏に極力おもねってきたであろうことは疑いない。してみれば、君の立場もその粉飾され阿諛されつくした歴史に対する爆弾的宣言として大いに意義がある」ともいったという。 ここまで理解していて尚かつ「松平記」を正史としているのですから、一体明治の歴史家と称する人達はどうなっているのでしょう。 この辺は鹿島史観の「国史大儀」では「明治のボンクラ学者」と痛烈に批判してます。何といっても、明治史学会は華族会がスポンサーでしたから、致し方も無かったのでしょう。「学者の良心という概念」もこの頃には未だ無かったのでしょう。と、同情します。 まあ考えて見れば、彼らは明治政府の親衛隊的存在の側面がありますから、重野博士の言っていることを良く解釈すれば、天皇家周辺の権力者に極力おもねった歴史を作った事実を、自嘲しているようにも思えます。 【家康二人説】(1) さて、この資料は公開されたのだろうか? また、いわゆる歴史家との討論はなぜなされていないのだろうか? 不思議なところである。 八切先生は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をフアンに限定販売や無料贈呈しました。明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。 これらは古書相場十万から八十万です。先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。 嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。勿論、活字本になっているものも沢山在ります。 現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。 だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。酷い人間は「とんでも本」と侮辱しています。日本はまさに巨大な”偽史シンジケート”が牛耳っているのです。以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏の週間読売で座談会がありました。 その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。 八切氏は面前なので冗談かおフザケかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。 リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。 医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もせずこれらは無視です。そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっています。 何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、大概の人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが以前、官学理系の助教授と話していたら「○○さん、大学は解体しなければダメです」と過激な発言です。 「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。現在、日本的システムの世界化が急務ですが、21世紀を見据えた、大学改革も含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。 前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書-国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。 拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です。 ★ ★ ★ このように明治以降の日本史は出鱈目というわけで、特に現代では、大河ドラマの出鱈目の弊害が大きいようである。TVドラマの水戸黄門の土下座が、現在日本人の最上級の謝罪となっているように、出鱈目が罷り通っていてもそれに気づかないのは愚かという他ない。次回に続く。
2015年04月28日
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前々回は、あるサイトの、現代医学からわかる「がん細胞」の紹介と、その意味を考えたが、更にオカルトで考えてみるために、シュタイナーのガンの話を紹介する。 ★ ★ ★ 最初に、特に三つの事実を順に取り上げ、唯物的な方向に偏っている医学を、人智学的な方向へと導いていきたい。例えば、腫瘍の形成の理解に必要とされる霊的観察力があれば、腫瘍の治療も可能となるだろう。 更に、いわゆる精神病と呼ばれる疾患を合理的に理解するのに、そして、物質的な治療法を適用するのに、例えば軟膏などを塗ったり擦り込んだりする際に必要となる知見などが、霊的観察力から明らかになるだろう。 現代行われている通常の物質的な検査では-少なくとも人智学的な見解から、ある程度、霊的な方向性が与えられないと-癌を頂点とする腫瘍の形成といった疾患にアプローチするのはほとんど不可能である。 現代の精神医学がかくも悲惨な状態なのは、人間の意識内部へと橋を架けること-外界の自然に対しては様々な分野に架け橋が見つかるが-つまり今日の医学、例えば病理学、治療学のために、橋を架けることができていないためである。 それで、この現状を打破する人智学的な考察が浸透するのは、ひょっとすると、この病理学と、治療学の両分野が一番早いのではないかと思うわけである。特に必須となるのは人智学が語る事実全てを考慮することである。今日私(シュタイナー)の著書に少し注意を払うだけで、この霊的な方向から既に多くの事実が語られていることがわかるはずである。 つまり、人体には、エーテル体が完全に介入している、という事実に注意を払っていくべきである。 (ちなみに、腫瘍は、エーテル体が、物質体に介入できない部分から生じると後に述べる。) 人体でのエーテル体の活動について知るには、何も絶対に霊視が必要というわけではない。というのも、まさにエーテル体の活動とは反対に位置づけられる非常に多くの物質的経過において、エーテル体の働きが異常、少なくとも正常に働いていない、という事実が観察できるからである。 (物質側から補完してみれば、非物質側の働きがわかる。) だから、医学において有効な判断ができるためには、炎症に関連し、炎症から派生する疾患と、腫瘍に関連し、腫瘍の形成に端を発し、人体を破壊する疾患に、一度注目することが必要だろう。 腫瘍の形成の場合、正当な理念に基づき、腫瘍ができても、外科医のメス無しで済ますように絶え間なく要求する努力が実際に正しいことがわかるだろう。ただ今日の社会状況、この状況こそを人智学の浸透と共に同時に変えなければならないが、このアロパシーの駆除的な考えが浸透している状況では、まだ実現不可能である。 (ガン細胞は除くべきであるという固定観念を持った社会では外科医が尊重される。) だから、重要なのは、外科医のメスができることとできないことの区別-外科医の手に及ばない疾患ーを補完することである。今日では、単純にも、他の治療法がみつからないという理由から、外科医のメスを支持している多くの人々はそれ故に、他の治療法が提案されさえすれば、すぐに外科医のメスとは反対の方へと転向し始めるだろう。 さてここで炎症の経過全体を、異なる様々な器官に応じて、形態上の特徴を一々述べる必要はないだろう。器官ごとの炎症の特徴などは実際、現代の医学でもよく知られているが、いわば炎症の総合統一的な経過、つまりあらゆる器官組織の炎症の経過として浮かんでくる病像についてはほとんど知られていない。 この統一的な経過の特徴については、次のように説明できる。つまり、炎症の大小に関わらず、炎症が根底にあって腫瘍などの形成に至る場合、人智学的な探究から、エーテル体の全体の作用に注目することである。 すなわち、このような場合、エーテルの全体の作用の一部が、ある特定の方向に集中しているために、全体として不活発になっているのを、正しい方向に戻して、全体が正常に働くようにするのが期待できる。 エーテル体の正常な活動は本来、人体のあらゆる方向に拡がっていく必要があるが、このように特定の方向にエーテル体の活動が導かれているのがこの炎症の原因である。 結局、次のような結論に至る。 つまり、例えば、ある器官に向かって不活発になっているエーテルに、まだ全体として正常なら、この正常な方向へと再び、宇宙の進化の活動へと展開していくように促すような反作用を見つけることが、治療には重要となる。 腫瘍の場合は事情は異なる。この場合、重要なのは、物質体のある働きが、エーテル体の活動に直接反抗し、物質体のその反抗部位でエーテルが活動できなくなるのが原因となる。 とはいえ、エーテル体は多大な再生力をもち、人智学的観点から、次のようなこともわかる。 物質体の反抗によるエーテルの障害を改善できれば、つまり物質体の反抗となっている元凶を克服できれば、腫瘍の形成にも対処できる。 従って、腫瘍の場合、大切なことは、いわば自然治癒力により、エーテル体に対抗している物質体の活動を克服し、結果として、エーテル体が活動できなかった部位に再び活動できるようにすることである。 このような観点は、癌の治療に大きな意味をもつ。癌腫が呈示する事実を、霊的に観察すれば、癌腫の多様な形態にも関わらず、エーテルの力に対する、ある物質力の反抗を表している、ということにある。 例えば、器官組織内での癌化の場合、角質化が現れてくるが-角質化の傾向は内よりも少ないが表面にできる癌腫にも見られる-この角質化という特徴からわかるのは、まさに物質的な形成が、その当の場所にあるべきエーテルの形成に干渉している、ということにある。 従って、この両者を正しく研究すれば、つまり、炎症や潰瘍などは、腫瘍の形成や癌化と完全な対極をなしている、という見解にいたるだろう。まさにこの両者は対極に置かれている。 この対極の概念を「両手で掴める」とも表現できるが、実際に、「両手で掴む」ような経験で、この概念を捉えてほしい。例えば、(外界と接する)表面近くに癌腫ができる場合、この対極の概念がないと、偽潰瘍と混同しやすいからである。 だから特に、こういう両極性をより厳密に探究するまで研究を拡張する必要がある。 さて、以上の研究の妨げになるのは、古くからの、いわば中世でつけられた病名ではない。中世でつけられた病名ではなく、現代でつけられた昔(中世)風の病名が妨げになる。つまり、腫瘍を「新生物」[Neubildung]と呼ぶのは、間違いである。 新生物と呼ぶのは、腫瘍が以前には存在しなかった、という通説的な意味でつけられたのだが、皮膚に覆われた人体を基盤に生じるという意味では、全く新生物ではなく、つまり、物質体のある働きが、エーテル体に強く対抗することで、物質体が外界の、つまり人間と対抗する自然に従属することになり、そして、腫瘍の形成から、あらゆる可能な外からの影響に対してアプローチを許すことになる。 (この構図は、現代の日本が米国の属国である構図とよくにている。つまりアホ政権らが腫瘍なので、米国のあらゆる外圧を招いている。) ここで大切なのは、これら外からくる全ての影響に対して、反対の対極を研究することである。 人間の外にある自然のなかに、人体とは反対の対極をみつけることである。例えば、まず、ヤドリギの研究を提案したい。まず、ヤドリギ類が、どのように他の植物上で成長するのか、などに目を向ける必要がある。けれども、ヤドリギの寄生的な成長からは治療についての本質は得られない。 確かに植物学にとって重要なのはヤドリギの寄生的性質である。けれども、外の自然のなかにある人間との関係を研究するのに根本的に重要なのは、ヤドリギが他の植物の樹々の上に生えることで、通常の一年生植物とは異なる短期間のうちに余儀なく成長する事実にある。 つまり、例えば、寄生している樹が春に葉をつくり始める前に、ヤドリギは既に花を咲かせ、冬期だけの植物となっている性質や、また同時に、寄生している樹の葉により太陽光の強い影響や特に夏の光の作用から護られ、外に曝されていない性質などである。 このヤドリギというのは、人間なら、貴族的に振る舞う、とでも言いたい植物なのである。 (このことから、貴族は社会では腫瘍という意味になる。) ヤドリギが他の植物に付着し、成長し、繁茂する方法全般は特に重要で、その方法から、ヤドリギは特別の成長力を獲得している。ヤドリギが獲得した成長力は例えば、次のように示せる。 ヤドリギは、この成長力により、直線的に成長する組織力を超える。ここで次のような図から理解が明白になるだろう。 上図のように(上図参照)、物質(肉)体のなかのエーテルへの抵抗力により、エーテルの全体の作用を拒む部位が現れると、エーテルは、その部位で堰き止められ、停滞し、新たな形成のように見える腫瘍が出現する。そして、この部位にできた、この袋状の腫瘍に対抗する作用をもつのがヤドリギである。ヤドリギは、エーテルが入り込めない処にエーテルを再び引き寄せる性質をもつ。 これは何らかの方法で実験により確かめられる。ヤドリギの直線的な組織化とは逆の組織化を、次のような事実から、つまり、胎盤の排出へのヤドリギの作用を観察すればよく研究できる。 ヤドリギは胎盤を人体のなかに留める。すなわちヤドリギは、直線的な組織化の働きと逆の働きをする。胎盤のような組織を留めるように働く、つまり通常の組織化の働きを止めるのがまさしくヤドリギの本質的な働きの1つである。 胎盤を留める、といったような働きが、エーテルから働くのは遥かに少ないのは勿論だが、ヤドリギの働き全般を考えれば、直線的な組織化の傾向に対抗するヤドリギの作用が、この働きを強くするイメージが得られる。 胎盤停滞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8E%E7%9B%A4%E5%81%9C%E6%BB%9E 例えば、エーテル体が物質体を適切に制御しない傾向に対して、このヤドリギのもつ反作用を考慮し、ヤドリギを適用すると、今度はエーテル体があまりに強く物質体に浸透し、痙攣などの発作が起こることがある。 また別の場合には、自分は始終ひっくり返るのではないか、という独特の感情が生じることもある。これはまた、ヤドリギのもつ基本的な遺精促進作用にも関係する働きである。 遺精 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E7%B2%BE ★ ★ ★ 次回に続く。
2015年04月24日
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「悪いことをして逃げきれるとでも思っているのか」というの台詞は刑事ドラマのあるあるだが、現実の世界では、悪いことをしても、バレなきゃ、逃げ切れれば、よいと思っている人が大半なので、汚職がなくならないのだろう。 権力者が悪いことをすれば、もはや現実の世界では取り締まりができない。 刑事ドラマの台詞は平民への洗脳であり、権力者の貴族には通用しないのが現実である。憲法を押し付けられたといいながら、TPPや改憲を米国にいま押し付けられているのは、沖縄の米軍基地をみれば明らかである。 もはや日本には属国の奴隷根性しかない。自立心の微塵もない。権力者が米国国務省や米軍の犬なんである。 秩序を失った社会が混沌とし、滅亡していくことは歴史をみれば明らかである。 人間が理想を求めるのは、安定と安心を求めるからで、寿命を延ばし、安住の地を求めるのは心の安らぎが幸せだと本能的に理解しているからであろう。 つまり秩序が重要であり、秩序を保つために権力があり、権力を公正に行き渡らせるために法がある。 だから権力者が法を犯し、不正を働くのは社会を破壊する行為であり、人類への背徳行為でもある。 権力者たちの犯罪や不正をどのように正していくかが現代の人類の課題の一つである。 というわけで、お馴染みのサイトから、権力者たちの醜い背徳行為を紹介する。 ★ ★ ★ 「richardkoshimizu's blog」のコメント欄の中からセレクトしたコメントを、以下にのせていきます。 http://plaza.rakuten.co.jp/lalameans/diary/201504230006/ 毎日新聞ニュースに正論を吐く女性誌のことが載っております。 徴兵制という、子供を持つお母さん方にとっては、我が身に直結する問題であるだけに、そういう読者ターゲットである女性誌の方が、本当のことを書きますね。 <怒る女性誌> 政権批判、読者に押され 改憲…本当に必要? 毎日新聞 4月22日(水)20時3分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150422-00000068-mai-soci 早野薫推し 2015/04/23 08:39>パディントンさん 私は、日本国憲法を守るべきと考えます。 問題は、それを運用する行政、改悪を企む立法、解釈をねじ曲げる司法に問題があるのです。 我々はまず、今ある法に則る国に変えなくてはなりません。 みんなが法に則る社会に改善したあとに、廃止云々の議論を開始すべきであります。 少なくとも、超法規的措置などはさせない民主主義の社会を築こうではありませんか! みんなで! kmrb 2015/04/23 13:28 TPPに象徴される新自由主義も共産主義も、国家否定・ユダ肛製という点で同じなんですわ。 ARZAL 2015/04/23 09:21 浜田議員は2011年4月の時点で、TPPに関する本を出版されています。 TPPの危険性に早くから警鐘を鳴らされていた方です。 「恐るべきTPPの正体 アメリカの陰謀を暴く」 amzn.to/TSFMWC 浜田議員が暴露したのは、TPPの危険性のほかに、人工地震と気象兵器の存在、ウクライナの金庫から金塊33トンが盗まれたこと。 こんな危険な人が今まで生存しているのが不思議ですが、人工地震のことを国会で言ってしまったので、かえって手を出せなくなった可能性もあります。 でも、そのかわり手を出されてしまったのが、当時同じ国民新党にいた松下忠洋金融大臣だったのかもしれません。 http://richardkoshimizu.at.webry.info/201209/article_61.html 「松下金融相死亡」 CIAによる暗殺工作濃厚 http://richardkoshimizu.at.webry.info/201403/article_150.html ユダヤ金融資本によるウクライナ政変の目的のひとつは、金塊33トンの強奪 peco 2015/04/23 09:25 (今度はロックフェラーとその一味が人類の名簿から消される番である。CIAにより不幸にも暗殺された魂は人類のために戦って死んだキリストと同じで天界に召されるからである。) 過去の他の国との取り決めも公表されている、いないに関わらず全て合意しなければならない。 一度決めた取り決めは絶対に変更できない。 日本がTPPに違反してようが、してまいが、米企業が不利益を被ったら訴えられる。 そして米企業が絶対に勝訴する仕組みですね。 なぜか報道はこの根幹を説明しない。 nishiizu 2015/04/23 09:31 1970年代に国際的な問題として顕著に成ってきたのが、世界の何処の国にも税金を払わない多国籍企業です。 (これら多国籍企業の成員の魂は、人類の進化という共同作業から自ら脱落しているので、進化から遅れることになるだろう。金持ちは天国に行けないということである。) 現在では租税回避地を経由すると追跡が不可能になる巨額のマネーが大問題となっており、これらの資金が相場を動かして日本では漁船の操業を止めたり世界ではジャスミン革命起こしたりした。 ジャスミン革命の原因である穀物相場暴騰の原資になったのはリーマンショックを和らげるために発行された巨額の米ドルだが、そもそもリーマンショックの原因であるサブプライムローンやCDSを仕込んだのはユダヤ国際金融資本である。 オバマ大統領初当選の時には庶民の少額献金が喧伝されたが、実はハゲタカも巨額の献金をしていた。 オバマは最初から組んでいたのだ。 世界中から税金をかけられず追跡も出来ないマネーには、各国の国営ファンドや王族や大統領等の権力者の資金も入っているので当分規制は無理だろう。 オバマでさえハゲタカの資金を注入されているのだから。 そんなオバマが反対するAIIBに参加しない日本にもハゲタカ側の理由が存在するのだろう、食われ役として。 あのねあのね 2015/04/23 12:20 ゆうちょ銀社長に長門氏、シティバンク銀前会長=関係筋 (ロイター) - ニュース・コラム - Yahoo!ファイナンス http://news.finance.yahoo.co.jp/detail/20150423-00000063-reut-bus_all ユダ金悪魔に郵貯マネーを貢がせ役が決まったそうです。 ECOエコMAN 2015/04/23 16:10 吊るすの本家は、てるてる坊主を吊るして、お天道様にお供え物して願いを叶えてもらう日本民族の特技です。 アメリカのハングマンは日本のパクリです。 安倍一味や黒田、官僚一味は吊るされます。 それは、首切りで有名な諏訪神社がやります。 必殺仕掛人 2015/04/23 11:23 小泉・竹中を最初にお願いします! 七色仮面 2015/04/23 13:04 ユダ金悪魔アメリカの犯罪死、その1 1970年台JAL123便を御巣鷹山に撃墜し、日本人500名を殺害 乗り込んでいたIT技術者たちの無料OS「トロン」を盗む(STAP細胞強奪と同じ)。 1990年台日本のOSトロンに書き加えて「Windows」発売で大儲け。 「Windows」にはバックドアと呼ばれれる盗 撮、盗聴のバグがあったとネットで暴露中。 ITバブルを無理やり、NY証券市場で起こし、高値づかみを日本の投資家にさせ、暴落させて日本の銀行、証券会社、個人投資家のお金を強奪。 nomorewarinasia 2015/04/23 13:58 ユダ金悪魔アメリカの犯罪死 その2 2000年台ユダ金悪魔の本場アメリカも景気が悪く、Microsoftが売れないので、アップルの社長に毒を盛り殺害 クラウドサービスなどというフェイスブックやグーグル+、Word Press、Adobeなどで、定額料金=ゆでガエル作戦で、日本人のお金と個人情報をどろぼう中。 nomorewarinasia 2015/04/23 13:59>どこに吊るしましょうか? お台場のフジテレビがいいですよ。 なんかねえ 2015/04/23 14:58>近い将来、 同じことを日本もやります。 安倍さん黒田さんは超有名人だから手配無用でOKですねw 半端な有名人や一部で有名人は面倒くさいですが顔写真ネット公開必要だし、その他顔出ししてない犯罪者が様々な職業において無数におられますからこれは大変な作業になりますね。 何年かかってもそこは日本らしく緻密にじっくり調査して、一人残らずスッキリ掃除してほしいものです。 (* ̄∇ ̄*) 塀の中が溢れるようだったら重罪組は島流しとかでもいいんじゃないでしょうか? かちかち山みたく泥の舟とかで。 母うさぎ 2015/04/23 16:22 とっとと可決させましょ。 自公偽議員は反対しますか? ワイセツ物以下の裁判官など(ワイセツ物にも失礼)の犯罪を、堂々と激写できる日も近いのでしょうか。 取り調べの録音録画 全過程実施は 20% (4月23日 11時22分) http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150423/k10010057861000.html ピーチパイ 2015/04/23 13:01>ピーチパイさん 2015/04/23 13:01 取り調べの録音録画なんて、とうの昔に実施されているものだと思ってました(^^; 長い長い歴史をもつ司法におけるインチキがやりづらくなるから「取り調べの可視化」がなされなかったのでしょう。 可視化でストップ!違法な取調べ 第4部「パネルディスカッション」1 https://www.youtube.com/watch?v=2ifcDKLiSUE 百折不撓つとめて止まず 2015/04/23 15:26 行政訴訟の傍聴は国民の権利 不正選挙裁判のネット公開は裁判所の義務 それを隠すのは最犯罪 芭蕉 2015/04/23 15:30 今回の東京都中野区の選挙は街宣カー出まくりです。 不正選挙の疑いをはらしたいようですな。 しかしだな、急にそんなことするからバレるのです。 街宣カー出さなくなったのを騒がれたら出さないままにすれば言い訳は出来る。 騒がれたからって街宣カーを出すということは不正選挙やってた証拠だな。 まだまだ本職の詐欺師には成れませんな。 あのねあのね 2015/04/23 15:37 (不正選挙を無効にするには、皆で選挙に行かないという手しかないかも。選挙拒否!!) Iran Japanese Radio(イランラジオ) 日米によるTPP交渉が、決着しないままに終了 2015/04/21(火曜) 19:26 http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/54012 SIS 2015/04/23 12:26 ★ ★ ★ 悪いことをして逃げ切れると思うのは唯物論者だけである。
2015年04月24日
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前回、松果体との関係で紹介したサイトにはコペルニクス的転回ともいえる仮説が載っていた。 それはガン細胞は人類の進化にとって必須のもので、ガン細胞の増殖性を利用して、人体は浄化能力(解毒作用、無害化)を高め、進化するというものである。 つまり、人体は危機的な環境状態に陥ったときに、生存能、つまり浄化能力を高めるために、わざとガン細胞をつくり出す、というのである。 キリストが裏切者ユダを受け入れたように、人体はガン細胞を受け入れるわけである。 考えてみれば、ノーベル生理学賞をとった利根川博士の「抗体を作り出す遺伝子が組みかえられて使い回しされている」という予想がマウスの生体により実証されたように、抗体だけでなく、細胞自体も、外界の環境に適応するために、「遺伝子が組み替えられて使いまわしされている」のではないかと思われるわけである。 その使いまわしの過程で、ガン細胞がつくり出されるというわけである。つまり可能なあらゆる遺伝子の組み換えが行われた後で、環境に適合できる細胞が主体となって、人体組織を再構築するということなんである。 だから、その途中のガン細胞を人為的に除いてしまうと、人体の目論見は途上で終わってしまうので、失ったガン細胞を新たにつくり出そうとするために、除けば除くほど、除いたガン細胞を増殖させ、転移させてしまうことになる。除けば除くほど増やしてしまう。 この構図は、除菌に抗生物質を投与したせいで、かえって耐性菌を繁殖させてしまうのと同じである。 この話は、乳がん温存療法の紹介で有名な近藤誠氏の話とも一致する。つまり近藤氏の提唱する「がんもどき」が、この使いまわしの過程でつくられるガン細胞で、このガン細胞を除いてしまうと、浸潤性の高い悪性のガンをつくりだしてしまうというわけで、耐性菌の構図と同じである。 近藤誠氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%AA%A0 だから、安易なガン除去はかえって悪質性の転移性のガンを誘発することになる。また近藤氏の警鐘の「がんもどきは放置して経過観察すべき」という主張と一致する。 つまり、人体(免疫システム)が元々想定した危機的な環境に対して遺伝子組み換えをしてつくり出したガン細胞を人為的に除いてしまうと、今度はこのガン細胞が除かれた更に危機的な環境を想定してしまうことになり、新たにパワーアップしたガン細胞をつくりだしてしまうので、当初想定していた危機的状況を上回る過剰な遺伝子組み換えが起こり、新しいガン細胞が繁殖することになる。 また、この仮説が本当なら、酸性という過渡的状況で、細胞が初期化するSTAP仮説もあながちウソではなく、山中教授のiPS細胞も、再構築が実験室で行われたにすぎないことになる。 人間の感覚は、外界のものをそのまま採り入れるのでなく、人体内で一度分解し、同じものを再構築することで認識できるようになる。つまり外と同じものを内につくってはじめて認識できるわけで、だから、未知のモノに出会うと、内につくることが困難なので、認識不能に陥る。 だから、外の危機的状況を内では遺伝子組み換えなどでガン細胞などによって置き換えていると考えられるが、それを除いてしまうと、認識不能に陥ってしまうことになる。つまり、外界と人体内との対応が不能に陥る。すると、人体内がシステム的な破綻に陥るわけである。 以上のような話から、近藤仮説が、分子医学的に補完されることになる。 さて、この仮説の元となる話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ 免疫系の司令塔が“がん細胞を守る”のはなぜか? http://www.seibutsushi.net/blog/2015/02/3352.html#more “細胞のがん化”が何を意味するのかを考える上で注目したいのが、「制御性T細胞」の働きです。 制御性T細胞とは、免疫システムの司令塔の1つで、免疫の過剰反応(アレルギー症状)や自己攻撃を抑制する役割を担っています。 近年の研究によって、がん細胞の周囲には「制御性T細胞」が集まり、免疫細胞によるがん細胞への攻撃をさせないようにしていることが分かってきました。 この現象を踏まえ、制御性T細胞の働きを抑制し、免疫細胞によるがん細胞攻撃を促進する研究が進められています。 ただし、これはあくまでも“細胞のがん化が諸悪の根源”であるという前提での対応です。 細胞のがん化に伴い制御性T細胞が増殖し、免疫機構による攻撃を抑制しているのは確かですが、なぜそのような働きをするのか、そもそもこの現象が制御性T細胞の暴走なのかは分かっていません。 逆に制御性T細胞は、生命原理に則った働きをしている可能性も考えられるのではないでしょうか。 前回記事(がん細胞)で紹介したように、がん細胞は周囲環境の汚染により低下したオートファジー機構(細胞内に生じた不要物を分解・再利用する仕組み)の改善や、蓄積された毒物の排出・浄化機能を担っています。 がん細胞 http://www.stnv.net/med/cancer_cells.htm こうした機能強化が汚染環境下で生き延びるためには優先されるからこそ、制御性T細胞は、免疫細胞にがん細胞を攻撃させないようにしているのではないでしょうか。 ○がん細胞 <stnv基礎医学研究室>より 「がん」発生時、私たちの免疫細胞はがん細胞の味方をする レギュラトリーTリンパ球(制御性T細胞)はがんを取り囲んで守る ・細胞ががん化して生き長らえることが必要になった時、各免疫細胞はがん細胞を守り、「がん」が成長しやすいように振る舞う。 ・リンパ球の一種であるレギュラトリーTリンパ球(レギュラトリーT細胞;制御性T細胞;Treg)はがん細胞の周りを取り囲み、たとえNK細胞(ナチュラルキラー細胞)が近寄ってきても攻撃させないようにし、また攻撃しないように指令を出す。 ・一般的にはがん患者の末梢血中のNK細胞の割合はかなり減少している。これは「がん」を増殖させるための生体の正常な反応である。 ・もし、免疫細胞が「がん」を撃退しようとしているのならば、免疫力を上げるために体温は上がる、すなわち熱が出るはずであるが、「がん」が発生しても一般的には熱は出ない。 ・微細な「がん」の検出とそれに続く「がん」の告知は過大なストレッサーとなり、リンパ球の数を更に減らすことになり、免疫力は更に低下する。 ・「がん」を発生させたくないのならば、細胞内外環境を適正化することである。 実際、制御性T細胞は、永遠にがん細胞への攻撃を抑制し続けるわけではありません。 がん細胞による体内の緊急浄化措置が終われば抑制は解除されます。その後、免疫細胞によってがん細胞は消滅させられるのです。 ○がん細胞 <stnv基礎医学研究室>より NK細胞や細胞傷害性Tリンパ球の存在意義は? 細胞内外環境が適正化すれば、「がん」を抑えて個体全体を生存させる ・体に「がん」が発生するとき、免疫系の細胞はがん細胞の育成に協力することは上述の通りである。 ・しかし、がん細胞を増殖させると、個体全体としての生存が危うくなることを体は知っている。したがって、全身の個々の細胞が健全に生きられる細胞内外環境が整いさえすれば、がん細胞はNK細胞や細胞傷害性Tリンパ球(細胞傷害性T細胞;cyto-toxic T lymphocyte; TcまたはCTL)からグランザイムを注入され、自らアポトーシス(細胞の自滅)してゆく。 正常ながん細胞の自滅装置は壊れていない だからこそ、必要でなくなれば自滅(アポトーシス)できる ・がん細胞は、自滅装置の遺伝子が変異したために無限増殖能を手に入れ、すなわちがん化したのだといった説明をする人もいるが、変異したのであればNK細胞もCTLも手が出せない。 ・『正常ながん細胞』であれば、上述のようにNK細胞やCTLの協力を得て自滅装置の起動によって自滅可能である。 ・「がん」が自然退縮してゆく現象が見られるのは、この理由からである。 ・細胞内外環境が整えば、がん細胞は静かに身をひいてゆく。 改めて、あらゆる生命体は、外圧に適応すべく存在しているという生命原理に立ち返って考えると、“細胞のがん化”は常態ではないものの、適応するための非常措置であり、制御性T細胞の働きも適応可能性に向かう一要素であることがわかります。 細分化して緻密に分析することは大事でもありますが、時に全体を見えなくしてしまうこともあります。 生命原理から大きな視点で捉えることが、本当の可能性を見いだすためには不可欠だと思います。 ★ ★ ★ 善というのは悪を排除するのではなく、悪を取り込んでいくから善なんである。だから、悪を排除しようというアロパシーの観点は間違いで、悪を善に同化させるホメオパシーの観点こそが宇宙の進化の方向にあり正しいものと思われる。 現代医学のアロパシーを超えてホメオパシーのガン細胞を利用した生存能獲得のガン治療を考えるべきときにきている。
2015年04月23日
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前回は、愛情ホルモンと呼ばれる「オキシトシン」について紹介した。オキシトシンは、俗に現代の精神医学で、発達障害、自閉症の患者に有効というデータがわずかながら出ているようである。 前回参照のリンク先として紹介した「オキシトシンと発達障害 - 金沢大学子どものこころの発達研究センター」によると ★ ★ ★ オキシトシンは末梢器官においては子宮収縮や乳汁分泌を促す。 中枢では扁桃体をはじめとする「社会脳」領域を介して社会性行動、特に「信頼を基礎とするあらゆる人間相互間活動」にも影響を与えることがわかってきた。オキシトシンは人で愛情や信頼の形成に関与している。 オキシトシン遺伝子、オキシトシン受容体やオキシトシンの脳内分泌を制御するCD38(細胞の表面マーカーの分類の1つで白血球のB細胞の形質細胞に強く発現。)などがそれらの機能に関係する。 それらの遺伝子や分子の欠損や異常が、広汎性発達障害や自閉症の良い対人関係を構築できない社会性障害の原因ではないかと考えられるようになってきた。オキシトシンの投与により一部の症状に改善が見られる事が報告されだしてきた。 ★ ★ ★ 以上のような話から、偽ユダヤや戦争屋などに、このオキシトシン関連の欠損や異常がみられるのではないかと容易に予想される。 さて話題をオカルトの話にかえる。オキシトシンを分泌しているとされる下垂体と、松果体については、このブログでも何度も紹介した。例えば、以下である。 四次元思考の獲得のために その32 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/201309300001/ そこで再度確認のために紹介する。 ★ ★ ★ 魂と肉体との相互作用 http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/note/S-note71-/S-note103.html---------------------------------------------------------------2004.12.29 思考などから生じる内部の知覚と、外界から生じる知覚との間には、一体、どのような相互作用が生じるのか? この問いの答えをはっきりと理解すべきである。というのも、外界を写しとり記録した体内の血液を、自我の道具となり得るほど、希釈し、分解しようとも、結局は、物質のままにとどまる点で、肉体の一部にすぎないからである。 だから、体内の血液と、魂の営みによる知覚との間には非常に大きな隔たりが存在することは否定できない。 血液、神経、肝臓、胆汁の物質的な存在と同様に、知覚、概念、理念、感情、意志の存在も否定できない。もし、この両者の間にある隔たりを否定するなら、思考そのものも否定することになる。 この二つの現実を対比させるとき、別の事柄に気づく。一方には血液のように高度に希釈された物質があり、他方には物質とは全然関係のない、感情、思考などの魂の営みがある。そして実際に、この二種類の相互の関係については様々な唯物的世界観が異なる解釈を加えている。 今、魂の営みを、非物質的な経過として、また人体によって高度に生命化された血液を、物質的な経過として、この二つを対比させ、魂の活動と肉体の活動とがどのように相互に働き合っているか、を考えるなら、上述の唯物的世界観による知的な考え方は何一つ満足に教えてはくれない。 唯物的世界観からくる知性を通して見つけられるのは身勝手な結論か、もしくは無解決に終わるしかない。 【シュタイナー『オカルト生理学』ちくま学芸文庫/P93-95】--------------------------------------------------------------- 次のような至極単純な疑問、 「我々の知覚は、一体、どのように身体(肉体)に影響を及ぼすのか?」 を誰もが考えるだろう。 知覚は、そのままでは物質的な経過にはならないはずで、もし知覚が、身体に影響を与えるのなら、どのような経過で影響するのか、明らかにする必要がある。 知覚が身体に影響するには、まさに事実を必要とするので、その事実を明確に説明できなければならないが、おそらく「現代科学」では説明できないだろう。 しかし、「現代科学」はその経過を問わずに、明確にしていない「事実」から出発するが、そうした態度はかなり不誠実と思われる。「現代科学」というのは、そういう意味でも、様々な「不誠実」をもとに成立していることが多い。 そうした態度を意識するだけでも、人智学への大きな一歩になるのではないかと思う。 では、シュタイナーは、どのように説明しているのだろうか。とても興味深いので、その話を辿ってみることにする。--------------------------------------------------------------- 人間ははじめ外界に向かう。そして、自我の中に外界からの印象を取り込み、アストラル体(魂)の中で消化する。けれどもアストラル体の中で消化するだけなら、すぐに全てを忘れてしまうだろう。 印象を確保し、しばらく経った後で・・・記憶としてそれを再び思い出せるようになるには、自我により獲得され、アストラル体によって消化された印象を、エーテル体(第2の人体で、幽体と呼ばれる)の中に記録する必要がある。 外界との接触を通じて、魂が経験した事柄を、自我はエーテル体の中に記録する必要がある。 それでは、肉体に隣接した(物質の)感覚を超える、このエーテル体に、一体どのようにして印象を記録するのか? それは非常に不思議な方法で為される。まず、エーテル体内での血液を、概略的に観察してみる。心臓を通じて流れる血液は、自我の物質的な表現なのだが、自我が外界に応じて印象を受け取り、それを記憶にまで濃縮する際、血液は下方に物質的に働くだけでなく、特に上方の高次元の場(電磁場)に向かって、いたるところでエーテル体を刺激している。 だから高次元の場(電磁場)にあるエーテル体はいたるところで流れを生んでいるが、その流れは心臓から出て頭の方へと流れる血液と結びついて流れている(大動脈の流れ)。そしてそのエーテル体の流れは頭の中に集まり、まるで電流のように、一方の先端と他の先端とに分かれ、陰極と陽極のように対峙する。 (陰極が松果体、陽極が下垂体のようである。) これら陰極と陽極に分かれた二つのエーテルの流れが、一方は下の低次元から、他方は上の高次元から、最大限の緊張を伴って、二つの電流のように対峙している。そしてこの二つの流れがショートを起こすとき、印象がイメージとして記憶され、それがエーテル体に記録され組み込まれる。 人体内の感覚を超えて存在するエーテルの流れは、霊的な記憶器官をつくり出している。中脳のなかに記憶を生じさせる器官があり、それに対してまた別の器官も脳のなかにあり、この二つが脳の中で、エーテル体の二つの流れを肉体として表現している。 この二つの流れが生体に働きかけ、この二つの器官を生じさせた。実際、霊能者は、この二つの器官のうちの一つからもう一つへと明るいエーテルの光が流れ、人間のエーテル体の中へと注ぎ込まれているようなイメージを持つ。 この二つの器官とは松果腺と脳下垂体のことである。この二つは、魂と肉体とが相互に働き合っていることの可視的な表現なのである。 (同上/P97-102) ★ ★ ★ 現代医学では記憶を司る器官は海馬とされているが、松果体との関係を調べると、以下のような話に出くわす。 ★ ★ ★ 君もシャーマンになれるシリーズ22~松果体がシャーマン能力を開花させる「鍵」か?~ http://www.seibutsushi.net/blog/2013/05/1383.html なお、以前に調査した「海馬」はセロトニンが抑制された状態(眠りの状態)でシータ波を受けることで神経細胞を生成し、記憶機能を高めていましたので、海馬の記憶にも松果体が深く関係しているといえます。 ★ ★ ★ 以上、シュタイナーの話を裏付けている。また松果体は、以前にも述べたが、チャクラで、仏像の眉間白毫のことを意味する。では話を続ける。 ★ ★ ★--------------------------------------------------------------- 人間は魂の働きにより、外界からの知覚を、印象として、まるで食べ物のように吸収している。それをアストラル体が「消化」し、エーテル体に記録する。そして松果腺と脳下垂体という二つの器官の対峙によって、魂と肉体の相互作用が可能になっている。 日々知覚し様々な印象を持てるのは、まさに外界からの知覚が「魂の食べ物」となっていて、それが身体の養分にもなっている、という発想はとても重要な示唆なのではないだろうか。 (人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉=魂の食べ物により生きる。) 魂の糧として「透明な食べ物」を豊かにするのがどれほど大事なことか、現代の唯物論化した世界観では説明できない。その世界観は豊かさを益々貧しいものにしているといえないだろうか。 (神の言葉を解さない悪魔のような連中が偽ユダヤの戦争屋である) 芸術さえもがそんななかでは、豊かな食べ物にならなくなるのではないか。そのためにも、知覚がなぜ身体に働きかけることはできるか、というような極めて素朴な問いを持つことが大切なのではないかと思う。 ★ ★ ★ 以上の話から、松果体が霊界への扉を開くメラトニンを分泌し、電磁場を介しての下垂体との光のやり取りで、アストラル体で受けた体験をエーテル体に記憶として記録することでシータ波を海馬に送り、記憶の神経細胞を生成していることが予想される。 松果体のメラトニンが恐らく下垂体ではオキシトシンに相当するものなのだろう。つまり、メラトニンが霊界の扉を開き、オキシトシンが霊界から愛の働きを地にもたらす教師のような役割をしているのではないだろうか? とすると、聖母マリアの涙とはオキシトシンのことなのではないか。
2015年04月22日
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ネット検索しているうちに面白いものをみつけた。それはオキシトシンである。誰もが憧れた惚れ薬とはオキシトシンではないのか? なんでも、愛情ホルモンと呼ばれているようである。 もし愛情ホルモンの測定器があれば、愛情が足らない人がわかるが、測定器がなくても、愛情がない連中は一目瞭然である。 だから、偽ユダヤ金融の手羽先の戦争屋にはオキシトシンを投与すべきである。ではそのオキシトシンの話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ “愛情ホルモン”、脳内分泌物質「オキシトシン」の驚くべき11の効果 http://karapaia.livedoor.biz/archives/52167396.html オキシトシンは、脳下垂体後葉から分泌されるホルモンの一種で、愛情ホルモンとも呼ばれている。血液へと放出されたオキシトシンは、体中の臓器に存在するオキシトシン受容体を介して心理的にも、肉体的にも多大な影響を与えている。 特に、ストレスを感じている時や人間関係を深めたい時、その分泌値が高くなる事がアメリカ心理学会の報告により確認されている。過去数十年の科学の進歩によりオキシトシンがもたらす効果は次々に解明されている。ここで述べるのはその驚くべき効果の片鱗だ。 もしかしたら今のあなたのその気持ちは、オキシトシンの分泌によるものかもしれない。 驚くべき11の効果 1.他者に対し寛容になり、思いやる気持ちが芽生える 2.睡眠を促す 3.自己防衛能力を高める 4.社交的になれる 5.薬物の禁断症状を軽減する 6.発情を促す 7.出産を促し、母乳栄養に多大な影響を及ぼす 8.母親との思い出をより素晴らしいものにする 9.ストレスを緩和させる 10.人間関係をより強固なものにする 11.「他者と関わりたい」という好奇心を向上させる ★ ★ ★ オキシトシン関連では次の記事も気になるところである。 ★ ★ ★ (306)虐待による「愛着障害」と「晋精会」・沖縄PTSD予防薬開発 http://researchmap.jp/jo5urjub1-1871755/ 昨年広島市土砂災害の前月に広島市で開催された日本うつ病学会総会はNHKと協同して「虐待や東日本大震災のトラウマでなるうつ病治療はロボトミーDBS」がメインテーマだった。今年の「クローズアップ現代」で「虐待のトラウマでなる脳の損傷『愛着障害』の治療はオキシトシン」と報じられた。 東大では「遺伝的な脳の傷アスペルガーにオキシトシン点鼻治療」が行われている。DARPA(アメリカ国防総省国防高等研究計画局:ダーパ)は一昨年「イラク帰還兵PTSD治療にオキシトシン研究」を発表。22日にはNHKは「腸内細菌がうつ病・アスペルガー治療の鍵」という番組を放映。 安倍晋三が彼を応援する精神科医の会「晋精会」と会合したことは「首相動向」で報じられたが、何が語られたのか不審に思う人間は多い。昨年夏に自民党ワーキンググループは普天間基地跡地にできる「沖縄メディカルイノベーションセンター(OMIC)」での米軍・日本政府共同の日米兵士戦闘トラウマPTSD予防薬開発の準備をすすめている。 ★ ★ ★ オキシトシンの光と闇である。 オキシトシンについてもっとよく知りたい人は以下を参照にするとよい。 オキシトシンと発達障害 - 金沢大学子どものこころの発達研究センター http://kodomokokoro.w3.kanazawa-u.ac.jp/menu_03/04-nou21-220514.pdf
2015年04月22日
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この間久しぶりにカラオケにいって、サザンオールスターズの「ピースとハイライト」を歌ったのだが、歌詞が素晴らしい。米国ネオコン戦争屋に是非聴かせてみたいもんである。 さて、たまには時事問題を紹介する。紹介の紹介なので、孫紹介となるが…。 ★ ★ ★ 紹介したいブログ記事1 http://plaza.rakuten.co.jp/lalameans/diary/201504210002/ 「richardkoshimizu's blog」のコメント欄の中から セレクトしたコメントを、以下にのせていきます。 無神論者で商売人の中国首脳は世界経済のことがよくわかってますな。 宗教と云うフィクションを利用して戦争をさせるユダ金の相手なんかしなくていいんです。 世界中に中国人商人は居るので世界中から正しい情報が入ってくる、 フィクションの世界に生きる安倍晋三には理解できないだろう。 やはりフィクションの世界に生きる石原慎太郎は、スポンサーがゼネコンの鹿島だ。 東京オリンピックも鹿島等のゼネコンの為、築地市場の移転も道路利権の為で既に橋はかかった。 辺野古の基地建設もJFE利権の為でしかなく、柱だけでなく埋め立て用のケーソンもJFEの製品だ。 JFEの利権であることは以前から地元で言われている常識ですらある。 辺野古基地には防波堤も必ず付くが、それは神奈川県のホームページの三崎の埋め立ての記事を見ればよくわかる。 やはりJFE利権の羽田と違い外海なので防波堤が必要なのだ。 羽田の最新滑走路を見ると辺野古の工法と同じなのがわかり、文科系のコピペ脳でしかない前知事程度の知識だと簡単に黙れる。 自然にやさしい等と言われれば納得してしまう。 但し、辺野古は外海なので防波堤は必ず付いてくる。 小泉進次郎の選挙区の三崎の埋め立てを見ればわかるのだ。 あのねあのね 2015/04/18 00:04 中国の脅威を煽り建設する辺野古基地建設は一兆円利権です、自民党は当分諦めないだろうが原資は税金です。 その為に消費税増税はしたいだろうな。 あのねあのね 2015/04/18 00:10 そうしますと、ユダ金の常套手段である、内輪でAチームとBチームにわかれて紛争することが困難になりますね。 日本朝鮮政府が無理に中国をつつけば、「何をいってるんだ?」ということになります。 AIIBにおいても中国からおいでくださいとわざわざいわれているくらいなのですから。 今後は、尖閣とかシナシナとかの挑発行為は逆に日本の品位をおとしめる行為とみなされ、日本政府とはなんぞや?との国際的な厳しい非難にさらされるもととなります。 つまり、日中戦争など幻想のなかの幻想におわり、それは同時にアメリカのコントロールの終焉を如実に表すことになります。 つまりのつまりは、終わったのです。ユダ金…ばいなら おやすみなさい kmrb 2015/04/18 00:22 極貧階層出身の習近平さん頑張っていますね。 習主席は自分の出自から、貧乏人の心、中間層の心、金持ちの心、スーパーウルトラ金持ちの正体を知っているのでしょう。 だから習さんは平和を望むのです。 ところで、プーチンさんの昨年2014年の収入(年収)は1750万円超だそうです。 http://jp.sputniknews.com/russia/20150415/199987.html 日本の国会議員の年収はいくらでしょう。 日本の国会議員の年収は1億円超、おそらく実質プーチンさんの10倍あるでしょう。 やはりそうでした。 極貧層から政治家が出てこなければ、その国家は一流ではないということです。 そして政治家(政治屋)の年収が多すぎると、その国は一流国家にはなれないということです。 日本人はこれを忘れています。 人類の希望の星は、プーチンさんと習さんです。 バード 2015/04/18 01:43 その通り! プーチン大統領は16日、生放送番組「ホットライン」で、 「米国には同盟国など必要ないのだ。彼らに必要なのは属国だ」 と述べた。 世界貿易のルールを決める権利をアジアに認めようとしない米国 http://jp.sputniknews.com/opinion/20150417/209640.html 川口 2015/04/18 11:43 朝鮮カルト宗教変質者や犯罪者の集まりである反日従米安倍政権に対峙し、独立した国造りを目指す合理的で正当な行為に対する詭弁が、中共工作員。 反安倍政権=中共工作員といった安易な論法も今は陳腐化して空回り状態 (そもそも共産主義自体がユダ金世界支配のために作られた偽装対立の概念)。 日本の真の独立を唱えるコシミズ先生を中共工作員とレッテル張りする似非右翼とやってることは同じ。 安倍政権自体が似非右翼のボスなのですが・・・。 安倍政権 「翁長沖縄知事は中国の手先」との情報工作進める http://www.news-postseven.com/archives/20150417_316225.html ランスロット 2015/04/18 13:50 いまのニッポンはむかしの吉原で、日本人全部が女郎なの。 吉原大門から抜けようとすると、店の男衆が必死になって足ぬけをとめるのさ。 それがいまのマスゴミ。 フジテレビが駄目なのはいまに始まったことじゃない、開設と同時にゴミだったという認識でいかなきゃ駄目だと思います。 マイケル 2015/04/18 15:04 日中首脳会談、22日開催で調整 およそ5カ月ぶり (フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20150418-00000563-fnn-pol 酔楽人 2015/04/18 15:15 連日のように尖閣諸島周辺に現れていた中国船でしたが制服組のトップの拘束によって挑発が激減するのか。 中国海警局の2隻 接続水域を出る http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150418/k10010052971000.html とくお 2015/04/18 17:43 安倍の甥っ子(安倍首相の実弟で衆院議員の岸信夫氏の次男)は、フジテレビニュース番組の“安倍番” ↑ コネとか以前に成人として仕事が自分の叔父に侍るってえのは矜持が許さないとかないんだろうか? タケミカヅチ 2015/04/18 18:49>戦争なんてやってやらないよー 1991年の「湾岸戦争」の際、当時の大ブッシュ政権は戦争開始に先駆け、米国内のあらゆる住民層に対してプロファイリングを行い、その結果にしっかり基づいた形でプロパガンダ攻勢を仕掛けました。 米広告代理店によって仕掛けられた「戦争プロパガンダ」は大成功を収め、有事勃発からたったの2週間でイラクの地図上の位置も知らない人、フセインの名前も知らなかった人々が「独裁者」に対する戦争を熱狂的に支持する叫び声を上げました。 そして2001年の「911」以降、当時の小ブッシュ大統領は新たに「国土安全保障省」という全米に及ぶ権限を付与された「政府機関」を設立しました。 一見すると、それは真っ当な措置のようにも見えますが、しかし「合衆国憲法」にはブッシュが提案した数州にまたがる権限は一切慎むべきと「明記」してあります。 しかし、たとえ大統領といえども「憲法」の条項には従わなければならないという事実は無視され、当時の米メディアは「国土安全」という準法律に反対した人々に「非国民」や「テロ賛美者」のレッテルを貼り、こうしてアメリカは「イラク戦争」へと世論を誘導して行きました。 そして日本においては、リチャード・アーミテージが2007年2月に2020年までの「外交目標」を設定しており、その中で日米同盟を「次の段階」に引き上げる政策目標を発表しました。 その中の一つに「憲法改正」があり、これはアーミテージをはじめとする米高官たちが繰り返し日本側に「要請」している項目です。 恐らく米大手の広告代理店は、「電通」を媒介させて、日本にも米国内と同じように「日中戦争」における「プロパガンダ攻勢」の青写真を準備しているのでしょう。 そのプロパガンダのお先棒を担ぐ「テレビ局」も、恐らく上記の流れにしっかり沿った形で報道を展開させると思われますが、もはや時代の「趨勢」がその枠組内には存在しないことを、彼らが理解しているとは到底思えません。 もはや「20世紀」ではないのです。 「時代錯誤」の醜態をさんざん晒して、日本国民から完全に見放されても「愚行」を続けるしか能のない大手メディア…。 アメリカ支配層の「思惑」と、日本国民の「現実認識」の狭間で押し潰されて「粉砕」される。 その時に「戦後」という名の「戦時体制」が終わるのでしょう。 ぷち 2015/04/18 19:00 在日かどうかは知らんが、朝鮮式ピースが上手いですね!! キモイですけど・・・ http://img.uploda.info/jlab-maru/s/maru150418113118.jpg アベシンゾーの大本営では http://my.shadowcity.jp/2015/04/post-6891.html 山口乙矢 2015/04/18 19:16 各国の立候補に掛かる供託金を見ていて思ったのですが、米依存している国の順に似てませんか? およその円換算で表記 日本 6000000 (衆議院) 韓国 1500000 カナダ70000 英 62000 米独仏伊 0 ハン 2015/04/18 20:03 ハザール偽ユダヤ金融終ってます、 ”ロシアはギリシャを救う:ドイツメディア、準備中の50億ドル契約について報道” http://jp.sputniknews.com/europe/20150418/213323.html 日本国庶民 2015/04/18 22:53 ギリシャが開き直ってデフォルトするのではないかとの憶測で、欧州は今ちょっと大変ですが、すかさずプーチン大統領がパイプラインの建設協力を要請して前金50億ユーロを提供することを決めたみたいですね。 IMFへの借金は25億ユーロですから、軽くクリアできます。 さらに、ロシアはイスラエルが標的とするイランへS-300という地対空ミサイルの防空システムを提供したらしいです。 ネオコン/シオニストがどんどん追いつめられています。 善玉コレステロール 2015/04/19 01:17 日本の政府がまともだったら、とっくにアメリカは破綻してる。 日米の立場は逆転して、サイパン、グアムを返してもらってる。 未来のために、残りの財産を人民元に替えておきましょうか(^ ^) nishiizu 2015/04/19 10:49 ★ ★ ★ 希望の苗を植えていこうよ♪
2015年04月21日
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前回はもはや国家としての意味を失っている米国資本社会の話を紹介した。もし1%に99%を救う意志があったなら、格差社会など生まれないはずである。 つまり逆説的にいえば、資本主義などというレッテルは1%の連中に他の99%を救う意志のないことを隠す正当化でしかない。単なる差別にすぎないのである。その証拠に1%の多くが白人で、ホームレスの多くが黒人であった。 もし平等であるなら、その比率が同じでないとおかしい。つまり逆説的にいえば、白人が黒人を救ってないことの証明となる。だから奴隷制度はまだなくなっていないのである。 米国人はつくられた光を求め、つくられた平和に甘んじている、といえる。このような国を誰が信頼できるだろうか? はっきりといっておく、米国のキリスト教がやってきたのは単なる略奪にすぎない。米国の格差社会をみれば明らかである。米国は間違った堕落の道に進んでいる。それを変えられるのは米国人自身である。 そこで悔い改めの話を紹介する。 ★ ★ ★ マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ(改変) http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63365673.html (三)シュタイナーが語ったマニ教の本質 マニの教えは、光の神に闇の神が反抗する、という経緯を語っており、その意味では先にご紹介したミトラ神話に類似しています。 しかし、シュタイナーはマニ教ではこの世の起源は光の国の霊が自らの国の一部を取って、闇の物質の国に混ぜたことに起因する、としています。そして、この光の国の霊が闇の中に光を混ぜたことは、闇の国の悪霊にとっては、光の国を侵略しようとしたことによって生じた「負のカルマを清算する目的」を兼ねているというのです。 それによって、闇の世界は、その中に絶えず自分を消耗し、自分を破壊する芽を担うことになり、それに伴って生と死が生じたのだとしています。 そして、人類はその闇を克服するために、光の国から善悪が混ぜられた国に送られる存在となったわけです。 このことからマニ教では「光の一部が悪の中に入ることによって、闇の国は光の国によって罰せられるのではなく、むしろ寛大さによって征服されるべきである」という洞察がなされたとシュタイナーは捉えています。 つまり、人間においても「善は悪を追放するのではなく、寛大さによって悪を克服すべきである」ということになります。 例えば、シュタイナーは、こうした悪の寛容について次のようにも述べています。 「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』に目を向けてみましょう。この絵を前にすると、地球の意識を目のあたりにしているようです。この絵にはキリストが描かれています。『最後の晩餐』の意味を理解するために、マタイ福音書の次のキリストの言葉を思い出しましょう。 『供犠の死を避けて通ろうと思えば、私に全ての天使の長を呼び寄せられないことがあろうか。』(第二十六章・五十六) このとき、キリストは供儀の死を受け入れ、その回避を放棄(無欲)されたのです。キリスト・イエスはその放棄を通して、裏切り者ユダを自分の領域に入れました。ユダの中に見れる欲と反対のものをイエスの中にも見るとき、私たちは宇宙進化の中で供犠の回避を放棄した、その放棄を発端とする存在の類似の姿を見なければなりません。 ―神々が太陽紀に放棄(無欲)を通じて敵対者(アーリマン)を生起させたように、キリストはユダを使徒に加えていなければ避けられた死を、諦念(無欲)のうちに受け入れるのです。放棄(無欲)の行為が繰り返されるのです。キリストは十二使徒とともにあり、十二使徒の一人ユダが裏切り者として立ち上がるのです。 あたかも宇宙の諸力への反逆者の出現のようにです。人類の進化にとって非常に価値のあるもの(自由)を導入するために、キリストは自らの敵対者を作る必要があったのです。」 【薔薇十字会の神智学】 このように、マニの教えは悪に屈するのではなく、キリストがユダの裏切りを受け入れたように、悪を寛容し受け入れることによって悪を克服することを意図していたのです。 では、キリストが敵対者を作り、悪を受け入れることによって導入できる 「人類の進化にとって非常に価値のあるもの」 とは何でしょうか。 それは、神の光という恩恵を受けながらも、悪によって自我には自由が与えられ、その自由の中で悪に対する寛大さ、つまり「愛」や「赦し」を学ぶはずです。同時に、悪を克服して「愛」と「赦し」を獲得できるまで人間が無制限に悪に落ち込まないようにするためにカルマの法則がある、といえます。 シュタイナーは次のようにも述べています。 「自由がなければ、愛の行為が崇高さを示すことはできません。衝動に無条件に従わねばならない存在は、まさにその衝動に従って生きています。身勝手な振る舞いのできる存在にとって、従わねばならぬ衝動とは唯一愛のみです。自由と愛は、互いに結び合うことのできる両極です。 私たちの宇宙の中で愛が成就すべきであるなら、それは自由を通してのみ、すなわちルツィフィル(ルシファー)を通してのみ可能なのです。そして同時にまた、人間の救済者であり、ルツィフィルの克服者でもあるキリストを通してのみ、両極が結びつくのが可能なのです。」 【霊的宇宙論・進化の目標】 そうして、人間は善悪、正邪、美醜、真偽といった多様性を保持しながらも、自らの意志によって善悪を理解するようになり、自分の意志で善を愛し、道徳を重んじるようになり、最終的には善悪を超越した存在としての「大きな愛」なる神に近づいてゆく、と捉えることができます。 それでは、悪とは何なのかと問うならば、シュタイナーは悪に対する認識を次のようにも語っています。 「ある時に非常に優れた善をもつ存在が、更にその自己を変わらず保持し続けようとするなら、それは硬直化したものとなり、進歩を妨害し、来るべき善に反抗し、疑いもなく悪になってしまいます。 たとえば、月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうなら、その諸力は、その後の発展にも介入し、そのことから、地球紀の進化の中で、悪を現すようになるのです。 そのように、悪は元々は神のもつ能力以外の何ものでもありません。なぜなら、場違いな悪は、古き時代においては、完全で、神的な存在の表現であったものだからです。」 ここで「月紀の指導的な諸力が、その活動を排他的に行なうなら……」というのは、月紀において運動霊ディナミスが、天上の戦いによって太陽と月の霊に分裂した経緯を示しています。 これによって、月紀には進化から取り残された霊が出現し、その霊が地球紀のレムリア時代から堕天使ルシファーという悪魔の働きをするようになったのです。同様にアーリマンも、太陽紀において堕天使となった存在なのです。 一方、霊界物語十三巻の「モノログ」には、「仁慈無限なる神様の方より、天地間の万物を御覧になった時は、一さいの神人禽獣虫魚草木にいたるまで、一として善ならざるはなく、愛ならざるはないのであります。ただ、人間としての行為の上において、誤解より生ずる諸多の罪悪が不知不識のあいだに発生しそれが邪気となり、天地間を汚濁し曇らせ、みづから神をけがし道を破り、自業自得的に災禍を招くにいたるものであります。」 としています そう考えることができるなら、ディナミス(運動霊)以上のヒエラルキアにとっては、こうした悪の存在は人間の自我を成長させ、愛と赦しによって真の自由を獲得させるための存在であり、究極的には至善至愛の神意が秘められているともいえるのです。 それは、第一章で取り上げた素盞鳴尊の多様性が善であることをも意味しているはずなのです。王仁三郎は、昭和十九年三月に「神は偽悪だ。悪に見せて大善をなす。」と語ったといいますが、この言葉もこうした洞察によるものから発せられたのかもしれません。 実際、シュタイナーも神と悪の存在について、次のようにも語っているのです。 「神々が放棄していなかったらなら、ルツィフィルは神々に反逆できなかったでしょう。 ――中略―― 悪の原因は悪魔の中ではなく、神の中にあるのです。神が放棄(無欲)することによって初めて、世界に悪をもたらす霊が出現したのです。 ――中略―― 神々は悪を斥けませんでした。悪のみが自由を与えることができるのです。神々が悪を斥けていたなら、世界は単調な、変化に乏しいものになっていたでしょう。自由を賦与するために、神々は世界に悪を出現させねばなりませんでした。そして、悪を再び善に戻す力を獲得しなければなりませんでした。この力は放棄や断念によってのみ得られるのです。」 【薔薇十字会の神智学】 そして、シュタイナーは、黙示録の講義の中で、マニについて次のように語っています。 「いつか偉大な教育の課題を解決するために、このような教えによって魂を準備された者たちが、マニ教という精神の方向性をもつ弟子たちとなるのです。 マニ教は一般には誤って理解されています。マニ教について聞いたり、読んだりすると、紋切り型の話しを聞くことになります。マニ教徒たちは世界の初めから善と悪という二つの原理があったと信じていた、というのです。そうではありません。 マニ教は未来において、悪を善に変えるものであり、マニ教の弟子たちは、将来の受肉において、その課題をなしとげることができるのです。マニはくりかえし地上に受肉する高次の人物であり、悪を改心させるために存在する人々の指導者なのです。人類の偉大な導師たちのことを語るとき、悪の改心という課題を担ったこの人物のことも考えねばなりません。 現在では、霊についてはわずかしか理解されていないので、マニの原則は背後に引っ込んでいますが、霊や精神についての生活に対する理解が深まれば、この偉大なマニ教の原則は多くの弟子たちを獲得していくでしょう。」 【黙示録の秘密】 この講義では、ポストアトランティス時代から、次の第六根幹人類期に移行するまでの間、善人が霊的な道徳性に貫かれ、悪人が内面の悪を外見的な容貌として露出させる時代が到来する、とも語られています。 さらに、マニとその弟子たちに代表される者たちは、この時代に「悪を善に改心させるための準備」をしている存在としているのです。こうしたシュタイナーのマニに関する洞察は、霊界物語の中で善と悪が繰り広げる一連のストーリーを連想させます。実際、霊界物語では神の教えを人々に伝える宣伝使の言葉は、悪を善に変えるために改心を即するのです。 ★ ★ ★ 善の光を外に求めるのではなく、内の悪のなかに求めるべきである。
2015年04月21日
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嫌いな池上氏のTV番組をついうっかりみてしまったが、資本主義による格差社会をやっていた。 なんでもフランスの著名経済学者が「資本主義は格差を拡げる」という本を出したのが米国で好評というのだが、何を今更である。かつてのソ連が崩壊し、米国一極支配になったときにでも発表するならわかるが、なんだか後だしジャンケンのようなもんである。 資本主義の光は、格差社会では米国の1%の大富豪で、残りの99%、特にホームレスたちは資本主義の闇とされるのだろうが、人生において何を学んだかでは、逆に、大富豪が闇といえるだろう。 実際、大富豪の生活を少し紹介していたが、骨董品収集や拳銃集めや狩猟などをやっていて、まぁ何をやるのも本人の自由だが、まるで子どもと同じ生活をしていた。富豪が集うクラブなどは話の内容がデカいだけで老人ホームとほとんど変わらない。欲ボケ丸出しである。少しは仏教の修行でもすべきである。 昨今の子どものほうが、受験勉強やら習い事で忙しいのではないだろうか? あんな子どものような生活をする連中が会社の役員で多額の報酬を得ているのだから、資本主義の駄目駄目さは、奉仕の精神のキリスト教信者でなくても誰の目にも明らかなんである。 その役員は良心が咎めるのか、少しは寄付活動をしていたようだが、格差社会の現状を問われると、まるで他人事のように、「スティーヴジョブスが多額の報酬をもらっていたのは有益な仕事をしていたからだ」というようなまるで自分がジョブスであるかのような発言をしていたのには、呆れて、精神まで子どもだなと確信した。 ジョブスというのはオタクの神でビジネスでは成功したかもしれないが、米国社会にとってはいまだにホームレスを増やし続ける元凶で人間の救済の精神としては能無しだったことがわかる。さながらその名の通りJOBスでビジネスマシーンという表現が似つかわしい。 つまり資本主義の申し子のジョブスがやったことの、光はIT機器を生み出し、中世の貴族のような生活をする子どものような幼稚な少数の資本家という欲深な略奪者を生み出したのと、闇は多くの労働者をホームレス生活へと追いやったことである。 この発言からわかるように、米国人には特に大富豪には愛国心など皆無なんである。とにかく米国人の冷酷さだけは伺えた。 そして、資本主義の光とされる1%の大富豪の誕生の闇には、多くの人々をホームレスに追いやったことがある。しかもホームレスに仕事がないわけでなく、仕事をしているのに賃金が安いから、ホームレスから抜け出せないというジレンマにある。 米国の資本家のような人を人とも思わない略奪者のために日本でも似たような現象が起こっている。 しかも連中にはホームレスが邪魔なのか、ホームレスから住居を奪い、そこに高級マンションを建てて、幼稚な資本家の住処とし、その高級マンションを紹介する不動産屋の「どうだ凄いだろう」というような上から目線的な態度も鼻についた。 このような闇を隠し、光しかみようとしない連中がアメリカンドリームというアニメ並の非現実の餌で馬鹿層を洗脳するのである。 このような格差社会の大きな流れをみると、物質的には高度に進歩しているかもしれないが、生活については貴族と奴隷に再び二極化し、中世に逆戻りしていることがわかる。つまりフランス革命の前に戻ってしまっている。 結局、人間の精神にとっては、資本主義というのは過去の栄光、つまり古くなった光を求める後ろ向きの退化にすぎないのである。人類の幼稚化である。 つまりいまの闇から光を探しあてる未来志向ではなく、光とされたもの、実はその本性は闇だが、その闇の支配に屈するということなのである。光=イルミナティ―=ルシファーなんである。 過去の栄光にすがりつくために不正をし続けるどこかの馬鹿党も同じである。 そういうことがわかる話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63364162.html (二)「寡婦の息子」と呼ばれたマニとオシリスとイシスの秘密 シュタイナーの講義におけるマニ教の概要を記すと、おおよそ次のようになります。 西アジアの地方の博識な商人が、四巻の著作をペルシア人の夫人に託して他界してしまいます。それによって寡婦(かふ:未亡人)となった夫人は、身代金を払って自由にしてやった奴隷に、これらの著作を残すのですが、その奴隷が、マニであったというのです。また、マニはミトラ教の秘儀も伝授されており、こうした経緯から宗教活動をはじめることになります。 当時、人はマニを 「寡婦の息子」 と呼び、マニの信者を 「寡婦の子たち」 と呼んでいたといいます。 さらに、マニ自身は自らをヨハネ福音書の助け主(聖霊)を意味する「パレクレート」と名付けたとしています。このパレクレートとは、新約聖書ではヨハネ福音書・第十六章で、キリストが遣わす弁護者のことであり、「父上から遣わされた者」という意味もあるとされています。 博識な商人(四巻の著作を残して他界) ↓ 証人の妻(寡婦となり、奴隷に夫の著作を託す) ↓ 寡婦の奴隷 → マニ自身 → 寡婦の息子 マニの信者 → 寡婦の子たち シュタイナーは、マニが「寡婦の息子」と呼ばれたことには、霊的に深く重要な意味が秘められているとして、次のように語っています。 「すべての秘教においては、魂は『母』と呼ばれました。指導者は『父』です。父と母、オシリスとイシスは、魂の中にある二つの力です。直接に流れ込む神的なものをあらわす指導者は、オシリス、すなわち父です。 魂自身であるイシスは妊娠し、神的なるものをみごもります。彼女は母です。さて、第五根幹人類期(ポストアトランティス時代)の間に、父は退きます。魂は寡婦になります。寡婦になるべきだったのです。人類は自分自身に頼らざるをえないのです。 (父である霊能力が人間の魂=母から去ったという意味) 人類は自己の魂のなかに、自分自身を導くための、真実の光を求めなければなりません。魂的なものすべては、以前から女性的なものとして象徴化されてきました。 ですから、この魂的なもの―今日は萌芽状態にあり、やがて完全に発展するもの―、この自分自身を指導する魂的なるものは、もはや神的な配偶者をもっていません。 それでマニは信者を『寡婦の子』と呼んだのです。そして彼は自分自身を『寡婦の息子』と呼びました。」 【神殿伝説と黄金伝説】 シュタイナーは、こうしたマニの思想を人類の未来の第六根幹人類期を準備するためのものであったとしています。しかし、それは当時のキリスト教にとっては受け入れ難いことであり、そのためにアウグスティヌスによってマニ教は弾圧され、マニ自身も処刑されたのです。 魂の指導者 → 父・オシリス → 第五根幹人類期の(ポストアトランティス時代)間退く。 魂自身 → 母・イシス → 夫・指導者を失って寡婦となる。 →人間は寡婦の子=指導者を失った魂となる。 →自ら真実の光を求めなければならない。 また、この 「父と母、オシリスとイシスは、魂の中にある二つの力です。」というシュタイナーの見解は、王仁三郎が霊界物語の中で 「人間には日の大神と、月の大神の霊魂を賦与されて、肉体は国常立尊の主宰として、神の御意志を実行する機関となし給うた。」【霊界物語・第一巻・第十二章】と口述した内容との関連性を感じさせます。 R.シュタイナー ・・・・・・ 父=オシリス と 母=イシス → 人間の魂の中にある二つの力 出口王仁三郎 ・・・・・・ 日の大神(厳) と 月の大神(瑞) → 人間の霊魂に付与されている そして、日の大神の化身である国常立大尊は悪神によって引退を余儀なくされ、人類の指導的立場から退くという経緯も、人智学的なオシリスの洞察と一致しているのです。 父:オシリス;魂の指導者 → 悪神「セト」によってバラバラにされ、川に流される → 死後の世界の裁きの神となる → 現実界は「寡婦の息子」であるホルスに託される 日の大神:国常立尊 → 悪神によってバラバラにされ、艮に引退する → 艮の金神=幽冥会の大王となる → 現実界は素盞鳴尊に託される そして、このマニ教における「オシリス」「イシス」「寡婦の息子マニ」という言葉は、大本における「大国常立尊(厳魂)」「豊雲野尊(瑞魂)」「須佐之男命(伊都能売)」という関係にも重なってくるのです。(本章■七■(七)、■八■(二)参照) ★ ★ ★ 人間の魂のなかには光(日)と闇(月)の2つの力がある。性善悪説といったらよいか。 富豪たちよ。今一度キリストが言った「金持ちは天国に行く資格がない」ということを思い出すべきである。
2015年04月21日
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前回までの話からもわかるが、シュタイナーは、人智学により霊的なキリスト教を伝えようとしていたようである。 そもそも薔薇十字会も、現在の、物質界で苦悩する神の子の十字架を象徴とするキリスト教ではなく、物質界と霊界を融合し、霊的な調和と創造を目指す薔薇が巻き付く十字架を象徴とする霊的なキリスト教を伝えようとしていたようである。 以下はネットで適当に画像検索し出てきた薔薇十字の象徴である。 さて、薔薇にはどんなオカルトがあるのか、気になる人もいるだろう。 薔薇とは女性器の象徴である。老子でも玄牝を万象万物の創造の象徴としているが、陰のエネルギーが満ちた象徴なのである。つまり、霊界の陰のエネルギーが湧き出る孔という意味である。 では薔薇にある棘(トゲ)は何かといえば、すぐに男性器が想い浮かぶだろう。男性器は陽のエネルギーの充満である。あらゆる創造は、陰と陽の結婚により生まれるというわけである。 男性器と女性器というと俗物はすぐに卑猥なことを思い浮かべるが、それはそのように考えることに問題がある。 少し話題が逸れるが、この間、TV番組でやっていたが、公園などに置いてあるダビデ像やビーナス像の裸体像が、子どもの目のやり場に困るという苦情が多いと聞いて呆れてしまったが、その貧弱な苦情に教育評論家の尾木ママ氏が「子どもにスケッチさせ芸術的感性を養えばいい」と的確な意見を述べていた。流石である。 それに厳密にいえば、ダビデ像やビーナス像は神様を擬人化して描いているので人間のとは違う。というか、性器から産まれない人間はいないのに、それを隠す方が本来おかしい。 尿や糞を出すところという不潔さの意味で隠すのならわかるが、その不潔な場所から人間が産まれるわけである。不潔な尿や糞が堆肥となって、バクテリアを育て、植物の肥やしとなる。動物は皆裸であるし、ダーウインの進化論者なら人間も動物なんだから、裸でいいではないのか? しかしそもそも唯物論から考えても、石像は死んだもので単なる物体である。物体の外見が同じ形をしているからといって、中身や機能が同じわけではない。石像をみて卑猥なことを思い浮かべる、その当人の考えに問題がある。単なる石に寒いわけでもないのに服を着せる方がおかしい。そもそも、裸が卑猥というのは洗脳ではないのか? 発想が貧弱なのに問題がある。言葉だって、TPOによって意味が変わる。例えば、「どうも」という日本語は、「どうも(ありがとう)」と礼を述べるときに使われるし、逆に「どうも(よくない)」と非難するときにも使われ、TPOによって真逆の意味にもなる。 つまり、ダビデ像やビーナス像をみて卑猥なことを想い浮かべる人の発想が貧弱なのである。一種の洗脳といってよいだろう。そんなこといったら、花弁やコップなどはほとんど女性器の形だし、柱や棒などはほとんど男性器の形といってよいだろう。 何を連想するのも自由だが、自分の観点を他者に押し付けることに問題がある。様々な見方があってよい。ダビデ像やビーナス像を卑猥にみるのも自由だが、その見方を主張し、他者に押し付け、芸術的作品を低俗化するのに問題がある。言論の自由である。 逆に言えば卑猥だとされた醜悪さにも神が宿ることを感じ取れる見方こそ現代に求められる。 どうも現代社会の息苦しさや都会生活のストレスは、上述のようなモノの見方に対する洗脳や押しつけが多いことに端を走っているのではないかと思われる。発想がどんどん貧弱になっている。例えば、言葉使いなども貧弱になっている。恐らく現代の若者の語彙数は昔と比べて少ないのではないだろうか。 それは例えば、味覚でも本来は苦いから甘いまで大きく7つに分かれるのに、美味いか不味いかしか表現できないのではなかろうか。「苦い」というのは自我にはあまり経験がない味覚で、逆に、「甘い」というのは自我に心地よい、つまりよく経験した味覚のことを意味する。その間に5つの段階がある。 本来7つあるのに、美味いか不味いかしかの2つしか表現できないのは、そもそも美味いというのは主観的表現であって、当人の味覚の問題で、その人がこれまでどういう食生活をしてきたかの問題である。本来なら、苦いから甘いまでの7つの段階の味覚で表現すべきで、音階と同じように誰もが演奏できるように表現すべきである。 本来7つあるのに、2つしかないというのは、恐らく物質感覚を優先したツケだろう。物質感覚は、有無の2つのパターンしかないからである。二次元の世界である。 数学を学ぶ過程からわかるだろうが、はじめはゼロ次元の点から、線の一次元にいき、そして縦と横の平面、あるいは、有る、無いの二次元になる。そして、高さをもつ立体、もしくは有るのが無くなる、または無いのが有るの三次元になる。 この感覚が進むと、7次元まで到達するのだが、凡人はせいぜい3次元が関の山である。数学者だと4から高次元までいける。食通ならば、7つの味覚で表現できなければニセモノである。 例えば、この味覚などの感覚は、生まれてから歯が生え変わるまでの子どもの成長に大きく左右されるので、この時期に詰め込み教育などをすると感覚がマヒし、晩年になって感覚障害が現れるというシュタイナーの話をいずれ紹介したいが、例えば、この時期に自由に感覚を表現するための母国語教育が非常に重要なことなどだが、いまは話題が逸れるので、元の薔薇十字会の話に戻る。 さて、話題を薔薇十字会に戻すために、非常に重要な話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ マニ教と薔薇十字会のクリスティアン・ローゼンクロイツ http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/63363999.html (一)歴史におけるマニ教の流れ 前回の■三■では、ゾロアスター教のゾロアスターとキリスト教との霊的な繋がりと、その後の中国・日本における仏教や弥勒信仰への影響、さらには弥勒信仰と出口王仁三郎の関連性をおおまかに辿ってきました。 そこで、■四■では、ゾロアスター教と深い繋がりのあるマニ教を掘り下げることで、クリスティアン・ローゼンクロイツの創始した薔薇十字会とシュタイナーの人智学に至るまでの経緯をおおまかに辿ってみることにいたします。 三世紀にペルシアの人物、マー・マニ(二一六―二七六)によって開教されたマニ教と呼ばれる宗教があります。マニ教はゾロアスター教を母体とし、これにキリスト教の異端とされてきた神秘主義的な教派であるグノーシス派の影響を受けているとされます。 一般的な観点では、マニ教はゾロアスター教と同様、すべてに善悪、明暗といった二次元的対立を主張する二元論で、この現実世界は悪魔によって創造されたと考えていたとされています。したがって、人間の肉体は穢れたものであり、そのなかから唯一の心的なものである霊魂を一刻も早く離脱させなければならないとし、この世界はやがて巨大な炎のなかで滅びると予言したともいわれています。 そのため、マニ教は、マニの生前からササン朝によって迫害され、最終的にマニは処刑され、その皮ははがされ、藁を中身に詰められ、城の門にぶら下げられたと伝えれています。 その後、歴史的には中世キリスト教の異端であるカタリ派(南フランス)やボゴミール派(バルカン半島)が、マニ教の影響のもとに成立したといわれています。また、中国の北宋末期の農民指導者である方臘(ほうろう)の反乱に参加した「喫菜事魔(きっさいじま)」という秘密結社も、マニ教の一派とされています。そして、マニ教は弾圧を逃れるために、明教と名を改めて中国にも伝えられます。 こうして、マニ教はミトラ神話を受け入れたゾロアスター教と似た形をとりながらも、秘教的な要素を強めながら、仏教やキリスト教といった諸宗教に影響を与えていったとされています。 ★ ★ ★ マニ教、カタリ派は、二元論に固執したために滅んでしまったわけで、つまり有る無いの唯物論になったために、滅亡したといえる。本当はそのどちらも霊的にいえば、一元論なのだが、霊界を隠してしまい、本来の霊界から物質界に生まれるという生殖器が俗物化し、物質器官として、霊界を隠してしまったので、物質界で死ぬべき、滅ぶべき存在に堕したのである。 性器を隠さないと自分の邪な思想が現れてしまうので、それを恐れるから隠すのである。隠す方が卑猥である。というのは、卑猥な発想を隠そうとするから歪な形で露わになる。石像の性器らしき外見物を隠そうとするのは、卑猥な発想を隠そうとするからである。つまり卑猥な発想をするのを認めたくない自虐性にある。 闇を隠そうとすれば益々露わになるだけである。
2015年04月20日
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前回は薔薇十字会が広めてきた神話について紹介したが、神話の内容を簡単にまとめると、地球進化の月紀に進化から遅れた闇(熱く衝動的な叡智)から生まれた闇の子と、月紀を超え、地球紀までに進化した光(静かで敬虔な叡智)から生まれた光の子がいて、前者が人類を個人にし自由を与えたが、同時に利己主義にし、後者が愛を与えることで、個人個人に分かれた人類を、再び愛で調和をもたらし、人類が自由と愛の平和の使者になることが期待されているというような話だった。 人類が、万人による万人のための万人の闘争をいかに平和糧に乗り切るかが問われている。 そのために、各個人が、闇を自己として引き受け、各人生のなかで、平和糧に闇を克服していくことが非常に重要となる。闇を引き受けた各個人としてどんな人生も宇宙からみれば同等に意味をもつことになる。 では、個人の存在とは何かといえば、カルマの法則からいえば、前世の闇なんである。仏教でいえば執着心である。 だから、人間は個人として生まれてくるが、その個人として最後は死ななければいけない。仏教では生きながらにして個人に囚われない人間は生き仏といわれる。 人間は魂の上では自由だが、そこに意識ともいうべき個人というカルマが圧し掛かるので、その自己意識上で物事を判断してしまうわけだが、それはつまり本当は自由なのに、自己として拘束していることでもある。 例えば、「〇〇しなければならない」というのも、自己を前提としているからである。その〇〇をしないと自己として認識できないからである。ある意味、それは自己を脅迫していることでもある。 さて少し脱線するかもしれないが、しばらく紹介していなかった宇宙人の話を紹介する。 ★ ★ ★ ・「光と闇」の概念に引き裂かれてきた人類 http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-b040.html 人類に尋ねたいのだが、「光の中に在る」というような話ばかりを耳にするが、それはどういうことなのか? もしかするとそれは自己の半分にいるということか? それとも闇を恐れる側にいることなのか? あるいは自己の闇から逃げる、ということなのか? 中世のフランスで異端とされたことで教会により壊滅させられた一派のカタリ派の本当の試練とは何であったかを知っているのか? 彼らは、光の側にだけ存在しようとした結果、何が起きたか? 彼らは闇を引き寄せてしまった。なぜなら、闇と光は本来同じもので、一方だけにいることはできない。 人間の神性は、自己が愛していない自己をも保ち、愛するだけの思いやりを持っている。すなわち、自己が闇と見なす自己のあらゆる一部や、自己が嫌う行動の一つ一つ、あるいは自己が分類し闇とするカテゴリーに投げ入れる創造の一つ一つに至るまで、自己が本来もつ神性は、それらの闇を抱擁して愛している。 ほとんどの人々は、自分の闇に神性があるなどという話を聞きたくはない。 というのも神性を光の観点からしか捉えていないからである。しかし親愛なる皆さん、神性は無条件な愛である。それはたとえ何が起きようと、神性は、自己の闇でさえも愛している。そして、人間も同じように、意識的に愛せるようになる時を待っている。 これまでも多くの人々が試みてきたことだが、闇を持たずに光を持つことはできない。私(宇宙人)はしばしば「光の子」たちの内なる「時の声」を聞くが、彼らが否応なく、内なる闇に直面することになるのを知っている。つまり、彼らは(光を願うほど)闇を引き寄せてしまうからである。 しかし、それは自然なことで、この世に来ている人々の中には、自己の女性性が持つ女神を発見するために生まれた人たちがいる。すると何が起きるのか? 男性性のエネルギーを引き寄せることになる。本来、この世ではそのように作用するからである。 (ホメオパシーの原理でもある。急がば回れ、である。例えば、健康になろうとすれば、病気を引き寄せる。) 自分の内なる闇を受け入れ、1つになる 闇の側面を体験する準備はできているか? 光だけでなく、自己のあらゆる側面を見る準備はできているか? 光は素晴らしいが、完全なものにするには闇が必要である。自分が闇と思っていたものを、手放す準備ができているか? 「はい」と答えている間にも、自己の内側にある闇が上がってくる。それは恥ずべき、後ろめたい、傷ついて、痛んだ自己の一部である。常にその闇から逃げ、いつもニセモノの光を隠れ蓑にしている。 そしてこれは私の愚見だが、キリスト教会の最大の過ちの一つは、彼らが存在全体ではなく、光(ルシファー)だけに焦点を合わせてきたことにある。彼らはそうした自らの闇を全て覆い隠し、礼拝や宗教的儀式を光だけにした。 しかし、光に偏ることが自然に、否応なく自らの闇を浮かび上がらせ、闇を明らかにして、本来の均衡を取り戻そうとするものを自然に引き寄せる。 闇とは何なのか? 闇にしても、それはただのエネルギーであり、光を見るために人間が創造した最初の鏡なのである。光もまた闇を見るために、人間が創造した鏡に他ならないが、もうそろそろその二つが一緒になる時である。つまり、内なる闇から逃げるのをやめる時なのである。 光の子らの知人の多くが、光の子らの仕事に疑いを抱くのも無理もない。彼ら知人たちの多くも闇から逃げているからである。彼らは、光と闇の統合が近づいていることを感じており、それが、闇を扱い、悪魔と戯れているように見えるからである。 そして実際にそうである。なぜなら、もう光と闇を1つにすべき時が来ているからである。そうすれば二元性という概念全体が、つまり光と闇が単なる幻想であったのを理解できるだろう。 内なる様々な痛みは、二元性のアンバランスがもたらすもの 闇は人間が考えているようなものでなく、光も思っているようなものではない。この二元性という善悪の概念や、また何らかの懲罰として地球にいるという概念や、人間の状態から脱け出すという概念、また自らの人間性と人間としてのあらゆる恩恵を否定する概念などは、あまりにも古い概念で、これらは、ある時地球に持ち込まれたものだが、未だに地上に残っていて、人間のなかに存在している。 神は光だけだと教えられてきた。 もし闇が存在するなら、どうして万物を創造する神は光だけと言えるのか? 神が天国を創造し、一方、悪魔も地獄を創造して、人間の旅を脆く、哀れなものに陥れたので、人間の目的は神の恩寵の元に戻ることだ、と教会から聞かされてきた。 だが、それは間違いである。それはあまりにも美辞麗句の誘惑の多い甘言である。 いまのあなたが、人間の形態に在ることこそが、自らに与えることのできる最大の贈り物であり、体験である。しかも、その形態に囚われているわけではない。だから、教会が述べる救済は必要なく、ただその体験を受容するだけでよい。 カトリック教会が光と闇の概念を持ち込み、彼らのマヤカシの支配ゲームを始めた時、私たち(宇宙人)は「本来の道」の教えの中に、大きな分裂が生じたのをみた。世界は未だに、光と闇という二元性に魅惑され毒されているが、それは次第に移り変わっていく。そしてその概念は居心地の悪いものになっていくだろう。 今日、少し休息を取り、文字通りの光と闇を観察してほしい。 太陽光線が建物や木々、草や人々に当たっている様子に注目して欲しい。光が闇とどんな役割を互いに果たしているのかを観察して欲しい。しかもどれほど互いに愛し合っているかに注目して欲しい。それらは実際に、原初からの至上の素敵なカップルである。 自らの闇を否定することが、自己を窒息させ、やがては自身への残酷なゲームを引き起こすことになる。それは闇の否定が自己の認識をアンバランスにさせるからで、思考のバランスを崩すと、常にそのバランスを取り戻そうとして、何かが現れるからである。 当然、それに抵抗するだろうが、それは何かが侵入してくるように思うからである。しかし、実際にはそれは、バランスを取り戻すために自らが創造したものなのである。トバイアス(ジャーメインの仲間で協力者)が、「自分のやり方から脱け出しなさい」と言ったのはそのためである。 アンバランスとは偏見と先入観のことであり、それを手放し、自らを癒し、修復しようとするが結局、常に光と善、正義だけに留まろうとする。つまり、一方にのみ「振り子」が留まるように努力する結果バランスを失い、それを押し戻そうとする自然の力に抵抗し、闘い、逃げ回るので、光と闇のゲームが延々と続けられることになる。 アダマス・セント・ジャーメインからのメッセージ book 『神性を生きる』 ジェフリー・ホップ、リンダ・ホップ著 ナチュラルスピリット 抜粋 ★ ★ ★ 神の前では皆個人として同等に闇を背負っている。
2015年04月20日
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いかに良いことでも強制された時点で悪いことになる。アホのネトウヨは憲法は米国に強制されたものといいながら、その改正を強制されているのに気づいていない馬鹿である。 前回紹介した話に、「強制された信仰心では、個人の心の中に、キリストが兄弟として生まれるのではなく、主人として生まれただろう。」とあるように、主従の縦関係のような強制された信仰ではダメで、兄弟同士の対等な横関係の個人の信仰が、人類の進化の鍵となることがわかる。 この話から、人間の組織形態は、これまでのトップダウンの権威主義的な縦基準の組織形態を改め、個のボトムアップの平等主義的な横基準の組織形態が求められることがわかる。簡単にいえば、上下関係から対等な平等主義への変革といえる。 また、前回までの歴史の話から、急速な成長は、かえって破壊をもたらすことを紹介した。例えば、かつての日本の経済発展は護送船団方式にあるといわれていたが、それはゆっくりとした成長といえる。ゆっくりとしたものなので、脱落者が少なかったわけで、だからこそ中流意識が芽生えた。 しかし、投資熱のハゲタカ襲来によるバブル経済と小泉改革により、護送船団は分裂し、船頭多くして船山に上る、となり、各々の船は金儲けに夢中になり、互いに争い、利益を求めて食い合い競争し、自滅することになった。そしてきがついてみると、勝ち組と負け組にわかれ、格差社会が生まれた。 格差社会とは端的にいえばピラミッドの主従縦関係のことだが、底辺の土台が強靱でないと砂上の楼閣となる。底辺とは僅かな賃金で人の何倍も働く労働者のことである。 ピラミッドの頂点を高くするには底辺を拡げないといけないから、非正規雇用労働者を増やすことになるが、徐々に増やせばなんとか持ちこたえられるが、それでも限界があり、頂点を急激に高くすると、中抜けの状態になるわけで、それはつまり、頂点を高くすればするほど、自滅するということになる。 だからここに循環論をみつけないといけない。底辺と頂点を入れ替える循環である。成長を急速にしないために、中間部を基に底辺と頂点を入れ替える必要がある。逆回転させるのである。すると急激ではなくゆっくりとした成長となる。 陰陽五行説では、完成形はよくないために、陰と陽を逆にし、あえて未完成な形にする。「亢龍悔い有り」とならないためである。いまの米国をみているとまさしく亢龍である。つまり後は下るしかない。米国の凋落は誰の目にも明らかである。 だから、賢者というのはあえて敵対者を身内に置く。急激に進まないためである。キリストが身内に裏切者のユダを配したのはこのためである。均衡を図るためである。いかに良い教えであっても、自由を無視し強制するのでは悪いものとなる。 言論の自由を無視するアホバカには自覚不可能なので自滅するまで突っ走るしかない。自滅しないとわからないのは馬鹿であるから、馬鹿は死ななきゃ治らないといわれる。 さて、そのような人類史からわかる奥義の話の紹介を続ける。 ★ ★ ★ こうして第4、第5文化期の間、この世的な要素が益々発達し、世界史的規模で物質界が進歩した。物質主義のこの世的な要素と共に、万人が万人と戦う個人的な利己主義が育った。キリスト教は存在しても、真のキリスト教は極少数の人達のものだった。 しかしこの宗教は「神の前では皆が等しい」事を第四、第五文化期の人々に教えた。これがキリストの基本原理である。しかし人類がいまだ物質主義と利己主義の虜(とりこ)になっている限り、これを完全に理解する事は出来ない。 フランス革命はキリストのこの教えを、この世的な意味で実行した。「全ての人間は神の前では等しい」というキリスト教の精神は、フランス革命によって「万人は平等である」というこの世的な純粋な教えになった。現代はそれをより物質的なものに置きかえている。 フランス革命以前に、女王マリー・アントワネットの侍女であるダデマール夫人の所に、ある人物が現れ、革命の重要な場面すべてを予言し、警告した。その人物はサン・ジェルマン伯爵であり、前世で薔薇十字会を設立した者である。 彼は当時、「人間はこの世の(物質)文化から、真の(霊的な)キリスト教の文化へとゆっくりと導かれるべきである」という考えを主張した。 この世的な力は、しかし、自由を、暴力的に、しかも物質的な方法で獲得しようとした。サン・ジェルマン伯爵は、革命を必然的な結果と見ながらも、それについての警告を発した。 クリスティアン・ローゼンクロイツは、18世紀に受肉した時に、青銅の海と聖なる黄金の三角形という秘密の奥義の守護者として、「人類はゆっくりと進歩すべきである」と警告した。彼は、これから何が生じるかを見抜いていた。 人類の未来=青銅の海と聖なる黄金の三角形 以上、第四、第五の文化期の間に、人類が経験する進化の歩みを、霊的な内面から考察した。人類の文化建造物である偉大なソロモンの神殿は建設された。 (ソロモンの神殿とは、個人の自由のことである。その住処とは、人間の自我のことである。この自我はいまは利己主義で低次だが、愛により高次の霊我にする必要がある。) しかし、最後の仕上げに必要なものはまだ隠されていなければならない。秘儀参入者ヒラムだけがそれを仕上げる事が出来たが、彼は誤解され、裏切られて、殺されてしまった。 この秘密はまだ明かす事が出来ない。それはいまもキリスト教の数人の秘儀参入者のなかでの秘密となっている。青銅の海の鋳造と聖なる三角形の中に隠されたままである。それはキリストの誕生以前に、高次の世界の体に受肉し、次のような重要な言葉を発したローゼンクロイツの魂の秘密に他ならない。 (後にローゼンクロイツの魂となったのは前世でゾロアスター、そしてイエスだったようである。) ローゼンクロイツがフランス革命の前に、この言葉を再びどの様に口にしたか、もう少し述べる。 彼は「彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る」と言った。 この言葉をホセアが言い、記録される前に既にローゼンクロイツがこの言葉を口にしていた。これはローゼンクロイツの言葉なのである。 「風を蒔いて、つむじ風を刈り取る」という言葉は、ポストアトランティス時代の第四、第五文化期の標語であり、 「あなた(ルシファー-カインの人類)は、人類を自由にするだろう。受肉したブッディ(生命霊)が、あなたの自由と結び付き、神の前で人間を同等にするだろう。しかし霊【風は霊=ルアク Ruachを意味する】は、はじめは嵐となるだろう【万人の万人に対する戦い】」 という意味をもつ。 (この言葉の意味は、ルシファーから出たカインの人類の知性は、人類を自由にするだろう。そして、ヤハウエから出たアベルの人類の敬虔さが、カインの人類の自由と結びつき、人類を個人にして同等にするだろう。しかし、個人となった人類は、はじめは欲から利己的になり競争し、戦いをはじめるだろう、ということ。) キリスト教ははじめ十字架のキリスト教になった。十字架のキリスト教が、完全にこの世的な、つまり物質界の中で発展する必要があった。十字架のキリストがはじめからキリスト教のシンボルだった訳ではない。しかしキリスト教が次第に急速に政治的になっていった結果、この世の体(肉体)を十字架にかけられ、苦しむ神の子がシンボルになっていった。 (自我が競争によりストレスや苦悩の餌食になっている象徴である。つまり、いまのキリスト教の十字架の象徴は悪魔に苦しめられている神の子キリストを描いている。つまりニセモノということで、やがてホンモノのキリスト教が現れる。) この(ニセモノの)シンボルは表面上は第四のギリシア・ラテン文化期の途中から第五のゲルマン文化期の終わりまで続く。 キリスト教ははじめは、第四、第五の文化期の完全に物質的な文化と結び付いているが、その間に、未来に向かう真の(霊的な)キリスト教が生じる。青銅の海と黄金の三角形の秘密を知るキリスト教である。この真のキリスト教のシンボルは、もはや十字架にかけられた神の子ではなく、薔薇が巻き付いた十字架である。 このシンボルが第六文化期の新しいキリスト教のシンボルになるだろう。薔薇十字同胞団の秘儀から生じるこの第六文化期のキリスト教は、青銅の海と黄金の三角形を知るからである。 ヒラムは、第四、第五文化期のカインの末裔の秘儀参入者の代表である。 シバの女王とは-女性は秘教ではいつも魂を意味し、それは、この世のものではない清らかさをもつ敬虔さ(ソロモン)と、欲望を克服することでこの世と結び付いた現実的な叡智(ヒラム)との間で、物事を決定できる人間の魂を意味する。 またシバの女王はヒラムとソロモンの真ん中に立つ、真実の人間の魂の代表であり、第四、第五文化期においてはヒラムと結ばれる。と言うのは、ヒラムは今も神殿を建てているからである。 (個人の自由を構築中ということ。) 青銅の海は、水(液体)が青銅(固体)と適度に混ぜ合わされた時、鋳造される。三人の職人は、それを邪魔し、青銅は壊れる。しかしトバル・カインに火(エネルギー)の秘儀を明かされ、ヒラムは水と火を正しい形で結び付け、青銅の海は完成する。それが薔薇十字会の秘密である。 (ちなみに人類の進化を邪魔する三人の職人とはルシファー、アーリマン、アスラと考えられる。ルシファーは熱狂の自我、アーリマンは利己的で争い好きな自我、アスラは自己分裂する自虐的な自我のことである。) これが、静かな叡智の水が、アストラル空間の火、激情の火と結び付く時に生じる秘密である。 これに、黄金の三角形、アートマ、ブッディ、マナスの秘密が、更に付け加わる時、次の時代にもたらされる「青銅(固体)」の堅い結びつき(結婚)が成就するに違いない。この三角形とそれに付随する全てが、ともに第六のロシア文化期の新たなキリスト教の教えとなるだろう。 (マナスはルシファーを克服する敬虔さ、ブッディはアーリマンを克服する無欲や愛、アートマはアスラを克服する赦しや融合、調和の一元性の「我は我あるなり」と考えられる。つまり、悪の三位一体と善の三位一体がある。それぞれ逆三角形と正三角形で表現される。青銅の海と黄金の三角形とは、物質と霊の結婚である。) 新たなキリスト教は、薔薇十字会によって準備される。その時、青銅の海として象徴化されている真実が、輪廻転生やカルマの認識との結婚に導くだろう。これはいまのキリスト教に付け加えられる新しい秘教の教えである。 アートマ・ブッディ・マナスの高次の自我の秘密は、第六文化期に、人類がそれを受けるに相応しく進化した時に明かされるだろう。その時、ローゼンクロイツはもはや人類に警笛を鳴らず立場に立つ必要がなくなり、物質界での戦い全てがなくなり、青銅の海と聖なる黄金の三角形によって、調和を見いだす平和の使者となるだろう。 これが未来へと続く世界史の歩みである。ローゼンクロイツが同胞団を通して世界にもたらした神殿伝説は、薔薇十字会の主題だった。 すなわち、信仰上の敬虔さだけでなく、外界に向かう科学を人類に教え、しかし外界を知るだけでなく、霊能力も熟知し、外界と人間の内面の両面から第六のロシア文化期に突き進むのを人類の課題としたのである。 ★ ★ ★ 人類は永遠の生命を得るために絶え間なくゆっくりと確実に進化しなければならない。それは人類の一部のためでなく、人類全体の、誰もが迷うことなく、着実に進むためである。ピラミッドは中心を回転軸として球のように循環していかねばならない。 つまり、ピラミッドとは、地球の元の姿なのである。陰と陽のピラミッドが合わさり永遠の循環となる。それがイシス=オシリス=ホルスの目である。
2015年04月17日
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八切史観から、英雄などつくられた存在で、単なる虚栄心の塊でしかないことがわかるが、ある意味、人間なんてそんなもんで、俗物からみればかえってわかりやすく親しみ深いもんである。 しかし、俗物論を展開し過ぎてかえって理想を失ってしまっては元も子もないので、ここで一服の清涼剤として歴史解釈に必要なカルマの法則を紹介する。それは「風を蒔いて旋風を刈り取る」についてのシュタイナーの話である。 ★ ★ ★ 「薔薇十字会の秘儀」1904年11月4日 http://www.geocities.jp/momoforall/Takarajima/booknote7/mybooknote2.html ★神殿伝説 神話のなかに表現された秘教上の真実は、その真実を理解できる叡智を獲得していない者には比喩として与えられる。その比喩は、カルマをつくる人間の本性に影響を与え、その人間が再び受肉した後、カルマを通じて人生のなかで秘教上の真実が理解できる様にする。 さて、今日は数百年前に初めて明かされ、今なお様々な形で伝えられている、ある秘教上の真実について述べる。 前世に東洋である秘儀を伝授された人物が、15世紀のはじめ、ヨーロッパに現われた。それはクリスティアン・ローゼンクロイツである。彼は、クリスティアン・ローゼンクロイツとしての生涯が終わる前に、数人に-その数は十人にも満たないが-自分が受けた秘儀を、当時のヨーロッパ人にも理解可能な形で伝授した。 薔薇十字会と呼ばれたこの小さな同胞団はもっと大きな社会的な同胞団を通して、ある神話を世に広めた。 クリスティアン・ローゼンクロイツは、十分に準備が出来た者だけにわかる様に、薔薇十字の秘儀の奥義を表現した。彼によって伝授されたこの奥義はそのままでは大衆に明かす事が出来なかったので、神話の形で伝えられた。 15世紀初頭に設立されて以来、同胞団の中で、その神話は様々な形で語り継がれ、解釈されて来た。しかしその神話が、いくら広まっても、その真意を解釈出来たのは、準備が整った限られたグループだけだった。この神話とはおよそ次の様なものだった。- あるエロヒムが人間を創り、エヴァと名付けた時代の話で、そのエロヒム自身がエヴァと結ばれ、カインが生まれた。さらに別のエロヒム、つまりヤハウエは、アダムを創り、アダムもエヴァと結ばれ、この夫婦からアベルが生まれた。 つまり、カインはエロヒムの神々直系の息子であり、アベルは人間として創られたアダムとエヴァの息子となる。 神話は更に続く。 神ヤハウエは、アベルが捧げた供え物は受け取ったが、カインの供え物は受け取らなかった。カインはヤハウエが直接命じて生ませた子ではなかったからである。その結果、カインは弟殺しを犯した。彼はアベルを殺したため、ヤハウエの共同体から締め出された。 そして遠い土地に行き、彼自身の一族の祖先になった。 アダムがまたエヴァと結ばれた。そしてアベルの代わりにセトが生まれた。セトも聖書に登場する。この様にして二種類の人類が生じた。1つはエヴァとエロヒムに由来するカインの一族であり、もう1つはヤハウエの命令で結ばれた純然たる人間から生じた人類である。 例えば、Τ(タウ)という文字(Τ形文字。ギリシア語とヘブライ語の字母。古来、生命、再生、知恵、権力の象徴。古代ゲルマン神話やミトラ教にも用いられている)を発見したメトサエルや、青銅と鉄の加工を教えたトバル・カインなど、あらゆる芸術や科学を地上にもたらしたのはカインの一族である。 (Τ(タウ)は古代アトランティス人の神とされ、この神の言い伝えをまとめたのが、老子らしい) この様にエロヒムの直系から、芸術と科学の発展を担う人類が生じた。ヒラムもカインの一族だった。彼は、カインの末裔が様々な世代を経るうちに貯えた知識や芸術すべての後継者だった。ヒラムは、考えられる限りで最も優れた建築士だった。 もう一方のセトの家系からはソロモンが生まれた。彼はヤハウエから受け継いだ才能全てにおいて抜きん出ており、ヤハウエの末裔の有する宇宙の叡智、冷静で明晰な叡智のすべてを備えていた。それは言葉で語り得る叡智だった。その言葉は聞く人の心に深く染み入り、その人の人間性を高める。 しかし直接働きかけて、技術や芸術、科学の分野で実用的なものを生み出す叡智ではなかった。 それは神から霊感として直接与えられた贈り物の叡智であり、人間の努力で下から作り出される、情熱や意志から溢れ出る叡智ではない。 そうした叡智は別のエロヒムから直接生まれたカインの末裔に見られた。彼らは全てを自分で作り出そうと努力する過酷な労働者達だった。 (このカインの末裔からフリーメーソンが生まれる。) さてソロモンは、神殿を建設しようと思い、建築士にカインの末裔であるヒラムを任命した。その頃、聡明なソロモンの事を伝え聞いたシバの女王バルキスがエルサレムにやって来た。彼女はソロモンの明晰で卓越した叡智と美しさに魅かれ、彼の求愛を受け入れる。 彼女はまた、神殿建設の事を耳にすると、建築士ヒラムにも会いたいと思った。そして彼に会った時、何気なく彼女を見やった彼の眼差しに深い印象を受け、彼女はすっかり心を奪われてしまった。そこで、聡明なソロモンの心に嫉妬の感情が芽生えた。 ソロモンは、ヒラムに何か仕掛けてやりたかったが、神殿が出来上がるまで彼を生かしておく必要があった。そして次の様な事が起こった。 神殿はある程度出来上がり、ヒラムの傑作となるべき「青銅の海」だけが残された。このヒラムの傑作は大海を表し、青銅で鋳造されて神殿を飾るべきものだった。ヒラムは青銅を神秘的な手法で調合し、鋳造の準備は全て整った。 そこに三人の職人が現れる。彼らは神殿を建設する際、建築士には適さない、とヒラムに言われたのを恨んでいたので、青銅の海の完成を邪魔しようとした。それを知ったヒラムの友人の一人が、職人達の企みを阻止するために、ソロモンにその事を告げる。 しかしソロモンは嫉妬からヒラムの破滅を望んでいたので、そのままにしておいた。三人が、入れてはならない材料を素材に加えたので、鋳造物は全て飛び散ってしまった。ヒラムは燃え上がる火に水を注いで消そうとしたが、事態を余計に悪くした。 彼が鋳造の完成に絶望しかけた時、祖先の一人トバル・カインが姿を現した。彼はヒラムに、火傷を負う事はないから、心配せずに火の中に飛び込むように、と言った。ヒラムが言われた通りにすると、地球の中心に達した。 トバル・カインは彼を、本来の神性(一元性)を取り戻したカインの所に連れて行った。そこでヒラムは火の創造や青銅の鋳造の秘密などを伝授され、更にトバル・カインから、槌(つち)と首にかける黄金の三角形を受け取った。彼は地上に戻ると、その槌で鋳造を修理して、青銅の海を完成させた。 その後、ヒラムは、シバの女王と愛し合うが、例の三人組に襲われ、殺されてしまう。 しかし彼は死ぬ前に、黄金の三角形を、泉に投げ入れておいた。ヒラムの行方がわからなくなると、人々は彼を探し始めた。不安にかられたソロモンは、事の真相を知ろうとする。 三人の職人が、昔からの合言葉を漏らすのではないかと懸念された為、親方(マイスター)達の間で新しい言葉が申し合わされた。ヒラムが見つかった時、最初に漏れた言葉をマイスターの新しい合言葉にしようと言った。ヒラムが発見された時、彼はまだ少ししゃべる事が出来た。彼は言った。 「トバル・カインが私に告げた。私にひとりの息子が生まれるだろう。その息子に多くの息子が出来、地球上は彼らで一杯になり、私の作品である神殿を、完成させるであろう」と。 更に彼は、黄金の三角形のある場所を示した。それは、青銅の海へ運ばれて、この青銅の作品とともに、神殿の特別な場所である至聖所に保管された。 黄金の三角形と青銅の海の二つは、このソロモンの神殿と建築士ヒラムについての神殿伝説全体の意味を理解する者だけが見つけ出せる。 カインとアベル=セト、神殿伝説から見た、人類の進化の歩み さてここで、この伝説の解釈に移りたい。この伝説は、ポストアトランティス時代の第3のエジプト・カルディア文化期、第4のギリシア・ラテン文化期、第5のゲルマン文化期(15世紀以降)の運命を表している。 「神殿」は数多くの神秘同胞団の神殿、または第4、第5の文化をもつ人類全体によって築かれる「神殿」であり、「至聖所」はその神秘同胞団の住居である。この団員達は、青銅の海と黄金の三角形の意味を知っている。 ここで、二種類の人類が問題にされている。 ソロモンに代表される神的な叡智をもつ者達と、火(エネルギー)を熟知し、その扱いを心得ているカインの子孫、カインの一族である。ここで言う火とは、物質的な火(物質のエネルギー)ではなく、アストラル空間に燃え上がる火、激情や衝動、欲望の事(精神のエネルギー)である。 ではカインの末裔とは誰の事なのか? カインの末裔とは、この伝説の意味から言うと月紀にほんの少し進化が停滞したエロヒムの子ら(ルシファー)の事である。月紀で人類は欲望(カマ)の世界と関わった。このカマ、または火(精神のエネルギー)は、その頃、叡智に貫かれていた。二種類のエロヒムが存在した。 一方のエロヒム達は、叡智と火が結婚した状態に留まらず、それを超えていった。彼らが人間を創った時、彼ら自身はもはや熱情に貫かれていなかったので、冷静で明晰な叡智を人間に与えた。これがヤハウエの宗教で、その叡智は激しい感情を全く持っていなかった。 もう一方のエロヒム(ルシファー)は、叡智が月紀の火とまだ結び付いたままでカインの末裔を生じさせた。 こうしてセトの末裔には、明晰な叡智を兼ね備えた信仰心の篤い(無欲な)人間が、カインの末裔には、叡智に感情を駆られ、熱狂する衝動的な(欲深い)人間が生まれた。 この二つの系統の人間は、あらゆる人類と時代を通じて働いてきた。カインの末裔の情熱から芸術と科学が生まれ、アベル-セトの流れからは熱狂のない冷静な叡智の敬虔さが生まれた。 この二つの系統は常に存在し、ポストアトランティス時代の第四のギリシア・ラテン文化期まで続いた。 それからキリスト教が創られた。それによって、上から与えられただけのそれまでの敬虔さ、カマ(欲)の全くない純粋な敬虔さは、キリストが地上にもたらした愛に浸された。キリストは叡智だけでなく、愛が受肉した姿なのである。 愛は同時にブッディ(生命霊)と呼ばれる高次の神性なカマで、自分の為には何ひとつ欲さず、心の全てを他者に捧げ尽くす、溢れ出る逆カマ(無欲)である。 ブッディ(生命霊)は逆のカマ(無欲)である。これによってアベル-セトの敬虔な叡智の子らの中に、熱い感情も備わった高次の敬虔さが準備された。それがキリストの敬虔さである。その敬虔さが、まずポストアトランティス時代の中の第四のギリシア・ラテン文化期にもたらされた。 しかしこの流れ全体は、まだカインの末裔と結び付くまでには至らなかった。彼らはまだ敵だった。 キリスト教が全ての人間の心を捉えていたら、人間は敬虔な愛で満たされたかもしれないが、個人個人の心のなかでは機能しなかっただろう。それでは強制された信仰心になり、個人の心の中に、キリストが兄弟として生まれるのではなく、主人として生まれただろう。 個人的な信仰心が働くには、なお第5のゲルマン文化期全体を通して、カインの末裔が影響を与え続ける必要があった。彼らは秘儀を伝授された秘儀参入者達に影響を与え、この世の芸術と科学の力で、人類の神殿を建設する宿命を負っている。 ★ ★ ★ 次回に続く。
2015年04月16日
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前回の続き。 ★ ★ ★ さて、映画や芝居では、勝は西郷隆盛と非常に仲がいいようだが、実際は大違いである。西郷が明治八年に薩摩へ帰った時に、海舟が何時も大きな事を云って、仲良しの親友のごとく振る舞っていたから引き留め役をしてくれと頼まれても、彼は頑として断っているのである。 それで薩摩の連中が袂を連ねて、西郷と一緒になって野へ下り皆辞めてしまうと、さっさと今度はその後釜に入って、勝海舟は直ぐさま海軍省へ入り海軍大臣になるのである。その後も鹿児島へ行き、西郷を説得してくれと大久保利通らから何度も懇願されたが 「西郷さんには西郷さんの考えがあるでげしょうからね・・・私なんぞがねぇ」と、どうしても海舟は腰を上げなかった。そして城山で自刃の報が伝わるや、「それ達人は達観す」と、上手くもない琵琶歌をこしらえて流行させたにすぎない。 というのは、誰にも知られたくない、見られたくない・・・ところの、頼むから砲撃は見合わせてくれとの手紙を、西郷に出したのを取り返せずにいた海舟は、どうもかねてから西郷が死ぬのを待っていたらしい。しかし西郷は偉い人で、死ぬまで手紙の事は口にしていなかったのである。偉人と云うべきだろう。 (西郷にとっては勝など眼中になかったのだろう。) さて、話しは前に戻るが、現在でも本所深川から飯田橋神楽坂あたりの土地の名義はいまだに升売り喜兵衛さんの名義になっている。 さて、どうしてこの裏話が一般に知られるようになったかと言えば、それには訳がある。 勝は手金を打った旗本屋敷を守るため、勝小吉の時から町火消しの者の出入りが多い方だから、駿府へ使いに出した山岡鉄太郎から西郷へ懇願させて、砲撃を止めさせるよう交渉し、江戸にあっては火消しの連中を集めて、「もしもの時には、此処と此処は手金を打ってある屋敷だから、ぜひともおぬしらで守ってくれよ」と図面に印をつけ頼んでいるのである。 火消しの連中にしてみれば、父親の小吉の時から厄介になっているので、海舟が借金を背負って男を下げては可哀相だと、「他の家など皆ぶち壊しても、勝先生に頼まれた所は守ってやろう」となったわけである。 当時の消火とは酷いもので、一軒を守る為には周囲の他の家をみなぶち壊してしまう破壊消防なのである。そんなわけで他の組へも「・・・ここと、ここの屋敷はよろしゅう願います」と、伝達をつけて依頼を出した。 用心に用心して手を打ったのだろうが、浅草新門の「お」組にも回状はまわった。ところが、まずい事に、新門辰五郎の娘が当時、徳川慶喜の気に入りの側室だった。だから寝物語にでも、その話しは筒抜けに慶喜の耳へそのまま入ったらしい。 なにしろ慶喜の立場からでは、全く怪しからん話しであるから、唾を吐き出すように「鳥羽伏見の合戦の前に、硝石の事を幕臣なら告げに来るべきなのに、彼奴は頬かむりしくさって、まるで野良犬のごとく薩長の奴らと仲良おしくさって・・・又も己の私利私欲のみにこだわって、火消し共まで動員させようとは呆れかえった奴だ」と罵った。 (慶喜と勝が仲が悪いのは有名。氷川情話では少なくとも二回大ゲンカしているのを告白している。大阪から慶喜が逃げ帰った品川に勝が駆け付けたときと、慶喜が江戸城に入らずに上野寛永寺に蟄居中に勝が呼び出されたときである。) この硝石の事は、日本史では隠されているので詳細を記しておく。日本史に島原の乱がある。カトリックといえば、天草における叛乱も後水尾帝の院宣による勤皇の一揆であって、それを日本史では切支丹の宗教一揆とするのは間違いである。 当時オランダの平戸商館長ニコラス・クーケパックルが、帆船デ・ライブ号に乗り込んで、キリスト教徒の船員と共に半月余りも砲撃した事実を照らし合わせても変ではないかと言える。 真相は、「フロイス日本史」にあるように、原城はイエズス派の本拠地であった。戦国時代から彼らは日本に来ていたが、布教費用調達の為日本では一粒も産出せぬ火薬の原料の硝石を持ってきていて、横文字の教義も読めず説教を聞いても何も判らぬ者達が、硝石欲しさにドリチェナキリシタンとだけ唱え、それが切支丹大名と呼ばれていた。 さて口の津は、硝石と交換にイエズス派が入手していた彼らの治外法権の場所。だから一揆は硝石入手のため襲撃して、口の津の原の古城の倉庫番の白人やその奴隷を殺したので、オランダのカピタンは神の名において仕返しをするため協力したいとなった。 この話しの裏書きは、「山田右衛門なる画師一人のみが投降して助命されたが、その者が城内で見てきた旗というのを描かせた」とする証拠が・・・・誠に可笑しな話しだが、カトリックとプロテスタントの二種の旗が混じっているからである。 ヨーロッパでは共に天を戴かざる仇敵同士として、互いに国をあげて殺戮しあっていたのが、いくら東洋の九州の片隅であれ、双方の旗を立てて、両者が力を合わせて抗戦することなど有り得ないし、又今日伝わるように、三万七千から五万にも及ぶ女子供までが「主のおんため」にとみんな死んだものならば、世界中他に例のない話しゆえローマ法王庁の記録にも残っているべきなのにぜんぜんその記載が見つからぬ事実、島原の乱に関しては一行も出ていない不可思議さも、これなら謎解き出来る。 つまり松平伊豆守が、局地解決として他へ叛乱を波及させぬよう、一部だけの者に限られる切支丹を巧く利用し、政治的発表をしたのだろう。五万からの女子供を一人残らず虐殺したのも、殉教の為でなく、口封じ政策の犠牲と見るべきだろう。 (キリシタンの反乱ではなく、討幕運動が北九州で起こった。) 後の鎖国も、なにも切支丹伴天連の魔法を恐れたのではない。幕末の長州奇兵隊が、木こりや百姓でも鉄砲と硝石さえ持たせれば、結構みな一ちょう前の兵士に使えるとなったように、硝石さえ入手したら女子供でも銃は扱えて強敵になるからと、徳川家だけが硝石を独占して一手に輸入し、他の大名に渡らぬようにした政策である。いわゆる「抜け荷買い」つまり密貿易も、テレビや小説みたいに、絹や珊瑚を買い求めるのへの取締ではない。 (秀吉のキリシタン追放も同じで、豊臣家以外に武器をもたせないためと貿易独り占め。だから、朝鮮出兵の際に火薬基地が近くにある北九州を拠点としたのである。) 鉱石として日本では一片も産出されない硝石を、他の大名が入手しては叛乱するので用心の為の治安維持法なのである。 つまり幕末になって長州や薩摩が下関や鹿児島を焼け野原にされたものの、上海やフランスから新硝石を仕入れるまでは徳川三百年の泰平は保てたのである。勝海舟は初めから、長崎出島輸入の火薬の硝石は古くて湿気をもっていて使い物にならぬと、徳丸ヶ原の実験を見て知っていた。 だから、「そうかい下関や鹿児島でも、南蛮船の弾丸が当たれば皆爆発するのに、此方から撃つやつは火薬の硝石が駄目で、十発に一発ぐらいしか音もたてずかえ、そいつはいけないねぇ」と、合点。 これに驚いた長州や薩摩は慌てて直ぐ和平交渉をし、その代わりに、新硝石を買いに上海へ家来を派遣したと聞くと、勝は膝を叩き、 「徳川家が今度、薩長と戦う時は、馬関戦争や鹿児島戦争の二の舞になるだろうよ」と、幕臣のくせに、土佐や長州、薩摩の連中に対し、何時世の中がどう転んでもよいように接触しだした。 しかし慶喜は虫が好かずだったせいか、この情報を海舟は故意に知らせずだった。だから、何も知らぬ慶喜は自信満々。 慶応四年正月二日には、自ら大阪城で「討薩表」を布令して幕府軍を出陣させたものの、鳥羽口や伏見の戦いで、僅か二千の薩長土の兵士へ、三万からの幕軍が攻め掛かったはよいが、弾薬が殆ど不発の状態で、「これまで積み上げて在った大阪天満与力保管の硝石が、古くて用をなしません」と報告を聞くや、慶喜は真蒼になって、直ちに小姓と偽って城外へ脱出し、沖の軍艦で逃げてしまったのである。 つまり政治的発表の<恭順謹慎>の実体はこれである。 「エゴイスト」という言葉がある。しかし並の人間は他への思惑や気兼ねがあって、とてもそうそうは自己本位に振る舞えるものではない。ところが海舟の偉大さはこれがやれた事である。四つも年上の女で深川の芸者上がりの”おたみ”と一緒になったのも、今でいえば、ひも、をして小遣いをたかっていたが、塾が開きたくて、金をひっぱり出す為に一緒になっただけの話し。 だから海舟も忌み嫌って、慶喜をその後三十年も静岡住まいさせ東京に戻さなかったのである。さて、世の中で何が一番儲かるかといって、破産会社の管財人くらい儲かるものはない。腐っても鯛というが、徳川六百万石の後始末というか、その管財人にまんまとなっていたのが、これまた勝海舟その人である。 何しろ非常に土地に対する目が肥えていたのか、それとも地租を自分で決めていたせいか彼の財産は全部土地で儲けたものである。だから儲かって仕方が無く金をばらまき、貧困に虐げられていた旧幕臣にはすこぶる人気があった。 だが初手から慶喜は勝を全然信用しなかった。「官軍が入ってきて、勝の家を荒らした」という話を聞いても、「打ち合わせずみの芝居ゆえ、勝は大方妹のお順の所へでも行っていたんだろう」とせせら笑っていたと言うし、そんなわけで、徳川家管理財産支配人の勝だが、慶喜は自分の財産は管理させなかった。 別にして管理させたのが渋沢栄一で、後に渋沢財閥として発展した。ところが勝も死ぬ時にはやはり後ろめたい思いに駆られたのか、自分の長男の小鹿(ころく)の娘に徳川慶喜の十一番目の息子を婿にとっている。 そして徳川家から預かった金は、そっくり何十万両でありましたと言って帳簿と付け合わせで返金している。今ではこれも逸話とされ、かりそめにも一円の違いもなく全額を戻しているのは美談なりとされている。 しかし幕末と明治三十年との間では、一文銭が一厘となって十枚で一銭に貨幣価値も変わり、物価は二十倍から三十倍になっている。 なのにその間に勝手気儘に運用して、三十年前の金額を返して済ませたのが、はたして美談と言えるだろうか。 勝の運用預り金に比べて十分の一以下と云われる慶喜の管財人の渋沢栄一の方が、一大財閥になれたのに海舟は<氷川情話>その他の本しか残していない。 終わり ★ ★ ★ 家康の伝記などにも海舟は絡んでいるようで、その多くは徳川家宣伝のための出鱈目のようである。坂本龍馬絡みの話も半分は海舟のでっちあげかもしれない。氷川情話で、海舟自身が、自らの創作を白状するかのように、歴史なんてわかりゃしないと述べている。 ちなみにその氷川情話で、西郷は死んだが、勝が生き残れたのは、「(勝が)ずるいから」と告白している。このように日本の政治は昔から騙し合いなんである。国民のことなど本音ではどうでもよく、己の虚栄心だけなんである。
2015年04月16日
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現在の世界情勢を無理矢理に幕末の日本に当てはめてみると、以前紹介したように、薩長が露中で、幕府が米、会津が日本といったところだろうか? AIIBという新しいアジアの通貨システムができるにあたり、米幕府がどうあがいても、米国債を大量保有する露中薩長がドルの息の根を止めるのも時間の問題である。 北が困って国威高揚のためにテポドンを打つのにドルを沢山密かに刷りまくるほどドルの息の根は止まるし、ドルの防衛のために、円を刷りまくり、国債を発行すればするほど、米国債に依存せざるを得なくなり、日本政府は株式会社化して、利益重視となり、コストのかかる社会福祉の削減が進むから、日本経済は社会の相互互助のしくみを失い、単なる詐欺集団の群れと化し、根底から崩壊することになる。 そのことはブラック企業の暗躍や振り込め詐欺の日常化で明らかである。昔の日本社会にはみられなかった現象である。モラルの崩壊である。 日本経済が根底から崩壊すれば、米国経済の下請けとなっている日本経済の崩壊の余波は米国経済に伝わり、軍事同盟から生まれた日米双方の経済が共食いをはじめて、共倒れになったのはリーマンショックをみればわかることで、もはや日米経済総崩れの様相を呈してきて、中国一人勝ちの勢いである。 結局日中を軍事衝突させてチャラにしようと虫のよい偽ユダヤたちの策略は墓穴を掘って、ドル防衛のために支えの円を切り崩したために、軍事でいうところの兵站が伸びきってしまい、その縮小と撤退に大わらわで、莫大な軍事費のために日米経済共倒れの総崩れとなり、結果的に中国を一人勝ちさせることになった。中国人の強かさに感服してしまう。 かつてソ連が莫大な軍事費のために崩壊しロシアとなったのは記憶に新しいが、バブルが崩壊するのと同じで、適当なライバルがいない存在は慢心し、膨張し過ぎて自滅し、崩壊する道理なんである。というのは物質界は二元論から成り立つからである。 つまり適度な均衡が必要で、かつての冷戦が安定をもたらしたのはその証拠であるし、現在、野党の力がなく自公の独裁により日本経済が崩壊していることでもわかる。 急激な成長は破壊をもたらすが、ゆっくりとした成長は安定をもたらすのである。だからライバルは必要である。 さて偽ユダヤがどうあがこうが、ドル崩壊はもはや時間の問題なんで、幕府の破産管財人が必要となる。 幕府の破産管財人というと勝海舟の名があがるが、この人物も西郷の間違った虚像と同じように現在でも虚像が伝わっているので、八切氏の話から虚像を壊してほしいために紹介する。 ★ ★ ★ 地上げの元祖・勝海舟 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/katu.htm 【紹介者・注】 勝海舟を書いたものは、「八切幕末史」全十冊の中に「若き日の勝海舟」(日本シェル出版)がある。この本は小説仕立てで面白く書かれているが、良く資料を調べ新しい視点で幕末の人間像に迫っている。登場する人物は実に多彩で、変革期を駆け抜けた人間臭い彼らが生き生きと描かれており、共感を覚える。 ●登場人物(清川八郎、新門辰五郎、吉田松蔭、近藤勇、佐久間象山、松岡 萬、勝小吉、千葉周作、久坂玄瑞、徳川慶喜、村上俊五郎、山岡鉄州、その他) 以下に紹介するのは「八切日本外史」(日本シェル出版)の論考的なものである。 美化された海舟ファンには申し訳ないが、実像とはおよそこんなものであろう。 土地成金という言葉がある。これのはしりは勝海舟その人である。というのは、それまでの日本には地租、つまり土地の私有権は無く、その為税金も掛からずだった。 (英国はいまでもそうだが、賃貸に税金をかけているようである。) 収穫した物だけに課税されていたのである。が、明治になって収入源を新しく作らねばならぬので、土地そのものへ課税し、従って土地売買も認可した。 だが、明治新政府の構成員というのは、各藩の下級武士か郷士。それに訳も判らぬ公卿ばかりで、それまでの人材は皆粛正されていたので、土地へ税金をかける案は海舟だといわれるし、それゆえ事前に当人は判っていたゆえ、彼はべらぼうに大儲けしたというのである。 さて、明治元年の九月に天皇は初めて東京へおいでになり、翌年には京へ戻られはしたが、当時の京の人達は当然のことながら非常に怒った。それで仕方がないというので、当座は京都に天皇は居られたのだが、又その翌年三月に東京へおいでになりとうとうそのまま東京に居着きになってしまった。その結果、京都は唯の観光地になってしまったのである。 何故かというと勝は当時二束三文だった東京の土地には手付け金を広く打っていたが、京になどは投資していなかったからである。 (神戸には投資していたようである。いま中国が米国や日本の土地を買い漁っているのはその布石かもね。) さて、芸者さんが非常に綺麗な職業のように、テレビドラマであり、それも女流作家の書く物に多い。が、実際には芸者さんは接客業なのである。おたみさんは十七歳から芸者になっていた訳で、六年も経てば今で云う旦那とか、パトロンというのが何人か相当居た筈である。 さて、その勝海舟が駿河まで迫ってきた薩軍の西郷の許へ山岡鉄舟をやり「江戸を砲撃しないでくれ、官軍は箱根の山の向こうで待ってくれ」と頼み込んだわけだが、俗説では戦火による江戸町民を救うためだとか、色々恰好良くされている。 果たして本当の理由は一体何だったのかというと、それは前述した地上権問題だったのである。 当時は勿論土地は私有ではなく、旗本屋敷も徳川家から貰ったものだった。そして官軍が次第に迫ってくるというので、家財道具も古道具屋に叩き売って旗本は殆ど居なくなり最後に残ったのは屋敷だけだった。 これに目を付けたのが勝海舟の偉い点で、僅か五十銭から一円という手付けだけで上手く買い取ったのである。家屋敷といっても旗本の武家屋敷だから、十五間から二十間もある大きな家もあった。勿論これは海舟自身が直接表に出てやったわけではない。 テレビにも出てきたが、勝の父の勝小吉の許に出入りしていた差配の甥で「升売り」の喜平さんなる者を使ってやらせた。この喜平が後に喜兵衛となるが、「升売り」というのは、今でも酒屋さんの前を通ると立ち飲みで一杯やってる客もいるが、江戸時代には酒の一升樽を天秤の両方に担いで一合桝を持って歩き、「え~酒!酒」と売り歩いたのである。お客が来ると、酒をなみなみと注いだ桝の縁に塩をつけて、呼び売りして歩いた江戸風物詩である。 が、それはともかく海舟はこの升売り喜平という人を使って本所深川から今の飯田橋神楽坂、赤坂にかけての旗本屋敷のあらかたに手金を打っていた。僅かとはいっても塵も積もれば山となるその手金の出所は、勿論おたねの前の旦那位しか借金する当ては無かったから、「なア頼まれておくれでないかえ」と、おたみが金策にやらされて、集金して片っ端から手付けが打たれていたのだろう。 だから海舟は江戸を無血開城しないことには大変な事になる。そこで山岡鉄太郎に持たせた書状の中にも、ざっくばらんに大砲なんか打ち込まれたら、手付けしか払ってない家屋敷が吹っ飛ばされてしまい、儲けるどころか、借金の山を抱えこんでしまうと、相当に海舟も狼狽して泣き言を書いたらしい。 人間誰しも大変なことになると周章狼狽し、こと自分の一身に係わるとなれば、必死猛志になって一生懸命になるので海舟とて例外ではなかったのである。この裏話をすっぱぬいたのは、かっての総理大臣の幣原喜重郎である。 (ちなみに幣原喜重郎はメーソンリーなんで、この裏話は、メーソンから聞いたのだろう。) 西郷隆盛とて内心では「あの野郎!」と思っていたのであろうが、こうした話しが打ち消され勝海舟が美化されてしまうのは、真山青果という人が、江戸城明け渡しの芝居を書くにあたって、西郷と勝、つまり太いのと細いのを対比する見せ場をつくるため、さも尤もらしく話しを作ったからである。 勿論海舟が晩年に、若い女達への自慢話にしていたような氷川物を種本にしたのであろうが、あの当時の江戸には江戸を守らなければならないといったような人間は居なかったのである。言い換えれば江戸において私有財産を守らなければならない財閥や、人間がその頃はもういなかったという事である。 (福島原発事故でも官僚はいち早く関西に退避していたというからね。計画停電は東電上層部を逃がすためという話もある。) 江戸城から将軍慶喜は、恭順と称して上野寛永寺へ逃げてしまうし、旗本屋敷はもとより、大名屋敷も空っぽの状態で、商人はみんな近在へ疎開してしまい、残っていた江戸人は何処へも逃げる当てが無く、悪性インフレの為に、喰うや喰わずの状態であった。 だからもしあの時期に江戸に砲撃があったら彼らは暴動を起こし、略奪かっぱらいが出来、かえって大助かりで儲かった筈である。 つまり今でこそ江戸を戦火から守ったと賞賛するが、明治元年に改元される時点において、一般民衆の立場では、官軍に撃ち込まれたほうが好都合で、それこそ世直しであり、人助けであったろう。 (江戸が焼けてしまうと、英国の横浜の、中国への麻薬や人身売買などの海外貿易にも支障をきたすと、海舟が英国大使に頼んだのが功を奏し、英国大使が江戸を攻撃するなら、薩摩に軍事費を出し渋ると圧力をかけたのが真相のようである。 西郷にとっては薩摩独立が悲願なので、江戸なんかどうでもいい。ただ慶喜の首が欲しいので、海舟に抵抗する幕臣たちを一応打尽にするために集めさせ、彰義隊として攻撃し、幕府崩壊を演出する。会津の白虎隊も同じ。) なのに海舟は芸者上がりの女房に無理を言って集めさせた金を無駄にしてはと、オカミの為でなく、オカミサンの「おたみの為にも・・・」と、頑張ったのであるとの見解しか一世紀後の今では出来はしない。 ★ ★ ★ 英雄なんてものは非現実なドラマのなかにしか存在しないのである。そんなこともわからないお馬鹿は大人になるべきではない。
2015年04月16日
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八切氏の西郷の話から、今では有名な「坂本龍馬」、実は土佐藩の宣伝と、三菱の戦意高揚のために創作された人物だが、そのモデルとなった才谷、そして後に「中岡慎太郎」で有名な石川を殺した黒幕は、西郷と大久保であることがわかる。 薩摩独立国を立てるには討幕は不可欠なので、土佐藩の大政奉還は認められないもので、当然薩摩の矛先は土佐に向く、この話に書かれているように、西郷と大久保は「土佐を小癪な!」と思ったはずである。この話に書かれている無慈悲な西郷なら、海江田をして大村を暗殺したように、土佐の重要人物を除いたはずである。 あの法螺吹きで有名な勝海舟も、西郷の実行力だけは恐ろしいと絶賛していることから、西郷は一旦決めたら死ぬまでやり遂げる性分であったことがわかる。 薩摩からすれば、福岡孝弟、後藤象二郎、谷干城辺りがターゲットになりそうだが、土佐藩のお家事情かその下の才谷、石川が殺されてしまったようである。土佐の討幕の鞍替えはいかにも怪しく、まるで関ヶ原の小早川秀秋のようである。 さて、八切史観を基にするなら、日本は唐からきた郭ムソウの藤原氏を中心に公家ができ、討伐された原住民は人とはみなされず、百済から連れてきた傭兵により管理され、百済人は武士となり、武士でもない人たちをクダラナイと差別した古代史がある。 公家、武家、そして部落民のうちで食糧を確保するための農奴と、サンカと呼ばれる被差別奴隷の階級ができたという。そして、明治に長州の公家と薩摩の武家、武家は四民平等で表面上消滅したので、軍人になった。他は平民というわけである。つまり大きく二階層にわかれた。 現在は官僚が公家、政治家が武家みたいなもんである。政治家のほとんどが世襲制であることがその証拠である。官僚は世襲制ではないが、エリートという選民意識が高いから公家と同じである。 いまでは日本人同士仲が良いようにみられているが、明治期までは少なくとも多民族国家で、それぞれの民族の代表者などの群雄割拠であったことがわかる。そして、欧米のカースト植民地政策により、経済で勝ち組負け組などという馬鹿げた人為的な階層化が進んでいる。 しかし、この人為的階層化は唯物論を基にしているので失敗に終わるはずである。それにウソの歴史が続くはずがない。 さて、西郷の話の続きである。 ★ ★ ★ 「西郷や大久保めは代々の君恩を忘れ吾が島津の国力を利用し、独立するとわしを乗せだましくさって立身した」と久光は激怒した。が西郷は出世し威張っていたのではない。 「日本がだめなら朝鮮半島に〇に十の旗を」と前殿さまの久光に進言し慰撫していた。しかし同じ加治屋町生まれの大久保利通が「今さら旧主のための征韓論でもあるまい」とてんで相手にせず真っ向から反対した。 かねて新政府にあきたらぬ土佐の板垣や後藤それに佐賀の江藤新平も共に辞任した。薩摩出身の昔気質の者は旧主の為に身を殉じて帰る西郷についてぞろぞろ帰郷した。鹿児島の北の寺山の丘に塾をたて、ついで西郷は私学校を作り各地に分校を設けた。 木梨精一郎という男がいる。黒駒の勝蔵をつつき甲府城占領させようとした西郷の腹心で東征軍の参謀に昇進していた。が戦は巧くない。だから東北遠征は、大村益次郎の長州に指導権を奪われた。「口惜しい」と私学校生徒も彼が煽動したのだ。 ハヤト族は大和ちゅうとは民族が違う。ひとまず薩摩ば独立させ、やがて九州を割拠し日本から分離させるしかないと大山格之進は鹿児島県令として集めた税金を中央政府へは送らず私学校へ提供。別府晋介、辺見十郎太、村田三介ら旧陸軍少佐を区長に任命した。 「ハヤト国」として文武帝の頃に独立していた薩摩隼人の中にも、明治になると大久保利通のごとく新政府の実権を握って旧島津を思わぬ者もいた。川路の正之進もハヤトなのに逆に密偵を次々と送りこみ、火薬や武器を、大阪へ明治10年1月29日輸送替えしようとした。 「大村益次郎はとうに殺したる。もう恐いものはなか」と私学校生徒へ演説。 「虫よ・・・・・・・、虫よ、五ふし草の、根を絶つな。絶たば己も共に死なん」と一万三千の薩摩健児は出陣した。 さて、明治10年2月15日、熊本へ、宮崎とう天の兄の指揮する市民軍も参加し進軍。が、谷千城は必死になって熊本城を守った。 「敬天愛人」の西郷の遺墨から温厚な大人物に仕立てて、私学校の若者に坦がれやむをえず大久保新政府に対して出陣したと今はする。 (司馬史観に代表される軍神西郷像はほとんどこれである。) しかし(この像は)皇国史観による教育用西郷論である。 己の写真や肖像画の一切も焼きすてて、「サツマの為に」とハヤトとして出陣した。西郷軍政下に薩摩国は独立した。 そうなると明治7年2月の江藤新平の乱に組し佐賀県から逃げてきた者や明治9年の神風連残党も熊本から逃げこんできた。そして鹿児島は「易世革命は西南から」と今の山口県までを含む新国家創立の意気に燃えていた。 「樺山三円は、西郷の幼時からの友ゆえ熊本鎮台参謀長にせい」と西郷の実弟従道をば陸軍郷代理にした大久保はガンジガラメにし西郷を苦しめた。 孫が丸紅専務になって棘腕をふるうだけあって大久保は、薩人をみな敵にする愚は避け、有栖川宮を征討総督。第一旅団長 野津鎮雄。第二旅団参謀 野津道貫。別働第一旅団長 高島鞆之助。別働第二旅団長 黒田清隆。別働第三旅団長 川路利良。別働第五旅団長 大山巌。みな薩人のみを選んだ。 (大久保は、久光の寺田屋同士討ちを利用した。久光のカルマといえる。大久保はこのため後に暗殺される。) 熊本城攻撃に敗れ田原坂で戦い三万の若者をなくし城山へ戻っても、まだ西郷隆盛は「革命は最後まで死力尽くすべきでごわす」と花々しく陣頭にたっていた。 通俗史では、「東方に向かい頭を下げ切腹した」とする。実際は最後まで薩摩を守ろうと地元優先。桐野利秋、村田新八が倒れた後、腹と股を撃たれ別所晋介に肩をかり戦い討死したのである。 【終わり】 ★ ★ ★ 薩摩は長州に利用されて捨てられた感が無きにしも非ずで、この長州のやり方はフリーメーソンの「風を蒔いて、つむじ風を刈り取る」という言葉の意味する手口によく似ている。 その意味は、例えば、島津久光が寺田屋で起こした風がそのまま久光自身につむじ風として返ってきて、大久保の裏切りにより藩主の資格を失った、ということなどである。 カルマの法則を巧く利用するということである。カルマの法則を理解すると、人生の前半期に行ったことが、後半期にその反作用として返ってくることがわかる。 要するに、いまでいうブーメラン効果のことである。
2015年04月14日
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私は俗物なので、これまで生きてきて聖人といわれる人物に巡り合ったことがほとんど皆無である。聖人らしく振る舞う俗物には枚挙に暇がないほど遭遇してきたが、偉そうな奴ほど、この手の類であることは経験からわかる。だから聖人は間違いなく謙虚である。その謙虚がどこからくるのかが次の問題である。 逆に俗物を見抜く方法が意外と簡単で、自分ができないことを他に押し付けてくる輩などである。ではどうしてそうなのかを以下に説明する。 裸の付き合いと日本ではよくいわれるが、これを字句通りに肉体を丸裸にして付き合うという意味に解釈しているアホバカがいて、それを他者に強要するセクハラ紛いの俗物がいるから話がややこしくなる。これも唯物論の洗脳のせいである。 アダムとイブが肉体を得て、なぜ恥ずかしく思い、肉体を覆い隠したのか? 深く考えてほしい。 それは魂が隠れてしまったからである。思っていたイメージと違うからである。例えば、自分の声を録音してはじめて聞くと誰もが恥ずかしいと思うだろう。そして、「これは自分の声ではない」というだろうが、他者は間違いなく「君の声だ」と証言するだろう。 この違いこそ主観と客観の違いである。 つまり、本当の裸の付き合いとは、主観と客観を超えた付き合いという意味なんである。無我の境地に達したときのつきあいのことで、自己を捨てたときの、肉体に囚われない、霊魂そのものの付き合いという意味である。 自己を捨てた無我の境地からみると、自己を恥ずかしいと思うから、自己の源となっている肉体を隠したくなるのである。 このことから考えれば俗物というのは、自己と他者を差別する人間であることがわかる。だから、自己と他者の分け隔てなく差別しない人は、自己=他者と考えるので、自分のできないことは他者もできないことが少なくともわかっている。 そして、自分のできないことは他者もできないので、できないことを共に行うことで、自他共に成長することを心がけるのである。共に成長することが重要である。そのためには霊魂の成長を考えないといけない。だから人物を知るには、その人の霊魂を知らないといけない。裸の付き合いとは肉体を離れた仏教でいう戒名(霊格)の付き合いのことである。 さて、八切氏の西郷さんの話から人間臭い西郷が浮かび上がるので、続けたい。 ★ ★ ★ 「土佐の山内容堂侯は内ゲバせんとなんとかまとめようとしたというが、西郷が凄い目つきで、文句があるなら徳川より土佐を先に血祭りにあげると脅かした。海援隊はあっても坂本(?)が死んでは何も期待できんし、陸援隊も中岡(?)なき後は薩摩の傭兵化して中山卿についている。土佐も仕方なくうなづいたそうだ。いったい、どうなっとるぞなもし・・・・」 (この話は嘘くさい。この話が本当なら、土佐が才谷=坂本、石川=中岡を殺すはずがない。つまり薩土盟約を結ぶはずがない。「ぞなもし」の伊予弁なのは、この発言者が伊予出身なのか?) 小栗上野介の信任をえて弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。 「西郷や大久保といった薩摩っぽは恐わい。どこまで彼らはやるか見当もつかんでいかん」とせっかく兵庫まできたが、大村にはどうしようもなかった。桂小五郎も同じだったろう。なにしろ御所でも大騒ぎだったから。 いつの世でも黒幕の力はもの凄いもの。京の二条城に会津桑名の兵と共に一万の精鋭はいたが、徳川慶喜はやむなく京を引き払い大阪城へ入った。もはや京には幕軍の手の者は新撰組すら伏見へ追われていなかった。 「このまま、もたついては如何でごわすか」と西郷吉之助はすぐさま江戸へ薩摩屋敷にいた千葉門下の相楽総三に早飛脚をたてた。 「すぐさまに事をおこせ」との命令である。親の金で同士を集めていた相楽は直ちに、「よし、やっちゃる」と庄内藩の支藩屋敷へ鉄砲をうちこんで挑発。酒井の侍どもは勢揃した。そこですぐ、「もう我慢ならん」と25日に三田薩摩屋敷へ焼討ちをかけた。28日に大阪へ急報された。 「もう我慢の緒がきれた。薩摩討つべし」と大阪城に集結した旗本や諸兵隊、それに会津や桑名の兵は激してしまい、慶喜は「討薩表」をかかせ大目付滝川土佐にもたせて島津忠義へ詰問使をだすことにした。まんまと西郷-大久保-岩倉ラインにのせられた。 「高杉は世の中に恐いのは西郷隆盛じゃ言うて、いくら逢おうと求められても嫌がって、逃げていらしたのにああした恐かおひとについて戦ばするのは、どうでしょうな」とあまり気の進まぬ大村益次郎は「わしゃ出んでもよかでしょう」と口にした。 「大村さん・・・・とうとう来るところまできたぞな。ああたは三兵塾で育てた士官らに歴戦の諸隊の兵を、薩摩の言いなりに出して味方してつかあさい。それしかあかへんぜ」と顔をしかめつつも桂小五郎は口にした。 「うん、しかしそうせなお国の長州が、後で西郷や大久保にどない目に逢うか分らん。まあ品川弥次郎が来とるけん。あれに指揮させて、薩摩の尻にくっついて行くしか、他には何もあり申さん」と桂小五郎は神経質に目をまたたかせ、ぶすっとした大村を諫めた。 その頃、岩倉具視も大久保一蔵や西郷へ「おはんらの薩摩の殿さまが、〇に十の字の旗をたてて天下統一したら、公家は一体全体どうなるんじゃ」とやはり危惧していった。 「まあ、そのことなら西郷どんに任せて貰わな、いかんでごわしょう」と大久保は薄笑いを浮かべて、ぬらりくらりとしてみせた。「すると次のえらい様は徳川に代わって、薩摩の殿さまが天下をとり、鹿児島がお江戸にとってかわるんですかのう」とずんぐりした身体を折りまげるようにして率直に大村は尋ねた。 しかし桂小五郎は蒼い顔で無言だった。当の西郷もただ笑って大きくうなずき、「よかしますでごわしょう」と力強くいった。「なら一国一城は貰えるな」と岩倉も答えた。 しかし島津の殿さまは、二百五十年続いてきた主従関係をあくまで信じきって疑いをもとうとはしていなかった。「西郷や大久保は世が世なら目見得以下の下賎な者らであるが、このたびの天下創業の働きはアッパレじゃなかか」と口にして笑った。 「天下平定のあかつきには西郷には10万石大久保には5万石ほどの城持ち大名に取立てやるに、ヤブさかではない」といった。「有難き仕合せ・・・・」と小松は平伏して答えた。 慶応四年1月3日。討薩表をもって島津の本陣へ向かおうとした滝川土佐守は、鳥羽伏見で薩長兵に阻止された。随行の旗本共は「将軍家に対し奉って非礼である」と息まき実力で強行突破しようとした。が、「ババーン、ババーン」と伏せの構えをしていた散兵線の餌食にされてしまった。 侍どもは「イモや長州の木こりに負けるな」と先祖伝来の槍のサヤをとって突入したが、近づく前にバタバタみな撃ち倒されてしまった。なにしろ薩長兵は三千余りでも、銃は南北戦争でグラント将軍が押収した南軍の元込エーゲー銃。硝石も新しい払い下げ火薬である。 てんで戦いにもなにもならず滝川土佐は「かくなる上は斬りこめ」と叫ぶのみだった。処が滝川土佐についていった旗本共が持っていたのは江戸から担いで来た火縄銃。火薬は大阪天満に積んであった寛永時代からの湿気をおびたもの。撃っても鉛玉が転がるだけ、まるで小石をぶっつけているみたい。 鳥羽伏見での敗戦が伝わってきても、「味方は三万から四万」「敵は僅か数千なり」と大阪城内にあふれた幕兵はいきまいた。しかし徳川慶喜は、硝石が古くて不発と呑みこむと、夜にまぎれ小姓に化けて乗船。 (アメリカの船に乗って品川に逃げたという説がある。) 「追手に帆かけてシュラシュッシュ」とは、蒸気船ゆえ言わずだったろうが品川へ帰航。もちろん表向きは火薬で勝負にならぬ故とは発表せず、恭順のためと引きこもった。 12月18日になると桂小五郎は「徴士」の名で上洛を求められ、総裁局顧問を拝命した。薩摩は、島津の殿さまの命令なりと、「徳川慶喜を死罪」と強硬に西郷は主張。「ならば現在の八百万石を全額没収すべし」と大久保は言いはったが、桂小五郎は「それは酷である。せめて百万石」と主張。 しかし薩摩派は、島津の殿さまを棚上げすることを桂に認めさせる事によって妥協した。 つまり長州も殿さま抜きで桂藩となり、西郷藩みたいな薩州と、黒幕の岩倉や大久保の指示で動いた。大村益次郎は呆れ返った。 「新撰組が陣地にしたから大半が焼けとる」とご親兵士官にするために、伏見奉行所で各藩よりの徴兵教育をいいつけられた大村はくさっていた。当人としては桂小五郎がもうちょっと良い役をつけてくれても可といった不満はあった。 しかし5月に入ると桂から、トウケイと改名された江戸へと急使がきた。なんだろうと単身品川へゆけば、「上野の山に浮浪がたてこもっとる。おまさんが退治するようとの桂さんの意でごわす」と迎えにきていた者から突然もち出された。小男の大村益次郎は肉体的に圧迫感を催おすのか西郷をさけていた。話もせずだった。 西郷は金持ち息子の相楽総三に人集めさせて御用盗に使い・・・薩摩屋敷焼討ちの際の生き残りは東山道軍の尖兵にし、信州で旧悪発覚と皆殺した冷酷無惨な男と怖れていたのだ。 「いくら、勝海舟が芸妓だった女房の前の旦那から借りた金で、安くに旗本屋敷をみな買い叩いているから総攻撃はせんでくれと頼んできとっても、一戦もせんでは不可でごわす」と西郷はわざと上野に旧幕臣共をあつめさせ、「ゴミば溜まったら焼く」と戦線布告した。 西郷一人にやらせたら後で長州の立場がのうなると桂は京から大村を至急よばせた。死んだ高杉同様に西郷嫌いの大村益次郎は「ハヤト国独立の手伝いなど・・・・」と嫌がるので桂が西郷と交渉し彼を司令官にした。それでも大村はむっつりし不愛想だった。 雨の中でワラジがけで出陣する西郷を見送ろうともせず、大村は江戸城の中にいて「薩摩苦戦・・・」と伝わってくるとニヤリとし、「鍋島のアームストロング砲ばうたせえ」と命令し一瞬にして上野を焼野原にした。 西郷の面目を丸潰れにしてしまった。「東北の総司令も長州側となった」と桂は喜び大村益次郎の手を握りしめた。西郷は面白くない。そこで、有村俊斉こと海江田信義はやがて京三条小路の大村益次郎を襲撃させた。下手人共が粟田口刑場で斬られる寸前、「弾正台より御命令だ」と彼らを逃がしたのだ。 大村暗殺の一月前の明治二年六月に二千石。ついで西郷は功により正三位。四年には、政府参議翌年七月には薩軍元帥近衛都督に昇進。 ★ ★ ★ この話から戦国時代の権力闘争と中身は変わっていないことがわかる。戦国時代には信長の部落解放と秀吉のイエズス会による人身売買禁止など少なからず民衆に自由な面も与えられたが、自身も部落出身の家康により中途半端な身分制度に改められ、幕末に権力闘争から独立国を誘発する顛末となった。 明治以来の四民平等は形だけで、長州を公家の中心とし、薩摩を裏切り長州についた薩摩閥を武士として、中世以来の精神を引き継いでいるようにみえる。中世以前の公家は唐からきた藤原氏で、藤原氏が雇った百済の傭兵が武士である。 元々藤原氏は仏教徒で、先兵が坊主と呼ばれたことがわかれば、仏教徒により日本史は書き換えられてきたのである。だから、なんでも英雄は仏教徒になっている。次回に続く。
2015年04月14日
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紹介している西郷さんの話もどこまで本当だかわからない。しかし、従来の正史にも描かれている英雄とされた西郷とは少なくとも普通の人間のように描かれている。 現在では超能力は疑問視するのに、歴史のなかの英雄やその働きを疑問視する者は少ない。例えば、重い兜をつけ、馬に乗って刀や槍を振り回して戦う、また重い刀を振り回してチャンバラするなどは、現在でも困難なのに、戦国時代だと容易にできてしまったり、幕末の剣豪になると一人で数人を相手にできたりしてしまう。まさに偶像崇拝のなせる業である。 日本史の人物像を科学的に再検討すべきだろう。というわけで話を続ける。 ★ ★ ★ 四月になって意外な知らせが入ってきた。 「若いとき胸を病み薬食いに牛のソープを服用の水戸斉昭が、かねてより近江牛を賞味して那珂湊へ送って貰っては名産の梅漬を送っていたのが、不仲になってから送荷がない。そこで殿中で頭を下げ頼んだが断わられた」 「君恥しめられれば臣これに死すと、近習以下が桜田門外で斬りこみ、かねてよりの水戸の恨みをはらしたが・・・町人は深くは知らず、モウ御免と桜田門、牛肉騒動とみている」といった話であった下役人にはそれきりの風評。 だが、安政の大疑獄大検察のボスの死である。「よか、よか」とすっかり有頂天になった西郷は「・・・・立ったまま致すでごわすか」と、愛子がびっくりするくらい、抱きしめたままで狭い小屋の中をぐるぐる廻りして喜んだ。 「これで橋本や梅田、それに月照の霊も浮かばれもっそ」と純情な大男は踊って泣いた。 検察大ボスの井伊さえ死んだなら、すぐにも本土へ戻れようと西郷は考えた。正義の味方スーパーマンぶりに変身をした。島民に泣きつかれると代官所へのりこみ、「弱い者いじめするな」と入牢させられたのを鍵をとりあげて勝手に解放してのけたりした。 「けしからん越権行為である」と相良代官は真赤になって怒った。しかし代官手代は「西郷どんは戻れば、おいどんらより豪うなる、ここは辛抱さっしゃりませ」と意見した。 どうせ近く帰るのだからと取っておきの米も島民に配り西郷は帰心矢の如しだった。が、なかなか呼び戻しは来なかった。文久元年(1861)正月には、後に初代京都市長となる菊次郎が愛子から産まれた。西郷には35才になってようやくの始めての子だった。 「坊ずよか子じゃねんねさっせ」と大きな身体に赤ん坊をせおって浜であやしつづけた。「ああたがしょっちゅうお入れやんすから、また・・・・」と愛子が次の受胎を知らせたが、「よかよか35で初めての子、ついで二度目」と西郷は目を細くして喜び菊次郎をあやした。 西郷吉之助は、「又なされたら腹の中で双子になりますが」という愛子を下から抱えあげて愛撫した。扶持米月一石に増えていたから貧しい島では子守りが雇えた。 西郷は二度目の子を孕んだ愛子を潰さぬように上へ抱えあげては、「他にする事はないから・・・・」と持て余した精力の放出にあけくれ専念して暮した。が年の迫った12月に入って船がきた。「生まれて一年、坊は可愛いい盛りだし次のも腹へ手をやると動いとるのがわかる」と今でいうマイホーム主義みたいに西郷は心配していった。 「いくらお呼び戻しの使者がき申しても、すぐにはいけもっさん」と始めは首をふった。島での妻子は伴えぬ掟だったからである。「仕方ごわせん、子はちゃんと育てます」と愛加那に戻って愛子はきっとし口にした。 「そうは言うてもな・・・・」子故に迷った。使いの者は連日せっついたが、西郷は一日のばしにした。子供をあやし、愛子を昼も、夜もかかえこんで顔をくしゃくしゃにした。 しかし二月になると、もはや我侭は通せなくなった。かつては怒鳴りこみに行って勝手をした代官所へ、大きな体を縮め訪れると、「済まんが金や米は送りもっす、よろしゅうに残った者らをお頼み申すでごわす」と頭を下げ手をついて、くり返し何度も後事を頼んだ。 「どうしたか、ちっとも戻ってこんで待ちわびとったん」と後の大久保利通らが迎えにきて手をとり抱きついて喜んでくれた。「まる三年ぶりじゃな、大久保が久光さまの碁の相手に出仕し、ご気嫌をとって迎えの使者を出させたのだ」と有村が耳打ちをした。 「言うなれば吾らにとって仇でもあられる御方へ、おいどんば、助けんと節を売り・・・・」と西郷は大久保の友情の厚さに落涙した。しかし樺山はくすくす笑って低い声で、「大久保は抜け目がない、碁を習い上達した・・・のも久光さまへ己が為に近づく為なのだ」といった。 のち孫が丸紅の大久保専務になるだけあって策士の彼は、久光と碁をうちながら、「兵をひき上洛なされませ、京を押さえて天下・・に号令されては・・・」とあけくれ進言していた。 「鹿児島を江戸にするため、京までか・・・・」と久光も薩摩の独立心は強いから合点した。 「先発して下関で待機せよ」の命令で西郷は旅立ったが、諸国の浪士は真意がわからず、「島津さまは吾らの後詰に出陣して来るぞ」とはやりたって騒ぎだし京大阪に集結した。「放っておけん」と西郷は出かけた。久光は「わが命令にそむくとは・・・・」と激怒した。 文久二年(1862)四月十日大島から戻ってきて50日なのに徳之島へ流罪処分にされた。「妻子のいる大島へ」と願い出た処、さらに遠い沖永良部島へ八月には送られた。大島の時とは違い久光の憎しみをかっていたから、孤島なのに牢を作って入れられた。 「先祖代々にわたり知行をやって食わせている家来が、島津の為ではなく御所の為とは不届である」と久光は奈良原たちを寺田屋ヘさしむけ、家来の有馬新七ら九名を斬殺させた。 さすが大久保もぞっとし身震いを覚えた。が久光は「お小納戸頭取」と待従長にした。文久二年(1862)八月二十一日大原重徳卿と島津久光の行列が横浜生麦へ掛かった時、イギリス人四人が騎馬で横切った。供頭が斬った。 一人を殺し二人に怪我させた生麦事件である。徳川家では10万ポンドの詫び金を承知したが、久光は下手人の処刑と賠償金を拒絶。交渉に六月末イギリス艦隊は薩摩へきた。東郷平八郎15才山本権兵衛。 七月二日鹿児島湾内の三隻が奪われた為、「撃ってよか」と大久保は砲台を指揮した。薩英戦争は翌日も続き鹿児島は焼払われた。久光はへこたれず逆に家来を密航させた。あくまで九州を独立させんとする肚だった。 「姉小路公共卿によって征夷の勅をえた島津は、それを大義名分に征夷大将軍たらんとしている」と伝わると、長州では毛利慶親が「わしかて勅は貰っとる」とあせって出兵。 「先を越されてなるものか」と競合意識で、会津と共に薩摩は長州加坦七卿を追払った。 元治元年(1864)二月二日エラブユリの花さくサンゴ礁の沖永良部島へ、一年半ぶりで赦免船がきた。西郷は、鬼界が島へよらせ流罪中の村田新八をつれ出し大島へもよって愛子と一夜をすごし大きくなった菊次郎と、初めて見る娘の菊子へ頬ずりして涙を流した。 山川港から上陸すると京へ向かい3月18日に久光にお目通りすると、大久保が側にいて、「おいどんば殿さまと帰国す、後はよかに」とまるで命令するごとくに口にした。京に残った西郷は元治元年七月に蛤御門で長州軍と戦い吉田松陰の妹婿久坂玄瑞らを戦死させた。 将軍家茂が大阪城で病死。休戦となった。勝海舟が和平の密使とし安芸宮島へきた。長州側は広沢兵助や井上聞多が会見した。西郷は英国公使パークスやアーネスサトーの力をかり、英国式砲兵隊の軍隊に変えた。大久保は岩倉具視と共同謀議にあけくれた。 「征長軍総参謀」の肩書へ、かつての庭番の西郷吉之助は選ばれた。彼は村田新八や益満休之助といった連中を密偵に長州へ送った。戦わずに勝つ方法を西郷は仕掛けたのだ。長州は三家老に自決させ首級を届け降服。 「これでよか」西郷は作戦勝ちに満足した。「薩摩も独立の肚じゃ共に手を組まんと西郷さんば申しとるでごわす」とのちの黒田清隆は桂小五郎にあうと正面きって申しこんだ。長州も一国では心許ないから承諾をした。西郷は約束を守って弟二次征長軍への派兵は拒んだ。だからか20万の兵でも攻めあぐんだ。 久光の考えかどうか、家老小松帯刀より、「岩山八郎太の娘イトと祝言せい」と、慶応元年一月二十八日39才の西郷は新郎にされた。 「今度が三度の上の目か」と未体験のおごじょの嫁をいとおしむよう優しく扱かって、「おいどんの上へ跨がるがよか」といった。久しぶりに新婚気分を味わっているのに、「京へ来ちょくれ」と大久保がいってきた。 「長州が割拠というて独立ばすると、高杉とか桂らが騒いどる、また長州征伐だそうな」と物騒な知らせが入ってきた。 西郷はすぐ「おはん長州へ行け」と黒田了介をだした。その結果が、松平容保を親任されていた孝明帝の急死となった。少年の帝がたたれた。 (長州が囲っていた大室帝を立てるために伊藤博文が孝明帝を暗殺したという話がある。) 「今でごわす。出京して九州独立のため、京坂を国境にして長州に守らせたらよかでごわそ」と大久保に言われた通りを久光へ報告した。「念願のハヤト国か」と島津は開戦をきめた。なのに坂本竜馬(? 恐らく勝海舟)の進言で、土佐山内容堂が、徳川慶喜に大政奉還させてしまった。 「不埒なやつだ、殺したれ!」と大久保は怒り、西郷には内緒で刺客をむける算段をさせた。が、和平気分が京の御所を支配しだした。「弱りもうした」と西郷も首をひねってしまった。 「長州へ落ちのび今では九州大宰府の三条卿以下の復位。正式に岩倉具視の処分解除」そして、その日新帝の母方の中山忠能卿は、土佐の陸援隊へ高野山を占拠するため出動させて、御三家の紀州藩の牽制をさせていた。薩摩の大久保から、「御玉音で、勅許がおりた」と発表された。 だからして大村益次郎のごとき単細胞は「・・・・まったく訳が分らん。御国(長州)はどないになるんじゃろ」と眉をいかめ考えた。 12月9日。徹夜の会議がすんで徳川慶喜が退出した後、岩倉具視が参内して、はっきりと「王政復古」を奏請した。帝はまだ幼少。朝までは和平会議だったが、恐い顔をした岩倉具視に奏上されると脅えたように、「あッ、そう」とだけ言われたという。 大阪から御所へ参内した徳川慶喜はなんとかして平和的にと会議している間に、薩摩の大久保と岩倉がどんどん戦争の用意をした。「まるで平行線じゃ。どうなるんじゃろうな」と大村益次郎も双方の情報をきき迷っていた。 しかし岩倉と大久保は三井に命じて銀の有るだけを出させ、土佐だけでなく安芸の広島から尾張、越前といったインフレで困惑している雄藩に、みな金のクツワをかませた。 よく義理と人情をハカリでかけりゃ、義理が重たい男の世界と唄にまでされている。が義理とは困った時に金を貰ったり、その金で助かることである。人情とは単なる感情である。つまり感情より勘定の方が重い、というのである。雄藩連合が三井の銀で成功した。 小栗上野介の信任を得て弾左ヱ門家や徳川家の一切合財を押さえていた三野村利左ヱ門を迎えて番頭にした三井は、その金を逆に岩倉へ廻し討幕資金にし鴻池を蹴落した。それも現銀でなく為替紙を発行してあてた。 (三井の元は越後屋なんで、TV番組の水戸黄門の越後屋の悪党のイメージの原形はこの話にあるのかもしれない。徳川家のカネを討幕に廻したわけだから、裏切り者である。) ★ ★ ★ 現代の話でも面白おかしくするために話が盛ってある。次回に続く。
2015年04月14日
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大道廃れて仁義あり、とは老子の一説だが、世の中が乱れてくると英雄論が何かと持ち出されるが、そもそも英雄などは後世でつくられた虚像なんであり、それはTVタレントの日常生活をみればわかることである。 フーテンの寅さん演じる渥美清の日常生活に寅さんを求めるのは、視聴者の野暮な願望で、映像による洗脳の恐ろしさを物語る。水戸黄門のモデルとなった光圀の実像を語ったら、TVの水戸黄門がホンモノだといって譲らない老人もいたそうである。 笑い話になればいいが、そのような洗脳が宗教がかってくると精神的になにかとおかしくなってくる。振り込め詐欺もこのような洗脳を基に恐怖感を植え付けることで成り立っている面もある。 日本史のほとんどにそのような話が盛り沢山なのに少しでも気づけば洗脳は回避できる。 そういうわけで、英雄といわれた龍馬のほとんどが創作で、また乃木大将もあまりに酷いので元帥になれなかった普通の軍人で、その前の軍神とされた西郷も、ほとんどが虚像であることを続けて紹介する。 ★ ★ ★ 薩摩では、伊集院から嫁にきた俊は、西郷から近く戻るとの手紙で帰りを待っていた。しかし殿さまに問い詰められ反対されて、戻ってこられずになったとは知らないから、「私の事を嫌っていなさったからじゃろう」と親元へ戻って怨みごとをいってきた。 「あの軽石め、何を怒っちょる」と西郷は藤田東湖の死で胸も頭も一杯で放っておいた。だから、俊は返事もこないのに、ますます立腹したらしい。自分では書いてよこせぬから実父から江戸へ離縁を求めてきた。西郷も、「仕方ごわせん」とあっさり承諾をなした。 「次の将軍家には水戸の一橋慶喜をたてるよう画策せい」と、呼びつけられ命じられた。殿さまの鶴の一声である。庭番としては、「かしこまってごわす」とすぐ行動開始。しかし77万石でも薩摩は外様大名である。 「・・・・困りもうした大奥では反対でごわす」と西郷は頭を抱えて困っていると樺山が、「慶喜公は格別どうという事はないが父君斉昭公が、大奥へ入りこんでは女中の尻まくりなどやられたのがたたっている」と教えた。「水戸は吝だ、金のせいだ」と有村はいった。 (斉昭が征夷大将軍になる運動のために、水戸黄門を流行らしたらしいが、大奥に見透かされ反対されて、息子の慶喜ということになったようだが、それも反対されたようである。) 「なんと申しましても難しゅうて・・・・」 「うん、島津一族の安芸の娘篤子を近衛家養女にし大奥へ嫁がせ、薩摩の力で大奥の反対派は押さえるつもりだ。なら巧くゆこう」といわれ、「はあッ恐れ入りもうす」と西郷吉之助は手の内を洩らしてくれる殿様に、ただ感激しきった。 安政四年四月、すべて実行に移して島津家の行列は西へ向かい京へよった。西郷は「梁川星厳、頼三樹三郎、月照」といった世の噂にのぼる人々を・・・庭番の役目として逢いにゆき接近し彼らの実状を見たまま殿ヘ、「意見書」の形式で、報告する仕事をした。 5月24日に西郷吉之助が薩摩について間もなく、慶喜派の老中阿部正弘が39才で急死。こうなると大奥へ入った篤子の力で、どうもなるものではなかった。そこで西郷をよび、「この侭ではどうにもならぬ。身分は、庭方でも余の代理のつもりで江戸へ行け」と命令。 「かしこまって・・・・」と11月1日に出発し、12月6日に江戸へつくと東湖は死んでいないから、西郷はやむなく橋本左内の許へ行った。「とても江戸では手も足も出せぬ。京へ行って次の将軍は慶喜を、といった勅を貰う」と橋本左内はずばり思いきって打ちあけた。しかし二人はつれだって京へきたが直接に動いては人目につく。 そこで清水寺へゆき、「月照和尚おまえさまなら坊さまゆえ・・・・」と近衛家の連絡係とし勅命を乞わせた。もちろん握りきん玉ではない。三万両今でいえば三十億の現ナマがワイロに使われた。「日米条約のご聴許との交換に」と老中堀田正睦も、黒いピーナッツを貰って承諾をした。 しかし反対派の井伊の家来の長野主膳が、当時のロッキード事件の核心をつかんだ。圧力に脅かされて貰った金を返して寝返りをうつ者が、あいついで出てきてしまった。彦根の井伊はそれを手柄に紀伊の家茂派を統合し大老職になった。 「かくなる上は武力をもってしても・・・・」と、島津斉彬は覚悟をつけたが一藩だけではと、「これ西郷、そちは余の親類の筑前と山内容堂の土佐に味方するよう話しをつけてまいれ」と御沙汰。 島津斉彬にしてみれば、先祖伝来からの、「九州独立」の悲願のため、お由良の孫を世子にしてまで藩内統一を計ってきたのだ。 「なんとしてでも一戦に勝ち余の意中の者を将軍につけ、ゆくゆくは鹿児島を江戸に!」との意気ごみで出陣の仕度をふれさせた。 処がである。6月19日に、井伊大老は先制攻撃にでて、京で三万両がばらかれた時に格公卿に仲立ちした髪結や商人を一斉検挙した。そして下から証拠固めをし水戸京屋敷鵜飼父子から誰彼の容赦なく六角の獄へ下した。密勅よりも贈収賄罪として大疑獄にした。 京では宮様か公卿を江戸では御三家の水戸や、尾張や越前松平慶永まで謹慎処分にし、「ものはついで・・・とかくの噂のある輩は何処の家臣でもみな捕えい」と戒厳令をしいた。 橋本左内、梅田雲浜、頼三樹三郎、長州から吉田松陰まで護送させてきたのである。「後で悔いを残すな」と井伊大老は、片っ端しから虐殺みたいに、どんどん斬らせた。 「こりゃいかん和尚・・・おいどんと逃げもっそ」と、清水寺の月照の身を案じた西郷は、「殿の命令でした事ゆえ助けて貰えもうす。薩摩へ行くがよかでごわす」とせかした。 「・・・・えっ殿さまが御自身で藩兵調練指揮さなさり倒れたのでごわすか」と西郷は驚いた。 「二人とも江戸表より手配されていもうす」と斉彬が急死したので藩の役人は態度一変。たわらやとよぶ宿へ軟禁され見張りがつき、11月15日になると月照死刑が伝わってきた。 月照の身を案じ京からそっとついてきた平野国臣が船を見つけて、「これに早く、おのり下さい」とのせた。「ここらには小さな島が多うごわす。身を匿すには何よりでよか」と西郷は元気をつけた。「和尚さん海ば逃げもっそ」と西郷はそっと宿の裏手から逃げた。京からの月照や平野国臣は知らないが、殿が亡くなった今は、お由良派の天下と、西郷はもう逃げる行先のないのを知っていた。 だから沖合いまで舟が漕ぎでると月照へ、「おいどんは、おはんだけは死なせはしたかごわせん・・・・」と泣き声で耳許へささやいた。「・・・・えっ」月照が振りむいた処を西郷は、「ごめん」と抱えるように共へ海へ転げた。 ザブンと大きな水柱がたって二人とも海原へ、まっ逆さまに落ちていった。平野は、「大変だ・・・・誰か来てくれ」と動揺して、近くにみえる漁舟へ大声だして救援を求めた。浮かんできた処を引き上げられると、大男の西郷は水だけ吐くと蘇生した。しかし月照はいくら手当てをしても息はもどらなかった。 「生き返られては始末に困る。食いぶちに年六石を送ってやるから奄美大島へ行き、名前も、変えて暮せ」と西郷は厄介払いとなった。「菊池源吾」と名を与えられ、安政六年一月に、砂糖舟で島送りとなって一年がすぎた。島流しみたいな味気のない日々をすごし、「殿さま」手を合わせて亡き斉彬をしのび、「先生・・・・」と藤田東湖へよびかけたり、「橋本左内、梅田雲浜」と名を口にした。 「ハァ島で育てば娘16恋ごころ・・・・」と仁王立ちして海を見つめている側へよってくる娘がいた。しかし33才の男ざかりではあるし、他には、何も身を打ちこむ事もない身なので、「ここんとこばうちこみもっそ・・・・」と下半身に気合をこめ汐風の中で猛りたった。 「あんご」と呼ぶのが奄美大島のおごじょがなる島妻である。愛加那にしても、本島からきて何もせんでも米の仕送りのある男は魅力だったのだろう。じっと抱かれたままで「わがものと思えば軽し大男」と、小柄な娘はこらえ、決して重いとはいわずだった。 浜木綿の咲く丘で愛加那を抱えていると、「大きな牛のごとあるでごわそ」と、身体全体か、それとも部分的をさすのか、漁師の子らが屈みこんでは指さしてはやしにきた。いくら開放的な島でも、これでは困る。やむなく愛子と名をかえ己が小屋へつれこんだ。 「なんにもやることがなか・・・・」と日夜わかたず抱いていたが、気の優しい大男は「重かでごわしょう」と時には自分が下になって愛子を上にした。芭蕉葉の小屋だから、「まる見えだ、こま廻しみたいでごわそ」子供たちが面白がってよく覗きにきた。 ★ ★ ★ 次回に続く。
2015年04月14日
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最近の日本をみていると、どうも北朝鮮化しているようで恐ろしい。では前回の続き。 ★ ★ ★ 「イモくってプウー・・・・西郷どん臭うごわす」 「はぁ気いばつけます」と小さくなるのへ「郡方の勤めは百姓からの年貢どりだ。ちょっと巧くやればイモでのうて米の飯くえるぞ」と同輩から言われても、西郷は首をふって、「百姓はそう苛められん」と断った。 この年は12月から弘化と変わるが、シーボルト事件から17年たち、大塩平八郎の乱から8年たっているが飢饉が続き、薩摩も冷害。 三年前からの天保の改革も失敗し老中水野は引退、阿部正弘が変わったが、やはり寒冷は続き百姓は年貢分さえ収穫できずだった。「・・・・ひもじか」と吉之助は唸った。子供のときには大食だったというが、次々と弟妹が生まれ前年には後の西郷従道となる信吾さえ生まれ、「弁当がこないな小っぽけな芋一つでは」と情けそうに腹をなぜたが、だからといって役得みたいに百姓家で飯も要求しかねた。 「なにも正義漢ぶっとるじゃなか。おいどんは気がこもうて百姓によう言えんのじゃ」と見かねてヒエ飯を碗にもってきた百姓娘に吉之助は、大きな身体を小さくしていった。「飯がいらにや、こっちがよかごわすか」と娘は他の役人と同じかと前をまくった。 「いけもっさん、腹が減っては戦はできんでごわす」とせっかくの馳走だが首をふった。そういう事をすると子供ができて、ますます食糧の事情が悪くなると本能的に拒んだ。「上の口も下の口もことわらっしゃるのは、たんと年貢かける気か」と娘は泣きかけた。 「うん、困ったな」と吉之助もとまどった。「ひえ飯を振舞うて貰っては後が困ろうな、では使うてもへらぬ方・・・・」と掛かったが、「・・・重い、おし潰されもっそ」とかぼそい娘は西郷の巨軆の下で悲鳴をあげた。そこで、「やっぱりやめもっそ」とすたこら逃げた。 しかし娘を安心させる為とはいえ恰好だけでもなした事は、後悔。自己嫌悪におちた。「淋しさに負けた、貧しさに負けた・・・・おいどんの身体の重さに負けたんじゃなかぞな」 次の見廻りのとき西郷はやさしく、娘の家の年貢を出せる範囲にまけてやった。 「嘉永二年三月に江戸大火で伝馬町大牢がとき放しのままで高野長英が行方不明」と、まさか薩摩まで逃げてはくるまいに、郡方へ手配書が廻ってきた。西郷は高野など知らぬ。 しかし禁止のオランダ学者だと教わると、「世の中が変だ」と想うようになった。が、薩摩も大変なことになった。殿の斉興には正妻の子の斉彬と、江戸の舟宿の娘お由良の産んだ久光がいた。跡目をどちらにするかで藩内は二分して対立していた。西郷は、「父が厄介になっている赤山さまが斉彬さま側ゆえ、おいどんも」と自分の立場をきめた。 「まさか殿のお子を刃にかける事はできぬ」と久光が早死にするよう祈とうしたのが発覚。 西郷家が出入りの赤山ら十四名へ切腹。遠島が九名閉門も十四名と大弾圧があった。「高崎くづれ」と呼ばれ大久保の父も遠島。伜の後の大久保利通も謹慎を命じられた。 「わしもすんでのとこ引っ掛かる処だった」と父吉兵衛は青くなったが吉之助はすぐに、「親じどんの名代で」と赤山邸へ行った。「よかよか」と丁度いま切腹しかける処だったが、「まあ、よく見ちょれ」と腹へ突き刺した。が直ぐ死ねるものではないとのたうった。 「あんな立派な方でも切腹では巧く死ねぬ」と24才の西郷吉之助は妙な悟りをひらいた。翌嘉永四年二月斉彬が43歳で当主になった。「鬼界が島へ流された大久保の父も許されて戻ってくる」と、当てにしていたが何の沙汰もない。どうなっとると吉之助は考えてしまった。 「久光さまの母御とはいえ、かつては今の殿を亡き者にせんとしたゆえ、奸婦お由良の方は御成敗あってしかるべきではないか」と後の海江田になる有村俊斉は激昂し、「今なら叩っ斬っても罪にはなりもっさん」とまで口にしたが、皆が諫めて止めさせた。 ようやく藩主になった斉彬にしてみれば、「家来が二派に分かれ、跡目争いの煩わしさは、もう沢山だ」と、静観していたきりだ。しかし西郷らは張り合いぬけしクサった。男は熱中して打ちこむ当てがなくなれば、「代わりに・・・・」と女をほしくなるものだ。 「どうも、あれはおかしい年頃のせいかも」と父吉兵衛は気をきかして伊集院の俊子を「うちの嫁にと・・・・」貰いうける事にした。 かぼそい娘だと重いといわれるかと案じ、「おいどはでかごわすか?」と西郷は前もって、器量よりも娘の体の尻を気にし尋ねた。 「ずんぐり胴ばしとる。あれなら飯くわんでも痩せはせん、経済的な、嫁ごじょでごわそ」と子沢山で食わせるのに苦労している父は、俊子のことを賞めた。それゆえ吉之助も、「なら、よかでごわしょ」と逢ってもない娘だが、女なら誰でもと親の言いなりにした。 余裕はなくとも嫁とリとなればイモ焼酎で宴をもうける。大久保や有村もきて酔った。西郷も花嫁はそのままで仲間と騒いだ。やがておひらきとなった。が、気の優しい彼は、 「よかでごわしょか? 重たうなかか?」とそればっかりを気にして嫁をいたわった。 「天は二物を与えたまわずとは、この事か」 次の日の朝、初めて嫁の顔をみて唸った。西郷の巨躯を浮かせ盤石のごとく頑張り、「重い・・・・」と悲鳴をあげぬのは良いが、アバタだらけの面相は桜島の噴火で海面にブカブカしている軽石みたいな風情だったからだ。 「おごじょは顔ではなか心さえ美しけりゃ、それで良かでごわそ」とあまりのブスに西郷が顔を尖らせるのへ父親は意見してきた。「ものは買う時には先によく見ろというが、嫁とりするときも下ばかり覗かんと、上の方も、よく検分してからにすれば」と悔いた。 「・・・・後悔は先にたたず、というが、どうも軽石を抱くと変な気分になるんでいけ申さん」とせっかく嫁とりをしたのだから、早く帰宅ばしろと言われても西郷は戻りたがらずに、「御用繁多でごわそ」と郡代詰所に夜遅くまで居残りし帳面を見ている事が多くなった。 初めは時間つぶしの恰好で古帳面をめくっていたのだが、どうも帳尻が変だった。ためしに算盤を入れてみると計算が合わぬ。片っ端から調べてみれば呆れるばかり。 「これでは百姓も無茶に取られて困ろうが、御国の方も大損をしている」と発憤した。 「殿さまへ、かかる不正がまかり通っていますと上申書をかこう」と軽石の妻の顔をみたくない一心から意見書がきを始めだした。「・・・・あなたさま」と嫁が声をかけて来ても、「わしは役所では出来ぬ仕事を家へもち戻ってしとるんでごわすぞ」と寄せつけずだった。 はたして殿のお目にとまるかどうかと吉之助は余り当てにしていなかったけれど、「来る参勤交替には供の数に入れる」と、郡方の書役へは破格の通達がきた。父吉兵衛は、「なんでじゃ」と不審がった。が当人は喜び、「わしの殿は読まれたのだ」と感激した。 安政元年(1854)一月十六日、南国薩摩を後にし行列の江戸到着は三月六日だった。 「中小姓」の身分に郡方書役から昇進した吉之助は、嫁の軽石顔を、みずにすむだけでも有難いと生れて初めての高輪藩邸へ入った。「やるぞ・・・・」とすっかり当人は張りきった。 「庭番を命ずる」と沙汰されたのには驚き、「・・・・・えッ」と吉之助は聞き返した。なにしろ中小姓役で恰好よく出府したからである。「お庭番と申せば公儀でも伊賀者の賤役とされているが、殿はこまめに書いて差出す其方を見込まれたのだ」と上役からいわれた。 軽石の妻が厭やで連日のごとく書いて出した意見書で、西郷は江戸へ来られたのだ。 「そうでごわすか・・・・」と確かにこまめに意見書はかいて出している。だから庭へ出られた時の殿の側へゆき、命令をされた通り探索し詳細報告書でだす役にされたのかと唸った。 「まあ加冶屋町の者の身分では庭番であれ、殿に直接にお目もじができ御言葉を賜れるのは、実質的には将来の為によかごわす」と樺山三円のちの資之が慰めるより励ました。 「そういうもんで・・・・」と先輩の言う事ゆえ、西郷吉之助も渋面を作ったが承知をした。己れの郡方役所の不正をあばいた内容よりも、丹念に書いて出したレポートの書きぶりだけが認められたのではスッキリしなかった。 なのに殿から与えられた最初の仕事は、「水戸の藤田東湖や、前の橋本左内について知りたい。詳しく調べい」との任務だった。 「行ってあうがよかでごわすが、一人では」と人見知りする西郷に樺山が付き添った。東湖の父は古着屋の小僧だったのを、水戸の斉昭が拾い士分に取り立てたと聞いていたが、「庭番として御奉公か。大きいですぐ見つかりますな」と身分を軽蔑せず優しくいった。 身分をいやしまれるのでは・・・・と、大きな身体を縮めていた吉之助も酒を出されて、「まあ一緒にやりましょう」とすすめられて、「ハァっ」と受けている内に気がなごんだ。 「君のような純情な青年はよい」といわれて、「おいどんも先生が好きです」と口に出した。 一度あったきりにすぎなかったが三日がかりで、藤田東湖こそ天下一等の人物なり、と西郷は殿への報告書には賞めちぎった。しかし橋本左内のような才子肌とは西郷は合わなかったらしい。軽薄である。医の出ゆえ東光派の賤しい者と始めはこき下ろした。 「越前の松平春獄と提携する」と殿がいい、やむなく西郷は橋本左内と会合が多くなり、「彼は当代まれにみる英才」と後には賞めるようになるが、当初は、橋本も西郷の事を「大男総みに知恵が廻りかねる愚直者」と帰った後で妻に話した程でかっていなかった。 七月に入ると殿が急病、世子の虎寿丸も病気になった。幸い大人の方は助かったが、六才の若君は亡くなった。そこで西郷らは集まり、「お由良の方が殿父子を一緒に呪いにかけたのでごすぞ」と、国許へ使いを飛ばせた。 「奸女斬るべし」と暇をと殿へ願いでた。そして殿はすぐ、「由良の子の久光の忠義を、虎寿の代わりに世子にする」と争いを防ぐために宣言した。 「・・・・何しに薩摩へ行くか」と聞かれた。正直者の吉之助は問い詰められて答えた。「由良を斬って虎寿が生き返るか」と、単細胞めがと叱りつけられた。 安政二年(1855)十月二日、東海大地震。大きな西郷吉之助が庭の泉水へドブーンと落ち、大きな水しぶきをあげ大騒ぎした。高輪の藩邸も傾き三田へ新築となった。江戸の大半がぺしゃんこに潰れてしまった。 大地震で薩摩屋敷でも20名も圧死がでた。「えッ先生が・・・・」と樺山三円にきき西郷が濡れたまま水戸上屋敷のあった今の後楽園球場(東京ドーム)までゆくと惨状はここも同じであった。 「東湖先生は母者を助けようとして代わりに、ご自身が天井の棟木の下敷きになられた」と聞いて西郷はワァワァ泣きに泣き通した。 「遠山の金さんこと前町奉行の左衛門尉も、やはり棟木につぶされ山内家出入りの相政が駈けつけ助け出していたが圧死していた」と色々と話しが聞こえてきたが、西郷吉之助は「東湖先生に死なれては、わしも死にたい」と猛り狂うように引きこもり泣き喚いた。 ★ ★ ★ 次回に続く。
2015年04月09日
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前回の続き。乃木希典の脱英雄像の話の続きである。 ★ ★ ★ <<切腹美化の真相>> 大正元年九月十五日付「国民新聞」一面にでかでかと写真入りで、「世上の誤伝風評は真実ならず、一作十三日午後八時に割腹殉死された乃木将軍の最期に関し、所轄東京赤坂警察署本堂署長談」の大見出しがつけられ、 「精神に異常をきたされての偶発的椿事とか他殺の流言もあるも、立ち会った自分は、偉人の最期が武士道的模範的割腹であって、立派な殉死であったことを証明します。西洋間だった二階の居室を室内から施錠してあったので、異様な呻きを聞きつけた下女たちが、女の手で厚いドアが開けられぬ為に、あわてて戸外に飛び出し喚いたゆえ詰まらぬ風評がたったのである」 と、断ってから、芝居の忠臣蔵に出てくる切腹作法そっくりその儘が、まるで実地に見てきたごとく続けて述べられている。そして殉死の起因は、明治十年四月の植木坂で西郷軍に連隊旗を奪われたが、山県参謀が不問にした。だがその責任に悩み自決を覚悟して長年に渡り堪えていたが、明治大帝の御葬列の死出のお供をするための潔い覚悟の割腹となったのである。 と結んである。 (当時の巷の雰囲気は、いまどき殉死なんて時代遅れもいいとこでシラケ気味だったそうである。なかには小馬鹿にする者もいたという。) 勿論軍神としての名誉を守るために、長州閥が死後二日経ってからなのに、赤坂署長に記者会見させ公式記事としたのだろう。が、明治の世でも新聞記事は一般に盲目的な信用がある。 「軍人はおかみから授けられた軍旗は、一死をもって守らねばならぬ」 といった不文律や、それまで割腹というのは、斬首、縛り首などの処刑の一手段にすぎなかったのが、新聞紙上で「武士道の華」と賛美されたために、それからというものここに、日本人の精神構造に、切腹という死に方が、非常に偉大な評価を受けるようになってなってしまったのである。 (幕末以前に、切腹はなかったようである。切腹という言葉はあったが斬首らしい。つまり、現代人が考える切腹ではない。謝罪の土下座がなかったのと同じである。) しかし芥川龍之介の単篇や林房雄初期の作品「絵のない絵本」には遠慮しく書かれて居るが、昭和四十一年十月号の”文芸首都”には福岡徹が「愚將軍神論」を書き、四十二年六月号の”別冊文春”には、旅順攻撃の無為無策を暴露した「要塞」が発表されたし、 天中軒雲月の浪花節台本を書いていた松浦泉三郎の「明治芸談こぼれ話」には、 「お居間の中から静子夫人の誰か......と救いを呼ばれる声がするし、大将の苦しがって喚かれる叫びがしても、厚いケヤキの六分板の頑丈な戸板の次ぎに樫の板戸。それに中から桟が落ちていて押せども叩けど駄目で、近くの近衛第一連隊へ急を知らせたが、御大葬の儀仗兵に将校が皆出払っていて留守。 ようやく朝になって副官の将校達が来て、掛矢で順に戸板を壊し御居間に入った時には、出血多量でもう手遅れ。 取り乱されて、と言うより格闘したみたいな様子も見えたので、覚悟の御自害にしてはおかしい。賊が忍び込んで見つかり居直って御夫妻を害したのではないかと、覗きに来た近所の者の口から広まり警察が来て盗難品の調べを何日もかけ多勢でやったようです」 と当時の裏話が聞き語りで書かれている。 幕末の長州は家中の侍の教育用に、江戸中期の明和四年に編纂された「御家誠」を安政二年に藩の儒臣中村清旭に判りやすく書き直させ、長州の国定教科書として藩校明倫館だけでなく、私学や私塾においても藩士子弟の教育用に使うことを義務づけた。 その中の初めの一章に、「毛利隆元公の御代にあっては、腹せを切れと言われ、否応いう家臣は一人もいなかった」の条項があり、松下村塾の吉田松陰さえも、「長州人は昔から常時、切腹の心構えで忠義に励んだものである」と明け暮れ真面目くさって講義をなし、そしておもむろに、 「いくら力任せに腹に刃を突き刺したにしても、介錯人が首をさっとはねてくれねば絶命できず、身体中の血が流れ出て悶え苦しまねばならぬものである。それ故卑怯未練な振舞いをして切腹の沙汰を受け、自分で生殺しみたいな辛い目にあうよりは、死中に活を求めるよう勇敢に敵に突きこめ。そうすれば死ぬのも一瞬の安楽死であり、突破すれば命拾いすることも有り得るのだ」 これは代々に渡って扶持を貰っている家臣は努力を尽くして毛利家のために努力すべきであるといった教訓だったが、吉田松陰はそれに中世の輪廻の思想を加味して、 「人間は一度死んでも、また七回までは生き返ってくるものだから、七生報国の精神を持て。わしは、その三倍ぐらい死んでもきっと蘇生してくるぞ」 と自分は、二十一回孟子と名乗った。 毛利家上層部は、切腹刑を課せられぬように死力を尽くして奉公しろと教育させる筈が、松下村塾だけでなく、私学校の塾でもみな、「腹の切り方」の作法の実習を生徒にさせ、若者達は死への悲壮感に酔わされての教育となった。 そこで松下村塾の玉木家に生まれ育った乃木大将も、幼時から腹切りの実習を見よう見まねで何度もしていたから、雀百まで踊り忘れずというか三つ子の魂は百までの格言通りに、介錯無しでは即死できぬ切腹なのに敢然とやってのけたのだろう。 そして死にざまによってその生涯の評価の決まる日本人の精神構造から、「自決し明治大帝お供をした乃木大将は、武人の亀鑑であり武士道の権化である」 とされ、軍神に相応しい最期であったと偉人として遇され、切腹も美化され乃木神社に祀られている。 長州の切腹教育は明治になって有終の美を飾ったことになる。だが、である。 安政二年に教科書を作った中村清旭は知らなかったらしいが、毛利元就からその子隆元までの間は、関ヶ原合戦で防長二州へ押し込められる前ゆえ、今の広島に当たる安芸にいて吉田城が殿様の居城であった。そしてそこの安芸弁で、「腹せ切る」というのは、腹から背へ突き通すように刃物を刺すことではなく、意味は「腹から背まですり切れるまで働く事」つまり他の地方では「身を粉にして働く」というのと同じ方言だったのである。 しかし尼子氏の領地だった防長二州へお国替えとなって山口の萩を本城にしてから二世紀も経つと、言葉が安芸の方言とは判らず文字通りに解釈してしまって、『大訓衍儀』の木版刷りとなして配布したのである。この怪我の功名というか、この切腹の勘違いが長州人を幕末になって勇猛にし、ついに明治の世にしてしまったのである。 となると、「武士道とは死ぬことと見つけたり」で教育しても効果があがらず、洋式武装を完備し、薩長も購入出来なかったアームストロング砲まで輸入しても駄目だった佐賀鍋島に比べれば大成功と言えようものである。 ★ ★ ★ というわけで、司馬史観と八切史観は、坂本龍馬については真逆だが、乃木希典についてはほぼ一致した見方をとっている。 さて、では日清日露の軍神とされた西郷はどうだろうか、といえば、司馬史観の「翔ぶが如く」では優柔不断で曖昧な得体の知れない虚像イメージが先行した人物像として描かれているが、八切史観では薩摩藩を独立国にしようとした人物としてはっきりと描かれている。 私見だが、八切史観の方が信憑性が高いように思われる。その理由は英雄でもなんでもない人間像が浮かびあがるからである。 以前も紹介したが、再度以下に紹介する。 ★ ★ ★ 花の西郷隆盛 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/saigou.htm 鹿児島ハラ郡西国分町の国分駅の西側に「隼人塚」の古墳の三基の石塔が今もある。南鮮から入ってきた仁徳王朝や、次に取って代った大陸藤原王朝の傭兵となったクダラ人によって討伐され、大量虐殺された薩摩隼人の霊が祟らぬようにとの閉じこめ塚である。 「大和民族は一つなり」と学校歴史は国家の目的のために皆働かせようと教育する。が薩摩人は被征服民族の隼人族である。だから西郷も「きっと、いつかは仇を・・・」と反骨の民族の血の流れをもち、文政10(1827)12月7日鹿児島下加治屋町で吉兵衛の長男に生まれる。 勘定方小頭西郷吉兵衛隆盛は大きな赤ん坊に小吉と名をつけた。家禄を先々代に手放して家計が苦しいから、あまり食わさぬようにとの命名かも知れぬ。しかしその親心を知らず「もっと食う」と、ヒエ飯なのに何杯もだベ、「肥満児」といわれるくらいに大きくなった。 「・・・みんな悩んで大きくなったというが、あれは食するだけで肉がついてしまうのか」と父吉兵衛は唸ったがそれでも琴、吉次郎、高、安、信吾、小兵衛と次々六人も作る気ではなかったろうが順に産ませた。家は狭いし夜具もない兄弟七人が一つ蒲団で寝て育った。 「イモばっかし食っちょるから、みんな屁こくから掛け蒲団が上へふっ飛ばされる」と小吉は長男だから夜中に起きては蒲団を直した。 「なんとかヒエやアワでよいから、臭い、屁のでぬような食物を皆にくわせもうそ・・・・」と幼い弟妹の寝姿みては鼻をつまんだ。 家計を助けるためには早くお役につかねばならん」と吉之助と改名した隆盛は18才で、郡方書役(補)助となり年四石となった。キロ三百円とみれば月給で二万円の薄給。それでも西郷家の暮らしはすこし楽になり、「しっかりやれよ」と父親は励ました。 加冶屋町は本来は鍛冶が集められていた土地柄。だから城からも離れ、軽輩者の長屋が並び、後の大久保利通の正助、海江田信義になる有村俊斎など同年輩でいた。のち大村益次郎を襲撃させ捕らわれた連中が、斬首になるのを放免した海江田である。 薩摩は隼人族の国で被征服民族となり、大宝律令から京へつれて行かれ門の脇に並ばされ、「ワンワン」と犬の鳴き声をさせられたり、油こしや竹細工をやらされていた汚辱の歴史が彼らにはある。だからして若者同士で「何んとかしちゃる」と喚きあっていた。 「島津は関ヶ原合戦で大敗したのを痛恨し、兵児とよばれる若者共は復仇を誓いあった」と通俗史では説くが関ヶ原で負けても、薩摩は領地も失ってはいない。憎悪は徳川家よりも日本全体である。だからナポレオン三世のパリー万国博覧会へも独立国として参加。〇に十を国旗としサツマリウキュウ国とし日本とは別個に産物を出品し、アルファベット順で日本代表より先に拝謁式をしている。 「九州独立」を進駐軍に求めた戦後の運動も笑い話ではなく、薩摩やクマソ熊本は日本に占領されただけだとの民族自立運動だった。 「自立の国になすには海外の新知識を入れ、おおいに国力を増やさねばならぬ」と島津重豪は琉球経由で海外より輸入に力を入れた。だから、さしも77万石の島津藩も金づまりになって、その孫の斉興の代には財政危機。領内から徹底に搾取するしかなくなった。 ★ ★ ★ 次回に続く。これまでの八切氏の話のなかで、司馬史観と共通なのは、西郷隆盛が、父の吉兵衛の名というところだけである。 大きく異なるのは、司馬史観では薩摩が明治維新でつくられた正史同様に、途中で反幕に変わったことになっているが、八切史観では、白村江の戦いから反大和、つまり反日だったことにある。現代の沖縄人の独立志向が、薩摩由来だとしたら因縁なのかもしれない。 つまり大久保の薩摩は長州の明治日本に取り込まれたが、西郷の薩摩は下野し、新政府に滅亡されられ、鹿児島として取り込まれたが、その反骨心だけは沖縄に伝播したといえる。
2015年04月09日
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この国の歴史が権力者により出鱈目で塗り固められてきたことを紹介してきたが、偉人のなかでも最たる出鱈目なのは「乃木希典」である。 司馬氏の小説が出鱈目と批判されているのは、「乃木希典」を無能と書いた「坂の上の雲」に対してのものが多いが、例えば、以前紹介した以下のような非難である。 ★ ★ ★ 司馬遼太郎の罪 http://forkn.jp/book/2880/page/9 彼の小説の舞台は戦国から幕末、明治の日清、日露戦争までに及ぶ。 当然、使用する史料は膨大な数にのぼる。とてもこれだけの多量の史料に詳細、正確な検討を加えることなど無理な話である。資料の原書にあたるなど不可能であろう。 勢い人の書いた小説や、珍説、俗説の類を取り入れることになる。小説であるから、正確さや真実よりも面白さを選ぶ。 そうして、物語としては面白い作品ができあがるが、これはあくまで話としては面白くはあっても事実ではない。 確かに、面白く、魅力のある小説が発表されること自体は大いに歓迎すべきことではある。 問題はその内容である。創作であり小説であるものを、何を勘違いしたものか自分の小説をあたかも歴史的事実であったかのような論評を加えている。 河井継之助はこうだ、坂本龍馬はああだと勝手な解説をいれる。これが、いわゆる司馬史観というものであり、後世、政治家や経済界、マスコミ関係者に多くの信奉者を出した。 問題なのは、この部分である。歴史上の人物をその結果から逆算し、推論して物語を組み立ている。おまけに、終戦後特有の自虐史観で評論を加える。 まるで自分が神様にでもなったつもりなのかと思わせるような断定的な語り口には、正直行って辟易させられたものだ。 坂の上の雲では、乃木希典をまるで戦術的能力のないボンクラとして描き、児玉源太郎を戦術の天才としてもちあげる。 坂本龍馬に至っては何をやらしても天才的能力を持ち、剣術は強く、女は身を挺してこの男に尽す。 ★ ★ ★ 一般的に司馬史観と、八切史観は正反対の性質をもつが、例えば、それは坂本龍馬(司馬氏は「龍」でなくて「竜」)について、司馬史観では上述のように英雄視された竜馬も、八切史観では、以前紹介したように、才谷梅太郎をモデルとしてほとんどが創作とされている。 しかし、龍馬については全く正反対で、他の人物についても多かれ少なかれ見解が全く異なるが、こと「乃木希典」については、この正反対の史観が一致しているのは、両者が口裏を合わせていたのでなければ、やはり信憑性が高いことを意味する。 そこで、「乃木希典」についての話を紹介する。 司馬氏は上述のように、戦術的能力のないボンクラと描いているが、八切氏も、以下のように一致して軍人としては無能者で、そのため戦意高揚の軍神に祀り上げられた奇妙な存在と切り捨てている。 ★ ★ ★ 聖将・乃木希典 皇国史観が一世を風靡した際、待っていたとばかり水戸人は、水戸光圀が弘道館で編纂に着手したと称する処の「大日本史」全十六巻をもって水戸学はこれなりとし、これらの著述こそ勤皇の先鞭だったと主張した。 それに対して長州人は、吉田松陰を持ち出してきて、松下村塾精神で対抗し、「乃木大将も松下村塾で学んだ一人である」と歴史家がこぞって宣伝したから乃木は軍神になる前に聖と言う呼称が出来た。つまり<聖將>と言われるのである。 確かに吉田松陰の伯父玉木文之進が、松陰の処刑後は松下村塾で教えており、その息子に当たる大将も乃木家へ養子に行くまでは塾で生まれ育ったのだから、学んだというより「生え抜き」である。だが大将は長州人にはあまり人気がないという。 しかしこれには訳がある。当時は江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、旧会津藩士の思案橋事件、ついで九州の秋月の乱から熊本の乱と、ひっきりなしに内乱が各地で起きていた。さて、早死にした高杉晋作と並んで、吉田松陰門下の三羽鴉と言われたのは、広沢兵助と前原一誠の二人である。 同じ長州人でも桂小五郎はコンプレックスというか、松陰門下の連中を毛嫌いして頭ごなしに、軽輩達なりとしていた。 だから桂は、鍋島のアームストロング砲で上野を焼き払った後で東北を征圧した大村益次郎を兵部大輔にしたものの、薩摩から陸海軍の統帥権は此方へと言われると、周防人を唆して襲わせた。が、薩摩の海江田信義が下手人達を六角の牢で処刑する直前に放免してしまった。 余りにカラクリが見えすぎ、大村の後任に直ちに薩摩人を直ぐともゆかず、とりあえず人望のある前原一誠をもってきて据えた。しかし大久保利通が早く入れ替えろと催促するので、桂は伊藤博文や井上馨をやり、「長州で奇兵隊が解散を拒み内乱を企てているから鎮撫に行って貰いたい」と、まことしやかに、君が行かねば収まらぬと嘘の情報で前原に兵部大輔をやめさせ、西下させた。 だが、広沢兵助が妾宅で暗殺され、前原も戻って直ぐ何者かに拳銃の乱射を受け襲われたので、「こりゃ桂小五郎の手下共が、我ら松下村塾出身者を目の敵にして始末しよるんじゃ。こうなりゃ二十一回猛子の故松陰先生の御意志を継ぎ、われらは決起すべきである」と国許では主張。 奥平謙輔が憤って塾の旧士族八十名を率い、殉国軍と名乗って山口県庁へ押しかけようとすると、前原一誠を総大将に玉木文之進の息子で当時の松下村塾で松陰の遺訓を教えていた玉木正誼が在校生百名を集めて第一大隊を結成した。 そこで薩摩の大久保利通の内命を受けた桂小五郎改め木戸孝允は、腹心三浦悟楼陸軍少将を討伐司令官に任命した。玉木正誼の実兄乃木少佐が小倉から先発隊長となって長州へ戻り、松下村塾出身の第二大隊と己が弟の第一大隊を萩で包囲して捕捉し、撃ち殺してしまった。 後に水戸学に対抗のため、松下村塾精神をおおいに謳歌させたのは、彼らを滅ぼした木戸だが、「聖將」「軍神」と明治軍部に追従するマスコミからおおいに讃えられても乃木に長州人が冷やかなのは、松下村塾の建物は残したが、実の弟をはじめ皆殺しにしたせいなのである。 (極悪人が桂小五郎なのだが、罪の意識故に改名して木戸孝允にしたのだろうか?) 軍人ゆえに命令には絶対服従とはいえ、肉親を撃ち殺した悩みは酷かったろう。四国丸亀の連隊にいた頃は、女郎屋に流連していて、そこから人力車で通って副官に諫められると、「人間の人格とはへそから上の話しである」と言い放った。 (乃木は長州の秘密を握っていたのだろう。) 有名な言葉だが聖將とか軍神に祭り上げられてしまってからは、読み人知らずではなく言い人知らずに今ではなっている。何しろ酔うと軍刀を直ぐ引き抜き暴れたのは、一般には隠されているが陸軍部内では知れ渡っていたことらしい。 今は東北と称せられる当時の満州公主嶺の料亭で、酒乱の中尉が芸者の生首を叩き斬って憲兵が来ると「軍神の真似をして何が悪いか」と道路へ出ても、なおも居丈高になって、血塗れの軍服姿で大声で喚いているのを実際に私(八切氏)は見ている。 (なんだか、漫画「はいからさんが通る」のインネン中佐のような人物が思い浮かぶ。) 乃木大将が有名になったのは二○三高地攻撃である。息子を二人まで戦死させたことを同情されて、あまり世間から非難されてないが、故福岡徹の考証によると乃木は前線から五里も遠ざかった司令部で、寛永三馬術などの講談本を読んでいただけで、酒浸りになり前線視察にもあまり出なかったという。 といって乃木大将が怠惰だとか臆病だったというのではない。 日本では黒色火薬の主要成分の硝石が鉱石として産出しないので、一発ずつ大事をとって小銃を撃つか、さもなければ弾薬を使わずに斬込み隊で突撃するなどの攻撃を繰り返しているのに、敵は機関銃を持っていて掃射をくり返し寄せ付けぬ戦況ゆえ、乃木大将としては策もなく匙を投げていたと見るのが正しかろう。 しかしハバロフスクの陳列館の二階への改段口に面した硝子戸棚の中に、当時使用された青銅製の機銃と、原爆にあった広島の被害者の山積み光景に似た日本兵の死骸の拡大写真が展示されていて、説明文は、「愚かなる敵司令官は我々の機銃の目印にする為か、わざわざ白布で胸部の位置を明確にした兵士を次々に送り込んできて全滅した」と大きく出ている。白襷隊の事である。 当時の葉書は一銭五厘だったが、いくら赤刷り召集令状で集めた兵を送り込んでも全滅するゆえ、全国的に召集令状が次々と乱発された。 二○三高地攻撃の乃木大将の方え廻されぬようにと、家族が「死線(四銭)を越えて」と当時の五銭玉を千人針の布に縫いつける習慣も始まったのである。しかし旅順をバルチック艦隊来航前に、何としても陥落させねばならぬ陸軍は、応召兵はみな片っ端から消耗の激しい乃木軍へやむなく投入した。だから五銭玉のついた千人針の白布で襷がけさせられた彼ら応召兵は屍体の山に突進、自分らも次々とその上積みの死骸になっていった。 よって参謀本部の児玉源太郎がたまりかね、「とても乃木には委せておけぬ」と密かに満州へ渡った頃、横浜の関門に露天の占師をしていた高島象山が、それまでの腰掛け式を止め「あいや御通行中の皆さん」と大道の真ん中に立ちはだかり、桜の太いステッキの先で地面に姓名を書き、集まってきた群衆に向かって、「お国のために出征なさっても、無事に凱旋なさる方もいれば武運つたなく戦死の方もいる。 運不運の分かれ道はこうして姓名の中央に線を引き、左右同じになるのは弾丸がさあっと通り抜けていって吉運。そうでない方はお気の毒だが改名せねば運が開けない」と、今日で言う姓名判断を字画で数える型を創始した。 溺れる者は藁をも掴むというが、夫や倅を生還させたい人々は争って行列を作って並んだ。江戸時代にはなかった姓名判断や高島易断の名が、明治三十八年から日本全国に広まったのは乃木大将のおかげなのである。 「庭にひともとナツメの樹、弾丸跡もなまなましい・・・」という、ステッセル将軍と乃木大将が水師営で会見した唱歌が、文部省の国定教科書にのせられ普及した。 司令部からあまり外へ出たがらなかった乃木大将が何故に水師営まで行ったかといえば、児玉源太郎によって解任され、司令部には児玉やその幕僚が入り、大口径要塞砲を陸揚げ、それによって小銃や斬り込み隊では突破出来なかった機関銃座を吹っ飛ばし、ついに陥落させてしまったからである。 が、乃木大将を内地へ戻せば、前代未聞の戦死者を出した原因が彼に有ったことになり、長州軍閥にとっては大変な結果になる。そこで無任所司令官のような恰好で乃木大将は残されていたから、暇つぶしに水師営の捕虜収容所へ行き、ステッセル将軍に会っただけの話しなのだろう。 山下奉文大将がパーシバル将軍に「イエスかノーか」と卓を叩いて凄んだのとは全く別個のものである。しかし唱歌では仁愛の大将が敵の大将を労ったように優しくなっているので、浪花節の辻占い売りの少年に優しくした乃木大将の話しが作られ、本当らしく広まったのである。 ★ ★ ★ 英雄の実体は単なるそこらへんにいる一人の人間にすぎなく、話が大きく盛られた虚像にすぎない。次回に続く。
2015年04月08日
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人間に人格があるように、国にも人格というか、国格みたいなものがある。それは歴史を通じてある程度明らかになる。しかし、前回紹介したように、この国の歴史は権力者による嘘で塗り固められてきた。 例えば、最近はなくなったが、一時期なんで嘘つき北朝鮮を拉致問題があるにしてもあまりにも大袈裟に報道するのかと不思議に思う人が多かったと思うが、嘘つき北朝鮮と報道することで、この国の嘘を隠すためだったと考えれば辻褄が合う。アホが統一教会というのもあるが…。 現にいまのアホ政権がやっていることは北朝鮮とほとんど変わりがないことに気づくはずである。軍事力増強や特権階級のための経済開放政策並びに偽国債発行による偽金つくりの量的金融緩和政策など、驚くほど北そのものといってよい。 もはやネットでは北朝鮮が米国戦争屋の傀儡政権であることは周知の事実となっているが、つまりこの国も似たような状況から米国戦争屋の傀儡政権であることが明らかになる。つまりアジアを混乱に陥れるための道具ということである。 この国の精神は戦争屋に乗っ取られてしまったようである。戦争屋を操るのは偽ユダヤで、その黒幕は信憑性は疑問だが、宇宙人の話から龍人、つまり蛇人ら悪魔たちであると予想できる。 さて、乗っ取りから目覚めるにはやはり歴史を再認識しなければいけない。そして、この国の国格を知らないといけない。そのために、続けて、現在語られている日本史がいかに出鱈目であるかの話を紹介する。 ★ ★ ★ 【異説桜田門】 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/meijiishin.htm これは私(八切氏)が「元治元年の全学連」の中でも引用しているが、また明治十八年の時点においても、時の伊藤博文内閣の松方大臣や東大の内藤博士までが、今日では「尊王攘夷の志士」として扱われている水戸の天狗党をもって、「流賊」「奸賊」とはっきり指摘した堂々たる石碑が、今も茨城県大子町の永源寺には現存している。 しかし、封建時代当時の「攘夷」という概念は、今日考えられているような挙国一致で外敵を追払うのではなく、江戸公儀の「征夷大将軍幕府」に代わって、「自分らの殿様を征夷大将軍にかえ、己が陪臣の身分から直参になりたい為の」家臣団のテーゼなのである。 下関で長州が四カ国の連合艦隊を向こうへまわし馬関戦争をした。鹿児島を焦土と化した薩摩の対英戦争もこれは「攘夷の実績」をつくって、己らの殿を征夷大将軍にする為の御奉公だったのである。 現に栃木の太平山神社が三光神社と謂われた頃、そこに立てこもった田丸稲之右衛門らは「水戸幕府」という六尺板の大看板を掲げていたし、明治の末まで別院に保管されていた事実がある。 つまり「尊王」と「攘夷」とは、全く異質の概念で、これは明治三十年代の三国干渉の時点からの「国民を戦争目的に駆り立てる軍部のスローガン」でしかなかった。つまり「夷」とは、その頃は露国であり昭和に入っては米英を指したのである。この事実を把握して「真実とは何か」を掴まないと労多くして功少なき結果になってしまう。 なお新撰組を解明するならば、弾左衛門家との関係を徹底的に探査し、元禄十一年の弾圧時代に遡らないと、この真相は捉えられないものである。 次に幕末藩主の双璧として仲の悪かった水戸斉昭と井伊大老の確執には珍しい史実がある。これは万延元年三月三日の桜田門外の変で、水戸の侍が井伊を暗殺した有名な事件だが、「天皇の勅許を待たずアメリカに開国し、安政の大獄をやったから、尊王尽忠の士が決起したのだ」と学校の先生は教えた。だからして「その真似をしよう」と五・一五や二・二六の暗殺流行時代さえも起きた程だが少し違う。 しかしかって、この時の一枚刷りの絵「文久元年刊の日本橋檜物町の正木屋版」のものを、浮世絵、版画の権威で当時名古屋中京商業教論だった尾崎久弥先生にそっと見せられた事がある。「喰いものの怨みおそろし、桜田門」と右上にあって、牛の頭が雪中に転がりでていて、「もう、ごめん」とそれに註がついていた。 「当時は相当に刷られて売られたらしいが、明治になって回収され、ことごとく焼却処分された」と先生は言った。そこで「何故ですか」と聞くと、桜田門の変は当時は牛肉騒動といったそうだ。 水戸斉昭のために、その軽輩の家臣が重代の報恩か、あるいは出世欲に取り付かれたかして襲撃したのだが、中に呑み友達として付合っていた薩摩の有村治左衛門がいた。後年、その同輩だった川路が警察権を握るにおよんで牛肉襲撃では、有村への贈位や遺族への扶助料も出ないところから、これを勤王事件にでっちあげ、反対の証拠品は警邏に命じて徹底的に押収処分にした。 (単なる食い物の怨み話が歴史的事件に大袈裟に話が盛られたわけである。) 水戸人は主立った人材を天狗党の乱で失い、新政府へ潜り込む余地もない状態だったから、勤王の美名の方が今となっては好都合とばかり同調して、結局、ああなったんだと教えてくれた。その時はまさかと思った。 だが、『明治四十五年三月刊非売品史籍雑纂第四巻』を最近読むと、その五百四十六項に、「水戸老公は近江牛を珍重されているのに、井伊直弼が彦根藩主になってからは<国中の牛の屠殺は中止した>と、これまでの習慣を破って送荷せず、老公が<何卒贈られたし>と懇願しても聞かず、やむなく老公は<是まで年々用いたる江州牛肉の味は格別なれば、我らのためにのみにても>と再三にわたって、自らも頼みこまれたが、断られ大いに恥をかき、不快に思召され悔しがられた」と、旧水戸藩士の手記が載っている。 こうなると、 「君辱められるや、臣これに死す」という士道のモラルが想起されてくる。この水戸斉昭の牛肉好きというのは、肺病を病んだ時に薬食いとして肉汁や煮焼きしたのが始まりらしいが、江州牛が入らなくなった後、各地の牛を沢山集めた。 しかし、当時のこと故農耕用のものなので、美味しくなくて放って置く内にこの牛が子を作って増えた。しかし昔の人はものを粗末にしない。この牛の大群を利用して種痘用のワクチンを作った。だから日本では水戸が早くて、ここの者は他藩のように痘痕相でなく、これが後に薩長土の顔中ぶつぶつの連中から嫌われ、その嫉妬から、水戸人は損をしたといった話も「波山記事追加」というのには出ている。 さて、井伊掃部頭という官名は世襲である。 これは侵略してきた仏教政権が原住民を蔑み、掃除人夫扱いした侮称の名残である。そして原住民は「今昔物語」の頃から餌取りとして扱われ、獣の皮を剥ぎ、肉を取る者とされていた。だから井伊が意地になったのは、水戸が有栖川家の登美宮を夫人に迎えていたせいもあるらしい。 何しろ井伊の祖先は、遠州井伊谷。この地は「熊野速玉神社文書」にあるような神社領で、これはれっきとした神の民である。「遠州文書」によれば、近江彦根初代城主の井伊直政は二歳の時にその父を討たれ、後、松下神社の社家にもあたる松下源太郎清景に引き取られ『武徳編年集成』によると、木下藤吉郎が初めに奉公した松下加兵衛之綱と、この源太郎は併記されているから源氏系の原住民として井伊も由緒正しい家柄である。 だから牛肉騒動は発端には違いないが、根本的にはやはり仏の民と神の民の正面衝突と見るべきだろう。では何故井伊がそんな強気を示したかというと、これはこの時点において「お蔭参り」が流行しだし、神の民の意気があがってきたせいもあろうと思推される。 従来の幕末史解明は勤王の志士をスター扱いにするか、さもなくば一部の諸藩主の行動を帰納的に演繹する方式、つまり個人のバイタリティーに依存する講談的論理しかなく、肝腎な民衆の行動を等閑視しているが、世界中何処へ行ったとて民衆の参加しない革命などあり得ない。 それゆえ幕末史の鍵を解くには、 「伊勢への無銭旅行のお蔭参り」と「各神社の守札を各地にばらまいて、神の民と自認していた原住民系の純日本人を扇動し、ええじゃないか騒動を惹起させた戦国期同様に、外来の仏教徒追放をスローガンにして結集させたエネルギー」 とを、もっと検討すべきではあるまいか。 【革命準備工作】 さて『田村栄太郎著作集』によれば、「天照大神の前身は、大山石尊と同じ雷神」とある。大山石尊とは<山窩>と命名された丹沢系のフウマ族が謹んで守護している神だから、この田村式着想からゆけば、天照大神も神の民が守る神ではあろう。 だが西行法師のごときは、「何ものの、おわしますかは知らねども・・・・・」と露骨に疑問を提示している前例すら有る。もちろん後年は良い方に解釈しているが、それでも誠に畏れ多い極みである。 なにしろ原住民系の者共が勝手気ままに集団で押しかけていった幕末のお伊勢詣り、つまり無銭でゆけた抜け参りとかお蔭参りとは、伊勢は伊勢でも鳥羽の二見ケ浦の蘇民将来の原住民専用の神様松下神社だった。そこで当時のいわゆるお伊勢様の方は、古市に軒を並べていた遊郭へ寄ったくらいではなかろうかと想われる。 これは、なにしろ慶応二年版「いろは番付」の筆頭にも「いせで筆下ろし」つまり伊勢詣りして男の成人式を済ませた慣習が書かれて在るからだ。 とはいえ無銭旅行や無銭遊興するのにはスポンサーがいる。『田村栄太郎集』によれば「費用もない貧乏人や雇い人や娘でも、沿道の者が施して無事に参拝させるから無一文でも旅行が出来る。これは伊勢大神が平等の神で、人間平等思想の発露であり、沿道の者はこの思想を尊重したものである」と説明している。 ところがこの時代は米価にしろ、「安政三年越後米一斗四百八十文だったのが、十年後の慶応二年には、一斗につき四貫三百六十文と九倍に騰貴し、ご府内の小売値は百文につき米は二合、麦でも三合と、生計苦しくなり困窮す」と『江都評判記』にも出ている程の悪性インフレの世の中である。 田村説のように、沿道の者が平等思想を尊重して、他人に施しなどしていたら、自分らが首を吊らねばならぬ社会情勢だった。それでは誰がスポンサーだったのか調べてみると『宮川舎漫筆』に、 「鹿嶋屋作之助方にて一人銀一匁ずつ出す」「鴻池善右衛門方にて一人金一朱ずつ渡す」と明示されている。 そしてこの鴻池も鹿嶋も神の民(原住民)の代表的な名前である。つまり彼らは同族の純日本人同士だけで相互扶助をし、彼らのエルサレムにも当たる弁天、恵比寿、大黒の七福神を祀る松下神社への参拝を奨励し、同族意識を強固にして、文治革命、慶長革命につぐ、慶応革命といったものを意企し、外来の仏教勢力を一掃して、神国日本に戻そうとしたのである。 しかし結果的には、西南勢力は外来系であることを忘れたか、有栖川宮や岩倉らに軍資金を出して成功させたばっかりに、返ってそれが命取りになって、神の民の敵国である<新政府>を作られてしまい、鹿嶋も鴻池もやがて没落してゆく過程は「五代才助伝」にも詳しく出ている。 国民の分布は外来系に対して原住系の方が圧倒的に数が多いから、大東亜戦争などでも、散々圧迫しておいた神の民を利用するため、旗色が悪くなると「天祐神助」だとか「神風」といった宣伝をしたのもこのせいである。 ★ ★ ★ 外来系と原住系の二大勢力の解明なしに日本史を語ると出鱈目になる。いかに後世で美談と語られようが人間のやるとは所詮色と欲である。偉そうなこという奴には、まず自分の糞でも食ってからいえ、というべきだろう。ちなみに御釈迦さんは食ったことがあるらしいが…。
2015年04月08日
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アホがアホになってしまったのは多分に歴史認識にあると思う。その影響の大なるは、犬HKの大河ドラマと民放の時代劇、そして思想的には頭山満氏らによる戦争高揚小説や安岡正篤氏の陽明学による若者の洗脳などにあると思われる。 安岡正篤氏は「平成」の元号や昭和天皇の終戦の詔勅の表現などで有名だが、全般的に偏った思想が見受けられるのは極めて残念で、自民党の有力議員の多くが薫陶を受けてしまっているので、現在も誤った権力側の歴史認識として表面化している。 陽明学の思想は立派なものだが、特に社会に出て揉まれた経験のない若者には宗教的な洗脳性が高く毒となりやすい。また、それを悪用して権力化する奴が出やすく、俗物に利用されやすい面があり、恐らく周囲の取り巻きが悪すぎたせいであろう。 説を理解しても説に染まってはいけないのが安岡正篤氏の陽明学である。私見だが、安岡正篤氏は幕末の藤田東湖によく似ている感がある。 頭山満氏らによる戦争高揚は、八切氏の以下の話が参考となるだろう。 ★ ★ ★ (八切日本史 4) また三国干渉に対する復仇の為、頭山満翁が桃中軒雲右衛門に作らせた<義士伝>の、<花は桜木、人は武士>式の、いわゆる、「パアッといさぎよく散れ」と、説く玉砕精神に当てはめるための、<青葉しげれる桜井の>といった小学校唱歌による既成概念も頂けない。 楠木一族の一世紀半に及ぶ反体制蹶起は、仏教や神道ではない<天朝教>といったような、宗教的色彩をおびた信念によるらしい。が、今となってはガタがきているらしい。 これまで建国以来一目も二目もおいていた清国を、日清戦争によって敗退させた明治軍部は、大国意識を国民に植えつけんとした。 (八切日本史 7) ところが三国干渉ということが起きて、せっかく手に入れた旅順や大連を奪われた。これは、せっかく戦勝に酔って、「富国強兵政策」を断行しようとしていた明治軍部には大打撃であった。 このとき。明治の偉人頭山満が現われた。「全国民をあげて復仇の念に燃えさせる為」翁は神楽坂のびしゃもんさんの縁日で、「ちょぼくれ祭文」をうなっている青年を、近くの料亭の二階によび、「オロシャ国は吾が日本より旅順大連を取りあげ、そこに難攻不落の己が要塞を作っちょる。このままでは、やがてどうなるとばい」 旅芸人の彼にいってきかせたあと、窓の下でハラハラ散る花を月の明かりで見下ろしつつ、「われらが来るべき国難に殉ずるのは、一死奉公のまことしかない。花は桜木、人は武士といったような勇壮活発な、そして立派な仇討ちの話はないか」と翁は口にした。 もちろん幕末から御一新にかけ、いわゆる世直しをした連中は、武士の恰好はしていても、坂本竜馬だって酒屋才谷の倅だし、吉村寅太郎も百姓の倅だったくらいは、翁もよく承知していた。しかし明治も三十九年になると武士というイメージは、懐かしい過去への郷愁にも似た幻想になっていた。 だから、「仇討ちといいますと、まずは曾我五郎や十郎の敵討」と、ちょぼくれ青年がいうのに、「いや、もっと多人数のもので、それも近世の武士のものがよいな」翁は首をふった。 「集団の総蹶起でございますか」と考えこむ青年に、翁は赤穂浪士を教え、「お国のためじゃ、確りやらんといかんばい」激励した。この結果、青年は考えて、「赤穂義士銘々伝」をもって、「武士道鼓吹・浪花節」というものを始め、「桃中軒雲右衛門」となった。そして国民もみな自分らが義士であるかのような気になって、日露戦役に勇ましく突入したのである。 このため芝居や映画でも、忠臣蔵をやれば絶対に当る世の中になったが、さて大東亜戦争で日本が負けて米軍の占領下になると、GHQが、また復讐精神を鼓吹されては困ると、「忠臣蔵」の上演禁止を命じたのは、これはよく知られた話である。 ★ ★ ★ このように、学校で習う日本史はほとんど出鱈目と思ってよい。その話を続けて紹介する。 ★ ★ ★ (虚構の国・日本列島) 「権力が勝手気儘に歴史をデフォルメしいてる点において、日本列島は、まこと万国無比らしい。現在の時点に立脚し、もし極論すれば信頼に値する程のものは希有である」とさえ極言するものすらある。 「Random(出鱈目)なことを教えるのは良くないと思った。そこで日本に於ける歴史教育を廃止した」と進駐軍の教育局長として来日した米人でさえ、はっきり明言して憚らなかった、という言い伝えさえもある。それでは日本の歴史が何故かくも出鱈目かといえば、これは対比史料がなく、いくらでも偽造できたからだと戦後は謂われている。 ドイツあたりなら、カイゼルやビスマルクがいくら歴史を贋作しても、周囲の仏、白和、丁、波、瑞の国々の歴史を参照すればすぐ化けの皮が剥がれるが、周囲を海で隔離された日本列島には、比べるべき隣国の歴史が皆無のせいらしい。 朝鮮にあった史料も「日韓合併」のおりに、明治政府が握り潰し証拠湮滅したから、『漢書地理志』にある「楽浪の海中に倭人あり」とか、「邪馬台国あり、女王にて卑弥呼」ぐらいな頼りないものしか現存しない。 あと十六世紀の織田信長の頃に、日本へ来ていた宣教師がジャワへ送っていた通信文の「バタビヤ資料」がオランダの図書館に残っているぐらいである。そして幕末に入っても「ゴンチャロフ旅行記」や英国大使館員だった「サトー日記」など、好奇心による報告書の一部が伝わっているにすぎない。 まるっきり目隠しをされた儘で「歴史屋」とも呼ぶべき商売人のものを読まされている。それに幕末に我が天下を取た薩長政府も無茶をしている。だいたい片寄った南西系だったことと、彼らが軽輩上がりで無知だったせいもあるが、「反徳川だから秀吉は勤王であったろう」といった考えからして、それまでは禁じられていた豊国神社の再建を許し、正一位にしてしまったりした。 時の権力がこんな事をしてしまうと、歴史家もそれにばつを合わせてしまう。だから、故黒板博士もしきりに「秀吉勤王説」を説いている。 しかし、秀吉の最大の勤王の事績というのは、己の建てた聚楽第へ、ときの、「後陽成天皇」をお迎え申し奉仕した事だが、こんな人を食った話もない。京都の中心地の五条から四条にかけて広大な面積をとって、寺や民家を追い払って秀吉が建てたそれは何かというと、自分が帝位を継ぐために造営した己の御所だったからである。 しかも後陽成天皇と申すのは、当時の奈良興福寺の多聞院の和尚の書き残した日記によると、当時の秀吉たるや、「正親町帝に対し奉って、自分は持萩大納言の娘の子で、まこと先帝の遺児である」といいがかりをつけて譲位を迫り、皇太子殿下である誠仁親王を害し奉った後、自分が即位しようとしたところ、各地で天災地変が起きたと脅かされ、それが親王の怨霊であるというので、吃驚仰天。 「それは困る」と、己が一命に拘わるというので皇位を狙うのを止めにして、親王の第一皇子を、さかのぼった年月日にして、正親町帝退位、すぐ御即位の恰好で擁立申し上げたのが後陽成さまだからである。 しかも後には、その後陽成様を今の北京(中国)へ移すべく征韓の役(朝鮮出兵)さえ起こしている。こういうのが勤王家であるといったような作成されたフィクションをそのまま教え込まれ、それを鵜呑みにしてきたのであるから堪らない。だから講談や浪花節までが「歴史」として扱われたりするのである。 <神の民(原住部落民)>と<仏の民(藤原氏貴族>の正面衝突であった元禄事件でさえも、今日の時点では、およそ三百に及ぶ「赤穂義士資料」の刊行を見ながら、講談浪花節的解説から一歩も出ては居ない。未だに本質の究明はされていないのだ。何故かというと、浪花節の文句を歴史と間違え、講談を正史と満足している人が多いからだろう。 ★ ★ ★ (鎖国の真実) だからして「門前の小僧、習わぬ経を読む」式に昔は詰め込み主義で、一応に「神武、綏靖、安寧・・・・・」等と棒暗記させられた。だがさて、戦後、世界教育会議に出席した連中などに聞き合わせてみると、「歴史を丸暗記式に教えたのは日本だけ」だという。 つまり他国では polish study (検討)すべきなのに、この国では研究されては不可ぬからと頭ごなしに暗記させてしまったものらしい。 敗戦直後には「大本営発表」がほとんど嘘っぱちだったと、真相を明白にされて愕いたものだが、日本の歴史も暴かれていない大本営発表と思えばまあ間違いない。 だから「明治維新から百年」と騒いでいるが、今の時点では、もう幕末の真相さえも満足に伝わっていない。 昭和に入って教育を受けた年代の者でも、「明治維新とは、勤王の志士によるクーデターで、王政復古の革命だった」式に教えこまれている。その上、昭和初期は、今の田村高広のオヤジさんの阪妻や、新国劇育ての親の沢正が、いつも勤王の志士に扮して立ち廻りをしていた。テレビの無かった当時のことなので、この感化力たるや凄まじいものがあった。 「春雨じゃ、濡れて行こう」と詩情を見せる月形半平太が、愛する雛菊、千代菊を残し、憎むべき新撰組の刃を受け、「勤王尽忠」と、寺の唐紙に己の血汐で指で書きながら絶命する壮烈なシーンを見せつけられては、これこそ崇高なモラルと、かっての青少年は誰だって昔は感激したものだ。 今日のスーパーマンに当たる「鞍馬天狗」のおじさんが、杉作少年と共に勤王の志士を助け「正義の味方だ」と叫べば、幼児だって「勤皇は正義」と思いこんでしまう。しまいには、「勤皇か佐幕か」なんて映画まで出てきて、チャンバラ映画が国民道徳精神を振興させた。 だから昭和十一年から二十年までの十年間に、この教育を受けた年代は、自分も勤皇の志士になったつもりで、みな水漬く屍になったり、草むす髑髏にされてしまったのだ。 教育だけでなく影響力は色々なものから受ける。 ★ ★ ★ 最近、謝罪の「土下座」が実はTV番組の水戸黄門からはじまっていることをTV番組で紹介していた。これも詳しく調べてみないと真相はわからないが、江戸時代に謝罪という意味の土下座はなかったようである。 また八切氏によると「切腹」もなかったようである。実際、切腹では死ねないので、斬首が実情だったという。切腹は、長州の「腹を切るまで切磋琢磨して尽くせ」という意味の方言が誤って伝わり、腹切りになったそうである。また磔は、キリスト教の影響だという。 だから従軍慰安婦についても、売春と同じで、売春禁止の現代に売春があるのだから、強制か強制でないかといっても、現代の出たくないのに出るサラリーマンの宴会が半強制であることからも、従軍慰安婦が無いなんていえる根拠は、健全な歴史認識いわんや現実認識からして乏しい。
2015年04月07日
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米国戦争屋の犬のアホがAIIBに参加しないと大見得を切ったために、日本経済はほぼ終わりの様相を呈してきている。AIIBは失敗するとネガキャンに大忙しの米国戦争屋だが、中国の強みは米国債をいつでも売れ、ドルを終焉させることができることで、生かすも殺すも胸三寸にある。 米国を無暗に追い込んで窮鼠猫を噛まれてはたまらないので、ジワジワ小出しに追い込んで米国から譲歩を引き出すのが狙いだろう。要するに兵糧攻めの段階にあるといえよう。 とにかく米国戦争屋がお陀仏となってくれるのは人類にとっては幸運の一歩手前である。アジア混乱の責任は米国戦争屋にあるのだから。 そういうわけで、米国が参加する譲歩の条件は、お馴染みのネットゲリラさんの次のパロディが的確に表現している。 ★ ★ ★ ネットゲリラ http://my.shadowcity.jp/2015/04/post-6821.html#comments ★ ★ ★ 日本は、幕末の幕府に捨てられた会津藩といったところである。なぜ、そこまでして会津が反薩長に拘ったのかというと、これは八切史観によらなければわからない謎であろう。 会津藩が京都守護職になれたのは、孝明天皇のひきである。戦国時代から京都を治める者が天下をとるとされてきたから、徳川本家よりも会津藩が貴族社会では格上だったとも考えられる。 八切史観によれば、会津の土地は昔多賀城があった近くで、中国からきた朝廷とは親近感があったという話である。だから、幕府よりも朝廷に親密感をもっていても不思議ではない。 また反幕の権化の御水尾帝の末子の後西帝が「京こそ体制側であり、江戸は反体制である」と反対立証するため、宮中に散逸していた勧学院派の日本書紀の断片を集め、改めて、巻子本五十巻に纏めたのが、後年の日本書記となっているそうである。 水戸藩もそうだが、会津も、幕府よりは朝廷主義というところがある。正史でもそのことがわかるが、ではなぜ会津が公武合体派の幕府側の最後の砦となったのかは、正史からはわからない。 その答えは、孝明帝は北朝系なので、薩長が立てる明治帝が南朝系というのが会津には気にくわなかったと考えられる。そうするとネットではお馴染みの孝明帝暗殺が信憑性を帯びてくる。幕府江戸本家と会津藩の俗にいわれる公武合体派が北朝系で、薩長と水戸藩が南朝である。 水戸藩は、家康の遺言により北朝系の帝で反幕のときに密かに南朝系の帝をたてろといわれていたそうである。その遺言に従って、水戸の斉昭は南朝帝の下で自らが将軍になろうとし、息子の慶喜にも指南した。 このように考えると、戊辰戦争は南北朝の戦いであることがわかる。つまり米国の南北戦争が伝染し、遅れて行われ、武器商人が暗躍したことがわかる。要するに武器商人の金儲けの道具にされたのである。 慶喜がはじめから南朝だとわかれば、大政奉還も江戸無血開城もヤラセの可能性が高く、ババをひいたのが会津であることも、孝明帝が暗殺された時点で明らかである。慶喜にとっては南朝帝の下で薩長と水戸のどちらが主導権をとるかだから、慶喜が賊軍とされたことには肝を冷やしただろう。 さて、明治維新の意味は、身分制度が形だけでもなくなり、それまで蔑まされていたエタと呼ばれた部落民が、一般民となったことにある。西郷により人身売買は禁止されたが、大村により代わりに徴兵制度ができ、官軍から薩摩色を除くために、西郷は主流派から外れ、征韓論の濡れ衣と共に下野に追いやられた。 政治というのは所詮権力闘争にすぎない。 さて、庶民に関わるのは生活であり、その大部分は経済である。経済についても戦争は滅茶苦茶なことをやらかし、新たな身分制度をつくる話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ 【贋金戦争】 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/meijiishin.htm 維新の戦乱というと、上野戦争の天野八郎、会津の白虎隊、天童藩のからす組細谷十太夫といったように個人的武勇談ばかりが、現在の時点では流布されているが、この日本南北戦争の実相は、これまで公表されてこなかったが「贋金造りの戦争」だったのである。 何しろ今日なら、かってのベトナム戦争でも、南ベトナム政府軍に米軍が武器を供給するのも無料なら、北ベトナム軍に中共やソ連が兵器を送ったのも贈与援助だったろうが、幕末の日本は違っていた。 (無料ではないと思うが…) 照準も合わないようなシャーピス銃やミゲール銃をよこしておいて、アメリカ人は仲買人のグラバーやスネルから、どんどん代金を巻きあげた。アメリカは太平洋戦争敗戦後にも、無料だといいながら家畜飼料の古いメリケン粉や脱脂粉乳をガリオア資金でよこしながら後になると、当時の吉田首相を苛めてその代金を日本国民の税金で徴収した。 つまり廃物を押しつけて日本からゼニを取るのはアメリカの伝統商売らしい。 さて、この結果正金をアメリカの南軍廃銃に吸い取られ、金欠病となった日本列島の両軍は何をしたかというとまず『会津事情』掲載の、 「会津宰相にあげたき物は、白木三方に九寸五分」という東北の俚謡を紹介する。 「朝敵となって錦旗に敵対した罪を、東北人は恐れおののき、その主君松平容保の自決まで求めたものである」などと、この本の筆者は調子の良い注釈をつけているが『会津戊辰戦争』によって調べてみると、「松平容保は鳥羽伏見の敗戦にて江戸へ戻ると、江戸金座銀座の職方を纏めて会津へ伴い、若松城西出丸に製造所を設置して、従来の一分銀を打延ばして三等分し、これを二分金の鋳型にいれて金メッキをなした。 だから一分銀が六倍の一両二分になり制作費は一個九百文の割合で職方に出来高払いをした。なお私に製造したいと出願する者には、一割の運上金をとって、これを公許した。 このため会津領を始め東北地方は物価が六倍から十倍になり、住民は塗炭の苦渋を味わわされた」とある。責任をとって腹を切れと、東北人が激怒したのが本当の話らしい。 (この話を戦意高揚などの美談にしたのが糞ダマスゴミの連中) これに対して日本南軍はどうしたかというと、長州閥は京阪の鹿嶋屋や鴻池から調達したが、薩摩は堂々と偽貨をこしらえ『官武通紀』第八巻にも、「薩摩鹿児島にて(琉球通宝)なる新鋳の物を製造し、中川宮、近衛家をもって京摂地にも流通さすべく禁裏へ預り出づ」と出ている。薩摩製でありながら(琉球)と逃げているあたりは、南軍の方が知慧者揃いのようである。 さて、後のベトナム戦争のように米国製とソ連製、中共製の武器を持って戦ったのなら、多少の差は在ったかも知れないが、この維新戦争は両軍共に、落つれば同じ谷川の水ともいうべき米国払下げ南軍廃銃で撃ち合ったのだから、今日の維新史家が説くように、武器の格差は考えられない。 上野の彰義隊を攻撃する時、南軍はアームストロング砲などを持ち出してきて江戸人に誇示しているので、さぞかし武器が優っていたように今では思われているが、そのアームストロング砲たるや鍋島家からの借り物だったにすぎない。 つまり、この戦争の実相たるやグレシャムの法則により勝敗がついたのである。というのは、南軍は琉球通宝どころか『維新史料』によると、三岡公正の献策とことわって引換一切これなく候と、堂々と明記した紙幣を四千八百九十七万三千九百余両もこしらえ、これをばらまいた。 北軍の会津ではお城の櫓でトッテンカンと一分銀を叩き延ばしてから、切断して四っに分け一つずつ巴焼を焼くように金を被せて、これを油で揚げて固めた。 だから明治大正まで「金メッキ」のことを「てんぷら」といった。 しかしなにしろこの「てんぷら」の方は四個作って一両なのに、南軍では紙切れ一枚が一両である。まるで贋金づくりのスケールが違いすぎる。 それにどっちも贋金とはいえ、銀の入っている天ぷら金より紙切れ一枚の方が悪貨に決まっている。そこで、「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの定義によって、金メッキよりも始末の悪い紙の偽札の方がこの戦争の帰趨を決定してしまったのである。 これによって国民の蒙った惨状は全く「悲しき哉」の一語に尽きる。 ★ ★ ★ 現代もこの会津の贋金つくりと同じような国債発行、つまりQE(量的金融緩和政策)をやっているのが日銀で、また米連銀というのは歴史は繰り返すというわけですな。 米連銀の詐欺師たちが詐欺にひっかかるなというのは笑止千万で、詐欺としても経済成長乏しい米国が経済成長著しい中国に負けるのは、贋金戦争からも明らかですな。 自衛隊が白虎隊にならないように願うばかりですな。アホがアホノミクスの責任で腹を切るのは大歓迎ですがね。
2015年04月07日
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歴史は割と好きなほうなんで、毎週火曜深夜にやっていた某有名塾講師の偉人伝番組を結構みていたが、先日最終回を迎え、「河井継之助」を人選していたのには驚いた。新潟出身でなければ、ある程度マニアックな歴史好きでないとこの人物を知る人は少ないだろう。 なんでもその某講師曰く、自分と生き方が似ているそうである。「河井継之助」を簡単にいえば、幕末の戊辰戦争で中立を保とうとして失敗した悲劇の人物というイメージである。その悲劇も自分で蒔いた種というよりも、運命の悪戯的な要素が大きいところが、尚更一層、悲劇を醸し出している。 前回、坂本龍馬の幻想を紹介し、偉人伝のほとんどが脚色、創作であることがわかったと思うが、偉人伝は、理想を描く若者の教育には良い面もあるが、なかには勘違いして天狗になる輩を輩出することもあるので、やはり正確に人物像を描出するのが重要なので、偉人も一般人もそんなに変わらない脱偉人伝的な話をそのうち紹介していきたいと思う。 どんな人物もこの世にこの時代に生まれてくることに意味があり、偉人といわれた人は時代の流れ、特に転換期などに、目立った働き、役割が与えられたと考えればよい。 「河井継之助」の人物像をみていると、頭脳は明晰だが、逆に行動力に欠けているところがある。簡単にいえば、馬鹿ができない性分である。世の中とは頭で考えるようにはいかないことが多いので、そういうときは馬鹿な振りをするのがよいことがあるからである。 明治の元勲といわれた人物たちを詳細に調べると案外馬鹿な奴が多いからである。「河井継之助」は恐らく、いかに天才の頭をもってしても、世の中は思い通りには進まないことを実際に体験するために生まれてきたようにみえる。 そこでいまなぜ「河井継之助」なのかを改めて考えると、幕末当時の長岡藩は、米軍基地問題で揺れているいまの沖縄と似たような立場にあったことがわかる。 当時の薩長がいまの露中、当時の幕府がいまの米国で会津藩が日本という感じである。幕府は2度ほど無謀な長州征伐をしたが、戦費が底をつき、ナポレオンのフランスにまでカネをかりようとして、大政奉還をして時間稼ぎにでるが、後にナポレオンに余裕がなくなり、当てが外れて、結局失敗に終わる。薩長は英国にかりている。 当時の幕府はいまの米国によく似ていて、その幕府にひきづられる会津藩はいまの日本によく似ているわけである。すると徳川慶喜がオバカ、松平容保がアホということになり、薩摩の西郷が、いまのロシアのプーチンで、中国の習が長州の桂辺りとなるわけである。 米国から生命を狙われたプーチンと習が、それぞれ当時幕府に生命を狙われた西郷と桂という相似関係が浮かび上がって面白い。また、中国が米国に向かい太平洋に出るには、沖縄周辺を通らなければいけないのも、よく似ている。 また更に先日のアジアインフラ投資銀行は、幕末の藩主議会に似ている。あくまで幕府中心とする慶喜は覇権を諦めない米国に似ている。 さて、長岡藩はというと、幕府が大政奉還して江戸城を薩長に渡してしまったので、薩長の会津攻めの通り道となってしまった。会津にとってみれば長岡は防御の要なんで、死守したいところだろう。薩長にしてみても、通り抜けできた後に裏切られて挟み撃ちにされたらたまらないから、かといって小藩なんで味方にしてもそれほど利点がなく、目の上のタンコブである。 つまり、完全な板挟みになったのである。しかも悪いことに、河井継之助が、アームストロング砲とガトリング砲とイギリス製の2,000挺のエンフィールド銃・スナイドル銃などの最新兵器を購入し、軍備拡張をしていたので、長岡藩を侮る薩長と一戦交える覚悟ができていたことにある。 武士として戦う覚悟が充分にあったため、武士の戦に巻き込まれた一般民はたまったもんではない。この点で、河合継之助の後世の評価は二分し、つまり武士としては評価できるかもしれないが、政治家としては評価できないこととなる。 要するに頭が良すぎて馬鹿ということである。武器で人を殺せば、自分もやがて殺される。孫子の兵法の戦わずして勝つことを優先すべきである。 しかし、長州のように、一般民を徴兵し士分にとりたててどんどん前線につぎ込み殺されるよりはまだマシかもしれない。大村なんぞは医者の出なのに殺人する単なる藪医者で、山縣などは高杉の付き人のようなもんが、大量殺戮をして大臣などになったからである。 政治家としての河井継之助は、長岡藩を中立の立場に置くことに苦心するが、薩長には目障りな存在とされ、会津には防御の要として、薩長、会津共に猜疑心が強く相手側につくのではと認めず、薩長への中立交渉は失敗に終わる。似たような状況で、慶喜は大阪で兵を置いて江戸に逃げ帰ったが、そのため幕府内での信用を失墜する。 薩長との交渉で侮辱された河井継之助は、会津につくことになり、薩長と激戦となる。結局、戊辰戦争で漁夫の利を得たのは誰かというと、実は当時の武器商人たちで、米国なんである。 その話を以下に紹介する。 ★ ★ ★ 【日本南北戦争】 http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/meijiishin.htm 幕末戦というのは、当初は被圧迫階級の神の民(原住民)が、その蓄積した金融資本によって政治体系を変革する目的で始めたものが、終局において西南勢力と東北勢力の武力衝突になった。 そしてこの原因はアメリカだとも言える。 「アメリカ建国史」によると、 「1865年つまり慶応元年、米国内の南北戦争が終了すると、北軍は押収した南軍の武器弾薬が密売商人の手によってインデアン居住区域に流れ込み、アパッチ族始め各地で反乱事件が勃発するのに手を焼き、慶応二年にアーノルド・ジョンソン大統領はこれを国外へ払い下げ輸出する断固たる政策を採った。そこでこの夥しい南軍の銃器が東は上海、西はポートサイドに野天同様に山積される状態を呈した」 長崎へ行くと「歌劇お蝶夫人の遺跡」だと、尤もらしく案内されるグラバー邸があるが、この英人のグラバーこそが米国払い下げの上海の南軍の銃を、長州や薩州に売りつけて儲けた元凶なのである。 さてその英国が1815年のウイーン会議で、占領したケープ地帯から追われ、トランスバール共和国に移った和蘭人の中に、エドワード・スネルという男が居た。 当時の日本駐在公使だった『ファン・ボルスブック回顧録』によると、反英精神に凝り固まった彼スネルは「南阿の恨みを日本で」と考えたのか、ポートサイド方面に積んであったアメリカ南軍の銃器を薩長とは反対に幕府に売った。 大倉喜八郎が神田泉橋で開いた店も、スネルの南軍の銃を仕入れて売っていた。やがてスネルは、長岡藩の河井継之助のために汽船をチャーターして新潟へ行き、そこから会津、仙台へと武器を輸出した。 双方にアメリカ南軍の廃銃が行き渡り、それまでは徳川家だけが独占輸入していた火薬もグラバーやスネルの双によって入ってきたから、ここに日本列島も南北戦争を始めた。 だが、本家のアメリカでは北軍が勝ったが、日本では反対に薩長の南軍が勝った。この結果、スネルは当時のアメリカ大統領グラントに、この責任をとり、カリフォルニアに広大な土地を払い下げさせ、そこへ会津の婦女子を送り込んだのが、「ワカマツ・コロニー」と呼ばれ明治の末まで在った。 (恐らく、リトルトーキョーの原型となったのだろう。スネルの反英の精神は引き継がれているのだろうか?) アメリカが南北戦争をしなかったら、日本列島はその廃物利用の銃器を押しつけられることもなく、従って幕末戦争の惨禍はなかったのである。 想えばまことに恨めしい話である。 ★ ★ ★ 南北戦争をはじめたのはリンカーンだから、リンカーンがいなければ明治維新もなかったことになる。米国は日本にとって厄介者である。現代の河井継之助には民衆の生命を守る側に立った判断を三度目の正直でしてほしいものである。
2015年04月06日
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前回の続き。しかし、後半は著者の感想なので、参考程度にすべきである。 ★ ★ ★ 五味康祐、柴田練三郎、海音寺潮五郎、山岡荘八、司馬遼太郎。時代小説の大御所である。 この内、五味、柴田は、ほとんど史実とは関係ないところで小説を書いている。 これらは、いわゆる純粋娯楽として楽しめばよい。 読者もこれが史実だとは誰も思わない。 ところが、後の三者はいささか趣が違っている。 この三人は、その題材に、いわゆる歴史上の人物や事件を描いている。 海音寺潮五郎は平将門、藤原純友、上杉謙信などや元寇を描き、山岡荘八は徳川家康、柳生但馬守宗矩を、司馬遼太郎は坂本龍馬をはじめ、歴史上の人物のめぼしいものは片っ端から小説にとりあげている。 この三人は、前の二人とは違い、荒唐無稽なところは少ない。 相当、資料を集め、それを骨組みとして小説を展開している。 海音寺潮五郎は実に面白かった。資料を十分活用しているがどこにもそれと感じさせるような押し付けがましいところがない。山岡荘八は文献資料ばかりでなく、実地に新陰流の継承者と交流を持ち、そのアドバイスをもとに春の坂道を書いている。 問題は司馬遼太郎だ。 面白さでは、前二者に劣る。元々が新聞記者上がりということもあって、新聞記事のような硬さがある。資料の使い方も不徹底で、押しつけがましい。史料の吟味をろくにせず、自分の小説に都合の良いところだけ摘まみぐいして、それに尾ひれを付け、見てきたような大嘘を書く。 このこと自体は、別に非難するにはあたらない。 私も、これが悪いと言うのではない。 問題なのは、自分が書いた膨大な数の歴史小説を、その書かれた当時の歴史認識や価値観で染め上げていることであろう。 彼の考えや思想は、当時の日本人に共通するものであった。それゆえに当時の一般大衆の支持を集め、発表する小説はつぎつぎにベストセラーになっていった。 ある意味、これもやむを得ないところである。 彼の小説の舞台は戦国から幕末、明治の日清、日露戦争までに及ぶ。 当然、使用する史料は膨大な数にのぼる。とてもこれだけの多量の史料に詳細、正確な検討を加えることなど無理な話である。資料の原書にあたるなど不可能であろう。 勢い人の書いた小説や、珍説、俗説の類を取り入れることになる。小説であるから、正確さや真実よりも面白さを選ぶ。 そうして、物語としては面白い作品ができあがるが、これはあくまで話としては面白くはあっても事実ではない。 確かに、面白く、魅力のある小説が発表されること自体は大いに歓迎すべきことではある。 問題はその内容である。創作であり小説であるものを、何を勘違いしたものか自分の小説をあたかも歴史的事実であったかのような論評を加えている。 河井継之助はこうだ、坂本龍馬はああだと勝手な解説をいれる。これが、いわゆる司馬史観というものであり、後世、政治家や経済界、マスコミ関係者に多くの信奉者を出した。 問題なのは、この部分である。歴史上の人物をその結果から逆算し、推論して物語を組み立ている。 おまけに、終戦後特有の自虐史観で評論を加える。 まるで自分が神様にでもなったつもりなのかと思わせるような断定的な語り口には、正直行って辟易させられたものだ。 坂の上の雲では、乃木希典をまるで戦術的能力のないボンクラとして描き、児玉源太郎を戦術の天才としてもちあげる。 坂本龍馬に至っては何をやらしても天才的能力を持ち、剣術は強く、女は身を挺してこの男に尽す。 先見の明は神のごとく、まるで一人で明治維新を引っ張ってきたように描いている。 おまけに、この日本の存亡の危機に、天がこの時代に遣わした天の使いであるかのような説明を加えているのだ。 そんなことがあるものか。実際はそうではない。剣術の名人どころか、北辰一刀流では初伝さえも受けていないのだ。 ただ、唯一、貰った免状は、なぎなたの初伝目録でしかない。正味三年余りの修行期間では、それがせいぜいといったところであろう。 又、土佐で修行したのは剣術ではなく柔術である。 龍馬が土佐で習った小栗流は、その主体は和術(柔、柔術)であり、剣術は、その基礎的な五本の型を習ったにすぎない。 このことから、はっきり言えることは、坂本龍馬は剣術はからっきしダメだったということなのである。 それゆえ、護身用に拳銃を持ち歩いた。 人を切らなかったから平和主義者だったなどと惚けたことをいう人間もいるが、これは切らなかったのではない。切れなかったのである。ただそれだけのこと。平和主義者でもなんでもない。 小栗流は、柔術を主として、居合、棒、剣などを教養程度に指導したが、薙刀はない。それゆえ、北辰一刀流では、薙刀を力を入れて習ったと思われる。 では、柔術は強かったのかというと、それなりであったということができよう。 決して弱くはなかったが、そう並外れて強かったわけではない。 当時の武士は、剣術や柔術は当然習うべきものであった。武士の本性は兵士である。戦があれば主人の為に戦わなければならない。 (剣術も江戸にできた町人用の護身術。武士が戦場で用いたのは主に槍らしい。刀は矢除け用と敵将のクビを切るために用いたようである。) 当然、土佐藩士のほとんどは、剣、柔術は徹底的にやったはずだ。当然、小栗流に於いても、龍馬程度の段階の免許を受けた門弟は少なくなかったであろう。 だから、それなりなのである。決して、龍馬が柔術の名人であったわけではない。 これが、史料を忠実に読んだ結果である。先入観や贔屓を排し、客観的に素直に読むとこうなる。 これは、私ならずとも、だれがやっても同じであろう。 ところが、司馬遼太郎はこの龍馬の前半の最も大切な部分を端折ってしまった。 龍馬が剣術の名人でなければならない理由があった。そうでなければ千葉定吉の娘、鬼小町と言われたおさなさんとの恋愛がうまくつながらないし、小説としての面白さが半減する。 剣が強かったが平和主義者であった為に人を切らなかったというのと、剣術は下手っぴいだったというのでは小説の価値が違ってくる。 彼の主義主張からすれば龍馬が剣術が得意でなかったという事実は到底受け入れることができなかったと思われる。 このように、司馬の小説は、創作であり、事実ではない。 (小説は著者の創作なのだが、感情移入しすぎると、事実でないことを忘れてしまうから恐ろしい。) 本気で史料を読めば、龍馬が剣術はさほど修練を積んでいなかったことと、土佐で学んだ小栗流は、剣術ではなく柔術であったことぐらい容易に察しがついたはずだ。 (坂本龍馬自体が創作の人物なのだが。この著者も既に龍馬が実在していると錯覚している。) これからわかるように、司馬遼太郎は歴史学者ではなく、只の小説家にすぎないのだ。 彼の描く歴史人物像は実像ではなく、司馬遼太郎という戯作者の煙草のやにで黄色く染まった脳みそが作り出した虚像なのである。 それを、あたかも歴史的事実のように主張することや、自分のでっちあげた小説を事実だといって宣伝することは決して許されるべきことではない。 歴史的知識のない一般大衆は、いともたやすくこれを信じ込む。最も困ることは、政治家がこの司馬史観なるものに心酔してその信奉者となることである。 この事実ではない人物像を見習って、実際にはやりもしなかったことを手本に政治をやられたのではかなわない。 政治家のほとんどは、俗物である。まともな教養など無きに等しい。そういった連中が司馬史観の虜になれば一体どういうことになるか。考えるだに鳥肌がたつ。 最悪であることは、この司馬遼太郎以降の小説家が、何を勘違いしたものか歴史意外の分野でも大きな影響力を持ち始めたことであろう。 小渕恵三内閣のとき、ある小説家を経済企画長長官にに任命し、ろくな成果も挙げられなかったことは、苦々しい記憶として心の隅に残っている。 これなど、小渕恵三という俗物総理が、小説家をその実力以上に買いかぶった結果である。 司馬以降、作家の学者気取りは続く。NHKの歴史番組では、もはや古くなったような説を解説している者もいるし、トンチンカンなことを言う奴もいる。 これは民放でも同じで、最近は、小説家だけではなく、漫画家まで、偉そうに解説し、本まで出してしまった。誤解してもらっては困るのだが、漫画家が歴史を語って悪いといっているのではない。 ちゃんと調べて正しい事を言うのなら問題はない。正式に、歴史の勉強や古文書について学んでのことなら納得もできよう。 しかし、そうではない。今まで形成された歴史雑学とでも称すべき俗説の類を取り上げて、さも専門の学者気取りで得々としゃべる。 これなど、司馬遼太郎の学者気どりの悪影響にひとつといえよう。 ★ ★ ★ 出鱈目の勝海舟でさえ、学者先生は出鱈目と言っている位である。学者は権力者の犬にすぎない。しかし、偽物をニセモノとして学ぶのには必要な存在である。 ニセモノのなかに、ごく稀にホンモノが混じっているからである。
2015年04月03日
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左上の広告が非常にウザいので、今回は、坂本龍馬の幻想を壊すために、私の見解を述べる。 坂本龍馬は架空の人物であるというのが私の見解である。ただし、勿論モデルとなった人物はいるらしい。その名は「才谷梅太郎」で、土佐藩家老の福岡孝弟の食客だったようである。当時は、才谷よりも現在「中岡慎太郎」で知られる「石川清之介」の方が尊王攘夷の論客では有名だったようである。 中岡(石川)の日記には、「才谷来る」という記述しかないらしい。龍馬の手紙等は恐らく後世の創作だろう。明治維新で困窮した武士が、偽物の書画などで生活費を捻出したらしい。恐らくこのような困窮した武士たちが、その後の文壇をつくったのだろう。勝海舟などがその代表である。 「坂本龍馬」という名自体は、当時、尊王攘夷の論客に、キリスト教を弾圧し、仏教を推進すべしと論文を書いた学者の名だという説がある。つまり、その学者の名を用いて、モデルとなった「才谷梅太郎」が脚色されて大々的に岩崎弥太郎の後年の日清日露戦争の三菱の戦争昂揚の宣伝に使われたようにみえる。 有名なフリーメーソンとロスチャイルドのアジア進出には戦争が必要だったようである。当時の西欧社会を牛耳っていたのがロスチャイルドらが乗っ取った秘密結社らでその頂点にイエズス会があった。イエズス会の商売は奴隷売買で、奴隷をつくるのに麻薬が使われたことは現代のマフィアやヤクザの手口と変わらない。 イルミナティ=イエズス会は王侯貴族たちを利用して勢力を広げていき、それがアジアまで広がることになるが、後にロシア皇帝が、その策略に気づいたのと、カスピ海沿岸の油田の権益を巡って、偽ユダヤのロスチャイルドらと揉めたために、ロシア帝を除くために日露戦争が起こされた。 西欧が、東アジア攪乱のために目をつけたのが、朝鮮であり、日本である。 話を坂本龍馬に戻す。 才谷は、福岡の食客でいわば土佐藩の密偵のようなことをやらされていたようである。土佐藩の看板は徳川家から領地を与えられた山内一豊から公武合体なので、尊皇攘夷(討幕)の活動はできないし、幕府の隠密に見つかったら大変なんで、才谷のような食客を密偵にして、武市半平太の土佐勤王党を探らせ、その活動ぶりを報告させていたのだろう。 尊皇攘夷という場合、「皇」が南朝、北朝、また公武合体で見解がわかれる。当時は北朝中心で、王道を保ったままで南朝に代えろというのが維新で、内政(下々の政治)は武士政権に任せろというのが公武合体と考えたらよい。革命は、王道から覇道に代えることで、公武合体に近い思想。 さて、才谷と同じように、岩崎弥太郎も土佐藩政の吉田東洋、福岡の食客だったようである。 だから「坂本龍馬」という人物像は、酒屋だった才谷家の「才谷梅太郎」をモデルとし、名前は尊王攘夷の仏教学者の「坂本龍馬」を拝借し、福岡、後藤象二郎、岩崎らに脚色されて土佐藩代表の尊皇攘夷志士として祀り上げられたのだろう。 歴史家に取沙汰される「龍馬暗殺」についても、近江屋の一件はほとんどが脚色で、誕生日に殺されているので、誕生祝いに集まった石川(中岡)らを土佐藩の連中で毒殺したという説の方が信憑性がある。 暗殺理由は、表向き徳川家に恭順の公武合体を掲げていた土佐藩が、裏で討幕軍を組織するために、海援隊と陸援隊をつくったが、才谷と石川の専横ぶりが目に余ったのか、土佐藩論を討幕にするために、両者は殺されたようである。 ここら辺は推測になるが、薩摩が、土佐の優柔不断を見透かして、討幕に加担するなら、才谷と石川を殺せと命じたのかもしれない。しかし、才谷は幕府側、石川は討幕側なので、才谷はわかるが、石川まで殺されるのは意味不明でもある。 正史では近江屋暗殺後、後の中岡の石川は薩摩藩邸に逃げ込んだとなっているが、存外名を変えて生き残ったのかもしれない。正史でも、中岡が殺される意味は曖昧で謎である。強いて挙げれば、薩土盟約が邪魔になったと考えられるが、土佐藩も複数の人物が参加しているので、両者だけが殺されるのはおかしい。 だから、海援隊と陸援隊を土佐藩正規軍に加えるためではなかろうか。しかし、海援隊は後の外務大臣として陸奥だけが出世したが、後は自然消滅しているので、海援隊と陸援隊の尊皇攘夷を土佐藩が奪い取った形になる。大義名分の看板の掛け替えである。 その典型が岩崎弥太郎の三菱商会で、この背後にはグラバーらのフリーメーソンが暗躍している。この三菱商会の戦争屋の働きで、南朝出自とされた明治帝は、ガーター騎士団に編入されてしまうのである。 まとめると、才谷、石川は土佐藩に利用され捨てられたわけである。長州の極悪人の伊藤俊介が全権を掌握し、江戸幕府時代の反省なく、恐らくメーソンと思われるドイツ人の歴史家を招聘し、明治以降の日本史のほとんどを書き換えたようである。 そのなかに才谷と尊皇攘夷学者坂本龍馬とを組み合わせて、メーソンの手先としての岩崎弥太郎らによる、近年の坂本龍馬像が出来上がったようである。その龍馬像を利用して戦争昂揚をしたのが明治の新聞や文壇などである。 このような英雄で洗脳され多くの若者などが戦場に送られ、その犠牲で金儲けし贅沢で安逸な生活を貪り、人類進化から取り残されていく輩を大量生産してきたのである。そのツケが天文学的な財政破たんと天候をも変える自然環境破壊である。 いかに歴史洗脳が恐ろしいかを紹介する話を以下に転載する。 ★ ★ ★ 武の歴史の誤りを糺す 司馬遼太郎について http://forkn.jp/book/2880/page/9 司馬遼太郎の罪 いままで述べてきたこと。 それは、日本史の偉人、英雄については、ほとんど、その生身の人間としての実像は、大衆にはわからなくなっているということだ。 「何を言うのか。過去、あれだけ偉人、英雄について散々小説が書かれ、映画やドラマになっているではないか。」そのように反論される人も多いと思う。 しかし、皆さんお好きな、織田信長や、真田幸村、豊臣秀吉、近くは、坂本龍馬など、ほとんどが小説家の脳みそから紡ぎ出された創作なのだ。 もちろん、確実にわかっている歴史的事実はある。 それを骨組みとして、おもしろおかしく肉付けをして小説を書き、それがヒットすれば映画やテレビで映像化され、なおさらそれに尾ひれが付き、事実とはかけ離れた偉人や英雄となる。 つまり、多くの日本人が信じて疑わない宮本武蔵像は、吉川英治の捏ね上げたものであるし、織田信長の英雄的部分は江戸初期に小瀬甫庵が太田牛一の「信長公記」を脚色した「信長記」がもとになっている。 それを下敷きにして、多くの小説家がそれぞれ色をつけ脚色して今、一般に理解されているような信長像ができあがっているのである。 真田幸村に至っては、そんな名前の人物は存在しなかった。名前が違う(真田信繁)。これは、江戸初期に使われはじめ、明治中期に大流行した立川文庫で日本国中の少年の英雄となった。 (八切氏によると、武田信玄も晴信ではなく、信虎で、父追放は嘘のようである。武田家は宣伝が巧みなので、実体は謎である。なにしろ跡継ぎの穴山信君が家康に殺され、徳川家に編入されたので不明になっている。家系図などは明治維新のほとんどが創作である。) 戦国時代以前の英雄豪傑は、そのほとんどが江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃、戯作や講釈の題材に取り上げられ、荒唐無稽な物語の主人公として庶民のアイドルとなってゆき、それをもとに、明治以降の講談本や小説が書かれた。 戦後、国民の大衆文学が大いに花開いたのは良いのだが、この戦後書かれた小説の大半は、それまで形成された英雄像を下敷きにしており、ますますその実像とはかけ離れたものとなってしまった。 戦後の時代小説家、五味康祐、柴田練三郎などは、その最たるものであろう。 しかし、これは小説であれば当然のことである。 私は決して時代小説や時代劇が悪いと言っているのではない。 小説は面白くなければならない。史実を正確になぞっても面白くもなんともない。 大いに創作の羽を広げ大洞を吹きまくって面白い小説を書くことは、彼らの仕事である。 様々な時代小説家が表れて、面白い小説を書く。これには大いに楽しみとすべきことである。 しかし、大切なことは、この大洞、虚像の時代小説とは別に、ちゃんとした、正確な歴史人物像が描かれたものが存在しなければならない。 そして、この役割は、面白い話をでっち上げる小説家ではなく、地道な研究を積み重ねている歴史学者が担うべきものである。 決して、小説家がこの領域に踏み込んではならない。 今から40年前、八切止夫という小説家がいた。 この人は、それまでの定説を覆し、多くのトンデモ本を書いた。 上杉謙信は女だったとか、織田信長を殺したのは明智光秀ではないなどと、とんでもない説を唱え、八切史観と称して話題となっていた。 (上杉謙信が女というのはイエズス会の記録と、山本何某かの日記に、女の病気「子宮がん」で死んだと記録されていたそうである。 信長殺しは、当時は正室奇蝶の犯行とされ、だから奇蝶の記録は秀吉により自分も加担したのを隠すために焼かれたそうである。だから奇蝶がいた安土城を燃やした信雄が、後の清州会議で第一等の働きとされた。 実際は、実行部隊は奇蝶傘下の斉藤利三で、黒幕は信長に命を狙われていた家康と、信長の金本位とされると困る銀本位制の体制を築いた吉田神道の蜷川家と、海上勢力拡大が著しい信長を目の上のタンコブと思っていたイエズス会と、反仏勢力として拡大した信長を忌み嫌っていた朝廷仏教勢力ら複数である。) 当時、この説は誰からも本気で相手にされず自然に消えていったのだが、最近のテレビの特番などでこの類の珍説奇説を放映しているのはこの八切史観なるもの系統を引くものであろう。 ★ ★ ★ 次回に続く。
2015年04月03日
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宇宙人の話からもわかるように、またほとんどの宗教もいっているように、人間は修行のためにこの世に生まれてくる。では何の修行かというと、平和に生きるためである。 逆説的にいえば、平和に暮らす能力のない霊魂が、この地球に生まれてくる、というわけである。すぐに喧嘩し、序列をつけたがり、他者を束縛したがる、といったような傲慢な性格の持ち主である。 だから、競争はやむことなく、闘ってばかりで、戦争までして、これまで世界を人智学でいうところの三度の破局に追い込んできた。一度目は火の破局、二度目は空気の破局、三度目は水の破局、そして今度が土の破局と預言されている土=物質の破局である。 物質文明が破局するのである。 物質が不安定なのは、唯物論でいうところの崩壊、つまり死があることからも明らかである。 安定であるなら死などあり得ないはずである。 つまり物質文明は必ず崩壊するのである。それはある意味宿命である。 このような不安定な世界で安定を築くのが人類の使命で、そのために平和に暮らす能力がつく。つまり早い話、この世は地獄みたいなものである。闇である。しかし、この世が地獄と思ってはならず、地獄はもっと闇であるからだ。 そこで物質文明が崩壊にむかうなかで、闇が暴かれる時代が到来する、という話を紹介する。 ★ ★ ★ 闇との闘いとは、マインドコントロールとの闘い http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-ae00.html ”全ての人間が〇〇である”という表現が断定的で間違いなのと同じく、”全ての爬虫類族が凶暴で悪に満ちている”とはいえない。 しかし情報がなければ、そのようにみえるかもしれない。しかし人間の中にも善良な人々が大勢いることを我々(宇宙人)は知っている。そして今、(宇宙の進化の落伍者である)彼らにも目覚める時がやってきており、彼らもまた成長するように計画されている。 プレアデスから来た旅人であり、また次元旅行者でもある我々(宇宙人)は、実は自分自身を知るために探検を続ける者たちである。(この文はどこまで信用できるか定かではないが…?) 我々(宇宙人)は「宇宙史の記録」の中の闇の章を読み、その中で似たような様々な試練を何度も見たことがある。それは他の存在たちに害を加えることで、自分のエネルギーを補充する邪悪な者が存在することである。そうした者たちが人類を分離させている。 (世界統一を目論む偽ユダヤやロックを代表とする米国の戦争屋や欧州のロスチャなど) 他に害を加えて餌食とするETである存在たち(第10番惑星の蛇人ともいわれている)は、それが人間であれ、多次元の存在たちであれ、ある決まった闇のルートでなければ自分の領域にエネルギーを引き込むことはできない。だからいったんエネルギーにアクセスできると一度に大量に得ようとする。 彼らはほとんどの場合、暴力的な性質のエネルギーを好む。 (傲慢で高圧的で上から目線の性格と思えばよい。そういう人物は蛇人と思っていい。) つまり他者に害を加える者たちは、エネルギーに飢えている。その理由は彼らには愛がなく、つながっているという感覚もなく、(平和に)生きることから遮断されているからである。人間に愛がないなら、ただのゾロゾロ歩く”ゾンビ”に過ぎない。 (見かけは人間だが、蛇人=ゾンビともいえる。) 人類を批判するために話しているのではなく、地球と地球の進化を、エネルギーの流れとして見ているためである。我々の意図は、我々側の立場に映る人類の姿を見て、人間が本当は何者であるか、に気づいてもらうためである。 それぞれの大陸のそれぞれの国家に運命があるように、アメリカ合衆国にも運命がある。この世界のどのような片隅に生きようとも、血管を流れる血がどのようなものでも、人間としての自分の権利と誇りを認めてほしい。そして集合体としての人類に、自分をつなげていく必要がある。 地球という惑星の人類の1人であることを感じられるのは誇りなのである。 その感覚が、人類の集合体としての生き方に大きく欠けている。それは単なるプライドではなく、心を開いて一つにつながる感覚のことである。そうすることで、自身の血統にも「地球の記録」の人間の章にも、意義と目的を記録することになる。 様々な形態とエネルギーの生命体(ET)が宇宙からやって来ているが、やはり爬虫類族が人類の一番大きな挑戦の鍵を握っているようである。というのも、彼らが世界の支配者の陰にいる黒幕だからである。彼らは特に「世界金融支配シンジケート」の中にいて、また多くの人が崇拝する宗教の中にも定着している。 彼らは意味のない儀式に従うことを勧め、他人にも同じように教えることを勧める。 そうした儀式に参加するとき、そこで何が起きているのかをしっかりと注意深く把握すべきである。なぜなら、そういったものが、人のエネルギーを吸い取るのに極めて容易に用いられるからである。 例えば「ハレルヤ!」とか「アーメン」などの祈りの言葉を発する際、誰に向かって、何を祈っているのかを真に理解することなく、ただ奴隷の如く言わされている。これでは、これまでの歴史書が捨てられてきたのと同じように、世界に存在してきた宗教も同じ運命をたどることになるだろう。 闇との闘いとは、マインドコントロールとの闘い 人間の波動を変えるマインドコントロールは、この惑星での史上最大の問題となっている。 毎日見ているテレビの影響で、自分のモノの見方が、固定されてしまっているのに気づいているだろうか? (例えば、アホの中東訪問で日本人2名が殺されたのに、鳩山のクリミヤ訪問の方がおかしいというような論調など。冷静にみるなら人命を失ったアホの訪問の方が現職での訪問で大問題である。 つまり米国戦争屋の見方が押し付けられて洗脳されているのである。戦争を誘発してきた側の見方が押し付けられ、社会的弱者が戦場に送られてきた。戦争で金儲けをしてきた輩が正当化され、原爆投下も正しいことと現在も洗脳されている。) それはテレビだけでなく、パソコンや音楽、映画、ゲーム機器、携帯、スマホ、そして目に見えないマイクロ波を出している電子レンジなどにより、人間の思考や生活のパターンが影響を受けている。このような闇のマインドコントロールとの究極の闘いとなるだろう。 こうした闇はより一層大きく膨らみ、それが人間の思考をデザインし、心を分離、分裂させ、こうした三次元計画に気づくようになるだろう。 (次第に精神病の患者が増える。特に精神分裂症である。) マインドコントロールは別に新しいものではなく、そうしたコントロールはこれまでずっと存在してきた。世界の何が隠されているのかを探り、自分がいかにコントロールされているかを知るようになると、そのようなコントロールが実は、三次元以外から侵入して来ているのに気づくだろう。 実際に、どのような権力と古代から伝わるオカルトの遺産と闘っているのか? 古代の文献に対し、現代で解釈された内容を教えられた通りに信じるだけで、自分の頭で推測もしなければ、そこに書かれた偉大な意味は、そのまま隠され(オカルト)明らかになることはない。このような文献では宇宙からの到来者も言及され、更には、これから直面する出来事などに対してのヒントも多く含まれている。 (オカルトの意味は「隠されたホンモノ」である。) 大きな力を持つ闇の全てを暴き明るみにすることが、人類に向けられたそうした宇宙の神々の力を公開することになる。人類がこれから直面する出来事のなかの一つは、世界のリーダーたちの隠れた性格「変質的な習慣;生け贄の性的 儀式」と、それに導くマインドコントロールであり、それらを光の下に明らかにすることである。 自分の意見をしっかりと持ち、誠実さを彼らに要求することが、これからの仕事となる。しかしそれと同時に、愛することも忘れてはならず、つまり破壊者に対して心から慈愛を持つことが必要である。 本当の自分を見失う時、犠牲者、被害者となる 「闇の教え」によると、人間が遺産として持つ霊能力から、人間を遠ざける計画があるようである。支配者たちが被害者意識を植え付けても、実際には被害者などは1人もいないはずで、「宇宙史の記録」にも「地球の記録」にも犠牲者などの記述はない。 なぜなら自分が創造主であるのを忘れた者だけが、恐怖を選択し、犠牲者、被害者になるからである。 つまり、それは愛を忘れてしまった者である。 つまり、「被害者は、自我を分離、分裂させてしまった者たちである」とそれらの記録には書かれている。これまでの歴史でもただ役割が異なるだけで、そこに記録されているのは何度も繰り返し演じられた同じ物語である。 我々(宇宙人)は人類に、生きることに勇気を持ち、癒されるのを待ち望む闇を呼び出し、癒すのを期待している。それは愛と勇気を意識的に維持し、「光の家族」として彼らに言葉を送ることをお願いする。 「誤った力の使い方をする闇よ。人間や地球に対して暴力や変質的な行為をする闇よ。闇が暴かれて明るみに出る時が来た。そして暴かれることが闇の癒しとなる。だから闇よ、隠れていないで前へ出て来なさい。世界は闇を知るようになる。そして世界は光を知り、全ては一つとなって喜びに満たされる。」 と彼らに言葉をかけてほしい。 これは崇高な呼びかけであり、この呼びかけによって闇が呼びかけた者の人生を奪い取ることはない。呼びかけは、彼らのエネルギーの間違った使い方を癒すためである。このような呼びかけによって、全ての人間が愛を持って性を表現できるようになる。 子どもたちは大切にされ、儀式的なレイプや暴力で無理やり性 行為を押し付けられるようなことはなくなり、自分自身を追及するホンモノのチャンスが与えられるようになる。 FAMILY OF LIGHT Pleiadian Tales and Lessons in Living book『プレアデス 光の家族』 バーバラ・マーシニアック著 太陽出版 抜粋 ★ ★ ★ ニセモノの物質文明にすがりついても消えていくだけである。
2015年04月03日
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先の大戦の戦犯のうち最も無責任で劣悪なのがダマスゴミであることは昨今の社会状況から明らかである。少数支配の権力者の犬になって嘘の情報を流し大量の人々を殺りくしてきた大罪は明らかである。 言論の自由といいながら権力の犬になって弱者を虐げるようなダマスゴミを解体しなければ「自由」など絵にかいた餅である。 先日、某糞報道番組が巷の話題になったが、あんな糞番組は久米宏氏の時代から長らくみていなかったが、とうとう本性を顕わにしたようだ。権力に媚びる恥知らずな姿は非常に醜い。権力に媚びることで金儲けし、嘘を垂れ流して、そのツケは国民の税金にまわし、弱者は派遣切りでホームレス生活に追い込む。 まるで先の大戦の戦争扇動報道と同じである。この獣のような連中は一刻も早く地獄に堕ちてほしい。もし戦争にでもなったら、真っ先にこの連中を戦場に送るべきである。嘘を垂れ流し多くの人々を苦しめ死に追いやった地獄をみるがいい。 いまどき権力に媚びる新聞を読むようなアホは金儲けしか頭にないか、ネトウヨしかいないことは、ネットでは常識となっている。新聞やTVの報道番組なんかみていると思想の自由が奪われ、嘘に洗脳されるだけである。 例えば、ネトウヨがアホバカなのは、平和憲法を守れという人々を「サヨク」呼ばわりするところである。憲法を守るのは国家の当然の義務である。当たり前のことである。むしろ、「アメリカに与えられたから守る必要がない」などと子供のような屁理屈で駄々をこねるほうがどうかしているので、心療内科にでもかかった方がいいだろう。 そんな屁理屈が罷り通るなら、沖縄の米軍基地はどうなんだ? アメリカにおしつけられた基地だろうが…。アジアと仲良くやっていけば、アメリカなんかの口出しを受ける筋合いはない。先の大戦を詳細に研究すれば、アメリカが日本を罠にかけたことは明らかである。 先の大戦では皇軍と呼ばれた天皇とその取り巻きを守る軍隊は、臣民を虐げ、沖縄を見捨てたのである。 いい加減、茶番はやめてほしいもんである。権力にとりいって、仲間を売って甘い汁を吸うな。裏切者ユダのような裏切りをするな! 人類同士を戦わせて自分たちがその上位に君臨する悪魔の手口を見抜け!! いかなる理由があろうと、憲法を守らないというのは非道で独裁者の証拠である。それは日本だけでなく、米国もである。歴代の米国大統領が米国憲法を無視してきたのは、以前紹介したとおりである。憲法を守らず大量の人々を虐殺し、戦争で金儲けしてきた大罪を償うべきである。 そのような話を紹介する。 ★ ★ ★ ・「覚醒」時、古い体系は機能麻痺に陥る http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-75ab.html 現代人は自由意志を持っているのか? いいえ、持っているとはいえないばかりか、全くといってよいほどである。もし持っているなら、人生はもっと別様になっていただろう。ほとんどの人々はカルマだけでなく、宗教や霊性、占星学、それに疑いや恐れ、罪悪感、慣習などの多くの時代遅れの信仰体系の影響下に自由を奪われ、生きている。 しかし現代人は、自分たちは自由意志を持っていると思い込んでいる。 例えば、「自分は好きな時に今の仕事を辞める意志を持っている」と思い込んでいる。しかし実際はどうか? 仕事をやめることはできない。というのも給与が入ってこないのが怖いからである。 また例えば「自分が好きな場所に住む意志を持っている」と思い込んでいる。 しかし実際には、好きな場所には住めない。生まれた場所か、それと同じような町に、父や母の近くに住むのが関の山である。 昔の人間には自由意志があった。 しかし使うのをやめてしまったのでいまは使えなくなり、もう自由意志はもたない。現代人は自由意志を持っているフリをしているだけである。自由意志があるという「幻想」はある。確かに昼食に何を食べるかはある程度自由に選べる。また職場に青いセーターを着ていくか、赤いシャツを着ていくかも選べるからである。 しかし現代人は本当の自由意志を持っていない。 この発言に少しは腹を立ててほしい。現代人はただ、自分は自由意志を持っていると思いたいだけである。しかし今となっては、失ったものを懐かしく思うことしかできない。 十字は統合のシンボルだったが、宗教の洗脳に利用され意味を変えられた 魂は、肉体を司る表層意識よりも(カルマの法則に従う)霊的な目的を優先する。 (というのは、宇宙が人間をクローニングしているからである。だから自分の行いは自分に返る。) 霊的目的が、今までの人生に起きた多くを説明してくれる。それは何も、魂がわざとネガティブな体験を押し付けたわけではない。ただ魂という神性にとっては、個人が必死に肉体などを制御しようとし、快楽を享受し、物質的に拘束されたアイデンティティを作り出し、生き残ろうとする試みよりも、この霊的目的の方が遥かに大切だからである。 霊は永遠に生き残り、死なない。 キリスト教信者に問うが、人間の罪を贖うために、イエスが死んだわけではない。そのような教えは実に呆れてしまう。イエスが人間の代わりに死ぬなんて、キリスト教信者はうぬぼれている。 イエスは本当に十字架上で死んだのか? 否、イエス=キリストは十字架上で蘇った! (イエス=キリストは人間の死の体験=意識を知ったのである。) ちなみに十字架のシンボルはそれから何百年も後になって、教会が人々を宗教的に洗脳する一手段として生み出したものである。現代人は「イエスが人の罪のために死んだ」と信じている。それは事実ではなく、他人の罪のために死ねる人などどこにもいない。 (罪を犯した者しかその罪を贖えない。誰かが身代りに罪を被ることはできない。) 十字架のシンボルは本当は、前回話した魂と人間の意識の交差するところ、つまり霊と表層意識が一緒になることを意味している。(前回は魚のシンボルだった。) (霊の潜在意識と物質性の覚醒意識の結婚を意味する) しかし今ではそれは真逆の苦悩と痛み、罪悪感、受難の象徴として使われている。 親愛なる皆さん、本当は、イエスは十字架上で覚醒したのである! {その後、彼はマグダラのマリアと愛し合って楽しく暮らしました。彼らには子どももいましたよ(???この文はほとんど嘘なんでそのまま載せます。マリア=地球の霊と結婚したという意味ならわかるが…。)} 「覚醒」時、古い信仰体系は機能しなくなる 「覚醒の交差領域」、つまり霊と人間の意識の波形が最初に交差する地点では何が起こるのか? そこではもはや古い知性は機能しない。その古い知性は、人間が人生(物質界)に対処するために作り上げたものである。現代人は、決められた知識体系に従って生きる傾向がある。それはちょっとした検閲済みの洗脳体系であり、スーパーで買う冷凍食品パックなどに似ている。 もちろん、古い知識体系の中にも適切なものもある。 車を運転するには、共通の知識体系、つまりルールは実用的である。しかし一方で、ほとんどの人々があまりにもこの古いルールに囚われすぎている。 どんな服を着るか? 結婚式に、葬式に、仕事に、歳相応などの決まり事などである。そこには実に無数のルールがある。食べ物の摂り方、仕事の仕方、お金の稼ぎ方、教育を受ける方法、更には死にかたにもルールがある。 決められた行動や習慣があり、自分は規則正しく行動していると思いたいことから、何度も何度も同じことを繰り返す。しかし実際には規則などないことを知っているが、決められたルールに沿うのが慰めになる。 こうしたルール、検閲済みの洗脳体系は、「覚醒」以前の段階で作り出されたもので、現代人のいわば拠り所である。しかし「覚醒の交差領域」のX(エックス)【神性と人間の意識の統合点】に達すると、もはや古いルールは機能しなくなる。 だから、拠り所を失い、全てが崩壊し、自分がどこか奈落の底へと突き落とされたように感じる状態となる。 しかし実際それは真実ではなく、古いルールに縛られているので、ただそう感じるだけにすぎない。そうした体験もあるが、一過性の体験に過ぎない。 自分が拠り所としてきた検閲済みの古いルールはもはやうまく機能しないのは人生でよくわかっているだろう。時には古い体系に戻ろうとしても、もはやうまくいかなかったはずである。 つまり、次の段階に進むことは必然的に新しいルールを生み出すことになる! しかし、新しいホンモノのエネルギーは古いルールでは定義できない。古いエネルギーは可視的なので予測可能だったが、新しいエネルギーは、不可視で、形を持たない。 昨日行なったことは、今日も繰り返せるはずである。古いルールを捨て、新しいルールをつくることができる。 危機や混乱状態に陥るまで限りなく続けて繰り返しルールをつくりかえることができるが、実は、ルールはもう必要なく、プロセスや手順すらいらなくなる。 新しいエネルギーそのものに、プロセスが内在し、しかもそれが変化するので、人間の表層意識は混乱する。表層意識だけで行おうとすると、あらゆるものが崩壊していくように思えるだろうが、実体は大いに異なる。 それは再び組み立てるための再構築の下準備なのである。 アダマス・セント・ジャーメインからのメッセージ book『神性を生きる』 ジェフリー・ホップ、リンダ・ホップ著 ナチュラルスピリット 抜粋 ★ ★ ★ 少数が多数を支配する古い体系を捨てて、新しい自由で平等の博愛の体系をつくりあげるべきである。競争など必要なく、共感こそ必要である。 憲法を守らない支配者が出てくるということは国家というものが権力者によりつくられた虚構にすぎない、ということを示しているのである。その支配者に罰が与えられない限り、もはや国家を取り戻すことはできない。 つまり米国はとっくに死んでいるし、日本も同じである。
2015年04月01日
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