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<連載を終えて> 昨日の朝ブログを更新して朝食を済ませ、再びPCを開いて驚いた。何とブログのアクセス数がその時点で400件に達していたのだ。もちろんこんなのは初めてのこと。それが午前中のうちに500となり、午後1時に600、夕方に800を遥かに超えるアクセス数になった。先ほど1日分のを確認したら1067件。一体誰が見てくれたのかも、何故そんな数になったのかも分からない。勿論そんなことで慢心することはなく、逆に気を引き締めた私だった。 止まりそうな弱々しい鼓動と乱れる脈拍。このシリーズはそんな心臓の不調と戦いながら書いた。翌朝ちゃんと生きているかも分からない体調。それにブログ友が全て去ってしまうかも知れない重たいテーマ。全くの少数意見なので、ひょっとしたら妨害に遭う可能性もある。そんな不安が深刻な不眠を呼び、良くない体調をさらに悪化させた。それでも私は書こう。それが老い先短い自分の使命だろう。そんな風にも考えていたのだ。 歴史は好きだが、特に詳しい訳でもない。政治に関心はあるが、新聞すらろくに読んではいない。ただこれまでに読んだ本の知識と、ネットで毎日のようにチェックしているニュースと、自分の直感だけが判断の頼りとなった。歴史や政治に関する見方が人によって異なるのは承知の上。それに我が国の防衛に関する「安保関連法案」ともなれば、論議が分かれても当然だ。私は少数意見だが、何とか自分の意見を述べてみたい。そんな想いが強かった。 私は「権威」を信じない方だ。大新聞だから、あるいは相手が学者だからと言うだけで、その意見を鵜呑みにはしない。それは41年間自分が大学や研究機関に勤務したせいかも知れない。その間に私は多くの研究者と接し、中には我が国を代表する研究者も数多くいた。結論から言えば、偉大な研究者ほど謙虚だ。そして中途半端な研究者ほど自分を偉く見せ、威張りたがる傾向にある。 「憲法学」はどうやら日本の学問分野の中では保守的な傾向にあるようだ。現在の憲法を絶対視しその解釈に励む。そのような研究者が多い分野とも聞く。だから憲法が社会の動きや政治体制との間に齟齬が生じても困らないのだろう。「国民をどのようにして守るか」。日本国憲法にそのような視点はないそうだ。残念なことだが先日国会で参考人として述べられた反対意見は、きっと「形式的な学問上」のものだったのだろう。 今般の「安保関連法案整備」に関連して、野党や巨大マスコミが我が国が置かれた現状を正確に分析し、あるべき防衛の姿を述べたとの話は、寡聞にしてついぞ聞かなかった。ただ悪戯に「戦争法案」と呼び、「徴兵制」に繋がると国民の不安を煽った。主張の根拠は一体何なのだろう。私は直感的に「これはおかしい」と感じた。論理的ではなく、国民の感情に訴える手法。それこそが盲目的で危険な道ではないのか。 連日国会前でデモを展開していた学生主体の「SEALDs」と言う団体について、私は全く共感を覚えなかった。それは私の70年以上の人生経験から来る直観。なぜ自発的に集まった学生同士が、皆同じような行動と反応を示すのか疑問。それにインタビューへの答えがどれも画一的な意見ばかり。「あれはある政党が後押ししてる」。ネットのそんな意見に、「なるほど」と頷けるものがあった。 もし彼らの反対意見が本物なら、戦いの本番はこれからのはず。国会で法案は通ったが、法廷闘争でそれを阻止する運動は出来る。ただそんな長い戦いを、「一般学生」の彼らがこれから本当に起こせるのだろうか。もし起こすとしたら、特定の政党の「下請け機関」の専従となるしか方法はないようにも思うのだが。 今、各国の首脳はニューヨークの国連総会に集まり、世界中がそれに注目している。「安保理」では5つの常任理事国が全て核保有国でかつ拒否権を持っているため、自国に不都合な意見は聞かない。つまり国連は単なる形式で、大国のエゴが通る機関とも言える。だがその国連に世界の平和を託さざるを得ないのも事実。そして各国の経済活動が、世界の情勢に大きく作用するのが現実。国連総会の場では、きっと今「見えない火花」が飛び交っているのだろう。 今、世界は一つの岐路に差し掛かっている。テロや戦いに明け暮れている地域もあれば、難民があてもなく彷徨い続けている地域もある。そんな中で飽食で平和そのものの日本。いつまでも国民が豊かで平和な暮らしを続けられるために、これからの日本は一体どこへ向かえば良いのだろう。今回は自分の能力を遥かに超えるテーマに挑んだ。この拙文が、そのことを考える際の刺激になれたら望外の喜びだ。<完>
2015.09.27
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<犯罪国家・北朝鮮> 昭和58年(1983年)10月8日。ビルマのラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)にあるアウン・サン廟の前に、韓国の全斗換大統領が乗った乗用車が着いた。周囲には爆破された残骸が横たわり、大勢の人々が倒れていた。爆死した人の数は21名。このうち韓国人が17名を占めた。重軽傷者は47名に及んだ。これが北朝鮮の工作員によって起こされたテロ、いわゆる「ラングーン事件」だ。全大統領が乗った乗用車は2分遅れて現場に着いたため、奇跡的に事故を免れたのだ。 昭和62年(1987年)アラビア半島のバーレーンで大韓航空機の爆破事件が起きた。犯人達は毒薬を飲んで死んだが、一人の女が死ぬのに失敗して捕まった。女は日本人の「蜂谷真由美」と名乗ったが、捜査の結果北朝鮮の工作員キム・ヒョンヒ(金賢姫)であることが判明した。彼女はやがて許されて韓国に帰化し、韓国人と結婚して日本へもやって来た。そして北朝鮮によって拉致された日本人が数名、生存してることを自分の口から漏らしたのだ。 金日成(1912~1994)、金正日(1942~2011)、金正恩(1982~)。の親子三代。これが社会主義国家北朝鮮を支配する独裁者の家系だ。初代は中国共産党に入党し、朝鮮を併合していた日本と戦った伝説の人。その息子正日は聖地白頭山で生まれたとされているが、父の逃亡先であるソ連(当時)のハバロフスクで生まれたのが真実だ。冒頭のラングーン事件を立案したのが彼のようだ。三代目に選ばれたのが三男の正恩。兄弟の中で一番性格が激しかったためらしい。 私の記憶に残っている北朝鮮の犯罪を列記してみよう。偽札(ドル、円)の印刷と行使。覚醒剤の製造と密輸。日本人等の拉致。朝鮮銀行を通じての不正送金。万景峰(マンギョンボン)号による密輸。原発の開発と原爆製造。朝鮮総連による工作。韓国領への発砲(延坪島事件2010年)、日本海へのミサイル発射などだ。拉致被害者に関しては、平成14年(2002年)に蓮池さん夫婦ら5名が一時帰宅を許され、その後日本へ来た家族もそのまま留まった。 何と言う犯罪国家ぶりだろう。首都ピョンヤンの地下には「敵国」であるソウルの街並みが再現され、工作員がそこでスパイの訓練を受けているようだ。拉致された日本人の中には、工作員に日本語を教えている者もいるようだ。国家の秘密を握っている拉致被害者を、北朝鮮は返そうともしない。第二次交渉の期限も過ぎたが、相変わらず拉致被害者は6名で全員死んだと言い、戦時中の日本人遺骨を高額で引き取らせようとする作戦に出ている。 若き独裁者の暴走が続いている。高齢の幹部を次々に抹殺し、実力者である自分の叔父までついに粛清してしまった。「六カ国協議」も暫く開催されておらず、韓国との観光共同開発も不調に終わった。つい最近、北緯38度線を越えた韓国領内で北朝鮮による爆破事件が起き、緊張が続いた。近くミサイルの発射実験をするようで、韓国は戦々恐々としている。そして4度目の核実験の兆候があるそうだ。今年も食糧不足みたいだが、やはり「恫喝」で救援を迫るのだろうか。 後ろ盾である中国との関係も悪化したこの犯罪国家は、今世界で孤立している。東アジアの厄介者である北朝鮮がこれからどこへ向かおうとしているのか全く不明。お隣の同胞国である韓国も含め、朝鮮半島の行方が全く見えて来ない。それに中国とロシアの闇も加えると、東アジアの将来は混とんとしていると言えよう。そんな国々を隣国に持った日本が、「一国平和主義」で浮かれている暇はないと言うのはそう言うことだ。<続く>
2015.09.25
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<韓国 ~優越感と劣等感の間で~> 「なぜ北京で開催された抗日戦勝利70周年記念式典に参列したのか」。記者団にそう問われた朴槿恵韓国大統領は、「意地」と答えたそうだ。経済も上手く行っておらず、国内の政情も不安定。自由主義陣営にありながら何かにつけて中国寄りの姿勢を見せるのは、日本に対する意地なのだろう。 父は韓国の第5~9代大統領を務めた朴正煕。彼は日韓併合時代、日本の陸軍士官学校に留学している。クーデターで大統領になり、日本から資金援助を受け、韓国経済発展の基礎を作った人だ。だが日本びいきだった父を否定するように彼女は反日の道を取り続け、日韓関係は急速に悪化した。恐らくはそれも意地だったのだろう。 朝鮮半島の諸国と日本が争ったのは、現代が初めてではない。中国皇帝の前で、百済、新羅、高句麗の使者達と日本の使者がその席次を巡って常に争っていたことが中国の史書に記されている。白村江の戦い、二度に亘る元寇、秀吉の朝鮮出兵でも、不幸にして戦火を交えることになった。朝鮮の古い史書には、「倭人」が朝鮮半島南部から九州にかけて住んでいたことが記されているそうだ。倭寇の存在も含め、昔から玄界灘を通じて「交流」があったことは間違いない。 百済と新羅が戦った際、日本は百済を支援して敗れたことがある。その後半島は高句麗が統一することになるが、それらの3国の王族などが混乱を避けて、わが国に逃げて来たことは良く知られている。そしてその彼らが、中国から伝わった知識や技術をわが国にもたらしたことも事実だ。 朝鮮半島は何かにつけて中国の影響下にあった。大陸に連なる半島国の運命だ。「楽浪郡」や「帯方郡」のように中国の一地方と位置付けられたこともあれば、独立国ながら中国の冊封体制下に入ったこともしばしばだ。明治43年(1910年)日本に併合されるまでの約2千年間は、ずっと中国の属国だったと言っても良い。李氏朝鮮(1392~1910)王朝時代、王国は中国の儒教を国是とした。歴史ドラマの「チャングム」や「トンイ」が活躍した時代だ。 日本の幕末に当たる時代、イギリスの若い女性イザベラ・バードが朝鮮半島を旅している。彼女が後に著した本によれば首都である漢城(現在のソウル)の王宮の目の前には、狭い路地に貧しい藁ぶきの小屋がたくさん立ち並んでいたと言う。そして周囲には糞便の物凄い悪臭が漂っていたらしい。なんとその頃の朝鮮の庶民はトイレがないため、家の前の路傍で「用を足して」いたのだ。 彼女は書いていないが、大量の糞便を「処理」していたのが放し飼いの犬達。中でも若い赤犬は美味で、朝鮮の人々は好んで食用にしていたようだ。犬の肉を食べる風習は、とても滋養があるとして今でも残されている。 日清戦争に勝って朝鮮を併合した日本は、その近代化を推し進める。鉄道などインフラの整備、教育制度の整備、産業の育成と相まって、長い陋習の身分制度を解放した。「チャングム」の時代は賤民、僧侶の下層階級のさらに下に「白丁」と呼ばれる奴隷が存在し、庶民の大半は文字が読めなかった。また驚くことに「針」を作る工業も、物を売る商業も許されてなかったのだ。それらの施策で日本政府が費やした予算は、収入を遥かに上回った由。 貴族階級の両班(ヤンパン)が形式化した儒教を信奉するだけで、庶民は何の恩恵も受けてなかった。儒教が重んじられたため僧侶は疎んじられ、この中世時代に大量の仏像が処分されたようだ。初代韓国統監に就任した伊藤博文が独立運動家の安重根に暗殺されたのが併合の前年。若くして総理大臣を務めた伊藤は朝鮮の良き理解者で、征韓論者ではなかったのだが、暴漢はそれを知らなかったようだ。この暗殺者を讃える記念館を、中国が国内に建てている。 竹島 第二次世界大戦が終わり敗戦国になった日本がまだ国連に加盟出来ないうちに、朝鮮戦争が起きた。韓国軍が日本の対馬を奪おうと釜山に軍を集結させている間、留守になったソウルに北朝鮮軍が侵入したのが発端らしい。戦争のどさくさに紛れて、韓国の李承晩大統領は日本海に見えない「李承晩ライン」を引いて日本漁船を締め出し、竹島を奪った。竹島は日本帝国に奪われた韓国の領土と言うのがその主張だ。 だが、日本には江戸末期に描かれた緯度経度入りの詳細で近代的な地図が何枚か残されている。それに対して韓国側の地図は想像図に近く、中には韓国領の鬱陵島と日本の竹島の位置を取り違えたものもあるほど。これでは国際司法裁判所でも勝てないと見た韓国は、そのまま実効支配を続けている。 今、韓国経済は不振に喘いでいる。元々財閥中心で産業の構造が偏っているのに加え、機械の部品のほとんどを日本からの輸入に頼っているのだ。日本企業の退職者を高給で釣って企業秘密を盗むやり方も横行した。日本の円安の影響を受けて輸出が大幅に減少し、失業率が増えている。花形産業で一頃日本を追い抜いていた鉄鋼業や造船業も不振続き。朴大統領の反日政策が祟って、日本人観光客が激減してしまった。 フェリー沈没事件や、感染病の流行、米国駐韓大使の襲撃事件などで、危機管理意識の欠如を世界に暴露した韓国。中国寄りの「コウモリ外交」は、とても自由主義陣営の国家とは思えないほどだ。おまけに野党には北朝鮮寄りで、「国家反逆罪」で逮捕歴のある議員が何十人も存在すると言う不思議な現象。 成功した者は一族を援助するのが当然。その「偏った儒教精神」が政治家や財閥の収賄事件に繋がる根源だ。韓国の家のほとんどが李氏朝鮮時代の貴族である「両班」の家系図を所有している由。到底あり得ない話だが、それが通じるのもまた韓国なのだ。 誇り高い民族がわずか40年にも満たない日韓併合時代を悪夢と見なし、民族の誇りを傷つけられたとして未だにわが国を恨み続けている。それが「従軍慰安婦」問題や、「明治近代産業に関する世界遺産登録」への妨害活動に繋がるのだろう。 韓国が頼りとする中国は、今落日のように沈みかかっている。同胞国家である北朝鮮との相克も、当分続くだろう。すっかり迷路に入り込んでしまった韓国が、そこから再び這い上がることが出来るのだろうか。「正しい歴史認識を持て」。日本にそう要求する韓国が、自らの矛盾に気づく日がいつか訪れるのだろうか。それとも冒頭の孤独な大統領のように、いつまでも「意地」を貫く積りだろうか。 長崎のブログ友である神風スズキさんの試算によれば、日本からこれまで韓国に提供した支援金は83兆円に達する由。だが彼らは未だにビタ一文返済していないそうだ。「朝鮮は日本よりも文化の先輩国」。「儒教も朝鮮通信使を通じてわが国から日本へ伝えた」。そんな優越感を抱く韓国が本物の正義の国かどうか、隣国日本は、その姿勢をじっと見守っている。<続く>
2015.09.24
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<病める巨象・中国> 今日も深夜に目が覚めて眠れなくなった。これは書くしかないだろう。今回のテーマは中国。恐らくは先日の「安保法案整備」に真正面から反対する唯一の国家だ。中国の歴史や政治をあまり知らない私が、一体何を書けば良いのか。まあ、頭を整理しながらボツボツ行こうか。 中国が古い歴史を持っていることは誰でも知っている。先ずは敬意を表してそこから書き出そう。黄河文化は良く知られているが、他にも長江文化や遼河文化ってなものもあるほど中国の歴史は古い。奇妙な青銅器も作っていたし、漢字の源になった甲骨文字も生み出した。夏(か)や殷(いん)、商(しょう)と言う名の古代国家もあった。それらは確か全て漢族が黄河の中流域に興したものと記憶している。そしてそこからやがて「中華思想」が生まれる。 これは漢族の国家が世界の中心との思想。漢民族以外は全てが蛮族と言うわけだ。日本も中国に遣いを出して、国家として認めてもらったことがある。「漢の倭の奴の国王の印」。福岡の志賀の島から出土した金印に刻まれた古代の小国家だ。唐や隋に遣いを出したこともあった。新しい文化や宗教や政治体制などを学ぶためだ。だが、難破して多くの人命を失ってまで遣いを出すことはないと判断し、日本は独自の道を進むことになる。太平洋に浮かぶ島国だからこそ、大国の影響を排除することも出来たのだ。 中国にも変化があった。長い歴史の中で漢民族以外が興した国家も幾つか出現する。「元」(1271~1368)はモンゴル族が興し、「清」(1644~1912)は満州族が興した。清は近代国家となった日本が初めて戦った外国。明治27年(1894年)の日清戦争で勝ったわが国は、それで台湾を得、李氏朝鮮が独立するきっかけとなった。やがて日本は朝鮮を併合する。ロシアの南下政策を危険と観たのだ。そのまま放置すればロシアが半島を奪うだろうと。 病める巨象、中国はヨーロッパの列強に蚕食された。イギリスにはアヘン戦争で敗れて香港を失い、ポルトガルにはマカオを貸与した。またロシアへ遼東半島を、ドイツには山東半島などを割譲した。日本には台湾を譲るだけでなく、第二次世界大戦で大陸の奥深くまで侵入された。だが日本は敗戦国となって大陸から去った。ここから巨象の快進撃が始まる。内蒙古の一部を奪い、東トルキスタンから奪った領土を新疆ウイグル自治区とし、チベット族を完全に制覇し、インドの国境を犯し、王国ネパールに共産主義国家を打ち建てた。 中国には55の民族がいる。中でも人口の多いチベット族が住む西蔵自治区は鉱物の宝庫。彼らの精神的な支柱だったダライラマは、迫害に耐え切れず、インドに脱出した。その後、チベットへは鉄道が敷かれ、漢民族教育が徹底した。最近は新疆ウイグル自治区のウイグル族への迫害が続いている。国外へ脱出したウイグル族が、先日タイでテロ事件を起こした。タイ政府によって仲間が中国に送還されたことへの抗議の由。そして脱出の理由がイスラム国(IS)でゲリラ兵の訓練を受け、中国政府を倒して自分達の国家を建てるためと言うから恐ろしい。 つい先日、中国は抗日戦争勝利70周年の記念式典を挙行した。中国共産党の八路軍が日本軍を打ち破った祝いだ。だが日本軍が戦った相手は蒋介石が率いる国民党軍。国家としての「中共」の誕生は終戦の4年後だ。実は歴史を捏造するのは中国の伝統なのだ。革命で勝った国が、敗れた前の国家の「正史」を書くのが通例。従って、あくまでも正しいのは勝った国。あの犠牲者は200人ほどとされる「天安門事件」でも、一体どれだけの人民が死んだか不明だ。 十数年で40倍に膨れ上がった軍事費。無理に無理を重ねた工業化で、国内には深刻な公害が発生している。大気汚染、土壌汚染、水質汚染に食糧汚染。都市と農村の所得格差、政府首脳の汚職と不正蓄財と、子弟の海外流出。先日天津港で起きた大爆発も、権力争いのためとの噂もある。ともあれ不動産バブルで浮かれた経済が、今瀕死状態であることは確か。新機軸の「アジアインフラ投資銀行」も軌道に乗るかどうか。 東シナ海では、日本の尖閣諸島を狙うだけでなく、天然ガス油田開発に名を借りた軍備が着々と進んでいる。海上プラットホームもさらに増強したようだ。だが「環球時報」で沖縄を奪うとした中国にとって、今回の「安保法案整備」は思わぬ大敵になったことは間違いないだろう。 ラオス、タイの国境を流れ、カンボジアとベトナムを潤すメコン川。ミャンマーの国土を流れるサルウィン川。これらの水源は中国奥地にあるが、中国はそこにダムを建築したため下流は水不足気味と言う。南シナ海の浅瀬を埋め立てて港湾や滑走路を造り、近隣諸国との軋轢を生んでいる中国。滑走路の着手はとうとう3本目になった由。 中国が国連安保理の常任理事国の席を得たのは、アフリカ諸国に大金をバラまいたため。それで貴重な金属資源を開発し、かつ世界のリーダーに躍り出たのだ。その巨象が今、熱病に苦しんでいる。日本軍による「南京大虐殺」の嘘も効き目が無かったようだ。不動産バブルが弾けて国土は鬼城(ゴーストタウン)化し、株価は下がり、外国資本は逃避し始めた。市場としての魅力も無くなって来たのだ。 元々中国への外国企業の進出に際しては、最新技術の公開などを義務付ける不当な要求があった。また、中国から企業を引き揚げる際は、財産没収などの恐れもあった。そこまでの制約も、どうやら巨象を再生させるカンフル剤にはならないみたいだ。病める巨象が倒れた時、13億もの人々の運命は果たしてどうなるのだろう。そして中国の影響下にある北朝鮮と韓国でも大きな動乱が生じるのではないか。 ヨーロッパでは、目下百万人規模のシリア難民が押し寄せている。この東アジアでも、そうならないとは断言できないだろう。「一国平和主義」で浮かれる日本。「備えあれば憂いなし」。今般整備された安保法案は、そのための一助になるのではないか。だがわが国の前途は、決して平坦ではないとも感じている。<続く>
2015.09.23
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<米国の怒りと不可解な老人> もしもわが国が外国から侵略された場合、貴方ならどうしますか。私は志願して戦いたいと思う。だが、日本には志願兵の制度はない。また、あったとしても私のような病気持ちの老人は、何の役にも立たないだろう。 現在自衛隊員になるには、中学校を卒業して自衛隊の専門高校に入学する道と、幹部候補生になるため防衛大学に入る道しかない。今般、安保法案の整備が徴兵制に繋がると主張した野党があるが、専門の教育と訓練を受けない限り近代兵器を取り扱うことは困難な由。つまり「徴兵制」など到底あり得ないと言う訳だ。 また「安保法案の整備で自衛隊員のリスクが増える」との指摘もあった。与党は「リスクは増えない」と主張したが、これまでより増えるのは確かと私は思う。だが、元幕僚長の田母神氏は言う。「自衛隊員のリスクが増えることは、国民のリスクが減ることを意味する」と。とても明快な論理だ。隊員は極力隊と自分のリスクを減らすために、日夜訓練を重ねている。 だが、隊員の平均年齢は35歳代と高齢化し、給与も消防署員より少ないのが現状らしい。それでも隊員達は、国を守ることに誇りを抱いている。そして昔の軍隊と違って完全に文民統制下にあるため、自衛隊が独走することはあり得ない。 今回のわが国における安保法案整備を、世界はどう評価しているのだろう。同盟国であるアメリカの歓迎は当然だが、イギリス、フランス、ドイツ、オーストラリアなどは高く評価し、好感を持って歓迎しているようだ。アジアの諸国でもインドネシアとフィリピンがいち早く歓迎を表明した。韓国はこのことにある種の懸念を示し、中国は明確な反対の意思を表明し、北朝鮮は無言を貫いているように見える。反対の国はごく一部で、日本の措置は概ね世界から受け入れられ、欧米の中には期待を寄せる国も少なくないようだ。 わが国の平和は憲法9条で守られていると思っている国民が多いようだ。戦後70年間、日本は平和国家として世界に貢献して来た。確かに憲法9条のお陰もあったかも知れない。だが繁栄の陰には、日米安保条約と米軍の存在があったことも事実。しっかりわが国を守ってくれたために、平和と繁栄を享受出来たことに気づかない国民が多いだけの話。だが世界一の経済大国アメリカにも、とうとう陰りが目立ち始めた。 「世界の警察官」を標榜していたアメリカも経済活動が低下し、国家予算の編成に苦心している。そのため世界の各地に展開していた軍隊を引き揚げ始めた。日本への駐留も大きな負担なのだが日本国民は感謝するどころか、逆に迷惑と感じる向きもある。もしも全て自前、つまり自衛隊だけで日本を防衛すれば、どれだけ莫大な軍備費がかかるかに気付いていないのだ。もちろんわが国がそのような道を選ぶことは到底困難なのだが。 民主党も共和党も日本への不満を隠さない。わが国の軍が日本を必死の思いで守っているのに、もしもわが国の軍が危険に曝されても、自衛隊は助けることが出来ないと。つまり「不公平」と言うのが彼らの言い分だ。かつてソマリア沖で日本のタンカーが海賊に襲われたことがあった。傍にいた自衛艦は手出しが出来ないため、米軍の小さなボートが海賊に立ち向かって退散させた。その時3人の米兵が犠牲になったが、日本のマスコミにはほとんど報道されていないそうだ。 中国は9月3日に「抗日戦勝利70周年」の記念行事を催し、軍事パレードを展開した。その中には堂々たる弾道ミサイルの一群があった由。それは中国からアメリカの西海岸まで到達する最新鋭のもの。しかもそれを製造出来るのはアメリカだけなのだが、なぜか中国が保有していたのだ。理由はサイバー攻撃による軍事機密の強奪。アメリカが怒るのは当然だろう。 その軍事パレードをロシアのプーチン大統領と一緒に、韓国の朴クネ大統領が見物していた。同盟国のアメリカが参加しないよう必死で説得したにも関わらずだ。過去十数年間で40倍もに増大した膨大な軍事費で整備した近代兵器の山。それを日本の元総理、村山氏も見物したようだ。どうやら中国政府から招待されたようだ。「従軍慰安婦」の真実も確かめないまま「村山談話」を世界に公表したあの眉毛の立派な老人が、今回また国益を損なう不可解な行動を取ったのだ。<続く>
2015.09.22
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<油断と苦戦> シルバーウイークにも関わらずたくさんの方が見て下さっていることに先ず感謝したい。さて、昨日は墓参りに行った。お盆の頃は最悪の体調で、とても墓参りに行ける状態ではなかったのだ。ようやく胸のつかえが降りた。また昨日はもう一つ嬉しい出来事があった。帰宅後に観たラグビーワールドカップで、日本が過去2回優勝し、今回も優勝候補に挙がっている南アフリカを下したことだ。 日本がこの大会で勝利したのは、24年ぶりらしい。チームの顔ぶれを観て驚いたのが、中に数名日本人とは思えない顔が混じっていたこと。プレー中に日本が好きになって帰化しただけでなく、3年間滞在すればその国の選手として出場可能なのだとか。今回の安全保障問題も同じだと私は感じた。日本一国だけでは安全を保てないし、国民を守れない。だから集団的自衛権が必要な時代になった。私はそんな風に捉えている。 安全保障関連法案の整備に関して、反対を表明していたブログは幾つかあった。連日の抗議デモへの賛同も目立った。だがほとんどのブログは、沈黙を守っていた。賛意を示したのは、結局私の他には誰もいなかった。言っておくが私は右翼とは違う。彼らの街宣活動は大嫌いだし、天皇制も積極的には支持しない。だが、防衛問題はわが国にとって最重要課題の一つであり、日本の周辺には今危険な芽が幾つか芽生えつつあると認識している。 最近安倍政権では、判断の甘さが目立った。最初は「国立競技場問題」。結局は最初からコンペをやり直すことになった。次に「東京オリンピックのエンブレム問題」。これもコンペのやり直しで決着がついた。きっと大勢の国民が動揺や不満を感じたはずだ。 そして安全保障関連法案の整備に関し、自民党若手議員の不規則発言が起きた。非公開株式の購入問題も発覚して、同議員は結局自民党から去った。さらに首相補佐官が法案の安定性に関して不規則発言をした。これは参議院の特別委員会委員長が委員会に招致し、同補佐官は陳謝した上で発言を取り消す結果となった。いずれも総理を補佐する積りが逆に政府を追い詰め、国民の怒りを買う結果となった。自民党の油断と甘さを強く感じた案件だった。 国会での総理の野次が問題にもなった。そして本件に対する国民の疑問が拡大したのは、与党側の参考人が「安保法案は憲法違反」と断言したことだ。完全な人選ミス。事前のチェックが全く出来ていなかったのだ。あの教授を推薦したのは船田元議員だったようだが、判断の甘さの典型と言えよう。国民の理解を求める機会が、逆に国民に疑惑を抱かせるきっかけになったのだから。野党の呼び掛けもあって、国会前で連日デモが展開され始めた。 法案は合憲とする研究者もいたのに、何故その人を選ばなかったのか。最後の最後で詰めの甘さがまた出た。まさに「油断」そのものだ。全国紙で本件に批判的だったのが「朝日」、「毎日」「東京」。明確な賛意を表明したのが「読売」と「産経」か。テレビ局もほぼ系列紙通りの対応で、中には安倍総理が直接出演して国民に訴えることを拒否した局もあったように聞く。野党の中には「戦争法案」が「徴兵制」に繋がると訴えた政党もあった。その主張が国民に大きな不安を与えたことは確かだ。 東京だけでなく、全国各地でも反対のデモが起きた。山形市長選挙では、法案への賛否を問う戦いになった。結局反対の意思表示をした候補は敗れたが、このことが「維新の党」分裂への引き金となった。総理が出演した読売テレビの「そこまで言って委員会」は大変面白かった。だがあの場で総理が話した法案の趣旨は、国会での答弁と異なると私は感じた。どうもあまり法案の内容が整理されてないのではないか。正直、そんな疑念が起きたのも事実。 「不倫は文化」。かつてそう話したタレントの石田純一がデモの映像に写った。「日本は個別的自衛権で十分対応出来る」。その時彼は、そう演説していた。本当にそうだろうか。私には日本が一国で自国を守っているようには見えない。米軍基地の存在と言う厳粛な事実があるからこそ、近隣の某国が手出しをしないだけの話だ。 つい最近、IS(イスラム国)が攻撃の対象として日本を上げた。また近隣の某大国の首脳が、軍に対して戦争準備に取りかかることを命令したとの情報も聞いた。ラグビーではないが、そんな危険な思想を持つ国家や団体に対して、世界は共同でスクラムを組む必要がある。今は一国で平和を守れるほど単純な時代ではない。安保法案の整備が戦争への抑止力に繋がると信じる所以だ。<続く>
2015.09.21
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<国会での審議と印象など> 参議院での採決で、一つの問題に決着がついた。「安全保障関連法案」のことだ。国民の意見を二分するこの問題について書きたいと思う。だが、これを書けば元々多くないブログ友を、さらに失うことになるかも知れない。それでもやはり、私は書くほかないだろう。特段政治や法律について、知識があるわけでもない。それに体調も悪く、いつまで生きられるかも分からない。いわば死にかけてる一人の爺さんが、何かほざいてると思ってくれたらそれでも良いのだ。 まだ参議院の特別委員会での審議過程では、とんだ茶番劇をやってるなと言うのが正直な印象だった。それが本会議での採決を前に、各党の論説が行われた。それを聞いて、初めてこの問題の実態と本質が分かったような気になった。前夜から眠れずにいたが、この夜も一旦床に就いたもののその後の進展がどうなったか気になって目覚め、テレビのスイッチを点けた。 民主党の福山氏。ここまであらゆる抵抗を続けて来たものの、とうとう「悪法」の成立を許す無念さに溢れていた。自民党は、なぜこの法案整備が必要なのかを冷静に話した。共産党は「戦争法案」が徴兵制に繋がり、日本の平和を壊すと説いた。公明党は国際状況と日本の立場を丁寧に話した。その他の政党も、各々自党の立場を明確に述べた。そうか。そう言うことだったのか。審議の最後の最後になって、ようやくこの法案の実態が見えて来た気がした。 そう言われたら、確かに今後の日本はこれまでとは大きく立場を変えることになり、かなり不安も覚える。しかしわが国を取り巻く環境や世界の情勢を見たら、今のままでは良くない。何らかの対策が必要だと思うのだ。それも出来るだけ早急に。それだけ日本の平和が脅かされていると私は実感していた。不測の事態が起きるまでに、何らかの対策が必要だ。それが今回の法案整備なのではないかと。 それにしても公明党がここまで頑張るとは思っても見なかった。創価学会員が党員の大半を占める政党で、私はあまり好きではない。ただし「平和の党」を標榜し、あまり危険な方向には向かわないと言うような安心感はあった。それが与党に与してからは自民党へ影響を与え、自民党も止むを得ず公明党の意向を尊重せざるを得ない面もあった。今回の問題は学会員の中からも反対の声が多く、党はそれを押し切ってまでも最後まで自民党と行動を共にした。へえ、あの公明党がそこまでやるかねえ。 本件に関しては国会前などで、連日デモが展開された。だが私はあまり感動を受けなかった。認識がまるで違うのだ。法案整備の危険性や違憲性よりも、日本が置かれている現況の厳しさや危険性の方が心配だった。人間であれば誰しもが好きで戦争を起こそうとする者はいない。そして誰だって平和な暮らしを願うのが普通だと思う。でもその方法が違うのだ。平和は黙っていれば勝手に着いて来るものではない。まして問題が複雑な今日の国際環境においては。 ともあれ一つの方向が示されたが、このまま順調には進まないと思う。これから法案の違憲性に関する提訴があり、長い裁判が始まることだろう。そして今回の結果が、来年の参議院議員選挙に大きな影響を与えることは必至だと思う。どんな結論になるかは全くの不明。だがどちらの立場に立っても、自分の方が正義だと信じている国民がいることだけは確かだ。これほど大きな課題を、たった一人も死ぬことなく結論を得たことも事実。先ずは賽は投げられた。<続く>
2015.09.20
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<戦争と欺瞞性> 進軍ラッパ 第二次世界大戦の引き金になった満州事変の発端は、日本軍の自作自演だったようだ。それ以来「大東亜共栄圏」を唱え、「八紘一宇」をスローガンにした。つまりは日本の主導の下にアジアは一つになり、欧米に対抗しようとしたのだ。完全な独立国は日本くらいしかなく、アジアの諸国は列強に支配されていた。日本が起こした戦争は、果たして西欧諸国の植民地政策とどれほど違っていたのだろう。 戦果は「大本営発表」として公示された。だが、その実態はどうだったのだろう。日本が勝った時は新聞も誇張して書き、負けた時は「転身」などのように表現した。戦線がアジア大陸から太平洋へと拡大して行く。真珠湾攻撃を発端とする日米開戦だ。 だが日本軍の暗号は全てアメリカに解読されていたそうだ。真珠湾攻撃も事前に知っていた。ルーズベルト大統領は、初めから日本の経済を封じ込めようとしていた。そのため、わざと日本に先制攻撃させ、戦争の口実を作ったようだ。日本の宣戦布告も、わざと受け取らなかったようだ。 物資の所蔵量が日米では大きな差があった。持っている情報量もアメリカが圧倒的に多かった。戦争が始まったばかりの時は日本軍が有利な局面もあったが、ミッドウエー海戦辺りからアメリカの優位は歴然となった。日本は陸軍と海軍がお互いの石油備蓄量を相手に教えずに戦争を始めたそうだ。輸送船団を攻撃されて補給路を断たれ、日本軍は次第に孤立して行く。沖縄戦でも敗れ、最後は爆撃機による本土空襲と、原爆投下で敗戦が決定的なものになる。 仙台空襲 昭和20年8月6日。広島に原子爆弾が投下された。その3日後には長崎も同じ運命を辿った。どちらも軍都として、軍の重要な機能を備えていた。だが被害に遭ったのは、軍人よりも一般市民の方が圧倒的に多かった。そして広島に投下されたのはウラン型であり、長崎はプルトニウム型の原子爆弾。タイプが異なるのがは、それぞれの威力を試したからだ。つまり広島と長崎は大量殺りくの実験台だったのだ。 原爆による広島の死者は、その後の後遺症によ死者も含めて約40万人。長崎は約20万人にも達した。これはまさに非人道的な殺戮だ。戦後広島にはアメリカが設立したABCCが置かれる。これは原爆の被害が人体にどう影響するか調査するもので、治療を目的とするものではなかった。自国への非難を恐れたアメリカは、その後で中国が唱え出した日本軍による「南京大虐殺」説に加担して行く。 「安らかに眠ってください。過ちは二度とくり返しませんから」。広島の爆心地には、そんな言葉が刻まれた石碑が今も立っている。原爆を落としたのはアメリカなのにだ。そして今も国内の原爆禁止運動は、「原水禁」と「原水協」とに分裂したまま。それが被爆国日本の実態だ。 「極東国際軍事法廷」それがいわゆる東京裁判の正式名だ。ここで旧日本軍の戦犯が裁かれた。人道に対する罪ではなく、「平和に対する罪」つまりA級戦犯として裁かれたのが東条英機以下の者。25名が有罪となり、そのうちの7名が絞首刑となった。国際判事のうち唯一無罪を主張したのがインドのパール判事。戦勝国の人間が敗戦国の人間を裁くのは公平ではないとの考えによるものだ。 一説によれば東条は昭和天皇の戦争責任の身代わりになることを覚悟していた由。インドには今も彼の銅像が建てられている。東条を始めとする日本軍の決起は、インド独立の基になったとの考えによる。インドネシア、フィリピン、中国などにも一部の日本兵が残り、彼の地の独立運動を援助した。「八紘一宇」が形を変えて実現したのだ。こうして第二次世界大戦が引き金になり、アジアの諸国のほとんどが西欧から独立した。 「南京大虐殺」は中国軍が外国人の新聞記者に書かせたものと言われている。日本軍の蛮行を世界に広めるためだ。最初は犠牲者数を20万人と言っていた。だが、日本政府が否定しないと見ると、次は30万人と言い出した。最近の主張ではこれが40万人に増えた由。元々南京市の人口は20万人。それを全員殺害するなど無理な話なのだ。彼らの主張によれば1日5千人以上殺した計算になるが、果たして死体をどうやって埋めたのだろう。 実態は市民の姿になったゲリラ兵を1万人ほど殺害した程度だろう。それがアメリカの「後押し」もあって、世界に事実として広まった。情報戦は人の良い日本がもっとも苦手とする分野の一つだ。 従軍慰安婦問題は吉田清治の著書で一気に広まった。それによれば旧日本軍が済州島で朝鮮人の若い女性200名を強制的に従軍慰安婦として連行したとのこと。それが朝日新聞の記事によって、一気に世界に広まった。朝日新聞は繰り返し連載して、これを事実として報道した。ところがその後で、吉田の著書が何の裏付けもないことが判明した。済州島でそんな事実がなかったことが、現地取材で判明したのだ。 ところが朝日新聞はその事実を伏せ、30年以上もそのまま放置した。その間に日本の人権団体などが国連の人権委員会に旧日本軍の蛮行を訴え、それが真実のこととして報告書にまとめられた。それを根拠に韓国はアメリカの地方都市などに韓国少女の従軍慰安婦像を建て始め、教科書にも載ることになった。 吉田清治氏は日本共産党の党員だった。そして朝日新聞の記事を書いた植村隆記者(現在私立大学所属)の妻は韓国人で、妻の母は韓国の従軍慰安婦問題の活動家の由。つい最近オーストラリアの地方都市でも、韓国人少女の従軍慰安婦像を建設する動きがあったが、住民の意識を分裂させるとして建設は否決された。その市は中国系と韓国系住民の合計が20数パーセント以上の由。そして韓国には、現在80歳の「元慰安婦」がいる。もしそれが真実なら、わずか8歳ほどの少女が毎日20名から30名の日本兵を相手にしたことになるのだ。 確か10年ほど前だと思うが、旧日本軍による人体実験の話が本になった。731部隊と言う名前の秘密部隊が、中国人を生きたまま医学実験の材料にしたとの内容だった。私もそのことを知って大変驚いたものだ。だが最近になって、その本に載った写真が全く事実ではなかったことが判明したそうだ。載った写真は明治時代に国内でペストが流行した時のもの。そして本の写真を提供したのが「赤旗」だったことも判明した由。 人間の世界にデマは付き物だ。まして戦争になったら、どんな手段でも使うのだろう。アメリカはベトナム戦争で大量の枯葉剤を空から撒いた。ジャングルに潜むゲリラ兵に手を焼いたためだ。だがその農薬のせいで、先天異常児がたくさん生まれた。日本で分離手術を受けたベトちゃん、ドクちゃんもその被害者だ。アメリカが日本の活発な捕鯨活動を批判し始めたのはその時からだ。自国への批判をそれによって逸らそうとしたのだ。大国による情報操作は、今日ますます盛んになっている。<続く>
2015.08.18
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<私が見た風景と戦争> 私は昭和19年の3月に生まれた。第2次世界大戦の最中である。従って戦争の記憶は全くない。私が見たのは戦後の風景だが、その風景を通じて戦争との関わりについて記そうと思う。なお、文中の写真はすべて、仙台市歴史民俗資料館の所蔵資料から借用したものである。 父は13人兄弟の三男だった。伯父の1人及び叔父の1人が戦死している。叔父の1人が満蒙開拓団に志願し、現地で開拓をしていたが戦後無事帰国。父はフィリピン方面に出征し、砲弾の破片で負傷。右足の膝から切断。いわゆる傷痍軍人として帰国した。私達兄弟には戦後生まれの弟を除いて、戦時に相応しい名前が付けられた。従姉の名は勝子。私と同学年だが、何年か前に亡くなっている。 母は父の出征中に知人にレイプされた。その後帰国した父との間に私と弟が生まれたが、戦時中の事件がわだかまりになり、弟が生まれて間もなく離婚した。私には幼い日に多分母だと思う人と手をつないだ、微かな記憶しか残っていない。 私の記憶に残る風景は、空襲後の焼け跡だ。母と別れて住んだ家の庭に畑を作り、そこにカボチャを植えてあった記憶がある。その後2度仙台市内を引越し、父は家を建てた。その近辺にも焼け跡があり、そこが私達の遊び場だった。現在の東北大学農学部のキャンパスだが、その構内の至る所に白いゴムが落ちていた。衛生サックつまり現在のコンドームだが、その時は何に使うものか知らなかった。道路は舗装されておらず、雨が降ると至る所に水溜りが出来た。 当然だが、防空壕に入った記憶はない。だが、戦後も仙台市内の崖のある所には、防空壕の穴が幾つも残っていた。だから防空壕の名前は聞いて知っていたが、現在はほとんど見かけない。空襲時にはきっとたくさんの人が逃げ込んで、生命の危機を免れたのだろう。先日の「ブラタモリ」で、頑丈な防空壕が今も残る家を見た。やはり広瀬川沿いの崖のある地区だった。 お祭りなどの行事があると、傷痍軍人が自分の負傷した体を「見世物」にして同情を買い、お金を恵んでもらっていた。彼らは傷痍軍人手帳を持ち、国から年金が支給されていたはず。父も傷痍軍人だったがこのようなことはせず、自分でお金を稼いだ。父は「闇屋」、お菓子屋、食堂、住宅経営などを手がけた。だが「もらい火」の結果多額の借金を作り、夜逃げした。浮沈の激しい人生で、私達子供もその影響を強く受けた。 浮浪児と言う言葉がある。戦争で身寄りを失い、自分達で自活していた子供たちだ。やがては孤児院に収容されたのだろうが、まだ路上生活者はいた。東京の地下道には、そんな人がたくさんいた。今で言うホームレスだ。戦争は家族を引き裂き、家庭を破壊する。私達兄弟も、それに近い経験をした。悲惨な時代だった。 子供の頃の記憶と言えば、空腹の記憶が強烈だ。ゴマ塩だけをかけたご飯。盗んだネギを刻み、醤油をかけただけのおかず。食糧は配給制で、数に限りがあった。サツマイモの茎に近い部分も食べた。そのサツマイモも農林○号と言う名の、とても不味い代物。そんな時代の救いが学校給食だった。ともかく小学校に行けば、給食で何かは食べられたのだ。脱脂粉乳だって私にはご馳走だった。それでも子供達はやせて、栄養失調寸前の体をしていた。 また学校では、頭からDDTをかけられた。これは「頭シラミ」を撲滅するため。現在の「枯葉剤」と同じ成分の毒薬だ。また学校では「虫下し」を飲まされた。野菜に付着した寄生虫の卵が体内で成長し、栄養を吸い取ってしまう病気だ。私は気持ち悪くて飲まなかった。父の体内から出た10匹ほどの回虫が、洗面器の中で死んだのを見ていたからだ。 桜の咲く校庭に整列して、山内校長先生の話を聞いた。「日本は独立した」。確かそのような内容だったと思う。昭和26年9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に署名した。これでようやく敗戦国日本が世界の仲間入りしたのだ。だが効力発生は翌年の4月28日から。きっと私の脳裏に残っているのはこの日の記憶。私は小学3年生だった。 この前、昭和25年の6月に朝鮮戦争が勃発した。ソ連と中国は北朝鮮を支援し、米国は韓国を支援した。日本に駐留していた米軍も朝鮮半島に駆け付けた。仙台市内でも軍事演習に向かうアメリカの戦車を、街中で良く見かけた。米兵は戦車の上から子供達に、チューインガムやコーヒーが入った袋を投げた。ガムは食べたが、「苦い粉」は捨てた。 GHQから日本が再軍備を求められたはこの時だ。自由主義諸国の仲間入りをした日本に再び軍隊を置き、何としても共産主義の拡大を防ぐ狙いがあったのだろう。平和主義を謳う憲法を強制された国に、再び30万人の軍隊を作ることを要請する大国。吉田総理は粘りに粘って3万人の規模の保安隊を置くことで妥協した。それ以上は日本の国力では無理と主張したのだ。それが現在の自衛隊の前身となった。 借金を作って夜逃げした父を追ったのは昭和29年の冬のこと。もう給食費すら払えないような状態だったのだ。中学2年の兄、小学5年の私、そして小学1年の弟の3人が、夜汽車と連絡船を乗り継いで四国へ渡った。数年ぶりに会った父が私達を見て驚く顔が今も忘れられない。その父も私が高校に入って間もなく脳溢血で死んだ。まだ40歳の若さだった。 父が作った財産の全てが3人目の母に奪われ、私達は再び故郷の仙台に戻った。優しい叔父の家に厄介になり、アルバイトをして何とか高校を卒業した。学校が休みの時は、複数のアルバイトをした。その後結婚した兄は35歳の時に脳出血で倒れ、その後も発作を繰り返したが今も存命だ。妻をがんで失った弟はその後転勤先の九州で出会った現在の妻と再婚し、そこで暮している。私は東日本大震災の年に不整脈を発症して2度手術を受けたが、今もその症状に苦しんでいる。 姉は35歳の時に事故死した。両親の離婚、そして父の夜逃げなど、最も多感な時期に家庭がなかった姉は、最大の犠牲者だったと思う。一人で高校や看護学校の入学手続きをし、学資をまかなった苦労は、並大抵のものではなかったはずだ。兄弟で一番頭脳が優れていた姉がたった一度だけ私の高校へ文化祭を見に来てくれたのが懐かしい。 父と別れた母は長く病院に入っていた。その母と最後に会ったのは、死の3日前だった。母の顔を見たのはそれが2回目。3回目は死後のことだ。もしも戦争がなかったら、父と母の人生、そして私達兄弟の人生も大きく違っていたはずだ。薄倖の人生を終えた母の顔が穏やかだったのが、せめてのも慰めだ。 今、父と母は同じ墓に眠っている。姉の遺骨も分骨して、父母と共に眠っている。それは兄の考えによるものだ。お墓は私達兄弟がお金を出して作った。私もいずれそこへ入る予定でいる。その時に父母や姉と何を話すか、今から楽しみにしている。<続く>
2015.08.17
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<日本と戦争> 人は生まれる国も、生きる時代も自分で選ぶことは出来ない。そして政治家でない者が政治を語り、歴史家でないものが歴史を語れば、齟齬が生じるのは当然だろう。それでも私達は過去の戦争について語り、記す必要があるように思う。人はなぜ戦うのか。日本はなぜ戦ったのか。過去の歴史を紐解くのは容易ではない。まして価値観は時代によって異なり、国や個人によっても異なる。難しいことだが、敢えて私の視点を記してみたい。 日本と外国の戦争は、奈良時代の新羅が最初だったと認識している。朝鮮半島に領土を持っていた日本は百済と友好関係にあった。だが、百済が新羅と戦争になり、日本軍も援軍を出して白村江などで戦って敗れた。新羅軍の侵攻を恐れた天智天皇は都を近江に移し、大宰府周辺の大野に水城と山城を築き、瀬戸内海沿岸にも朝鮮式の逃げ城(山城)を築いた。この時は幸いにも日本への侵攻はなかった。 次の戦争は鎌倉時代。モンゴル人が建国した元が、朝鮮半島の高句麗を従えて日本に侵攻して来た。日本が元の臣下になることを拒否したためだ。これがいわゆる元寇で、弘安の役など2回あった。博多周辺に防備のための土塁が築かれ、全国から武士が北九州に駆け付けた。対馬と壱岐の住民のほとんどが、この時殺戮された。仙台周辺からも武士が九州に赴き、このうちの何人かが死んでいる。 2回とも季節風(台風)が吹いて元と高句麗の船団は大破沈没して事なきを得たが、まさに日本の危機だった。日本は刀や槍で戦ったが、相手は火薬を使った火器を持ち、船も大きくて頑丈だったのだ。この時の季節風を「神風」と呼んだ気持ちが分からなくもない。 次の戦争は安土桃山時代。全国を統一して天下を治めた豊臣秀吉は、武将に与える恩賞の土地が国内に無くなり、朝鮮半島を侵攻した。元寇同様、相手にとっては迷惑な話だ。2度玄界灘を渡って朝鮮半島で戦ったが、地の利なく日本軍は破れた。この時かの地から陶工などの技術者を引き連れて帰国した。薩摩焼の祖、沈寿官氏の祖先などがそうだ。この時殺戮した朝鮮人から削いだ耳や鼻を祀った「耳塚」が、今も京都に残されている。老人の妄想から生まれた意味のない戦いだった。 鎖国していた日本にとって、幕末期の諸外国の黒船渡来は青天の霹靂ではなかったか。それ以前、大航海時代から西欧列強の世界進出が始まり、インドや東アジアはその手で支配されていた。中国も列強特にイギリスによって蚕食され属国化していた。わずかに開港していた長崎や平戸を通じて、その事実を知っていた日本も国内で攘夷論が盛んになった。長州藩や水戸藩では対立する派閥同士で殺し合いが始まった。わが国最大の危機を救ったのは、洋学の知識と下級武士の決起だったと思う。 フランスが幕府側に付き、イギリスが薩長側に付いたが、直接列強同士の奪い合いにはならなかった。多大の犠牲は払ったが、ともあれ日本は近代国家への仲間入りを果たし、アジアで唯一の先進国への道をひた走ることになる。この時に採られた政策が、いわゆる「富国強兵」策だ。 日清戦争で勝った日本は勢いに乗って、「南下政策」を採る大国ロシアを相手に戦争を始めた。近代国家日本を脅かすと考えたからだ。無謀な戦いだったが、ギリギリのところで勝った。この2つの戦争での勝利が、その後の日本軍を狂わせたのだろう。小国日本が大国を次々に破り、国民も先進国の国民となったことに酔いしれた。教育制度、軍の整備、科学技術の振興。明治以降次々に実行して来た近代化の勝利とも言えるが、奢りもあったのだろう。 第一次世界大戦で、日本は戦勝国の仲間入りをした。そのことがさらに国力の増強と、軍備拡張に繋がったと思う。紙数の関係で今日は第二次世界大戦のことについて書かない。70回目の終戦記念日を前に、この1週間私はテレビの特集番組で様々な映像を観た。そのほとんどが初めて観る内容だった。その感想だけを、以下に記しておきたい。 空襲による仙台市街の焼け跡1)戦争には原因と理由がある。2)戦争には相手がある。3)戦争には結果的に良い戦争も、悪い戦争もない。4)戦争はたとえ勝ったとしても、その犠牲が大きい。5)原爆投下や爆撃機による無差別的な爆弾投下は、人類への犯罪行為である。6)戦勝国による「東京裁判」は、決して公平な内容ではなかった。7)それでも戦争は絶対に起こしてならない。 戦争に美しいものなどない。第二次世界大戦で死んだわが国の軍属は約240万人。そして一般国民の数は約80万人。合わせて320万人の尊い命が失われた。これは人類史上過去最高の犠牲者数らしい。それにこの戦争で亡くなった外国の犠牲者数を加えたら、果たしてどのような数字になるのか恐ろしいほどだ。改めて戦争の愚かしさを思う。<続く>
2015.08.16
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<注意>このシリーズには政治的な内容が含まれています。人によっては不愉快と感じることもあるかも知れませんので、スルーしてください。またブログ友の皆さんも、無理にコメントする必要はありません。そのことを予め記しておきます。 体の異変に気付いたのは、確か8月6日の未明だったと思う。その時はまだ微細な症状しか出なかったが、翌日から胸が苦しくなった。久しぶりの不整脈の発生だ。動悸、目まい、胸のむかつき、そんな不快さに耐えながら取材し、ブログを書き続けて来た。「このままでは危ないな」。そんな風にも感じていた。ここ数年、年に何回かこんなことが起きる。こうなるととても運動するどころではない。ただじっと、苦しみに耐えているだけだ。 私の不整脈のパターンは3つほどある。強烈なもの、微細なもの、そして突然現れ、突然消えるもの。今度のものは、どうやら最後のタイプのもののように思う。2度の手術と1度の処置でも退治し切れなかった不整脈。暫く飲まないで保留してあった薬を、自分の判断で飲んでいる。お盆の今は病院が休み。来週になったらいつもの循環器内科を訪れ、相談したいと思う。恐らくは心臓にペースメーカーを埋めるしか手がないように思うのだが。 今日は8月15日。70周年目の終戦記念日だ。第二次世界大戦の敗戦国となった日本。そのことをどう捉えるべきか。そして、今後わが国が国際社会の中でどう進むべきか、そんなことをこのシリーズでは考えたいと思っている。自分の手に余るテーマだ。だがそれは後何年も生きられない世代として、当然の責務のようも思える。昭和19年の3月生まれの私は、戦争の記憶はない。だからこれから書くことは、自分なりの経験と考えに頼るしかなく、そのことを最初にお断りしておきたい。 昭和天皇を演じた本木雅弘 過日1本の映画を観た。タイトルは『日本のいちばん長い日』。太平洋戦争の最終局面で、どうしたら戦争を終結させられるか鈴木貫太郎内閣は苦慮していた。沖縄の地上戦も芳しくない状況。国内の主要都市はB29などによるアメリカの空襲で焼け野原になっていた。そして広島と長崎へは新型爆弾の投下があり、甚大な被害が出ていたのだ。これは大元帥である天皇陛下の聖断を仰ぐしかない。日本最高齢の首相はそう判断する。 鈴木貫太郎首相に扮した山崎努 阿南陸軍大臣に扮した役所広司 天皇は自分の名で始められた戦争を、自分の手で止めたいと希望を漏らす。当然軍部は反対だ。特に血気盛んな若い将校達は、最後まで本土決戦を貫こうとする。かつて天皇の侍従を勤めたことのある阿南陸軍大臣は板挟みになるが、天皇の意思は堅いと観て、陸軍を騙す。こうして皇居の一隅で密かに「玉音放送」の準備が行われる。それを何とか手に入れようと皇居に乱入する青年将校達。それを宮内省(当時)の職員が何とか誤魔化す。 戦争の終結に関してこんなドラマがあったことを、この映画で初めて知った。近現代史を授業で習ったことがない私は、戦争の実態すら自分で学ぶしかなかったのだ。第二次世界大戦に関するわが国の責任をどう見るか。それには様々な評価があり、様々な意見があると思う。だが、不幸なことに人類の歴史の中でも戦争がなかった期間はほんのわずかだけ。人間とは常に戦争をしたがる動物であることを、肝に銘じておく必要がある。 昨日の夕刻、安倍総理の談話が発表された。終戦50周年に際して発表された「村山談話」、そして60周年に際して発表された「小泉談話」に続くものだ。これにも色んな評価があると思うが、私の受けた印象ではとても好感が持てた。ゆっくりと記者席を見つめ、そして原稿にはほとんど目を落とすことなく、自分の言葉で語っていた。あれは自分で原稿を書いたからこそ出来た行動。私はそう確信した。 米国議会での演説にも感心し、感銘を受けたが、今回の談話にも私は感動した。一国の総理があれだけの世界観、国家観、政治観、そして戦争と平和に関して深い洞察を持っていることに、感じるものがあった。「有識者会議」の提言を基にした内容で、総理自身はもっと他に言いたいこともあっただろうが、内容は抑制が効いて適切だったと思う。今朝の新聞では酷評もあるかも知れないが、アジア諸国をはじめ国際社会に歓迎される内容であることを、私は確信した。 格調の高い演説。そして一つ一つの言葉の背後にある国際状況も、私にはとても良く理解出来た。本当は名指しして抗議したい国際問題も、総理自身にはあったと思う。それを抑えながら、有識者会議の見解を受け入れ、総理自身の言葉で今後のわが国の国際貢献と、積極的平和主義の推進とを世界に訴えた。過去の幾つかの「談話」を、遥かに凌駕した立派な内容だったと高く評価している私だ。<続く>
2015.08.15
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<大興奮の青森県立郷土館> 6月28日、日曜日。旅の最終日。弘前の朝は雨だった。カーテンを開けたが、岩木山は雲で覆われて全く見えない。7時になるのを待って、朝食会場へ向かう。このホテルは1泊朝食付きで5千円以下。どうせ朝食はトーストと牛乳くらいだろうと思っていたのだが、とても充実した内容に驚いた。シャワートイレもないような古い設備なので、きっとこんな低料金設定になったのだろうが、貧乏人には実にありがたかった。 前夜びしょ濡れの靴も、かなり乾いていた。よ~し、予定より早いが青森に行こう。そう決断して弘前駅へ向かう。青森駅へ着いたのは9時前。先ず東北新幹線が出る新青森駅への連絡列車を確認。12時40分発の普通列車だと間に合うことが分かった。次に観光案内所に行って、青森県立郷土館への道を尋ねる。地図とバスの時刻表で丁寧に説明してくれたが、生憎ちょうど良いバスがない。歩いても20分くらいで行けると聞き、早速歩き出す。 青森ベイブリッジ 幸い傘を差すほどは降っていない。新町通りを東に向かう。新幹線乗り継ぎの電車も、市内のバスも1時間に1本ほどしか出てないことに驚く。県庁所在地の青森にしてこの程度。まして、人口の少ない地方都市などは車無しでの生活など、きっと考えられないのだろう。左手に青森ベイブリッジが見えた。あの橋の向こうが青森港。かつてはあそこから北海道に向かう青函連絡船が出ていた場所。私も若い頃、1回だけ乗ったことがあった。 アスパム それにしても人影が少ない。行き交う人がほとんどいないのだ。人口も減少してるのだろうか。左手遠くに三角形のアスパムが見えた。確か産業振興関係のビルのはず。暫く行くと左手に目印のホテルが見え、そこから左折。ホテル前を右折すると、最後の訪問先である県立郷土館が見えて来た。 ロッカーにリュックを預けて入館する。1階のロビーで、貴重な北前船の写真が展示されていた。早速写真を撮っていると、撮影には許可が必要と女性が追いかけて来て言う。そこで窓口に戻って、手続きを済ませた。福井県の方が所有する数枚の写真は大正時代のもので、敦賀湾を航行する北前船の雄姿が写っていた。残念ながら撮影禁止で、私はそれ以外の写真を撮った。 左側の写真は復元された北前船。これが江戸時代は蝦夷地(北海道)の松前から「西廻り航路」で日本海の各地に寄港しながら、大坂まで荷物を届けた。昨日訪れた十三湊、深浦、酒田、敦賀、小浜などが主な寄港地で、最後は瀬戸内海を通って大坂まで昆布、毛皮、鷹の羽根、米、紅花などを運んだ。物資だけでなく、この船を通じて人や文化の交流もあったのだ。また佐渡島の小木などは重要な「風待ち港」だった。 これは初めから凄い出会い。まさか、あの北前船が大正時代まで活躍していたとは。興奮して2階へ上った。最初は考古学のコーナー。ざっと周囲を見渡したが、目当ての遮光器土偶が無い。右側は金属製の太刀の束。古墳時代からこの本州最北端の地へも、中央の力が及んでいたことが分かる。 私は解説員の若い女性に遮光器土偶が展示してないか尋ねた。すると1階の風韻堂コレクションにあると言う。再び1階に戻って、その部屋まで案内してもらった。ビックリ仰天。肝を潰すとはこのこと。室内は国宝か重要文化財クラスの遺物で溢れていた。全てが一流品揃い。最終日にここへ来て良かった。女性に尋ねて良かった。もしここへ来ず、声をかけなかったら、これらの宝物とは永遠に遭えなかっただろう。右は重要文化財の土偶。 当コレクションの主は青森在住の医師親子とのこと。ほとんどが県内から出土した縄文時代の遺物で、土器、石器、骨器のいずれもが一級品。それに発掘地のはっきりしない弥生か古墳時代の土器も数点混じっているようだ。今は説明を読んでる暇はない。夢中で写真を撮り、家に帰ってからゆっくり読めば良いのだ。それにしても、良くこんな「お宝」ばかり収集したもの。きっと相当の財力を使ったはずだ。 左は国宝のレプリカで、右は重要文化財の土偶(東京国立博物館所蔵) やはり現地へ来ないと分からないことが多い。この4日間の旅が私にもたらしたものは限りなく大きい。 左はキノコ型の土器で、右は岩版(あるいは土版)。縄文人の観察力と芸術性を良く観てほしいものだ。 左は津軽地方の古図。右は墨書土器で「寺」の文字が見える。 「歴史展示室」も圧巻だった。私は前日の十三湖で解けなかった謎を、ようやくここで解明する手掛かりを掴むことが出来た。安藤(東)氏以前に奥州藤原氏の支配下にあったこと、また安藤(東)氏が南部氏に攻められて蝦夷地に逃亡し、松前藩の基礎となる居城を築いたことを知ったのだ。 また南部と津軽の壮絶な戦いも知った。何と下北半島はすべて南部藩の領地だったのだ。それで支藩の八戸藩を含めても10万石だから、きっと冷害に悩む北の大地だったのだろう。これで私の長年の疑問がかなり解消した。わが東北は古来より都から蝦夷(えみし)と呼ばれ蔑視されて来たが、縄文以降決して文化果つる地ではなく、高度の文化が興っていた。だからこそ頼朝が義経を匿った平泉を滅ぼし、巨大な富を収奪したのだ。 3階の「民俗展示室」も良かった。青森とアイヌとの関係、そして当時の外国との交流関係もきちんと説明されていた。本州最北端の青森が、実は古来から北方の文化の中心地だったことが良く分かった。風雨に打たれながら渡った十三湖の小島。あそこで見た光景が、ここでも再現されていた。 民俗も興味深かったし、祭礼も勉強になった。特に「おしら様」や「いたこ」の風習には心惹かれるものがあった。実は東北の「いたこ」は沖縄の「ゆた」と同じ語源で、同じ霊能力者のこと。つまり原始時代のシャーマンが、現代社会でもまだ生き続けている訳だ。日本と沖縄の深いつながりがここにも見ることが出来る。 私はすっかり有頂天になって館を出た。やはり旅は凄い。たとえ偶然にせよ、私が選んだ訪問先は決して間違ってはいなかったようだ。いや、これは大収穫と言うべきだろう。青森駅でお握りとサンドウィッチを買い、東北新幹線の座席で食べる。家へのお土産も買った。これで妻が気持ち良く出迎えてくれたら、どれだけ嬉しいか。<続く>
2015.07.09
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先日の日曜日、博物館まで歩いて行った。その途中、仙台城(青葉城)を通った。前職を辞めてビル管理会社でパートをしていた時は、勤務後に自宅まで走って帰ったコースだが、今はこんな坂道を走るのは無理。天守台に寄ると、以前と様子が違う。 政宗の胸像(三の丸跡にて) ご存じの通り仙台城を造ったのは伊達政宗。戦国時代の風雲児で、片目が見えなかったことから「独眼竜」と呼ばれて恐れられた男。伊達氏は鎌倉武士で、本貫は常陸国(現在の茨城県)であった。それが会津若松(福島)、米沢(山形)、岩出山(宮城)と本拠地を変え、当時千代(せんだい)と呼ばれた寒村に城下を構えたのである。 発掘後の天守台 仙台城は眼下に広瀬川を見降ろす丘の上にある。東側の山裾には広瀬川が流れて高さ50mの崖、南側は深さ50mの深い峡谷(竜の口)、西側は鬱蒼とした森。そして天守への登城口に当たる北側には二の丸と三の丸を置いた。 仙台城古図面 城の南側と西側には深い森があり、ここに無断で近づくと番人に切り殺された。江戸時代のその森が今でもかなり残っていて、そのために仙台は大都会でありながら自然豊かな都市となっている。 大広間模型1 大広間模型2 それほど堅固な城に天守閣は不要。そこで代わりに置かれたのが書院造りの大広間だった。 驚いたのは、その天守台に大広間の跡が復元されていたことだ。この場所を数年かけて発掘調査していたのは知っていたが、まさかこんな風になったとはねえ。 実は仙台城の石垣も何度か修復されている。 城の下には亜炭(あたん)と言う石炭のなり損ないの地層があり、かつてこれを燃料などにするための坑道が、この付近一帯の地下に張り巡らされていた。その地盤沈下と相次ぐ大地震によって、石垣が緩んで危険になったのだ。 そのために石垣の石が一つずつ外されて、他の場所に移動された。石垣の先端に赤い○で囲んだ部分がある。 その発掘で、石垣が三重構造であることが分かった。上の写真の赤い○の部分と比べて見ると、そのことが良く分かる。一番外側の石垣が一番新しい時代の築造なのは当然のこと。一番内側の古い石垣の摘み方は粗末。当時はまだ戦国時代の名残があり、築造を急いだためだ。その後の城主が2番目、3番目の石垣を築いて補強した。きっと天守台を広げる意味もあったと思う。 ガラスの器 ガラス製のコップ 飾り金具1 発掘品 飾り金具2 飾り金具3 これらは大広間の跡からの発掘品を元に復元したもので、大広間跡の傍にある資料館(無料)に展示されている。政宗は臣下の支倉常長をイスパニア(スペイン)とローマに派遣した。イスパニアの支配下にあった当時のメキシコと密かに通商するのが目的だったが、「奥州王」の肩書が信用されたかっただけでなく、王者イスパニアの落日期にも当たっていたのだと思う。これらの出土品(復元品)からも、当時の仙台藩の様子が偲ばれる。 そしてこれが当時の大広間を飾った襖絵(模造)だ。 天守台から下って博物館のある三の丸跡に向かう途中に、こんな清水が湧いている。ここは仙台城の酒造所跡。遥々と伊勢国(三重県)から杜氏を招き、この場所で日本酒を造らせたようだ。博物館の裏手に当たる。 三の丸跡の一角に、林四平のレリーフがある。仙台藩士の彼は幕末に「海国兵談」を著した。四方を海に囲まれた我が国は、外国の脅威に負けぬよう軍備を急ぐべきとこの本の中で主張したのだ。だがそのことが幕府を非難したとの罪に問われ、蟄居閉門となった。やがて彼は世を恨んで狂死する。今ならごく当然の主張も、当時は余りにも時代より早過ぎた天才の過激な思想だったのだ。「妻なし子なし版木なし。金もなければ死にたくもなし」。四平の嘆きが聞こえて来そうだ。 三の丸跡の石垣。ここが博物館の入口。博物館で開催していたのは奈良薬師寺の国宝などを展示する特別展「国宝吉祥天女が舞い降りた!」だが、そのことはいずれ紹介することにしたい。<続く> さて今日は「伊達なマラニック」の当日。これから朝食を摂った後、仙台湾に浮かぶ3つの島を訪ねる。そこで15kmのウォークを大勢の仲間たちと楽しむ予定。帰宅は夕方。従って留守中にいただいたコメントへの返事は遅れるので、了解してほしい。また、ブログ友への訪問も、以上の事情により無理な場合があるので悪しからずご了解を。では、行って来ま~す!!
2015.06.20
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<第三代綱宗公霊廟善応殿など> 載せ忘れていたが、こちらが瑞鳳殿から感仙殿などに通じる裏参道。比較的平らで、閑静な道である。 第三代仙台藩主伊達綱宗公の霊廟、善応殿の姿。父忠宗が眠る霊廟、感仙殿の直ぐ隣に建立されている。 綱宗公の肖像。 参道にあった説明板。綱宗は第二代藩主忠宗の第六子として寛永17年(1640年)に誕生。兄光宗(てるむね)の夭折により嫡子となる。19歳から2年ほど藩主の座にあったが、不行跡を理由に叔父たちから幕府に隠居するよう願い出られた。幼少から芸術的な才能に恵まれていた綱宗だが、藩主となってからは放蕩三昧に過ごしていたようだ。 叔父たちの願いは聞き届けられ21歳で隠居し、藩主の座をわずか3歳の綱村に譲る。これがいわゆる「伊達騒動」の発端となった。正徳元年(1711年)仙台藩江戸屋敷で死去。享年71歳。祖父政宗、父忠宗よりも長生きしたのは歴史の皮肉であろうか。 甕棺と復元された綱宗公の容貌 左側の説明板によれば、綱宗の遺体は大きな甕の中に座位で埋葬されていた由。これは父や祖父と同様の葬法。医学的な計測によれば身長は155cm、血液型はA型で、三代の藩主の中ではもっとも顔立ちがふっくらしていたようだ。直接の死因は下顎歯肉がんであることが判明した。 地下から発掘された副葬品。 祖父政宗の霊廟瑞鳳殿ほどの豪華さはないが、62万石の大名の廟としての風格は保たれている。 綱宗公の霊廟には殉死した藩士の墓はない。この頃になると、殉死は禁止されていたのだろう。傍らにある墓は、綱宗公の菩提を弔うため僧侶になった藩士のもの。今でも花を捧げる人がいるようだ。 「妙雲界廟」の説明板と第九代藩主周宗公の墓。 2代にわたる霊廟の傍には、妙雲界廟と呼ばれる墓域がある。これは藩主とその夫人が眠る場所。霊廟はなく、大きな墓石と石灯籠が立っている。三代の霊廟が再建されるまでは、このような状態であった。第九代周宗公、第十一代斎義公夫妻などがここに葬られている。それ以外の藩主は市内茂ケ崎の大年寺山頂の伊達家陵墓に眠っている。 感仙殿、善応殿、妙雲界廟への参道から脇に入った山中に、御子様御廟がある。ここは第五代藩主吉村公以降の歴代藩主公子公女の墓域。森閑とした林の中に、小さめの墓石が林立している。 経ケ峯の一角に穴蔵稲荷神社がある。これは藩祖政宗公が出陣の際に戦勝を祈願した寺社の一つ。仙台市内にはたくさんの寺院や神社があるが、その主なものは政宗公の領地が移動する度に一緒に動いた。元々この稲荷は仙台城を向く岩穴の中に鎮座していた由。 社殿を護る稲荷(左)と境内から遠望出来る仙台城(右)。 評定河原橋の上から見た仙台城(青葉城)の遠望。 この日は病院からの帰途で、胸に24時間心電図計を装着したままだったが、念願の瑞鳳殿参拝を果たすことが出来て幸いだった。今回でこのシリーズは終了です。<完>
2015.03.30
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<第2代忠宗公の霊廟感仙殿> 瑞鳳殿から裏参道を経て、感仙殿などがある地区へ向かう。瑞鳳殿の直ぐ裏手に戊辰戦争で亡くなった藩士の弔魂碑(慰霊碑)があった。伊達家の菩提寺である瑞鳳寺には、官軍側の犠牲者の墓があった。いずれも薩摩藩士で、引き取り手がなかった方のものだ。感仙殿からの帰途には西南戦争の犠牲者の弔魂碑も見た。九州で殉死した仙台の警察官達の慰霊碑で、幕末から明治にかけての激動の歴史を感じさせられた。 第2代忠宗公霊廟感仙殿、第3代綱宗公霊廟善応殿への参道。 霊廟へ向かう石段。 霊廟前の山門。門の奥に見えるのが感仙殿だ。 霊廟付近にはたくさんの石灯籠が。 第2代忠宗公霊廟感仙殿の全容。 参道付近にあった説明板 正直言ってこちらの地域に霊廟が再建されたことを、恥ずかしながら私は知らなかった。今回瑞鳳殿を訪れるため予めネットで検索した際に、第2代、第3代の2つの霊廟も復元されたことを知ったのだ。 忠宗公肖像 忠宗公は慶長4年(1600年)、政宗と正室愛姫(めごひめ:田村氏)の間に生まれ、次男でありながら嫡男となった。長男の兄の秀宗は側室の子だったため庶子扱いとなり、後に家康の計らいで四国宇和島藩10万石の城主となる。寛永13年(1636年)政宗の死により、36歳の時に第2代藩主となった。万治元年(1658年)59歳で没しこの経ケ峯に葬られた。霊廟感仙殿は昭和6年国宝に指定されたが、昭和20年の空襲で焼失している。 医学的計測から復元された忠宗公の顔(左)と副葬品の太刀及び兜(かぶと) 昭和49年(1974年)、霊廟再建のための発掘及び学術調査が開始され、忠宗公の遺骸や副葬品などが地下から掘り起こされた。医学的な計測及び検査の結果、身長は父政宗より6cm高い165cm。血液型はA型。直接の死因は大腸の疾病であることが判明した。 復元された感仙殿の偉容。 霊廟の扉 感仙殿の側面 政宗公の瑞鳳殿ほどではないが、こちらにも藩主の死に殉じた藩士の墓が、霊廟の左右に並んでいた。<続く>
2015.03.29
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<伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿> さて、今回は政宗の霊廟である瑞鳳殿の最終回。涅槃門、前門(仮称)、そして瑞鳳殿を一通り見て行きたい。 涅槃門前の説明板。この霊廟全体が華麗な桃山様式の建築である。第二次世界大戦の空襲で焼失したが、元々は国宝に指定されていた。これを昭和49年(1974年)に発掘して学術調査を行い、その後5年かけて再建した。色彩は政宗が建てた大崎八幡宮(国宝:桃山様式)のものを参考にしたはずだ。 涅槃門内側。この門は伊達家藩主(藩が無くなってからは当主)しか入れず、他の人は脇の門を潜った。 瑞鳳殿の直ぐ前にある門。パンフレットに記載がないため、仮に前門と呼んでおこう。 前門の偉容。門の間から瑞鳳殿が見える。 前門の内側。 前門の上部。 前門の側面。 政宗の霊廟である瑞鳳殿を外側から見る。彼は70歳で没してここ経ケ峯に埋葬され、その上に霊廟が建築された。 周囲をぐるりと廻って、建物の外部を拝観する。 瑞鳳殿の外観。 赤い柵の内側に、殉死した藩士の墓が見える。墓は霊廟の両側に20基ほど見えた。 一周して瑞鳳殿の正面に戻る。再建した建物だが創建当時の華麗さが見事に蘇っている。 瑞鳳殿の上部。色彩の鮮やかさが分かるであろう。 側面から見た図。殉死した藩士の墓越しに霊廟が見える。 同じく外部から見た側面。 軒下に施された彫刻など。 斜め方向から見上げた軒下。 外部から撮った軒下。 瑞鳳殿を取り囲んでいる天女たち。これらは正面のものだが各辺に3人ずつなので、全部で12人の天女が政宗の霊を慰めていることになる。<続く>
2015.03.28
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政宗の肖像と菩提寺瑞鳳寺の境内に咲いていたヤブツバキ さて皆さんは伊達政宗と聞いて、一体何を思い浮かべるだろうか。幼少時の病気(天然痘)で片目だったため「独眼竜」の異名があったこと、支倉常長をヨーロッパに派遣したことは有名だ。伊達家は鎌倉武士で元々茨城県を根拠地にしていたが戦国時代に東北に進出。以降、戦国大名として大きく成長した。 政宗は永禄10年(1567年)伊達輝宗と正室義姫(最上氏)の長男として山形の米沢城で生まれた。幼名は梵天丸。幼少時から禅師虎哉和尚に徹底的に学問を学んだ。漢文や和歌などの素養は、この時に形成されたのだろう。なお政宗の遺言により、肖像や木像には両目が描かれている。 霊廟瑞鳳殿前の巨大な香炉に刻まれた伊達家の紋。左は「竹に雀紋」で、右が「九曜紋」。 天正12年(1584年)父輝宗の隠居により、17歳で伊達家の第17代当主となる。翌天正13年、福島の二本松付近の戦闘で騙されて拉致された父を敵もろともに鉄砲で撃って射殺したと言われている。また天正18年(1590年)には同腹の弟小次郎を暗殺した(隠居させたとの説もある)。母に溺愛され、一家が分裂する危機があったためだろう。秀吉の小田原攻めには遅参し、死に装束で現れてようやく許されたこともあった。 香炉に刻まれた伊達家の紋。「三つ引き紋」、「五七の桐紋」、「蟹葉牡丹紋」などが見える。 秀吉亡き後は徳川方につき、関ヶ原の戦いでは上杉の動向をけん制するため東北に残った。家康の覚え目出度く、正室愛姫との間に生まれた長女五郎八(いろは)姫は、家康の六男松平忠輝(越後高田藩城主)の正室に迎えられた。だが、忠輝は改易に伴って家康の不興を買い、姫は離縁されて仙台に戻る。 慶長18年(1613年)、政宗は家臣支倉常長を団長とする遣欧使節をスペイン王及びローマ法王の下に派遣する。これは当時スペインの傘下にあったメキシコと密かに通商する許可をもらうためのものだった。結果は目的を果たせなかったが、支倉常長は日本初のローマ市民となった。だがキリシタン禁止令で、彼は郷里に幽閉される身となる。ともあれ政宗は気宇壮大の戦国大名。仙台藩62万石の初代藩主で、家康から松平姓を名乗ることを許されている。 医学的計測から復元された政宗の顔。副葬品は文筆家らしく、文具類などが納められていた。 寛永13年(1636年)伊達藩江戸屋敷において政宗が没した。享年70歳。遺体は仙台城から900m南東にある経ケ峯に葬られ、桃山様式の霊廟瑞鳳殿が建立された。昭和6年(1931年)国宝に指定されたが、昭和20年(1945年)の空襲時に焼失。そのまま荒廃する。 復元された涅槃門。歴代藩主、当主しかこの門から入れなかった。 昭和49年(1974年)この一帯を整備するため、学術的な発掘調査を開始した。こうして政宗は338年ぶりに眠りから目覚めたのである。医学的な計測の結果、政宗の死因は食道噴門がん及び腹膜炎であることが判明。血液型はB型であった。 昭和54年(1979年)瑞鳳殿が再建された。色彩は政宗が建てた国宝大崎八幡宮を参考にしたと思われる。こうして華麗な桃山様式の霊廟を、再び仙台市民が目にすることが出来たのである。 涅槃門の内側。平素は閉ざされたままだ。 瑞鳳殿の前にある門。名称が分からないため、仮に前門としておこう。 瑞鳳殿の正面。 瑞鳳殿の扁額 黒漆塗りに彫刻が施された扉。紋は「竹に雀紋」と「九曜紋」。 扉の下部には蓮の花の装飾が。 屋根を支える斗供(ます組み)の華麗な装飾。 政宗に殉死した藩士の墓。霊廟の左右に20基ほどが見えた。0 霊廟を鎮護する屋根の上の龍。 そして霊廟の周囲には、石灯籠が何基か鎮まるように立っていた。<続く>
2015.03.27
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霊屋橋から見る経ケ峯 3月20日。私は病院の帰路、バスから降りて瑞鳳殿などに立ち寄った。胸には24時間型のホルター心電図が装着されたまま。霊屋橋(おたまや)橋の上から経ケ峯を見上げる。広瀬川の河岸段丘上にあるこの岡は標高50mくらいだろうか。この岡の上に、仙台藩祖伊達政宗ら三代の霊廟がある。郷土研究の第2弾として選んだのがここだった。 案内板 坂の入口に案内板があった。初代政宗の霊廟が瑞鳳殿。二代忠宗の霊廟が感仙殿。そして三代綱宗の霊廟が善応殿。そして九代周宗及び十一代斉義の墓所などもこの岡にある。 満海上人供養塔 元々この岡の上には、出羽三山で修業した満海上人が仏教の経典を埋めた。それが「経ケ峯」の名の由来のようだ。瑞鳳殿跡地を発掘調査した際に上人の墓が発見された。このためその場に供養碑として建立したようだ。なお出羽三山で修業した「海」がつく僧には、生きながら即身仏になった高僧が多い。 チケットに印刷された古図。仙台城から南東に約900m離れたこの地に政宗の霊廟があり、正面は城の方角を向いている。 伊達家の菩提寺である瑞鳳寺の山門。境内にはヤブツバキが咲いていた。 瑞鳳寺本堂 伊達家の墓所は仙台市内の大年寺山にもあり、第四代以下の藩主などが眠っている。大年寺は黄檗宗だが、瑞鳳寺は臨済宗。なお、政宗の正室愛姫(めごひめ)の霊廟(陽徳院)は松島の瑞巌寺の中に、長女五郎八姫(いろはひめ)の霊廟(天麟院)は瑞巌寺の隣にある。 参道 途中で二手に分かれ、左へ行くと瑞鳳殿、直進すると感仙殿、善応殿に続く。また感仙殿へ参道の途中に御子様御廟(五代以降の藩主公子、公女の墓)がある。 資料館外観 資料館外観 資料館には当初の瑞鳳殿(第二次世界大戦の空襲で焼失)から出土した遺品、伊達家三代の関係資料などが展示されている。 左は政宗の肖像。右は政宗着用の甲冑(模造品) 政宗の書。 入そめてくにゆたかなるみぎりとや 千代とかぎらじせんだいのまつ 空襲で焼失する前の瑞鳳殿と涅槃門(国宝指定)。 当初の瑞鳳殿 臥竜梅 政宗が朝鮮征伐の折り、朝鮮半島から持ち帰ったとされる臥竜梅。 創建当初の屋根瓦 現在使用されている銅製瓦と屋根の龍の模型。 復元された涅槃門 復元された瑞鳳殿(パンフレットより借用) 今日は朝から病院へ出かけ、先週行った24時間型心電図の検査結果などを聞いて来ます。帰宅が遅くなる場合があります。昨日も外出のため返事が遅くなりました。また伺うことが出来なかったブログもあります。どうぞご容赦くださいね~。<続く>
2015.03.26
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<斎理屋敷の興亡 ~後書きに代えて~> 百々石公園にて 百々石公園は標高150mほどの山。その中腹まで登ると、展望台付近に大きな岩があった。そこから人口約1万5千人の丸森の町並みは見えず、眼下に阿武隈川が見えた。そして東側に阿武隈山地の続きである低山も。 丸森町にある古城は2つ。低山の金山城と街中に近い丸森城(丸山城)。戦国時代はその帰趨を巡って、南の相馬氏と北の伊達氏が戦い、最後は伊達氏の手に落ちた。だが「一国一城令」の後は、伊達氏の家臣である中島氏が要害となった金山城を守ったようだ。 公園から見えた丸森橋 百々石が「どどいし」と読むことは知っていた。20年前の松山勤務の際、ある研究者の名前が読めなかった時に、部下が教えてくれた。だが前職を辞して故郷の仙台に帰ってから、東北大学の研究者にも同じ百々氏がいることを知った。「坊っちゃん」の街、松山では「桑折」と言う医院の看板を見つけて驚いたことがある。それは「こおり」と読む福島県の地名。それを姓にする人がなぜ松山にいるのか。 桑折氏は宇和島の人、そして祖先は宇和島伊達藩の家臣と私は推定した。宇和島伊達氏の藩祖は政宗の長男。著しい戦功が認められ、家康から10万石の大名に取り立てられた。62万石の本家は政宗の次男が継いだ。正室の愛姫が生んだ嫡子だったからだ。百々も桑折も元々は福島と宮城の県境にある地名。それを姓にした武士が、伊達藩に仕えた訳だ。官軍に与した宇和島伊達氏は明治に伯爵となり、賊軍の仙台伊達氏の侯爵よりも上位に置かれた。歴史の皮肉と言えよう。 斎理屋敷の蔵 江戸末期から昭和20年代半ばにかけて栄えた斎藤家。歴代の当主は斎藤理助を名乗り、屋敷は村人から「斎理屋敷」と呼ばれて慕われた。なぜ奥州街道(芭蕉達が通った「奥の細道」でもある)から離れた脇街道の斎理がこれだけ栄えたのだろう。 最初は呉服屋からスタートし、次いで麻織物や綿織物を扱う太物商、質屋、醸造業、縫製工場などを営んだ。明治の一時期は銀行でもあった。同時に江戸時代から塩、蝋燭、水、印鑑、古着、古道具、染色など手広い商売を行った。戦争と不景気のため実現はしなかったが、陶磁器の製造工場や、住宅販売まで検討したとのこと。 庭と洋館 常に時代を先取りする商売が出来たのは、歴代の当主が英明だったからだろう。斎理は出来るだけ借金を減らし、自己投資分を急速に拡大して行ったようだ。庶民が求め、地元が求める商売を手がけたことが容易に想像出来た。 だが直系の血筋が途絶えると分かった時、7代目の当主は屋敷など一切を町に寄付した。昭和41年(1966年)のことだ。丸森町はその後建物などを整備し、現在は「蔵の郷土館」として観光の中心的存在になっている。 展示品から 屋敷にはたくさんの奉公人がいたが、主人や女主人が彼らに優しかったことは、壁の落書きやたくさんの創作人形からも推定できる。そして残された当時の民俗品などは、現在ではとても貴重な生き証人だ。 だが豪商でありながら、生活は意外に質素で堅実だったのではないか。私にはそんな風に思われてならない。ともあれ奇特な商家が存在したお陰で、幕末から戦後にかけての暮らしぶりを実感することが出来た。 南蔵王の雄姿 約2時間の滞在で230枚ほど撮った貴重な写真。1枚ずつ名前をつけ、後日ブログでどんな風に紹介するかを考慮し分類した。それも今回でほぼ使い終えることが出来た。自分で言うのも何だが、本シリーズは案外内容があったように思う。 だが、わが郷土の歴史を少しでも知ってもらえるのに、果たして役立ったのだろうか。そしてこれからも、自分がまだ知らない県内の歴史遺産を訪ねられたら嬉しい。最後までお読みいただいたことに感謝し、筆を置きたい。<完>今日は昨日から装着しているホルター心電図計(24時間)を病院に返却し、その後墓参りに行く予定。コメントへの返事は遅れますが、どうぞご了承を。
2015.03.21
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本日3回目の挑戦です。うまく作動しないので、少しずつ書き足しています。 エクソダス1 わしは最近映画を観た。男が口を開いた。映画の名は『エクソダス』。これは旧約聖書の「出エジプト記」の話なんじゃよ。古代エジプトの王に拾われて育った男が、ひょんなことから自分がヘブライ人(ユダヤ人)だと知り、大勢の奴隷と一緒にエジプトを脱出する話だ。逃げる途中紅海の水が奇跡的に引いて彼らは対岸に渡ることが出来るのじゃが、後を追って来たエジプト兵は満潮に飲み込まれるんじゃ。男の名はモーゼ。彼はシナイ山で神の啓示を受ける。いわゆる「十戒」じゃね。これは紀元前1300年ころの話なんじゃよ。 地中海に沈んでいた金貨 一方イスラム教が起こったのは610年。メッカに生まれたムハンマドがアラーの神の啓示を受ける。彼は15歳年上の女商人と結婚し、6児の父となるが男児はいずれも早死にしたんじゃ。イスラム教徒に奪われた聖地イエルサレムを奪還しようとしたのが十字軍。1096年に始まり、第9回が1272年に終わった。第1次世界大戦には中近東の地が列強に奪われて寸断される。ユダヤ民族の国イスラエルが建国されたのが1948年。モーゼのエジプト脱出から実に3250年後のことだった。 エクソダス2 だがこのことが原因でパレスチナ難民が生まれる。イスラム教徒がスンニ派とシーア派とに分かれていることは君も知ってるだろうね。それに今は数多くのイスラム過激派がいるし、民族間の対立も多いんだよ。つまり人間の世界では、民族、宗教、領土を巡っての争いが絶えなかったと言うことさ。だが、わしのなかでは「竹島問題」や「尖閣問題」は既に決着がついているんだ。なぜなら自分が正しいと考えるなら、国際司法裁判所に訴えれば良いだけの話。それが出来ないのは、疾しい点があるからだろうね。 ある意味でわしはアメリカは立派だと思ってる。なぜなら彼らは小笠原や沖縄をちゃんと日本に返還したからね。小笠原はアメリカの捕鯨基地だったことがある。江戸時代の話さ。彼らは油を採るためにクジラを追って日本近海に来た。だが日本の侍小笠原某が、それらの諸島を発見したことを知って、戦後日本に返したんじゃよ。だからあの島には青い目の日本人がいる。捕鯨船の乗組員の末裔が日本に帰化したんじゃよ。 だがソ連は違った。第2次世界大戦の終戦間際に日本に宣戦を布告し、北方領土を奪った。最大時には日本はカムチャッカ半島付近まで領有していた。その千島を樺太と交換したこともあった。アメリカが沖縄を返還したらソ連も北方郎度を返すと言っていたのだが、未だにそのままの状態だ。樺太や満洲から抑留された日本人はシベリアに連行され、重労働に就いた。そのお陰で出来たのがシベリア鉄道なのさ。だが多くの日本兵が彼の地で死んだ。 一方、中国は最近ハルピンだったかに記念館を建てた。これは朝鮮人の安重根を称える建物だ。韓国政府の求めに応じてね。彼は日本初の総理大臣で初の朝鮮総督府総督だった伊藤博文を暗殺したテロリストなんじゃよ。伊藤は自分を撃った犯人が朝鮮人であると知って、虫の息で「なんと馬鹿な」と言ったそうだ。なぜなら伊藤は朝鮮併合には一番反対していた人だったからじゃ。だが彼の暗殺後、併合は一気に進んだのじゃ。安重根の意思に反してね。 朝鮮を併合して欲しいと願ったのは朝鮮の意思でもあった。当時はロシアの南下政策が進行中で、日本にとっても脅威だったからじゃ。ともあれ併合によって日本は鉄道を敷き、大学を置き、産業を育成し、衛生状態の改善に努めた。このことによる富の収奪よりも、日本の持ち出しの方がかなり多かったようだ。そして朝鮮の整備が進むのじゃが、キリスト教徒だった安重根が暗殺したのは、伊藤が明治天皇の意思に反したと誤解したことによるんじゃよ。 さて話は変わるが、辺野古の基地前では移転反対の運動が活発化しているようじゃね。だが危険性が叫ばれている普天間基地をこのままにして良いんじゃろうか。それに海の生態系を守れなどと言っているが、船の通行に邪魔なサンゴを爆破して取り除くことは前からやっていたし、中城湾の干拓などは辺野古の比ではないんじゃよ。それにかつて石垣島のサンゴ礁を自分で傷つけて問題にしたのは、朝日新聞の記者だったよね。 昨日は与那国島で住民投票があったようだが、どうなったんじゃろうね。あれは自衛隊の設置に関する可否を問うんじゃが、今回はなんと中学生や外国人にまで投票権を与えたようだ。それが日本の国防に必要な措置とは、わしにはとうてい思えないんじゃよ。もちろん米軍基地の適正規模について論議されて良いのは当然じゃ。たった今新聞を見たら、どうやら自衛隊基地設置賛成が6割に達したようじゃね。まあ当然のことであるが、わしも安心したよ。 だが先だっての小笠原諸島の宝石サンゴを中国の漁船が盗みに来たことは皆も知ってじゃろ?あの中には海中の地形を探査する船も紛れていたと言う噂もあるんじゃ。それに尖閣と小笠原の双方で、日本政府がどう対応するのか確かめる気があの国にあったのは確かじゃろう。あの国はともかく油断が出来ない国じゃ。 さて人間にとって、それほど領土とはシビアな問題なのじゃよ。何せモーゼの時代から、いやそのずっと前からの課題じゃからのう。それに民族間の対立もね。そう言って男は深い闇を見つめた。<完>
2015.02.23
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日本人は本当に残虐な民族なんだろうか。男がつぶやいた。窓の外では風がうなっている。今は厳しい冬なのだ。わしもかつての戦争で日本軍が何を行ったかは知ってる積りだ。それに関東大震災の時に、朝鮮人や社会主義者が殺されたことも。だが、中国であったとされる南京大逆殺のことは良く分からないんじゃよ。男は悲しそうに瞬いた。今日はわしが知ってることを整理してみようか。そう言って男は遠くを見つめた。 疑問は先ずその数なのじゃ。中国は30万人が殺されたと言っている。だが南京市の当時の人口は20万人程度なのじゃよ。だからたとえ全部の市民を虐殺したとしても、まだ10万人も余ってしまうのだ。当初中国政府は虐殺されたのは20万人と言っていた。だが我が国が反論しないとみると、さらに10万人増やした訳だ。どうして犠牲者の数を増やす必要があるんだろうね。20万人としても、全市民を殺すことなどあるのだろうか。なぜ南京市だけ全滅させる理由があったのかも分からない。 南京を攻略した部隊の隊長は松井石根陸軍大将だ。彼は孫文の唱えた「大アジア主義」に感銘を受けて中国の駐在武官を志願したと言われている。その彼が昭和12年12月23日に起きたとされるこの事件を知ったのは戦後のことのようだ。全く不思議な話だ。だが彼は東京裁判では事件を自分の責任だとした。当時の部下には皇族がいたんだよ。検事役を務めたジョセフ・キーナン検事は裁判後語ったそうだ。「なぜ彼は自分の責任と言ったのだろう。あれは部下のせいなのに」と。 99歳の元日本軍兵士は証言する。「私達の部隊は厳しい監視下にあったし、規律も守られていた。婦女子には決して手をかけないよう厳命されていた」と。だが、そんなことなど聞く人はいない。そして貴重な証言も、高齢化に伴って失われてしまうのが残念だ。また別の証言では、進駐した日本軍と市民の居住区は仕切られていて、お互いに入れないようになっていたと言う。 ともあれ昭和59年8月4日付朝日新聞大阪版夕刊に載った生首の写真は、中国軍が切り落とした馬賊(中国人の強盗)の首であることが判明したんじゃ。そして中国の唱える大虐殺は、英国紙の特派員だったハロルド・ディンバリーが書いた『戦争とは何か』が根拠であることも分かった。当時彼は中国国民党宣伝部顧問として党から資金の提供を受けていたそうだ。これは明星大学の勝岡寛次氏(戦後教育史研究センター)の研究で明らかになっている。 その著書に記された死者の数は20万人。市民全てが日本軍に殺されたことになる。だが通常兵器しか持ってなかった日本軍が、どうして短期間にそれだけの数の市民を皆殺しに出来たんだろう。参考までに上げると、広島原爆で亡くなった方が14万人、長崎原爆で7万4千人、全部で106回あった東京空襲の最大時(昭和20年3月10日)の犠牲者が8万4千人、この合計でようやく29万8千人なんじゃ。 どう考えても日本軍がそれだけの人を短期間に殺せる訳がない。それに「大虐殺」があったとされる1カ月後には、南京市の人口が何と25万人に増えている。そんな不思議なことがどうして起きるんだろうなあ。 恐らく実態は南京郊外での戦いも含めて日本軍が殺傷したのは2、3万人と言われているが、今となってはそれを証明するものはないんじゃ。日本社会党(当時)のカンパで作られた南京市の歴史博物館は、日本軍の蛮行を世界に訴える内容となり、その後各地に同様の博物館が続々建てられて行った。戦争の賠償代わりだった日本の巨大なODAのお陰で、中国は人工衛星や有人衛星まで打ち上げる大国となり、今や世界第2位の経済力を持つようになったんじゃが、中国国民はそのことを知らされてはいない。 戦争とは実に醜いものじゃ。異常事態に置かれると人は人を平気で殺す。戦後ドイツの戦犯は裁かれ、「人道に反する罪」で死刑になった。だが、日本軍戦犯は「平和に反した罪」で裁かれたのじゃよ。つまり人道に反したとされる証拠が乏しかった訳じゃ。だが、中国が抗日戦争勝利70周年を迎える来年に向けて、一層我が国を攻撃することは目に見えている。 さて、広島の原爆の碑には確かこう書かれていたはずじゃ。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と。それこそ人道に反する兵器、原爆を落としたアメリカを非難せずに、自らの行動を省みる日本人とは一体何なのだろうねえ。男の目が哀しそうに光った。外はまだ強い風だ。<続く>
2015.02.20
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日本人は本当に残虐なんだろうか。男は口を開いた。どうやら外は吹雪のようだ。例えばアメリカインディアンについて考えてみよう。男の目が闇に光った。コロンブスが新大陸を発見してから、現在のアメリカ合衆国にはヨーロッパの人達が大勢押し掛けた。スペイン人はもとより、フランス人、イギリス人などもね。そして清教徒達が自分達の国を作るために母国イギリスと戦い、フランスから土地を買い、やがて西部に進出して行く。 やがて太平洋側で金が発見され、人々は争って西部に移住した。つまりゴールドラッシュだね。当然原住民のアメリカインディアンは抵抗するさ。わしが知ってる部族はスー族、アパッチ族、モヒカン族、ナバホ族くらいかな。映画の西部劇では白人達が主人公で、インディアン達はほとんどが悪役さ。彼らを抑えるため1830年にはインディアン強制移住法が制定され、それを拒否する部族は皆殺しにしても良いことになった。全く酷い話さ。 アメリカインディアンは元々1千万人いたと言われている。だが、そのうちの95%が死んだ。白人との戦いで命を落とした人が多いのだが、白人のもたらした病気で死んだ者も多かったようだ。彼らは新しい病気に対する免疫が全くないからねえ。それに南部で綿花を栽培するようになると、アフリカからは大量の黒人が奴隷として連行されたことは君達も良く知っているだろ。黒人に対する処遇も実に哀れなものだった。 一方、日本はどうだろう。日本列島の原住民は縄文人だ。そこへ大陸から弥生人が稲を携えてやって来た。彼らは縄文人と棲み分けが出来たため、大きな争いにはならなかったと思う。縄文人は主に山や原や海岸で食べ物を採集し、弥生人は湿地帯で稲作を行ったからね。やがて縄文人達も稲作の重宝さに気づき、両者は次第に混血するようになる。これがわしら日本人の先祖なんじゃよ。 さて、北海道の原住民がアイヌだと言うことは君達も知っているじゃろう。わしが知ってるアイヌ族は3つ。千島アイヌ、樺太アイヌ、そして北海道アイヌ。これらのアイヌ族は親戚のような関係だったようじゃね。そこへ日本人が進出したのは南北朝時代ごろかのう。戦いに敗れた武士達が当時蝦夷が島と呼ばれた北海道に逃げ込み、小さな砦を作ったのが始めだったのさ。そしてアイヌたちと通商を始めるんだ。 当然和人とアイヌの間にも戦いは起きた。コシャマインの戦い(康正3年=1457年)やシャクシャインの戦い(寛文9年=1669年)などのね。でも死んだのは双方合わせて数十名から数百名程度のもんじゃろう。やがて砦は松前藩の元になり、明治期に入ると本格的な北海道の開拓が始まる。もちろんここではインディアンを皆殺しにしたようなことはしない。土地を交換しながら開拓地を広げていったんじゃ。ただしアイヌには土地の概念や数の概念は乏しかったから、和人に騙されたことも多かっただろうがね。 もう一つ比べてみたいものがハワイ王国のこと。カメハメハ一世が建国したハワイ王国は、ほぼ100年で滅亡した。最後はより親米的な王権樹立のため1893年にクーデターが起こり、共和制となった。そして1898年にはハワイ準州となるんじゃよ。ハワイがアメリカの一部となってから、まだそれほど日が経ってない。もっともアメリカ自体の歴史だって、300年ちょっとくらいだからのう。 一方の琉球王国と日本との関係はどうじゃろう。こちらはハワイ王国と違って異民族ではなかったが、地理的に遠かったため日本とは別の国として成立した。そして中国へ使者を送り、形式的に臣下となることで貿易を進めて繁栄したのが島津藩の目に留ったんじゃ。島津は江戸幕府に願い出て琉球を討つことになった。東北へ漂着した琉球船を救出したにも関わらず、王国が礼を言って来なかったのもその口実になったようだね。 琉球に侵攻した島津はわずか3日間で王国を征服した。この王国は100年ほど前に武器を全て倉庫に入れ、すっかり錆びて使えなくなっていた。慶長14年、1609年のことさ。それ以来琉球王国は中国と日本の両方に従属する形を取る。ただし、そのことを中国は知らなかった。なぜなら大陸から柵封使が来ると、島津の役人達は皆田舎に隠れて姿を現さなかったからねえ。 明治5年、政府は琉球王国を琉球藩とし、明治8年には琉球と清との国交を禁じた。これには琉球の士族は戸惑ったようだ。さらに明治12年には漂流した琉球人が台湾の蛮族に殺されたことを理由に清国から賠償を取り、同時に琉球藩を沖縄県にしたんじゃよ。これがいわゆる「琉球処分」なんじゃ。島津の侵攻と言い、琉球処分と言い、ほとんど血は流されていない。明治維新ではたくさんの血が流されているにも関わらずだ。 大城立裕著「小説琉球処分」には、その時の情景が詳しく書かれている。琉球人は嘆き悲しみ、中には清国に助けを求めて脱出した士族もいた。だが当然清国は琉球を助けるような状況にはなかった。自らがヨーロッパの列強に蚕食され、どうにも出来ない立場にあったからじゃ。仲間由紀恵が主役だったテレビドラマ「テンペスト」などは嘘。当時の沖縄にはあんなヒーローはいなかった。 ペリー提督が浦賀水道に現れる以前、黒船は琉球にも立ち寄っている。水や燃料を補給するためじゃ。もちろん琉球王国は開国に同意はしなかったが、ペリー一行は上陸出来た。一行に加わっていた絵師が描いた琉球人の士族はいずれも暇そうに煙草を吸っている。何もすることがなかったからじゃ。そして「琉球処分」の時でさえ、彼らはほとんど役に立たなかった。開国か攘夷かを巡って真剣に論議され、日本人同士が戦っていたちょうどその時にだ。 初代の沖縄県令(現在の県知事)は横暴で、内地人に優先して土地を安く譲り、権利も与えた。それらの現実を見た県の技官謝花昇は苦悩のあまり狂死する。彼は東京農林学校を出た秀才だが、同胞である沖縄県人のあまりもの無気力に失望したのじゃ。沖縄の税制が本土並みになったのは明治後年になってから。これも琉球の旧士族をなだめるための策で、それで沖縄の振興が遅れた面もあるんじゃよ。<続く>
2015.02.19
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<久米島の歴史を訪ねて その2> 田圃(左)と田芋(ターウム)畑(右) 琉球王朝が石垣島で起きた「オヤケアカハチの乱」に宮古島の仲宗根豊見親と久米島の君南風を送って戦わせたのは、自らの手を汚さないため。オヤケアカハチは琉球王朝にとっては反逆者だが、八重山の民衆にとっては英雄的な存在だ。 水田と田芋畑があった。田芋(ターウム)はねっとりとした食感で、水田で育てる。久米島は水に恵まれた島。だから沖縄でも珍しい水田があったのだ。 五枝の松 運転手さんが「五枝の松」に案内してくれた。松の種類はリュウキュウマツで、普通のものは上に真直ぐ伸びる。ここは地下が岩だらけのため栄養が乏しく、枝は低く垂れ下がったのだとか。確かに見事な枝ぶりだった。具志川城 次に向かったのが具志川城。これで「ぐしかわぐすく」と読む。久米島を最初に支配した按司(あじ)の次男がこの城の主で、先刻訪ねた上江洲家の先祖に当たる由。城が築かれたのは14世紀初めで、久米島が琉球王朝の支配下に入ったのが16世紀初頭なので、この城が使われたのは約200年間だけ。その後は廃城になったのだろう。近年城壁が整備され、国の史跡に指定。 城域を示す図面 城の立地と石垣のカーブは、沖縄本島の勝連城と似ている。沖縄本島には具志川城と言う名の城(ぐすく)が2か所あるが、いずれも海の傍の崖の上にある。ただし、旧具志川市(現おもろ市)の具志川城は「城」ではなく聖地だった。日本の城と違って沖縄の「ぐすく」は、聖地や風葬墓の性格を有するものがある。 「おもろ」の石碑 具志川城を謡った「おもろ」の一節が石碑に刻まれていた。「おもろさうし」は琉球王朝時代の文学で、節をつけて歌う「歌謡」と呼ばれる詩。具志川城はとても立派で栄えており、港には唐(中国)や大和(日本)の貿易船も到来して、城は黄金に満たされていると言うような内容みたいだ。 見張り台 この高台から外国船などを見張っていたようだ。写真はまだたくさんあるが、別の機会に紹介したい。 次に向かったのがドーガー。左手がドーガーの全体像で、右側の拝所(うがんじゅ)には香炉が置かれていた。「ガー」とは井戸や泉水のことで、沖縄の島々ではとても貴重な存在だ。そのため聖地として信仰の対象でもある。 左手が堂井。これでドーガーと読む。泡盛の銘柄「久米島の久米仙」はこの水で作る。今でも現役の泉で、水が滾々と湧き出ている。右側は近くの比屋井(ヒヤガー)で、現在では飲料水になってないようだ。 ミーフガー 次に訪ねたのがミーフガー。この「ガー」は正しくは「グワー」で小さい、可愛いの意味。つまり「穴っこ」だ。前夜居酒屋の女将に久米島で訪ねるとしたらどこがお薦めか尋ねた。その答がここ。「女性の・・」と言いかけたのでピンと来た。よその島からも子宝を授かりたい女性が拝みに来、拝所がある由。そして明日のフルマラソンの折り返し点。 左の「ウティダ石」は琉球王朝時代の暦石。粟国島から太陽が昇れば春分、渡名喜島から太陽が昇れば夏至、渡嘉敷島から太陽が昇れば秋分と言うように、太陽の位置で農作業の目安にした。 右の標識は久米島紬(つむぎ)の顕彰碑。中国から伝わった紬の技術はここで発展し、税として首里の王府に納められた。また有名な奄美の大島紬の技術は、久米島から伝えられた由。 宇江城 次に向かったのが宇江城(うえぐすく)。島の支配者の長男の居城だった由。標高309.5mの山上にあるこの城は県内で最も高地にある城で、眼下には東シナ海が広がる。国の史跡に指定。 城の案内図 城域はとても広く、複数の郭(くるわ)や見張り台、井戸、抜け道などを有している。 石垣の一部 沖縄の城の石垣は普通穴が開いた柔らかい石灰岩であることが多いが、ここの石は先ほど訪れた具志川城同様、堅い石灰岩(写真)もあった。沖縄本島北部にある今帰仁城(世界文化遺産)の石質に良く似ている。 城跡に立つ私 後の海は東シナ海。この海を渡って中国や日本の貿易船が久米島へやって来たのだろう。 アーラ岳遠景 遥か彼方のアーラ岳(287m)が一番初めに噴火して出来たそうだ。次にこの周辺が噴火して2つの山が繋がり、久米島になった由。ミーフガー付近の海岸には、火山弾と思われる石や、噴火によって出来た火山地形が残されていたが、別な機会に紹介したい。 伊敷索城の石垣 最後に訪れたのが伊敷索城(ちなはぐすく)跡。これで「ちなは」とはとても読めない。この島の最初の支配者がこの城の主で父親の伊敷索按司。城の直ぐ下を白瀬川が流れ、その河口を港として使ったようだ。石垣は柔らかい珊瑚礁で、崩れたまま放置されている。沖縄本島恩納村の山田城跡ととても良く似た感じだ。この城跡の下の県道が翌日のマラソンコースになっている。 ソーキソバ 島の歴史を訪ねる旅は私にとってはとても有益なものだった。タクシー料金1万円を支払い、食堂で軟骨ソーキソバ(600円)を食べる。右側の小さな瓶はコーレーグース(高麗薬)。唐辛子を泡盛に付け込んだ調味料で、独特の味と香り。 この後、翌日のレースの選手受付を済ませ、臨時のバスでホテルへ戻った。沖縄勤務当時の先輩N氏の実家には鍵がかかり、ご家族と会えなかったのが残念だ。<続く>
2014.11.01
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<久米島の歴史を訪ねて その1> 私が泊ったホテル 10月25日土曜日。旅の2日目は4時前に目が覚めた。いつもならブログを更新するのだが、パソコンがないために手持無沙汰。仕方なく体操や読書で時間を潰す。6時過ぎ、空が少し明るくなって来たため海岸へ出る。ここはホテルのプライベートビーチ。ホテルは全室オーシャンビューのようだ。 久米島の夜明け 少し沖にサンゴ礁(リーフ)が見える。この内側が遠浅で、砂の白さと太陽の光でエメラルドグリーンに見える。沖縄では「イノー」と呼び、昔はここで魚や貝を捕った。リーフの外側が外洋で急に深くなり、色も濃紺に変わる。遠くに見える山はアーラ山(287m)で、あの付近もマラソンのコースだ。 それにしても木の葉が全て茶色に変色していたのが気になった。変色の理由は後で知った。台風19号は風台風で雨が降らず、そのため塩害を受けたのだそうだ。枯れた葉の下から、若い葉が芽生えていた。木は枯れてはいないようで、セミがジージーと煩いほど鳴いていた。朝食は7時からレストランでバイキング方式。地元の野菜などをたっぷり食べる。部屋に戻って朝の連続ドラマを観、フロントへ電話。9時にタクシーを予約し、島の観光に行く予定。だが私のは単なる観光ではなく、久米島の歴史を辿る旅なのだ。古い沖縄の地図を見ながら、訪ねたい個所をチェックした。3時間もあれば全部行けるはず。ついでに明日のマラソンの選手受付を済ませる積りだ。 運転手のOさん 9時前、予約したタクシーが来た。運転手さんに行きたい先を6つほど告げる。島出身の彼は観光案内することも多いらしく、早速メモを取る。私は島の主な産業と人口。塩害の話。琉球王朝時代の間切(まぎり=島の言葉ではまじり=行政区分)、城(ぐすく)と御嶽(うたき=聖なる場所)の存在など、聞きたかったことを彼に尋ねた。 上江洲家住宅 最初に行ったのが国の重要文化財指定の上江洲家住宅。これで「うえず」と読む。先祖は島の城主だった由。宅地の広さは661坪で、建物部分が92坪の堂々たるもの。主な部分は乾隆19年(1754年)の建築。琉球王朝時代で、これは中国の年代。第2次世界大戦の際、久米島は米軍の「艦砲射撃」を受けなかったそうだ。それでこんな古い建物が残ったのだ。まさに奇跡的なことだ。 家の前の石は「ひんぷん」(屏風)と呼ばれる目隠し。家の主人や重要な来客はこの門を入るが、女性の家族などは別の入口から入るのが風習。帰宅後もらったパンフレットを見たら、王朝時代は「親雲上」だった由。これは「ペイチン」と呼ばれる身分で武士。無役の士(さむれー=さむらい)→ 里之子(さとぬし)→ 親雲上 → 親方(うえーかた)→ 三司官(さんしかん=大臣クラス)→ 王子(王になれなかった、あるいはなる前の王族)→ 琉球王 が当時の序列だ。 メーヌヤ メーヌヤ(前の家)と呼ばれる蔵。ここが農作物などを保管する高床式の建物。上江洲家は首里王府から任命を受けて、具志川間切(明治以降は具志川村、現在は合併して久米島町)の地頭代(税金を取り立てる役職)をしていたのだろう。当時の久米島が課せられた税は、米と久米島絣(かすり)。どちらも琉球王朝では貴重な産物で、王族、貴族、士族の食料や着物に仕立てられた。 フール これはフールと呼ばれる建物。左側がトイレで、右側が豚小屋。これだけきれいに残っているのは、県内では他にないはず。戦前までの主な食料はサツマイモで、大量の大便が排泄される。これを豚の餌にしたのだ。ベトナムのトイレが池の上にあって、便が魚の餌になるのと一緒。極めて合理的な生活の知恵なのだ。沖縄の人は恥じるが、これは最もエコであり文化性の高いもの。もちろん今はどこにも残っておらず、ここでも使用もされてはいないのだが。 主家の裏側に糸繰機が置かれていた。これで絣の元になる木綿を紡いだのだろう。 家の裏庭。石垣と植木のバランスがとても美しく、いかにも高級士族の屋敷らしい雰囲気を醸し出している。 今は石で覆われてしまったが、元々は野菜などを洗うための水場があったそうだ。 母屋の東側にある小屋。東は太陽が登る聖なる方向で、家の守り神をこの小屋で祀った。 小屋の棚には上江洲家の守り神が祀られていた。因みに沖縄では東は「あがり」と言う。これは太陽が上がるため。西は「いり」と呼ぶ。これは太陽が入る(沈む)ため。因みに南は「はえ」。これは南風(はえ)から来ており、北は「にし」と呼ぶ。北風(にし)に由来する。東は生命復活の源である太陽(てぃーだ=天道=てんとう=おてんとさまが語源)が上る、聖なる方向。 やはり上江洲家住宅は素晴らしかった。沖縄本島中城村の中村家住宅も琉球王朝時代の建物が奇跡的に残り、同じように国の重要文化財に指定されている。フールもあるが屋根付きではなかった。こちらは子豚が行き来出来る「穴」が開いている。親豚や兄豚の所に行って、自由に餌を食べるための工夫だ。 君南風殿内 次に向かったのが君南風殿内。これで「ちんべーどんち」と読む。君南風は原始神道の祝女(ノロ)で、琉球王朝の卑弥呼に当たる「聞得大君」(きこえおおきみ)に次ぐ高位の神女。殿内は高貴な建物の意味。琉球王朝時代、石垣島で起きたオヤケアカハチの反乱を鎮めたのが宮古島の仲宗根豊見親(なかそねとゆみやー)と君南風。豊見親は武力で反乱を鎮め、君南風は呪術で鎮めた訳だ。 殿内の内部 これは殿内の内部。今では内地の神社とあまり変わらないが、元々は自然崇拝なので境内には大きな樹木などがあったはず。「君南風」の称号は首里王府から任命書により、代々正式に任命された。現在でもここで雨乞いの儀式をしているそうだ。 境内の岩 これは境内の岩。沖縄では霊力のことを「シジ」と呼び、大きな岩や樹木に霊力が宿ると考えていた。日本神道も全く同様の起源を持つ。この岩もきっとシジの高いものとして置かれたのだろう。<文字制限のため明日に続く>
2014.10.31
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≪ 博物館編 ≫ これは仙台市博物館の入口左手にあるモニュメント。かなり大きな彫刻だが、何を表わしたものだか分からない。これが博物館に相応しいかどうかは問わないでおこう。 こちらが仙台市博物館の全景。時代ごとに展示物が配置された常設展も見応えがあるが、この日私達が観たのは特別展。チケット発売所で思い切って尋ねると、65歳以上の市民は半額であることが分かった。市から送られて来た「豊齢カード」を提示して半額でチケットを購入し、特別展の会場へと向かう。 今回の特別展は『法隆寺 ~祈りとかたち~』。「東日本大震災復興祈念」のサブタイトルがついている。あの大震災で被害を受けた博物館も多い。また多くの博物館では被災に伴い、人手や予算を失った。また大勢の犠牲者の鎮魂のために、東北地方や全国の主な寺社が、それぞれ有する秘宝を博物館に貸し出す企画がここ数年多くみられた。今回も法隆寺の特別の配慮で、たくさんの寺宝をお借り出来たのである。ありがたいことだ。 聖徳太子と推古天皇によって飛鳥時代に建てられた法隆寺は、世界最古の木造伽藍と20点の国宝、125点の重要文化財を有する古寺。このうち今回は重要文化財17点、国宝1点を含む65点が展示されている。同時に宝物の保存や調査に貢献した東京芸術大学(旧東京美術学校)関連の美術品や、同校設立に携わった岡倉天心らの業績も紹介されている。館内での撮影は禁止されているため、ここに掲載した写真は全てポスターや新聞から借用したものである。 聖徳太子立像(孝養像) 鎌倉時代 木造彩色 重要文化財 聖徳太子像(摂政像) 昭和36年 彫刻:平櫛田中 彩色:前田青邨 平櫛田中(ひらぐし・でんちゅう)は我が国を代表する彫刻家の1人で、100歳を超えるまで彫刻をした人。前田青邨は我が国を代表する日本画家の1人。 地蔵菩薩立像 平安時代 木造彩色 国宝 地蔵尊は災難に苦しむ衆生を救う存在。 阿弥陀三尊像の本尊 奈良時代 木心乾漆造・漆箔 重要文化財 菩薩立像 飛鳥時代 銅造・鍍金 重要文化財 天人(金堂天蓋附属品) 木造彩色 飛鳥時代 重要文化財 これは特別展とは関係ない、支倉常長像。我が国最古の油絵で、江戸時代にローマで描かれたもの。仙台市博物館所蔵 国宝 世界記憶遺産指定 この秋、私は妻と奈良への旅行を計画している。法隆寺へは何度か訪ねているため、「山の辺の道」での散策が中心になる予定だ。なお、今回掲載した写真に「しわ」や折り目があるのは、新聞から転載したためであることを付加しておきたい。
2014.04.12
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≪ 戦争と暮らし ≫ 今日のテーマは<戦争と暮らし>です。なぜそんなテーマを選んだかと言うと、私が訪れた仙台市歴史民俗資料館は、かつての兵舎だったからです。もちろん戦争を賛美する気持ちはありませんが、私達の親やその親達が、どんな時代を過ごして来たかを知ることは大事だと思うのです。 仙台市歴史民俗資料館 これがかつての陸軍歩兵第四連隊の建物で、仙台市宮城野区つつじが岡に1棟だけ残されています。その一角に、当時の兵舎の様子や戦時下の生活ぶりを伝えるコーナーがあります。 これが第四連隊の全容で、一番奥の左手が現在の資料館です。以下、このコーナーの主な展示品を紹介しますね。 鉄兜 これが鉄兜です。戦時には兵士はこれを被っていたのです。 銃架 銃を立てかけておく装置です。 ラッパ このラッパで兵士達へ合図したのです。朝は起床ラッパで始まり、夜は就寝ラッパ。♪新兵さんは辛いんだよ~ また寝て泣くのかよ~ と聞こえたそうですね。 軍服各種 それほど上等の布ではないですね。 軍靴 これは実際に使用したもののようで、かなり傷んでいます。 装備 背嚢(はいのう)、軍靴、水筒などが壁にぶら下がっています。 毛布 毛布も粗末な材料で出来てるみたいですね。 ベッド 一部屋に何人もが一緒に寝ています。ラッパが鳴れば直ちに服装を整え、外へ出て整列したのでしょう。 ポスター 戦地に行かない若い婦人達は、軍需工場で勤労奉仕をしたのです。 塗り絵 塗り絵の図柄にも当時の様子が窺えます。男の子が被っている帽子は軍帽です。子供達も確か「小国民」と呼ばれ、将来は国を守る兵士となるように教育されていたのでしょう。 満鉄ポスター 字は右から左へと読みます。「南満州鉄道株式会社」と読めます。いわゆる「満鉄」でしょうか。満州を開拓するために、内地からどんどん開拓民を運びました。私の叔父の1人も満州開拓団に加わりました。これは多分超特急「亜細亜(アジア)号」だと思われます。 錦絵 これは「仙台招魂祭」の錦絵です。日清戦争、日露戦争で犠牲になった兵士の魂を慰めるための祭で、全国の護国神社が中心となって行ったようです。仙台の招魂祭は数年間だけで終わったようです。なお、靖国神社となる以前は、「東京招魂社」と呼ばれていました。 ♪一番初めは一宮、二は日光の東照宮、三また佐倉の宗吾堂、四は信濃の善光寺、五つ出雲の大社、六つ村々鎮守様、七つ成田の不動尊・・と来て、最後が確か 十は東京招魂社 と言う数え唄がありました。これは戦前に歌われていたのでしょうが、今でもちゃんと覚えているのが不思議です。 日本は第二次世界大戦で負け、終戦後は連合国の進駐軍が日本列島を占領しました。現在東北大学の川内地区(旧仙台城二の丸跡)には戦前第二師団がありましたが、戦後はここが進駐軍の本部となり、現在の国際センターの前にはMP(軍事警察)が立って警戒していました。朝鮮戦争の頃は住まいの近くを轟々と音を立てて戦車が通り、大砲や射撃の訓練場に向かう姿が良く見られました。 戦後は市内のあちこちに焼け跡が残り、鉄屑を拾って小遣い稼ぎをする子供もいました。食糧はほとんどなく、配給制度の米や芋も粗末で、サツマイモの茎も食べました。畑のネギを盗んで刻み、それが唯一のおかずと言うことや、ゴマ塩を振りかけただけのご飯もご馳走でした。進駐軍の兵士が投げるガムやコーヒーも奪うように拾ったものです。 もし脱脂粉乳などの米国提供の食材の給食が無ければ、きっと多くの子供達は栄養失調で死んだことでしょう。だから私には戦争を賛美する気持ちはさらさらありません。今は飽食の時代。貧しかったあの頃を知る人も、どんどん少なくなりました。 便所神 この仙台堤焼で作った可愛らしい便所神は、資料館のトイレに飾ってありました。幸運の便所神として、これからも時々登場させたいと思っています。 これで仙台市歴史民俗資料館の展示の紹介は終わりますが、このシリーズはもう少し続きます。ただし、明日と明後日は急遽別の話題を入れる予定です。<続く>
2014.01.29
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いささか古いニュースになったが、今月初めにスペインから宮城県へお客様が来られた。その中には「ハポン姓」の方が数人おられたようだ。ハポンは日本の意味だが、なぜそんな名前がついたのか。彼らは400年前に伊達政宗が派遣した支倉常長など「遣欧使」の子孫と言われている。彼らが月の浦から出帆した時はまだキリスト教は禁止されていなかった。 だが彼らがヨーロッパ滞在中に禁教となり、帰国を断念した仙台藩士がいたのだろう。帰国すれば罰を受けることを恐れたのだ。事実常長は帰国後故郷に幽閉され、日の目を見ることなく死に、戸籍からも抹消されている。その使節が派遣されて今年で400年目。何人かのハポンさんは、祖先が果たせなかった故郷に帰ったのだ。スペインにハポン姓の人は600人いる由。 国宝支倉常長像(世界記憶遺産指定) ハポンさん達は祖先が旅立った石巻市のとある港をも訪れたようだ。そこには帆船「サンファン・バウティスタ号」が係留されている。彼らの祖先が乗り込んだ船のレプリカだが、果たしてどんな気持ちだったのだろう。彼らは「東日本大震災」で未曽有の被害を受けた「故郷」で、「花」を歌った。400年経って、彼らの顔には日本人の面影はないが、歌詞の日本語は明瞭で、鎮魂の気持ちがとても良く感じられたのである。 8月2日。竹島の古地図2点が、島根県で見つかった。明和5年(1768年)に水戸藩の地理学者長久保赤水が製作した「日本図」と「改製日本扶桑分里図」で、これまで最古とされた「日本輿地路種全図」(安永元年長久保赤水製作)より11年古い。これは島根県からの距離と方角が正確に記され、下書きしたものをさらに修正してある。 ただし、当時の島名は「竹島」ではなく「松島」。「竹島」は現在韓国領となっている「鬱陵島」に付けられている。恐らく鬱陵島は無人で、長久保はこれを日本領と考えていたのだろう。その後朝鮮半島により近い同島は朝鮮に帰属したが、松島改め竹島は依然として我が国の領土として出雲の漁民が漁に出掛けていた。 これと同じ頃の朝鮮の竹島に関する正確な古地図は存在しない。彼らが竹島と主張する島は鬱陵島の小さな属島で、しかも地図によって位置も大きさもまちまち。恐らく鬱陵島から50km近く離れた「本物」の竹島へ行ってないため、正確な位置や大きさ、島の形状を知らないのだ。この点、長久保作製の3点の地図は、距離や方向、島の形状が全て正しく記されている。経線や緯線まで書き加えられている地図もあるほどだ。 国際司法裁判所に提訴すれば日本が勝つのは明白だが、裁判所への提訴には関係国双方の同意が必要で、韓国が同意しない。負けるのが明白のため拒否しているのだ。竹島(韓国名独島)の領有史に関する動画を見たが、韓国人が作った映像には、島の位置、正確な方向、島の形状、これまで発見された古地図の有無など明らかな矛盾があった。「歴史を直視しない国」と日本を非難する国が、逆に歴史をねつ造しているとは情けない。それは彼らが言う「従軍慰安婦問題」も同様だ。 8月10日には滋賀県高島市の上御殿遺跡から弥生中期~古墳時代前期(BC350~AD300年)のものと思われる短剣の鋳型が出土した。当時はまだ鉄がないため、青銅を流し込んだのだろう。双環型の柄頭はわが国で初めての出土で、中国春秋戦国時代(BC8~3世紀)のオルドス型短剣(北方騎馬民族が使用)に似ている由。柄の複合鋸歯文、綾杉文は銅鐸に施されている紋のようだ。いずれにせよ鋳型があるのは日本で鋳造した証拠。短剣が見つかると良いのだが。 今月の14日の夜から翌日にかけて襲撃されたエジプトのマラウイ国立博物館の内部である。例の政変で、館の収蔵品である古代エジプト関係の貴重な資料1040点が強奪された由。写真の木棺のように大型で重いものは持ち出せないため、腹いせに傷をつけられたようだ。祖先が残した貴重な遺産を、警備員を射殺してまで集団で持ち去ることがとても理解出来ない。この「内乱」は果たしていつまで続くのだろう。
2013.08.22
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今日取り上げるニュースは、いずれも古い時代の話。悠久の歴史にはロマンがある。人類が辿った道を少しだけ振り返ってみよう。最初の話題は文字。 これは中国浙江省北部の荘橋墳遺跡で発掘された、石斧に刻まれていた文様や文字と見られる6つの記号。光明日報によれば、文様は旗や魚や虫を象り、「人」に似た記号2つも含まれている由。今月初旬に行われた専門家の検討により中国最古の文字と認定された。漢字の起源になった甲骨文字よりさらに1400年古い約5千年前のもので、遺跡は長江文明の「良渚文化」に属する。 これは大阪大学大学院の大澤孝教授がモンゴル東部の草原で発見した巨大な石碑に刻まれていた突厥(とっけつ)の文字。突厥はイリ可汗が552年に樹立した古代国家で、中国の隋や唐と対立して唐の支配下に入り、744年にウイグルによって滅亡したトルコ系の帝国。 石碑には2832の古代トルコ文字が認められ(右から左に向かって読む)、解読の結果「我が家よ、ああ」、「我が土地よ、ああ」などと刻まれていた由。死者が家族や故郷との別れを惜しむ文面のようだ。トルコ系の国家は他にもトルキスタンがあるが、トルコが現在の地に落ち着くまでの民族の遥かなる流浪の旅を思う。 これはかつて、シルクロードのオアシス都市トルファンにあった古い仏典の一部。右側の黒い断片がフィンランド隊が20世紀初頭に持ち帰り、左側の少し色が薄い方の断片が、同じ頃日本の大谷探検隊が持ち帰ったもの。 このほど法政大学の小口雅史教授がフィンランドの国立図書館を訪れて照合した結果、同一の仏典の残欠であることが判明。他にも2つの断片が同じ仏典と確認された由。これは当時各国の探検隊が争って古い仏典を欲しがったため、現地の有力者が小分けにして売ったと考えられるそうだ。嗚呼無常、何と言うことだ。 アンコールワット このほどイギリスのNPOが画期的な技術を用いて、カンボジアの山中から古代都市を発見した。「マヘンドラパルバタ」と呼ばれるこの都市は、紀元802年に成立したアンコール帝国時代のもので、周囲にはかなりの数の地雷が埋まっている。このため、最新のレーザー機器を飛行機に載せて探査し、「ジャングルを透視」することに成功した由。ここからは20以上の寺院の他に、道路や運河の跡も見つかったそうだ。きっとそのうちカンボジアの新たな観光資源となるに違いない。 さて、最後が「世界記憶遺産」の話題。文化遺産や自然遺産なら聞いたことがあるだろうが、記憶遺産も同じくユネスコが指定する。今回は仙台市博物館にある3点の資料が、記憶遺産となった。いずれも支倉常長の遣欧使節関係だ。 支倉常長像(国宝) 支倉常長は藩主伊達政宗の命を受け、慶長18年(1613年)から7年を費やしてヨーロッパに旅し、スペイン王やローマ教皇と謁見する。政宗は当時勢力があったスペインと貿易をすべく常長を派遣したのだが、残念ながら彼の野望は実現しなかった。この肖像画は、日本人を対象とした最も古い油絵。ロザリオを手にして祈る常長の表情は真剣だ。 ローマ教皇パウロ5世像(国宝) ローマ市民権証書(国宝) 市民権証書には常長を貴族に列することも併記されている。この3点は今回の指定により、今後は電子的な方法で保存し、後世に伝えられることになる。この他、同博物館には政宗がスペイン王に送った文書などが残されているが実に華麗な装丁で、政宗の夢が本気だったことが窺われる。 最後に『伊達政宗の夢 ~慶長遣欧使節と南蛮文化~』展が、10月4日から11月17日までの間、仙台市博物館で開催されることを記しておきたい。おりしも今年は使節が派遣されてちょうど400年目。私も改めてじっくりと観覧する積りだ。
2013.07.23
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昨日は野草園に行った。前回行ったのが5月5日だから、約2か月ぶりだ。アジサイを含め結構花が咲いていた。園内ではオカリナの愛好家たちが演奏中で、梅雨空に優しい音が響いていた。ボランティアが何組かのグループを引率していたので、私も時々説明を聞かせてもらい、最後に甘茶をご馳走になった。何とそれはアマチャと言うアジサイの葉っぱで作ったものとか。そのレポートは改めて書こうと思う。 ≪ 大年寺の石段です。ここを登って野草園へ行きました♪ ≫ その後向かったのがラーメン屋。既に40人近く行列し、45分ほど待つ。千葉の走友Bさんが週に3回は行くほど大好きだと言うこのラーメン店。最近仙台に支店が出来たことを所属走友会のK野さんのHPで知り、話のタネに行ってみたのだが結論は☓。年寄りには脂分が多過ぎてダメ。野菜も太い麺も美味しいのだが、味も濃過ぎて体には良くないと感じた。貧乏人の私には、1杯300円のK楽苑の中華ソバの方が合ってるみたいだ。 ≪ ボリューム満点のラーメンだけど・・ ≫ ところで暫く前から私の心には、刺さったままの「棘」がある。橋下大坂市長が物議をかもした例の発言だ。米軍兵に沖縄の風俗店の利用を勧めたことは論外だが、従軍慰安婦問題は本当に日本がいつまでも非難されなければいけないのだろうか。この「従軍慰安婦」という言葉自体が戦後日本の「左翼」の造語とか。韓国では旧日本軍に無理やり連行されたと主張しているようだ。 10年ほど前に、韓国で複数の「元慰安婦」にインタビューを試みたフリーライターの著書を読んだが、その中に強制連行された方は1人も居なかった。同書によれば、戦時の「慰安婦」には幾つかの「レベル」があった由。高級将校についたのが日本人で、中には「専属」の人もいた由。次のレベルが韓国人(当時は日本人)で、最下層が中国婦人。彼女らは貧しい農村部の出身で、家庭の経済的な理由から「応募」したようだ。 ≪ 今では散ってしまったモッコウバラ ≫ 韓国が強制連行の証拠とした写真に、「募集」と書いた旗が写っていたそうだ。どうやらハングルは読めても、漢字が読めない世代が増えたようだ。戦前の日本では、貧しい農家の子女が遊郭に身売りされた。「家」を助ける手段になっていたのだが、悲しいことにそれが事実。話は変わるが、戦国時代は小姓が婦人の代わりを務めたことをご存知だろうか。つまり戦地では「男色」が一般的だったのだ。 私が青年時代に大変驚いたことがある。文部大臣を務め、晩年は学習院院長だった安倍能成(明治16~昭和41)が放った「下半身に人格はない」との言葉だ。「性欲は聖人でも制御出来ない」との趣旨だろうが、青年だった私にはとても受け入れ難い言葉だった。確かにキリスト、ムハンマド(マホメッド)、仏陀、孔子と言えども人の子。決して樹の又から生まれたり、コウノトリが運んで来た訳ではない。 ≪ これも散ってしまった深紅のバラ ≫ 少し前、白い煙がバチカン市国の空に上がった。新しい法王を決める「コンクラーベ」の時だ。前法王は90歳だったが、普通は亡くなるまでその地位にいるそうだ。それが急に交代したのは高齢が理由だけではない。複数の枢機卿が少年を犯したことに責任を取ったとも言われている。どうやら聖職者は「性職者」だったようだ。 「従軍慰安婦」制度を採っていたのは旧日本軍だけではなかった。「先進諸国」が採用した理由は、戦地での混乱と兵士の意欲低下を防ぐため。それなのに何故旧日本軍だけが悪者になるのかが分からない。広島と長崎に原爆を落とした米軍は、国際世論から非難されないよう、旧日本軍の「南京大虐殺」説を流布し、戦後の中国は新国家建設のため、それを利用した。 ベトナム戦争で枯葉剤などを使用し、大量の被害を与えた米国は、次に「商業捕鯨禁止」を訴えた。自国が非難される前に矛先を変えたのだ。つまり情報操作による責任転嫁。大国がそんな卑劣な手を使うのに、ロビー活動が苦手で国家戦略のない日本は、いつも非難を浴び続けるばかり。国連に拠出している資金の比率は、世界でも有数だと言うのに。 ≪ ピンクのバラもさようなら ≫ 「八紘一宇」を唱え、「アジアの共栄」を図った日本が起こした第二次世界大戦は、やはり戦略戦争だったと思う。中国で医学研究に名を借りた、非情な「人体実験」を行ったのも確か。大いに非難されるべきだし、私達も祖父や父親の行為を反省する必要がある。また戦没者は英雄ではなく、国の間違った施策による犠牲者で、靖国神社に祀られるべき対象ではないとも思う。 だが橋下氏のあの発言が世界から非難を浴び、都議会選挙で大敗する原因となったことに、私は疑問を感じてならない。本当に彼は非難されるべきなのか。日本がかつて起こした戦争の実態は何だったのか。それらを踏まえて、日本はどう近隣諸国と仲良くし、失った誇りをどう取り戻すのか。果たして「性」は忌むべき、そして秘すべき存在なのだろうか。彼が投じた問題は、決して自分と無関係ではないと思うのだが。≪ 6月のラン&ウォーク ≫ ラン回数:7回 ラン距離:195km ウォーク:106km 月間合計:301km 年間合計:1570km うちラン:1030km これまでの累計:82486km
2013.07.01
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町内会の組織に「豊齢会」と言うのがある。簡単に言えば老人会。これが出来たのは数年前で、これまでは災害時の避難訓練や、健康体操の普及などをやっていた。今年のテーマは近所の歴史で、講師は同じ町内会に属する方。特段歴史や地方史を学んだわけではなく、今の住宅街になる前から、ここに住んでいた方だ。 彼は70代半ばだろうか。良く近所を歩いている姿を見かける。山歩きが好きなようだし、散歩しながら付近の様子の変化を常にチェックしているみたいだ。彼の家は川の傍で、庭には高さ20mほどの柳の木が風に揺らいでいる。目の前の小川に獲って来たカワニナを放ち、蛍を養成しているのも彼。何だか町内ではとても不思議な存在なのだ。 彼が生まれた頃、この周辺は水田ばかりだったそうだ。裏にはひょうたん沼と言う沼があり、そこから流れる小川が田圃の水源になっていた由。江戸時代の図面を観ると、付近にはもう一つ沼がある。今は県立高校の敷地になっているのがその地と言うからビックリ。戦前から戦後にかけて、この周囲の地中には亜炭(あたん)鉱山があった。石炭になる前の粗末な燃料だ。 それを運ぶためのトロッコも通っていたとか。また付近の田圃の中を、近郊の温泉まで小さな電車が走っていた。人も載せたが、温泉地付近で切り出した石材を、1日2回仙台まで積み出したそうだ。私も小学校の遠足で、1回だけ乗ったことがあるが、今は温泉地に車両が1台記念に遺されているだけだ。付近の神社の前は昔からの街道で、一時は国道だったとのこと。 山から流れ出す小川で、昔はたくさん魚が獲れたそうだ。私も今は亡き愛犬とその川の上流部から探検したことがあったが、結構大きな魚が群れをなしていた。川岸に良く見られる竹林は、護岸のためにわざわざ昔の人が植えたそうだ。戦後開拓が入った山は個人の持ち山で、農家の一部は植木を育て、やがて付近が住宅化されると庭園業へ転身した由。今でも周辺には何軒か植木屋さんがあり、何年か前まで「開拓記念」の石碑が立っていた。 終戦の数か月前、仙台空襲があり、この付近にも米軍機が焼夷弾を落としたそうだ。その残骸を彼は持参していた。戦後間もなくの頃は、それらの金属片を集めて売ったことも知っている。現在新しい道路を作っているお寺の裏側にも焼夷弾は落ちた由。この付近に上空まで光を放って敵機を探る探照灯が設置されていたためとのこと。 土地の守り神である八幡神社は、元々70段近い石段の山上に鎮座していた由。そして小さな鉄道の最寄駅は、名取川付近の田圃の中にあったそうだ。小学校はあったが、中学校は遥か遠くまで歩いて通った由。通学途中の道草は、しょっちゅうだったと彼は笑う。彼が嘆いたのは「小字」の消滅。これで由緒ある昔からの地名が、記憶の中にしか残らなくなった。 「裏町」街道の裏に当たるここには昔古墳があった。「三神峯」ここは2つの円墳が残る桜の名所。「名召」今は小さな公園が残るだけ。「王ノ壇」これは古代の方墳が名の興りで、今は「大野田」に変わった。確かに小字名は歴史の謎を解く鍵になるのだが、それを失くせば謎は解けずに終わる。私達は新しくてきれいな住宅街を手に入れた代わり、昔からの懐かしい風景を失ったのだ。 狭い範囲の歴史談話だが、私にとっては十分面白かった。まだ20代前半の頃、この付近に下宿したことがあった。三神峯の裏側から山道を登ると、良く石の鏃(やじり)が見つかった。あれは私達の遠い祖先が、野山で獣を獲った矢の名残。祖先と私達をつなぐ手掛かりなのだ。その鏃が、良く探せば今でもまだ見つかるらしい。
2013.03.14
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2週間ほど前のこと、たまたまNHKのドキュメンタリー番組「新日本紀行」を観た。今は「新」がついているが、昔からだったのだろうか。あの頃のテーマ音楽は今でも良く覚えているし、その次のテーマ音楽の不思議な響きも、まだ耳の奥に残っている。現在のも哀愁を帯びた素敵な曲だと思う。さて、その時観たのは「いざなぎ流」と言う不思議な宗教だった。 高知県の物部村は徳島県と県境を接する山村で、今は合併して香美市物部地区となっている。吉野川の最上流部にある徳島県の祖谷(いや)地区は平家の落ち武者が逃げ込んだとされる深い谷がある。谷は切り立って通行が出来ず、かつては谷の両側で、手を使って交信したそうだ。橋はツタで編んだ葛橋(かずらばし)。敵が攻め込んで来た時は、その葛を切って山に逃げた。 香美市物部地区も祖谷と同様に平家の落人伝説が残っている。そこに伝わる「いざなぎ流」は、神道、仏教、陰陽道、修験道などが混じり合った宗教で、民俗学者によれば日本の宗教の原点とも言われている。そしてそれを司るのが「太夫」と呼ばれる人。現在物部地区には3人しか残っていないそうだ。普段、彼らは普通の暮らしをし、神事がある時だけ太夫になる。 太夫が覚えるべき祭文は最低でも「いざなぎ神」、「山の神」、「大土公」、「地神」、「荒神」、「恵比寿」、「水神」の7つ。これに呪詛の祭文や天神の祭文が加わる。祭文とは一種の神話で、祝詞(のりと)のようなもの。そして祀るべき神は無数。自然現象の全てが神であると言えようか。私達日本人の祖先が暮らした遠い昔を彷彿とさせる原始的な宗教だ。 神前に捧げる御幣は全て紙を切って作る。その種類は200以上に上る。まあ、それだけの数の神様がいる訳だ。紙を作れなかったアイヌは、木を削って御幣を作った。それが「イナウ」だが、感じがとても似ていると私は思う。自然崇拝もそうだが、アイヌと日本人に共通する祈りの心があったのだろう。沖縄の原始神道も巨木や巨岩が信仰の対象で、これも原始の宗教の姿を良く止めている。 物部地区の人口は約3300人。「いざなぎ流」を信じている人の多くは老人なので、そのうちには絶えてしまうかも知れない。自然を神とし、神と共に暮らす生活はある意味で幸せだと思う。全てを神に委ねているからだ。そして土から生まれ、土へと還って行く。 謎は残る。古代豪族物部氏との関係はないのだろうか。平家の落人がこの「いざなぎ流」をもたらしたのだろうかと。他の集落との交流を断ったからこそ残った原始的な宗教の姿。もし信じる人が途絶えても、拙い字で書き留められた「祭文」だけは残りそうだ。国内には貴重な郷土芸能がまだかなり残っている。それらを大切に守り、後世へ遺して行きたいものだ。
2013.02.22
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≪ 奇跡の東海道、逢坂山 ≫ 琵琶湖畔に同志社大学の艇庫があった。自衛隊の駐屯地も、近江神宮の公園も見えた。国道161号線のバイパスの表示を見つけたが、そちらへは曲がらなかった。行かなくて正解。もし行けば、何の変哲もない道路だったと思う。前日乗った京阪の浜大津駅が見えた。道路はそこから曲がって京都に向かい、全く迷うことがなかった。 ここは大津市上栄町。瓦屋根のどっしりした家が道路の両側に並んで、いかにも旧街道の趣が残っている。坂を登って行くと右手の山上に神社が見えた。思わず麓の標識を見ると「関蝉丸神社」とある。蝉丸は琵琶の名手で、皇子とも乞食とも言われた謎の人物。小倉百人一首にも彼の歌がある。 これやこの往くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 ここは名高い逢坂の関があった場所。南北朝時代以降は前日訪れた園城寺(三井寺)の支配下にあって通行税を取っていたようだ。また五位以上の身分の者は畿内から出ることを禁じられていた。つまりここから先は畿内なのだ。ここを初めて通ったのは中学校の修学旅行の時。バスガールが和歌を教えてくれた。どうも清少納言の歌のようだ。 夜をこめて鳥の空音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ 間もなく国道1号線と合流。物凄い交通量だが、なんとか左端の歩道に渡れた。これで3つの旧街道が合流したことになる。東海道、中山道、北陸道だ。京都方面からの風が強い。それも冷たい風。京阪の駅を過ぎると山際に「車石」の標識を発見。この坂は古来難所で、牛車の往来を助けるために轍(わだち)を刻んだ平らな石を敷き詰めてあった由。へえ~っと思ったが、現物がどんな石かは分からない。 ところが翌日滋賀のOさんのブログを読んでビックリ。何と私が走った数時間後、彼もこの道を走っていたのだ。京都市内である忘年会へ参加するためだ。彼が滋賀から京都へ3つのルートで時々走ることもブログで知ってはいたが、まさか同じ日に同じルートを走るとは。こんな奇跡は滅多にないだろう。彼のブログには何と「車石」の写真も載っていたのだ。 奇跡と言えば前日もそうだ。最初に訪れたのが京都山科の天智天皇陵。そして次が滋賀の三井寺。この寺が天智天皇の孫である大友与多王が創立したことを私は知らなかったのだ。今回の旅はきっと何かの縁で結ばれていたのだろう。山科駅前の細い道が、旧東海道だったことも後日知った。 東海道新幹線はトンネルの中だが、この狭い谷間を国道1号線、名神高速道、京阪電鉄が交錯しながら通っている。ここは昔も今も交通の要衝。関が設けられたのも当然だろう。山際にへばり着くように小さな寂れた寺があった。「近江そろばん」を商った旧家も狭い道端にあった。相変わらず風は冷たく、手がかじかむ。 坂を下り切ると大きな建物。さらに直進しようとすると、ガードマンが停めた。その先は歩道がなく、車が多いので地下道を行けとのこと。お礼を言って長い地下道を通り、反対側に出た。確かにその先で複数の道路が合流している。ここが心配していた「山科ランプ」のようだ。掃除をしていた人に1号線への行き方を尋ねた。道伝いに左に行けば合流する由。 やれやれこれで一安心と坂を下る。最初にぶつかった道を右折して進む。だが、どこにも国道1号線の標識がない。そのうちに「三条通り」の標識が見え出した。んんん?ここは昨日通った道。このまま進めば京都の三条通りへ出てしまう。困ったなあと思っていたら「義士祭り」の旗。どうやら山科駅前通りの交差点のようだ。思い切って左折し、再び国道1号線を目指す。ロスは1kmほどと思ったが、後日地図を見たら、ほとんど距離は同じだった。<続く>
2012.12.16
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≪ 三井寺と琵琶湖の風景 ≫ 鐘の音が聞こえる。有名な「三井の晩鐘」を、お布施の代わりに観光客にも撞かせてくれるのだ。鐘楼は重要文化財。木々の間に三重塔が見えた。元は奈良県比蘇寺にあった室町初期のもので、徳川家康が寄進した由。その右にはこれも室町初期の一切経蔵が静かな佇まいを見せている。ほとんど誰もいない広い境内を観音堂に向かって歩く。 別所の微妙寺を観ながら坂を下り、毘沙門堂を見上げつつ石段を登ると高台。入口に観月舞台があり、正面に西国十四番札所の観音堂があった。ここに微妙寺の本尊である十一面観音菩薩が安置されていた。像高82cmの小さな像で「見事な」短足に驚く。これらもすべて重要文化財だ。観音堂の脇から山に登ると琵琶湖と大津市内が見渡せた。天智天皇が近江宮を置いた古代を偲ぶ。 長い石段を下り、水観寺を経て総門から境内を出た。滞在したのは1時間半ほどだが、まだ観てない個所が多かった。それほど境内は広かった。この三井寺(園城寺)と比叡山延暦寺が争っていたことは、『新平家物語』にも何度か出て来た。共に天台宗で皇室の尊崇も篤かったが、三井寺は後に天台寺門宗総本山となり、豊臣、徳川の庇護を受けて再興されたようだ。 京阪三井寺駅から穴太(あのう)までの切符を買った。だがそこまで行かずに次の皇子山駅で降りた。隣のJR大津京駅で乗り替えた方がホテルに近いからだ。この周辺には「びわこ毎日マラソン」で有名な皇子山陸上競技場や、近江宮の旧蹟がある。次の唐崎駅で下車。ここから電話するとホテルのマイクロバスが迎えに来るらしいが、小さな構内には電話がない。オーノー! 仕方なく歩いて行くと、ホテルのマイクロバスが後から追い越した。手を上げたら停まって乗せてくれた。これはラッキー。フロントで予約した友の名を告げると、既に到着している由。2階の部屋に幹事のF君がいた。筑波勤務時代の後輩である彼は、転勤先の部下と結婚して津市内に住んでいるが3年ぶりの再会だった。 近況を話しつつ、早速缶ビールを開ける。窓の外は琵琶湖。その対岸には秀麗な山。きっと近江富士の愛称を持つ三上山だろう。この琵琶湖は古代から交通の要衝で、継体天皇の妃は琵琶湖の水運を握っていた古代豪族の息長(おきなが)氏。また平家を討った源義経は堅田党と呼ばれる湖賊の助けを借りている。かつての仲間が次々に到着し、ビールから日本酒に変わった。まだ日は高いのだが大丈夫かなあ自分。<続く>
2012.12.14
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≪ 琵琶湖疏水と三井寺 ≫ 三井寺駅で降りると目の前に店。近江牛の牛丼1600円、ビーフカレー1200円の看板あり。一旦は行き過ぎたものの空腹には勝てずに引き返す。店に入るとそこは精肉の部で、食堂の入口は別だった。牛丼は美味いだろうが1600円は高過ぎ。ビーフカレーを注文し、小じゃれた座席でかなり待った。出された野菜サラダもビーフカレーも全て上等。やはり家のものとは一味違う。 腹を満たして表へ出ると道路の脇に深い濠。ひょっとして琵琶湖疏水かと思い通行人に尋ねると、やはりそうだった。川なら山から湖に向かうのだが、ここでは水が山に向かって逆流している。徐々に濠が深くなるはずと思いながら、疎水に沿って歩く。それにしても立派な構築物だ。とても明治のものとは思えない。疏水は深さを増し、とうとうトンネルの中に消えて行った。三井寺の境内の下を通っているのだろうか。 後日調べたら、この第一疏水は明治18年(1885年)に着工し、明治23年(1890年)に完成している。琵琶湖と京都の蹴上との距離は12kmあるが、高低差はわずか4mだからかなりの精度が求められる。ところが疏水の設計と工事を担当した田邊朔郎は大学を卒業したばかりだったと言う。疏水は京都の岡崎で観たことがあるが、琵琶湖側で観たのは初めてだった。 幕末の「禁門の変」で、京都は街の大半が焼失した。また都が東京に移転したため人口が減り、産業が衰えた。疏水はそれを救うために考えたものらしい。水道用水、工業用水、工業用の動力、水力発電、灌漑、水運と幅広く利用されたが、工事は全て人力だった。当時の写真を見たが、苦労の跡が偲ばれた。疏水は先刻訪れた天智天皇陵付近の裏を通っているようだ。 道は山にぶつかった。左手に行けば観音堂があるようだが、どうも様子がおかしい。通りかかった若夫婦に聞くと、三井寺の正門はここからかなり離れている由。観音堂とは逆方向に歩くと、寺の境内が見えて来た。なるほど相当の広さだが、何故駅付近に案内図がないのか不思議。仁王門の横にある受付で入場料を支払う。500円とはちょっと高い。 最初に見たのが「弁慶の引摺り鐘」。奈良時代の梵鐘で重要文化財。擦った跡があることから弁慶が引きずったとの伝説になったようだ。国宝の金堂には天智天皇の持仏だった弥勒仏が安置されているが秘仏の由。現在の金堂は秀吉の正室北政所が再興したものとか。堂々たる風格の建物だが、その裏手に小さな堂宇があった。 名称は閼伽井屋(あかいや)。慶長年間の造立で重要文化財だ。龍の彫刻は左甚五郎作の由。ここからは霊泉が湧き出ているようで、耳を澄ませると中からブクブク音が聞こえた。寺の別名「三井」は元々「御井」(みい)で、正式名は長良山園城寺。「荘園城邑」を資金源にして建立したのが寺名の興りとか。寺伝によれば天智、天武、持統の3天皇がこの御井で産湯を浸かったと言うが、それはおかしい。 何故ならこの寺は天智天皇の孫である大友与多王が天武天皇の許可を得て建立したもの。天智天皇がこの大津に都を定めたのは40歳を過ぎてからのことだし、時代が全く合わない。それに父舒明天皇の都は飛鳥岡本宮。当然天智、天武の兄弟はそこで生まれたと考えられるからだ。寺社の由来や縁起には結構「眉つば」が多いのだ。<続く>
2012.12.13
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窓を開けると、微かにキンモクセイの香りがする。今年はずいぶん枝を切ったキンモクセイだが、わずかな花から漂う芳香。朝の散歩では彼岸花の茎が地中から伸び出しているのを見つけた。花が遅れたのは夏の猛暑のせいだろうか。裏庭の萩が雨に打たれ、地面にピンクの花弁を零している。今日は曇天。次の台風が近付いているようだが、今日も引き続き日本と中国との関係について考えている。 中国の歴史書に日本のことが最初に記されたのが『魏志倭人伝』。当時の中国は三国時代で、日本は弥生時代。女王卑弥呼の時代から日本は中国に使者を送り、大陸の文化を学んでいたのだ。飛鳥時代の遣隋使、奈良時代の遣唐使も同じ発想。難破を重ねながらも先進国である隋や唐の文化を学び、高僧鑑真が3度の難破の末に我が国に到来した。実に尊いことだ。 その後遣唐使は中止となり、我が国独自の平安文化が栄える。平安後期から鎌倉期には宋銭を輸入した。また鎌倉時代には元が高麗軍と共に襲来した。いわゆる元寇だ。室町時代には明と勘合貿易を行ったが、中国との冊封関係に入らず、形式的な臣下になる道を選ばなかった。江戸時代は鎖国体制が敷かれていたが、長崎や平戸を通じて、明や清との貿易は続いていた。 明治新政府が成立すると朝鮮半島の独立を巡って日清戦争が始まり、日本が勝利した結果、台湾、遼東半島などの割譲を受ける。中華民国とは満州事変などを巡って第二次世界大戦となり日本が敗れた。戦後成立した中華人民共和国との間に「日中平和友好条約」が締結されたのが1972(昭和47)年で、現在に至る。 だが、もし松下幸之助氏が快く中国の要請に応えて技術提供しなかったら、そして日本政府が多額の資金援助をしなかったら、果たして今日の中国の繁栄はあっただろうか。中国は進出の条件として最新技術の公開を求め、高度成長を進めて行った。その潤沢な資金を元にアジアやアフリカ諸国に経済援助を続け、国連安保理の常任理事国の座を手にした。お人よしの日本はここでも敗れたのだ。 東シナ海でのガス田開発でも、日本は後れを取った。共同開発するはずだった天外天(日本名:樫)は、2010年には中国が既に採掘を開始したようだ。日本が国際海洋法裁判所などを通じて解決しようとしてもこれに応じないのだ。天外天のほかにも中国はかなりの海上採掘基地を建設しており、日本領内のガスが「ストローで吸われる」ように減って行くのは確実だ。 日本領の南鳥島周辺の海底の泥に厖大なレアアース資源が眠っていることが分かると、中国は「島」ではなく「岩」だと主張し、国際的に島であることが認められると今度は艦船を同島付近まで派遣し、「必ず島を奪う」と公言している。国土は世界第4位で日本の25倍。人口は世界第1位で日本の13倍。13億以上の人民を食わせるためには、手段を選んでいる暇はないのだろう。 国連総会で「尖閣は日本が盗み取った」と中国が演説したのはつい最近のことだが、2日前ほど前にはパキスタンの新聞に同様の趣旨の広告を載せたようだ。恐るべし中国。尖閣付近へも中国艦船がひっきりなしに接近している。海上保安庁では全国の艦船をやり繰りして尖閣付近を当番体制で守っているが、この「神経戦」にいつまで耐えられるかが心配だ。 尖閣諸島の国有化が明らかになって以降、中国では政府主導での暴動が起きた。その反応に驚いた野田総理は「ここまで騒ぎが大きくなるとは予想しなかった」と話したそうだが、そのこと自体が日本が「領土問題に関する基本戦略」がないことを物語っている。中国はきっと陰でほくそ笑んでいることだろう。 沖縄では今、新型輸送機オスプレイの配属について反対する声が大きい。だが尖閣が「有事」となれば、垂直離発着、ホバーリングというヘリコプターの利点を持ち、速度と飛行距離が優れたオスプレーが「活躍」するのは確実。この脅威が分かっているからこそ、中国は決して軍事行動には出ないと確信する。もちろん「有事」が生じないことが大事だが。 私は普通の市民でタダの爺さん。特別な情報を持ってる訳でもなく、発信力があるわけでもない。だが、マスコミの言いなりではなく、自分の頭で考え、自分の良識で判断しようと努めている。沖縄で3年間勤務し、宜野湾市の普天間飛行場も、名護市辺野古のキャンプシュワブもこの目で実際に確認している。だから沖縄の人達にも尖閣問題と米軍基地の関係、そして「平和とは何か」について冷静に考えて欲しいのだ。
2012.10.03
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疲れていた。そして目と頭が痛かった。前日本を読み過ぎたのと、オリンピックで興奮したせいだ。昨日のミッションの第1はレースのカーテンを外し、洗濯後は再び取り付ける仕事。これは3日ほどかかった。面倒くさがりの私にとってはあまりやりたくない仕事だが、じっと我慢。布団干し、洗濯ものの取り込みと自分のものの始末はいつものこと。厳しい暑さのせいで、午前中には完全に乾いていた。 午後から用足し。生協の受け取り、銀行、床屋、買い物の後、整骨院に行くが午前中で閉院していた。暫く行ってなかったうえ診察券も失くしたので、いつ開院なのか分からなかったのだ。今日改めて行くつもり。帰宅後、カンカン照りの中で農作業。枯れ始めたモロッコインゲンを全て除去。この夏もたくさんの実をつけたことに感謝しつつ、鋏で蔓をちょん切る。最後の収穫は30本ほど。 ついで塀の外に伸びたゴーヤの蔓を、敷地の中に戻す。成長が著しいことに驚く。やはりインゲンの陰になって良く見えなかったのだ。宝石のような白ゴーヤ1個を収穫。その後庭と畑の草取りをしながら、キュウリ、ナス、トマト、ミニトマトを収穫。作業の最後に発酵鶏糞と化学肥料を追肥し、夕方散水する。 夜は極力目を休め、ラジオで楽天の試合を聞いていた。0対2となったところでスイッチを切る。結局この日も敗れて5位に転落したことを今日になって知った。最近では珍しく10時前に就寝。3時過ぎに目が覚めてテレビを点けると、男子体操個人総合で、内村選手が金メダルを獲り、田中選手が6位になっていた。 卓球の石川佳純選手は3位に入れなかったようだ。でも世界の4位は凄いこと。今回の結果に本人は自信をつけたようだ。男子サッカーの予選最終戦はドロー。この結果1位通過で、決勝トーナメントの初戦の相手はエジプトに決まった由。これは勝てそうな予感がする。出来るだけ勝ち上がって欲しい。柔道は男子は銅メダルを獲れたものの、女子は3位決定戦で敗れたようだ。 さて、今日から歴史について感じたことを、少し付け加えたい。初回は少し前にテレビで観たエジプト考古学の話。早稲田大学の吉村作治名誉教授が、最近の発掘の結果を特別番組で紹介してくれたのだ。クフ王のピラミッド周辺の地中に大きな空洞があることを、彼はかなり前に電波発信装置で探り当てていた。そしてそこに「太陽の船」を収めてあることも予言していた。 どうしたら中の遺物を損なわずに取り出せるか。その対策のために彼は20年間も待ったのだ。そして今回、ついに発掘の全貌が明らかになった。彼の推理通り、中から2つ目の「太陽の船」の残骸が出たのだ。正式に言えば1艘は太陽神が乗る船で、もう1艘は王が乗る船。復元された船はかなり大きく、立派なものだった。王の船は太陽の船を追って、再生への旅を続けるためのものとか。 ピラミッドの内側へも入った。これまでも「世界ふしぎ発見」で何度かピラミッド内側の映像を観たが、今回はさらに詳しく、「重力の間」や「斜路」などの構造が良く分かった。私自身は十分に好奇心が満たされたことで、実際にエジプトを訪れたような気になった。先日「インカ展」で観たマチュピチュ遺跡もそうだが、空想の旅は安上がりで良い。<続く>
2012.08.02
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