全46件 (46件中 1-46件目)
1

前回は、神話を古代ヘブライ語で読み解くことから、松果体と脳下垂体が、ヤタ(感恩、悦び)の鏡であることを解き明かした。 つまり、松果体と脳下垂体が、人間の喜怒哀楽を形成している基本であることがわかる。 次に、詳しく、シュタイナーの話から、再度、松果体と脳下垂体の関係に迫ってみたい。以下は、シュタイナーを研究するには必須のサイトからの抜粋紹介である。 ☆ ☆ ☆ http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner/note/S-note71-/S-note103.html 魂と肉体との相互作用---------------------------------------------------------------2004.12.29 一体、印象を基に生じる人体内での知覚と、外界からの知覚との間には、どのような相互作用が生じるのか? この問いの答えをはっきりと知る必要がある。というのも、体内の血液を、自我の道具になり得るほど精妙な波動にしようと、濾過しても、結局は、物質のままにとどまる点で、肉体の一部にすぎないからである。 だから、体内の血液と、魂の営みによる知覚との間には非常に大きな隔たりが存在していることは否定できない。 (物質波と非物質波では、周波数、波長ともに大きく異なる。) 知覚、概念、理念、感情、意志の存在を否定できないのと同様に、血液、神経、肝臓、胆汁の物質的な存在も否定できない。もし、この両者の間にある隔たりを否定する人は、思考力そのものも否定することになる。 この二つの現実を対比させるとき、別の事柄に気づく。一方には血液のように高度に濾過された物質があり、他方には物質とは全然関係のない、感情、思考などの魂の内容がある。そして実際に、この二種類の相互の関係については様々な唯物的世界観が異なる解釈を加えている。 今、魂の営みを、非物質的な経過として、そして人体のもっとも生命化された血液を物質的な経過として、この二つを対比させ、魂の活動と肉体の活動とがどのように相互に働き合っているか、を考えるなら、上述の唯物的世界観による知的な考え方は何も教えてはくれない。 唯物的世界観からくる知的な考えを通して見出せるものは身勝手な結論か、もしくは無解決でしかない。 (シュタイナー『オカルト生理学』ちくま学芸文庫/P93-95) (ラムサ風にいうなら、制限された思考からいくら思考しようが、何も理解できない、というところだろう。)--------------------------------------------------------------- ごくごく単純で、誰もが考えることだが、私たちの知覚が、一体、どのようにして身体(肉体)に影響を及ぼすのか? 知覚は、そのままでは物質的な経過にはならないはずで、もし知覚が、身体に影響を与えるのなら、どのような経過で影響するのかを明らかにする必要がある。 (知覚は、高次の波動で、物質は、低次の波動である。高次とは振動数が極端に多いか、もしくは少ないかで、波長も極端に長いか、もしくは短いかのどちらかと考えられる。光の電磁波でいうなら、紫外域と赤外域のこと。例えば以下を参照に。 http://ktai-denjiha.boo.jp/faq/hz_hyou.html) 知覚が身体に影響するのは、まさに事実なので、その事実を明確に説明できなければならないが、おそらく「現代科学」では説明できないだろう。 しかし、「現代科学」はその経過を問わずに、その「事実」から出発するが、そうした認識態度はかなり不誠実と思われる。「現代科学」というのは、そういう意味でも、様々な「不誠実」をもとに成立していることが多い。 そうしたことを意識するだけでも、人智学への大きな一歩になるのではないかと思う。 では、シュタイナーは、どのように説明しているのだろうか。とても興味深いので、その話を辿ってみることにする。--------------------------------------------------------------- 最初、私たちは外界に向かう。そして、外界から自我の中に印象を取り込み、アストラル体(魂)の中で消化する。けれどもアストラル体の中で消化するだけなら、全てをすぐに忘れてしまうだろう。 印象を確保し、しばらく経った後で・・・それを再び思い出せるようになるには、自我によって獲得され、アストラル体によって消化された印象を、エーテル体(第2の人体で、幽体と呼ばれる)の中に刻印づける必要がある。 外界との接触を通じて、魂が経験した事柄を、自我はエーテル体の中に刻印づける必要がある。 それでは、肉体に隣接した超感覚体のこのエーテル体に、一体どのようにして印象を刻印づけるのか? それは非常に不思議な方法で為される。まず、エーテル体内での血液を、概略的に観察してみる。心臓を通じて流れる血液は、自我の物質的な表現なのだが、自我が外界に応じて印象を受け取り、それを記憶にまで濃縮する際、血液は単に(下方に)物質的に働くだけでなく、特に上方の高次元(電磁場)に向かって、下方の低次にはわずかだが、上方の高次元(電磁場)のいたるところでエーテル体を刺激している。 だから高次元(電磁場)にあるエーテル体はいたるところで流れを生じているが、その流れは心臓から出て頭の方へと流れる血液に結びついた流れ方をしている(大動脈の流れ)。そしてそのエーテル体の流れは頭の中に集まり、まるで電流のように、一方の先端と他の先端とに分かれ、陰極と陽極のように対峙する。 これら陰極と陽極に分かれた二つのエーテルの流れが、一方は下の低次元から、他方は上の高次元から、最大限の緊張を伴って、二つの電流のように対峙している。そしてこの二つの流れがショートを起こすとき、印象がイメージとして記憶され、それがエーテル体に組み込まれる。 人体内の超感覚的な現実であるエーテルの流れは、記憶のための器官をつくり出している。中脳のなかに記憶を生じさせる一つの器官があり、それに対してまた別の器官も脳のなかにあり、この二つが脳の中で、エーテル体の二つの流れを身体的に表現している。 この二つの流れが生体に働きかけ、この二つの器官を生じさせた。実際、霊能者は、この二つの器官のうちの一つからもう一つへと明るいエーテルの光が流れ、人間のエーテル体の中へと注ぎ込まれているようなイメージを持つ。 この二つの器官とは松果腺と脳下垂体のことである。この二つは、魂と肉体とが相互に働き合っていることの可視的な表現なのである。 (同上/P97-102)--------------------------------------------------------------- 私たちは魂の働きにより、外界からの知覚を、印象として、まるで食べ物のように吸収している。それをアストラル体が「消化」し、それをエーテル体に刻印する。そして松果腺と脳下垂体という二つの器官の対峙によって、魂と肉体の相互作用が可能になっている。 私たちが日々知覚し様々な印象を持つということは、まさに外界からの知覚が「魂の食べ物」となっていて、それが身体の養分にもなっている、という発想はとても重要な示唆なのではないだろうか。 私たちにとって「透き通った透明な食べ物」としての魂の糧を豊かにすることがどれほど大事なことか、現代の唯物論化した世界観では説明できない。その世界観は豊かさを益々貧しいものにしているといえないだろうか。 芸術さえもがそんななかでは、豊かな食べ物にならなくなるのではないか。そのためにも、知覚がなぜ身体に働きかけることはできるか、というような極めて素朴な問いを持つことが大切なのではないかと思う。 ☆ ☆ ☆ 現代の物質文明は、人間を腐敗させる道具である。この世は、ニセモノだらけが氾濫している。だから、次のマークの本当の意味も理解できていない。 上の脳の図のなかの松果体と下垂体と、「メーソンのマーク」や「古代エジプトの審判の眼のシンボル」と比較すれば、上のメーソンのマークの三角形(コンパス)が、松果体を、下のメーソンのマークの逆三角形(定規)が下垂体を表わし、中央のエビデンスの目が、霊能力獲得の第3の眼であることがわかるだろう。また松果体が女性で、下垂体が男性を表わす。オカルトを学ばないと、人間は理解できない。人間は神の子だからである。
2013年09月30日
コメント(0)
前回は、松果体と脳下垂体の機能のまとめから、昇華(アセッション)がおぼろげに理解できる話を抜粋紹介した。 人間は、物質的な食物だけでなく、精神(霊)的な食物も必要とすることが、松果体の機能から明らかになる。 キリストの「人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉により生きる。」のことである。 神の言葉を物質化(実現)するのが、松果体である。 そこで、前回の連想の続きからはじめる。 古代ヘブライ語の「エヘイエ アシェル エヘイエ」という神の言葉は、なんでも三種の神器のヤタの鏡に書かれているという。 そこで、「ヤタ」とは、日本語では、「長さの基準で計れない巨大なもの」という意味を持つらしいが、古代ヘブライ語では、「ヤタ」は、「ヤダー」だという。「ヤダー」=「知れ」、「偲べ」、「親しめ」の意味をもつという。そこで、「ヤタの鏡」の古代ヘブライ語での解説を以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html 八咫の鏡はユダの鏡? 二つの意味 八咫(やだ)の鏡の「やだ」という語は、ヘブライ語の「ヤダー」であるに違いなく、それには二つの意味がある。一つは、 「ヤダー」=「知れ」、「偲べ」、「親しめ」の意味を含む語であり、鏡に込められている意味は、「この鏡を見る事、われを見るごとくにせよ」というものだ。 もう一つは、 「ヤダー」=「感謝・感恩」、「頌栄賛美(しょうえいさんび)」という意味を持つ語句である。こちらの語句は、ユダヤ国名の「ヤウーダ」の語源で、日本全国の地名や神社名に残る「八幡」(ヤワダ)となっている。 八咫の鏡の正体は、丸い金の筒に納められた長方形の金属らしい。それは、天孫族がユダヤ地方から持ってきたものに違いない。 八咫の鏡は二つある? (松果体と下垂体の2つ?) 日本神話によれば、八咫の鏡は「天照大神が天の岩戸に隠れた時に作られた」・・・とされている。 (「天照大神が天の岩戸に隠れた時に作られた」とは、霊魂が肉体に宿ったということで、「八咫の鏡」とは、松果体と下垂体のことだろう。つまり意識が、2つに分かれたこと。) この時神々が相談して、岩戸の前で祭りを行い、鏡作部=かがみつくりべの祖先、天糖戸=あまのあらとという者に鏡を作らせた。 別の日本神話では、天糖戸は「天抜土」=あまのぬかどとなっており、鏡を作ったのはその児の石凝戸辺=いしごりとべだ。それ以外にもあるが省略。 三種の神器は様々な形で神話に出てくるが、特に八咫の鏡が重んじられる。 天照大神がその嫡子「天忍穂耳尊」=あめのおしほみみのみことに宝鏡「八咫の鏡」を授けた。 この時こう述べている。 「我が児(こ)、この宝鏡を見るときには、まさに吾をみるがごとくすべし、宝鏡と共に床を同じくして殿(おおとの)をひとつにして、それを斎(いわいの)鏡とすべし」 (神の光をイメージすべし、ということか? 神とは、人間の貴方自身のことだ。) それで、天皇家において八咫の鏡は身を守るための呪物として尊重された。 『古語拾遺』=こごしゅういによれば、天皇は八咫の鏡を宮殿の中に祀っていたが、崇神天皇が鏡を笠縫邑=かさぬいむらに移して、そこで天照大神を祀るために新たに鏡を作らせたという。 すると、天照大神の祭祀は笠縫邑から移転しながら伊勢に落ち着いたため、八咫の鏡が伊勢神宮の御神体とされるようになったと受け取れる。 しかし、崇神天皇(4世紀前半)の存在は疑う人もいるため、「崇神天皇発注説」を信じるのは難しい。 結論としては、元々宮中と伊勢の鏡とは別物であり、コピー説は後の時代に加えられたと考えられるのだ。 『資料 天皇家歴史大事典 新人物往来社:p182~3』 御神体としての鏡 このようなわけで、日本の神社に数多い「御神体の鏡」には「八咫の鏡」という元祖があった。また、その鏡には深い意味があった。鏡についてまとめてみよう。1. 「八咫」(やだ)という名前そのものが、ユダヤ国名の「ヤウーダ」を意味する。 つまり、「ユダヤ人」は元々「ヤウーダ人」である。 (「ヤウーダ」は感謝、つまり悦び、だから、ユダヤ人は感謝、喜びの人。)2. 鏡に込められている意味は、「天照大神の写し」である。 「われを見るごとくにせよ」・・・とある。 (「自分が思った通りに、なる。」感謝、悦びを思えば、感謝、悦びに取り巻かれる。)3. ヘブライ語で「ヤダー」は「知れ」、「偲べ」、「親しめ」の意味がある。 (「偲べ」に近いのが、ワビサビの、「侘びる、寂びる。」である。先祖を思いやることからきている。自分とは反対の境遇の人を思いやるということ。)4. 「感謝・感恩」、「頌栄賛美」(しょうえいさんび)という意味もある。 (先祖、神々に「感謝・感恩」することから、レムリア人を彷彿とさせる。)5. 「ヤウーダ」は、日本全国の地名や神社名に残る「八幡」(ヤワダ)となった。 (ヤウダは、テトラグラマトンの「YHWH」も意味する。レムリア人の神ヤハウエである。ちなみに、JAPANは、「ヤハン」からきていて、つまり、「八幡」である。日本は外国から、古代ヘブライ語での「ヤハウエ」と呼ばれていることになる。古代ヘブライ語では、本当のユダヤは日本になる。)6. 「天照大神」は、「イエス」だと推測できるので、シンボルは「太陽」である。 (神々は太陽霊ということ。)7. すると「鏡」は『太陽』・・・つまり、『光の源』を象徴している。 (鏡は、太陽光を映すもので、松果体のこと。)8. そのイエスは、「魔物(悪魔)は光を嫌って光に来ない」と述べている。 (物質のことを古来、鬼といったが、鬼は、闇だから、光を浴びると、消える。)9. それで、鏡は「魔除け」となるのだ。古代日本人は、それを理解していた。 (鬼は無秩序な象徴の「加減を知らない」という無知のことだから、秩序の象徴でバランスを与えられると、知を得て、生気を取り戻す。)10. 古代の出土品である「鋳造された鏡」は、「魔除け」の意味を持つはずだ。 (残念ながら、物質のものは模造品にすぎない。)11. 容易に割れてしまう「ガラスの鏡」は「魔除け」にならない。 (ホンモノは、眼にみえない霊的な意識なので、滅し、壊れることはない。) 日本の神社の御神体が「鏡」であるというのは、確かに道理にかなっている。そしてそれは、「太陽からの光」を受けて輝くため、聖書のキリスト・イエスの「写しとしての象徴」となっているはずだ。 「天照大神」が「イエス」であるなら、彼は王権を備えた「ユダ族の獅子」である。故に、その子孫としての天皇に「ユダヤ王朝」(ヤウーダ)の爵位(しゃくい)が備わっていることは疑えない。 (ホンモノの天皇は霊能者であるはずだ。つまり、ホンモノの天皇はエロヒムであり、ヤハウエであり、アラーであり、イエス=キリストであり、人間ではない存在。人間から地位を与えられるはずがなく、人間からはその地位さえもわからない。あるときは乞食であり、あるときは王である。つまり、全人類に宿っている精神のこと。) しかし、「鏡」だけでは「世界」を納得させられない。 ユダヤ王朝を受け継ぐ「絶対的権威」は、あの「失われたアーク」つまり、神からモーセが受け取った「石盤」を収めた契約の箱・・・「ヤーエの御輿」が出現したその時に与えられる。 (「石盤」とは、モラルのこと。「石」とは、古代ヘブライ語では、救いのことで、人間の体験の記憶のことで、感情のこと。喜怒哀楽のこと。「契約の箱」とは、ノアの箱舟で、肉体のこと。) その中には、十戒を刻んだ石盤、芽を吹いたアロンの杖、マナを入れた壺が入っている。 (「アロンの杖」は、人間の脊柱で、「マナの壺」は、恐らく頭蓋骨のことで、マナは、自我のことだろう。) ヤオヨロズは間違いなく、それを保管しているはずだ。そしてその出現は近い。 それはいったい、いつだろうか? ☆ ☆ ☆ 三種の神器が明らかになるのは、松果体と下垂体が融合したときで、肉体から霊魂が離れたときである。つまり、この世を去ったときで、いわゆる死後の世界にいくこと。死後の世界に行ったときに全てが明らかになる。我々は目隠しをされながら、どこまで理解できるか自分で自分を試している。筋肉をつけるのに、重いものをもつのと同じ。 勿論、太陽との関係で、地球にも四季があるように、地球も生命体だから、地球が物質環境を捨てるときもあるから、オカルトでは、地球は、次に木星になるそうで、ガス状の星となるそうだ。だから、だんだんと物質は崩壊に向かう。 人類は環境破壊という物質崩壊を急速に進めているので、唯物論に染まる人にとっては、自分の首を自分で絞めていることになる。自分の頭を自分で叩いている姿をみれば誰でも滑稽にみえるだろうが、現代人は平気でそれを行なっている。
2013年09月30日
コメント(2)

「ネット情報の活用法」という題で抜粋紹介してきた、松果体と脳下垂体についてのラムサの話とマイトレーヤなるものの話とシュタイナーの話から、松果体と脳下垂体の機能を、以下のように大まかに知ることができた。 1.松果体と下垂体には女性と男性の陰陽の関係がある。 2.松果体と下垂体の陰陽の制御が完全にバランスされると、高次の波動をみる第3の眼が開く。 3.男性的な下垂体は、ホルモンを脳全体を経由して松果体に流し、脳の活動を立ち上げ、物質力(運動)を担う。 4.女性的な松果体は、想念や思想などの霊力を集め増幅し、中枢神経内の髄液を介して、全身の細胞に伝え、ホルモンのバランスを調節する。 以上のまとめから、松果体と下垂体の変換能力と、増幅力が向上すれば、高次元と低次元を自由自在に移動できる。まるでタイムマシンのようになる。 霊能者は、自らをタイムマシンにして、過去や未来の人類の歴史を、アカシックレコードといわれるものから読み解いたという。 松果体が、神である思想を、低次元化して、身体の細胞に情報を送り、下垂体から流れるホルモンを調整しているという。神の思想は、無秩序に秩序を与えるものだから、この調整プログラムを失うと、下垂体が暴走を始めることが考えられる。 つまり、この松果体の調節機能を失うと、ホルモンのバランスが崩れ、例えば、下垂体腫瘍の症状の「女性では無月経と乳汁分泌がみられ。男性の場合は、性欲低下やインポテンツがみられたり、巨人症や、手足の先端、額、あご、唇、舌などが肥大してきて末端肥大症となる」ことなどが考えられる。 下垂体腺腫 http://ganjoho.jp/public/cancer/data/pituitary.html 昨今の先進国の都市生活での、身体肥大化や「草食系」といわれる性能力の減退などは、松果体の機能低下に由来しているのではないか、とも考えられる。 以下に絶妙なバランスをとっている松果体と下垂体の図を載せておく。 この松果体と下垂体の簡単な説明を、あるサイトにみつけたので、あわせて抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 松果体の働き! http://blogs.yahoo.co.jp/takaaki3768/50930543.html 松果体は、目に見えないエネルギーを、目に見えるエネルギーに変換する分泌腺だ。 いうまでもなく私たちが見ることのできる光の範囲は僅かで、その外側には人間の目では見ることの出来ない広大な世界が広がっている。 松果体は、頭部の真ん中の下垂体のちょうど上の背後にある小さな円錐形の小臓器で、第3脳室の屋根の部分から突出した小体で、生後7年位まで発育し、その後退行する。 松果体自体には神経細胞は少なく、神経膠細胞と分泌細胞が多いので、一種の内分泌腺と考えられている。 松果体は目で発見される色素と類似したものを含んでいる。そして視床(第3脳室の外側壁をなす間脳の主要部で、感覚が皮質へ達するときの中継部位)と2本の神経索で連結している。 松果体は光が生体に及ぼす作用をコントロールすると言われている。 (光の本性は神の思想なので、オカルトの話と一致する。) このような理由から科学者は、「松果体が第3の身体的な眼の残遺物である」という。 ルネ・デカルトによれば、精神と身体が出会うところ、すなわち、「直観の座」が人類の特質となる、と断言している。 さらにデカルトは松果体に、「合理的精神の座」があると力説した。 (デカルト的にいえば、神の光「血」を受ける場所の、松果体が聖杯というべきものだろう) つまり、眼が現実の世界の事象を受けて、これを松果体に伝えると、松果体はこれに対する運動反応を、体液を通して筋肉に伝えるもの、とみなしている。 (「デカルト」の名は、オカルトとともとれる位に、オカルト「秘教」の話と一致する。) その後、松果体腫瘍の症例を研究することで、1.性器の早期発育 2.肥満症 3.痴呆などをきたすことから、松果体と性腺との間に何らかの関係があると推定されるようになった。2および3は必ずしも松果体のみの欠損症状ではないといわれている。 (下垂体とも関係する。) 人間は一条の光である。人間は色の法則と作用を身に付けて、目に見える世界へと振動によって生命を創り出す。 東西文化の伝承によれば、すべての生き物はそれぞれ固有の振動範囲を持つ。この事実は広く認められている。 R・シュタイナーは、マゼンダ(赤紫色)の松果体は桃の花に似ているという。 (桃源郷の起源か?) この絶妙で上品な色、マゼンダは人間に化学作用を及ぼし、地球上の元素との相互作用を促すといわれている。 インドの伝承では、松果体をクラウン・チャクラという。 西欧の伝承では、松果体は「第3の目」といわれ、元素を有機化する。下垂体は人間の至るところにメッセージを伝える。これによって健康はコーディネートされ、鼓舞されるのだ。 (松果体は霊力を伝え、下垂体は物質力を司る。下垂体が素材を提供し、松果体が、彫塑する。) 松果体、つまり「第3の目」は、私たちが物理的に見ることが出来ない精神イメージ、そして何を知らされているかといった精神的イメージをつくる。 それだけに、イメージづくりは健康維持に重要な役割を果たす。 松果体が全く機能しなければ、不可視の世界から得られる「精神的な栄養」を得ることが出来なくなり、生命エネルギーはしだいに衰えて行く。 下垂体は、呼吸や心拍のリズムや性腺のリズムを美しくコーディネートする。 また、甲状腺は人体中最も大きい内分泌腺で前頚部にあり、約15~25グラムの大きさがある。 甲状腺は音の中枢として、人間の幸福に大切な役割を演じる。心地よい音は体内の化学物質を賦活する力を持つ。 特定の音や一連の音を規則的に活用すると、精神的・情操的・生理的に身体が変化するといわれている。 (レムリア文明は、音の文明だったという。) 下垂体や松果体が充分に発達すると、すべての振動は融合して神秘的に「第3の目」に生命を吹き込む。 明らかに、一つの完璧な計器が精神に備えられ、いろいろなタイプの振動が翻訳され、通訳されるのだ。(^^♪ ☆ ☆ ☆ マゼンダ(赤紫色)の松果体は、よく林檎や桃に喩えられるが、松果体の機能は、神に似せて人間をつくる機能に相違ないように思われる。つまり、「エヘイエ アシェル エヘイエ(我思う、故に我在り)」の「神が自身を思うから、神の分身としての人間が生まれる。」である。 聖書には、この知恵の実を取って食べる、とあるが、脊柱を「蛇」に喩えると、脳下垂体は、頭の口に喩えられ、人間の身体は、松果体が、脳下垂体や脊柱の「蛇」に食われた形ともいえるし、人間自体を生命の樹と捉えると、生命の樹に、林檎や桃の実がなっている形にもみえる。 色々と面白い連想が浮かびあがる。
2013年09月27日
コメント(0)
前回の続き。さて、セスの話、ラムサの話を抜粋紹介してきたが、特に注目すべき松果体について、再考してみたい。 それは松果体が、昇華(アセンション)に関わる器官だからである。下垂体と松果体は、人間の意識に深く関わっているようである。 まずはラムサの話から再掲する。 ☆ ☆ ☆ 脳下垂体は大変小さな、しかし素晴らしい分泌腺で、これを「第3の眼」と呼ぶ人も沢山いる。でも、3つめの眼はない。頭のなかに、3つめの眼を入れる余裕もない。脳下垂体は眼のような姿さえしていない。 (下垂体は第3の眼ではないそうだ。) 洋梨のような形をしていて、小さなほうの端には口のような部分があり、それは丁度花弁のようにみえる。貴方の脳は、この強力な内分泌腺によって、複雑なホルモンの流れを司るシステムを通じ、支配され制御されている。 (下垂体を通じて、脳は支配制御されているそうだ。) 内分泌腺である脳下垂体は、ホルモンを分泌し、そのホルモンが脳全体を流れ、もう一つの内分泌腺の、脳下垂体近くの大脳の基底部、丁度脊椎の上に位置する松果体の口のような部分へと流れていく。 (下垂体からホルモンが分泌され、脳全体に流れ、松果体に流れていくそうだ。) 松果体は、想念を増幅して全身に送ることができるようにする機能を司っている。脳下垂体から松果体へのホルモンの流れが、異なった思考の波動を受け取る様々な脳の各部を起動させる働きをするのである。 (松果体は、想念を増幅して、全身に送り、下垂体から松果体へのホルモンの流れが、脳の活動を立ち上げるそうだ。) 身体の諸機能は、内分泌腺から血液の中に流れ出すホルモンにより調和を保っている。その調和を保つのが松果体の役割だ。松果体は、ホルモン型の分泌腺を起動させ、互いにバランスをとりながら各々のホルモンを分泌し、「ホルモン・バランス」と呼ばれるものをつくり出すのである。 (松果体は、ホルモンの恒常性を司っているそうだ。) そのバランスの水準は、松果体が受け取る集合思考の波動により決まる。思考の波動が高ければ高いほど、化身(肉体)全体のホルモンの流れも多くなる。また、波動が高いほど、松果体は、脳下垂体の働きを促進し、そのホルモンの量を増やして、今度は更に高い波動の思考を受け取るよう脳を活動させるのである。 (松果体が、集合思考を受け取り、ホルモンを調節するそうだ。) 「意識の流れ」からの想念は、貴方のなかで、どのように実現するのか? 想念がオーラを通るとき、オーラはそれを定義するわけではない。想念に価値判断を下したり、変えたりせず、無限の状態のままで通す。やってきた想念が脳に到達すると、まず大脳の左上部、知性(あるいは理性)の機能に宿り、「変性自我」が表現されている場所に移動する。 さて、では「変性自我」とは何だろうか? 人間としての体験から得られた叡智が、魂に蓄積され、脳の知性部を通して表現されるもののことである。神なる人間が、ただ生存を続ける生物として、社会意識の影響下で生きるときの価値観の総体といえる。 そして、その世界観は、身の安全という概念のなかには収まりきらない、つまり生存を確実にするのに役立たないような思考の波動は受け容れを拒んでしまう。「変性自我」とは、化身(肉体)のなかで大きな気づきを得るために、全ての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する態度のことなのである。 (「変性自我」は、生存本能というべきものだそうだ。) 「変性自我」により脳の中に入ることを許された想念の波動は、電流に変換され、脳下垂体が起動させた、波動を蓄積する役割を担う部分へと送られる。脳のその部分は、その電流を増幅し、松果体へ送る。 (「変性自我」に受け入れられた想念は、電流に変換され、蓄積増幅され、松果体に送られるそうだ。) 松果体は、貴方の中枢神経を司っている。松果体は、個々の思考の波動を集め、それを更に増幅し、思考の電気的なハイウェイとして脊髄のなかを走る中枢神経に送り込む。松果体からきた電流は中枢神経内にある液体(これは水である)を伝わり、脊髄を通り、そして個々の神経から全身の一つ一つの細胞へと伝えられていく。 (松果体は、中枢神経を司り、想念を集め、増幅し、中枢神経内の液を経由し、全身の細胞へと伝えるそうだ。) ☆ ☆ ☆ 以上をまとめると、 下垂体は第3の眼ではなく、脳を支配制御し、ホルモンを分泌し、脳全体から松果体へとホルモンを流すことで、脳の活動を立ち上げる。 松果体は、ホルモンのバランスや中枢神経を司り、想念や思考を集め、増幅し、中枢神経内の液を経由し、全身の細胞に伝え、ホルモンを調節する。 次に、マイトレーヤなる存在が述べた松果体についての話を再掲する。 ☆ ☆ ☆ 二元性のバランスをとる ガイア(地球生命体)はホログラムですから、地球上にいる全ての生命体は、ガイアの光を内に持っています。ガイアが地球上の生命体の光を内に持つのと同じです。人間の身体で男性性と女性性のバランスをとる手掛かりは、脳にある「神聖な三角」です。 男性極と女性極の内なる結婚、神聖なる三角形の内なる神秘の結婚が、脳内で、この二元性のバランスをとるのです。この二元性の均衡が計られ、中性化した時、全脳思考が起動します。 松果体と脳下垂体は対極しています。松果体は女性/受容的で、脳下垂体は男性/投影的なのです。ですから、この二つの腺が脳の第三脳室内でそれぞれの性質を分かち合い、混ざり合い、融合すれば、電荷/極性は、地球の器(肉体)の中で徐々に均衡を持ちはじめます。 もちろん、失うものは一つもありません。男性極と女性極のバランスが、完全に充電された電池だとすれば、脳内の男性・女性のバランスは、完全に充電された生物学的コンピューターと言えます。 男性極と女性極によって生まれていたアンバランスな状態はなくなり、男性と女性は中性となります。右/陰性エレクトロン(電子)と左/陽性プロトンは混ざり合って全脳となります。同時に、第3の目が開き、真なるビジョンが見えるようになります。そして頭頂からはライトボディ(エーテル)が殻を破って開いてゆきます。蓮の花のようにです! 一方でDNAは中性の、多次元的な存在である光の記憶を持っています。脳がバランス(男性性と女性性)を取り戻した時、新しい生物コンピューターが起動し、私達は故郷、5次元やもっと上の高次元の世界へと戻る旅を始めるのです。 スターシップ地球、マザーシップ、そして何百万もの小さな光の器、ライトボディは壮大な銀河のツアーに出発します。この旅を逃さないでください。この世界からの脱出を約束された旅なのです! ☆ ☆ ☆ 以上をまとめると、 松果体と下垂体は対極し、松果体は女性/受容的で、下垂体は男性/投影的で、この2つの腺が、それぞれの性質を分かち合い、混ざり合い、融合すれば、徐々に均衡を持ちはじめ、男性極と女性極によって生まれていたアンバランスな状態がなくなり、男性性の下垂体と女性性の松果体は中性の全脳となり、第3の眼が開き、真なるビジョンが見えるようになる。 最後にシュタイナーの話から、 ☆ ☆ ☆ 霊力と物質力は、常に緊張関係にあり、それを制御することが治療においては重要になる。 松果腺(松果体)には、霊力全てが現われ、物質力を支配する脳下垂体と真の緊張関係をもつという観点が、治療の基本原理となる。 ☆ ☆ ☆ 以上の3つの話をまとめると、 1.松果体と下垂体には女性と男性の陰陽の関係がある。 2.松果体と下垂体の陰陽の制御が完全にバランスされると、高次の波動をみる第3の眼が開く。 3.男性的な下垂体は、ホルモンを脳全体を経由して松果体に流し、脳の活動を立ち上げ、物質力(運動)を担う。 4.女性的な松果体は、想念や思想などの霊力を集め増幅し、中枢神経内の髄液を介して、全身の細胞に伝え、ホルモンのバランスを調節する。 以上のことは、松果体から、概日リズム、催眠作用をもつメラトニンが放出されることや、例えば、下垂体腫瘍の症状などからも明らかである。 つまり、松果体は、ウルトラマンのカラータイマーというわけである。3次元世界にとどまれる時間を制御しているわけである。松果体が、高次元の情報を、低次元に変換しているので、当然といえる。粗い喩えだが、シナリオにあわせて映画を撮影するような感じである。 単純に考えて、松果体は高次元の波動を低次元(3次元)の波動に変換し、増幅する役割、下垂体は、その逆の低次元の波動を高次元の波動に変換し、増幅する役割を担っているとすれば、両者の役割が融合されれば、理論的には、高次元と低次元の入れ換えがスムーズになるので、アセンションができることになる。
2013年09月26日
コメント(0)
前回の続き。再びラムサの話を、内容が重複するが、また他のサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ http://blog.goo.ne.jp/fjytoshi7/e/5e54846a3a38bcd3b4f891e0b2c43d98 神はただ在るのみ 神は、それ自体では善も悪もまったく持ち合わせていない。ポジティブもネガティブもない。神は完璧でもない。というのは、「完璧」も、存在し続け、変化を続ける、この豊穣な生命に制限を課すからだ。 神はただ在る、にすぎない。敬愛する父なる神が知っているのは、あらゆるものが(それもまた神そのものなのだが)、在るがままの生命を生きていけるよう、ただ在ることだけなのだ・・・。 制限された思考の中で、貴方は、あるものは間違っている、邪悪だと考えてきた。しかし、それは、貴方自身が選んだ真実であり、父なる神は、貴方が、それを心に抱くことを許したのである。 神の真実は「在ること」だ! 神は貴方が何をしようと関係なく、貴方を愛している。なぜなら、貴方は自分のすること、考えること全てを通して、智恵を得るのであり、その智恵が人生(つまり神そのもの)を更に豊かにしてくれるからだ。 貴方が永遠の存在であること。そして、貴方が何をしようとも、その行いが貴方から生命力を奪うことができないことを、神は知っている。 だから、貴方がこの地上界を去り、自分の人生でしてきた全てに思いを巡らすとき(これは必ず誰もがすることなのだが)、神はやはりそこにいて、これから先の数限りない明日に向かって貴方を愛し続けてくれることだろう。なぜなら神は、貴方の幻、空想、夢、その全てをつくり出す舞台だからである。 貴方に偉大なる真実を教える。人間は、自分の同胞たちを支配するために、神のイメージを作り出した。宗教というのは、軍隊が民族や国家を支配するのに失敗したときのために作られ、宗教を使って人々を抑えつけるのに、恐怖という手段が用いられた。 どんな人間だろうと、その人から神なるものを奪ってしまえば、神を奪ってしまえば、その人間を支配しコントロールするのは容易い。 神が地獄や悪魔を作り出したのではなく、それは人間が自分の兄弟たちを苦しませるための恐ろしい創造なのである。大衆を恐れさせ、支配可能な集団とする目的で、宗教が、そのドグマ(教義)を通して作り出したものなのである。これが偉大なる真理である。 神を見よ 言ってみれば、貴方の身体は素晴らしく高度な機械だが、それを使う存在がいなければ、つまり貴方がいなければ、何の役にも立たない。貴方は貴方の化身ではなく、思考、あるいは感情や価値観の集まりが、1つの独立した人格=自己として己を表現しているものなのだ。 自分の思考を見たことが果たしてあるだろうか。人格を見たことがあるだろうか。笑い声はどうだろう。自分の身体がなければ、それを聞くことはできるだろうか。自分が本当はいかに凄い存在であるか、貴方は全くわかってない。 というのも、貴方の真の姿は、風の如く透明で目に見えないものだからだ。私が貴方にとって謎であるように、貴方自身も同じで、万有のなかでも最大の謎なのだ。 貴方の真の姿とは、精神、魂であり、光と感情とが組み合わさったもので、貴方の精神の小さな光の点は、貴方の身体の分子構造全てを取り巻いている。こうして、貴方の化身という固体を擁し、支えているのである。 貴方の魂は、その固体の内部、心臓近くにある空洞に位置している。その場所は骨により保護され、そこには電気エネルギーの他には何も存在しない。貴方の魂は、これまで貴方が抱いた思考全てを、感情という形で記憶し、蓄積している。 魂の内部に蓄積された、この独自の感情の集合体があるために、貴方は、固有の自我、アイデンティティ、人格=自己をもっている。貴方が宿る身体は、魂を運ぶ単なる車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段にすぎない。 にもかかわらず、この単なる手段を通して、貴方は自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷりと浸ってきた。それは違う。神は像(かたち)というものをもたない。それは貴方も同じなのだ。 (神は意識なのだから、形をもたないし、その一部の意識である人間も、当然、形をもたない。肉体に宿ることではじめて、鏡のように、自分の姿が映ることからわかる。) 生に法なし 神という叡智では、悪も何もない。万有万物は、智恵を与える一つの体験にすぎない。これが貴方への私の答えである。そして、人間がもはや自分の同胞たちから非難されなくなり、自分の存在は悪ではなく、神そのものなのだ、と気づくとき、 そして神という名の「意識の流れ」により、自分の存在が全面的に愛され、支えられている、とわかったとき、自分の価値、自分の大切さを理解するのに、わざわざ戦争や強 姦や殺人、もしくはそれに類するようなことを体験する必要もなくなる。 人間が、法律だの計画だの規則だのといったものに溢れた、この制限された意識から自分を解き放つとき、そこに存在そのものの悦びと平穏を見いだしたとき、それが自分自身を、そして全人類を愛することを可能にしてくれるだろう。 そして万物が、自分の意図を自然と反映した流れを自由につくるようになる。そうすれば、その人は神と同じ愛を体現するようになる。そして、神であるもの、つまり、全生命を育み、支えていく基盤となり、そのようなものとなる---。 忘れ去られた神性 今日でも、皆のほとんどは自分が神であることをいまだ知らないでいる。自分の内に、全てを知り、全てになる力があることを知らずにいる。だからこそ、教師や宗教や他の誰にでも自分の人生を支配させ、真実を解釈してもらっている。 地上の時間で、もうすでに長い間繰り返し語られてきた単純な真理を、他人の考えがわざわざややこしくし、混乱させる、のを許してしまってきた。 それは、父なる存在、天の王国は貴方の内にある、という真理のことである。 これより偉大なる真理がどうしてあり得ようか。しかし、この真理を知らない皆の多くは、神とつながり、覚醒するためには、教義や、いわば解説的なもの、儀式や祈りやお経や断食や瞑想が必要だといまだ思っている。 が、こういうことをすればするほど、貴方は自分の魂に、まだ自分は自分がなろう、としているものになれず、神の愛、そして自分が求めている叡智からは遠いことをかえって確信させてしまうことになる。なぜなら、なんらかの達成には、苦労が必要だと思い込んでいるからだ。 貴方の時代は終わりつつある。この時代は「肉体の時代」であった。新しい時代は既に地平線にその姿を見せており、それは「光の時代」、「純粋なる精神の時代」、「神の時代」と呼ばれるものだ。万物は真に同等であり、天の王国はいつも自分の内にあった、ということを人間が知っている時代なのである。 光の時代は、人間を無限の思考へと連れ戻してくれるであろう。 愛と悦びの世界、自由な存在へと戻るのだ。 この地上界での皆の人生は、壮大な幻だった。偉大な夢だった。だが、これから皆は、何かを学んだ状態でその夢から目覚めてくる。神のことを理解して目覚めるのだ。一人残らず目覚めてくる。 ある日、貴方は厚い雲がかかってきた空を見上げることだろう。天界をじっと見つめていると、周囲に煌く眩しいばかりの光が見えてきて、貴方は雲のなかに星がやってきたとでも思うかもしれない。 貴方が見るものは、これから全ての人類が目にするものだ。貴方を眠りから覚まし、私が教えていることは全て壮大なる真理であり、素晴らしい現実であることを貴方に気づかせてくれるだろう。 体験のすばらしさ この人生か、あるいはこれから続く転生で、あれこれする欲求がなくなり、ただ「在る」ことだけを望むときがやってくる。淫売や盗っ人や殺人者、あるいは戦争に明け暮れる国々を罵ったり、審判を下したりしたい気持ちがもはや失せてしまっているのだ。 そういうものになってきた体験が既にあり、彼らのような状態でいるのを、どう感じるかを知っているのである。この次元での体験が完了しているので、それを体験するために、この世に引き寄せられ、戻ってくる、ということがもう何も残らなくなる。 すると貴方は、更に偉大なる存在の次元での新たな冒険へと向かっていくのである。 ある晴れた朝に 貴方が誰であるか、が重要なのは、貴方自身にとってだけである、全てが語り尽くされ、し尽くされたとき、結局頼れるのは、自分と、全能なる神という、自分の内にある大切な光だけなのである。 自らを平静に保つことだ。そして独自性のある人間であれ。貴方の光、そして他が見る貴方が、ちょうど真夜中の星のように明るく、美しくなるように、自分を、在るがままで愛するのだ。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月26日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 生まれ変わりでは私たちは必ず産道を通らねばならないのか? ―もう1つ質問がある。この世に戻ってくるには、私たちは必ず産道を通って生まれてこなければならないのか? その質問に答えるには、まずこの場所が三次元の知覚に適した次元であることを、貴方にわかってほしい。この世は、思考を、物質という三次元の形を通して、目で見ることができる次元である。 この次元が物質の密度を持つのは、思考が、光という特定の周波数の波動にまで拡張され、光が減速され、電磁場となり、更にそれが物質の総体となり、この次元での固体(固有振動数)となるに至ったためである。 (量子論でいえば、光子が、陽電子と電子の対に分かれることを意味する。この減速を数値で見積もると、負のエネルギーが算出されるが、この負のエネルギーが、3次元感覚の位相空間の質量を意味し、人間の低次の意識から生じる。) つまり、この次元の物質というのは、光の周波数を遅くして、それを最大の密度の形態まで落としたもの、ということである。 この世にあるものが同じ密度を持つには、全てが同じ周波数で振動しなくてはならない。だから、貴方の身体は、いま座っている椅子と同じ周波数で振動し、貴方にとって、このレベルが存在する、というのは、貴方の肉体、つまり、貴方の化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数のなかで最も低レベルな周波数を感知するようにつくられているからなのである。 (同じ周波数を集めてくることは、算術的に、エントロピーの熱力学でいえば、負のエネルギーを生成していることになる。勿論、物質のないところにも波動はあるが、ただ、人間の3次元感覚が、同じ周波数を集め、物質と定義しているだけにすぎない。) 本質の貴方は、物質の密度よりも高い周波数を持つ光のエネルギーだから、もし物質でできた化身を持っていなければ、この次元にある物質のなかを通り過ぎてしまう。つまり、身体が、その密度と感覚器官を通して、この次元にある物質を知覚し、体験し、それと関わっていくことを可能にしている。 (自分のなかの高次の光エネルギーから、低次の光を取り出して、この際に負のエネルギーが生じるが、物質的意識をつくりだしている。簡単にいえば、鏡をつくり、自分の顔を映している。だから、負のエネルギーが、正のエネルギーに置き換わる。) だから、この波動の一部でいたいなら、実存する身体に宿り、その一部とならなくてはならない。化身を持つための1つの方法が、産道を通って生まれてくることなのである。 (自分を反射する鏡をつくりつづけないといけない。) 物質の周波数領域を出て光の周波数領域に入る昇華 脳の能力が全て使用可能な状態になれば、身体をコントロールして、その波動の周波数を上げ、物質の周波数領域を出て、光の周波数領域に入ることがいつでもできるようになる。これが「昇華(アセンション)」と呼ばれているものである。 「昇華(アセンション)」とは、貴方という存在全てを、自分が受け容れる意識のもう1つの次元に移行させることである。死は、確かに、その次元に行く1つの方法だが、そうすると自分の化身を老いて退化するに任せ、消滅させることになる。すると、もう化身がなくなってしまう。「昇華」というのは、自分の身体を別次元に持っていくことなのである。 この次元から昇華した者たちは、死という、究極的な意識を支配したのである。 思考の力を通して、身体の分子構造の周波数を高め、身体とともに、光の存在の世界に行けるレベルまで持っていくことで、死を完全にバイパスしてしまうのである。 (セスの話では、夢見の意識と、覚醒時の意識を統合すること。) 人間は本来誰もが昇華を体得できる能力を備えている 「昇華(アセンション)」を体得してしまえば、貴方は自分の身体を永遠に保ち、自身は化身のままで、(別次元へと)自由に往き来ができる。つまり、またこの次元に来たい、と思ったら、ただ自分の波動を、この次元と同じ周波数の振動まで下げてやれば、もうその瞬間、貴方はこの世にいる! この世にいる人たちは皆、昇華できる力を備えている。肉体という幻影の陰には、全宇宙の創造主が隠れているからである。貴方は自分の意志で、限界のない(無限の)想念を通して、この現象を起こすことができる。 自分自身の思考に対して審判を下したりせずに、全ての想念を受け容れることを許せば、自分が夢見る理想の姿になる能力と力を持つことができる。そうすれば、何にでもなれるし、何でもできるようになる。 ある想念を取り上げ、それを身体の中に濃縮し、身体の振動を早めるよう指令を出すこともできる。すると、思考が堅固に保持していた理想に向かって、身体が上昇していく。 身体全体が更に早い速度で振動し始める。その間、体温は上がり、身体が光り始め、更に振動を早めて行くにつれ、身体の物質が純粋な光の領域に入り、そして純粋な想念へと入っていく。そうすると、それまで見えていたものの姿が見えなくなってしまう。 人が死ぬのは、老いることを真実として認めているからである 今生で、昇華に達する人は、ほとんどいないだろう。それは、ここで教えられていることの真の意味を悟り、それを理解する人がほとんどいないからである。ほとんどの人は、死ぬだろう。 それは、老いること、衰えていくことを真実として認めているからで、自分を運んでくれている、この素晴らしい機械(肉体)も、見栄えのいい間しかきちんと世話をしないからである。だから彼らは年老い、身体は段々と衰弱し、死を迎える。すると精神と魂は身体との連結から解放される。 (肉体はよく鏡に喩えられる。鏡をよく磨くことが大切だ!) でも、この物質密度の次元にまた戻ってこようとするなら、自分を表現する媒体がまた必要になる。こうして、再び主(意識)が沢山生まれてくるようになる。 ほとんどの人は死ぬが、だからといって、それで全てが終わりではない。それは単に、1つの化身という仮面が取り去られ、また別の仮面を見つける必要があるというだけのことである。 しかし、もし、この世に戻ることを選ぶならば、昇華を促すような意識として戻ってくるだろう。もうすぐ、その真実は、よく理解され、当たり前の現実となるからである。 光の周波数を下げる、或いは減速すると固体物質になる 皆のまわりにあるものは全て物質と呼ばれている。物質とは、父なるもののことだ。あらゆるものは神だからである。しかし、物質を創造した者、その姿を定めた者とは、最高の技能を持った職人で、神々である貴方たちなのである。 なぜなら、元始の存在の始まりから、思考を通して思い描くことができた観念を全て物質へと創造していくという、明確な目的をもった知性が貴方にあったからである。 さて、全ての物質は光により囲まれている。この世の科学者たちも、光の周波数を下げる、あるいは減速してやると、どうも固体物質(固有振動数)になるらしい、との感触を持ち始めている(この感触は正しい)。 では、この光は一体どこからやってきたのか? 思考である。つまり神だ。ある想念を持ち、感情の中に、これを抱くとき、その想念は光の波長を持つ波動へと拡大していく。 光子の動きを遅くし、凝縮すると、プラスとマイナスの極がある電磁場、つまり皆が電気(電子)と呼んでいるものになる。想念を電磁場よりも更に減速、凝縮させると物質になる。 そして物質は、生命体と呼ばれる分子・細胞体となる。そして、この生命体は、創造に必要な観念として、魂が思い描く想念によって、1つの形に保たれている。 万物の創造過程は、速度をもたない、思考をもとに、それを速度のある光へと拡大し、その光を減速して、皆の周りにある万有を創造する、という形をとる。 ☆ ☆ ☆ 以下はラムサの話ではないが、参考になるので、抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 貴方も庭に出て妖精を探してみてください いかなる存在といえども、人間よりも遥か遠くにあると考えてはいけない。自然界であれ、アストラル界であれ、霊界であれ、天界であれ、みな同じで、万有万物は貴方自身の意識の中に存在しているのだから。 これらの世界は、人間の息が届く範囲よりももっと近くに位置し、我々が心の中に深く受けとめ、人生の中で身をもって生き抜かなければならない一つの教訓は、天国は自らの中に存在する、という真実である。 この王国に入るために、大袈裟な知的な探求は必要ではない。必要なのは、幼児のような純朴な心だけである。だから、貴方の子供に、妖精のことを教え、話して欲しい。貴方も庭に出て、妖精を探してみて欲しい。そして、妖精も、その一部となっている自然の普遍的な生命と一体になってみて欲しい。 (考えるな、感じろ!) 最後に、もう一つの別の考えを話す。単純さが鍵である。単純であること。生命は複雑ではなく、無知さが、物事を複雑にしている。生命は、その単純さにおいて偉大であり、その偉大さにおいて単純であり、ただ、「在る」だけである。 アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』 低い波動の存在は自分の能力を超えたものは認識できない 人間が現在の低い波動の存在にとどまっている間は、自身の能力を超えた高次元世界にあるものは認識できない。濁った水のなかを泳いでいる魚と同じように、死の向こうに異なった存在がいることも知らず、手探りで前進しているだけである。 人類は、この太陽系のなかにあるエーテルからなる美しい惑星にも全く気づいていない。物質界の傍らに存在する、この新しい宇宙は、非常に拡大した高い振動の意識にしか感知できない。ちなみに、この新しい宇宙は、物質界をも貫く死後の世界とは別次元である。 地球は太陽系のなかで最も暗い惑星である。ということは、地球に住んでいる貴方がたは、今よりも明るい未来を期待できる。私たちに心を開き、死の恐怖を払いのける機会を、私たちから受け取れば、貴方がたは美と驚異と喜びの世界に向かって、もっと勇敢に足を踏み出すことができる。 アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』 ☆ ☆ ☆ 宇宙を司る意識が唯一神で、そこから分派してきた意識が神の子である人類であるようだ。唯一の意識を、ラムサは、「意識の流れ」と呼ぶ。人間の意識は、この「意識の流れ」のなかを生きるので、永遠である。 この「意識の流れ」を古代人は不死鳥(フェニックス)と呼んだようだ! 手塚治は火の鳥という漫画に描いている。 しかし、多くの人間は、鏡が壊れたからといって、自分も鏡のようになったような錯覚に陥っている。そのような錯覚が、死を招く。人類よ! 目覚めなさい! 次回に続く。
2013年09月25日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 知るということ 7 [ラムサ―真・聖なる預言] 思考は、人生の体験をどうやってつくり出していくのだろうか? 松果体は「知識を具現化させる」チャクラである。自分が受け容れた知識は、全て現実となる。まずは、それは身体のレベルで起きる。最初に、その想念が感情として記録されるよう、松果体が、その電流を全身に送る役割を担うからである。 想念が限りないものであればあるほど、体中を走る波動の周波(振動)数は高く、そして速くなる。つまり、より「ハイの状態」を体験し、もしくは体中を走る感覚がより強烈になる。その感情が、今度は1つの期待感として、オーラに向けて放出される。 その期待感が、光の電磁場を起動させ、まるで磁石のように、貴方の価値観や思考全体と似通ったものを引き寄せてくる。それは、貴方の、これまでの全想念から得られ、体験されたのと同じ感情をつくり出す状況や物や人である。 それはなぜだろうか? それは、貴方が自分の想念を三次元的な現実として体験し、その過程で得られる最高の宝でもある叡智を手にするためである。 では、「望み(欲求)」はどう具現化するのだろうか? 「望み(欲求)」とは、「望みを満たす」ような想念を、物、人などの体験を通じて、感じたものにすぎない。 貴方が、自分に受け入れた「望みを満たす」ような想念は、電磁場を通じて、貴方の身体を離れ、「意識の流れ」に入っていき、貴方が身体で体験した欲求と同じ感情を生み出す物や人などを引き寄せてくる。 その欲求が、身体の内で完全に、そして強く感じられたほど、それを満たす形も完全なものとなる。そして、望み(欲求)が満たされると絶対的な確信を持つほど、それが現われるのも早くなる。 絶対的な「確信」というのは、オーラの場を通して、高い波動からなる期待感の想念となるため、自分の欲求を実現する力を増幅してくれるからである。 貴方には万有を知る力がある。それが、貴方の脳がつくり出されたそもそもの目的なのだ。 (他人にすぐに聞くのではなく、自分がわかろうとすることが大事で、自分がわかったときの状態を感じ、引き寄せろ!) 物質次元で、物質的な身体のなかに生きる神が、自分で体験し、理解したいと望んだ神の側面については、全て三次元の形を通じて、望みが満たされるようにするためなのである。 貴方の素晴らしいレシーバー(受信機)を通じて、自分が受け入れた想念は全て、現実の体験となる。はじめは自分の化身の内で起こるものとして、次に、貴方の人生のある状況での体験となる。 そして、望み(欲求)は、それがどんなことであろうと、知を感じることを通じて、一瞬のうちに、自分の人生で具象化する力が、貴方にはある。そうやって、この地球上に、天上の王国がつくられていくのである。 それは実に簡単な科学だ! 忘れないでほしい。思考は自ずと存在し、その光が見えると、光の波動が下げられ、電気信号となる。電気信号が更に下げられると、固体となる。固体の波動が更に下げられると、想念・観念を表わすものとなる。 身体にも同じ真実(道理)が働く。身体もやはり、思考、光、受信機であり、受信から電気信号を受けて、固体の全身に送られ、この固体が、感情を通じて理解できるようになる。 望みを現実のものにするには、自分の望むことを感じればいい! するとその感情が「父なるもの(存在)」に送り返され、それが満たされる。ただそれだけのことなのだ。単純すぎるだろうか。それとも、もっと複雑なことをお望みなのだろうか? ☆ ☆ ☆ ともかくも、「考えるな、感じろ!」である。これは、祈りの科学ともいえるが、願いを考えるのではなく、感じることが重要である。例えば、平和を考えるのではなく、平和を感じることが重要である。 だから、戦争を憎むことでは、戦争はなくならない、憎しみが憎しみを引き寄せるだけである。平和に悦びを感じることで、悦びが悦びを引き寄せ、平和が訪れる。 世界は愛からなっている。愛とは悦びである。 さて、これだけでは、ラムサの話は理解できないので、内容が重複する可能性もあるが、続けて他のサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 学びの栞 http://www.takemoto-shozo.com/shioriB-51.htm 生命・波長・昇華 貴方は何度も何度も生を繰り返す永遠不滅の存在である 皆(人間)は自分の想像を遥かに超えて愛されている。というのも、何をしようと貴方は生き続けていくからだ。 だったら、なぜこれまで心配をしてきたのだ? なぜ戦ってきたのだ? なぜ自分を病気にしてきたのだ? なぜ哀しみに打ちひしがれてきたのだ? なにゆえに、自分に限界を課してきたのだ? なぜ昇る朝日の荘厳さを、風の自由を、そして子どもたちの笑い声を楽しまなかったのだ? なにゆえに、苦労ばかりせずに、(楽しく)生きることをしてこなかったのだ? 貴方は何度も何度も生きる。貴方の種は永遠不滅の存在なのだ。貴方がどんなに疑念を持とうと、自分の世界を限定しようと、どれほど心配し、絶望しようとも、貴方には決して消せないものがある。それが、生命だ! どんなに心の目が盲いた貧しい人間であろうと、必ず生命はある。それが神と呼ばれるものが表わす価値観であるからだ。そしてそれは、貴方のことなのだ! 偉大な存在である貴方はこの生の後も繰り返し生き続ける 一輪の花に生命の途切れない営みを見つけることできるなら、なぜ貴方がその生命よりも劣っているなどと考えるのか。ただ春に花を咲かせ、夏には果実をならせ、秋になって葉を落とし、そして冬になると死ぬだけに思うのだろうか。 貴方は最も偉大な花よりも、更に偉大な存在なのではないのか。貴方の生命はもっと重要なものではないのか。そう、まさにそのとおりだ! そして春が巡り来るたびに花が咲き続けるように、貴方もまた生き続ける。この生の後も、その後も、そしてその後も・・・。 思考には全て波動があり、それが特定の感情として体験される 1つ知っておいてほしい。頭の中で思い巡らし、理解すべく心に抱く思考には、全てある振動数の波動があり、それが特定の感情として体験される。 だから、苦痛とは、苦痛を感じている人が、苦痛に関連し制限された思考を思い巡らしていて、その思考が低レベルの振動数の波動を生じさせ、その低い波動が、感情面で痛みとして体験される、という道理である。 愛について理解し、その表現を思い、学ぼうとするなら、人と分かち合い、愛に関連し、表現された、高い波動の思考がもたらす高揚感を味わうべきである。自分の理解のために、どこであれ、意識が主に向いている方向が、貴方の行く天界である。 それは、貴方の持つオーラと、貴方という存在の精神が、その場所の波動へと貴方を引きつけていくからである。 亡くなった母親がもしこの次元に戻ることを選ぶなら [前年に母を亡くしたある女性に対して] もし貴方のお母さんが、この次元に戻ることを選ぶなら、彼女には、貴方の子どもの子どもか、そのまた子どもになる、という選択がある。もし貴方が生きている間に、お母さんがこの地上に戻ると決めたなら、貴方の娘さんが子どもを持つ決心をしたときに、その子どもとして戻るだろう。 そして、もしお母さんがそうすればの話だが、貴方には、その子が母親の生まれ変わりだとわかるはずである。その幼な子を見れば、表面上の表情や容姿を超越した感情を、貴方は持つからである。そうやって彼女であることを知ることができる。 では、貴方のお母さんは、その瞬間、貴方のことを知っているのか? 勿論知っている。なぜなら、この地上界を離れると、人は化身で生きていたときよりも意識が鋭くなり、もはや物質の密度に埋没しないので、自分が意識できる全てのレベルに、言わば波長を合わせることができる。 もっと物質密度の低い、高い波動の中にいるので、他の波動のレベルにあるものも見える能力を持っているのである。その他の波動のレベルとは、思考や光の形体として、そのとき自分がいるレベルと並行する形で存在している。 だから、もし貴方のお母さんが、そうしていればの話だが、貴方のお母さんは貴方をいまもよくわかっているはずである。この世を離れるとき、もし望むならば、貴方もこの世にいる人たちのことがよく見えるのと同じである。 自分への愛情を実感してはじめて自分以外の生命をも受け容れられる 例えば、まず自分自身の荘厳な美を目の当たりにして、自分への愛情と慈しみの心を表わすことができるまでは、全生命の美しさを見たり、それに気づいたりすること、あるいは他者についての深い愛情と慈しみの心を表すことはできない。 自分の心の中で、自分に対する愛情を実感してはじめて、自分の外に意識を広げて、自分以外の生命をも受け容れ、心に抱くための基盤ができる。これを理解し、知るようになると、それまで自分の外にあると知覚していた生命は、実は自分そのものだと気づき始める。わかりますか? だからこそ、もし、貴方が、この次元を離れるなら、自分の思考と、自分が体現してきた感情面での態度とに波長が合う意識、叡智の次元へと行くわけである。それよりも更に限りなく広がる次元に行くことはない。なぜなら、それはまだ自己の現実となっていないからで、そのような叡智の存在自体を、これから先で、知覚していかなくてはならないからである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月25日
コメント(0)
前回からの続き ☆ ☆ ☆ 知るということ 5 [ラムサ―真・聖なる預言] 脳下垂体は大変小さな、しかし素晴らしい分泌腺で、これを「第3の眼」と呼ぶ人も沢山いる。でも、第3の眼はない。頭のなかに、第3の眼を入れる余裕もない。脳下垂体は眼のような姿さえしていない。 洋梨のような形をしていて、小さなほうの端には口のような部分があり、それはまるで花弁のようにみえる。貴方の脳は、この強力な分泌腺によって、複雑なホルモンの流れを司るシステムを通じ、支配され制御されている。 内分泌腺である脳下垂体は、ホルモンを分泌し、そのホルモンが脳全体を流れ、もう一つの内分泌腺の、(脳下垂体近くの大脳の基底部の脊椎の上に位置する)松果体の口のような部分へと流れていく。 松果体は、想念を増幅して全身に送ることができるようにする機能を司っている。脳下垂体から松果体へのホルモンの流れが、異なった思考の波動を受け取る様々な脳の各部を起動させる働きをするのである。 身体の諸機能は、内分泌腺から血液の中に流れ出すホルモンにより調和を保っている。その調和を保つのが松果体の役割だ。松果体は、ホルモン型の分泌腺を起動させ、互いにバランスをとりながら各々のホルモンを分泌し、「ホルモン・バランス」と呼ばれるものをつくり出すのである。 そのバランスの水準は、松果体が受け取る集合思考の波動により決まる。思考の波動が高ければ高いほど、化身全体のホルモンの流れも多くなる。また、波動が高いほど、松果体は脳下垂体の働きを促進し、そのホルモンの量を増やして、今度は更に高い波動の思考を受け取るよう脳を活動させるのである。 「意識の流れ」からの想念は、貴方という存在のなかで、どのように実現するのであろうか? 想念がオーラを通ってくるとき、オーラはそれを定義するわけではない。想念に価値判断を下したり、変えたりせず、無限の状態のままで通す。やってきた想念が脳に到達すると、まず大脳の左上部、知性(あるいは理性)の機能に宿り、「変性自我」が表現されている場所に移動する。 さて、では「変性自我」とは何だろうか? 人間としての体験から得られた叡智が、魂に蓄積され、脳の知性部を通して表現されるもののことである。神なる人間が、ただ生き残る生物として、社会意識の影響下で生きるときの価値観の総体といえる。 そして、その世界観は、身の安全という概念のなかには収まりきらない、つまり生存を確実にするのに役立たないような思考の波動は受け容れを拒んでしまう。「変性自我」とは、化身のうちで更に大きな気づきを得るために、全ての想念を受け容れ、それを心に抱くことを拒否する姿勢のことなのである。 「変性自我」によって脳の中に入ることを許された想念の波動は、電流に変換され、脳下垂体が起動させた、波動を蓄積する役割を持つ部分へと送られる。脳のその部分は、その電流を増幅し、松果体へ送る。 松果体は、貴方の中枢神経を司っている。松果体は、個々の思考の波動を集め、それを更に増幅し、思考の電気的なハイウェイとして脊髄のなかを走る中枢神経に送り込む。松果体からきた電流は中枢神経内にある液体(これは水である)を伝わり、脊髄を通り、そして個々の神経から全身の一つ一つの細胞へと伝えられていく。 知るということ 6 [ラムサ―真・聖なる預言] さて、身体の中の個々の細胞には、血液を通して行われた食物摂取の際に、酵素の働きで得られた気体が供給されている。想念からの電流が細胞組織に入るとき、それは火花のような光として入っていく。この火花が細胞を「燃焼」させ、それが気体を膨張させる。これが、細胞分裂を通して、細胞の自己複製を可能にする。 このようにして、もう1つの細胞を創造し、自らを再生する。このたった1つの想念を通じて、身体全体が潤う。これが化身の分子構造内で、生が実感される過程である。それは、貴方が存在する一瞬一瞬に受け容れる全ての想念がもたらす結果を通じて起こる過程なのだ。 想念は身体中のあらゆる細胞にいきわたるので、その電気信号に対しては全身が反応する。全身が反応する! こうして、あらゆる細胞を通して体験される想念の結果、あるフィーリング、感触、感情、あるいは「体を走る感じ」というような情緒をつくり出す。そして、そのフィーリングは魂に送られ、記録される。 貴方の魂は素晴らしい記録装置で、貴方の化身の内で感じられた全感情を極めて科学的に記録する、全くのバイアスのないコンピュータなのだ! 感情を何か感じるとき、貴方が感じているのは、想念が、貴方という存在のオーラに衝突し、脳を通して受け容れられ、中枢神経系を通って、全身に送られ、身体中の細胞に、「感じ」を発生させた総体なのである。 すると魂は、将来、参考にする目的で、その感じを感情として記録する。これが記憶と呼ばれるものの正体である。 記憶には大きさというものがない。それは1つの実体といえる。記憶は視覚的な記録ではない。それは感情の記録なのである! 視覚的なイメージをつくり出すのは感情なのである。魂は、記憶のために、画像や言葉を記録するのではなく、その画像や言葉のもたらす感情を記録する。 魂は、全身で感じられた思考によりつくり出された感情を受けて、記憶の中から、それと似たものを探す。脳の理性、知性と呼んでいるものが、その感情を描写するのに、使える言葉を探し、選ぶのだ。 記述できることは全て、体験に基づくある特定の感情と結びついている。皆が花を花として知っているのは、花についての感情面の体験がある御蔭である。象徴名が「花」という構造物を見て、それに触れ、香りを嗅いだり、身につけたりした体験があるから、花は、ある特定の感じをもたらしてくれる。 絹を絹として知っているのは、特定の感覚や感情的体験が、それと結びついているからであり、それが「絹」という理解を生じさせる。魂は、それを記録し、そして記憶にある、これまで体験した思考の中から、それと似た感情を探す。そして、その情報を、脳に送り返し、その想念は、実感された化身全体を通して、その全てが理解されたことを伝えるのである。 思考はただ脳だけで実感されるのではない。それは全身で実感される! 脳の理性は、感情の後に起こるものに他ならない。どんな思考であっても、まず感じられるまで、それが知られることはない。感じられて、初めて、それは1つのアイデンティティを持つ。 ある想念を知ることは、まずそれを脳の中に受け容れ、感じるのを自分に許す、つまり全身でそれを体験することなのである。 知識とは、あることを証明するものではなく、あることを感情で確かめることなのだ! (ブルースリーで有名な「考えるな、感じろ」とは、「証明するな、感情で確かめろ」という意味に置き換えられる。) 一度、感情を自分の内に持てば、貴方は「それを知っている。その感じがある。」と言えるのだ! わが愛する兄弟たちよ、貴方たちの内にこそ、全ての知識への扉がある! 貴方の内面で燃える炎は、あらゆる微小な原子、あらゆる巨大な星、あらゆる細胞などを持つ生き物、つまり万有の内にメラメラと燃える炎と同じものなのだ! 全く同一の火なのである。全ての生命と1つである、という貴方の状態は、光の原理を通じて実感される。魂にある感情に、信を与える光とは、花々や、星や、その他万物万有に信を与えるのと同じ光だからだ。 だからこそ、貴方は自分の内に万物万有を知る力を有しているのである。何であろうとも、それを知る、ということは、意味もない難解な言葉に包まれた知性の美辞麗句を通して理解することではない。 花を知っている状態というのは、内面の存在が、感情を通して到達するものなのである。何かがどう考えているかは、それが発する波動、すなわち感情を通して必ずわかる。何かを知りたいなら、必要なのは感じることだけである。そうすれば、貴方はいつも絶対に正しいだろう。 (古代、詩は、知性そのものといわれたのは、感じることを基本にしていたからだとわかる。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月25日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 知るということ 3 [ラムサ―真・聖なる預言] 意識は、大河のようであり、身体の細胞一つ一つを含め、貴方という自己は、全てそこから途切れなく栄養を与えられている。思考は貴方の生を維持し、それに実体を与えてくれるからだ。 「意識の流れ」からの思考により身体が生きるのと全く同じように、貴方の自己全体は、「意識の流れ」から発せられる思考の物質(光)を通して維持されている。 「意識の流れ」からくる想念により、貴方は自分の存在の一つ一つの瞬間を創造している。「思考の河」から常に想念を取り出し、それを魂で感じ、その感情を通じて、貴方という存在の全体を育み、成長させ、今度は、その成長した自己を「想念の河」へと戻すことで、河が万有の生の意識を広げていくのである。 意識は、万有万物が発する全思考から成り立っている。意識を作り上げている思考は、各々異なった波動をもつ。なかには、極めて低い(あるいは遅い)波動がある。 これは「社会意識」として、この世界を支配しているような思考だ。高い波動の思考もある。無限の超意識の思考だ。意識とは、異なった思考という波動の全周波数値の総計であり、そのなかにあり、各々の想念が、似たような波動の想念を引き寄せている。 社会意識は、思考においては電気的な密度をもつが、それでも空気よりも軽い。社会意識の密度は、そこで表現された想念がつくり上げている。社会意識は、万有が、感情を通じて、これまで表現してきた想念なのである。 それは実体となった想念、言い換えれば、各々の存在が既に自分のなかに取り込み、魂で感じた後に、各々のオーラの場を通して「思考の河」に戻し、他のものが、それを栄養としてまた取り込んだ想念なのである。 この世に流れている時間を、その存在の基盤とする思考は、波動の低い、限られた、「社会意識」という思考なのである。「社会意識」にある想念は、制限が多く、何にでも審判を下す極めて厳しいものだが、それは、この世の人生が、生存と死への恐怖に関する価値観により支配されているからだ。 その人生が、化身の死、もしくは自我の死のどちらであってもである。従って、この世の意識は、食物、住居、労働、それに金銭についての想念で占められている。このような低い波動の想念は、周囲の人間の思考の大部分を占めているので、貴方のオーラの場もわけなく通過する。 だから貴方は、こういった想念が自分を養っていくのを許す過程で、貴方は、この想念がつくり出す感情を、内から外へと表現することで、限られた思考を再生、継承していく。 この世界の中でも、大都市の意識は特に制限されたものとなっている。そこに生きる者のほとんどは、極めて競争的で、時間志向、ファッション志向が強く、互いを恐れ、他を受容する態度がない。従って、大都市は濃密な低次の意識で覆われている。 他の宇宙からここにやってきた者たちが都市を見下ろした際に見るのは、複数の色の光でできた編み物のようなもので、極めて制限された意識がもつ、低い想念の波動が光の場として現われている。 もっと波動の高い超意識の想念とは、ただ「在ること」、生、調和、不断の継続性などである。それは愛の想念なのである。そして悦びの想念で、天才の想念である。それは、いま私が語っている言葉を通して表現することさえ不可能な無限の思考である。無限の思考による感情は、言葉の記述を超えている。 高い波動の思考は、人間の澱んだ思考から離れ、自然の意識のなかにいる方が体験しやすい。そこでは、生が単純明快で、時を超越し、不断なく続き、自己と完璧に調和がとれているからである。そこでは、人間の価値判断から離れ、自分自身の「理解」の鼓動を耳にすることができる。 知るということ 4 [ラムサ―真・聖なる預言] 「意識の流れ」から想念を取り出す力をどうして貴方は持っているのだろうか? 貴方のオーラのなかの電磁場が、貴方の思考と、感情の状態に従って、想念を引き寄せる。想念が貴方の養分となり、つまり想念を、貴方という存在のなかで感じとり、実感するには、波動を下げて光体となることがまず必要である。 想念は、貴方という身体を包む光の存在である精神に遭遇すると、はちきれんばかりの光となって炸裂する。つまり想念は、光に遭遇する、と自ら発光する。発光することで、思考の物質(光)の波動を下げる。 このようにして、光は、似たものを引き寄せる。想念は目に見えないが、光の炸裂という形で見えるようになる。想念は、光の形で貴方の脳に入り、その想念の波動は、低次の異なる周波数をもつ光の電気信号に変換される。 貴方が何か意識すると、その想念を受け取る。想念を受け取る瞬間、貴方の脳が、その想念の光を受け取る。通常は視界とは別の方向だが、ときとして光の炸裂を見る人がいる。その際、目にしているのは、ほとんどの場合、自分自身の精神が想念を受け取る様子である。 輝く光が現われるのを目の前に見た瞬間というのが、想念がオーラの場に入り、脳の内部にその様子を見た瞬間なのである。目を閉じたとき、様々な色の動きや、形が広がるのが見えるなら、貴方は、想念が脳に入るときの姿を目にしている。 貴方の脳は、思考のなかの電気的な波動を受けとる大事なレシーバーであり、その各部は、各々違った想念の波動を受け取り、蓄積し、増幅するようにできている。脳の各部分は、その細胞膜の内側にある水の比重によって、異なる想念を蓄積し、それを電気に変換する能力を持っている。ある部分は、高い想念の波動だけを蓄積し、増幅する力を持っている。逆に低い想念の波動だけを蓄積、増幅できる部分もある。 一般に信じられていることとは裏腹に、貴方の脳が思考をつくり出しているわけではない。 脳は、「意識の流れ」から、思考が、脳内に入るのを許すだけなのだ! 脳は、貴方という存在の精神を通して入ってくる想念を受け取り蓄積し、電流に変換、増幅すると、その想念を理解できるように実感するために、身体全体に伝達する、という特定の目的のために神がつくり出した器官なのである。 現代人の持つテクノロジーに、ラジオと呼ばれる機械があるが、それには音量を決めたり、どの周波数の電波を受信するかを決める調節器がある。脳もまた、ラジオと同じような調節器を持った受信機で、ある特定の周波数を受信するためには、想念を蓄積するようにつくられた部分が起動されている必要がある。 異なった周波数の波動の想念を受け取る脳の調整力は、右脳と左脳の間に丁度位置する脳下垂体と呼ばれる強力な調節器によってコントロールされている。脳下垂体は第7のチャクラとも呼ばれ、脳全体を司る。 脳下垂体は、異なる想念の波動を受け取り蓄積する各々の部分を起動させる働きをする。思考したり、その想念を身体全体に巡らせ、体験として実感し、更に大きな叡智を得る、という貴方の力を開いてくれる扉なのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月21日
コメント(0)
前回の続き。ラムサの話を紹介してきたが、最近、巷で人気の「半沢直樹」という銀行マンのドラマの主人公に、ラムサの唯一の転生が似ている気がしてきた。 ラムサの唯一の転生は、以前紹介したが以下に再掲する。 ☆ ☆ ☆ アトランティス大陸の水没直前、「最後の百年間」と呼ばれる時代にアトランティア南部の最大の港湾都市オナイのスラムに、レムリア人の巡礼の子として生まれたラムサの生涯はいかにも強烈だった。 当時のアトランティアは腐敗に腐敗を重ね、そこでレムリア人は「大地の排泄物、街を歩く野良犬にも劣る存在として扱われていた」という。 (父は誰だかわからない家庭にラムサは生まれ、極度の貧困で、母子はラムサが盗んだもので、飢えをしのいだが、妹のお産のために母は死に、妹も後に栄養失調で死んだという。) 母親と妹の亡骸を荼毘に付した幼い少年のラムサは、そのような運命を強いた「未知の神」を責めることはしなかったが、「責めはしないが、心の底から憎んでいた!」という。 (ラムサは神を憎み、神と闘って倒すために、ある山に登ったが、神がいっこうに現われなかったので、とうとう嘆き悲しみ、全身から涙を流した後に、一瞬だけ女神が現われて、巨大な剣を渡したという。) そのあまりにも激しい憎悪が、彼を“神人”に、地上の征服者にする。 (女神から与えられた巨剣をもって山を下り、暴政を行なう暴君に闘いを挑み、倒していったという。その道中で、暴政の犠牲となっていた人々の英雄となり、勢力を拡大していったという。) 彼は憑かれたような存在となった。人間の暴政を軽蔑する野蛮人となった。人を憎み、つねに死を覚悟して戦った。だがおかしなことに、恐れがまったくないところには、勝利と征服が訪れた。かくして彼は偉大な征服者となった。 (彼は、征服者を憎むことで、自分がその征服者になった愚かさを知るようになる。) そしてついに瀕死の重傷を負い、彼は深い内省の時を迎える。 この世に生きる人間に彼が師と仰ぎたい者はいなかった。破壊と戦争の真っ直中にあって、彼はひたすら周囲の人間や自然を観察することで「未知の神」を求めた。 ☆ ☆ ☆ 対して、半沢直樹の父は、小企業経営者で、出世権力志向の銀行マンに融資を打ち切られ、自殺する。この銀行マンが、現代の物質文明の砦といえる金融帝国の暴君に成り上がっていく。 直樹は、父の復讐を決意し、巨悪に闘いを挑むために、金融帝国に潜りこみ、復讐を遂げていく。 というのが、このドラマの大まかなストーリーなのだが、このドラマは、現代の物質文明の愚かさを象徴的に描写している。 また、現代物質文明の代表的な宣伝媒体であるマスゴミが、大企業斡旋の金儲けのために、このドラマをつくっているという現代の構図がいかにも皮肉である。 それはまるで、現代物質文明自身が、 「このままでは、獣になってしまうから、誰か、俺の暴走をとめてくれ、誰か、自分を倒してくれ!」 と言っているようなものである。 それに、最終回を迎えるにあたり、将来の敵となるネットで宣伝まではじめるのだから、現代物質文明の軽薄さが現われている。 このようなドラマが流行るのは、物質文明崩壊の時代を迎えることの暗示だろう。 大企業だけが他を犠牲にして太っていくような現状は人類の力で克服しなければいけない。江戸時代が平和だったのは、監督していた徳川家が、大藩を潰したからである。しかし、その徳川家も大きくなりすぎて、最後は長州毛利家と薩摩島津家に潰されてしまう。 つまり下克上が到来したということなのだろう。 半沢直樹は、さしずめ、現代に置き換えた織田信長などのドラマなのである。 さて、ラムサの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 知るということ 2 [ラムサ―真・聖なる預言] 万有を知ることがどうしてできるのかを理解するためには、万有が、神の精神である思考から生じてくるだけでなく、万有が固有の想念を発しており、その想念を、神の精神へと返していることをまず理解しなくてはならない。 あらゆるものは周囲に光の場を持っている。光の輪によって囲まれていないものはない。光が思考の像を保持し、観念を物質という形態へと創造していくからだ。その光の場を通して、個々のものは、思考を発し、それを「意識の流れ」、あるいは「思考の河」と呼ばれるものへと返す。この「意識の流れ」、「思考の河」が神の精神なのだ。 カーペットを見てみよう。植物を、光を、あるいは靴の革を、自分の手や、他の人を見てみよう。そこに共通するのは何だろうか。それらは全て存在している。そして、存在することで、個々のものは、その存在から各々独自の思考を発するだけでなく、その周囲にある全てを意識する「気づき」も発している。 これが、「集合知覚」と呼ばれるものである。カーペットがそのデザインの色や、その上に誰が座っているかを知り、植物が部屋に「気づいて」いるなかで、この「気づき」は、その存在の光を通して、大きな「意識の流れ」へと注がれている。そして、一瞬一瞬の気づきは変化している。万有の「思考の河」である神は、常に拡張し、動いているからだ。 全ての星座から塵の一粒まで、見える、見えないに関わらず、この宇宙、また全宇宙の万有は想念を発し、それを神の精神へと送っている。万有はもともと、神の精神からやってきているからだ。全ては思考(神)へと戻っていく。そして、これが、「知る」という知覚の仕組みなのだ。 貴方には、全知に足るべく知る力がある、というのは一体どういうことだろうか? 貴方の肉体は、オーラ、あるいはオーラの場と呼ばれる素晴らしい光の場に包まれている。オーラとは、貴方の化身の物質を包み、それを一つにまとめている光の場のことだ。キルリアン写真という方法を通じて、この世界の科学者は、はじめて、オーラの光の場をカメラに収めている。 キルリアン写真 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E5%86%99%E7%9C%9F だが、貴方の体を包んでいる電磁場はまだある。オーラというのは、身体を包んでいる青色の光の輪から、思考に至るまで無限に続いているからだ。 オーラは貴方という存在の精神だ。貴方の精神、あるいは私が貴方の神と呼ぶものは、万有を知る大きな「意識の流れ」である神の心と直接つながっている。オーラの一部は、極めて強いプラスとマイナスの電磁場である。 この電磁場を超えると、電磁場にはもはや(プラスマイナスの)極がなくなり、1つの光の融合の領域、純粋なエネルギーとなる。この光の領域は、「理解」から発生する全想念を、この広大で強力な場のなかに伝える。 どの想念を、貴方が知るようになるかは、貴方の思考により決められる。貴方のオーラのなかの電磁場が、貴方の思考に従って、特定の想念を引きつけるからである。 貴方の精神は、けっして動きを止めず、変化を続けていく「思考の河」の瀬にある篩(ふるい)のようなものだ。精神という光を通して、貴方は全知識が存在する場である「思考の流れ」、すなわち神の心を受け取る立場にある。 つまり、貴方は全てを知り、理解できる力を持っている。なぜなら、貴方は、「知識の河」、すなわち全意識の途切れなき流れ(神)の中に存在しているからだ。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月21日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ では、貴方が信じていないのは何か? 五感で感知きないもの――聞く、見る、触る、味わう、嗅ぐなどできない全てだ。では、そのなかでも、信念を、私に見せてほしい。手のひらに置いてみてほしい。ある感情を見せてほしい。ぜひ、それにさわってみたい。ある考えを見せてほしい。それはどこにあるのだ? 貴方の価値観を見せてほしい。それはどんな姿をしているのか? 風のイメージを見せてほしい。そして、貴方の人生から貴重な瞬間を奪い取っていく「時間」を見せてほしい。 貴方がたは皆、人生の最高の贈り物を信じようとしなかったのだ。 そのため、遥かに大きな広がりを持つ、無限の思考が浮かんでくるのを不可能にしてしまったのである。幾度となく生を繰り返し、存在を繰り返すなかで、貴方はこの地上界での幻にあまりにもどっぷりと浸りすぎたため、自分のなかに流れる素晴らしい炎を忘れ去ってしまった。 1500万年の間に、貴方は全能で至高の存在から、物質界で自分を完全に見失うところまできている。自分でつくり出した教義や、法律や、流行や伝統の言いなりとなり、国家や信念、性別、人種の違いで分断されて、嫉妬と苦々しさ、それに罪悪感と恐れのなかに浸っている。 自分の身体と自分を完全に同一視してしまったために、(身体のなかでの)生存にすっかり囚われてしまい、自分が選ぶそのままの夢を創造させてくれる内なる神という貴方の真の姿、不可視の本質を忘れ去っているのだ。 不死などということも全く頭から否定してしまった。そのため、貴方は死ぬ。そしてまた戻ってくる。何度も何度も、繰り返し、繰り返し、そうして、貴方はいま、またここにいる。1500万年間も、ここに生きてきたというのに、である。それでも貴方はまだ自分の疑念にしがみついているのだ! 思考全体である神は、正に壮大な舞台だ! そして、貴方のお好きな脚本を書かせてくれ、お好きな配役にあわせて舞台で演じさせてくれる。そして幕がおり、最後の言葉が語られ、お辞儀が終わると、貴方は死ぬ。一体なぜだ? それは、全ての法則のつくり手である貴方が、そうなると信じているからに他ならない! この人生全てはゲームなのだ。それは幻なのである。全てがそうなのだ。だが、それを演じている貴方たちは、それが唯一の現実であると信じ込むようになってしまった。だが、これまでも、そしてこれからも存在する唯一の現実とは、生命そのものだけである。 自由で、しかも連綿と続いていく存在の本質であり、それは貴方の好きなように自分のゲームを創造させてくれるのだ! 思考により自分を無知や病気や死へと追いやる力が内面にあると気づくとき、更に大きく広がる無限の思考の流れに自分を開いてやるだけで、自分にはもっと偉大な力があることに貴方も気づくだろう。 その流れが更に大きな才能と、創造性と、永遠の生命とを持たせてくれるのである。もともと身体を創造した張本人である神とは、実は貴方の内面に宿っている力であると気づくとき、貴方の身体はもはや老いることも病気になることも、消滅することもけっしてなくなる。 しかし、自分の信念に固執し、思考に限界を求めている限り、朝の太陽に輝きを与え、黄昏の空に神秘を与えた永遠を体験することは、けっしてないだろう。 自分がこの地上界から消滅すると定めたとき、一体何が起こるだろうか? 勿論、肉体は消滅するが、貴方の目の奥で静寂の中で思考している存在はずっと生き続ける。この地上を去るとき、もし貴方が死ぬと決めても、真の貴方は、地中に埋められ、朽ち果て灰と化すわけではない。 貴方は風とともに存在し続けるのである。行き先は、この地上界で貴方がいたところだ。そこで貴方は、次回の冒険で何をしたいかを決めるのである。そう、全ては単なる冒険にすぎない。 そして貴方は、神としての自分の真性を再び手にするまで、何回でも、望むだけ、この地上界に戻ってくることになる。その後で、今度は別の天界、別の場所で更に壮大な冒険に向かっていくのだ。 人間は皆、自分の想像を遥かに超えて愛されている。というのも、何をしようと貴方は存在し、生き続けていくからだ。だったら、なぜこれまで心配をしてきたのだ? なぜ戦ってきたのだ? なぜ自分を病気にしてきたのだ? なぜ哀しみに打ちひしがれてきたのだ? 何故、自分に限界を課してきたのだ? なぜ昇る朝日の荘厳さを、風の自由を、そして子供たちの笑い声を楽しまなかったのだ? なにゆえに、苦労ばかりせずに、生きることをしてこなかったのだ? 貴方は何度も何度も生きる。貴方の種は永遠不滅の存在なのだ。貴方がどんなに疑念を持とうと、自分の世界を限定しようと、どれほど心配し、絶望しようとも、貴方が決して消せないものがある。それが生命というものだ! どんなに心の目が盲いた貧しい人間であろうと、必ず生命はある。それが神と呼ばれる存在が示す価値観であるからだ。そしてそれは、貴方のことなのだ。 貴方が生きている、この人生は、夢だ。大いなる夢、言わば上辺なのだ。それは、思考が物質と戯れている姿であり、夢見人である貴方自身が目覚めるまで、貴方の感情を、そのなかに拘束しておくための深遠なる現実をつくり出しているのである。 自分がどれほど美しいか、貴方はついに知ることがなかった。自分をしっかりと見たことがなかったからだ。自分が誰なのか、何者なのかを見据えたことがなかったのだ。神がどんな姿かみたいだろうか。鏡をみてみよう。そうすれば、貴方は神と面と向き合っているのだ! 自分は価値ある人間であることをまず知ることだ。貴方の真価を評価できる物差しなどない。貴方の美を描き出せる像もない。そして、貴方の世界に終わりもないのである。 最も偉大な説法は、山上に立ったある師によってなされたものだ。そこに立つと、その師は聴衆に向かってこう言った。 「神を見よ!」と。 それだけしか言う必要はなかった。(自分のなかに映る)神を見よ。なぜなら、一人一人が、限界も、望みも、病も、貧富も、喜びも哀しみも、生命も、そして……その死も、全てを創造しているのだから。 (貴方は貴方のなかの神により生きている。エヘイエ アシェル エヘイエ〔I am that I am〕は、「私は、私が思うところの存在である。」で、我思う、故に我在りである。) 神を見よ。それを覚えておくことだ。貴方は、万物に宿るあの存在なのだから。いつの日にか、貴方も神を見ることだろう。自分に触れてみるとよい。ただそれだけでいいのだ。 ☆ ☆ ☆ というように、人間は思考の産物なので、人間は死なない。だが、人間が死ぬと思えば、死ぬという思いは死なないから、死ぬわけだ。ただし、その死は、消滅ではなく、本人の死のイメージが実現するだけである。また別のサイトから抜粋する。 ☆ ☆ ☆ http://penguincafeb.blog.so-net.ne.jp/archive/c2301528712-1 知るということ 1 [ラムサ―真・聖なる預言] この愛すべき次元(この世)には、「覚醒」しようと一生懸命苦労している者が沢山いる。それは、確かに充分価値のあることだがそれでも、その言葉の意味するところを真に理解している者はほどんどいない。 「覚醒」とは、「光(思考)とともに在る」こと、知識を持つことを意味し、自分の思うような形に、知識を用い、応用する、ということだ。 では、どうすれば覚醒できるだろうか? 誰かのお墨付きを受けて、でないことは確かだ。覚醒する唯一の道とは、自らの思考のなかに、想念を招き入れ、それらを感情のなかに抱く体験を通じて、叡智に昇華させることだ。 知識はなぜ重要なのだろうか。知識は貴方の一番の宝だからである。 貴方から全てが奪い取られたとき、奪い取られなかったもの。これからもけっして奪い取ることのできないものとは、貴方に再び創造力を与えてくれる、この知識だからである。 知識があれば、貴方には自由がある。選択がある。知識があれば、限りなき世界を築くことができる。知識があれば、恐れるものは何もない。 知識さえあれば、貴方を脅かしたり、隷属させたり、怯えさせることのできる物も、要素も、国家も、叡智も全く存在しないのだ。恐れに対し、知識を獲得すれば、「覚醒」と呼ばれる状態になる。 知識は、貴方の精神が既に知っている以上のことを推論し、思索するのを可能にしてくれる、更に、万有の「理解」を深く洞察させてくれ、更に偉大なる知識を受け容れることを可能にしてくれる。 知識は、貴方が更に成長し、絶え間ない広がりを探求し続けること、最高のものになることを強く求める。その意味で、それは貴方を限られた人生から、更に限りない領域へと連れて行く。 知識とその学びの冒険を通じて、貴方は更に単純明快な存在となっていく。そして、その単純明快な中に、万有の平和と生の悦びを見いだす。 さて、ここで知識の科学を説明したいと思う。つまり、どうして貴方は万有を理解できる能力を持っているのか? 万有の理解はなぜ大事なのだろうか。それは、貴方が知る全てが、貴方がなるものだからだ。そして、万有の理解を学んだとき、貴方は万有となり、それはまさしく神になることなのだ! (「エヘイエ アシェル エヘイエ」は、「私は、私が知るところのものである」となる。) 神は、無限の知識、無限の生、そして思考の総体である。そこでは、貴方は再び、万有の無限の自由であり、悦びなのだ! ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月20日
コメント(0)
前回の続き。ラムサの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 虚飾なしで自分がどういうものなのか、貴方は知っているのだろうか? 仮面なしの自分は? 強がりという鎧がなくなった自分はどうだろう? 存在の内面にある核では、貴方はまさに神そのものなのだ! 人類最大の神秘である神は、貴方の内面以外の場所にあったことはない。貴方の目の奥に、衣服の下に、顔という幻影を超えたところに、不可視の神という思考の美徳が確かに存在しているのだ。 貴方を貴方たらしめている人格=自己がそこにある。貴方の内にある神こそが、貴方に信を与え、そして創造する、というとてつもない力を与えてくれる崇高なる知性なのだ。それは、貴方の生命を無限の時間の彼方まで、永遠に維持してくれる素晴らしい生命の流れなのだ。 貴方がいま棲んでいる身体は、貴方の同胞である神々の手になる素晴らしい創造物だ。それは、不可視の思考と感情の本質である貴方が、自分の手で、この地上界に創造した生命と触れ合い、それを体験するためにつくられたのである。 人間と呼ばれる生き物は、表現の道筋において創造されたのだ。この地上の全ての創造物を最初につくった神々が、人間という化身のもつ五感を通じて、それらを体験し、理解することができるようにである。 身体は、真の存在=自己を構成している。変容光でできた最も複雑で高度な電気系統を宿すためにつくられた。貴方の本当の姿は身体の大きさなどのあるものではない。実は、ほんの小さな光の点(粒子)なのだ! その小さな存在=自己の中に、貴方が愛しい父である神から生まれて以来、貴方がなったもの全てが収められているのである。 神という本質である貴方は、肉体の存在ではない。形は丸く、燃え上がるような純粋なエネルギー(それは光の本質と言い換えることができる)が、創造的な人生の宝ともいうべき「感情」を体験するために、身体の中に生きている―それが貴方の姿だ。 本当の貴方とは、貴方が棲み家とするものとは別の存在だ。貴方の本質とは、貴方が感じることなのである。貴方を知ることができるのは感情を通してであり、身体を通じてではない。 貴方の真の姿とは、精神、魂であり、光と感情とが組み合わさったものだ。貴方の精神、この小さな光の点(粒子)は、貴方の身体の分子構造全てを取り巻いている。こうして、あなたの化身という固体を擁し、支えているのである。 貴方の魂はその固体の内部、心臓の近くにある空洞に位置している。その場所は骨によって保護されていて、そこには電気エネルギーの他には何も存在していない。貴方の魂は、これまで貴方が抱いた思考全てを感情という形で記録し、蓄積している。 魂の内部に蓄積された、この独自の感情の集合体があるために、貴方は固有の自我、アイデンティティ、人格=自己を持っている。 貴方が宿る身体は、魂を運ぶ単なる車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段に過ぎない。にもかかわらず、この手段でしかないものを通して、貴方は自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷりと浸かってきた。 それは違う。神は形(かたち)というものを持たない。それは貴方も同じなのだ。 貴方は一体誰が自分の人生をつくったと思っているのだろうか? 自分以外の崇高なる知性、あるいは、なんらかの不可抗力が、貴方の人生を支配してきたと思うだろうか。それは決して知られざる真実ではない。 貴方がしてきたこと、貴方の人となり、それに貴方が体験してきた全ては、貴方自身にその責任がある。 無数の雄大な星を創造する力がある貴方は、自分の人生のあらゆる瞬間、全ての状況を創造してきたのだ。どんな人間であるかは、自分で選んできているのだ。自分の容姿も自分で創造してきた。どういう生活をするかも、全ては自分で設計し、決めてきた。それこそが神なる人に与えられた課題であり、特権でもあるのだ。 貴方は自分の思考過程を通して自分の人生をつくっている。つまり、どう考えるか、によってだ。考えることは全て、何かを感じさせる。そして自分が感じることは全て投影されて表出し、自分の人生の状況をつくり出していくのである。 考えてみるとよい。貴方が身体全体で喜びを感じるような幸福を想い描くには、ほんの一瞬しか掛からないが、誰も友達になろう、としないような惨めな人間を、心の中で演じるのもやはり一瞬でできるが、すぐに哀しみと自分への憐憫の情を感じるだろう。それらは、ほんの一瞬の出来事なのだ! 泣くのをやめて、大喜びで笑うのにも一瞬しかからない。ほんの一瞬の間に、貴方は審判を下すのをやめ、万物が持つ美を愛でられるのである。 さて、一体誰がこういったことを全てやっているのだろうか。自分の内面にいろいろな感情をつくり出すような空想をしている間に、貴方のまわりは何か変わっただろうか? 変わってはいない。だが、貴方自身のほうは全てが変わってしまっているのだ! 貴方は貴方が考える通り、全く考えた通りそのままの存在なのである。貴方が考えることは全て、貴方の人生で考えたそのままになるのだ。性交を空想すれば、性交がやってくるだろう。ある才能を思えば、それは既にそこにあるのだ! では、未来はどのように創造されるのだろうか。思考を通してである。 明日というものは全て、今日というこの日貴方が抱く思考によって設計されている。それが感情面でのどんな目的であろうと、貴方が抱く思考、空想などは身体の内部に、ある気持ちを生じさせ、それは魂の内部に記憶される。その気持ちが、今度は貴方の人生の様々な状況についての前例となる。 つまり、その気持ちを前例として、魂に記録されているなかから、同じ感情をつくり出す状況、その気持ちにマッチするような状況に、貴方を引きつけていくのである。また、貴方が口にする言葉全ては、貴方の将来を創造する、ということも知るべきだ。 なぜなら、言葉とは、思考により生命を与えられた、魂の内にある感情を実現した音であるからだ。 貴方は自分自身に起きること全ては偶然だと考えているだろうか。それは知るべき真実とは違う。この世界には、事故や偶然といったものはない。そして、他の人間の意志や策略の犠牲者などという人間もいない。 貴方に起きることは全て、考えること、感じることによって貴方の人生にもたらされているのだ! それは、「もしこうなったら」という仮定の形、あるいは恐れという意識を通して空想されたか、何かはこうなると誰か他の人間が言うのを、貴方が真実として受け容れてしまったものだ。あらゆるものは、思考と感情によって定められた意図的な行為として起きるのである。全てがそうなのだ! 貴方が考えたこと、空想したこと、あるいは語ったことは全て、既に起こったか、これから起こるべく待機している。一体、どうやって全ては創造されると思うか? それは思考を通してつくり出されるのだ! 思考こそが真に生命を与えるものであり、けっして死ぬこともなく、破棄もできないものなのだ。貴方は思考を使って、自分自身に生命をもたらした! 思考こそが、神の精神と貴方をつなぐ絆であるからだ! 時代を通じ、様々な存在が、この真実を皆に教えようとしてきた。謎かけを通して、歌を通して、そして書物を通して。だが、ほとんどの人間は、この真実に気づくことを拒んできた。自分の人生に対する責任という重荷が自分の肩にかかってくるのを望む者など、ほとんどいなかったからだ。 だが実際には、貴方が考えること、あるいは、自分について、父なる存在について、また人生そのものについての貴方の価値観は全てその通りになる、というのが真実なのだ。最も卑しい醜悪なものから、かけがえのない美しさを讃えるものまでも、それは皆同じである。 なぜなら、その違いを知るのは貴方だけだからだ。父なる存在は、生命しか知らない。だから貴方は自分の語るものを手にする。貴方は貴方の考える自分そのままなのだ。自分でこうと結論を下したものが、自分なのである。 自分がレベルが低いと考えれば考えるほど、あなたは実際そうなっていく、自分に知性があることを認めてあげなければ、更に愚かになっていくことだろう。自分を美しい、と思わなければ、あなた卑しくなっていく。なぜなら、貴方が自分でそう定めたからなのだ。 貴方は一体何者なのか。その自分という存在の静寂の中に、考え、創造し、そして自分がなりたい、と望むものなら何にでもなっていける力を持つ神――それが貴方だ。 (ヤタの鏡に刻まれた「エヘイエ アシェル エヘイエ」とは、「我は、我が考える〔望む〕ものになる」という意味になる。つまり、ヤタの鏡は、神の存在を解き明かす道具なのである。) なぜなら、この瞬間、貴方は自分が選んだそのままの姿なのであり、それを阻むものなど何もないからだ。貴方は全てに法則を与える者であり、自分の人生と、そこにある状況を創造する者である。貴方はまさに、全てを超える智慧を持った知性でありながら、この生、そしてその他の数多くの生で、このことに気づかずに生きてきたのである。 かつて貴方は花を創造できた。だが今、人間は皆は、自分のために何を創造しているというのか? 今の最高の創造物といえば、不幸であり、心配であり、憐憫の情であり、惨めさ、憎しみ、対立、自己の拒絶、それに老化、病気と死ではないか。 自分に限界を設けてしまうような信念を容認することで、貴方が限界だらけの人生をつくり上げる。その信念が今度は自分の内部で不動の真実と化し、人生での現実となっていくのである。 かつて自由の風であった創造の神々。その貴方達が、大都会に隔離され、鍵をかけた扉の中に閉じこもって怯えながら生きる動物の群のごとき存在と化してしまった。 皆にあるのは、聳え立つ山々や素晴らしい風ではなく、壮大な建物と恐怖にかられた意識だ。どう考え、何を信じ、どういう風に行動して、どんな格好をすべきかまで規制する社会を貴方たちはつくり出してしまった。 皆は戦争とその噂を恐れる。病を恐れる。人に認められぬことを恐れる。そして、他の人間の目を見つめるのは震えてしまうほど怖いというのに、愛と呼ばれる親しみの情を渇望するのだ。 自分に起きる良いことには全て疑いのまなざしを向け、もう二度とそういうことはないと思ってしまう。成功と名声、そしてドルや円やルピーのために世間に出て争う。ああ、それもほんのわずかな喜びのために。 貴方がたは皆、自分自身の思考によって自分を絶望に追いこんだのだ。 自分の思考によって自分を価値のない存在だと信じるようになったのだ。自分を失格だと思うようになったのだ。病にかかったのだ。それは死に至る病である。 これらは全て貴方が自分でつくり出したものである。貴方の内には炎のような創造主がいる。1つの想念からいくらでも宇宙を創造し、天空の星に永遠の輝きをもたらすことができる力を持っているはずなのに、その創造主は、特定の信念、協議、流行や伝統などの枠の中に自分を押し込めてしまった。 限定された思考によって限定される思考、それによって更に限定されてしまう思考、本当の意味で「生きる」ことを許さなかったのは、自分を信じようとしない貴方自身の疑念なのだ。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月20日
コメント(0)
セスとシュタイナーの話から、現在の人類が遭遇している経済破局問題という名目の物質破壊文明の崩壊は、過去にあった3度の破局と似たようなもので、現代の破局は、破局というよりも意識改革というべきものであることがわかる。 意識が変わったときに、過去を振り返ると、それが破局にみえるだけなのである。 過去の3度の破局があっても、人類の意識は、死にはしなかった。 人間は死にはしない。ただ宇宙の進化に遅れるだけである。 宇宙の進化に遅れても、誰の意識の奥底にも、全てを統合する唯一神の意識があるので、ただこのことに気づいて、他者=自分なのだから、自分を自分で教育すればいい。 だから、宇宙探索は自分探索なのである。古代ギリシア哲学でも、「汝自身を知れ!」と助言された。「汝は、宇宙の子なのだから、宇宙になる素質をもっている。宇宙の子よ! 目覚めよ!」 要するに気づいたもの勝ちだ! そのようなことが、セスとシュタイナーの話からわかる。その要点がわかる本を見つけたので、あるサイトから、以下に一部を抜粋紹介する。その本は、「ラムサ―真・聖なる予言」である。 ☆ ☆ ☆ http://www.platon.co.jp/~pari/books/ramtha.html 「私はラムサ、地球、あるいはテラと呼ばれるこの次元に遠い昔生きていた王者たる存在だ。その生では、私は死を迎えることはなかった」 (後に自由に幽体離脱ができたので、肉体を離れても、死を知ることはなかったという意味。) 三万五千年という遠い昔の地上の偉大な征服者にしてヒンドゥー教の聖者、偉大なるラムが快調に語り出すこの本は面白い。 この本の特別な面白さは、地上での自分の唯一の生涯を語るその語り口にある。 アトランティス大陸の水没直前、「最後の百年間」と呼ばれる時代にアトランティア南部の最大の港湾都市オナイのスラムに、レムリア人の巡礼の子として生まれたラムサの生涯はいかにも強烈だった。 当時のアトランティアは腐敗に腐敗を重ね、そこでレムリア人は「大地の排泄物、街を歩く野良犬にも劣る存在として扱われていた」という。 (レムリア人に宿る魂の方が、アトランティス人より遅れて受肉したので、地上世界は、黒魔術を発見したアトランティス人の支配の手に陥っていたようである。) 母親と妹の亡骸を荼毘に付した幼い少年のラムサは、そのような運命を強いた「未知の神」を責めることはしなかったという。「責めはしない、心の底から憎んでいたのだ!」と。 (ラムサは神を憎み、神と闘って倒すために、ある山に登ったが、神がいっこうに現われないので、嘆き悲しみ、全身から涙を流した後、一瞬女神が現われて、巨大な剣を渡したという。) そのあまりにも激しい憎悪が、彼を“神人”に、地上の征服者にする。 (女神から与えられた巨剣をもって山を下り、暴政を行なう暴君に闘いを挑み、倒していったという。その道中で、暴政の犠牲となっていた人々の英雄となり、勢力を拡大していったという。) 彼は憑かれたような存在となった。人間の暴政を軽蔑する野蛮人となった。人を憎み、つねに死を覚悟して戦った。だがおかしなことに、恐れがまったくないところには、勝利と征服が訪れた。かくして彼は偉大な征服者となった。 (彼は、征服者を憎むことで、自分がその征服者になった愚かさを知るようになる。) そしてついに瀕死の重傷を負い、彼は深い内省の時を迎える。 この世に生きる人間に彼が師と仰ぎたい者はいなかった。破壊と戦争の真っ直中にあって、彼はひたすら周囲の人間や自然を観察することで「未知の神」を求めた。 (彼は自らの体験を通じて、人間の浅はかさを存分に知り、最後には、「風」になることを決意し、幽体離脱を実現する。) ☆ ☆ ☆ 以下はまた他のサイトから。 ☆ ☆ ☆ http://www.geocities.jp/ofile425/ramusa-seinaruyogen4.html 4 神を見よ 神がどんな姿か見たいだろうか? では鏡をみなさい。 そうすれば、あなたは神と面と向き合っているのだ! もう長いこと貴方は、神は自分の生きる世界の外にあり、宇宙の彼方のどこかにいると教えられてきた。多くの人々もこれを信じ、真実として受け容れてきた。しかし、万物の真の起因というべき神は、貴方の内面以外の場所にあったことはない。それは、貴方そのものなのだ! 神は、沈黙を守りながらも人間の内面にいつも必ず存在している。あの素晴らしい思考過程、崇高なる知性のことなのだ! (思考自体が神なのである。思考を使うことが神なのである。思考力は神の力なのである。思考は神々との会話なのである。思考は神の言葉を語る。) 人間は時間という次元の中に生まれ、そこで成長し、年老い、そして死ぬと貴方は教えられてきただろう。これを真実と信じたために、まさにそれが、この地球界での貴方の現実となった。 (思考の力を信じるものは救われる。思考が真実と断定したことが現実として受け入れられる。) だが、私(ラムサ)がここに来て貴方に教えようとしているのは、貴方はもう何十億年と生きてきた不滅の存在であり、貴方の愛する父なるもの、全思考である神が、自分について思いを巡らし、己を光の輝きにまで高めた瞬間から、ずっと存在していることであり、 貴方たちの一人一人が、その光(思考の担い手)となった、まさに、この瞬間から、一人一人が独自の崇高なる存在となり、神の精神の一部となった、ということである。 神は唯一の存在で、自分の手で天と地を創造し、それから人間という生物を創造したと貴方は教えられてきた。しかし、実はその神とは貴方自身だったのだ! 神なる知性と自由なる意志を体現した存在として、貴方が全生命を創造したのだ! 朝の太陽も、夕刻の空も、万物万有の美を創造したのも貴方だ! 人間という驚くべき生物を創造したのも貴方であり、その目的とは、宇宙の虚無空間のなかの輝く光であった貴方自身が、自分で創造した生物であることの素晴らしさを、自分自身で体験できるようにするためだ! わが同胞たちよ、自分が何者なのかについて、貴方たち一人一人がいま持っている理解は、まさに数千年にもわたって生きてきた幻想の積み重ねにすぎない。貴方は単なる人間以上の存在である。ほんの限られた存在でしかない人間という生き物よりも、本当は計り知れないほど偉大なのだ! 貴方は神そのものだ! つねにそうであったし、これからもそれは変わらない。貴方はこの地上に幾世にもわたって繰り返し生き、自分から奪われるのを許してしまった、ある壮大な真理を、再び学ぼうとしている偉大なる不滅の創造主なのだ! 貴方たちは全て、神自身から創造された神そのものだ。全生命の源から唯一直接つくられた創造物である神、更にそこから生まれた様々な神々、それもあなたの姿だ! (思考は思考を生むから) 生命を探求するという冒険の中で、貴方は崇高なる知性と細胞という物質を統合し、神なる人間となった。それは、神の精神が、人類という名の1つの形で表されたものであり、神々が、人間と呼ばれる自分自身の手となる創造物の素晴らしさに感動しながら生きている姿なのだ。 男、女、そして人類は、まさしく限定された哀れな存在に化身した神の姿なのだ! 素晴らしい変装を施した神の姿なのだ! 貴方は誰なのか? なぜここにいるのか? 貴方の目的と運命とは一体何なのか? 貴方は自分が単なる偶然の産物であり、ほんの短い時間ここに生きて、次の瞬間に消滅するためだけに生まれてきたと思うのだろうか? 本当に? 以前生きたことなどない、と思うのはなぜなのか? なぜ今生きているのか? なぜ貴方は貴方自身なのか? 貴方はこの地上界に何千回と既に生きているのだ! まるで気まぐれな風のように、戻ってきては去っていった。あらゆる顔や肌の色、主義主張や宗教を体験している。戦をしかけ、しかけられ、王と召使の両方を同じように生きている。水兵にも船長にもなった。征服者にも征服される者にもなってきた。 自分の歴史の理解の中にある全てに、貴方はなった経験がある。なぜか? 感じるため、智慧を得るため、そして貴方自身という最も偉大なる神秘を解き明かすためだ! 貴方は自分が一体どこからやって来たと思っているのだろうか。単に1つの細胞から進化した細胞の集合体なのか。ならば、貴方の目の奥からじっと見つめる存在は誰なのか。貴方に独自性や人格、性格、魅力を与える本質とは何か。 愛し、抱擁し、望みを持ち、夢を見る能力、そして創造する、というとてつもない力を与えるのは一体何なのか。貴方が子どもの頃既に見せる知性、知識、智慧はどこで積み重ねてきたものなのか? 貴方は、永遠から見れば、ほんの一呼吸にしかすぎない今生の間だけで今の自分になったと思っているのだろうか? 貴方は膨大な時間の中で繰り返し生きることを通じて、今の自分である全てになってきたのだ。そしてその生の一つ一つから智慧を得て、貴方という独自の美しい存在をつくり出してきたのだ。永遠という時間のほんの一瞬だけのために創造されるにしては、貴方はあまりにも美しく、かけがえのない存在である。 自分を創造したのは両親だと考えているのだろうか。貴方の母親や父親は、遺伝という意味では親だか、貴方を創造したのではない。更に大きな意味での真理では、彼らは愛すべき貴方の同胞だ。そして貴方は、やはり彼らと変わらぬほどの年を重ねた存在だ。 なぜなら、全ての存在は同じ瞬間に創造されたからだ。全ては、神、つまり壮大で崇高なる思考が、己に思いを巡らし、わが身を拡大し輝ける光となったときに生まれたのである。それが貴方が存在を始めたときだ。貴方が生まれたときなのである。貴方の親とは、神のことだ。全ての生命の父母原理である神なのだ。 自分は自分の身体だと考えているのだろうか。それは違う。貴方の身体とは、貴方の真の姿である目に見えない本質を表に見せるマントに過ぎない。その真の姿とは、貴方の化身の内側にある人格=自己という、感情や価値観の集合体のことだ。 (自分がこうありたいと願う思考が、自分の本質) こう考えてみてほしい。貴方は自分とは別の人間の何を愛するのだろうか。その人の身体だろうか? 違う。貴方が愛するのは、身体を機能させている見えない本質だ。目を瞬かせ、声の調べを奏で、髪を輝かせ、手には暖かい感触を持たせている本質の部分なのだ。 言ってみれば、貴方の身体は素晴らしく高度な機械だが、それを使う存在がなければ、つまり貴方がいなければ何の役にも立たない。貴方は貴方の化身ではなく、思考、あるいは感情や価値観の集まりが1つの独立した人格=自己としての己を表現しているものなのだ。 自分の思考を見たことが果たしてあるだろうか。人格を見たことがあるだろうか。笑い声はどうだろう。自分の身体がなければ、それを聞くことはできるだろうか。自分が本当はいかに凄い存在であるか、貴方はまったくわかっていない。 というのも、貴方の真の姿は、風のごとく透明で目に見えないものだからだが、私が貴方にとって謎であるように、貴方自身も同じなのだ。あらゆるものの中で最大の謎なのだ。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月20日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ さて、それでは空気から生まれた生命、火から生まれた生命とは何で象徴されるのか? これは追求が困難な分野で、ここではその暗示だけにとどめる。 地球がまさに土星状態から太陽状態へと進化し、移行した当時は、一体、どのようなものだったのか? 人間は一種の空気人間だった。今日の意味での「死」を人間はまだ知らなかった。人間は自らを変容させていた。人間が、どのようにして今日のような死についての意識に行き着いたのか、を概略的に述べてみる。 地球が土星状態から太陽状態へと進化していった時、人間の魂はまだ太陽を取り巻く大気圏内に生きていたが、下方の肉体の原基とも関わりを持っていた。今日では、夜眠っている間、アストラル体が、物質体から抜け出てはいても、意識は、物質体に属しているように、太陽紀でも、アストラル体は同じだった。 ただ、当時では、魂は決して物質体の中に入り込むことはなかった。霊的な意識をもった1つの魂が特定の肉体に既に属してはいたが、外から肉体を管理していた。 (この状況は、まるでパソコンを通して、ネットを操る現代人のようでもある。) 魂は、<外的なもの>だったことがイメージできる。当時の肉体はまだ死の法則に属さず、生と死は、今日とは違う形で起こっていた。肉体の一部を失うと、新しい部分が再生され、今日の例えば、空腹感を食物で満たすように、物質体の崩壊と再生にも、同様な関係が生じていた。 魂が長期にわたり生存を続ける一方で、肉体は刻々と変化し、当時は、いかなる死も存在しなかった。こうして太陽状態のある段階から、人間の魂が、特別な肉体をつくり、それから、その肉体を更に別々の様々な好みの形に作り変えていくようになった。 最初に、ある一定の形の肉体をつくり、それから、この形を別の形に変化させ、更にまた別の形に変え、それから第4の形に…という具合に続き、再び最初の形に戻った。 人間はその間ずっと同じ意識を保ちながら、肉体の形は変化を重ね、人間の魂が変化前と変化後の2つの状態を体験した後に、最初の肉体の形に戻った時、魂は、新たに受肉したように感じた。このような進化の過程は、蝶の成長に保持されていることからわかるだろう。 蝶は、卵、幼虫、蛹、蝶という形で変態している。蝶は、太陽上での、空気状態の人間を表わす象徴なのである。太陽紀とは全く変化してしまった環境に生きる今日の蝶は、勿論、この太陽状態の空気人間が衰退した形なのである。 蝶は、人間が克服した空気状態の象徴なので、蝶は、秘教学では、空気-生命体と呼ばれる。同様に、蛇は土-生命体、魚は水-生命体と呼ばれる。鳥が、空気-生命体と呼ばれない理由は、後に述べる。 さて、最初の土星状態まで戻る。土星紀では、人間は霊-魂の存在で、総じて皆同じ肉体を持ち、低次の段階で、自らの不死を知りながら、その肉体を絶えず変化させていた。このような進化過程も、ある生命体になおも保持されている。 その生命体の共同生活は非常に独特で、これを一種の集合魂とみなすと、ある意味、人間より遥かに高次の存在といえるが、その生命体とは、蜂のことである。 蜂の巣全体を、個々の蜂とは別個にみなす必要がある。蜂の巣-個々の蜂ではなく-は、1つの霊性を担っている。これはある意味、かつての土星での低次段階の人間に一致するが、人間は、次の金星状態において、高次の段階で、再びこの本性に到達するだろう。 蜂は、土星段階にとどまった。蜂の巣と個々の蜂とをよく区別すべきである。蜂の巣の魂は、他の集合魂とは異なり、特別な存在で、個々の蜂は、人間の肉体が土星で行っていたようなことを、その形のなかに保管した。 (日本では、蜂の巣が魔除けとして玄関に飾られるが、この秘教的意味から考えるとよくわかる。) 蜂の巣の霊は、個々の人間の霊よりも高次で、今日既に金星-意識をもっている。蜂は死すべき運命について何も知らない霊人の象徴なのである。この惑星がまだ火のような状態の[土星]のときにもっていた霊性に、この惑星が金星となって再び火のような状態になるとき、人間は、高次の段階で再度、この霊性に到達するだろう。それ故、秘教学では、蜂を熱-生命体、あるいは火-生命体と呼ぶ。 (ミツバチは胸部筋肉の代謝を巧みに高めることで体温を変化させ、温度を調節するという。) 自然科学があまり多くを語れない平衡(恒常)現象を追求するのは大変興味深い。今日の人間は一体、土星状態から、自らの中に何を受け継いだのか? それは熱である! 血液の温度である。当時、土星全体に分布していた熱が解放され、今日の人間や動物の体温となった。蜂の巣の温度(33~36℃)を調べれば、人間の血液の温度とほぼ同じであることがわかる。つまり、蜂の巣全体の温度が、人間の血液の温度とほぼ同じなのは、人間が、蜂の巣と同じ進化段階に向かうことを暗示している。 以上のことから、秘教学者は、蜂を、熱から生まれた生命なので、熱-生命体と呼ぶが、同様に、蝶を、空気から生まれた生命なので、空気-生命体と呼び、魚を水-生命体、蛇を土-生命体と呼ぶ。 以上のような言及から、秘教学の象徴や記号の表現が、天体や人間の進化史と深く関わり合っていることがわかる。
2013年09月19日
コメント(0)
セスのレムリアの話と、シュタイナーのアトランティスの話から、人類の歴史がよくわかり、人間の魂が肉体をつくってきたことがわかる。魂が肉体をつくることを、「聖杯づくり」と呼ぶようである。 聖堂騎士団は、神秘的な理念を形式化させた大聖堂から、後の転生の肉体の神秘的な風貌をつくりあげることを意図していたことがわかる。 このような話から、魂が肉体から完全に離れることを、死と認識していることがわかる。それは、人間の意識が、あまりに肉体に囚われたためにできた間違った認識であることがわかり、人間の魂は決して死なないから、人間は死なないことがわかる。 つまり、肉体の死は、人間の死ではなく、肉体を作り変えればいいだけなのである。 現に、人間の魂は、肉体を作り変えてきたのであり、いまも作り変えている。ただ、作り変えている自覚がなく、過去の肉体に拘っているから、死ぬのである。病気になるのは、作り変えた肉体に魂がなじんでいないことを意味する。 これと同じように、社会も国も作りかえられる。破壊を嘆くな、創作を喜ぶべきだ! さて、問題は、いかに作り変えるかであるが、それは日々の行為により継続的に行なわれている。例えば、嘘をつけば、虚構の肉体がつくられる、というようなもので、現在進行形なのである。 セスによれば、現代文明が抱えている問題が、レムリア文明の崩壊と良く似ているらしい。アトランティス時代の黒魔術が、現代の物質文明の原点のように思われる。現在の米国に代表される物質文明は、破壊の文明で、虚偽の文明と思わずにはいられない。 この破壊文明は、多くの人々を犠牲にし、死を恐れとして認識させ、多くの人の意識を、個人的な我侭へと追いやった。勝ち負けの区別を与え、勝者は同じ人間としての敗者の立場になって考えることを放棄させた。 この一方側の立場しか考慮しない文明の性質が、アトランティス時代の冷酷さを彷彿とさせるので、そのとき生まれた黒魔術に由来しているようにみえる。 以前、「あるアトランティスの科学者が黒魔術を発見し、その魔法で他者の苦しみから自分を遮断することができたのです。」という話を抜粋紹介したが、この「他者の苦しみから自分を遮断すること」が、この破壊文明の背後にあることがわかる。 人類の堕落は、この他者の苦しみに無関心なことにはじまり、現代の破壊文明の原点がここにある。この破壊文明は、人類を階級別に区別することを目指している。これが後の転生に意味することは、霊魂の分裂であり、精神分裂である。 霊魂は分裂することはないが、これは例えば、同じ人物なのに、全く違う振る舞いをすることを意味する。既にその兆候がみられ、記憶喪失や、統合失調症などである。破壊文明に飼いならされた人物は、徐々に、統合失調症となっていく。 喜びは悲しみとともに現われ、喜びと悲しみが分離すれば、どちらの感情も失われていくからである。喜怒哀楽の根底には過去の体験がある。光により目がつくられるように、感情体験により、感情を統合する精神がつくられるからである。 破壊文明を終わらせない限り、人類はどんどん深みへと迷走していくことだろう。 破壊文明に暮らす人々の特質は、皮相的で浅薄な認識にあり、それが著しい思考力の低下を招き、節度のない生活に顕著に現われている。特に米国人の食べ物のいい加減さに現われている。 人類はかつての創造的な生活を取り戻すべきである。そのために、以下にシュタイナーのレムリア時代とアトランティス時代をまとめた話を、あるサイトから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ http://www.geocities.jp/momoforall/Takarajima/booknote3/spacehistoryjyobun2.html レムリア時代 地球=月(液体)が地球から分離した。月を放出した事によって、地球は荒廃を免れた。地球の最も粗雑な部分が、月として地球から離れて行った。 レムリア時代のはじめ、地球は火の様な水(液体)から成り立っていた。やがて水が引いて行き陸になった。人間の祖先達は陸に上がった。レムリア大陸の気温は高く、いたる所で火山が火を噴いていた。 この火山の噴火の発生は、人間の邪悪な情欲と因果関係があった。やがて、レムリア大陸は、荒れ狂う様な火山の大爆発によって崩壊した。一部の人間達が、この火を逃れて、アトランティス大陸へと移って行った。 人間=月が地球から分離する以前、人間は太陽の力を受け取る女性的な存在であった。月が地球から分離したのち、太陽が男性的な力を、月が女性的な力を、地球に注ぎかける様になった。この事を通して、レムリア時代に人間は、男と女に分かれた。 男女両性具有であった頃、人間は自ら子供を生み出し、その子供の中に、自分の意識を移行させていた。死はまだ存在しなかった。男と女に分かれ、両性の生殖行為を通して子供を生む様になると、人間はかっての様に、子供の中に自分の意識を移行させる事が出来なくなった。 両親から生まれる子供は、親とは異なった存在で、男女両性の生殖行為は、霊界から地上に受肉してくる1個の人間自我に、肉体という器を提供する為の行為なのである。 そして人間の意識は、肉体の崩壊と共に物質界から去り、輪廻転生をする様になり、人間は死を体験する様になった。輪廻転生は、レムリア時代に開始されたのである。 人間はまだ肺をもたず、エラで呼吸していた。やがて、水が引いて行き、人間は浮き袋で空気を吸う様になって行った。浮き袋は肺へと変化し、えらは、聴覚器官へと変化した。そして、呼吸を通して、自我が、いまや直立した人間に受け取られた。 人間は歌うように声を発する事は出来たが、まだ言葉を話す事は出来なかった。 レムリア時代にルシファーが、人間に対する働きかけを開始した。ルシファーは、人間に独立と自由を与え、また善悪の区別を教えた。人間は善悪を認識出来る様になったと同時に、神々から独立した存在になった。 この事は、『旧約聖書』に、アダムとイブの原罪として記述されているが、人間が独立した存在となる為には、この過程は必要なものだったのである。 人間は神々から離れたが、独立した自由な存在となった。だが、同時に、ルシファーは、人間の感覚に覆いをかけたのである。人間は、ルシファーから自由と独立を与えられたが、同時に純粋知覚(霊能力)を奪われた。 人間はルシファーによって植え付けられた錯誤、ルシファーがかけた覆いを通して、世界を見ているのである。 レムリア大陸で、男達は意志の育成に励み、女達は想像力の発展に勤しんだ。太陽が地球から分離しながらも、まだ地球の中に月が内包されていた時代は、人類にとって悪しき時期であった。地球は硬化し、地上に住むのは非常に困難だった。事実、ほとんどの人間の魂は、地上には受肉せず、土星界、木星界、火星界、金星界、水星界に滞在していた。 月が地球から分離したあと、地球は再び、人間にとって住みやすい所となった。諸惑星界に滞在していた人間の魂が、地上に戻ってきた。レムリア時代に地上に戻ってきた魂もあれば、アトランティス時代になってはじめて、地上に下ってきた魂もあった。 レムリア時代に地上に戻ってきた魂は、それだけ早く地上での輪廻転生を開始し、アトランティス時代まで地上に下るのを待っていた魂は、それだけ多く宇宙的な霊力を蓄えて、地上に下ってきたのである。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月19日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ さて、人間の魂は、アトランティス時代の水の環境から救い出され、新たな(水の希薄な)大気の環境へと移行したとき、肉体を今日の形に作り上げるために何を体験せねばならなかったのか? 人間の魂は、後につくるべき肉体に見合う特定の長さ、幅、深さを備えるため、1つの形(フォルム)のなかに囲まれる必要があった。この形は、聖書が名づけた「ノアの箱舟」によって実際に与えられた。 ゴシック様式の大聖堂の形から、神秘主義の気分がつくられ、その形に従って、後世の顔貌がつくられたことを、霊視者が確認できるように、古代アトランティス人の肉体は徐々につくりかえられてきた。 というのも、当時の人々は、偉大な秘儀参入者の影響下で、聖書がノアの箱舟として記述する寸法に従って建造された住居のなかで、実際に生活していたからである。古代アトランティス時代の生活は、一種の水(海)上生活だった。 ほとんどの人々は水上の舟のなかで生活し、次第に陸上での生活に慣れていった。というのも、古代アトランティス時代は、水を大量に含んだ霧の大気に囲まれていただけでなく、大部分が海に覆われていたからである。肉体を今日のような形に作り上げることができるように、当時の人々は、このような舟のなかで生活していた。これがノアの箱舟の秘密である。 (つまり、ノアの箱舟の寸法が、肉体にそのまま反映し、肉体の寸法が、ノアの箱舟の寸法の証となる。) 聖書から再び秘教学的な深い意味を読み取ることに通暁すれば、この古文献には、叡智と限りない崇高さの輝きに溢れていることがわかる。当時の人々の魂は、自分の皮膚(肉体)のなかに閉じこめられているイメージを得る必要があったので、舟上で生活した。 このように秘儀参入者たちは、何千年にもわたって人間の育成に影響を及ぼした。宗教的古文献のなかの記述は、まさしく深く秘された真実から取り出されたものなのである。 (このことと同じように、古代エジプト時代に、ファラオ「秘儀参入者」の下に、ピラミッドやミイラをつくったのも、輪廻転生の体験を獲得する目的があったようで、このことは現代でも通用する真実でもある。 いまの環境が、将来の人間をつくるので、現代の環境破壊は、将来の人間の肉体の破壊や老化につながることになり、非常に深刻な問題となる。また、環境から出ることは、肉体から出ることを意味する。) 聖書の第1章に、また別の記述が見つかる。それは今世紀の蛇の象徴図や、またローマの地下納骨堂(カタコムブ)での様々な魚の徴(しるし)などである。この魚の徴は、古くから頻繁にみられ、キリスト教、ないしキリスト自身を意味する象徴とされている。 これらの図像もまた霊界から与えられたもので、人類進化の歴史について、私(シュタイナー)の話を理解できたなら、これらの蛇と魚の象徴図に、どんな真実が隠されているかがわかるだろう。 再度、地球が、人間と同様に様々な受肉を経てきたこと、つまり、この地球は、地球となる前に、土星、太陽、月だったことを思い浮かべてみる。人間の肉体は、これら様々な惑星状態においても既に存在していたが、地球上ではじめて、人間に自我が加わった。 さて、この地球の最初の受肉状態、つまり土星紀を観照してみる。当時はまだ岩石や表土などのようなものはなく、人間の物質的な肉体はあったが、いまよりも遥かに精妙なもので、それが徐々に濃密になって、ようやく現在の筋肉の形となった。 今日の周囲の物質を観察すると、固体、液体、気体といった異なった状態があり、秘教学では、固体状の物体を「土」と呼び、液体状の物質を「水」と称し、気体状の物質を「空気」と称し区別している。「火」すなわち「熱」は、これらの状態より精妙である。 今日の物理学者は勿論、この「火」の状態を認めないだろうが、秘教学者は、この「火」が実際、土、水、空気と比較し得る状態で、ただこの3つよりももっと精妙な状態であることを知っている。 熱を感じとる場には、空気よりももっと精妙なもの(真空のゼロ点の波動エネルギー)が存在し、秘教学的な意味で、土、水、空気とみなせるものは、土星上にはなかった。 これらの固定した有形の状態は、太陽、月、地球になってようやく成立した。土星上で最も濃密な状態は、「熱」、あるいは「火」で、このなかに人間の体が生き、土星を取り巻く環-つまり土星はどれも環をもつが-は、元々「火」を反射した鏡像で、「火」の分泌なのである。このことを更に詳しく述べていると、主題から遠ざかることになってしまう。 さて、土星(紀)から太陽(紀)へと移ると、「火」に「空気」が加わり、太陽上で最も濃密な状態は「空気」となった。太陽(紀)は、一種の空気太陽だった。太陽上で人間は空気からなり、その空気にエーテル(光)が注入され、空気以上の有形な(濃密な)存在はなかった。 このときの空気人間は、いまの空気のように「透過できる」ので、人間を通り抜けることができた。空気人間たちは、(いまの)蜃気楼と比較できるぐらい、当時は軽くフワフワしていた。勿論、この太陽上の空気(大気)は、今日よりは濃密だった。 月上でようやく水(の状態)が生じ、この月上の生物は全て、水の凝縮によって形成された。今日でも見ることのできるクラゲや軟体動物が、当時の水-生命体についてのイメージを与えてくれる。当時の物質的な肉体は全て、このような性質をもち、この種の肉体だけがアストラル(体)を自らの内に受容できた。 進化は一段一段、先へと続いてきた。このように物事は、つまり人間と地球は(運命共同体のように)関わり合い、人間は自らの惑星(地球)に属している。 さて今度は、この惑星進化の意味を考察してみる。土星上においてはじめて物質(肉)体の萌芽・原基が生じた。太陽紀にエーテル(体)が付加され、月紀ではアストラル(体)が付加された。しかしまた月上では別の出来事が起こり、月が2つの天体、すなわち、より精妙になった太陽と、元々の月の2つに分離した。 当時、月上にとどまっていた人間は、基本的に今日の人間よりもずっと劣った存在で、その進化段階は遥かに低次だった。というのも、月上でのアストラル(体)は(無秩序な)荒れ狂う激情に溢れていたからである。ずっと後になり、自我が付加されてからようやくアストラル(体)の浄化が始まった。 そのためには、更に進化が必要で、つまり、月が再び太陽と合体し、月と太陽という2つの天体が再び1つになる必要があった。分離した太陽上に生きる高次の存在たちは、自身の進化を続けるために、月から離れる必要があったが、今度は、この月上に残された存在、そこで更に固体有形化してしまった存在たちを救済する必要が生じ、そのために、太陽は再び月と一体化する必要が生じた。 さて、もし太陽と月とが再び1つにならずに、両者が別々に進化を続けていたら、どうなっていただろうか? その場合、人間は決して今日のようにはならなかっただろう。分離した月が、独自の道を進んでいったら、つまり、太陽との合一により新たなる力を創造できなかったら、月が生み出せる最高の存在は、恐らく今日の蛇のような生物だっただろう。 対照的に、太陽は-独自の進化を遂げたなら-その最高の存在は、今日の魚のような生物に到達しただろう。魚という生命体は、人間より遥かに高度に進化した存在たちの外(物質)的な現われである。魚の集合魂は、実際、今日でも非常に高度で、外見と、魂とは全く別物である。 では、月の存在たちを、蛇よりも高度にした力は、どこからきたのか? この力は、太陽の存在たちから、月へとやってきた。この高次の存在たちがもつ太陽状態の清澄さが魚という生命のなかに表現されている。それは太陽存在たちが獲得できる最高の物質形態である。 それで太陽の力全てを地球に受容した太陽の英雄キリストは、魚の徴(しるし)によって象徴される。いまや、秘教的な深い直観が、秘教的キリスト教の魚の徴(しるし)の意味をとらえたということに理解が至るだろう。魚という生命体は秘教的キリスト教にとっては、太陽の力、キリストの力の外的な象徴なのである。 確かに、魚は外見的には見栄えがよくなく、不完全だが、魚は、あまり深く物質のなかに入り込んでいないので、利己主義に満たされることが少ない。 秘教学者にとって、蛇は、月(紀)から進化した地球の象徴である。一方、魚は、太陽(紀)の霊たち(神々)の象徴である。「土」の固体質を備えた地球紀では、蛇が、地球の地下の生命体として象徴化された。 「水」の液体質として分離された生命は、魚として象徴化されている。秘教学者にとって、魚は「水」から生まれた生命のようにみえる。 (魚は高次の太陽霊の象徴であり、水(液体)の象徴、対して蛇は月から進化した地球の象徴で、固体、いわゆる土の象徴である。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月18日
コメント(0)
セスの話ではレムリア人について紹介したが、シュタイナーはどちらかというと、アトランティス人についての紹介が多い。 セスの話のレムリア人を簡単にまとめると、 他者に危害を加えないように破壊行為を極度に避け、後には恐れるようになった。 音波を用いた高度な技術を開発し、テレパシーや絵画的言語を用いた。 閉鎖的で、主に洞窟から地下に住居した。 などである。 これらレムリア人と、その後のアトランティス人を比較するために、シュタイナーの秘教学の講義を続けて、以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ 前回はノアの箱舟に言及し、この箱舟の高さ、幅、長さの比率に、人体の寸法の比が表現されていることを書いた。 聖書という宗教的古文献の、この箱舟の意味を洞察するには、人間を救出する、この乗り物が、人体の寸法の比とみられる寸法である意味を明らかにするだけでなく、ノアの物語に暗示されている実際の出来事が起こった時代へと、魂の奥深くに参入することが必要である。 秘教学(オカルティズム)を多少とも理解した人なら、外界の対象物をみれば、人間の魂にとって、それらがどのような目的と意味をもつのかが理解できた。 中世初期に成立し、西から中央ヨーロッパに向けて広がった独特な建築の教会や大聖堂をみれば、ゴシック建築として知られた特有の建築様式を持つことがわかる。 ゴシック建築の、上に向かって先の尖った2つの尖頭からなる独特のアーチ構造をみれば、全体的に上方を切望する気分に溢れていることがわかる。また支柱が独特な形をとることなどの点ももつが、このようなゴシック建築が、単なる物質的な用途や必要性から、もしくは神の家をつくろうという憧れの類から出てきたもの、と主張するのは全くの間違いである。 ゴシック様式の基礎は、もっと遥かに深い意味があり、ゴシック建築物の最初の理念を世界に提示したのは、秘教学に精通した人々で、彼らのほとんどが秘儀参入者だった。 ゴシック建築 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E5%BB%BA%E7%AF%89 「ゴシック建築は、尖ったアーチ(尖頭アーチ)、飛び梁(フライング・バットレス)、リブ・ヴォールトなどの工学的要素がよく知られており、…」 この人類の偉大な指導者たちは、このような建築物、建築様式を生じさせることに特別な意図をもち、ゴシック様式の大聖堂や教会に足を踏み入れる人には、魂に特定の印象が呼び起こされるような創意を施した。 聳え立つ支柱群を備え、高く湾曲したドームの中は、まるで一種の苑(もり)に踏み込んだような印象を受け、そこにとどまれば、例えば、通常の家屋やルネサンス様式やロマネスク様式の丸屋根を備えた建築物の中に入っていく時とは、全く異なった影響を魂に及ぼすようにした。 このような建築様式から、魂に特定の影響が生じてくるのだが、通常の人間には、このことが全く意識されず、無意識のうちに影響が及ぼされるので、このような建築物に囲まれているとき、自分の魂に生じていることが、あまり理解されていない。 つまり、周囲の状況に応じて、魂で生じることは非常に異なったものとなる。 ほとんどの人々は、現代の唯物主義が、唯物主義的な著作を多く読むことに由来するように思っているが、秘教学者は、その影響がさほどではなく、日頃の視覚からの情報の方が遥かに重要であることを知っている。 視覚の影響は、無意識糧に進行する魂の営みに多かれ少なかれ浸透するからである。この魂への視覚の影響は、現実的な意味をもち、いつか人智学が魂を真に把握するとき、この現実的な影響が、公共の生活においても注目されるようになるだろう。 中世においては、通りを歩くとき、今日とは全く異なる魂への影響があった。左右の家のどの正面にも、その家の建築者の銘が刻まれていた。人々の周囲にある、どの対象物、どの戸錠も、鍵も、その製作者の魂が、自らの感情の体現として作り上げていた。 これらの製作者一人一人が、作品のどの部分にも喜びを感じ、いかに自分の魂を注いでいたかを、はっきりと感じとれば、どんな物のなかにも、作者の魂の一部が存在したことがわかる。 従って、外界の特有の様式のなかに、魂が宿るのを見て、観察すれば、それが共感を呼び、自らの魂に力が漲るのを感じた。 今日の都市と見比べ、今日の事物のなかにまだ魂は宿るかと問うなら、例えば、靴屋、刃物屋、肉屋、それにビアホール等のなかに貼られたポスターなどの芸術が、どんな成果を生むか考えてみると、ゾッとするようなものが多いのに気づくだろう。 老いも若きも、オゾましい制作物、意識下に、最悪の力を呼び起こす制作物の海のなかを、まるで彷徨っているようなものである。 神秘学的な教育術は、視覚が人間の奥深くに影響を及ぼすことに注意を喚起せずにはいられない。現代の風刺雑誌をみれば、何ら批判精神を欠いた、事実の単なる誤魔化しでしかないことがわかる。 これらの全てが、人間をある特定の方向へと導き、時代を見定める力の流れを、人間の魂のなかに注ぎ込むことになる。 人智学者は、どのような表現(形式)の世界に生きるかによって、人間の魂が、大きく異なることを知っている。 中世の半ば頃、ライン河沿いにドイツ神秘主義と呼ばれ、注目すべき宗教的運動が発生し、魂についての法外な深まりと内面化が、キリスト教神秘主義の指導的な精神の持ち主たち、マイスター・エックハルト、タウラー、ズーゾー、ロイスブルーク他の「プファッフェン(坊主たち)」と呼ばれた人物たちから発した。 13世紀、14世紀においては、「プファッフェン(坊主たち)」という呼称は、今日とは異なり、まだ少しは尊敬の意味合いを持っていた。当時のライン河沿いは、「ヨーロッパの偉大なるプファッフェン(坊主)横町」と呼ばれていた。 このような偉大な心情の深まりや内面化、本質的な神の力との親密な一体化を求める敬虔な感情は、どこから生じたものなのか? それは、尖塔迫持型アーチやその支柱や円柱群を備えたゴシック大聖堂のなかで、人間の魂から引き出されたのである。このゴシック大聖堂が、これらの特質を、魂から引き出した。 (聖堂騎士という名はこのことに由来しているのかもしれない。) 視覚は、それほど強力に作用する。人間が見るもの、周囲から、人間の魂に注ぎ込まれたものなどが、人間のなかで1つの力となり、この力に従って、人間は、次の受肉(転生)に至るまでに、自分自身を形づくる。 このことを人間の進化から再考してみる。建築様式は、ある時代に秘儀参入者たちの偉大な思考から生み出されたもので、彼らが建築様式を、この世界へと流入させる。建築物を建てれば、それが人間の魂に影響する。人間は、この建築様式のなかに生きている霊力を、自らの魂のなかに多少とも受け入れる。 建築様式、例えばゴシック様式を見ることで、魂が受容する霊力は、魂の気分のなかに現われ、高みを見上げる情熱的な魂として現われてくる。数世紀前の人々は、ゴシック様式のなかに生きる製作者の喜び、魂の躍動を、自らのうちに受容したことがわかる。 そして今度は、このゴシック建築の力を魂のなかに受容した人々の数世紀後、つまり次の受肉(転生)を追跡してみると、その人たちの人相や顔貌に、この内的な心情が顕現した様子が伺える。このようにして、人間の魂が顔を作り上げることがわかる。 このような事実から、このような芸術が用いられた理由が判明する。人類の未来のずっと先まで、秘儀参入者たちは見ているため、彼らはある特定の時代に、外(物質)的な芸術様式、広くは外(物質)的な建築様式を形成する。このように、人間の魂のなかに、未来の人類のための胚珠が蒔かれる。 秘儀参入者の理念の提示 →建築物等の形式 →魂への受容 →内的な心情の顕現 →次の受肉での人相や顔貌形成 このようなことを正しく洞察すれば、アトランティス時代末期に起きた出来事も理解できる。再度、アトランティス時代の最期、その没落が起こった時代に目を転じてみれば、この時代にはまだ今日のような大気がなく、空気や水の分布も、現在とは全く異なり、濃い霧がアトランティス大陸を取り巻き、霧が雲に凝縮し、流れ落ちる雨となって大洪水が陸地に溢れたことがわかる。 このアトランティス大陸の沈没は、短期間の出来事として起こったのではなく、何千年も続く現象として、徐々に段階的に起こったことがイメージできる。 外界(環境)の生活状況の変化に伴って、人間自身も変わり、それ以前のアトランティス時代では、一種の霊視力により知覚していたが、末期において、大量の雨が降り始めたとき、人々は、次第に全く新しい生活様式へと、新たな見方、新しい種類の知覚に慣れる必要性が生じ、人間の肉体も変化を免れなかったことがわかる。 実際、アトランティス時代の人々は、今日の人間とは驚くほど異なっていたが、このような変化が一気に起こったのではなく、感覚器官を備えた人間の身体は少しずつ形成されてきた。 魂の力が長期間に渡って身体に働きかけ、先に述べたように、人間が、建築様式を見ることで、霊力を魂に受け入れ、それが心情に影響し、この心情が次の転生で、人間の顔相、顔貌を形作る、というような流れで進化してきた。 アトランティス時代からポスト(後)アトランティス時代(我々の時代)の移行期になって初めて、人間の魂は、自らの形を変え、それに続いて肉体も作り変えた。 正真正銘の古代アトランティス人をイメージすれば、彼はまだ霊視による意識をもっていた。このことは、生活環境、つまり深い霧に満たされた大気と関わりがあり、この環境では、事物は明確な輪郭をもたず、区別できず、色彩像や色彩模様の波のようなものが入り乱れた形で、対象の人々の魂の状態を、観察者に示していた。 自分に近づいてくる対象物の輪郭を捉える代わりに、アトランティス人は1つの光の形態(フォルム)を、青は愛、赤は熱情、怒りなどという具合に知覚していた。人間を取り巻く環境には、魂の力が色彩をもつ光として広がっていた。 もしこのような状態がずっと続いていたら、人間は決して現在の肉体を獲得することはなかっただろう。大気は水を分離し、対象が次第に益々明るくはっきりと現われてきて、現在のような境界をもつようになったとき、人間の魂が新たなイメージを受容すべき時期が到来した。 このイメージに従って、魂は自らの肉体を形成した。というのも、人間は、考えたり感じたりするものに従って、自らの肉体を形成するからである。 (善きイメージから善き肉体が形成されるので、古代ギリシア人は、健全な肉体は健全な精神から形作られるといった。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月18日
コメント(0)

物理学上の音楽的な調和(共鳴)が成立するのは、例えば、様々な弦のうち、ある弦は速く、ある弦は遅く異なって振動することに基づいている。各弦の振動の速度によって、高い音や低い音が響きわたり、こうした様々な音が共鳴し、調和を生んで、音楽を奏でる。 (超弦理論との類似性を思い起こさせる。超弦理論を天体の運動から説明できれば面白い。) この物理学的な弦の振動による共鳴現象から、音楽的なイメージが得られるのと全く同じように、神界(天国)の霊聴を獲得する段階にまで達した人は、天体の運動を天球の音楽として聴き取ることができる。 更に、太陽系の諸惑星の異なる各運動速度の比例関係により、宇宙空間全体に響きわたる天球のハーモニーを成す基調音が生じる。ピタゴラスの学院では、天球の音楽について語られ、それは霊的な聴覚器官で聞くことができる。 以上の考察から、更にまた別の現象も示唆できる。例えば、薄い真鍮板に微細な粉末をできる限り均等に撒き散らし、ヴァイオリンの弓などで、この板をこする。すると音ばかりでなく、粉末の粒子が一定の線上に規則正しく並び、音に応じて様々な図形が形成される。 音が物質に作用して、粒子が配置される。これが有名なクラドニの音響図形である。 ☆ ☆ ☆ クラドニ図形 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%8B%E5%9B%B3%E5%BD%A2 時空研 青森 http://aomorijikuuken.blog114.fc2.com/blog-entry-106.html 古代ヘブライ語やサンスクリット語の母音はパターンを描きやすいようで 聖音「オーム」ではOは円形を描き出し、Mは重なり合った正方形を描き出し そして最終的には、ヤントラの形になるようです。 世界中にみられる聖なるシンボルは、いにしえの賢人たちが瞑想によって 森羅万象の目に見えない周波数をインスピレーションでキャッチした 痕跡でもあるのでございます。 ☆ ☆ ☆ 霊的な音が宇宙空間を貫いて響くとき、その音により、各天体は、互いに比例関係をつくり、天球のハーモニーへと組織される。宇宙空間に広がって見えるものを、この創造する神性の音が配列する。このような音が、宇宙空間の内部へと響きわたることで、物質が、1つの体系へと、つまり太陽系へと形成される。 だから《天球の音楽》という表現も、決して想像上の虚構などではなく、現存する事実を指し示すものなのである。 さて、また別の事柄に移る。この地球が常に現在のようであったわけではないことはわかる。相当長い間神智学に携わってきた方は、現在の受肉状態にある地球が様々な進化段階を経てきたことを知っている。遥か遠い過去、地球は火で溶融したような状態だった。 今日の石や金属は、かつては、火に溶けた状態の地球に溶けこんでいた。そのような熱の中では、人間もその他の生物も生存できない、という反論に対しては、 当時の人間の肉体は、当時の条件に適合していた。 と答えられる。当時の肉体は、今日の溶鉱炉よりも高い温度でも生存できた。この地球の火の時代に続いて、神智学徒が、アトランティス時代と呼ぶ水の時代がやってきた。ちょっと、このアトランティス時代を考察してみる。 アトランティス大陸は、今日のヨーロッパとアメリカの間の大西洋の中心に広がり、人類の先祖が住んでいた。むろん彼らは今日の人間とは全く異なった状態にあった。彼らの視力は現代人とは異なり、ある意味で霊視を行っていた。 アトランティス人の進化から、この霊視力に様々な段階があった。アトランティス末期の最終段階は、遥か昔の高次の段階が終焉を迎え、その一種の余韻のようなものだった。例えば、アトランティス人は外界の対象を、アトランティス末期になってようやく見ることができるようになった。 それ以前、アトランティスには、水を含んだ大量の霧が厚く充満していたので、外界の対象物は、いまのように空間的にはっきりとした輪郭をもって捉えられていなかった。こうしたアトランティス進化の初期においては、現在とは、知覚方法が全く異なっていた。 古代アトランティス人がある物や存在に近づくとき、最初に見えるのは、人物や対象の外見の輪郭や骨格ではなく、むしろ、外界とは無関係な、対象の内(精神)的な魂の状態を再現する色彩像が浮かび上がった。その色彩像は、その対象の存在が、有益なのか、危険なのか、の信号のような働きをした。 例えば、遭遇した人物が、復讐の感情を抱いていたなら、それに応じた色彩像が提示され、そこから逃げた。だから、野生の獣が近づいてきたら、その色彩像により識別し、逃れることができた。アトランティス人は、自分の周囲の魂の状態を、この霊視で知覚していた。 (アトランティス人は、オーラをみて判断していた。) そのような状態から、今日の視力が徐々に発達してきた。非常に霧のかかった日のことを考えてみれば、そういうとき、対象はぼやけている。こんな日は、街灯も点のようにしかみえない。近づけば、段々と輪郭が判別できるようになる。 このように、徐々にアトランティス人は(物質的な)視覚を学んだ。当時の人間が見ていたものは、一種のアストラル(体)による色彩(オーラ)だった。この色彩像は、最初のうちは、自由に漂っているように見え、(物質的な)視覚を獲得するうちに、事物の表面に定着するようになった。 勿論、こうした太古の知覚は、当時の人間が、今日とは全く違った様相をしていたことと関係する。例えば、アトランティス時代の末期には、人体の額は、いまより遥かに後退し、前方には、エーテル(体)が大きな球のようにせりだしていた。 (角を持った感じ) いまの額の後ろ側の、両眼の間を少し後退した辺りに、物質体があり、エーテル(体)とはまだ一致していなかった。その状態から、エーテル(体)が収縮し、物質体とエーテル(体)両者が一致したのは、人間の進化において、重要な瞬間であった。今日では、エーテル(体)の頭部は、物質体の頭部にほぼぴったりと収まっている。馬は、まだそうではない。 (馬はエーテルでみると、ユニコーンのようにみえる。) 人間では、頭部の変化に応じて、四肢も変化し、徐々に現在の肉体の形姿が形成されてきた。 では再び、アトランティス時代末期へと遡る。当時はどんな状態だったのか? 当時の人間は、ある種の霊視力で周囲の魂の状態を知覚していた。当時は、水蒸気をたっぷり含んでずっしりと重い厚い霧の大気だった。太陽や星々、周囲のあらゆる対象物は当時、この水を含んだ厚い空気の中ではよく見えなかった。当時、虹はなく、虹はまだ生じていなかった。 当時の地球は、重い大量の厚い霧に覆われていたので、ニヴルヘイム(霧の国)の伝説として語り継がれている。大気中に厚く充満していた水が、徐々に凝縮していき、(創世記の)「かくて大洪水が地上に降り注いだ」。これは大量の水を含んだ厚い霧が水へと凝縮し、降水、雨となった、ということを意味している。 (創世記の「そして,水は地に大いにみなぎって,全天下の高い山々がことごとく覆われるようになった。」) 大気から水が分離されたことにより、大気は澄み、空気が透明になったのに伴って、今日のような視力が形成された。人間は、自分の周囲の対象を見ることができるようになって初めて、自分自身を見ることができた。 (自我の芽生え。だから、大洪水前は、人間には自我がなかった。民族のような集団の自我だった。) さて、人間の物質体は、多くの深い意味を持つ規則性を示している。そのうちの1つは次のようなものである。 高さ、幅、長さが、3:5:30の比率をもつ箱をつくれば、その箱と同じ比率が人間の肉体にも見つかる。換言すれば、この比率から、肉体の規則的構成が示される。アトランティスの大洪水から姿を現わした当時の人間の肉体は、3:5:30という割合に従って形成されていた。 このような事実を、聖書(創世記)では、次のような記述で大変見事に表現している。 「そこで神はノアに命じて、長さは三百エレ、幅は五十エレ、高さは三十エレの箱(舟)を作らせた。」 人体が調和を保つ寸法比は、このノアの箱船の寸法比とぴったり適合する。 (長さ300キュビト(約45センチ×=135m) 幅は50キュビト(22.5m)高さは30キュビト(13.5m)と誤解釈されている。ノアの箱舟とは、人間の人体で、物質体のことである。) 神秘学の記号や形象は、事物の本質そのものから取り出されたものなので、それらを通じて、霊界のなかの関係を、洞察する方法が獲得できる。 (余談だが、中世の日本の貴族が、麻呂「まろ」と呼ぶのは、丸「まる」からきているそうだ。船を呼ぶ「丸」である。つまり、自分の肉体が、ノアの箱舟であることを知っていたのかもしれない。中世の日本では、魂を運ぶのは船とされた。古代エジプトの思想も同じである。)
2013年09月17日
コメント(0)
セスの話の紹介で、シュタイナーの医学の紹介がなおざりになっていたが、セスの話ともリンクするので、再び続ける。 ☆ ☆ ☆ さて、古代人が3つの自然の原理(塩、水銀、燐)を苦心して分離した方法(錬金術)を再現することは、今日では、もはや困難なことは明らかである。 この講義も、古代人が用いた方法の再現ではなく、古代の叡智を度外視し、今日でも研究可能な3つの原理についての分離法に精通すれば、必要なときに、古代の文献を読み解くだけで、次のような古代の叡智を認識できる。 「自然の物質の特性である3つの原理から、必要な治癒過程(自然治癒力)を取り出すには、実際、自然の物質から、何らかの(生成)過程(力)を分離する必要がある。 例えば、燃焼すれば、火や光を担う燐の過程(力)が分離されるが、治療のためには、水銀の過程(力)の分離が必要となり、燐の過程(力)と水銀の過程(力)を、自然の物質から分離すれば、結果として、塩の過程(力)が誘導され、後に残る。」 また更に、酸の性質を持つ物質から、塩の過程(力)が誘導できるので、植物や鉱物から、塩の過程(力)を用いた治療薬が獲得できる。特殊な場合については、後に扱っていく。 以上のように、自然のなかに、光を担う過程(燐の過程)を求め、地球外の作用(水銀の過程)を探求し、また、地上の物質から、地球外の作用(燐の過程と水銀の過程)を分離し、地球の作用(塩の過程)の獲得に努めると、結果として、塩の過程が獲得できる。 また、水銀の過程(力)の獲得には、地球外と地球の両者の間に均衡をもたらす過程を試行する必要がある。 しかし、この3つの自然原理は全く特性が異なるが、いずれも適切な利用により、目的の疾患を治癒に導くことができる。いかなる試行も、2つの両極(対極)的な道筋(燐と、塩の過程)から、本質的に、両方の道筋に沿って進むことができる。 古代の医師たちの立場に立って、既知の物質から、燐や塩、もしくは水銀の特質を持つ過程の抽出を目指し、3つの原理を用いることができる。 古代の医師たちにとって、薬がもつ様々な特性は、その薬を、鉛から得たのか、銅から得たのか、によっても、多少異なるものだった。古代の医師は、薬を取り出す元の物質を考慮していた。例えば、塩の過程を、鉛から抽出するのと、銅から抽出するのとでは少し異なる。 従って、塩の過程について語る場合でも、本質的に、次のような結論に至る。 「様々な塩の過程があり、塩という特質の意味では同じ地上の作用だが、抽出する様々な金属の違いにより、地球外の力もわずかに含み、人体のなかの様々な作用と関わる。」 後に詳細な特徴を述べるが、古代の医師たちは、同じ塩の過程でも、取り出す前の物質により違いが生じることを知っていた。 例えば、目的とする治療に応じて、塩の過程を調整するために、上述のような、取り出す前の物質の相違を利用できる。 この塩と燐の過程の両極性と、均衡をもたらす水銀の過程という、3つの原理を基にした、古代の医師たちの薬の抽出法が忘れ去られた後では、人間は単なるレトルト(機械)ではなく、レトルト以上の存在である、という明確な理念から、再び抽出方法を模索するしかない。 例えば、薬を取り出す元の物質の特性からくる相違を増幅することで、物質の根底にある潜在力(ポテンシャル)の利用を試みる方法などである。 (簡単にいえば、量子効果のこと。波長がプランク長近傍の波動を利用すること。) この方法は、ハーネマンの方法にも本質的に内在し、古代の薬の抽出法が既に忘れ去られ、地球外の力やその関連について、もはや全く無知になった後の医学的な努力から、いわば一種の新たな興隆を示すものである。 現代の医療社会は、いまや絶望の淵にある、とでも表現したいが、現代の医学では、もはや地上を超えた力に言及することはなく、本質的に地上の作用を根底とする治癒力に頼りきり、地上のなかにある力だけで常に巧く処理しようとしている。 地上の力を超えていくのがホメオパシーの体系である。確かに、物質的な治療法も、地上を超えていこうとしているが、もはや光の担い手となる燐の過程の正しい利用法、もしくは気体の担い手となる水銀の過程の正しい利用法を知らないため、直接、光(電磁波)や空気(気体)を用いる治療法が第3の可能性となっている。 しかし、真の有効な方法は、人智学により、鉱物、植物、動物と地球外の力との関係に迫るときにだけ、再び開かれる。動物療法(ワクチン療法)を用いるとき、既に以前、示唆したように、人間へのアプローチは容易ならぬものとなる。 古代人は1つの境界を設けたが、新たな研究から、その境界について探究していきたい。古代人は次のように考えた。 「植物は、太陽系の領域内にあり、鉱物も、太陽系の領域内にある。しかし、動物界に至ると、太陽系から出てしまう(黄道十二宮)。地球の外の惑星内(7つの惑星内)にとどまるときよりも遙かに危険で、もはや事象と戯れることは許されない。」 動物の(形成)過程、特に、動物を人間へと導く(進化)力は、鉱物や植物のなかの力よりも遙かに、なおも宇宙に拡散した状態にある。動物や人間の形成を導く力について、古代人は、獣帯(という境界線)を引いた。 サイン(占星術) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%B3_(%E5%8D%A0%E6%98%9F%E8%A1%93) それは、植物、もしくは鉱物のなかにある力を超えて、つまり、この獣帯を超えて、治癒力を探し求めないように、少なくとも獣帯を超えると、人間は、容易ならぬ領域に踏み込んでいくことになる、という事実に気づくため(警告)である。 確かに以前、既に少しばかり特徴を述べた方法により、この動物療法(ワクチン療法)の領域にも踏み込んでしまった。動物療法については、病理学と血清療法の特殊な事例のなかに立ち入っていくとき、更に詳しく議論する。 動物療法は通常、個別的な疾患に通用し、強固な幻想を引き起こすため、このような事柄の背後にある危険性が完全に隠蔽されてしまう。 (恐らく、耐性菌や耐性ウイルスの発生のことなのだろう。)
2013年09月17日
コメント(0)
セスの話を、とあるサイトから内容を抜粋して、途中まで紹介してきたが、現代人の思考力では計り知れない内容を含んでいることだけは疑いがないだろう。 セスの話が奇想天外にみえるのは、それだけ思考力が足りない証拠である。 セスの話によれば、かつての人類は、セスのいうような思考力をもっていたそうで、そのような思考が皮相的になるにつれ次第に失われていき、古代人からみれば、まるで無知な小学生のように現代人はみえるようである。 むしろ、無知な人類は、益々無知になるように、思考を制限してきたといえる。この原点は、自分が楽に暮らせる世界だけが「生きること」だと思い込んでいることにある。そのために、環境をできるだけ自分好みにつくりかえてきた。 しかしそれは逆説的にいえば、利益を追うことは、自分の思い通りになる世界しか存在しないと思いこむことであり、利益を追えば追うほど、視野が狭くなり、思考を制限していくことになる。そのために、人類は益々無責任になってきた。 5年前に流行った某解剖学者の「馬鹿の壁」を沢山つくっていくことにあたる。「馬鹿の壁」なんてものはなく、あるものと思い込んで、馬鹿の反対側をみないから、あるようにみえるだけである。 その最たる無知さが、人間は死なないのに、「死」ぬものと錯覚していることである。「死」の壁をつくっているわけだ! ほとんどの宗教は死に言及しているが、死そのものがないことには言及できていない。「死」がないのだから、キリストの復活だって、奇跡でもなんでもなく、誰でもできることである。 肉体に拘るから、物質界に拘るから、「死」ぬのである。 これから述べるセスの話は、現代人の物質的思考からは奇想天外な話にみえるだろう。しかし、この話が奇想天外に思えるほど、実は「死」ぬことを信じていることになる。 少しでも量子力学を学んだことがある人なら、これから述べるセスの話は理解できるだろう。実は、量子力学ほど、唯物論に染まった物理学者には理解できない代物なのである。唯物論では理解できないからである。有名なアインシュタインも、「神はサイコロを振り給わず」といって理解できなかった。 唯物論に染まらなかった物理屋が発見したのが量子力学である。 早い話が、物質界だけが全てではないということなのである。 では、セスの話を抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 思考したものは消滅せず必ず実現する 貴方がたは日常生活のどの瞬間であれ、とるに足らない些細なことから非常に重要なことまで、どうするか、といった行為の選択肢が無数に存在するなかに生きています。 例えば、咳をするかしないか、頭を掻くか掻かないか、猫の頭をなでるかなでないか、窓をのぞくかそれともドアを開けるか、また溺れている子どもを助けるかどうか、教訓から学ぶかどうか、自殺するかどうか、人を傷つけるかどうか、それとも「他方の頬を向けてやる」かどうか、といったようにです。 このように貴方がたには、自ら選んだ行為により、現実が成立するようにみえているでしょう。ですから、思考しても、実行しないものは消え去り、選択しなかった行為は、起こるはずはないと思われがちです。 しかしながら実際には、全ての思考は実現しており、全ての可能性が検討されているのです。物質的現実は貴方がたの見地からすると、一連の物理的行為と見なされるものから成立しています。貴方がたは、このような習慣的な「尺度」を、現実とするために、非物質的行為、つまり思考に対する意識は、貴方がたの注意や分別、判断の及ぶ範疇からは外れてしまいます。 1つ例を挙げてみましょう。 貴方が読書をしていると電話が鳴りました。電話にでると、友人から、夕方の5時に会いたいと言われました。そこで貴方は、受話器を持ったまま考えると、次の3つの状況が心をよぎりました。 1つ目は、友人の申し出を断り、自分の家にいるところ、2つ目は、友人の申し出を断って、別の場所に出かけるところ、そして3つ目は、友人の申し出を承諾して友人に会いにいくところです。 貴方は、これらが単なる思考によるイメージにみえるわけですが、実は、これらの可能性のある思考上の行動全ては、どれも頭に浮かんだ瞬間に、現実味を帯びることになります。 つまり、それらは皆、物質的に実現化可能で、貴方が決断を下さぬ間は、そうした行動は皆同等に存在根拠をもっているのです。貴方はその3つのなかから1つを選び、その決断に従って物質的な出来事へと顕在化させます。そして、その出来事は、貴方の日常を構成する出来事の一部として、現実を受け入れることになります。 しかし、それ以外の、貴方に選択されず顕在化されない他の2つの行動ですが、これまでと同じ確たる存在根拠があることに変わりはなく、実際には、貴方が「する」と決めた行為と同様に、実は実行されているのです。 (意識の焦点を合わせていないだけだという。) そして、選択されなかった行為の背後に強烈な感情エネルギーの蓄積があった場合には、選んだ行為よりも、むしろ選ばなかった行為の方が大きな存在根拠を持つことさえあるのです。 いずれの行為も最初は「思考の産物」であり、それ自体が「現実の本質」なのです。このことはいくら強調してもしすぎることはありません。ですから思考上の観念的な行為全ては、存在根拠をもっているので、思考の存在を無にはできません。 貴方がたは、選択しなかった思考上の産物の行く末を考えず、それらを現実として捉えないため、思考の影響や永続性に気づくことはありません。貴方がたの限界ある知覚力をなくすことで、そのような現実をいかに打ち消そうとも、それらの存在根拠を無にはできないのです。 かりに、本当は医者になりたかったのに、実際は違う職業についている人がいるとします。すると、この人はどこか別の現実において医者として働いています。また、現在いる場所では使っていない能力が貴方にある場合は、どこか別の場所で使われているのです。 こうしたことは、貴方がたの現在の考え方にとっては、とても尋常でない代物にしか思えないでしょう。しかし、それは、貴方がたの連続的にしか考えられない直線的な思考と直線的な時間の概念と、三次元的な姿勢に酷く偏った「性質」のせいなのです。 またこうした事実から、魂が、多次元的で無尽蔵な働きをもち、そうした行為は魂の存在を計り知れぬほど増大させるものと言えます。つまり魂は尽きることのない創造的行為そのものであり、そうした行為を自らのために無限に創造しているのです。 貴方を編み込む「つづれ織り」のような全貌は、三次元的な知性には見ることのできないものです。しかし貴方が、それらとの接点を持てずにいるのは、貴方が物質的な出来事だけに焦点をあて、それを現実の尺度として受け入れているからなのです。 しかし、貴方がたは、いかなる瞬間においても、思考が生み出したイメージ、選択しなかった別の現実を垣間見ることが可能で、自ら下した物理的決断の背後にある別の行為の現実への反映を感じ取ることができるのです。 これは大抵、夢見の状態で行なわれます。つまり目を醒ましているときの普段の意識にある頑固な思い込みが、夢見の状態では往々にして希薄な為、別の現実を垣間見ていることに気づかずに、実際には選択しなかった行為を演じている自分を見るのです。 もし貴方がたのそれぞれの行為においても、そうした別次元の自己があるなら、別次元の地球も当然ながら存在し、それらは皆、貴方がたが採択しなかった道を歩んでいるのです。時には目を醒ましている状態で想像力を働かせ、「採択されなかった道」を辿ることも可能です。 (平行宇宙論を思わせる。) それでは先に述べた、友人から電話を受けた人物の話に戻りましょう。 さて、その人は友人に、「自分は行かない」と断るとします。しかし、その際、その人が誘いを断りながらも、仮にもう1つの選択肢の「誘いに応じた」光景も同時に思い浮かべていたとしましょう。 すると、その人は不意に、そこで次元の切れ目を体験する場合もあり、更に運よく状況が味方し、まるで、誘いを選択したかのように、誘いに応じた光景を現実と感じるようになることもあります。その人は、自覚もなく、自分が、これから友人に会いに外出するような気分になり、「行かない」と物質的に決めていたはずの行動を、実際に行なうことさえあるのです。 このように、あらゆる可能性の詰まった体験が、本人に押し寄せ、ただそれを想像することで自由な知覚への扉を開くことになるのですが、そこに幻想や妄想が混入することはありません。 これはごく簡単な思考の訓練で、どのような状況下でも試せますが、単独で行なうことが大切です。こうした思考の試みをすることで、自己を失ってしまうのではないかという心配の必要はありません。また、貴方に選択されなかった行動を「採択していた別の自己」は、貴方の知っている自己とはかなり異なる存在なのです。 貴方がたの思考は、新たな次元の実現化を開きます。 言い換えると、貴方のほんの微々たる想いが、1つの世界を誕生させる、ということなのです。このことは無味乾燥な形而上学的な言語学とは違い、貴方がたの中に、当然ながら、創造と思索への強い信頼を喚起するに十分であるでしょう。 どのような存在も不毛であり続けることはなく、いかなる考えであっても消滅することはなく、どんな能力であっても成就されないまま放置されることはないのです。 ですから選択における現実の一つ一つが、同時に「実現化されない」無数の現実を生み出し、そうした「実現化されない」動きや行動も同様に、それなりの実現化の日の目を見るのです。 つまり思考されたものは、それが選択された現実であるかどうかに関わらず、全てが現実として別次元で実現するのです。 この状態で全ての現実体系は開いています。 このそれぞれの現実化を分けているように思える境界は、便宜的に任意に決められているに過ぎません。全ては同時に存在し、それぞれの別の体系を支えながら相互の進化に貢献しているのです。 (量子力学でいうところの波束の収縮を度外視すること。波束が収縮するのは、観測者が選択肢を絞ることで、自我の焦点が収縮しているのである。量子平行宇宙論というべきか。物理学では、「思考実験」と呼んでいる。) ですから貴方がたがいかに生きるかということは、別の自己の体験にある程度反映されることになり、その逆もまた真なのです。自分に限界を設けず受容的であればあるだけ、別の自己が体験する様々な経験から得るものが大きくなり、それらの知識や能力の恩恵を受けることも多くなります。 そしてここでもまた貴方がたは、夢見の状態のなかで自然に思いつくままに、度々こうしたことを体験しているのです。また貴方がたにとって、霊感的なインスピレーションと思われるものは、別の次元の自己が、思考として体験したが、実現化には至らなかった「考え」だったことがよくあるのです。貴方がたは、その「考え」に同調し、その自己に代わってそれを実現化するわけです。 同じように、あたためているだけで実践しなかった思いや考えが、別の自己によって実際に取り上げられることもあります。それぞれ別次元にいる自己は、当然のことながら皆、自分自身を正真正銘の自己であると考えています。 それらのうちのいずれの自己にとっても、貴方は別次元の自己に過ぎません。しかし「内なる知覚」を通じて、貴方がたは皆、このゲシュタルト(集合体)の一部の「自分」に気づいています。 ☆ ☆ ☆ 思考すればするほど世界は広がるというわけなのである。思考に間違いも糞もなく、ただ物質界に適合しないかどうかなのである。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」とは、思考のことなのである。
2013年09月17日
コメント(0)
前回の続き。セスのレムリア人の話は、戦闘を嫌うという部分を除いて、いまの日本人によく似ている。歴史的にいえば、日本人の特に部落民に似ている。八切史観でいえば、「八」の民で、海洋民族の末裔の平氏を称した民である。 さてレムリア人に欠けていたのは、戦闘を恐れていたため、戦闘という悪しき行為を、いかに建設的に、創造的に用いるかという、男性のなかの女性性のアニマであったといえる。レムリア人が、アダムという肉体的に男性の存在をつくったときには、アニマが十分でなかったと思われる。 というのも、レムリア人は両性具有で、二元化の意識がなかったからである。二元化は、アトランティス人の科学者が黒魔術をはじめたときにはじまったからで、レムリア人にとっては、投射と受容は同じ1つのものだったが、アトランティス人が黒魔術により分離し、そのため、攻撃するほうと、破壊されるほうを分離できたからである。 だから、この二元性の論理でいけば、攻撃する側は常に攻撃する側にとどまれば、破壊を免れることになる。このような論理から、物質性が生まれてきたといえる。 利益とは端的にいえば、一方の側しかみない態度といえる。本来は1つなのだから、利益というのは損失とともにあるが、だから利益とは、損失を無視することになる。全体からみれば、特定の一部に集中しているだけにすぎない。だから、全体を忘れ、知性的にいえば馬鹿になることに当たる。 現代人の算出する経済効果などはまさにこの典型である。 このような利益を追い求める行動をとればとるほど、全体を考慮しなくなるので、どんどん知性的には馬鹿にならざるをえない。 だからレムリア人には、現代人の経済は、反対側を隠すような意識の問題と捉えるだろう。 さて、現代文明は、この意識の問題からも、その行き場を失っているように、崩壊に向かっていることは疑いのないところである。 もしも、その行き場を見つけるとしたら、2次元以下の存在にならないといけないからである。しかし、それは不可能で、とうにレムリア人が、3次元が、生命が存在できる最低の次元であるという結論を出しているからである。 だからして、人類は来た道を引き返さざるを得なくなる。 簡単にいえば、経済は、金持ちが貧乏人に再び返る道を探るしかない。貧乏人を増やさないことは、金持ちを減らすことと同じなのである。物質というのは一方の側からしかみないから、そのことに目をつぶっているだけにすぎない。 来た道を引き返すことは確かに勇気がいるが、撤退すべきときに撤退しないと身を滅ぼすだけである。そのことがわかる話を、以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ 今必要なことはこれまでの文明を終わらせること http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-10b0.html 「古いものを捨てるべきリズムにある時、そのリズムに逆らった場合、宇宙のリズムは強制的にあなた方に喪失を強いることになる。現代のあなた方は何でも溜め込む傾向にあり、それが宇宙のリズムを停滞させる結果を引き起こしている。 それぞれの節目(ふしめ)においては、常に捨てることを心がけるだけでも、あなた方の人生は向上する。これを怠っていると、宇宙は強制的にあなた方のすべてを空(から)にさせる状況を与えるようになっている。そうやって宇宙は、リズムバランスを取り戻す働きをするのである。 アメリカ軍のイラク攻撃が、あなた方の文明のルーツでもあるシュメールの記憶を消滅させることになったのは偶然ではない。これは法則によって起きるのだ。時の権力者は、たとえその文明が終末を迎えていても、最後の最後まで自分の支配下にある文明を維持しようと固執するものであるが、それを引きずれば引きずるほどそれは破壊され、終には彼自身を消滅へと追い込むことを我々は知っている。欲のままにその繁栄に固執すると、破壊もまた繁栄と同じほど大きなものになるのだ。 今あなたが払うべき努力は、これまでの旧文明を出来る限り早く穏やかに、終息に向かわせる努力である。」 私は彼の話を聞きながら、ここ数年間に起きたアメリカの産油国への軍事攻撃に、人類史規模の意味があることを直感した。 そして、私は9.11のことを思い出した。 そういえば私はネット上で、9.11は演出されたものであるという情報を見たことがあるがあれは本当なのだろうか? 「確かに、9.11(米国貿易センタービル爆破事件)はある勢力が演出したものである。 しかし物事は、本質を見抜くことが必要である。 問題は、そうした勢力の計画や動きが、なぜあのタイミングであの時期に生じるかということである。彼らは、「聖なるリズム」を知っているわけではないのだ。 秋から冬に向けて森の木々が木の葉を落とす時、あなた方はその木の葉である必要はなく、あなた方はその幹であるべきだ。木の葉は落とされまいとしても、自然の法則に勝つことはできず、どんなにもがいても、落ちるべき葉は落ちるのだ。その葉であることを主張しても、それは悲劇でしかない。「彼ら」は今、落ちまいとしながらも落ちつつある「葉」の役を演じているのだ。すべては天地のリズムに導かれており、それに逆らうことは逆に、より悲劇的にその法則を成就させることになり、それが自分と他者に苦しみを招く。 我々シュメールの叡智を保つ者たちは、「聖なるリズム」を自分の利益のために用いることをしなかった。なぜならそれは必ず、反作用を引き起こすことを知っていたからである。」 彼の言うことは非常によくわかったし、私には彼ら旧文明の権力者たちが、何か遠い存在のように思えてきた。そして新しい時代に向けて、自分は何をしたらよいのだろうかと思った。 「私が言う旧文明とは、決して彼らだけを指すわけではない。 それは自己の立場を守るために、旧文明の価値感を頑(かたく)なに主張し続ける人々であり、他人を犠牲にしてでも旧体制で獲得した権力を保持しようとする人々のことで、このような人々はあなたの国にも無数に存在していることを知らねばならない。そうした一人一人が、自分の生き方を変容させられるかどうかが本質的な問題である。そしてそれが達成できるかどうかは、あなた自身の生き方にかかっている。 あなたは、日本の戦時中の話を聞いたことがあるだろうか。 当時、(戦地へ行くよう要請する)赤紙を渡された時、どれだけの人々がそれに「ノー」と言うことができただろうか。 あなたが真に、あなたの価値感を旧文明のそれから新文明のそれへと変容させ、それを行動に表すことは、当時の人々が「赤紙」に「ノー」と言うのと同じほどの、自己犠牲的なまでの勇気を必要とする行為であることを、あなたはいずれ知るであろう。」 この時には、私はその意味がわからなかったのだが、後に私はその通りの現実に直面することになった。 「自然界の木々が葉を落とすのは、新芽が胎動を始めたことを感知するからである。ゆえに木々が葉を落とすことを惜しんでいたら、木々は生命の危機に陥ることになる。この喩えがわかるであろうか。つまりあなた方はこのことを現文明、つまり旧文明でやろうとしているのだ。 あなた方が過去の文明、過去のシステム、過去の権力、過去の考え方を失わないように躍起になればなるほど、宇宙はあなた方に厳しい喪失を強いることになるだろう。「今」はすべてを捨てるべきリズムにある。捨てなければ、新たな誕生を見ることはできない。 捨てることに恐怖を抱くのは、新芽の胎動に気づかないからだ。 あなた方が想像もできないほどの活気に満ちた素晴らしい文明が、すでに胎動を始めていることをあなた方は確信しなければならない。」 私は自分の人生と人類のあり方に妙な繋がりを感じながら、彼の話を聞いていた。 ひょっとすると、私の人生の変化は、人類の変化と裏表なのではないか、といういままで考えたこともない思いが浮かんだ。 「一人の個人が宇宙のリズムに乗るということは、あなたが考える以上に人類史に直結している。なぜならあなたの中心点は、人類の中心点でもあるからだ。 あなた方日本人がする「年末の大掃除」の習慣は、我々シュメールの習慣に近いものがある。これを10日早く行なえば、自然のリズムに重ねることができる。この期間に不要な物を捨てると同時に、心における過去も捨て、澄み切った魂になることは自然のリズムにかなっている。このことをもっと大きなリズムで行なうべき時に、今、あなた方はいるのである。 人間の努力には、本筋から外れた努力というものがある。 現代のあなた方の中には、そうした努力によって自分を見失っている人が大勢いる。現代の文明にしがみついている人々もそうである。一度頂点に達した文明が死期へと至るとき、なおもそれにしがみつこうとした人々は、過去の文明でもたくさんいたのだ。一度握った権力を手放さず何とか維持しようとする人々、死期にあることに気づかず、今からそれを追いかけようとする人々は、そうした生き方によって結局、過去においても自らを失うことになった。つまり、その努力そのものが、彼らを宇宙のリズムから引きはがすのである。 宇宙のリズムに合致した努力には必ず、あふれ出るような使命感や躍動感、爽快感を伴うものである。それらが感じられない努力は、いかなる努力であろうとも、宇宙のリズムから外れている。」 「シュメールでは、人間の思いである思念は神から与えられるものと考えられていた。 与えられた思念である以上、それは必ず宇宙のリズムに合致する。つまりそれを受け取るためには、受け取るための魂の空間を用意しなくてはならないというのが、我々神官の思考に対する認識であった。 そのようにして用意された空間に、節目(ふしめ)の時には必要な思念が舞い降りる。 そしてその思念は、次のサイクルに向けて強い創造力を発揮するのである。 自ら作り上げた思念によっても物事は成就することができるが、しかしそれらは長期的には宇宙のリズムを壊すのである。 思念というものは、心が空白でありさえすれば、必ず各人にもっとも必要なものが与えられるようにできている。それは自ら作り出すものではないことをあなた方は知らねばならない。それを受け取るべき「時の中心点」が、「節目の時」である。 宇宙の星々は自らの主張のためにスピンするのではない。 星々は中心の力にうながされ、その力に自らをゆだねることによって行なわれる、スピンという自己完成の悦びに打ち震える。宇宙の存在は、波に自らをゆだねるサーファーのようなものであり、いかにゆだねられるかですべてが決まるのだ。 宇宙は、必要なところに、必要なだけの、必要な配置を与える。 その計算に狂いはない。 しかしながら、個人の意志で何かを目指し、個人的な思いの力でそれを実現しようとする者であふれる時、それはすでに、思念の次元に摩擦(まさつ)と闘争を生み出しているのである。」 与えられる思念などということを考えたこともなかった私は、彼の言葉に、私の人生観を変容させるほどのインパクトを感じていた。 「現代のあなた方の社会は、さまざまな世界的問題を抱えており、あなた方はそれを解決するのは至難の業(しなんのわざ)と思っている。しかしそれはあなた方が過去を捨てようとせず、過去になおもしがみつこうとしていることがそのように見えるのである。」 ☆ ☆ ☆ 三次元世界は消えてなくなる運命にあるので、精神の目がみえるように覚醒することである。精神の目とは、いままで見てこなかった、無視してきた反対側をみることで、現物質文明の反対側を積極的にみることである。
2013年09月13日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ レムリア文明には、線画や色彩画を用いた意思伝達法が存在していました。 彼らには、そうした極めて特異な情報伝達法があったのです。レムリア人の芸術は多くの点で、貴方がたのものよりも格段に優れており、様々な芸術形態が貴方がたには恐らく理解しがたい方法で互いに繋がりあっていたのです。その概念自体が貴方がたには全く未知のもので、説明を試みることは極めて困難です。 例えば、簡単な動物の絵などを想像してください。 貴方がたには、それは単なる動物を描いた絵に見えますが、レムリア人にとっては、絵に表わされた線とは、目に見える1本の線以上のもので、ただの線にみえるものが、ほとんど無数に識別できる特徴によって、特定の音波としても知覚され、自動的に翻訳されたのです。 その絵を見た人は、視覚イメージにとらわれる前に、望めば、音に翻訳することもできました。ですから単なる動物の絵から、一瞬のうちに、その動物の歴史的背景全てが語りつくされ、理解できたのです。 絵を表現する直線や曲線や角度などの全てが、絵画のなかで客観的な役割を持ち、音の高低や長短、音色などの極めて複雑な一連の多様性を表現し、それらは「不可視の言語」と呼ぶに相応しいものでしょう。線と線の間の距離は、音と時間の感覚として翻訳され、線画や彩色画において、色は意思伝達に特有の言語表現として用いられました。 貴方がたにとっても、色彩は、幾分意思伝達の性質を帯びているように、感情の変化を表していました。またレムリア人の絵画は、その大きさによっても独自のメッセージ性を持ち、表現の緻密性を細部において備える一方で、その意図を伝える範囲については、十分な自由を保障していたのです。このような絵画は、言語表現が極めてコンパクトに濃縮されたものに他なりません。 こうしたレムリア人の絵画の技巧は、後に3番目の文明(アトランティス時代の水の文明)の人々によっても発見された結果、彼らによる、その絵画の模倣の片鱗は、今日にも残っています。しかしながら、それらの絵画のなかにあるメッセージを解釈する鍵はもはや完全に失われ、現在、目にするほとんどは、かつての壮大な多次元的な言語的な要素が欠落したものでしかありません。 たとえ彼らの絵画が残っていても、貴方がたには、それを甦らせることはできないでしょう。現存する洞窟の中でも、特にスペインやピレネー山脈地方の特定の地域やアフリカにある、かなり古いものは、実は自然のものではなく、人工的な建造物であることを、ここでお伝えしておきます。 さてレムリア人は巨大な塊を動かすことができた人々でした。 彼らは先に述べたように、「音波」に精通しており、極めて高度な技術で音波をコントロールできたために、実際に「音波」による物質の運搬ができたのです。彼らは最初の地下トンネルを、「音波」の技術を用いて掘削し、本来はほとんど自然の洞窟がなかった地域に、「音波」を用いた方法で、人工の洞窟を築いたのでした。 (シュタイナーの話では、当時の地球の大気は、水を多大に含んだ水蒸気のようで、音波といっても、現代の音波とは厳密にいえば異なるはずである。現代でも水圧で掘削したり、水流で物質を運んだりするように、当時の大気は、水蒸気だったので、水圧や水流を利用できたと考えれば、ピラミッド建造や、宇宙船の推進装置がイメージできるだろう。) その洞窟の壁に描かれた絵画の多くには、高度に言語化された情報が表わされ、それは貴方方の社会で用いられる看板と似たようなもので、その地域に棲む動物などの生物を描写した図鑑でもあったものでした。そうした絵画は、一般的に、貴方がたのいう「歴史」に実在した初期の穴居人類の後の手本とされたのでした。 貴方がたは、何か言葉を聞いたときに、それに関連したイメージが心に生じるのに気づいたことがあると思いますが、レムリア人の場合には、音を聞くと、即反射的に、しかも驚くべき鮮明さで三次元的な制約を越えてイメージが生じ、聞き手のうち深く取り込まれていったのです。 (例えば、日本人は、虫の声などを、主に言語を扱う左脳で感知しているといわれているが、このことから、日本人がレムリアの末裔かもしれない。) つまり「音」による驚くべき識別が行なわれ、「音」には反射的に見事なイメージを創り出す力があったのです。レムリア人には内なる視覚と外なる視覚という区別があり、会話中に意思疎通がより明瞭になるように、目を閉じることはごく自然な行為だったのです。 目を閉じることによって、やりとりした言葉に伴う「音」により、次々に変化する内なるイメージを楽しんだのです。 (日本人の相手の視線をみない会話や、以心伝心などは、このレムリア人の特性を引き継いでいるように思われる。古代では、書き言葉よりも、話し言葉が優遇されていたが、特に日本では、口伝を重要視していた。) レムリア人は学習速度の速い人々でした。 彼らは一つの感覚回路だけでなく、多数の感覚を同時に用いて情報を得ることができました。しかもそうした情報を反射的に教え子たちに伝達できたために、彼らにとって教育は心躍るものでした。 しかし同時に、彼らのそうした資質と知覚機能のゆえに、本来の彼らの弱さが、そこに生み出されてしまうことになりました。 (昔の日本の音読に重要を置く教育にも引き継がれている。) つまりレムリア人は自ら果敢に立ち向かい、破壊行為に対する自らの恐怖心を克服することができませんでした。 そして、この逃避は当然のように、外に向かう特定の積極性をも厳重に阻止するという事態を引き起こしていたのです。そうした領域でのエネルギーの流れが抑制されていたために、実際にレムリア人には力をためる性質だけでなく、力の感覚までもが欠如してしまっていました。 私が言っているのは肉体の力だけではありません。レムリア人のエネルギーは、あまりにも多くが、破壊行為の回避に向けられていたために、通常の積極性さえ、破壊行為以外の分野にもエネルギーを注ぐことができなかったのです。 (この悪しき面は、日本人の無責任性に良く現われている。) 現代人に引き継がれる「破壊的行為」への「恐怖心」の克服 私はレムリア人についてある程度詳しく伝えてきましたが、それは彼らの霊的遺産が貴方がたの一部となっているからです。レムリア文明以外の2つの文明は、多くの点で、レムリア文明以上に成功を収めたと言えますが、レムリア人の文明の背景にあった頑なな意図が極めて儚いものであったことも事実です。 しかしながらレムリア人は、自らの現実における破壊行為に対する問題を解決できませんでしたが、彼らがあれほど強く抱いていた願望は、実は、現代の貴方がたの現実のなかの霊的な領域において、今も鳴り響いているのです。 過去・現在・未来というものは、今現在の、この一瞬に集約されるという時間の真の本質ゆえに、貴方がたの見地から「かつて」存在していたレムリア人は、実は今現在も同じように存在しています。 貴方がたの霊的領域にたびたび「イメージ」の浸透というものがありますが、これは偶然に起きているのではありません。そこには一見極めてかけ離れたように見える存在の間に、ある種の協調関係が生じ、「イメージ」が、その存在間を超えるような効果が与えられたとき、そうした「イメージ」の浸透が起こります。 ですから貴方がたの文明とレムリア人の文明との間には、そのようにしてこれまでにも「イメージ」の浸透が起きているのです。 これまでに様々な古代の宗教が、レムリア人の思想を取り上げてきましたが、その一例が「猛々しい神」の姿でした。レムリア人は、その姿に彼ら自身の力や権力や攻撃性を投影してきました。 彼らは、「攻撃しないだけでは自分たちを守りきれない」という状況下で、この神が自分たちを守ってくれるようにと期待を込めたのでした。彼らの「イメージ」の浸透のなかには、貴方がたにとっては、まだ未開発で現在準備段階にある能力もあり、その中にレムリア人の芸術やコミュニケーションの概念を、貴方がたが初歩的な段階にあっても、見つけることができるでしょう。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月13日
コメント(0)
前回の続き。セスのレムリア人の話を知ると、なんとなく日本人のムラ社会的な性質と似ている気がしてくる。日本には多くの様々な人種、民族が辿りついているそうだが、特に、部落民といわれたきた人たちの性質に近い。 さて、セスのレムリア人の話を続ける。 ☆ ☆ ☆ その後、突然変異による子孫たちのうちのほんの一握りの人々は後に小集団を作り、それに続く世紀には、動物の大群を引き連れて、周辺の地域を移動するようになっていました。彼らと動物たちは相互によく助け合い、半人半獣にまつわる古い伝説の多くは、こうした過去と結びついた記憶が長い年月を経て語り継がれたものです。 彼らは、初の偉大な文明の真の生き残りとして、自分たちの起源を潜在的な記憶として常に心の奥深くに強く留めていました。 彼らは技術面では急成長しましたが、一方で彼らが目指していたことが、創造的潜在能力の建設的な発達というよりはむしろ、暴力破壊行為の回避ばかりであったために、彼らの体験は著しく偏っていたのです。 レムリア人は破壊的行為をあまりにも怖れていたために、身体組織を通して自由に表現することも是認できないところまで追いやられていたのでした。 そのような理由からレムリア人の文明は至極活力に乏しいものでした。 つまり、攻撃性のなさではなく、エネルギーの流れや表現の自由が、肉体レベルにおいて自動的に堰き止められていたからです。地球上に暮らすものであれば、他からの暴力破壊行為は避けられないことを彼らはよく理解していました。 しかし、そのことを個人が独自のやり方で学ぶ権利さえも否定していたために、個人が自分なりに攻撃性を建設的と見なし得る行動へと変容させていく学びが阻まれていたのです。この点に関しては、自由意志が放棄されていたと言えます。 母親の子宮から外に出た子どもに、その後しばらくは病気から身を守る免疫機能が働くように、生後間もない子どもは、霊的な災いからも短期間は守られています。また子どもは自らの過去世での生活や縁(ゆかり)の場所などについての記憶を慰みとして持ち続けています。 同じくレムリア人の場合も、何世代かにわたる潜在意識の奥深くに存在していた、遥かな太古に興隆衰退した自らの文明の記憶に支えられていたのです。しかしそうした記憶も徐々に薄れていき、レムリア人は他からの暴力破壊行為から、自身を守り抜いてきたのですが、恐怖心に関しては同じようなことができなかったのです。 こうしてレムリア人は人類にとってごく日常的な恐怖の数々に翻弄され、破壊を伴う自然の力にさえ物理的な対策を講じることができず、彼らのなかではそうした恐れは益々過大視されていきました。 何かに襲われた場合、彼らには逃げる以外に術はありませんでした。「戦うか、逃げるか」という選択は、レムリア人にはなかったのです。つまり彼らにとって唯一の手段が「逃避」であったのです。 (いまの日本の先送り体質にも似ている。) レムリア人の神の象徴は、力が強くて筋骨隆々とした男性の姿をしており、自らの力で自分たちを守れなかったレムリア人を代わりに守ってくれる存在でした。この神はレムリア人の信仰と並行して発展していき、自らが表現し得なかった資質を、その神に投影したのです。 この神はずっと後になって、「神の選民」と呼ばれる人々を守る天罰の神、復讐の神、古(いにしえ)の神ヤハウエとして登場することになります。 レムリア人にとって、自然に対する恐怖は並々ならぬものがあったために、人間を育んでくれる自然との間に疎外感や隔絶感が生まれました。レムリア人は地球上の破壊力から身を守ることが叶わなかったために、地球を信頼できなかったのです。 レムリア人の並外れた科学文明は、主に地球内部において用いられました。 ですから彼らはそうした意味では最初の穴居人類であったとも言えるのです。彼らは地下都市から地上へ出るときに、そうした洞窟を通り、その洞窟は未開の原始人たちが身を潜める隠れ家としても機能しており、レムリア人の地下都市に至る道であることも少なくなかったのです。 そうした洞窟や通路は、レムリア人の都市が廃墟と化して後遥かな歳月が経ってから、次に述べる未開の土着民によって発見されました。 貴方がたが現在、石器時代と呼んでいる時期に、やはり貴方がたが祖先と見なしている穴居人類たちが住んでいたのは、それらが自然の洞窟ではなく、片側からしか見えない壁から地下通路へと繋がる人工的な洞窟であり、それらの多くはかつてレムリア人が暮らした廃墟だったのです。 穴居人類の手になる石器の中には、そうした洞窟で彼らが見つけた道具を模倣したものであり、模倣から、本質が歪められたものもありました。 レムリア文明は高度集中型の性質を持ち、他を征服したり、領地を極端に拡大したりはしなかったのですが、自らの居留地を設け、そこから地上に現われては土着民たちに関する情報を数世紀にわたって収集し続けました。 居留地として地下に建設された大規模な地下都市は、言うまでもなく見事な設計がなされ、非常に複雑な地下トンネルの連結網によって繋がっていました。レムリア人は審美眼のある人々であったので、壁画には線描画などが施され、地下の深い路地には、彫られた塑像が並べられていました。 エスカレーターに似た様々な設備も利用されており、その中には歩行者を運ぶものや、物資や貨物を運ぶものもありました。彼らの居留地は沢山の地域に散在していましたが、その相当数が現在のスペイン、そしてピレネー山脈(スペインとフランスの国境地帯にある)と呼ばれる地域にありました。 それには幾つか理由があったのですが、その1つはその山岳地帯に住んでいた巨人種と関係がありました。レムリア人に特有の臆病な性質のゆえに、その辺りの居住地に駐留することを歓迎する者がおらず、最初から一時的な任務ということで、中でも飛びぬけて勇敢なレムリア人がその地に赴いたのでした。 『1971年に、新聞に写真入りで次のような記事が掲載された。 それによると「スペインとの国境近くのフランス領ピレネー山脈にある洞窟から、大量の類人のものと見られる頭蓋骨が出土した」というものだった。それらの頭蓋骨は少なくとも20万年前の遺物で、これまでに確認されたことのない人種のものであるという。 現在までに、当時のヨーロッパにはいくつかの未開人種が存在していたらしいという仮説が立てられている。この時期はネアンデルタール人の出現よりも前のことであり、最後から二番目の氷河期の初期にあたる。南フランスにある当の出土地域は、石灰岩盤からの流水によって非常に簡単に侵食されてできたという大洞窟が多いことで知られている。』 洞窟は外界への出入り口としての役割を果たしており、行き止まりと思われる洞窟の場所には、「外側からは不透明で見えないが、内側からは透けて見える」素材を用いて作られていました。こうした洞窟を自然の住処として利用していた未開の人々を、レムリア人は危険をおかすことなく、こうして観察していたのです。 レムリア人はあなた方の耳では捉えられない音も感知できました。レムリア人特有の破壊行為への恐れは、それゆえに身体機能全てを驚嘆に値するほど鋭敏にしていたのです。それほど彼らは常に周囲に敏感でなくてはならず、用心深くなければならなかったのです。 レムリア人は念じることで、一定の振動周波数に沿って思考を投射できました。これは説明が困難な優れた技であり、しかもその投射した思考を特定の地点で、様々な方法で置き換えることができました。 例えば、それらは、ある形状や色彩、あるいは特定の映像として表現できたのです。また彼らの言語は貴方がたには理解できない極めて特異なもので、それは投射のやり方や振動周波数や間の取り方などの変化が、あまりにも緻密で複雑なものであったのです。 実際、レムリア人の意思伝達は彼らの美点の一つでした。 また彼らがそれほどの伝達手段を持つに至ったのは、1つには彼らが非常に破壊行為を怖れていたために、絶えず注意深くある必要性が生み出したものでした。彼らは、大規模な血縁集団をつくって生活していましたが、これも防御の必要から見た当然の成り行きで、そうした理由からも、地球内部に住んでいた人々にはかなり居心地の悪さを感じていました。 彼らは限られた人数ではありましたが、いずれも自分たちの文明の主要地域からはすっかり孤立していたのです。 しかし、そのゆえに彼らのテレパシーの能力は非常に発達し、更に頭上にある地上世界と自分たちとの間の微妙な変化が察知できたのです。地表を通して地上を観察する目的で、数多くのいわゆる覗き穴が設けられていました。 また地上だけでなく、天体や星座を極めて正確に撮影できるカメラも設置していました。レムリア人が地殻や天然ガス層について精通し、完璧な記録を保持していたことは言うまでもなく、地震や断層に関しては常に注意深い警戒と予知を怠りませんでした。 レムリア人は地中で生きる選択をしましたが、彼らはそれをかつて地球を後にした如何なる人種にも劣らず、誇らしく思っていたのです。 アトランティスの時代よりも遥か以前に存在した3つの文明のうち、おそらく貴方がたにとって最も興味深いと思われる2番目の文明について伝えていますが、最初の文明(ポラール-ヒュペルボレアス時代の火の文明)は、総体的に今の貴方がたに近い発展の道を歩み、貴方がたが現在直面しているのと同様な問題に対峙していました。 その文明の大部分は、現在の貴方がたが小アジアと呼ぶ地域に位置していましたが、その文明の人々は、解放的で外の地域を旅して回りました。彼らは、最終的に、先に触れた別の銀河系の惑星へと渡り、その残留組がレムリア文明を築くことになったのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月12日
コメント(0)
以前紹介したセスの話の内容を抜粋紹介しているサイトは、残念ながら、13章で終わってしまっているため、続けて抜粋紹介はしないが、「レムリア人」についてのセスの話がまた違うサイトに載っていたので、「レムリア人」続きで、セスのその第15章の話を抜粋紹介する。 とにかく、いま地球は変革期を迎えているようである。 ☆ ☆ ☆ 地球史の失われた文明「レムリア文明」(1) http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-26de.html 第15章 貴方がたは、原始人類から始まった人類の歴史が現在まで続いていると考えているかもしれませんが、他にも発達した科学文明がかつて幾つも存在していたのです。そのなかには伝説として語り継がれているものもありますが、すっかり忘れ去られているものもあります。それらは貴方がたの見地からすれば、今や「失われた文明」ということになります。 (ポラール-ヒュペルボレアス時代の火の文明、レムリア時代-空気の文明、アトランティス時代-水の文明のことに思われる。ちなみに現代は、土「固体」の文明) 貴方がた人類「種」は、生命を、たった一度だけ与えられている人生とか、あるいは人間の愚かさと攻撃性のゆえに滅亡の憂き目に遭っている運命、と思っているかもしれません。 しかし自らの能力を発達させ、それを発揮していくために多くの転生の機会が与えられていることを知る見地からすれば、人類「種」に定められた進化の道筋は、実は、現在貴方がたに知らされているものだけではないのです。 貴方がたは輪廻転生する存在を完了させねばなりませんが、そのためには潜在力を培って、(霊魂を)発達させねばならず、そのための時間は文字通り必要なだけ与えられます。そして、過去に興った、それらの文明の人々も転生する集団として、様々な重大危機に次々に直面していきました。 その結果、彼らは現在の貴方がたの物質進化のレベルに達していたことも、そのレベルを超えていたこともあり、あるいは自分たちの文明を崩壊させたこともありました。 そうした人々の中には貴方がたの物質的な惑星を離れて、物理的な宇宙の別の場所に移る人々もいました。そうした進化レベルにあった人々は精神的にも霊的にも十分な成熟を遂げており、貴方がたが現時点では未だ、その実用的な知識を持たないエネルギーを用いることができました。 地球は、現在の彼らにとって、伝説上の故郷ということになっています。 彼らは今では、「種」としては、新しい人種に進化しているので、貴方がたのいまの大気の状態下では、もはや物質的に適応できません。それでも、あるレベルの物質的現実に暮らす限り、彼らもまた輪廻転生する存在として存続しています。しかし彼らの中には、突然変異によって転生のサイクルを終えて久しい人々がいます。 転生のサイクルを離れた人々は、概念的な存在へと進化していきます。 物質的存在は同時に概念的存在でもあるので、彼らは物質部分にあたる肉体という形態を放棄したことになります。現在も、この概念的存在のグループは、地球に大きな関心を寄せており、地球にエネルギーや支援を送っています。 今、貴方がたにお伝えできることは、彼らはある意味、地球にいる人類にとって、「神々と見なされてきた存在」である、ということです。 貴方がたの惑星において、彼らは特定の3つの文明に関与しました。 それらはアトランティスの時代よりも遥かに古いものです。そして実際、当時は、地球自体がいまとは少し違う位置にあったのです。それは特に、貴方がたも知っている、地球以外の3つの惑星(恐らく土星、太陽、月)との位置関係において、です。 その時代に地球の両極(北極と南極)が入れ替わったことがあり、それには貴方がたの惑星の歴史のなかでは、3つの長い時代(土星紀、太陽紀、月紀か)が関わっています。 それらの時代の文明は極めて発達した技術をもっており、中でも2番目の文明に関しては科学技術の発展という面においては、実際に貴方がたの文明よりも遥かに進歩していました。その文明では「音波」が極めて効果的に利用されていました。 それは治療だけでなく戦争にも用いられ、移動用の乗り物の原動力として、また物体を動かすことにも「音波」が使われていたのです。「音波」は重いものを大量に運搬する手段でもあったのです。 (エジプトのピラミッドの建造も音波を用いたようである。現代でもクラドニ図などで大まかに確認できる。) この二番目の文明の中心的な場所は、現在のアフリカとオーストラリアがある地域に集まっていました。もっとも、当時は気候だけでなく、地表の陸地の占める位置も現在とは全く異なっていました。 当時の陸地の配置は、地軸の移動によって入れ替わった両極と関係していました。しかし相対的に見て、その文明は、局地集中のローカル型であり、周囲に広げて行くといった拡大は行なわれませんでした。 (日本のムラ的な文化のように、閉鎖的だったようである。) そして、その文明は内側へと成長する性質を持っていました。 一方で、当時、地球上には広範囲に散在する非組織的な未開文明も同時に存在していました。しかし、その二番目の(レムリア)文明は、そうした未開文明をあえて「啓蒙」しようとしなかっただけでなく、総力をあげて、それらの文明が進展していくことを阻もうとしたのでした。こうした特筆すべき状況は長い間続きました。 (なんだか、日本の「出る杭を打つ」ようなムラ社会の習慣と似ている。) この文明を構成していた人々の大半が、それ以前に栄えた文明の非主流派集団でした。というのは、それ以前(ボラール-ヒュペルボレアス時代)の集団に生きた人々のほとんどは、貴方がたの物理的な宇宙ではなく、別次元領域での存続を選択したのですが、二番目の文明(レムリア)を築いた人々は、地上の生活に格別な愛着を持っていたことと、それまで関与していた体験を更に推進させたいと考えたために、別次元に移行できたにも関わらず、地球に残る選択をしたのでした。 地球に残った彼らは、(文明の崩壊後)再び未発達な文明としてゼロから始めることには関心がなく、そこで過去の文明から得ていた知識のほとんどが、彼らの天性となり、そのためその特異集団は、貴方がたの言う「様々な技術発展の過程」を物凄いスピードで達成していきました。 その文明の初期にあった彼らがとりわけ関心を向けていたのが、破壊行為に対する防御機能を生まれながらに備えた人類を創り出すことでした。 なぜなら、彼らの平和願望は、貴方がたのいう「本能」に極めて近いもので、そのため、彼らの身体機能は、脳が強い攻撃性の信号を送っても、肉体はそれに反応を示さぬように変化していたからです。 現在でも特定の個人に、この性質の痕跡を見て取ることができますが、そうした人は、自分が他へ向かって暴力行為と見なされることを行いそうになると、その前に気を失ったり、自分の身体を痛めつけようとさえするのです。 そうした理由で、この文明の人々は彼らの周囲に暮らす未開の土着の人々の文明化を望まず、そのままであることを望んだのです。しかし一方で、彼らは自分たちの集団から人を送り出し、土着の人々と共に生活したり、通婚したりということも試みており、そうすることで自分たちの「種」が持つ「そうした生理機能」を平和的に少しづつ変容させていこうという願望もありました。 彼らは過度に用心深く、大きく拘束された精神と肉体を持つ人格へと変化していくことになりました。そうした状態にあっては、「生物としての身体が生き抜くために」当然必要な事柄があらゆる面において制約されたのです。 彼らの文明の知的進歩はめざましく、その技術はとどまるところを知らず、次々と先端技術が推進されていきました。その一つとして、自分たちの存続のために他の生き物を犠牲にする必要をなくすために、人工食が開発されていました。 彼らはまた同時に、自分たちの環境も損なうことなく、もとのままに維持しようとしました。そして貴方がたが辿っているような蒸気機関車の時代や自動車の時代などの段階を経ることなく、彼らは文明の初期段階から「音波」の技術開発に熱中していました。しかしながら、彼らが用いていたのは、耳では聞くことの出来ない「音」でした。 (恐らく、超音波のこと) この文明は「レムリア」(Lumania)」と呼ばれていましたが、その名称そのものは伝説のなかで語り継がれ、後世でもその名称が使われたことがありました。レムリア人は非常に細身で、肉体的には虚弱な人々でしたが、霊的には聡明か、まったくそうでないか、のどちらかでした。 (両極端といえる。) すでに述べた彼らの先天的制御機能が、あらゆる方面で彼らの身体的エネルギーの流れを妨害していたために、本来極めて高度に発達していたはずのテレパシーの能力にまで影響が及んだ場合もありました。 レムリア人は自分たちの文明圏の周囲にエネルギー場(バリア)を張り巡らせ、他の集団から干渉を受けないように、孤立して生活していました。ですから、彼らが自分たちの技術を用いて、そうした他の未開の集団を攻撃したり、破壊したりすることはあり得ないことでした。 しかしレムリア人のなかにも、自分たちの行なってきた実験的な試みが、必ずしも成功しているとは言えないことに気づく人々が徐々に増えていきました。その結果、かつて物理的な宇宙にある別の惑星体系へ移住して行った、自分たちに先駆けて地球で栄えた文明の人々と合流するために、肉体的な死をきっかけとしてレムリアを去る人々もいました。 そしてレムリア人の幾つかの大集団は、それまで住み慣れた都市を捨て、自分たちを包囲し張り巡らせていたエネルギーの場(バリア)を粉砕し、比較的未開な人々の幾つもの集団に混ざることで、通婚して子孫を残しました。 こうしたレムリア人たちは暴力や破壊行為に耐えられず、未開の人々に対して、戦いを挑まれたときに、同等の戦いの行為を持って応戦できなかったために、彼らはみな早くに殺されて死んでいきました。 (アメリカの先住民などにも、このレムリア文明の傾向がみられる。) そうした中で彼らが自らの子孫に望んでいたことは、未開の人々との異種婚による突然変異の結果、破壊行為に走る傾向を持たないまま、なおかつ自然な反応を阻止してしまうまでの彼ら本来の極端な神経的制御機能が取り除かれることであったのです。 こうしてレムリア人の文明は物質的には滅亡しました。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月12日
コメント(0)
前回の続き。自称マイトリア(マイトレーヤ;弥勒菩薩?)の話は、現代人には信じられない驚愕ものの内容で、恐らく、多くの現代人は怪しいものと思っただろう。その信憑性は大いに疑わしいが、セスの話ともつながるので、続ける。 ☆ ☆ ☆ 二元化した惑星 全惑星が三次元に移行し、この実験の間ガイアと共に過ごすと決めた者全員が三次元の肉体を身につけました。全員が男性か女性かどちらかの身体を持っていました。残念なことに初めに三次元に到達した人々、つまり黒魔術を行って残酷性を学んだ人々は、前々からずっといたので、三次元の現実界での生存規則をとてもよくわかっていました。 このようにして、闇の者達がリーダーとなりました。冷酷な闇の者達が権力を有し、残酷な行為と苦しみが満ち溢れ、人類は滅亡の危機にさらされました。アトランティスの男女の僧が三次元界に来て生きることにしましたが、彼らは自分達だけで閉じこもり、一般の人々のことは気にもかけませんでした。 このようなわけでもっと高次元の光の者達に召喚がかかり、闇の力とバランスをとるために一般の人々と共に身体に入ろうとする者達が求められました。幸いなことに沢山の光の者達がこの召喚に応じたのですが、多くは闇の中に迷い込んでしまいました。しかし、中には強い者がいて光の中にい続けることができました。このようにして光と闇の二元性が始まりました。 光の者達は善を行い、闇の者達は悪を行い、この二元性は拡大してゆきました。光の者達は高振動の光の力を常に取り込むことでしか(3次元で)生き残ることができませんでした。この光の力が後にいう神の愛、プラーナ、愛です。 一方、闇の者達は、他の三次元人間の(悪の)本性から力を取り込みました。闇の者達は徹底して無慈悲なので、冷酷なリーダー達がいると、恐怖に怯える一般の人々は、その苦しめられた身体から(悪の)本性を出しました。 すると闇の者達はその(悪の)本性を自分のものにしようと盗みとったのです。この苦しめられるという経験が、後にいう恐怖なのです。このようにして愛と恐怖は対極する二元性となりました。 惑星の二元化が進むにつれ、振動率はどんどん落ちてゆきました。闇の者達は知っていました。もし惑星の振動を十分に落とせば、光の者達は全て去るか、闇に陥る危険を冒さねばならなくなると。 ですから、彼らは力の限り残酷性を発揮し続けました。他者を支配し、動物を、そして自分達のいる惑星すら支配することをとても気に入っていました。 (この闇の者達が悪魔であり、サンヘドリンであろう。レプタリアンと呼ばれる蛇人である。しかし、元々は、人類でいうところの生物学者、つまり低次元に生物体をつくる科学者だったことがわかる。実験中に、マッドサイエンティストになってしまったわけである。なんだか、フランケンシュタインを彷彿とさせる。) レムリア人の再来 (アトランティス人の科学者に遅れて)レムリア人はようやく三次元の身体を身につけることができるようになり、先住民族となりました。アメリカ先住民、イヌイット、サーメ(ラップランド人)、アボリジニ、マオリ、アフリカや南アフリカの先住民などです。 (日本人も末裔らしい。Y染色体アダムでいうところのY染色体のYAP配列をもつ人がどうもレムリアの末裔のようだ。レムリア人が三次元で最初に男性をつくったことからもわかる。) 今日もなお、レムリア人の子孫は女神・地球(ガイア)に仕え、かつてレムリア文明にあった古い伝統を重んじています。あいにく、これらの先住民社会は終には征服されました。闇の者達の残酷さにはかなわなかったのです。 闇の者達には他者とも惑星とも一体化するなどまったく概念になく、衰えてゆく自分の光と一体化することもありませんでした。 (和の精神に乏しく、我侭な個人主義の傾向をもつ米国人などに伺える性質。実際、戦争ばかりして、物質エネルギーを略奪し、軍事で他国を支配しようとしていることからも明らかである。しかし、連中を憎んでは駄目で、連中は精神的に未熟で、無知で、幼稚なだけである。) レムリア人達は再び待ちました。土地やガイアと繋がりを決して断つことはありませんでした。密かに儀式を行い、彼女を守っていました。レムリア人の中には鯨のような水中動物となった者もいます。 (この話からすれば、捕鯨はよくない。日本人は自ら捕鯨をやめるべきである。) 幸い、レムリア人の魂はガイアと一体化していたので、銀河とも一体化していました。そのため、近い将来、フォトンベルトの力が作用する水瓶座の時代になれば、偉大なる光が到来することを知っていました。 (マヤの文明の2012年はその意味で、マヤ人の多くは高次元世界に戻ったそうだ。だから、物質界ではみえないが、彼らは高次の状態で存在している。) これらのレムリア人の子孫達はガイアがフォトンベルトに近づいて惑星の振動が上昇を始めるまで、ただ耐えなければなりませんでした。その時がくれば闇の力は、光を取り入れるか、衰退してゆく三次元界とともに死滅するか、どちらかしかありません。 レムリア人は誰であろうと罰を下すことはありません。彼らはガイアとの繋がりを通して「全てであるもの(唯一神)」とも繋がることができたからです。 「一つである」という意識の中では他者に罰を与える必要はありません。他者は存在せず、ただ一つである、それだけです。この「一つである」意識がフォトンベルトを満たしていることを、レムリア人は知っていたのです。 (一つである意識は、古代ヘブライ語の、エヘイエ アシェル エヘイエの「我は我あるなるもの」で、「全てを1に帰す」という意味。) さらに、フォトンベルトの光が惑星の二元性を徐々になくしてゆくこともわかっていました。女性的/陰性の電荷と男性的/陽性の電荷の間の電位差(性差)は徐々に小さくなってゆき、最後には男性と女性のバランス(融合)が生まれます。 その時点で全ての二極化した電荷はガイアから取り外されます。つまり、全ての地球上の生命体から二元性がなくなるのです。 (同性愛者が増えているのも、そのせいかもしれない。精神的には両性具有者になるようである。) 二元性のバランスをとる ガイアはホログラムですから、地球上にいる全ての生命体は、ガイアの光を内に持っています。ガイアが地球上の生命体の光を内に持っているのと同じです。人間の身体で男性性と女性性のバランスをとる手掛かりは脳にある「神聖な三角」です。 男性極と女性極の内なる結婚、神聖なる三角形の内なる神秘の結婚が脳内でこの二元性のバランスをとるのです。この二元性の均衡が計られ、中性化した時、全脳思考が起動します。 (フリーメーソンの象徴図「三角形のなかの神秘の目」の真の意味はこのこと。) 松果体と脳下垂体は対極しています。松果体は女性/受容的で、脳下垂体は男性/投影的なのです。ですから、この二つの腺が脳の第三脳室内でそれぞれの性質を分かち合い、混ざり合い、融合すれば、電荷/極性は、地球の器(肉体)の中で徐々に均衡を持ちはじめます。 もちろん、失うものは一つもありません。男性極と女性極のバランスが、完全に充電された電池だとすれば、脳内の男性・女性のバランスは、完全に充電された生物学的コンピューターだと言えます。 男性極と女性極によって生まれていたアンバランスな状態はなくなり、男性と女性は中性となります。右/陰性エレクトロン(電子)と左/陽性プロトンは混ざり合って全脳となります。同時に、第3の眼が開き、真なるビジョンが見えるようになります。そして頭頂からはライトボディ(エーテル)が殻を破って開いてゆきます。蓮の花のようにです! (霊能力が開発される。仏教でいう解脱のこと。) 一方でDNAは中性の、光の多次元存在である記憶を持っています。脳がバランス(男性性と女性性)を取り戻した時、新しい生物コンピューターが起動し、私達は故郷、5次元やもっと上の高次元世界へと戻る旅を始めるのです。 スターシップ地球、マザーシップ、そして何百万もの小さな光の器、ライトボディは壮大な銀河のツアーに出発します。この旅を逃さないでください。この世界からの脱出を約束された旅なのです! ガイア、良い旅を祈っています。 あなたはもう休暇をとって良い頃ですから。 マイトリア 翻訳:Rieko ☆ ☆ ☆ という内容なのだが、要するに、いま人類は目覚めのときにいるということである。
2013年09月12日
コメント(0)
前回の続き。セスのアニマ、アニムスの話は非常に面白い。性がいかなる経緯で生まれたのかについては、これまでのセスの話には出てきていないが、レムリア人についてネット検索していて、面白い話に遭遇したので、セスの話の後に抜粋紹介する。 さて、セスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 更に、両性の間には、身体的理由よりも遥かに奥深い理由からくる先天的な緊張関係が存在します。この緊張関係はアニマから生じる意識の本質に由来するものですが、その継続に関してはアニムスの「積極性」に依拠しています。 私は一方の性が、もう一方に魅了される理由を、全体自己の「内なる叡知(知覚)」に起因するものとして、ある程度まで説明してきました。 全体自己は、自らの一部であり一見正反対に映る性同士を合わせ、一体化し、それらの能力がフルに発揮されるよう尽力することで、真の自己を成就せんと刻苦奮励しているのです。 (あまり良いとはいえない喩えだが、異性にもてようとすることで、自己の能力を開発しようとすることなど。) 輪廻のサイクルの完了時には、全体自己は以前より遥かに進化しています。全体自己はかつて知ることのなかった現実の次元を自ら実感、体験し、なおかつ、そうする間に当然ながら自己を拡大してきたのです。よって、この過程は、全体自己が自らを二つに分割して、また元の状態に戻るなどという単純なものではありません。 懐胎の本質についても、ここで論じるべき多くの事柄があります。しかし再度申しあげますが、輪廻には常にゆとりがあり、あらゆるバリエーションが存在するのです。通例では、貴方がたは転生と転生の狭間に前もって子供を選び、その子供も親として貴方がたを選びます。 もし、貴方が次に男児として誕生することを選択した場合、母親となる人は、貴方が女性として輪廻してきた体験もあわせ、貴方の転生の一部となるように、貴方のなかのアニマという象徴を活性化させる刺激として働きます。 また母親が、子どもを既に過去世において知っていた場合には、誕生に際し、二人が一緒にいた時の体験を、夢で見る機会が多くなります。 そうした夢は意識的な記憶に残らない場合もありますが、多くの場合、二度は自覚され、その後に忘れられてしまうのです。母親が、(過去世で)男性であった転生の体験は、息子との関わりを容易にするのを助けてくれるでしょう。 初産婦のなかには、非常に攻撃的、もしくは神経過敏になる人がいますが、それは男児が、母親のアニムスを活性化させた結果、攻撃的感情が募り、時にそうしたことが起こるのです。 ☆ ☆ ☆ 続けて、レムリア人の話をネットから抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆ Dr. スーザン・キャロル(スザンヌ・リー) Dr. Suzan Carolls Multidimensions.comhttp://www.multidimensions.com/superconscious/super_integration_superconbrain.html レムリア人について:マイトリアからのメッセージ Message from Mytria about Lemurians 親愛なる皆さん、 私はマイトリア。全脳思考について話すために戻りました。脳全体による思考は左脳と右脳のバランスを完璧に保つ認識活動から起こります。うまくお伝えするために、古代の地球の多次元の歴史についてお話します。 地球が現在のような三次元振動(三次元物質界)に落ちる前、いえ実際には四次元に落ちる前、というのが本当ですが、二元性は存在しませんでした。男性と女性、プロトン(陽性)とエレクトロン(負の電子)、受け取ることと投射することは同じものでした。 (ポジトロン-陽電子ではなく、プロトンというのが、どうなのだろう? 陽電子は、電子の影かもしれない。) 男性性と女性性という二元性は原子(アトム)から始まりました。そのため、二元化した初めての人間はアダムと名付けられました。アトランティス崩壊(約一万年前)のずっと前、ガイア(地球霊)がまだ五次元だった頃、今の太平洋に大陸があり、レムリアと呼ばれていました。 レムリアの時代には「一つである」という意識しかありませんでした。二元性はなく、全ての生物は中性でした。面白いことに、男性や女性といった二元化した存在を作る実験をしたのはレムリア人だったのです。 低次元の生命体 レムリア人は低次元の生物を作る実験をしました。感覚を持った生命体が生存できる最も低い次元はどこなのか、ガイアが自ら究明しましょう、と志願したのです。そしてそのガイアの申し出をレムリア人は知っていたのです。彼らは二元性実験を始めるにあたり、まず原子を陽性/プロトン/男性電荷と陰性/エレクトロン/女性電荷に分けました。 彼らは自分達より低次元の人間の男性を作ることにしました。五次元の一体性から社会を分離させるためには男性的な電荷によるダイナミックな行動が不可欠だと考えたのです。何らかの理由から、男性と女性の両方を作りはしませんでした。おそらく、そんな低振動で生きてゆける存在を見つけ出すのも大変だったのでしょう。 レムリア人は簡単に形を変えることができました。ちょうど皆さんが服を着替えるような感覚で、たった一つの形だけを保つ方が異質な概念でした。しかし、集合意識がテレパシーで、こう言ったのです。 「この先、惑星はエネルギーが大幅に落ちてゆく」、と。 迫りくる地殻大変動に備えて可能な限りの解決策をとりましたが、それは惑星のホログラムに「記述されていた」ことで、彼らはそれを変えることはできませんでした。 ですから、彼らは低次元でも存続する地球の形態を作る手助けをしなければならないとわかっていました。可能性があるのは三次元です。しかし、ついには彼らは実験に失敗したと思い込み、研究をアトランティス人達に引き継ぎました。彼らがそうしたのは、ホログラフの記述にこうあったからです。「アトランティス人が巨大地殻変動を起こす」、と。 地下に潜る レムリア人の何人かは地下に潜り、惑星が安定を取り戻せる共鳴振動数まで振動を調整することにしました。この振動数が三次元だったのです。 彼らの上質な身体から三次元の肉体、角ばった肉や骨の土台でできた身体を作り上げるのに何千年もの時間がかかりました。レムリアの科学者たちの発見では、骨には彼らの歴史を宿せる、ということでした。骨には他のどんな三次元の生物体よりも耐久性があったのです。 レムリア人は、最終的に達する身体の骨髄のDNAに、レムリア文明を埋め込むことができると信じ、そう願いました。そうすれば、低次元の短命な生命体が死んでも彼らの歴史は埋葬された骨の中で生き続けます。 西洋の科学者はDNAの90%を役に立たない屑だと恐らく見なすことがレムリア人にはわかっていたので、この部分にレムリア人の情報を隠すことにしました。 (俗にいうイントロン部分のジャンクDNAのことか?) 文明が相当の進歩を遂げるまで、埋葬された祖先の骨を見ようなどとは誰も考えないだろう。願わくば、その文明が十分に進化し、レムリアの偉大なる秘密を破壊のためではなく、創造のためにだけ使うように、彼らはそう考えました。 しかし、彼らの秘密を骨の中に残すのなら、レムリア人の何人かが肉体を持って生き続けなければなりません。それも、再度フォトン・ベルトに入るまでの12000年間ずっと、です。 (2012年後半あたりから、太陽系はフォトンベルトに入っているという噂だが、フォトンベルトという名称がよくないので、錯誤が生じている。恐らく、4次元以上の高次領域のことで、クラウン-王冠領域、もしくは天使の環領域、あるいは、天国の扉、もしくは階段とも呼ぶべきだろう。) 他のレムリア人達は多次元自己(高次元界)に戻り、オーバーソウル(大霊)として、この素晴らしい冒険を共に体験することにしました。何人かは地球を見守り、レムリア人と話ができるレベルまで意識を高めそうな人々を導くことを志願しました。この場合、レムリア人は二元化した人間より1オクターブか2オクターブ上の振動を保つことになります。それが四次元中域から上の振動です。 レムリア人の3つめのグループは地球内の洞窟の奥深くに入り、ガイアの振動にぴったり合うまで振動を徐々に落とすことにしました。彼らこそが最終的には三次元の形態を身につけることになります。最も進化しているレムリア人だけが、この任務のために選ばれました。予言者達にはわかっていたのです、闇の二元性へ落ちてゆくというのは相当困難な任務となることを。 人類の二元化 実際に惑星の振動率が四次元低域に落ち、ついに三次元まで落ちると、生命体は完全に二元化しました。これが後に人類として知られる存在です。アトランティス人は二元性を持つ個体を作る実験に多大な貢献をしました。彼らはスピリット/中性の人間と性別を持つ動物とをかけあわせて、あらゆる低振動の生き物を作り出しました。 (現代でも米国の地下実験施設で行なわれている怪しい動物実験でUMAなどをつくりだすこと。) 最終的にはこれらの実験自体の利己性と残酷性によって振動が下がっていきました。おわかりですね、四次元高域や五次元での「一体化の」状態では、全てが、感情や思考、経験を互いに共有し合っています。そのため、誰かを傷つけたりすれば自分も傷つくのです。 しかし、あるアトランティスの科学者が黒魔術を発見し、その魔法で他者の苦しみから自分を遮断することができたのです。 その魔法とは、自分のアートマ-心臓のなかにある生命の3倍の炎-を消すことで自分の光を一時的に断つという方法です。実に危険なことです。アートマが消えている間に魂が身体から抜け出てしまうからです。しかし、制限時間内に再度アートマを活性させれば魂を身体に戻すことができました。 あいにく、随分と後になってから、彼らがこの魔法を行うたびに彼らの振動が落ちてゆくことがわかりました。ついに彼らの魂は身体を抜け出ました。振動が落ち過ぎたのです。そして彼らは魂の抜けた(空っぽの)地球の器(物質)となったのです。 (恐らく、このことがゾンビ伝説になったのだろう。「チベット永遠の書」でも、偽りの導師が黒魔術でゾンビを操る場面がでてくる。) 魂と身体が統合していないので、彼らは痛みを感じることなく他者に大して何でもできるようになりました。これが残酷性の始まりです。最後には三次元の共鳴まで行き着き、彼らの身体は別ものになっていました。何人かは男性の身体を持ち、投影的・積極的・知的な本質を備えていました。他の人々は女性の身体を持ち、受動的・創造的・感情的な本質を備えていたのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月11日
コメント(0)
前回の続き。前回は、男性のなかの女性性アニマ、女性のなかの男性性アニムスの非常に面白い話だった。人は、男性と女性の役割を果たすことで、創造的になっていく。 重要なのは、男女の役割が創造には不可欠ということで、協調が重要で、見かけ上の差異による対立ではないことである。 逆説的にいうならば、見かけ上の差異からくる対立を乗り越えたところに創造が生まれるといえる。共に異性を求め合うのは、異性が、創造行為に不可欠で、創造行為への憧れ、自我の自由で多様的活動にある。 外に異性を求めるのは実は、自分のなかにもある異性性(アニマ、アニムス)のためでもある。例えば、過去世において異性として生きた体験が、現世の自分のなかに眠っているわけで、現世で異性を求める行為は、過去世の異性で生きた体験を呼び起こすことにつながる。 つまり、異性を求めることは過去世の異性に対して、現世での異性間のバランスをとることになり、安心につながり、また自分のなかの異性(アニマ、アニムス)を創造行為へと駆り立てる働きでもある。 見かけの上では、外に異性を求めているが、実は、自分の内部の異性(アニマ、アニムス)を創造に駆り立てていることになる。外なる結婚の他に、内なる結婚がある。 だから、セスの話から、自分のなかの異性(アニマ、アニムス)を上手く意識することで、例えば、育児や、教育を創造的に行なえることがわかる。母親が男児を育てるには、男性であった過去世、つまりアニムスを意識すればよいことがわかる。しかし、当然だが、度が過ぎると、今度はアニマを刺激してしまうから注意が必要である。 このようにセスの話からすれば、現代人は何も知らずに単なる思いつきの決め事を押し付けて、育児や教育と称していることになる。 さて、セスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ セッション556……1970年10月26日(月曜日)午後9時8分 輪廻転生の体験は、自己の骨格の一部であり、活力ある精神の多次元的な現実の一局面なのです。従って、それらの体験は夢見の状態のみならず、別の活動においても反映されることになります。 現在の自己を、織られた生地(繊維)に喩えますと、「過去」としての輪廻体験はそのなかに織り込まれ、現時点の自己は、人格の特質、活動、あるいは洞察力を、そこから無意識に引き出しているのです。 過去世の記憶はしばしば意識に浮上してきますが、空想や芸術的創造物に投影された形で表面化するために、過去世の記憶として認識されることがないのです。 例えば、歴史作家の著述の多くは、著述した時代の実体験に基づいて書かれています。そうした場合には、現在の自己と無(潜在)意識との間に優れた協調関係(ラポール「融合」)が働き、現世を豊か(創造的)にする手法で、過去世の記憶を浮上させることができるのです。 作家本人が、そうした状況を真に把握するのは、往々にしてほぼ意識的になされます。無(潜在)意識から、意識に上る境界の近傍で、正しい情報の源泉のありかを知るのです。 しばしば夢境においては、こうした輪廻の情報が、同様のドラマ的な人物像などに置き換えられて現われてきます。こうした全ての状況下においても、アニマとアニムスは手に手を携えて、対立ではなく協調し合う性質として働きます。 言うまでもなくアニマとアニムスが1つに統合されたとき、それは精神的にも、物質的にも、創造性の源の象徴となるのです。 (カゴメの唄の「鶴と亀が-1つに-統べった」を思い起こさせる。鶴は男性器、亀は女性器である。つまり、カゴメとは、多次元な自己のことで、自己の中のトリとは、内なる自己の知覚力で、霊能力である。 だから、自己のなかの霊能力は、夜明けと晩の夢見のとき、アニムスの鶴と、アニマの亀が1つになったときに、現われる。だから、「後ろ」の過去世も、「正面」の現世もなく、その霊能力から、輪廻転生の進化の流れが明らかになる。) アニマは、元始の必然的な「霊性」で、瞑想、思いやり、深い内観的性格、創造性の源である「内側への意識の集中」を表わします。 能動性や積極性の欠如を示唆する「受動的」という言葉は、アニマの性質を描写する表現として相応しくありません。まったく事実に反しているからです。 確かにアニマは、作用や影響が自分に及ぶことを受け入れますが、それは極めて強い影響力に同調することで、理解を試みようとする必要性と願望の背景が、その受動行為の真意としてあるのです。 従って、アニマには、平安への願望という受動性と同時に、ぐいぐいと衝き動かされたい、という逆の能動的性質の願望も強く備わっているのです。 アニムスには、人格をして、アニマ的な性質により確実なものとなった創造性の所産を、意気揚々と掲げながら、外へと、すなわち物質的活動へと差し向かわせる積極性をもたらす性質があります。 全体自己は、明らかに、これらアニマの性質とアニムスの性質の総体であると言うことができます。最後の転生の後には、物質的肉体や性的要素を随伴する創造性はもはや必要でなくなります。 言い換えれば、身体的生殖を営む必要がなくなるのです。それを簡潔に表現しますと、全体自己には、男性性も女性性も、精緻なる同調と融合がなされた状態で含まれているということになります。 真の自己とは、そうした両性の融合のなかから生じるものなのです。貴方がたの現在の在り方に伺えるような、一方の性別のグループがもう一方を凌駕しているといった、どちらかの性別だけが重視されている状況下では、そのような自己の融合は不可能でしょう。 貴方がたの(物質)次元で「分割」が採択された理由は少なくありません。それらは人類が如何に進化し、如何に自らの能力を行使していくかを決めた際に、選択した方法が極めて特異であったことに関係しています。この点は、別の章でさらに言及していくつもりです。 男性によってアニマ、あるいは隠れた女性性が、〔当人の〕人間関係に投影されることで、相互理解の深まりに貢献するだけでなく、自分のなかの女性的な存在への精神的な橋渡しになるのはごく自然なことです。 女性によってアニムスが、身内の男性や友人の男性に投影される場合にも同様のことが言えます。アニマとアニムスの現実は、ユングが考えていたものよりもずっと奥が深いのです。 象徴的な言い方をさせていただけば、アニマとアニムスの両方が合わさって、多様な能力、願望、性質を併せ持つ全体自己を表わしているのです。 かような二者はともどもに、個人レベルだけでなく文化レベルにおいても、生得の安定維持要素として、文明の前面に出ることなく無意識のうちに作用しているのです。 アニマとアニムスの真の意味を考慮することなくして、貴方がたが知る人格を理解することはできません。輪廻のパターンは、概して開放的であるため、そのなかには多様性を組み入れる余裕が充分にあります。 全体自己はそれぞれ個としての特質を備えており、輪廻の指針の範疇内であれば、自ら適宜と見なす転生を選ぶことができるのです。それが男性ばかり、あるいは女性ばかりの転生が続くパターンとなる可能性もあります。しかし、そうした選択には障害が生じてくることもあります。 しかしながら、変化に富んだ多彩な転生のなかで、性別に関する進化については、男女両方の転生を経験しなければならないことと、多様な性質の発達、進化がなされなければならないという以外、あれこれ指図するような決まりはありません。 男性としての転生と、女性としての転生をそれぞれ同じ回数だけ経験しなければならないということもありません。例えば、一方の性別の時のほうが、自分にとって遥かに進化が容易であるとわかったため、もう一方の困難な性別を体験する機会がより多く必要になる場合もあります。 一方の性別での転生ばかりが続いている場合には、アニムスとアニマの存在が一層、重要になります。アニムスとアニマのはじめの性質は、輪廻の体系が始まる以前の全体自己からきています。 両者は最初の肉体をまとったときに生まれ、人が、融和した根源的な両性を兼ね備えていることを常に忘れぬよう、内なる知覚の立場から働きかけるのです。 アニマやアニムスといった象徴の背後には、強力で高密度の霊的エネルギーが存在し、こうした象徴によって神の如き資質が伝えられ、投影され得る理由は他にもあります。 男性はアニマに対して憧憬を抱きます。それは、アニマが、その男性の深層に無意識な潜在的資質として横たわるだけでなく、全体自己のなかで解き放たれたいと足掻く、別の資質を提示してくれるからです。 アニマとアニムスの緊張関係は、アニマの創造性をもってアニムスの攻撃性を和らげたり、それを積極性として創造的に用いる方向へと導きます。 さて、アニマとアニムスという象徴と、人類が関与している葛藤には深い相関関係があります。貴方の知る自己の意識、つまり今の貴方に特有の意識とは、ある特定の緊張関係によって喚起された認識への表明であり、全体自己の真の無(潜在)意識から生まれ出た独特の焦点であるのです。 先に述べた「真の無(潜在)意識」とは、字句通り、無なのではありません。それどころか、全くもって言葉では表現し尽くせない程の(多次元的な)意識に満たされており、そこから、意識が泡立ち、溢れ出る位です。 貴方がたが知る人生は、真の無(潜在)意識のなかの、数多くの意識的な領域の1つにすぎません。真の無意識のうちのそれぞれの意識的な局面において、特定の意識による体験を残りの局面から独立し存在させ、その乖離状態を維持させるには、文字通り絶大な力とバランスを保つ必要があるのです。 貴方がたは、つい今しがた無限の可能性から現出したばかりで、積極的資質や、外へと押し広がる性質を多大に必要とする特殊な活動領域のなかの現実で暮らしています。そうした資質は、貴方がたが、元あった無限の可能性に再び引き返してしまうのを阻止するために不可欠なのです。 しかし、貴方がたは己の強さと創造性、また儚くしてなおも力を秘めた自分自身である「個の意識」を、その無限の可能性という無(潜在)意識層から得ているのです。 男女の性別という二分割が採択されたことで、相互に不可欠にして、しかし一見対立するかに映る性向が、乖離させられた上でバランスをとり合う形で存在するようになりました。かような規制を享受する必要があるのは、進化の初期段階にある意識だけです。 従ってアニマとアニムスは、補完的であると同時に、明らかに対極的に不可欠な性向が深く埋め込まれており、それらは人類の意識の泉ともいえる本質を維持するために極めて重要な役割を演じているのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月11日
コメント(0)
前回の続き。セスの話から、古代人は、アホで馬鹿な現代人が考えるよりも遥かに賢かったことがわかる。古代人からみれば、現代人は、逆ダーウィンの進化に沿って、どんどんサル化しているように思えてならないだろう。 現代人はいい気になった自惚れサルである。このままだと、そのうち地球からも見捨てられる運命なのに! 人類よ、早くお目覚めなさい! さてセスの話を ☆ ☆ ☆ 第13章 セッション555……1970年10月21日(水曜日)午後9時30分 ここでわが友に、1つお教えしておきましょう。カイロプラクティク療法は、雨の日を避けるようにしたほうが無難です。 カイロプラクテック療法士も言っていたように、筋肉の反応とかに関わる、身体の治癒作用がその理由です。こうしたものは晴天下のほうが効果的に作用し、術後の身体の立ち直りが早いのです。 このような療法(カイロプラクティク)は、言わずもがな、脊椎を構成する原子構造の操作を伴います。電気的な反作用は、天候や大気の状態によって変わりますが、雨天の場合には、原子構造内に、電気抵抗が増すことになります。 これは物理的にはほとんど知覚できない程度でありますが、反応の遅延が生じてきます。つまり、脊椎の骨が望まれた位置に収まるまでに時間がかかる、ということです。 脊椎が望ましい位置に戻る間も、原子の活動は依然として継続されています。晴天下では反応の遅延が極めて少なく、活性化され、掻き立てられた原子たちが早く安定するのです。 さて、次なるこの章は、「輪廻転生と夢、内なる男性と内なる女性」と題することにいたします。 先にも述べましたが、貴方がた一人一人は、男性としても、女性としても生きることになっています。そうした転生での記憶は原則として顕在意識に上ることはありません。 現在の性別が当人にとって過剰な意味をもたないように、例えば男性の場合は、その内側に女性としての人格も棲んでいます。男性のなかにある、この女性の人格こそ、ユングが称した「アニマ」の真に意味するところなのです。 従って、この男性のなかのアニマとは、当人の内なる自己が、これまでの過去世で体験してきた女性としての存在全てで、また、その霊的記憶に他なりません。内なる自己は、自らのなかに、現在の男性という存在が、女性であった時の知識をも包摂し、生得の女性的特質の全てを直感的に把握しているのです。 (同姓嗜好は、現世よりも、前世に未練があるためと思われる。) よってアニマは、男性である当人が現在の環境や教育などの文化的背景によって如何なる男性的な資質を押しつけられても、それを偏重したり、過大評価することに歯止めをかける、重要な保護手段としての役目を果たしているのです。 (例えば、日本の戦前の押し付け教育に対する反動として、同姓嗜好が増えた面もあるかもしれない。明治維新は霊的にも非常に有害だったようだ。) このアニマは、個人レベルだけでなく、大衆レベルでの啓蒙的な要素としての影響力も持ち合わせています。アニマは、強硬で攻撃的な性向に、円熟した柔軟さを加味することができます。 また、家族内の女性とのコミュニケーションにおいて架け橋の役目をしたり、芸術や言葉による表現においても意思の伝達をより円滑にする、という役目を果たしています。 そうしたことから、男性は女性としての自分をしばしば夢に見ます。その時の現われを見ていくことで、女性であった転生について、かなりの情報を得ることが可能です。「男性」性と「女性」性というのは、明らかに対立ではなく、融合に向かう流れを言うのです。 尼、母親、若き魔女、妻、老賢女などといったような「女性」性の典型は、女性的な資質全体や、男性が経験する多種多様な女性としての転生を、象徴的に表わす「根源的な要素」であるという理由から、(ユングの夢分析でいうところの)「元型(アーキタイプ)」と呼ばれています。 勿論、いま挙げたような元型は、女性によっても経験されますが、その場合はあえて「女性」性に注意を向ける必要はありません。また、女性にも、自らの性別に過度な偏重が及ばぬように、ユングが 「アニムス」と称した、女性のなかに潜む「男性」性が存在します。 アニムスも、少年、司祭、密林の未開人、老賢者といった、個人が体験してきた男性としての転生を表わしています。こうした典型は、現在女性である人格の、男性としての過去世の普遍的かつ象徴的な現出なのです。 よって女性もまた、こうした元型の出現する夢や、自分が男性として登場する夢を学ぶことで、自分の男性としての過去世について多くの情報を得ることができます。 現在の人格は、いわゆるアニマとアニムスを通して、異性であった過去世での存在に由来する知識や直観、更に背後の情報をも引き出して利用できます。 例えば、女性という資質を極端なまでに、過度に表現することに走る人の場合、夢の体験を通して、内なるアニマとアニムスが、迸るばかりの叡知を携えて、その女性を助けに参じます。この叡知によって、行き過ぎた女性資質を相殺するような男性反応が生み出されることなります。 こうした実例は、理由を問わず、また例えば、男性としての資質を過大に評価する人にも当てはまり、その男性の内なる女性、あるいはアニマが、当人のそうした偏重を補正する行為を喚起し、攻撃性を相殺するような直観力の高まりや創造的要素を呼び入れます。 このような働きは、個人レベルであれ、全体レベルであれ、そのバランスのなかで結果として起こってくることが望ましく、そのままにしておいても、自ずと攻撃性が、創造的に使われるところに落ち着くのが理想です。まことにそうあるべきで、そうあることは可能なのです。 (俗に日本の巷でいわれる「草食系」というのは、アニマ、アニムスが、攻撃性を創造性に変えていることが考えられる。例えば、過去生において、性が要因となって、異性から暴力的な行為を受けた体験が残っていれば、その体験を意識に浮上させることで、異性に対する暴力性を抑制できるからである。) さて……アニムスとアニマは、かなり高密度な霊的なエネルギーであることは言うまでもありません。しかし、その霊的エネルギーの充填の発端や、内側から迸る魅力は、異性的な資質が擬人化されたことで、極めて筋の通った内なる「自己の同一化」がなされた結果なのです。 しかし、アニムスとアニマは精神のなかに現実をもつだけでなく、「内なる自己(知覚)」によって遺伝的にコード化されたデータ―過去世での霊的な出来事についての遺伝的な記憶―に埋め込まれています。従って、それらは肉体を構成する細胞一つ一つの遺伝情報のなかに記録され、存在しているのです。 それぞれの「内なる自己(知覚)」は、新たに肉体を採択する際、過去世で関わってきた物質的形態の記憶を、その肉体と遺伝的形質全体に組み込みます。ともあれ、現世での性質が優勢で、過去世でのそれを覆い隠してしまうのですが、なかには潜在的に存在していたり、行動様式に組み込まれるものもあります。 従って、現世の物理的な行動様式とは、自己の過去世での物質的形態と、その長所短所の遺伝的記憶に他ならないのです。 できるだけ簡潔に説明させていただきますが、今の貴方がたの肉体には目には見えない幾つかの層があります。 勿論、一番表面にある層が、貴方がたが目にしている現世での身体的形態を表わしているのですが、そのなかに織り込まれるように、不可視、または潜在的な層である「陰影」が存在しているのです。幾重にもなる、こうした層は、当人の過去世での肉体像を表わしています。 (エーテル体のことだろう。) 過去の肉体像は、いわば休止状態にあり、現世の肉体の原子構造と電磁的な繋がりを保っています。貴方がたの思考様式に応じて申しあげますと、そうした肉体像は意識の焦点から外れていることになります。 しかし、過去の肉体像も貴方がたの霊的遺産の一部なのです。貴方がたは頻繁に、過去世での肉体的長所を、現在の短所を補う助けとして呼び起こすことができます。 従って肉体は、現世における、これまでの状態の生物的な記憶だけでなく、過去の転生の人格が形成した、それぞれの肉体の物理的な記憶をも、消失し得ぬものとして携えているのです。 アニマとアニムスは、こうした内なる肉体像と密接に結び付いています。これらの肉体像は霊的にも極めて高密度で、夢に現われることもあります。肉体像は、貴方がたのなかで、現世での肉体が偏重されたとき、その偏りが大きくなりすぎるのを防ぐため、偏りを是正し、注意を喚起するように働くのです。 (これが痛みを感じる仕組みのようである。だから痛みを無視すると、偏りが益々増えてしまう。偏りが大きくなると、転生間につながりがなくなり、輪廻のサイクルに支障をきたし、転生の意味がなくなるので、肉体を離れる決断の死を迎えることになる。) 当然そうした精神作用は、男性にも女性にも等しく起こります。貴方がたは病気になったとき、夢境においては文句なしの健康体の別人として存在していたという経験を、少なからずお持ちではないでしょうか。 しばしばそうした夢体験は、治癒力を持ち合わせています。これは、現世での貴方より「年齢と経験を重ねた」別の転生での肉体が援助を申し出ているのです。その健康体の記憶を通じて、そこから力を引き出すことができます。 (睡眠が治癒には不可欠。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月11日
コメント(0)
前回の続き。前回のセスの話は特に重要なことを含んでいたので、再掲する。 貴方がたに浸透している文脈(基本認識)では、種としての人類は、それ以外の自然や意識とは、かけ離れた存在である、と見なしているようです。 貴方がたは、種として生き延びることが最たる重大な関心事です。自分たち以外の種に対しては、自分たちに如何に役に立つか、あるいは役に立たないか、といった観点のみから見ています。 そして、全ての意識が極めて神聖で尊厳に値する、という真実についても、またそうした全ての意識のなかで、他との関係は如何にあるべきか、についても、真の概念を持ち合わせていません。貴方がたは、その大いなる真実についての理解を失いつつあるのです。 種としての人類は、個々の人間の価値を学ばねばなりません。人間は、自分たちが他の種にどれだけ依存しているか、をようやく学び始めたところで、物質的現実という全体の枠組みのなかで、自分たちが担っている役割に、やっと気づきはじめたところなのです。 さて、なかには人々に、そうした理解を促すためだけに、今回再び生まれてきている人もいます。それらの人は、問題点や危機的状況について、人々の注意を促す役目を果たしています。というのも、貴方がたがいま自らの生き方を変えれば、まだ間に合うからです。 貴方がたは次に述べる2つの重大問題に取り組んでいますが、その両方が、人間一人一人が神聖であり、尊厳に値する、という事実と、個人の人間関係と、物質として現われた他全ての意識との関係を包摂しています。 遅かれ早かれ、戦争の問題は、「他人を殺害すれば、実際、最終的に自分で自分の首を絞めることになる」ということを教えてくれるでしょう。 また、世界的な人口過剰の問題は、「自分たちの棲む環境に、愛と思いやりをもって関わらない場合、環境はもはや、そうする価値なし、と見なして、人類存続の支援を断念する」ことを教えてくれるでしょう。 ご承知のように、貴方がたは、この惑星を破壊したり、動物や鳥や草花や穀物を絶滅させる意図をお持ちではありませんが、人類が、それらの生命にとって相応しくない存在なのであれば、それらの生命が、逆に人類を見限ることになるでしょう。 この最後の話は人類には驚愕であろう! 生命を殺すものは、殺される生命に見限られる。 さて、セスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 転生のなかには、全般的な人間関係のパターンが存在します。だからと言って、お互い慣れ親しんだごく限られた数の友人や知り合いの間で、単なる井手達(風貌)を変えただけの役者のように、同じ顔ぶれが、服を取り替え、様々な役柄を演じながら行脚しているわけではありません。 人はあらゆる転生にあって、特定の目的のもとに集合したり離れたりします。そして異なる時間と空間のもとで再会を選んだり、選ばなかったりします。しかし、繰り返し申しあげますが、そこには厳密な決まりなどありません。 家族のなかには、肉体上の祖先が文字通り、そのまま輪廻して戻ってくる場合もあります。 (日本の中世の仏教信仰のなかでは、家さえ残せば、またこの世に戻ってこれる、という輪廻信仰があり、家系のうちに家督を継がなかった者を坊主にする風習が残り、後々、御家大事信仰につながっている。現代の形骸化した会社組織信仰などもこの信仰を源流としているようだ。) しかし、こうした例は決して一般的ではありません。いずれにしても、深みのある関係はどのようにしても存続していくものですし、そうでない関係はただ消えゆくことになります。 ここで明らかにしておきたいのは「進化する機会や知識を得る機会は、今世の今この瞬間にある」ということです。そして、「そのことは今後もずっと変わることがない」ということです。 もし現時点で、日々の進化の機会を無視しているなら、死後や中間的段階(選択の場)においては、なかば強いるようにして、更に大きな能力を受け入れ、使っていくことを、貴方がたに勧められる存在はいなくなります。 死後の体験には教師の存在がありますが、貴方がたの今の存在においても教師は存在しているのです。 過去世での繋がりが非常に強く愛情深かった家族の誰かが、特定の転生で再び家族となる場合もありますが、逆の憎しみ深かった場合でも、再び、家族となることもあります。 後者は、過去世で憎しみ合っていた同士が、家族という密接な関係を選んで再び出会うというものです。そこではお互いがより深く理解し合うことを学び、以前とは異なった背景の下で問題を解決する、という共通の目的に取り組んでいくのです。 それぞれの世代は、世代ごとに共通した目標をもっています。それは「内なる叡知」の完全化であり、その叡知をできるだけ忠実に表出し、外界に顕在化させることです。 ご存知のように、何世紀にもわたり変化し続けてきた物質的光景は、いみじくも物質界の多岐にわたる時代のなかを生きた人々の心をよぎっていった内なるイメージの投影像、つまり現われ、なのです。 さて、自身の過去世を知ることは必ずしも必要ではないのですが、知ることによって、今世での誕生の際の環境を、自分で選択したことが理解できるのであれば、それは進化の一助となるかもしれません。 現在の生活を注意深く見ていけば、貴方が如何なる探究課題を設定して生まれてきたかがわかります。これは決して簡単な作業ではありませんが、答えは貴方がた一人一人が理解できる範疇にあります。 もし、自分自身を憎しみから解き放つことができたなら、憎しみを伴う人間関係からは自動的に解放され、将来的にも憎しみが根底にあるような関係や体験を引き寄せることはないでしょう。 自らの輪廻の背景を知っていても、現在の自己の真の本質を知らなければ、何の役にも立ちません。「これは自分が過去世で仕出かした何事かが原因で、こうなってしまったのだろう」と言って、現状を説明したり正当化したりすることはできません。 なぜなら、現在の貴方がたには否定的な影響を変えていく力があるからです。何らかの理由から、貴方が自分の人生に否定的な要素を持ち込んでいる可能性は否めません。しかし、理由づけというのは常に理解の深さと関係し、そうした否定的要素も理解を深めることで取り除くことができるのです。 「貧しい人は、貧困を選んで生まれてきたから貧乏なのであって、別に私が手を差し伸べる必要はない」といった態度は、次回の転生において、いともたやすく貧困を自分に引き寄せることになるでしょう。 貴方がたは輪廻のサイクルを終えた時点で、全員が同じ進化レベルを達成するわけではありません。なかには人間の体験を超える位の資質をもつに至る人もいます。物質的存在であること自体が、あらゆる個人に対して、それぞれ違う影響を及ぼすのです。 物質的存在としての自己を、この上ない進化と表現のための媒体として利用できる人もいます。そうした人は適応力に長け、物質的な方法で自らを表現したり、「内なる感覚(知覚)」に忠実に物質化するコツを心得ています。 その一方で、物質的表現が得意とは言えない人もいます。しかしその同じ人物が、別の次元の現実においては頭角を現わす場合もあるのです。 また、物質的現実で盛んな発展を見せる「頑健な魂」があります。そうした魂は、それ以外の非物質領域での活動には、なかなか順応できないことがあります。しかし、それら全ての領域において、内奥の霊的、もしくは感情的な情報が無効になることはありません。 過去世で極めて密接な関係にあった友人のなかで、物質界に適応できる立場にある人は、貴方がたが夢見の状態にある時にしばしば意思の疎通を図ってきます。お互いの関係はそのようにして続いているのですが、貴方がたはそのことを顕在意識の上では気づいていないのです。 過去世で知っていた人が物質界に生を受けるとき、貴方がたは、潜在意識のなかでは、そのことに気づいています。貴方が夢境で出会う見知らぬ人は、往々にして、現世に転生している人である場合は勿論、過去世で同世代として知り合っていたという場合もあります。 なかには通り過ぎてゆく関係、つまり、接触は起こるが維持されず、即座に放棄されるような関係もあります。例えば如何なる転生での友人でも、奥深い永続的な絆をもつ人である場合もあれば、そうでない場合もあります。 また、過去世から相手に対して非常に曖昧な感覚を持ち越してきたため、改めて、その相手と結婚には踏み切るものの、愛を基盤とした婚姻関係には発展しない場合もあります。しかし、そうした関係にも愛が芽生えることはあるのです。 ついでに申しあげますが、双子というのは、ほとんど例外なく極めて深遠で永続的な霊的関係を伴って生まれてきます。時として、そうした関係は強靭であるにとどまらず、一種の強迫観念にも似た性格を帯びることさえあります。これは一卵性で瓜二つの双子について言えることです。 輪廻の目的もまた、極めて多岐にわたります。ここで強調しておきたいのは、輪廻転生とは多次元的人格によって使われる道具である、ということです。個々の人格が、独自のやり方で、これを使います。 女性としての存在を好む場合もあれば、男性としての存在に多大な愛着をもつという場合もあります。女性の体験も男性の体験も、一度は通らねばならぬ要素なのですが、その他の要素や活動についても壮大な選択枠が広がっているのです。人格にも、進化の過程において、得意な分野とそうでない分野があるようです。 運命がもともと定まっているなどということはありません。目標や状況は、全て選択によって決まるものだからです。 1つの問題の解決が、幾つかの転生を経験する間に延期されることもあり得ますし、自分にとって、最も手強い問題を、とにかく解決することが先決とばかり、かなり困難な体験や極端な環境を選ぶ場合もあり得ます。 穏やかな進展を好む人は、自分の問題を1回の転生において1つずつ解決していきます。息抜きの転生を選択することも可能で、そうした転生には極めて高い治癒効果が望めます。 例えば、挑戦すべき事項が沢山集積した転生への準備として、文句のつけようがないほど充実し、問題の少ない転生が選択されたり、あるいは困難を極めた転生を完了した自己への褒美として、そのような充実し、問題の少ない転生を選択することもあります。 物質的媒体を徹底して楽しみ、それでいて、それに執着することのない人は、見事にやりくりしている人であると言えましょう。輪廻転生の「法則」は、個々の人格によって自己に合わせて調節できるのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月10日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 常に何らかのグループの一員として生まれることを選択する人もいます。すなわち、過去世における同世代と一緒に生まれ変わることを選ぶのです。一方、そのような試みは意に介さず、他者に依存しない立場で地上に戻ってくる人もいます。 集団に属するのか、他者に依存しないかは、心理的感覚に左右されます。前者のような立場にあるほうが、一層、自信と余裕をもって、周囲と共にうまく物事に取り組める人もいるのです。 「幼稚園が一緒だった友達グループと高校までずっと一緒」というケースを考えてみてください。そうした場合は、輪廻の状況下では、いつも仲間たちと一緒に生まれ変わることを選択するでしょう。 (日本人に多そうな選択) しかしまた一人で、次々と学校を変わるなど単独行動を試みる人もいます。そうした人は相対的に申しあげて、より大きな自由を手にし、より多くの挑戦に臨むことになりますが、グループ好きの人が選択するような、危険の少ない枠組みのなかで安穏と暮らすことには縁がありません。 (米国人に多そうな選択) いずれの道を選ぶにしても、決めるのは貴方です。選択すべき項目は、次に続く転生とその環境や時期だけでなく、それぞれの転生の全般的な性質や、それらの転生を如何に完了させるか、といったことにまで及びます。 従って、「内なる自己(知覚)」の数だけ転生のプランはあるのです。そして「内なる自己(知覚)」は、それぞれ独特のプランを選ぶのです。 第一に、貴方がたに浸透している文脈では、種としての人類は、それ以外の自然や意識とは、かけ離れた存在である、と見なしているようです。 貴方がたは、種として生き延びることが最たる重大な関心事です。自分たち以外の種に対しては、自分たちに如何に役に立つか、あるいは役に立たないか、といった観点のみから見ています。 そして、全ての意識が極めて神聖で尊厳に値する、という真実についても、またそうした全ての意識のなかで、他との関係は如何にあるべきか、についても、真の概念を持ち合わせていません。貴方がたは、その大いなる真実についての理解を失いつつあるのです。 現在の状況において、貴方がたは、その結果がどうなろうと、とにかく自分たちの種の存続を最優先する、という考え方を推進してきました。つまり、自分たちに都合よく周囲の環境を変えてしまうことが重要で、そうした考え方は、霊的真実を疎かにする方向へと貴方がたを仕向けることになります。 現在貴方がたは、物質的現実において、その結果を目の当たりにしています。いま地上に戻ってきている人たちは、そのような様々な理由から、戻ってきています。かつて、先に述べたような姿勢をとり続けていたことが原因で、物質生活に再び引き寄せられた人もいます。 そうした人は、過去世において自分たち以外の種の権利への配慮などなしに、貴方がたの言葉で言う物質性を突き詰めようとした人です。彼らは己の欲望ゆえに、余儀なく、戻ってきたのです。 種としての人類は、個々の人間の価値を学ばねばなりません。人間は、自分たちが他の種にどれだけ依存しているか、をようやく学び始めたところで、物質的現実という全体の枠組みのなかで、自分たちが担っている役割に、やっと気づきはじめたところなのです。 さて、なかには人々に、そうした理解を促すためだけに、今回再び生まれてきている人もいます。それらの人は、問題点や危機的状況について、人々の注意を促す役目を果たしています。というのも、貴方がたがいま、自らの生き方を変えれば、まだ間に合うからです。 貴方がたは次に述べる2つの重大問題に取り組んでいますが、その両方が、人間一人一人が神聖であり、尊厳に値する、という事実と、個人の人間関係と、物質として現われた他全ての意識との関係を包摂しています。 遅かれ早かれ、戦争の問題は、「他人を殺害すれば、実際、最終的に自分で自分の首を絞めることになる」ということを教えてくれるでしょう。 また、世界的な人口過剰の問題は、「自分たちの棲む環境に、愛と思いやりをもって関わらない場合、環境はもはや、そうする価値なし、と見なして、人類存続の支援を断念する」ことを教えてくれるでしょう。 ご承知のように、貴方がたは、この惑星を破壊したり、動物や鳥や草花や穀物を絶滅させる意図をお持ちではありませんが、人類が、それらの生命にとって相応しくない存在なのであれば、それらの生命が、逆に人類を見限ることになるでしょう。 貴方がたは自分たちの視座のなかで、自ら問題を設定しています。しかしながら、貴方がたが自然の枠組みのなかで演じている役柄は、自然破壊寸前の状況を実際目の当たりにする時まで理解できないでしょう。 (天変地異のこと) 意識を破壊することは誰にもできません。一枚の葉の意識でさえ、絶やすことはできないのです。しかし貴方がたの文脈においては、もし自然破壊の問題が解決しなければ、そうした自然の意識は貴方がた自身の体験から失われていくでしょう。 しかし、こうした危機はある種のセラピー(治療)でもあるのです。これは貴方がたにとって必要なため、自らが設定した学びである、という見方もできます。そのセラピーは、まさにいま、種としての人類が別の物質的現実へと移行する前に必要とされているのです。 貴方がたは別世界に旅立つ前に、自らの背景によって、自身の課題を学ばねばなりません。貴方がたは、そのために、こうした危機を自分たちにもたらしているのであり、きっとそこから学ばれることでしょう。 セッション551……1970年9月30日(水曜日)午後9時17分 貴方がたはそれぞれの転生において、自らの内的状況を学ぶために、外的環境を精査することが求められています。なぜなら、外側というのは内側を映し出したものであるからです。 貴方がたは、自らの「内なる自己(知覚)」の本質を理解した上で、それを外向きに顕在化することが求められています。そうする過程で、「内なる自己(知覚)」が自らの本質と能力を一層はっきりと自覚するようになれば、貴方の外的環境も好い方向に変化していくはずです。 というのであれば、貴方は理論的には転生を経るごとに強く健康で、豊かで聡明になっていくはずですが、数多くの理由ゆえに、輪廻のシステムは、そのようには働きません。 先にも述べましたように、多くの人が異なる種類の体験を採択し、特定分野についての進化に意識を集中させます。そのとき意識を向けられていない分野が、幾つもの転生の間で放置されたままである場合もあるのです。 複数の意識が全く同じ体験をしたり、体験に同一の解釈を与えたりすることはなく、個々の意識は、輪廻の機会を独自の方法で利用します。例えば、性別を変えることも当然起こります。それぞれの(連続した)転生で、いつも交互に性別を変えていく存在もいます。 幾つかの転生で、女性として生きた後、男性としてまた幾つかの転生を生きる場合もありますし、その逆もあります。しかし輪廻という枠組み全体を見たとき、個人が両方の性別を経験することが不可欠です。 一方の性別だけを続けている間は、能力の進歩は望めません。父親としての体験も母親としての体験も、どちらも必要不可欠です。 貴方の知る人生や、その日毎の体験を、自分で創造していることに気づくまでになってはじめて、自らの思考パターンや精神パターンを変えたりした結果、毎日の生活環境を変えることが可能になるのです。 こうした気づきは「内なる自己(知覚)」の潜在性についての深い直観と、共に手を携えて進むべきなのです。この2つの要素をもってすれば、過去世で生じた、どんな困難な問題でも、貴方がたを、そこから解き放つことができます。 貴方という存在の全体は、こうした気づきとともに変貌を遂げ始め、精神、および霊的な成長が加速され、進化が促されるのです。 貴方がたの現行の人間関係、姿勢、体験には、「内なる論理(知覚)」が存在します。 例えば、ある転生において男性であった貴方が女性を毛嫌いしていたとします。すると次の転生では、ほぼ間違いなく女性として生まれることを選択するようになります。 おわかりでしょうか、こうするよりほか、男性である貴方が「女性であることを体験できる方法はないのです。女性として生まれた貴方は、かつて男性であった時に女性に示していた態度に、今度は自分自身が直面することになるのです。 また、もし貴方が病人への思いやりを欠いていた場合、次の転生では深刻な病に罹患して生まれてくる場合があります。かつて自分が病人に対して向けていた態度を、今度は人から向けられる、という立場を自ら選んで体験するのです。 病人という在り方は、大抵、それ以外にも問題を孕んでいる場合が多いようです。全ての存在は、1つの理由から採択されることはなく、また同時に沢山の精神的体験に貢献するようです。 例えば慢性疾患の場合、健康体での日常生活では無視しがちな「内奥の能力」を使うことができるように、という修行の一形態として生じることがあります。表面的には幸福で申し分のない人生というのは、一見素晴らしくても根源的な深みを伴わず、人格の進化には結び付きにくい場合もあります。 真の幸せとは、(魂の)深い部分で充足している生き方を言い、発想がそのまま自由自在に活かされる叡知に通じ、精神的な喜びがあります。 だからといって、私は、苦痛や難儀を経ることが必ず精神的成就に繋がるとか、全ての病気が、そうした理由から採択されたり、受容されたりしている、と申しあげているのではありません。全ては千差万別なのです。 病気が、無知や知的な怠慢という性癖の結果として具現化される場合もあります。なかにはまた別の特質のために、己に対して強硬な手段をとる必要があり、病気という手段を採択する可能性もあります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月10日
コメント(0)
前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ 貴方がたは多くの理由があって、現在の家族のもとに生まれています。死を迎えられた後、家族以上に強い感情の繋がりを、過去世(便宜上)で一緒だった人との間に見つける可能性もあります。例えば、もし貴方が結婚されていて、相手と真の信頼関係を築くことができなくても、ひょっとすると過去世での夫、あるいは妻が待っているかもしれません。 軍隊、教会、狩猟グループなどといった様々な集団のメンバーが、別の転生で家族関係に収まることで、別の角度から過去の問題を取り扱う場合があります。家族は、霊的な活動のゲシュタルト(集団)と見る必要があります。家族には本質的な類似点があるのですが、その集団のなかで、それに気づいているわけではありません。 家族には潜在意識レベルでの目的がありますが、意識されないまま目指す場合もあるようです。そういった集団は予め、いわば物質界への転生と転生の狭間で結成されます。大概は4、5人がある探究課題を掲げ、それぞれのメンバーに役柄を割り振ります。このようにして物質界での各人の役割が成立するのです。 「内なる自己(知覚)」は、こうした家族というゲシュタルト(集団)の隠れた仕組みを常に認識しています。感情的な絆や束縛を通じて密接な関係を営んできた人は、しばしば物質界の人間関係において、深く密接な関係か、逆に浅くて放縦な関係かの、いずれか極端な関係を好んで選び、多くの転生にわたって、その状態を続けます。 しかし、そうした場合は、輪廻の「家族」内での成長しか望めないため、新しい関係の形が奨励されます。このような家族の多くが、内なるグループ化の実際的な表現として、物質界で組織を形づくっています。 先に、私は頑固な「善悪、あるいは正誤の概念」について述べましたが、この問題を回避する方法は1つしかありません。それは、真の愛と思いやりのみが、善の本質を理解する方向へ導いてくれる、ということです。そのような資質のみが、歪(ゆが)みをもたらす誤った悪の概念の消滅に寄与できるのです。 真実とは決して複雑なものではありません。貴方が悪の概念の存在を信じている限り、貴方の体系では、それが現実であり続け、具現化した悪を目の当たりにすることになります。そうしたわけで、悪が存在するという確信は極めて正当に感じるのです。 もし、こうした「善悪の概念」を、輪廻を通じて後に続く世代にまで持ち込むことになれば、貴方は悪という現実の増幅に加担することになります。 私が申しあげたいことを、より明確に説明させていただきましょう。第一に、愛は必然的に自由を包摂しています。もしある人が、愛しているからといって、貴方の自由を束縛した場合、貴方はしばしばその人を憎むようになります。 しかし、愛しているからというその言葉ゆえに、貴方は心情的に自分の気持ちの正当性に自信がもてません。こうした感情のもつれ自体が、様々な転生でのもつれへと繋がっていくのです。 もし、貴方がたが悪を憎むなら、その悪という言葉から自分がどのような概念を連想するかに注意してください。憎しみは、貴方がたを制限し、知覚をどんどん狭めます。まさに憎しみは、貴方がたの全体験に影を落とす、黒塗りのガラスのようなものです。 すると憎悪の対象がいよいよ増えていくばかりで、貴方自身の体験にも憎むべき要素を次々呼び入れてしまうことになります。 さて……例えば、かりに貴方がご両親のどちらかを憎んでいるとしましょう。すると、どこの親に対しても憎しみを向けることに抵抗がなくなってしまいます。なぜなら、貴方を最初に傷つけた自分の親を、誰かの親である人々に投影し、彼らのなかに自分の親の投影を見ることになるからです。 その後の転生においても再び家族の一員として生まれ、同様な感情を持ち合わせている自分に気づく可能性もあります。問題は、その感情であって、その感情を喚起させた原因であるかのように見える家族の誰かではないのです。 また、貴方が病気に対して憎しみを抱いている場合、後の転生でも病気に難儀することがあります。なぜなら、貴方によって、その憎しみが引き寄せられるからです。 もし、貴方がたが憎む代わりに……、貴方がたが愛、健康、そして「ただあること」の感覚を拡張すれば、今世においても他の転生においても、そうした資質を自らに引き寄せることになります。 繰り返しますが、それは「貴方が、意識の焦点を合わせるものが、貴方の体験になる」からです。戦争を憎む世代によって、平和がもたらされることはありません。平和を愛する世代によって、平和はもたらされるのです。 (この言葉は、チベット永遠の書の真の隠者と同じものである。) 憎しみの対象が、特定の人物であれ、主義主張であれ、憎しみを抱いたまま死ぬ、ということは、それが如何なる理由であっても極めて残念なことです。貴方がたがより有意義な形で自らの体験を創り上げ、そして世界を変えていく機会は全て、現在の貴方自身のなかに開かれているのです。 次の転生では、現在の姿勢やものの感じ方を踏襲した人生を歩むことになります。それでも、現時点であくまでも憎しみを抱き続けることを譲らなければ、まず間違いなく別の転生でもそうすることでしょう。しかしその一方で、貴方がこれまでに獲得してきた真実の閃き、直感、愛、喜び、創造性、そして達成感といったものもまた、その転生において存続します。 既におわかりのように、真実の閃き、直感、愛、喜び、創造性、そして達成感といったものこそが、唯一真の現実であり、唯一真の存在の「拠り所」なのです。ルバート(霊媒)が前に話していたように、嵐をいまいましく思い、嵐に向かって拳を振り上げて暴言を吐くなどということは、馬鹿げたこととしか言いようがありません。 もし、子供やどこかの先住民がそんな行為をしているのを見たら、貴方がたはきっと笑い出すことでしょう。嵐を擬人化し魔物のように見なすことは無益です。その破壊にみえる要素に貴方の意識を集めることになるからです。 形を変化させることは破壊行為ではありません。爆発的な嵐のエネルギーは、極めて創造的なエネルギーなのです。意識は消滅させられることはありません。嵐は創造の一部なのです。貴方がたは嵐を自分なりの見方で解釈しています。ある人は嵐のなかに、終わりなき創造の循環を感じ、またある人は嵐を悪魔の仕業と感じて擬人化します。 貴方がたは全ての転生を通して、自分が見ている現実を自分なりに解釈します。そして、そのやり方が貴方がたに影響を与え、更にはそれ以外の人にも影響を及ぼすことになります。実際に憎しみを抱いている人は、即座にそういう自分を設定します。つまりその人は、自分の制約された理解の程度に応じて、現実の本質について早まった判断を下してしまうのです。 私はこの輪廻を扱う章において、憎しみの問題を特に強調して論じておりますが、それは憎しみがもたらす結果が、この上なく悲惨で、壊滅的であり得るからです。憎しみを抱く人は必ず自分の正当性を信じています。自分が善と信じるものに対しては、決して嫌ったり憎んだりすることはありません。 たとえ当人は問題の憎しみについて自分が正しいと信じても、やがて憎悪自体が甚だ強力な主張と化すようになり、憎しみそのものが唯一の破壊要因であることを本人が学ぶまで、それは幾つもの転生の間に憑いてまわることになるのです。 「憎しみを憎む」ことで得るものは何1つないことを、ここで明らかにしておきましょう。それは同じ罠に陥ることになるのですから。 ここで必要なのは、生命力の本質を根本から信頼することです。また、「悪」が創造性に変容する様子を知覚できるか否かに関わらず、貴方の体験全ての要素は、より大きな「善」のために使われる、と信じることです。何を愛するか、ということも、今世、あるいはそれ以外の転生において、貴方の体験の一部となります。 最も肝腎な点として押さえおいていただきたいのは、如何なる転生の体験であろうとも、誰も貴方がたに強制できないという点です。貴方の転生は、貴方の感情や信条に忠実に形づくられるものです。 絶大なる愛の力とエネルギーと創造性は、貴方が「在る」という事実からも明らかです。〔意識と体験との組み合わせ〕は、一見、破壊に思える要素をも織り込みながら存続していくのです―この事実は、大概忘れ去られています。 憎しみは、貴方が信じていれば力をもちますが、たとえ貴方が人生を憎んでいる場合にも、貴方は消えることなく、存在し続けます。誰もがそれぞれ約束事を決めて来ているのですが、そのことを忘れています。 貴方は今回生まれてくる前に、そうした取り決めに、いわば署名しているのです。今世での友人たちは、多くの場合、ずっと以前から貴方と近しい間柄にあった人です。 現在の貴方が知る人全員が、それ以前の転生からの知り合い、というわけではありませんし、決してそうした人との再会が、同じレコードを何度も何度も聴かされるような、退屈な繰り返し、という意味でもありません。 如何なる再会であっても、1つ1つが全て、それなりに新しい形をとることになるからです。家族についてお話したことと通じるところですが、1つの町や村が、それに匹敵する過去の町や村の同じ住人たちから成っている場合もあります。 そうした人々は異なる体験を試みるために、集落というグループ単位で、自分たちを新たな体験や背景のもとに置き換える、というやり方をとるのです。 現在においても、特定の市町村の住民が、別の市町村の住民として生まれ変わっている例などのバリエーションを見つけることができます。1632年にアイルランドの小さな村の住人であった人々が、現在では、例えばアイダホ州のある町の住民になっている可能性もあるのです。 旧世界[ヨーロッパ大陸]から新世界[アメリカ大陸]へ旅立つことを望んでいた人々のなかには、おそらく新世界に生まれ変わる人もいるはずです。お忘れなきように願いたいのは、過去世での能力は、今世でも自由に使える、ということです。 自分への報酬は、自分で受け取らねばなりません。こうした能力の情報は、往々にして睡眠中に与えられることが多いようです。夢の種類に、ゲシュタルト(集団)タイプとも呼ばれる「元型的な夢」があります。現在でも、過去世での知り合い同士が「元型的な夢」を通してコミュニケーションを交わしています。 「元型的な夢」では大まかな情報が大衆に与えられ、各人は自分が望むような形で、その情報を使うことができます。例えば、町の住民たちが、その町の運命を決めるようにと、「元型的な夢」から情報を得て、その町の発展計画が立てられます。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月10日
コメント(0)
前回の続き。 セスの話を理解すると、現代人の浅はかさを思い知らされる。現代人はいまだ眠ったままである。環境破壊が自分たちの生活の場を奪うことすら理解できていない。 天変地異がそのことを物語っているのに、天変地異を利用してまで、自らの欲望を遂げようとする者まで出てくる始末である。 かつて人類は、3度ほど滅亡の危機に曝されたという。滅亡といっても、意識がなくなることはないので、失敗の教訓というべきものだろう。いま、現代人は、その教訓を忘れて、4度目の失敗を犯そうとしている。 セスによれば、その失敗こそが、人類の精神的な治癒であり、学びであるという。だから、セスたちは見守るしかない。天は自ら助けるものを助けるわけで、現代人自らが、愛情をもって接するしかない。 現代人はなんと愛情が乏しい存在になってしまったのだろう。五輪招致に、復興を持ち出すなど言語道断である。金儲けできなければ復興は二の次なのだろうか? 金儲けのための五輪が何のためになる。日本人は世界から見放されるような気がしてならない。喜んでいていいのか? 311から日本人は一体何を学んだのだろうか? 自然にしてきた環境破壊のツケが払わされたのだ。いまだに戦争する国に資金を融通するばかりか、その手先に成り下がっている腐敗した精神の、この国の金持ちたち。 いずれ天罰が下されるだろう。そのときはもう手遅れである。汚染水垂れ流しがやがて深刻な状況を誘発するだろう。すでに近隣諸国の印象が悪しきものになっている。いい加減目を覚ますべきである。なんのためにこの時代を生きているのだろう。 金銭をいくら儲けても、愛情を失えば元も子もなくなるのだ! 大切なのは、愛情である。愛情を失えば、捨て去られ、孤独に埋没するだけである。愛情を与えることを忘れた現代人は、愛情を奪おうとして、失うだけである。 さてセスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ さて、ここまでの死後の出来事についての説明は、非常に複雑に思われたかもしれません。死後には天国に赴き、そこでゆっくり休息する、といった単純な物語に慣れ親しんでいた方には、特にそう感じられたのではないでしょうか。 残念ながら、それでも貴方がたに理解していただきたいと願う、ごく基本的な事柄の多くが、とても言葉では充分に説明しきれておりません。しかし貴方がたは自分自身のなかに、自らの直観を解き放ち、「内なる叡知」を受け取る能力をすでにお持ちなのです。 本書の言葉は、読まれた時に貴方がたの直観力を解き放つよう意図されています。実際貴方が本書を読まれている間に見る夢は、更なる情報を与えてくれるはずです。もし貴方がそれらに注意を向けるなら、朝、目醒めた時にも心に残っているでしょう。 貴方がたの知る人生には、天国譚で語られる〔ような〕単純な幕切れは訪れません。己の現実を理解し、更なる能力の進歩を達成し、「全てなるもの」の一部である自己の本質を一層深く感じていくことについては、全くの自由が保証されているのです。 これで本章を終わります。 第12章 セッション550……1970年9月28日(月曜日)午後9時35分 これから新しい章に入りますが、その章は「輪廻する人間関係」と呼ぶことにいたします。 さて、貴方がたは輪廻を通して、自らの意識や知覚、そして価値を高めていきます。また、自分の手で採択していた規制から自由になり、自分を束縛してきた概念や教義から遠のくことで、精神や、霊的成長を遂げることになります。 しかし、その学びのスピードはすべて貴方次第です。限定的で、独断的で硬直しきった善悪の概念は、貴方がたを進化から遠ざけるものです。もし、貴方が精神や、霊に柔軟な態度をいつまでも選択しないでいると、そのあまりに狭量な概念は、いくつもの転生にわたってつきまとうことになります。 こうした頑なな考え方は、まさに貴方を一所に繋ぎとめるため、貴方は革紐に繋がれた小犬のように、ただぐるぐると小さな円を描いて回り続けることを余儀なくされるのです。 そうした境遇を選択した場合には、善悪の念に囚われたまま、恐らく、なんらかの組織集団の一員として闘い続けているでしょう。そして混乱の輪から抜け出せずに、疑念と不安にかられて駆けずりまわっていることでしょう。 貴方がたの友人や顔見知りも、同様の問題に関与している可能性があります。なぜなら、同じ問題に関与している同士は引きつけ合うものだからです。よって、いま一度申しあげますが、貴方がたの抱く善悪の概念の多くは、極めて甚大な歪曲をもたらす性質のもので、現実の本質全てについての理解をすっかり覆い隠してしまいます。 もし貴方が罪悪感を抱いていれば、それが貴方の現実となり、貴方自身がそれに与することになります。にもかかわらず、貴方がたの多くは特にその原因となる理由も根拠もないまま、あえて罪悪感を創り出し、その責めを負っているのです。 貴方がたが活動する次元(物質界)は、とても手に負えない悪の寄せ集めが犇(ひし)めいているかのようです。ここであえて言えば、悪を憎むことは、単に新たな悪を創り出すことに他ならないのです。 (悪を憎むのではなく、悪には愛情をもって改心させることが肝要。) さて‥…・貴方がたの視座から眺めていたのでは、全ての出来事が創造的な方向に動いていることに気づいたり、自らの天性である自発的かつ自在な創造性を信頼することは並大抵ではないでしょう。 貴方がたの体系において、人を殺すことは倫理上明白な罪悪です。しかし、刑罰の名のもとに人を殺すにしても、ただ殺人という根本的な過ちを増幅しているにすぎないのです。教会を、言うなれば1つの文明を―築き上げた非常によく知られた人物が次のように述べています。 「もし誰かが貴方の頬を打つなら、他方の頬をも向けてやりなさい」【新約聖書「マタイの福音5章39節】 貴方がたは、この言葉の本当の意味を理解する必要があります。他方の頬を向けよ、という言葉には、「そうすることで、攻撃する者は実のところ自分自身を攻撃することにしかならないことが如実に示され、実感されるところとなる。」という悟りが包摂されているのです。 貴方がたは「他方の頬を向ける」ことで解き放たれ、そうした自分のもとには望ましい反応が返ってくるでしょう。このことを理解せぬまま、怒りや見せかけの倫理観を真に受けた優越感で、他方の頬を向けても、相手からは、まともな反応が返ってくることはまずないでしょう。 さて、こうした全ては、輪廻のなかの人間関係についても当てはまります。また、現世での日常体験についても同様であることはいうまでもありません。もし、貴方が誰かを憎んでいるとします。するとその憎しみは、貴方が憎むことに精魂を使い果たすまで、幾つもの転生の間、貴方を、その人物に縛り付けることになります。 貴方がたは、現世に存在しても、また、それ以外どんなところに存在していても、意識を向けている対象を、自分に引き寄せるのです。もし自分に対して不正がなされていると感じ、不当に扱われていることを痛烈なまでに思い詰めてしまうと、更なる、そうした体験を引き寄せることになります。 そのような状態が持続した場合、次の転生においても、そうした資質が如実に映し出されるのです。ところで、転生と転生の狭間には、理解と熟考を促すための「休息(選択)」の場がある、というのは本当です。 しかし今世でも、そうした休息の機会を有効に活用しない人は、人生の幕が降りた時点でも、活用しないことが多いようです。意識は拡張し、創造するために、意識は自らを内から外へと反転させます。こうした問題を理解し、対峙するよう強いるものは、貴方がたの外側には存在していません。 従って、「この転生が終わったら、自分の体験を顧みて、善くないと思ったことは改めればよいだろう」という安易な発言は空しいものです。これではまるで若者が「自分が年老いて隠居してから、今は使っていない能力を片っ端から使ってみよう」と言うのと同じです。 貴方がたは、現在すでに「次回」の転生の舞台を準備しつつあるのです。今日、貴方が抱く考えは、どのみち次の転生の骨格の一部となります。貴方を一瞬で賢くしたり、思慮分別や同情心を授けたり、意識を拡げてくれるような魔法の呪文などは存在しないのです。 必要な答えは全て、貴方の思考や日々の体験のなかにあります。今世での如何なる成功も能力も、過去の体験を通して取り組んできたものばかりなのですから、それらが貴方に属しているのは当然のことです。 それらを発展させようと、貴方がたは日夜努めてきたのです。親族や友人や知り合いや同僚などといった周囲の人々を見回してみると、貴方が如何なる存在であるのかがわかります。極めて根源的な内なる類似点を通じて彼らが貴方に引き寄せられてくるのと同時に、貴方もまた彼らに引き寄せられるからです。 もし貴方が月に数回の割合で、1日の様々な時間帯を選び、自分がどのような考えをもって生きているのかを5分間ほど吟味すれば、次回の転生のために、どういった準備をしているのかを、かなり正確に感じ取ることができるでしょう。そこで見出された内容が貴方がたにとって喜ばしくないものであれば、思考や感情の本質の部分を変え始めたほうがいいかもしれません。 後ほど本書でも論じていきますが、貴方がたには変える力があります。輪廻には、かつて知っていた人に再び出逢わねばならない、という決まりはありません。しかし、引きつけ合うという性質のため、そうしたことが往々にして起こるのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月10日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 国その他の物質的な区画とは別に、貴方がたには精神があります。ある精神状態にある人にとっては、別の精神状態にある人は極めて異質に映ります。中間的段階での精神の転換期にある人との交信は、霊媒(チャネラーなど)を通したメッセージに大きな矛盾が多くの場合、確認されるようです。 「死者」の体験は皆同じではありません。当人の状態や置かれた立場は千差万別です。己の置かれた現実を説明せんとする個人の場合、当人の知り得たことしか伝えることはできません。 重ねて申しあげますが、かような情報は、理路整然と辻褄の合う単純明解な回答や説明を要求する知性を、往々にして苛立たせることになります。 そのような段階にあって、「存命中の」身内に接触してくる人のほとんどは、まだ「選択」を迎えておらず、訓練期間を終えていない人々です。 従って、そうした人々は、未だ古い信念や信仰に基づいた現実把握を遵守している可能性があります。ほとんど全ての交信は、この中間段階からですが、特に送り手(死者)の直前の転生で、受け手との間に密接な繋がりがあった場合には、こうした交信が起こる可能性が高くなります。 しかし、この中間レベルからのメッセージでさえ、ある重要な目的を果たすことがあるのです。つまり、そうした交信が、生きている親族に、死後も生きていることを知らせることができ、なおかつ、生きている人にもわかる表現で行える、ということです。 死後の送り手が、生きている人と関われるのは、死者である彼らが、まだ生前と同じ信念を持ち続けていることが多いからです。運よく状況に恵まれた場合には、自分たちが学んだことも伝達できるのです。しかし、送り手側の興味の対象は段々と変化していきます。彼らは徐々に、新しい関係の方を取り上げるようになるのです。 従って、「選択」に臨む人は、既に別の世界へと旅立つ準備ができている、ということになります。貴方がたの時間の観点から言いますと、この中間的段階の期間は「何世紀」も続くこともありますし、「数年」という場合もあります。 しかし毎度のことながら例外も存在します。場合によっては、ほんの「数時間」の間に、別の物質的転生へと駆け足で突入していくこともあるのです。これは大抵不幸な例で、物質生活に戻りたい、という執着にも似た願望が大きい場合に起こります。 しかし、こうした急な帰還は、壮大な目的を託された人によってもなされる場合もあります。そうした存在は、既に始まっている重大かつ不可避な計画を完了させるために、使い古した肉体に執着することなく、手放し、ほぼ同時に新しい肉体に生まれ変わるのです。 セッション547……1970年8月24日(月曜日)午後9時10分 ここで付け加えておきたい話があります。「選択」は、貴方がたの言葉で輪廻の「最後」のサイクルが完了されている人の場合、一層複雑なものとなります。 最初に理解しておいていただきたいのは、繰り返しになりますが、今の貴方は自分の真の存在に気づいていない、ということです。代わりに、貴方は、現時点での自我を、自己と見なしています。 そのため死後を考慮する際、自分の知る自己にとっての将来を考えてしまいます。しかし輪廻のサイクルの最後に臨めば、貴方が、すなわち、その「根源的存在」であり、その存在の「内なる核」が輪廻における全ての人格の総和以上であることが完璧に理解できます。 (人格は、玉葱のような層構造になっているようだ) その時の複数の人格は、いまの自己の分身、と言うことも可能です。それら自己同士が張り合うことはありません。 もともと、自己の間に、実質的な境界が存在したことはなく、ただ見かけ上の区分だけで、貴方は、そのなかで様々な役割を演じ、様々な能力を切り拓き、新しい多彩な方法で、創造を学んでいたのです。 そうした輪廻の人格も進化し続けていますが、彼らも自分の主たる中心的な自己が、貴方でもあることを理解しています。 よって、輪廻のサイクルが完了すると、貴方は過去世についての知識を全て獲得したことになり、そうした情報や体験や能力をすぐ手元に置くことになります。これは単に、貴方が実際的な意味で、多次元的な現実を理解したということにすぎません。 私は「多次元的」という言葉を頻繁に用いてきましたが、自我が、その言葉通りの意味をもつことはご理解いただけたと思います。なぜなら、貴方がたの現実は輪廻転生する現実だけでなく、先に述べた可能(確率)性の現実という見地にも存在しているからです。 従って、「選択」に際しては、輪廻を完了した人の選べる選択肢は、まだ輪廻のサイクルに残らねばならない人よりも、遥かに多種多様である、と言うことができます。また、そうしたい、という意図と能力があれば、教える立場に立つ機会も常に開かれています。 しかし多次元的な教授法は、今の貴方がたに既知の教授法とは非常に異なっている上、行使できるまでに厳しい訓練が必要となります。 多次元的な教師は、人格の様々な部分を、貴方がたの言う「同時に」導くことができます。例えば、ある特定の人格が、14世紀、紀元前3世紀、西暦260年、更にはアトランティス時代に転生していたとしましょう。 多次元的な教師は、そうした多くの異なる特質をもつ複数の人格に、同時に接触し、それぞれが理解できる方法で意思の疎通を図ることができるのです。そして、そうした個々の意思疎通には、それぞれの時代における基本的前提や、当時の世間一般の哲学、もしくは科学の思潮の情勢に関する完全な知識が要求されるのです。 また他にも、多次元的な人格は、異なる可能(確率)性の体系を探求している可能性も充分に考えられますので、その体系にある人にも接触が可能でなければなりません。それ相応の蘊蓄と訓練が要求されることが、教師としての職務を極めて骨の折れる仕事にしているというのも事実です。 しかし、これも1つの選択にすぎません。そうした情報を学ぶ転生は、必然的に教師本人の進化を促し、能力を増大させることになります。更にそこではエネルギーが巧みに扱えることや次元間を継続的に旅することも要求されるのです。 教師となる決意を下すやいなや、そのための訓練が、実践的な熟練指導者の下で即刻開始されます。この使命は確かに使命に違いないのですが、そうした教師をして、それまでには存在さえ知り得なかった現実の領域へと誘う場合があるのです。 さて、それ以外で、輪廻を完了して全体的に異なる性質を帯びた人々は、創造者としての使命に至る、長い旅路に出る可能性があります。遥かに異なるレベルでの喩えにはなりますが、そうした創造者の使命は、貴方がたの物質的現実の創造的分野に出現する、いわゆる天才に譬えることができます。 創造者は、絵の具や顔料や言葉や音符の代わりに、実在の次元を用いて、可能な限りの形態に、知識を分け与えながら実験(創作)を始めます。ここでの形態とは、物質的な形態を言うのではありません。貴方がたが、「時間」と称する形態も、あたかも芸術家が色彩を操るが如く扱われます。貴方がたが、空間と呼ぶものは、数々の違った方法で集積されます。 例えば、そこから時間を骨格として用いる芸術が生まれます。貴方がたの言葉での「時間」と「空間」は混合されています。様々な時代の美しさ、自然の美しさ、絵画や建造物などは、全て初心者のための学びの教材として再現されます。彼らを夢中にさせる最たる取り組みの1つは、できるだけ多くの次元の現実に影響を与え得る「美」を創造することなのです。 そうした作品は、貴方がたの体系でも、例えば、1つの事象として知覚可能ですが、可能(確率)性の現実においても、恐らく全く異なる方法で知覚できます。おわかりのように、多次元的な芸術は制限されることなく、自然現象さながらに、多くの現実に自由に、しかも「同時に」出現するのです。 そうした芸術作品は、言葉で描写したり、説明を加えることはできません。その構想に匹敵する言葉がないのです。しかし、それらの創造者は、自分たちが接触可能な全てのレベルの存在に、創造的なインスピレーションを与える任務にも携わっています。 例えば、貴方がたの体系において閃(ひらめ)きを得た場合、大抵それは、そうした創造者たちの芸術である、と言えるのです。 さて、往々にして、それら「美の形態」は、創造者たちの本質が、象徴的に現実として現われることなのであり、受け取り手の能力によって色々な方法で解釈がなされます。 それは貴方がたの言う「生きたドラマ」かもしれません。しかし、それらは常に精神を伴っており、いかなる既存の現実体系からも独立して存在しています。それでも、その多くが、少なくとも部分的には知覚できるのです。なかには貴方がたが、アストラル界と称する領域に存在し、睡眠中に訪れた際に知覚できるものもあります。 その他にも、貴方がたが寝入る際や、寝起きといった半覚醒状態にある時や、それ以外に変性意識(トランス状態)などの束の間の意識状態において、ほんのちらりと、あるいはとりとめのない寄せ集めや散らばりとして知覚される「多次元的な美」もあります。 「多次元的な美」には様々な種類が存在し、それゆえ創造者は数多くのレベルで活動しています。ところで、キリストにまつわる話は全てこうした創造なのです。 なかにはヒーラー(治療家)になることを選択する人々もいます。しかし、ここで言う治療行為は、貴方がたがご存知の(肉体の)治療より、遥かに多くの意味を包含していることは言うまでもありません。 ヒーラーは、全人格レベルでの体験に対して、働きかけができねばなりません。つまり、多次元的人格の一部である個々の人格を直接、援助することが求められるのです。ここでもまた、輪廻転生を通じての能力開発が、活動の一環となり、様々な転生のパターンを取り扱うことになります。 ヒーラーとしての仕事は、複数の輪廻する自己として、様々に異なる障害を体験することから始まります…… ヒーリングには常に精神や霊的な要素が関わってきます。またこうしたヒーラーたちは既知の貴方がたの体系での現在においても、他の体系においても、個々の人格を助けることができるのです。 より広い範囲にわたり多大な訓練を積んでいる高度なヒーラーは、夥しい数の人格に対して、精神、あるいは霊的な病の治療にあたります。ヒーラーのなかには、教師と創造者とヒーラーの資質を全て併せ持っている存在もいます。そうでない場合は、自己の性質に最も適していると思われる進化の道を選択します。 しかしながら、私は、この章において、意識が絶えず進化し続ける目的を論じるつもりはありません。私はただ、絶大な進化の可能性が存在していることを明らかにし、なおかつ全ての人格には、それぞれ最大限の自由が与えられている、ということを強調しておきたいのです。 意識の進化は、自然で、結果として起きてくるものです。そこには如何なる圧力も加わることはありません。今後の更なる進化にしても、その全ては貴方がたの知る人格のなかに元来備わっているのです。それは大人になるという「進化」を、子供が自身のなかに生来備えもっているのと同じなのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月09日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 例えば、自殺者たちは、ある1つの部類と見なされ、彼らのための「懲罰室」が存在するとか、彼らの巡り合わせ(因縁)が先天的に他より劣悪になる、ということはありません。自殺者であろうと、あくまでも一個人として同等に扱われることに変わりないのです。 ただ、今回の転生で直面できなかった問題に関しては、次の転生において直面することになります。しかし、これはなにも自殺者に限ったことではありません。 自殺のなかでも、当人が選択した非常に特殊な条件以外の人生(転生)を拒絶したことで、自殺を引き起こす場合があります。かような場合、その人は別の方法で転生を学ばねばなりません。 しかし、他の多くの自殺者は、物質体系での体験の否定を選び、まだ肉体が息のあるうちに、周囲にかなりの印象を残して人生(転生)を自ら去ります。 自殺行為に結び付いた状況や、内なる知覚、および個の能力をどれだけ実現できていたか、ということも非常に重要です。 私がこのようなことを述べるのは、多くの処世哲学が、自殺者は、特殊な、ある種ほとんど懲罰とも言える死後の宿命を負わされる、と教えているためで、それらが断じて正しくないからです。 しかし、もし自殺行為が、己の意識を永久に消滅させるもの、と信じていた人の場合は、この誤った思い込みが、自殺の罪悪感によって強まるため、当人の進化を大きく妨げてしまう可能性があります。 ここでもまた、教師たちから真の状況説明を受けられる上、彼らによる数々の癒しが適用されることもあります。1つの例ですが、その人が自殺を決める前の出来事まで遡り、当人が自殺の決意を変えます。 その時点で記憶喪失の効果が適用され、自殺行為そのものの記憶はなくなります。そして、あとあと当人が、その事実に直面し、理解がより深まってから、自殺をしたことが告げられるのです。 しかしこうした状況は「選択」を迎えるためには明らかに障害となります。言うまでもないことですが、地上の関心事や利害関係に捕らわれている状態も同様に障害となります。その場合、しばしば当の人格は、己の知覚力とエネルギーとを物質生活に集中させていたい、と言って譲りません。 (これは自己の意見に執着すること、自分の思い通りにいかないことに執着することと同じにみえる。) これは死という事実の受容を、霊魂のレベルで拒んでいることになります。当人は、貴方がたの言葉を借りれば「死亡した事実」はよく理解しているのですが、霊魂と肉体との分離を完全には受け入れられないのです。 さて、勿論、当人が、「死亡した事実」を自覚していない場合もあります。これは事実の受容の拒否が問題なのではなく、知覚のなさが問題なのです。かような状況にある人は、やはり地上の関心事に捕われ、恐らくもと居た家やその周囲を困惑したまま彷徨うことになるでしょう。勿論、こうした場合も「選択」は先送りになります。 従って、死後の変遷の仕組みは、物質的な人生と同じく、極めて多様である、と言うことができます。私が述べてきた障害の数々は、死後だけでなく、物質生活としても進化を妨げるものばかりです。次のことは漏れなく考慮すべきでしょう。 性別に起因する性格への過度な執着も、進化を遅らせる一因となります。男性、あるいは女性であることが、自己のなかで大きな位置を占めている人は輪廻のサイクルにおいて起こることになる性別交代の事実を、なかなか受け入れられない可能性があります。この種の性別への執着は、同時に物質生活での人格の進化も阻むことになります。 さて、これまでに掲げてきた問題は、概して障害として作用しますが、例外が存在することも事実です。執着になっていない天国もしくは極楽への信仰は、有効な教材として利用可能です。 つまり、そうした信仰の当事者が、天国もしくは極楽という教材において示されたものであれば、たとえ新しい解釈であっても往々にして容易に受け入れることから、その精神の基盤となる教材として役に立つことがあるのです。 「最後の審判の日」への信仰も、多くの場合、そうした教材として機能します。貴方がたから見た「懲罰」が下されるようなことは断じてないのですが、その教材により、当事者は、ある種の精神的な検証や評価を行う心の準備ができるのです。 現実は自分自身が創造するものである、ということが、徹底して理解できている人は、容易に先へ進むことができます。夢見の状態の仕組みを理解し、そこでの精神の展開を学んでいる人も非常に有利です。 悪魔や鬼への信仰は、物質生活でもそうであるように、死後においても極めて有害です。 体系化された対立概念的な神学論も害に繋がります。もし貴方が、例えば、全ての善は、悪をもってバランスをとる必要があるなどと信じていたなら、貴方は極めて限定的な現実体系のなかに自分を束縛することになり、その現実は大きな苦悩の種であふれんばかりでしょう。 そうした体系では、善と同等の悪が続くことになるため、善さえもが疑わしいものと見なされます。善と悪、天使と悪魔、獣と天使の間の大きな隔たり……そのような全ての歪曲は、進化の障害となります。 貴方がたは自らの現実体系に、著しい対比や対立要素をもたらしていますが、それらは貴方がたの現実のなかで既に基本的な前提として作用しているのです。 そうした対比や対立は極めて浅薄であり、知力の誤用に負うところが非常に大きいのです。知性では、直観が確実に知り得るものを理解できません。知性は、物質存在としての自己の言葉で納得する試みを重ねるなか、そうした対立要素や概念なりを生み出していったのです。 知性はこうも言います、「もし善が存在するのなら、悪も存在するはずである」と。 なぜなら知性は、物事を見た目よく分類した上で説明をつけたいと思うからです。上昇があるのなら、下降もなくてはならない、というような知性にとっての「釣り合い」が求められるのです。 しかし「内なる自己(知覚)」は、知性よりも遥かに壮大な見地から、悪とは単なる無知にすぎず、「上」と「下」という言葉は、本来、そのような方向性が意味をもたない空間のようなものに、小手先だけで付与した呼称であることを知っているのです。 それでも、対立概念への強い信仰は、「内なる統合」「全ては一つであること」「全てにおける相互の繋がりと共存」といった真実の理解を邪魔するので、極めて有害です。 そうした対立概念への信仰や執着は、恐らく深刻な有害要素である、と言えるでしょう。このことは死後だけでなく、どのような在り方であっても変わりありません。 なかには、そのような対立概念が融合した調和や統合性といった感覚を、物質生活において、まだ一度も経験しない人もいます。かような場合は、その後の変遷(輪廻転生)のなかで、多くの段階を経る必要があります。大概そうした人々の「行く手」には、幾多の転生が待ち受けていることになります。 貴方がたは「選択」以降も、自らの物質的現実を、個人レベルでも集合レベルでも自分自身で形づくります。そして全員に開かれた体験のなかから、同じものを共有しようと決めている人たちのなかに加わることになります。 準備万端が整ったところで、感動的な協力体制の下に冒険が始まります。どのようなタイプの存在を選択するかにより冒険は異なってきます。従って全体的に見た場合は、幾つかのパターンに分かれます。個人レベルの現実は、他者の現実と全く同一ではありませんが、それでも全般的な分類は存在するのです。 ごく簡潔に言えば「悪の存在を信じることなしに、善を信ぜよ」などと申しあげますと、貴方がたには、極めて非現実的に聞こえるかもしれません。しかし、こうした確信をもつことは、物質生活においても、その後においても貴方がたにとっては、一番の防衛手段なのです。 貴方がたの知性は、この事実に激怒し、肉体の感覚器官は、この事実に反している、と五月蝿く反論するでしょう。しかし、善を確信しながら悪の存在を受け入れない、というのは、実際には極めて現実的なことなのです。 というのも、こうした確信をもつことにより、物質生活においても健全な肉体を保ち、幾多の恐れや精神的な窮地から解き放たれるからです。なおかつ平穏なる心情と自発性がもたらされ、そうしたなか、貴方がたの能力の進歩が一層順調に実現していくことになるからです。 また死後においては、悪霊や地獄、もしくは強制的な懲罰への信仰から解放してくれます。貴方がたにとっての現実をありのまま本質的に理解する準備が、より一層整うことになります。この概念が貴方がたの知性に不快感を与えることや、肉体の感覚器官による、この概念の断固とした否定というような憂き目に遭うことはよく承知しております。 しかし貴方がたは、自らの肉体の感覚が、錯誤を吹聴することが多々あることに、既に気づくべき時期にきています。そして、肉体の感覚器官は、貴方がたが確信し、受け入れる現実を知覚することを、再度、ここで申しあげたいと思います。 悪魔や鬼を信じていれば、当然、それらを知覚することになります。実際、貴方がたの世界は、自らを解放する試みを未だに遂行していません。 キリスト教は、この最重要な真実を単純に歪曲した結果から生まれました―私は、既知の組織化されたキリスト教を指して言っているのであり、何も原初のキリスト教だけに言及しているのではありません。 そうした教えにしても、実を結ぶ機会がほとんど与えられないに等しい状態にあったのです。このことに関しては、後ほど本書でも論じていくつもりです。 世界を変える試みは、「自らの現実は自分の確信や信念の本質に忠実に創造されている」、更に「ありとあらゆる存在は全て神聖である」、そして「ありとあらゆる存在の全てに悪は存在しない」という貴方がたの根本概念の上に成し遂げられるのです。 もし、これらの概念が、個人レベルと集合レベルの両方において受け入れられた暁には、貴方がたの肉体の感覚器官のもたらす情報にも、矛盾を見出すことはなくなるでしょう。世界や、ありとあらゆる全ての存在は、善として知覚できるようになるのです。 この試みはいまだ実行に移されたことがありません。そして、これらの真実こそが、貴方がたが肉体の死を迎えてから学ばねばならないことなのです。死後に、こうした真実を理解するに至った人のなかには、再び物質存在に転生し、こうした真実を明らかにしていく役割を選択する場合もあります。 このような方法が、何世紀もの間とられてきたのです。物質的現実のなかから生じた可能(確率)性から成る体系にあっても、同じことが言えます。 貴方がたの体系と全く繋がりをもたない可能(確率)性から成る体系も存在します。それらは、現在の貴方がたには想像すらし得ないほど進化しており、私が述べてきた真実が非常によく浸透しています。 また、そうした体系では個人が如何にすべきかをよく理解した上で、意図して、しかも創造的に現実を形づくっています。そして、その際には、意識が有する創造力の赴くままに、自在な創造行為が展開されるのです。 このことを申しあげるのは、死後には、貴方がたの体系とは繋がりのないものも存在する、ということを、ただ指摘したかったからにすぎません。貴方がたが、中間的段階において自分に可能な全てを学び終えた時点で、次に進む準備ができたことになります。 しかし、中間的段階そのものにも多数の活動次元や体験区域が存在します。おわかりかと思いますが、できるだけ簡潔に述べますと、全員が全員を「認識している」わけではない、のです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月09日
コメント(0)
なんでも宮崎駿監督が引退するとのことで、「好きな宮崎作品アニメは何か?」という企画をやっているので、気軽に述べてみたい。 宮崎作品に入るのかどうかわからないが、私は、「ルパン三世-カリオストロの城」か、引退会見のときに、思いの残る作品という質問に対して、監督自身が応えた「ハウルの城」の2作が好きである! ルパン三世は銭形のキャラ、ハウルはハウルの弟子のマルクルのキャラが好きだからだ。 ルパン三世は若いときにみたので、当時はセリフがあまりにも臭いな、と思ったこともあったが、歳をとってみたら、やっぱり、あのセリフしかないことに気がついた。 特に、最後の銭形がいう「ルパンはとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です!」というセリフがそれだった。 銭形がこんなロマンチックなセリフを吐くのは、カリオストロだけに思われる。銭形が二枚目風なのは、カリオストロだけに思える。ほとんどの作品では、お馬鹿な配役に徹しているのが印象深い。 良い作品というのは、主人公だけでなく、脇役の立場も細かく描かれているものに思える。パッとしない御馬鹿でひょうきんな役柄しか当てられなかった銭形が、カリオストロでは、ヒロインの心を奪う泥棒の引き立て役になっている。 モノを盗む泥棒ではなく、心を盗む泥棒という視点に、宮崎アニメのロマンを感じる。銭形も、ルパンに心を奪われた人物であり、相棒の次元も、五右衛門も、ある意味そうである。 だから、私は、主人公よりも、脇役の方を注視しがちで、ハウルの城も、ハウルの弟子のマルクルと、悪魔カルシファーの描き方がよいから、好きなわけである。 宮崎アニメで特に好きなのは、不可思議なキャラクターがでてくるところで、千と千尋では、そのオンパレードだったのがよかった。得体の知れない人物がよく描かれていると、非常に面白い。しかし、あまりやりすぎると、ストーリー性に辻褄があわなくなってくる。そういう意味で、千と千尋は、オチが深いんだか浅いんだか、よくわからなかった。 宮崎アニメは、夏目漱石の作品とどこか通じるところがあり、みている、読んでいるときは面白いのだが、オチがみえてくると、なんだか、途端につまらなくなる。だから、オチが見えないほうがよい。アニメにはオチがつきものだが、宮崎アニメにはオチは必要ないんじゃないかと思える。 たぶん、あまりにキャラが豊富なので、つくりこんでいくうちに、オチと必然的に格闘せざるを得なくなって、あえて収拾つけるために、安易なオチをつけてしまうんじゃないだろうか? 宮崎アニメの他とは違うところは、悪でも悪として描かないところにあると思う。先入観を極力廃する描き方というか、特にアクションシーンなんかは、従来の描き方とは違うところが特徴で有名である。すると、どうしても、結果が収拾つかなくなってくる。論理的に破綻してくる。 アニメの特徴は、固定された先入観を破ることだと思うので、宮崎アニメが意味があるのは、大人が押し付ける価値観を、自分でアレンジ創作していく想像力をつくることにあると思う。 一言でいうなら、「非現実の現実化」というところだろう。 しかし、宮崎アニメももはやあまりに有名になってしまい、大人の押し付けになっている面もあるだろう。ゆるキャラも、元々は宮崎アニメのキャラの影響にもみえる。 宮崎アニメの路線を克服するアニメもでてくるべきだろう。 世間は3D化に向かう流れにあるが、3D化だけが、現実化ではない。 セスの話だと、古代人は、絵などを、いわば言語にして、不可視の世界を表現していたそうだ。古代人の洞窟の壁画などは、それを真似したものだという。 アニメには、そのような古代の言語に立ち返る可能性を感じさせる。現実のアニメ化を子供は簡単にやり遂げる。大人が忘れている能力である。宮崎アニメはそれを思い出させてくれる。
2013年09月09日
コメント(0)
前回の続き ☆ ☆ ☆ ほとんどの人々が輪廻のサイクルを通じて、異なった職業や趣味などを採択しますが、なかには、そうしたものの連続性が極めて顕著な場合もあります。時にそうした連続性が絶たれたかに見えることがあっても、実際は常に存在しているのです。 そうした人々はほとんどの転生において、例えば聖職者であるとか教師であることを選ぶのです。輪廻転生については、本書の別のところで更にまた論じていくつもりです。 ここでは、転生と転生の狭間にある「選択」の場での、次の転生への計画といった取り組みやすい問題だけでなく、他にも多くの問題が関わっている、ということを指摘するにとどめたいと思います。 通例に反して、例外的に輪廻の途中で、安息日にあずかる場合もあります。本道から逸れてのおまけの旅が許される、とでも申しましょうか、別次元の現実を旅してまわった後で、再び輪廻のサイクルに戻ってくる、というものです。 しかし、これはそれほど頻繁にはありません。こうしたことも「選択」の場で決められます。輪廻のサイクルを完了し、この体系を出ることを選択した人は、輪廻のサイクルに残る人以上に沢山の決断を求められることになります。 可能(確率)性の領域に入ることは、輪廻のサイクルに入ることと並び称される選択です。その全く異なる世界の現実においても、集中度の高い意識や存在が維持されます。可能(確率)性の領域に入ることを選んだ場合、多元的人格を保有しながら、それまでほとんど気づくことのなかった潜在能力の開花が求められ、実際に行使されることになります。 可能(確率)性の領域での精神の体験は、既知の如何なる体験とも相当かけ離れたものですが、それでも、その手掛かりは、既に貴方がたの精神のなかにあるのです。そこでも人は、これまでと全く異なる方法で、しかも貴方がたが知る「時間」に少しも頼らずに、出来事を判別することを学ばねばなりません。 他の現実と違い、そこでは、知性と直観が手を取り合って機能していくのですが、あまりの自然さゆえに、双方の識別が難しいほどです。輪廻の体験を選択する自己と、可能(確率)性の体験を選ぶ自己は、同一の自己なのですが、可能性の体系内での人格は、著しく異なったものになります。 貴方がよくご存知の人格は、貴方にも通じている多様性に富む「多元的人格」の1つにすぎないのです。 従って、可能性の体系も、輪廻の体系と同様に極めて複雑です。さて、全ての行動が同時に起こる、ということを既にお話しましたが、よって、貴方がたは両方の体系に同時に存在している、とも言えるのです。 しかし私の説明に「どちらか」を選ぶという言いまわしが含まれることや、それらの体験を「別々に」話していることなどの、ある程度の便宜上の簡略化は免れません。 多元的人格全体のうちの、ある部分は意識の焦点を輪廻のサイクルに合わせ、そこでの進化に取り組んでおり、更に別の部分は、可能性の体系に、意識の焦点を合わせ、そこでの進化に取り組んでいるとお考えくださればよいと思います。 『勿論、意識の焦点が、輪廻のサイクルに存在せずに、可能性の体系だけにあり、また、可能性の体系に存在せずに、輪廻のサイクルだけにあることもあります。』 いずれにしろ、人格が寛大で開放的で柔軟性に富んでいることが、極めて重要になります。 存在したい全ての世界には、扉を開く準備が整っており、また、人は、その事実の認識を拒むこともできます。また、可能(確率)性の体系での存在へと至る扉は、全てに開放されており、そうした意味では、意識は、これまで存在してこなかった世界に、扉をつけ、開くことができるのです。 こうした選択と決断の段階には、案内役や教師たちが選択肢を提示してくれたり、存在の本質について説明してくれます。全ての人が、同じ進化段階にあるわけではありません。従って、教師のなかにも進化したものと、前者に進化がまだ及ばないものもいます。 しかし、この「選択」の段階は、混乱を体験する場ではなく、大いなる啓蒙と信じ難いほどの変化を体験する場に他ならないのです。後ほど、本書でも神の概念について、お話するつもりですので、この章では言及されない、追って述べる幾つかの事柄が、貴方がたの理解を深めることになれば幸いです。 さて、直前の過去世での出来事を、新しい方法で―例えば組み替えたり、「組み合わせたり継ぎ合わせたり」というようにして―再度やり直すことを選択した人も、同様に教えを受ける必要があります。こうした人の多くが、先にも述べた完全主義的な性格に起因する柔軟性の欠如などといった深刻な問題を孕んでいます。 そのようにして地上での年月が再体験されるわけですが、それは必ずしも以前と同じ連続(時系列)の体験である必要はありません。その転生での出来事は、当人の希望通りに実施されます。変更を加えたり、変更後の体験と比較対照させるために、元の体験をもう一度そのまま再生したりもできます。 それは、まるで俳優が演技を学ぼうとして、過去に出演した映画を再度再生して観るようなものでしょう。しかし、勿論、人生の再生の場合は、その主人公が特定の出来事への関わり方を変えたり、結果を変えたりできるわけです。主人公には、その転生の年月に関して、自由裁量が最大限許されるのです。 しかし、そこに登場する自分以外の俳優(女優)については、同時代の幾人かが同時に、その出来事に参加している場合を除けば、全て自らの想念です。 さて……こうした状況下では、言うまでもなく意識的に出来事を操作したり、様々な影響や効果について学びます。その際には極めて集中度の高い意識が求められます。 そこでは更に、当人と一緒に体験に参加している人々の本質についても教えられます。例えば、そうした人々が、一種の想念であることや、それらの想念が、当人によるものであることも認識することになります。 しかし、ここで念を押しておきたいのは、想念にも実体と同じ意識があり、ただ意のままに動かせるヒトの形の厚紙でできた駒のようなものではない、ということです。ですから当人には、そうした存在についても十分に理解する必要が生じ、彼らに対して避けることのできない責任も課せられます。 想念である彼らも意識として成長し、異なった次元で、独自の進化の道を歩み続けています。ある意味、私たちも皆、想念であり、このことは、神の概念を説明する際に、できるだけ詳しく述べるつもりです。 しかし、だからと言って私たちが自身の行為や個性や目的の設定に関して、自らの責任として、決定権を欠いているわけではありません。どうか、そこのところをよく理解していただきたいと思います。 また貴方がたは、この追体験では、内面を、外の環境に反転した状態で生きることも忘れないでいただきたいのです。そうした事柄を踏まえれば、私の説明が、貴方にとってより重要な意味をもってくるでしょう。 いまこの「選択」の場において、こうした全ての事柄が考慮され、適切な準備がなされます。しかし、計画の立案そのものも体験の一部であり進化の一部なのです。従って、「選択」の場での存在にしても、選択後の別世界での存在と同様、あらゆる点において重要なのです。 換言すれば、貴方がたは自己を如何に演ずるかを学ばれるのです。また、この休息期間(「選択」の場)には友人や顔見知りもつくります。こうした知人たちとは、恐らく「選択」の場においてのみ幾度となく顔を合わせることになるでしょう。 彼らとは久しぶりに出逢った旧友のように、輪廻のサイクルでの体験について話を交わすかもしれません。例えば輪廻のサイクルのなかに存在する教師たちも、そうした存在に含まれます。 ただ、より進化した教師たちに関しては、既に輪廻の体系と可能(確率)性の体系の両方に対峙したことがあり、彼らは「将来」如何なる性質の体験をするか、全て自らで決断を下しています。しかしながら、そうした存在たちの選択肢は、貴方がたの選択肢とは異なります。彼らに対して開いている別の領域(世界)については、後の章で言及していきましょう。 セッション546……1970年8月19日(水曜日)午後9時20分 「選択」は、肉体の転生から移行を遂げた個人の状態や付帯状況によって左右されます。自分の置かれた本来の状況が理解できるまでに、他より時間(便宜上)を要する人もいます。 本来の状況の把握ができた人は、先にも説明させていただいたように、多くの差し迫った概念や象徴を打ち捨てねばなりません。「選択」は貴方がたの見地からして、ほとんど即座に起こることもありますし、訓練が行われている間は、かなり長期にわたって延期される場合もあります。 「選択」を迎えるのに主だった障害として立ちはだかるのが、どの個人にも宿っている誤った概念であることは言うまでもありません。 ある特定の状況下において、天国と地獄への信仰は、誤った概念と同じくらい危険に作用することがあります。従来の天国という環境が死後の唯一の可能性として疑わない人のなかには、更なる務めを果たしたり、更なる進歩を目指したり、探求課題を設定するなどといったことがなかなか受け入れられない場合があるのです。 (天国を終着点だと錯覚する。) そうした人はしばらくの間、本当にそうした環境で生活し、そこでの体験を通して、存在は進化を望むことや、そうした天国は不毛で退屈で、まるで「生気のない」場所であることを自ら学びとるまで、そこにとどまる可能性があります。 彼らは、そこを出てはじめて「選択」を迎える準備ができたことになります。また、みずから犯してきた罪のため、自分は地獄に落ちると言い張る人もあります。そうした強い思い込みのため、そのような人はしばらくの間、実際にその通りの環境に遭遇する可能性があります。 しかし天国にせよ地獄にせよ、いずれの場合も常に教師との接触が可能です。教師たちは、それらが誤った概念であることを理解できるよう全力を尽くしてくれます。 どちらかというと地獄の環境に置かれた人のほうが、健全な判断力を取り戻すのが早いようです。彼らの恐怖心が、その環境からの脱出を誘発するからです。すなわち彼らの必要が、「内なる叡知」への扉を早く開くことになるのです。従って、そうした地獄の環境は、天国のに比べて長く続くことは滅多にありません。 (親鸞の悪人正機説に通じる。) しかし、どちらの環境(天国と地獄)であっても、「選択」と次の転生を遅らせることには変わりありません。ここで、1つの注意点について述べておきたいと思います。全てにおいて、自分の体験は、自分で創造します。 繰り返しになるのを覚悟で、あえて私は再度言明しましょう。なぜなら、このことは全ての意識と全ての存在にとって、根本的な事実であるからです。肉体的な死を迎えた人に、ある種の体験を強いる目的で、特別に設えられた「場所」や環境というものは存在しません。 (天国も地獄もない。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月06日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 第11章 導入部 死後には、限りない種類の体験が開かれています。全ての体験が可能ですが、貴方がたの進化の度合いによって、ある体験は他よりも可能性が低い場合もあります。 目下のところ、概して言えば主だった3つの体験分野に絞られているようですが、例外的、あるいは極端な凡例として、それらとは別の道を選ぶ人(霊)もいるようです。 貴方がたは、再び転生を選択するかもしれませんし、代わりに過去世(便宜上)に意識を向け、それを素材として新しい体験を創作するかもしれません。過去世での既知の出来事を、また別の形で創造でき、なおかつ、修正を加えられる、というのは、先にも述べた通りです(追体験の説明)。 あるいは、完全に別の可能性が低い(確率性の)体系に入っていくことも可能です。これは輪廻から、全く隔たってしまうことになります。この場合は、時間のような連続性に類する概念全てを放棄することになります。 現段階では、過去・現在・未来という、一見、理に適った進行に沿った人生を好む人の場合、大抵、輪廻転生を選択されるようです。あるいは、連想によりもたらされる順序に従って、非常に直観的な方法で出来事を体験していくことを、無邪気にも選択される人もいます。それらの人たちは、次の課題に取り組む場として、可能性(確率)が支配する体系を選びます。 なかには、単に物質体系が性に合わないと感じる人もおり、そうした場合も、輪廻転生に、暇を告げることになるようです。しかし、一旦選択した輪廻のサイクルを完了するまでは、去ることはできません。 従って、そうした最終的選択は、輪廻を通じて、最大限の能力を達成した人に対してのみ開かれていることになります。 輪廻転生を完了した人のなかには、教師の務めを果たすために、再び輪廻のサイクルに入っていく人もいます。そうした人には、常に高度な個としての(オリジナルな)人格を彷彿とさせるものが感じられます。 さて、どちらかと言うとまだ決断が下せない段階として、中間的な段階もあります。これは他の段階に比べれば、「休息の場」とも言えるでしょう。亡き友や身内から送られる交信は、ほとんどが、この領域からのものです。 また、生きている間に、夢見の状態からの投影によって、訪問できるのも、大抵このレベルです。 (あの世とは、中間的な段階のことらしい。スウェーデンボルグの霊界で有名。) 「選択(休息の場)」の前には内観の段階があります。そのとき、貴方がたは「自分史」の完全版を見ることができます。自己の本質が理解でき、更に自分より「進化」した別の一部から助言を受けるのです。 例えば、自分の別の転生も認識できるようになります。過去世において知っていた別の人たちとの間に、感情を伴う絆も生まれます。なかには、直前の過去生のなかの、どの関係をも上回る絆もあるかもしれません。だから、そこは、貴方と同じ体系から来た人と待ち合わせのできる場でもあるのです。 迷っていたり、混乱している人には、必要な説明が全てなされます。死んだことを自覚していない人たちも、真相を知らされます。死者のエネルギーと精神とが再び元気を取り戻せるよう、あらゆる努力が払われます。 これは学び、そして理解を深めていくための場なのです。精神を乱した人が、物質的環境に残ろうとする夢を見るのも、この(中間的な)領域です。 ここは、いわば体系間の「交渉の場」とも言うことができましょう。 (古代の宗教では、最後の審判ともいわれている。) 個人が、この領域にいる場合、どれだけ長くいるか、ということよりもむしろ、どれだけ進化していくか、が重要になります。この領域は中継地とはいえ、重要な段階です。貴方がたは、これまでにも夢で、ここに来たことがあります。 本題 セッション541……1970年7月13日(月曜日)午後8時40分 輪廻転生は、ただ今生とは別の物質界を経験すればよい、という単純なものではなく、そこには、非常に多くのことが関わってきます。よって、いま私が述べている中継的な場においても、多数の問題を考慮することになるのです。 大半の方々は輪廻転生と言うと、連続した転生を1つ1つ順番に魂が完了させていくというような直線的で、一定方向への進化を思い浮かべるようですが、これは甚だしく単純化された解釈です。 (ダーウィンの進化論のような思い込み) 個人レベルでの輪廻の多様な可能性という1つの論点に注目するだけでも、そこには無数の可能性が存在しているのです。様々な方法で、輪廻が可能ですので、この中継的な場は、一見、休息の場にみえますが、転生の選択が、自分の進化になるような方法を、一大決意のもとに選択しなければなりません。 例えば、なかには一転生(生涯)にわたり、ある主題に基づいて、2、3の特性のみを他と区別して、専ら、その能力開発に取り組むことを選択する人もあります。物質的な見地からすると、そうした人は、極めて偏った見解の持ち主で、進化を遂げた個人からは、遠く隔たっているように見受けられます。 例えば、ある転生において、非常に高い知能を故意に持ち合わせ、そうした知的な思考力を、最大限に発揮できた、としましょう。すると、その能力は、多元的人格全体によって、徹底的に吟味され、知性がもたらす利益と害の両方の側面が慎重に検討されます。 こうした種類の人が、別の転生では専ら感情面での進化を扱い、知的活動はあえて控えめに演じる、という場合もあるのです。 繰り返しますが、物質界で想定される人格は、必ずしもバランスよく進化しているとは限りません。ある特定の創造力だけが繰り返し専門的に扱われる場合もあります。もし、輪廻を、一連の連続的な進化と見なす習慣的な見地から眺めた場合、貴方がたには多くの疑問が生じることでしょう。 いずれにしても進化は起きているのですが、この進化が起きることが予め予測できる方法を人は好んで選択します。 例えば、人は、ある転生で、あえて知的な発展を抑制することを通して、その際の自分にない価値や目的を学びます。この場合、知的な発展に対する願望が、自らの内側に芽生えることになります―もし当人が、それ以前の過去世(転生)において、知性の価値や目的を理解していなければの話ですが。 (あえて能力を使わないことで、その能力の価値と目的を知ることができる。) そのような経験から、人は、いよいよ「選択」の段階になったとき、次の転生で進化できるよう、それに相応しい方法を決定するのです。 なかには、ゆとりがあり、バランスのとれた状況のなかで、進化する方法を選択する人もあります。そうした人は、いわば、その人のもつ全ての要素が同時に作用し続けるように努めます。 他の転生で知っていた人々と、繰り返し何度も顔を合わせることもあります。要するに、問題解決にしても、爆発的な感情を伴うような、一瞬の成果に期待するのではなく、徐々に余裕をもって前進するやり方を選ぶのです。そうした人々の歩みは、まるでダンサーのステップのようです。 この「休息」と「選択」の場には、必要な助言全てが受けられます。幾多の理由から、助言を待たずに転生してしまう人も確かにおります。近視眼的に見れば、大概、これはあまり褒められたことではありません。なぜなら、転生に必要な計画を立てる段階がすっぽりと抜けているからです。 しかし長い目で見るならば、こうした「過ち」からも絶大な学びを得るのです。輪廻には時間割りのようなものはありませんが、それでも次の転生まで、3世紀以上待つことは極めて稀です。そうなると環境への適応が非常に難しい上、地球との感情的な絆が希薄になってしまうからです。 次の転生での人間関係にしても、そこで関わる予定の人々全員と、前もって合意がなされている必要があります。そうした人々との交信はテレパシーによって行われるため、この際には多くの投影がなされます。 孤独を好む一匹狼のような人などは、どの時代に転生しようがそれほど時代への思い入れがないこともあります。かと思うと、歴史上のある特定の時代に同世代を生きた人々が再び転生する際に、自分も一緒に転生しようとする人もいます。 輪廻のサイクルに関する集団的な傾向は、このようにして起きてくるのです。集団輪廻には、かつて同世代を生きた多くの人々が参与していますが、全員というわけではありません。 例えば貴方(このセッションに参加している人?)の場合は、そうした意味での集団輪廻のサイクルには関与しておられません。 さて、個人的な輪廻のサイクルも当然存在しており、そのなかでは家族単位の輪廻の形が採られ、個人が異なる役割を演じていくことがあります。貴方は、そうしたサイクルには、何度か関わってきておられます。 輪廻する存在としての掘り下げ方にも、個人差があります。とにかく「全部やってみる」ことを選択する人もいます。そのように物質の存在を究めようとする人は、その体系に関する知識を最もよく把握しています。 彼らの輪廻の仕方には、全ての人種を一通り体験する、といった展開が見られます。これはそれ以外の人々には、あまり課されない要求です。また、彼らはいざ生を受けた時代に徹底的に一意専念します。そうした人の多くは、比較的短命ながら、極めて強烈な人生を送ります。 更に言えば、他の大多数の人々よりも多くの転生を経験します。つまるところ、そうした人々は、できるだけ沢山の時代の歴史を経験することで、最終的には貴方がたが知る世界を形づくるのに役立っているのです。 いずれにしても貴方がたは、はじめて輪廻のサイクルに入られた時よりも前から、皆、旅人なのです。できる限り簡潔にお話しますが、貴方がたは必ずしも全員が同じ背景を携えて物質体系の現実に入るわけではありません。 先にも申しあげましたように、地上での生活は訓練期間とも言えるものです。しかし私は、貴方がたに進化についての月並みな概念を、できるだけ忘れていただきたいと思っています。 例えば、「善い」「より善い」「最善」などという概念は、貴方がたをして誤った理解へと導く可能性があります。貴方がたは、できる限り完全になる、ということを学んでおられるところです。ある意味では自分自身を創造する、という学びです。 そして、それを輪廻のサイクルのなかで行いながら、己の主たる能力を物質的生活に集中させ、人間としての質や特性を高め、新たな次元での活動を切り拓いておられるのです。私は善が存在しないとか、貴方がたの言葉で言う「進化」が起こっていないと申しあげているのではありません。しかしながら、貴方がたの善や進化という概念は、著しく歪められているのです。 さて、特定の分野において非凡な才能を発揮される人が多数おられますが、そうした才能は、続く転生のなかで幾度となく現われてきます。時には多少抑え気味に表現されたり、他の能力との様々な組み合わせという形で発揮されることもあるようですが、それでも全体として見た場合、当人の個性や独自性を示す強力な特徴となります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月05日
コメント(2)
前々回の続き。 ☆ ☆ ☆ セッション540……1970年7月6日 (月曜日)午後9時29分 さて、先にも説明しましたように、貴方がたは、別の在り方(死後の世界)やその現実が、自分の現実と共存していることを、日常の覚醒状態においては認識していません。 現在の貴方がたは、夢のなかでは、そうした別の状況を頻繁に知覚できますが、「夢」の道具一式で、それらを巧みに包み込んでしまうため、目が醒めてから鮮明な記憶を辿ることは、ほとんど不可能になっています。 同様に貴方がたは日常生活の真っ只なかで、いわゆる生き霊や亡霊と呼ばれるものとも共棲しているのです。ついでに申しあげれば、貴方がた自身もまたそれらと類似した容姿で、他者の面前に出現することがあります。 こうしたことは特に貴方がたが、睡眠状態にある時や、自身の鮮烈な想念を送り出した時、あるいは無意識のうちに体外離脱して、そのまま宙を漂っている時などに起きる可能性があるのです。 地上に様々な種類の人間が存在するように、生き霊や亡霊にも明らかに様々な種類があります。また、人間の場合も、置かれた状況によって周囲に敏感であったり、なかったりします。それらの霊たちは、物質的な現実のみに焦点を合わせているわけではありません。 ですが、その焦点が、人(精神)に向けられているのか、それとも(物質的な)形態に向けられているのかが、識別の主な基準になります。更に、そうした霊のなかには、何とかして、長引く深刻な苦悩から救われたいと願う人から送り出された想念である場合もあるのです。 それらは、日常的な体験のなかでも、至極頻繁に見られるような衝動的行為と寸分違わぬ行為の「表出」にほかなりません。 何度も何度も手を洗わないといられないなどの反復動作を伴った神経症がありますが、同じ場所に何度も何度も戻ってくるという特定の霊や生き霊などの行動も、それと同じメカニズムから生じています。かような場合は、問題の霊の行動も反復動作から成っている場合が少なくありません。 このような霊、もしくは生き霊の放出者は、様々な理由から、己の体験を自分のものとして理解することが学べていません。こうした霊の反復動作の性質は、精神分裂症(統合失調症)の人の行為に倣うものですが、なかには例外もあります。 霊が(人の)意識を伴っていない場合もあるのです。霊が、物質的環境に戻ってきた時に、自分が、悪夢、もしくは一連の夢を繰り返し見ていたかのように錯覚するのです。 よって当人は「無為・無傷」なのですが、意識のある特定部が、物質的環境において、未解決の問題に取り組みながら、苦悩することで、生き霊の形で、エネルギーを放出しているのです。 霊自体は全くの無害であり、むしろその行為を貴方がたがどう解釈するかが、唯一の難題を生み出す要因になり得ます。現在、日常生活の最中にある貴方がたも、時おり別の(次元の)現実(あの世)に、霊として姿を現わしています。 そこでは(あの世)、貴方がたの、そうした「疑似形態」が噂を呼び起こし、多くの伝説や社会通念の発生源となっているのです―無論、貴方がたにとっては知る由もないことですが…。 私は、ごく一般化して話をしております。重ねて申しあげますが、記憶を保持している霊も例外的に存在しながら、概して、それらはほとんど無意識のうちに、異質な別世界(あの世)で、霊として現われている貴方がたと同様に、他への影響を自覚しているわけではないのです。 思念、感情、願望(を組み合わせたもの)が形を創り、エネルギーを帯びます。それ自体もエネルギーから創られて、可能な数だけ違った現われ方をします。貴方がたは、物質として具現化されたものだけを認識します。 しかし本書でも既に言及したように、貴方がたは自分自身の疑似形態を自覚のないまま送り出しているのです。これはアストラル次元への移動や投影とは全く別のものであり、それよりも遥かに単純な現象です。 貴方がたが、アストラル体として現われる現実(次元界)は、貴方自身よりも更に進化しています。そこでの貴方がたはしばしば混乱したり、まごついたりしているために、貴方のアストラル体は、周囲に気づかれています。 そこでは、どのように振舞えばよいのかがわからないのです。そこでの習慣をご存知ないのですから、無理もないことでしょう。 しかし、物質的形態(肉体)をまとっていようといまいと、貴方が感情や思いを抱いているのならば、それらが物質の形態を創り上げ、それに現実性が伴うことになります。貴方が何か1つの物質を強く思い浮かべれば、それはいずれかに出現するのです。 もし、自分が、ある別の場所にいる光景を強く思い浮かべれば、貴方の「疑似形態」が外へと向かい、その場所に投影されます。その時に、そのイメージが、他の誰かに知覚されるかどうか、その投影に、貴方の意識が一緒にいるのかどうかは、そうした投影の発生には関係ありません。 このことは、既に物質体系(物質界)を離れた存在にも、まだ物質界に残っている存在にも当てはまります。 (人間の意識は、単純にいえば、映写機のようなものらしい。超弦理論も、この意識投影と似たようなホログラフィー原理と呼ばれる次元転移を用いて、時空間の歪みの量子重力を説明している。) こうした全ての疑似形態(生き霊)は、一般に送り手の意識全体を伴うことがないため、「副次(2次)体」と見なされています。それらは、意識が投影した一種の反射像なのです。 さて、「副次体」に対して「主(1次)体」は、通常、完全な覚醒状態にあり、注意が満遍に行き渡る意識を伴っています。その意識は「オリジナル」の形態ではなく、投影する先の別の次元の形態を採択し、その次元の現実へと投影されます。この投影は、かなり複雑な方法で行なわれ、意思の疎通を目的として行われることは滅多にありません。 これより遥かに易しい方法が他にも存在しています。特異点から流れ出るエネルギーの場(波動)から如何にして、イメージを構築するかについては、以前、ある程度まではお話しました。貴方がたは、自身による体(肉体)のみを知覚します。 そこでもし「霊」が貴方に接触を望んだ場合には、テレパシーによって行われます。すると貴方がたの側は、もし望めば、そのテレパシーに感応したイメージを、自分で構築できます。また、その存在がテレパシーによる交信と同時に想念を送ってくることも考えられます。 貴方がたの部屋はいま知覚されていない想念に満ち溢れる劇場なのです。繰り返しになりますが、貴方は今のままでも死後とは寸分も違わぬ「霊」なのです。ただ、貴方自身がその事実を認識されていないだけなのです。 そうした想念の存在を示唆する若干の温度変化や大気の動きを、貴方がたは気のせいということで片付けています。 また、しばしば想念と一緒にやってくるテレパシーによる交信を感知しても、確実に存在する別次元の現実が、貴方の現実と同時に存在することや、自分が現世界の真っ只中にありながら、不可視でも確実に存在する別世界に囲まれていることを示す手掛かり全てから、顔を背けてしまいます。 まさしく「生」、「死」という言葉は、貴方がたの理解の範囲を限定し、本来は存在しない境界の作成を幇助しているのです。 (人間の意識が生と死の境界をつくりだしている。) 既に亡くなっている友人や身内のなかには、自らの現実世界から貴方がたの現実世界への投影方法を使って、貴方がたを訪問される方々もおられます。概して貴方がたは、彼らの形態を知覚できません。 しかしながら、貴方がたが主に夢見の状態で、彼らの現実世界に投影する像と比較しても、彼らの投影像の方が、まだ生気に満ち活発で、「幽霊」や「死者」であるとは言えません。 (我々がこの世でみる幽霊よりも、我々の、あの世での像の方が粗野であるらしい。イメージ形成を物質に頼りすぎているせいなのだろう。) しかし彼らのほうでは、原則として、そうした場合の貴方がたを知覚できます。しばしば忘れられてしまう事実は、そうした個人は皆、様々な進化の段階にあるということです。ですから、ある人は別の人よりも物質体系に強い繋がりを維持している、ということもあり得るわけです。 そうした死者の訪問を受けるのは、貴方がたの言葉を用いれば、亡くなってから「どれだけ時間が経過しているか」にはほとんど関係ありません。むしろ、故人との絆がどれほど強く密度の濃いものであったか、という要素が関わってくるのです。 先にも申し上げましたが、貴方がたは睡眠状態のときに、亡くなったばかりの方々を援助することができます。たとえ全く見知らぬ人であっても、その人が死後の状況に順応できるように、手を差し伸べてあげられるのです。 (葬式では寝るのがよいようだ。) しかしながら、こうした知恵は翌朝になって目醒めた時には失われているでしょう。よって、眠っている間に見知らぬ人の訪問を受けることもあります。そうした人々が貴方の「生」の様々な段階へと導いてくれることがあるのです。 貴方がたに既知である「生」の現実の説明さえ決して容易ではないのですから、ましてや気づいていない「生」の現実の複雑さを論じるのは、一層困難を極めると言わねばなりません。 私が本章のなかで力説したかったのは、貴方がたは死後に遭遇する状況に既に慣れ親しんでおられる、ということと、そうした状況は、ある程度、意識的に認識できる、ということです。本章を終わります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月05日
コメント(0)
セスの話を理解すると、現代人がいかにも幼稚であることが明らかになってくる。現代人の幼稚さは、一言でいえば、恐怖で人を支配しよう、とするところである。 セスの話でも、恐怖で人を脅かそうとも、当人が恐怖を感じないかぎり、無意味であり、結局、恐怖は生み出した本人に返ってくる。 そもそも、なぜ人が恐怖を感じるかといえば、唯物論に染まり、失うことや、死を、恐怖ととらえるからである。 唯物論に染まらなければ、失いもしないし、死にもしない。セスの話によれば、寝ているときが、死と同じであるから、例えば、寝ている人に「殺すぞ」と言っても、無意味である。 結局、肉体に依存した生活を送っているから、肉体を失うことを恐れるわけで、例えば、現代人特有のケイタイ依存症と同じで、自分がモノを作り出すのではなく、モノに寄生していることが問題なのである。便利さの裏側には、創造活動の放棄がある。 寄生は、聖書にある「この世の生みの苦しみ」を避けようとする行為である。人類は創造が未熟だから、苦しみを伴うようにしたわけである。 セスの話のように、意識が全てをつくりだすのだから、モノに寄生するのは、意識の創造活動を自分で抑制していることになる。わざわざ、自分の能力を制限していることになる。 単純にいって例えば、カネ持ちなどは、自分でカネをつくっているわけではなく、カネというモノに寄生しているのだから、非常に便利な暮らしを手に入れる代わりに、多くの創造活動を放棄していることになる。 だから、高次元世界からみれば、創造活動を全く放棄しているのだから、単なる寄生虫やウイルスのような存在である。何もかも他者にお世話になっておきながら、それを当たり前だと錯覚して、せっかくの創造力を無駄にしているのだから、呆れてしまう。 ここでいう創造力とは、夢のなかで行なっているような精神的イメージ、想念の意味である。愛である。 まぁ、だから、セスの話のように、教師というべき存在が、低レベルの地球に何度か訪れて、意識改革を求め、睡眠中には、愛とはなんであるかと、頻繁にコンタクトしているわけであろう。 とにかく、唯物論的な3次元の見方を捨て去らない限りは、人類は寄生虫のままで、お互いに闘争を続け、環境を闘争の舞台として、環境破壊を進めていくだろう。そのような低レベルの想念が、環境を低レベルなものへと変えていき、人類は益々孤立していくことになる。 ほとんどの現代人は、低レベルの3次元世界しかみえないのに、3次元世界を破壊していることになるから、少ないパイを取り合いながら、パイを益々少なくして、宇宙から孤立していっていることになる。意識の上では、どんどん制限を加えていっていることになる。 エネルギー問題にしても、石油等の物質レベル、つまり3次元レベルにとどまっている。高次元のエネルギーは、創造力で、愛であり、平和の想念である。なんのために、人類は古代から神に祈ってきたのだろう。それは愛の想念が宇宙を形成しているからである。 現代人は祈りを忘れ、闘争に明け暮れている。非常に低レベルである。 昨今の巷のオバカか、オババだか知らないが、アメリカのサルが騒いでいるのは全くアホらしい。アメリカ人は、もっと寝なさい。何回も寝なさい。睡眠が不足しているから、安らぎを知らずに、闘争に明け暮れるのである。 あまりに馬鹿馬鹿しいので、セスの話を一時中断して、そんな馬鹿馬鹿しさを解き明かしている、御馴染みのサイトから抜粋引用する。 ☆ ☆ ☆ シリアの化学兵器攻撃 米国自作自演の確定的証拠がネットに流出! http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130904/1378280990#seeall シリアのサリン化学兵器攻撃が米国の自作自演であったという確定的な証拠がネットに流出したそうです。 まずは、毒ガス攻撃で亡くなったとされる人々とされる映像の中に、同じ子役が何度もご出演されているそうです! ▼またバレた シリアでのダメリカの捏造 同じ少女が何人もいる毒ガス被害者の写真 http://ameblo.jp/duviduva/entry-11605369061.html http://ameblo.jp/ruroibrown/entry-11604530198.html つまり、ボストンテロの時と同じように、死体役だのケガ人役だのの俳優さんを使って撮影したという事です。 ▼ボストン自作自演テロとテキサス肥料工場核ミサイル攻撃 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130423/1366697406 ▼ボストンテロの目的とアルカイダ http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130418/1366248922 ▼ボストン・マラソンのテロ事件のその後の顛末 http://d.hatena.ne.jp/rebel00/20130527/1369626467 そんじゃ、この自作自演の黒幕はドコのどいつ?ってなる訳ですが、やっぱりユダヤ米国だそうです。 ハッキングで暴露! - シリアの化学攻撃は、米国がスポンサーしたでっち上げ これは、匿名のハッカーが、ペンタゴンのメンバーと彼らの妻のEメールをハッキングしたら、シリアで行われた化学兵器攻撃のスポンサーがアメリカであることがほぼ確定的になったという記事で御座います。 ペンタゴンのマクドナルド大佐に、陸軍のプログラム・マネージャがシリア化学攻撃の「成功」を祝うメールを送っていたり、マクドナルド大佐の妻とお隣さんとのメールのやり取りで、大佐の妻が(シリア科学攻撃で殺傷されたとされる子供たちに関して)「彼(大佐)が言ってたけど、子供たちに怪我はないそうよ。あれはカメラ用だって」と書いているそうだ。 資料の英文メールや詳しい解説は下記を参照 http://ameblo.jp/duviduva/entry-11606593709.html ほら! ペンタゴンのマクドナルド大佐の妻も、あの映像は撮影用で、子供たちにケガはないとの事です。良かったですね(笑) さてさて、ユダヤ米国ちゃんたら、やる事なす事 もはや自作自演やテロばかり! 最近、日本でも、おかしな竜巻やら集中豪雨やら、やたら多いんですよね? そう言えば、先ほどもおかしな地震がありましたよね? 詳細は、下記を参照のこと。 ▼鳥島近海が震源地で、なんで、こんな震度分布になるのですかね? http://richardkoshimizu.at.webry.info/201309/article_12.html ☆ ☆ ☆ この話からすると、アメリカ人はどんどんサル化し、退行し、もはや人間とは呼べないくらい獣化していることがわかる。他国よりも、まず、自国を救うべきで、自国の犯罪者、過去の憲法違反者を処罰すべきである。 イラク戦争の過ちを糾弾すべきで、原爆投下の責任を負わせるべきで、化学兵器使用を糾弾するのなら、イラク戦争で、米軍が化学兵器を使った責任を先に糾弾すべきである。アメリカのサルたちに、人間に該当する正当性など皆無である。 原爆投下、化学兵器、皆、最初につくり、使用したのはアメリカ人である。それも偽ユダヤ人である。気がつけば、寄生虫の偽ユダヤ人だけが必死にカネにあかし、悪さをし、どんどんと獣化している。ほとんどの人たちは、そのことに気づきつつあります。悪に加担しないことです。 アメリカ人は馬鹿ばかりといわれそうです。メイドインアメリカは殺人兵器ばかりで、殺人国家なんでダメリカの発言は誰も信用しないですよ! オバカ発言から人とは思われないので、忘れていましたが、ダメリカの発言を鵜呑みにするアホがわが国に一匹いましたね。
2013年09月05日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ セッション539……1970年7月1日 (水曜日)午後9時18分 今、この世界においても、死後の環境は、貴方がたの周囲の至る所に存在しています。 貴方がたの現状や現物質現象は、自己の内から外に向けて、あたかも投影されたように、貴方に一連の映画を見せ、そこに転写されたイメージのみを知覚するように強制しているかのようです。 そうした映像は極めてリアルに見えるため、貴方は、気づくやいなや、絶えず、その映像に反応している、という状態にあります。 (そうした映像をリアルにとらえろという洗脳に従っているだけ。マスゴミの洗脳報道と同じ。) そうした映像は、確実な存在の理由をもつ一方で、同時に存在する別の現実を覆い隠すのを手助けする結果にもなっています。しかし、実際に、貴方がたは、別の現実(あの世)から、物質像の投影を生じさせる力や知識を得ているのです。 貴方がたはいわば「自分という映写機を空回りにセット」して、つまり外見上の活動全てを止めて、自分の意識を別の現実に向けることもできます。 貴方がたは、まず、別の次元の存在に気づく必要があります。後から私がお教えする方法に先立つ準備として、「私は、いま実際、何に気づいているのだろう」と折りにふれ、自分自身に問いかけてみるとよいでしょう。同じ問いかけを、貴方がたが、目を開いている時と、閉じている時になさってみてください。 目が開いている時にも、当然、即座に知覚できる物質だけが存在するものと決めつけないでください。一見したところ、何もない空間を見つめて、静寂のただなかに耳を澄ましてください。 何もない空間の1センチ四方にも、あまたの分子が存在するのに、貴方がたは、それらは目には見えないもの、と自らを諭してきたのです。静謐のなかにも、誰かの声が聞こえているのですが、それらが聞こえないように、自らの聴力を制限してしまいました。 貴方がたは夢見の状態においては「内なる知覚(自己)」を使いますが、目醒めている時には蔑ろにしています。 「内なる知覚」は、非物質的なデータを知覚するために備わっており、貴方が、3次元の現実に投影したイメージに惑わされることはありません。そして「内なる知覚」は、対象の物質も知覚できます。 肉体の感覚器官は、「内なる知覚」の延長ですが、死後に、貴方がたが頼りにするのは「内なる知覚」のほうなのです。「内なる知覚」は体外離脱の体験でも用いられます。それは起きているときの通常意識の下でも絶えず作用しているのです……。 ……従って現時点でも、貴方がたは死後の知覚に慣れ親しむことができます。 要するに、死後の環境、状況、知覚の、どれをとっても異質ではないのです。貴方は突如として未知の世界に飛び込むわけではありません。その未知の世界は、いますでに貴方の一部なのですから。 (睡眠中の夢のなかで経験済み。) 貴方が肉体をもって生まれる前も、肉体を去ってからも、その未知なる世界は貴方の一部であり続けます。しかし、そうした事情のほとんどは物質的な歴史を通じて、貴方の意織から完全に払拭されてしまいました。 (唯物論の洗脳のせい。) 人類は自らの現実について様々な概念を育んできましたが、いまの世紀になって、どうも故意に、(死後の世界から)注意を逸らしているようです。それには沢山の理由があるのですが、その幾つかをここで取り上げてみたいと思います。 従って、多くの意味においても、貴方がたは、今も「死んで」おられるのです―これからも変わることはありません。 貴方は、日常の仕事や試みに取り組まれている間、通常の覚醒意識の状態で、また別(死後)の現実にも焦点を合わせ、肉体感覚に依存する自己が認識しない刺激にも反応し、「内なる知覚」を通じて、状況の把握に努め、肉体の頭脳には記録されない出来事まで体験しているのです。 死後には、現在の貴方がたが無視している、そうした次元の活動が、容易に自覚できるようになります。現時点では、物質への意識の方が優勢ですが、死んでからは、そうではありません。 しかし、物質への意識が失われてしまうのではなく、例えば貴方の記憶も、そのまま保持されます。それは、自己の存在基準として考えている特定の枠組み(法則性)から、一歩足を踏み出すだけなのです。貴方に与えられたようにみえる年月を、ある状況下においては、いつでも違うやり方で自由に使うことさえできるのです。 その例を挙げてみましょう。時間というものは、現在の貴方がたが知覚しているものとは違い、「時(瞬間)」の前に「時(瞬間)」があるというように、次々と「時(瞬間)」が繋がって成り立っているわけではないと、以前、お話したことがありました。 また、出来事というものも、貴方と無関係に起こるわけではなく、貴方の期待や信念に基づいて、自らの想念を物質化した体験である、と申しあげました。貴方の人格の「内なる自己」は、現時点でもう既に、起こる前の出来事を知っています。 死後には、(日常生活のように)時間や事象により占有された物質的な形態に、意識の焦点を合わせることはありません。画家が創造に際し、絵の具を用いるように、貴方がたも、時間や出来事を用いて創造することが可能なのです。 貴方の寿命が例えば、77歳であると推定し、その年齢で死を迎えられるとしましょう。すると貴方は、望めば、ある特定の状況下で、77年間に起きた出来事をゆっくりと体験できるのです。 それらの出来事は、必ずしも連続である必要はなく、部分的に体験することも可能です。貴方の77年間を表わす特定の次元での活動のなかで、出来事を操作できるのです。判断を大きく誤っていたことに気づいた時には、判断を正すことも可能です。すなわち、状況を改善できる、ということです。 しかし、生前の存在基準となった枠組み(時代)のなかに、その次元(出来事)全てを徹頭徹尾操作する意識として、再び入っていくことはできません。つまり、当時の歴史に参画したり、その歴史のなかに投影された自己と「同時代の人々」から生じた集団的幻影とにより起きた出来事には参加できないのです。 (あくまで、個人的な体験のみに限定されるようである。) 次の転生の代わりに、この生前の追体験を選択する人もいますし、この追体験を、次の転生への事前学習として捉える人もいます。そうした人は、心の底では、完全主義者であることが少なくありません。 彼らは、生前に戻っていき、再び新たな創造をすることで自らの過ちを正さなければ気がすまないのです。それらの人々にとって、生前への転生は、改善のための見本(モデル)となります。同じ「見本(モデル)」を用いて、より納得のいく絵(転生)を描こうとするのです。 こうした観念的、かつ霊的な練習は極度の集中を要しますが、多くの人々がこれを受け入れています。どんな在り方も幻影ではないように、ここでの体験も幻影ではありません。 人生における、ある特定のエピソードを「追体験」することで、そのことに対する理解を深めたいと思う方もおられるでしょう。貴方の人生体験は、それゆえ貴方に固有のものなのです。そうした事情は珍しいことではありません。 普段の生活のなかで、既にしてしまったことを、もし違った風にしていたらどうなっていただろうかと想像したり、そこからより深い理解を得るために、その出来事を心のなかでもう一度再現することは、よくあることと思います。 人生は、貴方独自の体験であり展望なのです。そして死を迎えた時には、それを物質的な時間の塊から取り出して、あらゆる方法で体験できるようになるのです。出来事や物質は絶対ではなく、思い通りに形を変えられる、ということを忘れないでください。 (人生は、次なる創造の素材となる。素材は多いほうがよいから、何度も転生する。) 出来事は、それが起こる前でも、後でも、変えることができます。三次元的現実という状況においては、それらは永久不変に見えるかもしれません。しかし、出来事は変動せずに持続するものでもなければ、永続的なものでもないのです。 貴方がたが三次元的存在として認識しているものは、いずれもそれより壮大な現実から、三次元に投影されたものにすぎません。 貴方の意識にある出来事は、通常意識に浸透、あるいは出現した(潜在)活動の断片にすぎないのです。出来事以外の部分は、夢見の状態にある時や、日中でも、通常意識の裏側において、極めて明白に理解できるものです。 もし、死とは如何なるものであるか、を知りたければ、物質的活動から離れている時の己の意識を自覚できるようになることです。 それが極めて活発な状態にあることに、きっと貴方がたは気づかれると思います。練習を積まれることで、目を醒ました状態の通常意識が如何に限定されたものであるか、を発見されるでしょう。 (禅でいうところの無我の境地。全てが1つにつながっているという意識感覚のようである。) そして貴方が一度は「死んだ状態」と見なしていたものが、遥かに活気に満ちた「生の状態」に近いものに思えてくることでしょう。 (肉体にいるときは、活動領域が制限されているにすぎない。肉体から離れると、活動領域が広がる。) ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月04日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 魂は肉体を創造します。創造者が自らの被造物を、上から見下ろす、などということはないようです。 魂が肉体や物質を創造するには理由があります。こうした創造がなされているのは、貴方がたをして、肉体的な生に嫌悪感を抱く方向へと導くためでもなければ、周囲にある肉体的な満足や喜びの真価を知ることから遠ざけるためでもありません。 内なる旅(自己発見の旅)は、如何なるものも、貴方が現在知る転生(人生)の重要性、美しさ、意味合いがどれほど絶大であるのか、を気づかせてくれます。しかし真の喜びや進化の意味するところは、貴方がたが、自己のもてる能力を全て出し切り、驚きの念と強い興味をもって「内なる次元(高次元)」を切り拓くことなのです。 (自分のなかにある内なる神性に気づくこと。3次元世界に全力であたることで、内なる能力が開発される。) 従って、現在でも、正確な理解がなされてさえいれば、死後の風景や環境や体験に、かなり慣れ親しむことができるのです。すると貴方がたは、死後の世界が、既知のどんな風景や環境や体験にも劣らず鮮やかで、生き生きしていることに気づくでしょう。 (死後の世界の方が高次元なので、微妙なニュアンスをもっている。3次元物質世界の方が粗く、非常に固定的なので、退屈なはずである。) そうした内なる次元での探求は、死後についての陰鬱な先入観を完全に払拭することになるでしょう。それでも、貴方がた自身の側で、できるだけ先入観を捨てるようにしておくことは非常に大切です。そうした先入観は、貴方がたの進歩を妨げるからです。 (暗く陰湿なイメージを捨て去ることが重要。まず、葬式を、喜び、笑いに溢れるものにすべきである。亡くなったといっても、肉体がないだけで、いつでも夢の世界で会えるのだから。101回目のプロポーズというドラマの「私は死にません。あなたが好きだから」を思い出す。) もしも貴方が物質的現実に取りあえず満足されているのであれば、そうした(死後の)内なる環境について学ぶのに比較的好ましい状態にあると言えます。 貴方がたにとって、物的生活の一部始終が不幸であるとか、幸福というより不幸と呼ぶほうが相応しく思われるのであれば、まだ内なる環境について学ぶ準備ができていません。 落胆している時には、そうした夜ごとの冒険に乗り出すべきではないのです。なぜなら、そのような時には目を醒ましているか、眠っているか、を問わず、己の精神状態は憂鬱体験をしやすい傾向にあるからです。 また、肉体的体験の代用として、内なる体験を求めているような場合も、まだそうした学びに着手すべきではありません。 (いわゆる現実逃避になるから。) 貴方の善悪の概念が厳格かつ不屈である場合には、別次元の意識を管理していくために欠くことのできない理解に至ることはできません。 言い換えれば、観念的にも心理的にも精神的にも、できるだけ柔軟性をそなえ、創造的で新しい概念に対して開かれている必要があるのです。さらに、組織や教義に過度に依存していてもいけません。 (3次元世界とは全くアベコベの世界といわれている。) 貴方がたには、それ相応の力量と、共感を伴っていることも要求されます。また同時に、現在の生活を引き続き管理していくのに充分な外向きの姿勢を、物質的環境においても保っている必要があります。 内なる旅には、貴方の資質が総動員されるのです。これは積極的な探求であり試みであり、受動的な引き籠もりであるとか、ましてや消極的な逃避であってはなりません。 本書の後半では、そうした死後の状況を意識的に、しかも体験や進行度合いに応じて、統制力を幾らか保持しながら探求できる方法を、興味をお持ちの方々にお伝えしていければと思っています。 しかし、ここではそうした死後の状況を、幾分、徹底して説明していきたいと思います。さて、物質的な生において貴方のご覧になるものは、全て貴方がそう欲しているものです。 貴方がたは、(常識として)通用している現実の場から、一定のデータを知覚します―そうしたデータは、現実とは何であるかについて、貴方が抱く概念の通りに、自分自身で慎重に選択したものなのです。貴方がたはまず、データを創造することから始めるのです。 もし貴方が、すべての人は悪である、と信じているのであれば、人のなかに善を感じることは決してないでしょう。貴方は善に対して完全に自分を閉ざしてしまいます。すると他者は、善の代わりに、常に最も悪い面ばかりを見せてくれるでしょう。 貴方はテレパシーによって、人が貴方に反感を抱くように仕向けるのです。そのようにして、貴方がたは自らの反感を人々に投影させています。 すなわち貴方がたの体験は、己の期待に忠実であるということです。 さて、このことは死後の体験や夢境での体験、さらに如何なる体外離脱の体験にも当てはまります。もし貴方が邪悪や不幸といった概念に取り憑かれていれば、そうした状況に遭遇することになりますし、魔物や鬼を信じているのであれば、そうしたものに出逢うことでしょう。 先にも述べましたが、物質的な方向にない時の意識は、より拘束されておらず自由です。いま一度念を押しますが、思いや感情は、(物質的)時間の経過を待たずに現実のなかに構築されます。 自ら、もし自分は悪霊に取り憑かれていると信じていれば、それが自己の創造の賜物であることに気づかぬまま、悪霊の想念の形を創り出してしまうのです。 従って、貴方が、物質的な悪にこだわっているうちは、内なる探求の準備は整っていません。そうした状況下で、別の人の発した想念と遭遇することも勿論起こり得ます。しかし貴方が最初から魔物や悪霊を信じていなければ、そうした「現われ」の本質を、必ず見分けることができ、他人のものであっても、悪影響を受けずにいられるのです。 もし、その「現われ」が自身の想念なら、実際、それが何を意味しているのか、あるいは自分の如何なる問題が、そうした顕在化を生じさせたのかを、自らに問うことによって、そこから学ぶことができます。 さて、貴方がたは死後においても同様の幻影を生み出すことができ、それを何かの象徴として使うことで、ある種の超越的戦闘(前に例を出したアラブ人によるモーゼとアッラーの闘い)も経験できます。 けれども、そのような戦闘は、当人の理解が進んでいれば、勿論、必要ないものです。貴方がたは自らの理解の段階に応じて、独自の考えや問題点、あるいは難局に取り組むのです。 すなわち貴方がたの体験は、己の期待に忠実であるということです。 さて、このことは死後の体験や夢境での体験、さらに如何なる体外離脱の体験にも当てはまります。もし貴方が邪悪や不幸といった概念に取り憑かれていれば、そうした状況に遭遇することになりますし、魔物や鬼を信じているのであれば、そうしたものに出逢うことでしょう。 先にも述べましたが、物質的な方向にない時の意識は、より拘束されておらず自由です。いま一度念を押しますが、思いや感情は、(物質的)時間の経過を待たずに現実のなかに構築されます。 自ら、もし自分は悪霊に取り憑かれていると信じていれば、それが自己の創造の賜物であることに気づかぬまま、悪霊の想念の形を創り出してしまうのです。 従って、貴方が、物質的な悪にこだわっているうちは、内なる探求の準備は整っていません。そうした状況下で、別の人の発した想念と遭遇することも勿論起こり得ます。しかし貴方が最初から魔物や悪霊を信じていなければ、そうした「現われ」の本質を、必ず見分けることができ、他人のものであっても、悪影響を受けずにいられるのです。 もし、その「現われ」が自身の想念なら、実際、それが何を意味しているのか、あるいは自分の如何なる問題が、そうした顕在化を生じさせたのかを、自らに問うことによって、そこから学ぶことができます。 さて、貴方がたは死後においても同様の幻影を生み出すことができ、それを何かの象徴として使うことで、ある種の超越的戦闘(前に例を出したアラブ人によるモーゼとアッラーの闘い)も経験できます。 けれども、そのような戦闘は、当人の理解が進んでいれば、勿論、必要ないものです。貴方がたは自らの理解の段階に応じて、独自の考えや問題点、あるいは難局に取り組むのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月04日
コメント(0)
前回の続き。 ☆ ☆ ☆ 夢を見ている時の貴方がたが、大抵、宙を飛んでいる、というのは偽りのない事実です。 夢見の状態においては、物質的現実に集中していない時の意識とほぼ同じ状況のもとで動いています。従って、そこでの体験の多くは、死後に遭遇するものと寸分違わぬものです。 亡くなった友や身内と話をしたり、再び過去を訪れたり、旧友に挨拶され、(物質的な)時間で、50年前にあった道を歩き、(物質的な)時間をかけずに宇宙を旅し、案内人たちと出会い、教えたり教えられたり、意義ある仕事に徹して問題を解決したり、あるいは幻影を起こしたりしているかもしれません。 (夢のなかで先祖に会うことはよくある。時間は、物質界だけのもので、数学的にいえば、波動の重ね合わせからなるリーマン面を微分することから得られる。シュレディンガーの波動関数などは、その典型。) 物質的な日常生活においては、ある考えを抱く瞬間と、それを物質的に構築する瞬間との間に時間が生じます。ところが、夢境の現実には、そのような制限(障壁)はありません。 よって、いわゆる死後の現実にあらかじめ慣れ親しんでおく最良の方法は、夢境の自己の本質を探求し、理解することです。ところが、そのために時間やエネルギーを注ごうとする人の数は決して多くありません。 ただし、そのための方法を手にすることは可能で、そうした方法を使っている人は、死を迎え、意識の全焦点が方向転換しても、隔絶感や疎外感を感じることはありません。 (物質性を全て失うので、存在が失われると錯覚する。そのために、死の儀式、いわば葬式を演出し、物質性の消失を補完する。執着心が強い人ほど、悲しみが深くなり、その悲しみを演出しているのが自分自身というのに気づかないで、自作自演を続ける。 だから、葬式は明るい方がいいと思う。キリストが、金持ちが天国にいくのは困難といったのは有名。物質性の消失に耐えられないからだろう。) さて、自覚している記憶は、肉体的範疇のなかの意識部と深く結び付いているために、肉体が眠っている時に、貴方が離れていても、目を醒ました時の意識には通常、体外離脱の記憶はありません。 睡眠状態では、これまで昼間の生活で出逢った人であろうとなかろうと、夢のなかで出逢ったことのある人全員を記憶しています。また、全く異なる世界のどこかに暮らす、ただの見知らぬ人であっても、睡眠状態の時においては近しい仲間として数年来、連続体験を共にしている可能性もあります。 貴方の日常での試みにそれぞれ意義や目的があるように、夢での冒険にも意義や目的があり、独自の様々な目標を目指します。そうした試みは、死後の体験のなかに引き継がれます。 物質的存在としての貴方の背景にある活力、気力、生命力、そして創造力は、全て、この別次元で生み出されているのです。換言すれば、貴方とは多くの意味で、「夢境の自己」に、肉を付けた投影なのです。 (物質のなかの自己は、夢のなかの自己の投影であり、いわばホログラフィックといえる。) しかし、貴方がたが想像されている「夢境の自己」とは、影法師でしかありません。それは「夢境の自己」が、心理上の連続性に基づいて、自己全てを寄せ集めるための照合基準で、つまり貴方がたの言葉を使えば、「心理上の連続性の照合基準」としてしか見なしていないからです。 かなり進化した人は「夢境の自己」の深遠なる本質に気づいています。すなわち、それは貴方のなかの完全体として、自己のなかで1つの統合を促す強力な融合性を表わしているのです。 (我は在りて有る者-אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה「エヘイエ・ アシェル・エヘイエ」の意識) 「夢境の自己」の体験は、貴方の日常の体験と匹敵するほどに鮮烈であり、また夢という状況のなかで、その「人格」は、物質的存在としての貴方の人格のごとく―実際はそれ以上に―豊かで含蓄のあるものなのです。 ここで少しの間、貴方がたに子供の頃に戻ったつもりになっていただきたいと思います。私は、子供の貴方がたに、成長した暁には、「大人の自己」とはどのようなものであるか、を説明するという、非常に困難な仕事を引き受けたとしましょう。 この「大人の自己」というものが、ある程度までは、既に貴方の一部として備わっており、貴方から自然に伸び出ずるもの、もしくは貴方という存在の投影である、と説明します。 すると子供の貴方がたは言います。「でも、ぼくはどうなるの? 違う自分になると、ぼくは死んじゃうの? ぼく、 いまとちがうふうになっちゃうなんて、いやだよ。 『大人の自己』が、いまのぼくじゃないのに、いまのぼくが死なないで、なんでいつか『大人の自己』になれるの?」 貴方がたに「内なる自己(大人の自己)」を、説明しようとしている私は、これとそれほど違わない立場にあります。なぜなら、貴方がたは、夢境において、「内なる自己」を認識できても、その円熟度や能力の真価を知ることはできません。 それでも、人間の子供に、既に、人間の能力が備わっているように、「内なる自己」の能力は既に貴方に備わっているのです。死後、次にやってくる肉体的な転生の構築を学ぶように、夢見の状態での学習の一環として、自らの物質的現実を一日一日どのように構築していくかを学ぶのです。 (死後、次の転生を形作るように、寝ているときに、起きたときの自己を形作っている。) 貴方がたは夢のなかで問題を解決します。そして昼間には、睡眠中に学んだ問題の解決法だけを意識上で認識しています。貴方がたは死後、次の転生の課題を設定しますが、それと同じように、夢のなかでも自らの課題を定めているのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月04日
コメント(0)
前回からの続き。これまでのセスの話を簡単にまとめると、 1.意識が全てをつくりだす。 2.三次元(物質)世界が全てではない。 3.我々人間は、多次元的自己をもち、それらを統合的に現実化する能力を開発しなければならない。さしずめ、起きている日常の覚醒意識と、寝ているときの夢見の潜在意識の統合をはかるべきで、そうすれば、人間に死はないことがわかる。 というようなものだった。また他にもあるが、とりあえず、上記の3点が重要である。現代人の多くが、物質界の虜になっている状態で、「死」というものを自ら演出し、つくりだすことで、なんとか物質界から解放されている現状である。 お釈迦さまは肉体(人生)は乗り物だといったし、キリストは人間は死なないことを伝えにきたわけで、セスの話からも、仏教とキリスト教の本筋がわかる。セスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ それからかなり後になって、貴方は多くの世界にあって、ついに自分が意識的に選んだ形態(体)をまとうことを習得します。おわかりでしょうか。 (エーテル体から、アストラル体にかわる、ということだろう。) 貴方がたは自らの心的体験を―貴方の思考や感情を―極めて文字通り、しかし無意識のうちに物質に置き換えている、のですから、ある意味では現在もそれを行っていることになります。 死後にわかりますが、もし貴方が自分の小さかった頃の姿を思い浮かべると、突如として子供の時の姿をまとうことになります。そしてある一定の時間であれば、その形態を操ることができます。 (思考や感情がそのまま現実化する。) つまり、貴方がたは生前の肉体的な転生において、物質的な形態をもっていたうちの、如何なる外見をも選ぶことができる、というわけです。 かりに貴方が80歳で亡くなったとしても、死後に20歳であった当時の若さや体力に思いを馳せたとき、その思い浮かべたイメージに応じて自分の姿が変化していることに気づくでしょう。 大半の人はその死後に、肉体年齢のピークには関係なく、物質的手腕の充実期であった、成熟した外見を選ぶのが普通です。また、外見的な美しさを特徴づける年齢とは無関係に、ある特定の生涯最大の精神的、もしくは感情的深みに触れた瞬間の姿を選択する人もいます。 貴方がたは、自らで、選り抜いた姿には心地好さを感じます。従って、貴方の知る人々と意思の疎通を図ろうとする際は、大抵、そうした姿をまといます。しかし生きている人々とコミュニケートするには、その人と関わりをもっていた頃の姿をまとう可能性もあります。 このような死後の環境は、必ずしも他の惑星に存在するわけではありません。こうした環境が空間を占拠することはないのです。ですから「死後の環境全ては、どこで展開しているのか?」という疑問は、根本的(高次元の)見地からしても無意味になります。 こうした疑問が生じるのは、貴方がた自身が現実の本質を誤って理解している結果です。ですから、ある場所が、ある特定の位置に存在しているわけではありません。死後の環境は貴方がたに知覚されることなく、貴方がたが知る物質界に囲まれて存在しているのです。 貴方がたの知覚メカニズムは、死後の環境のある領域に触れることをまったく許していません。貴方がたは極めて特殊化され、限定された場に暮らしています。 (簡単にいえば、三次元「空間人」といえる。) 先の章でも述べたように、例えば、貴方の「死」という現実も、他の様々な現実と同時に、同じ場所に存在しているのです。貴方はただ物質的な所有物を全て捨て去り、異なるエネルギー場に同調し、異なる「基本事項」の一群に反応していくだけでよいのです。 (様々な想念による波動の世界があるが、物質界は、その波動の重ね合わせが、比較的固定化されている世界で、人間の意識は、波動が固定化している「基本事項」の一群を認識し、その条件を基に空間や時間を展開している。無意識に数学者も驚くような計算を行なっている。) このような異なる(高次元の)見地から見た場合、死後の貴方は物質的現実もある程度なら知覚できます。 しかし、貴方の現実と物質的現実を分断するエネルギー場が存在します。貴方がたの空間概念は、その全体が極度に歪曲されているため、真実を説明することが極めて困難なのです。少しお待ちいただければと思います。 (極度に歪曲されているので、相対論が有効になるようだ。) 貴方がたの知覚メカニズムは例えば、物質とは中身の詰まった状態であると主張し、それゆえ空間もまた存在する、と主張します。このような肉体の感覚器官が、現在貴方に伝えてくる物質の本質は、全くの誤りです。 また、肉体の感覚器官が、空間について伝えている情報も、同じくらい間違っています。つまり根本的な(高次元の)現実という観点から見て、誤りであるということです。しかし、そうした誤りも、三次元的な概念とはうまく釣り合いを保っていることは言うまでもありません。 (三次元の直線的な思考では、生物現象が捉えられず、非線形現象になってしまうことからもわかる。生物現象を、統計で解析するのは出鱈目で愚の骨頂である。マスゴミが発表する官僚データも出鱈目で、実際、検証してみればわかるがほとんどが間違い。) 寝ている状態での体外離脱の体験においては、空間についても、死後に遭遇することになる多くの問題と遭遇することになります。従って、そうしたエピソードのなかでは、時空間の真の本質がより明らかになります。 例えば、死後には空間を通り抜けるのに時間はかかりません。空間は、距離という観点から存在するものではないのです。それは妄影にすぎません。 (全てが想念の波動からつくられるので、空間は、静的なものではない。数学的にいうと、ユークリッドではなく、リーマン面がいくつも重なりあっているような感じ。リーマン面を微分することで、ユークリッド空間を取り出し、想定しているようである。) 境界は存在しますが、それらは観念的、あるいは霊的な境界です。例えば体験の鮮烈度(強度)が、貴方の現実でのキロメートルやマイルで測れる距離に置き換えられて解釈されることもあります。 死後、気がついてみると、貴方は訓練施設にいるかもしれません。理論上、いまその施股が、物質空間に存在する、現在の貴方の居間の真ん中に位置していてもおかしくないのです。 しかし、亡くなっている貴方と、まだご存命の貴方の家族―腰を下ろして、おそらく貴方のことを思っているかもしれませんし、新聞を読んでいるかもしれませんが―との間の距離は、貴方の知る空間とは全く無関係です。 その時の貴方は、仮に月にいると仮定した場合よりも、家族から離れていることになるのです。 貴方が、意識の集中点を、(意識の)中心から外せば、理論上は、部屋やその居住者が見えるはずですが、それでも部屋や居住者と貴方の間には、キロメートルやマイルで測ることのできない距離が存在することになります。 (3次元の物質世界は、意識が自己を投影している世界だから、意識はいわば映写機で、映写機から映されるスクリーンの物質世界に集中点をうつすということ。 このことは、コンピュータのネットワークの世界を、物質世界に喩えて考えるとよくわかる。ネットワークの特定のサイトをみるには、コンピュータがないと駄目で、ネットワークの世界での知り合いは、ネットワークでの情報のやり取りがないと駄目なのと同じ。) 第10章 セッション538…:1970年6月29日(月曜日)午後9時7分 さて……第10章は「生のなかの『死』という状態」です。 死後の体験も、現在の貴方がたが、普段それと酷似した体験(睡眠中)に遭遇していることがわかれば、それほど異質で不可解なことではなくなるでしょう。 貴方がたは睡眠中や夢見の状態においても、死後と同様の現実に関わり、死後を体験しています。かような夜ごとの冒険譚の最重要部を思い出せないため、貴方がたは夢について覚えている事柄を、概して突飛で無秩序に感じるのです。 これは単に、現在の貴方がたの進化の段階では、2つ以上の環境のなかで、意識の管理をするのが不可能だからです。(あの世とこの世の意識の統合ができない。この統合ができると、死ななくなる。) しかし肉体が眠っている間も、貴方がたは一貫した意図をもつ創造的な姿勢で、意識として存在しています。そして、私が申しあげている、死後にも出遭う、多くの活動を遂行されています。 貴方はただ主な意識の焦点を、異次元の活動に向けるだけでよく、その次元での貴方は、途切れることなく進み進化しているのです。 さて、貴方には目を醒ましている時の生活の記憶があり、そうした記憶の大部分は日常の物質的な遭遇のために保たれています。また、この記憶の泉は、自分の毎日が連続していることを確信させてくれるものです。 一方、夢境の自己にも同様に、それと匹敵する大きな記憶の泉があります。昼間の日常生活に連続性があるように、睡眠時の生活にも連続性があるのです。 従って、貴方には、夢境において遭遇した出来事や体験を全て逐一認識している部分があります。貴方の日常生活が妄想でないのと同様に、夢も妄想ではありません。夢境の自己からみれば、逆に目を醒ましている肉体的自己が夢主となります。 貴方とは、夢境の自己が送り出している夢主なのです。 そして貴方の日常体験は、「夢境の自己」の見る夢です。従って、貴方がたは、「夢境の自己」を観察したり検討したりする時に、自分の「現実(リアリティ)」は実在するが、「夢境の自己」の現実(リアリティ)は妄影であると極めて偏った見方をしていることになります。 (夢のなかの自己を無視する習性をもっている。唯物論に染まったせい。) ところが「夢境の自己」の現実の方が、貴方の本然の在り方に遥かに近いものなのです。もし貴方が夢の状況のなかに首尾一貫性を見出せないなら、それは自身を催眠術にかけ、一貫性の不在を信じ込ませているからです。 無論、目醒めた貴方は、夜ごとの冒険譚を物質的な言語に置き換えようとするでしょうし、しばしば現実の本質が歪曲されている、限られた現実に無理にはめ込もうとするでしょうが。 それは、ある程度は当然の行為でしょう。貴方がたが、意識の焦点を日常生活に定めていることには理由があります。そうした在り方を、ある挑戦として採択したのです。しかし、そうした体制にありながら、成長し、進化し、自らの意識の限界を拡げていくことに重要な意味があるのです。 目を醒ましている時の状態よりも、眠っている時の状態のほうが多くの意味で影響力が大きく、創造的である、ということを認めるのは、かなり難しいことでしょう。あまつさえ、夢境の体が、時間や空間をものともせず、本当に宙を飛べる、ということを認めるのは、いささか衝撃的でさえあります。 そうした夢での体験は全て象徴で、事実ではない、と思ってみたり、例えば空飛ぶ夢の解釈を試みるなど厄介な心理学の理論を導き出すほうが、遥かに容易なことです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。何度もいうが、我々の一人一人の想念が世界をつくりあげている。3次元世界は、それら目にみえない想念の多くが重ね合わさった世界なので、我々一人一人が心を改めれば、3次元世界は変わるのである。戦争だってなくなるし、人間の死だってなくなる。「死ぬ」ってなんだ、となる。
2013年09月04日
コメント(0)
前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ さて……このような案内役を務めるには、多くの修養や訓練が要求されます。 例えば、案内人として、いまお話したような出来事を体験する前に、私は幾つもの転生のなかで、毎日の睡眠時に、案内を得意とする教師のもとで、案内を学んでいました。 創り出された幻影のなかで、一時、自分自身を見失ってしまうような可能性もあり、そうした場合は、師に救い出してもらわねばなりません。あまつさえ微妙な精神の過程を、細心の注意を傾けて綿密に調査することも求められます。 巻き込まれる幻影のバリエーションは無限に存在します。例えば、死者が生前心底慈しんでいた亡きペットの動物に、姿を変えることもあり得るのです。 そうした幻影を伴う活動は全て、死して間もない時期に起こるのが普通です。なかには死後、自分の置かれた状況を充分に把握できる人もいますが、それは生前、それなりの修養を積んで進化を遂げている場合であり、そうした人は望めば、休息を経た時点で次なる段階に進む準備が完了したことになります。 そのような人は、例えば別の転生での人格も認識でき、そうした転生で出会っていた人格存在も容易に認識できるようになります。ただし、それらの人格存在が、既に別の何かに意識を集中している場合は、認識できない場合もあります。 また、当の人格存在は、その時点で故意に過去世の特定部分を幻影で形づくったり、「追体験」を選択するかもしれません。それから自身を見つめ直す内観の時期があり、いわば弁明や申し開きの機会とも言えるその時に、自分の行い全てと能力や弱点を見つめたうえで、再び「物質存在」に戻るかどうかを選択します。 実に、この段階は誰もが体験する可能性がありますが、内観の段階だけは例外で、完全に避けて通る人も少なくありません。この段階で最重要なのは感情ですから、親しかった人が迎えてくれれば、それに越したことはありません。 しかし、そうした人が既に他の段階での活動へと進んでしまっている例も少なからずあり、その場合にはしばしば案内役が親しかった人の姿を一定期間まといます。そうすることで、貴方がたとの間に確かな信頼が成立するからです。 こうしたことが必要となるのは、言うまでもなく生前大抵の人が、肉体を離れることは不可能なのだから、体外離脱などできるわけがない、と決めつけているからなのです。死者が、死後において遭遇する状況を理解するには、言葉による説明よりも遥かに体験のほうが効果があります。 (百聞は一見にしかず。) 覚えておいていただきたいのは、貴方がたの物質存在は、ある意味では集団的な幻影の結果である、ということです。ある個人の現実と、別の個人の現実との間には、大きな隔たりが存在するのです。 死後の体験には、現在の貴方がたが知る体験に匹敵するほど、極めて複雑に入り組んだ構造があります。それが何であるか、を気づいていないのは当人だけで、現在の貴方がたにも一人一人に関わる幻影があるのです。 これまで論じてきたような幻影、すなわち鮮烈な象徴的存在(モーゼ等)との遭遇は、睡眠の最中にも起こり得ます。それは、人格存在が大転機を迎えようとしている時、または対極の概念同士が統合されなければならない時、あるいは一方が他方に道を明け渡さなくてはならない時に起こります。 そうした邂逅は、生前に起きようと、死後に起きようと、精神的にも霊的にも非常に感動的で意義深い出来事となります。 そうした出来事は、夢のなかで起こりながら、魂の進化の流れを変えることさえあります。死を迎えた人のなかには、自分の(生前の)人生を、動物として視覚化する人もいます。 そういった葛藤や邂逅は、絶大な効果をもたらすことになります。なぜなら人は、自己の全てを受け入れる必要があるからです。 この場合、その幻影が、自分が、その動物(人生)に乗っている光景、動物(人生)を飼い馴らしている光景、動物(人生)を殺している光景、動物(人生)に殺されている光景、その動物(人生)と仲良くしている光景などのうち、どの状態で終わるにしても、それぞれの選択肢は……一つ一つ慎重に検討され、その結果は当人の今後の進化に大きく関わってくることになります。 この「人生の象徴化」という方法は、生前に内観を軽んじていた人々に対して適用される可能性があります。従って、それもまた個人が自らの人生を映像として顕現し、それに取り組んでいく、という内観の一過程なのです。 このやり方が、全ての人に適用されるわけではありませんが、時として、このような一連のエピソードが求められることもあります……。 セッション537……1970年6月24日(水曜日)午後9時24分 ルパート(霊媒)の生徒のどなたかが、「死後まもない体験には、何か系統だてられた構造のようなものがあるのか」という質問をされていたようですが、多くの方々が同様な疑問を抱かれていると思いますので、ここで説明しておきます。 まず、私がこれまでに述べてきたことからも、死後の現実が1つではなく、そこでの体験もそれぞれ異なっていることは明白です。しかし概して、そうした個人的体験が落ち着く次元というのが存在します。 例えば、亡くなった後も過度に物質的現実に意識を集中していたり、一定の回復期間や休養期間を必要とする人に関しては、最初に通過すべき段階があります。この段階のために、病院や療養所(訓練施設)が創られています。そこに収容される患者は、自分に患う部分などないことを理解していません。 なかには、病気である、という思い込みがあまりに強いため、その心理的概念を基にして、地上の年月を築いてしまった人もいます。それらの人は地上での古い体の病態を、新しい体にも投影します。 かような患者には、様々な霊的な治療が施され、自分の容態が、自らの信念によってもたらされたことを諭されます。 さて、この特別な期間を通過する必要のある人は多くありません。そうした病院や訓練施設は、もちろん貴方がたの言う「物質的な事物」ではありません。実際それらの施設は、死者に必要な計画を実践している案内人たちによって、往々にして一纏めに維持されているのです。 これを集団幻影と呼ばれても結構です。しかしそうした現実に直面した人々にとって、そこでの出来事は極めてリアルに感じるのも事実です。 訓練施設においては、当人の理解力や知覚力に応じて、現実の本質についての説明がなされます。少なくともそこでの最初の時点では、当人にとって親しみのある譬え話が用いられる場合がありますが、その後は徐々に省略されていきます。 また、それらの施設には、物質的な環境へ戻ることを選んだ人々のための教室があり、後々役立つ指導が行われています。 言い換えれば、そこで学ぶ人は、感情や思いを物質的な実在に置き換える方法を教わるのです。そうした思いの発端と、その実現化との間には、3次元体系にあったような時間によるズレは存在しません。 (思ったら即座に実現する。) 以上が、大体1つの段階の枠内で起こります。しかし、私が、問題をある程度簡略化して述べていることをどうかご理解ください。例えば、そうした期間を体験しない人もいるのです。 ですが、それはこれまでの転生での成長と進化の結果であって、訓練施設を必要としない人は、より意欲的なプログラムを開始する準備が既に整っている人なのです。 さて、そうした成長や進化についてはこれまでにも述べてきました。読者の方々は、自らの超自然的能力におそらく少しも気づいておられないため、自分は、当面、死後の訓練として、長期の訓練施設滞在の羽目になるのかと思われるかもしれません。 取り急ぎ申しあげますが、そうした超自然的能力全てが、意織的に生じるとは限りません。ただ、それらの多くは貴方がたが自覚していない睡眠状態にあって発揮されているのです。 さて、貴方がたは死を迎えても、自分の死を認めることを真っ向から拒み、生前知っていた人に感情的なエネルギーを集中し続ける場合があります。 例えばもし生前、何らかの計画に取り憑かれていれば、それを貫徹しようとします。そこには常に案内人が赴き、置かれた状況をより正確に理解できるよう手を差し伸べてくれるでしょう。しかし、貴方がたは案内人の忠告に耳も貸さないほど、自らの執着事に専心没頭している場合もあるのです。 さて……幽霊と呼ばれる存在については、別に論じる機会を作ることにいたします。物質的現実への感情的な思い入れ、つまり執着があまりに強い場合、貴方がたの進化はそこで停滞します。ここではそのことを述べるのみで充分でしょう。 意識が肉体を離れ、そのまま時が経てば、むろん意識と肉体との繋がりは断たれてしまいます。体外離脱の場合には、その繋がりは維持されています。さて、死を迎えた人でも死の体験を全く誤解し、もう一度もとの肉体に入ろうとする場合があります。 その人格存在が、肉体像のみを自己として信じて疑わなかった場合には、こうした事態に陥る可能性があるのです。 これはさほど頻繁に起こることではありませんが、それでも、そうした人は様々な状況のもとで、肉体の機能を再度動かそうとします。それで思うようにならないことがわかると、更なるパニック状態を来すことになります。 また、なかには、死後の自分が意識体であることを自覚しておらず、弔問客が去った後まで長いあいだ自分の遺体にすがって泣く人もいます……そうした事態が起きるのは、例えば当人が長く病床にあったり、修復できない臓器の損傷があったなどという場合です。 かような人は、まるで骨をくわえ、振り回している犬のように見えます。一方、肉体と意識を完全には同一視していなかった人は、比較的容易に肉体を後にできます。 奇妙なことに、生前自らの肉体を毛嫌いしていた人ほど、死の直後には、その肉体に強く惹かれるようです。 こうした全ての情況は、亡くなった当人によって起きたり起きなかったりします。しかし、物質的肉体から離れた直後に、貴方がたは別の体をまとっていることに気づくでしょう。その体は、体外離脱して動きまわる時にまとうのと同じ種類の形態です。 そして読者の方々に再度申しあげますが、貴方がたは毎晩の睡眠中、しばらくの間は体外離脱の状態にあるのです。 この形態は物質であるかに見えますが、物質的肉体をまとっている人には普通は見ることができません。その形態をまとった貴方がたは、夢境でできることなら何でもできます。従って空も飛べますし、堅固な物質であっても通り抜けできます。 また、その形態は直接貴方の意志で動かせるので、ある1つの場所から別の場所へと、その2つの場所を思い浮かべるだけで移動できます。 もし、ニューヨーク州のポキプシー市にいるサリー叔母さんは今頃どうしているかな、と思われたとしますと、貴方は既に、その場所におられる、といった具合です。ところが、通例、その状態では、物質を動かすことはできません。 つまり卓上ライトを持ち上げたり、皿を投げたりはできないのです。かような体は即座に貴方のものとなりますが、貴方がまとうことになる形態は、それだけではありません。実際、その形態は新しいものではなく、現時点でも貴方の物質的肉体と重なりあって存在しているのですが、それを知覚していないだけです。 死が訪れてからしばらくの間は、それが貴方に認織できる唯一の体となります。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月03日
コメント(0)
前回からの続き。 ☆ ☆ ☆ セッション536……1970年6月22日(月曜日)午後9時18分 貴方がたの知る意識は、勿論肉体の死がやってくる前にも、完全に肉体を離れることがあります。先にも述べたように、本当は「死の瞬間」と呼べるものは存在しないのですが、貴方がたの便宜のために、あえてそうした瞬間が存在すると仮定して話を進めています。 さて、貴方がたの意識での自己は、……貴方がたの意識が肉体という有機体を離れるとき、その状況によって意識の去り方は様々です。意識が去った後の肉体自体は、ある程度まで機能し続ける場合もありますが、それまでいた指揮者がいなくなり、組織としての統率を欠いた状態で機能することになります。 肝心要の意識が去った後でも、原子や分子や臓器などといった、それほど複雑でない意識は、しばらくの間は存在し続けることになります。 (臓器移植が可能な理由だが、生着がよくないのは指揮者が違うため。) 肉体を去った後は、信念や進化の度合いによって、混乱が生じる場合とそうでない場合とがあります。私がここで言う「進化」とは、必ずしも知的な進化を意味するわけではありません。そもそも知性とは、感情や直感と手に手を携えて進むべきものなのですが、知性があまりにも激しく、それらに抗う立場をとることがあります。 そうした場合は、せっかく新たな自由を手にしたばかりの意識が、実際に体験している特定の現実に対峙せずに、生前に抱いていた死後の概念に飛びつくため、当人が困難に直面することになります。 そうした主知的な思い入れは、言い換えれば、感じることを否定し、いまそうして肉体から独立して存在している自分をも、「そんなはずはない」と説き伏せようとするのです。 (自分の意見が常に正しい、と思う人は要注意) 繰り返しになりますが、人によっては、あくまでも死が全ての終わりである、という確信があまりに強いため、その結果として忘却を生じさせます。 しかし、その忘却は一時的で、多くの場合、肉体を離れて間もない時には当然、驚倒し、状況を把握しようとします。自分の亡骸を目にすることもあります。 例えば、葬式参列者のなかに、賓客とでも言うべき当の本人が混じっていることも珍しくはなく、大きな驚きと好奇心をもって(自分の)遺体の顔を凝視するのです。 死者の態度に、まこと様々なバリエーションが現われるのはこの時点ですが、そのどれもが当人の文化的背景や知織や習慣に起因しています。その時の死者を取り巻く状況も大抵まちまちで、変化に富んでいます。 鮮やかな幻影が、まるで地上での生のようにリアルな体験として繰り広げられることもあります。 さて、私は貴方がたに、「思考や感情が物質的現実を創り出すこと」をお伝えしてきましたが、それらは同様に死後の体験をも形づくります。しかしそれは死後の体験に、存在の意味がないというのではありません。肉体的な生の体験が存在の意味に欠けたものではない、のと同じなのです。 生から死へというような、ある在り方から別の在り方への移行を象徴化して、色々と特定のイメージが用いられてきましたが、その多くは、死者が(次元)移行の構造を理解する上で大変重要な拠り所となります。 「三途の川を渡る」というのも、その一例です。 〔原書ではステユクス川。ギリシャ神話に登場する冥界との境にある川。〕 死にゆく人々は多かれ少なかれ、死後、混乱なく先に進めるように特定の手順に導かれることを期待しています。死後のそうした案内図(三途の川)が生前に知らされていた場合には、死の訪れと同時に、意識は三途の川の幻影をありありと引き起こします。 その時点で既に亡くなっている親族や友人もその通過儀礼に参加しますが、彼らにとってもこれは非常に意義の深い祭典となります。三途の川は、生前に知る川と見まがわぬほどリアルですから、単独の旅人が予備知識なくして渡るにはいささか危険に映るものです。 そこで案内人たちが川のたもとにあって、旅人が川を渡る時に先導してくれるのです。 そのような川は幻影と言ってみたところで何の役にも立ちません。おわかりかと思いますが、こうした象徴とは、すなわち現実なのです。その道程は、既に計画されていたものなのです。 このような特定の案内図は、以前に比べて現在ではそれほど用いられることがなくなりました。生きている人たちも、もはやその案内図の読み方が理解できないのです。キリスト教では、天国と地獄、煉獄、あるいは最後の審判などが信じられています。 それゆえ、そうした概念を信条として抱いていた人々は、死に際して三途の川とはまた別の通過儀礼を呼び起こします。そこでの案内人たちは、死者が生前に信仰していたキリスト教の聖者や英雄の姿をまといます。 (通過儀礼を、霊的な葬式で行なうようである。) 死者はそうした状況の枠組みのなかで、彼らに理解できる言葉で、自分の置かれた本当の状況を知らされるのです。何世紀にもわたり多数の信者を抱えて展開してきた宗教は、人が死後に従うべき手順を示すという目的を果たしてきたことになります。 たとえそれが後になって、子供がはじめて出会う色彩豊かな物語などの絵本の大人版であるかのように思えたとしても、それらは死後の混乱をなるべく抑えるという目的を取りあえず遂げたわけですから、それはそれでよいのです。 世界規模での大宗教の教義が制定されていなかった時代には、現在よりも大きな混乱が見られました。また、死後の生が真っ向から否定されていた時代には、問題が拡大されたこともありました。 ですから死後になって自分の意識がまだ存続していることに気づき、多くの死者が大喜びしたことは言うまでもありません。一方で、自らの思考や感情に創造的な可能性が秘められていることに気づかなかった人々は、特定の行動(高次元世界)を司る法則を再び一から学び直さねばなりません。 死者はまた、そうした状況の背後にある理由を理解しないまま、一瞬に例えば、数十の異なる環境に置かれた自分の姿を見ることになります。それらの環境に連続性はまるでなく、1つの体験からまた次へと、ただ闇雲に放り出されるがごときの状態に甘んじなければなりません。 (自分とよく似た双子のドッペルゲンガーに出会うともいわれている。つまり、自分が生前英雄視していた存在。ナルシストなら、ドッペルゲンガーのような自分に出会うかもしれない。) それは極めて文字通り、まさに己の思念が自分をして、そう駆り立てているにすぎないのですが、本人は全くそのことに気づいていないのです。 私が今ここで述べているのは、死の直後に体験する出来事であり、それとは別の段階も存在します。死者が最初の段階から先へ進めるようにと、案内人たちは貴方の幻影の一部となりながら手を差し伸べてくれるのですが、それにはまず何よりも、貴方の信頼を得ることが大切です。 貴方がたの観点で言う「ある時」、私もそうした案内役の務めを担っていました。現在のルパート(霊媒)も眠っている状態では同様の道を歩んでいます。案内人の立場では、最大級の心理上の思慮分別を行使しなければならないため、状況はなかなか油断なりません。 私はそうしたなかで、同じ信仰の対象であっても、その意味は人によって同じではないことを発見するに至ったのです。私は何度も、かなり説得力のあるモーゼの姿で務めにあたりましたが、信じ難いことに一度だけ、その姿でイスラム教徒のアラブ人の前に現われたことがあったのです。 そのアラブ人は非常に面白い人格の持ち主で、そこで生じた幾つかの困難を明確にするためにも、その人物について少し説明しておきましょう。 彼はユダヤ人を忌み嫌っていたにも関わらず、どういうわけか自らの神アッラー[イスラム教の唯一神]よりも、モーゼ[ユダヤの英雄的存在]のほうが強い、という思いに取り憑かれていました。 そして、そのことを良心に巣食うやましさとして、長年自分だけの秘密にしていたのです。十字軍の時代、彼はコンスタンティノープルに滞在していました。彼は捕らえられ、トルコ人の一団と一緒にされますが、このとき彼を含む全員がキリスト教徒によって非常に残虐なやり方で処刑されました。 処刑の皮切りとして、キリスト教徒たちは彼のロをこじ開けて、なかに灼熱の石炭を詰め込んだのでした。彼はアッラーに助命を嘆願しますが、極度の絶望のなか、かくなる上はモーゼに縋ろうしたその瞬間、彼の意識は肉体を離れました。従って、そこで彼を出迎えたのはモーゼだったのです。 彼は、意識の深部で、アッラーよりもモーゼを信仰していたのでした。だから私は最後の最後まで自分がどのような姿をまとうべきかわかりませんでした。彼はなかなか好感のもてる男で、この状況においても、彼の魂は闘いを期待していることが見て取れましたが、私はそれも厭いませんでした。 彼にとっては、モーゼとアッラーは闘うべく存在だったのです。彼は、自分がそうした暴力行為によって殺されたにも関わらず、権力の名の下に行使される暴力行為を是認する、という考えから抜けきれていませんでした。 従って彼は、何らかの戦闘行為を経ずして、平和や安堵や休息を受け入れることなど納得できなかったのです。 私は自分の同胞と、他の存在たちと一緒に、その場に臨んでおりましたが、天空で対面する雲となったアッラーと私(モーゼに化けた)が、雲間から、彼の魂に対する権利を声高に主張するなか、この気の毒な男は、私たちに挟まれてすっかり畏縮していました。 いま、私はユーモアを交えて話しておりますが、「この男の信じる死後が、その状況を引き起こしている」ことを理解していただく必要があります。つまり、私たちは彼を自由にするために、その状況に取り組んだのです。 私はヤハウェ[ユダヤ教すなわち旧約聖書の唯一神、エホバ神]を呼び出しましたが、それは徒労に終わりました。そのアラブの男はヤハウェを知らなかったのです。彼が知っていたのはモーゼただ一人で、そのモーゼを信じていたのでした。 アッラーは天界の剣を引き抜きましたが、私(モーゼ)がそれを炎で包み込んだので、剣はアッラーの手から地上に落ち、地表が火の海になりました。アラブの男は再び泣き叫びました。 アッラーは背後に信奉者たちの一団を従え、私の背後にも信奉者の一団が姿を現わしました。わがアラブ人の友は、われわれ三人のうち誰か一人が滅ぼされねばならぬと思い込み、犠牲になるのは自分に違いないと大きな恐怖にかられました。 とうとう対峙する雲として出現した私たちは、徐々に接近していきました。私は「汝、殺すなかれ」と刻まれた銘板を手にし、アッラーは剣を手にしていました。私とアッラーは更に近づいていくと、手にしていたものを交換し合い、双方の信奉者たちは混ざり合ったのです。 私たちは一緒になり、ともに「太陽」のイメージを形づくり、こう言いました。「私たちは、1つです。」 真っ向から睨み合っていた2つの対立概念は、融合する必要があったのです。さもなくは、その男に平穏が訪れることはありませんでした。そして、それらの対立概念が「統合しなおされてはじめて、我々は彼の置かれた状況を彼に説明できたのです。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月03日
コメント(0)
巷ではオバカが軍事介入に必死になっているが、軍事介入よりも兵器をつくらない売らないのが先決である。兵器は人殺しを目的につくられるわけで、兵器をつくることは人殺しで利益を上げることを想定しているので、兵器をつくる奴が一番悪いわけだから、つくった奴を処罰すべきであるし、武器屋を解体すべきである。 化学兵器の使用に対して軍事介入するのは、軍事介入する口実のために、そのような兵器を利用しマッチポンプになっているわけで、人殺しや、兵器をつくることを正当化する行為で、兵器をこの世からなくす努力を怠り益々兵器を増やすことになる。 そのような如何わしさは、イラク戦争で全人類は知ってしまったので、アホリカの軍事介入が怪しいのはミエミエでイラク戦争ですら、いまだに当事者の嘘を処罰できないでいる。オバカはオバカである。私にはオバカがサルにみえてしかたがない。 サルに従うアホ議会なら米国憲法など猫に小判で、これからはアメリカ動物園と呼び人類から追放し格下げすべきである。 アメリカ人は馬鹿なのか、米国憲法を知る者がほとんどいないせいで、武器屋の利益のために、何度となく、勝利の美酒の名の下に、米国市民は戦場へと送られてきた。米国市民は目覚めるべきだし、他国内政不干渉のワシントンの建国の精神を思い出すべきである。 アホに支援されるオバカはアホからオバカというお墨付きをもらったようだ! アバカのアメリカ動物園がいかに恐怖感を煽ろうが、セスの話によれば意識はなくなることはないので人は死なないから、安心して裸の王様であるアホやオバカをアホやオバカと告発すべきである。 多くの人々を殺して金儲けする国家が人類に必要なのか?を問うべきである。 さて、セスの話を続けるが、その前に、昨日TVのとある医療番組で「不眠症の対策には、朝日を浴びることと、夕方明るい光を浴びないこと」がメラトニンの分泌から現代医学でも提唱されていたが、第8章のセスの話の「日が昇る時に起きるべき」、「夕食後に仮眠をとるべき」とほとんど同じことを言っていることから、読者にはセスの話が十分に納得頂けただろう。 セスの話によれば、我々は起きているときにだけ仕事をしているのではなく、寝ているときも、あの世に行って仕事をしているそうだ。だから十分な睡眠をとらないと、あちらの仕事を怠ることになるが、十分というのは何度もいうが長い時間寝ていることではない。 短い時間の睡眠を何回もとることであるという。そして、あちらの意識とこちらの意識を統合することが重要なのである。現代人の問題点は、あちらの意識を無視するあまりに、意識が分裂し、なかには、自己内部で闘争している人もいて、それが不眠症につながっているという話だった。さて、セスの話を続ける。 ☆ ☆ ☆ 例えば老衰では、多くの場合、人格の強固へと整理組織化がなされた部分は、既に肉体を離れ、新たな環境に出会っています。死に対する恐れ自体が、精神的な一種の恐慌状態の原因になるため、自己存在の自衛の配慮から昏睡状態になるまで意識活動を低下させる場合もあり、そうした場合は回復に時間がかかることもあります。 天国と地獄の中間にあり、死者がまずそこで火によって清められる、という煉獄の存在を謳うカトリックの教えを信仰していれば、死後にはそうした死者の国を幻妄として引き起こすことになります。 典型的な天国の存在を信じていれば、天国のような幻を体験することになります。貴方がたは常に自らの思いや期待から、自身の現実を織り上げているのです。 意識自体がどのような現実に置かれていようと、意識の本質に変わりはありません。ご安心いただきたいのですが、そうした幻影はすべて一時的なものです。 意織は自らの能力を使っていくべきものです。何かになろうとして奮闘中の貴方がたの意識は、天国や極楽浄土という固定概念における倦怠と停滞に、きっとそう長くは甘んじていることができないでしょう。 死後に貴方を取り巻く環境や状況を説明してくれる教師たちも存在しますので、貴方は幻影の迷路のなかで道を見失ったり、放置されることはありません。肉体の死を迎えたことを認識するまでの時間は人によって違いますが、すぐに認識できる人もいます。 死後の貴方がたは今とは別の形態を纏います。その身体像は、肉体的な手段を用いて機能させようとしなければ、かなり物質的に見えるでしょう。しかし機能させようとした途端、生前の肉体との違いが歴然とします。 自分の肉体が、意識を創り上げたものと確信して疑わない場合は、死後も肉体にしがみつこうとするでしょう。しかし、いわば守護役とでも言うべき人格存在たちの一団があり、必要とあらば、いつでも貴方に手を貸したり力添えできるようになっています。 そうした守護役としての存在のなかには、貴方がたの言う「生きている人」も「既に亡くなっている人」もいます。貴方がたの現実体系で生きる人が守護役の活動を行なうのは、自分の肉体が眠っていて、意識が「体外離脱」の状態にある時です。 そのような人は、意識の感覚を伴う投影に充分慣れており、死者と同じように肉体を離れてはいるものの、もはや肉体に戻ることのない(死者の)意識が、自身の置かれた状況を理解するのを助けます。 そうした人はまだ物質的現実に関与し、貴方がたの世界の側での思いや感情を即座に理解できるため、とりわけ死者の力になれるのです。この崇高な活動については、記憶している人も、記憶していない人もいます。 意識を投影する体験や、意識の流動性についての知識は、そのような理由から死に備えるという意味で大いに役立つことになります。死後の環境、いわば死後に遭遇する状況は、生きているうちに前もって体験したり、知識を得ることが可能なのです。 ついでに申しあげますが、こうした前体験が、悲愴感漂う暗澹たるものである必要はありません。死後の環境は、そもそも暗くも悲しくもないのです。それどころか、貴方がたが知る現実よりも、概して遥かに密度の高い法悦に満ちたものです。 異なる法則が適用される新たな環境のもとで、貴方がたはただ無邪気に動き、進化することを学びます。そこでの法則は、現在の貴方がたを縛(いまし)めている一連の物理法則よりも遥かに制限のないものです。 言い換えれば、新しい自由の形を学び、理解し、そして謳歌する必要が生まれるということです。 そこでの体験も極めて多様性に富むものです。そして、それもまた「何かになろうとしている状態」の1つの段階なのです。なぜなら、そこに在る意識の大半は、そこからまた別の物質界の生へと進んでいくからです。 なかには、まったく異なる(次元の)現実体系に生き、そこで自らの能力を伸ばしていこうとする存在もあり、それらの存在はこの「中間の生的」な状況にしばらくとどまることになります。 さて、怠け者を自負されている方々にとっては、幸先はあまり明るくないようです。死んだら永遠に休んでいられるわけではないからです。無論、休養されてもよいのです―それを望めばですが。しかし、それもしばらくの間です。 死後の貴方がたは、自分の能力を発揮していかなければならない、というだけでなく、直前の人生において用いなかった能力にも直面しなければならないからです。 死後の生を確信していた人は、そうでなかった人に比べて、死後の新しい状況に慣れることはそれほど難しくありません。そういった確信がもてない人々も、他の方法によって確信できるようになります。 その方法とは、後ほど私が本書で紹介させていただく練習を行なうことで、確信できるようになります。あくまでやり抜く意志と決意があり、期待をもって臨まれるのであれば、それらの練習によって、自らの知覚力を別の(次元)層の現実にまで拡大できるでしょう。 現在貴方がたの意識は、先にも述べた「物質が非存在の短い間隙」を無視している状態にあります。非存在の間隙が長引くと、程度は様々ながら、意識は困惑することになりますが、そうした切れ目は珍しいことではありません。 物質体が眠っているとき、意識はしばしば、貴方がたの言葉で「かなり長い時間」、肉体を離れます。しかしその時点での意識が、肉体にいて目を醒ましている通常意識ではないため、その切れ目に気づかずに、比較的、無頓着でいられるのです。 肉体が目を醒ましている通常意識で、睡眠時と同じだけ意識が肉体を留守にすれば、意識は、その状態を「死」と見なします。なぜなら、その状態にある、(覚醒)意識には、次元や日常体験の切れ目を合理的に説明できないからです。 従って、貴方がたは誰もが死に際に体験する、物質的現実での不在と、意識が認識する同じ状態を―ある程度ではありますが―既に睡眠中に経験ずみなのです。 睡眠の場合には、貴方がたは再び肉体に戻って行かれるのですが、その時、既に何度も何度も別世界(次元界)への敷居を跨いでおられるわけですから、「死」といえども、貴方がたが現在考えておられるほど不慣れではないのです。 ここで紹介させていただく練習に着手される方の全員が、その際お教えする「夢の回想」をはじめとした精神の修練を通して、極めて明解に把握できるようになるでしょう。 さて、貴方がたは死後、すぐに友人や親類の方々の出迎えに会う場合もあれば、そうでない場合もあります。これはいつもながら個人レベルに属することなのです。例えば、総合的に見た場合、貴方がたは今世で親しい間柄の人よりも、前世で関わりのあった人にずっと興味を抱かれるようです。 貴方の死後、やはり既に亡くなっている親類の方々に対する嘘偽りのない思いや感情が、貴方自身にも、その親類の方々にも知られるところとなります。そこでは偽善的関係は存在しません。 貴方の愛情や敬意に値することを何もしなかった親に対して、敬愛の振りをする必要もなくなります。死後のそうした期間にはテレパシーが歪められることなく作用するため、貴方を待っている親類や友人たち全員との嘘偽りない関係と向き合うことになるのです。 貴方が敵としか見なせなかった人が、実際は貴方の愛情と敬意を受けるに値する人物である可能性もあり、それがわかった暁には、その人物に対して、それ相応に接することになるでしょう。 貴方がたの動機や目的は、水晶のように一片の曇りさえもなくなります。そしてその曇りのなさに応じていくのですが、あくまでも貴方独自のやり方が尊重されます。生前の貴方と比較して、死後に賢くなるわけではありません。 しかし同時に自らの偽りのない気持ちや感情や目的を、意図的に隠し通す必要もなくなります。不本意な動機や目的を受け入れるのか、またそれから何を学ぶのか、などといった選択もまた貴方に委ねられます。 成長や進化に繋がる機会はふんだんにありますが、自らの自由な裁量によって学びの方法を決めることで、極めて大きな効果がもたらされるのです。 貴方がたは後に残してきた生前の人生を検証することで、生前の体験が自分のどんな思念や感情の結果であったのか、それらがどのように他者に影響を及ぼしていたのか、を理解すべく学んでいきます。 この学びが完全に修了するまでは、自らのなかの壮大な存在に気づくことはありません。貴方がたが後にしてきた転生の意義や目的に気づいてはじめて、それ以外の自己の存在についての知識を意識的に取り入れる準備ができるのです。 そして貴方がたは、理解の拡がりに通じることになります。自分が一体何者であるのか、ということに、他の転生での存在も統合されます。そこからもし再び肉体的存在を希望するのならば、次はどのような存在を選ぶかという計画に着手します。 あるいはそうする代わりに別(次元)の現実に入っていくこともできます。そしてその後で、再び肉体的存在に戻ってくることも可能です。すべては貴方の選択次第です。 ☆ ☆ ☆ 次回に続く。
2013年09月03日
コメント(0)
全46件 (46件中 1-46件目)
1